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1958-10-28 第30回国会 衆議院 法務委員会 第8号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十三年十月二十八日(火曜日)     午前十時十六分開議  出席委員    委員長 小島 徹三君    理事 鍛冶 良作君 理事 田中伊三次君    理事 福井 盛太君 理事 村瀬 宣親君    理事 井伊 誠一君 理事 菊地養之輔君    理事 坂本 泰良君       薄田 美朝君    世耕 弘一君       竹山祐太郎君    辻  政信君       馬場 元治君    濱田 正信君       三田村武夫君    大貫 大八君       神近 市子君    菊川 君子君       田中幾三郎君    志賀 義雄君  委員外出席者         参  考  人         (学習院大学学         長)      安倍 能成君         参  考  人         (弁護士)   小林 俊三君         参  考  人         (早稲田大学教         授)      中村 宗雄君         参  考  人         (日本大学総         長)      永田菊四郎君         参  考  人         (明治大学教         授)      野田 孝明君         専  門  員 小木 貞一君     ————————————— 十月二十七日  委員辻政信君及び猪俣浩三辞任につき、その  補欠として賀屋興宣君及び安井吉典君が議長の  指名委員に選任された。 同日  委員賀屋興宣辞任につき、その補欠として辻  政信君が議長指名委員に選任された。     ————————————— 十月二十五日  鹿児島地方裁判所鹿屋支部等庁舎新築に関す  る請願前田郁紹介)(第一〇六一号)  鹿児島地方検察庁鹿屋支部等庁舎新築に関す  る請願前田郁紹介)(第一〇六二号)  小山簡易裁判所庁舎新築に関する請願(小平  久雄君紹介)(第一一四〇号) の審査を本委員会に付託された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  司法試験法の一部を改正する法律案内閣提出  第三三号)      ————◇—————
  2. 小島徹三

    小島委員長 これより会議を開きます。  前会に引き続き司法試験法の一部を改正する法律案を議題として審査を進めます。  本日は、前会の決定によりまして、参考人として、学習院大学学長安倍能成君、弁護士小林俊三君、早稲田大学教授中村宗雄君、日本大学総長永田菊四郎君、明治大学教授野田孝明君、以上五名の方々に御出席を願っております。  この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。本日は御多忙中のところ、貴重な時間をおさき下さいまして御出席をいただき、まことにありがとうございました。今回参考人各位の御意見を承わることによりまして、本案の審査に多大の参考になることと期待いたしておる次第でございます。各位におかれましては、忌憚なく御意見を御開陳下さるようお願い申し上げます。御承知の通り、本改正の目的は、法曹界にある方々一般教養を高めることや、受験生の負担を軽くすることによって、優秀なる在学生法曹界に吸収する等にあるといわれております。これらの点についての御意見を承わることができれば、まことに幸いに存じます。なお、議事の都合上、参考人各位の述べられる時間は大体十五分程度にお願いいたします。  これより順次御意見の御開陳をお願いいたしますが、後ほど委員の質疑があれば、お答え願えれば幸いに存じます。なお、念のため申し上げますが、御発言の際は、その都度委員長の許可を得ることになっておりますから、さよう御了承願います。  それでは参考人各位より御意見を御開陳して下さるようお願いいたします。まずお急ぎのようでありますから、安倍先生から御意見を承わりたいと思います。
  3. 坂本泰良

    坂本委員 御意見を承わるのに十五分間と言われたのですが、時間の制限は先般の理事会でなかったと思います。
  4. 小島徹三

    小島委員長 お答え申します。先生方の御都合もございますので、大体十五分程度にお願いいたしまして、制限  しておるわけではございませんけれども、大体そういうつもりでお願いするだけでございます。
  5. 坂本泰良

    坂本委員 しかし、それならそれで最初やはり御案内するとき言っておかなければいかぬと思うのです。今になって十五分とやりますと、あるいは三十分ぐらいの御予定で御準備されておいで願っておるかもわかりませんから……。
  6. 小島徹三

    小島委員長 それはまたその都度の都合によって……。
  7. 坂本泰良

    坂本委員 やはり時間の制限はないわけです。参考人方々意見は十五分ぐらいではできない場合もあるかと思いますから……。
  8. 小島徹三

    小島委員長 その場合はまた私の方で適当に措置いたします。
  9. 坂本泰良

    坂本委員 それならそれで、十五分なら十五分ということをあらかじめ御通知申し上げておけばその準備があったと思います。そういうわけですから、一つ十五分という制限でなく、御準備の方は述べていただくように了解してもらいたいと思います。
  10. 小島徹三

    小島委員長 それでは、安倍先生からお願いいたします。
  11. 安倍能成

    安倍参考人 御質問はないのですか。
  12. 小島徹三

    小島委員長 それはあとで……。
  13. 安倍能成

    安倍参考人 私に特に意見を徴せられるというようなことはないのですね。私の考えをただ述べればよろしいわけですね。
  14. 小島徹三

    小島委員長 述べていただきまして、後ほどまたもし質問したい方がございましたらお答え願いたいと存じます。
  15. 安倍能成

    安倍参考人 私は十五分なんて要らない。十分以内でお話できると思うのです。ただよけいなことですけれども、私あての封筒に「安部」と書いてありましたが、あれは「安倍」がほんとうでございます。「あんばいよいよなる」と覚えて下されば間違いはありません。(笑声)  私は、御存じの通り法律専門家ではありません。ただ、京城大学の法文学部の教授会議で、法科の人の意見はずいぶん聞きましたし、それから法律の講演があると努めて聞いたりしましたから、幾らか法律の概念は心得ていると思うのですが、そういう私の多年の経験からも、法律というものは、解釈によってずいぶん動かされることがあるということであります。そうして、自分に有利な場合には、法律の条文を無理にこじつけて自分意見を通すというようなことがありまして、私のような第三者から見ますと、法律精神というものが正当に、公正に解釈せられる場合が割合に少い。この中には弁護士の方もたくさんおありでしょうけれども、要するに弁護士仕事というものも、法律をこじつけるという仕事が相当多いのじゃないかというような気がするのでありますが、これは私の曲解かもしれません。そういう意味で、やはり法律精神、あるいは法律時代との関係社会との関係とかいうものを広い立場から見て考えるということが非常に必要だと思うのであります。それで、そういう立場に立って法律仕事を取り扱うためには、むろん法律専門家で、法律テクニックというものを心得ているということも重大な一つの要素でありますが、一般文化——一般文化という言葉にも非常に弊害がありますけれども、一般文化に対する理解、これは具体的に申しますと、法律問題を広い立場から、ほんとう法律の生れた精神に基いて解釈するという態度が非常に必要だと思うのであります。これは、あまり受験本位的に司法関係の人の採用というものがなると、この精神を傷つけるということがありはしないかと思うのであります。それは、あらかじめこういう問題が出るということを予想して、そういう出そうな問題だけには答えることができるけれども、広い立場では考えられないということになる。自分の思いも及ばないような、予期しないような問題を出されても、その問題を広い立場から答えるという見識を養うのには、あまりに試験が受験本的になってはいけない。ただ司法官試験に通る人だけが、果して将来司法官として十分なる働きをすることができるかどうかということは、よく考えなければならない、こう私は思うのであります。それで、一般教養というものを司法官試験に課するという問題が、これはいろいろ問題はありましょうが、現在具体的に問題となっているところでは、やはり社会とか政治とか、そういうような問題を純法律の問題と同じように選択科目の中に入れるということが私は適当である、こういうふうに考えるのであります。いわゆる文化の問題というものは、私の見せていただいたこの案の中には入っていないようでございますが、文化々々といっても、一般文化の問題について、ほんとうに適切な問題を出すということは非常にむずかしいことでございまして、やはり法律解釈法律テクニックということだけのいわゆるしゃくし定木というものに拘泥しないで、広く政治社会の問題に対しても理解を持っているということが、一般文化というものをその中にだんだん入れてくるにしても、それだけでも今までの欠陥を補うことができるのではないかと思うのであります。司法研修所なんかでは、このごろしきりに能を見せたりあるいは美術を見せたりして、そういうふうな一般教養というものを養うことに努めておられるようであります。これは非常に効果のあることじゃないか、こういうふうに考えるのであります。私は、司法研修所を終えた学生に対して、一般教養というような問題を口頭試問で聞くことを四、五回やりました。今は、それがちょうど私の方の学年試験の終末と衝突するものでありますから、これをお断わりしたのでありますけれども、その経験によりますと、ずいぶん感心な人がその中にあって、たとえば裁判所の書記を長くやっていたとか、あるいは警官をやっていたとかいうような人がこつこつと非常に法律を勉強して、そして司法官試験に通って研修所に来ているという人もありますけれども、そういう人に一般文化の問題を聞いてみると、ほとんど答えることができない。新聞なんかに出ているところのごく常識だと思われることも、答えることができない人が往々にしてあります。そういう点からいえば、昔の高等学校というものにも欠陥はありましたけれども、高等学校の卒業生は、大体そういうものに対する理解が多い。そういうことを考えて、やはり裁判官法律というものをあるべき位置において、あるべき精神において、十分にこれを解釈して、これを社会に適用するという、そういうためにも一般教養というものを加味することが必要であって、今日の御案によれば、随時科目というものを法律だけに限らないで、法律政治社会というような、そういうふうな広くその中から選択するということが必要である、こういうふうに私は考えています。  私の意見はこれで終ります。(拍手)
  16. 小島徹三

