○羽田
委員 昨二十日には、逓信事業開始九十周年を迎えまして、中央並びに
地方郵政局等において郵政功労者の表彰式が行なわれたのであります。とのおめでたのあった翌日のきょう悲しむべき
質問をいたさなければならぬことを心から遺憾に存ずる次第であります。
実は、去る四月九日午前零時から一時までの間に、長野県小県郡塩田町にある特定局塩田郵便局長村上勇平君は、局前の道を隔てた公民館の前庭にあった火の見やぐらから飛びおり自殺をいたしたのでございます。まさに五十三才の分別盛りでありました。右足を骨折し、両手の爪で大地をかいて、もがきにもがいて死んでいったのでございます。朝六時半ごろに公民館のおばさんに発見され、大騒ぎとなったのでございます。村上君は小学校の先生をしていましたが、昭和十六年父君の死後を受けて塩田局長となって今日に至ったのであります。局長になってちょうど二十年目になるのでございます。労組では、長男が失職したこととか、付近の局長仲間から孤立していたとか、臼田局事件とかが主因のようにいわれておりますが、私が直接家族の者及び付近の局長
たちから聞いた話では、これとは全く違って、長男も勉強中であるし、付近の局長との仲も決して悪くはなく、臼田局事件ではすでに関係者の間で和解ができており、要は局員の長期にわたる突き上げと非協力にあったことが明らかになったのでございます。
村上君は私の郷里と同じ郡で、二十年来のごく親しい友人であります。私の選挙区は長野県の東部に位し、四市四郡からなっており、東信
地方と申して、九十一局の特定局がございます。この東信
地方にこのたびの村上局長で三人の局長自殺事件が過去六年の間にあったのでございます。いずれも極端なる労組の突き上げを苦にしての自殺でございます。まず最初は、北佐久郡南御牧局長の依田和夫君でありまして、昭和三十二年七月十七日自殺をいたしました。死因は自殺の前日、中心局の望月局で多数の組合員に取り巻かれ、夜おそくまではなはだしい暴言と集団威迫のうちに点検闘争で攻め立てられ、疲れ果てて帰宅し、翌日未明、局の見える自宅の二階で自殺して果てたのであります。続いて二年後の三十四年八月十七日、小県郡武石局長の小山不二嶽君の自殺事件であります。彼の残した文章によりますというと、従来純真な
地方特定局の組合運動は、三十四年五月上田局と小県郡の局とが合体して、中支部制に編成がえになるや、もっぱら一等局の上田局分会の指導によって急激に活発となり、毎月二、三回の分会大会を開き、意識統一をはかり、拡大強化運動を展開し、ややともすれば行き過ぎな行動が見られるに至ると述べ、続いて、武石局より一名の支部執行
委員が選出され、業務上の幹部を軽視し、労組幹部が重視されるに至ると嘆いております。三十三年度の全逓の年末闘争の一項目である放送委託業務拒否闘争に対する小山局長の堂堂たる処置はおそらく全国に冠たるものがありました。それ以来小山局長に対する上小支部組合の風当りは非常に激しいものがございました。攻勢は絶え間なく続いて行なわれ、小山局長は全く苦境に陥り、血圧は高進し、ことに八月十四日突如として襲いました風水害で電信電話は不通になり、三日間世間から隔絶せられ、この結果
責任とショックでついに自殺して果てたのであります。その後二年にして今また村上局長の自殺でございます。
私は九日午後村上君のおくやみにかけつけました。すでに二十余名の局長がかけつけて、各々の局の突き上げの模様を語り合い、郵政局と労組の間にはさまれている苦境を話し合い、今度は一体だれの番だろうと悲痛なささやきをかわしておるのでありました。その不満の内容のおもなるものをあげれば次のようであります。
欠員補充はしてくれず、臨時雇を入れるために欠員分の賃金は五〇%しかくれず、そのために
郵便物がたまり、あるいは電話交換事務に支障を来たし、住民に迷惑がかかるので、郵政局に泣きつけば、局長としての管理能力がないと言われて心証を悪くするので、黙っているほかない、一方局員からは欠員の補充をせよ、さもなければ臨時を雇え、仕事が全然間に合わぬではないかと絶えず激しく突き上げを受けるのであります。今までは三六協定を結んでおれば流賃が認められた
——ちょっとここで流賃という言葉について注を付させていただきます。流賃というのは超過勤務手当の原資を非常勤の者に流用振り当てることだそうです。今までは一局で三千円から五千円くらいの流賃の原資があったが、この流賃も会計検査院の
注意から、この四月からは禁止になって、流賃による局員の
