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平野参考人 私、
千葉新聞の
従業員組合委員長平野でございます。私
どもは十一月二日から
争議に入り、いまだに解決をしない、非常に大きな
争議に発展しておるのですが、この
争議の
経過、これに至った経緯、原因、そういったものをごく簡単に筋を追ってお話を申し上げて、非常に時間のないことと存じますので話し漏れることもあると思いますが、それにつきましては後ほど
質問をしていただけば私
どもの方から詳細御
説明をいたしたいと思います。
まず
千葉新聞社というものは、ただいま
社側から
説明がございましたように、
昭和二十年十八万円という
資本金をもって建てられたものです。これが首切りをしなければならないものになった
経過というものは、二十八年、二十九年までは非常に
経営内容がよかった、
全国の
地方紙の中でも指折りの
経営内容を持っておったわけです。特に二十八、九年の二カ年間に千五百万円という
帳簿外定期預金を作ったというようなことを見ても、その
経営内容がいかによかかった、いかにもうかったかということはわかるわけです。しかもその当年の
賃金ベースは
全国平均の
賃金ベースを下回ること半ば、六、七千円という
賃金ベースをとっておった。過
勤料においても二百四十分の一よりもさらに低いという過
勤料の
計算基準が設けられており、活字を拾ったり、
新聞の紙面を組んだりするようなところでは、一人一時間当り十何円というような過
勤料をもらって、しかも一月に百二十時間、百三十時間というような過勤をやって仕事をし
生活をしてきたわけです。こういう工合にもうかってきた
千葉新聞が急に悪くなったというのは、
組合が
ストライキをやったからだと
会社側では言っておるのですが、これはそうではない。社の
経営者、幹部がどうやってもうけてきたかということを考えてみますと、まず
小林社長がこれは今も
社長をやっておりますが、非常にワンマン的な
性格を持っておる
社長で、
自分の言うことを聞かない者は切るということを露骨に
発言する人です。私が二十九年当初
委員長に選任されましたときには
重役会に呼ばれまして、お前、
委員長をやると損だぞ、給料も上らぬし、
ボーナスも少くなる、やめた方がいい、首になりたくなかったら
委員長なんかやめろ、こういうような話を
重役会でされた、そういう
会社であった。
社員が
会社側に反抗をするということについては、各職場々々に直系の子分をもぐり込ませておいて、これによって監視をして、そういった
動きを絶えず強い弾圧をもって押えてきた、封殺をしてきたというのが過去十年間の
動きだったのです。
社員の
生活は非常に苦しく、
労働金庫からの借り入れも激増の一途をたどり、しかも返せない。そのほかの個人的な借金、社からの前借り、そういうことで非常に苦しい
生活をしてきたわけです。これか昨年六月に爆発をして初めての
ストライキに入った。そのときには、今まで
千葉新聞は非常に
健全経営なのだから、
経営経費から
期末手当は出さない、そのほかあちらこちらから寄せ集めてきた金で
ボーナスを出すんだ、こういうことを放言いたしまして、八十万、九十万
程度の金しか出しておらなかった。従って、私などの例をあげても、
期末ごとに三千円、四千円という
期末手当しかもらっておりませんでした。
こういった実情でしたので非常に
生活も苦しく、
社員は何とか一月分くらいはもらおうじゃないか、しかも社の
経営内容は非常にいい、毎年
黒字を見、その上に何だか
帳簿に載っていない金が
定期預金として千五百万円も積んであるそうだ、こういうことで初めての
期末手当十割の
要求をしたのです。そのときに、
要求書を持ってくるとはけしからぬ、
新聞記者として常識がない、こういうようなことを
小林社長が申しまして、
組合との団交を拒否しました。前後十回にわたって私
ども頭を下げて団交をお願いをし、話をしたのですけれ
ども、全然わからぬ。そういうことで初めての
ストライキに入って、ようやく地労委のあっせんによって解決をしたわけですが、その解決は、七月に六割、十月になってからあとの四割の金が出るというような非常に筋の通らないもので
組合が折れたような形の解決をしたわけです。しかしながら
ストライキをやられた
会社側は、
組合がこれからどんどん強くなった場合には、今までの低賃金による搾取はできなくなる。しかも
小林社長以下
経営者の方としては、
新聞をよけい売ることよりも、もっと