  17. 小林俊三

    小林参考人 結論を先に申しますと、私は改正案の第二次試験の短答式科目の中の選択科目、すなわちこの資料の中の比較表乙類と書いてありますその選択科目、すなわち政治学ほか六科目というものをやめまして、法制審議会答申案にある、いわゆる一般教養に属する項目の趣旨をできる限り生かすべきであるということを私は強く主張したいのであります。その理由の最も重要な点は、一般実務法曹というものは単なる法律技術家ではない、あるいは法律職人であってはならないということであります。特に将来、法曹一元という理想が是認されておるのでありますが、この中から裁判官が選ばれるということになるのでありますから、立法行政に比して現在なお相当に低く見られておる司法、すなわちこれを言いかえると、裁判所のあるいは裁判官位置を新憲法にふさわしいものとするためには、人的実質を現在よりももっと高く重いものにしなければならないということに要約されるのであります。  で、このことについて少し申し述べさせていただきますが、私の申しますことは、あるいは裁判所裁判官に傾き過ぎているようにお聞き取りになれるかもしれませんが、本来、検察官弁護士も、裁判所あるいは裁判官の立っているのと同じ床、同じフロアーに位置しておるのであります。この中で相対立あるいは対抗いたしまして、いろいろな事態が昔はありました。これは私の見解によると、一般官僚に対する民間勢力一つの抵抗の一翼にすぎないのでありまして、法曹全体として見ますと、やはり裁判所裁判官というものの位置を高くしなければ、法曹自体位置が高くならない、言いかえれば、裁判所裁判官を引きずりおろすと、自分の立っている床が下る、法曹全体が下るという結果になるという考え方を持っておるのでありますから、結局裁判所裁判官を中心に意見を申し上げることは、一般法曹に関して申し上げることに帰着すると信ずるのであります。  そこでまず第一に、少し原則的なことを申し上げて恐縮なんでありますが、あるいは公式的なことになりますが、明治憲法時代裁判所というものは、三権分立と言いましても、実は三権分立が同じレベルの分立ではなかったということを主張したいのであります。職務独立とある程度地位の保証はありましたけれども、司法権というものは実に低かったのであります。裁判官人事支配というものは、閣僚の一人である司法大臣が握っておった。検事と同様にその管下に統べられておったのでありますから、職務独立であったといって非常に自尊心を持っておりましたけれども、その根の方は、人事としては押えられておった。それで、司法大臣は申すまでもなく司法行政の一閣僚にすぎないのでありますが、その支配下の、直接の下にある検察官が優位にあったのはもとよりなんであります。それで、このことから、終戦までの司法大臣というものは、大体検事総長から昇格する例がずいぶんあった。あるいはその中で検事総長からほかのものになられて、また閣僚になられた方もありますけれども、八人か九人くらいずっと、一人欠けたり二人欠けたりはしておりますけれども、調べたところによると、そういう状態であったのであります。そういう事例でわかるのでありますが、法律的あるいは形式的の位置は別にしまして、一つのインフルエンスとしては、検事位置が非常に強かったということはいなめないのであります。そして明治政府——これは藩閥でありますが、それから官僚閥になり、昭和初期から軍閥となったのであります。その間ずっと行政優位の——優位というより、私に言わせると、行政絶対優位であったと言いたいのであります。ですから、司法官あるいは司法権司法制度というものは、一つの全く敬遠された、よく言えば象牙の塔でありますが、そうでなく、ある孤高を楽しませるタワーというようなところに置かれ、一方においてはあがめられ、裏面においてはあるいは軽侮されておったのではないかと疑いたいくらいなんであります。しかし、行政優位のこの態勢は、それ以上の軍閥というものが昭和初期に現われてから、いつかわが身の上となりました。軍力はほとんど法秩序無視——これは悪意はないのかもしれませんが、法秩序なんというものより実力が支配するという哲学を持っておるのでありますから、これにはかなわないであります。ですから、行政優位というような状態を長く、司法官を一方から言うと軽く見ている考え方は、いつかそういう危険を招来するということをよく考えなければならぬと思うのであります。  そこで、これは繰り返す必要はございませんが、新憲法では、裁判所裁判官位置は非常に高いものとなり、また重いものになったのであります。これは最高裁判所に重点を置いてきたのでありますが、立法行政に対して同位の考え方をとったと思うのであります。それで、新憲法施行後の裁判所法等は、その理想に沿うように制度を作ったようでありまするが、実は日本の過去の歴史のそういう司法制度がきわめて低かったというその根を絶やすことができないので、なかなか高くならないのであります。のみならず、この十数年の間にだんだん最高裁判所あるいは裁判制度そのものが低くなっていく傾向があるのであります。私は、民主主義国家組織というものは、法治国でなければならないと思います。法治国というのは、恐縮でございますが、法の支配の国であります。従って、最後の結びは裁判所が押えるという国家体制でなければならないのであります。この法治国体制というものは、司法権司法制度を軽く、低くしては、とうてい完成しないのであります。この意味において、司法制度司法権を低くする考え方は、国家の前途に対して非常に寒心にたえないと言わざるを得ないのであります。  なぜこういうふうに低くなってきたかという一つ理由は、従来の日本裁判所は、司法官僚制度が長く伝わってきたために、官僚制度としては、行政官あるいは立法面にかなわないのであります。特に行政官僚にかなわなかったのでありますが、その方の原因は別にいたしまして、裁判官資質あるいは本質、実質と申しますか、そういう面は最も重要であります。裁判官地位を高くし、待遇を上げるといういろいろな試みが終戦後何度もあったのでありますが、待遇を高くし、位置を上げなければ、いい人は来ない。ところがそれは他の行政官僚その他からすぐ反対あるいは横やりが出てくる。なぜかと申しますと、同じ試験制度を経た同期の同僚が、ある方が裁判官になったということのためにそれほど高い差をつける理由がどこにあるか、職務が非常に窮屈であればその点は認めるにしても、その点はさほどの差はないはずであるというようなところへ話が来まして、常に鶏と卵の関係に終始してきたのであります。従ってこれは結局法曹一元というようなことに徹しなければならぬと思うのでありまするが、そこまで行く前に、裁判官資質あるいはこれを大きくいえばそのプールとなる一般法曹資質、これを分けてみますと、人物教養経験においてすぐれた人たちを充てるように持ってこなければならぬと思うのであります。  私見によりますると、明治憲法時代実務法曹というものは、大体法律技術家として養成されてきたと認められます。特に判検事は、弁護士とは別に、いわゆる在朝法曹として一年半の司法官試補修習期間を経て、それを終ってしばらくして、判事に任官しますと、当時は区裁判所で単独の判事として直ちに裁判ができたのであります。二十七、八くらいでなったのであります。それから合議部である地方裁判所に参りますと、四、五年たつと秀才は代理裁判長になる。三、四年たつとほんとう裁判長になる。三十そこそこで合議部代理部長に、あるいは三十二、三で裁判長になる。この場合にすら、いかなる厖大家といえども、その審理を受けておったのであります。思えば不思議なんであります。なぜこういうふうな学校を出てすぐ司法官試補になってずるずるとこういった裁判官になって、五十、六十の老博士が頭を下げてやはり審理を受けておったか。それから国民一般にこういう人の裁判がなぜ信頼尊敬を受けておったかということを考えてみますと、一つにはやはり司法官試補として非常に卓越した法律技術を学んだということであります。それから二つには、これは法廷の背後にあったところの十六の菊の御紋章一つの威光であったろうと思います。これは明治憲法の五十七条にあるいわゆる「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」これがシンボルとして法廷のちょうど真うしろに光っておった。これの是非を言うのではございませんが、この二つのうち、いかに若い、司法官僚として育った裁判官がやった裁判でも、ある程度において国民尊敬信頼を受けておった非常に大きな理由は、今の「天皇ノ名ニ於テ」という十六の菊の御紋章の力であったろうと思うのです。ところが終戦後は、新憲法でその十六の菊の御紋章法廷からなくなりました。法廷のみならず、御記憶の方があると思いますが、今の最高裁判所の表の玄関の真上に大きな金の十六の菊の御紋章があったのでありますが、これもとられた。各法廷にあったのは、今申し上げた通りとられて、影をひそめた。そうすると、裁判に対する国民信頼尊敬は何によって生ずるかということを皆さんにお考え願わなければならぬと思うのであります。それは、法律技術ではとうていこれをまかなうことはできない。もっと深いものがなければならぬのであります。これはやはり裁判官その人の力ということに戻ってくるのじゃないかと思う。すなわち裁判官人物教養経験が渾然一体をなした全人格的の力が、その裁判を権威あらしめるところの唯一の基礎であろう、こういうふうに考えるのであります。これは裁判官に片寄りますけれども、しかし一般法曹から結局裁判官から選ばれるということになるのであるし、現在だってやはり一般法曹として研修所を出るのでありますから、その意味において、一つプールとして考えると、一般法曹全体がみな教養を持たなければならぬ。この教養を持つということは、もっとむずかしく申しますれば、国民権利義務に直接関係する仕事をする一般法曹というものを単なる技術家として育てることは、国民権利義務に直接影響があるのでありますから、社会の実生活あるいは社会の一般的な知識について、深い洞察と広い視野を持たなければ、結局法曹全体の地位を低くすることにならざるを得ないということになるのであります。  それから第二の点といたしまして、基本的な理由は今申し上げた通りでありますが、私が一般教養科目として特に必要であると痛感した体験を申し上げたいと思う。私は、先ほど安倍先生がおっしゃいましたが、やはり司法修習生の卒業されるときの一般教養考試委員を何年かやったのであります。高裁長官のとき二年ばかり、それから最高裁へいって四年かやったのでありますが、委員は三名構成されて、一人ずつ部屋へ入れて、一般教養について何でも聞くことを許されておるのであります。大体このようなことを聞いてもらいたいという希望が研修所当局からありますけれども、必ずしもそれに束縛されないのであります。あるときその受験生が……。
  18. 小島徹三

    小島委員長 途中ですが、皆さんに御了解を得たいのですが、安倍先生はどうしても十一時までにお帰りにならなければなりませんので、一つ御了承願います。
  19. 坂本泰良

    坂本委員 それでは一つお聞きしたいのです。大へん権威のあるお話をお聞きしまして非常に参考になりました。そこで、安倍先生お話のようなことを当面の司法試験に持ってくる、そういうことになりますと、いろいろ問題がありましょうが、第一は大学学制改革をしなければならぬ、その学制改革と同時に司法試験改正も行わなければ、その実現は困難であろう、そういうふうに思われます。  それからもう一つは、現在この試験制度は、一次試験と二次試験と分れておりまして、一次試験一般教養についての試験をやっております。大学における一般教養科目の単位を修得いたしました者、いわゆる教養科目を履修いたしました者は、第一次試験を免除いたします。そうして、専門科目である——やはり司法官専門職務ですから、専門科目試験を、二次試験でやる、こういうふうになっておるわけであります。安倍先生お話のような点は、一次試験の点においてやられる。さらに、免除される者は、大学における一般教養科目を履修した者である、こういうふうになっておりまするから、二次試験の場合において、一般教養試験はせずに、やはり二次試験の方は専門科目について行う。司法官にしましても、検察官にしましても、弁護士にいたしましても、これは法律専門の職業であり、また地位にあるものでありますから、試験としては、やはり二次試験専門科目でやる。二次試験一般教養科目をさらにやるということは、専門科目の点の低下になりはしないか、こういうふうに考えられるわけであります。この二つの点についての御所見を承わりたい。
  20. 安倍能成

    安倍参考人 それでは、今小林さんがお話しになっておるのでお邪魔ですから、簡単にお答えいたします。  大学制度改正するということが前提じゃないかという御質問に対しては、私もそれを感じますけれども、私の現在の努力は、できるだけ現在の学校制度においてそれを生かして、そうして欠点を補うということに努力しているのでありまして、それをよく研究したあとで、やはり制度というものは改廃すべきもので、制度は、一時の思いつきとか何とかいうものによって、そう改廃すべきものではない、こう私は考えております。その欠点を補う一つの方法として、今ちょっと紙に書いて、私が申し落しましたから委員長に申し上げましたが、現在大学の在学中にすでに試験というものが非常にある。それは秀才をできるだけ早くとりたいという方々の希望によってやっている。それで、司法官の方にも、なるべく秀才を早くとりたいという御希望を持っておられるようでありますけれども、そうなると、つまり一年と二年とは一般教養であって、三年と四年とが専門教育に入るのですけれども、その専門教育というものをほとんどやるひまがなくなってしまう。四年になると、ほとんど学科を放擲して、そうして就職に狂奔するというような状態であるが、それではいけないので、やはり前のごとくに、卒業してから就職を決定するということを、これはあまねく日本社会に、司法官といわず、行政官といわず、あるいは会社方面といわず、それを実行するようにまずしていただきたい。それに司法方面も協力していただきたいということをお願いしたい。  それからもう一つのことは、私は一般教養を第一次試験でやっているということについて暗かったのでありますが、そういうことがあるならば非常にけっこうでございます。けっこうでございますが、同時に、司法官職務というものは、最も政治とか社会とかいう方面に関係の深いものでありますから、そういう方面において特に視野を広くするという必要から、私はやはり選択科目というものは広きにわたってやり、それから必須試験の方は、これは法律のうちの最も大事なものを逸しないということにしてやったらよかろう、こういうふうに考えております。
  21. 小島徹三

