○
説明員(
鈴木才蔵君) まず、
本州製紙株式会社江戸川工場におきます
事件につきまして申し上げたいと思います。
まだ
本件につきましては、
人権擁護上の違憲的な
結論は出しかねております。ようやく最近に至りまして事実上の認定をいたすことができたのであります。従いまして、本日は、
一つの
中間報告として、
人権擁護局の
調査の結果を申し上げてみたいと思うのであります。
まず、
人権侵害になるかどうかという問題は、単なるその現像の一部分をとらえて判断することはできませんので、もうすでに、
十分委員の
各位におかれましては御
承知かと存じますけれども、この
江戸川工場に起きました
騒動の
背景から、少しおさらいの
意味において述べさしていただきたいと思うのであります。
まず、
江戸川工場に
騒動の起りました
原因でありますが、それは、
本州製紙株式会社におきましては、
昭和三十三年三月ごろ、その
江戸川工場に
パルプ製造の新
設備を設けて
操業をいたしまして、従来と違った
黒褐色の
廃液を
江戸川に
放流するに至ったのであります。
江戸川投網業者などは、同年の四月ごろから、しばしば
右会社に対しまして、
魚介類が死滅するおそれがあるとして、同
廃液の
放流中止を要望いたしました。また、
損害賠償につきましても、
会社側と
交渉を続けて参ったのでありますが、
交渉はまとまらないので、
廃液の
放流が、依然として続けられたのであります。五月二十四日に至りまして、
千葉県
浦安町
漁業協同組合員外江戸川周辺の
漁業協同組合員等が、
会社の
態度にあきたらず、
工場に来集いたしました。そのうち約百名が
工場に入り、
廃液の
放出を見て憤慨いたしまして、
排水渠を
木片、
石等でふさぐというような
事故を起したのであります。
その後、
東京都庁、
千葉県庁の
関係部局におきましても、
工場廃液による汚水問題の
調査に乗り出しまして、六月六日、
東京都
建築局指導部におきましては、「
水質調査の結果、
魚介類に被害があるように思われ、
漁民がひどく激昂しているから、
黒褐色の
廃液の
放出を中止すべき」旨、
会社側に口頭の
勧告をいたしたのであります。
会社側におきましては、その
勧告を受けまして、新
設備の
運転を一時中止するに至ったのであります。ところが、六月九日に至りまして、
工場側におきましては、本社の指示によって、
漁民の了解なく、再び新
設備の
運転を開始したのであります。そのため、
浦安町長などから強硬な抗議がなされまして、十日午前一時ごろ、
工場において新
設備の稼動を一応中止したのでありますが、なお
パルプの蒸煮過程の
操業というものは継続されまして、
褐色廃液を
放流したのであります。
右のような
事態に対処するために、
浦安町におきましては、同日の午後十二時三十分ごろ
町民大会を開きまして、「
毒水放流に対して絶対反対する」旨の宣言、「
毒水の
放流を停止せよ、
損害補償を要求する」旨の
決議をいたしました。
事態解決の促進をはかるために、
国会、
関係官庁及び
会社、
工場に
陳情することになりまして、同日の午後一時三十分過ぎごろ、
浦安町民約七百名は、
町長、助役、
役場吏員及び
漁業協同組合長などに引率されまして、十台の
バスに分乗して出発したのであります。
警視庁におきましては、多数の
浦安町民が、六月十日午後三時ごろ、
国会付近において
陳情デモを行い、無統制に近い
行動をしたという
報告を受けましたので、前記五月二十四日、
江戸川工場において、
浦安町民などによる
器物投棄事件が発生したこともあわせ考えまして、
警備態勢を強化して、
偶発事故の防止をはかる必要を認めたのであります。それで
小松川警察署長に対しまして、
国会の
周辺の情報を伝えるとともに、一方、同日午後四時八分ごろ、
江戸川工場事務部長から、
小松川警察署長に対しまして、多数の
漁民が
陳情に来るから、
警察官の
派遣を願いたいとの要請があったのであります。
そこで
小松川署長は
警官隊派遣はやむを得ないとして、第七
