○
中村参考人 われわれは
司法試験制度に対して、
一般法曹といたしまして、重大な関心を持っております。と申しまするのは、この
司法試験というものは、決して法務省あるいは
最高裁判所部内の
試験ではないのであります。現在意図されておるように、
法曹一元ということを目ざしておる
制度でありますから、
司法試験というものは実は
法曹試験でありまして、この
試験制度のあり方いかんということが、
日本の
法律文化の将来をも
支配する重大な問題だと思うのであります。ところが、現在までの法務御当局のこの
司法試験についての御態度は、どうも法務省内部の部内
試験であるというようなお考えのように見受けられるのであります。
試験委員の人選の点につきましても、あるいは
司法研修所の構成にしても、どうもこれは
司法部内の問題であるというふうに考えて、この問題を御処理になっているように思うのであります。現在
司法試験制度を
改正したい、これは両三年間の問題でありまして、これはいろいろな原因が錯綜いたしておりまするが、問題は、
在学生の登第生が少いから、これをふやしたいというところに重点があるように思うのであります。だが私は、
在学生が受験し、登第することについては、ただいま
安倍先生も疑問を投げられておりました。私もこの点について疑問もございますが、その点は後に申し上げます。と同時に、現在の
法曹がいかにも
教養がない、だからもっと
教養を高めるべく
試験制度を改めなければならぬ。今いろいろ
小林参考人からも御陳述がありましたが、これは何も
司法試験だけの問題ではなくて、
試験制度それ自身の問題なんです。ただ、非常識者というのは至るところにあるので、その一人、二人をあげて、であるがゆえに
試験制度が悪いという結論には私は到達しないと思います。私はまたこの
司法試験受験生及び
司法官修習生、この常識問題についても後ほど申し上げますが、とにかく今回の案は、
在学生をもう少し採りたい、いや、もう少しではない、もっと採りたいということで、いろいろ紆余曲折を経て、結局
専門科目の範囲を限定するというところに落ちついたようであります。その点についても最後に総括的に申し上げるといたしまして、今回の法案につきまして、若干私の考えていることを申し上げたいと思うのであります。
まず第一に、短答式を採用したのでありますが、短答式にはいろいろ長短がありまして、必ずしもこれによって将来
司法官に適切なる才能を持つ者が得られるとも限らないのであります。しかし、これを現実の問題として考えます際に、現在の
司法試験受験生に、ことごとく論文式の
試験をすることはとうてい不可能であります。
試験委員の負担軽減の上から見ましても、短答式を採用することは、われわれとして反対すべき筋合いのものではない、こう思います。ただ問題は、短答式
試験というものは、非常に運、不運が出てくる。採点者の思うつぼに当ればいい点が取れるが、少し違った
立場にあると、マル・バツ式でバツをつけたことは、その背後にいろいろな深い考えがあっても、これはゼロにされるというふうに、アンバランスがあるのであります。でありますがゆえに、この短答式で、最後に採用人員のそれに近いものにしぼるということは非常に危険なことであります。そこに相当余裕を設けませんと、せっかくの人材も短答式の
試験に落ちるということも生じ得るのであります。この短答式を御採用になる場合には、採用人員については相当幅を持たしていくことが、私は公正を保つがためには必要であろうと思います。これは私一応
司法試験委員をいたしておるのでございますが、大体において
受験生の三分の一
程度を採用するならば、適当な者が採用できるのじゃないか。これは七千名といたしますと、三分の一といたしますと二千何百名、これは
司法試験委員の骨の折れる問題でありますが、三千通や三千五百通くらいまでは見られるのであります。短答式を御採用になったとしても、
受験生の大体三分の一はこれでもって拾い、そのうちから論文
試験でもって必要な人員を選び出すという
制度をとることが必要なんじゃないか。短答式を採用して、本年は登第者五百名なるがゆえに千名までしぼるということにしたら、これはとんでもない不公平を生じはしないかということを私はここで申し上げたいと思うのであります。
次は論文
試験、このうちの必須
科目でありますが、今回のこの案は、例の
科目の範囲を限定するという
立場からでありましょう、民事訴訟法及び刑事訴訟法一科選択ということにした。その
理由は、民事訴訟法は四年生にかかっておるから、
