○堀
委員 大臣のお
考えは大へんけっこうだと思いますので、
一つそのようにお
考え願いたいと思います。
基本的な問題でもう
二つばかりやらせていただきたいと思いますが、その
一つは、当面非常に問題になっております入学試験の問題であります。実は現在の日本の
教育というものが、入学試験のために私は非常にゆがめられてきつつある、こういうふうに感じておるわけであります。皆さんの方の
資料を拝見しますと、
中学校から
高等学校への進学者は五三・七%、これが中学から
高等学校への進学者ということになっている。約半分の者が進学するということは、イコール半分のものはそのまま社会に出るということであります。その次に今度は
高等学校から大学へ進学する人の状態は一六・五%が進学で、五六・九%が就職だ、だいぶ間の残っているのはどういうことか、ちょっとこの
資料だけではわからないわけでございますが、しかし少くともここでも進学者というものは一六・五%だということになっております。しかしそういうふうに
中学校から
高等学校へは半分、
高等学校から大学へは一六・五%、こういう人たちがあるために、いわゆる普通
教育というものがどうしてもゆがめられる傾向が起きつつあるのではないか、そのもとはやはり大学の受験という問題に関連してくると私は思うのです。そこでこの中でちょっと関連があることで気がつきましたのは、国立の
中学校は九七・九%進学をするということになるわけです。それから私立の
中学校は九六・八%、私立の
中学校というのは今は大体
高等学校なり大学へ入れるためにある
学校ですから、ここで進学者が九六・八%は問題がない。ところが国立の
中学校というのは、これは
教育大学に付属をしておる
中学校だと私は
考えるのです。国立大学には
教育学部といいますか、そういうところに付属をしておる
中学校の生徒の九七・九%は進学者なんだ。そうするとこの
中学校は何のために置かれておるかというと、そこの教員を養成するための
一つの練習機関といいますか、また訓練機関として置かれておる
小学校、
中学校、その中の九十何%というものはみな進学をする連中ばかりで、そういう少くとも選ばれた
児童を相手に
教育大学ではここで教員の訓練なりそれからスタイルなりが訓練をされる。そうして一般に出てきたら今度は五〇%が進学、五〇%は社会に出るということ、おまけにそういう選ばれた者でなくて、加藤先生もおっしゃった非常におくれた人たちがたくさんおる
教育現場へ行ってやるということになる、こういう
実情が、この関連で私がちょっと
資料を見て出てきたのです。これでは
教育大学に何のために付属中学が置かれているかという観点からして、要するに義務
教育の
一つの普通
教育としてのあり方という問題から見ると、私は非常におかしな状態じゃないかと思う。少くとも国立大学の
教育学部にある付属中学も、これは半分は就職をするような人たちが入り、
あとの半分は進学をするような人たちが入る、少くともそれは一般にある公立小
中学校のモデルであるようなところで訓練をするのでなければ、
教育大学としての使命、置かれておる問題について矛盾が生じるのではないか。ところが実際に見ておると、私のところの兵庫県の
教育大学の付属
中学校では入学試験がある。そうして私の子供を一ぺん受けさせようと思って話を聞くと、とても成績のいい者ばかりでなかなかむずかしいです、こういう話なんです。だから私はそうか、それはだめだからやめようということだったのですが、入学試験をやって粒よりのいい者を上からよって、それを入れて、そうしてこれを土台にしていろいろと
教育課程の練習をした先生が出てくる。こういう
実情を見るとはなはだおかしいのではないか。これは今の大学の入学試験等に関連するのですが、大学の入学試験のために現在は三年浪人しておる者、四年浪人しておる者、二年、一年と浪人が主体で、東大なんというのはなかなかいきなりじゃ入れないというような話を聞いておるわけです。予備校の入学試験すらもなかなかむずかしいのだというような
実情になっておる。これについて何とかしなければ日本の
教育というものはどうしてもゆがんでくる。こういうふうに私は強く感じておるわけです。ということは、試験勉強を四年もやっておる
人間などというものは、試験勉強のためにはなるほどエキスパートになるかもしれないけれ
ども、
人間として果して役に立つ
人間になるかどうかということについて私は大きな疑問があると思う。そこでこれは私の
一つの私案なんですが、ともかくも大学に入る人たちのためには、やはりある
程度の能力というものは幅をきめなければならない。これは私は当然だと思う。そこでたくさんの志願者のある中でやはり幾らかの幅をきめなければならないけれ
ども、それは少くとも皆さんが
教育の立場から
考えて、大学に入学するに必要な能力という判断の上に立つべきであって、上から順番をつけて何人取るという
考え方は、どうも
教育のあり方として、特に国の
教育のあり方としてはちょっと問題がある点ではないかと思うのです。たとえば東大を例にとれば、東大で千人の生徒を取る。そこへ一万人の受験者が来た。この二万人の受験者を一応試験をして、少くとも
高等学校の課程を十分に終了しておる能力があって、大学
教育を受けるに足る人が五千人あったとする。そこで千人しか取れないのだというときには、五千人の中で抽せんにでもしてあげればいいのではないか。大へん極端な例になりますけれ
ども、やはり公平を期するという
意味で、その中では抽せんをするということになって、おまけに浪人何年以上の人というものは何%しかその抽せんに入る可能性はないのだというような
考え方か何かがとられて、ほんとうにある時点々々における
教育というものを十分にやりさえすれば、必要以上に入学試験のために何年も勉強をやることが
教育の本義でないのではないか、こういうふうに率直に感じるわけであります。そこで現在の試験というものが一般の親にとっては大へん大きな問題で、
中学校、
高等学校、大学とみなが頭痛はち巻でやっておるわけでありますけれ
ども、しかし
教育という問題がこういう試験というもののためにゆがめられておる事実というものは——これは
小学校、
中学校、公立のところで補習
教育をやって上へ入れようとするところがたくさんあったり、
学校の中で補習をしたらいけないと言ったら、
学校の前の何かの施設を借りて
学校の先生がそこへ行ってやっていたりというようなことは、少くとも
教育基本法に書かれておる趣旨や憲法に書かれておる
教育の趣旨とは非常に反するものではないか、こういうふうに思うわけです。
そこで大へん長く
質問しましたのであれですが、まず第一点の国立
中学校の問題を
一つ初等中等
局長に伺って、大学受験の問題を大学
局長の方に
一つ伺いたいと思います。