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1959-02-25 第31回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十四年二月二十五日(水曜日)     午後二時六分開議  出席委員    委員長 田口長治郎君    理事 逢澤  寛君 理事 中山 マサ君   理事 山下 春江君 理事 茜ケ久保重光君    理事 北條 秀一君 理事 山口シヅエ君       井原 岸高君    河野 孝子君       本名  武君    受田 新吉君       大貫 大八君    角屋堅次郎君       金丸 徳重君  出席政府委員         厚生事務官         (引揚援護局         長)      河野 鎭雄君  委員外出席者         外務事務官         (アジア局南東         アジア課長心         得)      有田 武夫君         厚生事務官         (引揚援護局未         帰還調査部長) 吉田 元久君     ————————————— 二月五日  未帰還者調査に関する請願(上林山榮吉君紹  介)(第一一三五号) 同月十日  未帰還者調査に関する請願床次徳二紹介)  (第一一九一号)  同(前田郁紹介)(第一三〇一号) は本委員会に付託された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  ルバング島における元日本兵帰還促進に関す  る件      ————◇—————
  2. 田口長治郎

    田口委員長 これより会議を開きます。  海外胞引揚及び遺家族援護に関する件について調査を進めます。  去る二十日の打合会におきまして、フィリピンルバング島に今なお生存しておると伝えられております元日本兵事情及びその救出の問題について、政府当局より説明を聴取いたし、また、かつて同島残留し、昭和二十六年に内地帰還してこられました赤津勇君から、当時の生活状況帰国いきさつ等について説明を承わりましたが、この際、去る二十日の委員打合会経過について御報告申し上げたいと思いますが、その内容の詳細は、便宜上打合会の記録を、その朗読を省略して本日の会議録報告として転載することにいたしたいと思いますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 田口長治郎

    田口委員長 御異議なしと認め、さよう取り計らうことにいたします。     —————————————
  4. 田口長治郎

    田口委員長 本日は、都合により、正規の委員会としないで、海外胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員打合会を開会することにいたします。  本日は、主としてフィリピンルバング島に今なお生存しておると伝えられております元日本兵の問題を中心に御説明を承わり、その帰還促進をはかりたいと存じます。  なお、この際委員各位に申し上げます。本日は、去る昭和二十六年に同島から引き揚げてこられました赤津勇君に特に御出席を願っておりますので、いずれ同君からも詳しく事情を承わりたいと思いますが、まず最初に、政府当局から、ルバング島の問題について、政府当局において今までの御調査の結果、判明しておるところを御説明願うことにいたします。
  5. 河野鎭雄

    河野政府委員 ルバング島に残留していると伝えられております元日本軍軍人救出の問題につきましては、政府といたしましても、厚生、外務両省共同いたしまして、また、現地当局あるいは住民の御協力を得まして極力努力をして参ったところでございますが、その経過等につきまして簡単に御報告を申し上げたいと思います。  最初に、残留に至った経過でございますが、昭和二十年の初めに、ミンドロ島及びルバング島の防衛のために臨時歩兵第一、第二中隊配置をされたのでございます。そのうちルバング島につきましては、臨時歩兵第二中隊の第二小隊配置をされた模様でございます。その小隊長早川少尉でございますが、その後付近で遭難をいたしました船舶の将兵二十余名が合わさりまして、二十年の二月の末には七十名になった模様でございます。昭和二十年の三月にアメリカ軍ルバング島に上陸をして参りまして、その結果小隊長戦死をされました。その後、小隊ルバング島の山岳部に入って終戦まで戦闘を継続し、その間約三十名の戦死者を出した模様でございます。終戦直後、米軍投降勧告によりまして、九名が投降いたしました。翌二十一年二月に行われました日米両軍による投降工作によりまして、三十一名が投降いたしました。結局、小野田少尉嶋田伍長小塚一等兵赤津一等兵の四名が残留をいたしたことになるわけであります。そのうち、赤津さんは二十六年に帰って参りました。嶋田さんは二十九年に死亡をされておる次第でございます。こういうふうなことで、お二人の方がずっと現在まで残っておるのではないだろうかというふうに言われておる次第でございますが、二十六年に一人がお帰りになったわけでございまして、その報告によりまして今のような残留者があるというふうなことを聞きまして、この救出の問題が起って参った次第でございます。  当時、まず第一に、厚生省といたしましてはGHQに対しまして、文書でこれらの人たち救出送還を懇請いたしますとともに、ビラあるいは家族手紙等も差し出し、また当人らの留守家族、郷党の県知事等からも、それぞれ助命救出の懇請を比島関係にあてていたしたような次第でございます。こういうふうにいたしまして、二十七年の初めから夏にかけまして、地上及び空中から三回にわたって投降勧告ビラをまいたわけでございます。しかし、ついに何らの反応を得られないで終ってしまったわけでございます。  このように工作十分成果をおさめられませんてしたので、厚生省といたしましても、職員及び当人肉親の方に現地に行っていただいて、直接呼びかける工作をすることが適当である、かように考えまして、外務省を通じましてフィリピン側に申し入れをいたしたのでございます。二十八年ごろ一時承認が得られそうであったのでありますが、ちょうど当時フィリピン状況は、大統領選挙の年でもございまして、政情が不安定であったために、一時断わられたようなことがございました。しかし翌年の二十九年に至りまして、フィリピン側も、こちらから出向いていくことについて了承をされましたので、同年の五月から六月にかけまして約二週間、厚生省職員一人と小野田さんのお兄さん、それから小塚さんの弟さんの三人がルバング島に参りまして、山中をくまなく踏破して、相当徹底して呼びかけを行なったのでございます。また、空からもあわせて呼びかけを行なったのでございますが、そのときも、ついに何らの反応を得られないで終ってしまったわけでございます。  その後、いろいろ外務省にもお願いをしておったわけでございましたが、現地当局との話し合いも、十分円滑にいかなかった点もございまして、一時ちょっと中絶の形になった期間がございましたが、ちょうど昨年の一、二月にかけまして、フィリピン遺骨収集のために派遣団を差し出したのでございます。ちょうどこの機会に、さらに工作を行うことにいたしたのでございます。そのやり方は、二月の初めから三月の末にかけまして、三回にわたって飛行機からビラその他のものを投下いたしたのであります。ビラにつきましては、今すぐ投降しろというふうには言わないけれども、もし生きておるなら合図だけでもしてくれ、合図があれば二人の方の肉親たちを会いにいかせるようにしたい、合図をしてくれ、こういうふうな趣旨のビラをまいたわけでございます。ビラ一緒にまた手紙や写真、あるいは郵里の食べもの等、こういったものも一緒投下をいたしたのでございますが、ついに何らの反応も得られなかったのでございます。また、飛行機による今申し上げましたような物件の投下とあわせまして、派遣団員あるいは大使館人たちも、土民の案内で、山中に入って呼びかけをしていただいたわけでございますが、これも反応を得られないで終った。そこでやむを得ず数カ所に立て札を立てまして、また現地の官民の方にも、また大使館の方にも今後の努力をお願いいたしまして、帰って参ったような次第でございます。  また、最近新聞紙上ですでに御承知のように、ルバング島におきまして二件ほどの殺傷事件がございました。これは、日本の元の兵隊さんがやったんだという証拠はないわけでありますが、そういうふうなことも考えられないではないというふうなことで、フィリッピン側現地調査に行きたい、ついては、この救出工作について日本側も一つ努力してもらいたいというふうなお話がございまして、ビラ等もこちらから送りまして、大使館からも二人ほどついて現地に行って、いろいろ御努力を願っておるわけであります。第一回の工作は、二月の初めに終りまして、むなしく帰ってきておるわけでありますが、第二回の工作をただいま実施いたしておるように承知いたしております。現地からの報告によりますと、まだ何らの手がかりも得ていないというふうなことになっておりまして、二回目の工作の際には、連絡箱も十個ほど用意いたしまして、何らかの連絡を得られるようにと配慮いたしておる次第であります。  大体今までの概略を申し上げた次第であります。
  6. 田口長治郎

    田口委員長 それでは、引き続きまして赤津さんから、ルバング島におられました当時の事情及び同島から引き揚げてこられたその間の事情について、御説明を承わることにいたします。  赤津さんには、御多忙のところ御出席をわずらわしまして、まことにありがとうございました。  それではお話を願います。
  7. 赤津勇

    赤津勇君 現在ルバング島に残っておると伝えられます小野田少尉と、小塚一等兵残留されるに至りました事情は、ただいま厚生省の方からのお話で大体おわかりになったと思いますが、私の同島より引き揚げて参りました経過並びに山中における日常生活状態など、気のつくままに申し上げまして、何らかの御参考になれば幸いだと存じます。なお、どのようにすれば二人の方を救出できるかということにつきましては、僣越ながら私の意見を述べさしていただきます。  私がルバング島より引き揚げて参りましたその間の事情は、昭和二十五年ごろでございますか、山中において行動中、仲間の者とはぐれてしまいました。しいて探せば探せないこともないのでしょうけれども、大体その当時の私たち行動というものが、日中はほとんど動けないので、もっぱら夜間にかけて行動しておりました関係上、はぐれますとめぐり会うことがなかなか困難でございました。それにまた、私は兵隊であり、小野田少尉がおる、田中伍長がおるというわけで、何となく気分的に苦しいこともありましたので、どうせあすをも知れない命をかかえて、あまり窮屈なこともやりたくないと思いまして、しいて探しもしませんでした。そのような状態で、八カ月か九カ月くらいでしたか、私、単独で行動しておりました。それで、たしか二十五年の四月ごろだと思うのでありますが、私が高熱を出しまして、身動きができない状態になりました。一週間ほど食べることもできず、しまいには腰も立たなくなってしまいまして、目までかすんでしまうような有様で、これはもういかぬとそのとき一人で覚悟いたしました。しかしそのときは、天運と申しましょうか、無事に回復することができました。そのときのことが忘れられなくて、山中において病なりあるいは敵襲によって倒れてしまうよりも、一度里におりてみよう。よしんば、里におりて敵の手によって射殺されてももともとである。あるいは万一助け出されないこともないと思いまして、自分とすれば大決心のもとに山をおりたわけであります。ただ向うの警官なり住民なりが快く私のことを迎えてくれましたので、ほんとうにほっといたしました。間もなく同島フィリピン軍兵隊が六名私を迎えに参りました。それでまだ二人も浅っているので、それを探そうというわけで、私が先頭に立ちまして山の中を三日ほど歩きました。しかしそれらしい姿は全然見つけることができなかったのでありますが、その見つけられなかった理由については、比島軍兵隊さんが、私か思うように徹底した行動をとってくれなかったこと、ほんとうの命令でもって、仕方なく山をぐるっと回っただけのことでありまして、私の目ざす地点には自分からは入っていく気はないし、といってまた、私を一人で出してくれませんでしたので、自分とすれば、さしあたりどうにもしようがなくて、涙をのんで山元を引き揚げて参りました。それでしばらくマニラにおりまして、適当の時期に、モンティンルパで刑を満了されました方々とともに、昭和二十六年三月の二十八日に神戸の港に帰って参りました。それ以来、私は直ちに残る三名の御家族の方に御連絡をとりまして、ぜひともこの三人を無事助け出したいと思いまして、自分とすればできるだけのことをして参りました。  私たち小野田少尉たちがまだ一緒山中におりました時分生活は、ただ三度々々の食事の心配をすることが精一ぱいでございまして、恥かしながら軍人らしい行動もできなかったのであります。しいて自分の心を慰めるといいますか、小野田少尉殿も言っておられましたのですが、たとい何ができなくても、とにかくわれわれがここにいる限り、やはり米軍も多少この島に残らなければならない、それだけでも一応われわれの目的は達するのだと言って、自分から自分を慰めておったようでございます。それで、われわれはルバング島のネズミだなんて、よく自嘲しておりました。昼間は敵の監視の目をおそれて、とにかく山中にもぐりまして、じっとしております。五日ないし一週間目ぐらいことに、山をおりましてはバナナなりヤシなりを、また時には、住民の飼っております牛や馬などを、所持しております銃によって射とめまして、そのようなものを食糧としておりまして、その食糧のあるうちはじっと動かない、なくなるとまたとりにいく。それも、一カ所ばかりにおりますと自然目につきますものですから、絶えずそのことに注意しまして、場所を変えて今度は西へ、今度は南へというふうに、転々としておりました。別にきまった場所というものをこしらえませんで、俗に言う放浪生活、日が暮れればそこで泊る、日中は十分な話もできないほど回りの空気に気を配りまして、その気苦労たるや、おそらく皆様方には御想像もできないのじゃないかと思うのでございます。  そのようなわけでありますから、夕方になりまして、敵軍なりあるいは向う住民なりが山を引き揚げたと思われる時分になると、ほっとしてぐったりとしてしまいます。それからが私たちの天下でありまして、食糧を探しに行くときは、そのころからぼつぼつ行動を起します。そして一晩じゅうかかって食糧を集めます。牛や馬を射とめる場合には、やはり夜ですけれども、もっぱら月あかりを利用して倒しますが、やみ夜の鉄砲でなかなか当らないのであります。しまいには要領がわかりまして、とにかくでかいものであるし、おなかなど撃たずに足を撃て……。
  8. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 委員長にお願いいたしますが、ちょっと声が小さくて聞えないのですが……。
  9. 田口長治郎