方面部長と相談の上、
警視庁本部に
機動隊の応援を求めたのであります。それによりまして午後五時三十分ごろ、第二
機動隊三個
中隊及び
小松川署員合計約三百名が
工場に到着をいたしたのでありますが、
陳情団を刺激しないようにとの考慮から、
工場内食堂——これは
工場正門から望見できず、かっそこから約二百二十メートル奥にあるのでありますが、その
工場内食堂付近に
待機をいたしたのであります。
国会などの
陳情を終えました
浦安町民約七百名は、
町民大会の
決議文を
工場側へ手交するため、
バスを連ねまして午後六時ごろ当
工場正門に到着いたしました。ところが、
正門の鉄のと
びらが閉ざされておりまして、立入り禁止の掲示板が掲げられ、かつ
同様趣旨の文言を書きましたプラカードを、
工場正門内から
町民に向って振られたのであります。そこで、先着の
町民らは、この
工場側の
態度に憤慨をいたしまして、閉ざされた鉄のと
びらを押しのけて
工場内になだれ込み、他の
町民はこれに続いて入ったのであります。
工場内に乱入いたしました一部
町民は、
町長等の制止にもかかわりませず、
工場内にありました石、
木片等をもちまして
守衛室、
工場長室、
事務室等の窓を破壊いたしたのであります。
待機中の
警官隊は、直ちに配備につきまして、主力は
正門から北門に通ずる道
路上、
貯水池付近に
阻止線を張って
町民の
侵入を防止いたしましたために、
町民と対峙する形勢となったのであります。対峙しておりました
町民は、石ころ、小
砂利等を拾いまして投げつけ、
阻止線を突破しようとし、
警官隊はこれを制圧しようとして一時もみ合いになったのであります。この際、
警察官七名が
投石によって
負傷し、一方、
浦安町民佐藤金蔵外四名が
建造物侵入、
暴力行為等処罰に関する
法律違反現行犯人として
逮捕されたのであります。
町民は
逮捕者の
釈放を要求いたしまして、
工場内資材
倉庫見
張所付近にすわり込みをするに至りました。そこで
浦安町長らは、
小松川警察署長に
逮捕者釈放を
交渉したがいれられず、依然として対峙が続けられたのであります。
警官隊は午後六時五十分ごろ第三
機動隊三個
中隊、同七時ごろ第四
機動隊二個
中隊、同七時五十分ごろ第四
機動隊一個
中隊と増派されまして、続々と
工場に到着いたし、
警備態勢を強化いたしたのであります。
他方町民は、
小松川署長及び
浦安町長の再三の
退去勧告に応じませず、津捕者が
釈放されるまでは帰れないとして、引き続きすわり込みを続けたのであります。この間
町民の一部は、飲食のため
工場外に出た者もあるのであります。午後九時四十分ごろに至りまして、第一、第二
製品倉庫の間の、これは
正門から約東方百メートルの地点にありますが、この第二
製品倉庫のあたりの
路上に
阻止線を張っておりました第四
機動隊二個
中隊の
前面に、
自動三輪車を先頭にして十数名の町村が来集したのであります。そうして
阻止線内へ
侵入しようといたしたのであります。
町民たちは
倉庫の外壁にかけてあります
消火器を取りはずしまして
路上に投げ、また、
消防ポンプ室内から
消防三輪車を引き出しまして
損害を与え、
路上に放置いたしました。この折、
投石などによりまして
警官約七名が
負傷いたしたのであります。右の
事態を見まして、第四
機動隊副隊長は、
実力によりまして
町民を退去させる必要がありと判断いたしまして、午後九時五十分ごろ三個
中隊約百七十名に対しまして前進を命じたのであります。同時に、第二
機動隊三個
中隊約百七十名も協力して
行動を開始いたしました。そのうち
警察官約八十八名が
警棒を
使用して
前面の
町民約三百名くらいを
正門外に押し出して門扉を閉じたのであります。その後、午後九時五十分ごろから同十一時ころまでの間、前後数回にわたりまして押し返して参りました
町民が、門のと
びらを排しまして
工場内守衛室付近まで
侵入をいたしました。そのつど
警官隊により押し出されたのであります。この間
正門外より
町民が
