○
板垣説明員 それではただいまから御
報告を申し上げます。
最初に
厚生省といたしましてこの
救出工作を計画するに当たって
考えました基本的な点について申し上げます。
その
一つは、二人が生きて残っておるとするならばどういう
気持でおるであろうかという点であります。ことしの一月から二月あるいは三月にかけて島で
事件が起きておりますが、もしこれが二人の
行為であるとするならば、その
心理状態はよほど異常な
状態になっておるとしか思えない。また戦後十四年の間のいろいろな
できごとを
考えますと、そういうことも十分あり得ると
考えなければならない。二番目には、もしこれが二人の
行為でないとしても、今まで起きたいろいろな
事件のことを
考えますと、二人の
気持は相当複雑になっておる。特に非常に用心深く、疑い深くなっている。簡単なる呼び出しではなかなか応じないだろう。しかし三番目に
考えられますことは、従来帰ってきた
人たちからの
報告等をいろいろ集めますと、またその後いろいろ
工作をいたしました
成果等をあわせ
考えますと、二人は
終戦という事実は知っておるらしい。また
日本に帰りたいという
気持もあるようである。ただ山をおりることについてはなお、安全であるかどうか、その
安全性について非常な危惧の念を持っておるようである、こういうことが
考えられます。こういう
状態におる者として私
ども考えました
やり方については、これはどうしても相当長期にやらなければならない、かつ
最終的にはどうしても
肉身に行ってもらうことが必要であろう、こういうことでありまして、これを具体的に計画いたしますると、ちょうど七、八、九の三カ月は
現地は
雨期でありますので、これを差しはさまざるを得ないことになる。そこで、結局案といたしましては、五月ごろから十一月ごろまでにわたって実施をする、
肉親には
雨期明け、その直後に行ってもらう、こういう計画を立てました。
やり方といたしましては、
最初の時期は、
密林地帯の
周辺からいわば間接的にその
気持をやわらげるようにやる。
最終段階には
森林の中に飛び込んで直接的に、特に
肉親と会見するように活発に呼びかける、こういう
基本方針を立てました。以上が
考え方の基本的な点であります。
そこで、次に申し上げますのは、
前段工作の
概要であります。
前段工作といたしましては、五月からおおむね十月の
雨期明けごろまでを予定いたしております。
派遣員の健康上の
顧慮から、七月初めに二名交替させております。五月に参りました人員は、
厚生事務官三浦祐造、同じく
柏井秋久、臨時に
厚生省の
調査員を命じました
藤田好雄、これは現在
電電公社の社員であって、当時島で
分隊長をしておりました。それから別に
技術員として
厚生事務官松平三義、以上の四名であります。
この四名は
現地に参りまして、島はちょうど一番暑い時期でありましたが、この困難を排して
カララドに基地を作りました。そうして持って参りました
大型の
放送機、これは
出力五十ワット、自衛隊から借りたものであります。これを
カララドに据えつけまして、
山系の
北側一帯に
放送ができる設備をいたしました。そのほかに持って参りました
資材は
中型の
放送機二台、これは
海外抑留同胞救出国民運動総本部からの寄贈によるものであります。
出力十ワット、携行できるようになっております。そのほかには
携帯用小型の
放送機を二台、これでやりましたことは、まず朝晩
山系の
北側一帯に向かっての
放送、それから
ジャングル地帯の
外縁地域の巡察
——巡察する場合には呼びかけと
ビラまきをいたしました。飛行機からの
ビラまき、これは五月から七月の間に二回やっております。そのほか
住民と接触して
情報の
収集、こういうことに努めました。
さきに申し上げましたように健康上の
顧慮から七月に交替をいたしまして、次いで参りましたのが、
厚生事務官馬渕新治、同じく
比嘉新英、この二名であります。これは七月の初めから十月の中ごろまで引き続き
