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1960-03-15 第34回国会 参議院 予算委員会公聴会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十五年三月十五日(火曜日)    午前十時三十八分開会   —————————————  出席者は左の通り。    委員長     小林 英三君    理事            大谷藤之助君            佐藤 芳男君            館  哲二君            西田 信一君            鈴木  強君            松浦 清一君            千田  正君    委員            泉山 三六君            太田 正孝君            金丸 冨夫君            木暮武太夫君            小柳 牧衞君            斎藤  昇君            重政 庸徳君            白井  勇君            杉原 荒太君            手島  栄君            一松 定吉君            堀木 鎌三君            武藤 常介君            村山 道雄君            湯澤三千男君            吉江 勝保君            米田 正文君            荒木正三郎君            加瀬  完君            木村禧八郎君            小林 孝平君            佐多 忠隆君            永岡 光治君            羽生 三七君            平林  剛君            藤田  進君            東   隆君            島   清君            白木義一郎君            辻  政信君            森 八三一君            岩間 正男君   国務大臣    大 蔵 大 臣 佐藤 榮作君   政府委員    大蔵政務次官  前田佳都男君    大蔵省主計局次    長       佐藤 一郎君   事務局側    常任委員会専門    員       正木 千冬君   公述人    慶応義塾大学教    授       高木 寿一君    朝日新聞論説委    員       渡辺 誠毅君    全日本労働組合    会議福祉対策委    員       佐藤  徳君    東京大学教授  安芸 皎一君    東京大学助教授 大内  力君   —————————————   本日の会議に付した案件 ○昭和三十五年度一般会計予算内閣  提出衆議院送付) ○昭和三十五年度特別会計予算内閣  提出衆議院送付) ○昭和三十五年度政府関係機関予算  (内閣提出衆議院送付)   —————————————
  2. 小林英三

    委員長小林英三君) これより予算委員会公聴会を開会いたします。  公聴会の問題は、昭和三十五年度予算でございます。公述に入ります前に、一言ごあいさつを申し上げます。  公述人方々には御多忙中のところ、本委員会のため御出席をいただきましたことは、まことにありがとうございます。  本委員会といたしましては、去る三月四日以来、昭和三十五年度予算に関しまして、連日慎重に審議を重ねて参りました。本日及び明日にわたる公聴会におきまして、学識経験者たる各位の忌憚のたい御意見を拝聴することができまするならば、今後の審議に資することがきわめて大なるものがあると存ずるのでございます。  それではこれより公述に入りますが、議事進行の便宜上、お手元にお配りしてございまする公述人名簿の順序に従いまして、各三十分程度で御意見を述べていただき、お一人ごと質疑を行なうことにいたします。  まず、高木公述人からお願い申し上げます。
  3. 高木寿一

    公述人高木寿一君) 本日は、参議院に伺いまして三十五年度の総予算一般会計について意見を申し述べろというお指図を受けました。ことに歳入予算について、また今後に起こりまする減税の問題に関連して意見を述べろという御指示をいただきました。三十五年度予算案提出されましてから、歳出の部面につきましてはいろいろ論及される方が多いのでありますが、私の存じます限りにおきましては、歳入予算の面に関しまする御意見、検討される方が不思議なことに少ないように私は感じております。ことに三十五年度予算案の大きな特徴歳入面に含まれておると考えまするので、歳入面に関しまする多くの方々の検討が少ないということは私ははなはだ遺憾に思っております。それは歳入の約九〇%を占めます租税及び租税に準ずる収入印紙収入及び専売納付金でございまするが、それらの自然増収の大きさに対する測定が十分検討されていないと私は思っております。よく三十五年度には二千百億近くの自然増収があるのになぜ減税をしないのかという御意見をしばしば承ります。それを私は承るたびにはなはだ残念に思うのです。私の測定では後に少し詳しく申し上げるつもりでございますが、三十五年度自然増収は二千百億程度のものではございません。ですから、二千百億の自然増収があるのになぜ減税しないのかという御意見ではこれは私は正しくないと思います。三千億以上も自然増収があるのになぜ減税しないかと言われなければその問題を正しくつかんでおらないと思います。しかし、さように申しますると、多くの方々は、そんなに三千億もこえる自然増収がある、そんなことはあるはずはないということを心の中にお持ちの力がずいぶんある。政府が二千百億の自然増収、これを専売益金を加えますれば二千二百五十九億に相なりますが、そんなに自然増収がある。まさかそれよりも多いはずがあろうはずはないとお考えの、心の中にそういう気持を、まさかという気持を持っておる方が私は多いように思います。そうして私が自然増収見込額について、私は疑問を持っておると申しますと、大がいの方は、それが多過ぎるというのですかと言われます。いや、多過ぎるのではない。千億——何百億も少な過ぎるのだと申しますと、大がいの方はあきれた顔をなさいまして、それから私の話に乗って参りません。あいつは楽観的な、あるいは野放図なことを言うというお気持が先に立つのでございましょう。私はいろいろこの自然増収を二千百億近く、さらに専売益金を加えて二千二百五十九億という測定予算案の中に出しましたことは、これは十分な理由があると存じます。申すまでもなく、租税自然増収がもっともっと多いということを出してしまいますれば、各省新規要求が年々御承知通り多いのでありますから、大蔵省はそれを押えることができなくなります。そうすれば財政健全性ひいては経済安定性を保つことができなくなる、しかし各省新規要求予算編成期においては強いのでございまするから、結局は財源がない、ない袖は振れないというのが切り札であります。従って少なく発表せざるを得ない、その財務当局者の苦衷は十分察せられます。私にはそれが決してわからないのではございません。しかし、事実は正しく把握しなければならない。正しく事実を把握して、ほんとうはこうなんだが、今は言えないのだというならば、それはもっともだと思う。しかし事実を正しく把握しないで、大蔵省政府なりは、租税及び印紙収入自然増収が約二千百億近く、専売益金を加えますと二千二百五十九億、こういっているのだから、それでいいのじゃないかといえば、私は承服いたしかねます。正しく事実を把握して、その上に立って、その事実の意味を理解することが正しい、理解することが必要であると私は思います。どうか国会提出されております問題の御審議につきましては、どうぞその点を御留意していただきたいと思います。  なぜ私はさようなことに関心を持つかと申しますると、この問題は、私の専攻いたしております財政学の新しい財政理論に関連する問題でございますので、近年この問題に関心を持っております。従ってまた疑問を生じたわけでございます。新しい経済理論、新しい財政理論などについて申し上げることは皆さんに御迷惑とは存じますが、御承知通り財政政策、その一部としての租税政策の新しい役割といたしまして経済安定的成長ということがございます。  そこで、それぞれの国の租税構造景気の安定、自動的安定方式、このごろよく出て参りますビルト・イン・スタビライザーということでございますが、それぞれの租税構造は、自動的に景気行き過ぎを調節する作用を持っておるという問題であります。それはその作用は何によって現われるかと申しますると、これは限界租税函数の問題、これは所得国民所得増加いたしますとき、それはある割合をもって租税収入増加する、これはあたりまえのことであります。租税源泉所得でありますから、その源泉である所得増加いたしますればある割合租税収入増加する、自然増収が生ずる、あるいは逆に自然減収が生ずる、ある割合をもっておることはこれはあたりまえです。  そこで自然増収割合ということでございますが、これは限界租税函数と申しますが、その数値は、その大きさは、それはそれぞれの国の所得構造及びそのときの所得の伸びの増加した額、所得増加額、それと、その国の租税構造によって違うことはもちろんでございますが、従って各国の経験的事実によりそれを証明するよりほかにございません。日本の国の場合とほかの国の場合と違うのはあたりまえでございます。  そこで日本の場合について測定いたしてみますと、これは一番限界租税函数数値の高かったのは昭和三十二年度であります。昭和三十二年度国税に関しまする限界租税函数は約二五%であります。そして地方税については八・六%であります。合わせて三三・六%となります。国民所得増加の三分の一が自然に租税収入に吸い上げられまして、従って国民の手に残る税引き可処分所得がそれだけ押えられる。そして景気行き過ぎを調節する作用を持っているということであります。あまりさようなことを長く申し上げては御迷惑かと思いますが、三十二年度、これは神武景気を反映して租税収入は多くなっております。ことに三十一年度も多く、三十二年度国民所得増加が多くなりました。ところが三十二年度国民所得増加額は前年度に比べてどれだけあるかというと七千二百六億であります。どうぞこれだけ御承知いただきたい。それに対して、その国民所得増加に対しまして二五%の国税収入自然増加がございました。申すまでもなく、この二五%というようなことは、そのときの国民所得増加額の大きいか小さいかによりましてその数値が変わって参ります。決して一次函数ではございません。常に同じ値を持っているのではございません。国民所得増加額が少なければ自然増収割合ははるかに少なくなります。非常に少なくなります。従って非常に動きが多いということでございます。ただいま申しましたように、三十二年度自然増収国民所得増加額に対して二五%であります。しかしその国民所得増加額は七千二百六億である。ところが、それでは三十五年度自然増収はどうなるかという問題に移って参ります。三十五年度自然増収は申し上げるまでもなく、三十四年度の当初予算租税収入額に対する比較でありますから、そこで三十四年度の当初予算編成の当時における所得推計額と、それから三十五年度予算編成当時における現在の国民所得推計額との差を求めますと一体幾らになるかということは、御承知通り、この一月の二十六日に三十五年度国民所得推計額見込額が発表されたのでございますが、それによりますと、三十四年度の当初予算の成立当時における国民所得推計額は八兆九千二百八十億であります。それに対して三十五年度の見通し、これも一月二十六日の決定でありますが、十兆四千六百億ですから、そこで国民所得推計額が一兆五千三百二十億と相なります。三十二年度には先ほど申しました七千二百六億でございます。今度は一兆五千三百二十億であります。そういたしますと国民所得増加額が倍以上であるのですから、当然自然増収割合が同じ割合であるはずはございません。当然二五%多いはずでありますが、ごく内輪に、大事をとりまして二五%程度にいたしましても、一兆五千三百二十億の二五%が幾らになるか、これはもう申し上げるまでもございません。政府予算案に出ておりますように、租税及び租税に準ずる収入が、専売益金を含めまして自然増収が二千二百五十九億などということはあろうはずはございません。二五%でありますから四分の一でございます。二五%といたしますと大体三千八百億くらいになります。二千二百五十九億と大へんな違いになります。千五百億の違いになるということは、これはどういうことに相なりますか、皆さん心の中にそんな野放図なことを高木は言うが、決してそんなことはあろうはずはあるまい、まさかというお気持があるかもしれない。そのまさかが私ははなはだ残念だと、先ほど来申しているわけであります。これが限界租税函数数値から測定いたしましたが、もう一つの方法は、それぞれの国の租税構造が持っているいろいろな指数の所得弾力性から計算いたしますと、これは御承知通り国税の約半分は所得税とそれから法人税でございます。大体三十四年度予算を当初予算から考えましても二二%が所得税、二八%が法人税、そのあとの五〇%が酒税タバコ専売益金酒税は一七%であります。タバコ専売益金は約一〇%であります。従って日本国税収入所得税法人税酒税動きによって決定をするわけですが、なぜならば、法人税所得弾力性が一番大きいわけです。大体三・六、それから所得税が二・六、それから酒税が〇・九ないし一、タバコ収入はややそれより少ないことになります。〇・八という程度です。そのほかの租税を合せまして、酒税専売益金等を含めまして所得弾力性を〇・六といたします。これは非常に内輪計算であるということを御了承願います。それによりまして、先ほど申しましたそれぞれの租税収入がその中で占めるウエートを考えまして、加重平均をいたしますと、一・八になります。国民所得増加率一に対して国税収入増加率が一・八と出ます。これは三十二年度のように国民所得増加率が多かった場合。ところが今度三十五年度においては三十二年度増加率よりも、またさらに増加額よりも倍以上も多いのでありますから、従って所得弾力性も大きくなるはずでありますが、先ほど限界租税函数を二五%といたしましたと同じように内輪に見まして、国税所得弾力性を一・八と測定いたします。それによって測定いたしますと、やはり三千八百億ばかりの自然増収が生ずるという結果が出てくる。さような次第で、この限界租税函数数値及び所得弾力性ということを考えましても、内輪考えましても、予算案に出ておりまする自然増収額よりも千五百億は多いということになります。この数字は、しかし千五百億というのが多過ぎるということでありますれば、千二百億と内輪に見ても私はよろしいと思いますが、大事をとりまして、二割方大事をとりまして千二百億といってもよろしい。いずれにしても千億よりもはるかにこえた自然増収見込額と相なる、そこに大きな問題があると私は考えるのです。私のただいままで申しました数字は、これはいずれも大蔵省から発表しております数字によっております。たとえば大蔵省の編集の「財政金融統計月報」の九十八号とか、あるいは三十四年度の「国の予算」、あるいは「図説日本財政」とか、それらの大蔵省の発表しておりまする資料に従いまして測定いたしておりまするので、私の当てずっぽうではございません。念のために申し上げます。  そこで、よく三十六年度になって減税ができるのかという御意見が出ておるようでありまするが、私はただいま申しましたような測定の結果、三十六年度減税ができるとかできるのかという疑問を持つこと自体がおかしいと思います。率直に申しまして、そういうことをおっしゃる方は、日本国税の持っておる限界租税函数がどれくらいであるか、所得弾力性数値がどれくらいであるかということに全然関心をお持ちにならないからそういう議論が出てくるのであります。私は国会皆さん減税をしようというお考えがあれば、本年度内においてだって減税できます。ただこの年度の当初において大事をおとりになって、しばらく、数カ月この経済情勢動きを見ようという、これはけっこうなことだと思います。まず半年ぐらい状態を、経済情勢を見つめていただいて、そして本年度自然増収、本年度のいわゆる補正予算という問題が出ましょう。そのときに、どうか減税の問題を本年度内において取り上げていただきたいと思います。皆さん承知通り国民の全体として租税負担が重いということを感じない人もございませんし、どなたでしたか、減税のない政治はないのだということをおっしゃったのを感心しております。まことにごもっともであります。そう言ったって財源がないじゃないか。ただいま申しましたように財源はございます。千五百億も減税財源はある。しかし減税をするとこれが恒久的な減収になる。こうおっしゃる。それは三十四年度の当初予算に比べて三十五年度以降は、かりに三十六年度の経費が横ばいでありましても増加したものが横ばいになるのでありますから、そのままの租税収入増加を来たす。しかし債務負担行為でありまするとか、あるいは工事の継続費でありますとか、それらのことの問題もございましょうから、それらを差し引きまして私は一千億の減税は年内においても可能である。どうかせめて本年度内から一千億をこえる減税に着手していただく。最初の年度ですから一千億の減税は平年度は一千億であっても、御承知通り初年度は半分ぐらいで済みます。そこで、もう一つちょっと問題を申し上げますが、さように申しますと、そこから非常に大きな問題が出て参りますことを御了承いただきたい。皆さんごらんあそばした三十五年度予算に関する参考資料、これは国会提出されております。それによりますと、三十五年度見込みでは、一般会計についての財政資金の対民間収支は百六十八億の撤布超過と見込まれております。ところが自然増収政府予算案よりも千億以上——私は千五百億と見ますが多いということになりますると、百六十八億の撤布超過ではなくて千二百億の引き揚げ超過になります。それでよろしゅうございましょうか。私は疑問を持ちます。三十五年度特別会計及び外為資金を入れまして千八百億の撒超ということが資料に出ておりまするが、これは千八百億の撒超ではなくて三百億の撒超になる。そうなりまするとこの財政の対民間収支見込みが非常に大きく狂って参ります。それは金融市場に対しても非常に大きなショックを与えることになると思います。それでも千億ぐらい勘定が、見込みが狂ってもかまわないということは申せないと思うのであります。数日前の新聞でこれはちょっと拝見しただけでありますが、三十五年度財政資金ばかりでなくて金融状態見込みの表が出ましたが、その中でも財政の対民間収支はやはりこの三十五年度予算に関する参考資料に出ました数字と同じ数字が出ております。そうしますと、この自然増収見込額の大きな違いというものはさらに波及するところの多い問題になって参る、こういうふうに私は考えます。さような次第で、私は三十五年度の総予算につきまして、特に歳入予算の面に関しまして論及あそばす方が割合に少ないように思います。歳出予算の方は論ずる方が多いのですが、歳入予算を論ずる方が少ない。ことに日本国税構造の持つ限界租税函数数値、それから所得弾力性の問題に関しての関心をお持ちの方が少ないように考えましてかねて残念に思っておるところでございます。それがまたこの三十五年度予算案一つの大きな特徴である。三十四年度経済白書には三十三年度予算編成におきまして経済基盤強化基金としてたな上げをした。これは日本予算編成上における初めてのことであり、画期的なことであると言って経済基盤強化基金としてのたな上げ意味を強調しておりまするが、三十五年度予算におきましては経済基盤強化基金の金額よりもはるかに多い何倍も多い自然増収政府に入ってきて、それに見合う歳出予算がありませんから、自然に政府貯蓄になり、そのまま政府保蔵になるわけであります。そういうことによって先ほど申しました景気自動的安定装置作用を現わそうとしておるわけであります。その点におきましては、三十三年度経済基盤強化基金のたな上げよりもはるかに大きな意味を持っております。その結果、ただいま申しましたように重大な結果の一つとして、財政資金の対民間収支見込みというものは千億円以上狂って参る、千五百億円も狂って参るということに相なります。これは非常な危険な要素を含んでおると存じます。それをカバーするために、国民租税負担の重圧を軽減するためにも、できるだけ近い機会におきまして、本年度内においても減税に着手していただきたい、三十六年度において減税に着手するのは少しおそいと思います。それからまた、三十六年度において減税する財源がないじゃないかというような御判断ははなはだ不正確なといっては失礼でありますが、はなはだ正しく事実をつかんでいないことに相なります。かように考えまして私の考えを率直に申し上げさせていただきました。  なお私の申し上げましたいろいろな数字等につきまして、もしその計算の基礎を示せということでございましたら、簡単なメモを提出させていただきます。一応私の申し上げたいことをこれで終わらせていただきます。(拍手)
  4. 小林英三

    委員長小林英三君) 大へんありがとうございました。  ただいまの公述に関して御質疑のある方は、順次御発言を願います。
  5. 佐多忠隆

    佐多忠隆君 ただいまの先生のお説は非常に興味深く拝聴いたしたのですが、ちょっとお聞きしたいのは、先生のお説の租税限界函数という考えから見まして、昭和三十四年までの間に、各年度ごとにどれぐらいの自然増収があったというふうに、各年度ごとに、三十二年度だけでなくて、どういうふうに御計算になったか。もしその数字があればお示しを願いたい。ということは、現実にはそれだけ取っておりませんから、だからその数字を知りたいことと、それからもう一つは、そういうふうな先生のお説からいえば、自然増収がそれだけあったにかかわらず現実には過去において取っていない。従ってそれは増収可能なものを取らないで逃がしていることになっておると思いますが、その逃がされた租税は、どこが本来は負担すべきものであったのか、どこが徴税を免れているのかという問題を一つ御説明を願いたいと思います。
  6. 高木寿一

    公述人高木寿一君) ただいまお尋ねを受けました年々の自然増収がどれぐらいであるか、これは私ちょっとここに資料を持っておりまするが、簡単な資料を持っておりまするが、年々大蔵省がその結果を発表いたしておりますので、皆さんのお手元に年々の御報告がいっておるのではございませんでしょうか。
  7. 佐多忠隆

    佐多忠隆君 大蔵省から見た、現実に取った自然増収はわかるのですけれども、そうでなくて先生の説によって自然増収がこれだけあったはずだという数字が出るんじゃないかと思います。
  8. 高木寿一

    公述人高木寿一君) 自然増収がこれだけあったはずだのに、現実にはこれだけの自然増収しか入ってこない場合があるじゃないか。御承知通りさようなことを皆さんに申し上げて失礼でございますが、ごかんべんいただきますが、国民所得増加した場合にどこに逃げたか、ちょっと逆なようなことを申し上げますが、納税者の方で払いやすくなりまするので、国民所得が減った場合よりも、ふえた場合の方の自然減収よりも増収割合の方が多くなるわけであります。納税者としては払いやすくなりますから、逃げ回るとか、延納するとか滞納することが少なくなりますから、そこで自然増収がだっと入る。また減収のときにはだっと減る。それが一番大きく変わっておりまするのは、三十二年度と三十三年度でございます。三十二年度の限界函数は二五%でございましたが、三十三年度景気横ばいのときでございますね、ことに法人所得が減りました。法人所得が二八%を占め、しかもその所得弾力性数値が一番大きいわけでございますから、法人所得が減ると法人税収入がずっと減ります。そのときには、これは例の三カ月延納のこともやりますし、なるべく延ばしますから、そこで減りまして、私ちょっと数字を間違うといけませんのでノートを見さしていただきます。三十三年度でもって計算をいたしますと大へん少なくなってしまいまして、前年は二五%でありますのに四・五%になっておる。非常に幅が大きい。ですから年々の平均という数値を出すということは、私は意味は少ない。私の申し上げたいことは、すでに御承知のことでありますが、三十二年度では七千二百六億円あった、三十五年度は一兆五千三百二十億、倍以上である。だから簡単な理屈でございますから、三十二年度よりも少なくなるはずはないということでございます。年々の数値は非常に大きく動く、法人税所得税を中心にいたしまして非常に大きく動く。酒の方の税金の伸びは、国民所得の方の伸びとおかしなことにほぼ同じであります。たばこの方は〇・八%である。物品税などになると、所得増加いたしますと、物品税の課税対象になりますもの、ラジオとかそのほかのものでございますね。それが消費が多くなる。物品税の伸びは非常に多うございますが、全体の金額は少ないのでございますから、現在のところ。従って租税収入全体を動かす力はございません。伸びとしては物品税はずいぶん多うございます。
  9. 佐多忠隆

    佐多忠隆君 もう一点。そこで先生の説によると、もう減税は必然であり、不可避だし、やらなければならぬ、ことしからでもやれというお話しですが、その場合に、どういう税目を減税の対象に考えればいいか。先生のお考えによれば、どこらを減すのが一番妥当であるか、従って、また減税にからませながら租税体系としてどういうふうに日本の税体系を変えていくのかというふうにお考えになっておるか、その点を……。
  10. 高木寿一

    公述人高木寿一君) 御質問の順序にやや違うかもしれませんが、御説明申し上げます。いろいろな委員会、調査会などで直接税と間接税の比率をどうするかということがよくお話に出るのでございます。ところが、先ほど申しましたように、直接税、これは法人税所得税です。相続税も直接税でございますけれども、相続税は所得の面は再評価税のように直接に所得の増減と関係はございません。ところが、法人税所得税、この先ほど申し上げました所得弾力性及び限界函数は、ほかの租税に比べればはるかに大きいわけでございましょう。ですから減税をしないでこのままの租税構造でもっていきますれば、直接税の方の収入がずんずんふえるわけでございます。そこで、よくその比率を変えるために、間接税の方をふやせという御意見が出ますが、間接税をふやしたその年は、なるほど比率が変わりますが、次の年からあとになりますと、また直接税の方が伸びが大きくなって参りますから、そこで直接税と間接税の比率を変えるということは、最初のときはそうなりますが、その次へいくとすぐ変わってしまう。ところが、それじゃどういう場合に、直接税と間接税の比率が、たとえば直接税の比率が多過ぎるということをよくおっしゃるのですが、どういうふうにすれば直接税の比率が少なくなるか、日本国民所得が減少していった場合です。ですから、ちょっと皮肉な、皮肉というとおかしいですけれども、変なことを申し上げるようでありますが、直接税と間接税の比率を今までと変えて、直接税の比率を少なくして、間接税の比率を多くなるようにしろとおっしゃる方は、日本経済の伸びが衰えるということを期待しているのと同じことであります。それでなければそういう結果は現われて参りません。ですから、もし直接税と間接税の比率を今より変えろとおっしゃるならば、直接税の軽減をしなければならないはずです。法人税所得税の軽減をしなければ、恒久的税制としての直接税と間接税の比率は、全然直接税の方がふえてきてしまいます。先ほど、ビルト・イン・スタビライザー、自動的調節作用の問題を申し上げましたが、米国の連邦税制では、御承知通り所得税法人税が四分の三以上を占めておりますから、八〇%ぐらいを占めておりますから、その現実の事実を反映して、そういう問題意識が生まれてきたわけであります。従いまして、それでは、直接税の減税はどうするか。私はもちろんそっちの方に、勤労者でありまするから、だれでも所得税減税はしていただきたい。所得税減税は、まずどこから手をつけるかといえば、これは基礎控除とか扶養控除とか、勤労控除とかの額の引き上げを第一に考えていただきたい。三十四年度の改正で、勤労所得者、給与所得者、標準家族五人といたしますれば、御承知通り、三十二万七千円までが課税最低限になったようであります。私は当時、勤労所得者で五人家族、せめて一カ月三万円、年額三十六万円までは課税の最低限としていただきたいという希望を絶えず持っておりましたが、まず第一段階として三十二万七千円というところならば、第一段階としては一応満足することができるのではないかと私は考えておりましたが、戦前には皆さん承知通り長い間、所得税は、これは年額所得が千二百円までは免税だということはずいぶん長く続きまして、多分御承知のことでございますが、せめてそれの三百倍といたしますれば、三十六万円になるかと存じますが、しかし物価の騰貴から考えれば、もう少し、まあできれば四十五万円というところでございますけれども、今度、この次の第一段階としては、せめて勤労所得者の標準家族を考えましたならば、三十六万円か四十万円くらいのところを一応の目標としていただきたいと思いますし、法人税につきましては、企業の体質改善等のこともございます。  それから、減価償却の問題でございますけれども、減価償却の問題となりますると、いろいろ技術的な問題がありまするので、各企業間によっていろいろ違うと存じまするので、一般の法人課税といたしましては、全く芸のない話を申し上げるわけでございまするが、やはり税率をシャウプ勧告のときのように三五%までに一般の税率を下げる、そうしてさらに逓減税率、今二段階になっておりますが、それをたとえば三二%とか、その次は二八%とかにして、小企業の租税負担を軽減する、一体そんなことをやったら、そんな都合のいいことをお前言ったって、どれくらい財源を要するのだということになりますと、最初の年度では、かりにことしの年度内といたしますと、最初の年度は六百億円あれば足りると思います。最初の年度は六百億、次の年度になりまして、その倍として千二百億。それからこの間、こちらの、参議院の予算委員会でございましたか、衆議院でございましたか、佐藤大蔵大臣が、三十六年度においてももちろん日本景気は伸びていくというお話、私もそう思います。ただ、伸び方は違いますけれども、大きくくずれるという見込みは、伸びが鈍るということはありますが、くずれるということを考えなくても私はいいのじゃないかと思います。伸びが鈍るということはございましょう、しかし大きくくずれるということまで考えなくてもよろしい。このままの勢いでもってぐんぐん伸びていく、それは私は無理だと思う。そういたしますと、今申しましたように千二百億の減税をする財源は十分ある、こういうふうに思っております。
  11. 平林剛

