○
赤津勇君 当時、弾薬はまだ二、三千発持っておりましたが、とにかくこれきりしかなく、
あともう補充はつかないのだから大事に使えというわけで、たとえばその牛を撃つにしても極力有効な使い方をいたしまして、牛が一発で倒れればいいのですが、なかなかそのようなことがなくて、五発、六発と使うようなことが度々あるのでございます。ですから、ただいま申しましたように、
最後には
要領を覚えまして、足を撃ってまず動けなくする、そこを今度剣で突く、それから今度一晩
がかりでもって、
帯剣を利用いたしまして一生懸命料理をして、とにかく、一頭全部持ってこられませんから、持てるだけの肉を切り取りまして、
あとはそのままにして山に引き揚げたのであります。
御
承知のように大へん暑いものですから、なま肉はすぐに腐ってしまいますので、その対策といたしまして、その肉を一晩じゅうかかって
燻製にするのでございます。山奥深く入りまして、とにかく下から火の見えないところにもぐりまして、一晩
じゅう交代で火の見張りをしながら
燻製を作ります。ちょうど肉のカツオぶしのような
格好になって、ほし上ります。もう絶対に腐りません。これが一番の
携帯食糧であって、かさばらなくて一番ためになったのでございます。とにかく塩というものが全然ありませんでしたものですから、この肉によって得る
塩分というものを非常に重要視しておりまして、
ヤシ、
バナナよりもむしろ肉類に重きを置くようにいたしました。それでもやはり
塩分は足りないとみえまして、とにかく体がだるくて仕方がなく、足が上らなくなってしまうのであります。それで年に一度くらい、なるたけ安全と思われる
地点から海岸へ出ます。そこで
海水をくんで参りまして、やはり人目につかないところで、今度
鉄帽を三つくらい並べまして、
海水を一晩
がかりで煮詰めます。一晩煮詰めまして大体二合ぐらい
程度の塩がとれますが、それを今度は、
ほんとうの薬のようにして少しずつなめております。
衣服といっても、
最初山に入るときに着ていった
軍服一着で、
あとはありませんでしたし、そこへもって参りまして山の中で
行動しております
関係上、非常にいたむのでありまして、バラにひっかかって破れたり、木の枝にちょっとひっかかるので破れたりいたしまして、その
補修には
ほんとうに苦心いたしました。
補修材料がありませんものですから、その
軍服の
そでをちぎり、ポケットをはがし、二重になっている
えりをはがし、しまいには
えりをとってしまい、
ズボンを下の方からだんだんと短かく切ってきて、私が山から出て参りましたときには、
そでなしの
軍服に半
ズボンという
格好で、全く人に見られたくない
格好でございました。またその
補修するにつきまして、針なんですが、これは針金を拾ってきまして、
帯剣の先、ナイフの先なりで、一日かかってこつこつと穴をあけましてこしらえました。糸は全部木の皮でございます。また、その木の皮を利用しましてわらじを作りました。また、なわをよりまして網の袋をこしらえました。
それから火を起す場合でありますが、
レンズは持っておりましたが、日中は火がたけません。従って、
レンズがあっても火を得ることができません。そこで、
住民が竹をこすり合せて火を起すということを思い出しまして、竹で火を起す工夫をいたしました。幸い
火薬は持っておりましたものですから、その
火薬を利用いたしまして、たやすく火が得られるようになりました。しまいには、さほど火というものに対しては、苦痛を感じなくなったのでございます。
食糧を探しに出る晩はいいといたしまして、その必要のない夜は
ほんとうに心をくつろげまして、
お互いの身の上話なり、
家庭の話なり、友だちの話、
自分の記憶に残っているうれしかったこと、悲しかったこと、とにかくありとあらゆることを話し合いました。それこそ
ほんとうに大きな声を出して話しても、夜だけは安全なのです。といって、同じ人々ですから、毎日々々話していると、しまいには話の種も尽きて参ります。
自然話の蒸し返しです。同じことを何べんとなく聞かされました。ですから、
お互いの
家庭の
事情なり何なりは、
ほんとうによくわかってしまいました。
なお、皆さんから、