新聞の名前を利用してもうけることに重点を置いて考えていたというように見てとれるわけです。これは
千葉県内においても各界で強い批判があります。その具体的な例としては、われわれ第一線の記者が書いてくる記事を、
社長側近の報道部長なりもしくは
社長直接なりという形で封殺をして紙面に載せないということさえも行われたわけです。こういったことで、まじめにいい
新聞を作っていこうじゃないかという
新聞社の社内の気概と働く意欲がどんどん減殺されていき、しかも賃金の面ではどんどん押えつけられてちっとも上らない。規定上は定期昇給は毎年一回はあることになっているけれ
ども、七年も八年もの間一回も行われたことはない。こういったようなことで、
社員の不満は非常に高まってこれが第一回の
争議、
ストライキとなって爆発したのであります。そのときに私
どもは、今後は平和的に
話し合いをして正しい労使の関係を作ろうじゃないかということを
小林社長そのほか
経営者と確約をしたわけであります。ところが、その直後すでに、
組合幹部及び先頭に立って戦った
組合の先鋭分子に対する左遷解雇案というものをひそかに作って、これを編集局長に通達をして、首を切ったらどうかというような話をしているわけであります。これを聞いた
組合側が、何とかしなければ再び大きなけんかになるのじゃないかということで、急遽
労働協約を作ってはっきりした
話し合いの場を持つことにしよう、それまでは頭を下げていっそ穏やかな話をしなければならぬというわけで
交渉に行くと、横を向いてしまって、
団体交渉はしない、大体お前らが対等に口をきくのはけしからぬというような
態度を示し、そういうことを言うわけです。そういったことではいけないから
労働協約を作ろうじゃないかということで、給与規程とか、退職金規程とか、金のかかることはおそらくけんかになって通るまいから、仕方がないから、とりあえず、労働基準法違反という形になっている過
勤料の点だけを
協約に盛り込んで、給与規程と退職金規程とをあとに譲るという形で、
話し合いの基本になる
協約の本文だけを通そうじゃないか、こういうことで
組合員は
協約を八月二十三日に出したのです。当時の
労務担当重役に加瀬という重役がいたのですが、それから毎日毎日この人と
話し合いを続けましたが、ついに十二月まで
話し合いがつかずにいたわけです。それで、ほとんどの点で
話し合いが終り、これはいいだろうということになって、一応問題点だけを残す形になると、また
重役会にかかって振り出しに戻る、こういうような形で二回、三回と繰り返して、その間に、当初
組合幹部の首切り左遷を命令したときに従わなかったところの、当時の編集局長の高杉という人がおったのですが、この編集局長とそれから
労務担当重役であった加瀬氏、これの不当解任を十月の初めにやって、しかも
組合を弾圧しぶつつぶすための第二
組合の結成を、九月の末から十月にかけて、強力な
組合内部に対する切りくずし、利益供与というような形で行い、二十数名をもって第二
組合を結成し、
組合のぶっつぶしをはかった。こういう形で昨年暮れからの大
争議が行われたのであります。
この
争議の中で
組合は、
新聞をとめたらおそらくつぶれるだろうということで、
新聞をとめないで
争議をするという形で、非常にむずかしい戦いでありましたけれ
ども、防衛闘争という形で、
新聞を
自分たちの手で出しながら一月半にわたって戦いを続けて、その間労協の
話し合いも続けましたけれ
ども、一向らちがあかない、全然
話し合いにならないということで、やむを得ず十二月四日に全面
ストを兼ねて
団体交渉を
要求して、
団体交渉で、地労委あっせん、第三者あっせんという形も含めてようやく
話し合いをつけて調印をしたというのが実情なんです。しかもその間一日も
新聞はとまっておりません。こういった形で昨年の大
争議を終って、今度こそ
ほんとうに
話し合いができるだろうと思って私
どもも期待をしておったし、
会社側が非常に希望しておることに対しては、
組合側も、
千葉新聞の今までの悪弊は何とかこの辺ではっきりと正常なルートに返さなければならないし、また経営のやり方にしても、もっとしっかりした明るいものにしなければならないじゃないか、また
支出の点においても相当浪費があるのではないかということで、当時の業務局長その他と折衝して、節約運動をやったらどうかというようなことも
労使協議会で話をしたのです。しかし
会社は、二回戦いをやって事実上負けた形になったので、このままで
組合を生かしておったらおそらく将来大