    小島委員長 どうもありがとうございました。  小林先生、どうも済みませんでした。どうぞお続け願います。
  22. 小林俊三

    小林参考人 引続き申し上げます。修習生の卒業試験における体験を申し上げる途中で切れました。  あるとき修習生に対して質問を発する場合に当ったのですが、その方は福澤諭吉を当然知っていなければならぬいろいろな状況があったのです。そこで、「あなたの御関係で、明治文化の大先覚がおりましたね。どなたですか」と言いましたら、答えられないのであります。しきりに考えておられました。もちろんわれわれは知っておっても、あまりポピュラーでない学者などを並べてもいけないと思ってやっておったのですが、私どもいろいろヒントを三つ四つ出しまして、結局よほどたってから、「あっ、福澤諭吉先生ですか」とこう言うのです。もっともそのときラジオで、先生の標語の「天は人の上に人を作らず」云々の言葉をやはりしじゅう放送していた時代であります。それを御注意願いたいと思いますが、「先生の事業に何が残っておりますか」と聞きましたら、「慶応義塾」と直ちにぴんと当然くるはずだと思っておったのが、こない。「たしか新聞をやっておいでになったと思う。」とか、それで「慶応義塾」がなかなか結びつかない。よほどたってから、「あっ、そうでした」と言われたのです。それで私非常に意外だったのであります。これはおかしいというので、ほかの委員方々も非常に心配をして、今度はほかの委員の方が別な次の修習生に、今度は名前を出して聞いてみた。「福澤諭吉という方はどういう方ですか。」と言うと、この人も「慶応義塾」と直ちに結びつかないで、「著述家であるということを言われた。「よく覚えております、著述家である。」「しかし、もっと大きな現在とつながっている何かありゃしませんか」と言って、だんだん追い詰めていくと、「ああ慶応義塾の創設者ですか。」こういうようなことになったのであります。そこで、また三人の委員がかわるがわる次の修習生にも、今度は大隈重信を聞いてみた。そうすると、「総理大臣であった方です」で、これも驚くべきことに「早稲田大学」と結びつけないのです。これは終戦後のこういう現象があるのかと思って非常に驚いたのであります。もう一つ、また面を変えまして、原敬、濱口雄幸などを聞いてみたら、原敬はやはり総理大臣であったという答えをしたのが二、三ありました。濱口雄幸に至っては、全然知らないのであります。それで、今の福澤、大隈両先生なんかがわからなかったのは、あいにく慶応出身、早大出身の受験生でなかったのかもしれません。それにしてもおかしいのであります。これはあるいは片寄っておるかと思って、法律関係の方面を聞いてみようと相談をいたしまして、次の修習生に、「憲法の起草者を知ってますか」と言ったところが、「伊藤博文」と答えた方が一、二あった。しかし、これは間違いないのですが、いわゆる起草者である伊東己代治とか金子堅太郎とかいうようなことは、全然これは浮んでもこない。これも無理だと思いまして、今度は「民法の起草者はだれか知っていますか」と言ったところが、「穗積陳重先生ですか」と答えた人が一人くらいあった。それから「穗積八束」と言った人もあります。しかし、富井政章、梅謙次郎両先生の名前は結局出なかった。こちらから聞いてみたところが、結局御承知ない。それで、これは学校の教える方の問題になるのかもしなませんが、今は歴史が科目にないということはありますけれども、福澤先生、大隈先生なんかは、歴史上の人物でもあるのかもしれませんが、私どもの見方では、やはり常識の人物であり、慶応、早稲田の関係からいっても、現在そのものにつながっている人物なんで、こういう事柄がわかっていない、ぴんとこないということは、どういうことかと思って非常に心配したのです。学校試験のことは当時考えなかったのでありますが、研修所において、もうちょっとそういう教養その他の面を注意をしていただきたいということを、ある会合で研修所当局に申し述べたのであります。こういうことが機縁になって、私どもは一般教養というものを、むずかしい意味でなく、やはり関心を持つようにしなければ、結局法曹が軽侮されることになり、裁判所そのものの位置が低く動くような事態に行かざるを得ないという心配がこのころからきざしたのであります。  次に、第三といたしまして、現在の新制大学は、初めの一年半が一般教養で、一年半過ぎると専門へ入るそうでありますけれども、学制改革の問題を言いますと、本科といいますか、専門学習期間が二年と少しではやはり足りないのでありまして、法律学に関する限りは、もう一年ふやさなければならぬと思います。そして、そうなれば、研修所は一年あるいは一年半でいいのではないか、こういうふうに考えます。これは現在ここで申し上げるらち外の問題でありますから省きますが、法制審議会一般教養の面を科目に加えまして、あの表の中の乙類を省きますと、一般教養のために、本来の法律、たとえば訴訟法等がどうしても影響を受けて省かれる、あるいはその他の実体法も範囲を狭められる場合が起り得るのであります。これは一般教養の面を試験科目に加えても、研修所の教程を改革いたしまして、そちらの方は初めの一年くらいは学問的研究に全部を充てるということに変えれば、試験のときに素質のいい者を採用すれば、その試験のときに範囲外に置かれた残余の部分は、研修所の初めの一年でみっちりやる方針がとれるのではないか、こういうふうに考えるのであります。今の研修所のやり方は、実は昔の司法官試補の養成の方向をそのまま続けてきておるので、一般法曹の養成という面より、司法官試補の養成という面に知らずして傾いているように見受けられるのであります。これはこの際改めまして、初めの一年くらいを学問的研究を補足する期間に充てれば、今言ったような実体法あるいは訴訟法等の必修と目すべき科目の不足を補うことが十分できる、こういうふうに言えると思います。  次に、第四の問題としまして、比較表の中の政治学、経済原論、財政学その他は、一般教養の代替としてあるいは掲げておるのかもしれませんが、このどれを見ても非常に専門の重要な学問なんであります。ですから、これは科目に加えて、これでそれぞれの資格をテストすることは非常にけっこうなのでありますけれども、資質のよい青年を司法分野に取り入れようとする場合に、こういう科目を入れますことは、選択科目であっても、それは非常に過重な負担を受験者に与えることになるのではないか、こう思って非常に心配するのであります。従って、一般教養の代替としてはこういうふうな科目はやはり避けられて、もっと広い意味一般教養の短答式の試験に変えられた方がよいのじゃないか、こういうふうに考えます。それで、本来の議論から言いますと、十分法律の学習を遂げた者が受験するのが本来でありますけれども、今のようなすべての就職の関係から申しますと、やはり在学の終りごろに試験に通ることが望ましい。——ほんとうは望ましくはないのでありますけれども、大きく言えば、キリン児あるいは秀才を法律分野から逸してしまうような大きな心配があるのでありますから、やはり素質のよい人を司法科にとるということでよいだろう、そういうことを目途としてよいだろうと思うのであります。それで、この資料で見ますと、だんだん在学生の合格が少くなっておりまして、新制大学に変った昭和二十八年ごろからがたっと落ちまして、初め合格者の五〇%前後だったものが三〇%以下になり、今年に至っては一七・九%という落ち方であります。これ以外にずいぶん秀才がおられると思いますが、これは行政官庁その他大会社等に行ってしまったのだろうと思います。これは、長い間には、今の日本司法制度そのものの基礎を動かす白アリになるのではないかという心配を持っております。  それで、最後に標語的に申しますと、私は司法科の登用試験は、将来りっぱな法曹となり得る素質を持っておるかどうかに重点を置くべきであって、現在法律技術者として一人前かどうかで定めるべきものではない、こういうことを強調したいのであります。  非常に長くなりましたが、これで失礼いたします。
  23. 小島徹三

