○竹内
参考人 私、
津島市長でございます。再び
委員会にお招きをいただきまして、いろいろ
お願いを申し上げる
機会を与えていただきましたことを、まず厚く御礼を申し上げます。
先月の五日の午前十時に、本
委員会を御開催されまして、私
ども現地の知事、市長等を御招集遊ばされ、水害の状況等について、現地の状況を御聴取いただき、さらに現地の者
どもの
お願いの筋を御親切にお聞きをいただいたことを、まず感謝申し上げる次第であります。さっそく私
どもの
お願いをお取り上げ下さいまして、その翌日には、本
委員会にありましては、水侵しになっておる地方の
締め切り工事が一刻も早く完成するようにという緊急の決議案を御上程いただき、全
委員先生の満場一致の御決議によりまして、現地
締め切り工事に従事しておる者を心から激励、鞭撻いただいたのであります。おかげをもちまして、
締め切り工事に従事する方々の士気は一そう高まり、自衛隊のまことに統制のある、陸海空三軍の昼夜不眠の肩まで水につかって努力によりまして、幸いにいたしまして、あの尾西作戦が十一月の十日に
完了いたしたのであります。私
どもは現地において万歳の声を張り上げたのでありますが、そのときの喜びというものは、私の過去一生におきますいかなる場合に上げた万歳の声よりも、私はうれしく思ったのであります。引き続き、あの南方の海南作戦っも、同様の御努力によりまして、十一月の二十一日に仮
締め切り工事が
終了いたし、尾西作戦によって
締め切りのできました北部は、すでに先月の終わりをもちまして、完全にもとの水位に
排水が完成いたしました。海南作戦によりますその外の部門の称富町の鍋田地区、十四山村の一
部分、飛島村の全
地域も、昨日の情報によりますと、今日か明日をもって大体もとの水位に返るところまで
排水が行なわれて参りました。これひとえに、当
委員会におかれまして、現地の者の苦しみをわが苦しみとして、緊急な決議案までなして御勉励をいただいたたまものであり、一方におきましては、現地住民はもとよりでありますけれ
ども、自衛隊隊員
各位のほんとうに犠牲的な
活動によったものであると思いまして、私は、本日この席から皆様に対して、ほんとうにありがとうございましたと感謝の言葉を申し上げる次第であります。かようにいたしまして、水をなくしていただきまして、わが
津島市の五千戸の者——この書類に書いてありますが、四千百九十六戸の世帯、人数にいたしまして二万一千六百九十二人の者は、六十三日目に水の責苦から解放されました。水が引いたあとは、何と申しますか、私は、さんたんたるものであるとか、荒凉たるものであるとかいうような形容詞は当てはまらぬ、ひどいものであると思っておるのであります。
以下、本日与えられました時間がきわめて少なうございますので、こまかい数字的なこととかいうようなことを省略いたしまして、水の引いたあとの現況を御報告申し上げるとともに、私の
お願い申し上げたいことを、五項目ほどにわたって
お願いをいたす考えであります。
まず第一番に、水をなくしましたあとで何よりも先に見たかったものは、農地と水につかっておった農家、工場と織機がどういうようになったかということであったのであります。水の引くにつれまして、私はたんぼと畑を見まして、六十三日ぶりに稲穂の腐ったのと畑の塩を吹いた灰色の土とがわれわれの目に映って参りましたけれ
ども、一体これをどうしてもとへ戻すのだ。一メートル以上も下は壁が落ち、上の方は塩水がしみ込んで、貝がら虫のついておるこの住居を、いかようにして農家はもとへ戻していくであろうかということであります。