現地で勤務いたしました。やりますことは、ただいまここでちょっと申し上げました第一次の
派遣員の
要領と同じであります。七、八、九の
雨季は、この
森林の中の行動はきわめて困難でありますが、ひまを見てこの
地区あたりの巡察をやっております。また
雨季明けと同時に
密林の中の方へ入って呼びかけ、
ビラまきをやっております。なおこの間
マニラの大使館からときどき館員を
現地に派遣いたしまして、
派遣団の手不足を補ってくれております。今申し上げましたこの
前段工作は大体五月から十月の半ばでありますが、この
効果というものはどの程度であったであろうか、この点につき申し上げます。これは私
ども今度参りまして体験をしたところでありますが、
山系の
北側ナリンバヤン付近で
放送しておる
大型放送機の
放送の声が、この
山系の
南側の
谷間で露営しておるときに聞こえました。この山の
中央付近におりますと、
ナリンバヤンからの
放送と
アンゼル付近の
放送と、これが
両方ともここで入りまじって聞こえました。従って、この
放送の
効果というものは、谷の
ジャングルの奥底に浸透しておるということを私
どもは
確信をいたしました。
それから
ビラの
効果でありますが、この
密林地域には、
食糧としては
ヤシの実以外にはありません。従って、生きるためにはどうしても
周辺地区に出なければならない。その出るところには、これは
さきに二月の終わりに外務省がやったものでありますが、十カ所の
手紙箱が作ってあります。これは連絡の
目的で、中に
手紙が入っており、そのほかにまわりには
ビラ、新聞あるいは
雑誌等がばらまかれてあります。そういうものがこの
周辺地区にあります。二人が移動すれば、必ずこういうような
手紙箱あるいは
派遣員のまいた
ビラにとらえておると思われます。網にかかっているであろうということが
考えられます。
放送は、説教するよりもむしろメロディがよろしいということを学者からも聞きましたので、それに重点を置きました。実際朝、夜明けとともに聞こえる君が代の音、あるいは夕方日暮れてから聞こえる、たとえばだれか故郷を思わざるの歌、こういうものを
ジャングルの中で静かに聞いたならば、それがたとい敵の
放送であると思っても心をゆり動かすものがあったろうと思われますし、ましてや、まかれてある
肉身の
手紙、これは
肉身でなければ書けない
内容、友だちでなければ書けない
内容に留意して作った
手紙でありますから、これらの
工作が
日本からの
工作であるということは、二人が生きているならば必ずや了解し得たものと私
ども確信いたしております。これは私
ども第三次の者が
後段工作に参りまして、
ジャングルの中におって体験した実感でございます。そこで、要するに五月から約五カ月にわたる
前段工作は、二人が生きておったならば必ずやその心をゆり動かし得たであろうというふうに申してよいかと思います。なお、この間いろいろ
情報の
収集もやっておりますが、これは
あとでまとめて申し上げます。
次は
後段工作の
概要であります。
後段工作は十月の半ばから約一カ月半、実際に山の中でやりました本格的な
工作は約一月でありますが、これには私、
厚生省の
復員課長板垣、
厚生事務官柏井秋久、この
柏井事務官は二回目であります、
小野田元
少尉の
実兄小野田敏郎、
小塚元
一等兵の
弟小塚福治、この四名が十月十九日に出発いたしまして、それに当時
現地にいましたところの
馬渕、
比嘉両
事務官を合わせて計六名、別に
さきに申し上げました
国民運動総本部からの
派遣員として元
戦友赤津勇一、
小野田元
少尉の
学友山本昇、この両名が十一月五日から参加いたしております。
資材といたしましては、前にあったものを継承するほかに、今回は特に山の中を歩き回るということを予定しておりますので、
小型の
放送機、これを
四つほどプラスいたしました。
次に、
現地でどういうことをやったかということを大要を申し上げます。まず島の
地形でありますが、島全体としましては、長い方は三十キロ余り、短い方が十キロ余であります。