投石を続けましたので、
守衛室の
窓ガラス等が破壊され、
警官約二十名が
投石などによって
負傷をいたしたのであります。また、この際、
漁民宇田川源外二名が
暴力行為等処罰に関する
法律違反及び
建造物侵入罪の
現行犯として検挙されております。
こういうふうな
事情のもとに
浦安町民が
受傷をした
状況につきまして、
——これが
本件の
問題点であろうと思いますが、少し具体的に述べてみたいと思います。
こういうふうな
警備活動の際におきまして、参集いたしました
浦安町民などのうち、
負傷した者は約百余名に達したのでありますが、そのうち
診断書によりまして
負傷の確認された者は
合計八十六名であります。
右負傷者のうち、その
原因の確認できるものは、
町民の
投石によるもの
相馬七郎外一名、
警察官の
警棒によるもの、柳町
金太郎外四十五名、
警察官の
足げによるもの
佐藤金蔵外二名、残余の三十五名につきましては明白にその
原因が確認できないのでありますが、大部分は
警察官の
警棒による
殴打あるいは
足げなどによるものと推認されるのであります。
負傷時刻につきましては、午後六時十五分ごろ
警官隊と
町民とが相対峙しましてから、午後九時五十分ごろ
警察官が
実力行使に入るまでに
受傷した者は十数名でありますが、その後
実力行使によりまして、
警官隊が
町民を
正門外に排除する際に大多数の
負傷者が発生したのであります。
その
受傷の
状況は、
警官隊の
実力行使の際、
町民からの
投石及び
木片などによる
暴行がなされたことはあるのでありますが、これは少数によるものでありまして、かつ主として
工場の
器物に対してなされたものと認められ、多数の
町民はほとんど無抵抗で逃げ出し、あるいは
正門外において
傍観しているところを
警察官に
警棒で
後頭部をなぐられ、靴でけられるなどの
暴行を受けたものと認められるのであります。
特にこれらの
受傷者のうち、
佐藤金蔵外五名の
受傷状況の詳細は次の
通りであります。敬称は略します。
佐藤金蔵は同日午後六時十五分ごろ、
工場会議室北側中央出入口の
ガラス戸の
ガラス二枚を足でけ破りましたところ、第二
機動隊員に
現行犯逮捕されましたが、
逮捕に当りまして
警察官数名に
胸部を
足げにされ、第九、第十
肋骨骨折全治三ヵ月余の
傷害を受けました。
次に、柳町
金太郎は同日午後九時五十分ごろ、
工場内の
消防ポンプ室付近におきまして
町民を制止いたしまして、
警察官に対し
事態解決の
交渉をするために奔走をしておりましたところ、
実力行使となりまして、突然数名の
警察官によりまして
警棒で前
頭部などを
殴打され、
頭部打撲裂傷氷裂骨折全治ニカ月の
傷害を受けたのであります。
次に、
相馬賢二は、資材
倉庫見
張所前におきまして
警官隊と対峙しすわり込んでおったのでありますが、その後
工場外に出て食事をいたしまして、同日午後九時ごろ再び
工場の第一
製品倉庫前近くまで戻りましたところ、
倉庫の陰から出てきました
警察官によりまして
警棒で
顔面殴打を受けまして、
右眼網膜震湯症全治六ヵ月の
傷害を受けたのであります。この
負傷によりまして目から激しく出血をいたしましたため、
手ぬぐいで押えながら
工場正門外富士見橋付近松の植え込みに来てうずくまっておりましたところ、午後十時過ぎ
町民を追って
門外に出てきました
警察官によりまして靴でけられ、
顔面等打撲傷全治二十日間の
傷害を受けたのであります。
次に、
泉沢芳雄は、
警察の
放送車から
漁民は帰えるよう
放送があったため、
正門の方に出ていこうとして歩きかけたとき、
警察官の
実力行使となり、多数の
警察官が喚声をあげて追いかけてきたので、
正門まで逃げてきましたところ、
警察官に追いつかれ、後から
警棒で右の肩及び背中を
殴打され、
右肩打撲、
右腰打撲、
右肩甲骨挫傷全治一ヵ月の
傷害を負ったのであります。
次に、
相馬三郎は午後九時四十五分ごろ、
工場内消防ポンプ室付近道路上においてたばこをのみながら
