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柴田参考人 私は農民
団体も協会も代表していない全然
個人で呼び出されたのであります。私は学校を出てから三十三年間になりますが、その間にやった仕事は下水処理の問題とか工業
廃水の処理及び
水質試験、河川の
調査、海水の
調査、そういうことばかりしかやっておりません。それから戦前戦後各
工場の
廃水の処理の設計及び処理
施設の実際に当っており、その後の管理、
水質についての指導もしてきましたので、そういう経験があるということが
一つの取り柄であろうと思います。
それから
水質汚濁防止の勧告書を昭和二十七年に出しておりますが、その場合に
日本で最初の総合的
法案でしょうが、それを起案しその草案を作った一人であるということで、それがためにそれまでの長い間
各国の法令やいろいろなものを研究して、
日本の実情に合うようにというので、
水質汚濁防止法案の勧告書を作ったのでありますが、それはいろいろな
事情で時期尚早ということになって、今日まで日の目を見なかったのであります。今日
三つの
法案が出ましたが、これを見ますると、やはり大して変っていないので非常に喜んでいる次第であります。そうしてさてどうなるかというと、皆様が陳述なさったような
希望も何もない。というのは何の
団体も代表しているのではないから、私からはこういうことはこうやってほしいという
希望がないのです。
漁業及び商業、通産等のどの方面でもうまい工合に水は利用された方がもちろんいいわけであります。水というものは神様が与えたものであって、人間が作ったのじゃないからだれでも使う権利があるのだ。それと同時にだれでも自分だけ使って、よその人が使ったからといってトラブルが起きることのないようにする義務があるから、水に対する
法律なんというものはないのが、ほんとうだろうと思っております。自分が作ったり何かしたのなら自分の権利を守ることもあるけれども、全然自然のものであり、水の大切なことはみんなわかっておるのであるから、自分一人が利益を得ようといって縄張り争いなんかは起らないものだろうと思うんです。ですから今日まで水に対する
法律ができなかったのであって、別に
日本が野蛮国であるとか後進国であるから、水の
法律ができないというのでなくて、相当うまくさばいてきた。こんな狭い国で、水の資源がそう豊富でないにもかかわらず、
外国のようにやかましいことを言わなかったのは、水というものが大事である
漁業とか
農業が主であったし、それからこういう国情から山紫水明を誇ってきれいにしようという精神があったので、結局
法律がなくてもうまくやってきたのだろうと思いますが、近代になってきますと、
工場がふえてくるばかりでなく、人口は何千万とふえてきて、下水及び
産業廃水による
汚濁がひどくなって、それを法がなくてもきれいにして、人に迷惑をかけないようにしようという
会社は多いんですが、下水道が遅々として進まないために、下水でさえ完備しないのだから工業
廃水の
施設などまだ持たなくてもいいじゃないかという
思想を持つ
工場もありまして、あまりめんどうなく川水や海水をほかの人が利用できるとは限らなくなったので、
方々に
紛争が起きた。それでもってこういう
法律ができなければならないようなはめになったのだろうと思っております。それで水の
法律というのは、結局天然水はだれが使ってもいいものだし、だれもきれいにしなければならないものですから、水を
汚濁するなどということは私から
考えると変なので、
汚濁ばかりでなくて、何人も水を使用するについて他人に迷惑をかけないように、ほかの人の利用を妨げないように心がけなければならない。やわらかい言葉で言わないと、何か水というものはだれかが作ってその権利を守っているというような形では、少し固いのではないか、大体そういうふうに
考えております。私は
学識経験者ではありませんが、
廃水処理専門の知識がちょっとばかりあるので、少しばかり概論を述べたいと思います。
時間もありませんので個々のことについては、御質問があれば
一つ一つお答えすることにいたしますが、私は専門が
水質試験とか
廃水の処理とかでありますので、どのくらいきたないのをどのくらいにすればいいかという質問ならよく答えられますが、法的なことやなんかは専門でないのであまり触れたくないのです。ですから結局水というものは化学的の成分であって、水の標準をきめるということをこの
法律で規定しているけれども、結局働いてくるのは川水及び海水の標準をどこへ出すべきか、
