○蝋
山参考人 参考人として
意見を求められております問題は、
条約の
締結権と
条約の
審議権、つまり、
内閣と
国会との
権限に関する問題でございます。この問題につきましては、新
憲法が制定せられました過程におきましても、今日のような事態を十分に予想した論議は見当たらないのであります。また学者の
意見も、そのテキストブックなどが書かれましたのは大体数年前でありまして、私の想像ではございますが、おそらく今日の
日本の
憲法学者のいずれも、今日のような事態を予想してその論議を進めているとは考えられない節があるのであります。また、新
憲法が施行せられまして以来の
先例と申しましても、その重要性におきまして、今日の当
議会が当面せられておりますような問題を処理するに足る重要性を持っている
先例はないと思います。従いまして、
国会といたしましては、十分にこの重大な問題について
審議せられまして、統一ある見解に到達せられんことは、私ども
憲法の問題を重要視する
国民の一員としまして、深く
希望するところでございます。そういう
趣旨から、私の
意見も多少なりとも参考にしていただきたいと思うのでありますが、前二人の
参考人の
意見と重複する点もあるかと思いますが、一応用意して参りました
意見でありますので、その点御了承願いたいと思うのであります。
私の論点は数点ございますが、第一の点は、
条約の
締結ということであります。この
締結という文字は、かなり伝統的な、
わが国に使われた文字でありますけれども、これをわかりやすくいえば、
条約を作るということであります。英語ではトリーティ・メーキングあるいはトリーティ・フォーメーションという
言葉が、広く世界的に用いられておりますが、これに該当するものと私は考えております。ところで、その
締結の
権限は、
行政権の主体である
内閣の
一つの義務とされているのであります。そこからおそらく
内閣の
条約締結権という概念が生まれたのであろうと思いますけれども、しかし、
締結ということが、
条約を作る、つまり、効力のある
条約が作られるという全過程を
意味するものであるとするならば、いわゆる七十三条のただし書きの
趣旨は、非常に重要であろうと思います。すなわち、
国会の
審議権という問題が、そこに必要欠くべからざる要件としてあるわけであります。
一体、
条約の
締結の全過程を考えてみますと、これは多くの学者が世界的に共通の
意見であろうと思いますが、国際法学者を含めまして、二つの
段階があるのであります。第一の
段階は、いわゆるネゴシエーションとシグナチヤを含めた、いわゆる
交渉から
調印までの
段階を、第一
段階とすべきであると思います。それから
調印から
批准に至るまでの
段階が第二の
段階であります。この二つの
段階をもって、
条約の
締結ということは終了するのであります。そこで学者によりましては、第一の
段階は
行政権の事務であるけれども、第二の
段階は
国会の任務である、こう截然と区別しておる
議論もあります。有名な米国の
憲法学者エドワード・コールウィンの本の中にも、そういう説が紹介されております。しかし、これは少し極端でありまして、二つの
国家機関が、全く
一つ一つの
段階を受け持つということは考えられないのであります。要するに、この二つの
段階をもって終了するところの
条約の
締結については、
行政権も立法権も、また行政機関も
立法機関も、協力してその問題の解決に当たるべきであるという
趣旨でなければならないと思います。その
意味におきまして、その第二の
段階に主たる任務を持ち、
権限を発揮すべき
国会の
権限というものはどういうものだろうか、いわゆる
国会の
承認権、
承認のための
審議権というものの本質は、何であるかということを考えなければならないと思います。
この点について、私は、
国会の議案に対する
権限というのは、御
承知のように四つあると思う。
一つは
法律案、第二は予算案、第三は
条約案、さらに第四は
一般の
決議案であります。この四つの議案に対する
国会の
権能の基本的な
権限は、少しも異ならないと思う。
法律案と
条約案との違いを強調されておるのでありますが、それは私は後段に述べます。しかし、それは特別の事情があるだけのことであって、
議会の
権能といたしまして、この議案に対して
議会の
権能に差別はないと私は考えておるのであります。その
理由を少し考えてみますと、なぜ
条約案について
国会の
権能を認めたか、
承認という文字ではありますけれども、新
憲法がこれを認めた
理由を少しく考えてみますと、私は、大きく分けて二つあると思う。
一つは、やはり新
憲法がその前文に申しておりまするように、主権の所在する
国民というものを非常に重要視いたしまして、その代表者であるところの
国会の
地位を非常に高めておる。これが四十一条に表われて、いわゆる国権の
最高機関となっておる規定であると思います。特にその前文におきまして、
政府の行為によって、いわゆる戦争のような惨禍を再び繰り返さないようにと、こういうようなことが前文にうたわれておることを考えますと、ここに
行政権というものだけで
条約の
締結がなされる、たといそこに
承認ということがあるにしても、もっぱら
行政権の
立場で
条約の
締結を考えるということについては、いささか、私は、この前文の
