○
説明員(
山津善衛君) それでは、大ざっぱに御説明申し上げます。
まず、地文的な
特徴でございますが、これは
中近東と申しましても、その地理的な
範囲というのは
一つも確定しておりません。
一般に考えられておるのは、北は
トルコから東は
パキスタンあるいは
アフガニスタン、西が大体
エジプト程度というのが普通のようでございます。だから、
中近東一
アフリカという場合には初めて
アフリカ諸国、ことに
アフリカの北の方にリビア、チュニジア、
モロッコ、こういう
アラブ圏に属する国がありますために、これを含めて、
中近東・
アフリカと言った場合には、地理的な
範囲は、東は
パキスタンあるいは
アフガニスタン、
外務省としては便宜上
アフガニスタンからと言っておりますが、
アフガニスタン、北は
トルコ、
地図の一番上になるわけでございます。西は
モロッコ、南はエチオピアのちょうど南端、
赤道のちょっと北になります。大体その
地域の
範囲を
中近東、正確に言えば
中近東・
アフリカ、俗には
中近東地方と呼んでいるようでございます。そこの地文的な
特徴としましては、大体の
人口としまして、全部で一億二千五百万前後ではないかと推定されております、その
地域内の
人口が。それからその
地域内の
面積としましては、大体六、七百万平方キロ・メートルではないか。
日本の約二十倍ないしは二十二、三倍ではないかということになっております。
それで、これが地文的なほかの
特徴としましては、
赤道に非常に近いことのために、
一般に
気候が非常にトロピカル、熱帯的であるということと、従って、
砂漠が九〇数%、九〇%以上を占めておる。逆に言いますれば、
肥沃地、
可耕地が徹底的に少い。たとえば、
エジプトのごときは大体四%以下となっておるようであります。
砂漠が九〇数%というふうな
割合を占めておりまして、
可耕地が極端に少い。それから雨量がまた極端に少い。従って
地域が非常に乾燥しておるという
特徴が
一般的に言いましてあげられますが、それが、あそこ、この
地方の
農業形態、あるいは大きく言いまして
産業形態を規定づけておるということになるわけでございます。
これを
国際政治上から見ますと、この
地図をごらんになっただけでもわかります
通りに、由来、東と西、北と南の
交通上の
要衝を占めております。それが最近の
情勢、最近と申しますか、第二次
大戦後におきましては、その
交通上の
要衝という面が
戦略の
要衝という面において強く現われ出した。第二次
大戦前ですと、
戦略上の
要衝という問題よりも、
交通上の
要衝、
英国が
インドを領しておりましたときにはインペリアル・ロード、
帝国道路のキー・ポイントを占めておったわけでございます。第二次
大戦になりましては、
交通上の
要衝という面もまだありますけれども、それよりも、今は
戦略上の
要衝、
英米、ことに
アメリカの
対ソ包囲陣の一環をになう重要な
地域であるという
意味の
戦略上の
要衝という
意味がむしろ強く浮き出されております。これが大体地文的な概況だと思います。
次に、人文的に見ますれば、これはいろいろな見方がございますが、まず、ここの
基礎情勢としまして
三つあるいは
四つの大きな
ファクターを考えられると思いますが、その第一は、普通
アラブ主義と言われております
アラブ・
ナショナリズムあるいは
汎アラビズム、この
一つの
思想動向、あるいは
動き、
運動というものは、少くとも現在の
中近東を代表する一番大きな
動きの
一つになっておるということでございます。
この
アラブ・
ナショナリズムについて若干申し上げますと、この
地域は今において大体一億二千五百万あるいは一億三千万、一億二千五百万
程度の
人口があると申し上げましたが、そのうちの大体四千五百万というのが
アラブだと考えられております。これも非常に判定のしにくい問題でございまして、どこまでを
アラブ人というか。
アラブ人がおもな国家の住民は全部
アラブ人というか。その他いろいろの問題がございまして、これもはっきりした数字ではありませんけれども、大体四千五百万、だからこの
地域の三分の一強が
アラビア人ということになるわけであります。この
アラビア人、その文化が普及しましたのは、御承知の
通り七
世紀から八
世紀にかけまして、
一等最初、
アラビア半島の
イエーメン、ここでございますが、
アラビア人の発詳の地はここだといわれております。それがずっと北東上しまして、それから七
世紀から八
世紀にかけましてモハメッドの
遠征と同時に、東は
インドの国境まで、西は
イベリア国境まで、スペインまでですが、いわゆる
サラセン文化として普及しまして、そのとき以来、
アラブの
生活空間といいますか、
生活圏が非常に大きく伸びまして、現在のところ、イランと
イラクの中間、
イラク以西、それから
シリア以南、それから
モロッコ以東というのがこの
アラブ民族といいますか、
アラブ民族の
居住空間になっております。
アラブ民族全体としましては、四千五百万でございますが、それがまだ
