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纐纈彌三君 先ほど稻村
先生からお話がありましたが、文字のないときにえとがなかったとおっしゃいますが、もちろんこれは日本では支那から渡ったものでありますが、少くとも古事記におきましても日本書記におきましても、えとが使われておるのであります。そしてそれを逆算したのがでたらめだとおっしゃるのでありますが、御
承知のように、えとは六十年で一回りしてくるわけでございます。そしてその間においてうるう年というものが出てきて、また四百年目には一回うるう年がなくなる、こういうことでありますから、そういうことをすべて詳しくあれして逆算いたしたのでありますから、少くとも日本書記におきまして、辛酉の年とまた庚辰という日が出ております。年と日が出ておりまするから、これを二つとも六十年ごとに回ってきます勘定によって逆算いたしますれば、これは必ずしも私は全然でたらめであるということはいい得ないと思うのであります。なお私は古事記でも日本書記におきましても、全部が正しいとはいい切れません。しかし私は全部がでたらめだともいい切れないと思うのであります。ことに先ほど歴代の天皇の在位の年数をおっしゃいました。非常に長くやっていらっしゃる方もある。また年も百才以上生きておられる方もあるのでありますが、今新しい歴史学者が金科玉条としている、支那で一番早くできたいわゆる魏志でありますが、魏志等を見ましても、日本は非常にりっぱな国であるというようなことが——実際これは支那から日本に使してきた者が見聞して書いたものでありますが、それにはりっぱな国であるということもいっており、また同時に非常に長生きはしておる、八、九十才から百才が普通だというようなことをいっておるわけであります。今日の人間の寿命から申しますれば、百才以上長く生きておるということは
考えられないのでありますが、必ずしも百才以上の人がないともいい切れないと思うのであります。ただ古事記にも彦火火出見尊が八百五十年から高干穂の峯におられたということですが、これは神武天皇が大和へ
政府を作られますときに、神日本磐余彦尊といっておられたのですが、それまではやはり彦火火出見であったのであります。そのころから襲名というものが行われておったわけですから、古い間の文字のない時代から伝えてきましたところの、天皇の在位が非常に長かったとか、あるいは年が非常に長生きをされたというようなことは、今も古い家にはいわゆる襲名が行われておるわけでありますから、そういうこともこれは
考えなければならぬわけでありまして、この天皇が必ず一人でそれだけの年代をやっておっただろうかどうかということも私は検討する必要があると思うのであります。そしてなお日本の歴史のことにつきましては、今久米
先生の話が出たのでありますが、やはり日本書紀を——これは皇室から命ぜられて舎人親王と太安麻呂が編さんしたことはさきにもおっしゃった
通りでありますが、太安麻呂が、稗田阿礼が語部として長い間伝えられたものを字に書いたものが古事記でありますから、それと同じ太安麻呂が作ったのでありますが、もちろんこの体裁はシナの方の体裁を学んだのでありまするから、いろいろそこには、私も間違いが絶対ないとは言い切れませんが、しかしそのためにはシナの文献等で日本のことを響いてあること等をつぶさに検討いたしておるのでありますから、私はこの日本の歴史が、歴史学者でないから言い切れませんが、必ずしも私はでたらめでないのだというふうに
考える。現にその紀元の
問題につきましても、那珂博士が六百年ばかりの日本の歴史には違いがあるということを唱えておられますが、その説もただいま申しましたように、在位が長過ぎるとかあるいはいわゆる寿命が長過ぎたということを一つの理由にされておる。またシナあるいは朝鮮におきまする文献と相当違った点を列挙されておるわけでありますが、ところがまた逆に、今の在位が長いとか寿命が長かったということは、ただいま私が簡単に申し上げましたようなことである種皮の理屈がつくのじゃないかとも
考えるのでありますが、那珂博士、久米博士等が
指摘されております点で、シナの歴史だとか朝鮮の歴史と食い違った点もあるのでありますが、また非常に合致した点もあるわけでありますから、この点は私は全くでたらめでないというふうに
考えておる、しかも二千六百年の歴史というものを日本国が持っておった、ことに日本はほかの国と違いまして、ほんとうに大和民族一民族でずっと伝わってきた国でありまするから、ほかの革命があったり、お互いに争った国と違いまして、古い歴史を持っており、たまたま彦火火出見が九州から立たれて大和を平定されたということは、その当時といたしまして一つの
国家的体制をとられて、そしてちょうど辛酉の一月一日に橿原宮において即位されたということがはっきり出ておるわけでありまして、そうしてこれを明治時代において、明治
政府が勝手にきめたのだとおっしゃるのでありますが、やはり日本の歴史のあとを振り返りつつ今後新しい
国家として日本が発展していくためにはどうするべきだというようなことを検討されつつ、その日本の古い歴史をたたえるというような
意味合いからいたしまして、この紀元節というものをきめられて、三大節の一つとして祝ってきたわけでありますが、そのこと自体につきましては、私は紀元節が軍国主義に利用されたということは言い得るかもしれ幸せんけれども、紀元節それ自体が軍国主義あるいは天皇制と直接結びついておるものでない、ただ利用されて、そういうふうに不平にして大東亜
戦争というものが起りまして、日本が負けたということになるのでありますが、しかし国民のいわゆる歴史を尊重し祖国を愛するといべ気持が、この古い歴史をとうとぶという国民感情によって日本が発展してきたということは事実だ、そういうふうに
考えておるわけであります、そこで今お話のように、これももう少し学者の検討によりましてもっと先に建国の記念をきめたらいいじゃないかという御説、これもまことにもっともでありますが、何しろ二千六百年の昔の歴史は学者の間でなかなかそう簡単に
結論論が出るものではない。幸いと申しますか、とにかく明治時代から七十年の間この紀元節を建国の口として国民が祝ってきた。その国民感性というものは、私はこれは尊重しなければならぬと思うのであります。独立後やはり紀元節の
復活というものが非常に盛んに起ってきております。そうしてそれがだんだん盛んになりつつありますことが、今日の日本の状況でありまして、ほかの祝日につきましてもいろいろ議論があるようでありますが、国民がそれほど熱心に紀元節をお祝いしたいという気持が盛んであるのは、これほど紀元節を
復活したいという気持が多いことは、ほかの祝祭日に比べまして数倍のものである。そういった国民感情をやはり私どもは尊重するということが民意を尊重して、民の声のもとにこの二月十一日を祝祭日にきめるのが必要ではないかというふうに
考え、それを検討するということは、今後もちろん学者の研究に待つべきでありますが、少くともそういう国民感情を尊重しつつ、この際において二月十一日を建国の記念日とするということが、私は必要ではないかというふうに
考えて提案をいたしたような次第であります。