休暇に対する補充はできなくなったのでございます。しかも隣接する局長同士や郵政局との電話は全部盗聴されて、上小支部に直ちに内報されて、その支部の指令のもとに組合のつるし上げを受ける、こういうような次第でございまして、通信の機密は全然保たれず、外部との連絡はなかなか困難な状態下にあるのでございます。こうして特定局長は郵政局と組合との板ばさみになって、いよいよ大へんなことになったというのでございます。この次は一体だれの番だろうという悲痛なささやきに、私はその場にいたたまれぬ気分になりましたが、同時に国家公務員たる全逓の行き方に対し、人道上法律上限りなく公憤を覚えましたが、国家のため国民大衆のため局長諸君に大いに元気を出してがんばって職責を全うしてもらいたいと励ましたのでございます。
さて村上局長の死の原因はどこにあったか、郵政
大臣以下当局の方々にも国民の方々にもよく知っておいていただき、全逓の行き過ぎを是正するために資し、同じ苦境に立つ一万四千百局の特定局長が安心して職務の執行ができますようにしたいと存じますので、やや詳しく経過を述べたいと存じます。
もちろん昨日の記念日に全国で多数の功労者が、全逓二十七万の中から表彰されたのでございます。中央表彰者の中で静岡県川根郵便局の電話交換手の女子
職員二名が、類焼のうき目にあった局舎に最後までがんばって、警察署、消防署、役場等に直ちに発火の電話連絡をし、しかも交換台に火が移るまで電話交換事務を続けたという美談に至っては、
大臣が表彰状を朗読されるとき泣けて泣けてしかたがなかったのであります。その他チリ津波に際し、自家の被害を顧みず、さっそく局にかけつけて
郵便物や重要物件の搬出に当たった、強い
責任感を持つりっぱな局員も多数あって、二十七万の全逓にもりっぱな人々の多いことは認めます。
さて塩田局は定員二十七名で、そのうち欠員が二名あるので、従って現在二十五名の在勤者であります。うち内勤が五名、外勤が六名、電話交換手が十六名で、うち一名は男子でございます。塩田局では昨年四月欠員は一名でありました。元来欠員の補充は郵政局の方針として過員を振り当てるのでございますが、労組が配置転換に反対するため、これがスムーズに実現せず、過員のまま一年二年そのままになっておる局がある反面に、郵政局に定員のワクがありますから、他の不足局は手不足のままになっておるという不合理がそのまま続いておるのでございます。従って過員調整の実現は不可能に陥っておると言ってもよいのでございます。元来郵便局長には人事任命権がないのであることは御承知の通りでございます。そこで塩田局の場合は昨年初級職の国家公務員試験に合格した小林弘明君が昨年四月電話交換手として長野郵政局長から任命されたのでございます。この小林君を任用して欠員を埋めたことから、労組は急速に悪化したのでございます。それは臨時雇として塩田局に三年春勤務しておる甲田哲司君という君を採用すれば問題はなかったのでございますが、小林君の任用以来局長と労組の対立が激化する原因になったのでございます。ことに本年一月十二日、結婚のため事務員の小山イシ子君が欠員となり、村上局長さんの娘さんの事務員が病気になったので、二名の欠員が生じたのであります。塩田局分会労組では、欠員を埋めろ、仕事が間に合わぬと局長を日夜責め立てるのでございます。しかも
休暇をとる者が続出しているのでございます。交換手の女子
職員十五名が二日ずつの生理
休暇をとれば月三十人分の欠員が生じます。またその朝になって電話で、きょうは休むと言って突然
休暇をとる者もあれば、無断で欠勤する者もございます。そこで臨時雇を雇うわけでございますが、一日の賃金が内勤で二百三十円、外勤で二百五十円では、今日一人前の人を頼むということは困難でございます。しかも一人の欠員に対して十二日分から十五日分の賃金しかくれぬに至っては、仕事は停滞する一方で、今日の労働攻勢の前には特定局長は郵政局と全逓の間にはさまって身動きがとれぬ実情にあるのでございます。二月三日には全逓上小支部長の中曽根君と書記長の酒井君が塩田局に来まして、定員二名を補充せよ、賃金を満配せよと村上局長に強く迫ったのでございます。二月四日には村上局長は長野郵政局に出かけて行って賃金九千円をもらって帰ったのでございます。しかしこれとて一日四名の臨時雇を雇わなければならないので、十日分にしか当たらぬのでございます。また定員については、三月に入れば訓練終了の和田タカ子を回そう、他の一名については新年度に入ってから業務量を勘案して
考えようという了解を得て帰ったのでございます。三月になって和田タカ子君を向けたが、塩田労組分会では、臨時雇の甲田君がおるからこれを採用せよ、和田には反対だと局長を突き上げ、ついにお流れになってしまったのでございます。三月半ばごろ郵政局から初級合格者を三名