すでに先刻来お話がございました田畑の地方復興につきましては、除塩をまず行なって、少なくとも明年六月の田植え時期までに、耕作可能の範囲にまで塩度を薄める必要があるのであります。その第一段の順序といたしましては、たんぼに腐って残っておりまする——九月の末ごろまでは黄金の波を打っておりましたあの腐れた稲穂を取り片づけることが、まず第一番に絶対必要なのであります。しかしながら、神武以来の豊作といわれた豊作を目の前にいたしまして、この悲惨な結果に遭遇した農民は、今日、腐れ果てたこの稲穂をたんぼへおりて取り去るだけの、稲の残骸を取り片づけるだけの気力さえ失っておるのであります。自分のたんぼの稲が塩水で枯れた、来年の田植えをするためには、まずこれを取り片づけなければならないことは、もとよりよく承知をいたしております。しかも、惨たんたる
被害にあって、それを今たんぼに入って取り片づけようという気力さえ農民にはございません。
お願いをいたします。どうか、このたんぼに腐り果てておる稲穂、稲の残骸を取り片づけるために、かわいそうな百姓たちに、一坪片づけたらお前らにまんじゅう
一つずつやろうということを、政府はおきめいただきたいのであります。一坪の腐った稲を片づけたら、まんじゅうを一個ずつお前らにやろうということを、
一つこの
委員会でおきめいただきたいのであります。まんじゅうにも八円のまんじゅうもあります、十円のもありますし、十五円のもあります。一坪に一個、かりに一個十円といたしますれば、一反歩三百坪で三千円であります。
一つそれだけのほうびと申しまするか、駄賃を百姓にやって下さい。青砥藤綱は一文銭を川からすくい上げるために、人夫を数人も雇って、多額の費用を使っても国の宝を拾わなければならぬといって拾ったという故事がございまするが、来年の耕作に、政府の親心をほんとうに身にしみて百姓がまず第一歩を踏み出すためには、どうか、小さいまんじゅうでもよろしゅうございますから、一坪について
一つのまんじゅうをやるということをおきめいただきたいのであります。
次に
お願いを申し上げたいことは、そういうようなことをやりながら、百姓は来年の収穫まで食いつないでいくために、仕事をほしがっております。自分らは、今日までは救助法によって、国の恩恵によって生きてきたが、いつまでもそういう恩恵をたよりに生きていこうということは考えておりません。自分の労力によって、自分たちの努力によって、来年の収穫まで生きていこう、わが家の再興をはかろうといたしております彼らに、職を、仕事を、まず作ってやっていただきたいということであります。どんな仕事でもいたします。まして、自分の住んでおる地方、自分の目の前にあるたんぼや畑、あるいは水路やみぞに
関係のあることでありますならば、百姓は、朝は早くから晩は目が見えなくなるまででも働きます。どうか百姓に耕地整理、区画整理、土地改良、あるいは内水面干拓等の仕事を、まず作ってやっていただきたいと思うのであります。このことは、来年の収穫時までの救農であると同時に、ほんとうに
津島、
海部地方におきまする濃尾の美田、穀倉を再びもとの美田に戻す、災いを福に転ずる最大の方法、近道であると私は確信をいたしておるものでございます。
ただ私がこういう席でまことに恐縮でございまするけれ
ども、一言皆様に御認識をいただきたいと思いますることは、最近ある場所でいろいろ興農、救農に関する
お願いをいたしておりましたところ、
津島、
海部地方における農民はきわめて金を持っておる、豊地である、恵まれた農家ばかりである、
海部郡の南方方面においては、農協に預金が一戸当たり二十万円からあるではないか、そういう農家に、国は今日何のために次から次への救農、興農の施策を施して、補助を
出していかなければならぬのだというようなお考えがあるやに承ったのでありまするが、これは私といたしましては、まことに承服いたしかねるお考えであると言わざるを得ないのであります。私も、その話を聞きまして、さっそく
津島市における状況を調査いたしました。十一月
末日現在におきまして、
津島におきましては、農協に対する農家の預金が二億八千四百六万円ございます。農家戸数が二千五百十五戸でありますので、二戸平均の預金が十一万二千円であります。
津島におきまする農家の農協に対する預金は十一万二千円ございます。あるいは南方の農家におかれましては、先ほど申し上げました
