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1958-09-26 第29回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十三年九月二十六日(金曜日)     午前十時四十八分開議  出席委員    委員長 田口長治郎君   理事 山下 春江君 理事 茜ケ久保重光君    理事 受田 新吉君 理事 戸叶 里子君       臼井 莊一君    河野 孝子君       田中 龍夫君    辻  政信君       細田 義安君    八木 徹雄君       大貫 大八君    角屋堅次郎君       金丸 徳重君  委員外出席者         外務事務官         (アジア局長) 板垣  修君         外務参事官   新關 欽哉君         厚生政務次官  池田 清志君         厚生事務官         (引揚援護局         長)      河野 鎮雄君         厚生事務官         (引揚援護局未         帰還調査部長) 吉田 元久君         参  考  人         (ソ連地区引揚         者)      後藤 耕作君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      林  出子君     ————————————— 八月十一日  委員山本正一君辞任につき、その補欠として本  名武君が議長の指名で委員に選任された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  参考人出頭要求に関する件  ソ連地区残留同胞引揚状況及び受入援護状況に  ついて、派遣委員より報告聴取  引揚者定着援護並びに留守家族援護状況につい  て、派遣委員より報告聴取  ソ連及び中共地区残留胞引揚に関する件      ————◇—————
  2. 田口長治郎

    田口委員長 これより会議を開きます。  海外胞引揚に関する件について調査を進めます。  本日は、特に本件に関し、去る七月十三日中共地区より引き揚げてこられた林出子君、実原喜久恵君、及び九月七日ソ連地区より引き揚げてこられた後藤耕作君、羽二生ハギ君に御出席を願っておりましたが、参考人として事情聴取するに御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 田口長治郎

    田口委員長 異議なきものと認め、さよう決定いたしました。
  4. 田口長治郎

    田口委員長 なお、参考人より事情聴取する前に、先般ソ連地区残留同胞引揚状況及び受け入れ援護状況調査のため、舞鶴に派遣いたしました委員より、その調査報告を求めることにいたします。臼井莊一君
  5. 臼井莊一

    臼井委員 これより、舞鶴に参りまして、ソ連地区よりの第十六次——これは樺太地区としては第五次でありますが、その引揚者状況及び受け入れ援護状況調査いたしました結果につきまして、その大要を簡単に御報告申し上げます。  今回派遣されました委員は、大貫委員及び私の両名であります。私たち派遣団は、白山丸入港の当日早期現地に到着し、直ちに舞鶴引揚援護局におもむき、白山丸入港までの間、局長より今次引き揚げ概況報告聴取し、続いて白山丸乗船し、白山丸船長に面会し、その労苦をねぎらうとともに、乗船代表外務省係官より引揚者状況等につき報告聴取した後、引揚者上陸を迎え、再び援護局に向い、乗船代表厚生省係官より樺太残留者状況等について報告聴取最後引揚者代表より、樺太生活状況等について座談的に話を伺った次第であります。  以下これらにつきまして御報告いたします。  これまでの引揚船はいずれも舞鶴東港に入港し、上陸は平桟橋を使用していたのでありますが、台風のために同桟橋専用タラップ船が沈没し、使用不可能のため舞鶴西港に入港し、第四岸壁に接岸、引き揚げ上陸を行なったのであります。  今次帰国いたしました引揚者は総員四百七十二名、そのうち一般邦人百名、外国人三百六十四名、抑留漁夫八名でありまして性別、年令別は、男子が十八才以上の者百二十七名、十八才以下の者百二十五名、計二百五十二名、女子は十八才以上の者が百一名、十八才以下の者百十九名、計二百二十名で、帰国者の半数以上の者が十八才以下の者であります。今次引揚者はいずれも樺太残留者で、シベリア等ソ連本土からの帰国者及び未復員者はございません。なお抑留漁夫は、樺太近海において出漁中、本年二月十日より六月二十日までの間に拿捕せられた漁船四隻の乗組員であります。  また乗船代表の話によりますれば、帰国予定者名簿四百五十四名中、帰国しなかった者が三十七名あり、これらの人たちは、旅費がないために残留することに変った者、それから死亡した者、夫が出かせぎ中等の理由による者で、帰国予定者名簿になく帰国した者が三十八名ありますが、これらの者は同一世帯の子供の追加による者、前回引揚船乗船予定の者がおくれて加わった者及び嘆願書組等であるとのことであります。  また今次引揚者の中には、朝鮮人世帯世帯、七名が日本人と称して現地帰国手続をとり、帰国いたしておりますが、乗船代表真岡乗船の際、日本人としての証拠がないとの理由乗船を拒否、ソ連側パスポート日本人となっていると主張し、結局日本側が折れて帰国いたしたのでありますが、不法入国の疑いがあるとのことでありました。  持ち帰り金米ドル総額一万三千五百十ドル、日本円は新円三百三十五円、旧円四千百三十三円であり、一世帯当り世帯主五十ドル、世帯員二十五ドル、最高制限額二百ドルに制限せられておりますが、平均して約百四十ドルとなっており、前回に比しかなり増加しております。他に持ち出し禁止となっておりますルーブル三万四千八百五十四ルーブルを持ち帰っており、荷物は船倉八百三十二個、手荷物百八十七個で一人平均約二個でありまして、持ち帰り金以外の余った金で時計、自転車、寝台等を購入し持ち帰った者もあり、荷物数前回に比し二割程度多いということであります。  引揚地点としては西柵円塔路恵須取、野田、真岡、本斗、内幌、敷香東柵円、知取、元泊、小田寒豊原大泊等東海岸、西海岸はもちろん、ほとんど南樺太全土にわたって帰国いたしております。なお、今次初めて帰国いたしました地点東海岸中央部の元泊、古群湾よりおのおの一名、旧国境付近の古屯二名、気屯三名であります。この地点よりの帰国により、旧国境付近事情が明確になりますので、調査すれば遺骨等もあるのではないかということであります。  引揚者落ちつき先につきましては一応十五都道府県となっており、定着地では北海道四十一世帯が多く、次いで東京大阪等となっております。ただ、今次引揚者朝鮮人世帯が多く、特に住宅あっせんを必要とする無縁故者が多いため、定着地に落ちつきましても就職しやすいとの理由東京大阪等の大都市を希望しており、北海道希望の多い理由は、気候、風土が樺太に似ているためで、農場や炭坑で働きたいという世帯であります。今後の受け入れ援護の問題は、無縁故者である朝鮮人世帯処理にあるということであります。  次に、今次引揚者の特色について申し上げますと、朝鮮国籍を有する世帯が目立って多く、日本人一人に対し朝鮮人三・七六人の割合になっていること、ソ連国籍に移った者は原則として帰国できなかったが、今回初めてソ連国籍を有する二世帯、九名がソ連出国許可を得て帰国したこと、受刑者で満刑になって帰国した者、ソ連人及び朝鮮人の夫と離婚して単身で帰国したこと、真岡出港の直前に、ソ連で友だちとともに勉強したいとの理由で残留した者等であります。  次に、樺太状況等について申し上げます。樺太現地通信によれば、ことしの十二月末か来年の二月ごろまでに、朝鮮国籍パスポートを所有する日本人残留者は、ソ連政府より、ソ連国籍もしくは北朝鮮国籍のいずれかに移すことを勧められている、ただし日本国籍の者はこの限りではないとあり、今次帰国者のうち大泊からの帰国者も、この旨警察に掲示しているとのことであります。これは残り少くなった樺太地区日本残留者を、ソ連側帰国希望者残留希望者とにはっきりと区別するための措置と思われ、帰国希望者朝鮮国籍パスポートを有する日本人日本国籍に移すべく、日本より戸籍謄本を取り寄せたり、ソ連側嘆願書を提出しているとのことでありますが、残留者中には、本籍、肉親等現住地も不明な者もあり、これらの日本人は憂慮しているということであります。かかる事情から、もし引き揚げがあるとすれば、ソ連国籍を持ったままで帰国する者もあるのではないかと推定される次第であります。  次に、引揚者代表の話を総合してみますると、樺太生活は五人世帯収入一ヵ月二千ルーブル、生活費千五百ルーブルで、苦しくはないが十分ではないこと、日本ラジオ放送なども聞いているので、日本事情は詳しいこと、引き揚げ通知等について、ソ連政府命令等下部機関まで周知徹底しないこと、残留者のうち帰国希望者より次の帰国の時期を知らせてほしいと依頼されたこと等であります。  最後に、今後の引き揚げ見通しについて申し上げます。乗船代表意見によれば、樺太地区には約六百人程度残留者があり、そのうち約二百人程度の者が帰国希望者であり、これらの帰国希望者ソ連政府嘆願書を提出しており、ソ連側において審査の上、整理のつき次第帰国させるのではないかということでありますが、今次小田寒よりの引揚者は、警察はことしの十二月末まで帰国希望者の受付をしていると言っており、また真岡からの引揚者も、当局は次の帰国を言明していると言っております。一方豊原地区の通訳は、今後引揚船は来ないかもしれないが、残留者のうち帰国希望者は、ソ連国籍パスポートを所持すれば日本へ自費で旅行できるから、日本へ旅行した際に、狸穴のソ連大使館日本国籍に移せばよいと言っており、今次の白山丸引き揚げは終ったと暗に言っておりますが、帰国者全体からの空気から見るとき、年内は無理でありますが、おそくとも来年の春ごろまでには次の引き揚げがあるのではないかと推定される次第であります。  以上簡単ではありますが、派遣委員を代表いたしまして調査報告を申し上げた次第であります。     —————————————
  6. 田口長治郎