傍観をいたしておりましたが、突然
警官隊の
実力行使となりまして、逃げようとして後向きになった際、
警官隊の
警棒で
後頭部を数回
殴打され、
頭部打撲脳震湯症全治一カ月の
傷害を受けたのであります。
次に、
工場付近の住民で、
田口明和という人が、午後九時五十分ごろ、
正門外の
富士見橋付近で、
本件の
乱闘事件を見物いたしておりましたところ、
町民を追って
門外に出てきました
警察官によりまして
警棒でその
頭部などを
殴打され、
頭部挫創等全治二週間の
傷害を受けたのであります。これは
傍観者の事例であります。
次に、問題になりました
小松川警察署における
被疑者佐藤金蔵に対する
留置中の処遇の件……。ありますが、
佐藤金蔵さんは先ほど申しましたように、出捕されましてから
小松川署に引致されたのでありますが、
警部補飛田俊之介の、
取り調べを受けた後、六月十一日片前一時三十分ごろ
被疑者として同署に
留置されたのであります。その際
佐藤は、
飛田警部補に
胸部の痛みを訴えたのでありますが、
当番看守巡査の配慮により、ぬれ
手ぬぐいで患部の湿布を受けたのであります。同十一日午前十時三十分ごろ
医師加藤哲志の来診を画け、同
医師は
診察の結果、
肋骨骨折の疑いありとして、
レントゲンの
検診の必要ある旨を
看守担当巡査部長大迫笹に告げたのであります。同十一日の生後四時ごろに至りまして、飛出
警部補は
佐藤を
取り調べた際、
佐藤が、わき腹が痛い旨をなお話えますので、
取り調べ終了後直ちに
大迫巡査部長に対しまして
佐藤に
レントゲン検診を受け太せるよう連絡し、さらに六月十二日午後二時三十分ごろ、
佐藤に対する
取り調べ後、
同様大迫部長に強く申し渡したのであります。翌十二日午後四時……。十分ごろになりまして、初めて
大迫照査部長は
佐藤を
加藤病院に連行して
レントゲン検診を受けたのであります。翌十三日午後四時三十分ごろ、その
検診の結果、
佐藤が第九
肋骨、その後
合井良太郎医師によりまして第十
肋骨骨折も認められておるのであります。この第九
肋骨の
負傷をしたことが判明いたしまして、同日午後五時ごろ、同人は
釈放されたのであります。
これが大体
人権擁護局におきまして認定した事実であります。ただ、この認定した事実に基きまして、
人権擁護上どういうふうな違憲的な
結論を出すか、しばらく御猶予を願いたいと思うのであります。
次に、
高知県におきます教職員の一斉休暇に伴い発生した
人権侵犯事件について御
報告を申し上げたいと存じます。
先の
委員会におきましてお
取り調べを要求されました
事件は、先ほど
警察庁の方において御
報告ありました
高知県
高岡郡
檮原村
村立の
西ノ川小中学校関係の家屋の
くぎづけ事件、それから同じく
高知県長岡郡大豊村
村立の
穴内小学校、それから同じく
高知県吾川郡吾北村の
柳野小学校における日教組を脱退せよという
一つの
強要事件があったのではないかと、こういうふうな
事件であります。
ごの
事件につきましてもようやく
調査が
現地におきましてできまして、まだ私の方の
人権擁護局としての
人権擁護上の違憲的な
結論はまだできておりませんが、大体におきまして事実
関係について私
ら人権擁護局の調べました点を御
報告申し上げたいと存じます。
この三つの問題につきましても、ただ
事件そのものを表面的に見ても、
人権上、事の真相を見、また判断をすることができないのであります。少し、くどくなりますが、やはり
本件の
学校のおかれました地位、
状況、そういうものの
背景についてまず述べ、それから具体的に入りたいと存じます。
これはまず
高知県の非常にへんぴな山奥のようなところで起った
事件であることを御了承願いたいのであります。概括的に申しますと、
高知県というところは
自由人権発祥の地とうたわれておるのでありますが、一般に
封建色が強く、
山間僻地に行くに従いまして
封建的思想は根深いものがあるのであります。そうして一般的に申しますと、これは少し
高知県民に対して失礼に当るかもしれませんが、一般にこういう