通り、二十万近い預金も持っておられるかもしれません。しかしながら、二十万円という金が、
一つの農家のたくわえといたしまして、どれだけの大きさと申しまするか、幅を占めておるか、価値があるかということを考えていただきたいのであります。脱穀機
一つ買うにも数万円を要します。農機具を一
通りそろえるのに、十万円以下では絶対そろいません。また農家というものは、われわれ公務員あるいは会社勤めの方とか、そういう者と違いまして、期末手当もございません、勤勉手当もございません。まして、彼らには恩給はついておりません。十一万二千円、二十万円が、彼らの最悪のときにおける唯一の頼みの綱の
予備費であるのであります。十五年勤めれば、公務員には恩給がつきます。病気になれば、共済組合があって、入院もただでできる。百姓は、どこからも共済保険も参りませんし、恩給もつきません。一家がいかなる場合に遭遇しても、それだけが彼らの
予備費であるのであります。それを持っておるから、今日それほどまでして救う必要はないのだということは、絶対言えぬと思うのであります。また一歩譲りまして、この十一万二千円という金がかなりの金であるといたしましても、それこそ、これは彼らがほんとうに百姓として油と汗でたくわえてきた金なのであります。
海部郡の南方方面に参りますと、お百姓はあれだけ広いたんぼを一生懸命作りながら、一方においては、寒中胸まで達するゴムのズボンをはきまして、海につかってノリを拾うのであります。この辺で浅草ノリと呼ばれておるものは、知多郡や
海部郡の
海岸でとれたノリが大
部分であります。あのノリをとるのに、彼らはどのくらい水の中につかって苦労するか。さらに、屈強な男は、小さな船に乗って近海へ出て、魚をとってきて売り歩くのであります。二十万円の預金を持ったということは、そういう一家をあげて、未明から日暮れまで油と汗で十年、十五年かかってようやくためた預金であるのであります。こういう金が十一万二千円あるからといって、それでもって、今日農家は恵まれておる、
津島、
海部の農家は金持ちであるというようなことは、私は絶対に言うべきでないと思いまするので、どうか
一つその点を御
理解賜わりたいと思うのであります。
次に、工場について
お願い申し上げます。先般も申し上げました
通り、
海部、
津島地方は、尾西、一宮地方と同様に、御承知のごとく全国屈指の毛織物産地であります。
津島等におきましても、百二十以上の工場が
災害を受け、三千五百台から四千台の織機が水浸しになり、今日、彼らはそれを油で洗い、分解して組み立てて、再び音を立てさせることに血みどろになっております。しかしながら、この織機というものは、きわめて精巧なる機械でありまして、一たんそういのものにつかりますと、これをいかように洗たくをし、分解掃除をいたしましても、もとには戻りません。しかしながら、今日速急にこれを新しいのに買いかえるだけの力がなく、余力もありませんので、古いやつをがまんをして使おうといたしておるわけであります。しかしながら、修整場におきましてできたものを調べますると、以前に比べまして全く価値の少ないものしかできないのであります。今まで一等品、外国輸出の優秀なる毛織物の産地でありました
津島におきましては、今日とうてい合格品の生産はできないというような現状になった。長くなりまするので、簡単に
お願いをいたしまするが、どうかこれら工場に対しましては、
復旧資金に約十億、つなぎ資金といたしまして六十億、さらに織機の新規買い入れ資金としまして四億、この
程度の低利の長期融資の御配慮をわずらわしたいと思うのであります。彼らは、必ずやこのお借りしたものについて国家に損失を与えるようなことはいたしません。再び毛織王国を出現いたしまして、外貨を獲得する往時に戻すことは明瞭でございます。どうか、ただいま申し上げた
程度の融資について、御配慮を賜わりたいと思うのであります。
さらに
お願い申し上げたいことは、この
被害数字におきましては、そういうことを記入してありませんが、工場主の
