○
佐藤(虎)
議員 私は、第三班の
視察に参りました御
報告をいたしたいと思います。
私
ども、去る六月下旬から七月上旬にかけました
集中豪雨により大きな
被害を受けました
長野県、
岐阜県、
石川県の三県の
災害の
実情調査に参りました。自民党からも社会党さんからも民社党さんからも
代表者が行かれまして、十分
調査いたして参りました。
調査の順序に従いまして、まず、
長野県の
県下の
災害の
実情から申し上げますと、六月二十二日夜より降り始めました雨は、七月一日朝まで降り続き、
前線が南北に振動したため、旬日にわたって
豪雨の
波状攻撃を受けたのでありまして、
梅雨前線の活動によるものとしては
各地とも記録的なものとなり、飯田市では一日の雨量が三百二十五ミリにも達し、これは
明治三十一年
測候所開設以来のものであって、このため
県下の
河川が増水いたしましたが、特に
豪雨の中心
地域となりました天龍川
流域では、二十七日から二十八日にかけて、本、支流とも各所で
はんらん、
決壊し、
家屋の倒壊、
流失、
堤防、
道路、
橋梁の
流失、
耕地、
農作物の
流失、埋没等、大きな
被害があったのであります。
さらに、連日の大雨で、下伊那郡大鹿村、上伊那郡中川村では山津波が発生し、また、
各地で山くずれが起こり、
家屋は押しつぶされ、一瞬のうちに多数の人命を奪い去り、あるいはまた、諏訪湖の水位が異常に上昇して、
周辺一帯にほとんどあふれ出たのであります。諏訪市では市街地の三分の二が四日間水浸しになったのであります。
交通、通信
関係の
被害もきわめて大きく、中でも、天龍川に沿って走っている
国鉄飯田線では、道床の浸水、
流失、
決壊、
土砂くずれによる線路の埋没等、全線各所で寸断され、伊那谷を中心とした県南部の
道路網と通信系はほとんど全滅し、このため、孤立した村落も多数に上り、県史始まって以来の大
災害と相なったのでありまして、
死者が九十九名、行方不明が四十名、
家屋全壊五百八十五戸、
半壊九百十二一尺
流失家屋五百四十三戸を初め、
家屋の浸水、田畑の埋没、
流失、公共土木の施設
被害等、この
被害総額は大体二百四十二億に達しておるということであります。
このほか、
国鉄関係では、
被害件数が三百七十三件、
被害額は三億三千万円に及んでおるのでありまして、かような大
災害の発生によりまして、県では直ちに
災害救助
対策本部を設置され、飯田市、諏訪市、駒ヶ根市の三市のほか、十四カ町村に
災害救助法が適用され、避難所の設置、たき出し、
罹災者の救出、飲料水の供給、日用品、医薬品の調達等を初め、第二次救助として、応急仮設
住宅の建設、
住宅の応急修理、住居内の障害物の除去、死体の処理、捜索等が実施せられ、また、緊急救助と
災害地の応急
復旧のため、陸上、航空自衛隊の派遣が要請され、七月五日までに延べ一万八千二百人、ヘリコプター延べ六十機の救助活動が行なわれたのであります。特に孤立
地帯が続出したため、米軍のヘリコプターを初め、民間のヘリコプターまで動員いたしまして、
罹災者の救出、食糧の輸送等が行なわれたのであります。そのほか、日赤班を中心として
県下の医師会、現地病院等が一体となり、医療の実施を行なう等、ありとあらゆる機関が動員され、応急
措置並びに
復旧への最善の努力が払われているのでありまして、これら適切なる
措置によって、民心は一日々々と安定し、伝染病も最小限度に食いとめられ、私
ども現地に参りました当時は、大鹿村及び中川村の一部を除いて、
道路もどうにか通れるように
復旧いたしたのであります。
国鉄関係では、小海線の海尻−松原湖の間、飯田線の市田−山吹間を除いて一応開通しており、これら
不通の
個所も、七月十八日、二十日までにはそれぞれ開通する見込みだというお話でありました。
私
ども一行は、諏訪市、天龍川沿いの各市町村を