独立国家を形成していない。たとえばその代表的なものは
アルジェリアでございます。これは
フランスの
一つの県とまでいわれている
アルジェリア。それからこの、ちょうどこれは、ペルシャ湾でございまして、これは
アラビア海、この辺りにちょうど山下さんの
アラブ石油が利権を取りましたこの
クエート中立地帯。この
地域からずっとここに
独立国ではありますが、
英国の
保護領になっておって、従って
一般の
国際面ではほとんど現われない国が五つありまして、
土侯国といいますか、小さい
土侯国が五つありまして、こういうのを入れまして、入口は先申し上げた四千五百万、ただ、
独立国としましては、
地域的には
アルジェリアというような非常に膨大な
地域を除く
関係から、
独立国全体の
面積としてはずっと少くなっておりますが、
人口は、そういうふうな
地域は非常に稀薄でありますために、
独立国の
人口は
地域の減少に逆比例して相当多くなっておりまして、要するに
独立アラブ諸国の
人口は大体三千三百万といわれております。これは
アラブ民族といって、今この三千三百万ないし四千五百万の
民族は、非常に
純一性を保っておりまして、
純一性といいますか、
純粋性といいますか、
言葉が例のイスラムの教義である
コーランを標準としております。その中には
地域的に非常に分れております。拡がっております
関係上、
方言も
四つくらいの大きな特色のある
方言があることはありますが、しかしその
方言を克服して、
コーランの
言葉が
標準語になっております。その他
生活態度自体も大体似かよっております
関係上、ここには単一の
民族としての自覚がずっと前からつちかわれておったし、維持されておった。それが特に十六
世紀のころから
トルコ民族があの辺りをずっと――セルジューク・
トルコでございますが、征服してきて、その
トルコ民族の
羈絆を脱するための
共同闘争という形におきまして、この
アラブ民族的な
民族意識というのが新しい形でさらに植えつけられた。それが今度は前
世紀の終り、今
世紀の初めになりまして、
アラブ民族の
独立運動という形、それから次に第一次
大戦後におきましては、
イスラエルに対する――あそこに
ユダヤが建設いたしました
イスラエルに対する
共同防衛という
意味で、さらに
アラブ民族意識が統一され、強化されたという大体の傾向を踏んで現在に至っておりますが、これが
アラブ・
ナショナリズムとして
一つの形を現わして参りましたのは、ちょうど前
世紀の終りからでございまして、あるいは前
世紀の中間と言った方がいいかもしれません。ちょうど
トルコの
羈絆を脱するために、今言いました統一された
民族主義で
トルコに立ち向っていった。それが具体的な形をとりましたのは、一八九五年にパリに
アラブ民族委員会というのが結成されまして、これが各地の
アラブの
共同委員会の形をとって、これが中心となりまして、この
民族運動をかき立て、これを利用し、これを利用することによって、
トルコに対する謀叛といいますか、
離脱運動を指導していった。次いでこれが第一次
大戦になりまして、
英国が
マクマホン――当時カイロにおりました
高等弁務官の
マクマホンでございますが、
マクマホンが
アラブ圏の対
英協力、対
独参戦を要求するために、
英国政府の名におきまして戦後
アラブの統一を援助するという、
アラブの対
英協力の代償として
アラブの
民族統一を援助するという
約束をいたしました。それで
アラブの援助を取りつけたわけでございますが、と同時に
英国は当時の
外務大臣の
バルフォアが宣言いたしまして、
世界中の
ユダヤ人に対しまして対
英協力を要請すると同時に、もしこの要請にこたえて協力してくれれば、
ユダヤの祖先の上地――すなわち
パレスタインでございますが、今問題になっております
レバノンのちょっと下の
パレスタインに
ユダヤ人の建国を認めるという
約束を発しました。と同時に今度は
英仏ソビエト、その時はソ連じゃありません、
帝制ロシヤでありますが、この三国の間にまた
密約を結びまして、この
イラク、
シリア、
レバノンそれから今
イスラエル国になっております
パレスタイン、この
ベルト地帯を、この三国の間で……それから黒海でありますが、黒海の方を
ロシヤ、
あとの
地帯を
英仏だけで
委任統治にする、
勢力範囲にするという
密約を結んでおります。だからこの
三つの――
英国の
アラビア人に対する
マクマホンの
約束、それから
ユダヤに対する
バルフォア外相の
パルフォア宣言、もう
一つは、
英仏ロシヤできめました
勢力範囲分割の
密約によって、おのおの違った
密約をいたしました。このために第一次
大戦が済むと同時に、
英国あるいは
フランスとしましては、この
三つの
密約を同時に実現することは不可能だという
状況になりまして、そのときにもうすでに
中近東が第二の
バルカンになる面といいますか、原因はそのときに発生しておったということになるわけであります。いずれにいたしましても、そのときの
