運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1959-03-31 第31回国会 衆議院 文教委員会 第18号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十四年三月三十一日(火曜日)     午前十時三十五分開議  出席委員    委員長 臼井 莊一君    理事 稻葉  修君 理事 加藤 精三君    理事 木村 武雄君 理事 鈴木 正吾君    理事 永山 忠則君 理事 小牧 次生君    理事 櫻井 奎夫君 理事 西村 力弥君       鴨田 宗一君    木倉和一郎君       北村徳太郎君    清瀬 一郎君       木村 守江君    久野 忠治君       砂原  格君    高石幸三郎君       高橋 英吉君    竹下  登君       谷川 和穗君    渡海元三郎君       中村 寅太君    二階堂 進君       原田  憲君    福永 一臣君       灘尾 弘吉君    山本 勝市君       小松  幹君    野口 忠夫君       長谷川 保君    堀  昌雄君       三鍋 義三君    門司  亮君       山崎 始男君    山中 吾郎君  出席国務大臣         文 部 大 臣 橋本 龍伍君  出席政府委員         文部政務次官  高見 三郎君         文部事務官         (大臣官房総務         参事官)    齋藤  正君         文部事務官         (初等中等教育         局長)     内藤譽三郎君         文部事務官         (社会教育局         長)      福田  繁君  委員外出席者         参  考  人         (愛知学院大学         教授)     井手 成三君         参  考  人         (評論家)   中島 健蔵君         参  考  人         (新潟県公民館         連絡協議会会         長)      丸山直一郎君         参  考  人         (東京学芸大学         助教授)    星野安三郎君         専  門  員 石井つとむ君     ————————————— 三月三十一日  委員天野光晴君、谷川和穗君、吉田重延君、田  中榮一君、八木徹雄君、松永東君、木村守江君、  灘尾弘吉君、辻原弘市君、阿部五郎原彪君及  び本島百合子辞任につき、その補欠として二  階堂進君、原田憲君、北村徳太郎君、高橋英吉  君、山本勝市君、木倉和一郎君、福永一臣君、  砂原格君、三鍋義三君、小松幹君、門司亮君及  び山中吾郎君が議長指名委員に選任された。 同 日  委員北村徳太郎君、山本勝市君及び原田憲君辞  任につき、その補欠として谷川和穗君、久野忠  治君及び鴨田宗一君が議名指名委員に選任  された。 同 日  委員鴨田宗一君、二階堂進君、木倉和一郎君、  久野忠治君、砂原格君及び福永一臣辞任につ  き、その補欠として原田憲君、天野光晴君、松  永東君、山本勝市君、灘尾弘吉君及び木村守江  君が議長指名委員に選任された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  参考人出頭要求に関する件  社会教育法等の一部を改正する法律案内閣提  出第二八号)(参議院送付)      ————◇—————
  2. 臼井莊一

    臼井委員長 これより会議を開きます。  初めに、参考人より意見聴取の件についてお諮りいたします。去る二十八日、本委員会におきまして社会教育法等の一部を改正する法律案について参考人より意見を聴取することになりましたが、都合により理事会協議の上取りやめになりました。  つきましては、先日の理事会協議に従い、本日社会教育法等の一部を改正する法律案について、井手成三君、中島健蔵君、丸山直一郎君及び星野安三郎君を参考人とし、意見を聴取いたしたいと存じますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 臼井莊一

    臼井委員長 御異議なしと認め、さよう決しました。     —————————————
  4. 臼井莊一

    臼井委員長 それでは、社会教育法等の一部を改正する法律案議題とし、審査を進めます。  まず、本案について参考人より意見聴取を行います。  参考人各位には、御多用中にもかかわらずわざわざ御出席下さいましてありがとうございます。また、去る二十八日には参考人として御出席を依頼しながら、委員会審査都合意見聴取を取りやめました点、おわび申し上げます。本日は、社会教育法等の一部を改正する法律案について忌憚のない御意見をお述べいただき、もって本案審査参考に資したいと存じます。参考人の御意見開陳は一通り十五分以内とし、四参考人より順次御意見開陳を願い、そのあと委員の質疑に入ります。  まず、井手成三君より御意見開陳を願います。井手参考人
  5. 井手成三

    井手参考人 私、ただいま御紹介をいただきました井手でございます。私はただいま二、三の大学法律を教えております。また、ちょうど現行憲法ができます前後、法制局の部長をいたしておりましたというような関係で、おもに法律角度から意見を述べさせていただきたいと思います。  まず、本法律案中の第十三条関係について申し上げます。  現行の第十三条が憲法第八十九条と関係があるということは皆様すでに御承知と存じます。現行憲法の第八十九条はマッカーサー草案八十三条の翻訳と申していいと考えるのでありまして、このアイデアGHQから出たということは明瞭でございます。これをアドバイスと見るのか押しつけと見るのかというようなことは、政治問題あるいはその他の角度からいろいろ論議されると思いますが、きょうは議題外にいたしたいと思います。しかしながら、この条文わが国国情に適しているか、また合理的な内容を持っているかというようなことになりますと、憲法改正というような問題が起りましたときに必ずや大きな問題点一つになるであろうと思います。しかし、その点につきましても私はきょうは議論外にいたしたいと思います。ともかく、この現行憲法第八十九条のワク内で国家の機能は規律せられているわけでございます。この条項をいかに運営していくか、公私生活の向上、発展にいかにして、これを合せていくかということは、国会、政府、裁判所、もっと広く言いますと、われわれ国民責任であろうと思います。この条文、この条文と言いますと憲法第八十九条でございますが、憲法八十九条は宗教関係も規律しておりますが、きょうの問題とはちょっと違いますので別問題にいたします。以下、宗教関係については触れないで進めていくつもりでございます。  この条文は、公けの支配のもとにない慈善教育博愛事業には公金その他公けの財産支出したり、または利用に供することを禁じているわけです。この条文を文字通り読みますと、このような事業でありましても公けの文配さえすれば公けの助成をしてよろしいという工合にさっぱりと読めるわけでありますが、マッカーサー草案最初アンダー・ザ・コントロール・オブ・ザ・ステートとあったわけですが、現行憲法を逆に英訳しましたのでは、アンダー・ザ・コントロール・オブ・パブリック・オーソリティとなっております。このマッカーサー草案で示されました文章から見ますと、むしろ私的な教育慈善博愛事業には国庫補助その他のことはやらない。すなわちノー・コントロール・ノー・ヘルプという相言葉みたいにGHQでいっておりましたが、この理念を示しているのだろうと思います。少くともわれわれにこの条文のオリジンを授けたGHQ考え方はそうであったろうと思いますし、条文ができました趣旨はそうだったと思います。この二つアイデアのうち第一点は、私立教育事業——以下慈善博愛もからんでおりますが、簡単に教育という言葉だけで言いますが、内容は同じようなことであります。私立教育事業は、自主的な精神、そうして自主的な発展をすることが大切であって、国家その他権力が干渉しないというところを第一点が示しているのだと思います。第二点は、私立教育事業については、公金その他の公けの財産支出したりまたその利用に供しないということを示しております。いずれも大へん重要な考え方GHQから差し示されたわけでありますが、われわれにとってこのでき上った条文、もっと突っ込みますと、この条文の中に盛られているアイデアをいかに有意義に、いかに合目的的に運営するかということが問題だと思います。この二つアイデアのうちの第一点は、いかにも過去の経験から見まして望ましい理想を示されたと思います。従って今日政治行政、諸般の国政においてこの第一点のアイデアは十分伸ばして実効をあげたいものだと望みます。そのために、現に社会教育法第十二条は法律として憲法のほかにさらにこのことをもう一つはっきり実現しているのだと思います。  次に第二点でありますが、国によって異なりますが、わが国のような国情では、教育事業博愛慈善事業も同様ですが、それに対して国あるいは地方公共団体が公けの助成振興をしたいと思いますし、また事業を行なっている側からも受けたい。またそのことがないと実際発達が意のごとくならない部面が多いと思います。ことに本日問題になっております社会教育分野について、この第二点の趣旨を形式的に徹し切るというようなことになりますと、角をためて牛を殺すというようなたとえに近いようになると思うのです。そういう場合が多いのではないかと思うのであります。そこで第一点は厳守しながらも、憲法条文が読み得るといいますか、解釈し得る範囲内で国、公共団体助成振興の道が講ぜられてよいのではないかと考えるのが、むしろ常識に合うのではないか、わが国国情に合うのではないかと思う次第でございます。従って社会教育法の立案当時、第十三条は日本側原案になかったのでありまして、GHQ側からこれを入れられた、というと変な言葉になりますが、GHQ側の要望によってこれが挿入されたと聞き及んでおるわけです。この現行の十三条は、本来社会教育法という法律になくても済む問題で、またない方がよけいな反射的な副作用を起さないでかえってよかったのではないかと考えます。すなわち必要限度のことはすでに憲法八十九条がきめておりますし、その解釈ワク内で済ました方がいいし、それが適当だと思うのです。しかも憲法八十九条とこの現行十三条とでは、範囲が非常にと言うとおかしいですが、非常に異なっておるわけです。少くとも憲法の方には公けの財産のことが書いてありますが、社会教育法の十三条の方には、公けの財産のことについては、触れておりません。また憲法の八十九条の方では、事業経営を押えておりますにかかわらず、現行社会教育法の十三条の方では、社会教育関係団体そのものに対する支出を、制限するというようなことをしておるわけです。このような制限は必要がないのみならず、他の行政分野に比しまして、国の助成が極度にこの分野については制限されたり、厳禁されてしまうというような、不合理な結果を来たしておるのではないかと思いますが、要は憲法八十九条にまかしておけばいいのであって、立法政策として、憲法八十九条のワク外のものについて助成しても、そのために事実上私立教育事業が歪曲せられるということがないように留意さえしていけばいいので、そのためには十二条が明記されておるわけでございます。  結局率直に考えてみまして慈善教育博愛というような事業には、公けの奨励助成があってしかるべきであるし、現に外国の立法では、中華民国の憲法の百六十七条第一号は、第二号、三号、四号とも教育関係したことを書いておるのですが、これは国の基本政策の中の節に入っておるわけですが、国内の私人経営教育事業で、成績の優秀なものには、国家が奨励しまたは補助を与えるということをはっきり規定しておる立法例もあるわけです。また現行憲法八十九条のもとにありながら、実際問題としてこれは日本のことでありますが、私立学校に対しましては、その使命、国家的功績また内容等に照しまして、国家がこれを助成振興しなければならない実情にあるために、制度上公けの支配があるということにし、すなわち憲法の条件を満たしておるということにして、その事業にも助成の手が伸ばされておるのが現実でございます。この公けの支配が実態的な積極的なものでありますと、私定の自主的精神に及ぼすことは甚大でございます。幸か不幸か、単に名目的なものにすぎない。この程度のことで果して公けの支配があると言えるのかどうか。憲法違反ではないかという論さえも出ておるわけでございますが、現実憲法以下法令を最大限に具体的要請にこたえて解釈して、私立学校に対する補助をしておるのが実態でございます。  このように私立学校に対しましては、観念的、形式的に公けの支配があるということで、助成の戸を開いておるわけであります。社会教育法の方では、第十条でも定義として公けの支配のもとにないということをすでに書いておりますし、また第十二条では、分けの支配を排除するという条文が厳然として存在しておりますから、これらの条文をいまさら私立学校のような考え方で、公けの支配があるという形にして補助をする方法を始めようというようなことをやりますと、容易ならざる弊害を伴うであろうと思うのです。結局この社会教育分野では、国が助成の手を伸ばそうといたしますと、憲法八十九条にいうところの、教育事業とは何であるのか、その範囲はどこまで入るのか。その範囲外はもちろん補助をしていいわけなんですが、結局教育事業範囲はどうかということをきめまして、その範囲外において助成をしていくというような考えをとるほかはないと思います。助成をいたしまして、この分野の健全な発展を期待したい政府、あるいはまた非常に大切な社会教育事業を自分の経営負担において維持しておられる関係の向きの中には、多くの人がこの憲法八十九条の教育事業を何とか狭く解して、それ以外の部分について公けの助成がなされるということを希望しておられるということは、容易にわれわれ想像し、御推察できるわけであります。政府当局憲法八十九条の教育を、おおむね教育事業とは、人の精神的、肉体的育成を目ざして、人を教え導くことを目的とする事業であって、教育する者と教育される者の存在なくしては、これを考えることができないというように解釈しておられるようであります。従ってそれ以外、たとえば通俗に社会教育と広く呼ばれている事業でも、それは憲法八十九条のワク外である、すなわち助成金支出をなすことは差しつかえないと解しておられるようであります。これは政治行政要求上いかにもやむを得ないことと同情はするのでありますが、学者のうちには異論がないわけでもございません。いかに狭く解釈するといいましても、やむを得ない、都合が悪いといいましても、黒を白と言うことはできない。  そこで、われわれは教育という言葉を今日少し検討してみたいと思うのであります。いろいろの法令で使われておりますが、すべての法令について教育は同じでなければならぬ、同じ解釈でなければならぬなんということは、もちろん必要でありませんし、また間違っていると思うのです。従って、教育基本法で言う教育が広くて、憲法八十九条で言う教育は狭いと解釈しても、それは一向差しつかえはありません。結局その条文々々の趣旨に基いてその言葉内容を判断することが必要でございます。そこで、憲法八十九条の教育はどういうものだろうかということを私ここで述べてみたいと思うのでありますが、憲法八十九条の立法趣旨は、公金支出等の乱費を押え、あるいは教育等事業営利化を防ぐ、いろいろなことを立法当時から説明されたり、あるいは学者解釈しておりますが、ほんとうの趣旨としましては、慈善博愛事業と相並びまして教育というような事業を掲げてありますのは、結局これらの事業に対して国あるいは公共団体補助をなしますことによって、自主的な思想精神によって行われていることの多いこれらの事業経営影響を及ぼしまして、個人の日々の生活のあり方あるいは人生観、法理的に見ますと、個人の信条とか個人思想の自由に対して、国家公権力影響によってこれをひん曲げてしまうというような結果を来たすことをおそれて、こういう条文が置かれたと解していいんじゃないかと思うのです。従って、そのようなおそれが考えられないような部分、それについてはこの条文は触れていないと考えていいんじゃないか。同じ教育と一般に通俗的に言われておりましても、助成をするというようなことによりまして、その経営に非常な圧力が加わる、あるいは心理的な圧迫が加わる、そういうことによりまして、その教育事業を通じて個人思想の自由というようなものを歪曲するようになることが予想される、そういうことが積極的あるいは客観的に予想されるような部分についてこれをとめているのだ、こう解していいんじゃないかと思うのです。そうしますと、一面、社会教育団体の行なっております事業でありましても、知識の宣伝とかあるいは啓蒙とか、資料の収集とか展覧なんとかいうのは、そのおそれをわれわれは客観的に考えなくていいんじゃないかと思うし、社会教育施設としての博物館などについても同様だと思いますし、運動競技大会なんかというようなものも入らないだろうと思うのです。しかしながら、一面学校施設というようなところで継続的に、積極的に人対人教育している、つまり政府解釈しているような部分、それは今のような影響が客観的に予想されるだろう。従って、この教育事業のうちに入るのであろうと思うのであります。こういう点で、大体政府解釈しているところと私どもは範囲において一致してくるのではないかと思うのでありますが、政府の定義しているといいますか、今まで解釈している言葉、あれ以外は一切入らないかどうかということにつきましては、今言いましたような立法趣旨を考えまして、具体的な資料をいただいて判断しなければならないと思いますが、それは結局憲法八十九条の解釈の問題でございまして、何もここにわざわざ現行社会教育法の十三条のような、八十九条の要求以上のものまでに触れて社会教育振興の道を閉ざしてしまうというような可能性のあるような条項を置いておく必要は全然ないと思うのです。そういう意味におきまして、私は政府が最初提案されました十三条削除に心より賛成するものでございます。  次に、本条は参議院修正されましたが、削除するという、本質をくつがえしたのではなくて、補助金の交付についてその取扱いを慎重にするということでございますから、私として別に異論はございません。ただ、そのことが慎重である点ではけっこうでありますし、また官庁側知識を補うという点ではけっこうでございますが、むしろ時間的、手続的に煩雑だという問題や、あるいは官庁側行政責任がぼけてしまうというような場合をも含めまして、今日まで、今修正をあえてそうだというつもりはございませんけれども、とかく政府のやることが、あるいはその背景をなしている与党等が、何かの力によって行政に結びついて、行政において不公正なやり方をするのじゃないか。またなさせるおそれがあるんじゃないかというような遠いおもんばかりのために、こういう煩雑な制度が置かれてきているんじゃないかというような邪推さえも私は感ずるのです。政府官庁がほうっておいても公平、公正、また不当な勢力に引きずられるようなことのない行政をやっているのだという実証を一日も早く示していただきたいし、また政府やり方については、何でも疑うというような、一部の人たちが批判をしましても、ともかくわれわれ国民としては実績に即して、政府官庁やり方に信頼して、もう大丈夫というような安心感が持てるような世の中に、一日も早くなりたいものだということを、国民の一人として申し上げておきたいと思うのです。  次に今度は第九条の四と第九条の五の改正の問題であります。社会教育主事資格並びにこれに関連して必要な講習の問題について、一言述べたいと思います。一定実務経験者に対しまして、講習基礎にして社会教育主事資格を付寄する制度を開かれたことは、学識偏重を避けまして、実務家中講習を経て適材を広く見出し、活用するという点で大へん適切な制度だと思っております。しかし講習というのは、実務家資格を与えられる基礎になるものであります以上権威があり、また全国的に一定の基準に達するものでなければならないと思います。講習主催者中から、文部大臣都道府県教育委員会という言葉参議院修正で削除せられましたが、やはりさっき述べましたように、何か政府その他の行政機関が片寄ったことをするのではないかという予測が、その根底にあるとしますと非常に残念なことでございます。講習内容から見まして、大学その他の教育の専門的な機関講習を担当しますことはもとよりけっこうでありますが、講習内容は非常にバラエティに富んでおりますので、文部大臣が主催するものあるいは教育委員会が主催するようなものが残されておった方がよかったのではないかと思うのであります。この点につきまして、これはまた根本的に講習会を否定したものでもございませんし、われわれとしては何も大学教育専門機関だけに限定する必要はなかったんじゃないか。むしろ原案がよかったのではないかと思いますが、せっかく参議院修正されておりますし、これでも講習会が全然できないわけでもございませんから、大きな意味におきまして、この修正のままで私はこの原案に賛成いたしたいと思っております。  急ぎましたので早口で失礼いたしました。
  6. 臼井莊一