被害というものは、この二カ月間工場その他の労務者をつないでおくために、非常なる
経費を使っておるということであります。国におかれまして御心配をいただきまして、六〇%の失業保険金の御支給をいただくことに決定をいたしております。しかしながら、それだけでもって、決してあれらの人はそこにとどまっておったわけではありません。そのほかに、工員で家の水についた者には、工場主は自分のところはあと回しにいたしまして、そうしてまず工員の家を救い、工員に金を与えたのであります。六割と全部との差額の四割はもとよりでありますが、さらにそれに倍するものを見舞いなりいろいろな形で与えて、そうして今日あの優秀なる熟練工をつなぎとめて参ったのであります。ところが、六十日水浸しの間、大切な織機を保護するため、保安要員といたしまして相当数の従事員を使用いたしまして、あるいはそれに相当の手当を払っておるかもしれません。また、事実払っております。払わなければ、そういう人を使うことはできません。それによりまして、失業者ではないのだ、六〇%の保険金は支給できないのだというような、もし労働省においてお取り扱い等が行なわれまするならば、これこそまことに泣きつらにハチと申しますか、痛手を受けた工場に対する二重の苦しみを与えることになります。非常に厳格と申しますか、むずかしく調査をし、その理由をあげればあるいは支給やや困難と思われるような筋合いも出て参るかと思うのでありますけれ
ども、この工場主が熟練工を確保するために犠牲を払った大きな金額のことをお考え合わせ下さって、六〇%のものを漏れなく長期
湛水地域の工場従事員には御支給をいただきたい。工場主の手を通じてそれらの職員の方に支給できるように、御配慮が賜わりたいのであります。
次に、
文教施設について
お願い申し上げます。
文教施設につきましては、はなはだ残念でございまするが、一昨日十二月六日の朝日新聞、同じ日の中部日本新聞が筆をそろえて、「
台風後ふえた少年犯罪、
被災せぬ子への反感、暗い環境に心すさんで」あるいは「少年が不良化の恐れ、
台風による環境変化で」というような記事を載せております。しかし、私は、この記事が載って初めてそういうことを知ったわけではございません。何とぞ
文教施設の復興につきましては、十分なる御配慮を賜わって、青少年の士気の阻喪の起こらぬように、青少年をしてがっかりさせぬように、御考慮がいただきたいと思うのであります。数日前だったと思いまするが、文教方面におきましては、
災害復旧のために相当額の資金を要するので、すでに決定をいたしましたように、補助あるいはその他の国の御認可のあったものが、幾らか取り消しあるいは中止をされて、いわゆる財源を吸収するというようなお考えがどこかにあるがごときことを伺ったのでありまするけれ
ども、これははなはだおかしいと思うのであります。
災害を受けた
文教施設を
復旧するために、増強なり新設を決定しておった
工事をやめるということであれば、これは結局プラス・マイナス・ゼロでありまして、いささか
災害に対して親心をもって
復旧してやろうということとは遠ざかっていくのではないかと思うのであります。わが
学校には、体育館がことしできるんだ、すでに文部省なり自治庁からの御認可までいただいておるということになれば、そのことはPTAの役員も、PTAの人たちも、子供自身も、よく知って楽しんでおったのであります。もし、それを今日、水災のために金が要るようになったから、体育館はお前のところは建たぬようになったのだと生徒に言うたならば、それこそこれらの新聞が書いておりますように、生徒自身がこの
災害の痛手をもう一度教室において受けるようになると思うのであります。私は、山本有三氏の小説であったと思いまするが、「米百俵」という小説を読んだことがあります。越後の長岡藩では、大
災害に見舞われたときに、見舞いにもらった米百俵を分けて食おうとしたときに有識の士がとめて、塾を開いたという意味の小説であったと思うのであります。その塾からは、山本元帥とかなんとか、偉い人がたくさん輩