  24. 中村宗雄

    中村参考人 われわれは司法試験制度に対して、一般法曹といたしまして、重大な関心を持っております。と申しまするのは、この司法試験というものは、決して法務省あるいは最高裁判所部内の試験ではないのであります。現在意図されておるように、法曹一元ということを目ざしておる制度でありますから、司法試験というものは実は法曹試験でありまして、この試験制度のあり方いかんということが、日本法律文化の将来をも支配する重大な問題だと思うのであります。ところが、現在までの法務御当局のこの司法試験についての御態度は、どうも法務省内部の部内試験であるというようなお考えのように見受けられるのであります。試験委員の人選の点につきましても、あるいは司法研修所の構成にしても、どうもこれは司法部内の問題であるというふうに考えて、この問題を御処理になっているように思うのであります。現在司法試験制度改正したい、これは両三年間の問題でありまして、これはいろいろな原因が錯綜いたしておりまするが、問題は、在学生の登第生が少いから、これをふやしたいというところに重点があるように思うのであります。だが私は、在学生が受験し、登第することについては、ただいま安倍先生も疑問を投げられておりました。私もこの点について疑問もございますが、その点は後に申し上げます。と同時に、現在の法曹がいかにも教養がない、だからもっと教養を高めるべく試験制度を改めなければならぬ。今いろいろ小林参考人からも御陳述がありましたが、これは何も司法試験だけの問題ではなくて、試験制度それ自身の問題なんです。ただ、非常識者というのは至るところにあるので、その一人、二人をあげて、であるがゆえに試験制度が悪いという結論には私は到達しないと思います。私はまたこの司法試験受験生及び司法官修習生、この常識問題についても後ほど申し上げますが、とにかく今回の案は、在学生をもう少し採りたい、いや、もう少しではない、もっと採りたいということで、いろいろ紆余曲折を経て、結局専門科目の範囲を限定するというところに落ちついたようであります。その点についても最後に総括的に申し上げるといたしまして、今回の法案につきまして、若干私の考えていることを申し上げたいと思うのであります。  まず第一に、短答式を採用したのでありますが、短答式にはいろいろ長短がありまして、必ずしもこれによって将来司法官に適切なる才能を持つ者が得られるとも限らないのであります。しかし、これを現実の問題として考えます際に、現在の司法試験受験生に、ことごとく論文式の試験をすることはとうてい不可能であります。試験委員の負担軽減の上から見ましても、短答式を採用することは、われわれとして反対すべき筋合いのものではない、こう思います。ただ問題は、短答式試験というものは、非常に運、不運が出てくる。採点者の思うつぼに当ればいい点が取れるが、少し違った立場にあると、マル・バツ式でバツをつけたことは、その背後にいろいろな深い考えがあっても、これはゼロにされるというふうに、アンバランスがあるのであります。でありますがゆえに、この短答式で、最後に採用人員のそれに近いものにしぼるということは非常に危険なことであります。そこに相当余裕を設けませんと、せっかくの人材も短答式の試験に落ちるということも生じ得るのであります。この短答式を御採用になる場合には、採用人員については相当幅を持たしていくことが、私は公正を保つがためには必要であろうと思います。これは私一応司法試験委員をいたしておるのでございますが、大体において受験生の三分の一程度を採用するならば、適当な者が採用できるのじゃないか。これは七千名といたしますと、三分の一といたしますと二千何百名、これは司法試験委員の骨の折れる問題でありますが、三千通や三千五百通くらいまでは見られるのであります。短答式を御採用になったとしても、受験生の大体三分の一はこれでもって拾い、そのうちから論文試験でもって必要な人員を選び出すという制度をとることが必要なんじゃないか。短答式を採用して、本年は登第者五百名なるがゆえに千名までしぼるということにしたら、これはとんでもない不公平を生じはしないかということを私はここで申し上げたいと思うのであります。  次は論文試験、このうちの必須科目でありますが、今回のこの案は、例の科目の範囲を限定するという立場からでありましょう、民事訴訟法及び刑事訴訟法一科選択ということにした。その理由は、民事訴訟法は四年生にかかっておるから、在学生が受けにくいというようなことであるというふうに承わっております。これはあまり大した理由にならぬと思う。と申しますのは、今回管理委員会試験範囲を限定する権限を与えておるようであります。従来も限定いたしておりましたが、これは実はやみの限定で、どうも受験生経験的に、どの辺は試験に出ないだろうというふうな憶測をするほかないので、しばしば不公平が生じておりました。今回は規則でこれを公表せられるようでありますから、この点については心配ないわけでありますが、そうなれば、たとえば民事訴訟法を試験科目に入れても、強制執行法を除くということにすれば、これは三年生までで済むわけであります。在学生の受験を便宜ならしむるがために民事訴訟法を選択科目に回すという理由はないのであります。先ほど小林参考人が、法治国家は結局において裁判に帰すると言われましたが、この裁判所というものは訴訟法によって運営されておる。訴訟法の知識がない裁判官は、いかにして運営するか。しかし、現在の日本状態におきましては、どうも訴訟法が軽視される。この軽視されていることが、私は今回のこの必須科目のうちから民事訴訟法、刑事訴訟法一科選択という案になって現われたと思うのであります。この民訴、刑訴一科選択という制度は、昭和三年以来しばらく続いておりました。しかし、その当時だいぶ実務法曹方面からも非難がありました。実際問題としては、民事訴訟法、刑事訴訟法、双方選択した者が採用される率がいいというようなうわさもあったくらいでありました。法曹といたしましては、訴訟法の必要なことは十分御存じであるわけでありますが、しかしこれは何といっても、日本においては、私法学が中心になって、訴訟法学が軽視される。そこでこの訴訟法を選択科目にしておるのでありましょうが、この訴訟法軽視ということが、現在の裁判において著しくその弊が現われている。訴訟法軽視ということは裁判の素質を下げることだ。現在、あるいは松川事件とかあるいはその他八海事件、こういう事件は、いずれも実り体法の問題よりも証拠法の問題、訴訟法の問題、そこに大問題が起っている。また最近私、盛岡地方裁判所の農地買収無効確認訴訟に関する判決を見ましたが、われわれ訴訟法学者から見て驚くべき判決がある。と申しますのは、これは地方裁判所の判決ですが、農地買収——これはずいぶん無法なものがあることは皆様の御案内の通りであります。これの買収無効確認訴訟を起して首尾よく勝った。そこで勇んで買収無効となったその土地の返還請求訴訟を起した際に、その次の盛岡地方裁判所では、その請求を棄却した。この理由は、前の無効確認判決は、その前の持主と県知事との間の判決であって、判決の既判力は第三者に及ばない、その後農地を買い受けた者に判決の既判力は及ばないという。これでは何のために農地買収無効確認請求訴訟を起すのか。せっかく勝っても、農地が取り戻せない。これは判決の既判力はなるほど第三者に及ばないでしょうが、判決の事実上の効果、構成要件におきまして、既判力は当然第三者に及ぶ。その点は地方裁判所判事がもう少しお考えになれば、そうおかしな判決はしなかったのでありましょうが、どうも判決の既判力は第三者に及ばないという簡単な法理で、その事件を解決しておる。もとよりこういう非常識な判決は、高等裁判所で破棄になりましょうが、それによって損害をこうむるのは当事者なんです。またこの事件に対する判例等も若干ありますが、どう見ましても、あまり訴訟法の方を御存じない。私法学者は訴訟法を御存じないから、それに対する判例にしても、判決には反対だといっておるが、どうもきめ手が見つかっておらない。またこれは何も裁判所ばかりじゃない。二、三年前に白木屋の例の乗っ取り事件がありました。あれにつきまして総会決議不存在確認訴訟、あるいは無効確認訴訟というものが双方から提起されて、だいぶ学界をにぎわす問題となり、また実務法曹の間にも問題になったようであります。これは実は私法学会でこの問題を取り上げていろいろ論議いたしました。またいろいろ著書、論文も出ておりまするが、いずれも商法学者が訴訟法を御存じなく、きめ手がないので、甲論乙駁、ほとんどまとまりがついておらない。この問題につきまして、私も訴訟法学の立場から論文を出したのでありまするが、果してこの論文を商法学者がどの程度まで了解になっておるか、はなはだ疑問なんであります。私がその反駁した当の相手方としては、先ほどまで司法研修所の所長をせられた松田博士の御論議もありますが、松田博士は商法学者で、訴訟法学者ではありません。司法研修所長のこの問題に関する御論議に対しても、われわれ訴訟法学者の立場からすれば、すこぶる誹議すべき、また論議すべき問題があるのであります。これらが日本における訴訟法学の普及の実情であります。  くどいようでありますが、民法学者もそうでありまして、たとえば地上権の消滅請求、あるいは借地借家法による地代、家賃の値上げ、増減請求、あるいはまた借地権、借家権消滅の際の建物造作の買い取り請求、これを民法学者はいずれも形成権としていて、一方的意思において地代家賃が突然値上げになったり、あるいは一方的意思において所有権が相手方に移転するという。そういうべらぼうな話はどこにもない。ドイツ法にもそういう議論はありません。これは地代、家賃の値上げにしても、請求しても、話がつかなければ判決によって値上げをさせ、値下げをさせる。これが真相なのでありまして、これは訴訟法との連関において、この権利の本質を確むべきであるが、民法学者は訴訟法を御存じないから、民法の理論で形成権——もっともこれもどの理屈をとっても結論としては同じならば、学者の間の議論だ、こう言えますが、これは裁判の上で重大な差異を生じてくるのであります。この問題について最近「綜合法学」という雑誌に私はこの問題を「形成権理論の乱用」として書いたのでありますが、現在この問題は借地借家法の改正にからんでおるのであります。ここにも法務当局がおられると思いますが、どうかこの点についてもさらに御一考をわずらわしたいと思います。  このように日本における訴訟法学のレベルというものは一般化しておりません。政策としても、さらに訴訟法学は盛り立てるということが、日本裁判制度をより内容を充実させ、素質を向上させるゆえんであろうと私は深く確信するのであります。実は民事訴訟法学会でも、この問題につきましていろいろ慎重討議いたしましたが、現在において、司法試験に民事訴訟法、刑事訴訟法を選択科目にされることにつきましては、絶対反対であるという意思を表現いたしたのであります。結論といたしましては、民事訴訟法、刑事訴訟法はともに必須科目に加えるように改められたい、こういう決議をいたしたのでありますが、私をもって言わしめますならば、実は学者の仁義として、これ以上のことは現在まで申し上げませんでしたが、どうしても民事訴訟法と刑事訴訟法のいずれか選択にしなければならぬというようなことならば、私は、民事訴訟法をば基本的な学科目として、必須科目にして、選択科目に刑事訴訟法をすべきではないかと思います。と申しまするのは、刑事訴訟法の理論は、大体において民事訴訟法の理論から引っぱってきております。現在におきましては、特に証拠法は英米法が入って参りました。この点がだいぶ民事訴訟法と違うのでありまするが、これはむしろ司法研修所で研究をさせる方がより適当かもしれない。私といたしますると、民事訴訟法、刑事訴訟法ともに必須科目に置くべきである。何も司法試験の必須科目に置かなくてもいいじゃないかと言われるかもしれませんが、選択科目になると、しかも在学生を通そうとするならば、どうしても刑事訴訟法の方が楽だから刑事訴訟法を選択する。そうすると民事訴訟法を十分勉強しない、こういうことも生ずるのでありまして、私は双方をばぜひ必須科目にしてもらいたい。そのためには選択科目に二科目あるから、科目が八科目になるではないかと言われるかもしれませんが、従前九科目試験があったこともあるのであります。私は双方をば必須科目に置くことが、より日本文化のために、法律文化のために必要であろう、こう思うのであります。どうしてもその点不可能ならば、これは訴訟法学者という立場を離れて今日初めて申し上げるわけでありまするが、民事訴訟法は必須科目にし、刑事訴訟法は選択科目にして置く方がより妥当ではないか、こう考えるわけであります。  次に、選択科目でありまするが、これが一類、二類に分れているようであります。一類の方に刑事政策が回っておりますが、これは科目の性質から見まして、どうしても二類に入るべきものであります。聞きますところによりますと、刑事政策は六法全書を使うから一類の方に入るのだ、こういうような御意見があったとか承わりまするが、それは六法全書を使おうと思えば使う問題もございますが、最近の刑事政策に関する問題を見ましても、いずれも六法全書の必要な問題は出ておりません。たとえば、昭和三十三年は、「少年犯罪の対策、売春防止法における刑事政策的任務」というのが問題でありました。