バルフォア宣言によりまして
ユダヤ人が一九二十年ごろから逐次帰って参りまして、これはちょうど二十年ごろから毎年約十万から十五万くらいのスピードで帰ってきてたと思いますが、
ユダヤ人が帰って来たことによりまして、
アラビアの
民族主義というのは、従来の
トルコに対するやつから今度は
ユダヤ人に対してほこ先を向け出した。御存じの
通りユダヤ人と
アラビア人というのは、ちょうど有史以来――有史以来というと少し語弊がございますが、ちょうどマホメッドが
遠征をやり出しました七
世紀ごろからの不倶戴天の敵に当っております。この
ユダヤ人が
アラブの真ん中に帰って来たということによりまして、
アラブ民族主義の
一つの新しい対象が現われて、と同時に
トルコの
羈絆を脱したわけでございますから、
トルコに対するものから
ユダヤに対するものに変ったと同時に、それは
英仏あるいはその
うしろの米であるとか――
英仏米に対する何といいますか、
闘争、反
英主義、今の
言葉でいえば反
西欧主義に変って行ったという経過を辿っております。
ところがこの
ユダヤ人問題というのは、もうすでに
ユダヤ人が毎年十万ないし十五万の勢いをもって流れ込んで来たし、
英国としましても、これを阻止することができない。
アメリカとしましても国内における
ユダヤ勢力に押されて、これをどうするということもできないままに、第二次
大戦を迎えた。従って
アラブ・
ナショナリズムの立場からいいますれば、
英米仏の
あと押しによって自分の敵である
ユダヤ国をどんどん建設を進めて行く。だから
ユダヤ討つべし、それを推進する
英仏はけしからぬという
意味の形で、第二次
大戦に入ったわけであります。第二次
大戦の間は、しばらくなりをひそめておりましたが、第二次
大戦後、この
ユダヤ問題と、その裏にある
ユダヤ問題を通じての
アメリカその他
英仏が利権を持っておりまして、特に
イラクに対する
英国の
委任統治、これは第一次
大戦後の
講和条約できめられたわけですが、それから
シリアに対する
フランスの
委任統治、
レバノンに対する
フランスの
委任統治、それから
パレスタインに対する
英国の
委任統治、それから
エジプトに対する
保護権、これは一九一四年ちょうど第一次
大戦が始まるときに
保護条約を結んでおります。こういった
西欧の桎梏、
支配から逃れるという
意味の反
西欧、反
英仏、それから
ユダヤを盛り立てるという
意味におきまして間接的な反
西欧あるいは反
英仏、これが第二次
大戦後の
アラブ・
ナショナリズムの指向、
方向として
特徴づけられるものであります。それがまず現われましたのが一九五一年に
エジプトが何といいましても、歴史的にいいまして、この
アラブ・
ナショナリズムの旗がしらを務めておりまして、それは
トルコの
支配をまず
エジプトが逃れておった――前
世紀の初めには逃れておりまして、従ってその地位からも
エジプトが
アラブ全体の
ナショナリズムを指導しておった。その
状況が第二次
大戦後にも現われて参りまして、一九五一年には
英風との駐兵に関する
条約、スエズに
英国が駐屯するという駐屯に関する
条約の破棄を宣言しております。それに次いでその反
英仏抗争の盛り上る騒然たるさなか一九五二年、まだ
世界の記憶に新しい
エジプトの
革命――
革命というよりも
クーデターが起ったわけであります。これがまず
アラブ・
ナショナリズムが具体的な形をとって
国際政治面に現われました最初の現象と考えられます一九五二年の
エジプト革命。その後の
革命の
方向その他は
あとで申し上げますが、
アラブ・
ナショナリズムというのは、大体そういうふうな経緯をとって現われてきた。
それからもう
一つアラブ・
ナショナリズムの
特徴としてお考え願いたいのは、これが非常に民度の低い
アラブ全体の
状況に対応しての
一つの
民族資本主義的な
革命であると考えられることでございます。だからまず国を独立させ、国を富ませ、民衆の
生活程度を向上させるという、何と言いますか、
割合に観念的な
言葉づかいをとりますと、
民族資本主義的な
革命、
民族ブルジョア的な
革命という形をとっておる、この
アラブ・
ナショナリズムが、ということでございます。といいますと、それは一面におきましては、その
地域全般にまだ残っております封建的な旧
政権の打倒ということになって現われるわけでございます。封建的な旧
政権と申しますと、端的に言えば
王朝、この前
イラクの
クーデターで倒れました
イラクの
ハシミテ王朝、現在の
フセインの
王朝である同じく
ハシミテ王朝、こういう
王朝をさすわけでございますが、この
王朝は完全に封建主義的な、しかも大地主的な、
政治的にも
経済的にも集権的な形態をとっておりまして、これが端的に言いますれば、
政治権力を独断し、今さっき申し上げましたように、極端に少い
可耕地の大部分を
王朝あるいはそれを取り巻く非常に少数の地主によって壟断しておる。要するに旧
政権、すなわち
政治及び
経済の
壟断者、すなわち封建的な完全に民衆と離れた