山間僻地におきましては視野が狭く、また、単純、直情的でありまして、また、きわめて純情である半面、感情が一徹であるのであります。そうして特に
学校の先生
——教員というものは聖職であるという観念が強く、そこで先生に対しましては無批判的にきわめて深い尊敬と信頼の念を持っております。
学校に関することはもとより、教員の私生活に至るまで協力を惜しまなかったのであります。時代の思想の理解には乏しく、父兄と教員との間に大きな思想的な開きがあることは否定できないのであります。そうしてその地方の父兄は教職員の勤務評定問題をめぐる微妙な空気の中にありまして、大きな組織力を持つ日本教職員組合及び
高知県教職員組合の一連の勤務評定反対運動、ことに
高知県教職員組合の
高知県教育
委員会におけるすわり込み、
高知県教育長及び同教育
委員のカン詰、本年六月七日勤務評定実施決定に際しましてついに
警察官の出動を見るに至った等、勤務評定実施を阻止しようとする闘争行為及びその後におきます勤務評定実施撤回闘争行為を組織の力による横暴と見て快く思っていなかったようであります。そこで、かねてうわさされておりました教職員の一斉休暇闘争につきましては
学校に対して強く反対を表明いたしまして、授業を休まないよう懇請しておったのでありますが、これに反しまして本年六月二十六日、教員は一斉休暇をとりまして、
高知市で行われた
高知県教職員組合主催の勤務評定反対措置要求大会に参加いたしましたため、父兄は平素惜しみなく協力した純情が踏みにじられ、尊敬と信頼が裏切られたという感情が反動的な怒りとなって爆発いたしまして、ついに児童生徒の同盟休校及び
本件のような
——本件と申しますか、この職員
住宅の
くぎづけその他でありますが、
本件のような不祥時件を発生するに至ったと観察されるのであります。
まず、
高岡郡の
檮原村
村立の
西ノ川小中
学校の
関係につきまして申し上げます。同校の小
学校児童は百八十六名でありまして、中
学校生徒は六十二名で、教諭ば西村校長を含めて十二名でありますが、従来校下部落でありますが、校舎
建築及び運動場拡張のための費用をほとんどすべて負担いたしまして部落有の
教員住宅を
建築いたしまして無料で貸与いたしました。その管理補修をするほか、五十万円を投じて
学校に電話を架設し、その維持費を負担する等非常に協力的であったのであります。従って、校下部落民は自分たちの
学校であるような観念を持っていたようにうかがわれるのであります。そこでこの
学校当局は、かねて
PTAの総会におきまして、勤務評定は悪法であっても法治国である以上、法は法として守るべきである、勤務評定闘争のための一斉休暇は避けてもらいたい、一斉休暇をとるようなことがあれば児童生徒の同盟休校、
教員住宅の明け渡し請求、ピケを張って教員を
学校に入れない等の非常
事態が起るかもしれないという父兄の強い反対の意向を
承知いたしておったのであります。
ところが、本年六月二十六日父兄に対しましてはもとより、児童生徒に対しましても、連絡をしないで、抜き打ち的に当直の職員一人を残して
高知市において開催の
高知県教職員組合主催の教職員の勤務評定反対措置要求大会に出席をいたしたのであります。このことを知りました
校下民は、同日
檮原村役場におきまして大会を開催いたしました。先生が今日の行為を十分に反省し陳謝するか、教員を教育
委員会に交代させるまでは全員同盟休校をさせる、
教員住宅の
使用を全面的に禁止するという
決議をいたしまして、
決議文を作成し、翌日の二十七日児童生徒の同盟休校に入るとともに、午前八時ころ校下部落代表者約十名が
学校に集まりまして、その代表者が右の
決議文を校長に手渡しました。そして校長を通じて
教員住宅の明け渡しを要求いたしました。まず居住教員の承諾を得て、
ふろ場、
炊事場、
便所の明け渡しを受けました上、午後十二時ころ両
炊事場と
ふろ場の一枚戸に二寸くぎ一本ずつを打ち、これを閉鎖いたしました。さらに午後十二時半ころ