出しておるということまで、その小説には書いてあったようでありますが、かかる際に、極端な言い方をするならば、他のことは幾らか譲っても、文教に関する、第二国民の養成の教育の
施設こそは、むしろ力を入れて、そうして
災害のためにむしろよくなったのだ)
災害のためにこれができたのだというようなふうに
一つ御配慮を願わなければならぬ。
さらに、こまかい話になりますけれ
ども、倒壊いたしました校舎は、鉄筋にかえていただけるというようなことを伺って喜んでおりますが、倒壊せず中途半端な
被害で、その査定では、これは壁をちょっと上に化粧でもすれば使えるではないかということで、どんどん過酷なる査定が行なわれるということがもしありますと、これはまことに残念でございます。
この際あわせて
お願い申し上げたいのは、公共
施設あるいは土木
関係のものにいたしましても、文教
関係のものにいたしましても、あるいは厚生、衛生、
医療方面の病院等におきましても、みな中央の調査官の御調査がございます。もとより当然でございます。綿密なる御調査をいただきたいと思うのでございます。しかしながら、国の確保されている金額に限度があるので、この際査定調査をきわめて厳格にして、そのワク内におさめなければならぬというような先入意識を持って現地においでをいただいて御調査を願うということならば、この御調査は、表面調査であるけれ
ども、むしろまことにわれわれとしては好まざる来訪者であると言わざるを得ぬのであります。いろいろな御配慮をいただいておりまする財源につきましては、きまった財源でどうしても無理やりにその財源のワク内におさめようという御方針で、御上司の方の心を
理解せずにその係の方が単なる事務をもって数字を出す、日ごろのいわゆる査定即減額というような御意識で現場の査定を行なわれまするならば、
被災民はまことにいいつらの皮だと言わざるを得ぬのであります。どうか、財源には限度がございましょう、きまった御
予算のワクもございましょうが、必要なものは
一つ御追加なり御修正をいただきまして、査定はあたたかいお気持で御査定を願うように
お願いを申し上げる次第であります。
次に、市財政と申しますか、公共団体の財政について
お願いを申し上げたいと思います。申し上げまするまでもなく、私
どものごとき小さな人口四万四千の町におきましても、その約半数の住民が
罹災をいたしました。固定資産税、市民税、そういうものの減免を
実施いたさなければなりません。私
どもも、昭和三十四年度におきまする一般会計に
計上いたしました財政収入は、当初
予算におきまして一億七千三百万でございました。九月の水災
発生までに収納いたしました税額が、約九千五百万円であります。差引七千八百万円の一般会計における税収入というものは、今後この半額四千万円が収納できれば上々であると私は思っておるのであります。しかしながら、残額の半分四千万円を収納することは、とうてい不可能ではないかと思うのであります。こういう財政歳入欠陥を初めといたしまして、いわゆる
予算外の義務負担、債務負担、というようなものと、今回市民も農家も、営農資金の借り入れ、あるいは中小企業金融公庫の借り入れ、あるいは住宅金融公庫の借り入れ等において、市は
予算外の債務負担等をいたしておるのであります。
また、さらに大きな問題は、国民健康保険に対する問題であります。国民健康保険は、御承知のように、最近その収入に比べまして
医療給付額が非常に増加をいたしまして、どこにおきましても、国民健康保険を
実施の市は、相当額の一般会計からの繰り
出しをいたしまして、国保の運営をいたして参っておるのであります。一時のごときは——私の
