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1958-08-01 第29回国会 参議院 大蔵委員会 閉会後第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十三年八月一日(金曜日)    午前十時三十五分開会   ―――――――――――――  出席者は左の通り。    委員長     前田 久吉君    理事            木内 四郎君            西川甚五郎君            栗山 良夫君            平林  剛君            天坊 裕彦君    委員            青木 一男君            木暮武太夫君            迫水 久常君            土田國太郎君            山本 米治君            廣瀬 久忠君            荒木正三郎君            大矢  正君            野溝  勝君            杉山 昌作君            河野 謙三君   事務局側    常任委員会専門    員       木村常次郎君   説明員    外務省欧亜局外    務参事官    山津 善衛君    外務省経済局次    長       佐藤 健輔君    通商産業省通商    局長      松尾泰一郎君   ―――――――――――――   本日の会議に付した案件 ○租税及び金融等に関する調査の件  (中近東情勢わが国経済に及ぼ  す影響に関する件)   ―――――――――――――
  2. 前田久吉

    委員長前田久吉君) ただいまから委員会を開きます。  本日は、中近東情勢わが国経済に及ぼす影響について調査を行うものでありますが、まず、中近東諸国国際情勢について、外務省当局から説明を願います。山津外務参事官
  3. 山津善衛

    説明員山津善衛君) それでは、大ざっぱに御説明申し上げます。  まず、地文的な特徴でございますが、これは中近東と申しましても、その地理的な範囲というのは一つも確定しておりません。一般に考えられておるのは、北はトルコから東はパキスタンあるいはアフガニスタン、西が大体エジプト程度というのが普通のようでございます。だから、中近東アフリカという場合には初めてアフリカ諸国、ことにアフリカの北の方にリビア、チュニジア、モロッコ、こういうアラブ圏に属する国がありますために、これを含めて、中近東アフリカと言った場合には、地理的な範囲は、東はパキスタンあるいはアフガニスタン外務省としては便宜上アフガニスタンからと言っておりますが、アフガニスタン、北はトルコ地図の一番上になるわけでございます。西はモロッコ、南はエチオピアのちょうど南端、赤道のちょっと北になります。大体その地域範囲中近東、正確に言えば中近東アフリカ、俗には中近東地方と呼んでいるようでございます。そこの地文的な特徴としましては、大体の人口としまして、全部で一億二千五百万前後ではないかと推定されております、その地域内の人口が。それからその地域内の面積としましては、大体六、七百万平方キロ・メートルではないか。日本の約二十倍ないしは二十二、三倍ではないかということになっております。  それで、これが地文的なほかの特徴としましては、赤道に非常に近いことのために、一般気候が非常にトロピカル、熱帯的であるということと、従って、砂漠が九〇数%、九〇%以上を占めておる。逆に言いますれば、肥沃地可耕地が徹底的に少い。たとえば、エジプトのごときは大体四%以下となっておるようであります。砂漠が九〇数%というふうな割合を占めておりまして、可耕地が極端に少い。それから雨量がまた極端に少い。従って地域が非常に乾燥しておるという特徴一般的に言いましてあげられますが、それが、あそこ、この地方農業形態、あるいは大きく言いまして産業形態を規定づけておるということになるわけでございます。  これを国際政治上から見ますと、この地図をごらんになっただけでもわかります通りに、由来、東と西、北と南の交通上の要衝を占めております。それが最近の情勢、最近と申しますか、第二次大戦後におきましては、その交通上の要衝という面が戦略要衝という面において強く現われ出した。第二次大戦前ですと、戦略上の要衝という問題よりも、交通上の要衝英国インドを領しておりましたときにはインペリアル・ロード、帝国道路のキー・ポイントを占めておったわけでございます。第二次大戦になりましては、交通上の要衝という面もまだありますけれども、それよりも、今は戦略上の要衝英米、ことにアメリカ対ソ包囲陣の一環をになう重要な地域であるという意味戦略上の要衝という意味がむしろ強く浮き出されております。これが大体地文的な概況だと思います。  次に、人文的に見ますれば、これはいろいろな見方がございますが、まず、ここの基礎情勢としまして三つあるいは四つの大きなファクターを考えられると思いますが、その第一は、普通アラブ主義と言われておりますアラブナショナリズムあるいは汎アラビズム、この一つ思想動向、あるいは動き運動というものは、少くとも現在の中近東を代表する一番大きな動き一つになっておるということでございます。  このアラブナショナリズムについて若干申し上げますと、この地域は今において大体一億二千五百万あるいは一億三千万、一億二千五百万程度人口があると申し上げましたが、そのうちの大体四千五百万というのがアラブだと考えられております。これも非常に判定のしにくい問題でございまして、どこまでをアラブ人というか。アラブ人がおもな国家の住民は全部アラブ人というか。その他いろいろの問題がございまして、これもはっきりした数字ではありませんけれども、大体四千五百万、だからこの地域の三分の一強がアラビア人ということになるわけであります。このアラビア人、その文化が普及しましたのは、御承知の通り世紀から八世紀にかけまして、一等最初アラビア半島イエーメン、ここでございますが、アラビア人の発詳の地はここだといわれております。それがずっと北東上しまして、それから七世紀から八世紀にかけましてモハメッドの遠征と同時に、東はインドの国境まで、西はイベリア国境まで、スペインまでですが、いわゆるサラセン文化として普及しまして、そのとき以来、アラブ生活空間といいますか、生活圏が非常に大きく伸びまして、現在のところ、イランとイラクの中間、イラク以西、それからシリア以南、それからモロッコ以東というのがこのアラブ民族といいますか、アラブ民族居住空間になっております。アラブ民族全体としましては、四千五百万でございますが、それがまだ独立国家を形成していない。たとえばその代表的なものはアルジェリアでございます。これはフランス一つの県とまでいわれているアルジェリア。それからこの、ちょうどこれは、ペルシャ湾でございまして、これはアラビア海、この辺りにちょうど山下さんのアラブ石油が利権を取りましたこのクエート中立地帯。この地域からずっとここに独立国ではありますが、英国保護領になっておって、従って一般国際面ではほとんど現われない国が五つありまして、土侯国といいますか、小さい土侯国が五つありまして、こういうのを入れまして、入口は先申し上げた四千五百万、ただ、独立国としましては、地域的にはアルジェリアというような非常に膨大な地域を除く関係から、独立国全体の面積としてはずっと少くなっておりますが、人口は、そういうふうな地域は非常に稀薄でありますために、独立国人口地域の減少に逆比例して相当多くなっておりまして、要するに独立アラブ諸国人口は大体三千三百万といわれております。これはアラブ民族といって、今この三千三百万ないし四千五百万の民族は、非常に純一性を保っておりまして、純一性といいますか、純粋性といいますか、言葉が例のイスラムの教義であるコーランを標準としております。その中には地域的に非常に分れております。拡がっております関係上、方言四つくらいの大きな特色のある方言があることはありますが、しかしその方言を克服して、コーラン言葉標準語になっております。その他生活態度自体も大体似かよっております関係上、ここには単一の民族としての自覚がずっと前からつちかわれておったし、維持されておった。それが特に十六世紀のころからトルコ民族があの辺りをずっと――セルジューク・トルコでございますが、征服してきて、そのトルコ民族羈絆を脱するための共同闘争という形におきまして、このアラブ民族的な民族意識というのが新しい形でさらに植えつけられた。それが今度は前世紀の終り、今世紀の初めになりまして、アラブ民族独立運動という形、それから次に第一次大戦後におきましては、イスラエルに対する――あそこにユダヤが建設いたしましたイスラエルに対する共同防衛という意味で、さらにアラブ民族意識が統一され、強化されたという大体の傾向を踏んで現在に至っておりますが、これがアラブナショナリズムとして一つの形を現わして参りましたのは、ちょうど前世紀の終りからでございまして、あるいは前世紀の中間と言った方がいいかもしれません。ちょうどトルコ羈絆を脱するために、今言いました統一された民族主義トルコに立ち向っていった。それが具体的な形をとりましたのは、一八九五年にパリにアラブ民族委員会というのが結成されまして、これが各地のアラブ共同委員会の形をとって、これが中心となりまして、この民族運動をかき立て、これを利用し、これを利用することによって、トルコに対する謀叛といいますか、離脱運動を指導していった。次いでこれが第一次大戦になりまして、英国マクマホン――当時カイロにおりました高等弁務官マクマホンでございますが、マクマホンアラブ圏の対英協力、対独参戦を要求するために、英国政府の名におきまして戦後アラブの統一を援助するという、アラブの対英協力の代償としてアラブ民族統一を援助するという約束をいたしました。