工場廃水はどのくらいまで処理できるか。できないなら処理限度はどうかということが、ほんとうの戦闘隊みたいなものになる。あるいは参謀本部はこれかもしれぬが、戦闘隊の方は非常に活躍しているのに今これにはどこにもうたってないので、それを識別させようというのだろうが、これは私のごとき技術屋が云々すべきではなく、
法律の概念的な面では非常によくできていると私は
考えております。ですけれども最初
委員長から十五分くらい述べろとおっしゃいましたから、それについてちょっとばかり述べさしていただくと、水は守る義務とともにそれを利用する権利が何人にもある。だから利用すれば必ず多少の
汚濁を発生する。
汚濁の発生から水を
保全する——私は
保全という
意味がよくわからないのですが、保護して全からしめる、キープ・インタクト——
保全という言葉は、私辞書を引いてみると徳川時代にはなかったものです。明治になってからの
外国語の翻訳であると思います。キープ・インタクトというと、汚損しない、そのままにしておく、完全にしておく、もとのままにしておくというのがキープ・インタクト、あるいは
保全のほんとうの語源のようです。ですから
保全という言葉を使っていくと
現状維持ということになる。それはいつも変らないということになる。
現状維持でこわさないままで、水は、さっきだれかがおっしゃったように、水というものはほんとうに飲めるような水でなければならないのがスタンダードだと言うけれども、それはちょっと
考えるとどうかと思う。水はだれでも使う権利がある。第二に生物を生かすというのが天然水の一番りっぱな目的です。いろいろきたないものを洗い去ってきれいにする。これが第二の目的でしょう。もし食べることばかりに使われて、きたないものをきれいにしなければ、人間は死んでしまうかもしれない。だから洗濯もすれば、きたない話だが、くそ、小便の痕跡の残らないようにする。いろいろなことで水をきれいにする、
工場でもきれいなものにして人間の役に立たせるようにしてお返ししなければならぬ。天にすぐそのまま上げるわけにいかない。人間が生きている以上キープ・インタクトの問題はあり得ないのです。水というものは酸素と水素を含んでおるし、酸化菌といって、きたないものをきれいにしてしまうばい菌もいる。ペニシリンみたいな細菌がたくさんいるので、少しばかりきたないものが加わっても、すぐにもとの通りに酸化してしまうといういい点がある。そのような点を持って世の中に出てきたものであるので、人口がふえない間は
工場廃水などは問題にならなかったのでありますが、近代になって自分の力では負えないくらいの荷物を与えられるので手を上げてしまって、きれいに滅菌せずに海に行ってしまい、途中のいろいろの利用目的に差しつかえる。だから水の問題は汚物を浄化するという目的があるというのははっきりしたことで、それがどこにもうたっていないようだし、またそれを含ませていないように
考えられるが、この点はちょっとまずいのではないかと思うのです。それは
保全という言葉は、元通りというのは、きれいな神武天皇時代の水が
保全か、あるいは
現状維持か、
現状維持という言葉は非常に語弊があるのでしょう。水というものはバリアブルなもの、
変化するものでしょう。絶えず人口がふえてき、絶えず工業情勢が変ってきているから常にバリアブルなので、そのバリアブルなものをどうして
保全するか。やはりバリアブルなものに対してはバリアブルで変り得るもので対処していかなくちゃならないから、なかなかむずかしいのでしょう。だからそこを
保全という言葉にあまりこだわっているようですが、
現状維持というのですが、
現状維持ということは、毎日のように
現状が変るから毎日のように
水質基準を変えていくことはできないじゃないですか。とても
委員会も間に合わない。それは
各国々々と
皆さんおっしゃるが、水の最初の
法律というものは英国で、イギリスのローヤル・コミッションが水に関する研究をやっていて、それによって出した
基準や何かが世界的に利用されて、去年あたりディスカッションしましたが、英国ではあの当時と今でも変らないといっているのですが、それは大へん理屈が合って、どのくらいの限度の川水であれば他から毒物を受けるとか廃物を加えても何里流れたらきれいになって他目的を害しない。その水というものはほんとうの川のあり得べき水のスタンダードはこのくらいであるときめて、いろいろ
調査して、その次に多少汚染されたが、その他の利用目的にはさしつかえない。第三番目には、それは下水の処理ぐらいになるけれども、
水産用水にはなり得ない。第四には——これははっきりここで言えばあまり専門的になるから言いませんが、第四には、もはやその水は何の使用にもならない、下水に近いというように、科学的に研究してそのような種類に分けてある。先ほどどなたかおっしゃった、