津島市におきましても、昭和二十六年、七年ごろには、これを中止せざるを得ないのだというような苦境にも立ち至りました。しかし、がんばりがんばり続けて、今日国保を継続して参ったのであります。しかしながら、国民健康保険税を減免し、あるいは一部負担金を減免した場合に、国におかれましてはその八〇%を補給下さるとの御意向を御決定いただいておるようであります。まことにありがたいことであります。しかしながら、その残りの二〇%を市財政において負担することが可能であるかどうかということになりますと、これは絶対可能であるということは言えないのであります。一般会計においてさえ、先ほど申し上げましたように歳入欠陥を生ずる上に、国保会計に繰り出すだけの一般会計に財源の余裕がないことは、これは明瞭でございます。しかも、あの床下は全くどろどろで、いまだに潮水がたまっております。壁は一メートルまで落ち、上は潮水がしみ込んでいる、こういうところに帰って今起居しておる市民は、平常ならば健康な者でも、病気を相当に
発生するであろうと、残念でありまするが、覚悟をいたしております。螢の光に送られて、わが家なつかしさの余り、水が引いて二、三日で、もう少しおれと言ってもおらずに帰っていきました。六千人からおりました。
学校等に避難をしておりました市民は、水が引くともう矢もたてもたまらぬという形で、残っておる
学校の子供が花束を握らしてやったり、螢の光を歌ってやったりすると、ほんとうに喜んで、私が乗せてやったバスの中から手を振りながら帰っていきました。しかし、彼らは、おそらく赤ん坊や子供は、かぜを引いて気管支炎を起こすであろうと思います。老人はリューマチを起こすとか、神経痛を起こす、これは残念であるけれ
ども、どうしても覚悟しなければならない。されば国民健康保険におきまする
医療給付費というものが、今後きわめて膨大なる増加を来たすことは当然であります。八割までが国のお金をいただきます、ありがたいことだと思いまするが、残りの二割を市において負担せよとおっしゃられても、負担の余力がありません。それならば、国保を打ち切るか、中止するか。こんなときこそ、市民も国保の恩恵を受けなければなりません。こんなときこそ、
医療機関というものは、国民に
医療の安心を与えてやるべきものであると思うのであります。こんなときに困るからといって、国保は中止ができません。どうか
一つ、この国保の減免に対する、あるいは国民健康保険税の収入欠陥に対する補てんにつきましては、国におかれまして、国民の健康を維持してやるのだという見地から、万全の処置を
お願い申し上げたいのであります。
その他、先ほど
小林市長さんからもお言葉がございました特別交付税の優先決定とか、いろいろ財政上の問題につきましては、すでに他のお方々からもお言葉があり、いろいろ御配慮もいただいておると存じますので、私も強くそれを
お願い申し上げる次第でございます。
最後に、私はいささか報告——
お願いとは違うかもしれませんけれ
ども、大きく言えば、これまたきわめて重大であると思えることについて、最後に皆様のお耳を汚したいと思うのであります。
それは、この地図でもごらんいただきますように、
海部、
津島は、ちょうど北の方の一辺のない長方形の重箱でございます。その重箱の三万のどの一辺がなくなっても、今度のような水入りになります。
海岸堤防もしっかりやっていただいて、先ほど
小林市長さんのお言葉にもありましたように、無災都市の
建設も必要でありますが、この木曽川と日光川と
海岸との重箱の三辺の補強に万全の御配慮がいただきたいということであります。それにつきまして、私はこの席で特に皆様のお耳を汚したいことは、今回の
災害にあたりまして、私
どもがほんとうに安心感を与えられ、ほんとうにありがたく思い、これでこそほんとうに現地における水をなくする仕事が完成したのだと思えますることは、自衛隊隊員
各位の
活動であります。私
どもは、今さらそういうことを申し上げるのは申しわけございませんが、事実
台風発生後から九月
一ぱいはもとより、十月の中旬まで、いつになったら
締め切り工事はめどがついてくるのだ、いつになったらわれわれはもう大丈夫、これならば十日なり三週間なり先に水がなくなるだろうというめどがついてくるだろうかということが握れないために、毎日不安と焦燥にかられて過ごしておったのであります。忘れもいたしません、十月の十五日であったと思いまするが、