政権というようなのが実情でございまして、これを打倒というのが必然的に
アラブ・
ナショナリズムの
一つの面、
一つの
方向になってくるわけでございます。従いましてその現われとしましてできたのが現在のちょうど七月十四日に起きました
イラクの
クーデター、これは実はわれわれは全然思いもかけぬ不意の出来事だったわけでございますが、それの
クーデターによって倒れました
ファイサル国王を元首とする
イラクの
ハシミテ王朝よりも、なおわれわれとしましては、
ヨルダンの
フセイン――現在の
フセイン王、これもやはり
ハシミテ家からなっておる
王朝でございますが、
フセイン王朝の方がずっと危ないというふうに考えておりましたが、それが逆になりましたけれども、それは別としまして、この
アラブ・
ナショナリズムというのは、一方においては現
政権、即封建的な
政権の転覆を目ざしておる。転覆するという傾向を、第一目標ではなくても、必然的に表わしておるということが、また
一つの
特徴となっております。
日本の
明治維新とはその
意味において違うのであります。
明治維新におきましては、直接には
徳川幕府の転覆ではあっても、
王政復古という形になって現われた。
王政自体あるいは王政によって代表される封建的な大地主の
勢力を全部ぶっつぶしてしまうという形をとっておる。このくらいが
アラブ・
ナショナリズムの……。
それからもう
一つは
アラブ・
ナショナリズムは、今さっき申し上げましたように、反
西欧、その結果、反射的にソ連の方に
親近感を覚えておるということです。これは
国際政治上では非常に大きな
ファクターでございまして、と言いましても、この
地域、
アラブ人自体が
共産主義だとはどうしても考えられません。これはむしろ全然
無学文盲の、ただイスラム教の教義によってアラーの神を信じておる
宗教――非常に堕落してはおりましょうけれども、
宗教心の強い
民族でございまして、
共産主義といったようなものとは大体相いれない性向を持っておるはずでございます。非常に貧困だという面からは、あるいは
共産主義と共通の広場を持ち得るかもしれませんが、
宗教心が非常に強い、
宗教が
生活の大部分だという点からしますと。こうも考えられる。だから、
アラブ民族自体が決して
共産主義的だとは言えないと思います。
アラブ・
ナショナリズムの
方向としましては、
英米からの離脱、
英米仏の
支配の排除、従ってそれは反
植民地であると同時に、反
西欧主義はすなわち親
ソ主義につながるわけでございます、反射的に。これは絶対意識的ではないと思いますが、反射的にそういうことになるのではないかと思います。
この
三つくらいの
特徴が
アラブ・
ナショナリズムのおもなる
特徴ではないか。
それから次には、
経済的な面から申しまして、今さっき申し上げました、この
地帯が地文的に申しまして
戦略上の
要衝であると御説明申し上げましたが、と同時に、それは
経済的な
意味におきましても、
一つの大きな、
世界政治に
影響を及ぼすような
特徴を持っておるということは、よくおわかりの
石油でございます。この
地帯の
石油の
埋蔵量というものは、去年の資料でございますが、一九五七年の
調査によりますと、大体百六十億トン、
世界の大体七〇%近くだと言われておるようですが、七〇%近くはここに埋蔵されておると言われます。それから生産最も、これはちょっと古うございますけれども、スエズ問題の起きます一九五五年だったと思いますが、一九五五年のあれで一億六千万トン、
世界生産のちょうど二三・四%でございますが、というような潜在的な
埋蔵量と現実の
生産量を持っておりまして、従って
欧州の、
欧州といいましても特に
英国、
イタリア、
フランス、西独は若干違うわけでありますが、
英国、
イタリア、
フランス、この
英仏以南の
欧州でございますが、この
石油消費量の
過半数は、ほとんど八〇%までくらいじゃないかと思われますが、おしなべて申し上げまして、
過半数まではこの中東の
石油に依存しておる、こういうふうな
状況のために
経済的な観点から申し上げましても、この
中近東というのは
国際政治に非常に大きな原動力たり得る
一つの特長を持っておる。
アラブ・
ナショナリズムの次にはこの
石油という
ファクターでございます。
その次には、今度はこの
地域内におけるもろもろの
対立あるいは
反目でございます。この
アラブ・
ナショナリズムと申し上げますから、
アラブの間では全然
反目あるいは
対立がほとんどないかと申し上げますと、決してそうではないところにこの中東問題の
複雑性がございますし、さらに
中近東地方にはさっき申し上げましたように、全体が一億二千万以上の人民がいるうち、
アラブ人は四千五百万
程度と申し上げましたのですが、従って
アラブ人と非
アラブ人の間、それから
アラブ人間自体におきまして非常な
利害の不一致、
反目闘争というのがあるわけでございまして、まず要するにこの
地域自体の
地域内の
反目闘争、これがまたこの