    ○平林剛君 高木先生にちょっとお伺いいたします。本日は大へん貴重な御意見を聞かしていただいたわけでありまして、私も実は政府の説明のように、三十五年度歳入面については二千百五十億円、専売益金を含めて二千百五十九億円ということを前提にいたしまして、減税を議論した一人なのであります。その点では、先生に教えられるところが大へんにあって、好漢惜しむらくは兵法を知らずということを、今しみじみと感じたのでありますが、かりに先生の御説のように限界租税函数あるいは租税弾力性、こういう兵法からいきまして、三十五年度については一つの示唆を受けたのでありますが、しからば同じ兵法をもって、昭和三十四年度一つ立証していただきたいと思うのであります。つまり政府は、同じように昭和三十四年度の当初予算におきましても、今後の自然増収その他をわれわれに説明をしたのであります。しかるところ、ことしの年度末においてどういう結果になっておるか、私ども来年度の、あるいは本年度減税財源その他に大へん心配をいたしておりましたのは、三十四年末の租税の剰余金、これが一体どのくらいあるかということをいろいろな角度から見たのであります。ところが、昭和三十四年度末は、先般の第二次、第三次補正予算に相当財源をつぶしまして、私の見るところでは、三十四年末の剰余金は、約三十億円ないし三十五、六億円というところが、政府の試算をしておるところではないだろうか、こう思うのであります。これはかなり確実な数字と私は見ておる。第三次補正予算で相当財源を食いましたから、三十四年度の剰余金は三十億ないし三十五億円と見ていいのではないか。これを一つ頭に入れながら、先ほどの兵法をもって昭和三十四年を立証したならばどういうふうなことになるか、これを一つお示しいただきたいと思うのであります。
  12. 高木寿一

    公述人高木寿一君) 三十四年度自然増収測定の問題に相なりますが、今お話がありましたように、補正予算でだいぶ使っておりますが、一つは、補正予算自然増収財源として相当使ったということは、自然増収を多く見込んだということの一つの傍証でございまするが、それらを使ったあげく、三十億というお話でございまするが、それは、二月の大法人の決算期の以前でございましょうか、以後でございましょうか、いかがでしょうか。それによってだいぶ違います。ここで私が質問してはいけないのでございましょうけれども、どうぞお許しを願います。
  13. 平林剛

    ○平林剛君 第二次補正、第三次補正とございましたね。だから、お話のように、三十四年度の当初に説明したよりはかなり相当の財源があったということは、私も認めるわけであります。なおかつ、三十四年度の剰余金というのは、私の見込みでは、三十億ないし三十五億円と見ておるわけです。だから、三十四年度の当初においても、政府の説明よりかなり自然増収があったということは、私も了承するのであります。そこで、先生の学説を具体的に立証していただくために、昭和三十四年の当初の政府の説明に対して、同じような方法をもって行なったならばこうなるというような御研究がございましたら、お示しいただきたい。それは、昭和三十五年度先生の学説をさらに裏づけるものになるのではないかと、こう思いましたので、お伺いいたすわけであります。
  14. 高木寿一

    公述人高木寿一君) 三十四年度自然増収測定につきましては、その年度国民所得増加と、それと前年度増加とを見なければなりません。御承知通り、前年度国民所得が大きく伸びますと、それが国税収入に反映して参りますまでの時のおくれがございまするから、私は、年度国民所得の比較を申しましたが、その時のおくれを考えますれば、暦年で国民所得を比較した方がいいと私は思います。そうすると、三カ月の時のおくれを考えると、先ほど申しました、三十二年度国民所得増加は七千二百億でありますが、三十一年度国民所得増加額が九千億をこえておるのでありまするから、その年度で九千億をこえているときの三十一年度自然増収よりも、その年度だけをとると、国民所得増加が少ないときの方が自然増収が多いのはおかしいじゃないかということで、御承知のように、暦年で、たとえば所得税だとそうでございますから、きょうまでの確定申告は暦年でございますから、ですから、前年度所得増加額が次の年度になだれ込んでくるわけでございますね。ところが、三十三年度景気横ばいでございましょう。従って、その横ばい景気を反映する影響が三十四年度になだれ込んで参りまするから、そこで、三十四年度自然増収額というものは三十五年度より実は少なくなるわけであります、マイナスの要素を持っておりまするから。そこで、それでは大体どうなるか、実績見込みは。これは、私のただいまの判断で申しますれば、今三十億というお話を承りましたが、私は、もう少々多いように見込むことができるように考えております。ただし、先ほど申しましたように、三十三年度横ばい、三十四年度から上がってきたと。そうすると、三十三年度横ばいの結果が三十四年度の税収に響いて、そうして三十四年度が上昇であると、その結果がよい結果として三十四年度に現われる。そこへもってきて、三十五年度増加額が非常に大きいから、私が申し上げたように、自然増収が非常に大きくなる。よいことが二つ重なるというようなものでございますね。
  15. 加瀬完

    ○加瀬完君 租税特別措置法を初め、国税地方税を通じまして、いろいろな減免措置が講ぜられておりますが、こういうものを全然考えないで、先生の今お示しになった数字をそのまま受け取りましてよろしいのでありますか。私が伺いたいのは、国民所得の伸びというのは、同じ比率で税収の伸びにはならないのではないか、現在の税法がある限りにおいては。この間をもう一度お教えいただきたいと思います。
  16. 高木寿一

    公述人高木寿一君) 自然増収が同じ割合増加すると、こういうことはございません。国民所得増加が少なければ、先ほども申しましたように、三十三年度のように、自然増収割合が非常に少ない。それから、国民所得の伸びが大きくなりますと、租税収入の伸びが大きくなる。なぜかということの問題ですな。国民所得増加したときに、どの部分が大きく増加するかというと、限界線のものが大きく浮き上がってくるわけですから、かりに勤労所得でも、少所得者層で、これまで課税最低限あるいはそのわずか下であった者が今度上へ出てきますから、それが大きいために自然増収が大きくなります。景気が悪くて、その幅の広い者が引っ込むから、自然減収が大きくなると、こういうことであります。もしかりに、日本の個人所得の階層別が、その課税最低限の限界線のところがそれほど幅が広くなくて、上の方が大きければ、それは響いて参りません。しかし、課税最低限のところあたりの低所得者層が多いから、だから、景気が少しよくなると、課税最低限から上へ出てきて課税の対象になり、少し景気が悪くなるとそこが隠れる。従って、所得税の課税の対象となる人が、わずかな課税最低限の引き上げによって非常に多くの人たちが生活が楽になると、こういうことになります。
  17. 加瀬完

    ○加瀬完君 具体的に伺いますが、先生のさっきお示しいただきました、たとえば、昭和三十五年に、予算面から見れば、千五百億程度増収というものが見込まれると、この数字は、政府がこの前私どもに示された租税特別措置法による千二百二十七億という減税額というものを差し引いても、現状のままに租税特別措置法を認めても、なおかつ千五百億の増というものを租税の上で見込むことができると、このように考えてよろしいでしょうか。
  18. 高木寿一

    公述人高木寿一君) 私はそう思います。
  19. 鈴木強

    ○鈴木強君 ちょっと関連して。先生の論理は、現行の税制を一応お認めになった上の理論の組み立てだと思うのです。そうして限界租税函数というものを二五%に見ておられるのですが、私の聞きたいのは、佐多委員、加瀬委員の関連なんですが、今加瀬委員のおっしゃったように、租税特別措置法によって千二百億近い免税があるわけですね。ですから、そういうものをあわせて、現在の税法、こういったものにメスを入れる必要があるという考え方を私は持っているのです。そういう意味から総体的に、減税する場合、あなたの論理でいって、かなり自然増収が多くなっていると、ところが、実際には減税というものは租税全体から見るとそう影響なくなってきているのだが、その負担がどこにウエートが行っているかということを佐多委員が聞いたのですね。一応わかったようなわからないようなことですから、あらためて聞くんですが、それと関連をして、現在の租税構造というものをある程度いじる必要があると思うんですが、シャウプ勧告以来政府でも研究されているようですけれども、そういう租税構造になる基本について御意見があったら、一つ聞かしてもらいたいと思うんです。
  20. 高木寿一

    公述人高木寿一君) ただいまのお話、租税構造の基本になる考え方、今後租税構造がどうあるべきかということで、たとえば、私の考えておりますところは、なお正確に申し上げる必要がございましたら、新たに資料提出しますけれども、きょうはそれもまだ用意はいたしておりませんから、ごかんべんいただきたい。大体どういうふうに租税構造を持っていったらいいかということ、率直に申しますと、はなはだ皆様に失礼なことですが、まず第一に、率直に申しますと、だれもが税金を払っているのですが、これくらいなら仕方がないよと思うくらいのところまで持っていっていただくのが一番いい。だれでも、国の費用のために税金を負担しなければならないことはわかっておりますけれども、たとえば、勤労所得者が俸給をもらって、袋をあけてみたときに、実感といたしまして、これは税金かと、なるほどこれくらい仕方がないじゃないかと、しかし、あけてみたら、こんなに取りやがるのかという、そこら辺はばく然とした限度でありますけれども、そういうことが、何といいますか、われわれの多くは、国民全体の納税者の大多数は小所得者なんですから、小所得者が封をあけてみたら、これくらいしょうがないじゃないかと、それは、少なければ少ない方がいいんですけれども、こんなに取るのはひでえじゃないかと、これじゃせっかく年末にボーナスをもらっても、賞与をもらっても、これじゃ、子供に何か買ってやろう、長年がまんさして女房にも何か買ってやろうと思っても、これでは買えぬじゃないかというときに、非常に残念な気持と淋しい気持とを与えることになりますですね。何でもないこと、粗雑なことを申し上げますけれども、払うのは払いますよ。けれども、これは多過ぎるじゃないかという限度はどれくらいだろうと、まず第一に、ですから課税最小限の引き上げということが一番の問題じゃなかろうかと私は考えます。
  21. 鈴木強

    ○鈴木強君 先生ね。なるほどお説のように、まあ一応税収見込みというものを立てるわけですね。それをどう取るかという徴税の方法だと思うんですよ。だから、あなたのおっしゃるように、だれでも租税を払うという気持はあるんですから、払う意思はありますがね。まあ勤労所得者なんかからいいますと、非常に勤労所得税なんか多いじゃないか、こういう面が出てくる。それがいけなければ、どこからか取らなければならぬということになるでしょう。ですから、私が言いたいのは、租税構造というものは十分考えた上での論理でないと、そういうことが一応、一千億の減税大文夫だという際の減税の方法をどう考えるかということが問題になってくると思いますね。それは不離一体ですから、離した論理はちょっとまずいと思います。年に百八十万とか二百万とか収入があっても、租税特別措置法によって税金のかからない人もあるんですね。そういった矛盾を国民はよく知らないけれども、課税の仕方によっては、やはりからくりが相当あるわけですね。そういう点は、やはりメスを入れていく必要があろうと思うんです。ですから、特に租税特別措置法なんかの点については、よう国民が知りませんのでね。わかればかなり問題が起きてくると思うんです。そしたら、そっちを手をつけても所得税を多少減らしなさい。そうすれば、収支の見込みというものは合っているわけです。バランスがとれているわけですから、そういう点を一つ聞きたかったけれども、構造だけしかないというのなら……。
  22. 高木寿一

    公述人高木寿一君) 特別措置法等が非常に多いので、これは、申し上げるまでもなく、隠れた形の産業補助金ですね。ネガティブの形の産業補助金と申せましょう。それに対してポジティブな形態の産業補助金というものは非常に少ない。二十倍も三十倍も少ないということですね。そういう考えだろうと思うのですが、しかし、租税特別措置による減税は、今は七百億くらいあるでしょう。
  23. 鈴木強

    ○鈴木強君 千二百億です。
  24. 高木寿一

    公述人高木寿一君) 千二百億円、租税特別措置——それは、地方税のはね返りを含めましてですか。
  25. 鈴木強

    ○鈴木強君 いや、国税だけです。
  26. 高木寿一

    公述人高木寿一君) それは数年前の話で……。
  27. 鈴木強

    ○鈴木強君 今度出した政府資料で、大蔵省資料でそうなっております。
  28. 高木寿一

    公述人高木寿一君) そうしますと、私は弁護するわけじゃございませんよ。もちろん租税特別措置をだんだん減らす方向に持っていくことはもちろんですね。ふやす性質のものではございません。それでは、日本の再建の過程で必要であるという理由が全然ないことはございません。そうかといって、これを今後においてふやしていくべきものじゃなく、当然減らしていくべきものです。しかし、一方に、租税特別措置をすっかりなくしてしまえと、それは一種の保護政策ですから、すべて経済の自由化だとか、全面的に野放しにしてしまっていいと、そういうわけでもないんですから、そうすると、租税特別措置というものの意味が全然なくもございませんが……。
  29. 鈴木強

    ○鈴木強君 否定はしてないですよ。
  30. 高木寿一

    公述人高木寿一君) それはだんだん減らして参りますね。  それからもう一つ申し上げますのは、ちょっとお尋ねに対して違うかもしれませんが、ちょっと申し落としがありましたから……。減税をしますれば、そのはね返りとして増収が出ますね。たとえば、千億減税すれば千億の減収にはなりませんですね。なぜならば、国民の可処分所得がふえ、消費に使いますから、たとえば物品税の場合など非常にふえますから、千億の減税は千億の減収にはなりません。そういうことになりますから、なお今後の減税財源がないということにはならぬというわけなんです。はなはだお尋ねに対して的はずれなことを申し上げたかもしれませんが……。
  31. 木村禧八郎

    木村禧八郎君 簡単に三点についてお伺いしたい。  最初、お話ですと、限界租税函数二五%というものをお出しになりましたね。これは、三十二年度につきまして、七千二百六億円の国民所得増加に対しまして国税収入の増が二五%、これは、実際に政府が取りました自然増収ですね。それをもとにしてお出しになったものかどうか。そうしますと、これは過去のことですから、七千二百六億の国民所得増加に対して実際に政府が収益を上げ自然増収、それをもとにして計算されたとすれば、ことに法人税などにつきましては、法人所得につきましては、国税庁の統計と、それから内閣でやるこういう統計との間に非常に差があるんですよ。国税庁の方が捕捉が非常に少ない。ですから、もし正しく法人の所得が把握ができたら、実際の件数よりもさらに多くなるんじゃないか。自然増収は、先生のおっしゃるよりはさらに多くなるのではないかという点が一つなんです。これは、過去の実績から計算されたとすれば、実際には、特に法人所得については正しく捕捉されてないと思う。ですから、その点が一つ。実際にはもっと先生計算よりは多くなるのじゃないかということなんですね、正しく捕捉されましたら。私も、政府自然増収の見方は少し甘い。もっとあると思いましたが、先生計算で非常に多くなることを示唆されたわけですが、しかし、この計算でいけば、一そう先生計算よりももっと多いんじゃないかという気がしたわけです。  それから第二点は、これは非常に重要な御示唆がございましたが、もしこのままいくならば、三十五年度の対民間収支ですね、一千二百億円の引き揚げ超過になるというお話ですね、これは非常に重大な御示唆だと思うのです。この上にもし国際収支に変化があったらこれは大へんなまた引き揚げ超過ですね。国際収支の入超でも、受け取りが少なくなったらこれは大変な……。国際収支の問題が一つあるわけです。この点。  それから最後にもう一つは、先生国民年金の財源として前に御主張されておりましたが、取引高税みたいな流通税を、これを新しく設けるべきだ、そういうお説だったわけです。そうしますと、今のお話のように、自然に自然増収があれば、そういう増収国民年金の財源として目的税的にお考えになったかどうか知りませんが、その点は不要になるのではないか、こういうふうに思われるのですが、この三点について。
  32. 高木寿一

    公述人高木寿一君) 今、木村さんのお尋ねのちょっと順序が変わってもよろしゅございますか。
  33. 木村禧八郎

    木村禧八郎君 ええ。
  34. 高木寿一

    ○述人(高木寿一君) 対民間収支の問題はちょっとあれですが、国際収支の状態がもし悪くでもなればどうなるか。そうしますと、そうなりますれば景気の伸びが悪くなりまするから、それを反映して一般会計自然増収が、私が申したほどには伸びないんじゃないかということになりますな。そうすると、対民間収支の結果の差は片方でこうやって、片方でこう下がってやっていきますと、結果としてはほとんど同じことになりはいたしませんか。それから国民年金の場合に、取引税の問題ですが、私は取引税は、これはできればやらない方がいいと思います。よく間接税のウエートを多くするためには税収入の多い一般取引税を持ってこいというお話、持ってくるよりしようがなかろうというお話が出ますが、これは私はもう最後の最後の手段で、もう自然増収も何もちっともなくなってしまって、もう最後のというのなら、そのときになお目的税として社会保障の費用に充てるということならば、せめても納得ができるという意味なのでございます。私は取引税はできるだけやらぬ方がいいと思っております。なぜならば、あれは結局小企業者と小所得者に、一番結局取引能力の弱いものに移っていってしまうことであります。ほかの租税は、その課税の対象になる人たちの範囲がきまっております。けれども、一般取引税は課税の対象の範囲がきまっていないのですから、酒の税金なら酒の製造者から販売者、酒の消費者というふうにワクがあるわけですけれども、現在の社会に住んでおれば取引に関係しないものはないのですから、そうすると、課税の対象となる範囲をきめていないということは、だれでもが課税の対象になるということで、結局取引の能力の一番弱い小企業者と小所得者が負担するという結果になります。ですから、私はこれはできるだけ避けるべきだと思います。けれども、どうしてもやるというのならば、社会保障の目的税というのならば、わずかの理由は生じてくるであろう、こういうことを申し述べたわけであります。  それから初めの三十二年の二五%は、御承知通り減税をいたしましたので税法の改正がなかった場合の税収を約八百億加えたものであります。  それからもう一つ、木村さんのお尋ねで、もっと多くなることになるだろう、私はそう思います。
  35. 小林英三