指名して、そのうち一人を選んで三月末までに返事せよと言ってきました。ところが分会では、甲田でなければだめだと絶対反対して、ついにこれもお流れになってしまいました。
以上のように欠員補充では村上局長は常に組合側からつるし上げをくらい、非協力闘争が恒常化し、じりじりと局長を責め上げるやり方をとって参りました。一月三十一日から三日間、上田電話局と塩田局との間の電話を塩田局の交換手が上田局の交換手と話し合いの上規制する、いわゆる回線規制の非常手段をとるに至ったのでございます。また市外電話の料金徴収の基礎となる交換証の整理も、十四名の交換手諸君が、そんなことは局長のやる仕事だと言いまして、局長のところに回し、電話番号調べその他外部の利用者からの問い合わせも、局長の仕事だと言って局長のところへこれを回すという次第でございます。その上
休暇闘争のために、村上局長みずから電話の交換台に上ることがしばしばでございました。三月二十五日午前七時五十五分に、外勤の平林君に対して村上局長は内勤の業務命令を出しました。平林君はすなおに受け取ったが、これを見ていた執行
委員の竹内君が、これをひったくってまるめてしまい、これを契機に手すき局員が局長を取り巻き騒ぎ出したのであります。三月二十七日のできごとでありますが、三月十八日上田市内の大屋局で行なった電通合理化反対
職場大会に竹内執行
委員が
参加したかどで、三月二十五日付で郵政局長から戒告
処分を受けました。この
処分書を村上局長が竹内に手渡したら、こんなものは受け取れぬと机上に投げ出して激しく村上局長と言い争ったのでございます。そのために同日夜七時十五分から九時十五分まで、
処分撤回を含め、
処分書を郵政局に送り返せとの交渉が持たれ、さんざん村上局長をつるし上げたのであります。今その内容を村上局長の手記から引用してみますと
——今、名字を申しますが、これは局員であります。
藤井 ロボット郵政といっても、能なし戒告がきては腹が立った。
山田
処分されれば気分的におもしろくない、重大な影響がある。
中村 そんなに悪いことをしたのではない。われわれと同じ行動をとっただけだ。
前山 他局長に
処分のことを話したことがあるか。だれも自局から
処分者を出さないことを望んでいる。
山田 よりよい局にしたいための行動だ。泣いても泣き切れない。以前は非協力ほどではない。
中村 竹内のところへ
処分がくれば黙っていられない。われわれが
処分されたと同じだ。
前山 分会長、今までよりも一そう非協力をする。
山田
処分は受けない。
中村
辞令は金庫の中に入れておくわけにはいかぬ。
藤井 ノーコメントでは御免だ。多分村上局長が一切黙って忍苦に耐えておって何も返事をしなかったからでございましょう。
清水 かばうところはかばってもらいたい。
藤井
不当処分だ、撤回しろ。
前山
処分撤回について誠意ある回答を得られなかったので、明日継続交渉する。
竹内 業務の規制をする。残った仕事は局長の
責任である。
竹内 誠意がない。余分のことまで書いてある。確認書に調印しろ。こう言って、用意した確認書にさらにいろいろなことを書き入れまして、これを突きつけ、調印を迫ったのでございます。村上局長は、調印はやらないといって断わっております。さらに
藤井 植木をこいで運動場にしろ。これは局の裏側にある局長自宅の庭の植木をこいで運動場にしろと迫ったものであります。
竹内 表から通勤しろ、コースは裏口だ。これは局舎続きの自宅から局長が出入りしていたのをさすのであります。
竹内 ひっつぶれたような物置でよく局舎料をとっている。塩田局は小県郡の局舎中一番大きなものでありまして、相当りっぱなものでございます。それを物置とののしり、局舎料盗人でもあるかのような悪罵を浴びせかけたのでございます。
前山
処分を撤回しなければ、あらゆる業務の規制をする、この
責任は局長一人にある。こうしてさんざんのつるし上げをくらったのでございます。
なお二十七日付で村上局長は局長会の幹事をしておりまする上田常人郵便局長に対し、公用私信で以下のようなたよりをいたしております。「先般来何かとお世話さまになっております。当局の労組との関係は意外に激しい要求があり、連日連夜分会との協議が続き、心身ともに過労になっております。何とか当方のため、神科局長とも
お話し合い下さって、具体的に御協力いただきたいと存じます。」との手紙を寄せておるのでございます。
翌三月二十八日も、午後六時から、十一名の局員と局長との間に、前日に引き続いて交渉が持たれたのでございます。内容は、
処分辞令を郵政局に戻せということと、電通の合理化に伴う事前協議の確認書に調印せよということで、激しい口調でつるし上げが行なわれたのでございます。