地方の大きな特色になっております。まず大きく申し上げますと、
トルコが、さっき申し上げましたように、
アラブ地帯のほとんど全部を十六
世紀から十九
世紀あるいは二十
世紀の初めまで領有していたということは、
トルコに対する非常な反感と、
反目があるということでございます。それから次には、
アラブ民族内だけを見ましても、さっき申し上げました新興の
アラブ・
ナショナリズムをとっておる
エジプトと、旧封建的な
支配性をとっております
王朝諸国との間には、根本的な
反目があるわけでございます。また従って、たとえば
エジプトと、今はつぶれましたけれども
イラク、
ヨルダン、サウジ
アラビア、あるいは
イエーメン、こういう国との間には、少くとも旧
政権である
王朝を相手とする限りにおいては、そこに
利害がどうしても一致しない一線があるわけでございます。そういうふうないわゆる
アラブ・
ナショナリズムの
民主主義革命を、ブルジョア民主主義的な
革命を一応経た国と、まだ経ない旧封建的な
支配体系をとっておる国々との摩擦、これが現在においては非常によく現われておる、
イラクの
革命までは非常にはっきりした形で現われたわけでございますが、一方において
エジプト、
シリアを結びます
アラブ連合、これに対抗いたしまして
イラクと
ヨルダンを結びます
アラブ連邦、
ハシミテ王朝を中心とします
アラブ王朝、そういうものの
対立が非常にはっきり現われていたのでありますが、それからこの二つの
利害の
対立がそのまま
国際政治すなわち今の
東西両国間の冷戦につながっておる。要するに
アラブ間の
反目というのは、現在の大国間の冷戦といいますか、
国際政治の様相を反映して、それがまたさらに反射しまして、お互いの
交互作用によって、小さいものでも大きく取り上げられ、大きく
国際政治に反映するというふうな形をとっておるのが現状でございますが、こういうことで
地域内におきましても、同じ
民族間、それから違う
民族間、それからもう
一つは今さっきもちょっと申し上げました
イスラエルと
アラブ民族の間、これも異
民族といえばいえないこともありませんが、
イスラエルと
アラブの
民族間、この
三つの間におきまして非常な
反目、
利害の衝突がある。ことに
イスラエルと
アラブ諸国の
反目闘争というものは、これは多分ここ暫くの間では解決不可能ではないか。従ってこの
地方、
中近東地方が
国際政治の将来の非常なガンだといわれているようで、第二の
バルカンだといわれておりますが、第二の
バルカンだといわれる
一つの理由には、この
イスラエル問題が伏在しておるということになるのではないかと思います。大体この
地方の潜在的な
基本的状況としましては、以上のことを申し上げておきます。
つめて申し上げますと、地文的な
特徴としましては、非常に
アラブ民族が主体であるが、そのほかに非
アラブ民族がその約二倍に近いほど住まっておる
地域であって、それから熱帯的な
気候、風土と、従って
人民一般に熱帯的な気性を有しておる、と同時に地理的に申し上げまして、
世界における
交通上の
一つの
要衝及び
戦略上の
要衝を占めておるということ。次に人文的に申し上げます。これを長い間つちかわれた、従って歴史上必然の勢いとして勃興してきた
アラブ・
ナショナリズムが今燎原の火のごとく燃えさかっておる、
アラブ・
ナショナリズムの
状況はまあ詳しくは申し上げませんが、さっき説明した
通りでありまして、
アラブ・
ナショナリズムが
一つ。それに
経済的な場面におきまして、これが
世界的な
石油の宝庫であるということが
一つ。それから次にはこの
地域内の
利害の
対立があまりにも激烈だ、その最も代表的なものに
イスラエルの問題がある、もちろんバグダッド
条約問題と、今は
イラクが没落しましたけれども、バグダッド
条約地帯である
トルコ、
イラク、イラン、
パキスタンのこのバグダッド
条約諸国と、それからナセルを中心としまする積極中立主義との
対立その他もございますが、これは本質的なものじゃないと考えましても、なお、本質的なものには
イスラエル問題、
イスラエル民族対
アラブ民族の千何百年来の抜き得ない
反目、反感という
対立状況が、現在非常な切迫した形においてここに再現されておる、大体大きく言いまして、このくらいの
特徴ではないかと思います。
次に、最近の
状況を申し上げます。これは最近非常に、事件別に申し上げますと、大きくわれわれの目に映りましたのは、一九五二年に
エジプトに
革命が起きまして、それからでございますが、さっき申し上げましたように、
アラブ・
ナショナリズムがまず
エジプトの
革命という形において具体的に現われて参りましたのが一九五二年の
エジプト革命でございますが、その後その
アラブ・
ナショナリズムというのがわれわれの目に、すなわち
国際政治の上に大きく映り出してきたというわけでございまして、これが一九五二年。それでその次に現われましたのが
アラブ・
ナショナリズムに対する防衛組織としてこれが冷戦の激化、冷戦対策に悩む