私は過去十年ばかりのこの試験問題を見ましたが、いずれも六法全書の要るような問題は出ておりません。これはぜひ第二類に回すべきであって、第一類にそぐわない科目のように思うのであります。  それから、第二類に参りまして、政治学であります。政治学と申しますと教養科目になる。教養科目をわれわれが試験問題として反対するゆえんは、内容が不確定ということであります。試験委員によって問題の出し方、採点の方法が違う。これが何よりおそろしい。そこで第二類は、専門科目とするならば、政治学原論と改むべきが当然であると私は思います。同時に心理学が入っております。心理学は昔から問題のある科目でありまして、これは自然科学系の心理学もあれば、文化科学系の心理学もある。結局試験委員によって試験の問題それ自身の内容が決定される。たとえば、文化科学系の心理学を学校で学んできても、自然科学系の問題を出されると、これは合格点をとることははなはだ困難である。この心理学は、試験問題としては常に問題を起す科目であります。かってゲシタルトの心理学で、高等試験におきましていろいろ問題を生じた科目なのであります。これは私は御削除になることがより適当であろうと思うのであります。  最後に口述試験であります。これは必須科目及び選択科目、合計七科目について口述試験を行うのでありますが、選択科目に関する口述試験というのはまことに困るのであります。と申しますのは、採点のアンバランスを生ずる。口述試験は筆記試験関係なく、それだけの平均点で及落を決しますので、いわば採点の甘いところと辛いところでは大へんな不公平を生ずる。私はこの口述試験は必須科目にのみ限ることが採点の公平の上からいっても適当じゃないか。と申しまするのは、短答式、論文式、そういう試験ですでに出ておるでありますから、口述試験というのはその知識がこなれておるかどうかを判定するのでありますから、科目はそれほど多いことは必要でない。むしろ一人当りの口述試験の時間を延ばして、十分その人柄を見、知識がこなれておるかどうかを見る方がより適切である。私はこの口述試験について選択科目をも加えるということについては、賛成の意を表しかねるのであります。  それから次は、今回の法案に入っておりませんが、管理委員会の構成であります。現在は法務次官、最高裁判所の事務総長及び弁護士連合会からおいでになるお一人と、三名で構成することに法律で定まっておるようでありますが、実情を申し上げますと、恒常的な委員となられているのは、現在までの模様でありますと、最高裁判所の事務総長の五鬼上氏がずっと続いてなられておりました。あとはそのときそのときに変られるので、実際は事務当局において御立案になったことをそのままうのみにするというのが管理委員会の現在までの状況のように思うのであります。それはいいといたしましても、そういう構成でありますと、実のところを言うと、何らの実力がない。せいぜい試験委員の人選、しかも大体のおぜん立てができたところに従って人選するという程度でありまして、試験問題の出し方あるいは試験の範囲の限定というようなことに十分なる実力を発揮することができない。この受験生というものは各大学から出ておる。だから、この管理委員というものは決して司法部内からのみ出すべきものではない。司法試験は部内試験でないということを考えるならば、この管理委員には学識経験者を加えて、より強力なる構成にする。試験委員の人選についても、試験範囲の限定についても、ことに試験問題の出し方に相当誹議すべきところがあるのでありますが、現在の管理委員会では、試験問題の内容にまでダッチする権限及び実力を持っておりません。これに学識経験者が入って、何も試験問題の個々の内容についてダッチするのではありませんが、試験問題の出し方総体についての大綱を示して、それをリードしていくという力を持たせるためには、ぜひこの管理委員会を拡大強化する必要がある、こう私は思うのであります。  最後に試験委員であります。現在のところは試験委員がいかにも固定している観がございます。一、二の方あるいは二、三の方と申し上げてもいい、もっと多いかもしれないが、十年以上もお続けになっております。また私立大学関係試験委員というものはだんだん減少いたしまして、ほとんど現在においてはノミナルになっております。私はこの試験委員をばもっと広範囲に人選をする必要があるんじゃないか、また必要があると私はここで申し上げたいのであります。  次には、この問題と関連いたしまして、司法研修所のあり方であります。現在の司法研修所は、先ほど小林さんからもお話しになったように、昔の研修所の系統を引かれまして、内容において改善すべきところもあると仰せられたようでありますが、まさしくその通りでありまして、現在の研修所は、司法官の実務を修習させる制度以上には出ておりません。今度の案によりますと、専門科目の方を限定したならば、試験範囲を限定したならば、司法研修所で勉強させればいい、こう仰せられる方もあるようであります。ただいま小林さんの御意見もそういうふうに承わったのでありますが、これは司法研修所制度を根本的に改造する必要がある。のみならず、この司法研修所のあり方について私は根本的な問題がある。と申しますのは、この研修所というのは、実技を中心としている。学校で、机の上で教えられないような知識を与えることに使命があるのではないか。それなるがゆえに、教官としては裁判官弁護士等がお加わりになっておる。この点につきましては、各大学が及びつかざる機能を持っておること確かでありますが、この司法研修所において基本的な学科目を勉強させようということは、これは無理なことであります。第一その教官がありません。現在も、特別研修と称して、実技教官を若干お呼びになっているようでありますが、これらのお方の名前は、この配付せられた資料に載っておりません。特別研修とかいって、臨時にいろいろ御担任になるようでありますが、しかし臨時と申しますが、これはほとんど東大教授に限られておる。しかもその顔触れが大体一定している。その程度で、この基本的な問題、基礎教育を与えるということは、これはよく行われない。さらにこれをば拡大して、大学的な組織を持たせるとなりますと、私に申させると、各大学の上にもう一つ大学を設けることになり、これは官立大学としましては大学の上に大学を設けられても、同じ国立でありましょうが、われわれ私立大学の方から申しますと、せっかく私立大学において完成教育をした者が、さらに国立大学において教養を受けなければ一人前の法曹となれないということになり、これは大学制度の根本をゆるがすものであると私は思う。私は司法研修所というものを拡大して、法学の基礎知識を養わせる機関としての機能を持たせるべきではないか。法曹の常識が足りなければ、法曹の常識を増すようないろいろな科目あるいは実務の科目を修習させる、そこに私は司法研修所の機能があり、その目的があるというふうに思います。  法案に対しましての私の意見はその程度でありますが、問題は今回の法案改正は、何と申しても専門科目のレベルを引き下げるというところにねらいがある。これも在学生を通そうというところにねらいがあるわけであります。なぜこういう問題が起ったかといいますと、これはもう皆様も十分御案内のように、現在の新制大学の学力が低下しておるからであります。この新制大学は四カ年と申しますが、実は一カ年半は教養科目、あと二カ年半でもって将来法曹をもって立つべき知識を養わせるということは無理なのであります。にもかかわらず、さらに在学生を通そうとすると、実は法学を学んで二年目にしてすでに試験を受けなければならぬ。それでもって在学生試験して優秀なる者を採るといって、一体何を基準として優秀な者を探し出せるか、常識試験で優秀人が採れるならば、何もそうわれわれ苦労することはないのです。問題は、新制大学のあり方なんでありまして、われわれはこの新制大学特に法学部につきましては、実はいろいろ苦心いたしております。一年延長論も考えております。これは大学連盟、大学協会等でいろいろ取り上げましたが、これは法制の改革があってなかなかうまく行かない、急速には間に合わない。そこで、たとえば中央大学においては専攻科というものを一年設けました。しかし、これも一応四年を終らしてからまた一年やる。これは木に竹を継いだようなことになる。そこで、実は現在の新制大学は、御案内のように、一時間の講義に二時間の実習というアメリカ式の考え方でできておりますが、日本大学施設で一時間講義をして二時間実習させるだけの施設がない。結局学生は遊んでしまう。そこで時間を増加する。また別に法職課程というものを設けて、特別教育をするというような方法も考えております。それからさらにまたわれわれ考えておりますことは、今のところは最初の一年半が教養科目であり、あとの二年半で専門科目をいたすのであります。だから、たとい法学部に入っても、第一学年では法律のホの字も勉強させない。ここにまた学生の不満もある。せっかく法学部に入ったのに、法律を学ばないのはおかしいじゃないかという話もあるので、われわれ現在立案いたしておりますのは、たとえば債権各論とか親族法とか、わかりやすい科目を第一学年に持っていく。それで第一学年の教養科目の若干を三年まで持ち上げていく。ある意味で縦割であります。そういうようにすれば、四年のときに試験を受けるとしても、とにかく一年、二年、三年と三年間勉強しておるから、相当法律が学ばれてくるのではないか。こういうような方法も考えておるのでありますが、実は今申し上げたような方法は、国立大学においては絶対とれない制度なのであります。と申すのは、向うは官制で縛られておる。ことに東大のごときはそうでありますが教養学部としまして、一年半は別な学部になっております。今私の申し上げたような縦割制度はとうてい設けられない。司法試験制度改正というものは、新制大学学制改革と密接な連関があるのでありまして、どうかこの委員会におきましても、新制大学学制改革ということについての十分の御関心をお持ち下さいまして、またその面とのにらみ合せにおいてこの案をお作り願いたい。われわれとしましては、専門科目の範囲限定は、学制改革が行われるまでの暫定的措置というふうに理解いたしておるのでありますが、現状にのみ眼を向けて、今の学生は法学の知識が足りないから専門職の試験を下げてやるという、いわゆるイージー・ゴーイングの考え方でなく、この問題については、日本法律文化の将来のために根本的な対策をお立て下すって、その上においてこの試験法の改正をお考え願いたい。もとよりそうお考えのことと思いまするが、その点を特にお願いいたしたいと思うのであります。  先ほどから常識の欠缺ということをしきりに仰せられ、また各方面で聞きますが、何もこれは裁判官だけに限ったのではない。実は日本文化のあり方なんです。先ほど安倍さんですか、大隈侯爵、福澤諭吉先生のことをおあげになりましたがこれらはわれわれ年輩の者においては常識でありますが、若い諸君にとってはこれは歴史的事実なんです。そこに私は時代のズレがあると思うのであります。その例をとって、なるがゆえに司法修習生が常識がないとは私は結論できない。この常識がないということは、日本文化のあり方、大学制度のあり方で決して試験制度の問題ではない。これを試験制度に結びつけて教養科目を加えろということには、論理の飛躍があり、断層があるように思うのであります。私、よりおそれますことは、法律常識の欠飲であります。先ほど申したような、われわれいつも申すのですが、第一審の判決にはまことに危ないのがあります。もとよりいい判決はたくさんあります。しかしながら、ときどき突拍子もない判決が出てくる。これが高等裁判所最高裁判所に行く。ところが最高裁判所は、正直なところを申しまして、裁判官が若い。近ごろの最高裁判所の判決は、実に書生論と思われるような判決文がわれわれの目で見て少くないのであります。法律常識の欠缺の方がより大事である。裁判官に訴訟法の知識がない、これが一番おそろしいのであります。どうかそういう点について十分なる御考察を願いたい。常識が足りないのは司法修習生で十分勉強させればいい。  また、試験問題の出し方であります。実際今の試験問題はあまりにも技術的に流れておる。たとえば本年民法で「破綻主義を論ぜよ」というのが出ました。破綻主義というものはわれわれは一向知らない。ある特定の先生の本に書いてあるだけのものであります。そういう試験問題が出るから、試験問題のあり方の方に十分研究をしなければいけない。そうするには管理委員会の実力をもっと高める必要がある。私は問題はむしろほかのところにあると思います。  結局、最後に申し上げますることは、何と申しましても司法試験専門試験であります。専門の知識を低下させて、日本法律文化日本裁判制度はどうなるか。私は何も他国のことを申し上げるのではないのですが、ドイツの司法試験制度は、税法まで試験科目に入っておる。ところが、日本においては、訴訟法まで選択科目に回す、大へんな違いであると私は思う。この問題は、何と申しましても、時代の、占領軍の生んだ新制大学欠陥から現われた悲哀であります。われわれはこれをいかに是正するかということについて、日夜努力いたしておりますが、どうかこの委員会におきましても、大学学制改革ということとにらみ合せて、この試験制度改正を御考慮いただきたいことを心からお願いいたす次第であります。私の意見はこれで終ります。(拍手)
  25. 小島徹三