    田口委員長 もうちょっと大きな声で願います。
  10. 赤津勇

    赤津勇君 当時、弾薬はまだ二、三千発持っておりましたが、とにかくこれきりしかなく、あともう補充はつかないのだから大事に使えというわけで、たとえばその牛を撃つにしても極力有効な使い方をいたしまして、牛が一発で倒れればいいのですが、なかなかそのようなことがなくて、五発、六発と使うようなことが度々あるのでございます。ですから、ただいま申しましたように、最後には要領を覚えまして、足を撃ってまず動けなくする、そこを今度剣で突く、それから今度一晩がかりでもって、帯剣を利用いたしまして一生懸命料理をして、とにかく、一頭全部持ってこられませんから、持てるだけの肉を切り取りまして、あとはそのままにして山に引き揚げたのであります。  御承知のように大へん暑いものですから、なま肉はすぐに腐ってしまいますので、その対策といたしまして、その肉を一晩じゅうかかって燻製にするのでございます。山奥深く入りまして、とにかく下から火の見えないところにもぐりまして、一晩じゅう交代で火の見張りをしながら燻製を作ります。ちょうど肉のカツオぶしのような格好になって、ほし上ります。もう絶対に腐りません。これが一番の携帯食糧であって、かさばらなくて一番ためになったのでございます。とにかく塩というものが全然ありませんでしたものですから、この肉によって得る塩分というものを非常に重要視しておりまして、ヤシバナナよりもむしろ肉類に重きを置くようにいたしました。それでもやはり塩分は足りないとみえまして、とにかく体がだるくて仕方がなく、足が上らなくなってしまうのであります。それで年に一度くらい、なるたけ安全と思われる地点から海岸へ出ます。そこで海水をくんで参りまして、やはり人目につかないところで、今度鉄帽を三つくらい並べまして、海水を一晩がかりで煮詰めます。一晩煮詰めまして大体二合ぐらい程度の塩がとれますが、それを今度は、ほんとうの薬のようにして少しずつなめております。  衣服といっても、最初山に入るときに着ていった軍服一着で、あとはありませんでしたし、そこへもって参りまして山の中で行動しております関係上、非常にいたむのでありまして、バラにひっかかって破れたり、木の枝にちょっとひっかかるので破れたりいたしまして、その補修にはほんとうに苦心いたしました。補修材料がありませんものですから、その軍服そでをちぎり、ポケットをはがし、二重になっているえりをはがし、しまいにはえりをとってしまい、ズボンを下の方からだんだんと短かく切ってきて、私が山から出て参りましたときには、そでなしの軍服に半ズボンという格好で、全く人に見られたくない格好でございました。またその補修するにつきまして、針なんですが、これは針金を拾ってきまして、帯剣の先、ナイフの先なりで、一日かかってこつこつと穴をあけましてこしらえました。糸は全部木の皮でございます。また、その木の皮を利用しましてわらじを作りました。また、なわをよりまして網の袋をこしらえました。  それから火を起す場合でありますが、レンズは持っておりましたが、日中は火がたけません。従って、レンズがあっても火を得ることができません。そこで、住民が竹をこすり合せて火を起すということを思い出しまして、竹で火を起す工夫をいたしました。幸い火薬は持っておりましたものですから、その火薬を利用いたしまして、たやすく火が得られるようになりました。しまいには、さほど火というものに対しては、苦痛を感じなくなったのでございます。  食糧を探しに出る晩はいいといたしまして、その必要のない夜はほんとうに心をくつろげまして、お互いの身の上話なり、家庭の話なり、友だちの話、自分の記憶に残っているうれしかったこと、悲しかったこと、とにかくありとあらゆることを話し合いました。それこそほんとうに大きな声を出して話しても、夜だけは安全なのです。といって、同じ人々ですから、毎日々々話していると、しまいには話の種も尽きて参ります。自然話の蒸し返しです。同じことを何べんとなく聞かされました。ですから、お互い家庭事情なり何なりは、ほんとうによくわかってしまいました。  なお、皆さんから、住居はどのようにしておったかということをよく聞かれるのでございますが、前にも申し述べましたように、原則としてはそのようなものは設けません。敵に発見されるおそれかあるからでございます。しかし、大体四月から十月ごろまでの間は向うは雨季に当りまして、この間はどうしても住居なしではしのぎにくい状態になりますので、この間だけは、やむを得ず特に安全と思われる地点場所を設けまして、ちょうど内地豚小屋程度小屋を作りまして、屋根は木の葉っば、特にバナナの葉っば、ヤシの葉っぱなんかが有効でありますが、そのようなものを載せまして、曲りなりにも住居住まいをいたします。それとても、いつ敵に発見されないとも限りませんので、状況がよければ半月でも一カ月でも一個所にとどまっておりますが、少し様子がおかしいとなりますと、家をこしらえたすぐあくる日にでも、別の地点に移動することがありました。とにかく一番苦しかったのは食糧、特に塩のことでございまして、塩というもののいかに貴重であるかということを私はつくづく体験して参りました。  それから非常にアリが多いのでございます。また蚊も相当多いのでありまして、そのために寝られない夜がたびたびありました。そのような場合、できるだけ風通しのいい山の稜線あたりに出まして休みますと、少し涼しいですけれども、割としのぎよく夜を過ごすことができるのであります。雨とアリと蚊、これが一番の敵です。私がそれをもじりまして、「あめりかにはかなわぬ」と言って大笑いしたことがありますが、日常生活状態というものは、大体そのような単調な生活を毎日々々繰り返しておりました。  最後に、救出方法でございますが、私の経験から割り出して考えますると、やはりこのお二人に最も近い方、肉親なり友人なり、姿を見ればもちろん、声を聞いてもすぐわかるくらいの、そういう親しい方に現地に行ってもらうのが一番いいのではないかと思うのでございます。厚生省の方でも、盛んに説得工作としてビラなり新聞なりまいておられますが、それではおそらくこちらの希望するような結果は、絶対に生じてこないものと確信いたします。  こういうことがありました。まだ山中に大ぜいおりまして、第二回の投降勧告によって三十一名の方が下山いたしましたが、そのときの事情を私が帰国後聞いたところによりますと、やはりみんな、そのときの勧告隊のあれを信用しなくて逃げ回っておったのでございます。それが何かのはずみでもって、一人少しぼうっとしておる者がおりまして、それがつかまってしまいました。それでその人の口から、ずるずるっとイモづる式にあがったような形跡が見られました。その当時小野田少尉嶋田伍長小塚氏、私の四人のグループは、他のグループに絶対に隠れ家を知らせませんでしたので連絡方法がなかった、またその当時は、そういうようにして山の中がちょっとうるさかったものですから、隠れ家みなと別行動転々としておりましたものですから、イモづる方式にほかの仲間はあがりましたが、私たちは逃げ切ることができたのです。初めのうちは、名前の知れない日本人らしい人の筆跡で、投降を勧告する意味のビラ方々で見たのです。そうこうするうちに、今度は自分たち仲間の手になる、やはりそのような手紙をあちこちに見るようになりました。おや、これはつかまってしまったぞ。残るはお前たちだけで、とにかく今度引き揚げてしまうとあといつ来るかわからない、南海の孤島に君たちだけ残していくのは忍びがたいので、おれたち一緒になって君らのことを探しているのだから、どこどこの場所まで早くおりてこいという手紙を見るようになりまして、その三十一名の下山を知ったような次第でございます。大体そのときの捜索隊が一カ月くらい山の中におったように聞いておりますが、その仲間の置き手紙を見まして、最初はむげに、これは敵の謀略だ、つかまった者は帰国どころか、どこかとんでもないところに持っていかれて、ひどいことをされておるのではないかくらいに話し合っておったのですが、しかし、果してそう言っていた言葉が、自分の本音であったかどうかははなはだ疑わしいと思うのでございます。というのは、小野田氏は少尉でありました。嶋田氏は伍長でありました。そういう手前もありますものですから、一応体面上そういう強がりを言っていたのではないかと思われる節もあるのです。  ある晩、小野田少尉殿がこう言うたのであります。とにかくどこどこの地点に、秋田中尉と申しましたか、その方が待っておる。ぜひ来いということを前々から聞いておりましたが、その晩小野田少尉が、自分がついていてお前たちにこういう不自由な思いをさせることは実に忍びない、一つおれが犠牲になったつもりでそこを尋ねて、果してその工作が真実であるか、あるいは敵の謀略であるかを確かめてくる。お前たちはその付近で待っていよ。もし真実の場合にはこうだ、それがデマの場合にはこうだと言って、その合図まできめてやってみると言ったのでございますが、すでになくなりました嶋田伍長が、当時大へんこっくりさんとかいう一つの占いみたいなものにこっておりまして——そればかりではないでしょうが、階級は伍長でありまして一番年長者でありましたので、一応小野田少尉殿も、その人の言うことを一目置いて聞いておったのでありますが、その人が猛烈に隊長殿のそういう行動をとめました。だいぶ口論いたしました。しかし結局、その場はそのままになってしまいました。後日になって全部が引き揚げてしまってからですが、小野田少尉殿がぽつりと、おれはとうとう出る機会を失ったということを感慨深げに言ったのを、私は今でもはっきりと覚えておるのであります。ですから当時敵の謀略だ、どうだこうだと口では言っておりましたものの、果してその真実はどのようであったかということは、大体想像はつくのでございます。  そこで今後の救出工作でございますが、そこをねらって手を打たなければいけないと私は思うのです。やはり日本人でなければ信用いたしません。それもあまり派手な行動になりますと、むしろ逆にとってしまいます。小野田少尉という方は、将校でありますが、普通の将校ではないのです。特殊教育を受けて、現地ルバング島の遊撃戦の指導者として参った方でありまして、特に謀略方面には大へんな知識を持っておりましたので、敵のなすこと、することをすべて逆の立場から判断いたしまして、ああ、敵がこうやったからこれはこうなんだ、こういうふうに来たからこれはこうだ、絶対にまともにとったことはございませんでした。しかし、そうは言うものの、ほんとうに腹を割って考えれば、やはり内地のことは恋しいのです。親兄弟のことをよく言っておりました。友だちのことなんかもよく話しておりました。ですから、現地でよくそういううわさに上ったような方々に御足労願いまして、現地に行って、とにかく山をおりてこいと言うよりも、こちらから山に乗り込んで向うが近寄ってくるのを待つ、少し気長い話になりますが、これ以外にはないと思います。追っかければ必ず逃げます。それですから、そのためにいろいろと予算の面もあるでしょう、予算が多ければ多いほどこれはけっこうなんですが、やはりある程度制限があると思いますので、とにかく十人で二十日滞在するところならば、五人で四十日現地にとどまる、私はそのようにして予算を有効に使っていきたいと思うのです。とにかく、向うで現に生活しておられる小野田氏なり、小塚氏なりと同じような境遇に自分からなり切って、捜索なり、説得なりに当らなければいけないと思います。前にも何度か捜索いたしまして失敗しておりますが、やはり第一の原因は、小野田さんの兄さんが行きました場合には、時期的にも悪かったのでありますが、要するに、現地の地理に詳しい人がいなかったということが一番の弱点であったと思います。とにかく向う住民は、確かに山は詳しいでしょうが、決して山奥に入りません。また向う住民が、要領よくここが一番いそうなところだといって適当に山を歩かせたのを、こちらから行った人はまた何にもわからないものですから、ああそうかといってそれを信用して、ただその辺を、われわれが考えて、俗に言う山の銀座通りを歩かされても、自分としてはほんとうに山奥深く入ったと勘違いして戻っております。ですから、とにかく向う住民の直接の援助はない方がいいと思います。できれば日本人だけで、一カ月なり二カ月なり気長に待つ、私はそれ以外に方法はないと思います。  どうも長々と失礼いたしました。
  11. 田口長治郎

    田口委員長 次に、外務省が最近マニラ大使館を通じてルバング島を御調査になったということを聞いておるのでございますが、現地からの報告か何かありますれば、この際御報告を願いたい。
  12. 有田武夫

    ○有田説明員 最近マニラから参りました報告は、電報だけでありまして、詳しい手紙によりまする報告は、おそらく来週の月曜日か火曜日の外交行のうで送られると思いますので、まだ着いておりません。ここにございます唯一の電報報告は、フィリピンの部隊とともに行動いたしまして、十四日までルバング島におりましたフィリピン大使館河野理事官の報告のあらましでございます。それによりますと、最近の射殺事件は、前後の事情から見て、あるいは小野田及び小塚の両氏の行動ではないかと考えられるということでございまして、まだはっきり両氏の行動であるということは裏づけられておりません。それで、結局まだ両氏が存在しておるという推定のもとに、今後の工作を強力に進めなければならないであろうという結論に達しております。  それから一番関心事は、最近の新聞報道によりますと、軍から射殺命令が出たのではないかということでございますが、これにつきましては大使館の方から何の報告もございませんので、今特にその点について確認を求める電報を打っております。しかし河野理事官が参りましたのは、フィリピン軍の要請によりまして、救う場合に無事に救うというフィリピン側の考慮から同行を求められたものであるということ、並びにフィリピン軍の方からも住民に対しましてその協力を求め、かつ両名が投降して参ります場合に危害を加えないようにという警告を発しているということでございますので、射殺命令といったような最悪の事態は、現在のところは考えられないのではないかという判断をいたしております。  これが最近得ました報告のあらましであります。
  13. 田口長治郎