それでアラブの援助を取りつけたわけでございますが、と同時に英国は当時の外務大臣バルフォアが宣言いたしまして、世界中のユダヤ人に対しまして対英協力を要請すると同時に、もしこの要請にこたえて協力してくれれば、ユダヤの祖先の上地――すなわちパレスタインでございますが、今問題になっておりますレバノンのちょっと下のパレスタインユダヤ人の建国を認めるという約束を発しました。と同時に今度は英仏ソビエト、その時はソ連じゃありません、帝制ロシヤでありますが、この三国の間にまた密約を結びまして、このイラクシリアレバノンそれから今イスラエル国になっておりますパレスタイン、このベルト地帯を、この三国の間で……それから黒海でありますが、黒海の方をロシヤあと地帯英仏だけで委任統治にする、勢力範囲にするという密約を結んでおります。だからこの三つの――英国アラビア人に対するマクマホン約束、それからユダヤに対するバルフォア外相パルフォア宣言、もう一つは、英仏ロシヤできめました勢力範囲分割密約によって、おのおの違った密約をいたしました。このために第一次大戦が済むと同時に、英国あるいはフランスとしましては、この三つ密約を同時に実現することは不可能だという状況になりまして、そのときにもうすでに中近東が第二のバルカンになる面といいますか、原因はそのときに発生しておったということになるわけであります。いずれにいたしましても、そのときのバルフォア宣言によりましてユダヤ人が一九二十年ごろから逐次帰って参りまして、これはちょうど二十年ごろから毎年約十万から十五万くらいのスピードで帰ってきてたと思いますが、ユダヤ人が帰って来たことによりまして、アラビア民族主義というのは、従来のトルコに対するやつから今度はユダヤ人に対してほこ先を向け出した。御存じの通りユダヤ人アラビア人というのは、ちょうど有史以来――有史以来というと少し語弊がございますが、ちょうどマホメッドが遠征をやり出しました七世紀ごろからの不倶戴天の敵に当っております。このユダヤ人アラブの真ん中に帰って来たということによりまして、アラブ民族主義一つの新しい対象が現われて、と同時にトルコ羈絆を脱したわけでございますから、トルコに対するものからユダヤに対するものに変ったと同時に、それは英仏あるいはそのうしろの米であるとか――英仏米に対する何といいますか、闘争、反英主義、今の言葉でいえば反西欧主義に変って行ったという経過を辿っております。  ところがこのユダヤ人問題というのは、もうすでにユダヤ人が毎年十万ないし十五万の勢いをもって流れ込んで来たし、英国としましても、これを阻止することができない。アメリカとしましても国内におけるユダヤ勢力に押されて、これをどうするということもできないままに、第二次大戦を迎えた。従ってアラブナショナリズムの立場からいいますれば、英米仏あと押しによって自分の敵であるユダヤ国をどんどん建設を進めて行く。だからユダヤ討つべし、それを推進する英仏はけしからぬという意味の形で、第二次大戦に入ったわけであります。第二次大戦の間は、しばらくなりをひそめておりましたが、第二次大戦後、このユダヤ問題と、その裏にあるユダヤ問題を通じてのアメリカその他英仏が利権を持っておりまして、特にイラクに対する英国委任統治、これは第一次大戦後の講和条約できめられたわけですが、それからシリアに対するフランス委任統治レバノンに対するフランス委任統治、それからパレスタインに対する英国委任統治、それからエジプトに対する保護権、これは一九一四年ちょうど第一次大戦が始まるときに保護条約を結んでおります。こういった西欧の桎梏、支配から逃れるという意味の反西欧、反英仏、それからユダヤを盛り立てるという意味におきまして間接的な反西欧あるいは反英仏、これが第二次大戦後のアラブナショナリズムの指向、方向として特徴づけられるものであります。それがまず現われましたのが一九五一年にエジプトが何といいましても、歴史的にいいまして、このアラブナショナリズムの旗がしらを務めておりまして、それはトルコ支配をまずエジプトが逃れておった――前世紀の初めには逃れておりまして、従ってその地位からもエジプトアラブ全体のナショナリズムを指導しておった。その状況が第二次大戦後にも現われて参りまして、一九五一年には英風との駐兵に関する条約、スエズに英国が駐屯するという駐屯に関する条約の破棄を宣言しております。それに次いでその反英仏抗争の盛り上る騒然たるさなか一九五二年、まだ世界の記憶に新しいエジプト革命――革命というよりもクーデターが起ったわけであります。これがまずアラブナショナリズムが具体的な形をとって国際政治面に現われました最初の現象と考えられます一九五二年のエジプト革命。その後の革命方向その他はあとで申し上げますが、アラブナショナリズムというのは、大体そういうふうな経緯をとって現われてきた。  それからもう一つアラブナショナリズム特徴としてお考え願いたいのは、これが非常に民度の低いアラブ全体の状況に対応しての一つ民族資本主義的な革命であると考えられることでございます。だからまず国を独立させ、国を富ませ、民衆の生活程度を向上させるという、何と言いますか、割合に観念的な言葉づかいをとりますと、民族資本主義的な革命民族ブルジョア的な革命という形をとっておる、このアラブナショナリズムが、ということでございます。といいますと、それは一面におきましては、その地域全般にまだ残っております封建的な旧政権の打倒ということになって現われるわけでございます。封建的な旧政権と申しますと、端的に言えば王朝、この前イラククーデターで倒れましたイラクハシミテ王朝、現在のフセイン王朝である同じくハシミテ王朝、こういう王朝をさすわけでございますが、この王朝は完全に封建主義的な、しかも大地主的な、政治的にも経済的にも集権的な形態をとっておりまして、これが端的に言いますれば、政治権力を独断し、今さっき申し上げましたように、極端に少い可耕地の大部分を王朝あるいはそれを取り巻く非常に少数の地主によって壟断しておる。要するに旧政権、すなわち政治及び経済壟断者、すなわち封建的な完全に民衆と離れた政権というようなのが実情でございまして、これを打倒というのが必然的にアラブナショナリズム一つの面、一つ方向になってくるわけでございます。従いましてその現われとしましてできたのが現在のちょうど七月十四日に起きましたイラククーデター、これは実はわれわれは全然思いもかけぬ不意の出来事だったわけでございますが、それのクーデターによって倒れましたファイサル国王を元首とするイラクハシミテ王朝よりも、なおわれわれとしましては、ヨルダンフセイン――現在のフセイン王、これもやはりハシミテ家からなっておる王朝でございますが、フセイン王朝の方がずっと危ないというふうに考えておりましたが、それが逆になりましたけれども、それは別としまして、このアラブナショナリズムというのは、一方においては現政権、即封建的な政権の転覆を目ざしておる。転覆するという傾向を、第一目標ではなくても、必然的に表わしておるということが、また一つ特徴となっております。日本明治維新とはその意味において違うのであります。明治維新におきましては、直接には徳川幕府の転覆ではあっても、王政復古という形になって現われた。王政自体あるいは王政によって代表される封建的な大地主の勢力を全部ぶっつぶしてしまうという形をとっておる。このくらいがアラブナショナリズムの……。  それからもう一つアラブナショナリズムは、今さっき申し上げましたように、反西欧、その結果、反射的にソ連の方に親近感を覚えておるということです。これは国際政治上では非常に大きなファクターでございまして、と言いましても、この地域アラブ人自体共産主義だとはどうしても考えられません。これはむしろ全然無学文盲の、ただイスラム教の教義によってアラーの神を信じておる宗教――非常に堕落してはおりましょうけれども、宗教心の強い民族でございまして、共産主義といったようなものとは大体相いれない性向を持っておるはずでございます。非常に貧困だという面からは、あるいは共産主義と共通の広場を持ち得るかもしれませんが、宗教心が非常に強い、宗教生活の大部分だという点からしますと。こうも考えられる。だから、アラブ民族自体が決して共産主義的だとは言えないと思います。アラブナショナリズム方向としましては、英米からの離脱、英米仏支配の排除、従ってそれは反植民地であると同時に、反西欧主義はすなわち親ソ主義につながるわけでございます、反射的に。これは絶対意識的ではないと思いますが、反射的にそういうことになるのではないかと思います。  この三つくらいの特徴アラブナショナリズムのおもなる特徴ではないか。  それから次には、経済的な面から申しまして、今さっき申し上げました、この地帯が地文的に申しまして戦略上の要衝であると御説明申し上げましたが、と同時に、それは経済的な意味におきましても、一つの大きな、世界政治影響を及ぼすような特徴を持っておるということは、よくおわかりの石油でございます。この地帯石油埋蔵量というものは、去年の資料でございますが、一九五七年の調査によりますと、大体百六十億トン、世界の大体七〇%近くだと言われておるようですが、七〇%近くはここに埋蔵されておると言われます。それから生産最も、これはちょっと古うございますけれども、スエズ問題の起きます一九五五年だったと思いますが、一九五五年のあれで一億六千万トン、世界生産のちょうど二三・四%でございますが、というような潜在的な埋蔵量と現実の生産量を持っておりまして、従って欧州の、欧州といいましても特に英国イタリアフランス、西独は若干違うわけでありますが、英国イタリアフランス、この英仏以南欧州でございますが、この石油消費量過半数は、ほとんど八〇%までくらいじゃないかと思われますが、おしなべて申し上げまして、過半数まではこの中東の石油に依存しておる、こういうふうな状況のために経済的な観点から申し上げましても、この中近東というのは国際政治に非常に大きな原動力たり得る一つの特長を持っておる。アラブナショナリズムの次にはこの石油というファクターでございます。  