  26. 永田菊四郎

    ○永田参考人 私も司法試験委員経験もございます。それから大学の方で法学の講義を現にいたしております。のみならず、私は現行法の改正に当っては、若干関与いたしたのであります。この法案を作るときにも若干関与いたしましたし、また公聴会にも私はここに出て参ったようなわけでありまして、そういう関係から、率直に具体的な問題に入って、逐条的に所見の一端を申し上げたいと思います。  第一は、法務省でお作りになったのでしょうが、改正案の第三条についてでございます。この第三条に、「一般教養科目について」云々とありますが、今はこんな一般教養科目というものはないのですよ。これは全く学校制度といいますか、そういうことを知らないままの案でございまして、もっと学校制度、教育制度というものと関連をつけて立案していただきたいと思うのであります。この法律によりまりすると、第三条には、「学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)に定める大学卒業程度において一般教養科目」とあります。その当時は一般教養科目という言葉があったのでありますが、その後改正いたしまして、たしか二十六年ごろに改正されて、さらにまた三十一年にその科目のことについての省令が出ております。きょう私は持ってきておりますので、これをあとで差し上げますが、それによりますと、新制大学における専門科目でない方の科目には、一般教育科目というものと、それから基礎教育科目、外国語というのと保健体育、そういうふうになっておるのです。もう一ぺん言いますが、一般教育科目、それから基礎教育科目、外国語科目、保健体育科目専門科目、こうなっておるのです。でありますから、この知識がなくしてこれを立案するということは、実は準備が足りないところであると思います。この点はよく法務省なりどこなり立案をされる方で、もう少し研究をしていただきたいと思うのであります。それに関連して申し上げたいことは、これはそういう頭でおるから出ておる誤まった風潮であると思うのでありますが、たとえばこの間、今月の四日に出た新聞、たとえば東京新聞を見ますと、昭和二十四年にできましたこの現行制度の基準が、新制大学の教科とズレがある、しかもそれは、学制切りかえになったことを十分正認識していないようなふうに書いてあるわけでございます。すなわち、もう一ぺん言いますが、現行法は新制大学を知らないで作っておるのじゃないかということが新聞に出ておりました。これは、おそらく改正を強行しようとしておる諸君の中にも、そういう頭があるのじゃないかと思う。現行法は旧法時代に作ったのであって、新学制のことを知らないで作ったのである、それだから改正しなければならぬのだ、こういうふうな考え方をしておる人がおる、それは大間違いだと思います。そうじゃなくて、現行法は、新制大学のことを考慮したんですよ。したからこそ、その当時の教養科目という言葉を使っておるわけでございます。それから新制大学の課程を十分考慮しながら、しかも判、検事弁護士地位や性質というものを重視して、判事検事弁護士地位が重大であるというさっき小林先生がおっしゃったようなことを考えまして、程度を下げないということ、判、検事弁護士程度を下げてはならない、そうじゃなくて、むしろ法学教育を上げるべきだ、判、検事弁護士の性質は重大であるから、その地位を下げてはいかぬのである。司法試験程度を下げないで、法学教育をむしろ上げるように配慮すべきである。そういうことで、これは新制大学科目が下ることを知りながら、この試験制度の標準は変えなかったのですよ。私は関与したのだからよく知っておる。のみならず、私はなお念のために、きのう電話をかけて、本間喜一先生に聞いたのです。本間さんという人は、最高裁判所のその時分の事務総長であって、この法案に直接関与された人であります。その人の話も、なお私の記憶をはっきりするために伺ったのでございますが、その本間さんもそう言っておられました。これは決して新制大学のことを考慮しなかったのじゃない。下るけれども、下った場合に試験程度を下げたらいかぬのだ。それだからして、それは十分わかっていながら、この程度を下げないで、むしろ法学教育を上げるようにしたいと思ったのだ。それだから、試験委員のごときも、さっき中村さんがいわれたように、日本の法学教育は重大であるということから、試験委員のごときも、国立の教授から三分の一、私立大学の教授から三分の一、実務者から三分の一、こういう割合で出すという方針もその当時立てておったんだそうでございます。でありますから、その当時はやはり、そういうふうに私学の人や実務の人もだいぶ重要視されておったのでございますが、最近は、さっき中村さんがおっしゃったように、その点はだいぶくずれておるわけでございます。要するに、この法学教育をむしろ上げて、そして司法試験程度は下げない、こういう建前で現行法はできておるわけでございます。なお、ここに私が声を大にして申し上げたいのは、現行法は日本精神に基いて、六十年の伝統ある司法試験制度を維持したのです。占領政策下にあって、公務員試験やいろいろな試験がだいぶアメリカ式になったのでございますが、この司法試験だけは、これはどうしてもわれわれが守り抜かなければならぬというので、これは自主性に基いて、やまと魂を基礎にして、この制度を守り抜いたんですよ。占領軍、占領政策に反抗したのです。占領政策に対抗して、そして従来の制度を維持したのであります。マル・バツ式とかあるいはいろいろなアメリカ式のことを排撃して、そして日本の従来の司法試験制度を維持することに努めたのでありまして、その当時の司法当局の勇気と努力に対しては頭が下るのでございます。このことは本間さんも言っておられましたが、私もこれは実際上多少経験しておるわけでございます。その時分は、公務員試験とか人事試験というものができまして、役人は課長になるにも試験するということになっちゃったのです。その試験をするためには、マル・バツとかいろいろな式でやろうとするアメリカの占領政策に負けたのです。ただ司法試験制度だけはそれを守り抜いて現行法ができたのでありますから、この点は一つ司法当局におかれてもとくと御考慮に相なっていただきたいと思うのでございます。  ここでちょっと申し上げたいのは、現行法にはどこにもマル・バツを採用するという規定はないのでございます。この点は書面にしたためて用意して参りましたが、これも重大な過失を犯しておるわけでございまして、現行法にマル・バツを採用するという規定はどこにもない。書面に詳しく書いてきましたので、差し上げますから、簡単に申し上げますと、まず第一に現行司法試験法の沿革から顧みましても、岡咲政府委員は、国会においてちゃんとこう言っているのです。「第一次試験は、第二次試験を受けるのに適当な教養があるかどうかということを判定いたすことを目的といたしまするので、筆記の方法によって行われるけれども、それは必ずしも昨年まで行われました高等試験の予備試験のように、論文というふうな形にはならないだろう。」要するに、マル・バツを使うということを言うておる。ところが第二次試験については、「試験の方法は筆記試験と」云々とありまして、「大体従前の高等試験司法試験の例によるであろう」と、こう言うておるのです。沿革から申しましても、国会においてそういうことを政策委員が言明しているのです。のみならず、この条文の構成から見ましても、条文の解釈から見ましても、この現行法の中に、いわゆる短答式を含むという規定はどこにもないのです。これはここに詳しく書いてありますから、ごらんを願いたいのでございますが、どこを見ても、この現行試験法にマル・バツを採用するということはないのです。もしそういうことが現行法にあったら、それならばなぜ昭和二十四年にできてから三十一年まで行われなかったかというのですよ。これが含んでおらぬからこそ、マル・バツの試験をやらなかったのです。それは全く明瞭なんです。その短答式は、一次試験の方は最初からそういうふうにして施行規則でやっておる。ところが第二次試験にはそれを含んでいないからこそ、実際に行わなかったのです。だからして、付則にも細則にもそれはなかったのです。それを三十一年になってから、その細則で変更したのでございますけれども、法律の本文の中に含まれないことを細則や施行規則で一体変更できますか。法務委員の諸君はそういうことはおかしいとお考えになるかもしれませんけれども、法の中に含んでないことを付則やら何やらで改正するということは、まことに常識に反する。のみならず、立法権の侵害であります。私はそう思う。でありますから、その意味において法制化しなければならぬということを私は前から主張しておったのでございますが、これを法制化しもしないでおいて、そうして現行の法律の中において、マルをつけたりカケをするのは、筆記試験だというような解釈をしてするということは、全く法を曲げて解釈する方法であろうと思うのであります。司法試験というのは、言うまでもなく、判、検事弁護士を採用する試験でありますし、判、検事弁護士は公平を守るのを本分とするのでありますから、その試験も公平に、妥当に、明朗に実施されなければならぬと思うのであります。そういう意味において、私はこの現行法のもとにマル・バツを使うことは、これはまことに遺憾に思うわけでございます。それであるから、それを今度法制化するということになりますれば、その点は私は賛成であります。  その次に申し上げたいことは、選択科目でございますが、選択科目につきましては、さっき中村先生がおっしゃったように、社会政策、経済政策、刑事政策、そういう政策は一緒に第二類にする方が学問的によかろうと思うのであります。刑事政策は法律だというふうにお考えになっておる向きもございますけれども、そうではなしに、刑事政策はやはり政策でございますから、社会政策とか経済政策とかというのと同じでございますから、私は政策面の中に入れて、第二類にする方が正しいのではなかろうかと思うわけでございます。これでいきますと、刑事政策は第七号の中の科目に加える方が合理的じゃなかろうかと存じます。それから心理学も、中村先生がおっしゃったように、除くというのは賛成で、心理学は、ある学校では哲学と同じように勉強し、ある学校においては自然科学的に研究するというわけで、これはまちまちでございます。私どもは、これは哲学的な科目だと思っておりましたけれども、このごろの人はそうではなくて、自然科学的な学問だと言う人もあるわけでございますから、そういう意味において、さっき中村さんがおっしゃったように、除かれる方がよかろうかと存ずるのでございます。  それから、三番目に申し上げたいことは、口述試験でございますが、私も口述試験は必須科目だけでよかろうかと思います。ほんとうから言えば、私は口述試験を五科目にするということは、これはあまり法曹の力を下げることになりますし、賛成したくないのでございますけれども、やさしくするというお考えならば、何も苦しんでたくさんしなくても、必須科目だけでもよかろうじゃないかと思うのであります。司法試験法の歴史を見ましても、どうですか、諸君、選択科目を口述にした例がありますか、私はそれは知らないのでございます。選択科目は従来口述にしていないと思うのであります。そういう沿革から見ましても、私は選択科目は口述にはしないでよかろうじゃないかと思うのでございます。しかし、さっき申しましたように、この法曹程度を低くしたくないという立場からいえば、そういう口述試験をやさしくすべきではないと私は思いますが、今のようにやさしくするという建前ならば、必須科目だけにする方がよかろうし、前例から見ましても、必須科目だけにする方がよかろうと思うのでございます。  その次に、第四番目として申し上げたいことは、第六条の第五項の規定は除くべきだと思うのです。これには、「第二次試験においても、知識を有するかどうかの判定に偏することなく、理解力、推理力、判断力等の判定に意を用いなければならない。」とありますが、これは全く無用有害の規定であると思うのでございます。なぜかと申しますと、第一に、「第二次試験においても、」と書いてあるけれども、この「おいても、」というのは、どこにもとのものがありますか。もとのものがあるなら「おいても、」ということも言えますが、前にはないのです。第一次試験においてというのがあればそれを受けて、第二次試験においてもというのがあっていいけれども、それが何もなくて、「第二次試験においても」というのがひょこっと出てきている。なおまた、「理解力、推理力」というのは、ここに書かなくたって、現行法の中にあるでしょう。現行法第一条をごらんなさい。これを見ますと、「司法試験は、裁判官検察官又は弁護士となろうとする者に必要な学識及びその応用能力を有するかどうかを判定することを目的とする」と書いてあるでしょう。それから今度はまた第五条にも、「第二次試験は、裁判官検察官又は弁護士となろうとする者に必要な学識及びその応用能力を有するかどうかを判定する」と書いてあるでしょう。もしほかに書いてないならばともかく、その判断力とかそういうものを見るだけなら、この現行法の第一条及び第五条の規定でたくさんです。特にこういう規定を加える必要はごうもないのであります。この法務省のお作りになった逐条の説明によると、知識の試験に偏することなく、そういうようなことが書いてあります。知識の試験に偏するとか記憶力の試験に偏するとかいうことがないようにと書いてありますが、理解力とか推理力というのは知識でしょう。これは理解力やら推理力は知識ですよ。どうですかな。そうなると、「知識の試験に偏したり、単なる記憶力の試験になったりすることは、」「厳に避けなければならない」ということが書いてありますけれども、やはり私はその理解やら推理というのは知識のうちに属すると思うのです。知情意の知に属すると思うのです。のみならず、現行法の規定で十分ここに書いてあるようなことはできるのでありますから、わざわざここに加える必要はないでしょう。私が心配するのは、この規定があることは、何か政策があるのじゃないかと思われる。こういう規定を置いておいて、何か政策的な施策を行うのじゃないかという邪推をせざるを得ないのでございます。何となれば、現行法のごとく、明らかにマル・バツ式を採用してない法律でさえも曲げて法律解釈して、そうしてマル・バツ式が現行法の中にあるというようないろいろなことを考えて、マル・バツ式を使うような態度に出られるなら、私はこういう規定があることが、何となくここに政策的なものがひそんでおるような気がするわけであります。のみならず、第一条とか第五条に明らかにあるんですから、こういう規定を置く必要はごうもないと思うのでございます。  なお、この機会に申し上げたいことは、法曹の素質ということをよく言うのです。立案の中にも、素質を高くすると書いてあるし、新聞報道を見ましても、素質をよくするといっておりますが、そもそも司法官弁護士としての素質とはどういうことを言うかということです。物知りや小器用なことを言うことは、私はそういうことは素質ではないと思うのだ。小器用なことやら物知りは、それが教養があるとも思わなければ、素質がいいとも私は思いません。裁判官検事たるものは、正を踏んでおそれず、力行してやまずとの、こういう信条を持ち、誠は天に通ずという信念を持つことだと思うのです。そういう知識以外の心、これこそ司法官なり弁護士検事としての素質であると思うのであります。私はいろいろ調べてみたのでございますが、たとえばエドワード・アボット。パリーという人の「弁護士道の七燈」という本を見ましても、一、正直、二、勇気、三、勤勉、四、判断、五、頓知、六、雄弁、七、僚友愛、この七つが弁護士の備うべき要素であると書いてあります。また有名な「ウェストミンスターにおける裁判官その他司法関係者のための祈祷」によりますと、裁判官は正義にして仁愛深く、正直にして識別力あり、大胆かつ細心でなければならぬといっております。またわが国でも板倉重宗が愛宕の神に「若し過って私のことあらんには、立どころに命を召され候へ」こういうふうに祈願しておりますように、私は判事検事弁護士としての素質というのは、正義感、誠実、努力、そういうものが最も必要な素質であろうと思うのであります。そうして、その教養というごときも、ものを知っていることが教養でなくて、教養というものは人格のうちにある、人の内側にあるのであります。それをマル・バツで試験をしたり、あるいは物事を知っておるか、知らぬかで試験ができますか。そういうものは試験はできないと私は思うのです。そうでなくて、それは自然に人間の中に備わっていくのでありまして、それをただ単にマル・バツやなにやらの試験で片づけるなんというのは、全く皮相の考えであります。繰り返して言いますが、常識や教養は人間性または人格の中に存するものであって、単に物事を知っておるというようなことではないと思うのでございます。さっきのマル・バツが現行の中に入っておるから云々というようなごときも、これは教養ある人の作ることではないでしょう。こんなものは法律を知っておる人のやることではないと思う。そういうわけで、私はこの素質々々という法務大臣なりあるいは——法務大臣が朝日新聞に書いていたでしょう、素質をよくすると書いてあった。そういう素質をよくするという意味をもう少しはっきりしてもらいたい。それから教養とか常識とかいうものをもっと本式に考えてもらいたいと思うのです。そんな上っつらの、ものを知っているから常識があるとか、ものを知っているから教養があるとかいうことでなしに、もっと裁判官としてのほんとう精神を、そうして人としての道をほんとうに踏み行うことこそ、私は教養があると思うのであります。  五番目に申し上げたいことは、司法試験の性質から申しますと、程度は下げるべきじゃないと思う。この点は中村さんのおっしゃった通り、法学教育の程度を上げるべきであって、司法試験程度を下げるべきではないと思うのであります。だけれども、いろいろな事情でやむを得ないとするならば、これは私あえて反対しませんけれども、なるべくならばこの司法試験程度は下げないで、法学教育の程度を上げるということの方が司法の性質上ほんとうであると思うのです。今国家ががやがやしているでしょう。こういう場合にこそ、司法官なり検事なり判事というものはしっかりすべきであって、今の法律程度を下げたりしたら、行政官裁判官とあまり変らなくなりますよ。そうして警察官の常識がどうだとか言いますけれども、法律程度を下げていくと司法官の力もだんだん足りなくなるし、司法官が公認会計士や医者や歯科医よりも程度が下りますよ、この法律でいくと。実に残念です。私どもは、司法官なり弁護士は、会計士にも医者にもまさると思っておったのでありますが、改正法によると下げていこうというのですから、情ない話です。高くするということならばいいが、下げていくということは非常に残念でありますが、さっき申しましたように、いろいろな事情で暫定的にやむを得ないとするならば、私は強く反対いたしませんが、私の言いたいのは、法律科目を削ったりやめたりして、法律以外の科目を加えるということには反対なんです。多少はいいですけれども、こういうふうになるといかぬと思うのです。裁判官司法官は歴史や地理を知らなくても何とかなりますが、法律を知らなくては話にならぬです。そういう意味において、法律科目は相当に重視すべきであると思います。それだからこそさっき中村さんがおっしゃったように、訴訟法にしてもいろいろな科目にしても、法律はなるべく削らないようにするという方針でいかれることがよろしいと思います。  第六番目に申し上げたいことは、試験管理委員会委員を増加するということは私も賛成であります。ことに改正すべき法律においては、範囲をきめようというのでしょう。この管理委員会に相談して範囲をきめようというのです。それを今のように最高裁判所の事務総長と法務省の事務次官と弁護士一人の三人で、一体そういう重大なことがきめられるのでしょうか。そういう重大なことをきめるのには、五人なり七人なりにして、学識経験者を入れて、官学でも私学でもそういう方面から入れて、慎重にそのことを決すべきであると思うのであります。そういう意味において、管理委員会委員の数を増加し、委員に選ぶについても、国立も私立も考慮されて、平等な見地から人選していただきたいと思います。  最後に希望を申し上げるのでありますがその希望の一つは、この法律ができましても、その運用を正しくしてもらいたい。さっき言ったような曲げたような運用はしてもらいたくないもっとも司法試験であるから、公明正大に、正義公平にやるということでしょうが、そういうことを決して忘れないようにしていただきたいと思います。  それから試験委員の任免についても、さっき中村さんがおっしゃったように、この点を十分御考慮願いたい。私どもの希望条項としては、国立と私立との平等ということを述べているのでありますが、その平等もそうでありますが、任免についても、礼を守って、そんなにただ事務的にやらないで、もっと丁重にやるべきだと思うのです。たとえば、必要なときには平身低頭して、手を変え品を変え——たとえば管理委員会とか人事課長であるとかが平身低頭して頼んでいて、要らなくなると弊履のごとく捨てるというような人選はよろしくない。それこそ常識もなければ教養もないのであります。そうでなしに、法律はどうあろうと切りかえるのでありますけれども、二へんも三べんもなった人については、多少連絡をして礼を尽すことの方が、常識もあり、教養のある人の仕方であると思います。  それからもう一つ希望したいのは、ことに法務委員諸君に希望したいのでありますが、昔は、御承知のように、高等試験というものの中には外交科試験も入っているし、行政試験も入っているし、司法試験も入っていたのでありまして、この三つを一緒にして高等試験と言ったのです。この三つは連絡を持った、りっぱな統一された制度でなければならぬと思います。そういう意味におきまして、法務委員の諸君がどこかに研究会なり何かをおこしらえになって、司法試験制度改正と関連いたしまして、国家公務員試験の問題、外交官試験の問題というものも一緒に成立されることを希望いたします。われわれも考えますから、ぜひ一つ外交科試験司法試験行政試験という三つの昔のあり方のようになるように、ことに現在の国家公務員の上級職試験はいろいろな意味においてアメリカ式であって、ほんとう日本の国情に合わない点もあるのでありますから、これを十分お考えになり、ぜひ一つこれを法律的な改正に持っていくというふうに御尽力を願いたいと思うのでございます。  それから、私が申しましたように、試験をなるべくならば七月ごろでなく、三月ごろにするというふうな方向に持っていくようにすれば、非常にありがたいと思うのであります。そうすれば、四年終ったときに試験を受けるということになりますると、現行制度の欠点を補うこともできるのでございますから、なるべくそういうふうに役所関係、実業家関係とも連絡されて、そういう方向に持っていかれるようにしていただきたいと思うわけでございます。いろいろ申し上げたいことはございますけれども、それだけのことをまず申し上げておきます。  最後に私、さっき申しました現行法の違法であるということにつきまして、私は法務省の方面には、三十一年の一月十八日と三十一年の二月三日、三十一年の二月二十五日に申し上げた。昭和三十一年の九月十八日に意見書の中に述べてあるのでございますが、その最後のだけを抜萃して参りましたから、御参考になるかと思いますので、これを一つ委員方々にお配りしますから、ごらんを願いたいと思うのです。一般教育科目というものの方も御参考になるかと思って抜萃して持って参りましたから、どうぞ一つ、はなはだ恐縮でございますけれども、ごらん願いたいと思います。よろしくお願い申し上げます。(拍手)
  27. 小島徹三

