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津守参考人 津守佑弘であります。皆さんのおかげで帰って参りました。どうか、
国会を通じまして、
国民の
方々にその由を伝えていただきたいと思います。ありがとうございました。私は、
ソ連におりまして、特になくなった
方々について、何とかして皆さんのお力によって、どうかその
遺骨なり遺品なりの一つでもその
遺族の
方々に届けていただきたい。
遺族の
方々が、
自分たちの身内の、
ソ連においてなくなったところの
人々をしのぶためにも、ぜひともこの事柄をやっていただきたいと思います。それについて、しからば、これらの
方々がいかにしてなくなっていかれたかという点について、私は具体的なお話をして、具体的な
状況を聞いていただきたいと思います。現在行方不明になっている
方々というものは、私の想像によれば、おそらく大
部分、入ソした年、
昭和二十年から二十一年の冬にかけてなくなったところの
方々であると思います。なぜそういうように私が想像するかと申しますと、私が
向うにおりましてその
状況を見聞きしたところについて申し上げますと、その入ソした年においては、いろいろな部隊の
方々が一緒になって、もうこんとんとした
状況下において敗戦直後でございますから、各部隊、各中隊というものはこんとんとして、だれがだれかわからないというような
状況下でもって、ただ人員を編成して入ソしたという
状況で、上官としてはその部下の
方々の一名各々の名前すらも知ることができずして入ソいたしました。そういうようなごたごたのまま入ソいたしましたが、その入りました場所というものは、北は北氷洋からウラル山中はもちろんのこと、ハム鉄道沿線にまで入って、森林伐採などやって、いろいろな
困苦欠乏の中におられました。そして、それらの
方々は、そのとき防寒の
被服もきわめて少いし、また食糧問題といえば、食糧の糧秣はきわめて僅少なものであり、またきわめて悪質であったということ。防寒具というものは用命々保持する第一条件でありますが、それについて、阿寒
被服、いわゆるシューバーとか外套とか、あるいは防寒ぐっとか、防寒帽とか防寒手套というものは、
日本の
軍隊において持っていったものはそれを使用いたしましたけれ
ども、
現地においては支給されませんでした。それで、それがためになくなっていかれたということもまた一つの
原因であります。その次には居住の問題であります。居住については、山間僻地におきましては、――もうみんな山間僻地でございますが、そういうところの居住は、どういう居住をしておったかと申しますと、寝台といえば丸太の寝台です。丸太をずっと並べて、その上に、冬、寒中雪の中に残っておったところの枯れ草をみずか
らちぎってきて、その上に敷いて、そうして寝ておったという
状況下でありまして、暖をとるといえば、その中においてペーチカをたいて暖をとっておりました。そういうような
状況下で、ほんとうに
自分の体を休めるということはできませんでした。そうしてあかりといえばたいまつでございました。朝起きると、もう鼻の中から顔じゅうがほんとうに真っ黒になって、タヌキかムジナのような姿でもって
生活をしておりました。それに加うるに、糧秣といえば非常に悪質でありまして、コーリャンの丸コーリャンでありまして、丸コーリャンと申しましても、コーリャンの房を落しただけで、市民をかぶっておるところのコーリャンであります。それは非常にタンニンが多いがために、便秘をした。それを食べるというと便秘をするからして、便所に行っても便が出ない。それで衛生兵がピンセットでもってかき出してくるというような
状況下で、腸
疾患の患者が非常に続出いたしました。それに加うるに、衛生施設の不足から、シラミが非常に発生いたしまして、シラミのいないところの人というものは全然ありません。それで、ひなたとかぺーチカとか、そういうところにおいては、シラミつぶしをするというような
状況下であります。そこで発生したのは何かというと、栄養失調に加うるに発しんチフス、それから赤痢、この蔓延によって、そのときになくなったのがほとんど大
部分でございます。それで千人のうち七百人が死亡して、あとの百五十人が入院をしておるというところの集団は、たくさんに私も耳にし、また見もいたしました。こういうふうにしてなくなっていった
方々というものは、当然その隣におったところの人の名前も知らない、またそういうような
状況下でありますから、話をしておればすぐ倒れる。朝起きてみればもう冷たくなっておるという
方々でありますから、名前もわからないし、どこの出身者であるかもももろんわかりません。それで、そういう
方々の親とか郷里というものについては報害する
資料すらも全然なかったわけであります。それがために、現在も行方、不明者というものは非常に多い。行方不明者はここに
原因を持っているというふうに私は感じました。それで、そういうなくなった
方々は、しからばいかにして埋葬し、いかにしてあとを供養いたしましたかと申しますと、私も僧籍におりますので、
自分の
関係については、
自分でできる限りの
努力はいたしました。けれ
ども、あとで聞きますと、なくなった方というものは、棺おけを作ってやるところの材料の板はございません。
向うにおいてはまきも当時は不足をして、暖をとるまきも、
国民ですらもなかったという
状況でありますから、ましてや板で棺を作ってとむらいをするということは、
日本人の捕虜の身分においては、とうていそういうぜいたくはできなかった。なくなった
方々を興るについては、着ておった着物を着せてやりたい。それで何とかして着せてやると、検査を受けて、ジュバンから全部脱がされて、まっぱだかにされる。最初のごときは、まっぱだかの胸に、インクをもって、ナンバー一、ナンバー二と打つだけであります。病院ではこれを野積みにして、クィビシェフの病院においてはこれが倉庫にあふれている。ちょうど真冬でありました。倉庫にあふれて仕方がないので、野棲みにしておった。その姿というものは、ろう細工のごとくにすき通った
