○小羽根参考人 私は
終戦前、駐蒙軍
関係におりました。その後、蒙古
政府におり、
終戦後ここにおられる山岡参考人が北京の方面軍司令部に太原の特務団残留問題についての連絡に行かれましたときに、北京において、山西には第一軍も残るから、山西に行って残るように指示をされ、そして山西に残った者であります。そして、部隊の編成については、岩田清一軍参謀少佐が責任者になって部隊を編成しているから、これとよく連絡をとるようにというふうに言われ、そして残留部隊を、五台工程隊部隊を編成する、その大別として、当時の残留責任者岩田参謀またはそのもとで残留工作を進めていた城野宏、これらと密接な
関係をとり――その当時の残留状況について、私の知っているところについて申し上げます。
この残留当時の状況からいいまして、残留は決してただ一時的な、また個別的な個人々々の意思から行われたものでは決してありません。それは、岩田清一参謀が軍
代表として、閻錫山の
代表と、
終戦直後において、すでに太原の東の洞窟の中において秘密会談を開いて、そして、
日本軍を残留させるということを協議をしたということを、はっきり言っております。またこの協議の結果において、
日本軍部隊と一方地方人を武装部隊として残留させるために、その編成機構として、
日本軍と閻錫山との共同をしたところの合謀社を
昭和二十年の九月にすでに設立をしております。そしてこの合謀社は、社長は閻錫山の秘書長がなり、常任として軍参謀岩田少佐がこれに当り、総務部長としては第一軍の主計大尉加藤嘉之助が当り、これの宣伝
関係には軍報道班長の長野賢中尉がこれに当っております。このようにしてできた編成のために、日閻軍が一緒になって合謀社を設立し、そして大々的な残留工作を行なっております。そしてまた一面軍におきましても、十一月にはここにおられる山岡参考人が主体となって、青年将校にものを聞く会というのを軍司令部に開いて、そして各兵団の青年将校を集めて、ここにおいて残留の意義を強調し、また城野宏等をしてここで祖国の復興のために残留せよというふうに宣伝をし、残留を指示しております。また第一軍と方面軍との
関係につきましても、山岡参考人は、二十一年の一月に北京に出向しております。そして、そのときにも第一軍が特務団を残すということを、残留部隊を残すということを了解を得た。初めは、方面軍は反対をしたけれ
ども、太原の特殊事情を了解するに伴なって、やるだけやってみろというふうに了解を得たから、公然と太原の部隊の残留ができるようになったということを、はっきりと当時の岩田清一軍参謀が言っております。このような基礎のもとに、二十二年の二月に特務団編成についての編成名簿、編成表が下達されております。そしてこれは、当時、岩田軍参謀は、これを作命甲第〇号として出す、このように言っておりました。この編成に基いて各兵団に差し当て人員等が配付されて、このために山西の五個兵団に対して特務団の七個団を編成する指令が一斉に出ております。このために、ただいま早坂参考人、百百参考人等が――各兵団において行われた特務団割当要員が下達をされ、軍の組織的な残留が行われております。そして、各兵団は、たとえば独立三旅団または独立第十四旅団のごときは、この残留部隊が三年間ないし五年間使用するだけの兵器、弾薬、糧秣等を持って、そして優秀なる装備を持って、そのまま残っておるというような状態でありした。また
一般邦人に対しても、この合謀社の秘書長及び岩田参謀は、
軍人を残すためには
一般邦人も残さなければならない、
軍人に腰を落ちつけさせて、永久残留を、長く残留をさせていくためには、女、子供、商人ら、そのような者を残さなければならないというふうに言って、ここに対しても宣伝活動を行なっております。そうして独立第三旅団においては、今村高級参謀は、隷下部隊に対しても、
軍人を残すほかに、地方民をも獲得せよという指令を出しております。そうして、その輩下に二個中隊の
一般邦人部隊が編成されました。この残留した部隊は、全部がただいま山岡参考人が言われましたような戦犯の世話をする連絡班の要員である高級現役将校によって指揮されております。たとえば、
日本人の主要残留部隊であった独立暫編第十総隊においては、高級参謀今村大佐が司令となって指揮しておられますし、また山岡参考人が閻錫山に建議をして組織をした機甲隊には、赤星少佐が司令となっております。また大同の総隊には林高級参謀が司令として残っております。このようにして、残留部隊は現役高級将校によって全部を指揮されております。またただいま早坂参考人から反駁