    田口委員長 次に、引揚者定着援護状況並びに留守家族援護状況調査のため、東北地方に派遣せられました委員よりその調査報告を求めることにいたします。細田義安君。
  7. 細田義安

    細田委員 東北地方派遣委員受田、長谷川の御両名を代表いたしまして私から今回の引揚者定着援護状況及び留守家族援護状況調査のための東北三県の視察につきまして、特に問題となりました数点につきまして御報告をいたしたいと存じます。  第一は、引揚者住宅状況であります。青森県におきましては、引揚者集団収容施設大半は、戦時中またはそれ以前に建築されました倉庫とか物置等建物を補修改造いたしまして、転用したものであります。二十四年より二十六年にかけて国庫補助県費をもって応急整備を行い、その後これが補修費等国庫補助について、関係方面実情報告あるいは陳情を行いましたが、効果がありませんので、そのまま放置することもできず、二十八年、三十年度において県費をもって応急修理をいたしたものであります。われわれは青森市の引揚者集団施設視察いたしましたが、腐朽破損の度がはなはだしく、雨露をしのぐことさえ困難な個所もありまして、強風、地震等の際は倒壊するおそれのある個所もあり、採光、通風が悪く、湿地帯建築され、床下は水たまりのため腐朽程度がはなはだしく、まことに憂慮すべき状況であります。このうち補修改築を要するもののほかに、ほとんど補修不可能で疎開住宅建設を要するものがあり、また六カ所は私有地に建築されているため、数年前から立ちのきあるいは買収方を要請されている現状であります。現在国有財産青森市が管理中の共同収容施設は、大蔵省よりこれを譲渡する旨の話がありまするが、市当局説明によりますると、老朽のため補修修繕を要し、市の所有になりましてもこれを維持管理するのは現在より財政的負担を増しまするので、引き受けかねるということでございました。また財政面におきましては、火災保険政府責任賠償額として必ず加入しなければならないのでありますが、火災等によって焼失した場合は、保険金政府に納入されて、建物再建は市独自で行い、罹災者を収容しなければならないのでありまして、現に東岳荘という引揚寮がありますが、三十年十一月の火事において焼失いたしました際、火災保険金七十万円は国庫収入となり、市当局は国に対しこれを補助金として交付してもらうよう折衝を重ねましたが、政府当局は、終戦応急措置として引揚者を収容したのであるから、戦後十三年の今日、市独自で処置すべきであるとのことでありまして、結局他の施設を新築し、罹災者を収容するに五百万近くの市費を要したとのことでございます。市当局の要望としては、これら施設維持管理は容易ならぬ状態でありますので、できれば政府の全額の補助によりまして一般住宅といたしまして取扱いをしたい、あるいは簡易耐火構造の二階建住宅建設希望する等のいろいろの御意見がありました。  次に秋田県でございますが、前述しました青森県の収容施設と大差なく、建物老朽し、倒壊を防ぐため、ささえをしている状態であったのであります。  次に山形県でありまするが、山形県におきましては、終戦直後は工場とか寄宿舎、料理屋等の民家及び旧兵舎等集団収容施設として急ぎ転用し、その後疎開等を行なったものがありまするが、現在もなお定員の九〇%は、施設老朽にもかかわらずこれを利用している状況であります。また腐朽建物については疎開するよう特に勧告に努めましたが、現在の市町村におきましては、地方財政の窮乏によりまして、これが措置財源見通しがつかない。そのために、二十六年度以降十一施設疎開完了と、本年度施設疎開計画実施しておるにすぎません。残りの十九の施設につきましては、年々若干の補修費を投じて、ようやくこれが維持に努めておる状況であります。  山形市におきましては、三カ年計画引揚者集団収容疎開計画を作成いたしましてこれに基いて引揚者戦災者を主体とする収容者に、生活環境を改善して新たなる更生意欲を育成するため、これら老朽建物疎開し、昭和三十二年度において第二種住宅百一戸を建築しまして、引揚者を収容しておる状況でございます。また本年度におきましても、第二種木造住宅七十四戸を建築することに決定をしております。来年度におきましてもこれが建築計画中でありまするが、市当局では、できれば農地改廃の都合もありまするので、都市計画上の美観からも高層建築建設したいということでございました。われわれは、山形市の郊外にあるところの旧飛行場跡に建てられました独立の家屋視察いたしたのでありまするが、広々とした田園風景の中に敷地四十五坪、建坪九坪の家屋が立ち並び、これまでに見ました収容施設の中では最も恵まれた状態でありました。市当局としても、国庫補助金市債のほかに、年々百万円以上の市費を投じましてこれが目的達成に当っておりまして市当局のなみなみならぬ熱意を感じた次第であります。  概して引揚者収容施設につきましては、若干の例外を除きましてほとんど使用にたえぬ老朽施設で、六畳から十畳くらいの部屋に平均五人くらいの家族がかろうじて生活している状態でありましてこれらの施設につきましては、戦後十三年を経ましても一向に改善されておりません。これが補修改善はもちろんでありますが、でき得れば新たなる住宅を与えて、引揚者更生意欲を育成いたしますことが最も必要であるということを痛感したのでございます。  第二は、未帰還者及び留守家族状況であります。留守家族はおおむね一家の主人あるいは中堅層が未帰還者であるため、若干の例外を除いては、ほとんど辛うじて生計維持しておる人々が多いのであります。県当局においては、未帰還者処理を円滑ならしめるとともに、留守家族援護対策の万全を期するため、留守家族と密接なる連絡を行い、その意向を聴取し、留守家族との相談及び慰問に当っておりますが、今回の視察で特に問題となりましたのは、死亡推定処理のことであります。これにつきましては、さきに法案が提出されようとしたいきさつもありますが、県当局説明によりますと、戦後十三年を経過した今日、生死不明の肉親消息について心痛しつつも、最近においては家庭の事情、すなわち父母の老齢、財産処理、妻の再婚等理由により、死亡処理を申し出る者が多くなったということであります。死亡処理を望む者は、今日に至るもなお肉親消息が不明なので、この際なきものとあきらめて仏の供養をしたいとか、あるいは死亡処理をしてこの際まとまった金がほしいとか、そういう理由でありますが、なお個々留守家族の中には骨肉の情断ちがたく、どこかに生きていることを信じ、徹底的な調査希望するという人々もありまして、この問題の複雑さを物語っております。公務扶助料受給対象とならない軍人、軍属でない特別未帰還者がこの死亡推定を望んでいるという傾向も見られますが、これは別途考究すべき問題であり、個々留守家族のほんとうの気持を知ることが必要であると感じた次第であります。なおこれについては、希望者の申し出にするとか、来年度打ち切りを予定されております援護措置を延長するとかの方途を講ずることが必要ではないかと考えるのであります。  第三は、開拓及び入植状況であります。青森県におきましては、戦後の入植者引揚者復員者が大部分でありまして、このうち二、三割は離農し、入植者は一部を除いておおむね生計維持しております。秋田県におきましては、海外引揚者入植した者の総数は千三十八戸で、このうち離脱者は三百十六戸であります。離脱者の大部分は、社会経済事情の安定に伴いまして、過去において農業の経験のない者が逐次離農し、本来の仕事に帰ったのが実情であります。本県入植者は、その八割までは開拓営農振興臨時措置法による振興組合であります。その実情はきわめて楽観を許さないものがありますが、海外引揚者入植した者の営農状況はきわめて良好であり、一般開拓民の模範となっているとのことであります。しかし開拓民は、現在各種資金償還期に入っておりまして、主として陸稲栽培のため生産費が高くつき、なお大部分開拓者経営に苦難の道をたどっており、開拓者のうちでもなお生活保護を受けている者もある実情でありまして、農林省においても、これら資金償還延期等措置を考えることが必要ではないかと考える次第であります。山形県においては、満州開拓移民の先駆として選出人員も長野県に次ぎ、全国第二位となっておりまして終戦に伴って犠牲者が続出したところでありますが、満州開拓引揚者県外入植者もあり、これらの人々昭和二十一年より昭和二十五年度におおむね入植定着を完了し、県内開拓者よりは相当良好な建設が進められておるとのことでございます。引揚者山形県内入植状況定着率八二%となっておりまして、意欲も旺盛で、数地区を除き、開拓営農振興臨時措置による振興計画に発表された平均経営状況を上回っております。  第四は、更生資金運用状況等であります。青森県におきましては、本資金の総貸付金ワクは四千六百二十五万四千円であります。資金運用に当っては、当初一、二年は運営委員会を設けて実施しておりましたが、その後は更生資金交付条件取扱要領等に基きまして回収された償還金申請状況をにらみ合せまして、県が国民金融公庫の各代理店に割り当て実施しておりまして、最近は申し込みに対して五〇%の貸付ができるとのことでございました。秋田県におきましては、条例によりまして海外引揚者戦災者その他の生活困窮者に対しまして生活再建目的貸付する事業資金の適正なる貸付及び償還促進するために更生資金審査会が設けられまして市町村役場で受け付けられました申請福祉事務所及び金融公庫代理所調査し、双方の副申に基きまして、審査会が最終的な決定権を持っておるようであります。昭和二十七年度までに受け入れられたところの資金は四千八百十二万円でありましてこのうち国民金融公庫立てかえ資金償還分を除きまして、事実上回転しておるところの資金は三千六百六十五万七千円であります。本県におきましては、昭和三十三年度において貸付件数三十五件にすぎず、貸付金は余っておる状況でありまして県当局に対しまして、より多く利用されるよう配慮を要望した次第であります。山形県におきましては、交付金額は六千百二十三万一千六百円でありまして、貸付件数は一万二千五百件、累計額は一億三千七百六十万円余りでありまして回収実績は八千五百十一万六千円となっております。このうち利用者の内訳は、引揚者が六五%の多数を占めております。本県においては、新規借り入れ申し込みの需要を満たすため、県及び地方運営委員会が一体となりまして、要償還延滞貸付金回収に努力しておりまするが、なかなかに困難をきわめ、昭和三十二年度貸付は、借り入れ申し込みの五〇%に満たない状況でありますので、本年度資金回収に極力努力し、貸付資金の充実をはかりたいとのことでありました。なおこれと関連し、引揚者給付金等支給法による引揚者国債担保貸付でありますが、貸付状況はおおむね順調に進んでおりまするが、手続的に在外事実証明あるいは引揚証明を必要とするために、その後の行政措置により緩和されたといいまするが、いまだ証明困難で支給を受けることのできない人々もありまして、これが手続のさらに緩和を望む声が強く、われわれもその必要を感じた次第であります。また県当局におきましても、現在残されておるところの人々は質的にも調査困難な人々が多いので、これら業務促進をはかるためにも、県当局に対する委託費等を減らさないよう措置されたいとの強い要請がありました。またこれが利用状況は、秋田県においては少いのに対し、山形県においては申込者がきわめて多く、その資金は三分の一にしか達しない状態でありまして資金ワクの増大が強く要望されておりました。なお、貸付金のうち初年度分を多くしてもらいたい、また国債を現金化するよう方途を講じてもらいたい旨の希望があった次第であります。  第五は、就職相談あるいはあっせん及び就職現状でございます。われわれが視察しました引揚者収容施設の大部分人々も日雇いまたは失対事業等に従事する者が多く、若干の例外を除いては、きわめて恵まれない状態にありました。秋田県におきましては、最近では機械工医者等の技術を持っておる引揚者はほとんど就職しておりますが、他の人々行商等をするほかはないということでありました。山形県におきましては、中共地域引き揚げの開始当時は当時の社会情勢から種々困難な事情も伴い、中には思想的に不安だというので保留された者もありましたが、最近は一般に対する啓蒙が行き届き、常時九〇%の就職率をおさめているとのことであります。また本年度引揚者は年令的にも三十才前後の若い者が多く、また中共地区からの引揚者はほとんどが技能経験を持っており、勤労意欲も高いので、従前に比べ円滑に職業援護が進められております。また求職に来所した者の職業相談に当っても、引揚者の不利な立場を是正するよう必ず公共職業安定所長または業務課長がみずからこれに当り、その結果により、適切なあっせん計画を作成いたしております。  以上をもちまして今回の視察のおもなる点についての報告を終りますが、引揚者大半はなお老朽した施設に辛うじて生活維持しておりまして、大部分留守家族もまた一家の働き手を失って、まだ帰らぬ肉親の安否を気づかいながら、細々と生活しておる状況であります。中共にはまだ数千の未帰還者があると伝えられ、また留守家族手当支給は来年度をもって打ち切られようとしておりますが、援護法にも規定する通り、未帰還者調査究明及びその帰還促進並びに留守家族引揚者に対する社会的、経済的援護はきわめて大きな社会問題であることを痛感しまして、この視察を終った次第でございます。     —————————————
  8. 田口長治郎