東京近辺の
地形で申しますと、鎌倉、横須賀の線をつないだ以南の
三浦半島くらいの大きさじゃないかと思います。一番高いところは標高六百メートル
——六百メートルといいますと
高尾山くらいでありますが、海から急斜面をもってとっこっとそびえた六百メートルは、なかなか
高尾山のようなあんなやさしい感じではありません。いわゆる
ジャングルと称せられるのは、この地図で色が濃く塗ってある部分で、六百メートル
高地を
中心とする約二キロないし三キロの
範囲であります。この中には、先ほ
どもちょっと申し上げましたように、この
南側斜面に一部
ヤシの木があって、その実が
食糧となるほかには
食糧はありません。
戦時中は
ロークの
牧場からのがれた牛が
密林の中にもたくさんおって、いわば暮らしが容易であったそうでありますが、ただいまはそういうものは
密林中にはおりません。そこで
食糧といいますと、バナナその他のくだもの、あるいは特に
牛——牛は山の中に潜伏しておる人にとってはむしろ
主食でありますが、これらの
食糧の
補給源ということを
考えますと、まず
ティリック南側地区、
ナリンバヤン周辺地区、
ビナカス地区、
ブロール西側地区が
考えられます。これらの
地区には畑もあり、
牧場もあります。そのほかではバライタン、
ハン東側地区、ここはいわゆる
ローク牧場といわれて、牧牛がいます。さて、
工作を行なう
範囲でありますが、それはこの
密林地域と
食糧補給源となる
周辺の
地区であるべきは申すまでもありません。また
工作を行なう主眼は、
最初にも申し上げましたように、
最終的には
肉親と会見させることであります。そこでその
やり方といたしましては、
肉親班を巡回させて
工作をやるということも
考えられますが、これでは短期間に能率的でありませんので、
肉親班はこの
密林地域の一番
中心部にいて、一月間毎日
山上付近を行動して、呼びかけを続け、その他の者が
密林地域の
周辺地区から内部に向かって、
肉親と接触会見するよう呼びかけを続ける、こういう
要領にいたしました。そこで
派遣団の
全員とこれに必要な通訳、
人夫あるいは協力の
警察官等を合わせたものを
四つの班、すなわち
中央班、第一班、第二班、第三班に分け、それぞれにその
担任区域をきめました。
中央班は
肉親二人と
団長の三人だけで、島で一番高いところ六百
高地に露営して、大体
山系の
中腹部から上方を担当する。その他の第一班は
ナリンバヤンにいて、
北東部、
北部、
南東地区を担当する、第二班は
ゴンチン浜にいて、
ナソク岬以東バライタンバン附近を担当する、第三班は
ブロール西側にいて、
脊梁山系以北の
密林の
東部縁辺地区を担当する。こういうことであります。十月の終りから十一月の中旬まで、約二十日間を第一期といたしまして実施いたしました。残りの十日間は、その
最初の
工作の
成果に応じてさらに
やり方を変更するということにいたしました。この二十日間にやりましたことは先ほど申し上げましたと大体同じようなことでありまして、
大型放送機による呼びかけと
小型及び
中型放送機による移動による
放送、それから
ビラまきであります。ただ
最初と違いますのは、
大型放送機を二カ所につけまして、従って
最初にちょっと申し上げましたように、
両方からの
放送が
密林の中にじゃんじゃんしみ込んでくる、こういう状況を呈したのであります。二十日間やりました私
どもの
仕事は、大事な
正面に対してはおおむね毎年これを繰り返しまして、十数回にわたって呼びかけを行ないました。あまり大事じゃないと思われる
正面に対しても数回は実施いたしました。
肉親の声も峰という峰、谷という谷に浸透して徹底したというふうに私
どもは思いました。二十日を過ぎました十月十七日に
全員をこの
山の上に集めまして、ちょうどひどい
台風が来ておりまして、雨でありましたので、あるいは集合しないのではないかと思いましたが、
全員雨をついてやってきました。そこで、ここでいろいろ従来の
成果を聞きましたところが、
南側の