    委員長小林英三君) どうもありがとうございました。   —————————————
  36. 小林英三

    委員長小林英三君) それでは、次は渡辺公述人にお願いいたします。
  37. 渡辺誠毅

    公述人(渡辺誠毅君) 防衛政策について意見を述べろということですけれども、防衛の問題は、やはりたとえばグラマンがいいとか、ロッキードがいいとかいうふうな個々の問題よりは、一体日本の防衛をどう考えるかという、その根本の問題が一番大事だろうと私ども考えますので、国民の立場から見て現在の防衛政策のあり方というものをここで申し上げまして、何か御参考になればと考えるわけです。  まず、国民の立場から申しますと、防衛の目的というものは、日本国民の生命とか、財産とか、あるいは政治的な自由とか、あるいは民族の独立とか、そういうものを守ることであろうと思いますし、また、そういう面に厳密にそういう要求に沿うものであってほしいと考えるわけです。そこで、そのことをもう少し具体的に申してみますと、防衛政策を国民が支持し得るためには、三つぐらいの基本的な条件があると思うのです。その第一は、現にやはり日本の周辺に国の、あるいは国民の安全を脅かすところのものがあって、しかもその侵略といいますか、脅威あるいは侵略の可能性というものが国民に不安を与えておるというふうな事実があり、第二にその不安を除くためにいろいろ防衛以外の手段があると思うのですが、そういう平和的な、あるいは外交的な手段でもってそれを排除するということがやはりなかなかできがたい、そういう手段を尽くしたにかかわらず、なかなかそういう危険を排除できないという条件があるということと、もう一つは、第三番目は自衛手段をとるというふうな、現在考えられているような自衛手段をとるということが国民の生命、財産を守るというふうな防衛の目的にはたして有効にかなうかどうかという三つの点、そういうものがかなえられておるとすれば、国民としても非常に重要な自分たちの生命、財産を守るという防衛に対して協力できると思いますし、また、そういう意味では多少そういう危険の迫っている度合いとか、そういうふうなことと関連して防衛費が多少多くても、それは国民としても納得し得るところだと思うのです。しかしながら、もしそういうふうな条件が欠けているとすれば、これはいたずらに国民に対して軍事的な浪費をしいるということになりますし、また、そういう政策をとることが、実は防衛の本来の目的であるところのものに反して逆に国民の頭の上に危険を負担させることになるというふうに考えるわけです。そこで、一番初めに問題になりますのは、はたしてそういう危険が存在するのかどうかという点、具体的に申し上げますれば、仮想敵国というふうな問題だと思うわけです。で、仮想敵国につきましては、日本政府もあるいは防衛庁なんかも公式には仮想敵国というものは日本は持っていないのだというふうに答弁をしております。しかし、まるで仮想敵国というものがないならば、一体何のために軍備を急ぐのかということが問題になりますし、あるいはそのアメリカと軍事的な条約を結ぶということは何のためにそんなことをするのかという問題が出てくるわけですし、あるいは防衛政策を批判するといっても、一体何のためにどういうテンポでどういうところに重点を置いて増強しているのかということが、つまり目的がわからないと批判することさえできない。第一、防衛計画を立てる方もお立てになることができないのではないかと思うのです。実際には仮想敵国というのはないというふうに言っておりますけれども、実際にはあるのじゃないか。つい先ごろ赤城防衛庁長官がそういう問いに対して答えている中で、仮想敵国という考え方はもう古いのである、現在はそういうことではなしに、一般的に抑止政策というものを遂行するのが防衛だというふうな意味のことを申しておられますけれども、その抑止政策というふうなことでありましてもやはり目標はある。だからやはり仮想敵国というものは想定しておられるというふうに考えるわけです。で、何がそれじゃ仮装敵国かと言えば、仮想敵国というと語弊がありますが、仮想の勢力かと言えば、やはり極東に配備されておるところの共産諸国の軍事配置というようなものがやはり一番問題になるのだと思うのです。で、政府筋が発表しているところによりますと、日本の周辺にソ連、中国、北鮮、そういうものを合わせまして地上の陸軍が大体兵力として三百五十万ぐらい、海軍が七十万トンぐらい、空軍が八千機ぐらいで、このうち半分ぐらいがジェット機だろうというふうな推定があるわけです。こういうふうな数字というものが相手方のやはり軍事的な機密ですから正確にこの数字を信じていいかどうかわかりませんし、日本の防衛当局もおそらくこういう数字をキャッチするだけの組織をお持ちにならないと思いますので、大部分はこういう数字はアメリカ軍からの借り物だろうというように考えるわけですが、しかし、まあともかく日本の周辺に相当な共産圏諸国の大きな兵力があるということはこれはまあ信じてよかろうと思うわけです。これを現在の、これを何か仮想のものと考えまして、これに対して日本の自衛隊の戦力というものを比べてみますと、三十五年度末で陸軍が十七万ぐらいですから大体陸上兵力で二十分の一、海軍で十三万トンぐらいでしょうから大体五分の一、空軍で一千機ちょっとということで大体これは八分の一、非常に大まかですけれども、やはりこういう勢力をもしまぼろしの仮想敵国と考えるならば、やはり日本の自衛戦力というものは少し足りないということが言える。従って、増強しなければならないという問題と、それからまた、増強してもどうせ足らないからやはり米軍と協力しなければいけないというふうな軍事協力の問題が出てくるわけなんです。しかしながら、こういう想定自体に多少、多少どころか非常に吟味を要する点があろうと思うのです。たとえば陸上三百五十万といいますけれども、この中で三分の二以上を占める中共軍というのが大体二百五十万ぐらいとまあ推定されておるようですけれども、この二百五十万の中共軍というのは一体何に対しているかと言えば、それはインドの国境から、タイの国境から、あるいは東南アジア条約機構の諸国、あるいは朝鮮の事態に対しているというふうな、なかんずくこれはやはり台湾海峡の緊張に対処するための勢力、兵力だろというふうに考えていい。そういうことは、日本に直接この二百五十万という兵力が、日本を何か目標にして配備されあるいはこういう兵力が持たれているのではないというふうに考えざるを得ない。それから北鮮軍の五十万にいたしましても、これはもっぱら三十八度線に備えている、こういうふうに考えていい。空軍の八千機のうちでも、中国と朝鮮と合わせまして約半分の四千機くらいになりますけれども、こういうものについても同様のことが言えると思うのです。そういう今申しましたような兵力が配備されておるということと、それが日本進攻の企図を持って、日本というものを目標にして配備されているということは、厳格に分けて考えなければいけないんじゃないかと思うのです。もちろんこういうふうな勢力というものは、全部アメリカにとっては、たとえば東南アジア条約機構とか、台湾とか、朝鮮とかそういう問題を持っておるアメリカにとっては、全部こういう兵力がアメリカにとっては脅威だと思うのですけれども、それがそのままそっくり日本に対する脅威ではないというふうに考えざるを得ないわけです。で、われわれ国民の立場から申しまして、中国とかあるいは朝鮮が今差し迫って日本に進攻してくるというような不安は、われわれ国民としては感じておりませんし、まあそういう心配は今しなくてもいいんじゃないかというふうに考えるわけです。  で、問題になるのはソ連だと思うのですが、ソ連の場合、たとえば千島とかあるいは北樺太とか、沿海州とかそういうところに、まあ北海道を取り巻くような形で、兵力が配備されておるのは、やはりそういうところをねらっておるというふうには考えざるを得ないのですけれども、それは一体そういう配備が現実にその日本との問題を予想して配備されているかどうかという点では、やはり吟味しなければならない問題がある。ソ連が日本に進攻するというふうな場合には、もちろん何らかの原因がなければならないわけですが、その原因の一つとして、国民の立場から常識的に考えますと、まずそういう侵略とかいうふうな事態が起こるためには、両国の間に何か戦争に訴えざるを得ないような紛争の芽がなければならない。なければそういうことは起こらないと思うのです。たとえば南千島の問題であるとか、あるいは北太平洋におけるカムチャッカやなんかの漁権の問題であるとか、あるいは放射能の灰をこっちに送ってくるとか、いろいろ利害が相反する問題というものはありますけれども、これはアメリカと日本との間にもあることであって、たとえば小笠原とか沖縄とかの帰属の問題、あるいは北太平洋の漁業権の問題、あるいはその日本に対する、日本の繊維その他に対するかなり不当な輸入の制限というふうな、いろいろ問題はありますけれども、どれを取ってみましても、アメリカの場合もソ連の場合も、日本とソ連あるいは日本とアメリカの間で、何かその問題を戦争によって片づけなければならないような、そういう種類の問題とは考えられないわけです。  そこで進攻する、要因として、もっと別に考えますと、たとえば日本の戦略的地位というふうなこと、あるいは日本を赤化するというようなことが、共産主義にとっては世界戦略の上で非常に都合がいいというような面が考えられるわけですけれども、この点でもたとえば大陸間弾道弾というふうなそういう新しい兵器が支配的な地位にだんだん上がってくるような時代には、日本を基地としてソ連が取るというようなことは、あまり軍事的には意味を持たない。それから政治的に日本を赤化するというふうなことは、現在のような国際政治、軍事情勢の中では、それは望ましいことではありましょうけれども、武力によって国境を変更したり、あるいは政治制度を変更させるというようなことは、今では時代おくれだというふうにソ連も考えているというふうに思いますし、むしろソ連が望んでおるものは日本の中立、つまり資本主義制度をやめるとかそういうことではありませんけれども、軍事的にノン・アライアメント、どこの国とも日本が軍事的に提携しないということを望んでおって、日本を共産主義的なものにしようということは当面望んでいないのじゃないか。それはソ連の現在とっておるフルシチョフのいろいろの政策から見てそういうふうに考えていいのだろうと思いますし、国民の一般的な気持としても、ソ連が現在何か日本に差し迫って攻めてくるとか、あるいは侵略するというような心配というものはほとんど感じていないのじゃないかというように私ども考えます。  第三番目に、日本とソ連との間で問題が起こる可能性というのは、これは一つ私は原因があると思う。それはアメリカ軍の基地がここにあるということに基因するのだというように考えます。現在アメリカ軍が日本及び極東にかなり非常にたくさん、陸軍が約十万ぐらいおりますし、海軍は第七艦隊という非常に大きな核兵力を持っておりますし、空軍もまた約千五百機から二千機ぐらいあると思います。そういうものにはやはりソ連としては関心を向けざるを得ない立場にあって、そういうことから両方の軍備配備競争というような形が出てきて、このことがやはり何か日本の防衛、国民の生命財産というような問題にかかわってくるとすれば、そういうことがやはり一番大きな原因になるのじゃないかというように考えるわけです。それで、そういうふうな状況の中で、日本が基地を米軍に貸しているというようなこと、あるいは米国との間に安全保障関係を結んでいるというようなことから、日本としては直接ソ連と何か政治的に対立するとか、あるいは何か大紛争で武力的な衝突が起こるというようなことで、ソ連を仮想敵国に日本自体としては別に考えなくてもいいような事態であるにかかわらず、米国に基地を貸して米国との間に安全保障協定を持つというようなことから、日本もまたアメリカと同じように共産圏というものをやはり仮想敵国に持たざるを得ないような条件が出てきておるのじゃないかというように考えるわけです。そして日本国の今行なわれておる防衛努力というものも大部分そのことと関連しておると思います。相手をそういう大きな兵力を持つ共産圏というふうに想定いたしますと、最小限度の自衛力といいましても、あるいは基幹的な防衛力を維持育成すると申しましても、それは限りのない防衛努力につながっていくということ。もう一つは、防衛努力をする観点がやはりどうしてもそういうものに対処することに重点を置かざるを得ないような、そういう防衛努力になるということだと思います。そこで翻って現在の自衛隊の戦力というものがどのくらいの規模であるかということを考えてみますと、三十五年未に、陸海空その他自衛庁の職員などを合わせまして、大体二十四万ぐらいの定員になるかと思うのでありますが、これを昔の皇軍時代の平時兵力と比べてみますと、昭和九年ぐらいが陸軍二十三万、海軍七万五千ぐらいで、合計三十二万ぐらいあったわけですから、従って、皇軍に比べれば定員の上では、現在三分の二くらいの規模だということが考えるわけですけれども、兵員数では少ないけれども、火力の装備ということから申しますと、一分間に発射できる小銃とか、機関砲とか、いろいろのもの全部合わせますと、一分間に発射できる発射鉄量の比較から申しますと、現在は皇軍の時代よりも五倍くらい、四倍とか五倍というくらいに多いし、それからまた機動力という点からいっても非常に高いので、人数では少ないとはいえ、戦力としては皇軍時代に決して劣らないだけの戦力をすでに持っておるというように考えていいと思います。昔の皇軍は、申すまでもなく北は樺太から、南は南洋諸島に至るまでを一つの防衛範囲といたしましたし、内にこもって守るというよりは外に攻めるというような形の軍備であったわけです。そういうふうな目標であったと思いますけれども、現在はそういうことから比べますと、はるかに防衛の目的とか任務とかいうものが違うということから考えると、自衛隊の現在の戦力というものは、やはりかなり高いものにすでになって参っている、こういうふうに考えて差しつかえないのじゃないかと思うのです。これを国内治安というふうなことで考えれば、もうこれ以上増強する必要というものはないと考えますし、しかし、国内の治安については、これ以上は増強する必要がないのじゃないかというふうに考えますけれども、もしこれを現在の仮想敵といいますか、そういうふうなものを描いて考えると、対ソ戦とか対共産圏というふうに、そういう勢力と戦うというふうなことを考えますと、やはり近代戦を遂行する能力がないことで増強をしいられるという格好になってくると思うのであります。軍備は、そういうふうに一つの相手を想定いたしますと、特に相手が非常に大きな軍事力を持つ国である場合に、日本のその軍事費というふうなものは非常にこのままでいけば膨張を重ねていかざるを得ないというふうに、現実に第二次六カ年計画というものを前に防衛庁が立てておりましたが、そのときにいろいろ集計をしてみると、おそらく、その目標終了時には四千億円ぐらいになってしまう。それではとても財政上そういう規模のそれだけの支出はできないからというので、おそらくそういう目的が一番大きかったと思うのですけれども、二千九百億円ぐらいに削る計画をお立てになっておったようですけれども、現在、今年、今度の予算で千五百億、明年ぐらいになりますと、いろいろ実質上は二千億円に近いというふうな数にだんだんふえていくと思うのですが、相手のそういうふうな選び方、つまり自分の潜在的な相手国というものの選び方から、やはりミサイル中心の三軍近代化というふうな線が強く打ち出されてこようと思っているわけですが、現にサイドワインダーが入って空対空のミサイルが、これが入っておりますが、これがもしF104というふうなものが実際に飛ぶようになりますと、それにつけられてサイドワインダーが実際に装備され、それから船にタンタンというふうなミサイルを乗せる、あるいはナイキ・アジャクスとか、あるいはホークとかポマークとかいう地対空のミサイルを備えるというような計画が進んでおります。ミサイル装備あるいはそういうふうな軍の近代化というのは、もちろん今までの在来の高射砲とかそういうふうなものに比べまして効率が高いことは申すまでもないわけですけれども、このこういうふうな、ミサイル装備というふうなものをやる場合にはアメリカからの供与、援助というふうなことがどうしても必要になって参りますために、これが進んでくると、どうしても機密保持というふうなことが要求される傾向が出てくるだろうと思うのです。この点がやはり一つのこういうふうに自由にわれわれ国民が防衛政策に対して批判的なことを言う機会が失われるきっかけになりかねない。それから非常に防衛効率というものを追及していくということになりますと、どうしても行き詰まるところは核兵器ということにならざるを得ないような気がするのです。現在どういう形で核武装への道が進められているかというふうに考えますと、大体、共用ミサイル、デュアル・パーパスのミサイル、つまり核弾頭も使えるけれども、通常火薬の弾頭も使えるけれども、核弾頭も撃てるけれども通常兵器も撃てるというデュアル・パーパスのミサイルをつけるということが、きっかけになる、つまりこれは核弾頭をつけておらないで、核弾頭なしにそういうミサイルだけを入れるのだというふうに言われますけれども、いざという場合には米軍が管理しておるところの核弾頭が供与されるということになりかねないので、まずその共用のミサイルを入れてそして部隊を編成し、要員を訓練いたしましていざというときに、その核弾頭を米軍から受けるというふうな形になるということになれば、これは実質的には裏口から核武装が実質上進んでいるというふうに言われても仕方がないようなことだと思うのです。日本が核武装する場合には、およそ四つくらいの道があると思うのですが、第一は自分自身で核兵器を作るという自前の核武装とでも申しますか、そういう道があるわけですが、これは現在の原子力基本法がある限り、これはできないことですし、技術的に見ても、これはなかなか容易にはできないだろうと思います。核武装をする第二の道というのは、米軍から核兵器の供与を受けるという形も、いってみれば、借りものの核武装ということが言えると思うのですが、しかし、これも核兵器の供与を受けて利用するということは、いかなる研究開発利用も禁止しておるところの原子力基本法に違反、抵触するわけです。で、核兵器を実際作戦上に使うということでなくともこれを抑止用にただ持っておるということだけでも、それはやはり利用の一形態だと思いますので、これは原子力基本法でできない。第三番目に、日本の核武装の可能性というのは米軍自体が持ち込んでくる核武装、これは日本の自衛隊の核武装とは違いますけれども、日本を核兵器でもって装備されるという意味ではやはり日本の核武装、こういう危険性は、かなりあるのですけれども、ただ現在は持ち込まないといっておりますし、岸さんも持ち込ませないというふうに言っておられますので、今すぐ問題になるかどうかはわかりませんけれども、一番近いとすればこれ、しかし、これも実際には政治的にいろいろな問題を起こすので、当然なかなか持ち込めない。そうすると、第四番目の裏口からの実質的な核武装ということが考えられると思うのです。それが今申し上げたデュアル・パーパスのミサイルを持つということであって、それは、たとえば防空用のホーク・ミサイルとかボマークとかいうものが入ってくるということになりますと、それは核兵器も使えるし、通常兵器も使えるわけでありますから、従って核弾頭を取りはずしておけば核兵器ではないということをおそらくおっしゃると思いますけれども、実際にはさっき申しましたように、必要なときには核弾頭をつけられる兵器を装備してしまうということは、やはり裏口からの実質的な核武装の形態だというふうに考えていいと思うわけです。つまり相手を、そういうふうに選んできますと、相手を潜在的な敵国というものを現在のような形で想定しますと、どうしてもそういうふうな道へ必然的に踏み込んでいかなければならぬような危険があるわけなんですけれども、それからまた防衛力の増強の仕方についても、そういう方向がとられておる。たとえば日本の海軍、海上自衛隊が船団護送というふうなことから、最近参りましたアメリカのパーク海軍作戦部長なんかの指示が、指示と申しましても、命令されたわけではないかもしれませんけれども、そういう向こうの希望というふうなこともありまして、日本の海軍の主たる目的というのは、やはり潜水艦作戦P2Vというか哨戒機を中心とするところの航空集群であるとか、あるいはハンターキラー・グループというふうな相手の潜水艦を帰討するところの集団を作る、それからまたそういう集団が飛行機に対して非常に弱いために今までの三インチ砲とか五インチ砲とかいうものにかわってターターという新しい誘導弾を備えるようなミサイル駆逐艦を持つというふうな一連の動きになってくるというふうに、日本の防衛政策というものが、ソ連なり中共なりを仮想敵国とすることによって、米軍とのあるいはアメリカとの軍事的な協力ということがやはり必然的に出てくるわけですが、そういうことと関連して日本の軍備というものがやはり米軍の極東戦略の一環というふうな意味を非常に強く持ってこざるを得ないのじゃないかと思うのです。しかし、実際そういうふうな装備をこれから積み重ねていく方向に進んだとして、実際役に立つかどうかということなんですけれども、現在の核ロケット時代には、防衛というものは、言葉のほんとうの意味での防衛というものはあり得ないのじゃないかというふうに考えるのです。国民の生命とか、財産とか、そういうふうなものを完全に守るというふうな意味での防衛というものは現在は成り立たない。各国の戦略を見ておりましても、現在は戦略の空白時代といって差しつかえないと思うのですが、非常な高速で飛んでくる水爆弾頭つきのIRBMというものは防ぐ方法がないわけです。アメリカの場合を見ましても、特に民間防衛、シヴィル・デフェンスというものは、その面で完全にストリップ状態、これはむしろあきらめておるくらいでありまして、アトラスという大陸間弾道弾の開発費を含めた値段が一発三千五百万ドルというふうにアイゼンハワーは申しましたが、大体アメリカがこのシヴィル・デフェンス、大都市の国民の生命を守るための民間防衛に支出する金がアトラス一発分と大体等しいという状況ですが、こういうことは、大陸間弾道弾の時代には防衛というものはほとんど成立しがたいということを物語っておると思う。アメリカの軍事研究団体であるランド・コーポレーションというものがありますが、そこでいろいろどういうふうにしたら、そういう死傷者を減らすことができるかどうかという研究をしておりますが、そういう研究を見ましても現在アメリカの人口は一億七千万になって、それが水爆戦で二千万に減ったんではこれは戦争にならない。だから、それをとにかく九千万くらいのところまでとどめるためには、どうするかということで、火たたき式の方式の防空とは、ガイガーカウンターとか、いろいろな防空方式を考えておりますが、しかし、国民が数千万の規模で死ぬるということは、ランド・コーポレーションの人は、たとえアメリカの国民が九千万に減っても、これは千九百十年代のところに戻っただけで、依然として世界の大国であるというふうなことを言っておりますけれども、しかし、そういうふうな数千万の国民が死ぬことを予想するようなものが、はたして防衛であるかどうか。さっき申しましたような意味での防衛であるかどうかというのは、非常に疑問があるわけです。実際には戦争というものはだんだんできない。イギリスの場合でもそうですが、イギリスは少し前の国防白書でソ連が、この通常兵器で大規模な攻撃をしかけてきた場合には、水爆でもって報復するという戦略をきめましたけれども、これに対しては、非常な非難がありまして、一体そういうことをしたらソ連の中距離弾道弾六発でイギリスはやられる、中距離弾道弾の弾頭につけるところのメガトン級の水爆六発くらいで六分間の後に滅びるだろう。つまり、こちらが向こうの通常兵力の大軍に対して水爆を使った場合は、その六分後にはイギリス本土はなくなるだろうと、そういうようなものが防衛であるかどうか。実際にその発動し得る防衛政策であるかどうかということで非難がありまして、去年くらいにもイギリスのいわける国防白書に対してブランク・ホワイト・ペーパー、つまり実際は何も政策のない国防白書だという非難があって、ことしになりますと、今度はやはり通常兵力を増強しなければいけないとか、現在持っておるIRBMだけではだめで、やはり原子力潜水艦に乗って敵の攻撃を免れ得るような、そういう移動、トランスポーターブルIRBMが必要だというような、いろいろ苦悩が現われておりますけれども、こういうものをやったとしても、それは当面の腰だめであって、何らイギリスの国民の防衛を、防衛といいますか、この防衛目的を達するものではないのじゃないかと思うのです。これは日本でも全く同じことでありまして、たとえばサイドワインダーだとか、ホークだとか、いろいろなものを入れましたといたしましても、これが実際に発動されるときには、つまり相手の攻撃に対して及ばずながら一矢を報いるというふうに前の国会で答弁された方がありますけれども、及ばずながら一矢を報いたときには、国民が全体としてやはり滅びるときでしかないのじゃないかというふうに考えるわけです。 そういうふうに申しますと、結局、いやそういうふうに実際は戦争に使うんじゃないのだ、これを持っていることによって相手の侵攻の意図を抑止するのだ、だから、抑止政策として持っているのであって、別にこれを使うんじゃないのだ、これを持っていなければ相手が侵攻してくるのだというふうな言い方がなされておりますけれども、現在抑止効果を発揮し得るためには、もしソ連に対して何らかの抑止効果を持とうとすれば、非常な大兵力を持たなければなりませんし、抑止政策というものは、本来戦争はやらないのだという建前でなくて、お前の方が攻めてきたならば、直ちにこれで報復するのだぞという態勢を常時示しておいて、相手に教えておいて、そうしてそういう勢力を、たとえば水爆機を空中に年中飛ばしているという形で、やったらすぐこれだぞという態勢を現実にとっているということが必要なんですけれども、それでないならば抑止効果というものがないわけなんですけれども、そういう抑止効果を発揮するということになりますと、お互いにそれをやると、結局、軍事的な威嚇のし合いということになりまして、それが不必要に、実際にはそう戦争したくないにもかかわらず、いかにも戦争したいような、好戦的な言辞の投げ合いになるということで、それが極東における不必要な緊張を高めて、そうして何か万一の場合に、たとえばきょうだかラジオで申しておりましたが、台湾でマタドールの何か演習をしたところが、それが間違って中国本土の方に飛んだというふうな、そういうふうなことを、もし相手の大規模な攻撃の始まりだというふうに解釈すれば、現在の兵器の進歩から見まして、時の要素というものは非常に重要でありますから、圧倒的に壊滅させられるというふうなことを防ぐためには、どうしてもやはり攻撃されたと思ったときにはこちらから時を移さない反攻撃が必要になるわけですが、そういう何といいますか、時の要素が重要な近代兵器の特質から、この抑止政策というものはやはりだれも望まない戦争を引き起こす可能性がないとは言えないと思うんです。  そこで、それじゃ日本の軍備というものは何にもなくてもいいのかということになるわけなんですけれども、私は、どこからも決して攻めてこないというふうなことは、これはだれも断言できないのだろうと思うんです。当面攻めてくることはありませんけれども、攻めてきた場合にはどうするかということは、やはり憲法論議は別として、自衛という建前からそういうことは考えておく必要がある。その形態というのは、サイドワインダーを持ったり、あるいは核兵器を持ったりするというふうな形ではなくて、私は、唯一の方法というのは、大規模な相手に侵攻を許しておいて、そうしてそこで大規模なシビル・デイスオビーデイエンスといいますか、大規模な民衆の抵抗闘争をやる以外にないのじゃないか。つまり、相手が飛行機で攻めてきた場合に爆撃機をこちらがたとえば何かミサイルで防御する、向こうももう少しまた進んだもので攻めてくるというふうな形でいくと、やはり最後には核戦争になるというふうなことで、そういうものを使う場合には大体守るべき国民というものが消えてしまうような可能性があるわけなんですけれども、そういうふうなことはしないで、一見非常に敗北主義的に見えますけれども、結局、シビル・デイスオビーデイエンスという形の闘争しかないのじゃないかと思うのです。これは今申し上げましたように、非常に敗北主義的に聞こえることなのですが、実際にはこういう方法をとり得るということは、自分の国の社会生活というものが相手の国よりも絶対に正しいんだと、絶対にこの方が自然なんだ、これが一番自然なんだという非常にかたい信念がなければできないことでありまして、実は非常に強くなければできないのだ。そういうものだと、自分の国を愛する精神においても、自分の国の生活様式に対する誇りにおいても、そういうものが強くなければこういう抵抗闘争ができない。  そういうことをイギリスなんかでも、たとえばキング・ホールという陸軍の将校が、核時代の防衛というものはそういう形しかあり得ないということを申しておりますし、トインビーの子供のフィリップ・トインビーという人なんかの最近言っていることでも、そういう方向に、イギリスなどにもそういう声が出てきておりますが、私は、日本の憲法の立場などから考えましても、やはりいざ不正な侵略を受けた場合の抵抗というのはこういう方法しかないし、こういう方法しか国民の生命財産を保全しながら戦うべき方法は実はないのじゃないかと思うのです。  その場合に、自衛隊が抵抗闘争の中心地になるということが考えられていいのじゃないかというふうに考えるのです。そのためには、国民が自衛隊に対する非常に大きな信頼を持つということが重大だと思うのですが、国民が納得しない形でこのサイドワインダーを持ち込んだり、エリコンなんか労働組合のデモを肩すかしするような形で持ち込むというふうな形、あるいはロッキード問題で見られるような、いろいろな來雑物を含んだロッキード問題などみたいなものが国民に与えるところのものを考えますと、そういうふうな形で、何といいますか、こそこそ既成事実を作りあげるということでなくて、もっと国民とともに防衛を考え国民の自衛隊になるというものでなければ、実際には役に立たない。  それから、自衛隊自身についても、自衛隊の幹部の方が言っておられましたけれども、愛国心というようなことだけでは現在の自衛隊の人たちを納得させるわけにいかない。というのは、やはりアメリカとの問題がありますので、愛国心だけでは片づかないから、どうしても自由諸国の連帯とか、あるいは自由の防衛とか、いろいろなことを言わなければならないけれども、そういうものは実際にはあまりぴんと実感を持って自衛隊の人たちの心には入っていかない、そういう悩みがあるということを言われましたが、一方、水害なんかの場合に、実に自衛隊の人たちが勇敢に任務に挺身する、それが国民とともにあるという考え方が自衛隊員の中にあるからだということを、自衛隊の幹部の方が言っておられましたけれども、すべて、自衛隊自身をとって考えても、現在の自衛隊に対する国民の感情とか、いろいろなものを考えますと、そういうものを解消する方向へいかないことには、自衛隊というのは実際のときにはものの役には立たないのじゃないか。特に、私の考えているような、日本の防衛というものはシビル・ディスオビーディエンスという形しかないんだ、そのほかの形をとればやはり九千万の民族というものがほんとうに滅びるかもわからないから、どうしてもそういう道をとらざるを得ないと思うのです。そういうことを考えれば考えるほど、自衛隊というものはもう少し国民に密接したものに変えていかなければならない。  そういうふうな考え方、これは国民の中にかなりそういうふうに考える者が私はあると思うのですけれども、これは一ぺんにはできないことだと思うのです。しかし、大体そういうふうなことを頭に置きながら、一歩ずつでもそういうことに近づいていくことが必要だと考えますし、そのときには現在の防衛費の増額というふうなことは一応ストップして、そうしてもう一ぺん新しく考え直すことが必要であり、それからアメリカとの協力におきましても、一ぺんにこれをやめるということはできませんけれども、日本の防衛範囲を日本地域に限るとか、あるいは常時駐留というものを有事駐留という形に切りかえることによって、幾分でも国民の防衛——国民がもっと防衛に対してほんとうに関心を持つような事態を生み出していく基礎になるのだと思うのです。  非常にとりとめのない話をいたしましたけれども、防衛問題について、個々の小さな問題よりも、むしろ基本的なものの考え方が大切だと思いますので、国民の一人として、一体国民は国の防衛政策はどうあってほしいかということを申し上げてみたのでございます。(拍手)
  38. 小林英三

    委員長小林英三君) ただいまの公述に対しまして、御質疑がある方は、順次御発言を願います。
  39. 鈴木強

    ○鈴木強君 ただいま貴重な御意見を承りまして、私もお述べになりました御所見には大体賛成できるわけでありますが、そこで、大事な点でありますから、この機会にぜひ承りたいと思います。一つは憲法との関係、一つ国民経済との関係であります。御承知通り、第九条によって日本は戦力を持つことができない、交戦権も認めてないということであります。今お話しになりましたように、今日の自衛隊が、戦前の皇軍に比べる場合、まさるとも劣らないというようなところまで実際の力を持っていると思うんです。これがはたして九条から見て軍備に当たるのか当たらないのか、私たちはまあ当たるというふうに考えておるわけですが、そういう点で、一つその辺をお聞きしたいことと、それからもう一つは、交戦権に関連してでありますが、今度の安保条約の第五条によりますと、日本が急迫不正の攻撃を受けた場合、日本軍と米軍と共同の責任によってこれを防衛すると、こういう建前になっておるわけですね。ですから、憲法による交戦権というのは、敵からやられて日本が立ち上がる、その場合交戦権になるのかならないのか、こういう点が問題になると思うんです。ですから、ここら辺を一つ解明していただきたい。  同時に、もう一つは、国民経済の点からであります。まあ政府は国情と国力に見合った自衛力だと、こう言っております。しかし、おっしゃる通り、千五百億近い、ないしまあいろいろと入れますと二千億に近いかもしれませんが、そういった国防費が、自衛隊費というものが現実に使われておるわけであります。片一方においては、治山治水その他の風水害当時のことを考えましても、国土の防衛というものは、そういう方面に力を入れるべきではないかと私たちは思うわけです。ですから、政府が言う通りに国力と国情に見合っていないと私は思うのですけれども、渡辺先生はどういうふうに御判断なさいますか。  この二つを一つ伺っておきたいと思います。
  40. 渡辺誠毅

    公述人(渡辺誠毅君) 初めの方の御質問は、私はまあ法律の専門ではございませんので、よくわかりませんけれども、現在の自衛隊の規模というものが、これが憲法でいう戦力でないというのは、やはり一種の詭弁であろうというふうに考えます。で、戦力というのは近代戦を遂行する能力というふうなことを政府が申しますけれども、近代戦を遂行する能力ということになると、これは特にICBMなどを持っておるソ連などというものを仮想敵国にして考えた場合に、これは無限に、とにかくどこまで行ってもなかなか追っつきませんから、結局、そういうものは近代戦を遂行する能力がないから戦力ではないということになりますと、実際には憲法なんていうものはないようなものになるんじゃないかと思うんです。  それから、交戦権の問題ですけれども、それはまあいろいろ解釈の仕方があると思いますが、私は、とにかく侵略を受けたような場合に、民衆が不当な主権の侵害、あるいは財産、生命の侵害に対して立ち上がるというふうな形の闘争というものは、それは自衛というふうに見て差しつかえないと思うわけですけれども、しかし、まあ自衛のために、すべて自衛のためにといえば、これもやはり憲法の条文というのはなくなってしまうので、おそらくそれを、どこからが自衛権であって、どこからがいわゆる国の交戦権は行使しないという「交戦権」になるかということになりますと、おそらくその筋は立ちがたいと思うんですが、私は、この日本の憲法の建前から申しましても、あるいは現実にこういうものを、つまり現在自衛隊が持っておるような戦力をかりにフルに発揮するような場合だと、やはりそういう場合には日本国民というものがあるいは滅びるときかもしれない。だから、そういうときには交戦権の行使の仕方によらないで、外交交渉かなんかによっていろいろな危険を取り除くとともに、どうしても仕方がない場合には、ディスオビーディエンスという形の抵抗闘争しかやってはいけないのじゃないか。これは現実の立場から、法律論ではなしに現実の立場から、われわれが生きのびるためにはそういう方法しかないのじゃないかと思います。  防衛費の問題は、なるほど、国民所得あるいは予算の中に占める防衛費の割合というものは、それほど多くはない。直接的な軍事費というものは大体千五百億ぐらいあると思いますが、そのほか債務負担行為とか、たとえばアメリカでは復員軍人に対するいろいろな手当、ベテランス・ペンションというものがセキュアティの費用の中に入れられておりますけれども、そういうものを入れますと、かなり大きくなる。二千億をこえると思うのですが、それは現在の日本財政、そういうものにとってはかなり大きな負担だと思いますが、ただ、よその国と比べるとそう大きくはないのです。しかし、よその国と比べること自体がやはりこれは問題であって、力の政策というものをとって冷戦の主役を演じている国と比べて、防衛費の度合は少ないからまだいいんだというようなことは、これはそもそも建前が違うのだと思います。日本の場合には、さっき高木先生が申されましたように、税金を差し引いた国民の可処分所得国民一人当たりの可処分所得というものを考えますと、相当な負担じゃないかと言わざるを得ないのです。非常にばく然としたことですが……。
  41. 鈴木強

    ○鈴木強君 それから、御意見の中にありましたように、日本が核武装をするかどうか、あるいは日本に核兵器を持ち込むかどうかということが非常に問題になると思うのです。あなたもお述べになったように、裏口からこそこそと国民が知らない間に入ってきている情勢が強くなってきていると思うのです。二月の二十一日のUPI電報によれば、アイゼンハワーが中南米旅行に出かける前に、アメリカ国民に向かって、アメリカの国防は万全だというラジオ放送をしているのですが、その中で気になるのは、アメリカの前線基地にある軍隊——空軍、陸軍、海上、すべてが弾道弾というものを持っておるということを言っておる。これは強力な弾道弾であって、しかも兵器にはすべて核武装をしている、こういうことをはっきり言っておる。そうしますと、日本を基地とする駐留米軍はおそらく、もうすでに核武装を完全にしておる。第七艦隊が横須賀、佐世保に入ってくる場合も、この言からいうと、当然中距離あるいは短距離弾道弾というもので核武装したものがあると判断される。これは国会でも論議になっておるのですが、政府はそういうことはないと言っている。軍機機密の点から、安全保障に関係する機密保護の点から言えないというのかもしれませんが、そういう答弁をしている。われわれは、そのおそるべき核兵器を日本に持ってこられては困るというのに反対している。岸政権は国民の意思ということを率直に言葉の上では言っておりますが、しかし、現実には、こういう裏から国民の知らない間に兵器が相当日本に持ち込まれておると判断するのですが、専門家として御研究していただいておる渡辺先生はどういうふうにお考えになっておりますか、お伺いしておきたいと思います。
  42. 渡辺誠毅