愛知県庁の知事
会議室で、中部
対策本部の
会議が開催されました。益谷副総理、石原自治庁長官、楢橋運輸大臣、あるいは
建設省の富樫技監、各省の責任者、さらにお見えの江崎先生を初め多数の代議士先生も御列席の上、きわめて深刻と申しますか、沈痛なる空気のうちに
対策本部の
会議が開催されました。列席の各省担当者は、所管所管について、いろいろこまかく状況の御報告やら今後の方針について御発表がありました。しかしながら、率直に申し上げますが、どなたの発言を聞いておりましても、そういうふうに計画が進んでおるのか、そういうふうに段取りができておるのか、
締め切り工事は大丈夫できるというような、安心感の持てる御発言は一言もございませんでした。私並びにあそこにおいでになる
海部郡の町村長さんも、全員そこにおいででありました。一人残らず、何となく物足らぬ、きわめて物足らぬ気持をもって各担当者の御発言を黙って承っておったのであります。しかしながら、一時間以上時間が経過したときに、自衛隊の責任者の幕僚の方が立ち上がられました。大きな紙を二、三枚壁に張られまして、尾西作戦というものを
説明されました。そうして、ここに新しく尾西作戦を計画し、これによって自衛隊が第一工区と第二工区には全責任を負うのだということを、強い言葉で御発表になりました。その方の名前はお尋ねもいたしませんでしたが、亀ケ池重宝に橋頭屋を置いて、
名古屋港の十一号地から十九万俵の石嚢を運ぶ。遠くは北海道あるいは小倉から、近くは守山方面からどんどん今自衛隊の兵力を集中いたしております。陸上は後藤一佐率いる二千五百人、海上は有村一海佐の率いる八百人、空軍は有川空佐の率いる三十三台の飛行機、さらに百三十台のダンプ・カー、ヘリコプター等によって、必ずこの尾西作戦は、皆様と御約束した一カ月で完成してみせる。これは、自衛隊が今日皆様の前で公然と発表できます。しかしながら、現地において水に浸り、ヘビやネズミと一緒に暮らし、堤防にこじき小屋を作って、自衛隊の給油タンクによってほんの三合か四合の水でその日その日を送っておる住民の苦しみはわれわれ自衛隊員こそが最もよく知っておるのだ。私
どもは一カ月の約束をしたけれ
ども、一カ月でこれをやればいいのだなどとは夢にも思っておりません。たとい四日でも五日でも短縮しようというのが、われわれの決意であります。こういう発表をされたのであります。そばにおられました佐屋町長の山田英三氏は、私の腕を隣から握りまして、もうあとのお話を聞く必要はない。期せずしてその中部
対策本部におった町村長
各位も立ち上がって、おいとまをいたしたのであります。これは一例にすぎませんが、
防疫につきましても、小
学校の子供を船で
学校へ運ぶにつきましても、あるいは急病人を
名古屋へ運ぶにつきましても、あの
締め切り工事を水につかってやった方々と同じ心を心として、われわれを救ってくれたのであります。私は、皆様の御労苦、
関係者、地元住民の労苦、もとよりありがたいと思いますが、自衛隊の今回の
活動につきましては、ほんとうに頭を下げてお礼を申し上げるものであります。私は、今日こういう席でそういうことを申し上げるのは、まことにはばかり多く、おこがましい次第かと存じますけれ
ども、
津島市民四万五千、
海部郡十数万の住民は、自衛隊あったればこそこの
締め切り工事はできたのだということを、ほんとうにみな思っております。二、三日前に、
津島市から最後のダンプ・カー部隊が引き揚げました。三十数両の大型ダンプ・力ーを並べて隊員が去っていきました。わが
津島市は、十何年ぶりに、町中日の丸の旗と万歳に埋まりました。かくのごときことは、私の夢にも考えなかった光景であったのであります。どうか皆さん、私が自衛隊の皆様に感謝いたしておるということを、
一つお含みおき願いたいと思うのであります。私は、最後に自衛隊のますます発展されて、活躍されんことを心から念じて、私の御報告を終わらせていただきます。