へんなことになるかもしれないと思ったのでしょう。
組合を何とかぶっつぶそうということを露骨に考えて、切りくずしをかけ、もしくは
組合の先鋭分子、
組合の幹部というものを職制にあげて首を切るというようなことも考えてきたのであります。人事
通告をめぐって二月、三月
組合と
会社側とが
労使協議会で激しく戦いを続けた。六月の
争議も、そういった情勢の中から生まれてきました。このときには
会社側は新しい、戦闘職員と私
どもはかりに呼んでおるのですが、次々に新しい人を入れてきて、これらの
人たちを
交渉の前面に立てた。そういったことで、今までの経緯、それから
話し合いの雰囲気もしくはやり方というものは、全然考えられずに、ただ新しい
人たちが戦闘的に出てきて
組合と話をする、そのために衝突が起るということが絶えず繰り返されまして、六月の
争議を再び繰り返し、遂に今度の
争議に突入する原因となったわけです。
今度の
争議については先ほど
社側から
説明がありましたが、非常に社の経営が苦しくなって紙代も払えなくなった、だから首切りもやらなければならないということを、
会社側は、
組合側が十月十日
期末手当の
要求を出し、二十日に第一次回答をもらう予定になっていた、その回答予定日に出してきた。
組合としては、
会社側がとにかく
再建をしたいというのであれば、全面的にその面では
協力をする、しかしこれに名をかりて、
組合員、
従業員の
生活要件、労働条件、こういったものを切り下げてくる、もしくはしわ寄せをするということは困る、とにかく全力をあげて仕事をしていくという面で、できる限りの
協力をしよう。また経営検討の面についても
協力しようということで、十月の二十二日から四日間、相当時間をかけて連続
労使協議会を開いて検討したわけです。その結果、
労使協議会を終るごとに逐一
社側の職制
会議にかけられて、できるかできないかという検討をされて、また
労使協議会に返されるという形をとって削減を行なったわけです。過去半年間の
実績を見ますと、四月から九月までの欠損は、三百八十二万八千五百二十九円、これを一月当りに直すと五十四万八千円ということになる。
会社側はこれを六十万と踏んで、六十万の欠損を埋めるということと、それからおそらく紙代を払ったり、運転資金を借りたり、もしくは
期末手当を払ったりするのに借り入れが必要だ、その金利増を十万見込む、また雑損失を十万見込む、また
期末手当も今後は
経営経費に入れていきたい、だから五十万円をその予算としてとりたい、従って百三十万円を浮かせたいという話であったわけです。私
どもは、百三十万円を何とか節減できないか、
増収できないかということを真剣に考えた。
組合執行部としても、一週間、二週間、徹宵検討を続けて、各部門ごとに
支出、
収入、そういったものを調べていきました。その結果まだ今までに相当むだがあったということがはっきりわかった。
組合はもちろん経営の担当者ではありませんから、こまかい
数字そのほかは与えられておりません。現にいまだに
組合員個々の給与額すら
組合には知らされておらない。そういったことで、
社側から与えられた資料をもとにして検討して節減をするということで、各職場にも組織を通じてこれを流して、節減をするんだ、
協力をしようじゃないか、その上に
要求をするものは
要求をして、もらうものはもらう、やることはやるということで、はっきり筋を立てようじゃないかということで検討していったんですが、その結果百二十何万円という節減ができたわけです。これはやり方を
説明をしませんとちょっとわからないのですが、
社側から出された資料、九月の収支
実績、収支報告書を基礎として、それに予算額が書いてあり、わきに
実績が書いてある。
実績は予算よりも
支出が超過をしておる。
収入はちょっと落ちておるという形であったわけです。検討するに当って、
収入はどれだけ見込めるかという話を
会社側にしたときには、その九月の予算額千二百十二万かですが、これは絶対に確保しなければならない
数字である、これを基礎にして
支出がこの線にとんとんになればよろしい、もうける必要はないんだ、こういう話だった。
組合としても、現実にここ二年間そういった
赤字になってきたからには、これを一時上げかじにしていくことが急務なんだ、とにかくこれ以上落ちていくということじゃなくて上げていこうじゃないか、早急にとんとんにもうかるという形に持っていかなければ、われわれの方にも給料値上げそのほかができないということで、予算から削減をするという方法をとって、予算から七十万円ばかりを削減をしたわけです。従って、その九月の予算の中には十万円の