基準というのは飲めるような水ではないかとおっしゃったが、そうではないでしょう。水というものは飲むばかりではないので、今言ったようにきたないものを洗たくもする、くそ小便も持っていかなくちゃならない、そういう下水だと、何べん処理しても元の下水で、相当きたないものでも入る。そういうことがあるからなかなかスタンダードはできないのです。スタンダードを作るということは空論ではなくて、
日本ではこのごろこういうことを言う人がある。たとえば川水のスタンダードは英国ではこういうようである、
アメリカではこうだが、
日本は後進国であって、まだまだ
廃水処理ができないから、このくらいのスタンダードにまけておこうじゃないか、それから下水の放流水の
水質基準は向うはBODというもので行い、百万分の二十だが、
日本はまだ後進国だから三十くらにまけておこうじゃないかなどというが、それはちっとも
意味がない。たとえば二グラムの青酸カリを飲めば死ぬけれども、二グラム以下なら死なない。二グラム以上だから死ぬというように、たとえば川のスタンダードはBODが百万分の二というものがあったら、それは
水産用水にならないと大体きまっている。だからそれをまけてやって三にしようといったって何の
意味もなさない、
水産用水にならない。だからスタンダードはあるのでしょう。科学的にはあるのでしょうが、それはなかなか
日本の今の
経済状態ではできないから、魚は死ぬかもしれぬけれども、そのときは漁民は相当害があれば、その
被害を出せば
工場もその費用を出すことになるのじゃないか。しかし今の科学技術上、三にしかできないというのだが、そこは
外国ではいろいろの科学機関が研究して大体近いものが出ている。
アメリカのペンシルバニアの
法律では、石炭排水の浮遊物は三〇〇PPmになし得ない、それで三〇〇PPmを要求するのは無理というので、石炭排水に対してはこの法令から除いた。しかるに二、三年前に研究した結果、三〇〇PPmになし得るから石炭排水もその中に入れるとはっきりうたってある。そのように
保全という言葉にこだわると科学技術は進まなくなる。もっと安い金で処理することができればどういう人でも処理することができるのじゃないでしょうか。だからそういう精神が入っているかどうかわからないが、そういう精神を含めていただかなければ科学の進歩はとまってしまう。ただ
保全するというだけでいいというのではまずいのではないか、こう思っています。
それから水をよごす方ばかりを非難するようであって、よごされる方ばかりが主体になっているが、よごす方、すなわち工業の方も水を使わなければならないのだから、非常に熱心にこれから処理も研究するでしょう。通産省の方の案なんかそのためにあるのでしょうが、ただ水を使う方でも何か処理しなければならないのじゃないでしょうか。自分たちも工業製品を使うのであるし、自分たちも下水を流すのです。昔のように水をどんなによく処理しても、今後
日本は人口がもっと多くなるのだから、科学技術の進歩よりも
汚濁が先行する運命にあるでしょう。その場合に非常に
経済的ないい方法がいきなりできるものじゃない。長く研究の期間がかかるから、二、三年あるいは十年もかかるかもしれない。そうなったら飲めるような水になるかもしれないが、ならないかもしれない。そうすれば一たん
廃水は処理するが、それは元のようでなく幾らか
汚濁されるでしょう。だけれども使用する方でもそれに対処するような処理をしなければならない。たとえば飲料水というのは昔は川の水を飲んでいたのでしょうが、それから結局掘り抜き井戸とか地下の掘り水をとって飲んだ。それが今度は砂を使って沈澱させ、薬剤を使って沈澱させ、それに大へん金をかけるようになった。使う方でも金をかけているのだから、農民や漁民の方では研究している人があります。島根県あたりで篤農家がたんぼに石灰石を置いて、そのたんぼに入る坑水の
PHが低いので今までできなかった作物が、できるように研究したとかいうが、何かそういう研究もしなければならぬだろうと思う。水がよこれてくるのは結局全体の国民がよごしているのでしょう。漁民でも農民でも化学製品は必要である。またきたなくする方でも自分たちの工業製品を使ってもらうのだし、
漁業、
農業がなくては生きていけないから、むちゃによごさないようにできるだけ努力するということがもちろん必要です。しかし使う方でも、それ以上やったら
工場、中小企業は成り立っていかない、だからこれは何か自分たちが苦労しようというので、魚でも
廃水に強いのがたくさんいますから、そこに見合った魚を飼うとか、