    公述人(渡辺誠毅君) さっき申されました弾道弾ということに限定しますと、弾道弾はおそらく持っていないのじゃないかというふうに考えます。船に積む中距離弾道弾、たとえばポラリス型というものはアメリカではまだ実験中であって現実にはできておりませんし、ミサイル潜水艦、IRBMを積んで周航している原子力潜水艦というものはまだできていない。それから飛行機に中距離弾道弾を積むエア・ラウンチド・バリスティック・ミサイル、ALBMというものもまだ現在のところ実験段階に入るか入らないかくらいのところだと思います。ですから、弾道弾の問題は別といたしまして、核兵器が入っているかどうかということになりますと、第七艦隊は当然核兵器、つまり核戦力を備えたものだというふうに考えざるを得ないし、アメリカ側でもそういうふうに言明していると思います。たとえば艦載機が原爆を積める、それから、あるいはレギュラスというふうな核弾頭をつけ得る艦対地のミサイルですね、弾頭ではありませんけれども、誘導弾を持っておるというふうなことから見ても、第七艦隊が核武装しておるということは、これは否定できないんじゃないか。ただ日本にそういうものが入っているかどうかということですけれども、これは機密になっていて私どもわかりませんけれども、攻撃的なたとえば弾道弾などを日本に持ち込むということは、戦力的にいえばあまり意味がないんじゃないか。持ち込むとすれば何を持ち込むかというと、地対空の誘導ミサイル、そういうようなものと、あるいは地上軍が使うオネストジョン式な原子砲というふうなものが持ち込まれる可能性があるわけなんですけれども、それを持ち込むのに、おそらく持ち込む場合には核兵器として持ち込むのじゃなしに、核兵器を使える兵器でも通常の火薬の弾頭を詰められるわけですから、そういうふうな形で二重目的のミサイルのようなものを持ち込んでおいて、いざという場合に、どこかに貯蔵しておる核弾頭が持ち込まれる。ふだんはそういう核弾頭のないミサイルをもって普通訓練したりなんかしておいて、いざというときにかえるという形だろうと思いますが、今、御質問をいただきました米軍が核兵器を持ち込んでいるかどうかというのは、第七艦隊は明らかに核武装しておると思いますが、在日米軍が核武装しておるかどうかというのははっきり私にはわからない。
  43. 佐多忠隆

    佐多忠隆君 戦略空軍なら戦略空軍の核武装はどういうふうに考えられますか、アメリカの。
  44. 渡辺誠毅

    公述人(渡辺誠毅君) それはおそらく核兵器を搭載し、相手を攻撃する能力を持っていると思いますが、核弾頭をどこに貯蔵しているか、そういうことはわかりませんので、この辺は非常に微妙な形だと思うのです。核武装とも言いかねますし、そうかといって、いざという場合には、つまり核戦力になり得るというふうなもの。だけれども、自衛隊が持ち込もうとしているホークとかボマークというミサイルというふうなものは、初めから核兵器を使うことを目的として作ったミサイルであって、これに通常弾頭をつけるからデュアルパーパスといわれますけれども、しかし、これは一種の裏口から入る方法であって、実質上はそういう形は、日本が核武装を進めるとすれば、唯一の道というのはそういう形で進むんだろうというふうに考えるわけです。
  45. 永岡光治

    ○永岡光治君 委員長委員長
  46. 小林英三

    委員長小林英三君) あとの時間が限りがありますから簡単に願います。
  47. 永岡光治

    ○永岡光治君 簡単に。非常に貴重な御意見を聞いたわけですが、結局ICBM、アトラスと、こういうふうな兵器を使う段階になりますと、これは防衛じゃなくて、むしろこれは全滅に近いものになるのだから、ほんとうの意味の防衛にならないのだ。そこで、侵略があった際には、国民総抵抗と申しますか、そういうようなやはり防衛を考えなければならない、こういう意見です。もっともだとうなずけるのですが、そこで、それを全国民が理解するには、しかし、そうであっても、その際に、かりにそういう事態、侵略という場合に、普通の簡単な兵器で入ってくればいいけれども、どんと爆弾を落としてくるような侵略を行なわれた際に一体どうするのだという心配があるので、その際にやはりそういう大きな武器、壊滅的な武器を使わせないような運動がここで起こらなければならないのではなかろうか。そこで、ちょっと軍備全廃といいましょうか、縮小という問題が大きく取り上げられなければならないと思うのですが、そういう意味についてのあなたの、日本の場合は一億総抵抗ということに、武力なき総抵抗ということになるのですが、そういう構想をどういうように考えておられるのか。それから二番目としては、そういう際における、従って、それを方向にする際における今日のような自衛隊、この持つ使命は一体何なのか、どういう使命を持つのか、あり方としては一体どうなのかということに発展してくるわけです。そういう点について一つお答えいただきたいと思います。
  48. 渡辺誠毅

    公述人(渡辺誠毅君) 日本側が攻撃された場合のいろいろな抵抗のあり方というものは、非常に不幸な場合であって、そういうことがあってはならないわけですが、そのためにはもちろん、いわゆる狭い意味での防衛政策というものだけで問題は解決するわけじゃなしに、ふだんから、たとえば向こう側が日本を仮想敵国としている中ソ同盟条約とかいうもの、それからこちらが向こうを相手にしている日米安保条約とか、そういうものを将来両方とも解消していくように外交上の努力とか、あるいはアジア地域を中心とする一つの非核武装地帯的な考え方、あるいはここからのある程度の兵力の引き離しとか、そういうふうなことが——これはもちろん局地的な軍縮というのは、実際には全面軍縮よりはむずかしいと思うのですけれども、しかし、やはりやむを得なければ、全面的な軍縮というものがなかなかできないのであれば、局地的にでもそういうふうな措置を非常に危険なところにかぶしていくというふうな努力、あるいはまあ貿易を非常に進めるとか、交流を進めるとか、そういうふうないろいろなことを通じて、ぼかっとさっき言われたものが落ちるような形のものを防ぐ道というのは、私は防衛以外のものにより多くそういう目的を達し得る道があるのだと思う。実際に起きた場合にはどうするかということですけれども、それはまあ相手の一発じゃなしに、全体として持っている企図が何であるかということにいろいろ関連してくると思いますが、やはり私はそれに対して、まあ戦争を非常に不幸な破滅戦争に拡大するようなことをしないで、私個人としては、一時占領されたりするようなことがあっても、絶対にとにかくわれわれ民族の生活様式と、それからわれわれの自由というふうなものを守るために、一つの大きな抵抗運動というものがあれば、不合理なものはいつかは必ず、それは十年ぐらいかかるかもしれませんけれども、そういうものは排除できるのじゃないかと思うのです。そのために一番必要なのは、やはり国を愛するという、その愛国心といいますか、それからやっぱり侵されたものに対してはそれを守るというふうな抵抗精神、そういうものが一番大事なのであって、戦時中には鬼畜米英というようなことで非常に強い人が、実際には占領されてみますと、最もアメリカ的になってしまうというふうな、そういうふうな精神のあり方からは、なかなかそういう今申し上げたような自衛というものはできないのであると、そのためにはやはり日本人がそういう自分の国の社会制度なり伝統なり、それからそういうやっぱりいい国を作るということが前提にならざるを得ないのじゃないかと思う。今の御質問は……。
  49. 永岡光治

    ○永岡光治君 自衛隊の使命ですね、そういう段階における、あなたのような構想下における自衛隊の使命というのは一体何なのか、なくせというのか、それともどうなのか、あるとすればどういう使命……。
  50. 渡辺誠毅

    公述人(渡辺誠毅君) それは私はないのが一番いいと思うのですけれども、まあそういうふうな万一の場合の国境警備、沿岸警備とか、そういうふうな意味に限定してふだんある程度の自衛力を持つということと、それからそういう抵抗闘争が起こるような場合には、必要な場合には何かゲリラ闘争みたいなものの中核になるというふうなことだろうと思う。それ以外のことですと、実際にはいろいろやると、必ずといいますか、やっぱり日本国民のほんとうの防衛の目的というものは、それ以外の方法では達せられないような気がするのです。
  51. 島清

    ○島清君 ちょっと一言……。
  52. 小林英三

    委員長小林英三君) ちょっと午後の公述人の時間の関係がありますので……。
  53. 島清

    ○島清君 簡単に、簡単に一言だけ
  54. 小林英三

    委員長小林英三君) じゃ簡単に願います。
  55. 島清

    ○島清君 簡単にやります。こういうことをお尋ねをするのはどうかと思いますけれども、新安保の政府側の説明を聞いていますというと、アメリカはいかにも日本の安全と極東の平和のためにやってくる神の使徒みたように説明をしている。ところが、私たちはそうではないと思っておりますが……。そこで、一体アメリカの在日米軍の指揮官の権能というものが、アメリカの国内におりまする場合と、在日しておる場合に権能の相違があるかどうか。兵士の待遇がどうであるか、そういうところまでお調べでございまするならば、御説明いただければ大へんしあわせだと思います。と申し上げますのは、私は、アメリカにおりますときと同様なアメリカ軍の待遇ではないと思います。おそらく日本に来ておりまするアメリカ軍は戦時待遇に近いような、そういう待遇を受けておるのではないかと思うのであります。そうであるといたしますれば、アメリカはいつでもそれは戦争するぞというような気がまえで来ておるわけでございますので、神の使徒ではないということが言い得ると思います。そういう意味において、もしお調べでございますればお聞かせいただきたいと思います。
  56. 渡辺誠毅

    公述人(渡辺誠毅君) 今の御質問には完全にとてもお答えできないと思うのですが、アメリカが神の使徒でないということは私全く同感であります。それはもちろんアメリカの防衛のために、アメリカの世界侵略の一環としておるわけであって、何も日本を守ってやるということだけが問題じゃない。日本を守ってやるということであれは、随時駐留軍とか、そういう形もとれますし、あるいは周辺地域あるいは極東とかいう問題なしに、日本だけを守るということで差しつかえないと思うのです。で、日米安保条約の基本的な問題というのは、やはりここに基地を持つという、基地をここに持っていくということだと思うのです。日本の防衛とかなんとか、日本側でいろいろ言っていますけれども、実際には日本の防衛という要素は、つまり日本と中国なりソビエトとの間のいろいろな危険な状態というものは、それ自体としてはほとんどないので、私は日本が仮想敵国を持たざるを得ないというのは、やはり基地を持ったからという関係だと思うのです。さっきの給与の問題で、日本にいる米軍が特別の給与を受けているということについては、よく存じませんけれども、そのことから直ちに、給与が高いからといって今直ちに戦争をする準備をしているということにはあるいはならないのであって、それは外地に勤務している場合の給与は高いというものじゃないかと思います。どうもあまり要領を得ませんけれども……。
  57. 小林英三

    委員長小林英三君) どうも大へんありがとうございました。  午後の公聴会は、午後からおいでになる公述人の御都合もありますので一時四十分から開会いたします。  暫時休憩いたします。    午後一時四分休憩    —————・—————    午後二時九分開会
  58. 小林英三

    委員長小林英三君) これより公聴会を再開いたします。  最初に、ここに御出席下さいました公述人の方に、一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多忙のところ御出席いただきまして、大へんありがとうございました。本委員会といたしましては、去る三月四日以来、昭和三十五年度の総予算に関しまして、連日慎重に審議を続けて参ったわけですが、本日も朝来、学識経験者である公述人の諸氏から、非常に御公述を伺って参りましたが、ただいま御出席の各位からも、忌憚のない御意見を拝聴することができまするならば、本委員会といたしまして、まことに幸いに存じます。  それでは、これから公述に入りまするが、議事進行の便宜上、お手元に配付してありまする公述人名簿の順序に、各自三十分程度で御意見をお述べいただきまして、お一人ごと質疑を行なうごとにいたします。  まず佐藤公述人にお願いいたします。
  59. 佐藤徳

    公述人佐藤徳君) 私、ただいま御紹介を受けました全労会議の福対委員佐藤でございます。本日は、三十五年度予算の中で、社会保障関係について意見を述べさせていただきます機会を作っていただきまして、皆様に厚くお礼を申し上げます。  三十五年度予算の社会保障関係費としまして、私が大蔵省の方から送っていただきました資料によりますと、社会保障関係費としましては、生活保護、社会福祉、社会保険、国民年金、失業対策、結核対策という六項目になっておりますけれども、これを社会福祉という関係から考えまして、このほかに住宅対策費、これは全部でなく、第二種公営住宅の分を加えまして、またもう一つ環境衛生費、この二つを加えていきたいと思います。  この予算は、もう御存じでしょうけれども、三十五年度、生活保護費は四百六十七億で十三億四千万円の増になっています。福祉費は六億増、それから社会保険費で三百六十億で五十億円増、国民年金の費用で二百八十九億円で百七十八億六千万円の増、失業対策費で四百十七億で十八億の増、結核対策費は百七十四億円で九億五千万円の増、住宅対策費は、第二種住宅だけでありますけれども、これが六十二億で増減なし、それから環境衛生対策費としましては二寸七億円で四億四千万円ですかの増になっておりまして、これを八つ全部を合わせますと、千九百四億円、これが三十五年度予算総額のうちの約二一%になっております。そうして予算の前年度からの増は二百八十億ということですから、三十五年度予算は、前年度に比べまして相当に社会保障関係費がふえているということでございますが、このことは、ほかの一般商業新聞等にも指摘されておりますけれども、その中身は、大体国民年金で百七十八億、国民健康保険が四十五億五千万円の自然増ということになっておりまして、このほかに失業保険が十八億、生活保護関係が十三億ばかり、これを全部加えますと二百五十四億五千万円になるので、残るものは二百八十億から差し引いて、二十五億五千万円ぐらいしかないわけです。  それで、現在非常に低所得者層というものがふえておりまして、政府も、これが対策を何とか立てなければならぬといっておられるわけですけれども、この中身は、以上の通りであって、それに対する対策というものは、ほとんどみられないのじゃないかというふうに考えるわけです。  総括的に申しまして、三十五年度予算の社会保障関係費は、以上のような形になっておりますけれども、これが三十五年度から三十六年度には、どうなるだろうかというふうにちょっと考えてみたのですが、そうすると、非常に問題があるように私は思います。  それは今度の三十五年度予算が、先ほど申し上げましたように、国保と国年の自然増ということですけれども、これが三十六年になりますと、やはりこの自然増が非常にふえてくる。御存じのように、国民年金の方は、三十四年から三十五年にふえましたのが、福祉年金の十カ月給付ということがあったから、ふえたわけですが、三十六年は十カ月でなくて、これが一年まるまるになるわけですから、その増が、大体聞きますと、国年で二カ月ふえますので、五十億の自然増が出るだろうと、こういうふうに言っております。それから国民保険の方でございますけれども、これも三十六年度は、だんだんと、そうやられていくわけですから、全部じゃない。しかし三十六年になりますというと、四千四百万人まるまるが国民健康保険に入りまして、それの給付、医療費の給付に対する国庫補助というものが重なってきますので、これが聞きますと大体六十億、そうすると、計百十億というものが、三十六年度は自然増、これは国年と国保だけで百十億という自然増が出てくるということになってくるわけです。  そうすると、このほかに一般予算において、いろいろと三十六年度はまたふえる。第二次の防衛計画、六カ年の計画とか、それから治山治水の計画、軍人軍属の恩給等の自然増、こういうものを見ますと、三十五年より三十六年の方になると、ますます社会保障費の中に、自然増が大きくなってきて、今申し上げましたような一般的な予算の中にも自然増がありますので、三十六年の社会保障費というものは、非常に窮屈になってくるのじゃないかというふうに考えるわけです。  そういうことを考えますと、今年度の社会保障費の予算の中身というものは、よほど検討して考えていかないというと困ってくるのじゃないか。つまり今度の社会保障費の予算の中身を見ますというと、社会福祉費の中で、非常に気になるような予算がたくさん出ているように思うわけです。たとえば心配事の相談所だとか、母子の福祉センターとか、子供の国とか、小さい予算がたくさんぼちぼち出ていますが、こういう予算が、どういう理由で出てきたのか。いろいろそれぞれの理由がございましょうけれども、何か総花的であって、一つも計画性がない。こういうことよりも、社会保障福祉の中でもっと一貫性のある、一つの計画性のある予算を作られて、そうして重点的に使われた方がいいのじゃないかというふうに考えるわけです。われわれとしては、そういった小さなものをぼちぼち作って、何か圧力団体に、そういった形でとらわれたような形が出ている予算というものは、この少ない福祉費の中で、非常に問題があるのじゃないか、もっと重点的に考えられて、役に立つところに使ってもらいたいというふうに考えるわけです。  あと、項目にいろいろ入るわけですけれども、私たちは、別に社会保障の専門家でも何でもありません。ただ労働組合の立場から、気のついた点を述べさせていただきたいと思います。  生活保護費の問題ですけれども、三十五年度で十三億円あまりの増となっていますが、これは保護基準の三%の引き上げ、一日について、生活保護費が今度は二百七十五円に、これだけ増ということになっていますが、これと出産扶助、それから葬祭扶助、この基準が改善になるということでございますけれども、東京都の標準の五人世帯で現行が九千三百四十六円ということになっておりまして、これが二百七十五円ふえまして今度は九千六百二十一円と、こういうふうになるわけですが、エンゲル系数は調べましたところが、前は六四・五%というのが今度は六四%になるので、〇・五%だけ改善されるということですが、大体生活保護の基準が、現在の一般勤労者の収入の三分の一よりちょっと多いくらいということになってますが、今の一般勤労者の生活も食べるに一ぱいというのが状況なんで、そういう額で幾ら生活保護を受ける人でもなかなかやっていけないのじゃないか。特に〇・五%ぐらいのエンゲル系数の改善ということでは、ほとんどお話にならないじゃないかというふうに考えるわけであります。しかも、今年度においてはいろいろな新聞がその通り取り上げておりますけれども、インフレ予算じゃないか、いろいろな物価の騰貴がだんだん起こってくるんじゃないかといわれるようなときに、三%の値上げではどうにもならないじゃないか。まあ生活保護法の理念でありますところの健康で文化的な最低限度の生活ということであるならば、もう少し親心のある改正をしていただきたいというふうに考えております。  その次に、社会福祉の関係でございますけれども、これは三十五年度予算はまあ前年度より六億五千万円の増となっておりますが、この中で目ぼしいものとしては保育児童のおやつ代、児童収容施設の食事を、まあ乳児で一日一円四十銭上げたり、それから幼児の方で三円四十銭上げたり、そのほか保育所にいる子供たちにおやつ代として一日三円のおやつ代を新設したということ、また原爆被害者の手当金、これは年収二十万円以下の者で、入院患者について五カ月間、通院患者二カ月間、各二千円の手当を出すということであります。それから対象人員は、入院で四百五十九人ですし、通院で九百十七人、全被害者の、二十九万二千人といわれているのですが、それの五%というので、非常にお粗末なんですが、それでも改善としてけっこうなことだと思います。それからあとは政府職員の待遇改善、これもまあけっこうなことだと思います。ただ、先ほど申し上げましたように、低所得者対策費というのが多少ですけれども減らされております。これはやはり低所得対策というものを大きく政府も取り上げているようですから、もっと増額していただきたいと、かように思うわけです。  それから、私として現在最も考えてやっていただきたいと思いますのは、政府でも自民党でも特に取り上げられていました精薄児に対する問題ですけれども、これは取り上げられたというだけで、お金が非常に少なくて、ほとんど問題にならぬじゃないか。ただ、取り上げたから載っけたというような感じがするので、これに対しましては時代の要請にもなっておりますので、もっと予算を入れて本格的に取り組んでいただきたいというふうに考えます。それからまた、働く者の立場から特にお願いをしたいのは、保育園、これをもっとふやして整備してやっていただきたい。ことに最近では夜間働く婦人がたくさんできまして、そうして子供を預けるところがなくて非常に困っておりますので、夜間保育園を開設するということを考えてもらいたい。要するにこの費用は大体社会福祉費というふうな中に入るわけですけれども、先ほど申し上げたようにいろいろな、子供の国とか、そういったぼちぼちした費用に使うのじゃなくて、もっとほんとうに重要なところに集めて使っていただきたいというふうに考えます。それからもう一つこの際お願いをしておきたいのは、よく動けない老人だとか、それから身体障害者がございますけれども、こういう人が収容されておるところを私も二、三見学に参りましたけれども、木造でございまして、非常に老朽しておるところが多いわけでございますが、二、三年前も問題になりましたように、火事の場合に焼け死ぬということがおこっております。伊東の国立保養所に参りましたけれども、あそこにも百人近いほとんど動けない、一人に一人がつかなければ動けないというような非常に身体障害者がおりますけれども、あそこは木造でありまして、病院の方も一ぺん火事が起こったらどうしようと、非常に心配しております。ああいった老人とか動けない人を収容している場所は、早急にぜひ不燃化をしてもらいたいと思います。要するに、予算そのものが非常に少ないわけでございますけれども、何度も申し上げますように、ぼちぼちと小さな思いつきみたいな予算になっておりますので、その点はぜひ国会において直していただいて、もっと重点的な使い方をしていただきたいと思います。  次に、社会保険関係ですけれども、第一に健康保険のことを申し上げますけれども、私たちは特に労働者としまして、健康保険には非常に関心を持っておるわけですが、今回、政府が前年度十億円出しておった補助金を五億円にしてしまったということに対しては、私たちは納得いかないわけです。それからもう一つ問題としましては、健康保険の保険料率を今度は千分の二を引き下げようとしておる。保険料の引き下げをしようとしておりますけれども、これに対しても私たちは反対の立場をとっております。これは全労のみでなく、総評においても健康保険料の引き下げには反対という態度でございます。これは健康保険料を引き下げれば、われわれの負担も軽くなるわけですけれども、そういうことではなくて、引き下げそのものには反対しておるのではないのでありますけれども、それよりもまず保険給付の内容を向上してもらいたいというのが趣旨でございます。政府は保険財政が黒字になっている、二百十億程度の黒字ができているんだということで十億の国庫補助を五億に減らす、あるいは今度は厚生年金保険の保険料を千分の五上げるというそれとの見合いにおいて、健康保険の料率を千分の二下げるということをやろうとしており、そういう形で予算を組んでおりますけれども、私たちはそういうことには反対だという態度でございます。これは、私たちは、健康保険、国民健康保険その他だんだんできまして、いよいよ三十五年度の終わりには国民皆保険が完成するというときにきておりまして、今保険の形だけはできますけれども、これから内容を充実したり、制度を合理化したり、あるいは相互保険の調整をやっておかなければならぬという大事なときなので、そういった黒字が出たから料率を引き下げる、赤字が出たから引き上げる、赤字が出たから保険の制度を直すというような、そういう場当り的な政策をとるべき段階ではなくて、もっと基本的に国民医療の中から健康保険、そういった保険全体の調整とか、そういったものをいろいろ考えて、もっと計画的にやっていく段階なので、今そんな思いつきみたいなことをやっていただくべきときではないというふうに考えておるわけです。特に現行の健康保険というものは、創設以来非常に赤字が出まして、そのときその対策としまして、いろいろ政府は、対策ではないんだ、これは制度の合理化なのだというふうにいいましたけれども、すべての人はこれは事実として知っておるわけですけれども、莫大な赤字が出まして、その赤字対策の一つとして国庫補助を新設しましたし、それから私たちもだいぶん反対はしていましたのですけれども、いろいろと改悪が行なわれたわけなんです。保険料の患者の一部負担、患者が病院に行くときには今まで五十円でよかったのが百円出さなければ見てもらえないということになったり、それから継続診療の制限の強化、今までは半年以上保険に入っておりましたならば、病気して首になっても続けて保険の恩恵に浴したというのが、今度は一年以上保険に入っていないと、首になると同時に医療も打ち切られてしまうというような改悪が行なわれたわけなんですが、それも当時はわれわれはいろいろ反対いたしましたけれども、莫大な赤字があるということで、やむを得ずそういうことになったわけです。今度は黒字ができたからといって国庫補助を減らそうということは、われわれとしては何とも納得いかないわけでございます。  それから、私たちの健康保険に対する考え方といたしましては、これは保険だ、保険だからわれわれも負担していかなければならぬ、負担もしないで、ただ全部国庫補助でやれというような無理なことは言っておりませんので、保険である以上われわれも負担しよう、われわれも出すのだから、保険の内容を一歩々々よくしてもらいたいというような考えに立っているわけです。従って、今度は千分の二を減らすということにもわれわれ反対しまして、千分の二減らさぬでもいいから、今まで悪くなっている一部負担であるとか、あるいは今言った継続診療の制限の強化、そういうものはやめてもらいたい。それからさらに進みまして、国民健康保険においても家族の給付が七割負担ということも実現しておるわけでございますから、健康保険においても家族の給付については七割を給付してもらうというふうに改正していってもらいたいというふうに考えておるわけです。それから、これに関連して、私たちここで率直に申し上げまして、非常に残念だと思い、筋がおかしいじゃないかと思いますことは、健康保険、これは政府管掌の健康保険でございますが、これに対する、先ほど申し上げたように、十億円の補助を五億円に減らしておりますが、一方、健康保険組合に対しましては従来通り給付補助費の一億円をそのまま残しております。そればかりじゃなくて、事務費補助として多少増額しておるということでございます。政府管掌の健康保険の被保険者は、一事業所当たり二十二、三人しかいない零細な企業の労働者でございますが、そういう弱い立場にある政府管掌の健康保険の被保険者に対する国庫補助、これを半減しておきながら、片一方の健康保険組合というのは、有力な会社、企業が組織している組合でございますが、それに対しては依然として一億円の補助を給付補助ですから出しておる。それから事務費も増額しておるということは、何とも納得いかないことでございます。そればかりでなくて、今度は国民健康保険連合会に対しても一億円の補助を新設している。まだおかしいのは、社会保障費に入れるのはどうかと思いますけれども、医療金融公庫、これに対して十億円出しているばかりではなくて、大蔵省の積立金の中から、われわれがもらいたいと思っていた百五億円のうちから十億円ここに渡しているというような、非常に筋の通らないことをやっていることに対しては、私たちとしてはどうも、新聞によく書いてありますけれども、派閥とそれから圧力団体に食い荒された予算だということをよく新聞に書いておりまして、私は必ずしもそういうふうに考えないわけですけれども、わずかな社会保障費の中でそういうことが行なわれているということは、われわれとして何とも納得のいかない点でございます。  次に国民健康保険のことでございますけれども、これは三十五年度において皆保険が完成するということで、相当多額の費用を計上しておりますけれども、横浜とか名古屋、大阪、神戸などの大都市は、東京と同様、適用者には非常に低所得者が多い、圧倒的に多いわけなんですが、そして東京の場合ですと、世帯主には七割給付というふうになり、それから給付期間も転帰までというふうにしておりますので、ほかの都市においてもこういう傾向が出てくると思いますが、それにしても現在の二割五分の国庫負担で、はたして運営ができるであろうかというふうに考えるわけです。東京の場合、東京都の国民健康保険課に聞いてみたのですが、大体平均して一人保険料は年三千六百円ということで、最高は五万円で最低は六百円、平均が今申し上げたように三千六百円というのでございますけれども、大都会においては普通の勤労者は固定収入のあるちゃんとした、ちゃんとしたというか、固定収入のある労働者は大体健康保険なり組合の保険に入っているわけですから、それから漏れこぼれたんというのは非常に低所得者ですが、それから年三千六百円ずっとっていくということもなかなかむずかしい話だろうと思うわけです。それから医療に対する補助の算定の基礎になっている一人の医療費、一人の医療が幾らかかるかという計算の基礎は幾らであるかと聞いてみましたところが、二千二百十七円、一人一年に国民健康保険でどれだけかかるかということで計算の基礎にしている医療費というのが二千二百十七円、ところが健康保険の家族と比べてみるわけですが、家族の一人の療養費は幾らかというと、三千二百円ぐらいだということです。これは厚生省の健康保険課に聞いてみたのですが、そういうわけです。そうすると一千円の開きがあるわけですが、同じ国民で一千円の開きを見ているわけですが、はたしてそういうことでいいのかどうか、いいのかどうかというのは、それでできるかどうかということなんですが、先ほど申し上げましたように七割負担、世帯主に対して七割負担ということになれば、やはり受診率もふえてくるわけなんで、どうもこういう計算で、はたして国民健康保険が順調に運営できるものかどうかという点について非常に問題があるだろうと思いますので、こういうものに対して何らかの措置を考えておかなければいけないのじゃないかというふうに考えます。東京の場合を東京都の国民健康保険課に聞いてみたのですが、東京都の場合は一人の医療費はどのくらい考えているのかといいますと、これはやはり三千二百円を考え計算しているそうです。そうすると、国が考えている二千二百十七円というのとは非常に違っておりますので、この点問題ではないかというふうに考えるわけです。  次に、厚生年金保険関係ですが、これは今度三十五年度予算で厚生年金保険料の料率を千分の五引き上げようとしているわけですが、千分の五引き上げに対して、事業主なんか相当反対もあるだろうということで、先ほど申し上げたように、はっきりいえば、それとの見合いで健康保険料を千分の二下げるということを考えているように考えられるわけです。ここで私たちは厚生年金保険、労働者の方から考えまして、老後にはいろいろ不安がございますから、厚生年金保険をちゃんとしてもらいたい、りっぱなものを作ってもらいたい。それには今の標準報酬の最高額の一万八千円を少なくとも三万六千円に上げてもらいたい、定額部分をもう少し引き上げてもらいたい、こういうことを主張しておりまして、そのためには、これはわれわれの立場ですけれども、先ほど申し上げたような考え方から、保険なんだから、また自分たちの老後を守るためなんだから、多少の負担は自分たちで出そうという考え方に立っておりますから、保険料の多少の引き上げもやむを得ないのじゃないか、よくなる限りはやむを得ないのじゃないかとわれわれとしては考えておるわけです。  ここでわれわれとしてどうもふに落ちないことは、厚生年金の積立金の問題なんです。厚生年金の積立金は三十五年度で四千三百六十億円になる、また今後毎年八百億円ずつふえていくということでございますが、この積立金が現在全部大蔵省の資金運用部に預託されておりまして、これを郵便貯金と一緒にして、きわめて低位な利子で運用されておるということです。これもちょっと調べてみたのですが、平均して今の利回り率で五分九厘八毛というふうに聞いております。ところが、一方同じ性格を持っておりまするところの各種共済組合の積立金は、自主的な運用が行なわれておりまして、これが有利に運用されておる。その利回りは最低で今度は六分九厘二毛、高いところでは七分三厘一毛にも回しているということです。そこで、われわれは、郵便貯金のお金というのは五分五厘、これは預ける人がそれを承知で預けておりますから、それだけのことをやって返せばそれでいいわけなんですが、厚生年金の積立金はそうじゃなくて、零細な労働者から、また、零細ばかりじゃないと思うのですが、あらゆる労働者、事業主の方からこれは強制的に取り立てて、そしてこれを積み立てているわけなんで、政府としてはこれをできるだけ有利に回して、——もちろん安全性ということは考えなければなりませんけれども、できるだけこれを有利に回しまして、そしてそれを事業主なり労働者なりに還元する。還元というと語弊がありますけれども、今申し上げたような保険の料率というものをできるだけ安くしてやる、それから給付をよくしてやる、ということを考えなければならない義務を持っておると思うのですが、今申し上げたように、郵便貯金と同じように運用されて、きわめて低率に運用されておりますために、非常な不利をわれわれ初め事業主もこうむっておるということについては、われわれとして納得いかない。今度の料率引き上げについても、そういう点を一つ大いに究明していただきたいと思うわけです。そして、これは聞いたわけなんですが、これも私は数学者じゃないですからわからないのですけれども、厚生年金の積立金を一分だけ今より有利に運用するならば、保険料率の一割に影響してくるというふうにいわれておるわけであります。そうするならば、われわれとしては、保険料率の引き上げのたびにこういう問題が起こるわけなんですが、ここらで国会としても厚生年金の積立金の取り扱いに関しては大いに研究していただきたい。そしてできるだけこれを有利に運用して、それを労働者の保険料の引き下げに使っていただくなり、それから厚生年金の制度の改善に回すようにするのが筋だと思うわけです。  それから、もう一つ私たち積立金に関して申し上げたいことは、四千三百六十億円から積立金があるわけなんですが、その中で労働者の福祉に還元されるものが非常に少ない。これは元来厚生年金の積立金なんですから、厚生年金にふさわしいような使い方をしてもらいたい。それには労働者とか、労働者まで限らなくてもいいと思うのですが、福祉的なものに使う、国民福祉に回してもらいたいというふうに考えるわけなんですが、今年度においては昨年度よりはふえておりますけれども、百五億円。これが百十五億になったのですが、その中の十億円というものは医療金融公庫の方に持っていかれてしまった。これを持っていくについて被保険者は何らの相談も受けていない。持っていかれてしまって百五億円しかないわけなんですが、この中身も、よく調べてみますと、病院その他に使うのが圧倒的に多いわけですが、これを一つ百五億円の中身を審議される場合にも、これは労働者の福祉に還元するような形で考えていただきたい。  今まで私たちは、社会保険審議会あたりでよく申し上げておるのですけれども、今申し上げた労働者に対する還元融資の百五億円の問題についても、われわれは一つもしゃべる場所がないわけで、この百五億円がきまりますと、あの厚生省の中で、厚生年金保険課あたりの所でも、いろいろ陳情者や何かが大ぜい来てその中できまっていく。そうしてわれわれは何も言う場所がない。だから、従ってわれわれはどうしても、これは社会保険市議会の中における厚生年金部会の中でも相当大きな額なんで、この額について、社会保険審議会の厚生年金部会には、労働者も出ておりますし、事業主も出ております。そういう厚生年金のお金を出している人たちがおるわけですから、そういう人たちがそこで発言して、いろいろな意見を述べる機会を与えてもらいたい、ということを再々申し上げておるわけです。  それにもかかわらず、この百五億円に対しても、今までの慣例でいきますと、これは厚生省の厚生年金保険課あたりできめる。そこでいろいろな人がやってきて、幾ら融資してくれというようなことで行なわれるということで、この点についても私たちは非常に不満を持っているわけです。今の厚生年金保険の積立金につきましては、われわれとしては、今申し上げたように、積立金の自主的運用をして、もっと有利に回すようにしたいということと、それから積立金の中の相当大幅なものを、労働福祉へ還元融資してもらいたいということが希望でございます。  ついでながら、今申し上げたような医療金融公庫に対する問題を申し上げておきたいと思いますけれども、これは十億円のほかに大蔵省の資金運用部から二十億円、計三十億円で出発するようになっているようですが、これに対しましては、新聞でいろいろなことを書いておりますけれども、私たちといたしましては、これはぜひ日本の医療制度の前進という形で考えて使っていただきたい。これを単なるお医者さんに対する金融機関、中小企業の金融機関みたいな形で使われては非常に困るということでございます。というのは、先ほど申し上げましたように、国民皆保険がようやくできようとしておりまして、今、日本の医療制度がどうあるべきかということは、非常な曲りかどに来ていると思うわけですから、こういう際に三十億という金融公庫ができて、この中身をどう使っていくかということは、やはり日本の医療のあり方に重大な問題を起こしてくるのではないかと思うわけです。従ってこういうものは日本の医療をよくする方向で使っていただきたい。たとえば無医村の解消であるとか、あるいは、特に先ほどちょっと申し上げましたように、日本には木造の病院が非常に多い。東京あたりのところでも、私はよくわかりませんけれども、鉄筋というのは二三%ぐらいしかないといわれているので、ほとんど木造の非常に悪い病院が多いわけです。そこでこの前横須賀で衣笠病院の問題があったように、小さい子供とか病人は動けないわけですから、一ぺん火事があると非常な騒ぎが起こる。そういう病院がうじゃうじゃしているわけですから、そういう病院を不燃化する、これは私的病院のことですが、不燃化することに補助してやるというような形で、たとえば今申し上げたように、そういう形で一つの計画を立てられまして、病院の不燃化の五年計画なら五年計画、それからそういう一つ日本の医療制度前進の一つの計画で、この金融公庫の金を使っていくならば非常に生きてくると思うのです。それがともかく政治的な形で出たために、これが誤った方向に使われますと、今、日本の医療をどうしようかというときになっておりますので、非常に混乱がかえって起こるんじゃないか、悪い結果が起こるんじゃないかというふうに考えます。本来ならば、医療制度調査会等が出発しようとしておりますので、そこで一つのあり方が決定されて、その線に沿ってこういったものが使われるならば非常に幸いだと思うのですが、そういうことではなくしてできてしまったわけですけれども、それにしても、これが適正に運営されるように国会においても十分御審議をいただきたい、と私たちは考えておるわけです。  それから次に日雇い保健の問題なんですが、これは今国会に国庫負担の二割五分を三割に今度引き上げる法律改正が出ておりまして、そういう予算になっておりますが、よく見ますと、三十四年度から日雇い健保の赤字が出ることをちゃんと予想して、それを大蔵省の借入金でまかなっていく、三十四年度の借入金が二億七千幾らですか、ちゃんと予算に組んでありまして今度は三十五年度になりますと、それがまたそれに足した五億四千万幾らですか、というものを借入金でやっていく。つまり、予算のうちで最初から赤字がはっきりわかっているのに、それを借入金という形で予算の中に組んでいる。そういう予算は非常に珍しい予算だと思うのですが、こういう矛盾はどこから出てきたか、厚生省あたりも非常に骨を折って作ったからそういう形になったとも思うわけですが、もっとはっきりと、要るものならば、国庫負担をふやすという形でやっていただきたいと思うわけです。日雇い労務者からは待機期間の二カ月をやめてもらいたいということと、それから療養期間を現行の一年からもっと延ばしてもらいたいという切実な要求が出ておりますが、今申し上げたような日雇い健保は二割を三割にしても、三割をあるいは四割にしても赤字が出るのじゃないかというふうにいわれるわけなんです。これは日雇い労務者という人たちの給与が低いし、職業に安定性がない、従って保険料もたくさん取れない。厚生白書にもありますように、貧乏人は貧乏人であるほど病気をよけいするということからいって、保険として成り立つ性格を持っているかどうかという点について、やはり検討してみなければならないんじゃないか。今、政府が言われておりますような、低所得者対策の一環として考えるような要素があるんじゃないか、というふうに私は考えるわけです。これが保険として、つまり本人が出す保険料、事業主が出す保険料、というのでまかなっていくというような形で、これが運用してやっていける基盤がないんじゃないかというふうに考えますので、これは別個に低所得者対策というような考え方を加味して、大幅な国庫負担を入れていくとか、何らかの抜本的な考え方をしていかない限り、日雇い健保はあくまで赤字が出まして、先ほど申し上げたように、矛盾した予算を組んでいかなければならない形になってくるんじゃないか、とかように思うわけなんです。  次に失業対策費の問題ですが、今度ニコヨンさんの賃金の日額を一日について二十八円を引き上げて三百三十四円にした。また夏季と年末の手当を一日ふやして十四日分差し上げるようにしたということは、これは非常に明るいニュースで、明るい前進の政策だと思っております。炭鉱の離職者援護対策事業補助費というのが今度六億円あまり増額になっておりますが、これは何人分だということで聞きましたら、七千五百人の炭鉱労務者の離職者を予定している、こういうことだったのですが、首切りをそのように予定しておるというようなことでは、これは非常に大きな問題で、首切りを片方でやって、片方で失対で拾っていこうというような考え方は、これは労働組合の立場としてはどうも納得いかないわけでございます。  それから大体時間もないようですから結論的に申し上げたいと思うですが、社会保障費というものの中でいろいろな項目がございまして、いろいろと予算を計上されておりますけれども、政府はこれで何をねらっておるのだろうかと考えるわけですが、これらの費用で国民に最小限度の生活を保障していこう、これだけでしていこうというふうな考えがあったら、これはとんでもない間違いじゃないかと私たちは考えるわけです。政府は三十五年度で百六十万以上の生活保護の適用者を考えておりますが、このほかに厚生白書や何かでも書いてありますように、一千万近いいわゆる低所得者層があるということがいわれております。そうしてこれが賃金格差がだんだんひどくなるし、こういったボーダー・ラインにある貧乏人はだんだんふえておるということも白書で認めております。それがだんだんと下の方に沈澱して固定化してくるようなことも述べられておりますが、そういう問題を社会保障費で解決していこうと思ったって、これは私は幾ら出してもできない、こういうふうに考えるわけです。片方でどんどん首切りが行なわれていれば、失業対策費を幾ら高く積んでも足りなくなりますし、そういうことではだめだ。ところがどうも私たちの受ける感じでは、ちょうど社会保障費をごみためみたいにして、いろいろなかすをそこにほおり込んで処理させる。いろいろな政治は政治としてやっていく、というようなふうにわれわれは感ずるわけですが、そういうことではこれは解決しないのじゃないか、やはり社会保障というものは経済政策、労働政策というものをがっちりやって、その中で初めて社会保障というものが成り立っていくのじゃないかというふうに考えるわけです。だから、今の私たちの受ける感じは、政府のいろいろな政策の失敗とか貧困というものをそのままにしておいて、社会保障でケリをつけていくというような安易な考えの、そういうことじゃないかもしれないけれども、そういうように感じられるようなやり方だろうと思う。たとえば社会保障費の中に低所得者対策費というのがございますが、その中に五億円ばかりがありますが、それは世帯更生費とかいって、世帯に金を貸し付ける、困っておるボーダー・ラインにあります人に貸し付けて再起させるのだということなんですが、その中身は最高で十万円貸してやる、そうしてそれを借りた人が何をやるかというと、それを借りてミシンを買って仕事を始めてみたり、あるいはなべやきうどんを始めてみたり、あるいは夜店を出してみたりするくらいの資金しかないわけですが、そんなことをさしたところでそういう人が生活をずっと続けていけるような社会的な基盤ができておるかといえば、やがてそういう人たちはまた食えなくなってしまうというような社会情勢になっておるわけなんですが、従って社会保障費というものを考える場合に、やはりそれが経済的な活動につながるようなものを考えなきゃいけないのじゃないか、というふうに考えるわけなんで、社会保障費というようなものを考えるときに、もっと政府は計画的にものを考えて、一貫した方針でやっていただきたいわけです。たとえば国民年金とか国民健康保険とか、それからまた結核対策費か、そういうものは前向きの対策なんですが、失業保険だとか生活保護費だとか、社会福祉だとか、そういうものは、ほんとうならよく政治がとられるならだんだんと減ってきそうなものです。生活保護費がだんだんふえて、それから失業対策費がうんとふえるということは、逆を言えば政府の政策の貧困を物語っておるとも言えるわけだと思うのです。現段階においては従ってそういった社会保障費というものを相当増額して、そういった人を救っていかなきゃならないとは思います。それが必要だと思います。しかし同時にもう少しそういうはきだめみたいな所に入る人を防ぐ、抜本的な政策を確立していっていただきたいというのが、われわれ労働者としての願いでございます。まあ政府国民生活にそう足しにもならないような安保の批准なんかにやっきになったりなんかしているよりも、もっと地道に国民の福祉を増進させるためにはどうしたらいいか、ということを一つ真剣になって考えて、その上に立って計画を立てて、これを推進していっていただきたいと思うわけでございます。国会の論議を見ておりましても、私たち新聞を通じて見るのですが、安保論議は非常に盛んでございますけれども、社会保障というようなことについて、ほとんど新聞を見ても載っておりません、論議の中に、そういうことではなくて、こういう社会保障、国民のほんとうに困っている人たちを何とかしていこうという、こういう社会保障の問題についてもっともっと検討していただいて、何らかの方針を出していただくようにお願いしたいと思います。  どうも長いことありがとうございました。(拍手)
  60. 小林英三

