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政府委員(
高木廣一君) さっきも申し上げましたように、
移住は一年、二年で簡単にゆくものではございませんで、また、戦後
最初に
アマゾンへ五十七名参りましたのは
昭和二十七年でございます。大部分の
移住者が、この
移住の
数字を見てもらいましてもわかりますように、まとまって行くようになりましたのは、
昭和二十八、九年、三十年ごろからでございまして、まだほんの四、五年でございます。しかしながら、たとえば。
パラグアイのごときは、おととしごろは、あの
移住地の一部においては非常にうまくいってないで、もう餓死するんじゃないかというような極端なうわさまで
日本に伝わったわけでございますが、昨年私が参りましたときには、
移住地は非常に隆々とやっておりました。そうしてその中で今のフラムという
移住地でございますが、そこに三つの組合がございまして、そのうちの
一つのヌマクマチョーというのが非常に悪いんだと言われておったんですが、これも他の
移住地の成功に刺激せられて、非常な挽回を示し、今日では大体三十五
町歩から五十
町歩の
土地を持って
移住者はゆうゆうと暮らしております。私昨年参りまして、これらの
移住者に、あなたたちは
移住してどう思うか、
日本へ帰りたくないかを聞くと、とんでもない、私は昨年は十
町歩の
土地を耕しましたが、ごとしは五
町歩、もしできれば十
町歩耕す、裏にはまだ二十
町歩三十
町歩という
土地があって、その開拓に忙しいんだと言って、えらい明るい、
日本ではとても聞けないような話をしておりました。たまたま
パラグアイへ参りましたときには、ちょうど彼らが作りました大豆を
日本へ売る契約ができたニュースなどが、すでに
パラグアイの方にも伝わりまして、私自身はそれほどとは思わなかったんですが、
移住地各地で、この
パラグアイの大豆を
日本に売ることに対する
政府のあっせんについては非常に感謝せられたのでありますが、この
パラグアイの
移住地なんかははなばなしい、わずか三年足らずの
移住地でございますが、非常な成功をしております。それからもう
一つ例を申しますれば、ボソビアのサンファンというところ、これは昨年の初めごろまであの
移住地は道路も十分できていないで、作ったものは搬出できないんじゃないかといって、
日本から見えられた方々がずいぶん攻撃せられた
移住地でございますが、これも昨年の十月ごろから非常に改良され、現在におきましては、
政府の
援助によります道路建設の機械、それから
ボリビア政府の協力によりまして道路がすっかりできただけでなくて、従来水が多過ぎたといわれた
移住地が、昨年からはちょうど平年の降雨になりまして、非常な米作の豊作でございまして、
日本の者は何でもできるし、できたものも
海外移住振興会社の
融資によりまして、できましたときに半分売って、
ボリビア政府から、
ボリビアの中央銀行から
融資せられた金の支払いに充て、残りは、そのままそのときに売るとまだもうけが少ないので、端境期まで置いておいて、その間のつなぎ
融資は
移住振興からやっております。去年の十二月から一月には、ほとんど倍の値段で売っているというような明るい空気になっておりまして、
移住は必ずしも暗い面ばかりではなく、
パラグアイ、
ボリビア、今後はそれから
アマゾンにおきますトムアスというところにおきまして、コショウの栽培なんかも非常に成功をおさめまして、私は決して暗いというふうには思っておりません。