人間の死んだ姿でございました。そういうふうにして集団的になくなっていかれる。それを葬る場合においても、もう土地は二メートル、三メートルとすっかり凍っております。ですから、一
人々々の穴を掘って埋めるということはできない。これが現状でございます。それで、
ソ側は、
日本人を使って、山に行って、ハッパをかけて穴を掘って、それに集団で埋葬した。まっぱだかのまま、町の中を、トラックに凍った死体を積んで山に持っていって、ハッパの穴に集団で埋葬したということを、私は一緒におった人から聞きました。それがために、私のおったところの兵隊は、
病気になっても――私としては病院へ入れた方が手当はよほどいいだろうというふうに感じておりましたから、何とか入院させようといたしましたけれ
ども、そういう
状況下において、患者は、私
どもは入院することはいやだ、なぜいやかといえば、死んでも決して丁重な葬り方をしてもらえない。ましてや、
自分たちの知っておる人たちによってやってもらうということはできない。お経を読んでもらうこともとうていできないから、ぜひとも隊長さんのそばで死なして下さい、こういうふうに私もせがまれまして、手放すことができませんでした。そう言うならば仕方がないので、私もあきらめて、みんなの中でそうしていかれるならば、それが幸福であろう、せめてもの本人の意思だけは尊重してやろうというふうにして、そういう人たちはそのまま部隊の者として
最後まで一緒におりました。なくなっていく
状況というものは、常にまっかな血便です。なくなっていった
方々を私のところは葬りましたけれ
ども、そういうふうにしてなくなっていった
状況から見まして、何とかして
留守家族の
方々に
遺骨を届けるということは、今、行方不明の
方々はそういう
状況でなくなっておりますので、だれがだれと言うことはできないのじゃないか。南方の
方々が戦場でなくなった以上に、その
遺骨収集には苦しみがあると思います。そういうふうに、なくなった人は一人、二人とばらばらになっておって、
墓地というものは
整備されておりません。山の中にあちこちに散在しておるので、それを十、二十とまとめてある
墓地というものは、きわめて僅少じゃないかと思う。むしろ一人、二人点々として、その場所々々へ埋めたもの、山の中とか鉄道の沿線とかいうところに埋葬されたものが多いのじゃないか。これらの
遺骨を収集するということは、現在の
ソ連の
状況下としては並み大ていの事柄ではないと思います。これはひとえに皆さんの協力と絶大なる援助によって初めてやり遂げられるので、最も決意を固めた行動のもとに、それを運んでいただきたいと思います。それからまた死亡者の中には、そういうふうにして
生活が非常に困難でありましたために、また
満州から北鮮あたりはこんとんたる
状況下でありましたから、何とかして内地の近くに帰ろうという
希望を持って、逃亡した
方々がございます。一回の逃亡では、途中でつかまればまたもとの部隊に帰して参りますけれ
ども、二回、三回と継続した人に対しては、厄介者扱いで、
現地で処分してしまう。決してわれわれ
日本軍の責任者のところには持ってきません。また二回、三回した人がつかまって帰って参りますけれ
ども、そういう者はまたやるおそれがあるというので、営倉に置いて、夜連れ出して殺されたという
形跡がたくさんあります。そういうふうにして処断された者の死体も、われわれにまかせられておりませんので、その
墓地も見つけるには非常な苦心を要するのではないかと私は思います。
ハバロフスクの議員の
方々がおいでになった
墓地は、捕虜時代の墓が六十一個、
受刑以後のものが六十個、それ以後に第五分所が焼失したときの百二十一名の方の
墓地と、もら少し小さな十名ないし二十名くらいの
墓地じゃないかと思うような
墓地がございます。これが
ハバロフスクの
墓地であります。
一般の、内地から
ソ連に行かれて、在ソ
同胞のなくなられた
方々の墓参をするときには、いつもそこに行ってお参りをされているようでありますけれ
ども、事実
ハバロフスクには四ヵ所の
墓地がございます。しかもそれは町の中あるいは
ハバロフスクの山の中などにございまして、四カ所ということはいろいろなことから推定をして知っている。そらして、機動旅団の連隊長の方でなくなっている方の墓参をさしてくれというので、ある機動旅団の荒巻さんが申し上げたそらですけれ
ども、その
墓地がそこにない。しかし、その
墓地は彼が埋葬したときに手伝っておるから
自分が知っているというので、その人が帰るときもちょうどあすこの駅で一泊いたしましたので、その夜中に抜け出して墓参をして、土を持って帰った。その
墓地も町から遠からざるところの別の
墓地でございます。このようにして、たくさんの
墓地が
ハバロフスクの近郊にもございますし、全
ソ連にまたがって、こういうようにばらばらになっている
墓地は、現在は墓標も朽ちたどころでなくして、もうその塚も跡形もなくなっているような
状況じゃないかと私は思います。この
方々の
遺骨なり遺品なりを
遺族の
方々にお迎えきして、この
方々が安らかに眠っていただくためには、われわれが帰った現在においては、皆さんの御協力以外に、私たちの力は発揮できない、われわれのこの心中をよく了察されて、この事柄については幾多の困難があることは眼前に見えております、私たちも想像できます、
ソ連の国内において
日本人が
遺骨を収集することは、南方に行ってやる以上の困難があると考えておりますけれ
ども、これを遂行していただくには、議員の
方々の絶大な超党的な、ほんとうにこの人たちをぜひとも救ってやるという熱意以外には私はないと思います。ぜひとも私たちのこの心中を察していただいて、この点については何としても
努力していただかなければ申しわけないと思いますので、この点については特に切望している次第であります。よろしくお願いいたします。