    臼井委員長 次に中島健蔵君より御意見開陳を願います。中島参考人
  7. 中島健蔵

    中島参考人 私は社会教育専門家ではございませんが、戦後まだ日本社会教育がこんとんとしておりましたころに、社会教育に関する興味を持ち、また研究したわけでございます。のみならず、その当時は社会教育主事といったような名前があったかどうか記憶しておりませんが、この社会教育は、公民館とかあるいは青年館とかその他いろいろなものがある。そういうところの指導者講習に頼まれて出席したこともございます。それからその後、私自身がそういう要請に直接に関係したことはあまりないのでありますが、そのかわり今度は私の仕事の都合上一年に何回か、もっと数が多いのでありますが、日本の各地に参ります。特に最近は僻地、離島というようなところに、しばしば参る機会がある。そこでそういう経験から、今の社会教育実情を大づかみにつかみまして、そして意見を申し上げたいと思うわけであります。  はなはだ残念でありますが、現在の日本では地域と申しますか、あるいはさまざまな環境による人間のものの考え方というものが非常に違うのであります。これは単におくれている、あるいは進んでいるというふうに言っていいかどうかわかりませんが、おそらくそうではないのであって、やはりその原因を尋ねますといろいろむずかしい問題があると思います。一例をあげますと、たとえばいわゆる僻地といわれるところへ参りますと、その僻地自体も問題を持っております。それはもちろん経済的な問題もあり、また教育の問題というのがいつもそこでやかましく論じられている。ところが、ここに厄介なことには、近ごろは幾らかよくなったのでありますが、それにもかかわらず、やはり地域社会の問題を地域社会範囲内でしか考えないという傾向が非常に顕著である。そして、問題によりまして、その地域社会でどんなに骨を折っても、結局国全体の問題として考えなければ、あるいは国際的な諸関係まで頭に入れて考えなければ片がつかないというような問題がずいぶんある。しかし、そういう場合に、私などがよその例をあげて、ほかではこれこれこういうふうになっておるというふうなことを申しますと、ときには、逆に、よそはどうでもいい、よその話を聞きたいんじゃなくて、自分のところをどうすればいいのかというような質問を受けるわけです。自分のところはどうすればいいのかと言ったって、よそを考えなければそれはうまくいかないのだ、ということを説明するのに非常に骨が折れるわけです。そういうときに、いつもそういう狭い考え、私は不幸な考えとも言いたいのでありますが、それと私との間をつなぐものはいつも社会教育実務に当っておられる方々であります。そこで、この社会教育実務に当っておられる方方と申しますのは、大きいところで社会教育主事というような方々がおられる、あるいは公民館長というような方がおられる、そういう方々である場合もこれは多いのです。しかし私の経験から申しますと、乏しい経験とも申せますが、私自体の生活からいえば、かなりの部分をさいております勉強の結果でありますが、いつでもそこに第二の人間がいる。それは何かといいますと、全然何の肩書きもない人であります。いわばその土地の有力者というような形で呼ばれましょう、ときにはお医者さんであり、ときには実際農業をやっておられる農村の人間である場合もある。その人たちは、何かの理由で、教育の結果かあるいは生活体験の結果か存じませんが、広い考えを持っている人が存在するのであります。そして、その人たちは非常に広い考えを持って私どもとも話が通ずるのでありますが、同時に、その地域社会の人々に対しても、私どもが上から頭ごなしに申すよりははるかに説得力をもって説明することができる。そしてそういう人たちが私どもを要求するという理由は、そういうことを考えているのが自分たちだけではない、よそから来た人間もそういうふうに考えているんだということが非常に大きな裏づけになりまして、そこでしばしば話し合いが始まる。そしてほんとうにいろいろ考えなければならぬようになることが多いのであります。最近にも、私は四国地方に行ったのでありますが、四国の徳県島、香川県の僻村、離島へ参りまして痛感したのでありますが、社会教育にもいろいろありますが、まず公民館にしてもあるいはその他のさまざまな施設、機関にいたしましても、これはどうも上から持ってくるものではない。下に盛り上りがないところではどういう状況になっておるかといいますと、形は整っている、公民館もりっぱに存在する、それから役職員の方々もおられる、何か会合をやれば人が集まる、それは確かでありますが、その集まり方が、何か上からやっている場合には自発性がない場合がしばしば見受けられる。一方、下から盛り上っている場合には、そういう社会教育の施設に集まってくる人間の心意気が違う場合がある。これはもちろんすべてがそういうふうにはっきり分れるわけではありませんが、そういう点がしばしば見受けられるのであります。これは今社会教育の必要ということはもう申すまでもないことでありますが、特に、日本の場合にはものの考え方があまりにもあっちこっちで違う。これは都会で考えておりますのとだいぶ程度が違うのでありまして、時間がございませんので詳しいことは申し上げませんが、私どもはしばしば意外なものにぶつかったという気持がするのであります。たとえば政治につきましても、二大政党対立とかなんとかいうふうにいわれておりますが、政党の問題は出てこない。政党以前の問題があるということをしばしば感じるのです。つまり、その土地の有力者がおりまして、その有力者が何党に属するかということはもちろん知っているのでありますが、大へん失礼な申し分でありますけれども、一体その政党がどういう政党であるかということは何も知らない。極端な場合には、何かの御都合で党籍が変られればやはりその通りになってしまう。簡単に申せば、よく戦争以来いわれていることでありますが、日本における顔と申しますか、親分子分と申しますか、そういう関係が非常に強いわけであります。そして、もう一つ、私の経験で痛切に、最近に至るまで感じておりますのは、国の権力に対して、そういう土地の人たちの中には、非常に敏感な人が多いということ。つまり、これは国の権力だけではないのでありまして、たとえば新聞、放送などのマス・メディアに対してもそうなのでありますが、とにかく、どこかしかるべきところから出ているものならば、全然批判しないでそれを受け取ってしまう。これは非常に危険なことでありまして、政治にいたしましても何にいたしましても、全然批判力を失って、与えられるままになるということは、どの点から考えても望ましいことではない。これは政治だけではなく、社会問題その他に関しましても、新聞なり放送なりというものはいつも正確に報道しようとしてはおりますけれども、そこには見解の相違も、あるいは認識の相違もある。そういうことは、都会にいるわれわれ、特に私どもはその批判というものを自分の任務といたしておりますから当然のことのように考えるのでありますが、そうは参らない。そのために非常におかしなことが起るのであります。  最近の経験では、ある島でありますが、その島は実際に電気がございません。実は石油発動機で発電しているのでありますが、夕方六時から十一時まで四十ワットの電球を点灯するだけの発電をしております。それ以外にはラジオも何も聞けない。ただ、トランジスターラジオというものができて参りましたので、電池でもって放送を聞いているという状態の島であります。そして、もともと漁業の島でありますが、北朝鮮に出漁しておりましたのが、最近の情勢でそれが不可能になって、ほとんど全部がその島に戻ってきている。そして、その近海の漁を始めたのでありますが、当然乱獲に陥るし、思い通りに生活もよくいかないという島なのです。そこで、ある新聞がその島に関する記事を出した。それは、非文化的な離島、それから、医薬のかわりにおまじない、という題で、その内容を見ますと、この島は非常に文化がおくれている、そして人口があふれているので、出かせぎに行く、出かせぎに行っても言葉がおかしいから一向にどうも勤めが続かない、トランジスター・ラジオなんか見たこともない、というようなことを書いてある。私は、ちょうどその記事が出ました翌日島に参ったのです。そして、実は、私は調べにいったのでありますから、別にそこで話をする義務はないのでありますが、そういう場合にありがちなように、今晩座談会をするから出てくれ、しかもその村のしかるべき人々に通知を出してしまったからぜひとも出てくれ、というので断わりかねて出たのでありますが、それも普通の平らかな気持でその場に参ったのであります。そうしたら、突然非難攻撃を受けた。これは皆さん方も御経験があるかもしれませんが、この場合私が何者であるかということは全然関係がない。私は某新聞に全然関係がありません。そこに執筆することはありますが、しかし記者でも何でもない。ところが、その島以外から来る者に対して非常に敏感である。そして少しでも悪口を言われれば怒る、少しでもほめればうちょうてんになるという状態がある。ただ、その中に社会教育に非常に熱心な方がおられます。これはよそから来た、東京から来られた方だそうでありますが、戦災にあわれたり何かして島に落ちつかれた。そして公約には何の資格も持っておられないのでありますが、非常によく世話をしておられます。その場合にも歴然と、私に対する非難というものは不当であるし、私が怒れば怒ってもいいのでありますが、また私はすぐ察しましたので、まあいろいろなだめたり弁解したりしたわけであります。そういうときにやはり社会教育の問題がすぐ出るわけであります。そしてそういうような傾向に対して——非常に困った傾向でありまして、いろいろそういう態度があるゆえに、おそらくさまざまな援助の手もあるいははばまれるという場合があるかと思うのでありますが、そういう場合にいつもそこでもって力を尽しておられる方は、公的な資格を持っておられる方だけでなくして、ほかの方にそうした点を特に強く感じるのであります。  大へんむだ話のようでありますが、やはりこういう実際問題から考えて、今度の社会教育法等の一部を改正する法律案を拝見したわけでありますが、私は法的にむずかしいことを申そうとは思いません。多少は調査はいたしておりますが、その点はほかの公述人なり、あるいは参考人の方々がよく御存じでありますし、もちろん国会の方々の方が御存じなわけでありますから、私は触れませんが、現在の状態では、ある基準を用いて各地に公民館を作る、あるいは社会教育の施設を作るというのは、これは暴挙であります。というのは、もしそういうことをやっても、その土地の事情に合わないことをやったならば、必ずこれは荒廃します。私は公民館は——これは例の公民館の設立ということが言われましたときにいろいろ聞いたのでありますが、そのときの一番の誤解は、公民館とは建物であるということだったのであります。現在はだいぶ進んで参りまして、建物が必要であるということに確かにきております。しかしあのときには、たとえば学校の一部を利用してもよかったのでありますが、ただしこれは教職員の任務が非常に重くなるというので、学校側ではあまり好まなかったようでありまして、建物を作ればいい、そしてそこにある教育を受けた人間が入ってくれば、それで社会教育が理想的に行われるということは、実情に照らしてどうしても考えられない。これはやはりいましばらく各地の状況を見て、しかもこれを育成していく。その育成も上からくるのじゃなくして、いろいろそこには育成の手がかりがありますから、そういうところをよく見てこまかにやっていく。やや現在よりももう少し水準化したときに、今度は少し上からでもけっこうですが、補助をするなりあるいは指導をするなりということをしてもいいと思うのです。現在は補助に対して非常に弱い、指導に対しても非常に弱いという事実も私は経験しておるのであります。つまり補助がなければ屈服しているのであります。四国のある部落では、婦人の方々が集まって「満月会」というのをやっておられる。それは満月の夜にみんなが集まってそこで忙しくて放送などを聞けなかったような人のために、放送を聞いた人が雑談の形で話してやる、あるいはその部落に関するさまざまな公的な事柄についても「満月会」で話し合うということをやっております。少しうまくいき過ぎているぐらいにうまくいっているような報告でありますが、現地に行ってみますと事実なのであります。これはいわば模範的なものとして注目されているようなところでありますが、とにかくそういうところでやっているのは何かというと、これは私も実際に行ってみましたが、一人のお医者さんとそれから何人かの主婦が原動力になって、それを続けてきた。そういうところでも、これは金があればいい。私は補助金について法的なことはさておきまして、どこでも今金が欲しいということを言っておるわけであります。金がなければどうなるかという、金がなくてもやっていけるのです。なぜかといいますと、十円か何か持ち寄って、それを会費にしている。少し大きなことをやるときになると、これは金が要るということは明らかでありますが、それは実際には直接に社会教育の組織や施設を持たないでも、手を回せば自治体なり何なりが幾らでも持っておる、学校のものも借りられる、そういうことがありまして、これは事欠かないはずであります。もしその気になりさえすれば四方八方からささえの手が出てくるという状況があります。そうしたところにはどんどん金を渡したいのでありますが、全国を見渡しますと、むしろそういう非常に有望な芽が育ちかけているときであるということもまた疑いを入れないと思います。  それに関しまして、今度はまた県なり何なりにも非常にすぐれた方がおられるのでありますが、教育委員会でもそうでありましょうが、人間の問題が非常に重要なのであります。特に教育主事という者は、単に技術的、専門的教育を受けただけではどうにもうまくいかない。そこでこういうことになる。簡単に申しますと、人間が社会教育に適するということが第一条件であります。ただしどんないい人間でもこれが技術的に欠けるところがあったらば、またどうにもいかないということがある。そこでそういうこともおのずから行われているわけであります。つまり社会教育に首を突っ込み、中には変なくせのある人がいないではないかもしらぬが、これは大体において好きであり、またそういうふうに適している人でなければやれるものではないのであります。金もなし、そして周囲からしばしば変な目で見られる。農村なんかでは特に非常に古い封建的な考えが残っております。家族関係その他について都会では普通に考えていることが非常な障害にぶつかる、そうしていやなことも言われるというような目にあいながらもこれに挺身している方々は、私は尊重しなければならぬと思う。ただ金をもうけたいから、自分の生活の足しにやっているのだというような方がいるかもしれませんが、それ以外に全く善意であり、かつまた人間として、人柄として、これは適任であるという方々に私は数知れず会っております。そうなりますと、今度はそこに教育をしなければならぬ。その教育の場合には、これは人格教育というまでは考えたくないのであります。たとえばこれも非常に乱暴な言い方かもしれませんが、非常に大ぜいの人間のことでありますから、教育委員会なりあるいは県の教育機関なり、あるいは中央においても官庁なり、その中の者が全部理想的な教育者としての資格を持っているというわけではないのであります。ことに人格の問題になると、これは簡単に割り切れないものがあって、いわば地域社会の人間を引きつける魅力なんというものは幾ら分析してもわれわれにわからぬ場合がある。そういうような資格を持った人たちが、これは自発的に出てくる、あるいは人々が推挙する、そうしてそれに対してどこかでもって専門的な技術的な教育をするという形が、現在では理想的ではないかと考えられる節が多いのであります。  そういう点から考えまして、これは法解釈の上からいって、今度の社会教育法改正がどうであるということについては、これはおそらく私は水かけ論ではないかと思う。どちらでも理屈は立ちます。大体法律というものはそうあるべきものでありまして、それでなければ法解釈というものは意味をなさないのであります。どちらにもなるかもしらぬ。しかし実情に即しました場合に、やはり指導という問題、それから教育という問題、補助金というような問題については、最小限度非常に慎重な扱いをすることは、これまた疑いを入れないと思うのであります。この指導に関しましては私が申すまでもなく、悪意でもって妙な片寄った指導がなされるという場合がないではない——残念ながらこれはないでもありません、しかしそのわずかな例をとって私はいろいろ申すのではない。それは指導を受ける方の受け身の側が非常に敏感であり過ぎる。何か権力のようなものにつながっているところからくれば、そうかといってあわてふためいて、実際にはその監督なり指導なりした人が予期しなかったようなところまでぱっといってしまうという例は、おそらくこれは選挙区をお持ちのような方々は当然御存じのはずであります。そこまではおれは考えなかったが、やれやれというようなことは幾らでも例がある。そういうところからやはり指導というものは、もちろんこの法の改正を行わないでも実際は行われている、必要な指導はしていかぬということはないのであります。だから話し合いの形なり何なりで、こういう法的な根拠は別になくても、善意の指導は行われているのであります。  それから教育に関しましてはこれは非常に簡単なことでありますが、私はこの法律の中で、「等」とか「その他」とかいうものが非常にきらいなんです。これは正直のことをいって何が入るかわからぬです。それは立法当時の方々がお考えになった以外のものが将来入る可能性がある。これは立法府の国会の方々がそのときに不純な何ものかを予想しておやりになったとは思わない——思わない方がほんとうであるし、またもしそういうことがあったらこれはまさに不当であるのであります。文部省当局がその中でもって一種の失地回復を試みるとすれば、これは許すべからざる行為であります。そういうことがあるかないかということをここでもって論議すべきではなくて、もしそういうことがないとしても、私はやはりその点お考えを願いたいと思う。つまり「文部大臣の委嘱を受けた大学その他」の中に何か入っておるとすれば、——これは修正されまして原案教育委員会が入っておるのが削除されたのは非常に喜ばしいと思う。私は教育委員会の実態を知っております。非常にすぐれたものもあるが、中には急ごしらえのものがある。特に市町村になりますと、なぜ市町村に関するさまざまな除外例があるか、公民館にしても除外例があるかというと、そういう人間はほしくてもいないという実情がある。そういうことが非常に多い。県にしてもそういうことがあります。いろいろとそういうことがあるという事実が、これまたこの法案の趣旨が曲っていないということを、私がここでもってそういうふうに想定すると申し上げた通り、一方に現実論としてお認め願わなければならぬと思います。従って「その他」というようなことは大へんにあいまいであって、原案にありますように教育委員会がそれを行うことができるというならば、私はこれに反対せざるを得ない。しかもこの法律というものは永久不変のものでありませんから、さしあたりのところは各大学におまかせになってもいいんじゃないか、各大学がそういう施設あるいは講師などの準備がないというならば、これは大学教育の問題であります。各地方の大学の問題は、これは重大なんです。何のために各地方の大学が存在するか、これ自体がすでに問題になっている。私は各地方の大学、特に国立大学などが存在する理由はその地域社会にも大きな福祉を与えるという点にあるのだと思います。従ってもしそういう点が不足ならば、予算をふやすなり何なりして拡充していきたいということを考えるのであります。  その他大体私の論旨はほかの諸点についても同様でありますが、補助金につきましても、先ほど申し上げた通り、補助金というものは、金は確かにあった方がいいのでありますが、もし出るとなったときに、補助金をめぐってどういうことが起るかというと、これは理屈ではございません、この社会教育法以外でもたくさんあります。ことにこれが非常に大きな額のものならばまた別であります。ところが私の聞いておりますところは、そう大きな予算ではない。それを公平に割り振ったらどうなるかといったら、これは全くアワ粒みたいに分けるわけです。従って一種の必要悪として不公平にならざるを得ない。どうしても重点主義をとらなければ意味がない。今のこの世の中で百円、二百円、あるいは千円、二千円の補助金を出すということは無意味であります。そういう点から、補助金については憲法云々の問題もございますが、時に補助金という形でなくて、地方予算なりその他でもって考慮を願えれば幾らでも道はあると思うのです。この場合これを削除することは、補助金を出すのが反対であるということと別の意味で、これを特にこういうふうに補助金を出してもいい、賃金的に出すということになりますと、それということになるのは火を見るよりも明らかであります。  私のは実際論でありまして、理屈でああなるこうなると言われても弁駁の余地がありませんが、そのような点から、この改正案についてはできるだけ慎重に御審議を願いたい。そして現に、私は名を連ねておりませんが、非常に強い反対論が出ておることは承知しております。その反対論者の議論を聞いておりますが、その中には実務家の中でやはり傾聴すべきものがあると思うのです。そういう点も十分にお考え下すって、これは急いで通しておしまいにならぬ方がいいというふうに、私は評論家という自分の職務から申しますと、もしよそに書く場合にもそういうふうに書くでありましょうし、ここでも平生思ったことを述べた次第であります。少し時間を超過して申しわけありませんでした。
  8. 臼井莊一

    臼井委員長 次に丸山直一郎君より御意見開陳をお願いいたします。丸山参考人
  9. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 今回社会教育法等の一部を改正する法律案が国会に御提案になりまして、議員の各位が連日にわたって御審議をいただいておるということにつきましては、まことに感謝にたえない次第でございます。とともに、この審議に当りまして公民館関係者をもお呼び下さいまして意見をお求めいただいたことに対し、まことにありがたく存ずる次第でございます。  私は新潟県見附市中央公民館長をいたしておる者でございます。今回の改正案のうち、特に公民館関係深い条項につきまして、公民館が戦後新しい社会教育のセンターとしてその構想が発表されましてから今日に至るまでの足取りの上から、現在当面しておる本問題を考えるという立場で二、三申し上げてみたいと思うのであります。  昭和二十一年七月に文部次官通牒によって国が設置を進めた公民館は、新しい社会教育は国や地方公共団体が主体となって国民教育していくというものではなく、住民自身のものとして自主的に進めるべきものであるとの性格を明らかにし、その営みの場として公民館を作るべきだと書いてきたのでありまして、施設としての公民館よりも機能の面に重点を置いた構想のもとに発足したものであったことは御承知の通りであります。  さて、実際やってみることになると、建物もなく人もなく費用もなく、まことに苦労のし続けでおりましたところ、三年経過した後、昭和二十四年六月に社会教育法が誕生いたしました。その中に公民館が初めてうたわれまして、その主要な点といたしましては、公民館一つ、公費をもって設置され、運営される。二番目に国費の補助を行う。三は職員を置く。四番目に運営審議会委員を委嘱する。五番目に基本的な事業はこれこれである。六番目に社会教育の施設であると明らかにしているのであります。こうして各地域地域社会教育に関心と熱意を持っておる者がそれぞれの規模で発足してやって参りましたが、公民館関係者は忠実にこれを実践し、これが反省と訴えをもって昭和二十七年福島で開かれました第一回の全国公民館大会に相集まりまして、まことに数多くの議題を提案をいたしました。熱心な討議がなされたのでありますが、これら議題は要約するところ、すべてが法の改正につながるものとされ、法の改正の要望はこのときすでに全国公民館関係者の強い訴えとなって動き出してきたのであります。当時要望いたしましたおもな点は、第一には職員の待遇の改善でございまして、第二番目は国費の援助の大幅な増額であります。第三番目は物品税、入場税等の免除などであったと思われます。翌年第二回の全国大会が日光で開かれました際、ついにこうした要望が決議となって現われております。会を重ねるごとに公民館関係者はこのことがますます盛り上りまして、ついに単独立法によってこの隘路を打開すべしというふうになって、その筋に幾たびか陳情を重ねて参ったのでありますが、なかなか実現することができず、早期実現を望むあまり、ついに社会教育法の一部を改正するといういき方でもやむを得ないから、とにかく職員の職制の確立と身分の保障、施設基準の設定、国費裏ずけの強化、起債のワクの獲得のできるようにしていただきたいということに相なったのであります。以上のような経過をたどって参りました。  私はこうした経過にかんがみまして、今回のこの法の改正案に対する意見を申し上げてみたいと思います。  第一、職員の問題についてでありますが、今回公民館主事の職名、職制を定められましたことは喜ばしいことでございますが、主事を任意制としておりますことは、まことに残念であります。図書館においては司書並びに司書補、青年学級においては主事、講師を必要条件として法で規定しているのに対しまして、公民館のみ主事を任意制にすることにつきましては、いささか合点のいかないところでございまして、公民館の義務設置とともに、主事を心置制とすることは、われわれが多年要望して参ったところであり、公民館活動がその成果を収めるためには完備した設備とともに、有能な職員を必要とすることは言を待たないところであります。市町村に社会教育主事を必置することに改められ、公民館主事の職名、職制を定められることに改正されるならば、近き将来において公民館主事必置制までさらに一歩を押し進め願われるよう御配慮を賜わりたいと思うのであります。  第二は、施設設備、運営の基準についてであります。現在公民館を設置する市町村は、全国市町村の八六%に達しております。その施設は年とともに完備したものも増加して参っておりますが、独立専用の建物を持つものはわずか三分の一であります。うち新築したものが五分の一弱にすぎない状態であります。公民館社会教育活動の中心的施設としての機能を果すためには、必要最小限の施設を必要として、すでに全公達自体でも、市町村規模に応じた施設基準の研究もいたしまして、また草案を作成したこともございます。なお町村合併が行われた現在、ますます市町村の規模に応ずる基準の設定はその必要を強く感じておるのでございます。よって基準を定め、逐次実際に即する施設の実現を期していくという意味においても、また義務設置に一歩を進めるものとしても、基準の設定は賛意を表する次第でございます。また設備の内容、職員の数についても同様のことが言い得ると思うのであります。  ここで希望をつけ加えさしていただきますれば、基準の設定をする場合に当りましては、今お話がございましたが、地方の実情を事前に十分御調査いただきたいということ、さらにまたせっかく基準が示されても、起債のワクの確保並びに地方交付税における小民館費の基準需要額を増加するなど財政的な裏ずけがございませんと、空文になるおそれがありますので、この点は特に御配慮を賜わりたいと思うのであります。  第三は、分館についてであります。分館は法制定以前から生まれており、分館活動こそ小地域住民の自主的な協力体制を助長し、その地域実情に即した活動ができるのでありまして、今回の改正により法的根拠を得てますます活発化するものと思いまして、喜ばしいことと思います。  以上、いずれもわれわれの念願は単独立法によっての御処置を願いたかったのでございますが、国の財政的事情その他から直ちに実現が困難であるとするならば、一刻も早く本法案を成立し、公民館活動の充実伸展をはかりますよう切に希望してやまないものであります。  次に、公民館以外の問題について若干申し上げたいと思います。その第一は、第十三条削除の問題でございます。昭和二十七年ごろと思いまするが、第一回の社会教育主事講習の話し合いの場合に、第十三条はどうも実情に合わないではないか。団体の自主性を阻害しない方法で何とか補助金を出せる道はないかという討議がかわされたと聞いております。すなわちこの条改正の必要は、このころからの問題であったのであります。しからば現在は地方の現状はどうか。こう申しますと、名目は偽装し実際は出していると端的に言い得ると思います。委託料あるいは共催分担金などという名前で公費が支出されておりまして、各団体もまた常にその増額を要望している状況であります。特に再建団体にこの傾向が多いのであります。また何かひもつき云々というようなことが懸念されておるやに伺っておりますが、法制定されましてから十年を経過しておる今日、団体も相当民主的に成長して参っております。補助金のついたことによって、そう簡単に自主性が失われるなんということは私は思いもいたしません。また前申し上げましたたとえば委託料あるいは府町村で団体に事業委託の形で行なっておる姿では、実際は補助金ではありますが、意図をもってするならば、かえってひもつきにされるという懸念もあると言い得ると思うのであります。さらにまた先ほどもお話がありましたように、第十二条が現存する以上、国及び地方公共団体の不当の統制支配を禁止していることは御承知の通りでありまして、自主性阻害の心配がないということだけは、私は明確に言い得ると思うのであります。  なおこれが憲法その他との関係につきましては、前にいろいろとお話がございましたので、その専門家の方にお譲りすることとします。  第二は、社会教育主事を市町村に設置する問題についてであります。今日社会教育も実施面で行き詰まりの声すら起きているやに聞いておりまするが、現在のこの設置には賛意を表するものであります。すなわち社会教育も相当成長して参ってきて、むしろ専門化しておるにもかかわらず、依然として現状のままではこれが指導助言が十分行き届いていない向きもあることにかんがみまして、専門的、技術的な指導助言のサービス強化が必要とされると思われるからであります。  以上所見の一部を披瀝したのでありますが、これを要するに今回の改正案に対し、公民館の現場にある者といたしましては、そのすみやかなる成立を期待するとともに、今後さらに全国公民館関係者の待望してやまない理想案の実現に対しまして、御協力を賜わりますよう重ねてお願い申し上げまして、意見開陳にかえる次第であります。
  10. 臼井莊一

    臼井委員長 次に星野安三郎君より意見開陳を願います。星野参考人
  11. 星野安三郎

    ○星野参考人 私は大学憲法をやっておりますものですから、その憲法と今度の改正案との関係から意見を述べさしていただきたいと思います。言うまでもなく憲法は最高法規でありますし、すべての法律はこの憲法に従って制定されなくてはなりませんし、それに違反するものは無効だとされているわけであります。これは言うまでもありませんが、その点現行社会教育法でもはっきり明示していると思っているわけであります。それは日本の学校教官と社会教育について規定しましたのは、教育基本法でございますが、その前文では、憲法の理想の実現はかかって教育の力によらなくちゃならぬ。またそのあとを受けて、この憲法精神に従って教育基本法を制定するというふうに書いております。また社会教育法の第一条にも、この法律教育基本法に従って云々というふうに規定されておりますから、形式的に見ましても、社会教育法というものが憲法精神に従って制定されたということは言えると思います。  次に問題になりますのは内容でございますが、御承知のように、憲法はこの教育問題等に関して申しますれば、学問の自由など、いわば国民の自主的なあるいは自由な活動を主体にして、国民生活というものを構想していると思うわけです。この憲法を受けまして、教育基本法の第一条は、教育の目的は自主的精神に充ちた国民の育成ということを言っておりますし、また第二条で、教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所で実現されねばならない、そのためには、学問の自由を尊重し、自発的精神を養い云々ということを言い、また第十条では、教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に責任を負って云々ということを言っております。またこの教育基本法を受けて、社会教育法も、いわば国民の自由な自主的な活動、それをどう守るか、どう育てるかという形で制定されていると思うわけでありますが、それは、現行法律が提案されましたときに、高瀬文部大臣が、提案理由の中で、社会教育とは、国民相互の間において行われる自主的な自己教育である、そして国及び地方公共団体は、このような住民の自主的かつ積極的な活動を助長すると同時に、その自主性を確保するために必要な措置をとろうとしたのだというふうに言っております。またこの法律が提案されましたときに、当時文部省の社会教育課長でありました寺中氏が、その後社会教育法の解説を出しておるわけでありますが、この法律の大きな目的としまして、要するに、法律というものは国民を縛る面が確かにある、そういう点で社会教育法を作ることにはさまざまな異論があったけれども、法律はまた別の面、言いかえれば自由を保障する面があるのだ、いわば国民の自由を大きく保障するためには、自由を阻害する方面に拘束を加えて自由を守るのだ、こういう点から社会教育法が作られたのであって、これは、大きく国民の自由をもたらすために、自由をはばむ方面に拘束を加えて、自由なる部分発展と奨励を策するためなのだということを明瞭に言っておったと思います。  以上前置きを述べたわけでありますが、この点申しますと、現行社会教育法は、形式的にもまた内容的にも憲法精神に従って制定されたし、またその制定の目的は、住民の自主的な自発的な積極的な活動を助長すると同時に、それをはばむものを規制する、こういう大眼目があったことは否定できないと思うわけであります。従いまして今度の改正案あるいは参議院修正案などを考える際にも、そのような憲法あるいは現行社会教育法の制定理由、大眼目という点から解釈していかないと、また判断していかないと間違うことになるんじゃないかと私は思っているわけであります。  それで、具体的に申し上げますと、私は専門が憲法で、社会教育法についてはあまりその実態や運営等について詳しくございませんし、また時間もあまりありませんので、十三条の補助金関係についてだけ、それを中心として申し上げたいと思うわけであります。  まず先ほど井手さんからもお話がございましたが、社会教育法の十三条が憲法九十八条との関係でできたことは言うまでもありませんが、この憲法九十八条がどのようにしてできたのかということも、われわれは振り返ってみる必要があるだろうと思うわけであります。先ほど、この九十八条的な考え方は、世界では少くて、米国のある州にあるということがありましたが、私その通りだと思いますが、憲法九十八条が制定されましたときの議会の議事録を読んでみますと、二つの点から制定された、その一番大きな目的は、国費が乱費される危険がないように、これが一番重点だけれども、それはなぜかというと、それまで慈善だとかあるいは教育だとか博愛というようなことは、その言葉が美しく、また名前がはなやかなために、そのような口実のもとに国費が乱費されるおそれがあるのだ、従ってそういうものを特に制限しようとしたのだ、もう一つは、公けの支配ということでありますが、ここでいう公けの支配というのは、いわゆる一般的な監督ではなくして、特殊的な監督であって、国が発言権と監視権を持つ場合は出してもよい、そうでなければ監督権、支配権というものを持たなければ補助金は出してはいけないのだということを言っております。またこの考え方と同じでありますが、法務省の調査意見を見てみましても、やはり教育とか慈善とかいう美名のもとに乱費されるのを防ぐためである、もう一つは、補助金を出すことによってその事業に不当な干渉を行う動機を与えることを規制したのだというふうに言っております。この点は、今日憲法学界ではその権威として認められております東大の宮沢先生のコメントにも同じようなことが書かれております。以上簡単に申しましたが、憲法九十八条の立法趣旨は大体そういうところにあったとみてよろしいように思うわけであります。  次に、一体社会教育法十三条の立法趣旨はどうかという問題であります。この法律が議会に上程されましたときの議事録を読んでみたわけでありますが、そこで繰り返し繰り返し質問され、あるいは疑問が提出されておりますことは、やはりこの法律によって不当な干渉支配が行われるのではないか、そういう心配はないかどうか、あるいはあるんじゃないかという点であったわけであります。そうしてまた実際補助金を与えることが、そういう社会教育事業に対して不当な支配干渉を与える可能性があるということも、政府当事者の答弁にもはっきりしておったと思うわけであります。たとえば、当時の文部省の柴沼社会教育局長の答弁でありますが、補助金を出すことを禁止したのは、補助金を与えて財政面よりその事業を拘束することのないように、繰り返して申しますと、補助金を与えて財政面よりその事業を拘束することのないように、そういう趣旨から規定したのだということを言っておりますし、また先ほど紹介しました寺中さんの解説にも同じようなことが記述されているわけであります。こういうふうに考えて参りますと、現行社会教育法の十三条は、十二条に規定されております「国及び地方公共団体は、社会教育関係団体に対し、いかなる方法によっても、不当に統制的支配を及ぼし、又はその事業に干渉を加えてはならない。」という規定のいわば財政的な面からする保障と考えられるべきであって、十二条と十三条はいわば一体としてとらえないといけないのではないかというふうに思っているわけです。  もう少し突っ込んで考えますと、十二条と十三条は、社会教育関係団体の定義をしました第十条の「公の支配に属しない団体」であるということを、十二条については、国または地方公共団体を義務づけ、十三条については、財政的な支出を禁止して、いわば社会教育関係団体が公けの支配に属しない団体であることを保障しようとした規定と見るべきだと思うわけであります。ですから先ほど申しましたように、十三条を削って補助金を与えても、十二条の「不当に統制的支配を及ぼし、又はその事業に干渉を加えてはならない。」という規定がある以上、それは干渉にならないという御意見がございましたが、私はそれはやはりおかしいのではないかと思っているわけです。とにかくこのように考えて参りますと、憲法八十九条が制定されましたときのことを関係いたしまして、補助金を出すからには、特殊な監督すなわち支配、干渉することなく補助金支出することは許されないということでありますし、またそういうことになりますと、補助金を受ければどうしても憲法八十九条との関係で、国や地方公共団体支配、干渉を受けざるを得ない。そのことによって実は社会教育法十条が規定する、「公の支配に属しない団体」である実質を失ってしまうのではないかというふうに私は考えているわけであります。もっとも先ほど井手さんの御説にもございますように、またそのほか政府当局のたびたびの説明にもあるわけでありますが、教育について、社会教育法にいう教育憲法八十九条にいう教育というものは、八十九条の方が狭い概念であるから、いわば本来の教育、すなわち教育する者と教育される者の存在なくしてはこれを考えることができない、従ってそれ以外の、たとえば機関誌を発行したりあるいは資料を作ったりすることもあるわけで、そういうところに補助金を出しても、それは憲法八十九条には違反しないというようなことが言われたと思うのでありますが、私はその根本的な問題といたしまして、たとえば社教法なら社教法が憲法精神に従って制定されなければならないと同じように、その社教法にいう教育の観念というもの、あるいは概念、あるいはその範囲というものは、やはり憲法にいう教育範囲及び概念と一致することが望ましいし、そうでなければ国政の統一的な運営というものは不可能になるのではないか。極端な例でありますが、憲法九条なんかと関係いたしまして、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」という場合に、戦車というものに特車という名をつけて、だから戦力じゃないというようなことがもし許されるのだとしたならば、これはやはり困るのではないか。そういう点でできるだけ憲法にいう教育範囲と、下級法規における教育範囲というものは、一致されるのが望ましいし、当然であるはずだ。そしてまた教育基本法及び社会教育法を見ましても、憲法八十九条にいう教育が、社教法にいう教育とは違う。憲法範囲の方が狭いという理由はどこにも私は見出すことができないのではないかという気がするわけです。  その点が一つと、もう一つ憲法八十九条にいう教育というものは、いわばフォーマルな教育であって、機関誌を発行したり、資料を作ったりするような、あるいは映画会を催したり、あるいは運動会を催したりするようなのは、インフォーマルな教育だと思いますが、社会教育関係団体が行う社会教育というものは、主としてあるいは中心としてはむしろそういった講義を聞くというフォーマルな教育よりは、さっき言ったような、自主的な自己教育であり、総合教育であるという点からいたしまして、むしろインフォーマルな点が中心になってくるのではないか。そうしますとそこに至っては、インフォーマルな点は、社会教育における中心的な活動と思われる。そこに補助金を出すことは許されるが、それ以外のところに対して許されないということは、やはり本末転倒になるのではないかというふうに思っておるわけであります。  以上簡単に憲法八十九条との関係において、十三条の意味を見たわけでありますが、そういう点からいたしますと、政府から提案されました今度の改正案というものは、補助金を出せないという十三条を削っても、そしてまた出せるようにしても、十二条があるから心配ないということは、先ほど長々と説明しましたが、憲法や社教法十三条の制定理由からいたしまして、私はそういう解釈はとれないと思うわけであります。  それからもう一つ参議院修正についてどうかという問題があると思うのでありますが、この点も私は問題だろうと思うわけであります。それは先ほども御紹介がありましたように、現行私立学校法及び社会福祉事業法等において、それに補助金が出せるようになっておりますが、そのいわば法的な根拠といたしまして、私立学校法五十九条で、役員の解職を勧告することができる、あるいは社会福祉事業法の五十六条で、予算の変更と役員の解職の勧告ができる。こういうことがあるから公けの支配に服している、そういう解釈でできるようになっているわけでありますが、先ほど御紹介がありましたように、この程度のことで公けの支配に属するとか、あるいは公けの支配に服するとは言えないのではないかという反問もある今日、参議院修正程度ではきわめて不十分だと言えると思います。すなわちそのようなことでは、せっかく八十九条が禁止したその公費の不当な支出、あるいは公費の不当な乱費、そういうものをチェックすることはできないし、また法律的に見ても、そのようなことをチェックし得る要件は満たし得ないと思っているわけであります。  以上考えて参りますと、今度の提案にしろ、あるいは参議院修正案にしろ、どうも憲法八十九条で禁じているものを、下級法規を改正することによって、事実上可能にするという、いわば逃げ道をやっているのではないかというふうに思わざるを得ないわけであります。すなわちこの十三条の改正によって、憲法はまだ改正されないにもかかわらず、事実上改正された効果と同じ効果を生むと言わざるを得ないわけであります。この点については何も社教法に限らず、特に憲法第九条等については行われておりますので、その点からも私は大へん疑問を感ずるわけであります。  以上が社教法十三条の削除及びそれに対する参議院修正に対する私の意見でありますが、今度は政策論として、あるいは立法論としても私はどうも賛成しかねますのは、たとえばことしの三月三日の参議院の文教委員会で、千葉県の青年団協議会の川口さんという人が証言しておりましたが、そこの中で、たとえば青年団が勤務評定というものに反対した、そういう事実があったことをもって、その県の社会教育課長さんでしょうが、その人が文部省の担当の係の人から大へんおしかりを受けたというような証言がなされております。そのほか、最近では相当多く文部省あるいは地方の教育委員会あたりからも、そういう自主的な自発的な青年団活動等についてのさまざまな干渉というものがあることが聞かれておりますし、また先ほど中島先生からの御発言もございましたように、かりにこれによって補助金が出されるにしても、その額は必ずしも多くはない。従ってそれは取り合いになって、不公平にならざるを得ないという点からしても、どうも思わしくないと思っているわけです。そのほかまた青年団活動と並んで、最近は婦人層、ことにお母さんたちの運動などが盛んになってきておりますが、このことにつきましても、私去年とおととし母親大会の助言者として出たときにも、そのようなさまざまな公的機関からの干渉やいやがらせがあることが聞かされておったわけであります。そういうときに、不当な干渉支配を排除するために補助金支出を禁止したものをゆるめるということは、そのような動きと一緒に考えてみますと、私はやはりまだその時期ではないどころか、むしろ大へん危険なことすら考えざるを得ないわけであります。時間が参りましたから簡単にしたいと思いますが、私は専門が憲法ですので、当然憲法憲法改正問題というものはよく調べているわけでありますが、たとえば母親たちの動き、あるいは女性の動きなどについても、自主的な動きは、最近では今の憲法を守って、今の憲法通りの、軍備などをせず、あるいは戦争政策に加担せずに、自由で豊かで人間らしい生活の維持、向上に振り向けるべきだと憲法は規定したわけですが、そういう方向に政治が動くことを期待し、またその面から憲法改正にはどうしても批判的で、また反対の意思表示が多くのところでなされていると思いますが、どうもこういう動きを規制する役割を持っているのではないかというふうに思っているわけであります。なぜかと申しますと、たとえば、これは古い話でございますが、昭和二十六年の一月八日に芦田元総理大臣は福知山で次のような演説をやった。そこでは、大々的な軍備をするためには今の憲法改正しなければならぬけれども、その憲法改正国民投票では、戦争の悲劇を身近に体験した婦人の反対でおそらく破れるだろう、だからしばらく時期を待つ必要があるということを演説したことが一月十日の朝日新聞に載っております。それからこれは週刊新潮に出ておったので、どれだけ信憑性があるかよくわかりませんが、三十一年の九月二十四日号だったと思いますが、アメリカ秘密情報局の東京支所というものが、日本に起った問題についてさまざまな点からそれが米国の政策にとってプラスかマイナスかということの点数をつけて、その表が載ったわけでありますが、その年の七月の参議院選挙で三分の二をとれなかったということはマイナス一〇といったところで、第二回母親大会が八月に行われてその諸成果は米国の政策にとってマイナス四というようなことがいわれている。あるいはおととしの十一月二十七日の朝日新聞は日本の再軍備や憲法改正についての世論調査を行なっておりますが、そこで二十才代の女性、すなわち戦後の教育を受け、そしてこれから母親となろうという二十才代の女性のうち再軍備、憲法改正反対の者が賛成の四倍というような事実が報道されている。あるいは私は昨年高知へ参りましたときに、自由文教人連盟高知県本部、東京で申しますと憲法改正を積極的に主張する人たちの集まりでございますが、その県本部が指示を流しておったのを見ました。そこではどちらかというと、父親よりも母親の方が子供の教育に関心が深い、そしてPTAの出席率も高くて、いわば教員組合の考え方になじむ傾向が出てきている。これでは大へんだから、今こそ父親が奮起して教育界を正常ならしめるために動かなくてはならないというような指示が出されて、その指示に従って全国各地であまりお母さんの参加しない父母会議が組織されているのを私自身この目でよく知っているわけでありますが、こういうような動きは、どうも今日活発に自主的に、自発的に動いている母親たちの動きがどうも憲法改正には賛成ではない、そういうふうに考えて、それをチェックしたいと思うのは当りまえだと思うわけでありますが、そんなときにこういう統制が行われる可能性のあるものは私疑問を持つわけであります。  その他単に社会教育の場面のみだけではなくて、たとえば映画の問題にしましても、文部省の選定などで、たとえば「ひろしま」だとか「千羽鶴」だとか「社会保障」というようなものが非選定になったというようなことや、あるいは特に学校教育の場で教科書などの検定が強化される、あるいは最近の教育課程の内容などを見ますと、その一々を申し上げることはできませんが、戦後われわれがあの悲惨な敗戦の反省から憲法を作って、その憲法に従って豊かで平和な国家、世界を作ろうとした方向とはどうも逆方向に向いていると私は言わざるを得ませんし、その中で出てきている問題だということを私は痛切に感じているわけです。その点から、今年の一月二十三日の朝日新聞に社会教育法の問題が出ておりましたが、その中で東大の宮原教授の意見として、社会教育法改正憲法改正とつながっているのだということを言っておったのを見まして、私もやはりそういうふうに思わざるを得ないわけであります。それは、この政策を立案した方々が主観的にそのようなことを意図してやっておるとは思いたくもありませんし、また思いませんが、日本の全体の流れとして、どうもそうならざるを得ない、そういうふうに私は考えているわけです。その点から、解釈論としても、また現状の問題からも、そういう危険性を持ったものはやはりそう急がずに、さまざまな反対もあることでございますから、十分その意見を聞いて御審議していただきたいと思っているわけでございます。  大へん時間が超過して申しわけありませんが、私の意見を終りたいと思います。
  12. 臼井莊一