英米の政策に反映しまして、その結果現われましたのが今さっき申し上げましたバグダッド
条約だと、これは一九五五年でございます。要するにナセルが台頭しまして非常な勢いで
アラブ・
ナショナリズムの口火を切った、これが反
西欧主義、反植民主義。で、彼らはこれを積極中立主義と呼んでいることは御存じの
通りだと思います。積極主義という形をもちまして盛んに国内施策及び
アラブ諸国に対する宣伝工作をやり始めた。宣伝工作だけではありません。実際において相当の物質的な工作もやっておるようでございますが、従って、これが、この
ナショナリズムに対して自衛の立場自体がありますと同時に、全
世界の面におきまする冷戦対策の
関係におきまして、
英米はこれに対抗するこの
地域における
戦略上の
要衝、この
地域において
アラブ・
ナショナリズムに対抗する
一つの力、
一つのブロックというものを必要としたわけでございます。その現われが、いろいろ経緯はございます、
中近東防衛司令部案といったようなものを経まして、
英国が中心となりましてその結果現われたのがバグダッド
条約、一九五五年にいろいろな経緯を経てそのバグダッド
条約に落ちつきました。従いまして、ここに一方においては西における北大西洋
条約、束におけるSEATOといいますか、南太平洋防衛
条約機構、これとつながる一連の
西欧国間の
対ソ包囲陣を形成しておりますバグダッド
条約ができたわけでございますが、このバグダッド
条約は、
世界政治におきましてソ連に対する包囲陣であると同時に、そのころ非常に先行きを不安がられておった、これは本質上当然のことでありますが、不安がられておったナセルの
アラブ・
ナショナリズムに対する
一つの牽制、
一つのカウンター・パワーといいますか、
一つの反対
勢力としての意義をそこに持っているわけであります。これに参加しましたのは
アラブ国家のうちでは
イラクだけでございます。
アラブ国家はこれは申し忘れましたけれども、一八九五年にできました
アラブ民族委員会から発展しまして一九四五年には
エジプトの唱道によりまして
アラブ連盟なるものを作りまして、これはできれば
アラブ連合、連盟よりももう少し強力な合体組織にしたいという
エジプトの腹だったのでございますが、各国の思惑がさっき申し上げました
アラブ諸国間の
利害によってなかなか一致しなかったために、結局非常にルーズな
アラブ連盟案に落ちつきました。従って
アラブ連盟という形におきまして
アラブ全体の意思の統一をはかり、利益の調整、政策の調整をはかっておった。だから
イラクも当然
アラブ連盟と、ことにこの
アラブ連盟は
イスラエル問題につきましては完全な同一歩調を調整し得たわけでございます、その
アラブ諸国間における。ところがほかの面におきましては、
アラブ諸国間の
利害が決して一致しなかったために、いろいろむずかしかったのでございますが、それの現われとして起ったのが
イラクが
アラブ連盟の方針に反しまして、
アラブ・
ナショナリズムの
一つのまあ仮想敵というのは語弊がありましょうけれども、
一つの目標としておりますバグダッド
条約に入った。俗な
言葉で言えば敵陣営に
イラクが入ったということによって、この
アラブ諸国間の連繋がさらにくずれていったわけでございます。これが一方におきましてはバグダッド
条約機構自体の弱みであったと同時に、一方におきましては
アラブ連盟の悩みでもあったわけです。今度七月の十四日の
革命によりまして
イラクが事実上、まだ正式の手続はとっておりませんが、事実上バグダッド
条約から脱落しましたために、バグダッド
条約自体は一面においては非常な弱みをそこに持たされたわけでございます。と同時に一面におきましては非常な強みを持ち得た。というのは非
アラブ諸国間の
条約、バグダッド
条約、四カ国のうちの
トルコと
パキスタンとイランは非
アラブ諸国でございます。その中にただ一国だけ
アラブ諸国である
イラクが入っていたということにおいて、
アラブ諸国、ことに
エジプトを中心とする
アラブ・
ナショナリズムの諸国といつもデリケートな
関係にあったのが、今度
イラクが脱落したために、かえって反射的に団結が強化されたという面もあるかと思います。それがいずれにしましても一九五五年にバグダッド
条約ができた。ここで冷戦の形が、
アラブ・
ナショナリズムと関連を持ちながら非常にはっきりした形で、
世界政治の冷戦の形がここに現われて来たという
意味において、これは非常に重要だと、こういうふうに考えられるわけでございます。次いでこのころからナセルの積極中立政策の指向といいますか、動向といいますか、こういうのがだんだん露骨に現われて来た。積極中立主義といいますと、これは必ずしもその正確な
意味はつかみにくいのでございますが、いわゆる中立主義、消極的に大国の間におって、どちらにも加担しないという消極的な
意味ではなくて、積極中立主義と申し上げますと、彼らの言うところをいろいろ考えてみますと、大国間の間におきまして、勿論自分はどちらにも加担しないが、しかし、それと同時に半面におきましては、両方に積極的に自分の中立という