    田口委員長 それでは、引き続きこれより中共地区及びソ連地区残留同胞の引揚問題について、参考人より事情を承わることにいたします。  まず委員長より参考人に対し、一言ごあいさつを申し上げます。  参考人の各位には、帰国早々御多忙のところ御出席を煩わしまして、厚くお礼を申し上げます。本委員会は、いまだ海外に残留されておる同胞の引揚問題の早急解決のため調査をいたしておりますので、残留同胞の実情等を忌憚なくお話し下さいますようにお願いいたします。  ちょっと速記をとめて下さい。     〔速記中止〕
  9. 田口長治郎

    田口委員長 それでは後藤耕作君に発言願います。
  10. 後藤耕作

    後藤参考人 南樺太に現在どのくらいの日本人が残っておるかということについての確実なものは、おそらく何もわからないだろうと思います。もちろん私も、実はそれについて申し上げることはできません。それはほとんどの者が相互に孤立しておりまして、それぞれの職場についておる者、同じ町でありましても違った職場についておりますと、とんと連絡がないというようなわけでありまして、たとえば私のごときは農場の方の仕事をやっておったのですが、仕事の性質上ほとんど町の方にも出ない。日曜日も出ない。友だちの方にもたずねていかない。若干の知り合いがあるのですが、たまに会う程度でして、どこにどういうふうな日本人がおるかということは、私自身も非常に狭い範囲しか知らないわけであります。しかしみな真岡に集まりまして、それから船の上で、もうこちらの方で大体お調べになったと思いますが、ただ聞き取りだけでも、各地方に相当な人たち、かなりの人数がおるということがわかったわけであります。これらの人々はほとんど朝鮮の人と結婚をした人でありまして、ですから日本人としては女の人が多いわけであります。ごくわずかの部分日本人の男というようなことになっておると思います。これらの人々がどうしてまだ帰ってこられないかということについても、これはいろいろな想像では申し上げられますが、確実には申し上げられないような実情であります。というのは、いろいろの方法で帰るということについて嘆願書を出しますが、その嘆願書だけでは効果のある場合もあるし、またない場合もある。出したけれどもだめだ、何の返事もこない、それから引き揚げの発表があるけれども自分は載っていない、それでまた行って聞いてみると、お前は朝鮮人になっておる、日本人であるという証明がなければこちらの方ではそれを確認するわけにはいかないのだというような話を聞く。それで中には急いで日本の方に自分の知り合いやら親戚の者に手紙を出す、その返事をもらってそれを向うの方に示す、それでようやくそれならばということで、向うの方の居住証明書、パスポートと言っておりますが、その切りかえが行われる。その上で、それではお前は帰るとするならば帰るような手続をとるがいい、こういうような形をとって帰りたい者はだんだん帰るという方向に進んでくるわけです。ところが現在残っておる者の中で、そういう手続をとっておらない者がだいぶあるのではないかと思われる節がございます。それは、ある職場に働いておってザヤウレニー——ザヤウレニーというのは嘆願書というような意味にも使われるのですが、それを書くにもどこに出していいかわからない。あるいは地方の警察、あるいは何と申しますか、セリソビエト、地方の村役場、あるいは市長、日本で言うと市長ということになりましょうか、ライスポリコームと申しますが、そちらの方に出してもそこではすぐには解決がつかないので、一応それでは何らかの方法をとってあげるからというただの口頭の約束で引き下ってしまう。結局引き揚げの問題などは、最後的に樺太において決定されるのは、州の——何と申したらいいでしょうか、われわれは普通これをかしら文字だけをとってオビルと申しますが、実はこれは、私ははなはだ申しわけないのですが、どういう名称の組織であるかは申し上げられません。いずれにしても、これは主として南鮮系の朝鮮人及び日本人などに対するところのいろいろの問題を取り扱っている州の警察の方に属する部であろうと思われますが、そこにおいて決定されるようです。引き揚げがある場合などは、そこで一応大体名簿を作りましてその名簿によって各日本人の方に連絡されるという形をとっておりますから、ここで大体決定されるのであろうと思います。もちろんこれはモスクワの指令に基くことでしょうが、大体そういう形をとっているわけでございます。ただそこまで行って手続をとらない者がたくさんおる。いろいろな事情がございまして、職場の方では、一つの例でございますから全部がそういうような形でいるということは申し上げませんが、現場に働いておりますと、その職場に人が非常に足りない。これは全体においてそういう形でございますが、職場には人が余るということはありませんから、そこに働いておる人が動くことをきわめて警戒する。あるいは何らかの形で引きとめようとすることが行われます。たとえば、ある工場で、本人は日本に帰りたいという意思をかりに上の方に伝えたとします。そうすると、それは帰った方がいいというようなことはほとんど言われない。お前なぜ日本に帰るか、ここで働いてもいいじゃないかというような工合ですね。そういうわけで、よほど意思強固に持っていないと、その言葉で、それじゃこの職場で働こうかというふうな気分に変るようになりまして、手続などもそうですけれども、向うの方から積極的にやれと親切に言って手伝ってくれる職場は、まずないと言っていいわけです。そういう人たちが、結局そこでそうしたいろいろなことをやらずに、ずるずると過ぎてきておる。こうした人たちは、もちろん日本人のだれかと連絡をとっております場合は、その人がもし帰るということが決定した場合、どういう方法で帰ることができるかということがはっきりしますから、自分もそういう方法をとる。こういうふうに自分も積極的に踏み出すような気持になるのですが、それが全然連絡のないような場合、たとえばずっと離れておる工場に働いておる人たちとか、ずっと山の中の造材の方の仕事をしておる人たちであるとか、そういうごく袋のすみの方に残っておるような人たちは、全然手続も何もとっておらない。自分の意思表示すら、一応小さな範囲でやっておるけれども、公けの意思表示はやっておらないという形になって残っておるという大体の推察ですし、私もそう思っております。こういうことで、いまだにずるずるに残っておるのが実情だと思います。  それで、これは一応私のお願いになるわけでありますが、私などの考えでは、こちらの方の方々がきわめていろいろな努力を重ねられて、ソビエトの方に交渉されておるということを、かなり具体的に私は知ったわけでありますが、モスクワの方に、ただ日本人のこれこれが樺太におるから帰せというような形だけでは——もちろんモスクワでは、これを樺太州の方の執行委員会にかりに命令が出たとしても、本人を探し出すことは非常に困難なわけでして、もしこういう方法がとられれば、全部日本人の所在が明らかになるのじゃないか、同時にまたそれらの人たちも、こちらに帰ることが早くできるのじゃないかと思われます。というのは、こちらの方でもしモスクワの方にそういう交渉をとられるような場合、こまかくこちらの方で現在の住所がわかっておる場合は、もちろんそれを書いていただければそれだけでいいのでありますが、わかっていない方は、現在日本人で老人でない限り、それから未成年でない限り、職場に属しておらない者は一人もないわけであります。何らかの形の上で、いずれかの職場に属しております。これは職場に属しておらなければ、ごくまれにそういう事例があるかもしれませんが、属しておりますから、州の執行委員会の方に、迫って書のような形で、各職場について一応日本人もしくは日本人と思われるものについて全部調査をした上で、このことを徹底させるようにというふうな、こちらの方でモスクワの政府に対して指示するというとおかしい形になるかもしれませんが、そこまでモスクワの政府に言えば、モスクワの政府の方ではおそらく詳しいことはわからないですから、日本政府の方からそういうふうな形の文句があるとすれば、モスクワの方でオブラスチの方にそういう指示がつけ加えられるであろうと思うわけであります。それは私自身が州の執行委員会の方に行って、このことについてちょっと話をした場合に、どこにどういう日本人がおるかわからないということを言うておったわけです。その場合、もしモスクワの方で、めんどうだけれども、それじゃ各職場ごとに日本人をはっきりさせろ、あるいは朝鮮人の国籍になっておる者でも、日本人ということについてあらためて確認するように努力しろというような命令がモスクワの方から出れば、もちろんそれだけの時間をかけても、各職場の方では出すことができる。言いかえれば、各職場では仕事の方に忙しいですから、いろいろな余分な集会等を開くということについては、できるだけ避けようとしておるということであります。これを実は私お願いしたいのであります。そうすれば帰還が促進されるんじゃないか、かように考えております。
  11. 田口長治郎