正面の方の者が申しますには、
自分たちの
正面はもうやり尽した、ここにはおらぬと思う、おるなら
東側だと思う、こういうことでした。
東側の
方面の
班長は、いや
自分のところは
食糧が豊富であるから、あるいは取りに来るかもしれぬが、やっぱり住んでいるのはそちらだ、
自分たちの
正面には
放送あるいは巡回による呼びかけで、おるならばもう出てくるはずだ、こういうことを申しました。なお
北の方の
班長は、これは
あとで申しますが、
情報的にもほとんどいないということがありますし、半年にわたる引き続く
放送で徹底しておりまして、
地形的に見ましてもこの
正面にはおらぬだろうということを申します。冷静に見てそれは至当なように
考えられました。
そこで以上のような各
班長の
報告に基づきまして、私はその後の
やり方を次のようにすることにいたしました。それは大事だと思われる
正面、
南正面と
東正面に対しさらに十日間呼びかけを続行する、北の
正面に対しては、
蛇山地区及び
カリガン地区の
捜索をする。
捜索にあたってはまず百人くらいの
人夫を
ティリック及び
ビコ付近から雇い入れる、こういうふうにいたしました。この
捜索につきましてその
地域をここに選びましたことについては、
目的を二つ
考えておりました。これは後ほど申し上げたいと思います。
今のような
考え方で十日間を終わったのでありますが、大体終わりに近づきましても、依然として手ごたえがありませんで、当初張り切っておりました
団員の
気持の底には、がっかりした気分が隠しおおせないものがございました。しかし
最後まで
全力を尽くすということで、励まし合いながらやりました。その
最後の五日間は、第一班を除く
全員がここに集まりまして、この
正面をやったのでありますが、二十六日の晩に私は
全員を集めまして、
自分たちは
全力を尽くしてやったつもりであるが、いまだに反応はない。しかしまだ
自分自身に顧みて、もう少しやりたいということがあってはならない。このたびの
捜索は国としても
最終のものとしたい、一点の心残りがあってはならないので忌憚なく
一つ気持を述べてもらいたい。たとえば一週間なり十日なりこの地点をやろう、あるいはこういう方法でやろうという
気持がまだあるならば聞きたいと申しましたところが、一番
最初に
小野田派遣員から、
皆さんの口からはあるいは言いにくいことかもしらぬが、
肉親を代表して私から述べるということで申し出されたことは、これで
自分たちは十分だと思う、これ以上引き延ばすことは必要ないと思うという話がありました。次いで他の
団員からもそのような話がありましたので、それでは明朝まで
最後の努力をするということで腹をきめました。その晩は一晩
露営地で
夜通し火をたきまして、この火を目当てに山からおりてこいということを前日言ってありましたから、待ったのでありますが、むなしく二十七日の朝を迎えました。
全員にまた集まってもらいまして、私から、今までの
工作の結果にかんがみ、現在二人はすでに生きていないと思うが、
皆さんのお
考えはどうかと尋ねましたところ、
団員の
全員の
考え方も同じでありましたので、そのように
工作についての
判定を下しました。
工作についてというよりも、
工作の結果に基づく二人の生死についての判断をそのように下したのであります。そこで
最後に
全員山に向かって黙祷をささげ、訣別の辞を述べて終わったわけであります。
なおここでちょっと一言申し上げますが、この島からほかに逃げているのではないかということも、
考えとしては当然検討すべきものでありますが、私
どもこの
山の上に立ってこの島を見、隣の島をながめ、海の
状態をながめ、
住民等からいろいろ聞き、いろいろな点から検討いたしましたが、結論としてそのようなことはあり得ない、実際問題としてはあり得ないということを
確信をいたしました。
理由等につきましては省略いたします。以上は
後段工作の
概要であります。
次にこの
工作から見ました
情報について申し上げます。まず
情報の中で二人の