    臼井委員長 これより参考人に対する質疑に入りますが、質疑の通告が八名ございますので、時間の都合上、質疑並びに御意見はなるべく簡単にお願いいたします。  順次質疑を許します。長谷川保君。
  13. 長谷川保

    ○長谷川(保)委員 今大へんお忙しい先生方においでいただいて非常に参考になる御意見を伺ったのでございますが、憲法八十九条の趣旨を生かしながら、同時にまた社会教育法教育基本法の目ざします自主的な批判力を持った平和を愛する人格を教育していく、しかもまた現状の非常におくれております日本社会教育のいろいろな事業というものを推し進めていく、こういうある意味ではむずかしい仕事を進めていくために、先ほども御意見にございましたような公共団体と青年団あるいは婦人団体との共催の仕事をしていく、こういうことが今日行われております。これを考えて参りますときに、私はそこにこういう点が考えられないだろうかということを思うのであります。それは、もし国なり県なり市町村なり、こういうものがほんとうに憲法あるいは社会教育法教育基本法精神を十分に理解いたしまして、社会教育というものはあくまで自主的な精神によって行われなければならない、あるいはそれを育成するために行わなければならぬという立場から、こういうことをあくまで貫いていく、こういう立場から金は共催者として公共団体が出すけれども、あくまで青年団、婦人団体は自主的にやるのだ、自主的にやらないというようなことではいけないのだ、こういう立場であくまで自主的にやるのだということを主張する、つまり金を出します国や地方公共団体の不当な支配、文字通り不当な支配——不当な支配ということを私は教育基本法教育の目的を阻害するもの、こう規定するのでありますが、不当な支配は絶対にしない、あくまで青年団あるいは婦人団体は公民館なら公民館を使って自主的な立場でやるのだ、これが憲法あるいは教育基本法あるいは社会教育法精神だ、であるから国や地方公共団体は金は出すけれども、それはあくまで自主的なやり方を貫くために、青年団の自主的なあるいは婦人団体の自主的な社会教育をやるために金を出すのだ、こういう立場に立ちましたときに、青年団はあくまで自主的な態度で徹底してやれる、公民館あるいは学校等の設備を使わせる、あるいは青年団が依頼いたしました講師を公共団体なり国なりがあっせんするというようなこと、あるいは青年団が要求した資料を整えて出すというようなことを地方団体や国がやる、こういうようなことになった場合、国や地方団体は公金支出してもいい、それはあくまで自主的な精神を貫く教育をやるということを青年団がやるのだ、それをやらせるのが地方公共団体あるいは国のなすべき務めだという意味で、いわば国や地方公共団体の意思は貫かれている、従って公けの支配は行われているのだ、一方それを請負わされる方はあくまで自主的な態度でやっているのだ、こういうことが共催ということの中で両立しないであろうか、それがもし両立できるとすれば、八十九条及びこの十三条等に関係いたします今日のこの法律改正する必要は別にないわけだと私は思うのであります。少し無理があるようにも考えられるのでありますけれども、その点はどうでありましょうか。井手先生及び星野先生の御意見を承わりたいのであります。
  14. 井手成三

    井手参考人 御指摘の例につきましては、具体的にいろいろなやり方があろうと思うのですが、公共団体と青年団なら青年団が受け持つ分野は全然違っておる。しかも公共団体がやっているやり方をそのまま受け取っている青年団の方で一向文句もないというようなごくまれな例におきましては、一向差しつかえないように思うのでありますが、どうも大体において脱法くさいのじゃないかというような気がするのです。公けの支配がなければ金が出せないというのにかかわらず、少くとも現行制度では公けの支配はしていない、ところが金だけは出そうというのですから、現行憲法に——そういう多くのアメリカから与えられたアイデイアが、なかなか国情に合い切れない。たとえば文化勲章の制度がありましても、勲章その他の栄典の授与には特権が与えられないなんて書いてある結果、文化勲章の人には年金を上げられない。やむを得ず文化功労者年金というような制度を作って、いわば二枚鑑札のような格好にしてそれを出している。それでなければ、ああいう世の中に役立った方に対して何かお贈りしなければならぬということが達せられないというようなことで、勲章についているものではないといいながら、実際は文化功労者とほとんど範囲を一致さしてお金を出しているというやり方をしているわけです。今御指摘のものも、やはり大部分の場合において金を出す方は何としても強いので、青年団側がこれに引きずられるような可能性があるということになりますと、非常にこれは支配してしまうのじゃないか。かりに支配が全然なくて金を出すということになると、非常に問題が多いんじゃないか。しかも教育事業であればやはりむずかしいので、教育以外だという判断だけはやっぱりしなければならない。結局共催ということで、全然関係していないのだということを言い切ろうとするには大へんむずかしい問題が出てきて、やっぱりすっぱり十三条を削除して、憲法ワク内で物事ができるようにやる方が堂々たるものではないかと私は思います。
  15. 星野安三郎

    ○星野参考人 その辺、私、共催ということが実際にどんなふうにやられているのかということについて詳しく存じませんので、はっきりした意見は申し上げられないわけでございますが、たとえば社教法が提案されましたときにこんな質疑応答があったわけです。それは、国が経費を負担して講座をやらせることは、日本民主化の方向と一致せず、強制に陥りはせぬかというときに、実際には学校において適当に樹立された講座計画に従ってその費用を負担するのであって、反民主的であるとは思わない、こういう答弁があったわけであります。そういうことから考えますと、共催ということでありますと、国または地方公共団体がいわば一方の主催者になっているわけでありますから、その限りにおいて支配力というものは貫徹できる。それが自主性を阻害する場合には、それこそその場合に断わればいいという問題が出てくるので、それは補助金と違うのじゃないかというふうに思っております。どうもその辺、実際にどういうふうに運営されているのか、よく存じませんので、はっきりしたお答えはできません。
  16. 長谷川保

    ○長谷川(保)委員 井手先生に伺いたいのですが、共催という場合には、今星野先生のおっしゃる通り、一方が一方に支配されているわけじゃないのですね。金を出した者が強いというのは、今日の社会のあり方が間違っているのであります。本来金を出した者が発言権が強い、支配力を持っているということは、これは資本主義社会というものの一つの特徴だと思うのでありますけれども、しかしその考え方はほんとうは間違いだと思うのです。個人の人格を非常に尊重するということが基本になっております民主主義の社会におきましては、金を出した者が非常な発言権を持っているということは間違いであって、やはりそこに活動する人間の方がむしろ発言力はよけい持つべきであるというようになるのが、本来の姿ではないかと私は思うのでありますけれども、それはともかくといたしまして、共催という場合には一方が一方の支配には服しておらないわけです。でありますから、一方は青年団を呼び集め、そして組織的に総合教育という立場を主体にしていろいろな計画を立てる。それに対して一方は、公けの金で作りました公民館、学校等の施設を使うことを許し、それからさらに必要な金についてはこれを出す、こういうことで一方は一方の支配に服しておらぬ。それが本来の意味で共催ならば、二つの人格は両立しているわけです。それぞれ主体性を持っておるわけです。その主体性を持ったものが、それぞれ自主的な立場において協力をしておるわけです。でありますから、ほんとうに青年団なら青年団の自主的な立場を貫くべきだということが、公けの側に立ちます人々の意思であります。絶対に金の力でもって一方を服させるべきじゃないかという正しい考え方に立っておるならば、そこに共催というものは成り立つものである、こういうように私は考えるのです。そうすれば今日の問題は相当解決するんではないか。ただ問題は、公けの立場に立つものが、金を出したからおれの言う通りにせよ、こういうところに間違いがあるのであって、共催でありますから、量で言うと変でありますが、半分は公けの方がなるほど自主的にやっておる、半分は青年団が自主的にやっておる、それがたまたまと申しますか、正しい意味において一致した、こういうことでありますれば共催であります。一方が一方を支配しているんじゃない。従ってまたそれについて不当な支配は行われていないのでありますし、また公けの側が受け持つべきものを公けの方が自主的な立場で金を出しているのでありますから、これは差しつかえないようにも思う。それは非常にむずかしいところでありますけれども、そういうように考えるのですが、その点はどうですか。井手先生、もう一度お伺いします。
  17. 井手成三

    井手参考人 理論的に大へんごりっぱなお話を承わりました。お金を出したから事実上支配するようなことがあってはいけない、ごもっともでありますし、そういう場合はまた今後なるだけ御発言のような工合の世の中になっていきたいと思います。逆に今度はほとんど発言しないにかかわらず金を出しておる、ほんとうに五分々々で五分の金を出したのか——実は大部分の金を出したのだということになりますと、全然関係のないものに金を出したということになりまして、十三条にひっかかってしまうわけです。私どもの関係でいいますと、今のような例は憲法八十九条にはひっかかりませんが、社会教育法の十三条がある限り、ちょうど五分五分で、金は五分しか出さなかったというようなうまい例がくればけっこうでありますが、そうではなくて、青年団がやっていることに対して、その部分を非常に大きく負担してやっているというようなことになりますと、十三条にひっかかるので、何もそのために十三条をわざわざ置いておく必要はないじゃないかと私は思うのです。五分五分でうまくいったなんということは、なかなか実際例としてむずかしいので、そういう慣例を作ってやらなければならぬほど、十三条を何で固守するのか、私は非常に疑問に思っております。
  18. 長谷川保

    ○長谷川(保)委員 この十三条の問題ですが、これは憲法八十九条というのが基本であって、それに反しない範囲で十三条がある、こう考えられなければならぬと思うわけですね。ですから十三条をとってもとらぬでも、この問題は本来は関係はない。この社教法全体が憲法八十九条に違反するものなら、これは全部無効であります。ただ憲法の八十九条を基本にして考えた上に、社教法全体が受け入れられるものでありまして、従って十三条をとってもとらぬでも、本来この十三条の主張というものは貫かれなければならぬ。十三条自体は、また公けの支配に属しないというものに出してはいけないということでありまして、公けの支配をするものは幾ら出してもかまわぬ、公民館その他公立のものは幾ら出してもかまわぬ。十三条はとってもとらぬでも、八十九条というものは厳として犯すことができない。だから私は改正しなければならぬという理由がわからないんですけれども、その点いかがでございましょう。
  19. 井手成三

    井手参考人 私、先ほど説明いたしましたときに申し上げたと思うのですが、社会教育法の十三条は、社会教育関係団体に対する補助をとめておるのです。憲法八十九条は、教育事業に対してとめておるわけなんです。従って、十三条と憲法八十九条は非常に違っているわけなんです。私どもの解釈では——憲法八十九条はいわゆる教育事業、その教育事業範囲について自分の意見を述べました。従って、一般に社会教育と言われているものの大部分は抜けていると思いますが、たまたま十三条があるがゆえに社会教育団体が全部補助の対象からはずされている、とめられているという点で、憲法八十九条と社会教育法十三条は非常に違うのです。私から言わせますと、非常によけいな制限がアメリカが入れた条文ですが、入ってしまっている。先ほど、十五分と限定されてあせったために、早口であったので、非常にお聞き取りにくかったと思いますが、だいぶ違うということをはっきり申し上げます。
  20. 長谷川保

    ○長谷川(保)委員 憲法の方は事業であり、社教の方は団体であるというお話でございます。しかし、団体というものは事業をするためにある。事業をするのが団体の本来の性質であります。何にも仕事をしない、ただ団体を置くんだというだけで、それに金を出すものはない。団体が事業をするから金を出す。だから事業と団体というものは区別して考えるということは、一つのごまかしと考えられるのでございますけれども、その点はいかがでございましょう。
  21. 井手成三

    井手参考人 これはほとんどの憲法の説明書をお読み下さいましても区別されて書いてあるので、私自身があえて強弁する必要もないと思いますが、例をあげますと、団体がいろんな種類の仕事をやっておる場合、いわゆる憲法八十九条の教育といわれる部分事業には補助ができないが、そういう範囲外の仕事には補助ができるという点で違いはございます。団体が事業をやっているということはごもっともでありますが、その事業の中に八十九条の教育事業とそれ以外の区別される事業があると問題はありませんが、社会教育法十三条がございます限り、いかなる事業であってもこれに対して補助ができないということに帰するんじゃないかと思っております。
  22. 長谷川保

    ○長谷川(保)委員 その点については、またほかの人がお聞きになるでしょうし、時間がありませんから一応やめておきます。  先ほど星野先生からもちょっとお話が出たのですけれども、さきごろの参議院におきます公述人のうち、川口という千葉県の青年団協議会会長さんの公述を見ますと、二月四日に日青協の理事会があった。このときに文部省の役人を傍聴席から追い出せという事件が起った。それは、文部省の役人が、去年の暮れにありました文部省主催の全国社会教育課長会議のときに、課長さんをつかまえて、君の方の青年団は勤評に反対をしたり、社会教育法の一部改正に反対をして傾向がよくないから注意しなさいというおしかりを受けた。ところが、京都その他たくさんの府県の課長さんからもそういう御意見があった。このことが大問題になって、そのような役人は傍聴させることができない、こういうことになった騒ぎのようであります。それからさらに田中さんあるいは今の川口さんの証言でも、ある町で有線放送設備をして、東大の太田堯先生に来てもらって講演会を——婦人会と青年団のみならず、一般の人も聞かれるように有線放送でさせてもらおうと思ったが、それを町長から禁ぜられた。ところが、その町では、自民党の参議院に立候補の人がやってきたら講演会をやらした。あるいはまた、青年団の社会教育委員の候補者あるいは社会教育委員をしている者が町長選挙に協力しなかったというので、三人とも首にされた。あるいはまた田中寿美子さんの公述の中にも、婦人会に対する非常な、たとえばある町の婦人会長が講演会をするので講師について教育長といろいろ相談をした。ところが、意見が対立して、婦人会に向って、そのような講師を呼ぶならば、社会教育法が通った後には一切めんどうを見てやらぬと言っておどしたという実例が証言されておるわけです。こういうような危険がある場合、先ほど二人の公述人もおっしゃったように、この問題はよほど慎重に考える必要がある。そうしないと不当な支配が行われるようになると思うのでございますが、先ほど井手先生及び丸山先生からはやはり補助金を出すべきだというお話でございました。が、こういうようなことが実は地方にずいぶんございます。こういう事態をお考えになってもなお補助金を出すべきでございましょうか、その点を井手先生と丸山先生にお伺いしたいと思います。
  23. 井手成三

    井手参考人 いろいろな例を申されましても、実は私も地方自治体のことをよく知りませんから、見当違いを申し上げるかもしれませんが、そういうようなことがあっても、非常におかしいようなことが起るにもかかわらずそうすべきではないだろうかということは、私お答えしません。しかしながら、十二条にも書いてあることが、なおかつ実際に行われないということは、それこそ社会教育全体の問題でありまして、これは法律の作り方とかなんとかいう問題ではないと思う。私どもその点につきまして法律専門家として申し上げるだけで、具体的に日本の津々浦々九九%そうだということであればしかりでありますが、そういう例がどんなに多く占めているのか、そんな傾向が非常に多いのかどうかというような事実上のことを知っていらっしゃる方以外にはお答えができない問題だと思います。制度としまして、私はそういうことは一向かまわないんじゃないかと思っておるのです。
  24. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 今何か例をあげられましたが、私どうも詳しくお聞きしないので、的確に御返事になるかどうかわかりませんが、これでもなお補助金を出す必要があるかということが最後の御意見であったと思いますが、そういうようなことは、私にはちょっと考えられません。これを端的に言えば、そういうようなことだから社会教育はもっと振興しなければならぬ、私はこう結論的に考えます。今の先生の御質問の中の委託料ということは、私は法的にわかりません。私の県の実情を申し上げますと、今の十三条に該当する社会教育団体に対して補助はできない、こうなっているのでありますが、実際それらの団体が、参加しているものが相当に自腹を切ったりはいたしておりますけれども、実際上団体の運営というものは困難であります。困難のためにそれらの団体は今法の改正という問題に際しておりますから、補助金、あるいは今度名前を変えていますけれども、出す方では、補助金としては出せないから、そこでせがまれるままに、またそれらの団体を育成せんがために、何かの方法ということで、私の県では共済分担金というような名前まで見つけましてやっておるのでありまして、それは実際は補助金と同じふうに使われておるのであります。たとえば、共済という名前は打ちましても、その金は実際は共済ではなくて、補助金と同じ性質を持って使われておる現状であります。またそうやらなければならないのです。ほうっておけば、今新潟県でやっておるそうしたよのを全部打ち切ったら、おそらく各種団体というものは、ものすごい悲哀を感ずるでありましょう。これが現実であります。そういうものをやったからといって、一々ああせい、こうせいと言うことは、そんなことは考えられません。私は、どうしてそんなことが心配なのかと思うような状況でありまして、そこまでは考えられません。
  25. 長谷川保