    田口委員長 次に林参考人よりお話を伺うごとにいたします。林出子君。
  12. 林出子

    ○林参考人 林出子でございます。私は、衆議院の方から会議に参加するようにという主人にあてて手紙が参りまして、実は主人が少しからだを痛めておりますので、私が代理に伺ったわけであります。  実は手紙の中に要求項目として三項目あげてございまして、まず引き揚げに至るまでの経過、それから残留者の模様、それから今後の引き揚げ見通しについて、この三つのことについてまず私見を述べたいと思います。もちろん私見で、いわゆる狭い見方ですから、それが正確とは申されませんけれども、その点どうぞ御了承下さいませ。  私自身の引き揚げの経過について、及び主人の経過について申し上げます。主人は、一九五五年にソ連のハバロフスクから綏芬河を経由しまして北京の方へ帰って参りました。そうして私は当時中国の内蒙古自治区の首都であります呼和浩特——以前の帰綏というところです。あそこで水利局の技術員として働いておりました。ちょうどそのときに、北京の政府の方から、主人が帰ってくることになった、まだ着いていないが、着いたらすぐに迎えの者をよこすから北京の方へ来るように、そういう手紙を突然いただきました。実はそれまで七年間別居生活をして、私は主人がどこにいるか、生きているかどうかもわからなかったような次第でした。それで五月の末でございました、主人が来たからといってある一人の人が迎えに来てくれて、北京の方へ行って再会いたしました。そうして主人は、北京に着いてから、聞くところによりますと、三日ほど調査をされたそうです。当時主人はからだを非常に痛めておりました。いわゆる厳寒地区において、労働とそれから生活条件のためでしょう、からだを痛めておりましたので、北京に参りましてからあっちこっちの病院で、中国の方で検査をしていただいたりして、これでは直ちに仕事につくことはむずかしい、で、その内蒙古の私の居住しているところに行ったらどうか、そういうふうに言われたわけです。それで私は、実は内蒙古も非常に寒いのですが、こういうからだで内蒙古に住むのは、からだを回復するという点で決していいとはいえない、何とかしてもう少し暖かいところで保養をさせてもらえないかというこちらの意見を申し上げました。向うはそれでは研究しましょうということで、最後にきまりましたのが天津の食品公司——食品公司は中国でできたばかりの年若い会社だし、ちょうど人が足りない、あなたの経歴からいっても事務員のようだから、その方で働きながら病気の保養をするようにというわけで、それで内蒙古の方を引き揚げて、直ちに天津に住むようにと言われたのです。それでことしの七月十三日に、いわゆる最後引き揚げといわれるあのときまで、天津に行って生活していたわけであります。これが私の引き揚げに至るまでの大体の経過なんです。そのほか終戦後の模様につきましては、もし御質問がありましたらそのときにお答えしたいと思います。  それから現在中国にどれくらいの日本人が住んでいるかという問題が出ておりますけれども、実は私は五四年に大連をあとにして内蒙古自治区に行ったのです。私が内蒙古自治区に行くときには、大連で一番最後になりました。それで各地に分散していく技術屋さんを、私は全部駅頭まで見送った方なんです。そのとき全国にばらまかれたうちで、団体を組んで行ったところといいますのは、重慶、昆明、貴陽、武漢、上海、太原、西安というような方面です。あとで聞きますと、特に今度船で来るときにはっきりしたのですが、大連だけではなしに、同時にいわゆる東北地区といわれるハルピン、長春、藩陽の方面にいた人も、ちょうどそのときに、管内といわれる地方へ分散したということであります。大連では、比較的大ぜいの技術屋さんが留用されていたわけです。そして私は最後まで皆さんが行くのを見送ったわけですが、そういう人たちが全部引き揚げたかどうかということはよく存じません。なぜかといいますと、中国は非常に広いですから——私は内蒙古にいますときに全然文通しておりません。私は日本人として初めの内蒙古へ行ったのでありますが、突然さびしくなって、日本にいる父母と文通するようになったのですけれども、大体中国内部に住んでいる日本人とは、私は一回も文通したことがありません。ですからそういう方たちが、五六年の引き揚げのときにどの程度お帰りになったかというようなこと、特に今度の船でも、そういう方を私は見てないのですから、すっかり帰ったかどうかということは、私は残念ですけれども申し上げることができません。日本としては非常にたくさんの人がまだ中国に残っているといろいろな調査の上で言われておりますが、私も向うにいてそれを正確に言えといわれると、どの辺にどのくらいということはなかなか言えないのです。私の知っている人も、実は西安の方を通って甘粛省の、名前は忘れましたけれども、やはり国営農場の獣医として行った人があります。その人がその後帰ったかということについても、私はわかりません。大体向うに残っている人の状況についてはそういうふうなものです。  今後のいわゆる中共地区に残っているといわれる人の引き揚げ見通しについてという問題ですが、現在中国と、それから日本政府との国交関係が少しまずくなっているような状況じゃないかと考えるのです。従いまして私の考えでは、少くとも今年の二月以前のようないわゆる友好的な態度、ああいうところまで戻らなければ、この問題も少し困難を伴うのではないかという考えを、私見ですが、持っております。留守宅の方で帰ってこない人のために、絶えず精神的に非常に苦しんでいる人があるということを援護局などで聞いたのですけれども、中国の現在の生活というのは安定しております。そういう面で、こちらで考えますほど向うで困っているということは、ちょっと言えないのではないかと思います。私自身にしましても、大した技術もありませんし、私の主人にいたしましても、非常に特殊な経路を通って中国に入りまして、約三年余り働いて参りましたが、その間における中国の方の友好的態度というものは、非常に身にしみております。従いましてそういう点から推して考えましても、中国に住んでいる日本人の方が決して不幸な生活をしているとは私には考えられないわけです。大体生活程度も、日本から比べますと、まだずっと低いです。日本は、今度帰りまして非常に驚き、かつ喜んだのですが、文化程度も高いです。向うは、着る物も見た目は非常に質素で、豊かには見えないのです。しかし実際生活する上において精神を使わないで、食べるとかいう方面では非常に豊かなんです。着物といいますと、皆さんすでにお聞き及びのことですけれども、みな木綿着の上も下も紺で、男も女も同じ格好をして働いているわけですが、実際にはふところは割合に裕福なんですけれども、そういう点で、実際日本で政治をやっていただいている方及び直接引き揚げの事務をやっていただいている方が心配なさるほど、向うに残っている日本人生活というものがそう不幸でないということは、私としては言えると思います。私が政府の方へ望みたいと思いますことは、やはり中国と仲よくしていただいて、そしてもっと気やすく残っている方を調査してもらえないか。まだ中国には何千人いる、何万人いる、そういうのじゃなくて、できるだけ調査をしていただきたい。死んだ人もあるだろう、また自分が日本人であるかどうかわからないで、とにかく日本人でも日本語が言えないというような人たちも中国にはいるわけなんです。戦争が終ったときに、あまり小さかったために中国人に養ってもらったというような人も、全然いないとは言えないわけなんです。そういう関係で、やはり政府同士で、もう少し話し合いやすい関係を結んでいくことが先じゃないかと私は考えるのです。そうしますと、いわゆる引き揚げ事務の仕事というものも、非常にスムーズにいくんじゃないかと私は考えます。非常に簡単でございますが、以上でございます。
  13. 田口長治郎