在学生が受けにくいというようなことであるというふうに承わっております。これはあまり大した
理由にならぬと思う。と申しますのは、今回管理
委員会に
試験範囲を限定する権限を与えておるようであります。従来も限定いたしておりましたが、これは実はやみの限定で、どうも
受験生は
経験的に、どの辺は
試験に出ないだろうというふうな憶測をするほかないので、しばしば不公平が生じておりました。今回は規則でこれを公表せられるようでありますから、この点については心配ないわけでありますが、そうなれば、たとえば民事訴訟法を
試験科目に入れても、強制執行法を除くということにすれば、これは三年生までで済むわけであります。
在学生の受験を便宜ならしむるがために民事訴訟法を
選択科目に回すという
理由はないのであります。先ほど
小林参考人が、
法治国家は結局において
裁判に帰すると言われましたが、この
裁判所というものは訴訟法によって運営されておる。訴訟法の知識がない
裁判官は、いかにして運営するか。しかし、現在の
日本の
状態におきましては、どうも訴訟法が軽視される。この軽視されていることが、私は今回のこの必須
科目のうちから民事訴訟法、刑事訴訟法一科選択という案になって現われたと思うのであります。この民訴、刑訴一科選択という
制度は、
昭和三年以来しばらく続いておりました。しかし、その当時だいぶ
実務法曹方面からも非難がありました。実際問題としては、民事訴訟法、刑事訴訟法、双方選択した者が採用される率がいいというようなうわさもあったくらいでありました。
法曹といたしましては、訴訟法の必要なことは十分御存じであるわけでありますが、しかしこれは何といっても、
日本においては、私法学が中心になって、訴訟法学が軽視される。そこでこの訴訟法を
選択科目にしておるのでありましょうが、この訴訟法軽視ということが、現在の
裁判において著しくその弊が現われている。訴訟法軽視ということは
裁判の素質を下げることだ。現在、あるいは松川事件とかあるいはその他八海事件、こういう事件は、いずれも実り体法の問題よりも証拠法の問題、訴訟法の問題、そこに大問題が起っている。また最近私、盛岡
地方裁判所の農地買収無効確認訴訟に関する判決を見ましたが、われわれ訴訟法学者から見て驚くべき判決がある。と申しますのは、これは
地方裁判所の判決ですが、農地買収
——これはずいぶん無法なものがあることは皆様の御案内の
通りであります。これの買収無効確認訴訟を起して首尾よく勝った。そこで勇んで買収無効となったその土地の返還請求訴訟を起した際に、その次の盛岡
地方裁判所では、その請求を棄却した。この
理由は、前の無効確認判決は、その前の持主と県知事との間の判決であって、判決の既判力は第三者に及ばない、その後農地を買い受けた者に判決の既判力は及ばないという。これでは何のために農地買収無効確認請求訴訟を起すのか。せっかく勝っても、農地が取り戻せない。これは判決の既判力はなるほど第三者に及ばないでしょうが、判決の事実上の効果、構成要件におきまして、既判力は当然第三者に及ぶ。その点は
地方裁判所の
判事がもう少しお考えになれば、そうおかしな判決はしなかったのでありましょうが、どうも判決の既判力は第三者に及ばないという簡単な法理で、その事件を解決しておる。もとよりこういう非常識な判決は、高等
裁判所で破棄になりましょうが、それによって損害をこうむるのは当事者なんです。またこの事件に対する判例等も若干ありますが、どう見ましても、あまり訴訟法の方を御存じない。私法学者は訴訟法を御存じないから、それに対する判例にしても、判決には反対だといっておるが、どうもきめ手が見つかっておらない。またこれは何も
裁判所ばかりじゃない。二、三年前に白木屋の例の乗っ取り事件がありました。あれにつきまして総会決議不存在確認訴訟、あるいは無効確認訴訟というものが双方から提起されて、だいぶ学界をにぎわす問題となり、また
実務法曹の間にも問題になったようであります。これは実は私法学会でこの問題を取り上げていろいろ論議いたしました。またいろいろ著書、論文も出ておりまするが、いずれも商法学者が訴訟法を御存じなく、きめ手がないので、甲論乙駁、ほとんどまとまりがついておらない。この問題につきまして、私も訴訟法学の
立場から論文を出したのでありまするが、果してこの論文を商法学者がどの
程度まで了解になっておるか、はなはだ疑問なんであります。私がその反駁した当の相手方としては、先ほどまで
司法研修所の所長をせられた松田博士の御論議もありますが、松田博士は商法学者で、訴訟法学者ではありません。