赤字が見込まれていたので、六十余万円の
黒字になった。その
黒字から、さらに新しく
支出の中に入る
期末手当の五十万、利子増の十万、雑損失の十万という、七十万円を差引するということにすると、四万五千円から五万円ぐらいまだ足らないという形になった。それについては、
組合と
協議しない
うちに役職
手当というものを設けて、五万円ばかりの役職
手当を九月に出してしまったということがあったので、これは一時自粛するという形で収支とんとんになる、これでいいじゃないか、ただ、あと問題は、今までは絵にかいたもちなんだから、これを実際にやっていって
自分のものにしなければならぬ、そのために
組合も相当苦しいだろうけれ
ども、絶対な
協力を全部の
組合員にさせてこれを実現させるからという話をしたのですが、
会社側は、首を切りたいということが非常に露骨に出てきまして、とにかく四十人首を切らなければならないという話を終始続けた。
組合としては、今
人員整理をすることは非常にむずかしい。なぜかといえば、今まで非常な低賃金でこき使われてきて、借金をたくさんしょい込んで
生活ができない
状態にある
社員を、ここで、
会社の経営が苦しくなってきたからお前たちは出ていけという形をとることはおかしいじゃないか、しかも実際に収支とんとんにやっていけるという目安も一応出ているんだから、これをまずやってみるべきだ、その結果できなかったときにはまた考えたらいいじゃないか、
組合としてはできると思う。とにかく
組合としては、
組合員が絶対に
協力してやるんだからとにかくやろうじゃないか、こういう話を再度したわけですが、
会社側は、
収入が落ちる、
支出はいいけれ
ども、
収入はどんどん落ちてくるだろうといったことを言って、最初の千二百何万の
収入というものを落してきた。お手元にお配りをしました
新聞労連の機関紙の中にも上半期の
収入というものが書いてありますが、これは四月から九月までの
平均収入は千三百四万円になっておるわけです。
組合がとんとんにできるという話をしたけれ
ども、
会社側はできないという。しかもそのときに言われた言葉は、
経営者としては不確定 の
収入を見込むわけにいかない、
経営者の良心が許さぬ、お前たちの言うことは
意見として伺っておく、こういった話で、全然
話し合いにならずにいったわけです。そうして首切りを四十名のワクでのめ、こういう話をしてきました。ところが、私
どもの
会社と
組合との間で結んだ
労働協約の第十一条には、
従業員を解雇するときには
組合の同意を得なければならないということになっておるわけであります。この同意をするためには、もっとはっきりしなければならない。
組合が同意できるというだけの形が必要だ、今首切りの理由がないんだから、これはまだ早い、まずやってみるということを考えるべきだ、また同意するにしても、名前がわからないで同意するわけにいかぬじゃないか、こういう話をしたのですが、ワクでのめのめという一本やりで、遂に三十一日に首切り
通告をここに発送した。人数はちょっと減って三十七人だ、お前たちはこれでのむべきだ、こういう話になった。
組合はそれはまずいというので大げんかになって、結局社の経営にマイナスになる、やめた方がいいということを言ったんですけれ
ども、非常に
社側の決意は固い。もちろん決意が固いというわけはあとからわかったんですが、二十九日にその
話し合いをまだ平和的にしておる段階に、すでに第二
会社の設立をしておる。
株主総会を招集して第二
会社を設立して、
組合が
ストライキをやってきた場合にはやってやろうということで準備を整えておる。しかも
組合を
ストライキに追い込むために
組合事務所の移転をしろということを強硬に申し入れ、しかも
組合が闘争態勢にそろそろ入っていくのだけれ
ども、そんなことを今言ってまたけんかを誘発する必要はないじゃないか、とにかく移転をさせるにしてもあとにしたらどうだという話をしたのに対して、実力をもっても動かすということで暴力団を使っての襲撃をやったわけです。こういった形で
組合を
ストライキに追い込み、
組合が攻撃をかけられた場合には、平和条項は
会社の方が先に破ったことになるから、自動的に防衛のための全面
ストに入るという警告を発しておったのに対して、暴力団を使って
会社側の方から先制攻撃をかけ、しかも
組合が自動的に全面
ストに入ったあとで、あらかじめ用意してあったかのごとく、ロック・アウトの
通告書を一時間と経たない
うちに出してくる……。