    田口委員長 ただいま参考人各位から事情を承わりましたが、これより本問題に関する質疑を許します。茜ヶ久保君。
  14. 茜ケ久保重光

    ○茜ケ久保委員 林さんにちょっとお伺いしたいのですが、今お聞きしていると、御主人はソ連から中共の方に回って見えているようですね。普通はソ連から直接日本に帰るのが普通でございますが、そのソ連から中共に回って見えたいきさつと申しますか、どういう理由中共の方に回ってこられたか。そういう点がわかっておれば、その点を御答弁願いたいと思います。
  15. 林出子

    ○林参考人 では今の質問に答えまして、そのいきさつについて、大体のところを申し上げたいと思います。  実は主人は、昭和二十一年か二十二年だったか、はっきりしませんけれど、南朝鮮を通りまして釜山から佐世保に一たん復員船に乗って入港したことがあるのです。といいますのは、当時大連の食糧状況が非常に逼迫しておりまして、大連と北朝鮮の貿易を非常に寛大に許しておりました。そのときに主人は、私たちの生活があまりにみじめだったものですから、その貿易が非常にすばらしいということを聞きましてある日、自分は貿易の方面で北朝鮮に出ていく、そういうことを言って、ちょうど生まれたばかりの長男と私を大連に置いて出発したわけです。それで私は、北朝鮮へ行ったということだけを思っていたのです。そのあと主人は、三十八度線を越えて釜山から佐世保の引揚援護局に上り、それから故郷へしばらくいて——ちょうどそのころ、東京の市内へ入るのはむずかしかったという話です。それで、もし故郷へ落ちつけば東京へ入れない、しかし故郷にいて仕事もなければ——故郷は実は酒販売をやっていまして、土地も何もないのです。自分が入っていくだけの余裕がない。また酒販売をやる腕もない、気持もない、東京の方が仕事がしやすいらしいというので、東京方面で日雇いかせぎみたいなのをやっていたのです。  それで、実は松江といっておりましたが、そこから密航をしまして北朝鮮へ渡ったのです。そうして北朝鮮の元山で、結局北朝鮮の保安隊につかまってしまったのです。そしてどうもこいつはおかしい、日本から来たスパイじゃないかと疑われてしまったのです。当時北朝鮮にはソ連の進駐軍がおりましたから、直ちにその手で大連のソ連軍に渡されて、大連で簡単な取調べを受けたのですが、当時ロシヤ語は全然できませんし、非常に不利でした。そうして旅順経由でウラジオストックへ送られ、約一年半ほど未決でウラジオストックとかあの辺をうろうろして、最後にとうとう判決を受けたのが二十五年の極刑だったわけです。当ソ連はスターリンとベリアの事件でごたごたしていまして、ベリアが銃殺されて二十五年という極刑をされた人たちの再審理、そういうことが次々に行われたらしいのです。その間にだんだんロシヤ語もうまくなりますし、どうも二十五年の刑はあまりに不当のようだということで、当時鳩山首相が行かれたり、また高良とみ先生が向うに行かれたりして、日本人を帰そうということが始まりまして、そのときに主人はとうとう監獄を出ましてハバロフスクに来て、約五、六ヵ月でしょうか、そこは私よく知らないのですけれども、生活しているときに、実は私の方は私の方で工作というか、仕事をしたわけです。仕事といいますのは、ちょうど五四年の二月ごろ、主人の弟が故郷にいたのです。その方から私は手紙をもらった。その中に、実は兄貴から三度目の手紙をもらいました、往復はがきでもらいました、それだけしか書いてないのです。私はまあ生きていてよかった、しかしどこにいるのか全然書いてないわけです。それで何べんも手紙を見て私はわかったわけですが、往復はがきというのは、私大連にいたときに聞いていたのですが、とにかくシベリアの捕虜が使うものだということを聞いていたのです。それで私は直ちに会社の指導部の方にその情報を話し、中国赤十字会の方に交渉をした。実は主人がハバロフスクにいてすでに日本送還ときまっているらしいから、できればこっちの方へやってほしい、それで私と一緒に帰りたいからというこで交渉を始めたのです。ちょうど五四年の二月ごろでございました。私はそのことを何べんも何べんも問い合せをしまして向うでもちょっと待ってくれちょっと待ってくれ、それで五月の初めごろに初めてこちらへ帰ってくることになって、すでにもうソ連を出発しましたということになったわけです。こういうふうな経路で今度一緒に帰るようになったわけです。
  16. 茜ケ久保重光

    ○茜ケ久保委員 私中共実情は知らないのですけれども、今林さんの御説明を聞いていますと、何か私は大へん取扱いにあたたかいものを感ずるのです。日本のこういう安定したような実情でありましても、日本政府並びに政府の指示によって働いている日本の行政機構というものは、なかなかそうはいかないのです。理屈はわかっておりながら、いろいろな条文とかいろいろな先例にとらわれてそういうあたたかい取扱いができていない。たとえば朝鮮人を帰すということについても、実は非常にだらしのないことをやっているわけなんですが、そういった実情から見て、私はソ連のとった態度並びに中共のとった態度というものは、そういうものを越えて、今言ったように非常にあたたかいものを感ずるのです。もちろんあなたの御主人の場合は変っているので、一度内地に帰ってきて、さらに向うに行ってスパイ的な取扱いを受けたようなこともありますけれども、そういうことであればあるほど、なおさら逆にひどい仕打ちを受けるような状況にあるわけですね。それが、あなたの懇請もあったことはもちろんですが、今申しますように、ソ連中共のとった態度というものはそういうものを感じさせるのですが、それはあなたが内蒙古で働いていらっしゃった働きぶりが非常によくて、あなたに対する特別な取扱いをしたのか、あるいはまたすべてがそういうふうになされておるのか、日本の私どもから考えると、少し極端に言えば態度がよ過ぎるような感じがするのですが、あなたは長く中共におられて、そういったことが、今もおっしゃるように生活その他を考えてそうひどくないことから、あるいはなれっこになっていらっしゃるかもしれませんが、ソ連から日本に帰さずに中共に帰したということは、あなたの懇請によってそういうふうになったとお考えになるか、あるいはまたソ連中共との間で、これはあなただけではなくて、そういうことに対するやり方がすべてそういうふうなことでなされているのか、その点についてあなたはどういうふうにお考えでございますか、一つ率直にお答え願いたいと思います。
  17. 林出子