範囲を侵さぬ限りでは、両方と積極的に
関係を密にしていく、あるいは両方積極的に利用していくという
意味らしいのでございまして、このナセルの積極中立主義なるものは、一九五五年バグダッド
条約がちょうどできる前後から非常に端的にはっきりした形をとって現われて参りました。というのは、これがソ連との接近といいますか、接近といいましてもほんとうの
意味の接近ではなくて、ソ連を利用する反
英米、反
植民地という
意味におきまして、あるいは
エジプトにおける
革命の善後策のための手段としましての対ソ接近というのが非常に強く現われて参ったのであります。これがまだ皆様方の御記憶に新しいと思いますが、一九五五年九月のチェコスロバキアと
エジプトの武器購入協定となって現われたわけであります。これは非常に大きな
英米に対する衝撃でありまして、それ以後
英米のナセルに対する考え方、やり方というものは相当急角度に変ってきた、今まではそれほどナセルを危険視し、あるいは敵対視していたとは考えられないのでありますが、ナセルといいますか、
アラブ・
ナショナリズム……、ところが一九五五年九月に現われた、その前から経緯はありますけれども、現われました
エジプトとチェコの間の武器購入協定によりまして、これによってナセルが必要あらばいつでもソ連と取引きするぞと、これはナセルから言えば当然のことであります。積極中立主義の当然の帰結でありますが、こういうものが現実に現われて、必要とあらばソ連と手を組んで、
英米にいつでも向うという意欲が、そこにはっきり非常に端的に現われてきたために、
英米としては非常にあわてたわけであります。従って一方におきましては、バグダッド
条約ができ、一方においてはナセルとしましては、できたからと言うかもしれませんが、
エジプトの対ソ連圏接近、対ソ連圏親交が非常に急速に進んでくるという
情勢になったわけであります。これが一九五五年の終りごろの
情勢でございます。
その
情勢のまま年が明けまして、一九五六年になりましたが、ちょうどそのころ第一のこの
情勢を反映した事件として現われましたのが一九五六年、おととしでありますが、おととしの
英米それから
世界銀行による
エジプトのハイ・アスワン・ダムの援助申し入れ撤回ということになって現われてきたわけであります。もちろんこのハイ・アスワン・ダム、これは
日本なども向うからいろいろアプローチされたわけでありますが、ハイ・アスワン・ダムの交渉は一九五五年前から行われておりました。初めはドイツ、
フランスなどそれから逐次ドイツ、
フランスだけでは手に負えないということがわかりまして、
英米、主として米、それから
世界銀行というのを相手として交渉が進められておりましたけれども、こういう一九五五年の終り方から続きました
エジプトの親ソ、ソ連を積極的に利用するという意図が如実に現われてきた、一方においてはバグダッド
条約において
西欧側の
戦略態勢並びに、と同時に
アラブ・
ナショナリズム、すなわちナセルに対する態勢が一応でき上ったという
状況のまま、この
状況の中において強く進められてきたこのアスワン・ダム計画に対する
英米、
世界銀行の援助交渉というものが、結局この
情勢に刺激されて失敗しました。それで
英米がはっきり援助を断わったのが一九五六年の七月、これに断わられたナセルとしましては、このハイ・アスワン・ダムというのは、ナセル
革命のあるいはナセルの終生の何といいますか、夢でございまして、あるいは
革命の一番大きなにしきの御旗だっただけに、これをどうしても成就する必要と、もう
一つは
英米の冷たい仕打に対する仕返しという
意味から、続いて七月の終り方にはスエズ運河国有化を宣言した。その前にちょっとナセルによる
エジプトの中共の承認ということがございます。これは今ちょっと月は覚えありませんが、六月じゃなかったかと思いますが、これも
英米を非常に刺激しました。ナセルの対ソ連圏接近工作の
一つの現われであります。
英米のナセルに対する態度が硬化した
一つの原因として考えられるわけであります。で、このスエズの国有化問題につきまして、いよいよ危機というか、あるいは自分の足場が失われることに焦慮した
英仏が
イスラエルを先頭としまして、その年の一九五六年の十月に
エジプトに攻め入った。これは一方においてはナセル打倒と、それからスエズの奪回――ナセル打倒というのは
アラブ・
ナショナリズムに対してこれをチェックしようということ、ナセルを打倒することによって
アラブ・
ナショナリズムの非常に危険な部面を切開しようとする意図と、それから
一つは逐次失われつつある
英仏の利権の、あるいは足場の最後を確保する、それが、スエズでございますが、スエズを奪回するという目的に出たものだといわれておりますが、これの現われが一九五六年十月のスエズ紛争ということでございます。その結果はまだ記憶に新しいと思います。スエズ問題を経まして、まあそれに関連しては第二の問題として、例のスエズ運河の利用者団体の問題とか、いろいろ副次的な問題も起きましたが、