    田口委員長 この際、政府及び赤津さんに質疑があればこれを許します。茜ケ久保委員
  14. 茜ケ久保重光

    ○茜ケ久保委員 赤津さんにちょっとお尋ねいたします。お聞きしていますと、大体わかったのでありますが、問題は、残っているお二人がまだ日本の敗戦ということを知らずに残っているのか、しかも自分ががんばっていることが、何かアメリカに対して、先ほどおっしゃったように自分たちががんばっておればアメリカ兵も残るんだということをおっしゃったようですが、そういった意味で、あくまでも抵抗するという気持でおられるのか。さらに、敗戦は知っていらっしゃるが、ただ自分たちが出ていくと殺されるか、あるいは何か非常に危害を加えられる、殺されるならこのようにしてがんばっておった方がいいということであるのか、その間の事情がよくわからないのですが、この点を一つ率直にお答え願いたいと思います。
  15. 赤津勇

    赤津勇君 その点でございますが、小野田少尉殿がゲリラ戦の指導者としてルバング島に渡ってきましたときに、最初にそんなことを言っておりました。マニラの司令部からの命令だといいまして、とにかく絶対に玉砕してはいかぬ、必ず日本軍は勝つ、であるから、二十年でも三十年でも、力の続く限り抵抗せよということを言っておられましたが、果して現在そのような心境に、同じような状態でいるとは考えられません。といいますのは、たび重なる宣伝工作によりまして、大体終戦ということを認識しているのではないかという事実があるのでございます。嶋田班長殿が戦死なされました、そのとき、遺品の中に宣伝工作に使用いたしましたビラだとか、写真などを所持しておったわけでありますから、必ずしも終戦という事実を知らないはずはないと思っております。自分たちもさんざん、相当に原住民の迷惑になるようなことをして参りましたし、また人なども何人か殺しております。そういう過去がありますので、やはり良心的に出にくい、そういう状態ではないかと思うのであります。まして、小野田少尉は隊長という面目もありますが、かつてシナにおりました当時、かなり敵の捕虜を残酷に扱ったようなことが頭に残っておるらしいのでありまして、もし自分たちがつかまればやはりそのような待遇を受けるのじゃないか、その辺のところがいろいろと重なりまして、何となく出にくい。私も山をおりますときには、そのことにつきましてはずいぶん考えましたが、結局、何といいますか、たといこれから何年かかっても、五十になってもいい、六十になってもいい、とにかく一度内地に帰って親の顔が見たい、ただその一念で、あとさきのことをかまわず夢中でもって山をおりました。幸い、短い期間のうちに無事内地帰還いたしまして、ほんとうにうれしく思っておるのでございますが、要するに、現在、そういう気持が多少でもわいてこない限り、ちょっとむずかしいのではないか。それにはやはりできるだけ数多くの工作をする、そうしてその友人なり、肉親なりを長く現地にとどめておきまして、郷愁の念にからさせるということが一番いいのじゃないかと思うのです。
  16. 茜ケ久保重光

    ○茜ケ久保委員 わかりました。あと二点だけお伺いしたい。  あなたが、さっき約千発くらいの弾薬を持っておるとおっしゃったのですが、あなたがお帰りになってでも、もう八年たっておりますね。現在、あなたの想定では、どのくらい弾薬を持っておるようであるか。それから銃などは、依然としてまだ使っておるのかどうかといったようなこと。  それからもう一つは、あなたの最後救出に対する御意見を承わって、私どもも全くあなたのおっしゃる通りだと思う。今までも非常な御苦労をしてもらったと思うのですが、おそらくマイクを持っていったり、ビラをまいたりしても、相手は逃げる一方だと思うのです。そこで残された方法は、あなたがおっしゃるように、ここに見えていらっしゃるお父さんなり弟さんが直接いらっしゃる以外にないと思うのですが、その場合一番大事なことは、現地人にも期待できなければ、これはあなた自身が行ってやることが一番いいのですよ。あなたが一緒に行って、くまなく、御苦労でもお探し願うと一番いいのであります。従って、もし国の方でお二人の近親の方を向うに派遣して、あなたのおっしゃるように持久戦で探すということが可能な場合に、あなた御自身が一緒に行って、大へん御苦労であるけれども、かつての戦友の救出に御協力願うことができるかどうか、この二点について私はお聞きしたいと思うのです。
  17. 赤津勇

    赤津勇君 銃は現在も使っていると思います。油は、ヤシの実から油をとりましてこれを使いまして、銃だけはまめに手入れをしておりますから、その点御心配ないと思います。弾薬は、別に千発か二千発くらい当時ありましたが、とにかく当時は、もうあと補充がないというので大事にいたしまして、月に一度か二度、牛、馬をとる。それに、あと火を起すときに不発弾を使いますが、そんなときに火薬を利用する。よしんば敵の住民なんかと遭遇するようなことがありましても、敵方からこちらの所在が発見されない限り、こちらは身をひそめてやり過ごして、弾薬の浪費を防いで参りました。向うからこちらの姿を発見されますと、すぐ今度は軍の方に通報されることを心配いたしまして、とにかく発砲はいたしました。といって、そう山で住民と会うということは、年に何度もないのです。ですから、私と一緒におります当座でしたならば、弾薬というものはそう要らなかった。せいぜい月に五発か十発です。ですから一年にしても、六十なり百発なりで十分事足りました。もっとも数だけはそれだけありましても、何せ湿気の多いところでございますから、保存中にずいぶん湿気を食いまして不発弾が出て参りますので、その員数がありましても、果してほんとうの有効弾というものがどれだけあったかはわかりません。従いまして、その後もう七、八年たっておりますから、弾薬の方としてもそうよけいあるはと考えられません。もっとも、その千発なり二千発なりの弾薬ですけれども、これも山を歩いているうちに仲間の者がそこらに置いたやつを拾い集めたものが大部分でありまして、その後そういうようなものを手に入れておれば、またこれは別でございます。  それから最後の点でございますが、私か道案内に立って現地を捜索するのが一番いい、これはどなたもそうおっしゃいます。私もそう信じております。しかしその点は、以前はいざ知らず、現在では妻子がありますので、ここで即答はしかねますが、私はできる限り現地に飛んで探す決心でおります。
  18. 逢澤寛

    ○逢澤委員 関連して。大へんの御苦労、感謝しております。ただいま私のお尋ねしようと思う同じことをお尋ねになったのだが、捜査について、あなたが牛や馬をときどき食糧のためにとりに出た、これにはどのくらいの時間がかかりましたか。私は、大体山の大きさというものが知りたいと思うのだが、それには時間がどれくらいかかったか。
  19. 赤津勇

    赤津勇君 それは、島はそう大きくありませんです。その牛や馬といいますのは、現地人が飼っておりますもので、これを放し飼いにしてあるので、その牛が山に遊びに来ます。それをちょうだいするわけでございます。
  20. 逢澤寛

    ○逢澤委員 もう一つお願いします。あなたにぜひ案内人として行っていただくのが一番有効適切だと思うのだが、これは、一つには国の予算の面と、あるいは有志からそういうような資金を集めるというような方法もあるでしょう。それにしても、行っていただくということが一番のなにになると思いますが、あなた方の今までのいろいろの御苦労の経験からいって、人里離れて一日くらいな行程のところで今住居転々としておるとか、あるいは二日ぐらいな行程のところに転々としておるとか、そういうようなことの想像がつきますか。いわゆる部落か人家のあるところから、どのくらいな時間でということの想像がつきますか。
  21. 赤津勇

    赤津勇君 とにかく、島全体といたしましても大して広い島ではありませんで、時間はそうかかりません。どんな遠くても、半日もあればおそらくその地点に達することができると思います。
  22. 山下春江

    ○山下(春)委員 きょう赤津さんの御説明で、私どもも、何か島の中にいて話を聞くほど非常によくわかりまして、わかるにつれても、一体どんな苦労をしておられるかということは想像に余るものがあります。先ほど外務省お話では、射殺事件があったが、それは諸般の情勢から推して小野田さんと小塚さんではあるまいかということは、事件そのものは悲しいことですけれども、非常な望みを私どもに与えてくれた報告でございました。これがそうであることを心から祈っておるのであります。そこで本委員会としては、過去十年を振り返ってみますと、こういう問題はどんな困難な問題でも取り組みまして、これを何とか解決していこうということが、本委員会のみんなの心からなる念願であり、また努力してきたのであります。そこでこのルバング島の問題も、何回かこの委員会の議題にいたしたのでありますが、今日ほど詳細に、そのときの情勢を聞くことが実はできなかったのでございますけれども、聞いてみまして、そうして私どもの心からそうしなければならないと信じられることは、この二人の方々を救い出すということであります。これは非常な大きな、世界に対する人権宣言のようなものでございまして、どんな努力をしても救い出さなければならないと思います。そこで救い出す方法として、赤津さんが最後に言われたことは——実はきのう、小野田さん、小塚さんをどうかして救い出したいという肉親の方や同級生の方々の異常な熱意に私も感激をいたしたのでありますが、その際にも、私、実は赤津さんと同じようなことを申し上げた。これは先ほど厚生省から報告がありました通り、きょうまで政府の手としてあらゆる手段を講じてみたのですが、今あなたがお述べになるような心境で、しかもあなたがお別れになってからもう八年、もっと心境は変則的になっていると思わなければなりません。一般に、私どもがここで考えておる常識をもって何か考えましても、それは御本人たちには全然通用しない心境だと思うのです。そこであなたが結論的におっしゃた、多くの人を必要とするよりも、長期にその中に入って見た目から見ますれば、向うにいる方は、あなたがおいでになったときでさえ、すでにそでなしにショート・パンツだったということでありますから、もうきれらしいものはないかもしれませんね。あるいは木の皮の繊維等で作った手製のものをまとっておられるか、あるいはそこらでどうにかして手に入ったものか、いずれにしても相当怪異な様相をしておられると思わなければなりません。そこで、ちゃんとした洋服を着て、ちゃんとした格好をして、めがねなど携えてちょこちょこ入っていけば、非常に感情にぴたりとこない姿になりますから、相当長期に山の中にその方々も待機して、同じような姿になったときに出会えば非常に感じがよいということも考えられますので、私は、実はきのう同級生とか御親戚というお方々に、そういう努力に耐えてもこれは探し出さねばなりませんよと申し上げたのですが、皆さんかたい御決意の様子でございまして、私も、その友を思い、肉親を思う気持に全く打たれたのであります。しかしこれは、友を思い、肉親を思うというだけではないのです。これを、もし私どもが今日よう救い出さないとなると、三輪さんがパンフレットに書いておられるごとく、用事のある間は命を軽んじてこれを使い、用事がなくなればもう捨てて、助けないんだということの印象を与えてはいけないと私どもは思うのです。これからの日本の青年たちにもそういう感じを与えてはいけないとしみじみ思いますので、この委員会政府もあらゆる努力をして、このことに御協力をいたしてどうしても助け出したい、こう思っております。私は、これを助け出すという方法は、後刻いろいろと厚生省等ともお話合いをして、本委員会の本日の決議のようなものをもってしても、一番最善と考えられる救出方法を実行するということを、ぜひとも決定してもらいたいと思います。  そこで今度は外務省へお尋ねをし、外務省でそういう方法を講じてもらいたいと思いますが、そのときに非常に心配になるのは、今赤津さんが仰せられるように、小野田さんは非常な違った環境で十余年生きておられるのです。その間に牛をちょうだいしたにしても、馬をちょうだいしたにしても、戦争のまんまの状態で今日まで来ていますから、日がたてばたつほど、いろいろなことが積み重なるのです。けれども、まだ相当なインテリとしての神経が麻痺しておるわけではないのですから、その罪過というもので、出ていっても非常な重い処分を受けるのではないか、このことが心配であることも、一つは名乗り出られないことだと思うのです。そこで外務省では、フィリピンでこの問題を処理するようなことなく、あくまで日本に帰していただいて、何かその責めを負わなければならないことが小野田さんにあるとするならば、日本の国民の全部がこの方をお守りしながら、償うべきものは償うといたしましても、比国においてそういうことが行われるのではないかということがわれわれも心配なんです。そこで、そういうことがなされるような外交関係にあるかどうか。なされることであれば、それは絶対に本委員会としては困りますので、とにかくその問題はまるまる日本へ渡してもらわなければならないのですが、今外務省でいろいろ苦労していただいておる段階においては、どんなような状況でございましょうか。
  23. 有田武夫