    ○長谷川(保)委員 丸山さんにもう一度お伺いしたいのですが、先ほど中島先生もおっしゃったように、それが非常に価値のある、また住民の非常に喜びまする仕事であれば、ことに社会教育が相互教育ということに非常な重点があるという点から考えますと、やはりみんなが自分でもって金を出し合ってやる。一般の映画を見るのでも、おもしろい、有益だと思えば高い金を出して観覧に行くのでございます。ですから、みんなが自主的に金を持ち出し合ってやる、あるいは篤志家が金を出してやるというようなことをした方が、むしろ自主的な精神が盛り上っていいのではないかというように思うのであります。もちろん公民館とか、図書館とか、博物館とか、こういうものは実際上今日日本におきましては、ほとんど全部公立でございます。私立のものはほとんどないわけでございます。だから、これは幾ら金を出しても差しつかえないわけであります。そのほかの青年団とか、婦人会とか、いろいろなクラブとか、サークルのようなものは、むしろ自分で金を出してやった方がいいのではないか。下手に金をもらうというようなことだと、何といっても実情では変に役人がいばります。役人がいばらない、変な規制をいたしません、不当な支配をいたしませんのは、それはおそらく自民党の系統の方々がおやりになることには、やらない。けれども革新的な、ことに先ほどお話しのように、憲法改正反対というような平和的なものを非常に強くお出しになりますものについては、それぞれの政策がいい悪いは別問題でございますが、そういうものにはどうも補助金を出さぬというようなことで、ひもつきにする傾向が、私はやはりあるように思うのでございます。先ほど、そういうようなことは考えられないということでございましたが、どうもあるように考えられる。だからその点は、私どもの方の地方の実情を見ましても、ずいぶん警戒しなければいかぬのじゃないかと思うのであります。  そこでもう一つ財政問題ですが、財政が非常にお困りになる、これは公民館あるいは図書館等におきましても、ずいぶん貧弱で、これはおっしゃる通り、何とかもう少し金がほしいと言うのでありましょうし、社会教育事業におきましても、もっと金をくれるならほしいというのは、もっともだと思います。しかし今のようなひもつきあるいは不当な支配を避けること、このことは今日の民主主義社会におきまする教育事業、ことに社会教育事業におきましては、ほんとうに最も根本的な、不当な支配を避け、自由な人格を成長さしていくということを拘束しますようなことは絶対にしてはいかぬ、こう思うのであります。そういうことのためにそれを避け、しかも財政的にはもっと十分なものを得るということのためには、国から金をもらうという行き方ではなく、むしろそういうものに非常な関心を持ち、興味を持っております人が自由にその金を出すという制度を作る方が好ましいと思うのであります。私は先ごろアメリカに参りまして、アメリカの社会教育を見て参りましたが、こういう方面に使います金は二つある。一つは、いわゆるセール・タックス、物を買いますときに、その一%なり三%なりという金を必ず税金に出す、この金は一般の予算と全然別個になっておって、これは教育に専門に使う。つまり予算が全然一般の会計と分離されて、教育専門の予算になっておる。このことで教育委員会が完全に独立しておりまして、これを行政府支配できないことになっておりますから、教育は完全に独立の形になっておる。もう一つは、所得税あるいは相続税におきましてたとえば相続のときにもしそういうような公共的な施設、教育とか病院とか慈善の仕事、こういうものに寄付しますならば、国の方に税金を納めなくてもいい、大ざっぱに申しますと、こういう制度になっております。従いまして、自分が死ぬというときに、あらかじめ遺産をそういう社会教育なら社会教育という仕事に、あるいは大学に寄付する。国の方に納めてもよければ、そういうところに寄付してもいい、こういうことになっておるわけです。われわれの国の税制を改革して、こういう制度を作る、そうして金持の人が死んだら、その遺産を社会教育なら社会教育に専門に寄付する、大学に寄付する、あるいは先ほど申しましたような、物を買えば、購買税と申しますか販売税と申しますか、買ったものの一%なり三%なりを払って、それは社会教育専門に使う、こういう制度を作ることによって、ひもつきにされることをなくし、不当な支配されることをなくして、しかも社会教育の目的を十全に達成し得るという道があるのではないか、そういうようにする方が、この法律を今改正して国あるいは市町村から補助金が出るようにするよりも、より望ましいのではないかと思うのであります。この点、公民館長として非常に御努力いただいております丸山先生、どうお考えでありましょうか。
  26. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 後段のアメリカの例を伺いまして、大へん参考に相なりました。先ほど中島先生のお話のように、地域々々によっておのおのその状況があまりにも違う、だからすべてものをなす場合に、その点は十分考慮していかなければならぬという御注意のお話があって、非常に共鳴して聞いておったのでありますが、同じように、私はアメリカの事情は知りません、ごく狭い自分の新潟県の状況から申しますので、アメリカとはおよそほど遠い差があると思います。おっしゃいますように、こうした団体というものは他から援助、補助をもらわずして、めいめいの認識と自覚に待って、お互いの浄財を持ち寄って経営していくことが本然の姿であります。だが、遺憾ながらそれができないところに日本の悩みがある、私はこう考えます。何一つやるにしましても、たとえば、これは例が違いますけれども、青年の家を作るとしましても、全県の団員があれほど青年の家がほしい、ほしいと言っていながら、その青年の家を作るために、自分たちが負担する金を集めるのに四苦八苦であります。しかも昨年のごときは災害に見舞われまして、全く田が水底に没してしまったり、そのうちのせがれや次男は、たとい百円の金を出すにしても、たばこ一本吸えばどうとか言いますけれども、気分的にまとまった金を出すということは困難であります。理想は持っておるが、しかしながら実際にはむずかしいというところに問題がございます。しかも補助はこちらから黙ってやるのじゃなしに、こういう仕事をしたいのだが、お金がないからどうかお願いしたい、こういうのでありまして、出す方ではその事情に向って何ら手を加えるわけにはいきません。加えたら大へんでございます。しかし指導という面は他の面であるかもしれませんが、そこでもって中を調べてみて、どうということで金を出すのじゃなくて、補助は申請に基いて出すと私は考えております。ところがそれができないので、そこで出す方も非常に苦労しまして、ことに再建団体である新潟県のごときは、自治庁からにらまれますけれども、現在のいわゆる青年なり婦人の団体が四苦八苦しておる状況であるから、少しでもあたたかい手を差し延べてやろうという意味で、苦心に苦心をして出しておる現状でございます。およそ不当な支配とかいうことは、私の県に関しましては夢にも考えられない現状でございます。御参考に申し上げておきます。
  27. 長谷川保

    ○長谷川(保)委員 ありがとうございました。
  28. 臼井莊一

    臼井委員長 竹下登君。時間がございませんから簡単にお願いします。
  29. 竹下登

    ○竹下委員 簡単に中島先生に御意見を伺いたいと思います。私実は現在もなおいわゆる地域の青年団運動に従事しておる一人でございます。私が戦後十数年この青年団運動に従事して考えましたことについて、中島先生の御意見の中で、政党以前の問題とか、あるいは国の権力に対する盲従の問題というような御指摘がありましたが、今なお私もそうしたことを感じておる一人でございます。ただそこで私がいろいろな経験を通して感じました問題として、私の方ではこれを一・八・一ということで言っておりますが、およそ一〇%の青年たちは、他から一つの刺激とかいうものを与えなくても、みずから人生に対する希望なりかく生き抜かんとする意欲を持ち得ておる青年であると私は考えます。それからあとの八〇%というものが、私のいわゆる指導者意識的な感覚で申しますならば、青年大衆という部類に入るのでございます。この八〇%の青年大衆というものがいかにして一〇%の系列に少しでも多くなってくるか、すなわち自主的な判断力を多く持つように、少しでも一〇%の系列の青年諸君と同じようなレベルに達することができるか、こういうことが一つ社会教育団体としての青年団のたゆまざる歩みであったというふうに私は考えておるわけでございます。そのときに感じますことは、なるほど青年、なかんずく青年団等におきましては、被選挙権はもとより選挙権のない多数の農村、漁村等の青年がございます。これらに対して今、かかる団体の中においてみずからが将来生き抜かんとする意欲を持つためにいろいろな活動をするのだから、意識を持って月額百円なりの会費を出してこの団体へ入らないかということで呼びかけはしても、なるほどとそれにうなずいて、まだその団体の中に参加するという意識までにいっていないのではないか。そこでそうなると、ここには幹部諸君のたゆまざる努力も必要でありますけれども、それだけにそういう状態がずっと続いておったならば、依然として政党以前の問題で、そこの部落の親方衆の言う通りになってみたり、あるいは官僚に対する盲従というものが続くのじゃないか。そこで、いわゆる社会教育の団体の一つの場といたしまして、自由民主党はどういう政党か、あるいは自由主義経済とはどんなもので、あるいは社会党はどんな政党か、社会主義理念というものはどういうものかということに対する一つ基礎的な批判力をつけるまでの大きな努力が、私どもの社会教育団体、青年団運動等においては、非常に大きなウエートを占める問題じゃなかろうか。そのときになると、いわゆるみずからが会費でも出してその中へ入ろうという意欲を、残念ながら持ち得ない現状でありますので、そこに誘い水とかいう形において、その批判力を得る場を提供する限度内においてこの補助金支出がなされ、青年大衆がみずから判断する能力を得るようにしてやるならば、私の経験から割り出した場合、むしろ官僚統制に対する盲従であるとか、あるいは政党以前の問題であるとかいうことに対する防止のための補助政策というような結論を得るのではなかろうかという考え方に、私自身到達いたしておるのであります。それゆえに、憲法論議は別といたしまして、政策的に考えられた場合、そうした盲従とか政党以前の問題とかいうことに対する、むしろ防止と申しますか、そういう意味における補助金支出は——もっとも指導者意識で私が申し上げますと、大へんへんてこな言い方になりますけれども、政策的に見た場合、それが最も妥当ではなかろうかと私自身考えるのでありますが、これに対する先生のお考え方を承わりたいと思います。
  30. 中島健蔵

    中島参考人 ただいまの実情に関するお話は、私も同感でございます。ただし先ほどから申し上げました通り、非常に各地によって事情は違います。そこで補助金の問題につきましては、実例を一つあげますが、直接に青年団なり何なりに金を渡すということによって起るプラスの面もあるだろうが、マイナスの面もある。今お話のような点は、うまくいけば一つのプラスになりますが、マイナスの面から申しますと、これはやはり指導者国家権力と結びついたという意識を持つおそれがある。これは私は何度も実例を見ております。何か補助金以外の問題でも、各地のそういう社会教育の、特に青年層の指導者に関して警戒しなければならぬのは、勢い官庁その他ともいろいろ交渉を持つわけですから、その瞬間に自分たちがその中へ入ってしまうおそれがある。そしてそのためにまた一般の、今お話の八〇%の人たちからも離れていく。そして結局は、特別な人間として見られていくという危険があると思うのです。私は現在としてそれが画一的にとは申せませんが、その場合にやはり補助金——を今の憲法問題その他私もここでは特に触れようとは思いません。私自身憲法違反の疑いが十分あると思いますから、それは別としても、こういうことが考えられる。それはやはりどうしても援助は必要であります。この点は、多少なりとも実務に携わり、あるいは私のように外部からこの問題に首を突っ込んだ人間は痛感しております。しかしその場合に、今言ったような諸弊害がこれまた顕著であるから、何か金を渡す渡し方にもっと工夫が要るということを考える。どういうふうに渡すかと申しますと、これは施設にしても何にしても、直接青年団なり何なりに渡さないでも、先ほど共催というお話がありましたが、もっと間接に申しますと、私は法律論も存じませんから、それもどうもおかしいとおっしゃられればそれきりでありますが、実際の経験から申しますと、現在各地方で非常に盛んになっておる有線放送というものがございます。この有線放送は、放送法その他電話の関係から、非常にめんどうな問題を含んでおると思いますが、現在よく活用されております。その場合補助金をもらってやっております。ところがこの有線放送なるものは、実際には直接青年団なりあるいは公民館なりの所管に属しておらない。これは農協なりあるいは自治団体そのものの責任においてやっておる。時にはそのために組合のようなものを作ってやっておるところもあります。その場合にその施設を利用して十分に社会教育ができるわけです。  一方で言われておりますことは、もしもこれを不純な目的で政治的に利用したならば大へんだ。これはしょっちゅう鳴りっぱなしで消せないのですから、もしも何か自分の利益のために政治家なり何なりがこれを利用したならば大へんなことになるぞという話をしょっちゅうしているわけで、そういうマイナスの面があると同時に、こういう例なんかはやはり非常によく利用できる社会教育一つの手段であるというふうに考えます。ただいまお話のようにものの考え方の平均化という点ではすでに相当の効果が上っているのじゃないか。これは公共放送なりあるいはその他の放送の中継をやっております。そういう知恵がたくさんあるのではないか、今のところそういう知恵をたくさんお出しになった方がいいというふうに私は考えております。  それからこれはくどいようでありますが、日本における社会教育というのは一体何を目的とするか。公民館なんかでも現に公民館の建物がなくて公民館長がおられるところがたくさんある。そこで何をしておるかというと、学校を使うなり寺を使うなりけっこう公民館活動をしている。それから金が出せないという点では全く同感であります。これは将来にわたっても非常に困難ではないか。今、地方にもよりますけれども、月額百円の金を出すなんということは思いもよらぬ。それを言った瞬間に社会教育はくずれるだろうと私は考えます。それにかわるものとして、ここにすぐに国あるいは地方自治体の補助金というところにいくのはいささか飛躍があるのじゃないか。私はもう少し時期を見て、現にここに公民館長もおられるわけですが、具体的に非常に苦労しておられる方は、補助金が出るといえばそれに飛びつきたいくらいであります。私もしり押しをしたいくらいであります。しかし私どもは第三者の冷たい目でなくして、あたたかい第三者の目でもって見ているわけです。そうするとここで補助金を出したらどうなるか。これはくどいようですけれども、もしも国会でもって膨大な予算をお出しになって、現在あります全国の施設に相当の金が出せるというならば私は文句を言いません。どう考えましてもそうはいかない。そうすれば、これはどうしてもとる運動をしなければならない。今度の修正案によりますと、やはり途中にいろいろチェックするものが出てくるようであります。そうなると一方では公民館長は公民館の仕事を放擲して補助金の獲得に努める、国会はそういう関係の人々で充満するというようなことにならぬとも限らない。これは県議会、町議会、みなそうであります。私はそれが日本政治の根本にある非常に危険な問題と思うので、この際お考えを願いたいと思う。私はもちろん社会教育に対して金を何とか出させるということは絶対に必要だと思います。そうしてまたそういう工夫というものが今日本では非常に必要なんじゃないか。実は国全体が補助金にたより過ぎているところもあるわけなんです。たとえば税金を一たん吸い上げて、そこからまた返すというような形が戦後ことに強くなって参りました。これは経済界でもあるいは社会においてもそうであります。その傾向はどうも私は感心しないのです。国民のわずかな金でも積み立ててやるという精神というものが今の日本では非常に大切ではないか。そういう点を考えて、御趣旨には賛成でございますが、今の補助金にすぐ飛躍をするわけには参らぬということを考えております。
  31. 竹下登

    ○竹下委員 私の趣旨に賛同といいますか、そういうお言葉をいただいて私自身非常に満足いたしておりますが、今の公民館等の場合、たとえばあたかもすし詰め学級の解消等について、町議会なりあるいは教育委員会なりが膨大な旅費等をかけて陳情に出ておるという事実がございます。なかんずくこの公民館等につきましては、これから考えられることは、大きな予算がさっそく導入されるということは考えられない。だから御趣旨のそういう運動を非常に激化するという欠点についても私は何分かこれを是認いたします。  私がさらにここでお尋ねいたしたいと思いますことは、いわゆる地域におきましては、たとえば対国との干渉になりますならば、社会教育団体、なかんずく青年団体等になりますならば、日青協という一つの組織を持っておる。日青協の組織が完全であるとかいう問題に対する批判は別といたしまして、この日青協というような一つの団体になりますならば、それぞれ選ばれた方々によって構成せられておりますので、そこでは国家権力と結びついたり——抵抗することがあってもこれと結びつくようなことは、青年らしい情熱と申しますか、若さでなかなかそういう状態は出てきていないのが今までの歴史ではなかろうかというふうに考えております。実際における問題点といたしましては地方公共団体、なかんずく市町村なり県なりの段階におきまして、そうした青少年団体にいろいろな形で知恵を出すことによって、今おっしゃいました——私も農協の組合長を現在もしております。私も有線放送を持っておりますが、そういうものを提供するとかいう形において、社会教育を外部から育成をはかっていくということももとより必要でありますけれども、青年自体がこうしたことをやってほしいとかいう一つの問題を得るための、知恵を持つためのそれ以前の現状というものがやはりあるのではなかろうか。ここにおいてはこの金というものが非常に零細でありましても、たとえば農村の子弟でありますならば、なかなか一堂に会するということはないけれども、運動会でもすれば集まってくる。運動会と申しますならばいなかでありますと、石灰が三俵とプログラムを書く紙と墨汁と筆とでできるわけでありますが、そうした程度の誘い水でありますけれども、そうしたものも最小限のものを青少年団の事業補助することによって青年がまず集まることによって——そこは長谷川先生からいろいろ承わっておりますが、確かに社会教育、なかんずく青少年教育というものは相互教育という非常に大きな分野を占めると思います。集まるということによってまず相互教育の場が作られる。そういう次元をすべて低いところから考えるようでありますが、そうした場を作る、そういう知恵を出すだけの要素を作るということ、それに対してはいかに零細であってもそういうものを出すことによってやはり知恵自体も出ることを促進するのではなかろうか。確かに自主的な団体はみずからの会費によって運営さるべきであります。それが理想でありますけれども、その意識をつけることをずっと苦労してきておりますけれども、その意識をつけるための以前の問題として、補助金支出することができるようになることによってこれが非常に進歩していくのではなかろうかという考え方を私自身持っておりますが、いま一度御意見がございましたら伺いたいと思います。
  32. 中島健蔵

    中島参考人 ただいまのお話も実際に即したお話でよくわかります。ただ私はやはり地域社会におきましては、結局その地域に属する人間の上を飛び越してやるということが非常に危険ではないかと思います。その点が一番むずかしい。たとえば有線放送の場合ならば、その地域、その部落が全部が利用しておる。ひどい場合には無線連絡までやっておる。そうするとこれはみんなが関心を持っております。その中に実際に青年団のための時間を作る指導が行われるということには賛成であります。そうでなくてそういう土地の有力者というものが、ある意味ではボスかもしらぬ、悪質であるかもしらぬ、そういうものを通り越して零細な石灰三俵とか墨汁一カンとか筆一本とかいうようなものを出させることは危険であるという意見もございます。私もそういうことはあると思います。逆にそういう地方の現在の実情から申しまして、生活状態その他に非常に格差がありますから、そういう格差のある上のものが、ボスの意識でなく、そういうものを負担する——こだわるようでありますが、石炭三俵、墨汁一カン、筆一本という程度のものならば、各部落に負担できる人間が必ずおるわけであります。それをみんなで寄ってたかって説得して出してくれ——初めのうちは上席に据える、そのうちに金を出されたからといって、そうはいばっていられたんでは困るじゃないかという話が出てくる。これは公民館活動とは離れますけれども、地域社会における非常に大きな要素だと思います。大へんがんこなようでありますが、私はどうもそういうものを通り越して補助金を与えるということは——机上のプランとしてはいくかもしれません。また実際やっておる方とすれば、そういうふうにやればやりいい点もあるかもしれませんが、今申し上げたような事情からどうも私は納得できかねるわけであります。
  33. 臼井莊一

    臼井委員長 堀昌雄君。
  34. 堀昌雄

    ○堀委員 講師の方にも大へん失礼だと思うのです。どうですか……。
  35. 臼井莊一

    臼井委員長 速記をとめて下さい。     〔速記中止〕
  36. 臼井莊一

    臼井委員長 速記を始めて下さい。
  37. 堀昌雄

    ○堀委員 井手先生にちょっとお伺いをいたしたいのでございますが、私どもはしろうとでして大へんわからないことを伺うかと思いますけれども、やはり私ちょっと憲法と今度の法律関係でお伺いをしたいわけです。先ほど先生のお話では、やはり教育事業というものと社会教育団体というものは一応別個と申しますか、社会教育団体の中で憲法に該当する教育事業をやる部分もあるし、それに該当しない事業をやっておる部分もある。ここに一つの仮定をいたしまして、Aという社会教育団体がやる主たる事業の中に、憲法で規制をされる教育事業、先生の御見解に基く教育というワクの中での教育事業、そういうものと、それからこれに該当しない事業というものをあわせて行う社会教育団体がある。こういうふうな場合に、その団体に対して補助金を与えるということは、やはり憲法精神に反していくのじゃないか。団体が教育事業というものを行なっておる限りにおいては、その団体がたとい教育事業でない事業を行なっておっても、その教育でない事業そのものに補助金を出すということなら、また別途の考えが生じるかと思いますが、社会教育団体として補助金を出す場合には、違憲になると思うのでございますが、その点はいかがでございますか。
  38. 井手成三

    井手参考人 非常に理論的にはっきりした御質問でございましたが、私憲法八十九条の教育事業というものの例の中で、学校教育などについては、先ほど申しました個人の信条または思想の自由が、補助金のひもつきというようなことによって、非常に影響されやすいということを客観的に判定されるのですが、まさしく憲法八十九条がとめているところだと思うのですが、社会教育の団体がやっているいわゆる社会教育事業のうちに、それに匹敵するものがあるかどうか、具体的にせんさくしませんとはっきりわかりません。かりにあったという前提でお答えいたしたいと思います。  結局十三条があります以上、一切がっさい出してはいけないことになっておりますが、十三条がない場合は憲法八十九条の解釈に戻ってしまう。それなので、団体が今の属する事業のAと属しない事業のBとを持っている。その団体に黙って補助金を出した場合どうかという御質問のようでございますが、結局その補助金憲法八十九条にいわれるような事業に流れるという可能性がある場合は憲法違反であろうと思います。流れる可能性がない、あるいは一般的な社会教育団体を成育しているだけだというようなことになれば、おそらく解釈上いろいろ議論が起ると思いますので、そういうことは表向きは言っても実態は影響してくるんだということになれば、憲法違反可能性は強いし、そういうことにならないという判断になれば憲法違反になるまいとお答え申し上げる以外にないと思います。
  39. 臼井莊一

    臼井委員長 それでは暫時休憩いたします。三十分間休憩いたしまして一時四十五分から再開いたします。     午後一時十五分休憩      ————◇—————     午後二時十六分開議
  40. 臼井莊一

    臼井委員長 これより開議を再開いたします。  参考人に対する質疑を続行いたします。なお井手参考人は時間の都合上お帰りになりました。それから中島参考人はこれも御用のために三時までということでございますので、先になるべく中島参考人の方の御質問を願いたいと存じます。それでは山中吾郎君。
  41. 山中吾郎

    山中(吾)委員 中島先生にお伺いしますが、お話の中に今度の改正の是非論は水かけ論だというふうにおっしゃったと思うのですが、その意味一つのみ込めなかったものですからお伺いしたい。
  42. 中島健蔵

    中島参考人 水かけ論と申したのは、この改正案そのものの審議ではないので、つまり、先ほど私はよくわかりませんが、法律論、憲法論が出ましたときに、どうしても社会教育の諸団体には補助というか、金が必要である。ところがこれは出せぬことになっている。現行の十三条がある限りは出せない。これを取っ払ってしまえばそれが出せるようになる。どっちみち要るものだから、裏で出しているけれども、結局法をくぐることになるから、これは撤廃した方がいいという御議論を井手さんから承わった。それから星野さんの方は憲法の議論で、これは十三条というものを廃止しても同じことであるということであった。あるいは団体と事業というお話がございました。そういうことは法律論としては非常に重大なことであるということは私は承知しておりますが、どうも問題の本質はそこにあるのではない。そういう議論であったらどちらも理屈がつくからわからない。私は憲法論については水かけ論でなくて、きわめて常識的な意味では憲法に抵触するだろうと思います。では憲法に抵触するから絶対にいかないかというとそうもいかない。どうしても社会教育を盛んにするために何らかの意味でやはり経済的な裏づけが必要である。その方法については国あるいは自治体の補助金によるべきであるかどうかという点は私の意見ははっきりしております。これは現在のところほかに方法が考えられる。またその方法を考えるということが教育のためにもなるのであるから、この点は考えてもらいたいというのが私の意見でございます。そういう意味部分々々で水かけ論、われわれ実務家と申しますか、公民館長を前にしてわれわれ実務家と申しては怒られるかもしれませんが、長らく社会教育に関心を持っておりました者としては、問題の本質はそこにはないということを申し上げたのであります。
  43. 山中吾郎

    山中(吾)委員 水かけ論ということは聞く人によっては誤解を受けると思いまして、御質問したのです。おそらく星野先生からいえば、一つの法的な見解を持っておられるので、水かけ論ではないときっと言われると思うのです。中島先生の方は、法的にどうということでなくておっしゃったと思うのであります。そこで、こういう国会における論議でありますから、水かけ論で賛成、反対では、やはり参考人の方からお聞きいたしましても、そのままではいけないと思うので、星野先生からお聞きしたいと思いますが、憲法の方では教育事業に対して補助してはいけない。その教育事業というものについては、文部省の次官通牒で、これこれのものは教育事業に該当し、これこれのものは該当しないと、法制局から局長あてに回答しておるのがあります。そこで社会教育法の十三条、団体に対しては補助をしてはいけない、そういう関係から——井手先生帰られたので、私もう少し質問をしなければならぬと思いましたが、お帰りになったので非常に残念でありますが、憲法にいう教育事業に、たとえば体育大会、競技会、こういうふうなものは該当しないと、文部省に対して法制局から通牒が行っているわけです。こういう関係と、それから社会教育法の十三条では、団体に対して補助をしてはならない、こうなっておりますので、先ほど共催論が出ましたが、そういう憲法における教育事業に該当しないものについて、補助でなくて事業共催というものは、憲法にも社会教育法にも抵触しないと私は思うのです。そういう姿のさ中に、貧困な状況において社会教育振興せしめるには、青年団、婦人団体の発展のために、なるほど財政的援助が必要である。ところが財政的援助は憲法社会教育法からは全然できないというふうに井手教授が言われたので、私はそうではなくて、該当せざるものについては余地があるのだ、合法的にやる余地があるということを考えたのでお聞きしたかったのです。それで補助はもらいたいけれども干渉されては困るというところに、水かけ論というふうな論議が出てきたように思うのですが、そうでなしに、現行法のもとにおいて団体には補助することはできないけれども、教育事業に該当しない青年団体、婦人団体の事業には財政援助はできるというふうに考えられますが、現在の社会教育を運営することによって、社会教育発展は可能じゃないかと私は思うのです。それ一つと、それから補助というものの禁止は、団体支配方の権力支配を実は排除しているのであって、個々の事業に対しては団体を支配するという弊害はない。競技会を共催するとかあるいはいろいろの展示会を共催でやるということについては、青年団、婦人団体を支配するのではないのですから、そういう団体を直接支配するという弊害を除いて、現行法においてこの貧困な日本の国内においても自主的な社会教育発展がはかられるのじゃないか、そういうことを私は考えますが、そこで中島先生のお考え、それからそれに対する法的な意味の星野先生の水かけ論の解明を一つしていただきたいと思います。
  44. 中島健蔵

    中島参考人 私は法律専門家ではございませんが、しかし法律にはまた興味を持っておりますので、常識論にとどまると存じますが、詳しいことは星野先生にお譲りするといたしまして、実際問題として、ある事業に何らかの形で金が渡る。どういう形であるかによって問題が起るかと思いますが、それが直ちに憲法には結びつかないという意見であります。社会教育法の方ですが、第十二条、第十三条はやはり憲法と関連があると存じます。そしてなぜこの条項が入ったかというのは、憲法にあるから入ったのだと存じますが、言葉通りとって、要するに社会教育関係団体に対して、国及び地方公共団体補助金を与えてはならぬということからとって、そしてそのほかに道がないかといえばいろいろあると思うのです。たとえばその解釈について、これは事業に対する補助金であるから、その十三条には抵触しないという考え方もおそらく成り立つだろうと思います。私はどうも法律論は苦手なんでありますが、そういうことも言えるかもしれぬが、それと同時に、もしもそれがそうでないとする。かりに事業と団体が分つべからざるものであるとした場合にも道はあると思うのです。従って一番最後の私の結論は、要するに補助金を今の段階において、国あるいは地方自治体から、直接に社会教育関係団体に対して与えるということはよくないということであります。その場合に法律論はいろいろあると思いますが、その点については私は明決な準備をしておらないのです。ただこういう問題は、いつでも法律論は大切であると同時に、実情というものをよく見なければならぬ。目的は何かといえば、日本社会教育振興するにあり、しかも生れたばかりの、率直に申しまして経験がまだ浅い日本社会教育であるから、そういう条件を十分に考えた上で、やはりその方を基礎にして方法をお考え願いたいという意味であります。水かけ論は言葉のあやまりでありまして、私の水かけ論と申したのは、要するに私のようなしろうとが聞いておると法律論を幾らやられてもわからぬ。結局私の耳には水かけ論としか聞えないということであります。もちろん法案の審議でありますから、その方の御専門はそちらにあると思います。
  45. 星野安三郎