その次には、今度はこの地域内におけるもろもろの対立あるいは反目でございます。このアラブナショナリズムと申し上げますから、アラブの間では全然反目あるいは対立がほとんどないかと申し上げますと、決してそうではないところにこの中東問題の複雑性がございますし、さらに中近東地方にはさっき申し上げましたように、全体が一億二千万以上の人民がいるうち、アラブ人は四千五百万程度と申し上げましたのですが、従ってアラブ人と非アラブ人の間、それからアラブ人間自体におきまして非常な利害の不一致、反目闘争というのがあるわけでございまして、まず要するにこの地域自体地域内の反目闘争、これがまたこの地方の大きな特色になっております。まず大きく申し上げますと、トルコが、さっき申し上げましたように、アラブ地帯のほとんど全部を十六世紀から十九世紀あるいは二十世紀の初めまで領有していたということは、トルコに対する非常な反感と、反目があるということでございます。それから次には、アラブ民族内だけを見ましても、さっき申し上げました新興のアラブナショナリズムをとっておるエジプトと、旧封建的な支配性をとっております王朝諸国との間には、根本的な反目があるわけでございます。また従って、たとえばエジプトと、今はつぶれましたけれどもイラクヨルダン、サウジアラビア、あるいはイエーメン、こういう国との間には、少くとも旧政権である王朝を相手とする限りにおいては、そこに利害がどうしても一致しない一線があるわけでございます。そういうふうないわゆるアラブナショナリズム民主主義革命を、ブルジョア民主主義的な革命を一応経た国と、まだ経ない旧封建的な支配体系をとっておる国々との摩擦、これが現在においては非常によく現われておる、イラク革命までは非常にはっきりした形で現われたわけでございますが、一方においてエジプトシリアを結びますアラブ連合、これに対抗いたしましてイラクヨルダンを結びますアラブ連邦ハシミテ王朝を中心としますアラブ王朝、そういうものの対立が非常にはっきり現われていたのでありますが、それからこの二つの利害対立がそのまま国際政治すなわち今の東西両国間の冷戦につながっておる。要するにアラブ間の反目というのは、現在の大国間の冷戦といいますか、国際政治の様相を反映して、それがまたさらに反射しまして、お互いの交互作用によって、小さいものでも大きく取り上げられ、大きく国際政治に反映するというふうな形をとっておるのが現状でございますが、こういうことで地域内におきましても、同じ民族間、それから違う民族間、それからもう一つは今さっきもちょっと申し上げましたイスラエルアラブ民族の間、これも異民族といえばいえないこともありませんが、イスラエルアラブ民族間、この三つの間におきまして非常な反目利害の衝突がある。ことにイスラエルアラブ諸国反目闘争というものは、これは多分ここ暫くの間では解決不可能ではないか。従ってこの地方中近東地方国際政治の将来の非常なガンだといわれているようで、第二のバルカンだといわれておりますが、第二のバルカンだといわれる一つの理由には、このイスラエル問題が伏在しておるということになるのではないかと思います。大体この地方の潜在的な基本的状況としましては、以上のことを申し上げておきます。  つめて申し上げますと、地文的な特徴としましては、非常にアラブ民族が主体であるが、そのほかに非アラブ民族がその約二倍に近いほど住まっておる地域であって、それから熱帯的な気候、風土と、従って人民一般に熱帯的な気性を有しておる、と同時に地理的に申し上げまして、世界における交通上の一つ要衝及び戦略上の要衝を占めておるということ。次に人文的に申し上げます。これを長い間つちかわれた、従って歴史上必然の勢いとして勃興してきたアラブナショナリズムが今燎原の火のごとく燃えさかっておる、アラブナショナリズム状況はまあ詳しくは申し上げませんが、さっき説明した通りでありまして、アラブナショナリズム一つ。それに経済的な場面におきまして、これが世界的な石油の宝庫であるということが一つ。それから次にはこの地域内の利害対立があまりにも激烈だ、その最も代表的なものにイスラエルの問題がある、もちろんバグダッド条約問題と、今はイラクが没落しましたけれども、バグダッド条約地帯であるトルコイラク、イラン、パキスタンのこのバグダッド条約諸国と、それからナセルを中心としまする積極中立主義との対立その他もございますが、これは本質的なものじゃないと考えましても、なお、本質的なものにはイスラエル問題、イスラエル民族アラブ民族の千何百年来の抜き得ない反目、反感という対立状況が、現在非常な切迫した形においてここに再現されておる、大体大きく言いまして、このくらいの特徴ではないかと思います。  次に、最近の状況を申し上げます。これは最近非常に、事件別に申し上げますと、大きくわれわれの目に映りましたのは、一九五二年にエジプト革命が起きまして、それからでございますが、さっき申し上げましたように、アラブナショナリズムがまずエジプト革命という形において具体的に現われて参りましたのが一九五二年のエジプト革命でございますが、その後そのアラブナショナリズムというのがわれわれの目に、すなわち国際政治の上に大きく映り出してきたというわけでございまして、これが一九五二年。それでその次に現われましたのがアラブナショナリズムに対する防衛組織としてこれが冷戦の激化、冷戦対策に悩む英米の政策に反映しまして、その結果現われましたのが今さっき申し上げましたバグダッド条約だと、これは一九五五年でございます。要するにナセルが台頭しまして非常な勢いでアラブナショナリズムの口火を切った、これが反西欧主義、反植民主義。で、彼らはこれを積極中立主義と呼んでいることは御存じの通りだと思います。積極主義という形をもちまして盛んに国内施策及びアラブ諸国に対する宣伝工作をやり始めた。宣伝工作だけではありません。実際において相当の物質的な工作もやっておるようでございますが、従って、これが、このナショナリズムに対して自衛の立場自体がありますと同時に、全世界の面におきまする冷戦対策の関係におきまして、英米はこれに対抗するこの地域における戦略上の要衝、この地域においてアラブナショナリズムに対抗する一つの力、一つのブロックというものを必要としたわけでございます。その現われが、いろいろ経緯はございます、中近東防衛司令部案といったようなものを経まして、英国が中心となりましてその結果現われたのがバグダッド条約、一九五五年にいろいろな経緯を経てそのバグダッド条約に落ちつきました。従いまして、ここに一方においては西における北大西洋条約、束におけるSEATOといいますか、南太平洋防衛条約機構、これとつながる一連の西欧国間の対ソ包囲陣を形成しておりますバグダッド条約ができたわけでございますが、このバグダッド条約は、世界政治におきましてソ連に対する包囲陣であると同時に、そのころ非常に先行きを不安がられておった、これは本質上当然のことでありますが、不安がられておったナセルのアラブナショナリズムに対する一つの牽制、一つのカウンター・パワーといいますか、一つの反対勢力としての意義をそこに持っているわけであります。これに参加しましたのはアラブ国家のうちではイラクだけでございます。アラブ国家はこれは申し忘れましたけれども、一八九五年にできましたアラブ民族委員会から発展しまして一九四五年にはエジプトの唱道によりましてアラブ連盟なるものを作りまして、これはできればアラブ連合、連盟よりももう少し強力な合体組織にしたいというエジプトの腹だったのでございますが、各国の思惑がさっき申し上げましたアラブ諸国間の利害によってなかなか一致しなかったために、結局非常にルーズなアラブ連盟案に落ちつきました。従ってアラブ連盟という形におきましてアラブ全体の意思の統一をはかり、利益の調整、政策の調整をはかっておった。だからイラクも当然アラブ連盟と、ことにこのアラブ連盟はイスラエル問題につきましては完全な同一歩調を調整し得たわけでございます、そのアラブ諸国間における。ところがほかの面におきましては、アラブ諸国間の利害が決して一致しなかったために、いろいろむずかしかったのでございますが、それの現われとして起ったのがイラクアラブ連盟の方針に反しまして、アラブナショナリズム一つのまあ仮想敵というのは語弊がありましょうけれども、一つの目標としておりますバグダッド条約に入った。俗な言葉で言えば敵陣営にイラクが入ったということによって、このアラブ諸国間の連繋がさらにくずれていったわけでございます。これが一方におきましてはバグダッド条約機構自体の弱みであったと同時に、一方におきましてはアラブ連盟の悩みでもあったわけです。今度七月の十四日の革命によりましてイラクが事実上、まだ正式の手続はとっておりませんが、事実上バグダッド条約から脱落しましたために、バグダッド条約自体は一面においては非常な弱みをそこに持たされたわけでございます。と同時に一面におきましては非常な強みを持ち得た。というのは非アラブ諸国間の条約、バグダッド条約、四カ国のうちのトルコパキスタンとイランは非アラブ諸国でございます。その中にただ一国だけアラブ諸国であるイラクが入っていたということにおいて、アラブ諸国、ことにエジプトを中心とするアラブナショナリズムの諸国といつもデリケートな関係にあったのが、今度イラクが脱落したために、かえって反射的に団結が強化されたという面もあるかと思います。それがいずれにしましても一九五五年にバグダッド条約ができた。ここで冷戦の形が、アラブナショナリズムと関連を持ちながら非常にはっきりした形で、世界政治の冷戦の形がここに現われて来たという意味において、これは非常に重要だと、こういうふうに考えられるわけでございます。次いでこのころからナセルの積極中立政策の指向といいますか、動向といいますか、こういうのがだんだん露骨に現われて来た。