    ○有田説明員 お答えいたします。フィリピン側が裁判にかけるかどうかというようなことは、まだ御本人たちが出てきておりませんし、また初めてのケースでもございますので、具体的に申し上げることはできないと思います。しかしながら、この前の山本中尉の場合も、それから今回もそうでございますが、出てきた場合に、絶対穏便の措置をもって無事に日本側に渡してくれるようにということを言っておりまして、幸い山本中尉の場合は無事渡されたわけであります。今度も、こちらからフィリピン大使館の方に連絡をいたします場合には、その点はそのつど念を押してフィリピン側と折衝するように言っておりますので、御了承を願いたいと思います。
  24. 山下春江

    ○山下(春)委員 その問題につきまして、現段階においては外務省はそれしかできないと思いますが、その問題につきましては、過去にもフィリピンにおきましてはわれわれのこいねがうような方法で処理してくれておりますから、今度もむろんそうであろうと思いますが、特に外務省に、そういうことのないように努力することをお願いをしておきます。巷間伝えられる射殺事件等があったために、見つけたら射殺してもよろしいというような指令が出たとか出ないとか、あるいは山狩をする等のことを考えているとかどうとか、先ほどの御報告でその点は特段に今取り上げて言うほどのことがないように了承いたしましたが、なおその点を外務省では十分に責任を持ってフィリピンと御折衝願って、それらのことのないように十分なお手当をいただきたいということを申し上げて、それ以上重ねて聞くことはございません。それは外務省にぜひお願いをいたしておきます。  それから、赤津さんに重ねて聞く必要はございませんが、今同僚議員からも御質問がありましたが、赤津さんが道案内をすることが一番適当だ、そうして自分もそうしたいと決意をいたしておった、しかし今は妻子があるので今即答できないというのですが、本委員会としては、そんなことをあなたにお願いするということはあまりにも、残酷で、できません。ここであなたが、自分がそれを引き受けないと、何か委員会人たちに申しわけのないような気持にきょうからおなりになる必要はありません。あなたは私のせがれくらいの年でしょうが、私がかりに親の立場になれば、小野田さんを助けなければいけない、小塚さんを助けなければいけない、さりとて、あれだけの苦労をしたところへもう一度道案内に行っていただくということ、一カ月か、三カ月か、半年か、目的を達成するまでは相当長期の滞在をする必要があると思われるところへあなたに行っていただくということ、そんな残酷な要求はよういたしません。従いまして、本委員会に出てもらって非常に得るところがあった上に、今晩からあなたを、あの委員会がどうしても赤津さんに行って下さいというようなことをきめるのではないかというような、御不安な生活をされることにこの委員会がもし追い込んだとするならば、それは全く私どもはそういうことを希望いたしておらない。ありがたいことですけれども、希望いたしておりません。同じように、ルバング島を御承知の方で健康で、小さな島だからすみからすみまで、どんな苦労をしても、どうしても自分が行って探し出すという方が、私どもにお申し出の方さえあるくらいであります。委員会にあなたに来ていただいて、私どもは、きょうまでにいろいろルバング島の問題を扱った中で、一番きょうがぴったり頭の中に、その中の情勢がよく入りました。そのよくわからしていただいたあなたに、今晩から重荷をしょわせるということは、委員会の望むところではありませんから、その点はどうぞお心持を平らにして下さい。このお二人を救出するために、幾らでも率先して、自分が行きたいといって私どもにそれぞれお申し出になった方もあるくらいでございますから、赤津さんの御好意はよくわかりますけれども、この委員会に出たおかげで今晩からあなたがノイローゼになっておしまいになるというようなことでは、委員会としてはまことに申しわけございません。同僚も、そういう意味で申し上げたわけではございませんから、お気におとめにならないように。そして、私は委員長にお願いを申し上げるわけですが、本特別委員会としては、先ほど申したように、この問題でいかなる努力をいたし、苦労をしてでも、必ず救出するという意思決定を、自民、社会両党でいたしたいと思うのであります。なお、日本国国会としても、先ほど社会党の中村さんその他の皆様方と御相談をいたしましたが、これは本会議において両党共同提案の決議をいたすことに異論ないというお話でございましたので、本委員会の要望として、ぜひしかるべきところにお取り次ぎを願いまして、早急に、日本国がこのお二人の方を救出するのにいかに熱意を込めているかということの意思表示をいたしたいと思いますので、ぜひこの問題を早急に本会議の決議として、両党の決議として提案できるようにお取り計らいをいただきますようにお願いを申し上げまして、私の質問を終ります。
  25. 田口長治郎

    田口委員長 ただいまの山下委員からの申し出につきましては、委員長としてすみやかに適当な処置をいたしたいと思いますから、どうか御了承願いたいと思います。
  26. 大貫大八

    ○大貫委員 ちょっと赤津さんに一点だけ。  あなたが現地におられた当時、今度の戦争でいわゆる戦争犯罪者——過去の戦争の常識では、こんな例はなかったわけです。ところが、今度の戦争では、負けた方の者が大量戦争犯罪者として勝った方の国から裁判を受けた、いわゆる戦犯ですね。そういうことが、どうでしょうか、島におってわかっておったでしょうか、あるいは全然知らなかったでしょうか。
  27. 赤津勇

    赤津勇君 それは知っておりました。といいますのは、いまだ島に大ぜいいまして、盛んに投降勧告工作をしている時分に、当時の新聞を読んだ。その記事には、東条さんの裁判のことが出ておりました。それとまた、裏面の方に加藤シヅエさんでありますが、あの方とマッカーサー司令部との一問一答の記事なども出ておりました。南方にいる父あるいは夫、兄を、一日も早く帰してくれるように嘆願している一問一答が出ておりました。私の投降も実はその記事に若干影響されておる。といいますのは、そのときの加藤さんの質問に対し、マッカーサー司令部の答えというのは、とにかく一日も早く南方から引き揚げるよう努力はするが、いかんせん広範囲でもあり、多数の人員であるので早急には片づかない、少くとも五年はかかるだろうということが出ておった。私は、何の気なしにその五年間というものがぴんと頭にきまして、どうもこの五年というのがくさい、そして五年間だけは、何でもかんでもがんばらなければいけないとひそかにそう決心いたしまして、大体そのころを見計らって山をおりたようなわけであります。当時、私がおるときは、戦犯の期限が切れておったように聞いております。期間内であったならば、あるいは私もどうなっておったかわからないと思います。
  28. 大貫大八

    ○大貫委員 それでは、小野田さんももちろんそういうことはわかっておったわけですね。戦犯として処刑されておる者があるということ、フィリピン関係なんかで、処刑をされたなどということは聞いておりませんでしたか。
  29. 赤津勇

    赤津勇君 その記事を見た当時は、私小野田さんと一緒におりませんでした。その当時私は別のグループにおりまして、小野田さんのグループにはおりませんでした。ですから、果して小野田さんなり小塚さんなりが、その記事を読んだかどうかは知りません。私が小野田さんのグループに加入いたしましたのは——その当時は、小野田氏、小塚氏、嶋田氏と三人でおったのですが、私はほかの二人の仲間一緒に別のグループにおりました。ちょうど日米両軍の投降勧告隊員が大ぜい見えましたのですが、そのときに、私の仲間が二人、夜里へ物取りに出まして、私はちょうど留守番のような格好になって残りました。その晩、どうも様子がおかしいというので、その二人、それになくなった嶋田伍長なども——実はもう一人別の隊の人と四人で行ったのですが、様子がおかしいので、物をとることができずに、から身でもって帰ってきました。普通でしたならばそう無理までして夜間の行動はしないのですが、その晩に限ってあまりにも様子がおかしい、できるだけ隠れ家に近いところに来ていようというので、幸い月明りもありましたので、それを利用いたしましてかなり奥まで来たそうです。偶然にもそのとき、その奥の広場に勧告隊の方が陣をしいておりまして——昼間行ったときにはいなかったのです。ですから、帰りももちろんいないと思ってそこを通りかかったのですが、あとからそこにきっと陣をしいたものと見えます。そこへ飛び込んで行きました。敵の方はそれを知って、切り込みか何かが来たんではないかという懸念からでしょうか、すぐ発砲いたしました。私はそれを住家にいてよく聞きましたが、まさかそのときその二人がやられたとは思いませんでした。翌日になってその場所でもって仲間の所持品らしいものを発見したり、また、血痕なりつけて二人が殺されたという事実を知ったのです。そして、私は結局一人ぼっちになってしまいました。そこで、いろいろの方が心配いたしまして、結局嶋田伍長なり、小野田少尉殿のいるところに加わるのが一番妥当だという意見、また自分もその方を希望しておりましたので、合流することになったのです。
  30. 大貫大八

    ○大貫委員 赤津さんはけっこうですから、外務省にちょっと。  今お話を伺っておりますと、これは相当何か逼迫しているような感じがするのです。というのは、射殺事件があったということで、フィリピン当局ではあるいは大々的な討伐なんかをなされるんじゃないかということが非常に懸念される。まずこれは外交的に救出するということで、そういう行動に出ないようなことをフィリピン政府に折衝してもらわなければならぬのじゃないか。国会は国会で意思決定をやるとしても、とりあえずそういう適宜の処置を外務省の方でとってもらわなければならぬ。それで、先ほど赤津さんから伺っていますと、小野田さんは特殊教育を受けた人であれば、なおさら非常に敏感だと思うのです。私ども満州で若干の経験がありますが、特にそういう謀略工作をやった者は、戦犯なんかの問題も、ほかの者よりも特に敏感に感じておると思います。ですから、おそらくはこのまま放置しますと、どうせ出たってもう助からぬ命だということで、かりに最近起ったこの二名の射殺事件が小野田さんなどの手でなされたものだとすれば、これは容易ならぬことだと思います。私は実感としてそう感じます。まずその命の保障について手を打たないと、これらの本人たちはもう自暴自棄というか、特殊な、荒れたものになっていると思うのです。どうせ出たって戦犯としてやられるんじゃないか、特に謀略工作なんかをやってきた自分としては、もう助からぬのだ、最後のたまも切れておるからどうしようもないということで、最後の腹をきめて、あばれられるだけあばれようということになると、これはどうにもならないんじゃないか。だからまず、そういう大々的な討伐工作なんかしないということが先決。それから第二段としては、救出のためにどういうことを使うか、そのことは国会として、この委員会でも相談されるべきことなんですけれども、命を助けるというか、討伐しないことを保証するという交渉をしてもらいたいと思います。
  31. 田口長治郎

  32. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 私は赤津さんに一点、特にお伺いしたいことがあるのです。先ほどの御説明の中で、私の方がうっかりいたしておりまして聞きそこなっております点ですが、あなたが下山なさるとき、その前にすでに二人に別れて、お一人でいる時間がございましたね、それは何カ月くらいでございましたか。
  33. 赤津勇

    赤津勇君 八カ月か九カ月だと思います。
  34. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 その間一人で、食糧はどういう状態でございましたか。
  35. 赤津勇

    赤津勇君 同じでございます。
  36. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 やはり一人でいろいろなものをとる……。
  37. 赤津勇

    赤津勇君 ええ。
  38. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 そこで熱病にかかられて、病気がきっかけで下山なさったわけですね。そうしますと、下山なさったときには、小野田さんにも、もう一人の小塚さんにも何の連絡もなく、お一人でおりてきてしまわれたのですか。
  39. 赤津勇

    赤津勇君 ええ。
  40. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 そうすると、そのときのお二人の状態は御存じないわけですね、八カ月という間は。  それからもう一つ伺いたいことは、天然にできた果実を常食にしていたのですが、それは山の中のバナナヤシ、パパイアだとかマンゴ、そういうものでございましたか。
  41. 赤津勇

    赤津勇君 大体そうでございます。
  42. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 そのほかの栄養は、馬だの牛だのを一人で殺して食べていた……。
  43. 赤津勇

    赤津勇君 そうです。
  44. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 その状態で、あなたは足が浮いてしまうとか、栄養失調に近い状態になったわけですね。
  45. 赤津勇

    赤津勇君 結局塩分の不足からきたのではないかと思うのでございます。
  46. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 実は、私の弟は、やはりフィリピンのネグロス島で餓死をしております。あなたの本日のお話が非常に参考になりましたし、私としてもその当時の弟の姿なども思い浮かべまして、大へんありがたかったと思います。そして私が自分の弟を餓死させたということからいろいろ想像しますのに、あなたのあとに残りましたお二人が、そういう状態で果してこの十年近く、ここで申し上げてはいけないことかもしれませんが、このたび二人の現地人の犠牲者が出たということで、われわれもお二人が生きているという望みを持ったのですが、果してそのような状態で生きておられるものでございましょうか、これは想像でございますが……。
  47. 赤津勇

    赤津勇君 私は一緒に五年ほどおったのですが、もう五年生きられればあと一緒ではないかと思うのです。すでにその生活にはなれてしまっておりまして、さほど苦痛は感じませんでした。
  48. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 それじゃ、一そう私は安心して希望をつなぐことができます。  それからもう一つ伺いたいことは、先ほどあなたは、山の上りおりは半日もあればできるとおっしゃいましたか。
  49. 赤津勇