    小島委員長 野田孝明先生、お待たせしました。
  28. 野田孝明

    野田参考人 だいぶ時間もたちましたので、私は十分間で意見を述べさせていただきます。  今度の改正案を見ますると、かなり無理があるようであります。在学中に合格者を多数出したい。しかも一般教養の十分備わった者を採りたい。しかも司法官、在野法曹、こういう判、検事弁護士のレベルを下げたくない。かような矛盾をこの法案で解決しようというところにかなり無理があるということは、どなたもおわかりになろうと思うのです。これはほんとうに真剣にまじめに考えた案とだれが考えるでありましょう。私は三十五年から法学教育の任に当っております。従って、ずいぶん戦前からこの面について関心を持っております。また私は、判、検事弁護士試験にも通っております。また弁護士試験にも通っております。自来司法試験の歴史もよく存じ上げておるわけであります。今までの試験制度改正は、いかにしたならば、りっぱな判、検事弁護士が得られるかという点に努力を払って、試験制度改正が行われてきたのです。ところが今度の改正のように、在学中に学生を多数合格させたい、こういうような試験制度改正は、今回が初めてであります。私は実に驚いておるのです。  今日の教育、法学教育をもう少し中身を解剖してお話を申し上げるとよくおわかりになると思いますが、一般教育の方では、四十単位、つまり三十六単位と保健体育四単位、合計四十単位、そのほかに第一外国語、第二外国語、大体十六単位をやっております。これはほかのものと違いまして、外国語に関する限りは、二時間をもって一単位とする、こういうふうになっておる。でありまするから、合計五十六単位、これが一、二年で大体行われるのです。そうしますと、前期、後期おのおの十五単位ずつですから、二年間に六十単位というのがマキシマムなのであります。そうすると、六十から五十六を引きますと、あと四単位だけ専門学科がやれる、こういうことになるわけであります。しかも、在学中に試験合格者を出そうとするのには、四年次において試験を受けて合格するよりほかに道がない。してみますると、試験が七月であるとするならば、四、五、六、それと三年、専門学科としては一年と三カ月しかできない。これでもって合格させようというのであります。そこで本年度三年で合格した者、それから四年で合格した者について詳細に調べてみました。ところが、これらの者はみな一年のときから専門学科だけをやっている。先ほど来安倍先生あるいは小林先生が強調された一般教養、これを十分にやるべきであるにかかわらず、単位さえとればいい。ただ専門学科だけをやっている。かようにして通っている。それでは一般教養も十分にやられて、かつ在学中に通そうとするにはどうしたらよいか。結局この案のように、法律専門学科のレベルを下げて試験するよりほかに方法がない。ところが専門学科のレベルを下げて、ほんとうにりっぱな法曹が得られるでありましょうか。私は絶対にできないと思うのです。  なお、教養という面についていろいろと論議されまするが、法律はわれわれの年輩になると初めてわかりまするが、正常な常識これ法律なり。すなわち年々歳々われわれが視野を広め、修養を積んで初めてまず人並みの常識ができる。その頭で裁判されることが一番いい。またその頭で事件を解決されることが一番よろしいので、そう在学中に常識ができたり、また研修所の二年間の勉強で常識ができるというようなことをお考えになることは、実にどうかしているのではないかと思うのです。まじめなお考えではないと私は考えるのであります。ほんとうにりっぱな法曹を得なければ、日本法治国は守っていかれないということを私は痛切に感ずるわけであります。こういう意味合いにおきまして、現在われわれ法学教育、この新学制の再検討というものを十分にしていかなければならないのではないか。ちょうどお医者さんと同じように、法学教育の方も専門職の教育として特別に考えなければいかぬのではないか。それを十分にやってから試験制度改正ということが当然であろうと思うのです。  でありまするから、私は今回の改正といたしましては、先ほど来問題になっておりまする短答式を法律化すればこれで十分である。そうしてさっそく当法務委員会のような有力な方々においても協力していただいて、法学教育はいかにあるべきかをお考え願いたい。また、われわれ教育の任に当っておる者も、十分にその点を検討していきたい。また文部省、法務省一致協力して、この点の検討をする必要があろうかと思うのであります。それでどうしてもこれを通したいというような御意向であるとするならば——私はこういうものは通したくないのですが、短答式を法律化して、もう少し真剣に考えてもらいたいということを希望するのですが、どうしても通したいというのであるのならば、どうあるべきかということが最後に残される問題であります。  先ほど永田さんから指摘されましたが、一般教養科目、これは司法試験の方で、試験法に書いてあるのです。片一方の大学基準の方の省令では、やはり一般教育科目となっておるわけです。ですから、これはどうしても一般教育科目でないと通用いたさない。これは改正する必要があります。それは改正案の第三条、第四条、現行法の第三条、第四条、ここに出ておりますから、これはぜひ改正を願いたい。  次は短答式であります。これが改正案の最初の第三条を見ますと、「(択一式を含む。」とあります。そこで私は非常に疑問なんであります。択一式でない短答式というものを試験でおやりになるのかどうか、これがわからないのです。そこで考査委員の数のところを見ますと、これは短答式の試験をやるから、考査委員の数四人をこえてはならぬというやつを削除してある。そして五人、六人と増員できるようにする。こういうのであります。してみると、八千人受けた場合に、この択一式によらずに試験をされるという場合が相当できるのであります。またそういうことをお考えになっておるかどうか、この条文では私はわからない。現在では五肢択一短答式をやっておる。問題を五つ出しまして、このうちのどれかにマルをつける、こういう試験なんであります。これならまだわかるのでありますが、ただ「(択一式を含む。)」とありますので、それじゃそれ以外の短答式の試験ができるのじゃないか。もしやるとするならどんな試験をやるのか、一つ例を二、三出して伺いたい。たとえば文章を書いて、カッコでここに文字を入れろとか、そういうようなことをおやりになるのかどうか、そんなことも考えてみたのですが、すこぶるあいまいだと思うのです。  次に、今度の改正案では、短答式は、三科目あります。三科目でやるというのは、能力審査するのではない、これは明らかだろうと思います。能力審査をやるのには、やはり百題以上問題を出すというのでないと一応の能力審査はできない。結局七千名も志願者がある場合に、その答案を全部見ることができないから、一応ふるいにかけるという程度のものである。すなわち、学力あるいはその他の能力を検査するのではなく、単に論文審査のときにあまり多過ぎるから、ふるいにかけるという程度のものであろうと思う。であるとするならば、やはり先ほどどなたか言われたように、三分の一以上合格というふうなことをまず管理委員会規則その他でおきめになっておくことがよくはないかと思うのです。これが能力試験であるとするならば、これはまた三科目では足りない。やはり現在と同じように七科目にして、十題ずつ出して七十題くらい、その程度ならやや能力はわかるだろうと思うのです。従いまして、私はぜひこれは三分の一以上を合格とするというようなことを一つおきめになっておいた方がよろしくはないかと思う。  それから六条の論文式の方でありますが、先ほどもお話がありましたが、刑事政策の問題であります。これが次の第七号を見ますと、経済政策、社会政策——言うまでもなく、経済政策、社会政策、ことに労働法などは、経済政策を知らずして労働法を論じてはならぬのです。私どもドイツに留学しておりますときに、ヌスバウムあるいはウォルフ教授からくれぐれも、何度も繰り返して注意されたのであります。日本の労働法学者は、民法から転向したり、商法から転向した方が多いのですが、ほんとうの労働法は、この経済政策、社会政策を十分マスターした人でなければ、労働法は教えることができないはずなのであります。こういうものがやはり第七号の選択の方に入っております。刑事政策も同様であります。刑事政策を知らずして刑事訴訟法あるいは刑法を論ずるなかれというのと同じことになる。学問的に言いましても、やはりこれは第七号に入れるべきじゃないかと思う。それから政治学、これは一般教育科目の方にありますから、もしこれを入れたければ政治原論に、それから心理学——私はこれをずいぶん調べてみたのですが、専門学科として男子の大学でこれをやっておるところは、文学部はやっておりますが、法学部ではほとんどありません。女子大であるとか、そういうところを見ますと、やはり司法保護事業、社会保護事業、こういうものにタッチしますから、社会心理学というのでやっております。ですから、これはどうしても削除なさった方がよくはないか、こういうふうに考えるのです。  その次が口述試験でありますが、これは先ほど来ありましたが、口述のところは、論文式による試験において受験した必須科目について行う、こういうふうに必須科目だけについて口述をおやりになる、これが一番いいと思うのです。選択科目について試験をやりますと、これは非常に厄介なことになるから、実施上かなり厄介であります。それも用意するからさしつかえないのだとおっしゃればこれはできるかもしれませんが、この科目というものは内容の幅が非常に広いのですから、点のつけ方によっては非常な差異が出てきます。たとえて言いますと、一人の先生が五十四点をつけますと、専門学科がいかにできましても、まず不合格と思わなくてはいかぬ。これに反して、この選択科目について口述の方を六十五点あるいは七十点をおつけになると、専門学科の方でどんなに悪くても大がい合格してしまう。こういうような非常な危険性を帯びてくるわけなんです。こういう科目については、口述をやらない方が私はよくはないかと思うのです。それから六号の方、これも選択科目ですから、ここまで一々口述をやる必要はなかろうと思う。結局受験した必須課目について行う、こういうふうになさることが一番よくはないかと思うのです。  最後に、この法学教育が再検討され、そうして十分に成果をあげるまで、この改正案はよくよくの場合として、私は暫定措置として、今言ったような修正の上で賛成をしたいのであります。実は、ほんとうのことは、こんなものには賛成したくないのです。先ほど申しましたように、短答式を法律化すればよろしいので、これがほんとうにまじめな考え方です。私どもも法曹の一員であり、また長いこと法学教育に携わっておる者として、真実の声であるということを申し上げて、私の意見を終らしていただきます。(拍手)
  29. 小島徹三

    小島委員長 これにて参考人方々意見の開陳を終りました。  それでは、これより参考人方々に質疑を行うことになりますが、参考人方々には時間の御都合もございますので、質疑はできるだけ簡潔にお願いいたしたいと存じます。  なお、ただいま永田菊四郎先生から発言を求められておりますので、特にこれを許します。
  30. 永田菊四郎

    ○永田参考人 ちょっとつけ加えて申し上げたいのは、私どもはよくいろいろな新聞記事や法務省などの話を聞いたりしますと、たとえば、私学の連中が教養科目を入れると受験生の負担になるから反対しておる、こういうようなことを言っておるのですが、それに対して少し弁解したいのであります。私どもが今まで改正に反対してきましたのは、第一番に、さっき申しますように、司法試験程度は下げるべきではない。判、検事弁護士職務、性質から考えまして、下げるべきではないということが一つと、もう一つは、いわゆる教養とか素質とかいうものの意味が、私どもの考えておることと、反対者の考えることとは違っておるのです。その意味でその教養とかいうものをはっきりしなければならぬと思うのです。私どもの考えておる教養とか素質とかいうものは、短答式とか、そういうものでは試験はできないということです。私どもは、私学のやつが教養が足りないから反対していると思われるのはまことに残念でございますから、この点ははっきりと弁明しておきます。
  31. 小島徹三

    小島委員長 それでは、質疑の通告がありますから、順次これを許します。  大貫大八君。
  32. 大貫大八

    ○大貫委員 小林俊三先生にちょっと二点ばかりお尋ねをいたします。  第一点は、先生の所属されておる日本弁護士連合会においては、たしか教養科目試験制度改正として入れるということに反対しておったように聞いておるのですが、その日本弁護士連合会の反対の意思というものはどういうところにあるか、その点を一つ。  それから、これはもう明確に法務委員会の方にも、日本弁護士連合会として意見が出ておるのですが、必須科目の中に訴訟法を必ず民訴、刑訴ともに入れろという要望が出ておると思うのであります。その日本弁護士連合会としての考えはどういうところにあるか、これは先生個人じゃなくて、弁護士会の一員としてのお考えをもしお聞き及びでしたら、お聞かせ願いたい。  それからもう一つ、これは討論、意見みたいになりますから簡単にお尋ねをしますが、教養、これは先ほども各先生から御指摘になっておりますからくどくは申し上げませんが、裁判官教養の問題というのは、試験制度の問題とは私は別だと思うのでありますが、その点で伺います。実は先生は先ほど非常に教養が低下してきておるというようなことを嘆いた御発言のようだったんでありますが、私は必ずしもそうじゃないと思うのです。むしろ今の裁判官、戦後出てきた裁判官教養というものは、順次高まっておるのではないかとすら考えておるわけです。なるほど先生のおっしゃるように、福澤諭吉の名前は知らない人があったかもしれませんが、福澤諭吉そのものの考えた精神というか、いわゆる自由民権、民主主義の思想というものは、これは福澤諭吉の名前は知らなくても、教養として十分今の裁判官は摂取している。ですから、歴史的事実としての名前は知らないかもしれないが、むしろ民主憲法のもとにおいては、福澤諭吉先生の精神というのは、今の裁判官などの考え方の中に生きているのじゃないか。そういう意味からいうと、私は先ほど中村先生もちょっと言われたのですが、先生のお考え方に断層があるような気がするのです。逆に私は古い裁判官最高裁判所裁判官教養の問題に、実は非常に疑義を持つのです。たとえば、最近の最高裁判所の判例で、警察官に投石をした事件について、公務執行妨害罪を認めておるようです。一審、二審の裁判官は、この事件というのは何か警察官に石を三つ投げた。一つは警察官のほおをかすめて、たった一つが警察官のおしりに当ったというような事案でありまして、これをさすがに一審、二審の裁判官も公務執行妨害というのは認めないで、単純暴行の判決をしているというのは、きわめて近代的な感覚からいえば、良識を持った、非常に教養の高まった主権在民の時代における民主主義警察の立場からながめると、やはりこれは単純暴行にしか当らぬ、こういうふうに判断したのは、むしろ教養が高い。ところが、最高裁判所におる古い裁判官の頭からすると、何かしら官憲に反抗するという行為はことごとく公務執行を妨害するんだというように拡大解釈しようとする。このものの見方、これはやはり古い警察国家時代一つ教養だと思うのです。これはもう今の民主憲法のもとにおいては、むしろじゃまになる教養じゃないかと私は思うのです。そういう意味で、戦後の現在の裁判官教養が低下しておるという見方は、時代の感覚という点から見ると、私はむしろ逆のような気がするのであります。そういう点でいかがでしょうか。私は教養ということは、むしろ試験制度の問題じゃなくて、これは裁判官自体が、それぞれの社会的視野においておのおの訓練を受けるということが問題だと思うのですが、どうでしょうか。
  33. 小林俊三