    ○林参考人 ただいまの御質問に対してお答えいたします。実はソ連中共との協定がどのようになっているかということについて私は全然知らないのですけれど、主人の話によりますと、当時主人は一番初めスパイとして嫌疑されたわけです。しかしそのことは、当時ソ連語が全然わからなくて自分の申し開きをすることができなかった。そのあとでロシア語を一生懸命勉強して、自分で自分の申立書が書ける程度までなったらしいのです。そしてそのことでもって向うは嫌疑を解いて、罪がない、どうもスパイでない、ただの貿易らしいというところまでいったのです。その調書を出しますときに、一つ問題になりましたのは、以前満州地区におりますときに、満鉄の北満経済調査所というところにいたのです。その北満経済調査所というのは、皆様すでに御存じでしょうが、ソ連の極東地区などを以前調査しておりました。もちろん中国の、満州地区の一切の経済状況を一手に握っていたのですから、特に調査は非常に進んでおりました。それで北満経済調査所に非常に長い時間勤務していたわけです。そういう面で二十五年に刑がきまった。私さっき申し落しましたが、そういうふうな経過なんです。従いましてちょうどハバロフスクに来ておりますときに、ソ連の収容所内でも陳情すれば、たとえば家族がまだ中国地区に残っている人は向うに行くこともできる、そういうことがあったらしいのです。それでそれを利用して向うは向うでやはりやっていたらしいのです。といいますのは、私がちょうどそのころ内蒙古に行きまして、家庭と文通するようになりまして、私の状況が家庭にもわかったのです。それでまだあなたの妻と子供は帰っていないということが主人にわかったわけですね。それで、自分だけ帰ってもどうにもならない、まだ家族は中国に残っているのだから自分も中国へ行きたい、そういうふうに両方がマッチしたわけなのです。私も実は国と国のあれですから、非常にスムーズにいって実は非常に喜んだのです。
  18. 茜ケ久保重光

    ○茜ケ久保委員 それもわかりましたが、もう一つは、御主人が帰って見えまして、あなたは内蒙古に勤務していらっしゃったわけですね。内蒙古でどんな仕事をしていらっしゃったか存じませんが——そのこともあとで、内蒙古で働いていらっしゃった様子もちょっとお聞きしたいのですが、そうして御主人を連れて内蒙古に帰って、あなたは御主人のからだの調子も悪いので、どこか暖かいところへ行きたいという御希望だったのですね。これはあなたとしては当然ですが、しかしこれも、私は今の日本実情からすると、とうてい希望することもできないような状態だと思うのです。にもかかわらず、中国であなたの御要請を聞いて天津の方に勤務させてくれたということ、これなども、さっきもちょっと触れたように、日本では失業者がだいぶ多いのですが、樺太でも、先ほど後藤さんのお話を聞いていると、成年者は全部働いているような状況なんです。それはそれとして、中共当局があなたと一緒に天津にやってくれたということにつきましても、私は非常に感激をするのです。日本政府は、あなたがおっしゃったように、今中共との関係は非常に悪いのですが、日本政府当局並びに日本人と申しますか、お互い現在でも朝鮮の諸君や中国の諸君に対しては、どうもスムーズな気持を持ち得ないようなものがあるのですね。実は日本人同士でも、部落なんという存在があって、日本人同士でいわゆる蔑視したり、何かさげすんだようなものを持っている。これは非常に残念なんですが、そういう中で、今あなたの御主人のソ連から中共へ帰って見えた経緯とあわせて、あなたの、御主人と一緒に暖かい地方への移住という御希望をかなえてくれた当局の態度に対しては非常に打たれるものなんですが、こういう点は、日本人であるから特殊な扱いをしたのか、あるいはまた中共人たちであっても、そういう場合には特別扱いをしないでそういったことをやってくれるのか、この間の状態を、あなたのお考えでけっこうですが、お聞かせ願いたいと思う。あわせてあなたの内蒙古におけるお仕事の様子もお聞きしたい。
  19. 林出子

    ○林参考人 それでは内蒙古における私の仕事の状況について、覚えています点だけお答え申し上げます。  私は大連で実は建築の仕事をやっておりました。一番初め建築のトレーサーから入ったわけです。まだ技術としましては大したことがなかったわけです。ですけれども、当時内蒙古が第一次五カ年計画が始まりまして、重要なる建設の土地となったわけですね。それで、大連の建築公司というのが、第一と第二とあったのですが、そこの技術員が——みな中国人ですね、全部内蒙古へ行ったわけです。私よりちょっとおくれて内蒙古に行きました。当時内蒙古の方に人がたくさん要るというので、私はちょうど建築の方をやっておりますし、それで行くことになったらしいのです。その状況については、私はよく知りません。これは中国側がすることですから。それで私は勇躍して行ったわけです。それほど望まれるところならば、どこまでも行こうということで行ったわけです。それで配属されました職場といいますのは、いわゆる市役所の土木課というようなところです。結局水利方面の仕事です。ちょうどあそこは、甘粛省の方から流れてきました黄河が一部分内蒙古を通っております。そのために、内蒙古の水利という問題は第一位に置かれるくらいに重要な仕事なんです。私が直接やっておりましたことは測量図の整理です。外野でもって測量隊が測量してきたいわゆる測量点があるわけです。それでもってずっと地図を製作していく。その製作したものが間違いないか調べて、それをトレースをして、永久的な資料を作る。それから二、三年前に測量して地図ができているのをもう一回検査するとか、そういうふうな仕事を大体一年半やっておりました。それからもう一つは、小型水利といいまして、農牧畜方面の水利。あの辺の砂漠地方、それから草原地方に井戸を掘ったり、または小さな橋をかけたり、小さなせきを作ったりというようなことを、ほとんど私どもの局でやっていたわけです。そういう方面の簡単な設計図を技師の方と一緒に手伝ってやった、そういう仕事です。  それから、どうして内蒙古にいたのに天津に移住させられたかといいますのは、さっき私が申し上げた通りのあれなんです。それが普遍的に行われていますかといいますと、やはり当時の中国の状況を申し上げないとおわかりにならないと思います。当時中国では、夫婦で働くという人が非常にふえたわけです。家庭婦人というからを抜け出て、女も男と一緒に働く。そうしますと、結局男の方の技術と女の方の技術が違うと、職場が非常に離れるわけです。もう一つは、ある人が武漢の大学の水利部を出た。奥さんをそこでもらって、奥さんは技術がないので武漢方面の事務員だ、御主人だけ内蒙古の水利員だ、そこでちょうど七夕さんのように一年一回会えればいい方で、四年に一回とか十年に一回、そうなって非常に問題が起ってきた。よく中国の新聞でも発表されたように、また雑誌なんかでよく皮肉を言われたことがあるのですが、七夕さんさえも一年に一回会うじゃないか、しかし私たち夫婦はそれもできない、四年に一回しか会えないという不平が起ってきたのです。そういうために、そういう願いを出せば実情に応じて一緒に住まわせる、同じ職場に置くという一種の運動のようなものが起ったのです。従いまして中国の方でも、そういうことを申し出れば、もちろん実情調査するわけです。それでもって、動くところは全部行政費を使うわけですから、そう簡単に申し出たからすぐというわけにいかないけれども、一緒に置くということが比較的楽になったわけです。以前はそれが全部国家の事務員ですから、そう勝手に、私はこの職場はいやですからやめて、ほかの職場に行きますということはできなかったわけですが、最近はずっと緩和してきたわけで、ちょうど私の主人が来ましたときには、そういうことの最高潮のときです。  もう一つは、日本人に対して非常によくしてくれた。私の主人がソ連から帰ってきましたときに、からだをほんとうによく検査をしてくれたのです。レントゲンを何べんもとりますし、栄養失調で全部の内臓器官がすっかりそこなわれておりまして御飯も一ぜんもいかないというふうでしたが、非常にそれを心配して下さった。そういう関係で、あまり厳寒地に置くのは適当でない、では最も医療機関も発達し、まず引き揚げようと思えば便利な天津はどうですかというふうに——私たちは北京に住みたかったのですが、いや天津の方がどうですか、船は大がい天津の塘沽に入るのですから、天津の方が便利ですとそのときに言われたわけです。大体そういうことです。
  20. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 関連して。ただいま参考人からいろいろお話があったのですが、私も昭和二十九年にソ連、中国を視察したのですが、引揚問題ということで行かなかったので、現地側の若干の情勢はその他のことでは承知しておりますけれども、今の問題に焦点を合わせながら、参考人にお伺いをしたいと思います。  まず第一に、ソ連にいたしましても中国にいたしましても、国内の人の場合はともかくといたしまして、敗戦によってこういう引き揚げをしなければならない条件の人に対して、ソビエトにしても中国にしても、引揚第一ということで考えておりますのか、あるいは建設第一でもって、とにかくおる間は、今のお話でいきますと、相当分散をしてそれぞれの仕事に従事する、こういう形になっているように承わるのですけれども、そこで日本の立場から言えば、やはり帰国希望する者をすみやかに帰すという前提に立つ場合には引揚第一、建設に協力するのは第二、おそらくそういう立場に立つだろうと思いますが、そういうことで後藤さんにお伺いしたいのは、特にソビエトの場合は国交は回復しているわけで、たとえば引き揚げを第一にして、日本人等を引揚地に近いところに集団的に収容するということが、われわれの方から要請する場合には可能と考えるか、あるいは今お話のように依然として建設第一で、分散をしておのおのが孤立した状態で連絡も十分にできない、こういう状態を克服することができないというふうに判断をされますか、その辺のところをまず第一にお伺いしたいと思います。
  21. 後藤耕作