司法研修所長のこの問題に関する御論議に対しても、われわれ訴訟法学者の
立場からすれば、すこぶる誹議すべき、また論議すべき問題があるのであります。これらが
日本における訴訟法学の普及の実情であります。
くどいようでありますが、民法学者もそうでありまして、たとえば地上権の消滅請求、あるいは借地借家法による地代、家賃の値上げ、増減請求、あるいはまた借地権、借家権消滅の際の建物造作の買い取り請求、これを民法学者はいずれも形成権としていて、一方的意思において地代家賃が突然値上げになったり、あるいは一方的意思において所有権が相手方に移転するという。そういうべらぼうな話はどこにもない。ドイツ法にもそういう議論はありません。これは地代、家賃の値上げにしても、請求しても、話がつかなければ判決によって値上げをさせ、値下げをさせる。これが真相なのでありまして、これは訴訟法との連関において、この権利の本質を確むべきであるが、民法学者は訴訟法を御存じないから、民法の理論で形成権
——もっともこれもどの理屈をとっても結論としては同じならば、学者の間の議論だ、こう言えますが、これは
裁判の上で重大な差異を生じてくるのであります。この問題について最近「綜合法学」という雑誌に私はこの問題を「形成権理論の乱用」として書いたのでありますが、現在この問題は借地借家法の
改正にからんでおるのであります。ここにも法務当局がおられると思いますが、どうかこの点についてもさらに御一考をわずらわしたいと思います。
このように
日本における訴訟法学のレベルというものは一般化しておりません。政策としても、さらに訴訟法学は盛り立てるということが、
日本の
裁判制度をより内容を充実させ、素質を向上させるゆえんであろうと私は深く確信するのであります。実は民事訴訟法学会でも、この問題につきましていろいろ慎重討議いたしましたが、現在において、
司法試験に民事訴訟法、刑事訴訟法を
選択科目にされることにつきましては、絶対反対であるという意思を表現いたしたのであります。結論といたしましては、民事訴訟法、刑事訴訟法はともに必須
科目に加えるように改められたい、こういう決議をいたしたのでありますが、私をもって言わしめますならば、実は学者の仁義として、これ以上のことは現在まで申し上げませんでしたが、どうしても民事訴訟法と刑事訴訟法のいずれか選択にしなければならぬというようなことならば、私は、民事訴訟法をば基本的な学
科目として、必須
科目にして、
選択科目に刑事訴訟法をすべきではないかと思います。と申しまするのは、刑事訴訟法の理論は、大体において民事訴訟法の理論から引っぱってきております。現在におきましては、特に証拠法は英米法が入って参りました。この点がだいぶ民事訴訟法と違うのでありまするが、これはむしろ
司法研修所で研究をさせる方がより適当かもしれない。私といたしますると、民事訴訟法、刑事訴訟法ともに必須
科目に置くべきである。何も
司法試験の必須
科目に置かなくてもいいじゃないかと言われるかもしれませんが、
選択科目になると、しかも
在学生を通そうとするならば、どうしても刑事訴訟法の方が楽だから刑事訴訟法を選択する。そうすると民事訴訟法を十分勉強しない、こういうことも生ずるのでありまして、私は双方をばぜひ必須
科目にしてもらいたい。そのためには
選択科目に二
科目あるから、
科目が八
科目になるではないかと言われるかもしれませんが、従前九
科目の
試験があったこともあるのであります。私は双方をば必須
科目に置くことが、より
日本の
文化のために、
法律文化のために必要であろう、こう思うのであります。どうしてもその点不可能ならば、これは訴訟法学者という
立場を離れて今日初めて申し上げるわけでありまするが、民事訴訟法は必須
科目にし、刑事訴訟法は
選択科目にして置く方がより妥当ではないか、こう考えるわけであります。
次に、
選択科目でありまするが、これが一類、二類に分れているようであります。一類の方に刑事政策が回っておりますが、これは
科目の性質から見まして、どうしても二類に入るべきものであります。聞きますところによりますと、刑事政策は六法全書を使うから一類の方に入るのだ、こういうような御
意見があったとか承わりまするが、それは六法全書を使おうと思えば使う問題もございますが、最近の刑事政策に関する問題を見ましても、いずれも六法全書の必要な問題は出ておりません。たとえば、
昭和三十三年は、「少年犯罪の対策、売春防止法における刑事政策的任務」というのが問題でありました。私は過去十年ばかりのこの
試験問題を見ましたが、いずれも六法全書の要るような問題は出ておりません。これはぜひ第二類に回すべきであって、第一類にそぐわない