    小林参考人 第一の日本弁護士連合会が教養科目については反対の決議をしておるのではないか、それから第二に、訴訟法はいずれも必須科目とすることを決議しておるのではないかということでございますが、これははなはだ申しわけないのでございますけれども、私最高裁判所を退官いたしまして弁護士になり、もとに返りましたほやほやなんでございます。そして、このお招きを受けましたのは十四日の特別速達でして、まだ連合会の決議まで渉猟するいとまがなかったのです。それですから、その点は一つお答えをお許し願いたいと思います。  第三の問題でございますが、これは見方によっていろいろの見方が出てくるのでございます。中村先生も先ほど仰せられたようでございますが、先ほどの例は、何もあれを鬼の首のように取り上げて教養がないと言ったわけではないのでございまして、ただ、ああいうことに遭遇いたしまして、三人ともこれでは困るなあという一つの重大な契機をとらえたわけでございます。ですから、ああいうことは偶然だというふうに仰せられるとそれはそうかもしれませんが、ただ私は福澤諭吉、大隈重信というのが例に出ましたから申し上げますが、これは歴史上の人物ではあるが、常識の人物だと信ずるのです。現に早稲田大学も慶応義塾も、この人なくしてはわれわれは考えてはいけない学校です。しかもこれは私学の双葉なんです。そうすると、これは常識ではありませんか。そこで他面法曹というものは、常識はもっと上ってはいやしないかという仰せもあるのでありますが、今の面から見ると、私は裁判官の方へ置きかえてみますと、裁判官がかりに若い——まあ古い裁判官になればそういうことはないのでありますが、昔のような制度ですと、単独裁判官は二十七、八で裁判官になりますが、そういう場合に福澤諭吉という人が慶応義塾を創立したということを知らなかったということで、現実の法廷でかりにわかったとしますと、私はその人の裁判を実に軽べつしたくなるのです。従って、ほかの裁判官も、こういう人たちで構成されておるかと思うようなおそれがある。ですから、これは裁判官を例にとりましたけれども、これは一般教養の問題として一つの例を申し上げるのでありまして、ただ試験科目に云々ということは、私は青年時代の体験から申し上げるので、一般教養試験科目にあるということは、非常にその本人に強力なる印象を与え、また強力な努力をさせる。そうすると、そういうものを身につけなければならぬ。一方からいうと、私は高度の常識だと思っておるのでございますが、高度の常識を持っていなければ、一般法曹の資格には欠けるんだということを青年学徒が頭に入れるということの大きな意思というか、科目に入れるということは何かそういうものになるのであります。そういうことからいって、私はどうしてもこれはある形で入れなければならぬのじゃないかと思っております。  それから、今の法曹はむしろ教養が、ある面で高くなっているんじゃないかという仰せでありますが、あるいはなってしまえばそうなんでございます。先ほど私の例に引いた、たとえば民法の起草者はだれか、大隈さんはどういう人かということは——こういうことを聞いて私ども三名みんな心配した。翌年一応やってみたら、それは実に敏感なんです。受験者は今度はこういうことを聞かれるぞといって、わっと広まったらしいので、もう直ちに響きの応ずるがごとくに詳しく答えるのです。ああいうふうにちょっと科目に入れることだけで、私が質問しただけでレベルが相当上ったぐらいに自負しておるのです。そういう意味で受験者にそういうことを課するということが大事なんで、その後の人たちが昔より教養がむしろ高くなっておるかどうかということとは、直接結びつかないのです。そういう意味で私は論理の飛躍は決してないと自分では思っております。
  34. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 小林さん、それはだいぶ議論になりますが、教養の点ですね。もちろん私は学生時代教養を高めるということが悪いと言うのではありませんし、いつでも人間は教養を高むべきであると思うのですが、先ほど野田さんが言われたように、現在の大学制度からいいますと、教養も高めた、法律学も高めた、しこうして在学時代試験を受けさせる、両立しないはずだ。こうなってくるとよほどここで考えなければならぬと思うのです。そこで私考えますのは、先ほどお話がありましたが、われわれは司法官なり、弁護士としての教養と申しますか、素質の向上ということは、いろいろの物知りがいるか知らぬが、それよりも大事なことは、一般の法律学を知っておる、法律学を身につけておって、しこうして実社会に臨んでこれをどう運用すべきものか、どう活用すべきものか、この常識を与えることが何よりも大事じゃないかと思うのです。物知りであって悪いとは申し上げませんが。もう一つ大きいことは私はいろいろ専門学校等を経営させられて見ておりましたが、どうも物知りということは、かえって学生時代に悪いことがある。東京の子供といなかの子供を専門学校に入れてみますと、学校へ入ったときには、東京の子供は非常に物知りだ、いなかの子供は何も知らない。ですから一年の間は子供とおとなのような区別をしておるのですが、専門学校の二年へいくと同様になって、三年にいくといなかから出てきた子供の方が進みます。これは現実なんです。そこで、あまり多面にわたる物知りはかえってよくないじゃないかとまで考えられることがあるのです。私は何としても法律学を身につけて、それから一般社会に出て、これをいかに運用するかということが最も大切だと思われる。そこで、かように考えてきますと、これは私だけじゃない、小林さんも昔からわれわれ同様に主張しておられた法曹制度でなければならぬというのは、ここから出てくるのだと思うのです。学生時代一般教養をやることよりも、試験を受けて研修所を出て、そうして弁護士として一般社会にもまれていく。そうしてほんとう法律学を現実に当てはめるとき、運用するときには、かくあらなければならぬという確信を持たせるということがほんとうの素質の向上である、教養を高めるものであると思いまして、まず学生時代にそういうことを求めるよりか、法律知識を得させて試験を受けさせて、そうして社会に出てやらせる。このことでぜひとも試験の間に法律学をおさめ、しこうして、そのあとは法曹一元をもってほんとう法律家を作るということでなければならぬと思いますが、この点はいかがですか。
  35. 小林俊三

    小林参考人 実は先ほど野田先生が、本案は暫定的な意味で賛成するということを言われたが、私もその通りなんです。この案はやむを得ず賛成するのでありまして、皆さんの多数が御希望のように、本来の試験は、非常に欲ばっておりますけれども、一般教養試験もし、同時に法律知識も必要なものはみな必須科目にして通るような試験方法が望ましいことは当然なんであります。しかし、そのためには大学のあり方、年数等が直ちにここに浮かんでくるので、理想になってしまうので、現在のままで考えれば、こういうことでとにかく切り抜けていくほかないのじゃないか。そのためには何を一応犠牲にするが、犠牲にするのじゃないのです、専門的なものを少しあと回しにするというようなことになるので、どちらをまず司法試験に強力に出すべきかと選択をしいられれば、一般教養をとるべきやむを得ない状態にあるということにすぎないのであります。その点よく御了承願いたいと思います。  それから物知り云々、物知りなんというのはかえって害になる、そういうような意味に聞えたのですが、私の言うのは、物知りというほどの大きなことをいうのじゃございません。普通の常識が欠けておることをいうので、話の泉の諸公のようなあんな知識をわれわれ期待するのじゃございません。それは今おっしゃったような物知りに私あまり尊敬する——エンサイクロペディアのような人間は、そう人間としてりっぱな方があるわけじゃないと思う。それは正を踏んでおそれずという方があることは必要なんですが、そのための最小限度の一般教養が備わっていないと、同じ正を踏んでおそれないりっぱな精神力を持っておる人でも、他人に対して尊敬信頼を生ぜしめないという心配を申し上げるのです。ですから、いわゆる物知りの域にまで高めてお考え下さっては困るのです。それから、私は法律技術家ということを申し上げたのですが、一厘事件を考えていただきたいのです。明治四十三年ごろ、私が大学にいるころに起った事件で、一審、二審は有罪だったのです。タバコの葉の評価一厘のものを盗んで巻いて吸った。一審、二審は有罪だったのが上告で無罪にした。そのときに私は大学で討論会をやって、両方に分れて議論をしたのですが、私も若かったせいか、とにかく議論をすると有罪説の方が景気がいいのです。一厘といえどもこれを盗む者は窃盗ではないかと言うと、実にこれはすばらしい、割り切れるのです。ところが上告審の判決を維持する説は、一厘くらいは社会的には意味はないじゃないか、刑罰はこういうものを予想していないという結論はそうなんですが、やはり討論会では論理的に威勢が悪いのです。ところが一審、二審が有罪説できたのは、私はこれは法律技術だろうと思うのです。これはわかればわけないのです、一厘の金でも盗んだというのですから。ところが三審でもって、一厘くらいの価値のものは社会的には刑罰の予想してないつまらぬものだ、こんなものは刑罰制裁を課する対象とは考えていないのだとくるのは、やはり大きな視野と洞察があるからなので、これはいわゆる法律を知っていなければならぬと仰せられますけれども、法律々々とおっしゃると、今のような技術家になってしまうのです。悪くいうと職人になる。青年のときに教養が大事であるということを吹き込むために、科目に入れておいて、短答式の大した試験でないのでございますから、そういうものを入れて基礎づけをしていくと、そういう資質がなければならぬということで、ずっと頭がつながっていくだろうと思うのです。そういう意味で申し上げたのです。  それから法曹一元、これはもう仰せの通りで、私はむしろ鍛冶委員よりもっと強力に——そのころはもっと妥協的に考えておったのですが、もうこの日本司法制度というものは、法曹一元に飛び越して飛躍しなければだめだろうと思うのです。先ほどもお話が出ました司法研修所は、昔の司法官試補の養成の形に傾いていると言いましたが、これは、裁判官検察官弁護士を十年もしくは何年以上修業した者の中から最も優秀な者を採用しろという、思い切ったドラスティックな方法に踏み切らなければもうだめだろうと思う。そうすれば、今ここで論議しているような問題は片づいてしまう。民間で戦っているりっぱな方が選ばれると思います。それの選任方法はいろいろむずかしいと思いますが、そういうことでむしろ鍛冶委員よりもっと強力な主張に変っていることを申し上げます。
  36. 永田菊四郎

    ○永田参考人 ちょっと一言。——この法律の施行についてでございますが、マル・バツをしてから受かった者だけに試験をするという制度は、私はすぐ実行してもらいたいと思うのです。この法律改正が通るとしても、さっき申しましたように、現行法でマル・バツをやるのは違法だと思っております。あの書いた通りでございますから。——その趣旨から申しまして、少くともこの改正案のうちのマル・バツをしてから試験をするというあの部分は、即刻来年から実施していただいた方が、法務当局の試験実施についても、費用から言いましても、手続から言いましても、非常に便宜じゃないかと思うのです。ですから、この部分を切り離してすぐ実施するということにし、それから科目を加えた部分は、これは二年となっておりますが、一年延ばして三年おいて実施をするということにお考え願えれば非常にいいのじゃないかと思いまして、そのことを一つ気づきましたので、御希望申し上げます。
  37. 小島徹三

    小島委員長 これで参考人の方に対する質疑は終了いたしました。  参考人各位には、御多忙中、長時間にわたり委員会の審議に協力下さいまして、ありがとうございました。  本日はこれにて散会いたします。     午後一時五分散会