    委員長小林英三君) ただいまの公述に対しまして質疑のある方は、順次御発言を願います。   —————————————
  61. 小林英三

    委員長小林英三君) 御発言もなければ、次は安芸公述人にお願いいたします。
  62. 安芸皎一

    公述人(安芸皎一君) 私、安芸でございます。  国土保全につきまして少し考えていることを申し上げたいと思います。とにかく最近非常に災害が多うございます。特に伊勢湾台風そのほか非常に最近多かったのでございますが、そういう経験と申しますか、そういうわれわれが最近経験いたしましたことから、私伺いますと、災害の復旧、さらに国土の保全というものが今年度におきましては最重点の施策としてお取り上げになって、国土保全、災害復旧に対します経費、資金というものが優先して取り上げられていることを承っておりますが、私非常に喜ばしい、何よりのことだと思っておる次第でございます。しかも、承りますと今年度は治山治水緊急措置法ですか、そういうものを拝見いたしまして相当長期の長期計画をお立てになり、そしてこれを実施されるにあたりましても、資金の裏付けがあると申しますか、治水特別会計というような制度を決定なされるということでございますが、私はこれは非常にもっともなことだと思っている次第でございます。私、こういう治山とか治水とかいう問題を計画的にと申しますか、長期計画として計画的に五年なり十年なり何年なりの目途をもってお進めになる、しかも、それを予算の背景をもってお進めになるということは、これは川というものを考えますと、やはり合理的なもっともな道ではないかと思うわけです。と申しますのは、御存じのように川というのは昔から、よく川は生きているとかいわれておりますように、常に何か私ども人間がこれに手をかける、川に手をかけると申しますか、川が一カ所損害を受けたのでそこを直そうと手をかけるといいますか、あるいは川の流れを整理するとか、あるいは上流にダムを作ったり、上流の土地を開いて開墾するということもそうなんでございますが、何かそういう一つの手を打ちますと、川というものは変わってくるわけであります。変貌を見せてくるのでございます。それでございますから、昔からよく川というのを治めていくというのには、やはりある期間というものを考えに置きまして、そうして逐次、常に見ながらわれわれが手を加えたことがどういうふうな結果を来たしたかということを、そういうものを見ながら逐次手を加えていくということが、私最も好ましい行き方じゃないかと思うのでございまして、これは一ぺんものを作ったらそこはそれで十分だということは、なかなか考えられないのじゃないかと思うのでございます。要するに、私、川の災害を防止するというための資金を最も効率的に使っていくということを考えますと、これはやはりある地域、ある場所というものを考えました場合に、常に私たちがしたことがどういうふうな結果を引き起こしたかということを見ながら逐次補強していくという、そういう方法がとられるということが川の性質にとっていいことでございましょうし、また一番限られた資金を最も有効に使っていく道じゃないかと考えるのでございまして、長期の計画と申しますか五年なり十年なりというもので、大体その予算を目途にきめられて、そうしてそれに従って先に進めていくことができるといたしますれば、次にどういうことかが期待されているのでございますから、そういうことを含めまして長期間に完成するという方法をとっていくのが、一番合理的にこういう問題を進めていくことができるもとじゃないかと思っております。それでございますから、私は長期の計画をお持ちになって、そうしてその間の予算といいますか、経費を大体一つの目安を得まして、そうしてそれに従って最後の形を予想しながら手をかけていくという方法がとれれば、これにこした方法はないのじゃないかと思っている次第でございます。  とにかく最近非常に災害が多くなってきております。これはどうも日本だけじゃないようなんでございまして、この間やはりこういう面の問題につきまして、アメリカの事情なんか少し話し合ったことがございますけれども、やはり最近非常にふえている。われわれは実際、日本の川にとってみましても治水、河川工事というのはずいぶん古いことなんでございまして、長いことやつてきているわけなんでございます。特に近年になりまして、私はそれほど少ない費用を投じたのじゃないと思うのでございますけれども、これはどこでもやはりそうのように聞いております。それにもかかわらず、災害がどんどんふえてきているというのはどういうわけか、ということを最近検討し始めてきております。日本でも近ごろよく集中豪雨という言葉さえ出るようになりまして、小さい限られた地域でございますが、そういう点で非常に災害が大きい中小河川というようなことが問題になってきております。しかし、私、これは考えますのに、どうも災害というものがやはり時代とともに変わってきているのじゃないか。災害そのものを私どもはもう一ぺん考え直さなければならぬのじゃないかという気がしているのでございます。それをたとえば昨年の秋の台風十五号で伊勢湾の奥が非常にひどい災害を受けたのでございますが、これの様子を見ましても、もしこれがたとえば十年なり十五年前に、あそこにあれと同じような水害、高潮がもし起きたとした場合に、どういうふうになったのかというのでございますが、たとえば前からあそこに住まっていた人たちの様子を見ますれば、みんな——前というのは、あそこは、大体十七世紀以来の干拓地でございますが、あの干拓地に農業を営んでいた経過というものを見てみますれば、それぞれの農家というのは、大体地盤を高くしておりますし、家を建てる所は少し高くしておりますし、そうしてそのほかに、水屋と申しまして、万一の場合の貯蔵庫を持っておりますし、まあ舟も持っていたわけでございます。そういうことは、要するにたびたび災害を受けたという証拠だと思うのですが、それらが以前なら、以前と申しますのは、まだ経済の規模が小さいと申しますか、生活水準の低いときは、農家は農家なりにいたしましても、あるいは小さい部落、あるいはそういうふうな小さい区域でもって、そういう災害にみな耐えられてきたと思うのでございます。  たとえば、水屋を用意して、そこに、いろいろそういう貯蔵庫を持っていたということは、これは、よく言われておりますように、昔ならば、農家が、ことしの米に、ことしのうちに手をつけるというようなのは、非常に心得違いだということを言われておりましたように、何と申しますか、まだ経済の小さいうちは、そういうふうな災害も、その部落々々なり個人なりで、そういう事態を収拾していたのでございますけれども、それが最近のようになりますと、そういうわけにもいかなくなってきていると思うわけでございます。  特に、中小の河川が問題になっておりますが、先ほどもちょっと触れましたように、集中豪雨といって、近ごろ非常に小さい面積に非常に強い雨が降るのでございます。で、私も何かそういう最近の雨の降り方と申しますか、雨の降り方が変わってきたんじゃないかというようなことが、ちょっと気になりまして、気象の専門の人たちと、いろいろ話し合ったことがあるのでございますけれども、そういうものは、それほど最近の間に降り方が変わったとは思えない、前にもあったのだろうということでございます。私も実は、そう思うのでございまして、たとえばいろいろ災害の記録をよく見ますれば、そういうケースは、危険ということは、十分考えられるのでございます。ただ、先ほど申し上げましたように、こういう干拓地の農家のあり方から考えましても、やはり前には、そういうケースがあったということは十分うなずけるのでございます。  ただ、やはり私は、この災害を受けるところ、まあ一番の災害を受けますケースが多いのは、農家でございますが、農家の生活のあり方というものが、以前と今日とは非常に変わってきているんじゃないか。それでございまするから、こういう災害に対しまする対策と申しますのも、受けるところが、そういうふうな生活自体、これは、今例を農業にとってみますれば、米の価格から、いろいろ生産施設まで大きく国の支持を受けているわけでございますから、こういうものが、安定した暮しができるようにするためには、どうしても災害対策費というものが、今日の段階ではふえてこざるを得なくなってきておるということは当然だろうと思うのでございます。そういうふうに、やはり災害自身が、ずっと変わってきているのじゃないかという感じを受けるのでございます。  たとえば、今申し上げましたように、伊勢湾の台風の結果を見ましても、そういう感じを受けるのでございまして、たとえば、十年前にあの台風が来たら、どんなふうな災害を受けたのだろうかというのでございますが、実は名古屋の周辺で、今度浸水いたしました地域が、名古屋としても一つの大きな工業地帯になっているわけでございますが、あそこの大きな工場、たくさん工場が入ってきておりますが、工場の様子を見ましても、その工場ができましたのは、昭和二十五、六年を契機として、戦後の日本経済の復興に関連いたしまして、関連といいますか、むしろ私は、今日の日本経済の復興の基礎的なものは、ああいう名古屋周辺あたりの工場地帯が受け持った役割というものは、非常に大きかったと思うのでございますが、そういうふうに、工場ができたのは、つい最近なのでございます。しかも、たとえばあそこに工場を造りましたときに、造りましたといいますか、工場がたくさんふえて参りました要因というものを一つ見ますれば、ちょうどあの地区が、ほかのたとえば東京とか大阪、関西地区に比べますと、非常に地代が安いとかいうこと、それから、今まで、そういう工場がなかったものございますから、比較的労働力が豊富だとか、あるいは地下水が豊富だというようなことが、あの地域に工場をもたらしてきた誘因になっているのでございます。今度浸水いたしました地域に、名古屋市の市営住宅もできておりますが、とにかく戦後に、非常に簡単な住宅がどんどん建てられてきているわけでありますけれども、ああいうふうな程度の住宅を造りますのには、やはり地代も、それに相応するものでなければならないというようなことから、比較的地代の安い所へ入ってきたというような傾向をとったと思うのでございます。あの場合、まあ大きな工場でございますと、設備の費用も相当大きいものでございますから、それに応ずるだけの地ごしらえと申しますか、地盤を作っていくようなこともできるのでございますが、中小の工場になりますと、そういうわけにいきませんので、それがやっぱり低い、比較的土地の入手がしやすくて、地代も安いというようなものが誘因になって入ってきたと思うのでございます。あの地区のその後の経過をずっと見ておりますと、そういうふうにして工場が入ってきて、それならその工場が、いったいどんなふうな操業をしていたかというのでございますが、工場を造りますと、人口がふえてきます。水がどうしても要るわけでございます。水が非常に要るわけなんでございますけれども、ああいうふうに平野の末端になっておりますと、なかなか水を取得することは困難なものでございますから、しかもたまたま、ちょっと触れましたように、地下水が非常に豊富な所でございますので、地下水に依存してきた。たとえば、あそこら辺の住宅とか農家でも、組合をつくりまして簡易水道を作って水道を補給するとかあるいは灌漑用にも使っておりますし、工場はもちろん、それに従ったわけでございます。それで、ここの経過を見ておりますと、五、六年の間に、地下水面がだいたい四十メートルから五十メートルぐらい下がっております。ああいう沖積した地帯に洪水によって土砂が運ばれて、そうして作り上げた土地でございますが、そういう土地で、地下水面が四十メートルも五十メートルも下がったのでは、必ず地表面に異常があったに違いないと思うのでございます。それから地盤の沈下でございますが、そういう問題が、私は起きていたと思うのでございますけれども、実は、そういうことを測定していなかったわけでございますけれども、そういうふうにして、とにかくそんな状態でここ十年間の間に、ずっと発達して参りました。それでございますから、急速にまた伸びてきたわけでございます。  それですから、その土地に入って、そこで生活している人たちというのは、だいたい自分の土地が、どんなふうになっているのか、どんなふうな性格のところであるかということに対する知識が非常に欠けていたと思うのでございます。それでございますから、たとえばあそこに海水が入ってくるという警報がありましても、いったいそれが、何を意味するかさえ了解し得なかったというような工合でございまして、何と申しますか、結論的に申しますと、急に都市化をしてきたために、こういう地域が、どういうふうな性格の土地、たとえば災害の点から申しますと、どういうふうな位置に置かれているかというようなことと、それから都市がどんどん拡大してきていることとが、ほとんど無関係に伸びてきたというような問題じゃないかと思うのでございます。そういうようなところでございますから、結局そういう低いところでございますから、そういうところを守る方も、そういう急速な伸び方に対しましてはついていけないわけでございます。同時に、それがほとんどはやい速さで出てきますから、一体初めやりますときに、こういう土地がどんなふうになってくるのかということが予測もできないうちにふえてくるものでございますから、お互いが間に連絡がないと申しますか、事情がわからなかったようなうちにまあ今日のような事態になったのではないかと思うのでございます。それでございますから、むしろ今度のような災害は一つ——最近都市が拡大されてきています。地方からの人口の都市集中がございまして、都市が急速に拡大してきております。これは何も日本だけでなくって、世界的な今日の一つの傾向でございますが、そのためにいろいろな困難な問題が起きております。ですから、そういうような問題の一つの現われというようなのが出てきているのではないか、災害というものにおいても現われてきているのではないかと思うのでございます。  まあ要するに、私申し上げたいのは、災害というものも、実態は常に何と申しますか、新しい発展に従って新しい性格を持ってくるようになってきているということだと思うのでございます。そういたしますと、これに対処するにも、やはりそれに対応するような手段が私は必要じゃないかと思っております。と申しますのは、とにかく、単に防ぐ方から申しますれば、私はまあいろいろまだ今日知識は不十分でございますが、たとえば伊勢湾なら伊勢湾一つ考えましても、例でございますが、ああいうところにも高潮として起きるならば、その高潮はどういうふうな、たとえば台風がどれくらいの台風がどの方向へどのくらいの速さでもって通れば、湾の中にどのくらいな高潮が起きるだんということ、こういう問題につきましては、確かにまだ知識は不十分ではございますが、回答し得るのでございます。そういたしますれば、それに応ずるだけの、こたえられるだけの堤防を作れば作ることもできると思います。私ども今日、その際に、大体越えない堤防を作れといわれれば、越えない堤防も作れますし、あるいは今日も議論をされておりますように、多少越えた場合でも、こわれないような堤防を作れといわれれば私も作れると思うのであります。しかし同時に、急にそういう都市が、そういう自然環境というようなものを無視というか、考えないで入ってくる、しかもそこにおいてその土地がどういうふうになっているのか。たとえば地盤沈下もその一つの問題でございますが、そういうような問題に無関係に土地を使っていくということ、そういうようなことのために、常にこれを守るというのが、水害から守るという手段が、ただ常にそれに追随していくということでは、なかなかいつもそれは調和のとれた形では進め得ないし、そういうものだけがこの場合の災害を防ぐ方法かと申しますと、やはりそれだけとは言えないじゃないかと思うのでございます。やはり私どもは、限られた投資をこの地域内で最も効果的に使っていくのが、どういうふうな手段が要るのかというふうに、この場合やっぱり考えていくべきではないかというふうに思っております。私は最近になりましてそういうことが、そういう問題が起きてきたればこそ、まあ地域計画とか、あるいは総合開発という言葉がいわれてきたと思うのでございます。そういうふうな立場から考えていったら、また新しい対処する道ができてくるんじゃないだろうかという感じを持つわけでございます。  ここ大体まだ二十年ぐらいの経過でございますが、これはアメリカを中心にいたしまして土壌保全運動というのが非常に強く進められてきております。まあこれは現在のような状態でその土地を使っていく場合には、いろいろ新しい問題が起きて参りまして、お互いに迷惑さが波及してくる。そうして結局波及して、その迷惑さがだんだん積み重なって参りますと、そういうところでの生活というものがだんだん困難になってくるという事態、これは今までの経過を見ておりますと、そういう事態が進んできて、そういうものが蓄積されて、そういうところへ結局もう住めなくなってくるというような状態が引き起こされたわけでございますが、そうしましたら、それに対してまして、われわれはこのところから恒久的にといいますか、恒久的に常に生産を続けていける、そういう安定した生活の場を作るということが必要じゃないかというのがこの運動の趣旨でございます。要するにそうなって参りますと、そのある一つの場所で地域で暮らしている人たちが、お互いに自分の暮らすためにとってきた手段というものが、隣の人の迷惑になるというようなことがあったら、これは要するに全体としてだんだん耐えられなくなってくるというのでございまして、そこにはやはりある一つの地域を限り、そこに恒久的に生産を継続して維持していこうとするためには、やはりお互いにある一つの目的に対しましては制約を受けるということは、やむを得ないことだというのでございます。そうしてそこに安定した生産の場を作ろうというのを目標といたしまして、いわゆる資源の保全運動というのが起きてきたわけでございますが、私ども、限られた土地でもってだんだんとさらに経済を拡大していきました場合には、どうしても自分のすること自身が、一つの仕事がいろいろなところに迷惑というか、関連を引き起こしてくるのでございます。  たとえば、この伊勢湾の例をとりましても、ここで工場を作っていこうとすれば、ここに水がある。水があれば地下水をくむのが一番安くて、しかも使っていく上においても有利なものでございますから、それに依存するのは当然なのでございますが、しかし、そういうふうなことがだんだん、だんだんと現地へ問題を波及するような形になる。そうすればそれは非常に広い範囲でもってこのために大きな影響をこうむって参りますから、おそらく、これをこの地域内で最も努果的なこの地域の繁栄というものを考えるとすれば、お互いにここにはこういうふうな使い方があるのじゃないか、ここにはこういうふうな使い方があるのじゃないかというのが出てくるのでございまして、そうするならば、これをどういうふうな形で保護していけるかというような課題が生まれてくるのだと思います。そうして、そういうものを一つに統一すると申しますか、一つ考え方のもとから、そういうものをそういう利用法を区分いたしまして、その一つのところに繁栄した地域を作り上げていくということが、いわゆる資源の保全運動という考え方から私は出発をしてきたのじゃないかと思うのでございます。土壌の保全という問題が、もう少し生活の範囲を拡大してみますと、そういうところへ到達するのでございまして、そのために総合開発とか地域開発という問題が、地域計画という問題が私は起きてきたのじゃないかと思うのでございまして、この場合は、やはりそういう中でもって最もこの地域に安定してその生産の場を作ることのできる一つのプランをやはり持つべきじゃないかと思うのでございます。これは私は日本でも、国土総合開発法に従いまして、地域の総合開発ということを考えました趣旨は、そういうころとから出発していると思うのでございまして、そういう効果を私はもう少し発揮させることのできるような方向へこれを進めていくべきじゃないかと思っている次第でございます。  とにかく、伊勢湾の奥にいたしましても、この地域は一つの国土総合開発法による特定地域として指定されたわけなんでございますが、そういうところの一部分がああいうふうな災害を受けたということは、要するにやはり特定地域といたしまして、この全体のあり方から問題点を摘出して、それに対処していくという方法が好ましいというふうに思うのでございます。  このことは、やはり私は、先ほどちょっとアメリカの問題に触れたのでございますが、ちょっとそれを補足さしていただきたいと思いますが、たとえばアメリカでは最近ハリケーンの災害が非常に多くなりまして、そのためにアメリカ政府におきましても、ハリケーンの災害の調査を進めてきております。それに従いますと、あれは同じような状態が引き起こされておるのでございまして、台風と同じようなものでございますから、これのもたらしますものは強い風と強い雨と高潮でございますが、やはり高潮による被害が一番大きいようでござまいす。しかも、これはなぜ高潮が大きくなったか、これはアメリカでもおもしろいのでございまして、最近になってハリケーンの通るところが変わってきたとか、強くなったのじゃないかとか、まあいろいろ議論もされておりますが、やはり調べてみると、それほど変わってはいないのだ、むしろやはり受けるところが変わってきた。新しくやはり工場が建って参りますと、工場は大体海岸とか、そういうふうの地域に、前にできた都市の周辺が伸びていくものでございますから、それだものでございますから、災害を受けるところの地域がふえてきたというので、これに対処するにはどうやったらいいかということをただいま検討しておりますが、まあ日本のように限られた土地を利用いたしております場合に、経済拡大に急速に伴いまして、なかなか、予想したようなと申しますか、初めからいろいろな手段を講じてやっていかないために、こういうふうな問題が起きてきていると、でございますから、できるだけこういうものに対して、あらかじめ対処していくような方法をとらないと、私は、下手すると、災害というものはむしろ防御費を投下しても絶対量はふえるようなおそれがあるのじゃないだろうかということをまあ心配しているわけでございます。  こういうふうな事態になって参りますと、やはりいろいろな面で問題が出てくると思うのでございます。私は最近特に気がつきますのは、たとえば川にいたしましても、川の一つの堤防を見ましても、どうも以前に比べますと、堤防の維持とか、管理というものがだんだんと、こう何と申しますか、十分に行きわたっていないのじゃないかということを感ずるのでございます。たとえば、堤防に行きますと、かなりごみ捨て場のようなものに使ってあるようなと思われる所が多いのでございます。特に町に行きますと、そういうものが多いのでございますが、私はこれなんかも、一番初めに申し上げましたように、大体川自身が、たとえば災害というものが変貌してきているということを申し上げたのですが、そういうふうな生活のあり方というものが変わって参りますと、今までは自分のところを自分で守るというそういうふうな態勢がとれていたときは、それに付随いたしまして、環境を守る手段も講ぜられているのでございますが、だんだんとそれが不可能になって参りますと、やはりそういう点も依存するというような形になって、この注意がだんだんと行きわたらないようになってくるのじゃないかというふうに考えられるのでございます。同時にある町へ行きまして、どうしてこんなふうに使っているのかと聞きましたときには、これはもうごみを捨てるなといっても、なかなか断わり切れないのだと、何といっても急に市街地がふえて参りますと、特に町のようになって参りますと、塵芥処理のような手段がどうしてもついていけない。そうするともうこうせざるを得ないのだと、ある町で聞いたことがあるのでございますが、そういうふうに、やはりこういう態勢が急にだんだんと変わって参りますと、それに応ずるようないろいろな問題が出て参りまして、災害問題もやはり新しい見方から見ていかなければならぬのじゃないかと思うでのございます。  私は、それには今日の動向といたしまして、やはりこの地域計画とか総合開発計画というものの中で、多面的に考えながら、最もその中で合理的な道をとっていくということが好ましいと思うのでございまして、しかも、そういうふうなことが、とり得る段階に私はきているのじゃないだろうかと思っております。ちょうど非常に大きな災害を受けましたあとで、災害の対策、治山治水というものに対する関心が高まりまして、私はこれが最も重点の施策として取り上げられたということは、まことに喜ばしいことだと思うのであります。何としても私らもこれに対処していかなければならぬのでございますが、この対処して参ります場合に、やはり新しい環境というものをよく理解して、それに応ずるような手段を考えていかなくちゃならない。ある場合になりますと、私はやはりある程度までは私有権と申しましても、そういう環境の場合でも、ある制約——全体のために制約を受けるということは、やはりやむを得ないのじゃないかと思うのであります。土地利用のあり方という問題も、よく検討いたしまして、地域として最大の効果の上がるような処置が進められるようになることを私は念願しているわけでございます。私はそういうふうに、川と申しますものは、何かそういう人間がこれに手を加えてやりますと非常に変わってくるわけでございます。それでございますから、川自身にとりましても、経済が拡大して、生産が上がってきますと、それに対するいろいろな手段を講じますので、常に新しい条件が出て参りますから、そういうものをよく見ながら、追跡しながら、動的にと申しますか、常にその伸展していると申しますか、伸びているという中で、この問題をどういうふうに考えていくかというのが、今後の一の課題じゃないかと思うのでございまして、せっかく、そういうものに対しまして、私どもが期待しておりますことが、だんだんとできるようになることは好ましいことでございますが、それを最も有効にその費用を使っていくということを、さらに考えるべきではないかというふうに思っている次第でございます。  簡単でございますが、今日の災害の現状、特に一部ではございますが、やはり今日のそういう起きている基本になるものにはこういう問題があるのじゃないかということを一言申し上げまして、いろいろとお考えになる場合の御参考にでもできれば仕合わせだと思うわけでございます。(拍手)
  63. 小林英三

    委員長小林英三君) ただいまの公述に対しまして、御質疑がございましたらお願いします。——質疑はないようでございます。大へんありがとうございました。   —————————————
  64. 小林英三

    委員長小林英三君) 次に、大内公述人にお願いいたします。
  65. 大内力