趣旨をよくわきまえないきらいがあるように思うのであります。
いま
一つの
理由は、もっと
国会にとっては身近な問題、すなわち、立法権の行使に関係するのであります。申し上げるまでもなく、また、皆さんが、これからたくさんの関係
法律——この
条約の
承認に伴いまして、あるいは発効に伴いましていろいろの立法をこれからなさらなければなりません。その立法の根拠をどこに求めるかという問題が起こってくると思います。それは母法であるところの安保
条約とその行政
協定の二つから発生するのであります。それが各般の、各種の
国民生活にわたり、
国民の権利義務及びその行為を拘束することになる
法律の制定にあたりまして、何を根拠として
審議されるかということになりますと、どうしても、それが
憲法の命ずるところに従いましてその
権限を行使する場合には、この
条約が
憲法違反でないか、あるいは既存の
法律とどのような関係に立つのかというような、種々なる点に考慮を払わなければならないと思うのであります。そういう点から考えますと、どうしても、ここに単に
条約の
締結に関して
承認を求むるの件という
形式の
意味するところはいろいろあると思いますけれども、それだけで足りないことはあたりまえなのでありまして、やはり
国会は独自の
権能を発揮いたしまして、独自の
立場から、あらゆる方法を用いてこの議案に対処しなければならないものと思います。すなわち、そこには、言うまでもなく、全面的に
賛成する、全面的に
承認する、あるいは全面的に反対するという、きわめて明白な
立場があります。しかし、その中間におきましても、あるいは部分的に
修正するという、
修正権という問題もあり得ると思います。また、
修正ではないが、留保をする、アメンドメントではないが、リザーべーションをする。これは
アメリカ議会の用語でありますが、これもまた、
わが国においてもあり得ることであり、また
先例もあることと思います。そこで、この四つの方法のいずれを用いるかは、これは
議会自身の判断すべき問題でありますが、
憲法として
国会に与えた
権能は、このいずれを用いても差しつかえないということではないかと思います。
そこで、問題になります点は、一体、
修正をすることが
法律案のような場合とは違うのだ、
条約の場合において
修正することは不可能である、できないのだ、こういうことが論議されたようでありますし、
政府の見解もややそれに近いように私は新聞で拝見し、
会議録で拝見いたしましたが、その
理由を少し考えてみますと、ここに
一つ大きな問題があるように思うのであります。つまり、
調印という
段階におきましてこの
条約の
審議は
一つの展開を見ます。それはすなわち
相手方、
相手国の
意思が加わったということであります。従って、その
相手国の
意思の加わった
条約案なるものに対して単純なる
修正は加えられないじゃないか、すなわち、普通の
法律案の場合における
修正というのは、直ちに
効果が発生する、しかし、
条約の場合であると、
相手方の
同意がなければできないことであるから、それは普通の
意味における、
法律案の
意味における
修正とは言いがたい、だから認めないのだ、こういうロジックのようでありますが、そこに少しく飛躍があると思うのです。
行政権の
立場から、おそらく当然な、また、
希望すべき見解であろうと思いますけれども、私の考えでは、
国会の
立場がどう考えるかにあるのであって、
行政権の
立場ではありません。問題は、つまり、
相手方の
同意を必要とするがゆえに、どうも
修正は困る、すなわち、
相手方の
同意を待って初めて
効果を発生するようなものは、通常いうところの
修正ではないのだ、こういう
議論は、何のためであるかが私には理解できない。理解し得る点は、
行政権が便宜的にそう考えておるというしかないと思う。技術的に困難のあることはわかります。場合によっては、政治的困難を生ずるかもしれない。だが、
国会としては、別の根拠から、どうしてもこれを
修正しなければならない、あるいは留保をつけなければならないと感ずることの方がより重大だと思うのです。そして、その見解を、
国会は
国会の
意思として行
政府に通ずる場合、行
政府にとってはそれは事実上
否決と同じようになると、こう考えても、それは
行政権の見解にすぎないと思います。その点が、どうも便法論と
行政権の
立場との、あるいは
行政権だけの見解とが混同されておるように見えますので、この点、私も十分まだ研究した見解ではございませんけれども、若干その点について、そういう
行政権的な
立場から、
法律案と違うのだという
意見については、納得し得ないのであります。
そこで、私は、問題としてよく
議論されて、——これは米国の
議会で
議論されておる点でありますが、
修正と留保との違いの問題、なぜそんな二つの、結果において同じような、ことに
行政権の
立場からいうと同じ結果になるようなことにどうして違いが生ずるのか、また、そういう区別をして使うのかという点が非常に微妙だと思うのです。それは私は、やはり
国会の
立場から出てくる見解だと思います。すなわち、
修正ということになりますれば、
条約そのものが変更されるのでありますから、新たなる提案となります。行