住宅の明け渡しを要求いたしましたが、いれられませんので、右部落代表者は
便所の両入口と
便所と
炊事場の間の通路の上下に一本ずつの横木を打ちつけまして、それに板を交差または縦に打ちつけて閉鎖いたしますとともに、その
教員住宅に入ります
正門の上下に一本ずつ横木を打ちつけまして、高さ五、六尺、横二、三尺の通路を残しまして板を縦に打ちつけて閉鎖いたしまして、
住宅は、各玄関の戸を南側に面しました六枚の戸を除きました周囲の戸というものは全部、戸の下側の横の棧から敷居まで一本ずつ二寸くぎを打ちつけまして
くぎづけをいたしました。午後二時半ころ、
住宅は二十八日午後八時までに明け渡してもらいたいと校長に通告いたしまして、一同が引き上げたのであります。
それで六月二十八日の午後二時ころ土釜鶴吉村教育
委員が須崎
警察署四万川
巡査駐在所勤務の西岡
巡査の警告によりまして、校下部落の西岡貞雄に取り除きを依頼いたしましたが、同人が
正門と
便所の両側のさくを取り除きまして、南側の
炊事場の戸のくぎを抜いただけで中止いたしました。そこで翌二十九日須崎
警察署の
檮原警部補派出所勤務の川田
警部補の警告によりまして、午前十一時ごろ部落代表者が人夫三名を雇って残り全部のさくと戸の
くぎづけを取りのけたのであります。
右のように
くぎづけせられておりました間、
教員住宅の居住者は五十メートルないし七十メートル先の校庭を隔てました
学校の
便所に行きまして、その
便所を
使用いたしたようであります。また、炊事用の水は同じように
学校の
炊事場から運んでこなければならない不便はありましたけれども、期間がわずかでありますので、生活上非常に困ったということはないようであります。
これが
くぎづけの問題であります。この点につきましては、私は
背景はいろいろ先に述べた
通りでありますけれども、こういう
交渉の段階におきましてその
住宅を
くぎづけをするということは、やはり
人権上遺憾の点があるように認めるのでありますが、はっきりした
結論は後述いたしたいと思っております。
次に、長岡郡の大豊村
村立穴内小学校で
PTAの
人たちが教職員に対しまして日教組を脱退しろというつるしあげ的な強要をしたのではないかという問題であります。このことについての事実
関係を左のごとく御
報告したいのであります。
この
学校職員は校長山崎勝利を含めまして七名でありますが、
学校当局は本年六月十八日に
PTAの役員会におきまして父兄から一斉休暇を避けてもらいたい。もし一斉休暇をとる場合には、事前に
PTAへ知らせてほしい。勤務評定の
説明のために家庭訪問をしないでほしいという要望を受けたことがあるのであります。それとまた、校長は同月二十一日、
PTA会長から勤務評定実施反対闘争のために
PTAと合議しないで、一方的な
行動によって生ずる
事態については、
PTAは一切の責任は負わない旨の声明書を受け取ったのでありますが、六月二十六日この
学校におきまして、これらの要請にかかわらず、当直の校長一人を残しまして、
高知市における
高知県教職員組合主催の勤務評定反対措置要求大会に参加いたしたのであります。それがために、同日
学校におきまして父兄六十七名が参集いたしまして、
PTAの総会を開き、二十七日児童の同盟休校をすることを
決議いたしまして、翌二十七日も続会して
学校側に対して、
一、日教組を直ちに脱退して勤務評
定に反対しないこと。
二、政治運動をしないこと。
三、偏向教育をしないこと。
四、父兄の総意に対しては協力する
こと。の要求事項を
決議して要求書を作成し、これを
PTA会長から
学校に手交し、児童は同盟休校したのであります。同日、
学校側は職員一同の名をもちまして
PTA会長にあて、右要求書の一については、教師の自由意思を認めてもらいたい。二、三については同意見である。四については父兄と教師が話し合いの上、教育上プラスすると考えられるものについては喜んで協力する旨回答いたしたのであります。ところが、
