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増原政府委員 C46が
事故を起しまして尊い十七名の犠牲者を出しましたことは、まことに遺憾千万で申しわけないと思います。このC46は航空
自衛隊の美保の
部隊に属しておりまして、当日三月四日はこれは
訓練の
意味を持ちました定期便を行なっておるわけでございますが、これで必要な
部品類等の輸送、あるいは人員の運搬等をやっておるわけでございますが、月曜日の定期便として美保を朝立ちまして、
伊丹、小牧、浜松を経て立川に参りました。立川を午後三時三十分に出発をいたしまして、大体六時半ごろ美保に到着をする予定で帰って参ったわけでありまするが、この着陸寸前の六時四十分ごろ、沖合いにありまする大根島と飛行場との中間の中海で滑走路の西の端の方から約八百メートルのところに墜落をいたしたわけでございます。当日乗っておりましたのは機長の美保派遣隊所属の佐藤三佐等を含めまして十七名。乗務員は六人であります。美保派遣隊所属の航空自衛官が六人、陸上自衛官が一人、航空情報社の主幹及び編集長でありまする民間の方が二人、米軍軍人が二人、合計十七人が同乗いたしておったわけでございます。
美保は通常西風の吹くことの多いところでございまして、普通東の方から着陸をいたす飛行場でございまするが、当日は東から若干北に寄った風、風速は大体秒速にして六、七メートルの風が吹いておりましたので、平素とは反対の方向に着陸をするという
状態で帰って参ったわけでございます。大体この飛行場の付近におきましては、雲の高さは二段になっておりましたが、一番低い雲の下辺が大体六百フィート、視界が約三マイルということで帰って参ったわけでございます。六千フィートくらいの高さで飛んで参りましたものが、GCAの誘導によりまして着陸しようとして五百フィートあたりまで下って参りまして、飛行場の標識その他が見える
状態になりまして、いわゆる有視界飛行という形に入ったわけでございます。そうして一たん東から細長い半島を越しまして西の方へ参りまして、大きく北の方へ旋回をして着陸をしようとしたのでありまするが、若干風に押されたものと判断されます。うまく旋回ができなかったので再び半島を横切りまして東に出ました。こうした場合の通常の着陸の方式によりまして北に旋回をしまして、そうしてさらに西の方へ行って、こう着陸しようとした。初めは南側を行ってこういうふうにして入ろうとしたのですが、うまく入り切れませんので東へ一ぺん出て北へ回って西から入ろうとしたのでありますが、その際地上の見張り員の見ておりまするところで
——標識灯を見ておったわけでありまするが、五百メートルからだんだん高度を下げて旋回をして滑走路に入るというときに、三百、二百とだんだん下げてきた状況を見ておったわけでありまするが、最後の旋回に入りまして飛行場に入ろうというときに、驟雨があったと見られるのでありまして、見張り員から標識灯が見えなくなった。そうしてこれを出まして
——出ましたと判断をされるのでありますが、標識灯を再び見たのであります。それから間もなくまた標識灯が見えなくなった、このときが海へ突っ込んだものと推定をされるのでございます。当日の状況が雲の高さは約六百フィート、これは五百フィトのところで飛行場の標識灯その他がしっかり見える、いわゆる雲高が五百以下では着陸させないわけでありますが、六百フィートでありましたために、通常の形において着陸をさせようとしたところ、最後の旋回のところで驟雨にたたかれた。これは若干推測が入りますが、当時六時四十分ごろでありますが、あそこは日没が大体六時でございまして、当日雲があり部分的に雨が降っておるというふうな形で、
相当にもう暗くなっていたわけでありますが、その中で最後の旋回で驟雨にあって今まで飛行場の標識を見ながら最後の飛行をしておったのが、急に見えなくなったというときに、
事故を起す原因があったのではないかということでございますが、これはまだ
一つの推測にすぎないわけでございます。そうして海中に突入いたしたと想定されるわけでございます。乗っておりました佐藤三佐は昔の海軍の操縦士でありまして、経験者を航空幕僚監部に入れまして、再
訓練をいたしましてパイロットといたしたものであります。現在までの経験時間が約三千百時間、計器飛行証明を持っておる操縦士であります。副操縦士の岩木三佐は、元陸軍の操縦経験者でありますが、これもやはり再教育をいたしまして操縦士としたものであります。現在までの経験時間が約千九百時間、これも計器飛行の証明を持っておる操縦者であります。
航空
自衛隊の持っておる
飛行機は、先ほども申し上げましたが、三十機で現在のところ
可動機が十六機、
整備をいたしておりますものが、上二機、これは一
段階、二階段と分けておりますが、
部隊整備という
段階のものが五機、野外
整備という多少上の方の
段階のものが七機、
教材として
整備学校に置いてあるものが二機という工夫に相なっておるわけでございます。これも先ほどお答えの中に若干申し上げましたが、
機体は約三年目にアイランと称する
オーバー・
ホールを行いますし。
エンジンは多少の安全を見まして大体七百時間ごとに
オーバー・
ホールをするという形で
安全度を確保して飛ばしておるわけでございますが、この
機体は
オーバー・
ホール後千二百八十二時間を
使用しておったものであります。
エンジンは、左の
エンジンが
オーバー・
ホールの後五百九十七時間約六百時間、右の方が
オーバー・
ホール後百十三時間
使用しておったものでございます。
事故が起きまするや、飛行場の方としてはゴムボートその他を出しまして捜索に当り、境港の海上保安部、境、米子、
松江の各警察署等に協力を依頼をいたしまして、捜索を行なっておるのでございます。けさほど参りまするまででは遺体は十一遺体を収容をしておる
状態でございます。現在
新聞でごらんになりまする、海の上に頭を出しておりました尾部の方は大体引き揚げができたのでございまするが、
飛行機の前から見ますると大体二分の一か三分の一程度の尾部が上って参ったのでありまするが、
あとは海へ突っ込んだのでありますが、推定の速力が百二十マイルぐらいと思われまするので、これは水に着いたと申しましても、地面に着いたのと大差ないほどのショックがあるとのことでございまして、前の方は
相当にこわれて尾部とは離れ離れになって
相当の距離に飛散をしておる。発動機は尾部などの落ちておりましたところから約八十メートルぐらいのところに落ちております。もう
一つの発動機は先ほどまでのところまだどこに落ちておるかが確認できておらぬというふうに、若干散乱をして、ある程度のスピードで突っ込んだということが想定される
状態で飛散をいたしておる
状態でございます。
事故の概要を御報告申し上げました。