積極中立主義といいますと、これは必ずしもその正確な意味はつかみにくいのでございますが、いわゆる中立主義、消極的に大国の間におって、どちらにも加担しないという消極的な意味ではなくて、積極中立主義と申し上げますと、彼らの言うところをいろいろ考えてみますと、大国間の間におきまして、勿論自分はどちらにも加担しないが、しかし、それと同時に半面におきましては、両方に積極的に自分の中立という範囲を侵さぬ限りでは、両方と積極的に関係を密にしていく、あるいは両方積極的に利用していくという意味らしいのでございまして、このナセルの積極中立主義なるものは、一九五五年バグダッド条約がちょうどできる前後から非常に端的にはっきりした形をとって現われて参りました。というのは、これがソ連との接近といいますか、接近といいましてもほんとうの意味の接近ではなくて、ソ連を利用する反英米、反植民地という意味におきまして、あるいはエジプトにおける革命の善後策のための手段としましての対ソ接近というのが非常に強く現われて参ったのであります。これがまだ皆様方の御記憶に新しいと思いますが、一九五五年九月のチェコスロバキアとエジプトの武器購入協定となって現われたわけであります。これは非常に大きな英米に対する衝撃でありまして、それ以後英米のナセルに対する考え方、やり方というものは相当急角度に変ってきた、今まではそれほどナセルを危険視し、あるいは敵対視していたとは考えられないのでありますが、ナセルといいますか、アラブナショナリズム……、ところが一九五五年九月に現われた、その前から経緯はありますけれども、現われましたエジプトとチェコの間の武器購入協定によりまして、これによってナセルが必要あらばいつでもソ連と取引きするぞと、これはナセルから言えば当然のことであります。積極中立主義の当然の帰結でありますが、こういうものが現実に現われて、必要とあらばソ連と手を組んで、英米にいつでも向うという意欲が、そこにはっきり非常に端的に現われてきたために、英米としては非常にあわてたわけであります。従って一方におきましては、バグダッド条約ができ、一方においてはナセルとしましては、できたからと言うかもしれませんが、エジプトの対ソ連圏接近、対ソ連圏親交が非常に急速に進んでくるという情勢になったわけであります。これが一九五五年の終りごろの情勢でございます。  その情勢のまま年が明けまして、一九五六年になりましたが、ちょうどそのころ第一のこの情勢を反映した事件として現われましたのが一九五六年、おととしでありますが、おととしの英米それから世界銀行によるエジプトのハイ・アスワン・ダムの援助申し入れ撤回ということになって現われてきたわけであります。もちろんこのハイ・アスワン・ダム、これは日本なども向うからいろいろアプローチされたわけでありますが、ハイ・アスワン・ダムの交渉は一九五五年前から行われておりました。初めはドイツ、フランスなどそれから逐次ドイツ、フランスだけでは手に負えないということがわかりまして、英米、主として米、それから世界銀行というのを相手として交渉が進められておりましたけれども、こういう一九五五年の終り方から続きましたエジプトの親ソ、ソ連を積極的に利用するという意図が如実に現われてきた、一方においてはバグダッド条約において西欧側の戦略態勢並びに、と同時にアラブナショナリズム、すなわちナセルに対する態勢が一応でき上ったという状況のまま、この状況の中において強く進められてきたこのアスワン・ダム計画に対する英米世界銀行の援助交渉というものが、結局この情勢に刺激されて失敗しました。それで英米がはっきり援助を断わったのが一九五六年の七月、これに断わられたナセルとしましては、このハイ・アスワン・ダムというのは、ナセル革命のあるいはナセルの終生の何といいますか、夢でございまして、あるいは革命の一番大きなにしきの御旗だっただけに、これをどうしても成就する必要と、もう一つ英米の冷たい仕打に対する仕返しという意味から、続いて七月の終り方にはスエズ運河国有化を宣言した。その前にちょっとナセルによるエジプトの中共の承認ということがございます。これは今ちょっと月は覚えありませんが、六月じゃなかったかと思いますが、これも英米を非常に刺激しました。ナセルの対ソ連圏接近工作の一つの現われであります。英米のナセルに対する態度が硬化した一つの原因として考えられるわけであります。で、このスエズの国有化問題につきまして、いよいよ危機というか、あるいは自分の足場が失われることに焦慮した英仏イスラエルを先頭としまして、その年の一九五六年の十月にエジプトに攻め入った。これは一方においてはナセル打倒と、それからスエズの奪回――ナセル打倒というのはアラブナショナリズムに対してこれをチェックしようということ、ナセルを打倒することによってアラブナショナリズムの非常に危険な部面を切開しようとする意図と、それから一つは逐次失われつつある英仏の利権の、あるいは足場の最後を確保する、それが、スエズでございますが、スエズを奪回するという目的に出たものだといわれておりますが、これの現われが一九五六年十月のスエズ紛争ということでございます。その結果はまだ記憶に新しいと思います。スエズ問題を経まして、まあそれに関連しては第二の問題として、例のスエズ運河の利用者団体の問題とか、いろいろ副次的な問題も起きましたが、世界政治の大きな面からいいますと、今言ったような格好をもって始まり、それで結果的にはアメリカが反対し、ソ連がおどかしをつけたために十日戦争といわれるような短かい戦争を経て英仏の敗退に終った。そうして英仏の権威の喪失、具体的には幾らも損しなかったと思いますが、権威の喪失に終ったわけでございます。これが一九五六年の終り方までの情勢であります。  続いてこの状況におきましてアメリカが今度は前面に出てきたわけであります。要するに英米とも世界の冷戦遂行上ナセルを中心としますアラブナショナリズムがソ連圏にあまり近づくこ乏は、これは非常に好ましくないところで、そいつを英仏は武力をもって中止あるいは取り静めようとしたわけですが、それに対してアメリカはとめ役に回った、ところが英仏の武力をもってこのナセルをチェックしようとした試みがみごと失敗しまして、それで英米としては何とかしなければナセルをますます増長させるというふうな状況になった。増長させるといいますと、ナセルがソ連圏と結んでその結びをさらに強めることによって中近東における英米の地盤を、戦略的な経済的な政治的なあらゆる地盤をさらに大きくゆるがすような形勢になってきた。この状況下におきまして、アメリカが去年一九五七年の一月に皆さんもよくまだ御記憶だと思いますが、アイゼンハワー・ドクトリン、アイク・ドクトリンを宣布したわけであります。要するに英仏がしくじって引き下ったために、今度はいやおうなしにアメリカが表面に立たされた。それでアイク・ドクトリンと申し上げますと、御存じの通りこの中近東諸国の中で、共産党の脅威にさらされ、共産党からの武力侵略を受けた場合には、その国の要請に従ってアメリカは武力をもってこれを援助する、と同時にそういうことが起きないように経済的な援助を与えるというやつです。援助資金は全部で二億ドル。で、これの結果がアラブ中近東諸国十八カ国のうち十カ国がこれに加入しております。ところがこれは一方におきましてそういうふうな中東諸国の賛意を集めたわけでありますが、他方におきましてはナセルを中心とするアラブ諸国のますます態度を硬化させまして、その硬化させた原因としまして、事例としましては、具体的に現われたのがナセルの……去年は具体的に現われましたのがヨルダンの親ナセル運動、反英仏運動、それに対するフセイン国王のクーデターというふうな状況になって現われたのでありますが、いずれにしましても、非常に短時間に非常に具体的な形をもって現われたということは特にございません。シリア問題――シリア問題とヨルダン問題、シリアにおけるソ連の進出の問題とヨルダンの問題となって現われてきたのであります。ことしになりまして、それがエジプトシリアの連合、すなわちアラブ連合、これに対抗する意味イラクヨルダンの連合、すなわちアラブ連邦という形になって現われました。だからこれがここにおきまして片や英米と、片やナセル、ナセルのバックにソ連がありという意味世界政治の冷戦の様相が一九五五年からずっと続くとしまして、若干の抑揚はありましたけれども、だんだん先鋭な形になって現われてきておる。これらの一つの現われと考えますのは、小さく言って一つの現われと考えますのは、レバノン事件でありまして、さらにイラクの事件であります。レバノンイラクの事件発生以後の情勢につきましては、これは皆様よく御存じだと思いますし、大体非常に詳しく新聞に載っておりますし、われわれとしてもあれ以上に突っ込んだ状況などを特に申し上げることもないと思いますが、問題はイラク革命と、レバノンは何とか落ちつきましたが、イラク革命によって英米戦略体制のバグダッド条約、すなわち英米世界的な対ソ戦略体制の一角がこわれたことによって、どういうふうに英米がこれの跡始末をつけていこうとするか、あるいは反射的にナセルの勢いが非常に上って、そいつをソ連がバックしているわけですが、これと英米がどういうふうに将来を対処していくか、要するにアラブナショナリズムをその代表であるナセルと英米がどういうふうに対処していくか、これが近い将来における、たとえば中近東問題の一番の大きな注目される流れではないかというふうに考えられます。さらに将来におきましてはそれよりも今さっき申し上げましたような、イスラエル問題と石油問題が結局中近東問題のキー・ポイントではないかと思われますけれども、それよりも前に、近い将来におきましては、今申しましたアラブナショナリズムにおいてのこれと世界政治的な東西冷戦の一つの施策としてのアラブナショナリズムとの関係において、英米それからソ連をバックとするナセルがどういうふうに対処していくか、ここに日本として何か果す役割がないかということがわれわれは、ここを考える場合の大きな目標になるのではないかというふうに今考えております。どうも長くなりまして……。
  4. 栗山良夫