視察し、特に高遠町、長谷村、中川村、松川町、高森町、飯田市、鼎町、駒ヶ根市及び松本市近辺の明科町、豊科町の現地を詳細に
調査するとともに、ことに、今なお孤立している大鹿村、中川村の一部については、自衛隊のヘリコプターを利用して空より
視察したのでありますが、天龍川水系の水源
地帯にはいわゆる中央構造線が通過していて、地質はきわめて複雑で、地すべりの最も発生しやすい
地域であります。このため、
集中豪雨による
土砂の流出はなはだしく、特に
中小河川である新宮川、大島川、野底川、あるいは松川町の名もなき小
河川が
はんらんして、駒ヶ根市落合部落全部、あるいは高森町下市田、飯田市あるいは松川町では、家は押し流され、屋根まで砂に没し、あるいは田畑は一面の砂の海と化しておるありさまであります。下伊那郡生糸販売利用
農業協同組合が経営しておる市田
工場は、大島川より流出した
土砂により、
工場全体が砂に没するという
状態であります。また、天龍峡狭窄部の
上流、飯田市川路部落では、天龍川本川の
はんらんにより、一部落全域が浸水、埋没するというありさまで、家はこわれ、田畑は流没し、その
惨状全く目をおおう
実情でありました。私
ども調査団一行は、一本の
たばこを吸うことも遠慮せなければならぬというようなみじめな惨害であったのであります。さらに、空より
視察いたしました大鹿村、中川村の一部では、山腹が至るところで地すべりを起こし、その様はさながらシマウマのような模様をなしていまして、これらくずれ落ちた
土砂は小渋川にあふれ、小渋川は砂の川と化していたのであります。
私
どもは、これら
被災地を
視察いたしまして、あまりの
惨状に胸の痛むのを感じましたが、一方、
地元被災者はもちろんのこと、
関係当局、自衛隊の方々の涙ぐましい御尽力により着々と復興しつつある姿を見て、非常に心強く思うと同時に、治山、砂防事業を強力に推進し、天龍川の治水
対策を早急に樹立し、二度とかかる惨害を繰り返してはならないと痛感いたしておるものであります。
また、松本市近郊の明科町、豊科町の境界で犀川が
はんらん、
堤防が
決壊し始めたので、消防団、部落民総出動し、さらに、自衛隊二百五十名の応援を得て水防活動を実施した結果、
堤防二百メートルにわたり、
決壊はいたしましたものの、水防活動の全きを得て、三十九世帯、水田六十ヘクタール、ワサビ畑六ヘクタール、養マス池二ヘクタール、県水産指導所等が全然事なきを得た
実情を直接見ることができ、水防活動がいかに重要であるかということをあらためて私
どもは認識いたしたのであります。
次に、
岐阜県の
災害地の
実情につき申し上げます。
気象の
状況は大体
長野県と同様でありますが、特に平野部においては、
岐阜市で六百ミリ、大垣市で五百五十ミリという、過去の記録の二倍の
降雨があり、このため、木曾川、長良川、
揖斐川の三大
河川を初め、これらに注いでおりまする
中小河川が一斉に
はんらんし、
堤防が亀裂、のりくずれ等が生じ、破堤寸前の危険な
状態に陥ったのでありますが、水防隊、自衛隊及び
地元住民の共同による強力な必死の水防活動によりまして、その危機は脱することができたものの、支川である鳥羽川、境川、天王川、水門川を初め、幾多の
中小河川が、各所において
堤防の
決壊、破堤または溢流し、さらに、平地に対する多量の
降雨が低地に移動し、大規模な
湛水地域が発生し、美濃平野においては、交通、通信は麻痺し、
家屋の浸水、
道路の
決壊、
橋梁の
流失、田畑の
冠水等、甚大なる
被害を受け、一万六千ヘクタールに及ぶ
地域が、あたかも湖水のごとき
状態になったのであります。このため、
死者九人、行方不明四人、
家屋の
全壊二十七戸
流失十四戸、その他、
被害総額は百五十九億円に及んでおるのであります。
かかる大
災害の発生を見たので、県では、四市十二カ町に
災害救助法を発動し、あらゆる救援の