    ○星野参考人 私、解釈論が水かけ論だとおっしゃいますと、私の商売は成り立ちませんので、その点からも水かけ論ではないと思っておるわけですが、先ほどの私の意見ではっきりしなかった点があると思いますので、申し上げたいと思います。まず憲法八十九条と社教法十三条の関係でありますが、先ほど井手さんはその範囲が違うとおっしゃいますけれども、先ほど私が申しました通り、法体系というものは憲法を頂点として、ある一つの統一的なものでないといけないので、その点から憲法八十九条における教育と、社会教育法における教育というものは、特別な理由がない限り、その範囲や概念というものは同じであるべきだというのが一般論でありますが、そして先ほどの井手さんの中で、範囲が違うのが通説だ、コンメンタルなどにもそうあるというふうにおっしゃったと思いますが、私は聞き方が間違っておったかもしれませんが、しかしそれは私は事実に反するのではないかと思う。たとえば東大の宮沢さんのコンメンタルを見ましても、七百四十二ページでございますが、八十九条の解釈のところで、「(イ)「教育」の事業とは、主としては、学校事業をいうが、しかし、かならずしもそれにかぎるわけではなく、ひろく社会教育に関する事業も、それに含めて解してよかろう」ということもありますし、この間の朝日新聞に載せられた御意見にもそれがあったと思います。そればかりではなくて、いわば行政解釈といたしましても、先ほど御紹介申し上げました「社会教育法解説」、これは文部省の社会教育課長寺中作雄さんのものですが、それの八十二ページを見ますと、第十三条の法文が書いてありまして、Aとして立法理由で、本条は憲法第八十九条に規定する公金使用制限の一つの場合を社会教育団体に関連して具体的に明示したものであって、憲法八十九条に規定するところ以上にさらに新しい制限を加えようとするものではない。社会教育団体は第十条により公の支配に属しない教育事業団体であるから、これは補助金を出し得ないことは憲法八十九条の適用上当然であるが念のために規定したものであるというふうに言っておりまして、その点では私の意見の方がむしろ正しいと私は思っておるわけであります。  それともう一つは、今の御意見の中で、私の先ほど述べましたこととちょっと違っておると思いますのは、共催の問題と範囲を広くするということは、性質が私は違うと思っているわけであります。先ほど共催の問題で御質問いただいたときに、どうも頭のめぐりが悪いものですから、すぐはっきり答えられなかったわけでありますが、共催は私は補助金の問題とは全然性質が違うと思っているわけであります。と申しますのは、現在社会教育法社会教育を行うのは、地方公共団体社会教育関係団体、この二つ社会教育を行うことになっていると思うのであります。従って地方公共団体として社会教育をやる、いわば共催であるからには、それぞれの自主的な計画があって、それが合致した場合に共催ということになると思うわけです。そうしますと、地方公共団体として社会教育を行う。それには当然費用を出していいわけなんで、従ってそれと社会教育関係団体との意思が合致して、またその費用や何かの分担について折り合いがついて出てきたものが共催なのであって、それはいわゆる支配服従の関係にある補助金とは全然性質が違うのだ、本来出し得る部分について出すにすぎないのだ。だからこれは全然性質の違うもので、憲法八十九条と社教法十三条の教育範囲が違うか違わないか、それに属しないものについては出し得るのじゃないかということは違うわけです。そういうことですから、八十九条の範囲を狭くして、それ以外については出し得るのじゃないかということは、解釈論としてはやはり明らかに脱法行為であって、それは許されないと思っているわけです。ただ私が申しますのは、そしてまた先ほどの意見として十三条について、それの削除や、あるいは参議院修正のようなものは解釈論としても憲法上許されないし、またそれが適当ではないと思ったのは、これは遠い将来のことはいざ知らず、現在は憲法八十九条や社会教育法十三条が規定せざるを得なかったような状況はやはりある。すなわち補助金によってその自主性がねじ曲げられるという危険性は十分あるので、やはりまだそれを撤廃する段階ではない。そのことは先ほどの中島先生のお話でも、実態を聞きまして、私は深く同感したわけであります。従いまして遠い将来の問題としまして、そのような補助金が出ても支配、干渉されないような状況になったとき、言いかえれば憲法八十九条や社会教育法十三条を制定した必要がなくなったとき、これについてはまた別の問題であります。そのことだけ申し上げたいと思います。
  46. 永山忠則

    ○永山委員 関連して。憲法八十九条の教育は、社会教育よりは狭いというようにいわれているのですが、これは一体だ、こういうことをいわれるわけです。そうすると、附則の六項で体育協会へ補助金を出していく、あれは憲法違反だということでございますか。
  47. 星野安三郎

    ○星野参考人 その点につきましては、私ばかりでなく、やはり宮沢先生のコンメンタールで憲法に触れられて言っております。それを読みますと、「かって、日本体育協会が国民体育大会を主催するについて、国または地方公共団体補助金支出できるかが問題とされたが、体育およびレクリエイション活動も、社会教育意味をもつかぎりにおいて、やはり本条にいう「教育」の事業に該当し、したがって、それらが「公の支配」に属しないかぎり、それらに対して、国または地方公共団体補助金支出することは、本条の許さないところと解すべきであろう。」こういうふうに申されていて、たしかそのオリンピックに出されるときが、衆議院だったか参議院だったかちょっと私はっきり覚えておりませんが、その議事録を読みますと、憲法論議としてははっきりされなかった、いわば当面の暫定的なやむを得ない措置のような形で出されたように私は思っているわけです。それが憲法上できるということが確認されてああなったものでないというふうに私は考えているわけです。
  48. 永山忠則

    ○永山委員 だから結局憲法違反だ、こうおっしゃるわけですね。
  49. 星野安三郎

    ○星野参考人 はい。
  50. 永山忠則

    ○永山委員 そのときは社会党も一緒にやったので、国会はこれは満場一致やったわけでございます。それはそれとして、もう一つ宮沢先生のコンメンタールのところで、星野先生は一体だというところだけお読みになったのですが、一体でないということをおしまいに書いてあるのですね。すなわち宮沢先生は「博物館・図書館または美術館の類の事業は、社会教育上非常に重要な役割を果すものであるが、それはかならずしも教育を主たる目的とする事業ではないので、ここにいう「教育」の事業には含まれないと見るべきである。」こういうように必ずしも一体でない、こういうようにおっしゃっておる。さらに「また、教育基本法は、家庭教育社会教育の一種と見ているが、もちろんそこにいう家庭教育は、ここにいう「教育」の事業に含まれない」こういうように必ずしも一体ではないというようにコンメンタールにおいて宮沢先生は言っておられるのですが、それでもこれは一体なんだ、この説は自分らはもっと広く解釈する、こういうようにお考えになるのですか。
  51. 星野安三郎

    ○星野参考人 私はそういう博物館とか、あるいはその他の映画とか、そういう事業なんかをやる際に、第十条の定義で、「社会教育関係団体とは」「公の支配に属しない団体で社会教育に関する事業を行うことを主たる目的とする」、従って、この団体の主たる目的が社会教育に関する事業でありますが、直接教育関係のないことでもこれは主従の関係にありまして、いわばその財政的な基礎を作るためであれ、それは主たる目的である社会教育を推進するための、たとえば映画会とかあるいは博物館の経営とかというふうに言えるのじゃないか。従って、その限りにおいて憲法八十九条の教育と一体と考えていい、私はそういうように考えているわけであります。
  52. 永山忠則

    ○永山委員 結局それは、宮沢先生のこの一体論はおとりにならぬということですね。
  53. 星野安三郎

    ○星野参考人 はい。
  54. 山中吾郎

    山中(吾)委員 大体お話で水かけ論でないことが明らかになったと思うのですが、団体に対する補助金はやはりいわゆる九十八条の教育に対する事業に対するものでいけない。従って水かけ論ではないと思うが、共催の場合については青年団、婦人団体、町村長、おのおの共催で何をやってもこの問題とは別である、従ってもし現在の貧困な社会において社会教育を推進しようとすれば、共催の形で、純粋なる社会教育に対する権力支配をしなくて財政援助はできるということは明らかになったと思うのです。あとは丸山さんその他にお聞きしたいのでありますが、中島先生がお帰りになるようでありますから、私はそれだけにして一応終ります。
  55. 臼井莊一

    臼井委員長 中島先生、どうも大へんありがとうございました。  堀昌雄君。
  56. 堀昌雄

    ○堀委員 実は私は井手先生に伺おうと思って質問を始めたところでお帰りいただいたので、ちょっとあれなんでありますが、引き続き同じ憲法の御専門であります星野先生に伺ってみたいと思います。  さっき私が井手先生に御質問をいたしましたところが、一つ社会教育団体の中で、教育事業という解釈を一応一歩後退をして——井手さんのおっしゃるような限定解釈のものだということの上に立って一応話を進めたいと思うのですが、そうやって限定解釈をされた中における教育に該当するAという事業と、それから教育事業に該当しないBという事業とをあわせ持つ社会教育団体補助金を与えるということは、井手先生もさっきは違憲の疑いがあるということははっきりおっしゃったわけですが、その論理からしますと、実は修正意見ははっきりと違憲なんです。限定解釈の上に立っても違憲だ。社会教育団体に対して補助金を交付しようとする積極的な性格を持ってきておりますので、私はこの点については限定解釈の上に立っても違憲だと思いますが、星野先生はいかがでございますか。
  57. 星野安三郎

    ○星野参考人 その通り違憲だと思います。
  58. 堀昌雄

    ○堀委員 私は、大体法律というものは書かれるときに一つの流れをもって書かれておる、ある一つの一貫した思想の上で法律は書かれておるというふうに理解しておりますが、そこで社会教育法第十条に「この法律で「社会教育関係団体」とは、法人であると否とを問わず公の支配に属しない団体で社会教育に関する事業を行うことを主たる目的とするものをいう」こういう前提をここに掲げたわけです。そして後段の十三条で「国及び地方公共団体は、社会教育関係団体に対し、補助金を与えてはならない。」という、この条項を裏返して言いますと「公の支配に属しない」という表現が、十三条の中でそれを法文として規定をしたのだと私は解釈いたすわけです。そこで今度逆の方面から参りまして、では国及び地方公共団体社会教育団体に対して補助金を与えるということになれば、補助金を与えるという性格から、その団体に対して国及び地方公共団体がその補助金の使途及びその使用の適否に関しては監督権を持つということが法律上当然に出てくると思う。これは現在各種の補助金が行使をされる場合における国及び地方公共団体が行なっておりますところの監督権及びいろいろな監査、査定あるいは会計検査院によるところの検査という各種のものを含めて、公けの支配が及んでくるというふうに私は理解いたすわけでありますが、この点につきましてはいかがでございますか。
  59. 星野安三郎

    ○星野参考人 それは私、先ほど申し上げたと思うのでありますが、その通りでございます。繰り返して申しますと、憲法八十九条の審議についても、やはりはっきりそうあったわけです。要するに公けの支配が及ばないものには出してはならぬ、及ぶものにしか出せない、及ばないものには出せないということをはっきり言っているわけです。それで補助金をもらうと、おっしゃったように、八十九条も先ほどの十三条も一つは公費の乱費を禁止しているという面から出ておりますから、その乱費を防ぐために当然監督ということが出てこざるを得ない。監督が出てきた限りにおいては、社会教育法十条の社会教育関係団体たる性質を失うと言わざるを得ない。だからその通りだと思います。
  60. 堀昌雄

    ○堀委員 そこで実はさっき私はA、Bという格好で分けたんでございますけれども、この間法制局の第一部長を呼びまして、私はこの問題で質疑をいたしましたところが、やはりこの中に研究会、読書会、鑑賞会、講演会もしくは講習会の開催という項目を社会教育局の方であげまして、実は質問をいたしております。それに対する回答の中では、今の六項目、研究会、読書会、鑑賞会、講演会もしくは講習会の開催につきましては、これは憲法教育事業に該当するということを法制局は答弁をいたしております。文書によって回答いたしております。そこで大体補助金が要ります多くの問題の中には、これらは含まれるわけです。ことに青年団、婦人団体というような社会教育団体補助金が出ます場合には、これが含まれる場合がある。もし含まれないにいたしましても、研究会、読書会、鑑賞会、講演会もしくは講習会を除いた社会教育団体というものは実体がなくなって、これが大体主たる目的に入るのであって、その他の協議会であるとかレクリエーションの大会であるとかその他は必ずしもそれが主たるものではないというのが、実情であったと思うわけであります。そのことにつきまして私は法制局の第一部長に聞きますと、今度は法制局の方では、そういう社会教育団体がそういうものを営む限りにおいては、その社会教育団体教育事業を行う団体として認めざるを得ないだろう、こういう見解を前会述べられておるわけです。ですからその場合もし補助金を出すとするならば、その社会教育団体には出せないのであって、その事業単独に出すのだということを実はここで法制局の第一部長が私に答弁をいたしております。事業単独に出すという問題、ここから私は次の問題が起きてくると思うのです。社会教育団体というものがあって、それが何らかの一つ事業をする、その事業そのものに出せるかどうかということです。社会教育団体には出さないで、その社会教育団体がやる何かの事業に出すという、その補助金の出し方が法律的に可能かどうかということが——これは法制局の問題になりますから、憲法との関係はないのですけれども、私は法律学という面から見ますと、これはナンセンスだということに私はなるのではないかと思う。そうなったときには、さっきの共催というスタイルならば、その団体の主催する事業ではなくて、一つの行事だと思う。その行事を一緒にやりましょうという共催のスタイルならば、そういうことは可能になろうけれども、補助金のスタイルではそれはできないというふうに私は理解するわけです。そこは法律なのでちょっとわかりませんでしょうが、先生の範囲でお答えを願いたいと思います。
  61. 星野安三郎

    ○星野参考人 団体というものは事業をやるための団体なんで、その意味事業と団体というものは不可分の関係にあるのじゃないか、団体には出さないけれども、事業には出すのだということは、やはりこじつけではないか、実際に団体そのものに出すというようなことは、寄付行為でもないとちょっとないじゃないかと思うのですが、その辺私にはよくわかりません。
  62. 堀昌雄

    ○堀委員 実はちょっと時間が切れておりましたので、法制局との論議を一応そこで終ったわけですが、まことにさっきの井手先生のお話もちょっとそれに似通っておるわけです。憲法第八十九条は、教育事業という、この事業の問題について考えておるのだ、片方の社会教育団体の問題とは別個だという論議をお立てになっているのですけれども、私は教育事業を主たる目的とする団体にやはり出るのであって、教育事業そのものに補助金は出ないと思うのです。教育事業は、何らかの団体がやるのであって、その団体に対して出さなければ、教育事業にはいかない、こういう関係じゃないかと思うのですが、憲法八十九条の中で、これらの教育事業というものの出方、公けの金を「公の支配に属しない慈善教育若しくは博愛事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」こういうふうに書かれてあるのですが、その事業に対し「これを支出し、」ということはたとえばそれが限定解釈による教育でありましても、教育事業というものは、それをする主体があるわけですから、それをする主体が学校法人であるか何であるかは別としても、そういう主体に結局出すということに結果はなる。表現上は教育事業だという表現を用いられておりますけれども、出方はやはり団体なんだということになると、私は井手先生のロジックが少しおかしいじゃないかと思うわけですが、先生、その点はどういうふうになりましようか。
  63. 星野安三郎

    ○星野参考人 今のところよくわからないのですけれども、さっきおっしゃったことと私の言ったことと同じだと思うのです。というのは、ある事業をやった場合にはその事業に出すわけですが、受取人は団体で事業が領収証を出すということはないので、当然団体名で領収証が出るわけです。
  64. 堀昌雄

    ○堀委員 その事業と団体が井手先生は二つあるとおっしゃるわけですね。
  65. 星野安三郎

    ○星野参考人 だから区別するのが現実にはできないだろうと私は思うのです。  それからもう一つ、今申しましたように、事業補助ができる。受取人は団体だ——逆に事業を何もやらないのに、団体に金を出すということが実際あるかどうか、これは何か飲み食いしろということなのかどうか、そういうことは実際ないだろう、従って団体と事業というものは不可分だと思います。
  66. 加藤精三

    ○加藤(精)委員 関連して。非常に簡単な質問でございますが、社会教育法の第三章の第十条「この法律で「社会教育関係団体」とは、法人であると否とを問わず、公の支配に属しない団体で社会教育に関する事業を行うことを主たる目的とするものをいう」とあります。「この主たる目的とするものをいう」ということがありますので、その点星野先生にお尋ねしたいのでありますが、「主たる目的とするものをいう。」ということは、従たる目的も何か持っておるということなんですが、そうしますと、その従たる目的がレクリエーションであるとか、あるいは純然たる学術研究であるとか、そうしたようないろいろな従たる目的があると思うのです。本日の委員会でたびたび問題になっておる論議の中には、社会教育関係団体という言葉の中に、関係という言葉を入れないで、社会教育団体という概念で御論議になったことがたびたびあったのですけれども、正確にいえば社会教育関係団体でございます。それで、参議院の公聴会でも問題になったのでありますけれども、ある社会教育関係団体が、その社会教育の方の仕事と同時に、学術研究の方の仕事と両方やっておった場合がありますね。そういう場合に、学術研究の方について、現実問題としてその事業を目ざして、あるいは学術会議等の御選定で補助金が渡ることがある。そういう場合に、その学術研究を兼ねるところの社会教育関係団体が補助政府からもらうことが憲法違反であるかどうか、そういう問題なんでございます。それについて星野参考人の御意見を端的に承わりたいと思います。憲法違反かどうかということを、一言だけでよろしゅうございます。
  67. 星野安三郎

    ○星野参考人 一言ではちょっと答えられませんが、社会教育関係団体で学術研究をやって、それで補助金をもらっているというような場合というのは、逆にお聞きしたいのですが、どんな例が具体的にあるのでございましょうか。
  68. 加藤精三

    ○加藤(精)委員 たとえば社会教育学会というのがありますね、それが現にそれに当ると私は考えます。
  69. 星野安三郎

    ○星野参考人 私は純粋に、主として研究団体で補助金をもらう場合に、おそらくそれは管轄が違うんじゃないか。おそらく、文部省組織令によって大学学術局あたりから出るんで、社会教育局関係から出るんじゃないと私は思っているわけです。
  70. 加藤精三

    ○加藤(精)委員 この国の補助金は、ある場合には通産省からも出るし、ある場合には建設省からも出るし、ある場合には文部省からも出る。その文部省の中であるいは社会教育局から出ることもあるし、それから大学学術局から出る場合もありますね。いずれも国の補助金であることにはかわりいなということを私は信ずるのでございますが、その点について御意見を承わります。  それで、もし国の補助金でございますならば、憲法違反でないかという御意思だろうと思いますけれども、その学術研究の補償金が、たとい社会教育関係団体が受けるものでありましても、憲法違反じゃないかという御結論と推定されるのでありますが、その点を明確にお答え願います。
  71. 星野安三郎

    ○星野参考人 私は、八十九条は国が一切補助金と名のつくものをすべての事業に禁止したものだとは思っていないわけで、ただ出た場合には、憲法上許されたところ、あるいはその手続によって出されない限りおかしいんだと思っているわけなんです。  そこで御質問ですと、社会教育学会というものは主として学術研究を行う団体でありますし、またかりに社会教育関係団体というものが学術研究を行うにしても、その社会教育学会と同じ意味で、同じ比重で、学術研究を行うものではないと思っているわけです。そしてまた行うにしても、主たる事業である社会教育を推進するための学術研究というふうにむしろ考えられるわけです。従いまして、かりに社会教育関係団体が学術研究というものを行う場合に、いわば別のルートから出ている研究補助金ですか、そういうものをもらうからには、もうそのときには主たる目的が学術研究ということになったので、名称は同じであっても、性質は全然違ったものとしてもらうのではないかと思っているわけです。
  72. 加藤精三

    ○加藤(精)委員 社会教育学会というものの性質が、他の学術研究会議のメンバーの有力学者が、これは学術研究の普通の学会と違うということをある公けの席で申されておりますので、私はそういうふうに解釈したのです。星野先生の憲法論は、純粋の法学理念をたどってずっと論説しておられますので、そこでお尋ねするのですが、社会教育を主たる目的とし、従たる目的として学術研究をやっている団体がありと仮定いたしますね。そうしますと、その場合、星野先生の純粋な法律の研究において、そういう場合には学術研究部門に補助を出すことは、それは差しつかえないのでございますね。そしてそれを受けるものが社会教育関係団体、すなわち社会教育関係団体が従たる目的を持っておる学術研究の部門について補助金をもらうことは差しつかえないのでございますね。そう解釈していいだろうと、ただいままでの先生の御所論では拝聴しておりますが、どうでございますか。
  73. 星野安三郎

    ○星野参考人 私が申しましたのは、ちょっと誤解されていると思うのでありますが、そういう補助金をもらうのは全くこの社会教育法とは無関係のことで、従って管轄も違うということを申しているわけなんであります。従ってこのルートでもらう限り、それが従たるものでもそれは明らかに憲法違反だ、そう申しているわけであります。
  74. 加藤精三

    ○加藤(精)委員 それで第十三条が憲法違反でないということが明瞭になったと思うのです。とにかく社会教育法の第十条は明らかに、「この法律で「社会教育関係団体」とは、法人であると否とを問わず、公の支配に属しない団体で社会教育に関する事業を行うことを主たる目的とするものをいう」というので、普通の社会教育団体よりは広い範囲のものを想定いたしております。それに対して第十三条は、「社会教育関係団体に対し、補助金を与えてはならない。」としております。それで明瞭に十三条は違憲でないという御解釈が成り立つものと考えます。
  75. 堀昌雄

    ○堀委員 今まで、実は私は井手さんにお伺いしようと思っておりましたのです。井手さんのいわゆる前提の上に立ってものを申し上げないことには、これは議論になりませんので、要するに憲法八十九条に定める教育というものは、いうなれば学校教育に準じたような幅の狭いものだというふうに井手先生は御解釈になっておったと私は思うのです。ところで、実はこの間もわれわれ同僚の間でも議論が出ているのですけれども、憲法にいう教育という言葉——日本法律には教育という言葉がたくさん出ているわけなんですが、少くとも戦後憲法ができた以上は、教育という一つの概念が、憲法に規定したものと、次のほかの法律でいう教育というものが、それをその中の部分だとか、逆にあとの法律教育という字の方が広い範囲で先の方が限定されているのだということは、ロジックが合わないと私は考えるわけです。少くとも原則として、憲法に出てくる言葉であろうと、あるいは他の法律に出てくる言葉であろうと、教育というものの一つの概念は、抽象的なものであれ、一つの共通したものの場に立っておらなければならぬというふうに考えるわけなんです。そこで教育基本法を見ますと、教育基本法第一条教育の目的、第二条教育の方針とずっと書かれておりまして、第六条にきますと学校教育、次が第七条社会教育、第八条政治教育、第九条宗教教育、こういうふうに教育についての一応の分類を下ではいたしておりますが、教育基本法の前段で教育というふうに抽象的に表現されておる、この教育は、少くとも後段の第六条から第八条までの分類のものを総括して使われておるというふうに私は理解をいたしますし、教育基本法は前段で「日本憲法精神に則り、教育の目的を明示して、」と、こういうふうにしております以上は、これは憲法教育の問題を受け継いできている。その中で具体的にこういう細目規定をしている以上、私はこの八十九条の教育というものは、少くともこれらはすべてを含むものであるというふうに解釈するのが常識論としても正当ではないかと思います。もうちょっとそれをこまかく規定しておりますのは、文部省設置法の第五条の十二項に、「教育(学校教育及び社会教育をいう以下同じ。)」この法律の中でいう教育というのは、教育基本法ではその他の政治教育、宗教教育までを受けておるから、それでそれまでを受けては困るので、以下はない、あとのものは省くという限定解釈をつけるために、私はカッコをつけたのだ、こういうふうに法律解釈をすべきだと思うのです。そこへきて、なおかつ文部省設置法でいう教育は、まだ学校教育社会教育を含めて書いておるというふうな状態からしますと、この法律の中に法制局の第一部長が答弁をしておるような相互関係があって、井手さんのおっしゃっておるのはこれを受けておる精神だと思うのですけれども、これだけが教育を表わすものではないということ、日本の少くとも今日までの法律に書かれておる教育という言葉とその全体の意味を考えれば、一つの一貫した流れの中で見ておると思うわけです。そういう観点に立って、私はやはり八十九条は別に限定解釈だとか拡張解釈だとかでなくて、普通に見れば社会教育教育事業の中に含まれるのだと思うわけですけれども、その点については先生のお考えはいかがですか。
  76. 星野安三郎

    ○星野参考人 私はその通りだと思います。先ほど申し上げましたが、これはどこの国でも憲法を最高法規として、その中に法律あるいは政令、通達、こういう一つの規則の全体があるわけですが、それが統一体でなくちゃならぬわけですね。ところがそういう憲法とか法律とか通達とかいうものを何でつなぐかと申しますと、法令とか法文とかいう言葉あるいは概念あるいは文字でございますね、それが一定意味内容を持っているという前提に立たなければ、この最高法規で使った範囲はこれだ、これはこうだというようなことだと、一つの統一的な規則の全体として成立することはあり得ないんじゃないか。そういう本来の立場からしても、一般的には最高法規の教育範囲概念と同じく考えるのが当然だ。ただ下級法規にいきますと、制限的になるのが普通でございますから、他の条文との関連において、憲法よりもそれだけ狭いということはあり得ても、広くなるということはあり得ないのではないかということが一つ。  それと具体的に今度は教育の問題ですが、今おっしゃったように教育基本法では、学校教育社会教育をはっきり入れているわけです。そしてまた社会教育を含めているからこそ、初めてそれを立法化する必要が出てきた。それで、言いかえれば、憲法に根拠があるからこそ、社会教育法という一つ法律の領域が作られたのだ。根拠がなかったならば、そういう法律がなぜ出てくるのか、私はわからない。そういう点から一体だ。そのほか一つの例をあげられましたけれども、ほかの法体系で、法の使い方で、おっしゃったような例がほかにあると思いますが、今ちょっと思い出せませんので、それは省略さしてもらいたいと思います。
  77. 臼井莊一

  78. 山中吾郎

    山中(吾)委員 丸山さんにお伺いいたします。先ほどの御説明に、二十七年度の全国公民館長大会で、公民館に対する国の援助拡大の要望を決議をした、そのときに、単独立法の構想で決議した、公民館に関する単独立法を設定をして、大幅に国の援助を求めるという決議をした、こういうことでしたね。
  79. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 いや違います。そうじゃありません。
  80. 山中吾郎

    山中(吾)委員 ちょっと説明して下さい。
  81. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 何を御説明するのですか。
  82. 山中吾郎

    山中(吾)委員 二十七年の大会で、図書館法に相当するべき公民館法という単独立法を作って、公民館の財政的援助を求めることを要望する決議をした、こういう御説明でしたでしょうところが今度は、社会教育法全般の改正の中で、一部その要望ができたので賛成である、こういうお話でしたね。その通りですか。
  83. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 今の御質疑の中でございますが、二十七年と申しましたのは、二十七年に、第一回の公民館会議ではなくて、全国の公民館大会を福島でいたしました。それは御承知のように、社会教育法が二十四年に出ましたが、まだそのころは、公民館というものが果してどういうものであるかということがつかめないままでおった者が多かったと思うのであります。また、全国から見ましても、きわめて少数の者がこの運動に参加しておったと思うのであります。そういう者は少いものであるが、しかし非常に熱心だったわけです。私はどの程度各県から集まったかということは記憶しておりませんが、とにかく福島においては、少くも二千人程度の方が出たと思うのであります。それは公民館というものが、名前がうたわれましてから——二十一年に名前が出て、二十四年に社会教育法ができまして、三年過ぎた二十七年が第一回の公民館大会であります。その際は、まだ単独立法なんということまではいってなかったのであります。実際に公民館というものの運営に当った者が、大体の概念はわかるけれども、実際はもう個々まちまちでありまして、いずれにしましても、やったものの、どうも人間がいない、場所もない、最初の出発のころは青空公民館、必ずしも建築物は要らない、どこでもいいからやればいいということだったのでありますが、やってみますと、なかなか足がかりがないのであります。それで、苦しい苦しいでもって、ほとんどみなさんが異口同音に申しておりますが、それが二十七年の大会では、いま少しくこの方面に力を入れていただきたいというようなことが出たのでありますが、いずれもこれは何とか法の中へ、もっと強力にそういう要望することをうたってもらわなくてはどうもならぬじゃないかということで、法の改正をしていただきたいものだなあという言葉で言ったわけです。決議はいたしておりません。
  84. 山中吾郎