    後藤参考人 私の感じから申し上げますと、集中するということは事実上不可能ではないかと思われます。それはもちろんモスクワの方ではあるいはそういう方針を指示いたしたといたしましても、現地では、人数にもよりますけれども、かなりにまとまった人数、現在われわれの推定はまだ少くとも三百世帯以上あるのではないかと思いますが、それが一地区に集中することは、樺太の場合では不可能です。それらの人々がただ単に筋肉労働、たとえば土工というようなものだけで大体占められているという場合には、あるいは可能ということになるのでしょうけれども、各種の業種に分れておって、それぞれ従来の関係もあっていろいろな職場に分散しております結果、それぞれの職場が先ほど申し上げましたように非常に人が足りない結果、いわゆる職場々々では特に命令がない限り、できるだけ自分のところに労働力を確保するということに全力をあげておりますので、特殊な命令がモスクワから来たり、あるいは州の方からそれぞれあった場合はもちろん可能になるかもしれませんが、それは少くとも期間の問題でして、たとえば一カ月あるいは二カ月という短期間に全部が日本に帰るんだということが前提とされた場合にのみ可能なのではないか。それ以外は、収容する設備というものがないわけです。真岡におきましても、たとえばわれわれが来るときには三つのクラブに分散して分宿したわけです。それはそういう場合においてのみ可能だ。つまりそれがもうすでに明らかになっており、船が何日に入港するからという場合においてのみ可能であり、あとはそういうような方法はとられ得ないのではないかと思います。
  22. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 さっき後藤さんのお話で、オビルの方では相当日本人あるいは朝鮮系の人々に対する消息の掌握ができておるやにお話がございましたけれども、これは、たとえば樺太等についての消息は、こういうところで一つの国をなしておるわけですから、完全に掌握をされておるというふうに判断されておるかどうか、お伺いしたいと思います。
  23. 後藤耕作

    後藤参考人 これも私は確認したわけではございませんから推定で申し上げますが、オビルの方でも、確実にそれが日本であるかどうかということについては、つかんでいないのではないかと思います。先ほどちょっと不完全な申し上げ方をしたのですが、朝鮮人の妻になっておる人は、大体非常に子供が多いのですが、乳飲み子のある場合は一応職場に属さなくてもいいということになっておりますので、そういう人も相当ございましたが、その点は私申し忘れましたからつけ加えます。それらの人が日本人であるかどうかということは、われわれが見たらすぐ確実にわかるのですが、向うの目で見ますと、日本人であるか朝鮮人であるかわからない。本人が私は日本人だと言った場合でも、彼らは別な意味から、お前は朝鮮のパスポートになっておるじゃないか、だからそれは信じられないのだというようなことを、それは本人に対する悪意からでなしに、実はさっき申しましたようにできるだけ異動を防ぎたいということで、そういうふうな答えをする場合が多いわけでありまして、従ってオビルの方では各現揚々々の人々に当っておるということはほとんどございませんで、大体において若干の調査と申告というものをもとにしてやっておりましたから、オビルの方で確認できる確実な書類がある場合は、これは日本人なりと断定しておるのであってそれ以外の場合は断定しておらない、そういうような実情であります。
  24. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 さっき後藤さんのお話では、樺太におるときにそれぞれ孤立しておるような状態で、必ずしも日本人間に連絡はとれていないということでありましたが、ちょっと林さんにお伺いしたいのですけれども、内蒙古におる時分はともかくといたしまして後ほど主人と一緒に天津等に数ヵ月おられる時分には、天津におられる日本人等で、たとえば日本人会とか、そういう集まりで、ときどき集まりを持たれるとか、あるいはそういうことについては拘束を受けておるとか、そういう状況等について、もし実情がおわかりであればお伺いしたいと思います。
  25. 林出子

    ○林参考人 今の御質問に対してお答えいたします。実は天津に五五年の六月から住むようになりました。それまで私は天津というところを全然知らないわけです。ただ内蒙古へ行きますときに、素通りしただけです。それですから天津に入りまして日本人がいるかどうかということに非常に興味を持ったわけです。ですけれど、この三年の間にやはり日本人らしき人を見たことは見ました。なぜわかるかといいますと、服装でわかるわけです。女の方で非常にきれいな格好をしておるのは大がい日本人です。スカートをはいてすばらしい上着を着ているのはどうも日本人だと思って、ちょっとついていってみると、やはり日本語で話をしておる。野菜市場なんかでよく会うのですが、日曜日の朝なんか野菜市場に自分で行きますと、中国語でやっているのですけれども、非常に下手なんですね。どうもこの人日本人らしいなと思って、ちょっとついていくと日本語でやっている。私はいわゆる上下紺の洋服で、すっかり中国人の格好をしていますから、向うは気づかない。私は断髪してじゃん切り頭にしていますから、向うは気づかない。男の方は中国人と同じ格好をしていると全然わかりません。私長いこと向うに行っておりましたが、男の方は、日本人か中国人か全然区別がつかない。女の方はちょっと内またで歩きますし、服装が違いますので、日本人らしいなということはすぐわかるんです。ですけれども、そういう方は大体五三年ごろにこちらから行った人らしいです。いわゆる華僑の奥さんとして行った。そのほかに、実は私天津で子供を産んだわけですが、ある産婦人科の病院に入院していますときに、ちょうど五三年に日本から中国へ行ったという人で、天津のある自動車会社に勤めているという人の奥さんである日本人の奥さんと同じ病室で、子供を産んだあと静養したことがあるのです。その人の話で、天津には東京から来た人がたくさんいるんですよ、みな華僑の奥さんですということでした。それから日本人会があるかといいますと、私それは全然知らないです。天津では日本人会というのはありません。私商業部関係におりましたので、ときどき商業局から招待状が来るのです。というのは、日本から映画がいきますね。たとえば最近見ましたのは「狼]だとか「縮図」だとか、ああいう映画が行きますと特に日本から来た人に見せるわけです。それと同時に私たちにも招待が来る。そのときに行きますと、日本から来た人だけじゃなしに、マレーから来た人、インドネシアから来た人、一ぱい集まるわけです。ずいぶん私興味を持ちまして、いわゆるほんとうの夫婦そろった日本人、私の知った人はいないだろうかと思ったんですが、そういう人は天津には全然いないのです。私別に拘束されたわけでも何でもないですけれども、孤立したような格好になりまして、私自身が今度は帰ろう、今度は帰ろうと思い、実は五六年に帰ろうと思って準備していたんです。ちょうどそのときにお産をしましたので帰れなくなった。お産したあげくに、私心臓で五十日ほど天津の病院に入りましたので、それに間に合わなかったわけです。今度は一月ごろ私申請したわけですが、ラジオで聞きましたら白山丸が来るというのがわかりまして、直ちに私は会社の領導部に、私ことしは帰りたい、私のからだも調子がいいし、主人のからだの調子も回復しましたから、今度はみんなでそろって帰りますと言って実現したようなわけであります。
  26. 山下春江

    ○山下(春)委員 関連して伺いたいのですが、後藤さんのお話は私遅刻してよく承わりませんでしたが、林さんのお話を聞いておりますと、中国側では日本人に非常にあたたかい処遇をしてくれているようで、まことにけっこうでありますが、ちょっと私ふに落ちないことがあるので聞いておきたいと思うのです。ソ連から——あなたが内蒙古から天津にお移りになるよりよほど前ですが、九百名ばかりソ連から中国に回されたことがあります。そのケースとあなたとは違うと思うのですが、お聞きになったことがあるかどうか。そのケースも、何かあなたのような奥さんが中国にいて、そして主人がソ連にいることがわかって、奥さんからの要請を中国側が非常にあたたかく取扱ってくれて、中国に回されたかどうか。私はその数字を明確に覚えておりませんが、九百名余りの人が中国回しになった記憶がこの委員会の中でもあるのですが、そういうことであったのかどうか。それから中国に生活をしておる者は、このわれわれの委員会だとか、あるいは厚生省の援護局とか、あるいは外務省とかが非常にいろいろと心配をしておるようだが、生活は見たところはそうでないが、内実は相当豊かな生活をしておるから心配しなくてもいい、こういうふうに受け取れるようなお言葉であったので、私も大へん安心をしたのですが、さて簡単に安心してしまっても困ることもあろうかと思うことは、あなたの場合のように優遇されていても、なお帰ってこようというお気持がどこから出たのかということと、それから現在帰りたいという人もあるだろうし、大部分の婦人が中国人とすでに結婚した人で、その人たちが里帰りというのを盛んにやったことを御記憶があると思いますが、その里帰りのときに、あの帰国船というものを政府がチャーターしておけないいろいろな諸情勢があったので、他の船を、たとえば英国の船等をチャーターして、そういうことになると、そちらから日本へ来るときの片道だけ払ってきて、帰りは日本から送ってあげましょう、こういうことをきめましても、どうしてもそれが落ちつかない。なぜ落ちつかないかというと、それは負担にたえないというのです。私どもから考えると、十三年も一生懸命中国の夫のために働いた妻が、たまに十三年目に日本へ里帰りするというのだから、何ぼ何でも片道の船賃ぐらいは出してやったらよさそうなものだ、幾ら中国人でも、そのくらいな愛情は夫婦の間でありそうなものだと思って、その点が非常に不思議でならなかったのですが、あなたのような優遇をみんな他の日本の中国に住んでいる者が受けておるかどうかということと、それからソ連から中国に回された約九百名と思いますが、そのケースがいかなるケースを通ってそういうふうに中国回しになったかということと、実はまだよくはっきりしていないのですが、そういうことをお聞きになったことがあれば、この際ぜひ片りんでもいいから教えていただきたいことと、それから外務省の局長さんも厚生省援護局長さんもおいでになりますので、そんなような今林参考人が述べられたようなケースをもって回ってきたかどうかというようなことを、あなた方もいろいろな御調査の上に出てきたかということなど、もし御存じなければお聞かせ願わなくてもいいのですが、御存じであったらちょっとここで、今の茜ケ久保さんの御質問等とも関連をいたしまして、何か御調査になったものがあれば一言お聞かせしていただきたいと思います。
  27. 林出子