科目のように思うのであります。
それから、第二類に参りまして、
政治学であります。
政治学と申しますと
教養科目になる。
教養科目をわれわれが
試験問題として反対するゆえんは、内容が不確定ということであります。
試験委員によって問題の出し方、採点の方法が違う。これが何よりおそろしい。そこで第二類は、
専門科目とするならば、
政治学原論と改むべきが当然であると私は思います。同時に心理学が入っております。心理学は昔から問題のある
科目でありまして、これは自然科学系の心理学もあれば、
文化科学系の心理学もある。結局
試験委員によって
試験の問題それ自身の内容が決定される。たとえば、
文化科学系の心理学を
学校で学んできても、自然科学系の問題を出されると、これは合格点をとることははなはだ困難である。この心理学は、
試験問題としては常に問題を起す
科目であります。かってゲシタルトの心理学で、高等
試験におきましていろいろ問題を生じた
科目なのであります。これは私は御削除になることがより適当であろうと思うのであります。
最後に口述
試験であります。これは必須
科目及び
選択科目、合計七
科目について口述
試験を行うのでありますが、
選択科目に関する口述
試験というのはまことに困るのであります。と申しますのは、採点のアンバランスを生ずる。口述
試験は筆記
試験と
関係なく、それだけの平均点で及落を決しますので、いわば採点の甘いところと辛いところでは大へんな不公平を生ずる。私はこの口述
試験は必須
科目にのみ限ることが採点の公平の上からいっても適当じゃないか。と申しまするのは、短答式、論文式、そういう
試験ですでに出ておるでありますから、口述
試験というのはその知識がこなれておるかどうかを判定するのでありますから、
科目はそれほど多いことは必要でない。むしろ一人当りの口述
試験の時間を延ばして、十分その人柄を見、知識がこなれておるかどうかを見る方がより適切である。私はこの口述
試験について
選択科目をも加えるということについては、賛成の意を表しかねるのであります。
それから次は、今回の法案に入っておりませんが、管理
委員会の構成であります。現在は法務次官、
最高裁判所の事務総長及び
弁護士連合会からおいでになるお一人と、三名で構成することに
法律で定まっておるようでありますが、実情を申し上げますと、恒常的な
委員となられているのは、現在までの模様でありますと、
最高裁判所の事務総長の五鬼上氏がずっと続いてなられておりました。あとはそのときそのときに変られるので、実際は事務当局において御立案になったことをそのままうのみにするというのが管理
委員会の現在までの状況のように思うのであります。それはいいといたしましても、そういう構成でありますと、実のところを言うと、何らの実力がない。せいぜい
試験委員の人選、しかも大体のおぜん立てができたところに従って人選するという
程度でありまして、
試験問題の出し方あるいは
試験の範囲の限定というようなことに十分なる実力を発揮することができない。この
受験生というものは各
大学から出ておる。だから、この管理
委員というものは決して
司法部内からのみ出すべきものではない。
司法試験は部内
試験でないということを考えるならば、この管理
委員には学識
経験者を加えて、より強力なる構成にする。
試験委員の人選についても、
試験範囲の限定についても、ことに
試験問題の出し方に相当誹議すべきところがあるのでありますが、現在の管理
委員会では、
試験問題の内容にまでダッチする権限及び実力を持っておりません。これに学識
経験者が入って、何も
試験問題の個々の内容についてダッチするのではありませんが、
試験問題の出し方総体についての大綱を示して、それをリードしていくという力を持たせるためには、ぜひこの管理
委員会を拡大強化する必要がある、こう私は思うのであります。
最後に
試験委員であります。現在のところは
試験委員がいかにも固定している観がございます。一、二の方あるいは二、三の方と申し上げてもいい、もっと多いかもしれないが、十年以上もお続けになっております。また私立
大学の
関係の
試験委員というものはだんだん減少いたしまして、ほとんど現在においてはノミナルになっております。私はこの
試験委員をばもっと広範囲に人選をする必要があるんじゃないか、また必要があると私はここで申し上げたいのであります。
次には、この問題と関連いたしまして、
司法研修所のあり方であります。現在の
司法研修所は、先ほど