    ○栗山良夫君 一つだけちょっと……。大体よくわかりましたが、問題はすでに政府もイラクを承認された、手続をとられたわけですが、その背景をなしている思想というものが、アラブナショナリズムというものがここまで進んでくれば、発展こそすれ決して後退せしめられるものではない、こういう一つの認識の上に立っておられると思いますが、そういう意味では、アラブナショナリズムというものは最後の目的を彼らが確立するまで進んでいくと、こう見てよろしいかどうかということが一つ。  それから第二点は、先ほど米英があの地域にある石油利権の確保のために非常に焦慮しているということを言われましたが、そういう工合にアラブナショナリズムがどんどんと進展していった場合に、果して米英が希望するように石油利権だけが米英側で確保されるかどうか、そういう問題の可能性の問題。  第三は、もし米英の希望するごとくに石油利権が確保し得ないような状態が起きたときは、そういうときは米英はどうするか。  この三点を、むずかしいですが……。
  5. 山津善衛

    説明員山津善衛君) 非常にむずかしいと思いますが、第一の問題につきましては、アラブナショナリズム――少くとも私の考えとしましては、このアラブナショナリズムというものは、これは歴史的な必然性でございまして、これをとめようとしても、むだな、流れにさおをさすものだ、これをむしろ助長――世界政治的な意味において助長指導することを考えなければいかぬだろう、だから米英はこれと対抗するのではなくて、これを決して有害ならしめないような意味で打つ手があるのではないか、そこまでは英米も同じ考えだとわれわれは承わっておりますが、それじゃどうするかの問題につきましては、ちょっと日本の、われわれの考え通りにはもちろんいっていないと思うのです。たとえば日本では英米レバノン及びヨルダン干渉は、あれはアラブナショナリズムとの妥協あるいは中近東の大局的な施策上、おもしろくなかったという態度をはっきり打ち出しておるようであります。私もそう思いますが、ところが英米は、おもしろくないけれども、やむにやまれぬ措置だったという線を打ち出しておりますから、だから方針は同じでも、要領上においては若干の相違がこれは免れないと思います。日本としましては、あくまでもそういうふうなナショナリズムに対抗するような、あるいはこいつの激流をあらぬ方向に向わせるような措置は、いかなる措置もなるべく差し控えて、むしろそれを既成事実として認め、それを善導しながら、その基礎の上において友好関係を打ちたてる。たとえば戦略上の観点、あるいは政治上の観点、あるいは経済上、今仰せられました石油利権などの話をつけていくということがいいのじゃないかと、これはもう非常に漠然たる言い方でございまして、わかりませんが、大体の考え方としましては、これにさからわないように、これを事実として認め、これを尊重することによって、あるいは同情して、その流れを正しく導くように考える。その上においてわれわれの利益とするところは事務ベースで考えていく。政治的に、あるいは軍事的な圧力とか考慮とかではなくて、ほんとうの、まあ普通に申し上げますコマーシャル・ベースといいますか、ギブ・アンド・テイクの普通の常識的なやりとりとして考えていくべきじゃなかろうか。  第二の点は、今も申し上げましたが、そうすることによって必ず英米と、今申し上げました、これは漠然たる施策、方針でございますが、その方針に則って施策していく限りにおいて 一番大きな利権石油でございますが、石油などについても、必ず英米アラブナショナリズムとの間に共通の広場が見出されるのではなかろうか。もし見出されなかったならば、これは私は世界大戦の原因にもなりかねないかと思いますが、しかしわれわれとしては見出されるではなかろうか、あるいは見出されることをあくまでも期待したい、むしろ見出されるはずだと言いたいのでございますが、そこまでは、ひとのことでございますから……。もし見出されないとすれば、これは大きな第三次大戦にもなりかねないのではないか。ですから、そういう意味におきまして、石油イスラエル問題が最後的には中近東で一番大きな問題じゃなかろうかと申し上げましたのは、そういう意味でございます。
  6. 栗山良夫