    ○林参考人 まず第一の問題について、ソ連からそういうふうな団体で中国へ来られたということについては、私全然聞いておりません。だからそのことについては、私何もお答えできません。それからいわゆる中国人の奥さんになっている日本婦人の帰国の問題、それについても、いろいろ問題があったらしいですけれども、私詳しく知らないのです。けれども、日本人夫婦が二人かせいでいるとか、もう一つは主人の方が非常に優秀な技術者、ことに大連地区に残ってくれないかというふうに中国側から言われて、それに賛成して残った大連地区に住んでいた方というのは、非常に高紙技術者です。もう待遇も非常にいいものです。どちらかといいますと、中国の普通の技術者さんよりもずっと裕福な生活をしているわけなんです。普遍的なそのほかの方のことについては、私はよくしかと言えないのですけれども、大連地区における私の知っている方の生活というものは、私なんかよりもよほど裕福です。私たちはひとりで子供を育てていたわけですから、主人の収入というのは全然ないわけで、結局私は自分の腕をみがくよりほかないと決心して、このまま日本に帰ってもどうにもならない、日本も大へんなんですから、そういうふうに決心して、技術を習うことにしたのですが、私、幸い主人が帰って来まして、からだを保養しながらでもいいから仕事をしてくれということで、二人の収入が結局ふえたわけですから、私たちの生活としては非常によくなった。だから夫婦共かせぎしているとか、いわゆるそういう特殊な技術屋さんという人の生活は非常にいいわけです。ですけれども、中国人といわゆる国際結婚している方の家庭は、私大連にいるとき少し見ておりますけれども、あまり生活がよくない。なぜかといいますと、そういう中国人の方と結婚したという人は、ちょうど終戦のどさくさのときに、昔いわゆる遊郭に住んでいた女だとか、そういう人が割合に多いのです。最も卑近な言葉で言いますと、いわゆる二号になったり三号になったりするのですね。そうしますと、結局向うで結婚上におけるどさくさが起ったり、まずい問題が起きるわけです。また主人の方が人力車引きであってみたり、大した技術もなかったりというので、先妻の子供はいる、自分の子供はできるというふうに、いろいろな問題が起るらしいのです。どういう方がどうということは、私一々知らないのです。そういうむずかしい問題が国際結婚にはつきまとうというようなことを耳にしたことはあります。ああいう方が里帰りで帰って来るわけですね。しかし子供は置いてくる。そしてこっちへ帰って来るときに、旅費を片道持たなければならぬけれども、主人は出したがらないというようなことがあるのだろうと思います。結局日本政府にすがりついてあの船を利用して、どうしても帰ろうとがんばったような状況があったのじゃないでしょうか。私、その点はっきりしないのです。
  28. 山下春江

    ○山下(春)委員 林さんのお話を聞いていますと、中国に残っておられる日本の婦人の方が、みなあなたくらいなすばらしい御婦人の方だとすると、日本の婦人の立場から非常に肩身が広いわけなんですが、あなたはさっき、中国で何か仕事をしていたと言いましたね。そういったようなことは、もともと多分あなたは女学校を卒業したか何かしてだんなさんと結婚したのでしょうが、日本にいられるときに、あるいは満州へいらしたときにそういう技術はおありになったのじゃないでしょうが、それはどこか中国の学校かどういうところかで教えてくれる施設がございますか、あなたが独力で御勉強なさったのですか。つまらぬことですが、御参考までに……。
  29. 林出子

    ○林参考人 お恥かしいですけれど、私長崎の女子師範学校を出たのです。それで佐世保で教員をしておりました。そして結婚いたしまして、満州へ行ったわけです。大連に行きましてから、いわゆる関東州庁の指導のもとに、大連にいる州人、中国の子供たちの学校があります。当時水源公学校と申しておりましたが、そこの教員をしておりました。ですから八・一五当時は教員をしておりました。中国の婦人の学校ですから、それまで日本語でやつていたわけです。ですけれども、それからはそういうわけにいきません。それからあとは、直ちに州庁の方の命令で日本人の学校に入ることになったのです。その年の末ごろから引き揚げの問題とか、いろいろな問題が起りましたから、私も学校の手伝いをしながら、いろいろ難民の救済の仕事をお手伝いするとかやっておりました。そのあとで、二千人ほどでございましたか、日本人の高級技術者が大連に残ったわけです。その人の子弟の学校を作ったわけです。日本人の子供の学校として幼稚園、小学校、中学校、高等学校の総合学校を建てることで、大連の司令部がわれわれに支援してくれました。それは保護者の切実なる願いで、そのときに私は要請されましてこの学校の教員として残ったわけです。そのときに、実は学校がどうなるかということは先が見えていたのです。ですから、私は決心して、ちょうど大連には当時中国のいろいろな人がいらっしゃいましたから、お願いして一週間ほどトレースを勉強しまして、試験を受けてそっちへ入りました。そこで再出発したわけです。
  30. 新關欽哉

    ○新開説明員 先ほど山下委員から御指摘のございましたソ連から中共に引き渡した者約九百名、私どもの持っております資料によりますと、ソ連が、昭和二十五年の四月でございます、戦犯として中共に引き渡すべき者が九百六十九名ということを公表いたしております。その後昭和二十九年季徳全が日本に参りましたときに、そのリストを持って参りまして、初めて氏名が判明した次第であります。その後この方々の引揚げが行われまして、現在中共に残っておると考えられる方が二十九名、こういうふうに承知いたしております。
  31. 山下春江

    ○山下(春)委員 時間がおそくなりましたから、簡単に伺います。今の林さんのようなケースが、その後行われたことがほかにございましょうか、どうでしょうか。
  32. 河野鎮雄

    河野説明員 事実あるいはあったかもしれませんが、私ども聞いております範囲におきましては、そういったケースは今まではなかったように承知いたしております。
  33. 茜ケ久保重光

    ○茜ケ久保委員 ちょっと関連して。先ほどの後藤参考人から出ましたソ連政府樺太在住の日本人調査をお願いすれば樺太の州政府ではこれをやってくれる可能性がある、そうするといわゆる確実な情報がわかるということでございましたが、かつてそれに類するような調査方を依頼されたことがあったかどうか。なければ、今後そういった依頼をして、早急に調査をする必要があると思うのですが、これに対する態度を一つ御説明願いたい。
  34. 新關欽哉

    ○新開説明員 お答え申し上げます。ただいまお尋ねの件につきましては、実は外務省といたしましても、ソ連に残留しておられますソ連関係の消息不明の方々の調査につきましては、及ばずながら力を尽して参った次第でございますが、最近におきましては、この七月の上旬でございましたか、モスクワの門脇大使を通じまして全般的な申し入れを行なった際、実は前にロンドンで平和条約の交渉が行われました際、消息不明者といたしまして一万一千百七十七名のリストを提出して、これに関するソ連側の情報を求めて参ったことがあるのですが、その後いろいろと事情が変更いたしまして、新たにつけ足す必要が生じたり、あるいは差し引いたりする問題がございましてその後調整を行いまして、この七月のときには結局約七千七百名ばかりのリストを提出いたしました。これが消息不明者といたしまして、ソ連側調査を強く申し入れたのでございます。その際に、わが方の資料によりまして生きておることが判明しておる者が四百九十六名この中に含まれております。そのリストもそのときに同時に提供いたしまして、この者に関しては日本側の資料限りでは生存しておると思われる、ソ連側はこのリストについてさらに調査して、これらの人たち日本側の資料のように生存しておられるかどうか、もし生存しておられるとすれば帰国希望を持っておられるかどうか、もし帰国希望をもっておられるとすれば、これをできるだけ早い機会に送還してほしいということを申し入れた経緯がございます。それに対しまして現在のところは、まだソ連側から回答がないという状況でございます。
  35. 田口長治郎

    田口委員長 本日予定しておりました他の二人の参考人はまだ御出席がありませんので、一応これにて参考人よりの事情聴取を終ることにいたしたいと思います。  参考人各位には長時間にわたり事情をお述べ下さいまして、本委員会として調査上、非常に参考になりました。ここに委員長より厚くお礼を申し上げます。  これにて暫時休憩いたします。     午後一時九分休憩      ————◇—————     〔休憩後は会議を開くに至らなかった〕