PTA会長はこれを不満といたしまして、総会に職員全部の出席を求め、校長を除く職員一人々々に対して日教組脱退を要請したのであります。それによりまして脱退を拒否した者が二名、留保した者が四名でありましたために、解決に至らなかったのであります。それで
PTAの顧問格の者を交えた
交渉委員が、
PTA総会側と
学校側の
交渉に当りました結果、校長は教組から脱退する。今後勤評を問わず、教組のことに関して教壇を放棄して活動しない。今学期終了後、
校下民の意に沿わない教師は円満裏に転勤すること。今後教組活動による授業放棄のある場合には、校長は職をかけてこれを阻止するという折衷案が認められまして、これを双方が承認いたしましたので、これを誓約書として
学校職員全体が署名捺印し、
事態を心配して来ておりました大豊村教育長長野政高、同村
PTA連合会長畑山善郎がこれに保証人として署名捺印し、
PTA会長に渡して
本件は解決いたしたのであります。
本件の解決に当りまして、大豊村教育長が誓約書に保証人として署名捺印したことにつきましては、児童の同盟休校という非常
事態を避け、
校下民のこの感情上の火を消すためにはやむを得なかったと、ごう言っておるのでありますが、理由のいかんを問わず、その行為は少し行き過ぎのようで、あります。また、
PTA総会及び
PTA会長の
学校側に対する行為にはある程度の圧迫があったものと認められるのであります。なお、この校長は、本月十日、日本教職員組合を脱退いたしております。
次に、
柳野小学校の問題でありますが、この
学校は児童が約九十二名で、職員は北川登志男校長を含めて五名であります。非常に小さい
学校であります。本年六月の十七日、
校下民を対象とする勤務評定研究懇談会が開催されまして、
学校側は全員出席して
説明に当ったのでありますが、その際、父兄の間に、日本教職員組合及び
高知県教職員組合の活動に対する深刻な批判と、教職員が勤務評定の反対運動に参加すことについてきわめて強い反対があることがわかったのであります。しかし、その意向を無視いたしまして、六月二十五日、
学校側は父兄に対し、二十六日児童は家庭学習にする旨の通知をするとともに、児童に対して家庭学習のプリントを配付して、二十六日は当直の校長一人を残して、
高知県で行われました
高知県教職員組合主催の勤務評定反対措置要求大会へ出席したのであります。これによりまして激高いたしました
校下民は、同日、部落総会を開きまして、翌二十七日から児童の同盟休校をすることを
決議いたしまして、同日より同盟休校に入ったのであります。そうして校下部落民は、二十七日、さらに部落総会を開きまして、
学校問題対策
委員会を組織し、
委員十名を選任して解決に当らせたのであります。こえて六月二十九日、
事態を心配いたしました村長川村武水、村教育長川村三吉、村教育
委員筒井正清があっせんの労をとることになりまして、対策
委員会側からは
学校側に対しましていろいろの要望があったのでございますが、あっせん者を通じて折衝の結果、結局
学校側では、一、校長は日教組を脱退すること、二、今後一切組合の闘争行為に参加しないこと、三、偏向教育をしないこと、という対策
委員会側の要望を入れましたので、六月三十日から児童の同盟休校を解くことになって円満に解決いたしたのでございます。しかし、この解決は口頭による了解でございましたために、対策
委員会側の一部に、部落総会へ提示する都合上、容認事項を書面にしてもらいたいという要望がありましたので、
学校側はこれを了承いたしまして容認事項を文書にして、それに全職員が署名捺印し、対策
委員会へ渡したのでありますが、右折衝の間におきまして、対策
委員またはあっせん者が教員の自由意思を侵害したということは認めがたいのであります。なお、校長は事前すでに日本教職員組合を脱退する意思表示をしておったのでありますが、まだ脱退届は提出していないようであります。
これが大体
人権擁護局の
調査いたしました
事件の全貌であります。
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