水質の悪い川ではアユを飼わないで別なものを養殖するとか、そういうことに進んで協力していかないと、
紛争はこの
法律ができたあとでも、多分におさまらないのじゃないかと私は思います。だから利用する方でも、いつまでも昔のように大公望をきめ込むようではいけないのじゃないか。やはりバリアブルな
変化あるものは
変化をもって対処していく。もう向うでは機関銃や原子砲を持ってくるのに、
日本では月影流とか、それでやろうというのでは負けてしまう。やはり大砲くらい持っていなければいけないのじゃないでしょうか。その点工業の方も、おれたちもこのくらい努力して金を使ってやっているのだというので、これ以上はやらないようにしてくれといったって、なかなかうまくいかないのじゃないか。たとえば工業の方からいうと、水というのは
水産用や
農業用だけのように
考えられる点がある。それで大体
工場としては、非常に悪い
工場はあるけれども、大体において下水処理というのは統計によると、
日本人では大ていよいよ見て全人口の五%しか処理してないのだが、工業排水は人口に直してやると一七・五%か処理して、ずっと下水処理を上回っている。戦後私が手がけただけでも、大中の
工場で十幾つが完全処理をし、世界でも
日本ほどやらないだろうというような下水処理以上の完全処理をやっているところが二、三あるくらいです。それは
法律でも何でもなく、私が最初
経済安定本部の出した
水質基準や何かに準じてやっているので、
水質基準ははなはだむずかしい、むずかしいというけれども、
一つできればそれに準じてやるからそれに近くなるので、やはりいいことだと思う。
結局科学的な
水質基準を作るということが大事であって、その点に非常に重点を置いて公平なる人間を集めなければいけないと思う。生物学者や
科学者及び
法律家——それは各省代表もあるでしょうけれども、それよりもむしろ専門々々の学者で、比較的中間色の人を選んで、そうしていいものをきめるということに、すべてはかかっているのだろうと思います。
それから
社会党案は案外いいのですよ。なぜかというと、ほかのものは川の水をスタンダードにきめておいて、そしてその水をよごすとどうこうということは、なかなか川の水のスタンダードというものはバリアブルで変るものだから、それが変れば
工場はまた処理を変えなければならないとかなんとか、その川沿いにはもう
工場が建たなくなるとか、なかなかむずかしいのです。社会党の方は、川に出す
工場排水の
水質をどのくらいにしようということがきまっているから、これは案外行われやすいのです。そしてまた相当きれいになる。ただある
工場が何もやってないからその川が自由に
汚濁されている。どの
工場も五〇%きれいにすれば半分になってしまう。川水のスタンダードの平均、BODでいえば百万分の二、しかしこれを保つための処理には最高能力で処理しなければだめだというので、言うはやすく行いがたい。社会党の方は主としてそういうことになっているし、通産省の案もそうなっていると思いますが、この親法になっているのが川の水や海の水の排水を受ける方のスタンダードばかりきびしく言っているが、それは実際はうまくいかない案じゃないかと思います。それから社会党の案の批評をするのはいやですけれども、ただ欠点が
一つある。何だか賠償とか調停とか
紛争というようなものが主になっているが、そういう民事訴訟のような案になっているのは、何だかわけがわからないのです。水は化学的なもので、今言ったように
廃水処理
施設が非常に重要で、だれもが水は自分ばかりのものではないということがわかったら、期せずしてきれいになる。そして
紛争、賠償はむしろ従であって、そういうふうに言ってもだめな場合、たとえば私が今言った通り、五〇%川の水をきれいにしても
汚濁は半分にしかならないから、幾らか損害はある。その損害はもとの一〇ではなくて半分である。その半分を出すということはあとにうたえばいい。のっけにうたってあれば、まるで漁民、農民が裁判所に提訴するような感じがする。
委員も二十人、三十人にもすれば、船頭多くして船進まずで、各省の代表が何のかの言ってなかなかきまらないだろう。社会党の案は四人ということにしているけれども、きびしくて、何らの職業のない者、身分高潔な人、そんな人は一人もいないかもしれません。たとえば尾崎行雄
先生などは適当でしょうけれども、
水質とか
廃水処理の技術を知っていなければそれは無理だ。そんな処理はできっこない。だからそこのところはもう少し
考えるべきだろうと思うのです。いろいろ言いたいことはあるのですが、時間が長くなりますから、これで終ります。(拍手)