    ○栗山良夫君 今お答えいただいたのですが、もし石油利権が米英の好む方向と逆な方向に進めば、一体どうなんだということですから……。
  7. 前田久吉

    委員長前田久吉君) 通商局長から伺いますが、それが済んでから願います。  次に、中近東諸国とわが国との貿易の現状について、通産省当局から説明を願います。
  8. 松尾泰一郎

    説明員松尾泰一郎君) 簡単に御説明申し上げます。  実は中近東との貿易関係でありまするが、特に今回の動乱に関連いたしました地域中心といたしまして御説明申し上げたいと思いますが、中近東全体といたしまして、日本のこの地域に対します輸出は最近非常に順調に伸びて参っておったのであります。一昨年五六年は一億八百万ドル程度、昨年度五七年度は一億六千百万ドル程度、五八年度におきましてもさらに二、三千万ドル程度の増加を見込んでおったような状況であります。ただいまのところ、米軍がレバノンに進駐をした。それからイラク革命政府が樹立されたということでありまするが、レバノンとの貿易というものは比較的小さいのでありまして、昨年におきましてもわずか五百万ドル程度であります。御存じのような地域でありますので、貿易品の大部分が通過貿易になる商品であります。ところがあそこにああいう紛乱が起りましてから奥地との陸路が閉鎖されたようでありまして、従いまして通過貿易が今のところ停止しているように思われるのであります。従いまして、ベイルートの港には一時非常に滞貨が累増したようでありますが、その後、それから第三国向け等の輸出関係もありまして、だいぶんこの滞貨も減って参っておるようでありますが、しかしながらその周辺の地域といたしましては、それぞれの自分の港の拡充に努力をしているようでありまして、たとえばヨルダンはアカバ港の拡充を積極化しつつある。それからイラクはバスラ港の拡大を積極化しつつある。それからシリアもまたラタキア港を拡充して直接輸入しようというような傾向にありますので、ベイルートの通過貿易港としての地位は低下するのではないかと思いまするが、何分先ほども申しますように、レバノン全体に対しまする輸出が五百万ドル程度でありまするので、かりにそれが若干減りましても、その他の地域にそれぞれの国の出入り口の拡充によって転換されるならば、さしたる影響はないというふうに考えております。  それから次にイラクでございまするが、御存じのように、七月の十四日に新政府がいわゆる信用状夫開設の輸入はこれを取り消したのであります。今後はスターリング地域あるいは軟貨地域からの輸入はすべて個別ライセンス制にしたのであります。もちろんドル地域からの輸入については従来からも個別許可制であったのであります。まあそういう制度の改変はあったのでありますが、まだああいう事件のあとでございますので、今のところ為替取引が一応とまっております。その意味におきましては、新しい取引、貿易というものも停止いたしております。まあ中近東全体といたしましてもそうでありますが、イラクに対しましてはレバノンと違いまして若干日本の輸出も大きな地域でありまして、昨年の日本イラクへの輸出は二千五百四、五十万ドルになっておるのであります。中近東におきましてはかなりの大きな市場なんであります。そのうちの大部分が人絹織物、スフ織物を初めとする繊維がその九〇%を占めると言ってもいいのであります。従いまして、それに及ぼす影響いかんということになるのでありますが、いろいろ商社筋に現地から入っておる情報を総合してみますと、確かにLCの未開設の輸入契約につきましては一たんキャンセルをされたのでありますけれども、輸入のライセンスをあらためて申請をすればよろしいということのようでありまして、比較的簡単に再申請をいたしまするならば、ライセンスはとれるようであります。業界といたしましても、あまりこの問題は深刻には考えていないようであります。ちなみに、現在のところ、綿糸布関係におきましてLCの開設しているものと未開設のものと、約三分の一強がLC開設、三分の二弱が未開設、こういうような状況になっております。先ほど申しますように、輸入のライセンスが比較的簡単にとれるということで、今のところ楽観をいたしておるのであります。紛乱の直後でありまするので、若干のごたごたはやむを得ないかと思いまするが、まあ漸次国内の方も安定していくならば、さほどの影響はないのではないか。従いまして、昨年度ないし若干それ以上の輸出ができるのではないかというふうに考えておるのであります。  なお、これらの動乱によりまするいろいろ取引の若干の渋滞、あるいはもちろん一部キャンセルのものも参っておりまするが、それらのものにつきましては、輸出保険制度で大体カバーをいたしておるのであります。綿糸布、化繊織物につきましては、包括輸出保険になっておりまするので、それらの事故はだいぶん包括的にカバーをすることになっております。まだ今のところ、具体的にどの金額が実損になるというふうな報告その他参っておりませんが、組合等の報告によりましても、実損になるものはそう大した金額ではなかろう。しかし、これも元に復せられておりまするので、業界としては安心をしておるというふうな状況であります。繊維以外のものにつきまして若干個別保険をつけていないものもあるのでありまするが、それも金額は非常に少いのであります。従いまして、個別保険をつけていない繊維以外の商品について若干問題は出て参るかと思っておりまするが、全体としましてはこの紛乱に伴いましての影響はさほどのものではないというふうに考えております。漸次事態が平静になるに従いまして、再開の方向に出合うというふうに考えております。
  9. 栗山良夫

    ○栗山良夫君 私は中近東レバノンイラクはそれでいいのですがね。それの影響で対米とか、あるいは東南アジアとか、あるいは中共その他の方面の貿易に何らかの影響が実際に出ていやしないか。その点の説明を願いたいということで、一つお願いしていたのですがね。
  10. 佐藤健輔

    説明員(佐藤健輔君) 外務省経済局次長の佐藤でございます。  ただいま御質問の点につきましては、動乱が起りました直後に、在外公館に指令を出しまして調査いたしましたが、あの動乱が起りまして、二、三日のうちは多少ロンドンあるいはニューヨークにおきまして、行き先き懸念から多少経済界も動揺したようでございますが、その後に中近東情勢割合に平静になりましたために、ほとんど各国とも影響をこうむっておりません。従いまして、ただいま通商局長がお答え申し上げましたように、レバノン並びにイラクにおきましても、石黒公使及びべールートの河野公使の情報によりましても、割合に平静になっておりますので、別に御懸念のようなことは起っておりません。
  11. 栗山良夫