かくして、このようなつるし上げはほとんど毎日午後六時から八時、九時ごろまで、ときには十一時半ごろまで行なわれておったのでございます。四月六日の交渉からは、上小支部役員二名と自局員二十数名これにまじって、午後六時から九時十分まで続けられたのでございます。その内容は、主として欠員の
あと補充、
処分撤回、非常勤の本務化等でありまして、だんだん模様は大きくなって参ったのでございます。その晩村上局長は小金
大臣にあてて辞表をしたためておるととが、自殺後発見されました。こうしてせっちん詰めに追い込まれ、血圧は高進するし、ついに進退きわまって自殺の決意をいたしたのでございます。
四月八日郵政局の電業課長が来局した際のごときは、村上局長は話が局員に漏れることをおそれて筆談をしたような次第でございます。完全に追い詰められたお気の毒な姿でございます。その残されたメモには、病休は電話連絡等で、計画的に運行を阻害するような組合活動をしているので、定員一名の増になっても、当局にて長期非常勤を本務化しなければ、現状の実態は解決できないことは明らかである、こういうふうに書いておるのでございます。
かくいたしまして、村上局長は、かわいい部下であるべき局員を敵に回して、一人で悪戦苦闘の連続であったのでございます。そうして四月八日夜、次のような遺書を残して、九日午前零時から一時までの間にあえなき最後を遂げられたのであります。
遺 書
一、局のかぎは福沢君以外には渡してはならない。福沢君というのは局長代理者でございます。
二、このたびのことはおわびをする。
三、金庫の中には公金と多数の人の俸給が入っている。
四、人々の悪口を言ってはならない。さんざん突き上げられた部下に対する限りなき愛情には全く頭が下がるのでございます。
五、公のことは荒廃させてはならない。不協力により交換証の整理が渋滞したり
郵便物の配達がおくれたりすることの不可なることを、死んでいくときまでも憂えているわけでございまして、
責任感の強さを示すものだと思うのでございます。六は、これは省略いたします。
七、局長会の金は、今集まっておるところで一万五千円ある。この金は神科局長に渡す。
八、警察の方々には感謝します。
九、局員の皆さんしっかりやって下さい。いろいろお世話になりました。と、相手を責めずに、広大無辺な愛情で実にりっぱな
態度でございます。
十、局長会の皆さんしっかりおやり下さい。と、同僚局長を励ましております。
十一、福沢君いろいろありがと
う。最後に、家族の一人々々に
十二、勇一もがんばれ、和夫元気
を出せ、富寿子しっかり、哲子しつ
かり、節三しっかり、啓子落らつい
て、母ちゃんをみんなで助けろ。と、五人の子供を励まし、自分の死後みんながお母さんを助けていくようにと、最後の別れを告げておるのでございます。
こうして条理整然と跡始末を書き残し、さんざんいじめ抜かれた局員諸君にも少しの恨みの言葉も言わずに、いろいろお世話になりましたとまで感謝の言葉を残していったのでございます。十一日のお葬儀にあたっては、局のかど口に立って最後のお見送りをした者は、二十数名の局員中たった一人しかいなかったのでございます。これを見せつけられた会葬者は暗然となり、同時に大なる公憤を感じたのでございます。組合運動というものはそんなに非情なものであっていいのでございましょうかと私はあえて言いたいのでございます。村上局長は、鉄の弾丸でこそないが、日となく夜となく撃ち込んでくる憎しみと、悪罵と、へ理屈の憎むべき集団的威迫、舌の弾丸で殉職した名誉の戦死だと言っても過言ではないと思うのでございます。民主主義を唱え、平和な明るい職場を唱える国家公務員たる全逓諸君が、基本的人権を無視し、人道主義に反し、本省と全逓本部の団交事項を、本来の業務をなおざりにして現業第一線の局長に向かって強要するがごときは、許すべからざる行き過ぎだと存ずるのでございます。昨日表彰された諸君のように、勤労意欲を沸かして、強い
責任感を持って業務執行に当たり、一致団結して業務の向上に当たることこそが、二十七万の公務員たる全逓諸君の最大の願望でなければならないと
考えるのでございます。それを、何かといえば時間内
職場大会を開いたり、集団的に局長を威迫してつるし上げたりして、
郵便物の配達を遅延させたり、電話の交換、電報に支障を来たしたりすることを本来の仕事でもあるかのごとき全逓指導部の行き方に対しては、私は断固これを改めさせるように、本省としても強い指導が必要であると
考えるのでございます。これに対する
大臣の御所見を承りたいと存じます。(拍手)