    山中(吾)委員 大体わかりました。そこで公民館関係の方々は、公民館の設備その他それの充実のために、大いに財政援助を要望するということが切なる要望であるとあなたは説明していただいたのでありますが、だからこの社会教育法改正に賛成だとおっしゃったのでありますね。ところがそこのところをもう少しお話しないと……。私らも公民館の施設、設備等に関する補助は確かに必要だと思うのです。それについては物的設備に対する援助ですから、直接公民館運動に政治権力が入るという点からいったら、間接的だと思う。青年団、婦人団体というものは設備があるのじゃないのですね。青年団、婦人団体に対する補助を認めるという改正は、公民館とか図書館に対する補助とはだいぶ質の差がある。そこで公民館関係の方が、この法案の中の公民館の設備についての補助は御賛成になるということはわかるのですが、それと質の違った婦人団体、青年団体に補助をするというときには、特別の意見なり政治権力なり——それを一緒に賛成するというふうな御意見をなさっておるようでありますから、その点はもう少し分析していただかないと、日本社会教育全体に大きい支障を来たすのではないか。公民館長さんは日本社会教育、民主教育に対する重大な責任と関心を持っておられるわけですね。図書館についても、図書館の物的設備、図書の購入費というのは、これは直接支配をしない、読む人の自由ですから。公民館の場合は設備についての補助が主ですから。その点一つもう一度、御説明の中に説明不足のところもおありだと思うので、お聞きいたしたいのであります。
  85. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 公民館関係者が国から援助をいただきたいという現実であるから、この社会教育法改正に賛成であるということを私は申しておりません。公民館に関しての事柄と、さらに公民館以外のことを申したのであります。以外という点で十三条の削除ということにつきましてお話申したつもりであります。それは、公民館をやっておりますと。その他の、たとえば婦人団体にしましても青年団関係にしましても、非常に関係が深いものでございますので、その青年団なり婦人団体の今の営みの状況を見ておりますと、いずれも財政面で最も困難をいたしております。困難をいたしていますけれども、補助金としてもらうわけにいかない、こう今までは法にきまっていますので、補助金を出し得るというようなことであるならば、これはぜひ差し上げるようにしていただきたいということです。われわれ公民館人といたしまして密接不離の関係のある婦人団体なり青年団体、その他の団体につきまして一番困っているのは、もう理屈じゃなく困っているのだから、何とかして地方団体なりあるいは国の御援助をいただく道をあけてやりたいという一念からでございます。そこで、そういうことにすると、たまたま何か統制とかひもつきとかという御懸念があるように承わりましたので、それは私はほかの県は知りませんが、私の知っております範囲におきましては、その御心配はないと思いますので、補助金の道があけられるならば、ぜひあけていただきたい。それが今回の法の改正の中にあるから、私はその点につきましては賛意を表した、こういうわけでございます。
  86. 山中吾郎

    山中(吾)委員 それは御心配ないと公民館長さんのおっしゃられるのは、私は非常に第六感的なものだと思うのです。私も経験ないことはないのですが、現在の社会教育主事自体が、現行法のままにおいても、文部省の指導によって青年活動の自主性にブレーキをかけるような心理的な影響も与えておる。そこでこの法案中に、社会教育講習主体を大学から行政機関に取っておるということも非常に重大な問題なので、先ほど私は井手先生がおられたら、もう少し話そうと思ったのですが、そういうものを含んでこの法案ができておるのですから、公民館長の立場において、絶対そういう心配はないという確信を持って、——この法案全体に社会教育主事教育権まで行政庁に持っていっている内容を含んでいるのですから、それを含んで心配ないというような御賛成の御意見は、非常に日本社会教育全体の立場、ことに社会教育責任の一部を持っている公民館長さんの代表としては、私は非常に軽率ではないかという感じがするのですが、もう一度お聞きしたい。
  87. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 私はそれ専門に御研究になっていらっしゃる先生と議論しようとは思っておりません。私は参考人でありますから、私の考えをそのまま申し述べて、あなた方の御自由な御採択による、こう思っているので、決してあなた方と議論などいたす気持は毛頭ありません。私自身の考え方を申したのですが、私は今補助金という形では出得ないのであって、現実には出ないのですが、何としてもやってほしいといって、ほとんど陳情、請願という姿が見られますので、そこで少くも青年団なり婦人団は育成していかなければならないという観念は地方公共団体では持っているわけです。そこで何とかしてやろうということで四苦八苦の結果、あるいは共催であるとか、あるいは委託料というように姿を変えて、あえて言うならば、これは擬装でありましょう、擬装までして、その若干の補助、援助をいたしまして、それらの運営に当っているという状況でありますので、その姿から見まして、私の見ておる範囲におきましては、決して何かしら支配をするとか何とかいうことは現実私は見ておりません。おらないから、私はその心配はない、しかもあのときの説明には、私の知っておる範囲におきましては、新潟県におきましては、と頭をつけて申しております。ほかの府県については知りません。
  88. 山中吾郎

    山中(吾)委員 議論は申し上げません。それでお話の中に、なお聞く人々に誤解を与えてはいけないのでお聞きするのですが、戦後十年経過の後の現在の団体は、すでに自主性が確立されたということをおっしゃっておる。それは新潟県だけの話かと思いますけれども、青年団体、婦人団体の自主性は戦後十年たって確立されたとほんとうにお思いでしょうか。
  89. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 私は、言いわけではありませんですが、自主性が確立したとは申しません。民主的に成長してきておりますと、こう申し上げました。
  90. 山中吾郎

    山中(吾)委員 民主的に成長したということと自主性とは全然別ではないと思うのですが、そういうふうに新潟県下を通じてお考えになっておるということですが、これは全国的には、ことに僻地に行けば行くほど自主性がそがれておると思うので、これも私はあなたの御意見はどうも事実に合わぬように思うのですが、これは論議はいたしません。  それから次に、実際は補助を出しておると先ほど説明された、その共催というのは補助というふうにお考えになって出しておるとおっしゃったと思うのですが、星野先生から言われたように、補助と、共催によって経費を分担するという概念は全然別なので、私は現在のような姿の場合には、そういう共催というお互いに自主性をもって、そうして各種団体が一つになっていろいろな行事を行うという姿が、憲法関係その他からいって一番望ましい社会教育発展の姿じゃないか、こういうふうにかねがね思っておったわけです。私自身も、その点は県の教育長をしておったこともあるので、各町村と県との共催はいろいろいたしました。そのときには自主性はなくなりません。団体の補助という姿になると、ことに日本補助というのは、明治以来数十年来、補助を手段として監督、指導、干渉するという歴史があり、非常に困難があると思うのですが、そこで補助の実際は共催の姿が行われておるとおっしゃるその考え方の中に、何かまだ日本社会教育発展のために阻止するような感じもするので、その点もう一度御説明願いたい。
  91. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 私は反対派の意見で、私のさっき申しましたのは、補助という形では法的に出し得ないので、共催というような名目をつけまして、実際はお金を出しておるわけです。出しておりますが、その出しておる金の使途等につきましては、実質的にはほとんどその団体は自主的に事業を行いなさるお金に使っておるのであって、形は共催ではあるが、実質的には補助をいたして、補助金というものと同じような姿で使われておりますと、こう申したのであります。そこで共催ならば、先ほども議論がありましたように、両者が相集まって一つ事業をする場合において、合議をして、こういう事業をいたしましょうというて、分担の区分をいたしまして、おそらくその事業をする姿が、私はむしろ共催のほんとうの姿だと思うのでありますが、そういうことは、それこそ上位の団体というものが、その合議をする際にそういうものに金を出すから、やる主体は他の社会教育団体にあるのでありますが、合議はしていますけれども、金をす出方は、おれが出してやるのだからというようなわけで、かえってその自主性をゆがめるような結果になりはせぬかとさえ私は思う次第でございます。
  92. 山中吾郎

    山中(吾)委員 今のお話わかるのです。共催というのは費用を分担していいわけですから、費用を出すことは当然出していい。共催の姿であるから、町村あるいは県から金を出しても、それは実際上は補助のようにして監督を今までしていないわけです。実質上は、財政援助を受ける姿の中に共催として社会教育が自主的に行われておって、まことに好ましい姿なんです。そこで補助と同じではないのです。補助の場合は、うんと監督をして、ほんとうに監督の手段として行われておる。日本社会教育を思われるあなたの立場からいえば、この共催こそ実際上はその団体に自主性を与えており、純粋なる財政援助の姿でいっておるから、まことに好ましい。現在の憲法精神というものは、そういう社会教育のような教育事業に権力支配をしないためにできておるのですから、その精神に合せながら、現実の貧困な社会教育団体を合憲的に発展せしめるために自然発生的にできたのがこの共催で、補助とは全然違う。全然干渉という姿でない財政援助の姿になっておる。これを育てられるということが一番いいのじゃないか。公民館長さんも腹の中ではいいのだと思っておられるのだと思うのですが、どうも見当がつかないのですが、いかがですか。
  93. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 言い合うような形でまことに恐縮でございますが、どうかごかんべん願いますが、私はそういう気持は毛頭ありません。ただ、私も長い間社会教育関係しておりますので、何とかこの機会に、失礼なことがあったとしましても、よく率直に自分の意見を申し上げまして、皆様の御協賛を得まして、今われわれの当面して困っておる場所をこの際こそ一つ救ってもらうように陳情申し上げる絶好の機会とまで考えております。  補助をするということが、これは君だめだ——補助となれば当然一つ事業計画を立てて持ってくるだろう、それに向って補助をする方の側が、これはいけない、あれはいけないというようなふうにむしろ意思を加えて補助を与えるだろうから、それはうまくないだろうというふうにお考えのように私は承わったのでありますが、大体補助という——私ここで議論はいたしませんが、補助というものは、私はかように考えております。これは申請をして初めて補助が出るのであります。上から金をくれるというのではないと思います。当然民主的に自分たちが経営しようとしても、補助金をもらうという形になると、これは仮定でありますが、どうも上からいろいろな示唆や圧力があっていけないとなれば、真に成長した民主団体ならば補助はもらわぬと思うのであります。また、青年団あたりの連中と申しますと、先ほどこちらの先生がおっしゃったように、青年団と一口にいいましても、ほとんど千人のうちの九百人——数字はわかりませんが、九百人ぐらいの者はおそらく青年団に進んで入っておるという現実ではございません。百人の者が相集って、何とかして青年団運動——生き抜くところの力を養っていこうという認識に立って働いている者はごく少数でございます。その者はしかも、最近の状況におきましては、それこそ地区のPTAの会合におきましても、決して上からの圧力には屈しません。どこまでもディスカッションを重ね重ねて、そこでやっておるのが現実でございます。従いまして、補助をもらうからといって、もらう方に気がねをしてそれらの者の指揮命令に従うようなものは、これは真のものではないのです。また、もしそういうものが懸念されるならば、今こそそういう団体に向って助成をいたしまして、いま少しくこうした社会教育団体というものの成長をはかって、そういうものに屈しないだけの力と信念というものを与えるのが私は今日の急務と考えておる次第でございます。
  94. 山中吾郎

    山中(吾)委員 これも議論ではないのですから、議論でなく、ちょっとお聞きしたいと思うのですが、申請をして補助をもらう、申請するから監督されるのですよ。これは私らの経験で、法的にはある団体に幾ら財政援助をするということがきまっておって、当然に入っているならば、監督なんてされないのです。ほしい者は申請せよ、申請するから、申し出た者にはかくかくの条件だというので、ここに監督の機会を持つのであって、申請をするのだから心配ないというそのお考えは、これは事実、全然反対なんです、あなたのおっしゃることは……。その点も私は補助というものを受けて教育行政その他をしている点については、ここに文部省のお役人の方々もおられるのですが、申請の機会に監督するために補助制度を考えるのだから、その点も、事実とどうも合わないように思います。そういうことで私心配するのは、公民館の設備補助につきましては、現在の現行法で、やはり文部省で、わずかでありますけれどもとって、公民館及び図書館の補助をしておるわけです。その分については、現行法でも私はいけると思う。従って今度の改正は、公民館に対する補助を目的としておるのではなしに、社会教育関係社会教育主事教育主体を行政庁に持っていくことと、それから補助を与えるという機会に、やはり率直にいえば、現在の民主的なあり方にある程度のブレーキをかけるということをこれは含んでいる。常識的にどう見てもこれは含んでおると思うのです。それで私心配するのでありますが、そういうふうに一つ一つ補助の問題を持ってくれば、何とか援助するようにしてやらないと、今の青年団も何もできない。ところがこの補助の問題、社会教育主事教育の主体の変更、全部合わしていきますと、抱き合せ型の法案なんです。いろいろなことを抱き合わして一つ改正法案が出ておる。そういうことで、公民館長さんの社会教育を思われるお気持はわかるのですが、全体を総合的に見ますと、やはり日本の民主社会教育発展のためには、この法案が非常に危険なものを含んでおる。一つなお御検討願いたいと思うのであります。  それから何かこの補助というものを今考えないと、青年団、婦人団体が育たないのじゃないかというふうにお考えになっておるようでありますが、実際においてはこういう補助をもらって温室に育つ青年団、婦人団体がいいのか、あるいはやはり困難な中においてもほんとうの社会教育発展のためには、社会教育の本質は民衆の相互学習ですから、そういうふうな姿でもう少し苦しい中で見守る方がいいのか、私は後者の方が長い目で見たら日本社会教育発展のためにいいと思うのですが、公民館運営の立場から見て、その点どんなものでしょうか。
  95. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 先ほどの前段の公民館関係に対しては若干ではあるが施設設備等に対して国は補助しておる、こういうお話がございました。私もよくその点は感謝いたしております。この際特にお願いいたしますが、その補助の額をもっと増すように御心配をお願いいたします。後段につきましては、こうした社会教育団体はこのままにしておいて、自然に草が伸びていくように、いろんな風や雨にあいながら、盛り上ってできてくるのがほんとうではないか、こういう御意見のように拝聴いたしましたが、私も確かにそういうことがあってくれればいいと思います。ですが、手を伸べてすらなかなか盛り上ってこないというこの現実からいたしますと、これはやはりある程度の手を加えてもう少し育ててやらねばならないというふうに考えておりますし、また公民館長といたしまして、そういう団体をも含めてお互いに、なんといいますか、めんどうを見て上げるというような立場に立ちますと、やはりそういう団体が何とかしてくれといわれれば、やはりやってやりたいという人情もわいて参ります。議論は議論といたしましても、そういう意味から、せっかく補助を与えられるという道が開けるならば、この際にぜひやっていただきたいというふうに思わざるを得ないのでございます。
  96. 山中吾郎

    山中(吾)委員 まあお気持はよくわかると思うのですが、角をためて牛を殺すというような危険がこの法案の中に非常に感ぜられるのです。ことに私岩手です。あなたの方は新潟ですが、岩手のようなところは非常に貧乏なんです。貧乏だから青年団、婦人団体はほんとうに補助がほしい。そういう僻地はまた非常に封建的なんです。村に行っても、どこに行っても、何かこう非常に近代感覚を全然持たない。婦人団体青年団体が会合するだけでも危険思想だと感ずるように、非常に封建的なんです。貧困な県は同時に封建的なんです。そういう関係で、こういう補助制度というものは、貧乏なところに補助制度が来ることは、結局わらをもつかみたいというおぼれた人間のような心情と結びつく非常に危険なものがある。それで私強調しているわけなんです。  星野先生にちょっと伺いたいのですが、星野先生がさっき言われたのですが、社会教育主事講習実施者は地方大学の方がいいとも思うけれども、参議院の何か修正があったので、それでも……というようなあいまいなお話をしておったのですが、これは参考人の方々にとって一番重大なことがまだ質問されていないので、この機会に星野先生の社会教育主事講習大学において実施をしておったのを行政庁に移行することについての御意見をお聞きしたいのですが、なければいたし方ありません。
  97. 星野安三郎

    ○星野参考人 私、今の御質問の意味もわかりませんし、そのことに関してさっぱり知識がないものですから、どういうことなのかもう一度……、あるいはお答えできないかと思いますけれども。
  98. 山中吾郎

    山中(吾)委員 純粋の憲法論、法律論ではないので、政策的なものですから、あるいは自由に御意見があればお聞きするだけなんです。現行法では地方大学社会教育主事講習実施者を委任をしておるわけです。結局学問の自由とか思想の自由を確保するというところから社会教育の自主性というものを考えて、行政庁が管轄をしないで、地方大学責任を持ってやってもらおうという当初の立法精神だと思うのです。今度の場合には大学その他県の教育委員会などがやるように書いてありますが、そういうものと補助金と結びついてきますと、全体として非常に憲法精神から遠ざかっていく一環として見られるんじゃないかとも思うのです。実際問題としては社会教育主事講習大学が主体となりまして、講師としては県の社会教育課長とか社会教育主事とかいう者が講師に入るわけです。主体は大学ですから、いわゆる行政支配というものの心配はない。しかし行政庁に移ると今度は逆になりまして、社会教育主事講習の中に実質上やはり権力統制というものが入る危険が非常に多いわけです。そういう補助制度のものと結びついて私は実質上非常に遺憾な、大きい影響があると思うので、何かその点について御意見があればお聞きしたい。
  99. 星野安三郎

    ○星野参考人 私はそういう今度の移行は大へん問題を含んでいるんじゃないかと思うわけです。と申しますのは、おっしゃいましたように大学社会教育主事教育を委嘱しましたのは、大学が学問の自由や大学の自治と、社会教育法が目標とする自主的なそういう教育を指導するにとって必要な環境だということと、教育基本法のたしか二条だったと思いますが、教育の方針のところで、「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」こういう教育の方針がはっきり出ているわけです。この中に学問の自由を尊重し云々という規定があるわけですが、こういう教育基本法の方針からしても、私は大学が適当だろうと思っているわけです。そしてこれはいつだったかちょっと日にちは忘れましたが、参議院の文教委員会の議事録——たしかそうだったと思いますが、読んでおりましたところでも、大学社会教育を受けて主事になった人に大へん熱心で、こういう人になってもらえばいいというような発言も二カ所くらいあったように記憶しておりますが、そういう点からも、やはり学問の自由と大学の自治、そういう社会教育法の推進にとって必要な条件を備えた、そういうところで教育さるべきであり、また教育者としての専門家でありますから、そういう行政機関がするのは私は適当ではないと思っております。
  100. 臼井莊一

    臼井委員長 ちょっと山中委員に申し上げますが、参考人の時間の都合もございますので、なお他の御質疑もあるようでございますから、あとどのくらいおかかりでございましょうか。
  101. 山中吾郎

    山中(吾)委員 一回です。この点丸山さんにもお聞きしたいのですが、先ほどのお話で、社会教育主事は設置十周年もたって行き詰まっておると観察されたのですね。その点は私も同感なんです。なぜ行き詰まっておるかといいますと、私の経験では、社会教育というのは日本では戦後初めてアメリカからの指導援助によって経験をした。一種の創造期だと思うのです。それで会議の進め方とかあるいは論議とか討論の形式とか戦後の社会教育主事は方法論だけを教えておる。大体地方におるところの社会教育主事専門家というのは議事の進行とかそういうのは非常に上手で、内容的な指導、そういうものに欠くるところがある。大体戦後形式的なものの運び方というのは市町村、府県の社会教育関係者がなれてきてスムーズになってきた。内容が空虚だというところに行き詰まりがきた。今度こそ大学に渡して内容のある社会教育主事を作らなければならぬときである。そういう意味においては私は社会教育主事設置十周年の行き詰まりを感ずる。このときに逆に行政庁に社会教育主事講習の実施者を持っていくのはほんとうに逆じゃないか。おそらく文部省の社会教育課長その他もこれは十分わかっておるはずなのです。大学において内容的な教育をとらなければならぬときに、それを取り上げるというのはどこかに勘違いがあると考える。そういうことも含んで、丸山さんが先ほど社会教育主事も行き詰まってきたというのは逆にお考えになっておるのじゃないか。行き詰まっておればこそ大学にさらに推進させなければならぬ。そういう意味において星野先生のお話、これは法律的、憲法的な精神に関連をしておるのですけれども、行政庁に社会教育主事教育実施者を持ってくるのは不法とは言えないが不適当だということは言える。同時に日本教育制度の立場から、社会教育主事の行き詰まりは逆に大学にゆだねなければならぬような行き詰まりである。そういうふうに私は思っておる。それを行政庁に取り上げていくのは逆である。どうしても役人というのは、地方に行きますと、大学が勝手にやるということはおもしろくない。それでこっちにとりたいという何か心理的な——文部省の役人は最も官僚的でないのですが、それでもやはりどこか十年の間にマンネリズムが入ってこっちに取り上げるという思想が入ってきたことは間違いないと思う。教育行政庁でやらなければという気になっておる。私は文部省の役人にまことに惜しむのですが、そういうことを含んで、先ほど社会教育主事は行き詰まってきたとおっしゃったのですが、それで教育委員会の方に持っていった方がいいという結論にお聞きしたので、その点もう一度説明していただきたい。
  102. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 私が声が悪いので聞き違いされるので非常に残念ですが、私は社会教育主事が行き詰まったとは申しません。社会教育がやや行き詰ったかの声を聞く、こういうのです。教育主事じゃないのです。そこでもってもうはっきりと、あなたの今の誤解願っている点と私の話とは出発から食い違いがあると思う。私は社会教育が行き詰ったと申し上げた。あなたは社会教育主事が行き詰まった、こうお聞き取りになったものですから、そういう御心配があるのだと思う。私は社会教育がやや行き詰まってきたかのごとき感があると申し上げた。  そこで教育という以上は少くとも人の問題で、現実に岩手県でもおわかりでございましょうが、私は岩手県の公民館管理者とも文通をいたしておりますし、よく知っております。また様子も若干は知っておるつもりでございます。何となれば、結局社会教育といいましても人の問題です。人そのものを得なければできないのが多分でありましょう。そこで幸い社会教育主事を置いて、それを教育していく、研修していこうというのでありますから、どうぞお願いいたします、どうかもっとりっぱな指導者を作っていただきたいという念のほかないのでありまして、大学でおやりになろうが、どこでおやりになろうが、それこそ国会の有力な権威のある方々の御心配の結果に私は何も異存は申しません。ただ社会教育主事を置いて、しかも研修の機会と場を与えようというお考えでございますので、私は全面的に賛意を表したいのであります。
  103. 山中吾郎

    山中(吾)委員 社会教育の行き詰まりということの一般論として言われることは私も賛成です。その通りであります。ただ私はもう申しませんが、社会教育主事教育をやるなら、どこで教育しようが私は知らない、それはかまわない、よろしく頼むというようなことを言われると、それは世間の社会教育を知らない者は誤解をすると思う。だからその点をよくなにしていただかないと困るのです。
  104. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 それはお話しますけれども、どこでやろうとかまわないとは少しも申しません。私どもが差し出がましく言う場じゃないから御遠慮申し上げて、あなた方の御賢明な結論に御賛成申し上げたい。どこでやろうとか、どこでもいいということは、少しも申し上げておりません。
  105. 山中吾郎

    山中(吾)委員 これで終りにしますが、あなたの御希望はそれでいいのです。ただ今の改正法案に御賛成だとおっしゃるから、それは困る。全部研究されないでその点をおっしゃるのでは困るのです。論議はいたしませんが。(「それは失礼だよ」と呼び、その他発言する者あり)それで社会教育主事のいろいろのこともあるのですが、この法案は全体に関係がありますから、公民館補助その他の面について、これはもっと援助を必要とするというお考えには私も賛成です。ただその点については言い方がまずいので、聞いておる人が誤解をされては困ると思うので、私はそれだけ申し上げて質問を打ち切ります。
  106. 臼井莊一

  107. 高石幸三郎

    ○高石委員 ただいまの点に関連いたしまして、丸山参考人意見をまじえず簡単に具体的に申し上げます。私も長い間市長の立場にありまして、この問題については苦労しておったものであります。現在小さいながらも公民館長の職にありますし、社会福祉協議会長をしております。先月まで体育協議会長をしておりまして、現実に苦労した立場からお伺いするのであります。  公民館運動を推進する場合においては、今日のような昔と違って複雑な社会環境においては、公民館だけではその目的とするものが実行できないので、どうしても地域の青年団、あるいは町内会、あるいは婦人会、地域、職域の文化団体、こういった方面をほんとうにつかんで、これらの強力な支援を得なければ社会教育はできない、こういうことは私も痛感しておるのであります。おそらく丸山参考人も同様だろうと思うのです。さような意味において、環境衛生運動、たとえばカやハエをなくしようじゃないかという運動を進める上におきましても、その通りであります。さらに体育運動、たとえばラジオ体操にいたしましても、あるいは赤ちゃんの健康の問題にいたしましても、レクリエーション、体育思想の普及向上におきましても、これらの人の力を借りなければならない。さらにまた特に青少年の補導の問題のごときはそういう点を痛感いたします。ましてや社会を明るくする運動として、共同募金であるとか、日赤の募金であるとか、あるいはさらに遺族会、身体障害者、生活保護者の援護の方面についても全面的な支援を受けなければならぬ。さらに進んで問題の新生活運動、たとえば結婚相談の問題にいたしましても、結婚の簡素化にしても、全部特に青年会や婦人会の協力を得なければならぬというときに、今お話の通りわれわれは壁に突き当ってしまう協力してもいいが金はどうしてくれるのだということになってしまう。そこでせんだって以来お話の出た共催の問題が出てくる。それで共催をするについては、やむを得ず、民間団体としての社会教育普及会にいたしましても、公民館といたしましても、市町村に行って何とかしてくれと頼む。先ほど来お話を聞いていると、共催という形はもっともらしいのだが、共催ということになると、青年会や婦人会の自主性が全然なくなってしまう。これで困ってしまうのです。やはり役所の名前が先に出てしまうから、かえって青年会や婦人会が役所に引きずられてやるような形になる。全然自主性というものがない、こういうことを私は体験いたしました。この場合、補助金で自由にやらせれば自分たちの案と自分たちの運動を彼らは喜んでやると思います。だから共催がいいか補助金がいいかということは、見解の相違でありますけれども、まことに日本人の欠点、あるいは民族性によりましょうか、教育的にという言葉を使った方が効果が上る。たとえば基礎的な講習をやらなければこの運動は推進できないのだけれども、そういうこともわれわれは社会教育という言葉で実行しております。どうしても教育的にそうするのだと云うより仕方がない。こうなって参りますと、われわれといたしましては、ほんとうにこれからの社会教育というものを考える場合、今は法案の審議でありますから、あるいは憲法の立場なり、あるいは教育基本法の立場なり、あるいは社会教育法の立場から見なければならぬのでありますが、しかし現実に第一線で公民館活動をする者、社会教育運動をする者にとっては、そういう狭い法文的な解釈だけでは困る、こう私は考えているのです。これは私の体験ですが、以上に対する公民館長として長くお勤めになった丸山さんの具体的なお話を一つ聞きたいと思います。
  108. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 先ほど岩手県の先生からいろいろとお話を承わって私も大へん参考になりました。今お話の共催という名前ではございますが、共催というと、そう実際はやらない。やるとなると、これはもう半官半民というか、それこそその団体の自主性というものは残念ながら薄らいでいくというふうに私は考えております。ですから、それはもしでき得るならば、それこそ何の意図も加わらない、ひもつきじゃない、一つの自由に運営のために使用されるお金がもらえればと私は熱望いたしております。こう今は考えております。  それからお話が出ましたが、青少年の問題にいたしましても、出てしまった悪い青少年を直すことはなかなか困難であります。いつかの新生活運動の場合にも申したのでありますが、できてしまってからの子供というのはなかなか直せない。そういう子供が生れるところの原因の多くの部分に現在のわが国の家庭の生活があります。親と子の関係があります。その中において、新しい時代感覚を持っている子供に向って、ただ旧式な面だけで親の権力をふるうようなああいう行き方ではうまくない。でありますから、婦人団体としましても、その地域々々によって、どうしても理想的ないい映画によって新しい家庭生活というものを見せて、そこで話し合いをしていくということもありますが、どうしても活動をするのにはお金が要るのでありますから、なかなか婦人会だけでは金の工面ができないものですから、やはりこれはどこからか財源をほしいためにこういうことが起きたと思います。どうか苦しいところを御推察願います。私はほんとうに現実を申し上げているのであります。
  109. 高石幸三郎