小林さんからも
お話しになったように、昔の
研修所の系統を引かれまして、内容において改善すべきところもあると仰せられたようでありますが、まさしくその
通りでありまして、現在の
研修所は、
司法官の実務を修習させる
制度以上には出ておりません。今度の案によりますと、
専門科目の方を限定したならば、
試験範囲を限定したならば、
司法研修所で勉強させればいい、こう仰せられる方もあるようであります。ただいま
小林さんの御
意見もそういうふうに承わったのでありますが、これは
司法研修所の
制度を根本的に改造する必要がある。のみならず、この
司法研修所のあり方について私は根本的な問題がある。と申しますのは、この
研修所というのは、実技を中心としている。
学校で、机の上で教えられないような知識を与えることに使命があるのではないか。それなるがゆえに、教官としては
裁判官、
弁護士等がお加わりになっておる。この点につきましては、各
大学が及びつかざる機能を持っておること確かでありますが、この
司法研修所において基本的な学
科目を勉強させようということは、これは無理なことであります。第一その教官がありません。現在も、特別研修と称して、実技教官を若干お呼びになっているようでありますが、これらのお方の名前は、この配付せられた資料に載っておりません。特別研修とかいって、臨時にいろいろ御担任になるようでありますが、しかし臨時と申しますが、これはほとんど東大教授に限られておる。しかもその顔触れが大体一定している。その
程度で、この基本的な問題、基礎教育を与えるということは、これはよく行われない。さらにこれをば拡大して、
大学的な組織を持たせるとなりますと、私に申させると、各
大学の上にもう
一つ大学を設けることになり、これは官立
大学としましては
大学の上に
大学を設けられても、同じ国立でありましょうが、われわれ私立
大学の方から申しますと、せっかく私立
大学において完成教育をした者が、さらに国立
大学において
教養を受けなければ一人前の
法曹となれないということになり、これは
大学制度の根本をゆるがすものであると私は思う。私は
司法研修所というものを拡大して、法学の基礎知識を養わせる機関としての機能を持たせるべきではないか。
法曹の常識が足りなければ、
法曹の常識を増すようないろいろな
科目あるいは実務の
科目を修習させる、そこに私は
司法研修所の機能があり、その目的があるというふうに思います。
法案に対しましての私の
意見はその
程度でありますが、問題は今回の法案
改正は、何と申しても
専門科目のレベルを引き下げるというところにねらいがある。これも
在学生を通そうというところにねらいがあるわけであります。なぜこういう問題が起ったかといいますと、これはもう皆様も十分御案内のように、現在の新制
大学の学力が低下しておるからであります。この新制
大学は四カ年と申しますが、実は一カ年半は
教養科目、あと二カ年半でもって将来
法曹をもって立つべき知識を養わせるということは無理なのであります。にもかかわらず、さらに
在学生を通そうとすると、実は法学を学んで二年目にしてすでに
試験を受けなければならぬ。それでもって
在学生を
試験して優秀なる者を採るといって、一体何を基準として優秀な者を探し出せるか、常識
試験で優秀人が採れるならば、何もそうわれわれ苦労することはないのです。問題は、新制
大学のあり方なんでありまして、われわれはこの新制
大学特に法学部につきましては、実はいろいろ苦心いたしております。一年延長論も考えております。これは
大学連盟、
大学協会等でいろいろ取り上げましたが、これは法制の改革があってなかなかうまく行かない、急速には間に合わない。そこで、たとえば中央
大学においては専攻科というものを一年設けました。しかし、これも一応四年を終らしてからまた一年やる。これは木に竹を継いだようなことになる。そこで、実は現在の新制
大学は、御案内のように、一時間の講義に二時間の実習というアメリカ式の
考え方でできておりますが、
日本の
大学施設で一時間講義をして二時間実習させるだけの施設がない。結局学生は遊んでしまう。そこで時間を増加する。また別に法職課程というものを設けて、特別教育をするというような方法も考えております。それからさらにまたわれわれ考えておりますことは、今のところは最初の一年半が
教養科目であり、あとの二年半で
専門科目をいたすのであります。だから、たとい法学部に入っても、第一学年では
法律のホの字も勉強させない。ここにまた学生の不満もある。せっかく法学部に入ったのに、