    赤津勇君 大ていそのぐらいでもってできると思います。
  50. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 そうすると、非常に小さい山ですね。
  51. 赤津勇

    赤津勇君 小さい山です。
  52. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 実は私は弟の死に場所に入ろうといたしましたら、このジャングルは、一たび入ると出ることができないから、入ってはいかぬと現地人にとめられたのですが、それぐらいの大きさでございますか。私は、それにおいてもやはり一つの望みをかけられると思います。往復半日で上りおりができれば……。
  53. 赤津勇

    赤津勇君 その点、ちょっと誤解のないように申し添えておきますが、ほんとうの奥へ行くのにはもっとかかるかもしれません。しかしあまり奥へ行ってしまいますと、今度食糧調達の場合に困りますので、さほど奥には入っておりません。大体半日ぐらいで出られるようなところにひそんでおります。
  54. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 山の大きさでなく、その程度場所にいるということですか。
  55. 赤津勇

    赤津勇君 そうです。
  56. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 そうしますと、山へは住民は、出たり入ったり多くするのですか。
  57. 赤津勇

    赤津勇君 絶えずしております。天気がよければ必ず住民が入っているようです。
  58. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 何しに入ってくるのでしょうか。
  59. 赤津勇

    赤津勇君 木を切ったり、トウづるを切りに入ります。そのトウづるを探しに来る住民行動が一番こわいのです。といいますのは、トウというものは至るところにありまして、また、とても向う住民は重要視しておりますので、トウにつきましてはどんなところへでも入ってくるのです。こちらで安全だと思っておりましても、近所にトウがありますと、あるいはそれを目標にやってこないとも限らない。ですから、そのトウ取りの住民が一番こわいのです。
  60. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 お水はどういたしておりましたか。
  61. 赤津勇

    赤津勇君 水は谷川で、心配ありません。
  62. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 谷川のあるような山でございますか。
  63. 赤津勇

    赤津勇君 長くおりますので、大体どこへ行けば水があるということはわかっております。
  64. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 生きているという希望は一そうつなげますね。ありがとうございました。
  65. 田口長治郎

    田口委員長 坊秀男君。
  66. 坊秀男

    ○坊秀男君 委員外の者でございますが、発言のお許しを得ましてまことにありがとうございます。  本委員会におきまして、小野田少尉及び小塚さんの救出につきまして非常に熱心なる討議をいただいておりますことは、小野田少尉と郷里を同じくする私にとりまして、感謝感激のほかございません。ことに、先ほどから本委員会の御決意と申しますか、救出方法等につきまして非常に適切なるお話を承わりまして、私、まことに力強く存じておる次第でございます。本日は、当人の実兄その他友人、親類の方々が傍聴に見えておるようでございますが、どれだけ感激しておるか、おそらくは涙を流さんばかりに喜んでおることと思います。私も同郷の一人といたしまして、深く感激いたしておる次第でございます。どうか本委員会におきましてさらに一そう御検討をいただきまして、できるだけすみやかに救出方法をお講じ下さいますことを、切にお願いする次第でございます。  なお本委員会にも、これは私から申し上げるのは非常に僣越でございますが、きょうは赤津さんわざわざお見えいただきまして、切々たるお話をいただいて、これまた現地事情その他救出方法につきまして、まことに大きな示唆を与えられましたことは感謝にたえません。  なお、政府を代表して御出席いただいた外務省及び厚生省当局におかれましては、どうか本委員会のこの熱誠なる審議等につきまして十分よく御報告を願いまして、国会の意思に沿うたような方向に措置をせられんことを、私同郷の人間の一人といたしまして、切にお願いを申し上げる次第であります。  委員長、どうもありがとうございました。
  67. 田口長治郎

    田口委員長 他に御質疑もないようでございますから、本日はこの程度にとどめ、次会は公報をもってお知らせすることにいたします。  赤津さんには、長時間、非常に重要なる参考事項について熱心にお述べ下さいましたことにつきまして、委員長としてここに感謝の意を表する次第でございます。  これにて散会いたします。     午後四時二十二分散会     —————————————
  68. 田口長治郎

    田口委員長 それでは、最近の同島における事件に関しまして、その後の調査結果が判明しておりますれば、この際、御説明を願います。  外務省有田武夫君。
  69. 有田武夫

    ○有田説明員 去る二月二十日のここにおきます懇談会のときには、まだ入手しておりませんでした詳細なる報告書がこの二十三日に外務省に到着いたしましたので、御報告申し上げます。  まず第一に、最近の二つの事件につきましての概要でございますが、第一の農民射殺重傷事件は、今年の一月二十七日の午後五時に起っております。被害者は五十才の男であります。被害状況は、被害者が同僚二名とともに、材木を運搬するために密林との境に山道に入っておりましたところ、密林より射撃をされまして、肩に貫通銃創を負いました。被害者よりややおくれまして下山して参りましたもう一人の同僚がこれを発見いたしまして——チリクというところでありますが、被害者をかかえおろしまして応急手当をいたしました。同地を管轄しておりますルバング郡長からガルシア大統領あてに電報で救援を求めまして、マニラに被害者を空輸いたしまして、現在マニラ郊外のさる病院で加療中であります。  第二の事件は、道路建設隊用員の射殺事件でありますが、これは二月一日の午後五時半に起っております。被害者は二十三才の男であります。この被害者は、第五一二工兵隊と申しまして、これは現地でレーダー・ステーションそのほか軍事施設の工事をやっている部隊でございますが、この工作隊の雇員でございます。現場に宿泊しておりまして、同日は、仕事を終えまして、同僚とともに炊事用のまきをとりに、そこから約二百メートル離れました密林と草原の境に行きましたところ、密林から射撃を受けまして、胸部に貫通銃創を受けて即死いたしました。同僚は数メートル離れたところにおりまして、急いで工事現場にかつぎ込んだのでございますが、すでに即死しておりました。こういう二つの事件でございます。  それによりまして、フィリピン警察軍の措置でございますが、さきの二つの事件が発生いたしますや、直ちに第二管区司令官のオヘダという准将以下幕僚が現地におもむきました。これは二月七日でございますが、翌日の二月八日にはまた幕僚長のユンヘンテという大佐以下四名の情報将校と山岳部隊の一個小隊——これは三十名と軍用犬が二頭だそうでございますが、これを派遣いたしまして、すでに活動しておりました西ネグロス州の警察部隊長のヴィレニア少佐とその配下の小隊を援助せしめております。その捜索隊は本部をレーダーの建設工事現場に置きまして、二月の九日から行動を開始し、二月の十二日夕刻まで第一期の捜査をやっております。その際に、ユンヘンテ大佐は山岳の捜索部隊に対しまして、日本兵を射殺しないようにという訓令を与えております。それと同時に、島民に丸しましては、残留日本兵を見つけた場合には遅滞なく警察当局連絡すること、できる限り危害を加えずに当局に引き渡すことという要望書をビラにいたしまして配っております。山岳部隊は総勢が約五十名ございましたが、先ほど申しましたユンヘンテ大佐以下の情報将校は、十三日同島を出発して一応本部に帰っております。  これが今までの救援の概要でございます。  これに対しまして、本件に関する問題点でございますが、地理的状況から申しますと、あるいは生きているかもしれないという判断は相当つくわけでございます。と申しますのは、その島には天然の産物が豊富であるということで、食糧には不足しない。それから、これは真偽がはっきりいたしませんけれども、島民が見かけた残留日本兵というものは非常に太っていた、たくましかったというような情報もあるわけであります。気候は、御承知のようによろしゅうございまして、薄着のままで年じゅう過ごせる。密林の中には自然の洞窟もあって。居住には困難しないというような地理的条件からいたしまして、あるいは生存しておるのではないかという根拠は十分立つわけであります。しかしながら、一方今回参りました警察軍の判断によりましても、今回の事件が果して日本兵によるものであるのかどうか、そして彼らが生きておるかどうかについては、疑おうと思えば十分疑う余地はある。しかし今までの情報は、全部島民が目撃したというようなところにありまして、政府当局の者自体がこれを確認したわけではないわけであります。そこで何としてもはっきりとした、生きているという断を下すことはできない。ただ先ほど申しました地理的条件から、同人のしわざではないかと推定せざるを得ないという実情にあるわけであります。  それからまた、本人が射殺し、または重傷を負わせたかどうかということに関しましても、これも証拠はございませんで、たとえば弾薬とか薬莢を手に入れました上で、それを検査いたしまして判断を下さなければいけないわけでございますが、それはまだわかっておりません。そこで今一応、九九%くらいは日本兵のしわざではないだろうかということで言っておりますが、いずれにいたしましても反証がないということであります。  それから今度の救出工作に関しまして、どういう方針をとったらいいかということでございますが、先ほども申しました警察部隊の隊長の感想といたしましては、日本から留守家族を送ってもらったらいいとか、その時期は三月下旬か四月上旬まで、すなわち雨季に入るまでがいいとかいう感想を述べておるようでございますが、この報告を書きました現地に参りました河野理事官の意見といたしましては、今のところむしろ連絡箱というものを設けまして、月に二回くらいこちらから新聞雑誌あるいは通信を入れに行く、同時に、その連絡箱向うからの応答がないかを探しに行くというような方法をとるのがいいのではないか。この連絡箱については、警察軍も、また現地の郡長さんの意見でも、非常に大賛成であるということであります。それから同時に、今後の工作ビラも、機会のあるごとに実施したいということを言っております。  それからこのビラと関連いたしますが、住民はおそらくいい感情は持っておらないと思うのでございますが、投降者が日本で英雄視されているような印象を与えるような取扱いはやめてほしい、記事や写真などの取扱いに関しても、そういうことのないように十分注意してほしいということをつけ加えております。  以上で最近参りました報告の概要を終ります。
  70. 田口長治郎

    田口委員長 この際、本問題について質疑があればこれを許します。受田新吉君。
  71. 受田新吉

    ○受田委員 私は、今の外務省の御報告に対してお尋ねを申し上げておきたいと思います。  私は、ちょうど昭和二十八年の秋だったと思うのですが、このルバング島に四名ばかりの元日本兵が残っておるという新聞報道をもとにして、衆議院本会議で質問を申し上げたことがありました。その直後、私和歌山県海南市へ参りまして、小野田さんの御両親に会って御激励申し上げ、その帰還のすみやかなることをお祈りしたものでありますが、それからちょうどまる六年たっておるわけです。その間政府がどのような措置をされたかということについても、いささか疑義があるのですけれども、私ここで、はっきり申し上げたいことは、南極で樺太犬が二匹生きていたということに非常な喜びを感じ、また、それに莫大な資金をつぎ込んで南極探検をやることも一理あると思うのですけれども、人間の生命ほど大事なものはないのですから、二人の生存者がある見通しがついている今日、この人たち救出するためにあらゆる努力をささげて、金銭的にも、また労働的にも、いかような努力でもささげてこれを救い出す、これが国際的にも、人道的にも、どれだけ大きな意義があるかと思うのです。南極以上の重大な意義があると私は思うのです。今御報告を聞いておると、現地の警察軍の活動に非常に期待をしておられるようでありますが、もっとあたたかい心づかいをされるならば、私は、この二人が姿を現わされることについては、もっと努力の道かあると思うのです。たとえば御両親や御兄弟や、あるいは郷里の学校の生徒、児童たちの訴えを手紙の上に書き、あるいは絵に示して、それを現地の山林の中までばらまいて、そこを通行するときに、あら、親の文字だ、兄弟の文字だ、学校の子供の文字があるというところで、すぐ親しみをもって気持を変える方法もあると思うのです。また、トランジスターのラジオなども整備されておるのですから、そういうラジオのようなものでもそのあたりに適当に置いて、たまたまそれを拾っていじっている間にふるさとのたよりを聞かれるというようなところで、心のなごむ方法もあると思うのです。人間的なあたたかい心づかいのあらゆる限りを尽して、この問題の解決について、外務省も、厚生省も尽力していただかなければならぬと思うのです。大体現地の警察軍を使って、あたかも討伐するような形の捜査の仕方でなくして、あたたかい心づかいをもってこのお二人の行方を探すという方法をとるべきではないか。日本フィリピンは国交が回復しておるのですよ。中共やソ連のような形のものではないのです。現地日本との関係は非常にあたたかくなっているのです。事情が違うのですから、あなた方の御努力によって、たとえば御両親、肉親現地へ行っていただくということはもちろん必要でございますが、今申し上げたようないろいろな方法を講じて、このお二人の御所在をはっきりさせるという道があると私は思うのです。六年間あまりにも沈黙し過ぎておった。赤津参考人の意見などを聞いてみても、捜査の方法、二人の行方の探し方、現地のやり方にはまずいところかあるということを、この間言うておられたのですね。そういう意味からも、一つ外務省厚生省一体となって、どのような金がかかってもいい、あらゆる努力を払って、もっとあたたかい心づかいをする方法を講じて、お二人の投降を、帰り来る方法を二つ講じようではないですか。私はその点について、今の御報告の中でなお少し冷静過ぎて、もっとあたたかみのあるものをほしいと思うような節がありましたので、政府当局に対して、そういう意味の心づかいというものを一歩進めて考えられるべきではないかということを伺いたいと思います。
  72. 河野鎭雄