住居はどのようにしておったかということをよく聞かれるのでございますが、前にも申し述べましたように、原則としてはそのようなものは設けません。敵に発見されるおそれかあるからでございます。しかし、大体四月から十月ごろまでの間は
向うは雨季に当りまして、この間はどうしても
住居なしではしのぎにくい
状態になりますので、この間だけは、やむを得ず特に安全と思われる
地点に
場所を設けまして、ちょうど
内地の
豚小屋程度の
小屋を作りまして、屋根は木の葉っば、特に
バナナの葉っば、
ヤシの葉っぱなんかが有効でありますが、そのようなものを載せまして、曲りなりにも
住居住まいをいたします。それとても、いつ敵に発見されないとも限りませんので、
状況がよければ半月でも一カ月でも一個所にとどまっておりますが、少し様子がおかしいとなりますと、家をこしらえたすぐあくる日にでも、別の
地点に移動することがありました。とにかく一番苦しかったのは
食糧、特に塩のことでございまして、塩というもののいかに貴重であるかということを私はつくづく体験して参りました。
それから非常に
アリが多いのでございます。また蚊も相当多いのでありまして、そのために寝られない夜がたびたびありました。そのような場合、できるだけ風通しのいい山の
稜線あたりに出まして休みますと、少し涼しいですけれども、割としのぎよく夜を過ごすことができるのであります。雨と
アリと蚊、これが一番の敵です。私がそれをもじりまして、「
あめりかにはかなわぬ」と言って大笑いしたことがありますが、
日常生活の
状態というものは、大体そのような単調な
生活を毎日々々繰り返しておりました。
最後に、
救出の
方法でございますが、私の経験から割り出して考えますると、やはりこのお二人に最も近い方、
肉親なり友人なり、姿を見ればもちろん、声を聞いてもすぐわかるくらいの、そういう親しい方に
現地に行ってもらうのが一番いいのではないかと思うのでございます。
厚生省の方でも、盛んに
説得工作として
ビラなり
新聞なりまいておられますが、それではおそらくこちらの希望するような結果は、絶対に生じてこないものと確信いたします。
こういうことがありました。まだ
山中に大ぜいおりまして、第二回の
投降勧告によって三十一名の方が下山いたしましたが、そのときの
事情を私が
帰国後聞いたところによりますと、やはりみんな、そのときの
勧告隊のあれを信用しなくて逃げ回っておったのでございます。それが何かのはずみでもって、一人少しぼうっとしておる者がおりまして、それがつかまってしまいました。それでその人の口から、ずるずるっと
イモづる式にあがったような形跡が見られました。その当時
小野田少尉、
嶋田伍長、
小塚氏、私の四人の
グループは、他の
グループに絶対に
隠れ家を知らせませんでしたので
連絡の
方法がなかった、またその当時は、そういうようにして山の中がちょっとうるさかったものですから、
隠れ家を
みなと別行動で
転々としておりましたものですから、
イモづる方式にほかの
仲間はあがりましたが、私
たちは逃げ切ることができたのです。初めのうちは、名前の知れない
日本人らしい人の筆跡で、
投降を勧告する意味の
ビラを
方々で見たのです。そうこうするうちに、今度は
自分たちの
仲間の手になる、やはりそのような
手紙をあちこちに見るようになりました。おや、これはつかまってしまったぞ。残るはお前
たちだけで、とにかく今度引き揚げてしまうと
あといつ来るかわからない、南海の孤島に君
たちだけ残していくのは忍びがたいので、おれ
たちも
一緒になって君らのことを探しているのだから、どこどこの
場所まで早くおりてこいという
手紙を見るようになりまして、その三十一名の下山を知ったような次第でございます。大体そのときの
捜索隊が一カ月くらい山の中におったように聞いておりますが、その
仲間の置き
手紙を見まして、
最初はむげに、これは敵の
謀略だ、つかまった者は
帰国どころか、どこかとんでもないところに持っていかれて、ひどいことをされておるのではないかくらいに話し合っておったのですが、しかし、果してそう言っていた言葉が、
自分の本音であったかどうかははなはだ疑わしいと思うのでございます。というのは、
小野田氏は
少尉でありました。
嶋田氏は