消息に関する事項について申し上げます。まず
南西正面から申し上げます。この辺の
住民はどういうことを言っているかと申しますと、五四年ごろまでは三人組がしょっちゅう山からおりてきて、村近くの
ヤシの実採取の
小屋を脅かして物をとられた。五四年に
日本兵の一人が
ゴンチンの上で
レンジャーと衝突して死んだ。そして
住民の中にはこの死体の埋葬を手伝った者もある。この
事件があってからぷっつり出なくなった、こう申しています。ところがある一人の年寄りは、いや最近山の中で変なものを見た、
密林の中に
地下たびの
足跡があった、そういうことを言いました。そこで
調査に参りました
団員がそれはここに
日本人が三人いるのだ、
派遣団の
肉親と
団長と三人
山の上におって、その辺を歩いている。その
地下たびの
足跡だと言ってやりましたら、ああそうかと言って終わりになりました。
それから
南海岸地区辺は、先ほど申し上げましたように
ヤシがあるのでありますが、十一月の中旬に五名ばかり
ロークという町の
住民が参りまして、
小屋に入って
ヤシの実を採取しておりました。どうだ、
日本兵はこわくないかと聞きますと、
日本兵はこわい、こわいけれ
ども最近は
日本兵なんかいないから、わしらそんな心配はしてない、こう言っておりました。
それから同じくこの
正面でありますが、これは十一月の十八、九日
ビナカスから来た農民であります。
ゴンチンと
ヤンギブ附近と合わせて三十名ぐらい、
ヤンギブにおりますのは十七、八人、これが
仕事をしておりました。どうだ、
日本兵はこわくないかと言ったら、今ごろ
日本兵、とぼけたことを言うなという顔をして、そんな者はいないよとあっさり言われて、きょうは大いにやろうとした隊員も出ばなをくじかれたような格好になったのであります。
それから
テリック南方地区は食べ物の相当な
補給源のところでありますが、ここではもう
日本兵に関する
情報は何もありません。
北部地区ではよくいろいろなことが言われます。私
どもがここへ参りました翌々日の十二月二十五日でありましたか、この辺で
日本兵を見た、音がするから振り向いたところが銃をがちゃがちゃやった、見たところがそのまま逃げた、こういうことでありましたので、派遣されている
警察分遣隊で調べましたところが、
日本の
派遣団に雇われたいための捏造した
情報であったということがわかりまして、しかられました。それからある男が山に
野ブタを取りに犬を八頭ばかり連れていつも入るのですが、その男が、山の中で犬が
あとずさりするのを見た、
野ブタを見たら必ず突進するものが
あとずさりする、これは明らかに
日本兵だと言いふらしたのであります。
あとで
捜査のときにこの男を連れてきたところが、この男は皆から
うそつきだと言われている男だということがわかりました。
この辺の
住民は、二月になると
日本兵がおるというようなことを言っております。それはことしの一月、二月、三月に
事件がありまして、あの
事件が彼らの頭に相当強くそういう観念を植えつけていると思いますが、突っ込んで聞きましても根拠はありません。二月ごろになるとそういうことがあるのだということを言っておりました。
それから
ブロール地区で、青年でありますが、今から五年ばかり前に、山の
北側で稜線を歩いていたら下から射撃されたことがある、多分
日本兵だと思う、こう言っておりました。以上が二人の
消息に関するものであります。
次に先ほどちょっと申し上げました二人の
主食であるところの牛についての
情報を申し上げます。現に島から帰ってきた
赤津氏の話によると、当時は月に二、三頭の牛を取っていたそうでありますが、現在は牛についての
情報は次の
通りであります。
ローク牧場付近では
戦時中及び戦後は百頭ばかりおったが、その後整理されて今は四十頭ばかりおる。これは持ち主と
管理人が違うために
管理がややルーズな点がありますが、去年
ロークで牛どろ
ぼうをやった男があったが、そのほかは牛について別に何も変わりはない。
ブロールの
西側の