    河野政府委員 従来政府としてとりました措置につきましては、この前の委員打合会であらましのことを申し上げたのでございます。ただいま受田先生からお話のございましたと同じような気持をもって、実はこの問題に当っているつもりでございます。行き届かない点があったではないかというふうな御注意をいただいたわけでありますが、その点は今後も十分対策を考えまして、善処をいたして参りたい、かように考えておるわけであります。  留守家族の方に、現地に行っていただきましたのは二十九年でございました。このときは、小野田さんのお兄さんと小塚さんの弟さんと、それに厚生省職員をつけまして、三人が約二週間にわたって相当徹底した呼びかけをいたしたわけであります。この辺の事情は、受田先生もよく御承知かと思うのでございます。そのときもラウドスピーカーを持っていきまして、南側で呼びかけた声が北の部落まで聞えたというぐらいに、相当あっちこっちを歩きまして、徹底して呼びかけをいたしたわけでございます。しかし、残念ながら反響が得られなかった。その後もほうっておいたわけじゃございませんで、やはり捜索を気長く続けなければいかぬじゃないかということで、現地大使館、また向うフィリピン側ともお話し合いをしておったのでございますが、一時話し合いがスムーズにいかなかった期間がございまして、ちょっととぎれたのでございますが、昨年遺骨収集団がフィリピンに参りましたときと、ちょうど期間が一致して捜索が行われたわけです。その際も、フィリピン側に御協力いただきまして、軍用機も出していただきまして、空から相当多量のビラなり、新聞等、まいたのであります。またその呼びかけの仕方も、今すぐ出てこいと言ってもこれは無理かもしれぬので、そういうことを言うのではないので、生きておるなら一つ合図をしてくれ、合図をしてくれたら肉親の方に行っていただくようにしたいと思っておるからというふうな趣旨で、ビラを約一万五千枚くらいまいたのであります。それから新聞等も、約二千部くらいまいたのでございます。そのほかに、今お話のございましたように、やはり郷里を思い出させるようなものを届けることがいいのではないかということで、肉親の愛情のこもった手紙だとか、あるいは写真、郷里のかおりの高い食べもの、こういったようなものも同時に持っていきまして、知恵をしぼって、いろいろなものをそろえて向うに持っていったわけであります。しかし、残念ながら応答がございませんでした。遺骨収集団が帰って参りましたあとにも一、二名残しまして、若干の捜索を続けさせたわけでありますが、それも失敗に終ったわけであります。  今回の事件が起りまして、ただいま外務省からお話のございましたように、フィリッピン当局でも調査に行かれるということで、日本側もこれに二人ほどついていきまして、二回にわたって呼びかけをいたしておるわけでございます。  速絡箱の話が出ましたが、二回目に行きましたときは約十個の速絡箱を持っていきまして、これも現地に備えつけていただいたものと理解をいたしておるわけであります。  今かりに生きておるとすれば、どういうふうな心境にあるであろうかというふうなことを、今後の対策としても考えていかなければならぬと思うのであります。生きておるとするならば、二つの場合が考えられるわけでありまして、一つは、もう絶対に出る意思がない、この間赤津さんのお話にもありましたように、十年でも二十年でもがんばるのだ、投降ということは、もう日本人としてできないという信念に徹底しておる、それが長年の間に、むしろ片意地のようなくらいにまで徹底しておるというふうなことも、実は考えられるのでございます。それからもう一つの場合として考えられますのは、やはり生命、身体の危険を感じてやすやすとは出られないという心境で、合図もしなければ出てもこないというふうなことも考えられるのじゃないか。結局この二つの場合が、生きておるとしても何らの応答がない理由として考えられるのじゃないかというふうに判断されるわけでございます。どちらの場合が高いだろうかというふうなことを考えてみますと、私ども事務当局として考えられますのは、むしろ前者の気持の方が強いのではないだろうか、出る気持がないということの方が公算として高いのではないだろうかというふうな考え方もいたしておるわけでございます。と申しますのは、先ほど来申し上げておりますように、もしも単に危険ということだけで出ないということなら、いろいろの手段を尽して呼びかけをやっておりますので、ことに肉親が直接行って、おそらく生きておるとすれば聞かなかったということは考えられないような工作をやっておりますし、また向う側も身体の保障をするようなふうにも申しておりますので、そちらの方の懸念から応答がないというような公算は、むしろ少いのではないかというふうな考え方をいたしておるわけでございます。  そこで今後の対策といたしましては、やはり気持をほぐすようなことをまずやることが必要ではないだろうか。そこで連絡箱というふうなことも実は思いついたわけでございますが、やはりこれは相当気長に、反復して気持をほぐすようなものを届けるというふうなことで、だんだん気持を緩和していくというふうな準備工作を、まずやる必要があるのではないだろうかというふうな考え方をいたしておるわけであります。従来やりました工作も、少し間が延びているというきらいも確かにあったかと思うのであります。この点につきましては、さらに外務省ともよく相談し、また現地側の協力を得まして極力努力をいたしたい、かように考えておる次第であります。
  73. 受田新吉

    ○受田委員 政府努力の跡は一応うなずけるのですが、今あなたの最後に言われた気持をほぐす努力、その意味においてはもちろんお父さんやお母さん、肉親の写真を届ける、あるいは手紙を落すということもあります。同時に、郷里の小学校や中学校の子供たちに、おじさんお帰り下さいという切実な気持を訴えた肉筆で書いた作文、つづり方、歌というようなものをたくさん上空からばらまく。そうしたらどの手紙かにとっつくわけですから、そういう努力などは、気持をほぐす上で大へん大事なことだと思うのです。そうした人情に訴えることでやってもらいたい。私、今外務省の御報告で、これを殺戮するためではないという非常に協力的な比島政府の意思を伺ってほっとしたわけですが、しかし同時に、警察犬とか軍というような形のものは、私たちとしては、何だか人間の取扱いとしては非常に過酷過ぎると思うのです。今後の方針としては、今河野局長さんがおっしゃったような、気持をほぐす方面の努力にもっと重点を置いていろいろ御検討されれば、今私が申し上げたような具体的例が出てくると思うのです。それをやっていただく。  それから、河野さんがおっしゃった写真とか御両親の手紙とかいうものは、本物じゃなくて印刷物になっているかとも思うのですが、そういうものかどうかということ。それからマイクで呼びかけられたというけれども、私は現地の地形というものはよくわかりませんが、マイクで山全体に響くような、そんなに範囲の狭いところかどうか。そういうところでは、長期にわたって人に知られないで生き延びるということはなかなかむずかしいと思うのですが、そういうところもあわせて伺いたいと思います。
  74. 河野鎭雄

    河野政府委員 ルバング島の面積と申しますか、広さは、長い方が約三十キロくらい短かい方が約十キロくらいの比較的小さな島でございます。そのうち密林地帯というのがまん中くらいにあるわけでございますが、幅にして、おそらく狭い方の十キロの半分以下ではないだろうか。やはり細長い密林地帯だと思うのであります。現地に行った人などの話もいろいろ聞いておるのでございますが、その中をあちこち歩いたら必ずぶつかるじゃないかというふうに私も常識的に質問をしてみたのでございますが、向うで出る意思がなければばシーソー・ゲームみたいになって、向うの方がこちらから行く人よりも動作が敏捷でありますし、非常に神経を使っておりますので、出る意思がなければ出っくわすことは無理ではないか、広くはないけれども、出っくわすことは非常に困難だというふうなことを聞いております。そういうようなことで、何としても気持をほぐすことが必要であろうというふうに考えているわけであります。  先ほどお話の、こっちから持っていったものは印刷ではないだろうかというようなお話がございましたが、これは本物を相当たくさん集めて持っていっているわけであります。こういったようなことをやはり反復してやる必要があるのじゃないか、かように考えている次第であります。
  75. 受田新吉

    ○受田委員 私はこれで終りますが、日本国民の総意というものは、二人のとうとい生命を守ることにちっともやぶさかでないということと、そのためにどのような犠牲を払ってもいい、つまり人命以外の犠牲であれば、どのようなものを払ってもいいという気持が全国民にあると思います。私は、世紀の悲劇の最後に残されたお二人を救うことに成功したならば、日本国が南極探検に成功する以上の大きな意義があると思います。外務省厚生省、よく御相談されて、この問題の解決のためにもう一歩進んだ大方針を立てられ、経済的な負担などはちっとも惜しみなくやる、そういう努力をしていただきたい。  それから、現地へ渡航して捜査に当られる人々の費用とか、そのほかのために要する経費の負担を、野放しにやるという用意が政府にあるのでございますか、これも伺っておきたい。
  76. 河野鎭雄

    河野政府委員 経費の面は、特別にこのためということで予算を計上しておりませんが、必要な経費は、何としてでもこれを処理していかなければならぬ、このように考えております。
  77. 田口長治郎

    田口委員長 北條秀一君。
  78. 北條秀一

    ○北條委員 今受田委員からいろいろと御質問があり、また痛切な御意見の発表があったのでございます。私はその受田委員お話の裏打ちをするようなことになるわけでございますが、今の問題の焦点になりますルバング島の二人の日本人の問題は、ぜひこれを救出したいという日本人の願いと、同時にフィリピン側においては、非常な配慮をされているということはすでに報告にあったわけであります。しかし非常に配慮をされております反面、二人の日本人が生きていることは大体想像される、九九%近くそれが日本兵であるというふうに判断される、しかもその兵が武器を持っているということ、さらにまた、さきに二つの事件が起きたということ、こういうことを兼ね合せて判断すると、現地人たちは非常な恐怖心があるのじゃないか、いつ何どきどういう事件が起きないとも限らぬ、こういうふうな恐怖心があると思うのであります。従って私は、特に外務省に質問いたしたいのであります。向うの警察隊の隊長からビラをまかれたというのでありますが、そのビラは一体どういうような内容のビラであるかということが第一、第二は、日本側として、フィリピン政府のいろいろな御心配に対して大使館を通じて相当協力されておると思うが、そういう点について外務省はどういう態度をとっておられるかということ、もう一つはその具体的な例として、フィリピン人の一人はなくなり、一人はけがをして入院されておるということでありますが、この死んだ人に対して、弔慰の意を表することは日本政府としてやるべきことじゃないかと思うし、入院患者に対しては丁重なお見舞をすべきが当然だと考えておりますが、その点について外務省としては処置をされておるかどうか、この点を一つ伺っておきたい。
  79. 有田武夫

    ○有田説明員 お答え申し上げます。ビラの内容につきましては先ほどの報告で御説明申し上げたと思いますが、具体的にどういう格好ビラで、正確にどういう文句か書いてあったかということはわからないのでございますが、その概要は、先ほども申し上げましたように残留日本兵を見つけた場合には遅滞なく警察に連絡すること、それから危害を加えずに当局に引き渡しをするようにということを要望した内容でございます。  それから死んだ人、また負傷した者に対する政府の措置でございますが、これは二十日のここにおける懇談会でも、山下先生からも、これは国民全体として謝意を表すべき問題であって、彼らには罪がない問題であるからというような趣旨の御発言があったと思います。それにつきましても、早速在フィリピン日本大使館の方にも電報をいたしまして、先方に強く申し入れるようにしておりますが、外務省といたしましては、まだ厚生省と具体的には協議してございませんけれども、やはり国民全体が謝すべきであって、そのための何らかの金銭上の補償は、できればやるべきじゃないかということを考えております。  それから九九%生きておるというのは、日本側の判断ではございませんで、先ほど御説明が足りなかったかと思いますが、フィリピン側で九九%生きているもの、特に住民なんかがそういうふうに考えておる、こういうことでございました。
  80. 北條秀一

    ○北條委員 今私の質問いたしました点が不明瞭であって、お答えがなかったのでありますが、入院している人、それから死んだ人に対してお見舞をするとか、あるいは弔慰の意を表しましたか、この点はどうです。
  81. 有田武夫

    ○有田説明員 この点は、まだ御承知のように日本兵隊がやったかどうかという確証がございませんので、まだ何の措置もとっておりません。
  82. 北條秀一

    ○北條委員 それは、私は非常に人情に反すると思っておるのです。といいますのは、日本兵が大体生きておる、そしてこの傷害を与えたのはどうも日本兵ではないか、こういうふうに現地では判断しておるわけです。これは国際的な問題ですから、日本兵がやったという証拠があがったら見舞に行ったり、あるいは弔慰を表するということではおそいんですね。たとえば、隣の人が全然自分の家に責任のない自動車にひかれたというときにも、そこにはお見舞に行くわけです。死ねばちゃんと香典も包んで行くのだ、それと同じなんです。フィリピン人はかっては、お互いに相敵対して戦った民族でありますが、その人たちが、どうも日本兵にやられたのではないかという疑いがあれば、これは見舞に行ったり、香典を持っていったりすることこそ、当然だろうと思います。それをまたやらなければ、フィリピンに対して相済まぬと思うのです。だから私はおやりなさいというのだ。やっていないならば、私は即座にやる必要があると思う。
  83. 有田武夫