    ○栗山良夫君 アメリカとの関係は、これは別にディスカッスしなければいけないと思いますが、問題は、今も、紛争そのものの御説明を伺ったんですが、バックにある二つの勢力というものは、これは否定できないわけです。そういう意味で、日本が現在おかれている立場から考えて、共産圏貿易というか、その非常に近いソ連とか中共とか、そういうような方面について、私は、そんなに楽観はできないと思うのですがね。そこに貿易量の拡大をはかろうというのが一つの方針であったわけでしょう、政府としては。それは条件は非常に悪くなっているのじゃないかと思うのですがね。たとえば最近の中共の日本政府観についても、相当思い切ったやはり攻撃をしているのですね。過日花柳徳兵衛氏が帰って来られたときの話を伺いましても、少くとも中共は、この前までたくさん日本から各界から行きましたですね、そのときには、支那事変なり大東亜戦争のときにおける、中共が受けた日本の侵略戦争の被害ですね、そういうものの残っているのなんかなるべくふれないように目をそらせて案内をしていた。ところが今度は片っぱしからそれを指摘をして、これは日本がやったのだ。これは日本がやったのだというので説明をする。まるで態度が変っているというのですね。そういうことが連日にわたって行われておる。しかも人民日報からものすごい勢いで対日攻撃の新聞が売れているというのですね。従ってそういうことが東南アジアの華僑にもずっと影響してきている。そういう意味で、対米貿易が若干、総額において減りつつあることは否定できない。それから中共は、今、いけない。ソ連もあまり伸びない。東南アジアが期待できない、ということになれば、全体の貿易量というものは減らざるを得ない。そういうことに対する見通しというものは私ども一番聞きたいところなんですがね。それが、今、まだ、少し説明を伺わなかったわけです。どういうことなんでしょうかね。たような状況であります。ただいまのところ、米軍がレバノンに進駐をした。それからイラク革命政府が樹立されたということでありまするが、レバノンとの貿易というものは比較的小さいのでありまして、昨年におきましてもわずか五百万ドル程度であります。御存じのような地域でありますので、貿易品の大部分が通過貿易になる商品であります。ところがあそこにああいう紛乱が起りましてから奥地との陸路が閉鎖されたようでありまして、従いまして通過貿易が今のところ停止しているように思われるのであります。従いまして、ベイルートの港には一時非常に滞貨が累増したようでありますが、その後、それから第三国向け等の輸出関係もありまして、だいぶんこの滞貨も減って参っておるようでありますが、しかしながらその周辺の地域といたしましては、それぞれの自分の港の拡充に努力をしているようでありまして、たとえばヨルダンはアカバ港の拡充を積極化しつつある。それからイラクはバスラ港の拡大を積極化しつつある。それからシリアもまたラタキア港を拡充して直接輸入しようというような傾向にありますので、ベイルートの通過貿易港としての地位は低下するのではないかと思いまするが、何分先ほども申しますように、レバノン全体に対しまする輸出が五百万ドル程度でありまするので、かりにそれが若干減りましても、その他の地域にそれぞれの国の出入り口の拡充によって転換されるならば、さしたる影響はないというふうに考えております。  それから次にイラクでございまするが、御存じのように、七月の十四日に新政府がいわゆる信用状夫開設の輸入はこれを取り消したのであります。今後はスターリング地域あるいは軟貨地域からの輸入はすべて個別ライセンス制にしたのであります。もちろんドル地域からの輸入については従来からも個別許可制であったのであります。まあそういう制度の改変はあったのでありますが、まだああいう事件のあとでございますので、今のところ為替取引が一応とまっております。その意味におきましては、新しい取引、貿易というものも停止いたしております。まあ中近東全体といたしましてもそうでありますが、イラクに対しましてはレバノンと違いまして若干日本の輸出も大きな地域でありまして、昨年の日本イラクへの輸出は二千五百四、五十万ドルになっておるのであります。中近東におきましてはかなりの大きな市場なんであります。そのうちの大部分が人絹織物、スフ織物を初めとする繊維がその九〇%を占めると言ってもいいのであります。従いまして、それに及ぼす影響いかんということになるのでありますが、いろいろ商社筋に現地から入っておる情報を総合してみますと、確かにLCの未開設の輸入契約につきましては一たんキャンセルをされたのでありますけれども、輸入のライセンスをあらためて申請をすればよろしいということのようでありまして、比較的簡単に再申請をいたしまするならば、ライセンスはとれるようであります。業界といたしましても、あまりこの問題は深刻には考えていないようであります。ちなみに、現在のところ、綿糸布関係におきましてLCの開設しているものと未開設のものと、約三分の一強がLC開設、三分の二弱が未開設、こういうような状況になっております。先ほど申しますように、輸入のライセンスが比較的簡単にとれるということで、今のところ楽観をいたしておるのであります。紛乱の直後でありまするので、若干のごたごたはやむを得ないかと思いまするが、まあ漸次国内の方も安定していくならば、さほどの影響はないのではないか。従いまして、昨年度ないし若干それ以上の輸出ができるのではないかというふうに考えておるのであります。  なお、これらの動乱によりまするいろいろ取引の若干の渋滞、あるいはもちろん一部キャンセルのものも参っておりまするが、それらのものにつきましては、輸出保険制度で大体カバーをいたしておるのであります。綿糸布、化繊織物につきましては、包括輸出保険になっておりまするので、それらの事故はだいぶん包括的にカバーをすることになっております。まだ今のところ、具体的にどの金額が実損になるというふうな報告その他参っておりませんが、組合等の報告によりましても、実損になるものはそう大した金額ではなかろう。しかし、これも元に復せられておりまするので、業界としては安心をしておるというふうな状況であります。繊維以外のものにつきまして若干個別保険をつけていないものもあるのでありまするが、それも金額は非常に少いのであります。従いまして、個別保険をつけていない繊維以外の商品について若干問題は出て参るかと思っておりまするが、全体としましてはこの紛乱に伴いましての影響はさほどのものではないというふうに考えております。漸次事態が平静になるに従いまして、再開の方向に出合うというふうに考えております。
  12. 松尾泰一郎

    説明員松尾泰一郎君) どうも非常にむずかしいお尋ねで、満足なお答えができないと思いますが、この中東の動乱による影響というものは、   〔委員長退席、理事西川甚五郎君着席〕 いわゆる面接的な影響というものは、先ほど申し上げた通りでありまして、さほど深刻なものではない。もちろんキャンセルがあるとかあるいは為替取引が一時的に停止するとかいうことは、それだけ影響があるということはこれは事実でありますが、それと何千万、何億ということになって、えらく影響を及ぼす問題ではないということは申し上げた通りであります。  問題は、結局せんじ詰めて言いますと、先生の意図されるところは、そういう結果、三十一億五千万ドルの輸出目標が達成できないのではないか、それによる国内経済に及ぼす影響いかんということに、結局帰着するのではないかと思うのであります。繊維の、もちろん不況対策の問題も、今経済閣僚懇談会でいろいろ審議中でもございますが、これについて私、いろいろ通商局長としまして、あまり申し上げる能力もございません。中近東の動乱がすぐ今の繊維の不況に拍車をかけるという問題ではないわけでありまして、全般的な世界景気の不振の中におきまして、三十一億五千万ドルの達成が非常に困難になっているということが、この日本のいわゆる経済に及ぼす影響はかなりあるということではなかろうかと思います。それにつきましては、先ほども申しましたように、貿易計画の面につきまして、目下各省でいろいろ協議をいたしているのであります。先ほどもお尋ねがありました中共貿易が、今途絶しているということは、もう現に一億ドル程度の輸出を見込んでおった、それが全部じゃないにしましても、その七割、八割がないということは、それだけ三十一億五千万ドルに影響を持つことはこれは事実であります。ほかの地域へそれだけふえなければ、やはりそれだけ減るということは事実なんです。国別の輸出入の見通しというものは、非常に変動がありまして、なかなか当初予想したようにはいきません。予想よりも若干多く、ふえるところもありますし、予想よりも減るところもあって、なかなか当初の計画通りにいかないのでありますが、われわれ事務当局としては三十一億五千万ドルの目標の遂行はかなりむずかしい。むずかしいならば、どの程度の輸出が見込めるのかということで、今いろいろやっておる。非常な悲観論もあれば、ややまあこの辺のところではないかというふうな見通しもありますが、われわれといたしましては、国民経済全体に及ぼす問題でもありまするので、あらゆる輸出振興策をやりまして――やりましてと申しましても、これは政府だけで、あるいはわれわれの省だけでやれることではありません。国会の御協力を得なければならぬことでありますが、あらゆる輸出振興策を動員するとして、どの程度の減でとどまり得るかというようなことを今やっておる最中であります。  まあ振興策につきましても、御承知のように経済閣僚懇談会で今やっておるさなかであります、われわれといたしましては、できるだけその輸出目標の減少を少くとどめるということで、しからばどういう策が効果的かということで、今論議をしておる次第でありますので、もう少し御猶予を願いたいと思うのであります。若干忌憚なく言わしていただきますならば、たとえばオープン・アカウント制度の問題につきましても、通産省といたしましては、ある条件下において、ある地域についてオープン・アカウント制度というものはある程度存続が望ましいのではないか。こういう意見でありましても、先生もオープン・アカウントは大体反対のようでございますが、大蔵省にも相当反対があるし、なかなか各省議論し、またいろいろ御批判を伺うとなると、一省でいいと思いましたことでもなかなか遂行ができない場合も多々あるのであります。従いまして、まあ通産省の案としてはできておるわけでございます。今そのいろいろ各省でやっておる最中であります。もうしばらく御猶予を願いたい。
  13. 平林剛

    ○平林剛君 外務省の答えの前にもう一度端的にお尋ねするのですが、三十一億五千万ドルの輸出目標について、おそらく今後の国際情勢その他から判断をして、修正をしなければならぬことになるのではないか。そして政府も当初の目標については、中国貿易の途絶あるいは国際経済全般の悪化のために、これは目標を引き下げざるを得たかったということにお話が出てくるのではないか。そのときにこの中近東情勢影響いたしまして、なんということを、一つの理由として上げるほどの、現在はわが国の経済に与える実損というものはない、こういうふうに判断していいかどうかということを私は端的に聞いたわけです。将来、おそらく政府が貿易の状況についてわれわれに説明する場合に、中近東情勢の変化によりまして多少それがやはり減りました、という理由として上げるほどの実損には現在なっていないのか、先ほどの御説明程度でいいのかということを聞きたかったのです。今のお話しだと、これはそれほど取り上げて理由になるほどのものでなさそうですからけっこうでありますが、私の質問した要旨はそこにあった。
  14. 佐藤健輔

