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矢嶋三義君 それ、納得できぬのですよ、納得ができない。こういうことは、もう
相当に、八、九時ごろから警官が出ておったのですからね。そこで私は新聞で見たのですが、それによると、自由法曹団とか、
被告の言うのには、
戸高君はその夕刻外出しておった、そして
事件が起った後に、
戸高君に間違いない
人物が
警察のジープに乗って行ったというようなことを目撃したとか言っているのですね。ところが
戸高君は、当日はアリバイが成り立っている、
自分は
松井製材所に入って休んでおった、こういうのですが、
松井製材所に入っておるのだったら、あなた今おっしゃるように、八時ごろ
警察が来て、緊迫した状態にあった。これは
松井製材所の中に寝ておったのでは、いざ放り込まれたときに、駐在所の家族を救うことはできないのではないでしょうか。もし救おうと思えば、
戸高君が
松井製材所に寝ておったというのはおかしい。だから
戸高君は
松井製材所に寝ておったのではなくて、外に出ておったと
考えられる、この点非常に不明確です。
時間が参りましたから最後に聞きたいのですが、これは占領政策
終結と私は
関係があるのではないかと思われる。私これは大臣に聞きたいところですが、あなたに一応伺いますが、その点私は、それならそれで、占領政策の最後
段階における遺物なら遺物だとはっきりすれば問題は解明されると思う。こういうことは、ちょうどこれは破防法審議のまっ最中で、衆議院で破防法は五月十五日に上っている、参議院では七月三日に上りました。この
事件の起ったころは、破壊活動防止法と公安
調査庁設置法の参議院における審議の最もクライマックスした時代です。これらの
法律案というのは、日本が占領政策当時に立案したものなんです。御
承知のように、平和条約と安保条約は四月二十入口に発効しているわけです。だからその発効以前に破防法と公安
調査庁設置法というものが立法に移っているわけです。これに対しては、当時の占領軍
関係から何らかのサゼスチョンがあったに違いないわけです。そうすると、
国会にああいう騒ぎがあって、こうしたときに
菅生にこういう
事件があったと聞いて、私自身、ばかなことをやったものだ、あの山の中で交番
一つこわして何になるのだ、共産党は不利に追い込まれるし、何の練習にもなりゃしない。何で共産党があんなところでそんなばかなことをやったのだ、なるほど公安
調査庁設置法だとか、破防法とかいうようなものは、やはり
考えなければならぬな
あということを、私はその当時
考えを持ったのを思い出すのですよ。だから私は当時は御
承知のように、国家
警察と自治体
警察なんです。これは国家
警察のルートでやっておるわけです。自治体
警察は牛どろぼうで手先に使われただけなんです。そしてその後、第十五
国会で、二十八年二月十五日、年が明けたときに、あの
警察法改正が出ているわけです。だから占領政策と、独立と破防法と、それから公安
調査庁設置法と、自治体
警察と国家
警察を通して国家
警察にするというのが、全部時間的に結びついているのです。今日の
段階になって翻ってみますと、何かそこに関連がある。これは将来さらに時間が
経過すると、私は識者、歴史家というものが適正な判断を下すと思うのですが、私はそういう気がしてならないのですよ。確かに私は
国会における破防法、公安
調査庁設置法の何が影響しておると思う。だから何か私はそういうものがあったのじゃないか、これは私だけじゃなくて、ちょっと
経過を知っている
国民はそういう疑惑を持っているのですよ。それを
国民がやはり納得するところまで行かなければ、これは私は
国民に対する影響は大きいし、それから
警察に対する不信の念もわくと思う。さらに第一審において、
市木なる
人物の追及がなされずにああいう
公判が行われたことを
考え合せるときに、司法の権威にも関してくるわけで、私は
被告がどういうことをしたかどうかということは私は申しません。しかし家族も気の毒です。大体、
戸高君は命をもって入ったのですが、
戸高君の家族も気の毒ですよ。それはほんとうにお母さんあたりは気の毒だと思うのです。これは当時その命令をした
小林君あたりも私は一半の責任を負わなくちゃならぬと思うのですね。だから私が言いたいことは、事の次第を明確にするということです。せざる限り
国民は納得しないですよ。だからあえて私は伺っておるのですよ。私の疑点を解明して下さい。