    ○有田説明員 その点十分配慮いたしたいと思います。
  84. 北條秀一

    ○北條委員 それでは、現地の警察隊長がまかれたビラを、大使館を通じて現物をもらわれたらどうですか。私はもらってもらいたいと思うのだ。現物がくれば、私たち現地の隊長に対して、また国民としてお礼を差し上げることもできるし、やはりそういう措置をしなければ——結局私どもは、二人生きているのだからそれを帰せ帰せということでなくて、向う向うで、大衆はそういう脅威を感じているのですから、その大衆に対して、やはりわれわれはとるべき手段をとらなければならぬというふうに考えるのです。おそらくこのビラは、一枚や二枚は入手できると思いますから、なるべく急いで現物を取ってもらいたい、こういうことをお願いしたい。
  85. 有田武夫

    ○有田説明員 そのように処置いたしたいと思います。
  86. 田口長治郎

    田口委員長 山下春江君。
  87. 山下春江

    ○山下(春)委員 外務省にお尋ねをいたしますが、先ほどからの御報告の中の、フィリピン側では九九%生存しているだろうと推定しておるということと、まるきり反対のUPI電が十四日に入っていることは御承知でございましょうか。これについてまるきりあべこべのこと、すなわち、その警察隊が討伐をしたときに、洞窟の中に二人の白骨があって、それは小野田小塚であろうというような、十四日付の電報が入っていることは御承知でございますか。
  88. 有田武夫

    ○有田説明員 存じております。
  89. 山下春江

    ○山下(春)委員 それに対してはどういうふうな御解釈をしておられますか。
  90. 有田武夫

    ○有田説明員 先ほど御説明申し上げました報告の中にもこの点触れておりますので、その報告を読み上げてみます。「発見した頭蓋骨について」、「警察隊が、二月十三日二つの頭蓋骨を密林中で発見し、右両名のものではないかとも報じられたが、それは、相当古いものであり、終戦直前に米軍の進攻を見た際、日本軍との間に激戦が行われているので、当時の戦死者のものであろうと推定されるに至った。」こういうことになっております。この点は、直接関連がないと思いまして省きましたので、御了承願いたいと思います。
  91. 山下春江

    ○山下(春)委員 それでなお安心いたしました。この電報に多少の信憑性があるとすれば困ったことだと思いましたが、よくわかりました。  そこで、先ほどの死傷事件があったのでありますが、その御報告の中に、あとの分は胸部貫通銃創とおっしゃいましたね。そこで胸部貫通銃創というような、はっきりした鉄砲で撃った被害であるとすれば、それがマニラの病院に送られたこと等から考えてみて、それがかって日本兵が使っていた小銃弾であるかどうかということが——山の中で処理されると、私は現地ではそういうものを検出する施設がないと思ったのでこの間は伺いませんでしたが、マニラに死体が送られたということになれば、それが検出されたのではないかと思いますが、それについては何も御報告はございませんか。
  92. 有田武夫

    ○有田説明員 胸部貫通銃創を受けて死にました人間は、マニラには送られたかどうか報告書にはございません。重傷を負いました者は、マニラの近郊の病院に送られております。そこで、それではその重傷を受けた者から摘出されるのじゃないかということになるかと思いますが、これについて、まだこの報告が書かれました当時においては、警察軍において入手しておらないらしゅうございまして、その入手するまでそれを判断し、結論を下すことはできない、こういう報告に相なっております。
  93. 山下春江

    ○山下(春)委員 私どもが、この小野田小塚両氏を救出いたしますについては、そのような、フィリピン側で九九%生存しておるであろうと言われるだけの情報で十分ではございますけれども、なお、今の北條さんの御発言にも関連いたしまして、それがもし元日本兵であれば、私どもも非常にフィリピンのお方に対して、なお一そう遺憾の意を表さなければならない問題だと思うこと、それから、それが旧日本兵の持っていた小銃であれば、生きているということに百パーセントの期待が持てるわけでございますので、そこで、いろいろな情勢をこの間赤津さんからのお話で聞きましても、それから今河野局長からの報告の一番最後にある、もう出ない、投降しないということに、だんだんえこじに頭が固まりつつあるであろうということも、想像つくのであります。それから、外務省報告の中にありました三月下旬もしくは四月上旬まで、それから先は雨季に入るから適当な時期でないというようなこともありましたので、本委員会としてはこの救出問題に、るるお述べになりました気持をほぐす方法ということでございますが、小野田さんの場合は少し年令が大きいのであります。小塚さんの場合は、おそらく現役で出たんでしょう、私この間年令を聞くのを忘れましたが、そうしますと物心ついて十余年、山に入って十余年というような年じゃないかと思うのであります。そうすると、ビラをまくとか、いろいろ放送をするとかいう、気持をほぐすという工作は、そういうことがわかってみるともう手ぬるいような——私の言うことは少し気短かのようでありますが、気短かで、しかも気長にやらなければいけないと思っておりますので、そういうこともあわせ必要でありますけれども、この際あるいはむだかもしれませんが、小野田さんの学校の同期生などという方には、私が行きますと言う方もたくさんおられます。そこで、どういうふうにすればいいかわかりませんが、この間赤津さんがいろいろ述べましたことを鏡に通して見ますると——あの頭から出たものを通して見ますると、小野田さんの前歴等から考えましても、なかなかすなおに受け入れるという頭ではないと思います。そこで、もう全くジャングルの中で半分動物になったような姿の人が出会えば、これはまた話をする方法もあるのではないか。われわれが、今この文化の東京にいて、ああであるまいか、こうであるまいかというようなことを考えても、通用しない状況になっておるのではなかろうかということを私は考えるものでありますから、そこで、いろいろな救出方法については、きょうまでも考えられるあらゆることをやっていただいたことに対しては私も感謝をいたしておるのでありますが、そうでない方法を、早急にこの委員会政府とが一体になって考えてみたいと思うが、厚生省及び外務省でもいろいろな情報もありますから、両当局から——ということは、具体的に申しますれば今のように多くの人でなく、二人か三人の、ほんとうに何カ月かかっても身を張ってつかまえるまで、山の中で同じような状況生活に耐えていくという方、お気の毒でありますけれども、しかしながらそれは私どもがお願いするのではなく、もうぜひそうさせてくれという多くの方がおられますから、特に頑健な方を、そして家庭生活にあまり大きな支障を来たさないような方をお願いして、それを送り込む、そしてそのほかのビラをまくとか、あるいは通信箱を置いて、それにいろいろやってみるとかというあらゆる方法と並行して、そういうことを実行に移してみたらどうかと思いますが、役所ではどういうふうに考えておいでになりますか。
  94. 河野鎭雄

    河野政府委員 最善の方法を尽すということは、もうぜひ必要なことであると思います。私ども、どうしたらいいかということは、具体的にまだ結論を得ておるわけではございません。先生方の御意見等も伺い、私どももまたいろいろの情報を総合判断いたしまして対策を考えていきたい、かように全般的には考えておるわけでございますが、まず生きているかどうかという問題、それから生きているとすれば、どういう心境であるのだろうかというふうな問題が前提になると思うのですけれども、生きているかどうかというふうな問題につきましては、実は公けの席上ではなかなか言いにくい面もないことはないわけでございます。九九%生きている、日本兵のしわざである、というふうに思っているのは島民でございまして、フィリピン当局は必ずしもそう考えておらないのじゃないかと私ども判断をいたしております。外務省からいただきました情報によりましても、向う側が使っておる言葉は非常に微妙な言葉を使っておるわけでございます。残留日本兵のしわざにあらずやと思われる向もあるというふうな程度に言うておるわけでございまして、向うも、相当これは公算が高いのだというふうな言い方は、実はしておらないのでございます。ただ、そういうふうな節もあるので、やはりこれらの処置をしなければいかぬじゃないかということで、現地でも調査に当る、日本からも一つ来てくれ、あるいはビラも一つ送ってくれ、こういうふうな申し出があるのであります。今まで生きているのじゃないかという面のいろいろのお話はございましたが、この間の証言にもございましたように、初めのうちは畑が荒されたとか、あるいは獣畜が被害を受けたとかいうふうなお話がひんぱんにあったと伺っておるわけでございますが、ここ数年来そういうふうな情報はないというふうに聞いておるわけでございます。ですから、たとえばやはりこの間のお話で、塩が大切だが、そういうふうなものは肉から得るのだというふうなお話もございましたが、そういうふうな同じ手段をとって生活を続けておるなら、そういった方面の被害がもう少し出てきてもいいじゃないかというふうな見方も成り立ち得るわけでございます。その辺をどういうふうに判断するかという問題も実はあるのではないかと思います。いずれにいたしましても、私どもは、工作をいたします際には一応生きているという前提でやらねばいかぬと思いますが、そういうふうな点も同時に考えていく必要があるのではないか、かように考えるわけでございます。  それから肉親の方に行っていただく、近しい方に行っていただくという問題、これはもうぜひ必要なことだと思いますが、その時期等についてどういうふうに考えるかということ、これはまた一つ慎重に考慮していかなければならぬのじゃないかと思います。と申しますのは、こういうふうな事件が二件ほど最近起りまして、島民の方も非常に感情的に、必ずしもこういった人たちに好感を持っておらないのじゃないかというふうな情報もございます。密林地帯に寄りつきたがらないというふうな心境にもあるように承知いたしておるわけであります。こういうふうな状態のときには、密林に生きて残っておっても、今すぐ合図したら出たがらないのじゃないかというふうな考え方も出てくる。また、行った人が裸で行かれるということでございますが、万一のことも心配しなければなりませんし、場合によっては別の人道問題が起らぬとも限らない。その辺の事情をよく検討して、今後対策を考えていかなければならないのではないか、かように考えております。
  95. 山下春江

    ○山下(春)委員 外務省も多分同じようなお考えであろうと思いますから、重ねてお返事をいただかないのでありますが、またむなしく帰るようであるかもしれないが、やってみようというなら、私はとにかく時期は早い方がいいと思う。なぜ早い方がいいかというと、外務省報告によりますと、本年になってから二つの事件があります。私も、この信憑性を疑わざるを得ないような部面もございます。赤津さんの話では、一カ月に五発か六発鉄砲のたまを使っていた、それは牛や馬をちょだいするときにだけ限って使っておったということでありますから、ちょっとした被害があったのであります。それがここ二、三年ないということは、その後体質が変ってきて、そういうものからとらなくても、他の栄養を補給すべきものを見つけたかもしれません。あるいはそういう被害がないということは、それらの人たちがいなくなったのかというふうにも考えられる。この間赤津さんの話を聞いても、そう考えたのです。しかし早い方がいいということは、その事件があったことを、島民は何となく旧日本兵のしわざではあるまいかと言ってうわさをしておることは事実でございますから、それならその人たちにまず第一におわびをし、御心配をかけて済まないという、さっき北條さんが触れられましたお見舞といいましょうか、そういったようなものを携えながら、もう一応実行してみるというようなことが私は大へんいい措置のように考えられますから、これはぐずぐずしておりませんで——もうそれはどんなにしても人間でございます、生まれながらの動物ではないから、どのように体位が変化しても、限界に生きていると思います。ですからこれをもしやるならば、本委員会としては、自社両党とも異議なく政府の行われることに対して御賛同を申し上げたいと思いますので、早急に一つ人を派して、もう一度、むなしく帰るようでもこのことを実行してみるということで、一つ外務省は取り急ぎそれらの措置をフィリピンに御伝達を願って、わが方が御迷惑をかけておるのではないかもしれませんが、島民としては、長い間のことでございますから相当な被害も受けておられることは事実のようでございますから、おわびかたがた、もう一度少人数の捜索隊を、しかも相当長期にわたって気長くやってみるということで、一つ組織してもらいたいということを、私はここで社会党さんの御賛同のお声もあるようでありますから、両党で政府に強く申し入れたいと思います。そのことについては、ここで局長に御即答をいただくわけにいかないと思いますので、本委員会の強い要求として申し入れておきますので、御相談を賜わりたいと思います。
  96. 田口長治郎