    公述人(大内力君) 私、大内でございます。  きょうはおもに農業関係に関しまして、三十五年度予算について意見を申し述べるようにという御注文でございますので、私の話の重点もそこに置いて申し上げるということにしたいと思います。ただ、その前提といたしまして本年度予算全体につきまして一、二の問題点があるのではないかというふうに思いますので、まずそれをごく簡単に申し上げておきまして、それから農業関係の予算というものについて申し上げる、こういうことにさせていただきたいと思います。  今年度予算全体につきましては、むろんこまかく申し上げますと、いろいろ大きな問題があるように思われるのでありますけれども、特に私はここで二つの点だけを申し上げてみたいと思うのであります。  その一つの点は、申すまでもないことでありますが、本年度予算が全体として非常に膨張予算になっているということでございます。これは申し上げるまでもなく、一般会計だけでとりましても、昨年度の当初予算に比べまして、千五百億円の増加を示しております。そのほかに財政投融資が五千九百四十一億円でありまして、前年度よりも七百四十三億円ふえております。こういうわけで金額的に見ましても、全体として非常に膨張予算になっているということでございますが、単に問題は金額が大きいか少ないかということではなくて、いわば国の財政全体の運営、特に歳入面との関連におきまして考えた場合に、この膨張予算というのがかなり無理をして膨張せしめられている、こういう感じをぬぐい得ないのであります。その点はやはり国の財政政策経済政策全体の立場から申しまして、相当問題を含むのではないかというふうに考えるわけであります。その点非常に無理をしているということは、これは申し上げるまでもないことでありますが、一つは、従来続けて参りました減税措置が今度の予算では一銭も行なわれていないということであり、のみならず、原重油関税という形で五十八億円の増税が事実上行なわれている、こういうことであります。それからもう一つは、実は三十五年度予算で見るべきものを、三十四年度補正予算という形でまかなっているということ、それから他の部分は継続費とかあるいは予算債務負担行為という形で後の年度に繰り延べをしている、こういうことであります。  それから最後に、いわゆる余裕財源と申しますか、特別の問題に備えるために、あるいは明年度のために本来保有しておくべき余裕財源をほとんど全部、財布の底まではたいてしまった、こういう形になっているということであります。そういうふうにして、非常にいわば無理算段をいたしまして膨張予算を組んでいる、こういうことでありますが、しかもこの膨張予算を組むということ自体が、今の日本経済の置かれた時期にはたして適当であるかどうかということに相当問題がありはしないかということでございます。それは御承知通り、昨年度から非常に景気がよくなってきてはおりますけれども、この景気の先行きがどうなるかということは、かなりむずかしい問題だと思いますけれども、しかし、従来の経験から申しますならば、そもそも本年度の後半あたりからは、いわゆる景気が過熱状態に入る危険性というものが大きくなる時期ではないかというふうに考えます。それからさらに、今後予定されております貿易自由化の方向というものを考えますならば、むしろ日本経済はさらに合理化を進めなければならない、そういう状態に置かれる時期ではないかと思われます。こういうことを前提といたしまして、かなり刺激的な膨張予算を組むということが、はたして経済政策全体として適当であるかどうか、こういうことは十分考え直さなければならないのじゃないかということが一つの申し上げたい点でございます。  それから第二の、予算全体に関する問題として申し上げたいことは、そういうふうに非常に、いわば大盤ぶるまいの大きな予算というものを組んだにもかかわらず、全体として見ますと、大へん新味の少ないあるいは魅力の少ない予算という形になっていやしないかということでございます。本年の予算の中でしいて特徴を拾いますならば、治山治水事業というもののために百九十九億円というものを組んだということだけと言ってもいいくらいでありまして、それ以外の部分は、大部分が既定経費の膨張、こういう形のものであると言ってもいいと思うであります。しかも、この治山治水事業というのは、これは言うまでもなく非常に大切なことでありまして、国土保全のためにもっと大きな努力をしなければならないということは、終戦以来たびたび繰り返して言われてきたことでありますから、そのこと自体としては別に反対するゆえんはございませんし、あるいはむしろ大いに賛成すべき点でございますが、ただ先ほど申しましたような、日本経済の近い将来、ここ半年ぐらいあるいは一年ぐらい先に置かれるであろう条件というものを考えるときに、そういう大幅な公共事業費を一挙にやるというようなことが、はたして賢明な措置であるかどうかということは、やはり問題ではないかというふうに思われます。  で、それはともかくといたしまして、この日本財政全体としての問題は、むしろそういう新しい事業をやるような余地が非常に小さくなっているのではないか。むしろ既定経費の自然膨張というような形で、予算が非常に弾力性を失ってきている。その弾力性を失った予算をまかなうためにすら、先ほど申しましたように、かなり無理なやりくり算段をしなければならない。こういう状態に置かれているというのが今年度予算ではないかというふうに思うのであります。そういう意味で、ことしは何とか切り抜けたといたしましても、これが来年になり、再来年になり、そしてまた継続費が出てくる、あるいは例のロッキードのような予算債務負担行為予算面に顔を現わしてくる、こういうことになったときに、はたして日本財政はどうやって運営できるのか、こういう心配をわれわれ国民としては持たざるを得ないのであります。そういう意味で、この辺でもう少し財政全体の計画性というものを考え、また、この弾力性の失われているものをどうやって弾力性を回復するか、こういうことを工夫すべき時期に差しかかっているのではないか、こういう感想をもっております。これが全体について申し上げたい第二の点。  さて、以上が、一般会計につきまして、まあ一応、感想のようなことを申し上げさせていただきましたわけでございますが、そこで、次に本題に入りまして、この農林予算というものが、三十五年度においてどういうふうになっているか、こういうことにつきまして多少立ち入ったことを申し上げてみたいと思うのであります。  農林予算は、先ほど申しましたように、全体の予算割合に新味がないと申しますか、魅力がないようにわれわれには感じられるのでありますが、その中で見ますと、今度の農林予算は、比較的よくできていると申しますか、ある程度新味が盛り込まれておりまして、ほかの部分に比べますならば、まずまずいい点をつけてもいいようなものではないかというふうに考えております。で、それはどういう点でそういうことを申し上げるかと申しますと、まず第一には、農林予算全体がかなり前年度に比べまして豊かになった、こういうことでございます。これも数字はもはや十分御承知のことかと思いますけれども、念のために少し数字を拾っておきますならば、まず農林予算は、一般会計だけで千三百十八億ということになっておりまして、前年度に比べますと二百五十五億円の増加ということになります。そうして予算総額ないし一般会計予算総額に対します農林経費の比率という点から見ましても、前年度は七・五%でありましたものが八・四%に上昇しております。ただしこの中には、災害復旧とかそれから高潮対策それから食管の赤字の繰り入れというような、一部の地方にのみ関係するものや、あるいは農家には直接関係のないようなものが含まれている。そういうものを一応除きまして、実質的な農林経費というような観点から見ますと、前年度に比べましての増加額は八十億円、こういうことになっております。そういうわけで、それほど金額的に大きくなった、実質的には大きくなったというわけではないのでありますけれども、しかし、ここ数年来御承知通り、農林経費というのはかなり圧迫されてきておりまして、年々場合によっては減少する、あるいは増加するとしてもごくわずかである。それから一般会計に対する比率から申しますと、むしろ年々下がるような傾向を示してきていたわけでありますが、ともかくここである程度絶対額もふえ、比率も高まるという形で、いわば農林業に対する政府の配慮というものが多少とも厚くなったという点は、一つ農業の立場から申しますならば、一応喜ぶべきことだと言っていいかと思うのであります。しかし、問題は単にそういう量的に農林経費がふえたということだけではないのでありまして、よりそれを内容的に立ち入ってみますと、確かにことしの農林予算の中には、いわば新しい農政の構想とでも言うべきものがある程度盛り込まれている、こういうふうに言っていいのではないかと思われます。それはまあいろいろございますが、その中で特に注目すべき点を二つ、三つ拾い出して申し上げますならば、まず、これまで昭和二十五年以来食糧増産対策費、こういう形で予算面に出て参りましたのは二十六年ごろからでございますが、食糧増産対策費、こういう形で計上されて参りました土地改良事業それから開拓、開墾というような農業関係の公共事業費でございますが、この農林関係の公共事業費が今度は農業基盤整備費、こういうふうに名前を変えて計上されております。そしてその金額も、前年度は三百三十七億円でありましたものが三百九十億円というふうに多少増加しております。で、前に申し上げましたように、農林経費全体の増加額が実質的には八十億円というふうに計算されますから、この農業基盤整備費、つまり公共事業費の増加五十三億円というのはその八十億円の増加の大部分を占めている、こういうふうに言っていいわけでありまして、ここにかなり重点が、農政の重点が置かれているということをうかがうことができるわけであります。  それから、そのほか農林漁業金融公庫の公共事業に対する融資、土地改良その他に対する融資これも昨年度に比べますと、三十一億円の増加ということになっておりますので、全体としては相当資金が潤沢になってきているということを言うことができるかと思います。  それから治山治水事業の方におきましては、林業関係の公共事業費というものが十七億円ふえております。  それから、そういう公共事業費の増加したほかに、金額としてはきわめて小さいのでありますけれども、新しいいわば農政の構想というようなものを盛り込みました経費がいろいろな形でふえているということが注目される点かと思います。それは、たとえば畑作改善でありますが、これは畑の土壌線虫防除、畑の地力保全対策というようなものを含んでおりますが、そういうもののほかに麦の生産合理化対策というものが六千万円、それから大豆、菜種生産改善というのが七百万円、それから果樹振興対策費、これが二千五百万円、この三項目はことし新たにつけ加えられた経費でございます。それから従来からございました草地改良事業費、それから中小農家畜預託費、それから種畜牧場整備費というものがこの畜産関係の経費でありますが、これが多少とも増加されておりますし、このほか新たにつけ加わる経費として畜産営農改善施設費、それから肉用素畜導入費というようなものが計上されております。それからさらに、農業のいわば共同化というようなものをねらいまして、果樹園改善実験集落費というもの、それから麦作経営改善集落費というもの、さらに農業機械化実験集落費、それから飼料給与改善施設費というようないわばモデル部落に対する諸施策というようなものについての経費を新たに新設されております。まだ拾えば幾つかございますが、そのほかたとえば流通関係で市場構造を整備するための費用とかあるいは共販体制の模範地区を作りまして、それを助長する経費というようなものが新設されたりあるいは増額されたりしておる、こういう形になっております。  それから最後に、これはまだ本年度、三十五年度は調査の範囲を出ておりませんが、ともかくこの農村環境整備それから農漁村子弟対策、こういう形で農民の子弟がいわば農業外に職を求めることを容易にするような人口対策のための事業というものが新たに手をつけられることになっております。こういう点も注目しておいていいことかと思うのであります。こういうわけで、要するに、従来から農業政策の中心になって参りました食料増産対策費というものが、名前が変えられて農業基盤整備費というふうになったほかに、今申しましたような新しいいろいろな構想を盛りました経費というものが追加されたりあるいは新たに設けられたりしておる、こういう形になっておるわけでありまして、この辺のところにいわば曲がりかどにきておるといわれております農業政策を新しい方向に推し進めていこうとする意欲というようなものがともかく多少とも盛り込まれておる、こういうふうに言っていいのであります。そういう点で先ほど申しました、量的にある程度予算がふえたということと並びまして、いわば質的なそういう転換が試みられておるということをあわせまして、ことしの農林経費には多少とも新味がある、あるいはある程度及第点を与えることができる、こういう結論が出てくることになるかと思うのであります。  そこで、ここで少し予算を離れまして、日本の農業政策あるいはその根本的にはむろん農業自身があるわけでありますが、その農業及び農業政策が曲がりかどにきておるということを、これはまあよく言われておることでありますが、それがどういうことであり、それからまた、曲がりかどにきておる農業に対して、農業政策としてはどういう考え方があり得るかということについて、これもごく簡単に申し上げまして、それと以上のような農林予算というものと結びつけて考えてみたい、こういうふうに思うのであります。  この日本の農業が曲がりかどにきておるということは、これはいろいろな問題がその中にあるのでありますけれども、その中で特に重要な問題点というようなものを拾い上げて申し上げますならば、私は大体次に申し上げます三つの点に日本の農業の曲がりかどという問題があるのではないかというふうに考えるわけです。  その第一の点はどういうことかと申しますと、言うまでもなく、日本の農業の大宗をなしますのは米の生産というものでありますが、この米は御承知通り、戦争以来今日まですでに二十年くらいにわたりまして非常に不足するという状態を続けてきたわけでございます。そのために、ほかの大部分の農産物は自由取引になっておるにもかかわらず、米に関しましては、今日まで直接統制という形が存続をしてきておるということは御承知通りであります。ところが、その米が、その農業の一番基本になる米、しかも長い間不足状態を続けて参りました米が、むしろだんだんと過剰傾向を強めつつあるという気配が見え始めてきたわけであります。そうしてこれがはっきりした過剰になるのは何年先かということは、まだはっきりは申し上げられませんけれども、おそらく私の見通しでは、数年先には米の過剰という問題がかなり大きな問題として日本の農業に現われてくるのではないか、こういうふうに考えられる。そのことが一つの曲がりかどということであります。  で、なぜ米が不足の状態から過剰の状態になるかということは、申すまでもないことでありますが、一方では、最近の農業技術の発達というものによりまして、米の生産水準が非常に上がってきているということであります。ここのところ豊作の連続というふうに言われておりますが、しかし、それはむしろ豊作が続いているということよりは、日本の農業の生産水準そのものが上がったことであるというふうに言っていい。大体、今日では、平年作がすでに七千五百万石か、あるいは場合によっては八千万石くらいの水準に達しているのではないかというふうに考えられるわけでありますが、おそらく米の生産は今後もある程度伸びるであろう、こういうことが一方でございます。それから他方におきましては、日本国民の消費水準、あるいは所得水準と言ってもいいわけでありますが、まず所得水準が最近は急激に高まってきておる。その所得水準の上昇に応じまして、食糧消費の構造がかなり急速に変わりつつある。これは御承知通り世界の大勢でございますけれども、国民所得水準が高くなれば穀類に対する依存度というものはますます小さくなる、こういう傾向を持っているわけであります。そういう傾向が日本でも非常にはっきり現われて参りまして、ここ二、三年来、都市においてはむろんのことでありますが、農村においてすら米の消費量というものが一人頭にいたしますと減り始めております。この勢いは、おそらく日本国民所得が伸びていくその伸びが最近のような状態を続けていく限りは、かなり急激に現われてくるであろうというふうに予想されるわけです。そういう生産と消費と両方の面から申しまして、おそらく数年先には米が過剰になるような状態というものを考えておかなければならないのではないかと、こういうふうに考えておるわけであります。  それから、その曲がりかどに来ておりますという第二の問題は、以上申し上げましたような国民の消費構造の変化ということと、それから近い将来に予想されます貿易のある程度の自由化、こういうことをからみ合わせて考えますと、従来、食糧といたしましてかなり重要な地位を占めておりました麦とかあるいはイモ類というものが、かなり大幅な過剰という問題におそわれるであろうということであります。もちろん、麦やイモにつきましては、すでに三、四年前から過剰生産という問題がだんだんと起こりつつあるわけでございますけれども、貿易が自由化されますならば、生産費の非常に高い日本の麦、特に小麦でございますが、その生産費の高い小麦は、とても競争には耐え得ないものでございましょうし、それから、国民の消費水準が高まれば、米より先に麦の消費あるいはイモ類の消費というものは減少する。それからまた、イモを原料といたします、たとえばしょうちゅうの消費というようなものも減少いたします。従って、この麦作及びイモ作というものに関しましては、ここ二、三年のうちにそれを飼料作物に転換するという問題をどうしても解決しなければならない。そちらに活路を求めない限りは、麦作、イモ作というものの将来性はないというふうに言っていいかと思います。そういう転換が要求されておるという点に、この曲がりかどと言われる第二の点があるのではないか、こういうことであります。  それから、曲がりかどに来ているという第三の点は、そういう穀類を中心といたしまして、むしろ過剰生産傾向が強くなってきているのに対しまして、所得水準の上昇に対応いたしまして、もう少し高度な食糧、農産物、ことに畜産物、これは牛乳、卵、肉類、すべてでありますけれども、そういう畜産物と、それから果実類、それから蔬菜も多少入りますが、特にその畜産物、果実類というものが、ここ二、三年来非常に急激に消費が伸びていることは御承知通りであります。そうして、この国民所得水準が上昇していくといたしますならば、おそらくこれから先も畜産物なり果実類というものの消費はかなり急激に伸びるだろうというふうに考えるわけでございまして、これについてもいろいろの計算がございますが、たとえば十年先には、少なくとも今の二倍から四倍くらいの畜産物及び果実類の消費が現われるであろうというような予想さえ持たれておるくらいでありまして、従って、農業といたしましては、従来の主穀を中心といたしました農業から、畜産と果実を中心としたより高度の農業というものにかなり急激に経営形態を転換していかなければならない、こういう局面にぶつかってきておるわけであります。これがやはり曲がりかどの非常に大きな内容をなすものかというふうに思うのであります。  そのほか、小さいものを数えればたくさんございますけれども、少なくとも以上申し上げました三つの点が、日本の農業の曲がりかどとして、ここ二、三年の将来、あるいは四、五年の将来の後には、必ず非常に大きな解決さるべき問題として現われてくるであろうというふうに考えられるのであります。  さて、そこで、そういう農業の転換というものがどうしても必要である、あるいは避けることができないものである、こういうふうに考えますと、その中で一体日本の農業経営というものはより具体的にはどういう形をとるだろう、あるいは日本の農業経営としてはどういう問題を解決しなければならないだろうか、こういうことが考えられなければならないわけであります。それにつきましてもいろいろ申し上げたい点はございますが、時間の関係等もございますから、ごく要点だけをかいつまんで申し上げます。  まず第一に、米作、それから裏作をなします麦作、それから場合によってはイモ類までも含めてもいいわけでありますが、そういう、先ほど申し上げましたように、むしろ消費が減る傾向がある、あるいは貿易の自由化によって外からの圧迫が強まる傾向がある、こういう作物につきましては、やはり徹底的な技術の発達、あるいは生産の合理化というものによりまして、生産コストを切り下げていくということを考えなければならない。それと同時に、また、そういう部分におきましては、生産コストを下げるためにももちろん必要でありますが、それ以外に、労働力をある程度そこから浮かせるという意味におきましても、やはり機械化ということが非常に必要になってくるであろうというふうに考えられます。しかも、この機械化と申しますのも、現在日本の農業でやっておりますような、あの小型の自動耕転機というようなものを大体一軒の農家が一台ずつ持つ、あるいはせいぜい二、三軒の農家で一台を共有する、こういうような程度の小規模の機械化では、おそらく大した効果は期待できない。そういう意味で、小農的技術が一巡したと最近言われておりますように、その程度の機械化では将来性はないだろうというふうにわれわれには考えられるのであります。従ってこの将来性のある機械化ということを考えますならば、どうしても少なくとも中型のトラクターなどを水田なり畑作なりで使う、その程度のかなり大規模の機械化というものをこの際考えなければならない。また、そういう大規模の比較的大型の機械を使いますならば、たとえば土地の深耕が可能でございますから、反収を高めるということも今以上に期待することができますし、生産コストを切り下げるということもできるわけであります。  ただ、そういう中型トラクターを入れるような、そういう技術水準というものを考えますと、わが国にはいろいろ解決されなければならない問題が出てくるわけであります。  まず第一には、土地の条件というものを、ことに水田につきましては排水及び灌水というものの施設を完備いたしまして、そうしてそういうトラクターが水田に入り得るような条件を作らなければならない。それからまた、たとえば交換分合なり、あるいは耕地整理にいたしましても、従来のような一反歩なら一反歩でおよそ真四角な形で耕地整理をしていく、こういうような考え方ではたしていいかどうか。もし大型の機械を使うとすれば、もっと大きな区切りを作って、場合によってはアメリカの水田地帯のように等高線に沿ってうねを作るという形で、相当細長い形の水田というものを考える必要がありはしないか、こういうような問題も出てくるわけであります。  それからさらに、そういう大きな機械を使うということになれば、むろん農家が一軒々々で自分の機械を持つというわけには参りませんから、これを共同利用する施設というものを作らなければならない。その共同利用の施設を国がするなり、あるいは農業協同組合にやらせるなり、そういう問題が解決しなければなりませんし、また、それを合理的に利用し得るような態勢というものを村の中に作っていかなければならない、こういう問題も出てくるわけであります。  それからさらに、第三番目に解決しなければならない問題は、いずれにせよ、そういう技術のより高度の発達ということを考えれば、零細な兼業農家というものはとうていその体系の中に組み込むことができないわけであります。のみならず、そういう零細な兼業農家が入りまじって存在しているということによりまして、たとえば専業農家の方の交換分合なり、あるいは土地改良事業というものにとっても障害が起きる、あるいは機械を共同利用するという面から申しましても障害が起きる、こういうような問題が出て参ります。そこで、そういう点もどうしても解決をして、零細な兼業農家をできる限り整理をしていく、こういうことを考えざるを得ないということになるわけであります。  で、まあその畑作の合理化、あるいは水田作の合理化という点をめぐりまして、およそ以上申し上げましたような問題点が出てくると思いますが、次には、そういうふうに畑作なり水田作を徹底的に合理化いたしまして、それによって浮いた余剰の労力というものをもちまして、先ほど申し上げましたように、将来需要が非常に伸びるだろうというふうに予測される果樹なりあるいは畜産なりというものを発展させていく、こういう方向に持っていかなければならないわけであります。ところが、この果樹とか畜産というものにつきましては、またそれなりに非常にいろいろな問題があるわけでございますが、で、まあ特にここで畜産の問題について申し上げますならば、第一には、日本の従来の畜産、特に酪農というようなものの最大の弱点とされておりますものは、御承知通り、飼料の自給というものができない、大部分を購入飼料に依存しながら酪農をやってきているということであります。このことがコストを非常に高くしておりますし、また農家経済を非常に不安定にしているということは御承知通りであります。従って、畜産を相当大規模化すると同時に、コストを下げるということを考えますと、飼料の自給化ということがまず第一に問題になりますし、それに関連いたしまして、この草地の改良、それから山林の一部の草地化ということによりまして放牧地をかなり広げていくという問題が、当然解決されなければならないということになるかと思います。  それから、この点は果樹につきましても同じでありまして、たとえば果樹園を広げていくということになりますならば、従来の薪炭林として利用されていたようなところ、あるいは場合によっては造林地として利用されていたようなところを、果樹園に切りかえるというような問題も解決しなければならない、こういうことになるわけであります。  それから、もう一つ解決しなければならない問題は、そういう果樹にせよ、あるいは畜産物にいたしましても、こういうものは高度の市場性を持った作物でありまして、腐敗性の高いものでありますし、それから価格変動も非常に著しいものであります。こういう価格変動が著しく、腐敗性が高いようなものをうまく農家が販売をしていくということができるようにいたしますためには、政府の方といたしましても、それについての需給調整あるいは価格の調整というものがぜひ必要になって参りましょうし、それと同時に、そういうものの流通市場の合理化ということをかなり徹定的に考えなければならないかと思います。また、農業協同組合にいたしましても、今までのような米の統制の上に乗っかって、ただいわば中間の手数料をかせいでいる、こういうような農業協同組合ではとうてい新しい農業には対応できない。従って、農業協同組合につきましても根本的な再組織というものが解決されなければならないことになるかと思います。  それから、もう一つ、畜産や果樹につきましてはぜひ解決しておかなければならない問題は、加工施設というものを農村に結びつけなければならないということでございます。これも腐敗性が高くて価格変動が大きいものでございますから、ある程度農村の中でそれを加工して貯蔵性の高いものにする、あるいは運賃があまりかからないものにする、こういう態勢が整いませんと、こうしたものが安定した形で農家経済の中に入るということはできないのであります。従ってその加工施設をどの段階までどういう形で村の農業と結合するか、こういう問題はぜひやはり考えて解決しなければならないものだ、こういうふうに言っていいかと思います。  そのほかたくさん申し上げたい点もございますが、少なくとも以上申し上げましたような諸点というものが政策的に解決されていくことによって、初めて日本の農業は曲りかどを切り抜けることができるわけであります。もし以上申しましたような点が十分政策的に裏づけされて円滑に展開されていかないということになりますと、おそらく日本の農業には破滅的な混乱が生ずるおそれなきにしもあらずというふうにわれわれは考えているわけであります。  さて、そのことを前提といたしまして、今年度の、先ほど申しましたような農林経費のいろいろな費目というものを見ますと、先ほどちょっと読み上げましたように、確かにその中に以上申しましたような日本の農業というものの転換というものを見通しまして、それに対処しようとする政策の少なくとも片鱗がうかがえるという程度のことは言っていいのではないかというふうに思われます。たとえば、大型の機械の共同利用のモデル施設を作るとか、あるいは畜産についていろいろな施設をする、あるいは共同加工についての実験をするとか、いろいろな問題を立てております。それからさらに、零細な兼業農家を整理いたします一つの方法として、先ほど申し上げましたように、農村の子弟に対する就業対策というようなものも取り上げられております。そういう意味で、ことしの農林経費というものは、少なくとも方向におきましては、私はそれほど誤っていないのではないかというふうに考えております。  ただ、それにもかかわらず、われわれにとりまして非常に不満なことは、必ずしも新しい曲りかどに対してまず第一に決定的にそちらの方に農政が踏み切ったという態勢にはまだなっていないのではないか。むしろ従来の惰性によって従来と同じような政策を続けていくような部分がかなり残っていやしないか、こういうことがまず第一に不満に思われるわけであります。これは特に、食糧増産対策費が農業基盤整備費というふうに名前を変えたということは先ほど申し上げましたが、もしこれが単なる看板の塗りかえにすぎないということでありますならば、それはあまり私は意味がないと思うのであります。新しい農業に対応するためには、同じく公共事業と申しましても、従来とは違った考え方をしなければならない。先ほどちょっと例として申し上げましたように、土地改良事業一つにいたしましても、あるいは耕地整理事業にいたしましても、従来のような土地改良事業なり、従来のような耕地整理事業のやり方では、もはや新しい農業には対応できないだろうというふうに考えます。はたしてそういう新しい農業に踏み切るという意味で、食糧増産対策費が農業基盤整備費になったのか、あるいはそうではなくて、従来の食糧増産対策費が看板を塗りかえただけであるのか、こういう点になりますと、まだこれはもう少し政策が動き出してみなければはっきりした結論はむろん出て参りませんが、どうも私はあとのようなにおいが強いのではないかという感じがするのであります。もしそうであるといたしまするならば、やはりこの農林経費というものはもっと古いからを勢いよく脱ぎ捨てるべきであるというふうに申し上げたいわけであります。  それからさらに、今度は、いろいろ新しい経費が盛り込まれているということは先ほど申し上げ通りでありますが、実はその金額を拾ってみますと、これはまたお話にならない。スズメの涙といってもまだ大き過ぎるような、まことにわずかな金額であります。こういういろいろな経費の中で、おそらく一億円をこえているものは幾らもないのでありまして、大部分は数千万円、場合によっては数百万円というような項目さえある。とにかく、五百万戸の農家に対しましての施策といたしましては、いかにもそれは貧弱であるという以外にはないと思うのであります。もちろん、政府としてはこういう新しい試みをいきなり大規模にやり出すということは冒険に過ぎるのであって、まず少しずつ手をつけてみて、それからうまくいきそうだったら拡大をしていく、こういう慎重な態度をとられたのであろうということはむろん推察できますけれども、ただそれにもかかわらず、私はこういう点を申し上げたいわけであります。それは先ほど申し上げましたような、日本の農業の転換という問題は、おそらく政府が予想されているほどにゆっくりのものではないだろう、私、これはもちろん将来のことでありますから勘で申し上げるしかないのでありますが、いろいろな最近二、三年の傾向なり、それから、これから予想されるいろいろな条件というものを考え合わせてみますと、かなり早い勢いでこの日本の農業の転換が行なわれなければならないような事情が出てくるというふうに考えます。そうなりますと、せっかく、慎重であるということはいいといたしましても、それが慎重過ぎてタイミングが合わなくなってしまうというおそれが多分にあるのであります。そういう意味で、もう少しはっきりした先の見通しというものを政府自身としても持って、もう少し大胆に新しい農政というものに踏み切るべきではないか。その点でいかにも貧弱な経費しか組んでいない。のみならず、先ほど申し上げましたたとえば畜産物や農産物に対する、果実に対する加工施設の問題とか、あるいは農協の再編成という問題は全然取り上げられていないというような状態であるのでありまして、そういういろいろな点をからみ合わせて考えてみますと、もう少しタイミングに合った積極的な政策というものがこの際望まれてもいいのではないか、こういう感想を持つわけであります。  大へん急ぎましたので、言葉が足りない点もあると思いますが、一応それたけの点を申し上げまして、足らない点がありましたら、もし御質問があれはお答えいたしたいと思います。(拍手)
  66. 小林英三