地区の
牧場には五十頭ばかりの牛が厳重にさくをした中に入っておりますが、
終戦の年から五、六年の間は牛もずいぶん取られたが、その後はそういうことはなくなった。このアカワヤンの町で牛どろ
ぼうをやった男がいたので、それ以後
管理を厳重にしたのでその後は変わったことがありません。ただこの間の
台風で小牛が一頭死んだくらいであります。さらにその
北の方の
谷間の
地区で、去年から馬を三頭ばかり放牧しておりますが、もう馬についても、あるいは
日本兵というものについても何も変わった
情報はない、こういうことであります。従って
牛情報だけから見ましても、
赤津氏
あたりは、もう二人は生きていないのじゃないかというようなことを申しております。
これは二人の
消息に関する
情報でありますが、以上の
情報から判断いたしまして、二人はおそらく生きていないであめろう、しかもそのなくなった時期は相当古い時期である。
ビナカスの
住民が言う
通り、五四年からふっつり切れたと言っておりますが、その
通りほかの
地区でもあったとすれば、五四年になくなったということも
考えられないことはないと思います。こういうように
情報面からも
一つの
判定をいたしました。
次に、今年の一月、二月、三月に起きた
事件、これはあるいは
日本兵の
行為ではないかというふうに伝えられたことでありますので、これについてはできるだけの
調査をいたしましたが、何分にも私
ども立ち入った
調査能力がありませんので、いろいろな
方面からの聞き込みということになりますが、まず
工事現場で二月の一日に用人が殺された。そうしてこれに対して
フィリピン側は
日本兵の
行為であるとして、二月の中旬に、約三日間にわたって五十人ばかりのレイン、シャーその他を
工事現場の
東側の山に入れて
捜査でやっております。こういうように、向こうとしても相当はっきりしたことをやっておりますが、これについてもいろいろの
調査をして参りました。ところが
人夫の者が、あれをやったのは
日本兵ではないのだ、
マニラから来た
人夫と
現地で雇われた
人夫とのけんかだ、また部隊の者が、
日本兵ではないのだ、こういうことを私
どものところで雇っている通訳に語ったこともありました。そのほか有力なる者からはっきり、あれはフィリピン人のけんかだという
情報を提供されております。そのほか
ルバングの町でもちょっと聞きましたが、いろいろな
情報を総合いたしまして、この
行為は二人ではないという
確信を深めました。
次に、カリガン
高地で一月の二十七日に農夫が射撃されてけがをし、水牛が二頭殺されたという
事件がありました。これは撃たれたことも、水牛が死んだことも事実でありましょう。その水牛の中から出たたまというものが
日本に送られ、警視庁の鑑識の結果、現在どこの国でもこういうたまは使われていないという
判定が出されております。これにつきまして
住民からいろいろ聞きましたが、はっきりしたことはわかりません。ただこういうことを聞きました。今年の五月にタクバックに強盗が三人入りまして、つかまりましたが、この強盗は去年のクリスマスの前ごろに島に来て、この当時ここにはいませんでしたが、今年の八月、部下のために殺されました警察隊の隊長の庇護のもとに島でいろいろ生活をしておる。それが捕えられた三人組であり、取り調べの結果、この三人は水牛密殺をずいぶんやっております。その罪で目下モンテンルパに入ってるとのことであります。
なおタクバックにどろ
ぼうが入る前に
ビナカスに五人組が入ったのでありますが、そのときに五人組の中の一人は鉄砲を持っておった。しかしこのときにはつかまらなかった。なお四月、五月ごろ、この島の北の
地区でとられた水牛の数はずいぶんな数だったということも聞いております。これが直ちに一月二十七日の
事件につながるかどうかということは、何ら具体的なことはありませんけれ
ども、まあそういうつながりがあったのではなかろうかということも
考えられます。
一番
最初に申しました
通り、これらの
事件は、二人が生きておったとするならば、