  97. 茜ケ久保重光

    ○茜ケ久保委員 外務省の方は御答弁ができないと思うのです。と申しますのは、今山下先生も触れられたのですが、私は二つの傷害事件に非常に疑問を持っている。日本兵ではないんではないかという疑問を持っている。と申しますのは、赤津氏のこの間のお話を承わっておりましても、第一報告を聞いておりますと、どういう状況下に撃たれたのか、これが判明していない。一件は道路工事の場所で撃たれた。最初の者は、何かまきをとりに行って撃たれた。もしノーマルでないといたしましても、二人は極度に人を避けて歩いているに違いありません。従って、討伐その他の関係で追い詰められてどうにもならぬ状況ならば、これは人に向って発砲しましょう。しかし、私は、今の二つの事件はそんな事件じゃないと思うのです。しかもあまり奥深く入ってない。そうなりますと、二人の日本残留兵が射撃しなくちゃならぬという条件はございません。従って、そういう条件から見ますと、私は二人の殺傷事件日本兵ではないのではないか、こういうふうな疑問を非常に強く持っている。それで一つは、これは山下先生も触れられましたが、貫通銃創ならばすぐにわかります。日本の旧軍人が持っておった小銃弾であったか、あるいはいわゆる拳銃であるか、またはその他の銃であるか、わかるはずであります。さらにマニラに護送された最初の重傷を受けた者の傷は、医者が見たはずでありますから、見たらこれはわからなくちゃならぬと思う。少くとも相当な外科医なら、これはわかるはずです。これを何ら証言していないところにも疑問があると思う。たまたま河野局長のあとの言葉を聞いておりますと、日本兵のしわざではないかという疑問程度ということでありますが、それが私は正しいと思う。私は決して二人の生存を否定する意味ではなくて、この事件が日本兵のしわざではないという見方を強く持つのであります。従って私は、北條君の言われましたフィリピンに対する陳謝とか見舞とか、これは決して否定しませんけれども、もしそうでなければ非常におかしい意味も出てきます。そういう意味もありますから、外務省は早急にこの点に対する実際の状況調査してもらって、日本兵がやったのかやらぬのかという確証を得ることが一番大事だと思う。二人の者が撃たれたときの状況の判断と、一つは、マニラの病院に送られた重傷者を最初診断した医者に傷の状況を聞く、もしそのお医者さんが判断できなければ、日本のかっての軍医の諸君が、その診断した結果を見ればわかるはずです。そういった方法によって、この二つの事件が果して日本残留兵のやったことかどうかという的確なものを見る。それが一番大事なことだから、やってもらいたい。その中からいろいろな問題が起きてくると思う。それが一つ、これは要望です。  あと一つは、警察軍なり、現地兵隊さんか五十数名で捜索をしてくれているそうでありますが、しかもありがたいことには、その捜索に行った兵隊にも、殺してはならぬということを厳命してあるようでありますし、現住民にもビラ等をまいて、日本兵を見たならば危害を加えないで連絡しろという温情のある措置をしております。まことにありがたいわけであります。ただ私心配しますのは、そういう温情のある扱いをしてもらっていますけれども、警察軍の皆さんが五十数名捜索をして下さることは、逆にありがた迷惑な点があるのじゃないか。たといどんな温情でやられましても、二人の心理状態はそういうものを見たら非常な恐怖心を持つ、敵愾心を持つ。二人が出てくるどころか、いざとなれば自決する心配があると思う。どうしても追い詰められていきますと、行った人は、何とか危害を加えないで無事に救出しようという気持でいたにしましても、受ける方はそうではない。特に二人の殺傷事件が、もしも不幸にして二人の日本残留兵のしわざとしますと、なおさらであります。これは出てくるどころか、言葉巧みに言われれば言われるほど相手は逃げます。しかも小野田少尉は情報将校ときておりますから、従って追いつめられてくると、自決する危険も生じます。従って、これは大使館を通じて現地に——まことに外交上の事例としてもむずかしいわけでしょうけれども、そこを何とか、そういう処置はいろいろございましょう、してはならぬとは言いませんが、二人をほんとうに助けたいなら、何らか別な方法を考えてもらわなくちゃならぬ。そこで私は、先ほど山下先生もおっしゃったように、日本政府の早急な処置が必要だと思う。本委員会において、本会議における決議等をしたいというお話もございますが、私は、そういう意味におきましてこちらが早く手を打ちませんと、フィリピン側の御親切があだになるという危険もございますので、この点を十二分に考えてもらいたい。そうでなければ、結局親心がかえって相手を死なせる原因になる、こういうこともございますので、この点はあなた方に答弁を要求しましても無理でございますから、答弁は無理に要求いたしません。しかし、早急に打つ手を打っていただきませんと、せっかく衆議院が両党あげて、たった二人の人たちのために決議でもしようという非常に異例な措置をする段階にきておりますのに、やったとたんに、その二人が、今まで生きておったけれども、そういうことによってなくなったということでは、これまたかえって不幸な結果になりますので、非常に私老婆心でありますが、以上の点を要望しておきますから、これは一つ早急に、そうした処置をするという厚生省外務省委員会に対するお約束を願いたい。以上申し上げまして、外務、厚生両省に強く要望する次第であります。
  98. 有田武夫

    ○有田説明員 日本人がやったかいなかの確認の第一の問題でございますが、これは傷の問題もありますので早急にやらなければ確認ができないと思いますので、早くするように電報を打ちたいと思います。  それから、フィリピン側の恩がかえってあだになるかもしれないという御意見でございますが、これは私もその通りに考えておりますので、この前も電報を打ちましたときに、討伐とか山狩りとかいったものは差し控えるように折衝するよう、すでに電報を打ったのでございますが、きょうの御発言によりまして、また重ねて要望したいと思っております。
  99. 河野鎭雄

    河野政府委員 私の考えておりましたことは先ほど来申し上げた通りでございます。なお具体的に、今どういう対策をとるかにつきましては、先生方の御意見も十分拝聴いたしまして、対策を立てて参りたいと考えます。
  100. 田口長治郎

  101. 山口シヅエ

    山口(シ)委員 もうすでに同僚委員からいろいろと貴重な意見が出ているようでございますが、参考までに、私も一言要求しておきたいことがございます。  実は私は赤津さんが参考人としてここで発言なさいましたとき、すでに、果して殺傷された二人が今残っている日本兵のために傷つき、殺されたであろうかということが強い疑問となって残っていたのでございますが、今日同僚委員の意見を聞いておりますと、やはりそういう疑問を持つ委員が多いようでございます。そこで、どうしても諸委員の意見通り、これは早急に証拠をあげてもらわなければならないと思います。  それから、一昨年のことなのごでざいますが、一昨年遺骨収集方々とともに、多くの新聞記者さん方がフィリピンに渡りました。そのときに、大使館の館員の方々新聞記者の方々とが、特にルソン島を三回にわたって、くまなく調べ回ったということを聞いております。そうして帰られましたその新聞記者さん方に、私は実情を詳しく聞いたのでございます。そのときの話によりますと、日本兵が四人ルバングに残っているということが報道されて以来、島民が非常におそろしがり、そのために、警察軍隊がより以上厳重にあそこを警備するようになった。それでほとんど毎日のように二、三人の兵隊が巡回しており、その巡回をするのに歩いて巡回するのでは非常に不便だから、一つ自転車を送ってやってくれないか、そんな話を聞きましたので、私もその残っている人たちのためにもと存じまして、さっそくに送りました。そのときの話でございますが、救い出そうということが目的で捜索したり、巡回しておるのではありません。彼らはあくまでも島民を守る、おそろしがる島民を静めるための方法としてやっておるのでありまして、非常にくまなく捜索はいたしておりますが、そこに幾らか精神的なものは違うかと思います。そうして、ぜひとも探すということは、日本側でやらなければならないことである。向うとしては、島民を傷つけたくない、また山の中に捜索に入ったといたしましても、その十何年、山の中で生活しておる者の心理状態を非常におそろしがっております。そういうことで非常にむずかしいということを、私はそのときに悟ったのです。  その後昨年の八月ですが、私がフィリピンに参りましたときに、たまたま捜索隊に入った兵隊さんに行き会いました。その兵隊さんの話を聞きますと、残っておる二人の兵隊の命を非常に貴重に考えている。傷つけないように、何とか救い出したいという信念に燃えていたようでございます。これはおそらく上の方からそういう指令も出、そういう教育をされていることでありましょうから、その気持は、言葉の違う私などもくみ取ったのでございますが、しかし、やはりそこに私が考えさせられますものは、島民たちがおそろしがっているから何とか探し出そうというので、そういう考え方がもとで、中に二人がいるという先入観を強く持っているようでございます。しかし大きな疑問がここにございます。そこで、いるかいないかを明らかにしてから日本としては手を打つべきかもしれませんが、先ほど諸委員の意見の通り、一応向うは、日本兵が傷つけたものという考えのもとにすべてを処理しているようでございますから、おわびという意味合いも兼ねて、中でもし二人が生き残っておるとすれば、われわれとしてもこの上ない喜びでございますから、さっそく向う日本側の者を向けるということは無理でございましょうが、これがやはり人数が多いのみではいけないと思います。肉親の者が、行く人の数は少くとも、長期にわたって、山の中にテントを張ってしんぼう強く、肉親の者の血で血を呼ぶというようなやり方をもって迎えにきていることを悟らせなければむだに終ってしまうのではないか。ただ多くの人が向うに渡っていくということだけでは、これは効果がない。同じ向うへ渡って彼らを呼び出すにしても、肉身の者が長期にわたって彼らの気持をほぐしてやるということでなければ、私は二人を呼び出すというむずかしい仕事は、とうていやり遂げられないのではないかということを痛感いたしますので、この際特に意見として申し上げておく次第でございます。
  102. 茜ケ久保重光

    ○茜ケ久保委員 先ほど申しましたこととの関連で、これは外務省の所管になるかと思うのですけれども、この間もちょっと出ましたが、戦犯は一応時効になっているわけですね。しかしその後、赤津君の御説明でも、馬や牛もちょうだいしたけれども、人間も幾人か傷つけたということをおっしゃっておるようであります。戦犯としての処置は免除されておりましょうけれども、今度講和発効後の普通の傷害事件、殺人事件としてこの問題は残るわけです。従って、そうなりますと、やはり肉身が行ったとしましても、出てこいと言っても、そういうことを心配して二人は出てこないかもしれません。そこで、これは大へん欲ばった話でありますけれども、外務省大使館を通じて、こういう特殊なケースでありますし、フィリピン側では、今言ったように殺傷してはならぬということを言っておるのですから、出てきたならば、一応形式的には何らかの処置をしなければならぬけれども、刑務所に入れるとか、あるいはひどい裁判をして刑を言い渡すということがなくて、実際には、身柄そのものを日本に帰すのだというような取りつけをしなければいかぬと思うのです。これは今言ったように非常に虫のいい話でございますが、フィリピン側も、ああいうアブノーマルな状態でありますから、おそらく話はわかってもらえると思うのです。二人の者がかりに出てきたという場合には、フィリピン政府は無条件に日本政府に渡してくれるのか、ないしはその後の行跡に応じて何らかの法的の処置をするのか、そういうことに対して今まで問い合せなり、打ち合せをした事実があったかなかったか。あったらその結果、もしなければ、私は、今回こういう国をあげて心配をしている事件でありますから、せっかく出てきたけれども、とたんに逮捕されて、何らかの処置をされるのでは非常に心外なことでありますし、残念でありますから、そんなことのないような一つの申し出なり、お願いをフィリピン当局にして、その取りつけをしなければならぬと思うのですが、そういった処置をするかどうか、その二つをお聞きしたい。
  103. 有田武夫

    ○有田説明員 この点は、本人たちが出て参りますかどうかにかかりましても、一番重大な問題だと思いますから、われわれも非常に関心を持っておりまして、すでに大使館には、出てきました場合にも穏便な措置をとって、直ちに、無事に日本側に渡してくれるようということを申し入れろという、特別な訓令も出しております。それにつきまして、確かに無条件で帰すとか、あるいは形式的な裁判にでもかけて、それから帰すのだというような保証めいた一枚の紙といいますか、保証状というものはまだ取りつけておりません。ただ現状では申し入れておる段階でございます。この点につきましては、今度捜査に参りました河野理事官も、この保証というものが一番重要なポイントであるということを言っておりますので、今後は明瞭なる保証を、何らかの形において取りつけるということに努力すべきであると考えております。
  104. 茜ケ久保重光

    ○茜ケ久保委員 それはけっこうですが、私は、やはりそれでないと、行きましてもむだになると思うのです。兄さんなりお父さんなりお母さんなりが会ったとしても、もしその保証がなければ出て参りませんから、今度捜査に行きます前には、必ず何らかの形でそれを取るということをお願いしておきます。
  105. 逢澤寛

    ○逢澤委員 関連して。ただいまの茜ケ久保委員お話は全く同感なんであります。そこで政府としては、その際に、それらに対する賠償の責任は日本政府が持つ、しかしながら生命に対関することは云々というような具体的なものをぶっつけねば、ただ頼む、頼むと言ったのでは、私は得心いかぬと思う。具体的に、賠償については日本政府が責任を持つから、人命については一応こういう手配をしてくれ、これが国民感情でもあるということをぶっつけてもらいたい。この委員会としても、おそらく皆さんの御要望はそこにあると思いますので、この点を特に申し上げます。
  106. 田口長治郎

    田口委員長 なお、本件に関し決議案を上程してはいかがかと存ずるのでございます。その内容について御相談申し上げたいと思いますが、その審議につきましては理事会に御一任を願いたいと思いますが、別に御異議ございませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  107. 田口長治郎

    田口委員長 それでは、さように決定をいたします。  本日は、これをもって散会いたします。     午後三時二十六分散会