伍長でありました。そういう手前もありますものですから、一応体面上そういう強がりを言っていたのではないかと思われる節もあるのです。
ある晩、
小野田少尉殿がこう言うたのであります。とにかくどこどこの
地点に、
秋田中尉と申しましたか、その方が待っておる。ぜひ来いということを前々から聞いておりましたが、その晩
小野田少尉が、
自分がついていてお前
たちにこういう不自由な思いをさせることは実に忍びない、一つおれが犠牲になったつもりでそこを尋ねて、果してその
工作が真実であるか、あるいは敵の
謀略であるかを確かめてくる。お前
たちはその付近で待っていよ。もし真実の場合にはこうだ、それがデマの場合にはこうだと言って、その
合図まできめてやってみると言ったのでございますが、すでになくなりました
嶋田伍長が、当時大へんこっくりさんとかいう一つの占いみたいなものにこっておりまして——そればかりではないでしょうが、階級は
伍長でありまして一番年長者でありましたので、一応
小野田少尉殿も、その人の言うことを一目置いて聞いておったのでありますが、その人が猛烈に隊長殿のそういう
行動をとめました。だいぶ口論いたしました。しかし結局、その場はそのままになってしまいました。後日になって全部が引き揚げてしまってからですが、
小野田少尉殿がぽつりと、おれはとうとう出る機会を失ったということを感慨深げに言ったのを、私は今でもはっきりと覚えておるのであります。ですから当時敵の
謀略だ、どうだこうだと口では言っておりましたものの、果してその真実はどのようであったかということは、大体想像はつくのでございます。
そこで今後の
救出工作でございますが、そこをねらって手を打たなければいけないと私は思うのです。やはり
日本人でなければ信用いたしません。それもあまり派手な
行動になりますと、むしろ逆にとってしまいます。
小野田少尉という方は、将校でありますが、普通の将校ではないのです。特殊教育を受けて、
現地の
ルバング島の遊撃戦の指導者として参った方でありまして、特に
謀略方面には大へんな知識を持っておりましたので、敵のなすこと、することをすべて逆の立場から判断いたしまして、ああ、敵がこうやったからこれはこうなんだ、こういうふうに来たからこれはこうだ、絶対にまともにとったことはございませんでした。しかし、そうは言うものの、
ほんとうに腹を割って考えれば、やはり
内地のことは恋しいのです。親兄弟のことをよく言っておりました。友だちのことなんかもよく話しておりました。ですから、
現地でよくそういううわさに上ったような
方々に御足労願いまして、
現地に行って、とにかく山をおりてこいと言うよりも、こちらから山に乗り込んで
向うが近寄ってくるのを待つ、少し気長い話になりますが、これ以外にはないと思います。追っかければ必ず逃げます。それですから、そのためにいろいろと予算の面もあるでしょう、予算が多ければ多いほどこれはけっこうなんですが、やはりある
程度制限があると思いますので、とにかく十人で二十日滞在するところならば、五人で四十日
現地にとどまる、私はそのようにして予算を有効に使っていきたいと思うのです。とにかく、
向うで現に
生活しておられる
小野田氏なり、
小塚氏なりと同じような境遇に
自分からなり切って、捜索なり、説得なりに当らなければいけないと思います。前にも何度か捜索いたしまして失敗しておりますが、やはり第一の原因は、
小野田さんの兄さんが行きました場合には、時期的にも悪かったのでありますが、要するに、
現地の地理に詳しい人がいなかったということが一番の弱点であったと思います。とにかく
向うの
住民は、確かに山は詳しいでしょうが、決して山奥に入りません。また
向うの
住民が、
要領よくここが一番いそうなところだといって適当に山を歩かせたのを、こちらから行った人はまた何にもわからないものですから、ああそうかといってそれを信用して、ただその辺を、われわれが考えて、俗に言う山の銀座通りを歩かされても、
自分としては
ほんとうに山奥深く入ったと勘違いして戻っております。ですから、とにかく
向うの
住民の直接の援助はない方がいいと思います。できれば
日本人だけで、一カ月なり二カ月なり気長に待つ、私はそれ以外に
方法はないと思います。
どうも長々と失礼いたしました。