措置が講ぜられ、さらに、引き続いて
応急対策として、
湛水の排除、稲の種苗確保、
農作物の病虫害の防除、家畜の衛生、防疫
対策として伝染病の予防等、万全の
措置が講ぜられたのであります。
私
どもは、
岐阜市、大垣市、羽島市、南濃町、海津町、穂積町等、
湛水地域を
調査いたしたのでありますが、
調査当日にはすでに水は排除されておりましたものの、長いところでは一週間から十日間も
湛水いたしておったので、稲はほとんど枯死寸前にあり、美濃平野の穀倉
地帯ともいうべき本
地域がかかる
実情にありますことは、まことに遺憾にたえないところでありまして、しかも、過去五カ年連続して
災害をこうむっておるということを聞き、私
どもは、
湛水排除の問題を大きく取り上げなくてはならないことを身をもって感じて参ったのであります。
次に、
石川県の
状況について申し上げます。
六月二十四日の夜半から中部地方に停滞いたしておりました
梅雨前線は、その後北陸地方に広がり、
石川県においては、七尾市、津幡町等を中心として連続
降雨となり、さらに、七月三日夜半から四日にかけては、金沢市を中心として
集中豪雨があり、その後においても、十二日夜半から十三日にかけて、金沢市
周辺は再び
集中豪雨に見舞われたのでありまして、これがため、七尾市において
死者一名を出したほか、
県下の
各地にわたって
河川の
はんらん、
道路の損傷、
橋梁の
流失等を生じ、その
被害総額は約三十億に達する見込みであります。
私
どもは、
県庁において県知事を初め、県議会
議員、
被災市町村の
代表者より
被害の
状況を聴取した後、現地を
調査いたした次第であります。
まず、金沢市においては、市内を流れている犀川の増水により、六月二十七日その三分の一
程度が
流失した桜橋、あるいは七月十三日
流失した新橋の現地
調査をいたしたのであります。引き続き、金沢市、河北郡森本町及び津幡町にわたる河北潟
周辺の水田の長期
冠水による
被害状況を
視察いたしたのであります。これら長期
冠水による収穫皆無と見込まれるものが、四百町歩にわたっておるということでありました。
その後、能登
地域における
災害の中心地である七尾市
周辺を
調査することは、残念ながら時間の
関係でできなかったのでありますが、金沢市と七尾市の中間にある押水町に参り、宝達川
流域について、
上流地帯における地すべり
被害あるいは
下流における
堤防の
決壊、これに伴う
農地、
農業用施設等の
被害状況をつぶさに見て参りました。特に宝達川もそうでありましたが、能登
地域は、著しく後進
地域であり、
河川は未
改修の原始
河川が多いよしでありまして、今回は、幸いにも
降雨量が少なかったので
被害も軽微であったのでありますが、原始
河川の実態を見るにつけ、今後台風期を控えて、憂慮せざるを得ないのであります。
以上、三県の
災害の
実情につき申し上げましたが、私
どもは、各県知事、県議会の
議員を初め、各市町村の当局者、
国鉄当局等よりそれぞれ
要望されたことを聴取いたして参りましたので、その詳細については省略いたしますが、要は、私は、毎年々々ここ三カ年間
災害地に
調査団として派遣されておりますが、
岐阜県のごときに至りましては、五カ年連続であり、また本年も
佐藤さんせっかくお見舞に来てくれたが、昨年も一昨年もあれほどお願いしておったのに、それを何ら
改良工事も施さず、五カ年間、年々こういう
災害をこうむっておるのではないか、何とかこの際、政治の力によってこれを救っていただきたい、民生の安定のために、という
要望をされて参りました。私
ども衆議院が、
調査、お見舞、
視察に行くだけでなく、行ってお約束して参りましたことは、政治家として信任を高める上に、どうぞ当局におかれましても十分善処されるよう
要望して、私の
報告を終わります。(
拍手)