    ○高石委員 そこで星野参考人にお伺いするのでありますが、先ほど社会教育関係団体は、教育という言葉とやっている内容とは、不可分、一体だから補助金を出すことは憲法に違反するという意味のことを言われました。それは憲法学者の立場としては私も理解できます。しかし丸山参考人に言った通り、現実社会教育運動が末端の市町村において行われている実態から見ると、社会教育関係団体としての青年会なり婦人会なりの仕事は、そういう狭い意味での教育では当てはまらない。といって教育という言葉を使ってはいけないといっても、これらの団体運動は教育的ということが一番人の耳に入りやすく、また効果的であるから、そういうつまり社会教育関係団体に補助することは、団体が現実にやっている内容は、いわゆる憲法上の教育という言葉と不可分のものであるからいけないということでなく、もっとゆとりのある解釈ができないかどうかをお聞きしたい。
  110. 星野安三郎

    ○星野参考人 第十条の定義を読みますと、やはりそれを「主たる」と書いてありますから、そうである以上、それとは関係ないように見えても、当然この社会教育を遂行するための事業と考えられますから、また社会教育の特徴として、自主的な、総合的な教育が中心になると思いますので、私はそれは憲法八十九条と同じだ、従って補助金を出すことは許されないというふうに思っております。
  111. 高石幸三郎

    ○高石委員 これは意見になりますからこれ以上申しませんが、私どもはそういった教育という言葉を使っているが、実際内容はあくまでもいわゆる社会を明るくする、地域社会を明朗にして、そして平和な民主的な、教養の高い町作りをするのだということに、社会教育の使命があると私は考えておるのです。そういう意味においてこれは一そう御研究願いたいと思います。
  112. 星野安三郎

    ○星野参考人 私も気持としては全くその通りでございます。補助金を出すことが憲法違反であり、また適当でない。あるいはそういうものが伸びては困ると思っているのでは決してないので、それは私の言葉が足りなかったとすれば、誤解のないようにお願いしたいと思います。なお社会教育の実態等についてはよく存じませんので、勉強していきたいと思います。
  113. 臼井莊一

    臼井委員長 関連質問の申し出があります。山本勝市君
  114. 山本勝市

    山本(勝)委員 星野先生に一言お教え願いたいのですが、憲法の八十九条に「公の支配に属しない慈善教育若しくは博愛事業に対し、」云々というのがあります。その公けの支配というのは、支配というと何だか非常に悪いような感じを与えます。しかし、たとえば官立大学に対して国家は金出しておる。これが憲法違反でないということは、やはり公けの支配をしておるという支配の中に含まれるのじゃないか。国家大学に金を出しておる、その大学に対してやはり公けの支配をしておるから出しておる、こういうことになるのじゃないかと思います。しかし大学は自治、自由ということでいろいろな講習をやっておる。それは国の支配を受けておるにかかわらず、何らそこに内容的には、自治とかあるいは自由とかいうものを侵されていないという解釈じゃないかと思う。そうでなく、金をもらったら必ず支配されて自主性を失うのだ、あるいは自由を失うのだということならば、大学には自由も自治もないということになり、自由も自治もないものがそういう指導に当るということは、すなわち国によってそういう間違った指導をするということに結論としてなるのじゃないか。そこで、かりに社会教育関係団体に補助金を出すという道を開いた場合に、それは憲法八十九条によって出す以上は、国の支配という中へ入れなければ出せない、こういう解釈になりはしないか。しかし支配するから、必ずそれはその団体の活動の自由または自主性を傷つけるとは言えないのじゃないか。これは大学の例から見て、大学は国の金をもらっておるから支配しているといっても、支配ということには悪い場合もあり得ると思うが、しかし悪くない支配もあります。支配すれば必ず悪くなるという前提で議論をすれば、大学を国が指導することすらももう資格がないということになりはしないか。この点です。
  115. 星野安三郎

    ○星野参考人 国立大学につきましては、たとえば予算の使い方とか、配分された予算について大学がどう使うかということは、相当自由が許されてると思いますが、その使い方については、会計法とかさまざまな法律によって規制されておりますし、それ以外の使い方はできない。そういう意味において当然支配を受けておると思っております。あるいはまた、私も国家公務員でありますが、国家公務員の行動等につきましては、やはりさまざまな法律において一定の規制を受けておることも事実であります。それにもかかわらず、たとえば研究の内容とかあるいは教授の内容その他大学の自治、たとえば人事問題でございますが、そういうものについては、そういう自由や自治を認めることが大学発展にとって必要だし、また同時に歴史的に見てもまた構成メンバー等から見ても、そういう自由が許されてきたと思っているわけです。そしてまた、そこまで干渉することはかえっていけないという関係において私は認められておると思うのです。ところが社会教育関係団体の自由や自治という問題に関しては、憲法八十九条や社会教育法十三条が立法された考え方としては、たとえば戦前国防婦人会だとかその他の、今日の社会教育関係団体とは性質も、本質も違うと思いますけれども、形式的には似たようなものが、いわば国家統制の中心になって、政治権力のにない手の意のままに使われていたという苦い経験——実際解説書にもそういうことが書いありますが、そういうことから、八十九条や十三条が出てきたのだと私は思っております。もちろんそのサゼストとしてはアメリカから出たと思いますけれども、しかし日本では、そういうものを入れなくちゃならぬ、こういうものがあったから出てきたのだと私は思っておるわけです。そして先ほどから申しますように、補助金の問題について私が、それは憲法上許されないばかりでなくて、それを今改正するのは政策としても妥当でないと申しましたのは、今日の問題として申し上げたわけでございまして、すなわち憲法八十九条や社会教育法十三条が禁止したのは、要する補助金を通じて支配、統制ということが行われる可能性があり、そういう懸念があったから作られたわけでありますし、実際まだ今日もそれは去さらない状態だ。従って適当ではない。先ほど言いましたように、現在財政的にあるいは人事的にある程度の国家支配を受けていながら、その研究内容だとか教授内容だとか人事等について大学においては自由や自治が認められておりますが、そのような実力が社会教育関係団体に出てきた、そういうときには憲法改正して補助金が出せるようにしても、別にかまわないというふうに私は申し上げたつもりでございます。
  116. 山本勝市

    山本(勝)委員 そうだとすると、実際問題として法律解釈ではなくて、現在社会教育団体というものにもし金をやり補助金を出す、そして公けの支配という何らかの意味支配はございましょう。ただ金を出した以上は、勝手に飲み食いしてもいいというわけにいかぬでしょう。ちょうど国家大学に対して金を出して、それを勝手に大学で使って飲み食いしてもいいというわけにいかないのと一緒だと思います。ただ大学の場合には自主、自由ということでやることができる。しかし社会教育団体ではそれができないから、そういうのは実際の問題になってくる。法律解釈としては私は公けの支配という意味をお尋ねしなければならぬ。公けの支配というものは大学に対してしておる。しておる証拠には、そうでなければ金は出せないわけです。しておるけれどもなお自由と自治は認められておるのだから、社会教育団体においても——戦争中は、別ですよ。大学だってだいぶ今日とは違っていたでしょう。自主、自由というものを侵さないで、しかも大学と同じような意味の公けの支配ということが行われ得るとしたら、必ずしもそれは憲法違反ということにはならぬのじゃないか。お前は自由に行動する資格がないからとかあるとかということが、憲法解釈の問題として分れてくる。そのかわりもっと成長したら憲法違反でなくなるのだ。今のところじゃ憲法違反だというのでは、どうも憲法解釈としてはどうかと思うのだがどうですか。
  117. 星野安三郎

    ○星野参考人 私が言い足りなかったので誤解されたと思いますが、憲法及び社会教育法の十三条の解釈としては許されない、違反であると申しましたのは、そういうものを作っただけのそれには歴史的な理由があった。そしてまたそのことがその当時立法されたときの国会や、さまざまなところではっきり出ておった。それと大学にある程度の自由や自治を認めるということとは、一つの成長の違いがある。私は現行憲法解釈として申し上げているわけで、ただ将来の問題として申し上げたのは、現行憲法補助金を出しても憲法違反じゃないということを申し上げたわけじゃございませんので、今大学に認められているような自由や自治、それと同じようなものがかりに出てきたとしたならば、そして補助金を出してもいわゆる国家権力によって支配統制できないような状態になったときには、言ってみますと、憲法八十九条を制定した理由がなくなったということになるわけです。そのときには改正して補助金を出しても、それは別問題だ、こう申し上げたわけで、あくまで現行憲法内では補助金を出すことには私は憲法違反だし、また現実の認識の問題としまして、八十九条を、従って社会教育法十三条というものを制定した理由というものは決して消えない。またそのような規定を設けておかない限り補助金等を通じて支配される危険性がある。その危険性は私は去らないと思っているわけです。その点で事実の認識の問題は見解の相違ということになるかと思います。
  118. 臼井莊一

    臼井委員長 小牧次生君。
  119. 小牧次生

    ○小牧委員 丸山参考人にお伺いいたしますが、私は、社会教育法というものは御承知の通りわれわれ人間の自主的精神と思しますか、また自発的精神を養成するということで、自己教育、相互教育ということが本来の精神だと思います。そういう点から考えまして、今回文部省が提案をいたしております第二十三条の二を新しく追加いたしまして、「公民館の基準」という題目で新設されたもので、文部大臣は「公館民の設置及び運営上必要な基準を定めるものとする。」こういうことになりますと、あなた方が先ほど言われました公民館運動なり、社会教育運動の自主的な発展ということを望んでおる、そういう御希望の方向に対しまして、これは文部省がこういう公民館の設置、さらにその運営上の基準まで設けてやるということになりますと、これは統制が加えられて参りまして、先ほど中島参考人からもいろいろお話がありましたが、各地域によってまちまちである、丸山参考人御自身も実情を十分調査してもらわなければならないというようなお話がありましたが、そういうことに対して、画一的にまた上からの文部省の統制的な指導が及んで参りまして、社会教育法あるいは社会教育の目ざす方向に、これは逆行するのではないかということを私どもは非常におそれておるわけです。ところが丸山参考人は全体としてこの法案に賛成をしておられるわけでありますが、これにはどういうことをお考えでございますか。
  120. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 お話しのように基準を設けるということにつきましては、今先生のおっしゃるように、ただ何がなしに人口何万について幾らというようなことじゃいけないと思います。あくまで地方の実際に即したものであってほしい。これにつきましては、かつて全公連におきましても、どうも何も基準がなくて、学校のすみであろうがどこでもいいんだということでありますと、全く何もできないのでございます。せめて最低のスケールぐらいは示してもらった方がいいじゃないかというので、全公連におきましても、かつてだいぶ調査をしたことがございます。それで各地方からの公民館関係しておる者が、何とかしてその基準を示してほしいということを盛んに言われたことがございます。それはずっと前にさかのぼるのでございますが、さっきも申しましたように、初めて公民館という言葉ができたときには何か機能的な面だけをうたっていまして、施設としての面は何もないのでございます。ですから、何もよりどころがないというので、だいぶいろいろなことを考えて右往左往したことがございます。何とかして農村で人口どの程度のものならば、どのくらいなスケールを持った方がいいだろうという最低のものでもいいからほしいものだということが言われてきております。そういうわけでございまして、ことに最近町村の合併が行われましてから今日まで、なおさらその感を深くしております。でありますから、われわれお互いが話し合って作ってもいいかもしれませんが、どうも自信がない。ですから十分調査の上、少くとも最低の基準ぐらいは示していただきたい、こういうことを申しているのであります。
  121. 小牧次生

    ○小牧委員 お互いにいろいろ考えがあるわけですから、ここであなたと議論をするわけじゃございませんが、文部省のいろいろなやり方を見ますと、初めはそうでもなかったんだが、だんだん何でもかんでも基準々々をずっと作って、結局文部省の考える国家基準というものでずつて押えていこうとする傾向が、ただ単に社会教育の面だけでなくて、一般の学校教育の面においても、最近非常に顕著に現われて参っておる。これは私どもは民主化という立場から非常に重大な問題だとかねがねこの委員会でも論議をいたしておるところであります。そういうところに、今各地の実情ということも考えるではありましょうが、どうしても文部省の立場から画一的なものを持ってきて、設置基準というようなことをやってくるということになると、それぞれの事情の違った地方々々の住民の考え方の自主性というものは相当抑制をされ、そこなわれるおそれがあるということも考える一人なんです。  それからもう一つは、もっと大事なことですけれども、公民館の運営にまで基準を設けるということになりますと、これは設置の基準の問題以上に、その公民館の周囲の住民の方々の民主的な運営をやろうとする、いろいろなそういう方向に大きな規制を加えて参りまして、先ほど申し上げましたような社会教育というものが自己教育であり、相互教育だというものの上に、上の方から一つの基準を示して押えてくるというような意味において、その発展を阻害されるのではないかという意味で申し上げたわけです。あなたの御意見は御意見で承わるといたしまして、ちょうどこれと同じように今度は法案の第三十五条、これはあなたもよく御存じだろうと思うのですが、現行法では「国庫は、」「予算の定めるところに従い、」「補助その他の必要な援助を行う。」ということになっておるわけで、これは国が必要なものは支出しなければならないという財政的な義務を相当大きく打ち出して参っておる。ところがこの第三十五条に対しまして、「予算の範囲内において」「経費の一部を補助することができる。」こういうふうに変えて参っております。こうなりますと、これは端的に言えるわけでありますが、国の公民館に対する財政支出の義務というものは大幅に後退して参っておる表現がここに現われて参っております。ところが反面、皆さんがこの法案に賛成されるゆえんの大きなものは、何とかして補助金をたくさん出してもらいたい、こういう気持が反映して、多少の不満はあるが大体これに賛成をしているのだ、こうおっしゃるわけですけれども、実際にあなたは公民館連絡協議会会長の仕事のほかに、どういう仕事をなすっていらっしゃるかわかりませんが、今日憲法でもって十分保障されている地方公共団体の交付税とか、あるいは起債、こういうものの実際上割当が行われる場合には、非常なすごい陳情が行われて参っておる。御承知の通り、おそらくこれは各都道府県、東京都は別ですが、東京都に出張所を持っていない府県は私はないと思います。こういうところに働いておられる役人の方々は一体どういうことをしておられるか、私もしょっちゅう言っておりますが、これはもちろんいろいろ本省との連絡事項もありますが、その中の相当大きな割合を占めておるのは補助金をくれとか、交付税をもっとたくさんやってくれ、特別交付税を出してくれとか、起債をもう少しふやしてくれ、こういうふうになって参りますと、勢いどうしても官僚に実権を握られてしまって、それではどうしてもこうしてくれとか、いろいろな、こういう結果になるわけです。そうなりますと、あなたの御希望というものは、果してこの条文でもってほんとうに目的が達成できるかどうかということはきわめて疑問だと思う。それはやってみなければわからないとおっしゃるかもわかりませんが、事実、予算を陳情した場合に、国はいつでも答弁をいたしますが、こういう委員会で、いつも金がないという政府委員の答弁が行われるわけです。金さえあれば何とかまた出したいのだということになると、どうしてもやはり予算が制限され、そのうちにこういう法案が通りますと、全国一挙にものすごい陳情が行われて参るということで、しかも自分の思うような、あなたの御希望に沿うような金はなかなかそう簡単にはもらえないのではないか、こういう気もするわけであります。話が長くなりましたが、あなたのお考えを一つ承わってみたいと思います。
  122. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 おっしゃるように、名前はうまくできた、実際は陳情に陳情を重ねて、しかも陳情を重ねてさていよいよいただく場合には、これはこうせいというような圧力が加わるということがありとすれば、これは私どもも大いに考えなければなりません。私はそうとは思っておりません。それはあり得ないと私は考えております。これが一つ。  いま一つは、さらにこれはちょうどいい機会ですから、たとえば地方交付税の問題でございます。これにおきましても需要額の算定基準が、大体人口十万といたしますか、これに対しまして約百七十六万何がしかが起債になっているはずであります。ところが実際の公民館において今出費しておるのは人口一人当り百円程度を目途としております。新潟県の場合は、人口一人当り八十四円ないし八十五円ぐらいかかっております。そうしますと、大体わずかに十万に対して百七十六万円になりますから、そこに大きな差がある。それから館にしましても、吏員三名に雇何名というごく少数の者しか上っておらない。一館当りの坪数は大体七十坪、人口十万で公民館一館なんということではどうにもなりません。こういうことこそ国会議員の方に御審査を願って、交付金がそういう部面にうんといただけるように御配慮を願うこととあわせて、私どもの希望を通していただいて御心配ないと思います。
  123. 小牧次生

    ○小牧委員 御陳情ですか、その御希望はよくわかると思うのですが、私が先ほど申し上げたのは、現行法は必要な援助を予算の定めるところによって行う、そうなっておるのが、今度は予算の範囲内で経費の一部を補助することができる、こうなって大きく後退しておっても、あなたはこれに納得されるわけですかどうですかということをお伺いしておるわけです。
  124. 丸山直一郎

    ○丸山参考人 そういうことは国家の財政に関係があると思います。名目でもって出すといったところで、もらっても何もこない場合が多い。今までだって補助金がもらえるはずだったのが、もらえません。おそらくそれを変えるということについては、今までよりも相当よけいに出そうという心がまえがあるだろうと思う。今まではそういうものは、方々を見て知っておりますが、実際はその金はもらえません。私は最近七百万円で公民館を作った。この補助は今までの法文によると二十万円である。おそらくこの法文を改正するという御意図をお持ちになる以上、国家財政とにらみ合せて、今度は予算の範囲内でもっと積極的にやってやろうという御意図があるだろうと私は信じまして申し上げるのです。
  125. 小牧次生

    ○小牧委員 もうあなたには御質問はいたしましませんが、もしあなたの信ぜられるような方向であるとすれば、文部省はおそらく従来通り予算の定めるところに従って必要な援助を行う。同時に図書館や博物館にもこれを行うというふうにするだろうと思う。ところがなかなかそういう意思がないので、こういうふうに後退したのだろうと私は考えておるわけですが、丸山参考人に対してはこれで質問を終りたいと思います。  次いで星野参考人にお伺いいたします。  先ほど来憲法第八十九条、それから社会教育法第十三条この関連性について、いろいろ他の同僚議員から参考人の御見解をお伺いいたしたわけであります、そこで私が非常に不明に思います点を端的にお伺いをいたしてみたいと思います。     〔発言する者あり〕
  126. 臼井莊一

    臼井委員長 御静粛に願います。
  127. 小牧次生

    ○小牧委員 ごたごたして参考人にははなはだ恐縮でざいますが、私がお伺いいたしたいのは、憲法八十九条におきましては公けの支配に属しない慈善とか博愛と書いて教育事業、こういう言葉を使っております。ところがこれを受けました社会教育法の第十条これは御承知の通り「この法律で「社会教育関係団体」とは、法人であると否とを問わず、公の支配に属しない団体」、こう書いてある。この憲法社会教育法の公けの支配というものの下に続く内容が表現が違っておる。一方は教育事業、一方は公けの支配に属しない団体、こういうふうに規定の仕方が若干違っております。ところがわれわれがこの委員会においていろいろ政府当局に質問をいたしました際に、特に法制局におきましては、そういう団体であってもそれらの行う中の教育事業というものを区別いたしております。そしてあるものには出しても差しつかえはないし、あるものには憲法八十九条のいう教育事業であるからいけないだろう、こういう広い解釈、狭い解釈ということがいろいろいわれておるわけでありますが、さらにそれを具体的に申し上げますと、教育事業そのものを区別いたしておるわけです。そこで私がお伺いいたしたいのは、まず第一に公けの支配に属しないということが最も基本的なものであるのか、あるいはその中で教育とは何かということが大事なのか、御見解をお伺いしたいと思います。
  128. 星野安三郎

    ○星野参考人 先ほどからたびたび申し上げていると思いますけれども、八十九条と十三条の立法趣旨はやはり十条と関係するわけでございますが、公の支配に属しない、それに重点があると思います。というのは、要するにそういう教育だとか慈善だとか、そういった美名に隠れて公費が乱費されるのを防ぐためだということが一番重要になっておりますから、従って公けの支配に属し得るならば出してもいいという含みが裏にあるわけです。ところがそうなると、先ほど言いましたように、社会教育法十条の定義と関係して社会教育関係団体としての実質を失う。従って説明がこんがらがったわけでありますが、重点は公けの支配に属しないというところにアクセントがあるので、団体とか教育事業というところにアクセントがあるのじゃない、こう思っているわけです。アクセントがないにしても、それの関係は、うらはらのような関係で切り離すことはできないということは先ほどから申し上げていると思っているわけです。
  129. 小牧次生

    ○小牧委員 実は私は井手参考人に相当お聞きしたいと思っていたわけでありますが、途中でお帰りになりましたので、星野先生にお伺いするわけですけれども、井手参考人は八十九条あるいはまた社会教育法第十二条があるので問題となっておる十三条はあってもなくても初めからかまわないんだ、こういう意見をここで述べられたわけです。これははなはだ私は重大な問題だと思うのですが、今公けの支配に属するか属しないかということが比重が一番高いのであるということであるとするならば、私もそうだと思うのですが、そうであるとするならば、第十三条はことさら何も社会教育団体に対しということの上に、公けの支配に属しない社会教育団体に対しということを二度書く必要はないわけであって、やはり当然そのまま第十条の規定を受けて第十三条に社会教育団体という言葉が設けられたものだと思うわけですが、星野参考人はどういうお考えでありますか。
  130. 星野安三郎

    ○星野参考人 先ほども申し上げました通り、十二条と十三条と十条の関係は、十条の定義として「「社会教育関係団体」とは、法人であると否とを問わず、公の支配に属しない団体」である、これを十二条と十三条が保障するための規定だ。十二条が国または地方公共団体支配干渉してはならぬという義務規定、また十三条はその財政的な援助を通じて支配することを禁止した規定だ、言いかえれば第十条の公けの支配に属しない社会教育関係団体そのものを保障する規定だ、こう思っているわけです。と申しますのは、やはり先ほどの寺中さんの解説の中で、第十二条の立法理由があるわけでありますが、普通に考えられる団体支配の方法として、第三のところで、「補助金その他の名目で財政的援助を与え、援助に伴う義務を強制すること。」こういう規定があるわけです。従って十二条と十三条は、その意味において内的な密接な関係を持っていると思うわけです。公けの支配の方法あるいは団体支配の方法として補助金その他の名目で財政的援助を与え、援助に伴う義務を強制すること、こういうことをしてはならぬということが十二条の法理だ。そして十三条でその補助金支出を禁止しているという関係になっているわけです。あくまでもここで重要なのは、おっしゃる通り公けの支配に属しないというところだと思います。
  131. 小牧次生

    ○小牧委員 先ほどの井手参考人の御意見を星野参考人もお聞きだったろうと思うのです。その中で第十三条があってもなくてもいいと言われる理由の中に、いろいろ疑問な点があったと思います。御本人がおられないのでまことにどうもなんですが、あなたの御意見も承わってみたいと思うのです。私学には公けの支配があるとして、これには助成が行われておる、こういうことも言われた。ところが社会教育関係には公けの支配がない、これを公けの支配があるとして助成するということについてはいろいろ問題があろうという意見を述べておられた。同時にまた補助を与えてもいいとする事業としていろいろ具体的にあげられた。ここで同時にその際に、人対人の場合にはいろいろな心理的な圧迫とかあるいはまた法権力の影響とか、あるいはまた教育思想というものが押えられる、そういう事情があって、客観的にはこれは非常にいろいろ問題があろうと思うというようなことを言われたと私は思う。そこでこれに関連いたしまして私がお伺いいたしたいのは星野参考人は御存じかどうかわかりませんが、実は文部省が憲法第八十九条にいう教育事業について法制局意見を求めております。その文部省が法制局意見を求めた中に「社会教育活動の普及、向上又は奨励のためにする社会教育関係団体若しくは一般人に対する援助若しくは助言又は社会教育関係団体間の連絡調整」それからもう一つは「機関誌の発行若しくは資料の作成配布の方法による社会教育に関する宣伝啓発の活動又は社会教育に関し相談に応ずる事業」このほかにもたくさんの意見を聞いておりますが、私は特にその中からこの二つ問題点を取り上げてお伺いをしたいと思うのでありますが、これに対しまして法制局といたしましては、教育事業とは一体どういうものかという定義をいたしまして、そうして今お伺いしたいと思うこの二つの問題については「もともと人を教える行為の介在を欠き、あるいは、その行為の介在はあっても、教育される者についてその精神的又は肉体的な育成を図るべき目標及びその計画的な達成という要件を欠いているが故に、社会教育関係団体によって行われる場合であっても、いずれも、教育事業に該当しないものと解してよいであろう。」こういう回答を法制局の方が文部省にいたしておるわけであります。ところが今私が申し上げた問題点が、先ほども井手参考人も申されましたが、果して人対人関係でないのかどうか、あるいはまたここに法制局がるる述べておる「精神的又は肉体的な育成をはかるべき目標」があって計画的達成をはかるものでないのかどうか、これは私は非常に疑問だと思うのです。そうでないとして法制局は、そういうものはいわゆる憲法八十九条に言う教育事業に該当しないであろう。こういう解釈を下し、同時にまたそれを受けて政府、文部省の方々も同じような答弁をしておられるのでありますが、星野参考人はどういうお考えでありましょうか、お伺いいたしたいと思います。
  132. 星野安三郎

    ○星野参考人 これも先ほど申し上げたと思いますけれども、社会教育の中心は自主的な相互的な教育ということでありますから、むしろ今おっしゃった法制局教育事業に該当しないということが社会教育の中心になるだろう。いわばインフォーマルな教育、講義を聞くというようなフォーマルな教育ではなくて、そういうところが社会教育の中心になるだろう。そういうものをはずしてしまうと社会教育は何が残るかという点で私おかしな解釈だと思っております。それと同時に少くとも社会教育法の対象になる教育というからには、憲法教育基本法に規定せられた人間育成というものをやはり目ざしておるわけで、その点から現象的には必ずしもはっきりしたつながりがないように見えても、それにはそういった憲法教育基本法が目ざす人間育成という面において、自主的で民主的で平和を愛する、真実を愛する人間育成、それについてはやはり計画的にやっているだろう。全く無鉄砲にそういう思いつきでやるというようなことはないだろうと私は思っておるわけであります。そういう点からちょっとおかしな解釈だと思っております。
  133. 臼井莊一

    臼井委員長 ほかにありませんか。——以上をもちまして、参考人よりの意見の聴取は終りました。  参考人各位には長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。各位の御意見本案審査の上に多大の参考となることと存じます。  これより政府委員に対する質疑を許します。長谷川保君。     〔「休憩しろ」、「議事続行」、「理事会を開け」と呼び、その他発言する者多く、離席する者あり〕
  134. 臼井莊一