    委員長小林英三君) ありがとうございました。
  67. 羽生三七

    ○羽生三七君 最初に、本年度予算に及ぼす経済の影響について、若干疑点を持っておる点があるのでありますが、あとの農業問題全般については全く同感であります。そこで、ただ一つお伺いいたしたいことは、私は長野県でありますけれども、あの山の中の県に市が今十六あります。朝、通勤電車、バス、自転車で勤労者が一ぱい職場へ通うわけでありますが、それがいわゆる純粋のサラリーマン、あるいは農業だけで生活できるような形のサラリーマン、市営住宅とか、あるいは個人の勤労者としての住宅から通う人も相当ありますが、非常に多くの部分が農村から通っておるわけです。非常に混雑をした電車、バスで通勤しております。これらの諸君は大体二、三反歩から五、六反歩の経営をやっているのですが、全然その経営について商業ベースで経営しようとか、あるいは生産性を高めようとか、そんな考えは、ある程度あるでしょうが、あまりない。そんなものは採算が合っても合わなくても、労働時間がどんなにかかろうとも、うちの息子が役場なり銀行なり、あるいは会社なり、あるいは公務員として勤めておる、あと残った奥さんや、つまり家でいえばお嫁さんやお父さんがとにかく重労働をやって農業経営をカバーしていく、足りないときには季節労働者を頼む、こういう形の経営でありますから、全然われわれが企図しておるような生産性の向上とか合理化ということは望むべくもない状況にある。一方、昭和二十七年ごろからずっと上がってきた農業の農機具の投資等は頭打ちになってなかなか機械も最近ではあまり入らなくなってきた。これは顕著なる傾向であります。これはどうしても、先ほど来お話を承ってわかってきたのですが、共同化をやらなければならない。ところが、今申し上げましたような諸種の関係で制約されているのでなかなか共同化ができない。ここに私は一つの打開しがたい隘路が存在しておると思う。しかし、それを権力をもってやることは社会主義の国家でないからなかなかできない。法律でこれをどうするわけにもいかない。勧めたところで、うちで食うだけのものはとれるのだ、時間がかかろうが何がかかろうがそれは別だ、こういうことになってしまって、この隘路の打開が困難だ。ここに私は一つの農業問題の基本的なむずかしさがあると思うのです。だからいろいろな形で農協あたりが流通構成だけでなくして、生産の基盤を拡充するような仕事をしてもらわなければなりませんが、同時に、何らかの形で共同化の促進ができる方法というものはないものか、これは現実に私は農村におって非常に痛感するわけですが、御所見があったら承りたい。
  68. 大内力

    公述人(大内力君) 今の御質問は大へんむずかしい問題を持っておりまして、私も自信を持って申し上げるほどのうまい考えを持っておりませんが、ただ、今御質問の兼業農家、零細な兼業農家の存在ということに関して申しますと、この点は、ある意味ではかなり遠い将来を考えますと、そう心配しないでもいいような問題ではないかという感じもします。それは御承知通り最近、特にここ二、三年でございますが、新規学卒者、学校を卒業いたしました農家の子弟とかというものの農業外への流出というものが非常に著しくなっておる。数字を申し上げますと、戦前におきましては、大体、年々新規の学卒者は八十万人くらいおりますが、その中のおよそ半分の四十万人くらいの者が大体農村に残りまして、農家の跡を継いだり、あるいは兼業農家になりまして、兼業をしながら農業をやっておる、こういう形で、要するに農家人口を補充していたように思うのです。ところが、最近になりますと、昭和二十五、六年ごろから、それが大体二十万人台に下がって参りました。それから昭和三十年以降をとりますと、二十万人台を割りまして、十七、八万くらいになっておるというふうに推定されるのであります。要するに農村の若い学校を卒業した人たちで農家に残って農家の跡を継ぐ、あるいは兼業をやる人、こういう人が非常に急激に減っているということであります。従って、これからそういう状態が三十年なり四十年なり続くというふうに考えますと、今、兼業農家にいる人たちはだんだん老朽化して退いて、そういうふうに農家の外に出てしまった者がなかなか戻ってこない、こういうことになれば、かなり長い先には一応の整理がつくということも考えられるわけであります。  ただ、実際問題といたしましては、そういうゆうちょうなことをいっていては問題が解決しないのでありまして、そこで、今存在しております兼業農家をできるだけ早く整理をするということの方法を考えたい、こういうことになるかと思いますが、この点はおっしゃられる通り、私も今の政治体制というものを前提といたします限り、強制的に農業をやめて外へ出ていけという形でたたき出すという方法はないと思いますし、また、そういうことをすることは望ましくもないというふうに考えております。しかし、できるだけ兼業農家が農業をやらないで、農業外の仕事で専業化し得るような、そういう条件を整えてやるということは、やはり政策的に要求されていいことではないかというふうに考えます。その点で、これも幾つかの問題がございますが、一つはこういうことかと思います。まず第一には、先ほどお話のような、かなり県庁に出たり、役場に出たり、工場に通ったりして相当高給をはみながら、しかも、なかなか農業をやめないのはなぜかと申しますと、一つの理由は、やはり、そういう勤めの場合には、万一病気をしたり、あるいは首を切られたり、あるいは年を取って、そういうところに勤められなくなる、定年になってやめなければならない、あとの生活の不安がある。そこで、やはり農業をやっていて、いざというときに備える必要がある、こういう配慮がかなり働いているように私には思えるのです。従って、その問題を解決する方法としては、やはり養老年金なり、社会保障制度なり、そういうものをもちまして、そういう不安なしに農業から離れて非農業に転換できるような条件というものを作り出す必要がありはしないかということです。  それからもう一つは、先ほど申しましたような、農家の二、三男、学卒者にいたしましてもそうでありますし、それから農家から通勤している人たちもそうでありますが、必ずしも全部がそういう比較的いい条件の職場を持っているわけではないのであります。むしろ、数から申しますと、非常に多くの部分はやはり零細な中小企業なり、あるいは商家なり、そういうところに勤め口を求める。ところが、そういうところの労働条件というのは、まだ御承知通り非常に悪いわけでありますし、ことに賃金も非常に安い。そこで、ついでに申し上げますと、そういう農村の学卒者でも外部にせっかく一度職を求めながら、しかし、その職場に落ちつけない。あまりにも労働条件が悪かったり、あまりにも賃金が悪かったりするために転々と職をかえてしまうという者が非常に多いわけであります。実際われわれが村で多少調査したこともありますが、学校を卒業して就職をして、二、三年のうちに職をかえている者の数は予想外に多い。しかも、それがちっとも安定しませんで、あちらこちらと流れ歩いているうちにしまいにどこへ消えたか、行方不明みたいになってしまいまして、親の家でも自分の子供がどこへ行ったかわからない状態になる、こういうことが意外に多いので私も驚いたことがありますが、そういう中小企業なり、あるいは家内労働的な使われ方をしております人たちの労働条件、賃金条件が非常に悪い。この点は解決する必要があるかと思います。これはむろん経済政策全体として考えなければならない問題でありますが、さしあたりの法律的な措置といたしましては、やはり最低賃金法をもっと強化するということ、それから五内労働法を作るというようなことが一つの方法かと思います。第三の問題としては、言うまでもなく失業したとき、あるいは病気をしたときに備えますために、失業対策事業なり失業保険の制度、健康保険の制度というものをもっと完備することが必要かと思います。ともかく、そういう社会保障的な施設を拡充していくことによって、兼業農家というような非常に不自然な形でなければ生活ができないし、生活が安定しないというような条件をできるだけ取り除いてやるということがまず先決問題である。もちろん、そのほかに農家といたしましては、伝統的な、慣習的に土地に愛着を持っているとか、あるいは農村に住んでいたいという人もむろんあると思いますけれども、しかし、かなりの部外はそういう方法によって、私はそう摩擦なしに整理がつくのではないかというふうに考えます。  それで一方ではそういう方向が考えられるわけでありますが、それにいわば歩調を合わせまして共同化という問題が出てくるわけであります。この点につきましては、これもまた、いろいろの問題がございますが、やはり先ほどのお話のように、私もその共同化をするとすれば、比較的大きな専業農家というものがどうしても中心にならざるを得ない。零細なる兼業農家は、むしろ先ほど申しましたように共同化のじゃまになるというふうに考えられる。従って、零細な農家を全部整理できればいいわけでありますが、これはなかなか整理ができませんから、結局、私はそういう共同化のできる部分になるべく専業農家を集中していく。それから都市の近郊なり工場の周辺なりという所にむしろ兼業農家を集中していく、そういう形で、移転の問題がありますし、土地の交換の問題がありますが、いろいろやっかいな問題があると思いますけれども、少なくとも土地の交換なり、あるいは移転に対してある程度の奨励をするなり、こういう形である程度地域的に共同化を進めるモデル地区と、それから兼業農家は兼業農家として集中する地区と、こういうようなものを少し分けて、それを全体をいわば国土計画的に配分していく、こういう考え方ができないものかどうかということを考えている程度のことしかまだ材料はないのであります。
  69. 鈴木強

    ○鈴木強君 日本だけでなしに世界的に申しましても、どうも百姓が貧乏くじを引いているのですね。私は大した知識もありませんしするのですが、たまたまジュネーブの国際労働会議に行きまして、六十三ヵ国の各国から集まった農業労務者の諸君と約一カ月ばかり会う機会があったのですが、そのときに異口同意に言っていることは、どこの国でも百姓というものが非常に伸びない、非常につまらない仕事だというようなことを言っているのですが、日本の場合なんかは、特に今、羽生先生からお話がありましたように、ある程度、平地の農家の人たちはとにかくとして、山間僻地の二反、三反百姓なんかはこれはもうとてもではないのですが、どういう交換分合しようが、農業の共同化を考えて見ましても、どうにも借金がふえて子供の教育も十分できないというような悲惨な状態に置かれていると思うのです。ですから、こういう全世界的に共通に見えるこの農業に対するそういうものを御勉強になっておりましたら私は聞きたいのですが、たとえばアメリカのような国でも、最低賃金で農業労務者は一時間八十セント、それからそうでない他の労務者は一ドルもらっているのです。そこに二十セントの差が最低賃金でもある、こういうようなことは歴史的にどういうところに原因があるのでしょうか。だから私は、次の問題とも関連をして、確かに兼業農家がよそへ出て、本来の何か職について一人減り二人減り、もう農業をあきらめて出て行って、残された人たちが地ならししてやればいいんじゃないかということも一つの理屈だと思いますが、なかなかしかく簡単にいかぬと思います。そこで、そういった宿命的な全世界的な、農家が日の当たらないようなところにいることの原因と同時に、日本の場合は、それに関連をして農業移民ということが大きく取り上げられてしかるべきではないかと思うのです。今、アメリカに派遣されております、派米されている派米労務者、いわゆる短期移民者というのですか、これなんかの成果というのですか、そういったものがどうも私にはよくわからないのですが、アメリカに行って、あの広い耕地の中で機械化された農業を勉強しても、日本でそれが使えるかというと、なかなかそうはいかぬと思うのです。ですから何のために派米労務者、短期移民さしているのか、非常にわからなくなるのですが、向こうへ行くといろんなトラブルが起きて、今度帰った人たちもずいぶんひどい目にあっているし、現にわれわれがアメリカへ行って見ましても、当初こっちから行ったときの希望通りでなくて、ずいぶん苦しんでいます。ああいうものに対して根本的にメスを入れる必要があると思いますが、これらの短期派米労務者の政策について何か御意見があったら承りたいと思います。  と同時に、もう一つは、今、南米、ブラジルを中心にして多少の農業移民政策をとっておりますが、これを東南アジアを含めて日本の農業問題、人口問題と関連をして思い切った移民政策というものをとるべきではないか、こういう考え方があると思うのですが、これにはまあ昔のような島国根性的な、出かせぎ根性的な考え方を持ったのじゃいかぬと思いますが、そういった思想の切りかえはするとして、何かそういう世界的な、日本の農民が移民していくというような、そういうふうなことに対する見通しと申しますか、御研究がございましたら一つこの機会に聞かしていただきたいと思うのですが。
  70. 大内力

