○海野三朗君 私はただいま伺ったその要点を申し上げますと、セイロンは仏陀二千五百年であのお祝をやっている。三笠宮も行かれたし、本願寺の法主も行かれた。また重ねてあまたの国賓として
日本からの代表者を呼んでいる、その好意に対して包みを持っていった。
インドも同様にこの間はたくさんいった、そういうことに対してのお包みを包む気がないかということを私は伺うのです。包みを包んでいかないじゃないか。その際に私はこの前の
インド大使のセンさんに会った。今本国に帰っておりますが、セイロンのことをちゃんと聞いて、
インドにはどうしてくれるのだろうかということを私はいわれたのですが、センさんにいや
日本としてはそれは
考えておりましょう、私はこういったのですけれ
ども、
インドとしては仏教国としてはセイロンよりは先だとこう見ているのですね。本家本元は
インドだ。そのセイロンには仏骨を分けて上げることをやったのだけれ
どもセイロンに包むのだから
インドにも多少包みをもらえるだろうと
考えているわけです。そういう動きは外交
関係には微妙に働くし、またこの土地五千坪を無償提供しようというのは全
日仏にきているのです。本部でそれに対して御存じないということはないのです。私は悪く言いますれば
外務省はほおかぶりをして知らぬ顔をしていると私は見ている。無償提供しよう、そこに仏教徒の足場を作ったらいいじゃないかという
向うの要求であったわけでありますから、私はその宗教によらずに
考えてみて、
日本人がいくところの足場を作るなら表面は何としてもいいのだ、とにかく
一つの
日本人の将来
インドとの
交流の上において足場を作る土台を作ったらいいのじゃないか、私はこういうふうに思うのであります。その点については
外務省はもう少しその点を
考えていてもらいたいと私は思うのですけれ
ども、あなたはどういうふうにお
考えになっておりますか。お包みを包まなければいかんじゃないかというのだ、私は。多少にかかわらずお布施を出せというのです。みんな各国にもそうあるべきなんですけれ
ども。