法律を学ばないのはおかしいじゃないかという話もあるので、われわれ現在立案いたしておりますのは、たとえば債権各論とか親族法とか、わかりやすい
科目を第一学年に持っていく。それで第一学年の
教養科目の若干を三年まで持ち上げていく。ある
意味で縦割であります。そういうようにすれば、四年のときに
試験を受けるとしても、とにかく一年、二年、三年と三年間勉強しておるから、相当
法律が学ばれてくるのではないか。こういうような方法も考えておるのでありますが、実は今申し上げたような方法は、国立
大学においては絶対とれない
制度なのであります。と申すのは、向うは官制で縛られておる。ことに東大のごときはそうでありますが
教養学部としまして、一年半は別な学部になっております。今私の申し上げたような縦割
制度はとうてい設けられない。
司法試験制度の
改正というものは、新制
大学の
学制改革と密接な連関があるのでありまして、どうかこの
委員会におきましても、新制
大学の
学制改革ということについての十分の御関心をお持ち下さいまして、またその面とのにらみ合せにおいてこの案をお作り願いたい。われわれとしましては、
専門科目の範囲限定は、
学制改革が行われるまでの暫定的措置というふうに
理解いたしておるのでありますが、現状にのみ眼を向けて、今の学生は法学の知識が足りないから
専門職の
試験を下げてやるという、いわゆるイージー・ゴーイングの
考え方でなく、この問題については、
日本の
法律文化の将来のために根本的な対策をお立て下すって、その上においてこの
試験法の
改正をお考え願いたい。もとよりそうお考えのことと思いまするが、その点を特にお願いいたしたいと思うのであります。
先ほどから常識の欠缺ということをしきりに仰せられ、また各方面で聞きますが、何もこれは
裁判官だけに限ったのではない。実は
日本の
文化のあり方なんです。先ほど
安倍さんですか、大隈侯爵、福澤諭吉先生のことをおあげになりましたがこれらはわれわれ年輩の者においては常識でありますが、若い諸君にとってはこれは歴史的事実なんです。そこに私は
時代のズレがあると思うのであります。その例をとって、なるがゆえに
司法修習生が常識がないとは私は結論できない。この常識がないということは、
日本文化のあり方、
大学制度のあり方で決して
試験制度の問題ではない。これを
試験制度に結びつけて
教養科目を加えろということには、論理の飛躍があり、断層があるように思うのであります。私、よりおそれますことは、
法律常識の欠飲であります。先ほど申したような、われわれいつも申すのですが、第一審の判決にはまことに危ないのがあります。もとよりいい判決はたくさんあります。しかしながら、ときどき突拍子もない判決が出てくる。これが高等
裁判所、
最高裁判所に行く。ところが
最高裁判所は、正直なところを申しまして、
裁判官が若い。近ごろの
最高裁判所の判決は、実に書生論と思われるような判決文がわれわれの目で見て少くないのであります。
法律常識の欠缺の方がより大事である。
裁判官に訴訟法の知識がない、これが一番おそろしいのであります。どうかそういう点について十分なる御考察を願いたい。常識が足りないのは
司法修習生で十分勉強させればいい。
また、
試験問題の出し方であります。実際今の
試験問題はあまりにも技術的に流れておる。たとえば本年民法で「破綻主義を論ぜよ」というのが出ました。破綻主義というものはわれわれは一向知らない。ある特定の先生の本に書いてあるだけのものであります。そういう
試験問題が出るから、
試験問題のあり方の方に十分研究をしなければいけない。そうするには管理
委員会の実力をもっと高める必要がある。私は問題はむしろほかのところにあると思います。
結局、最後に申し上げますることは、何と申しましても
司法試験は
専門職
試験であります。
専門の知識を低下させて、
日本の
法律文化、
日本の
裁判制度はどうなるか。私は何も他国のことを申し上げるのではないのですが、ドイツの
司法試験制度は、税法まで
試験科目に入っておる。ところが、
日本においては、訴訟法まで
選択科目に回す、大へんな違いであると私は思う。この問題は、何と申しましても、
時代の、占領軍の生んだ新制
大学の
欠陥から現われた悲哀であります。われわれはこれをいかに是正するかということについて、日夜努力いたしておりますが、どうかこの
委員会におきましても、
大学の
学制改革ということとにらみ合せて、この
試験制度の
改正を御考慮いただきたいことを心からお願いいたす次第であります。私の
意見はこれで終ります。(拍手)