    公述人(大内力君) 今、御質問二つあったと思いますが、前の派米の農業労務者の点でございますが、これは私あまり詳しい実情も存じませんし、こまかいことも知っておりません。ただ一昨年、私も一年間カリフォルニアにおりまして、多少向こうの農業を見て歩いておりまして、そのとき日本から来ている人たち、あるいはそういう日本人を使った農場主に会いまして、多少の感想を聞いたことはございますので、まあその程度のことしか判断の材料を持っておりませんが、これは私はアメリカの農業のやり方を、いわば学ばさせるという趣旨がはっきり明確化されるならば、かなりある意味ではいいことではないかというふうに思っております。もちろんアメリカの農業と日本の農業は技術体系も違っておりますし規模も違っておりますので、それがすぐそのまま勉強してきたから日本の農業で役に立つというふうには参らないと思いますが、ただ何と申しましても、ああいうふうに非常に商業性の高い合理的な経営をやる、こういう農民としての態度というようなものをもし学ぶことができれば、また、そういうアメリカの農業を見てきた目をもって日本の農業を見ますならば、日本の農業のどういうところに欠陥があるかということがよりよくわかるかと思うのであります。そういう意味では学ぶということが中心になるとすれば、これは一つの方法と申しますか、かなり有効な方法ではないかと思っております。ただ実情におきましては、私の知っている限りでございますからあるいは間違っているかもしれませんけれども、私の知っている限りで申し上げますと、その点にかなり誤解がいろいろあるように思うのであります。というのは、日本から渡る青年たちはむしろ向こうに行って見学ができて、アメリカの農事についていろいろ学ぶことができる。それと同時に、半年なら半年アメリカでかせげばある程度の小づかいくらいはたまる、こういうかなり甘い夢を持って行くわけでありますけれども、アメリカの方の雇い主であるアメリカ人の農場主から申しますと、決してそんなものとして受け入れているのではないのでありまして、ちょうどメキシコ人を雇うのと同じように単なる労働者として受け入れよう、こういう態度であります。従って受け入れた以上、そうして賃金を払った以上は精一ぱいにこき使うのはあたりまえだというのがアメリカ人の考え方でありますから、当然こき使われるわけであります。しかも——労働時間はそう長くありません、大体八時間くらいでございますが、何としてもアメリカ人の労働というものは、日本人に比べれば非常にインテンシブに働きますから、日本の農民のようなぶらぶらした働き方をしていてはじきについていけなくなってしまう。そこにいろいろ食い違いが出て、不満が出てくる、こういう問題があるように私は見ております。従って、もし単に労務者を供給するという意味でありますならば、私は日本の農民を派米するというようなことはあまり意味がないだろうというふうに考えます。そうでなくて、もっと見学的な意味で、つまり向こうの農業の経営のやり方なり、向こうの農民の態度を学ぶという態勢をもし整えることができますならば、私は非常に意味があるのではないか。その点でいずれにせよ、ああいう農民を募集するときに、何か誤解が生ずるような募集のやり方をするのは、もしそういう事実がありとするならば私は大へん遺憾なことではないかというふうに考えております。  それから第二の点でございますが、移民ということはむろん私も全然反対だというふうには考えておりません。で、しかるべき場所があり、しかるべき資格がある農家であればもちろん新しい天地を求めて出ていくことはある程度奨励してもいいことかと思います。ただ、先ほどのお話のように、日本の農業の貧困の状態、ことに農村が過剰人口をかかえていて、それが農業の合理化の差しつかえになっているというような問題を移民という方法で解決できるかというと、私は解決できないというふうに考えております。  と申しますのは、まず第一に数の問題でございますが、おそらく日本の農業をある程度合理化する——先ほど来私が申し上げましたようなかなり合理的な高度な経営というものを考えますと、これはいかに共同経営なり、あるいは共同利用なりというものを考えるといたしましても、やはり専業農家というからには、少なくとも平均三町歩くらいの規模を持たなければ専業農家としては成り立たないだろう。つまり、今の日本の農家の平均規模の大体三倍くらいにならなければ成り立たないだろう。まあ兼業農家を全部整理はできませんから兼業農家をある程度残すといたしまして、そういう兼業農家が三反なり四反なり耕作をしていくということを考えましても、いずれにせよどうそろばんをはじいてみましても、少なくとも今五百万余りあります農家戸数を三百万くらいまで圧縮したり、それから千四百万余りございます農業人口を八百万くらいまで圧縮したりするというふうにしなければそろばんがはじけない。そういう非常に大量な問題でございますから、その大量な何百万戸というようなものを移民をさせるなんということはとうていできない。第一移民の先もございませんし、その一軒々々に渡航費なりあるいは向こうに行ってからの一応の生活と経営が成り立つだけの資金のめんどうを見てやるというようなことになれば、これは大へんな費用がかかってしまうのであります。とうていそれでは問題が解決できないだろうというふうに考えております。  従って結論的に申しますならば、そういう大いに意欲を持って海外に出たいというふうに考えておる農民に対して、ある程度の便宜を与え、それを援助してやるということは、これは農村の特に青年に対して一つの希望を与えるという意味で悪いことではないというふうに思いますけれども、ただ、その移民という方策が農業の問題を解決できるというふうに考えましたならば、これはむしろ考え過ごしではないかというふうに私は思います。移民というのはそれほど大きな意味を持たないものだろうというふうに思うのであります。  それからなおもう一つ、これも感想の程度のことでありますが、申し上げたいことは、私アメリカに行って非常に感じましたことは、やはり日本人の一世なり二世なりという人は、もう三十年も四十年も向こうに住んでいる、あるいは向こうに生まれて向こうの市民権を持っている人も多いわけですが、それにもかかわらずなかなか白人の社会に平等な立場をもって溶け込むということがむずかしい。そこにいろいろ非常に複雑な日本人問題というものを引き起こしているということはある程度承知かと思います。これは初期のアメリカとか南米のように、あるいはオーストラリアのように、ほとんど人間の住んでいない所に、未開の野蛮人が住んでいる所に文明人が行って、そこに新たに国を作るという所には問題ないわけでありますが、すでに相当高度に発達した国がありまして、そこへ異民族が入り込んでいくということは非常にむずかしい民族問題というものを持っているということをしみじみと感じたわけであります。従って、移民を奨励することは別に反対ではございませんが、やはりそういう問題についても相当の配慮をすべきであって、いわばせっかく出ていった人が長い間、孫子の代まで何となく日陰者のような感じを持つ、そういうおそれがあるということをやはり一応念頭に置いて移民の問題も考えるべきじゃないか、こういう感想を持つのであります。  以上でございます。
  71. 森八三一

    ○森八三一君 私、最初の方をお聞きしなかったので、あるいは御説明があったことを重ねてお伺いするかしれませんが、農業経営の近代化、合理化、そのために共同化という点が思考され、一面、現在の農業人口というものをある程度減らして、兼業農家を整理するという方法、そういう方法の上に立って今問題になっているいわゆる農業法人ですね、これに対する先生考え方、と申しますものは、一戸一法人あるいは複数法人、非常に問題があるのですが、そういう問題も含めて、農業法人の問題をどういうようにしていくかという先生の御見解を承りたいと思います。  もう一つの問題は、予算をごらんになってもわかりまするように、年々百数億の金を使って施策をいたしております農業災害補償の問題について、農民から非常に期待されてきている実態が存在している。ここで農業災害補償制度の問題について抜本的に考え直ししなければならぬという状況にあると思うのであります。もちろん日本の農業は、宿命的な不可抗力的な天災に遭遇することは計算に入れて取り組んでいかなければならぬことでございますので、そういうような災害に臨んで再生産を確保して参りますために補償制度を存続するということは当然であろうと思いますが、現在の実態から考えて、これをどういうようにしていったらいいかというような御構想がございますればその点をお伺いいたします。以上、二点につきまして御解明を願いたいと思います。
  72. 大内力

    公述人(大内力君) どちらも大へん大きなむずかしい問題でございまして、短い時間では意を尽くしませんが、まず農業法人の方から申し上げますと、実は現在いろいろ言われております農業法人というものに関しましては、御承知通りかなり込み入ったと申しますか、いろんな違った事情から農業法人を要求するというような動きが出てきておりまして、そのことが農業法人という問題を考えます上にまたいろいろ厄介な問題になってきておるのではないかというふうに私はまず考えております。  と申しますのは、農業法人の中のかなり多くの部分は御承知通り課税対策という形で出てきておるのでございまして、法人成りをいたしますと税金が安くなる、こういうために行なわれるものが多いかと存じます。こういうものは私は非常に不自然だというふうに思うのでありまして、その法人成りをすれば税金が安くなるということ自体が税制のゆがみを表わしているのではないか。従ってこの問題は、長らく農村側から主張されておりますように、たとえば専従控除の制度を考えるとか、あるいは基礎控除についてある程度の調整をするとか、そういう、つまり税制の上からまず処理すべき問題であって、それを法人という形で、いわば抜け道を作らせるというような政策は、あまりいい政策ではないだろうというふうに私は考えております。  それから法人の第二番目のものといたしましては、これは特に果樹園とか、養鶏、それから多少畜産の場合もございますが、主として果樹と養鶏に現われてきている形でございます。これにつきましては、一戸一法人という形でございませんで、むしろ数軒のものが共同経営をする、こういう建前でもってやりますために、法人を作った方が便利だと、こういう形のものでございます。こういう養鶏なりそれから果樹というようなものは米麦と違いまして、比較的大規模にやりやすいものでございますし、また大規模にやった方が、たとえば果樹園の薬剤散布の施設を作る、こういうようなことを考えましても、あるいは共同で開墾をするというようなことを考えましても非常に合理化ができますし、経費が安くなるものでございます。従って、こういう部分につきましては、むろん法人を作ることは、それが便宜であれば法人を作ったらいいというふうに思われますし、それからまた必ずしも法人という、しかし形式にこだわらなくてもいいわけでありまして、協同組合という形でもできるわけでございます。むしろ私は、ほんとうに農家が何軒か集まって共同経営をやるという意味でありますならば、法律の建前としては協同組合という形の方が自然ではないかというふうに考えておりまして、強いて法人という形をとる必要は必ずしもないというふうに思いますけれども、しかし別に法人を作るということを、特に禁止しなければならないというほどの積極的な理由もないのではないかというふうに考えております。  それから第三の点といたしまして、大体その法人というのは、今問題になっておりますのは、今申し上げましたような二つの形でありまして、本来の米麦を中心としたような農業におきましては、法人化ということは従来からも問題になっておりませんし、おそらく今後もあまり問題にはならないだろうというふうに考えております。これは米麦を作るような普通の農業というものは、共同化をするというような条件がまだ今のところ整っていない。先ほど申し上げましたように、これを整えるために、まだ前提条件をいろいろ整備しなければならない、こういう段階でございまして、従って、共同経営のための法人というようなことも必要になって参りませんし、それから米麦作地帯は、御承知通り、課税の面では優遇されておりますので、課税の問題というものは、ほとんど起こってこないところが多いのでございます。そういう意味で、今のところ法人化という問題はほとんど出てきていないとしうふうに思います。ただこれは将来出てくるかもしれませんが、その点に関連いたしまして、一番問題になっておりますのは、御承知通り、農地法とそれから法人との関係という問題かと思います。つまり法人を認めますと、一番難点は、法人に対して土地を貸借するとか、あるいは法人自身が土地を所有する、こういう形になりますことが今の農地法の建前には反す、こういうことで問題になっていることは御承知通りであります。これは、しかし実は非常にむずかしい問題があるのでございまして、確かにその点は非常に不便のようでございますが、しかし、そうかといって、農地法の建前というものをあまりゆるめますと、そこからまた逆に弊害が出てくる。たとえば、農地改革でせっかく除かれました地主、小作関係というものが、ある程度復活してくるというような場合も起こり得るかと思いますが、それからいろいろそこにむずかしい問題が出てくるかと思います。ただ実は農地法全体としての建前といたしまして、法人の問題だけではなくて、先ほど申しましたように、将来の日本の農業で相当共同経営というものが広がっていくし、また広がっていかなければならないということになりますと、どうしても農地法の建前というものを、根本的に再検討する必要が出てくるかというふうに考えております。これをどういうふうに解決したらばいいかということは、私もそれほど具体的に考えているわけではございませんが、おそらく考えられる唯一の方法は、やはり土地について共同管理の施設というものを考えて見るべきではないかというふうに私は考えております。この土地の共同管理という問題は、たしか昭和二十九年だったかと思いますが、河野さんが農林大臣になられて間もなくのころでございます。あるいは違っているかもしれませんが、そのころに農林省で農政調査会というものを作りまして、各部局的に農政の根本的な検討をしたことがございますが、その中で、この農地局関係の調査会で、土地の問題をどうするかということで研究をしたことがございます。そのときに出ました結論も、結局共同管理という方式で問題を解決する以外には、農地改革の成果を維持しながら、しかも農業の発展に対応し得るような弾力的な土地所有関係、あるいは土地の貸借関係というものを作る方法はそれ以外にはないだろうという結論に大体達したのでありますけれども、まあ私も、今もってどうもそれ以外には適当な方法はないように考えております。ただ、この考え方は、そのときただその意見として出ただけでございまして、具体的には政府でも、国会でもお取り上げになっていないように存じておりますけれども、これはぜひ近い将来に研究してみなければならない課題ではないかというふうに考えております。  それから、次の災害補償の点でございますが、これも大へんむずかしい、数年来やかましい問題になっておりまして、いろいろな考え方があるわけです。これは、こまかく申し上げますと、大へん時間をとりますので、ただ結論的なところだけ申し上げさせていただきますけれども、私の考えでは、今の災害補償制度というものはいろいろな難点を持っておりますが、根本的な難点は二つないし三つあるんだろうというふうに考えております。  で、その一つの難点は、今の災害補償制度というのが、御承知通り、これはまあ、私は、げたばきというふうに呼んでいるのですが、つまり一番もとのところは農林省の再保険の特別会計、こういう形で、国の事業で処理されておりまして、国が再保険を引き受けると同時に補助金を交付する、こういう形でやっております。ところが、それから下は、農業共済組合、村の共済組合、それからその上の連合会、こういう形で、一応民間団体という形になっておる、こういうげたばきと申しますか、つまり二階建になっておるわけでありまして、政府の事業と民間の事業というものが結び合わされるという形になっている。そこにこの制度として非常に問題が出てくるのではないか。そこで、この下の方の共済組合の運営から申しますと、むしろできるだけ政府から何とか吹っかけて金をぶんどった方が有利だというような考え方にならざるを得ない。しかも今の共済制度は、一種の自己査定をする制度になっておりまして、共済組合が損害を査定し、共済組合がその損害を自分できめるという形になっておりますので、いよいよもってこの災害を大きく見積って、そうしてそれをできるだけ吹っかけて政府から金を巻き上げる、こういう運営にならざるを得ないのではないかというふうに思われる。また、そうでなくても、この共済制度そのもののいわば責任の所在というものが非常にあいまいになっておりまして、そこに運営が非常にむずかしくなる一つの原因があるのではないか、こういうことを考えております。そういう意味で、私はもし政府自身が共済制度を必要だというふうに考えますならば、これはできるだけ末端まで国営保険という形で、一本の筋を通すべきであって、げたばきについてはいかぬ、それからもし政府がやらないということでありますれば、これは純然たる民間の、あるいは共済組合の保険として、あるいは共済事業としてやらせればいいのでありまして、いずれにせよ、そのどちらかに片づけなければ、今のような二階建でやっている限りはいつまでも合理化しないだろうということが一つであります。  それからもう一つは、第二の点は、この共済制度というものの中に、かなり無理なものを包含しているということであります。特にこの点で問題になりますのは、家畜保険というものは一番問題が少ないのであります。それから作物保険の中でも、水稲の方がまだうまくいっているのでありまして、麦になりますと非常にこれはむずかしい。それから陸稲もかなりむずかしいものがあると思います。そこで、政府がやるといたしましても、私はもう少し共済の対象というものを整理した方がいいというふうに考えております。まあおそらくやれるのは家畜でありますが、家畜保険は必ずしも政府の共済としてやらなくても、私は一定の方法、方式さえとれば、協同組合で十分やれることではないかというふうに考えております。それから、麦は大体やめた方がいいだろうという考えであります。それから養蚕は、蚕繭、桑とそれから繭でありますが、蚕でありますが、これもなかなかむずかしいのでありますけれども、これはだんだん桑とか繭とかいうものの重要性が、日本の農業では小さくなっておりますから、いずれ、おそかれ早かれやめていいものではないかというふうに考えております。そこで最後に残るのは、米だけじゃないかというふうに思われるのでありまして、もし国営保険としてやるとすれば、私は米についてだけ、もう少しちゃんとした制度を考えるべきであって、ほかの作物ないし家畜は一応はずしてみたらどうかというのが一つ考えなんであります。  それから、第三の点として申し上げたいことは、今の共済制度というものは、あんまり制度としてこまか過ぎるということでございます。これはいわゆる保険の計算方式によりまして、こまかいことは省略いたしますが、危険率を計算いたしまして、そうして、この保険のシステムになるべく乗るように設計されているわけです。ところが、実際の末端の村へ参りますと、第一、作付面積そのものが非常に不正確にしか押えられておりません。特に麦の場合はそうであります。陸稲もそうであります。まあ水稲だけがどうやら、ある程度作付面積が正確でございますが、これも必ずしも正確とは言えないようであります。その上に、災害の査定という点になりますと、これはもうきわめて大まかな話になってしまいます。大体その基準反収というものがいいかげんなものでありまして、一筆々々の土地についての基準反収というものは、とうてい正確に押えられておりません。また、押えようもないような状態でございます。それから、それに対する実収というのも、一筆々々について押えようといたしますと、とうてい押えようがない。農家といたしましても知らないのでありますから、農家は一筆ごとに脱穀して量をはかっているわけじゃございませんから、農家としても押えようがない。そこで要するに、見積もりでやるしかないということになり、見積もりでやりますと、いろいろな主観的なものや、あるいは利害関係がそこに入って参りまして、そこでふくらんでみたり、縮んでみたりする。こういうことになって、結局、めちゃくちゃになってしまっているのだろうというふうに考えます。そこで、私は、今の日本の農業の状態では、そんなふうにこまかいことを言ったって、とてもできないので、もう少し大まかなことを考えたらどうかということであります。たとえば、基準反収にいたしましても、あまりこまかくきめないで、これを上中下ぐらいの三等級くらいに分けてしまう。それから、料金を取るにいたしましても、つまり、保険料を取るにいたしましても、これをあまり危険率とかなんとか、めんどうくさいことを言わないで、場合によっては、目的税のような形にしてもよろしゅうございますし、あるいは反別なり何なりに応じてかけるというような、かなり簡単な形にしてみたらどうか。それから、共済金の支払いにいたしましても、その災害が何割のときは幾らというような、あまりこまかいことを定めないで、半分くらいになったらどれだけ、収穫皆無ならどれだけというような、かなり大まかな形にした方が、かえって不公平でなくなり、かえって不満が少なくなりはしないかと、こういうことを考えております。  それから、もう一つ、ついでにつけ加えさせていただきますと、今の共済制度というのは、御承知通り、平年作に対しまして三割以上の被害が生じないと保障を、共済金を給付しないと、こういう形になっております。ただし、農家単位の場合には、二割以上の災害ということになっていることは、御承知通りであります。で、ここにも相当問題があるのでありまして、実際その三割の被害とか、まあ二割でもそうでございますが、二割とか三割という被害は、常習災害地帯を除きますと、かなり異常な被害でございまして、そうしょっちゅうあることではないといった方がいいと思います。そこで、多くの農家にとりましては、なかなかその線までは実際問題としては災害が起こらない。しかし、掛金を払っている以上は、共済金はほしいということでありまして、そこで結局、この災害を水増しするという結果になるのではないかというふうに考えます。そこで、その点から考えますというと、ある程度でも掛金を取って、それに対する共済金という形で、保険という考え方で運営できるのは、私はむしろ、もっと小さい範囲ではないか。たとえば、平年作に対して一割とか二割とかというような、今共済の対象になっていない部分の方が、むしろ保険という形で解決できる問題だ。それ以上の三割とか五割とかいう災害、及び常習災害地でございますが、そういう地帯につきましては、これはとても保険という形では処理し切れないだろうというように思っております。従って、そういう災害に対しましては、これは別に災害救済の措置を考えて、これは共済制度からむしろはずした方がいいのじゃないか、こういうような感想を持っております。  そのほか、いろいろこまかい点で申し上げたいこともございますが、一応以上だけ申し上げておきます。
  73. 加瀬完

    ○加瀬完君 畑作改善のお話を承ったわけでございますが、筋道としてはわかりますが、現実の面になりますと、なかなか問題が多いのじゃないか。たとえば現在の畑作を、先生おっしゃるような果樹あるいは畜産の飼料作物に転換するといいましても、地理的条件、経済的条件というものは、なかなか転換をしてすぐ採算に合うということにはならないのじゃないか。あるいは、先生の御説明の中にもございましたように、農業協同組合がみずから生産をし、みずから加工をするという形をとりましても、現在でも行なわれておりますいろいろな加工工場は、大メーカーに食われて、ほとんど採算が合わない、こういう現状を何か具体的に打開するお考えをお持ちであるかどうかという点が一つ。  それから、先生のお話しの中で、農業基盤整備費というものが新しく作られたということは一つの進歩である、こういうようなお話がございましたが、農業基盤整備の中で一番私どもが取り上げてもらいたいのは、畑作転換にも関係がありますが、カンショ栽培、イモ作農家の問題じゃないかと思うのです。現在のイモ作農家が直ちに果樹なり畜産飼料なりに転換するということも不可能であります。しかしながら、本年度のような価格でありましては、これは農家の個人の経済にとりましては、非常にバランスを失うわけでありまして、イモ作農家の対策というものを今後どのように考えていったらよろしいのか。少なくとも、農業基盤整備というようなことを考えるならば、イモの転換というものをまず基本的に考えなければならない。ことに関東地方などでは、そういう必要を私どもは感ずるわけでございますが、政府の施策にはこういう点がございませんが、先生の御所見を承りたいと思います。
  74. 大内力

    公述人(大内力君) 今の御質問の中で、最初に畑作の問題と、それから、あとのカンショの問題、これはひっくるめてお答えした方が適当かと思いますので、それを先にお答えいたしまして、加工の問題はあとにお答えすることにいたしたいと思います。  おっしゃる通り、畑作をどう持っていくかということは、実は大へんむずかしいのでございまして、大体の方向としては、大きな方向としては、先ほど申し上げましたように、できるだけ飼料の方に切りかえていく、こういうことしかないというふうに思っております。これは日本だけの問題ではなくて、世界的に、世界の農業がどこでも、だんだん経済が発達するにつれまして、畑作では、人間の食糧を作るよりは、家畜の食料を作る方に転換していっておるわけであります。従って、日本としても、だんだんそちらの方に転換するということを考えるのがしかるべきだろうというふうに思います。ただ、実際問題としては、その過渡期というのは、相当むずかしいわけでございまして、一方で家畜が入らないのに、飼料作物だけ転換するというようなことは、なかなか言ってもできないというような問題もございましょうし、それから、価格の問題というものもあるかと思います。ただ、飼料への転換ということは、むろん、先ほど申し上げましたように、本来の建前としては、自給飼料という考え方になりますから、従って、家畜が入らなければ、飼料作物を作ってもしようがないといえばそうでございますが、しかし、御承知通り日本は非常に飼料の足りない国でございまして、現在でも相当たくさんの飼料を輸入に仰いでおります。従って、飼料の需給、国内全体としての需給というものを考えれば、必ずしも個々の農家がすぐに家畜を入れなくとも、ある程度飼料としてのはけ口というものはできると思います。ただ、麦にいたしましても、カンショにいたしましても、そうでありますが、これは飼料として十分利用できるものであります。飼料価値の高いものであります。ただ、今の価格では、なかなか飼料としては需要が伸びないだろうというふうに考えるわけであります。従って、基本的にはこの問題は私は先ほど申し上げました畑作の合理化ということ、合理化によるコストの切り下げという問題にかかってくるのでありまして、必ずしも作づけ面積を減らすということにはならないというふうに理解しています。で、その合理化によるコストの切り下げということで、たとえばイモについて問題が出ましたけれども、おそらくイモの価格というものを理想的に申しますならば、貫当たり十円まで下げるということが可能になりますならば、私は飼料としての伸びというものは相当大きくできてくるだろうというふうに考えております。  で、そこまで切り下げるということは、今の経営状態を前提といたしましては、むろん農家にとっては非常に赤字をしいるということになりますから不可能でありますが、ただ従来の日本の畑作というのは研究の面でも非常におくれておりまして、技術的な検討が十分行なわれていなかった問題でありますが、しかしこれは合理化しょうと思えば水田よりはある意味ではやさしい点もあるわけでございます。そこで、どういう方法で合理化するかということは、私も専門家ではございませんからよくわかりませんが、たとえば畑地の土地改良なり、あるいは畑地灌漑の問題も解決しなければならないと思います。  それから畑地農業の機械化という問題もむろん考えなければならないわけでございますが、そういう形で合理化をすることによって価格を下げることさえ可能になりますならば、飼料化ということは可能であろうというふうに考えます。それから、もしそれが急に、タイミングが合わないといたしますならば、タイミングを合わせる過程では、やはりある程度の補助金政策なり、二重価格政策というものによって、一方では農家の合理化を促進しながら、しかも他方では飼料化が可能になるような価格というもの、消費者価格というものを考えていく、こういう方法で解決する以外にはないだろうというふうに考えております。  それから、この加工の問題でございますけれども、これもおっしゃる通り、今の状態におきましては農村の加工というものは非常に進んでおりませんで、むしろ乳業資本なりその他の大資本によって支配されているということはおっしゃる通りでございます。ただ、これはまあ考えようでございますけれども、そういう大きな大資本が支配をしているから、協同組合の加工というようなものが伸びないのであるか、あるいは逆に協同組合の加工のようなものが伸びないから大資本に思う通りのことをさせてしまうということになるのかということになりますと、ちょっとどちらかはよくわからないのでありまして、私は必ずしもこの協同組合である段階までの加工というものは十分計画的にやれば不可能ではないだろうというふうに考えます。それから、またそれによりまして、大資本に対抗することも十分できるのではないか。ある条件が整えばできるというように考えております。ただ、そのある条件というのはいろいろございますが、一つはつまり村ごとに、あるいは数ヵ村一つでもいいですが、とにかく村なり数ヵ村一つなりに相当能率のいい加工設備というものを作るということになりますと、たとえば果樹なりあるいは乳牛なりというものが相当集団的に入って参りませんと、あっちへ一頭こっちへ一頭というふうにばらばらに入られたのでは、とても加工設備としてはまとまらないわけでございます。そこでその地域的な計画性というものは相当重要になってくるわけでありまして、一つの協同加工場を中心といたしまして、その周辺に適当な量の原料の供給圏というものができて、そこで集団的に、つまり集団酪農というような考え方でございますが、そういうものがもっと組織的に行なわれることが私は必要ではないかということでございます。  それからもう一つは、加工の段階というのがいろいろ考えられますが、それよりも重要なことは、やはり協同組合だからといって安い設備でがまんしているということでは、大資本にとうていかなわないだろうと思います。協同組合であるとしても、やはり設備としては最新の、最良の瀧を持つということでなければとうてい対抗できないのではないか。そこでその最新最良の設備を持たせるためには、今の協同組合の力でもってそれができるがどうかということになりますと、これは相当いろいろ問題もあろうと思いますけれども、しかし御承知通り、協同組合が持っております資金量というのは非常に大きいわけでありまして、しかもその資金のかなりの部分は農業外に貸し付けられるという形で運営しております。従ってこの資金の流れというものを、ある程度政策的に調整をするということになれば、相当の資金の動員力というものを今の農協は持っているだろうというふうに考えますし、それでも、どうしても、ある程度の助成施設というようなことが必要になってくるかというふうに思います。  それから第三の条件は、この消費市場との結びつきというものでございまして、これは一つはそういう地方的な加工施設を組合が持ちますと、私は地方的にも市場というものがもっと開けてくるだろうというふうに考えます。現在の農家でも、御承知通り、かなり牛乳の消費とかあるいはバター、チーズなんかの消費がふえてきております。これは農家の消費水準が高まればもっとずっとふえるものだろうというふうに思いますので、そういういわばインター・ローカルの、あるいはローカルの中の市場というものが協同加工施設によってもっと伸びるだろうということを一つ期待しておりますが、それにもかかわらず、やはり大都市の消費市場というものを協同組合というものが十分押えませんと、なかなか大資本と競争はできないだろうというふうに考えております。このためにはまあいろいろむずかしい問題ございますけれども、たとえばある土地の消費組合運動というようなものとそれを結びつけるということも一つ考え方でございましょうし、あるいは全販連のようなものがもっと消費地における市場の開拓というものに力を注いでいくということも一つの方法かと思います。ともかく、以上申し上げましたような幾つかの条件が整いますならば、私は必ずしも協同加工というものが大資本に食われてしまう、こういうふうには考えないのでありまして、むしろ共同でやった方が農家のためになるように、また場合によっては消費者にとっても有利になるような条件ができはしないかというふうに考えております。
  75. 小林英三

    委員長小林英三君) それでは大内さん大へんおそくまでありがとうございました。(拍手)  本日の公述は以上をもって終了いたします。  明日は午前十時より公聴会を開会いたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後五時十八分散会