    臼井委員長 ちょっと速記をとめて下さい。     〔速記中止〕
  135. 臼井莊一

    臼井委員長 では速記を始めて下さい。それでは社会党の質問は留保して、竹下登君の質問を許します。竹下登君。
  136. 竹下登

    ○竹下委員 逐条質問につきまして、わが党の八木委員が質問いたしました問題をおきまして、その他の問題について質疑を行いたいと思います。  十三条のいわゆるこれが違憲であるかどうかという問題につきましては、法制局のお答えをもって是認するという認定の上に立って私は質問を行いたいと思います。いわゆるこの十三条の問題で一番各種団体が懸念するのは、官僚統制と申しましょうか、国の権力に対する屈従とかいう問題が起きることを最も懸念するだろうと思います。ただ、この問題につきまして、そういうことを懸念しながらも、従来、共催というような形とかあるいは事業委託の問題において補助金支出せられておる。しかしこの共催のような場合においては、教育委員会なら教育委員会とその団体とが協議して行う、その場合に、こちらの意見を聞かなければ共催にするわけにはいかないという事態が起って、かえって官僚支配と申しますか、そうしたものへの傾向が強いのであって、一定のカリキュラムでもありませんが、一定事業に対して、自主性を尊重して補助金の形において流すということが、初めから官僚支配を起すことの可能性がより少い、そういう認定の上に私は経験上立っておりますが、これについての考え方文部大臣から伺いたい。
  137. 橋本龍伍

    ○橋本国務大臣 十三条の削除の問題はただいま仰せの通りでございまして、現在までの間でも、青年会、婦人会などで活動いたしまする際にはやはり非常に苦心をいたしておるのであります。ただいまお話のございましたように、ぜひ金が要るというのでめんどうを見るときには、共催のような形をとらなければ——共催ということになれば、これは青年会だけならば自由にやらせたい問題について、教育委員会の看板を上げるとやはり官製講習会のような形をとらざるを得ぬといったようなことがございまして、これは干渉というよりもむしろ当然性質が変ってくるわけでございます。なおまたそれでも共催のような形をとって苦心をしてやっておるわけであります。別に寄付などを集めますと、これはまたかえっていろいろな団体のひも等がつきやすいのでございまして、そういう観点から申しますならば、国、地方公共団体において補助金を出します際には、あくまでも十二条の精神にのっとり、また第一条の精神にのっとって支出をいたしますので、この十三条を削除いたしまして、国、地方公共団体の手において資金的援助をいたすということが、一番中正的な社会教育活動というものを活発にすることのできるゆえんであるということを信じた次第でございます。
  138. 臼井莊一

    臼井委員長 本会議の予告のベルが鳴りましたので、竹下君の質問は留保いたしまして、本会議散会後再開することとし、休憩いたします。     午後五時五十五分休憩      ————◇—————     午後七時五十八分開議
  139. 臼井莊一

    臼井委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  質疑を続行いたします。竹下登君。
  140. 竹下登

    ○竹下委員 先ほど大臣から、不自然な形で、共催とかあるいは委託事業とかいう形において公金支出せられておる場合に、むしろトラブルがよく起るのであって、社会教育団体教育委員会とのトラブルが起っているのは、そうした共催の場合に多く、と申しますか、そのほとんどが共催の場合にのみそうしたトラブルが起っておるのが現実の事実でございます。そこで、そういうことをなくするためにも、ここに補助金を出すことができるような形にするということでございますので、いわば社会教育関係団体の一部の方たちの中において、あるいは学者の方たちの中において、政府の官僚統制とかあるいは国の権力の支配とかというものへのおそれということは、これによってかえってなくし得るものであるという、私も考え方を持つものでございます。ただここにおきまして、さればこの問題について、それではいかなる事業に対してそうした補助金が出されるかということになりますと、これはその事業自体を一つ一つ教育委員会において吟味をいたし過ぎますと、またそこに官僚支配であるとか国家権力であるとかいう問題が惹起しがちでありますが、これについての考え方を承わりたい。これは社会教育局長に。
  141. 福田繁

    ○福田政府委員 ただいまの御質問でございますが、補助金を出す場合に、やはりこれは税金をもって補助金を出すわけでありますから、その団体の事業というものがその団体の目的、性格に照らして適切なる事業であるかどうかということ、それからまたその事業そのものが公共の福祉にかなうものかどうか、こういうような観点からこれは補助金を出す側においてある程度判断をする必要があると思うのです。しかしながらおっしゃるように個々の事業の一々のこまかい内容についてまで補助金について審査をするというようなやり方は従来とってないと思います。従って補助金を出した場合におきましても、その補助金の対象になった事業そのものが適切にあるいは的確に遂行されるということが期待され得るならば、これは大体補助金を出した目的を達するのでありますから、おっしゃるように大体そういった趣旨の観点から事業についての見方というものはあると思いますから、あまりこまかいような点についてかれこれいうのは適当ではないと思っております。
  142. 竹下登

    ○竹下委員 適切なお答えをいただきましたが、ただ例の参議院における修正の点につきまして、審議会あるいは地方公共団体にあっては、社会教育委員会意見を聞くということについて、私はそういうものが社会教育委員会なり審議会なりというものの意見を聞くということになったがゆえに、ますますもってこの官僚支配とか権力支配とかいう点が薄らぐのではなかろうかという私の考え方でございますが、この修正された分につきましての局長の御意見を承わりたいと思います。
  143. 福田繁

    ○福田政府委員 御質問のように、これはもともと補助金でありますので、その補助金の適正な執行というその責任は、国の場合でありますれば、文部大臣、都道府県の場合は都道府県の教育委員会、あるいは市町村でありますと市町村の教育委員会、そういった執行機関がその適切な責任を持っているわけでございます。従って必ずしもそういった委員会なりにかけなければならないということは考えられませんが、しかしながらいろいろ補助金の交付の場合におきまして、その補助金の交付の方針なりあるいはいろいろ補助金に関連した具体的な問題について、あらゆる審議会あるいは地方の社会教育委員会議に付して皆さんの御意見を伺った上で、さらに理事者として責任を持ってこれを遂行するという建前をとりますならば、なお適切な遂行ができるという観点から申しますと、その修正も非常に意味があるように考えるわけであります。従って法律的に申しますと、必ずしも理事者あるいはその補助金についての執行の責任者たる人が責任が軽くなるということは考えられませんが、事実上においては非常にそこに技術的な運営が行われるということにおいて意味があるのではないか、こういうふうに考えております。
  144. 臼井莊一

    臼井委員長 なお竹下委員に申し上げますが、大臣は参議院の本会議がございますので、中座をいたさなければなりませんけれども、もし大臣に御質問がある場合には先に大臣に御質問を願いたいと存じます。
  145. 竹下登

    ○竹下委員 大臣にはいわゆる補助金文出の基本的な問題についてすでにお尋ねをいたしましたので、次の会場へいらしても私は一向けっこうでございます。何か他の方で大臣にございましたらこの際どうぞ……。
  146. 木村守江

    木村(守)委員 先ほど参考人意見を聞いておったのですが、参考人意見を聞いておりますと、いわゆる共催の形で自治体の金を出すということは好ましい姿であって、補助金の姿で出すことになるから、すなわち教育を一方的に方向づけることになる、こういうような話がありましたが、私はこのことは非常に間違いだろうと思うのです。共催であるときに、その共催をしようとする金を出す団体というのは、その社会教育の面においてどういうことをするか、またどういうような方向で進むかということを検討して補助金を出す。いわゆる共催になるのだと思うのでありまして、共催こそ私はその行事を方向づけるものだと解釈してもいいじゃないかと思うのですが、ところが共催は好ましい姿なんだが、補助金支出することは好ましくないというのですが、こういう点は非常に逆な考え方で、共催こそほんとうに運動を方向づけるものだと考えるのですが、これに対して大臣はどういうようなお考えをお持ちですか。
  147. 橋本龍伍

    ○橋本国務大臣 本来共催ということと、青年団なり婦人会なりが単独で仕事をやるのに対して補助金を出すというのとでは、どちらがいい悪いというより、問題の性質が本来私は違うのだと思うのでありまして、参議院の御審議の過程でも具体的な事例をあげてお話がありましたが、共催の場合において教育委員会が何か意見がましいことをいった、青年団の好きなようにすればいいのに、これは干渉ではないかというような御意見がありましたが、これは非常におかしいので、共催というからには、青年団なら青年団がやるときには、むやみな干渉はすべきではありませんし、する気もないのでありますが、教育委員会がたとい共催の形であっても、主催者としてやるということになれば、教育委員会がどうもあんな羽目をはずしちゃいかぬじゃないかというようなことになって、どうしてもやはり固いプログラムにならざるを得ない、これは何も干渉するということでなしに、共催という形における教育委員会自体の仕事でありますから、これは当然共催する青年団なり婦人会なりの仕事でもあるわけですが、両者の意向の合致する範囲内においてしか仕事はできないということになるのであって、これは本来的に青年団なり婦人会なりの仕事をやる場合の形として、共催の形と補助金をもらう形とあるわけじゃないので、話が違うと思うのであります。従いまして共催は共催でけっこうな場合もあるかもしれませんけれども、それはあくまでも両者の主催というもので意向の合致する範囲内においてのみ共催ということが行われるのであります。ところが別途社会教育活動としては、青年団としても婦人会としても、広い範囲でやっていただくことがあるのであります。それにつきましてはやはり青年団なり婦人会なりが単独で主催して自分の責任において仕事をするということでありまして、その際にもし経費が足りなかったらどうするかということになれば、これはやはり補助金を得るか、しからずんば自前で出すか、寄付金を集めるかということになるわけでありますが、こうしたことを考えてみまするのに、自前で十分出せればいいですけれども、これはどうにも金が出ないというのが現実でございますし、寄付金を集めるということになりますれば、これはどうしても出す団体なり個人なりでは注文があります。当然ひもがついたり色がついたりするわけです。従いまして、できるだけ自主的な青年団なり婦人会なりの活動を助成するためには国なり公共団体なりが補助金を出すというのが一番間違いのない正しい方向だと考えております。これに関しまして、よくないことになるといったようなことを考えておられますが、これは非常におかしいのでありまして、現在一般の民間団体なり個人なりがやる場合にはひもをつけほうだいでありますが、国なり公共団体なりが支出をいたします場合には、社会教育法の第一条に「教育基本法精神に則り、」という規定がございますし、これをかみ分けて十二条には具体的に不当な支配をしちやならぬということになっておりますので、そうしたはっきりした法律ワクの中で国も地方公共団体補助金を出すわけです。これが一番色のつかない、自主的な活動にふさわしい活動資金に相なるわけでございまして、共催をいたしまする場合には、活動に制限がされます。自由な自主的な活動範囲を広げるためには、どうしても補助金を出すというのが一番正しい方向だと考えておる次第であります。
  148. 竹下登

    ○竹下委員 大臣の御意見は私どもの考えておることと同意見でございます。ただ、念のためにつけ加えますならば、従来共催の形において、なかんずく地方公共団体において支出された公金というものは、まま社会教育団体一つ事業をなさんと考えて、金に困って、出せないかといって交渉をすると、それは社会教育法十三条の規定により出せない、それならば共催にしてくれぬか、そういう姿において共催というものの何ぼかのものが現実に生まれてきておるということは、まことに残念なことであったわけでありますが、そうしたこともこのたびの改正案によりまして取り除かれたことになりますので、それで私はけっこうだと思っております。大臣、次の会議があればどうぞ……。  次に、一応逐条審議と申しますか、やってみたいと思います。公民館の問題でありますが、公民館の設置運営基準というものを設けるということが改正一つの点でございます。     〔委員長退席、木村(守)委員長代理着席〕  この設置運営基準なるものを設けたといたしましても、現実公民館というものが青空公民館であったりあるいは看板公民館であったりしておる。現に町村合併等によりましてたくさん役場が要らなくなる、支所とか出張所とか連絡所とかもだんだん要らなくなる、そういう方向に向けて自治庁等の指導もあり、そうしたあり方からいわゆる公民館社会教育一つの場として提供されるような傾向をたどっておる。いずれにしても、設置運営基準ができるならば、その基準に合致したものを作るようにこれから指導していただかなくてはならないことになるわけであります。これについては、何といたしましても大きな国費の支出が裏づけになっていく。しかしながら、文部省におきましても、すし詰め教室の解消であるとか、社会教育の段階に至るまで義務教育の段階でまだまだ多くの予算を使わなければならないという事態であることは、これまた率直に認めなければなりませんが、これに対する意気込みを一つ承わりたい。
  149. 福田繁

    ○福田政府委員 おっしゃるように、従来公民館の施設、設備は非常に貧弱でございまして、全国に約八千、本館と称するものがありますけれども、独立施設を持っているものは非常に少ないというような現状でございます。また、公民館の分館と称するものが約二万五、六千もありますけれども、これに至ってははるかにまだ施設、設備が貧弱だ、専任の職員等においてはほとんどいないというような現況でございます。従って、この公民館が発足いたしましてから十三年になるわけでありますが、今後公民館がそれぞれ市町村におきます社会教育の中心的な機関としてその機能を十分発揮するにはなかなかほど遠いものがございます。従って、今回の法律改正によりまして、公民館の健全なる発展をはかるために公民館の設置及び運営上必要な基準をきめられるように新しい規定を挿入したのでございます。この設置及び運営上の基準でございますが、これはいろいろ疑問があると存じますが、私どもの考え方といたしましては、全国の公民館実情を勘案しながら施設、設備あるいは専任職員等につきます最低基準と申しますか、最低限の基準を一応きめまして、さらにそれ以上にまた地方の府県において大いに力を入れて公民館を充実しようというところがあれば非常にけっこうでありますが、しかしながら、一応国としては最低基準を設けまして、施設あるいは設備あるいは専任職員の充実についても今後国も大いに力を入れなければならぬし、また都道府県も公民館の充実振興に力を入れるようにしよう、こういうような趣旨でございます。設置者であります市町村はもちろんそれに一生懸命にならなければなりませんが、そういった趣旨であります。しからばこの設置運営に要する最低基準に大体どれくらいかかるであろうかというようなことを、私ども一応事務的に考えたのでありますが、概算でありますけれども、相当大きな金額を必要とするようであります。一応の概算でございますので、そのつもりでお聞きいただきたいと思います。ただいまどういう意気込みだとおっしゃいますので、それにお答えする意味において申し上げたいと存じますが、施設の面におきましては、現在未設置の町村も相当ございます。また、設置されておる町村でありましても、それが独立の施設を持っていないというような状態でございますので、そういった点から未設置のところをさらに何カ年の計画で設置する、あるいは独立の館を持っていないところにつきましては、最低限の独立の施設を作っていく、こういうような考え方でいたしますと、現在の状態でざっと計算いたしますと、事業費総額は約三十億くらいになると存じております。また、設備にいたしましても、現状は品目も非常に少うございますし、また、いろいろ充実しなければならない品目もだんだんふえて参ります。しかしながら、私どもが従来取り上げておりますような、たとえば映写機、幻灯機、テレビ、録音機あるいは体育、レクリエーション関係の用具だとか、あるいは家庭科関係の学習に必要な用具だとか、あるいは必要な産業教育関係の用具だとか、そういった式のものをざっと計算いたしますと、これも事業費総額におきまして今後最低基準に達するには約十八億くらいかかる、こういうような計算になるのであります。さらに職員でございますが、これはいろいろ計算の仕方はありますが、少くとも独立の館につきましては館長一人、それから主事一人というような計算をして参りますと、全体の経費といたしましては約十六億以上必要になって参ります。従って、これを全体を合せますと、施設、設備、職員の必要な経費といたしましては、約六十数億を必要とするというようなことになります。この六十四、五億の経費でもって十分かと申しますと、必ずしも十分ではございませんが、私どもは最低の施設、設備あるいは職員を置く経費といたしまして、それくらいのことは、この設置基準のきめ方によりまして、将来それを至急に充実していきたい、こういうような考え方をいたしておるわけであります。これはざっとした計算でございますので、そういった程度にお聞きをいただきたいと思います。
  150. 竹下登

    ○竹下委員 お気持のほどを伺ったわけでありますが、私はこの建物の設置基準というものについては、やはりこれは厳然たる基準の必要があるかと思いますけれども、内容、設備に至りますならば、産業教育振興法とか、そういう問題における基準というようなものとはうんと違ってきて、何と申しますか、非常にローカル・カラーが出てくるのじゃなかろうか、これがまた地域社会社会教育団体の活動の場としては必然的にそうなるべきであり、またそれが好ましい姿ではないかというふうに考えておりますので、これについては、そういう場を提供することによって逐次社会教育団体の自主性が芽ばえるならば、いろいろな形でローカル・カラーを持つ内容のものが整備されていくのではなかろうかというふうな考え方でありますので、とりあえず設置基準の大きな問題といたしましては、建物ずばりの問題ではなかろうかと考えます。これについては、これは私の希望でありますが、政務次官もいらっしゃいますが、少くとも五カ年計画とかいうような一つの計画に乗って、これの設置というものを今後進めるべく努力いたしていただきたいというふうに考えております。  なお、ここに問題となります一つの点に、青年の家というものが昨年からでありますか、非常な拍手をもって迎えられておる一つ政府の施策でありますが、青年の家というものも、ところと場合によりましては、なかんずく文部省のおとりになる青年の家においては、これは公民館との兼用ということもあり得る姿であろうと思いますので、それについては青年の家の建設に当りましても、公民館と設置基準等が合致するような一つの方法というものを考えておられるかどうかということを伺いたいと思います。
  151. 福田繁

    ○福田政府委員 公民館の設置基準と青年の家の設置基準が大体同じような考え方かどうかというような御質問のようでございましたが、これはやはり青年の家の目的なりあるいは公民館の機能から申しまして、私は若干違う点があるのではないかと考えております。と申しますのは、公民館自体は、これは市町村あるいは場合によりましては部落というような小さな地域社会における社会教育をやる機関として、いろいろな地域社会要求に合致するような施設というものを備えてなければならない。従って、たとえば一例を申し上げまするならば、大きな集会室というようなものよりも、小さな小部屋の集会室の方がほしい、あるいは映写設備を持つにいたしましても、必ずしも十六ミリでなくて八ミリでもいい。こういうような関係からいたしますれば、いろいろそういう集会だとか、あるいは研究だとか、あるいはまたいろいろ産業教育をいたしますにも少人数でやれるというような設備が必要ではないかと考えておりますので、私どもの基準の設け方としては、会議に必要な施設、あるいは集会、実習、研究、あるいはまた場合によりましては必要な研修を行うためとか、そういった幾つかの機能をあわせ備えるような公民館というものを一応公民館の基準として考えて参りたいと考えております。一方、青年の家におきましては、これはそれとはちょっと違いまして、あるいはもう少し広域の地域社会におきまして、あるいは学生でありますとか、あるいは一般の勤労青年というものが集団的にそこに参りまして宿泊したり、あるいはレクリエーション、体育関係のいろいろ行事をやる、そういう場合もございます。また一方、産業教育あるいは職業教育といったような面でこれを利用する場合もございますが、いずれにいたしましても、そういった青年の宿泊あるいは相当多数の人の利用ということを考えますと、地域社会あるいは部落などの公民館等とはかなり趣きを異にいたしますので、そういった点ではかなり違ってくるのではないか、こういうように考えております。従って、もし青年の家等におきまして、やはり大きな大都市の公民館の備えておりますような機能を持つ場合は、これは一緒になるかもわかりませんが、一応別々に考えていきたいというように考えておるわけでございます。
  152. 竹下登

    ○竹下委員 基本的な考え方としては、ただいまの答弁で了承できると思います。ただ最後に申されましたところの、いわゆる大都市であるとかあるいは中都市にいたしましても、青年の家がたまたま中央公民館的な役割を果すような場合において困らないように、青年の家自体の建設の指導についても、そういうことを考えるような行政指導と申しますか、そういうことをなされた方がよくはなかろうかという気持から申し上げたのでございます。  それでは次に移りまして、社会教育委員の青少年教育に関して特定事項についての指導助言の問題でございます。これにつきましては、私はかねて社会教育委員もやっておりましたが、都道府県の段階においても、事実社会教育主事の能力の限度と申しますか、人員とか能力の限度におきましては、一つ講習会等のプログラムを作成するということ、あるいはそれらの講習会一つのチェアマンのような役目をするのが、人員とか能力においては限度じゃなかろうかという感じを持っておったのであります。そこでどうしても、講習会等を行う場合の講師とかあるいは補助講師とかいうようなことに対しては、社会教育委員にたまたま任命されておる方々をこれに活用するということは私は非常にいいことだと考えておりましたが、その場合はもとより、経費の点においても、社会教育委員の活動費等からこれを支出することができるような体系になると思いますので、今度の改正案については、その点、特に市町村におきましては、社会教育指導主事の能力なり、あるいは人員なりの限界というものは知れたものでありますので、県段階においても、このことは必要であると私は考えますが、これについてのお考えを一つ……。
  153. 福田繁

    ○福田政府委員 おっしゃるように、この社会教育委員の職務でありますが、従来は、これは都道府県あるいは市町村におきましても、教育委員会の助言的な機関として置かれたわけでございます。ところで今度の改正は、今おっしゃいましたように、特に市町村におきましては、社会教育を担当する職員が、市町村の教育委員会にほとんどいないと言ってもいい状態でございますので、そういうふうに青少年教育などの指導面において十分手足がないというような観点から、適任者にこの青少年教育についての指導、助言をしていただこう、こういうような趣旨でございます。従って一面から考えますと、そういった点については都道府県の教育委員会におきましても、やはりこの社会教育委員というような方々でもってそういうふうに指導をしていただく必要があるかと存じますけれども、一応都道府県の教育委員会におきましては、市町村の教育委員会よりも、何と申しましても社会教育主事だとか、そういった専任職員がはるかに充実いたしておりますので、従ってそういった専任の職員によってできるだけそういった面は指導していく方が適切ではないか、こういうような考え方と、もう一つは、市町村のような場合におきますと、地域が非常に狭い関係上、この地域社会における人と人との関係が地縁的な関係からいたしまして、府県のような広い社会ではございませんので、非常に親密だ。こういうような点から青少年教育について申し上げるならば、やはりそういう狭い範囲における場合は、人と人との関係が非常にうまくいっておる、こういうような考え方から、この市町村の社会教育委員に一応限定してこういう改正をいたしたのでありますが、おっしゃるように、都道府県の教育委員会におきましても、必要な場合はそういった社会教育委員にお願いするというようなことも必要だと思います。しかしながら、さしあたり都道府県の教育委員会の方はかなり人手が充実しているということを申し上げておきたいと思います。
  154. 竹下登

    ○竹下委員 ただいまのお答えでございますが、市町村段階においては地域が狭いから、なかんずくそういう方々が出て指導助言をすることは、そうした社会教育団体の運営等があるいはスムーズにいく場合を私もよく了知しておるところでありますけれども、都道府県の段階におきましても、たまたま青年団の講習会なり、あるいは婦人会の講習会をやるという場合に、その主催者たる団長とかあるいは会長とか、副団長でも理事でもけっこうでございますが、そういうものがことごとくそういう講習会等に参加いたしますと、私の経験でも、大体一年のうち二百日くらい団長というものは出歩かなければいけないような形になるわけであります。それはいろいろ分担してやるにいたしましても、そういう場合にも現実サービスの精神でそれらの指導者は行うわけでありますが、社会教育委員はおよそそういう団体等から推薦を受けた方々が任命されておりますので、社会教育委員資格において指導助言等に出かけるならば、いろいろ旅費の問題とか、そういうような問題も非常に助かるのじゃなかろうか。ただ余裕のある者か、あるいはそういう社会教育団体の気違いといわれるような者でなくては、そういう指導者は勤まらないという形から、だれもがリーダーになれるという形にするのも一つの方法ではなかろうかというのが私の考えでございます。     〔木村(武)委員長代理退席、委員長着席〕  それでは最後に、社会教育団体についてのものの考え方でありますが、社会教育団体というものは、何としても実質的にみずからの拠出する会費とか団費とか、そうしたもので運営していくということが理想的であり、最も好ましいことである。しかしながら現実そういう形で運営できるものは、少しく高度なグループの集まりであるとか、あるいは特殊なインタレスト・グループの運営であるとかいうものは、そういう形において行われておりますけれども、私自身が一日にたばこを二本ずつ節約してそれだけを会費に納めるという運動を展開して、一向に効果を上げなかったことがありますけれども、社会教育団体の、なかんずく網羅的、羅列的といわれるところの地域青年団、地域婦人会というものは、そういう団費なり会費なりを納めるところの意識を持つ以前の段階であるという、まことに残念ながらそういう認定も場合によってはしなければならない、こういうものに対する考え方といたしましては、補助金というものが一つの誘い水的なものになる、意識のペースに乗っけるまでの誘い水ということが非常に重要なことであると私は考えておりますので、補助金支出等においてはそういう考え方でもって——これを基本的な考え方というと非常に変でありますけれども、そういう考え方をもって支出がなされるような指導というものをなされたいという希望を申し上げまして、私の質疑を終ります。
  155. 永山忠則

    ○永山委員 ちょっと議事進行に関して。大体これまで相当質問が続けられてきておるのでございますが、どのくらいぐらいの質問をこれまでやってきておるのでございますか。
  156. 臼井莊一

    臼井委員長 永山君の御質問にお答えいたします。本法案の質問の通計時間は、社会党が五時間二十二分、自民党の諸君の質問時間が合計四時間十分、合計で九時間三十二分になっております。このほかに、本日参考人の陳述が合計一時間三十四分、こういうことになっております。
  157. 永山忠則

    ○永山委員 参議院と比較して、どういうような情勢でございますか。
  158. 臼井莊一

    臼井委員長 参議院の時間は、まだ私の手元に不明でございますので、明日御報告申し上げることにいたしたいと思います。
  159. 永山忠則

    ○永山委員 参議院よりは衆議院の方がはるかに多く質問をいたしておると考えておるのでございます。委員長にさらに質問するのでございますが、大体質疑は一応全般にわたって進められたように考えるのでございますが、まあ一つ憲法の問題、十三条の関係がきょうの参考人意見等を見まして、了承されたようには思っておりますが、なお最後的に大臣と法制局長官の御出席をいただいて、そこで議事を進めることが残された問題ではないか、こういうように考えておるのであります。文部大臣とそれから法制局長官の御出席はただいまお願いできるのでございますか、どうですか、お伺いいたします。
  160. 臼井莊一

    臼井委員長 お答えいたします。文部大臣は、ただいま参議院の予算の本会議が開かれておりまするので、こちらへの出席はそれの済むまで不可能かと思います。なお法制局長官は待機いたしておりますから、もし御希望であれば、出席はできると存じます。
  161. 永山忠則

    ○永山委員 法制局意見も聞きましたし、大臣の意見も一応聞いておりますが、やはり最後的には同時に御出席をいただいて、質問を続けたいと、こういうように考えておりますので、私は一応質問を留保いたします。
  162. 臼井莊一

    臼井委員長 なお念のために申し上げますが、質疑はただいまの竹下君の質問時間三十六分を加えまして、総計十時間八分となります。なお私の承知しておる範囲内では、参議院の質疑時間の方がこれより少いかと存じております。
  163. 鈴木正吾

    ○鈴木(正)委員 参考人に対する質問の時間は加わっていないわけだな。
  164. 臼井莊一

    臼井委員長 参考人に対する質問の時間は入っております。
  165. 鈴木正吾

    ○鈴木(正)委員 一時間十何分というだけだろう
  166. 臼井莊一

    臼井委員長 それは参考人の陳述の時間であります。  ちょっと速記をとめて下さい。     〔速記中止〕
  167. 臼井莊一

    臼井委員長 速記を始めて下さい。  なお修正案に対して、参議院の文教委員会理事の方の御出席の要望がありましたが、これもただいま申し上げましたように、予算の本会議が開かれておりまするので、ちょっと困難かと存じます。  そこで、本日はだいぶんおそくなりましたので、この程度といたし、明日は午前正十時より開会いたします。  これにて散会いたします。     午後八時四十七分散会