政府にとりましては、それをもって新しい
交渉を再開しなければならないのです。ところが、留保ということになりますと、それは
政府だけを拘束、行
政府だけを拘束するのであって、
相手方を拘束するものではありません。そういう違いがあるので、場合によっては
修正といい、場合によっては留保ということになるのではないか、こう考えております。現に非常におもしろい例は、例のベルサイユ
条約における米国
議会の問題であります。
最初に外交
委員長のロッジ氏がたくさんの
修正案を出しました。しかし、これはやがて反対を受けましてその
修正をだんだん改めまして、最後は、いわゆるフォーティ・ポインツという、ウィルソンと同じような工合いのフォーティ・ポインツに留保条項をつけた。そして、それが最後に
国会の
上院を通過したのであります。ただし、米国は非常に少数党を尊重しております建前から、三分の二の多数を必要としますので、三分の二に達しませんために、
条約案の
否決ということにはならなかったのであります。しかし、有効としての
承認もなされたわけでもありませんで、
大統領にそれは突っ返された。そういう大きな
修正、いわゆる留保条項がついておりますと、特に連盟規約第十条のような、例の出兵の問題でありますが、そういう重要な条項に対して、
国会の
承認を必要とする、こういう大きな留保条項がついておりましたのでは、そういう連盟の機構は非常に弱体化するというおそれがあるので、とうてい
大統領としては
承認できない、こういうわけで、これは廃案になった。
アメリカが結局国際連盟にも入らず、すなわち、ベルサイユ
条約を否認したということになる経緯の問題であります。
そこで、
修正ということと留保ということの間には、政治的に見ますと非常に微妙な問題があって、いわば、強い留保ですと
修正と同じような結果になるのでありますが、しかし、考え方としては、あくまで、
修正は
条約そのものに関する新提案である、留保、ただ行
政府を拘束するだけだ、こういう違いがあるということは非常に興味のある点ではないかと思います。いずれにいたしましても、私は、
国会といたしましては、この
条約の
承認にあたりましては、その
権限として、あらゆる
権限が
一般議案に対する
権限と同じくあるのだ。ただ、そこに
法律案と違う点、純然たる国内法と違う一点を考慮しなければならない。それは決して
議会の
権能を制限するものではないのです。
議会みずからが、それについて自粛しなければならない問題にすぎないと私は考えております。
たとえば、
批准ということであります。
批准をするかしないか、つまり、
承認をしなければ
批准をしないことになるのでありますから、
批准をするかしないかは
承認をするかしないかと同じことだと思うのです。そういう、いわゆるこの
国会などが
承認と
憲法上は言っておりますけれども、
批准国会だといわれておるのはその
意味だと思う。いわゆる
憲法にいうところの
批准というのは、大へん古めかしい
言葉で、背の
元首が儀礼的に行なったのを
批准というのであって、事実上は、
国会の
承認をもって
批准になると見て差しつかえないくらい重要な
内容を
承認が持っておると思います。そうした場合において、
批准ということは一体
国会としてどう考えるかというと、つまり、
批准がなされない場合におきましても、
国会としては、それに対して何ら左右されると申しますか、影響される点は、
法律的にも道徳的にもないと私は思います。なぜないか、なぜ道徳的にもないかという問題は非常に微妙だと思います。やはり古典的な慣習だと思いますが、いわゆる全権団というものが、出ておる。つまり、昔の
元首の全権を帯びて外国に使いして
調印署名してきた、そういうことに非常な重要性を行
政府の
立場から考えるわけです。しかし、
国会としては、その
条約案の
内容が
確定したかどうかということについては大きな違いがあり、
相手方の
意思が加わっておるということについても大きな変化がありますけれども、それを
承認するかいなかということについては、全権団が何をしてきょうが、それは何ら拘束されないと思います。ここに大きな問題がありまして、国際法学者でも有名なリアリイ教授は、ラティフィケーションということは、それは決して、
法律的にも道徳的にも、全権団が署名
調印したからといって何も拘束されるものではない、ただし、
批准が行なわれなくなったということは、国際的に大きな問題が起こるのだから、軽々しくやっては困る、そういう問題だということを、このリアリイ教授の国際法はスタンダード・ワークの
一つとしており、われわれはそれを金科玉条として見ておる本でありますが、そういうことを書いているわけであります。そういうようなわけで、今、
国会がその
権能のいかなるものを行使するかということは、十分判断していただかなければなりませんけれども、その
審議権に制限があるとは、私は考えていない。
条約案であるがゆえに制限があるとは考えていないのであります。その
審議権を行使することについては、慎重な考慮を払わなければならないと思いますけれども、ここに何らの制限がない。これこそ、新
憲法が
国会に期待しておる点であり、
国会に対して付与した
権限の
解釈であると私は考えておるのであります。
以上、簡単でありますが、一応これで終わります。