    説明員(佐藤健輔君) 御質問は、例のイラクの承認が、そういう経済問題を同時に頭に入れてやったのかという御質問だと思いますが、われわれといたしましては、日本経済を伸ばすためにでき得る限り各国と経済的な交流を促進したい、こう考えておるわけで、先ほど山津参事官からも御説明いたしましたように、イラクは国ができると同時に、従来の国際的な権利義務は全部継承する、また先ほど御質問のありましたように、石油問題につきましても、石油の開発利用、ハイプの通過、そういう点については従前通り全部権利義務を継承する。また輸出についても何ら阻害処置を講じないということを日本の在外公館を通じまして確言しておるのでございまして、こういうような状況から考えて、こういう経済的な問題も考えまして、――私の主管ではございませんが、イラクの承認をするというのが適当であると、こう考えたんだと思います。
  15. 栗山良夫

    ○栗山良夫君 僕は、この特別国会のときも、輸出貿易の問題はある程度議論しまして、政府も年頭の予想が若干減るんだ、二割くらい減るんだという話が率直にあったわけですから、そういう点はいいと思うのです。問題は、今、特別国会以後に出た新しい情勢としては、中近東の問題が一つあります。それからもう一つは、日本経済に一番ウェートの多いアメリカの不況ということが一つあるわけです。その二つの分析が十分でないとなかなか見通しも立たないし、誤まるおそれもある。で、私もう一点だけ伺っておきたいのは、中近東のこの問題が――外務省にお尋ねしなきゃいかぬわけですが、五大国の首脳会議がおそらく開かれるでしょう。開かれて中近東の紛争というものが、米英両軍の円満な撤退ですかね、そういうような格好で終末を告げて、なるほどそこに一つの新しい国が、性格の変った国家ができたわけですが、それはそれとして、中近東問題そのものが一応平静に返るかどうか、早急に返るか返らないかということが一つの見通しの問題だと思うのです。もし返らぬということであれば、五大国の首脳会議を開いたけれども、一向に話は押し問答で進まない。米英の駐兵はある程度長期にわたる、こういう見通しが立ったときには、何と申しましても、先ほどあなたのおっしゃった通りに、バックにある米英とソ連勢力というものは世界を動かしていくでしょう、あそこを中心にして。そのときに日本国際政治に参画している立場から、今のような方針で経済問題だけを分離して輸出貿易というものを考えることができるかどうかということが一つあるわけです。そこに、先ほど私が申し上げたような東南アジアとか共産圏の貿易、そういうものの見通しが少し甘くは過ぎないか、――甘くは過ぎないかというのは、平静に解決しない場合のことを前提として言って……。これは言葉が足りなかったのですが、こういうことが一つ、この問題をお聞かせ願いたい。  それから第二は、かりに中近東の問題が平静に解決した場合でも、今のアメリカの相当深刻な不況というものですね、これに密接な、打てば響くような関係を持つ日本経済は、そう簡単な、楽観な見通しは私はできないのじゃないかということを考える。たとえばこの間の、生産性本部から学者グループとしてアメリカへ行かれた有沢博士のお話を伺っても、アメリカ経済の支柱をなしている自動車工業は、デトロイトの三大メーカーというのは四割の操業しかしてないそうです。六割は休んでるそうです。労働者は六人に一人は首を切られている、失業保険をもらって生活している、そういう非常に深刻なときでありますから、そういう意味でほかの産業もおそらくそうでしょう。ですからアメリカ経済がそういうような状態であるということであれば、なかなか楽観を許さない。特別にアメリカが手を打てば別ですが、手を打つ情勢にあるのかどうか、ないとすれば大へんなことになる、そういう見通しに立ってあまり政府は静観主義ばかりとらぬで、この際われわれが理解し得るような、将来なるほどそういう状態である、よしにつけ悪しきにつけ私どもが理解し得るような見通しというものをいつ述べていただけるか、あなたがきょうここで述べてもらうというわけにいかないけれども、いつ、そういうことを述べていただけるか。これは私どもに述べていただくのではなくて、国民が期待しているのですから、そういうことなんです。今の三つの問題についてもう一ぺん、私二つの段階を分けてお尋ねしたのですが、伺いたい。
  16. 山津善衛

    説明員山津善衛君) 今お尋ねの件は非常にむずかしいと思いますが、私たちの見通しからいいますと、さっき申し上げました中近東の根本的な情勢から考えまして、たとえば五大国首脳会議、それが安保理事会のワク内であろうとなかろうと、これが開かれましても、中近東の根本的な解決策は見出せない、従って中近東のいつ国際紛争に発展するかもしれないような利害対立反目、そういうふうな根本事情は残りますから、将来いつでもある程度の国際的なもやもやといいますか、紛争はこれは覚悟しなければいけないのではないか。ただ問題は、それが日本にも直接に経済関係なり何なりを通じまして直接に影響を及ぼすほどの、だからこれを一面から申し上げますと、今度のレバノンの問題、イラク革命問題みたいに、いつ世界的な戦争あるいは中近東全般の局地と申しますか、戦争にまで発展するかと危ぶまれるほどの大きな問題に発展するかどうか、これが問題だと思いますが、今度五大国会議が開かれますれば、少くとも私の見方――これはまだ外務省全体の見方とは申し上げられぬと思いますが、私の見方としましては、ここ当分の間は非常に日本影響のある紛争は起きないのではないか、たとえばレバノンなどでも今度はシェハブ将軍が大統領に選挙されまして、一応今度の内乱は落ちつくと思いますが、しかし今度の内乱の落ちつくということは、米軍もこれはたぶん撤退しやすい情勢になります。そう長くなくて撤退するのではないかと思われますが、しかし米軍が撤退し新大統領がなったとしましても、レバノンの内乱を惹起しました国内及び国外の対立抗争というものは、依然として残るわけであります。しかしこれがふたたび内乱という形で勃発しましても、直接に日本関係のあるような形で、あるいは規模で、従っていつ、近東全体の動乱あるいは世界の動乱につながるような大きな形で勃発してくるものとは少くともここ数年の間は考えなくていいのではないか、その他の地域しかりであります。それからヨルダンの場合におきましては、レバノンの問題よりも法律的には解釈しやすい状況になっておりますが、政治的には、実体的にはレバノンよりも私はむずかしいと思います。といいますと、さっきもちょっと申し上げましたように英国軍が退き、撤兵しますと、いつ何どきあそこにクーデターないし革命が起きるかしれないというような状況が今でも続いております。従って英国軍はなかなか撤退しにくい、撤退すれば危い、だから英国軍はいつ撤退するかどうか、撤退したあとどうなるかという問題ですが、たとえ撤退しましても、あそこにクーデターが起りましても、その影響というものは、今度のイラクみたようにいつ世界戦争になるかもしれないという意味で心配する程度まで発展するかどうか、むしろイラクの場合は不意打ちでございましたけれども、レバノンの場合はむしろあそこの関係者あるいは世界関係者がアット・エニー・タイムに期待、これは非常に語弊のある言葉でございますけれども、期待したような状況下に起ったとすれば、それは非常に危険なものにならないのではないか。だから要約的に申しますと、中近東問題は、ここ相当長い間、世界の第二のバルカンという状況は続いていくと思います。しかし、それが世界戦争の危機にまで発展するような大きな規模のものは、今度五大国首脳会議その他で相当議論し合ったあとでは、近い将来には起きないのではなかろうかという大体の考え方であります。
  17. 松尾泰一郎

    説明員松尾泰一郎君) 対米輸出の見通しでございますが、先生御指摘のように、アメリカ景気の不振のこれは、影響のあることは、これはもうわれわれたしましては、日本経済を伸ばすためにでき得る限り各国と経済的な交流を促進したい、こう考えておるわけで、先ほど山津参事官からも御説明いたしましたように、イラクは国ができると同時に、従来の国際的な権利義務は全部継承する、また先ほど御質問のありましたように、石油問題につきましても、石油の開発利用、ハイプの通過、そういう点については従前通り全部権利義務を継承する。また輸出についても何ら阻害処置を講じないということを日本の在外公館を通じまして確言しておるのでございまして、こういうような状況から考えて、こういう経済的な問題も考えまして、――私の主管ではございませんが、イラクの承認をするというのが適当であると、こう考えたんだと思います。