終戦以来二十九年ごろまでの
状態とあまりにもかけ離れた
行為、いわば精神分裂症的な断層のある
行為でありまして、その点から見ても、これらのことが二人の
行為とは
考えられないわけであります。
なお三月の十三日の夕方でありますが、
手紙箱の点検に参りました大使館の河野領事がバライダンバンヘ宿営準備中に、ごく近い百メートルくらいの丘の上から数発の射撃を受けております。当時私
ども、これも二人の
行為ではないかとされているということを聞いたのでありますが、これもほかの二つと同じように、非常におかしい点があります。今日、これがだれであったかということは調べようがありませんが、ある男がこういうことを言っておりました。タクバックにどろ
ぼうに入った三人組が、河野領事が乗ったときの船に乗ってあそこに行ったのだと。しかしこれはまあ一応聞きおく程度のものでありましょう。
以上が
情報でありますが、先ほど私、
北部地区の
捜索を行なったことについての説明で若干保留しておきましたが、なぜこの
捜索をやったかという点について申し上げますと、
目的が二つあります。
一つは、もし二人が死んだとするならば、嶋田伍長が死んだ直後であると
考えられる。それは当時のいろんな
情報からそういうことが推定できます。そこでこういう突発
事件の直後、まずどこにのがれるであろうかというと、脊梁山地の
北側に飛び込んで、
あとは夢中で、昔
日本軍の拠点であり、また二人が南
地区に移る直前におった蛇山付近であろうということは
考えられる。ここで
日本軍の温情を胸に抱きながらも、
現地の状況があまりにもきびしく、しかも
自分たちが今後これ以上ここで生きることはむずかしいということを
考えて自決することもあり得ることでありますので、もしここで遺体でも、遺骨でも、遺品でもあったら、こういう
一つの
気持がありました。もう
一つは、いつもデマ
情報を出すのはこの辺の
住民でありますが、ここの
住民をなるべく山に連れていって、どうだ、何もないじゃないかということをはっきり見せてやろうという
気持がありました。その二つの
目的からこの地点をやったのでありますが、出ましたのは結局、蛇山の洞窟の中から数個の古い手榴弾が出ただけでありました。先ほど申しました
日本兵の
情報を提供しましたイノシシ取りの男もその
捜索の
人夫に加わったのでありますが、他の者から、あいつは
うそつきだ、どろ
ぼうだということでさんざんな目にやっつけられました。この辺の問題につきましては、その後来た多くの
人夫たちに対して、もう
日本のミッションは来ないのだ、
小野田、
小塚の二人はもう死んでいるのだということを、帰って村人に言っておけと申し渡したことでありました。その他の
地区については、ことしばかりでなく、すでに数年前から
住民は山に入って
仕事をしており、また私たちの山の中の
足跡にも気を使うくらい神経過敏であるにかかわらず、
日本兵はいないと言っていますので、もはや
捜索をする必要もないと
考え、
捜索は行ないませんでした。結局
捜索は北区だけで終わったのであります。
以上申しました呼びかけ
工作に対する反応及び
情報、これらを総合いたしまして、私たちは、二人はすでに相当早い時期に死亡しておるものとの
判定を下しまして、本省の方に
報告を打電いたしました。
最後に
フィリピン側の態度といいますか、
フィリピン側との関係について一言申し上げます。まず
現地でありますが、二人の
消息について
フィリピン側はどう思っているかということは大事なことであります。PCの分遣隊の隊長から非公式に聞いたのでありますけれ
ども、とにかく随行した記者が録音機を突きつけてしゃべらしたものでありまして、これによると、
自分たちは、部下も
全員、
日本派遣団と一緒に苦労した、この
派遣団の
行為はよく知っている、あれだけやっていなければ、
自分はいないと思うということをはっきり言っています。次にその所属の雇い人が射殺された部隊の長にどうだとやったところ、これは名答弁でありますが、
日本の