世界政治の大きな面からいいますと、今言ったような格好をもって始まり、それで結果的には
アメリカが反対し、ソ連がおどかしをつけたために十日戦争といわれるような短かい戦争を経て
英仏の敗退に終った。そうして
英仏の権威の喪失、具体的には幾らも損しなかったと思いますが、権威の喪失に終ったわけでございます。これが一九五六年の終り方までの
情勢であります。
続いてこの
状況におきまして
アメリカが今度は前面に出てきたわけであります。要するに
英米とも
世界の冷戦遂行上ナセルを中心とします
アラブ・
ナショナリズムがソ連圏にあまり近づくこ乏は、これは非常に好ましくないところで、そいつを
英仏は武力をもって中止あるいは取り静めようとしたわけですが、それに対して
アメリカはとめ役に回った、ところが
英仏の武力をもってこのナセルをチェックしようとした試みがみごと失敗しまして、それで
英米としては何とかしなければナセルをますます増長させるというふうな
状況になった。増長させるといいますと、ナセルがソ連圏と結んでその結びをさらに強めることによって
中近東における
英米の地盤を、
戦略的な
経済的な
政治的なあらゆる地盤をさらに大きくゆるがすような形勢になってきた。この
状況下におきまして、
アメリカが去年一九五七年の一月に皆さんもよくまだ御記憶だと思いますが、アイゼンハワー・ドクトリン、アイク・ドクトリンを宣布したわけであります。要するに
英仏がしくじって引き下ったために、今度はいやおうなしに
アメリカが表面に立たされた。それでアイク・ドクトリンと申し上げますと、御存じの
通りこの
中近東諸国の中で、共産党の脅威にさらされ、共産党からの武力侵略を受けた場合には、その国の要請に従って
アメリカは武力をもってこれを援助する、と同時にそういうことが起きないように
経済的な援助を与えるというやつです。援助資金は全部で二億ドル。で、これの結果が
アラブ中近東諸国十八カ国のうち十カ国がこれに加入しております。ところがこれは一方におきましてそういうふうな中東諸国の賛意を集めたわけでありますが、他方におきましてはナセルを中心とする
アラブ諸国のますます態度を硬化させまして、その硬化させた原因としまして、事例としましては、具体的に現われたのがナセルの……去年は具体的に現われましたのが
ヨルダンの親ナセル
運動、反
英仏運動、それに対する
フセイン国王の
クーデターというふうな
状況になって現われたのでありますが、いずれにしましても、非常に短時間に非常に具体的な形をもって現われたということは特にございません。
シリア問題――
シリア問題と
ヨルダン問題、
シリアにおけるソ連の進出の問題と
ヨルダンの問題となって現われてきたのであります。ことしになりまして、それが
エジプト、
シリアの連合、すなわち
アラブ連合、これに対抗する
意味の
イラクと
ヨルダンの連合、すなわち
アラブ連邦という形になって現われました。だからこれがここにおきまして片や
英米と、片やナセル、ナセルのバックにソ連がありという
意味の
世界政治の冷戦の様相が一九五五年からずっと続くとしまして、若干の抑揚はありましたけれども、だんだん先鋭な形になって現われてきておる。これらの
一つの現われと考えますのは、小さく言って
一つの現われと考えますのは、
レバノン事件でありまして、さらに
イラクの事件であります。
レバノン、
イラクの事件発生以後の
情勢につきましては、これは皆様よく御存じだと思いますし、大体非常に詳しく新聞に載っておりますし、われわれとしてもあれ以上に突っ込んだ
状況などを特に申し上げることもないと思いますが、問題は
イラクの
革命と、
レバノンは何とか落ちつきましたが、
イラクの
革命によって
英米の
戦略体制のバグダッド
条約、すなわち
英米の
世界的な対ソ
戦略体制の一角がこわれたことによって、どういうふうに
英米がこれの跡始末をつけていこうとするか、あるいは反射的にナセルの勢いが非常に上って、そいつをソ連がバックしているわけですが、これと
英米がどういうふうに将来を対処していくか、要するに
アラブ・
ナショナリズムをその代表であるナセルと
英米がどういうふうに対処していくか、これが近い将来における、たとえば
中近東問題の一番の大きな注目される流れではないかというふうに考えられます。さらに将来におきましてはそれよりも今さっき申し上げましたような、
イスラエル問題と
石油問題が結局
中近東問題のキー・ポイントではないかと思われますけれども、それよりも前に、近い将来におきましては、今申しました
アラブ・
ナショナリズムにおいてのこれと
世界政治的な東西冷戦の
一つの施策としての
アラブ・
ナショナリズムとの
関係において、
英米それからソ連をバックとするナセルがどういうふうに対処していくか、ここに
日本として何か果す役割がないかということがわれわれは、ここを考える場合の大きな目標になるのではないかというふうに今考えております。どうも長くなりまして……。