○林田正治君 次には、私は文部
大臣にお尋ねいたしたいと思いまするが、それは二点でありまして、第一は国史教育という問題、第二は
大臣が常に力説されるところの徳育、言葉をかえるならば、道徳教育と申しまするか、修身教育、この二点についてお尋ねいたしたいと思います。
私の一応の
意見を申し上げて御
質問いたしたいと思いまするが、私は、この世界の歴史というものは、過去より現在に至りますまでに一貫しておるところの流れは、これは民族相互間の争いであると同時に、また場合によっては弱小民族が、かつて滅ぼされたところの民族が、独立をはかるという、結局民族意識の高揚に努むるということが、歴史に流れておるところの一貫せる私は流れであるというふうに、こういうふうに実は
考えておるのでございます。この間、ある人の本を読みましたる際に、こういうことがありましたが、それは北欧三国、いわゆる今日世界では福祉国家として有名でありまするところのデンマーク、ノルウエー、スエーデンの三国においては、博物館やら、あるいはレストランあたりにヴァイキング、すなわち海賊という言葉を書いた名称がいかにも誇らしく掲げてあるということを私は承わりました。これは、昔あの三国が、いわゆる海賊行為をいたしたということの今日なごりをとどむるとともに、おそらくあの人たちは海賊をしたことを誇りにするにあらずして、海賊のような、いわゆる開拓者の精神と申しますか、冒険、勇気、パイオニア精神というものに非常に誇りを持っておるために、そういう名称が私は使われておるのだと思います。そういうふうに、民族というものは、確かに長い間につちかわれましたるところの伝統と歴史があるはずであります。わが
日本におきましても、申すまでもなく相当古い歴史を持っておるのであって、これは神武天皇以来の歴史につきましても、あるいは一部においては崇神天皇以前までは年代において不正確であるからこれを抹殺しようというような
考えを持っておりまするけれ
ども、多少の時間的のズレがありましても、まだ今日だれも神武天皇そのものの存在を否定するものはおらないのであります。今日ちゃんと神武景気、神武景気といって、神武天皇のお名前はさん然と光を輝かしておるのであります。私はそういうような、これは冗談でありまするが、そういう
意味合いからいたしまして、われわれの今日の現代史というものも、やはり神武天皇につながるのでありまして、私はこういうように国史の一部を抹殺をするような
考え方とか、あるいはまた近世
日本の発展を単純なるところの帝国主義や軍国主義によって築かれたものであるからといって抹殺するごときも、これは非常に大きな
考えの間違いであって、現に駐日大使グルーも、あの「滞日十年」に、
日本のいわゆる世界政策は時期が間違っておったということを書いておるのであります。世界の各国がやったことを、時間的におくれたがために
日本が制裁を受けたと、こういうことが書いてありますが、これは至言であると私は思うのであります。単に手段と
方法、時期が誤まっておったというだけによって、われわれの誇りや民族の歴史、たとえば日露戦争を
日本の侵略史であるというがごときに至っては、これは非常に誤まりであると思いますので、そういうような
意味合いで、私たちはやはりもう一度
日本の歴史そのものを正しく見て、そうしていわゆる
日本の今日までの発展のあとを
考えて、国民に対して、次の時代をになうところの国民に対しまして誇りを与えるということは、私は
日本の将来あるゆえんではないか、こう
考えるのであります。一昨年私はドイツに参りまして、あの地において西ドイツの復興を見たときに、こういう
質問をいたしましたところが、それには
向うさんが非常に共鳴いたしました。それは私は、ドイツの復興は、おそらくあのフィヒテのベルリン大学におけるところの、あのまだ戦火のおさまらない際に、「ドイツ国民に告ぐ」というところの、あの雄大なドイツの伝統と歴史に基くところの、あのフィヒテの講演がまだ生きておるのではないかと私が
質問いたしましたるのに対して、ドイツの人は、あなたの言うのはその
通りであると、そのときも言いましたが、カントやあるいはヘーゲルの国家哲学のごとき問題は、これはむずかしい問題で、ドイツあたりにおいてはそう共鳴はないけれ
ども、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」というものは今でも生きておるということを承わりました。そういうような
見地からいたしまして、私は文部
大臣に、もう一度、国史教育というものをお
考え願って、これを
一つの系統ある科目として、小学校から高等学校までの一貫せるところの科目としてこれをとり上げていただきたい、こういう
考えを持っておりまするが、これに対する御
意見を承わりたいと思います。