派遣団が
捜索した
範囲内にはおらぬと思うということを申しました。
その後
マニラに帰りましてから、大使館でいろいろ話を聞いたのでありますが、それはサントス国防相が、
ルバング島あるいはセブ島に行って
日本のミッションが失敗したら、
あとは国防軍で討伐をやるというようなことを言っており、同じような趣旨のことが十月二十三日の
マニラの新聞にも掲載されているので、二十四日に大使館員がサントス国防相に会見して確かめたところ、その答え、それは内地の新聞にも伝えられたところでありますが、
日本とフィリピンと親善関係にある今日、討伐なんというそんなばかげたことは
考えてもいない、ミッションの努力は認めるし、またその
成果に基づいて判決を下すならば、
自分たちは異存はない、こういうことを言っております。そういう国防相の意図が伝わったかどうか知りませんが、私
ども帰りますときにPCの総司令及び第二管区司令部にあいさつに参りましたとき、それは
現地でPCからも非常に協力してもらいましたので、そのお礼という意味で参ったのでありますが、そのときに、総司令部でこういうあいさつを受けました。まことにお気の毒であった、哀悼にたえない、なお二人の遺体も持たずにお帰りになることは御心中お察し申し上げます。もし将来何らかの機会に二人の遺体でも発見することがあったならば、それぞれの遺族に届けたい、こういうことを言っておりました。第二管区司令官も同じような
気持であいさつをいたしました。
それからもう
一つは、帰る前の日に、大使館で私と
小野田団員、大使館の書記官三人で
マニラの大きな新聞の記者を集めて、
ルバング島問題についての会見をいたしました。相当時間をかけて
終戦以来の島の事情をゆっくりとよく説明いたしました。そうして
最後の判決をはっきりと申しました。二人の
肉親は帰ったならば葬式をし、墓を立てるつもりである、クリスマス前にはこれらのことを終わりたい
考えであるということをはっきり申しました。私
どもの話に対しては一々うなずきながら聞きました。そして
最後に、これで太平洋戦争のページは閉じられたと思ってよろしいかという質問をいたしました。おそらくそういう
気持でみんなが聞いてくれたかと思いましたが、この
ルバング島問題に関する限りは、フィリピンの国防軍当局あるいはその末端に至るまで、また新聞記者連中にも、これでそのページは閉じられたというふうな印象を与え得たかと思いました。
次にフィリピンとの親善の空気という点でありますが、私
ども参りまして実際
自分の身をもって感じたことでありますが、
日本がいわゆるヒューマニズムに立ってこの
工作に誠意を尽くしたということ自体は、フィリピンのこれを知る者に非常に深い感銘を与えておるようであります。またこの問題の解決のために
マニラの大使館、私
ども、それから関係のフィリピンの当局、
現地の
住民、これらが心持を
一つにしてこの目標に邁進をしたということそれ自体が、非常に
気持を
一つにし、親善の機運を盛り上げるに役立ったというふうに
考えます。先ほど申しました
最後のあいさつに参りましたときに、総司令部で司令官が、このたびの
行為によって
日本とフィリピンの親善が一段と深まったことを私たちは喜びとする、こういうことを申しました。私は
ルバング島を離れるとき、また
マニラで関係
方面へあいさつするときに次のようなことを申しました。私たちは二人の生きた戦友を連れて帰ることができなかったことはまことに残念に思うが、ただこの
工作の間にフィリピンの官民の
皆さんからいただいたあたたかい
気持というものは無形のおみやげとして、そしてそれが将来日比親善のくさびとなることを大きく期待しながら
日本に持ち帰ることができるのを喜ぶ、これは単なるおせじとして申しているのではないということを申したのであります。
私
ども団員一同、このたびはフィリピンでほんとうに
気持よく、また
自分たちの思う
通りに
捜索を終わったことを
皆さんに御
報告申し上げたいと思います。
以上で私の
報告を終わります。(拍手)