意見が出ましたように、山西に残りました高級戦犯はどのような状態にあったかと申しますと、形は確かに戦犯ではありましたけれ
ども、事実上においてはやはり軍事に参加しております。第百十四師の師団長の三浦中将は、戦犯という名前ではありましたけれ
ども、太原の東方の楡次というところにおいて軍事研究所を作り、事実上において、ここにおった残留部隊第三団と閻錫山の第八総隊の指導に当っております。また山岡参考人は戦犯の世話のためであり、また金がなくなったから閻錫山に食うために会った、このように言っておりますが、この連絡班に残った主要な者は現役将校であり、教育能力のある者であり、閻錫山の中枢部隊十一隊に対して教官を派遣し、その教官は残留部隊から大量に抽出してその指揮のもとに教育を行なっております。また澄田参考人は、部隊の指揮は事実上はしていなかったと言ってはおります。しかし、事実上において、残留した者はみな軍司令官が残っておられるのだということは中心にして残っております。そうして、ただいま申しました東山の作戦においては、残留部隊は第一線に立たされ、装備の優秀になった
中国の解放軍の矢面に立たされ、砲火を雨のように浴びて死闘を続けておりました。この作戦においても、現場にやはり当時の軍司令官が現地の視察に行っております。このような事柄から見ましても、これは明らかに、ただ単に何もしなかったというものではなく、また今村十総隊司令が閻錫山に対して、敗戦の結果辞表を提出するに当りましても、軍事最高顧問であった澄田参考人を経由して提出をしており、また澄田参考人を経由して、この十総隊をこの東山作戦後において砲兵隊に改編をするという経過をとっております。このような状態の事実の面から見て、残留部隊は全部現地除隊または逃亡者、このようにされてはおりますけれ
ども、その実質は、やはり
日本軍隊の籍がなお現存しておった現役将校の指揮のもとに行われており、現地除隊ということはただ単なる名目にすぎないということが、この事実からはっきり言えると思います。
また未帰還
調査部の報告によりますと、元泉、岩田は退職したというふうにあります。なるほどそうかもわかりませんけれ
ども、事実上において岩田参謀は軍参謀としての仕事を続行しておりますし、軍命に違反をして残留工作をやった。このようなことをやったものであるならば、当時なぜこれを逮捕し、全軍に対して岩田が逃亡したものであるということを布告しなかったか。このようなことが全然行われておらず、岩田とも一緒のところに住んでいるというような状態であった点から見て、これも一つの表面上の手であるということが言えると思います。また軍は極力帰還を勧めた、そうしてその後において全員帰還をするように言ったというふうに山岡参考人は言っておられますが、これはなるほど途中でアメリカと中共軍と
国民党軍の軍事三人調停ができまして、そうしてあまりにも公然と行われているところの太原の残留問題について干渉をしたのであります。このときに、やむを得ず、この特務団司令部の解散ということについては、口達で言ったということはありますが、この命令は下級部隊には伝わっておりませんし、また事実上、このときに太原の城内または周辺におりました三個団の部隊を、岩田軍参謀の指示によって、太原の三人組から隠すために、一個団に太原の東の山の中の洞窟の中に、他の二個団は太原の西方の汾河の向う岸の農村の中にそれぞれ移させて、隠蔽をさせております。そうして太原の町の中は、
日本人は
日本人の服を着て歩くなというような命令が出て、ここに隠蔽策を講じて残しております。また軍は最後まで現地除隊ではなくして帰還を勧めたというふうに言っておりますが、私の知る
範囲内においては、現地除隊になっている者の日付は二十一年の三月であります。しかし軍司令部または軍が太原から動いたというのは五月になってからであります。この点から見ても、まだ太原に全部隊がおる間にすでに他の者を現地除隊として処理をしておる点から見ましても、現地除隊にして残すということは、八月の末に岩田軍参謀と閻軍の
代表の趙瑞
代表との会談において、このようにして残そうということにきめたものであって、あくまでもこれは
計画的な書類上の処理であるということが、この点からもはっきり言うことができます。
以上のような状態において太原に約五千の者が残り、現役の将校に指揮されて十回余の戦闘にかり立てられております。たとえば晋中作戦といって、太原の南の地区において、
中国共産軍の反攻に対してこの
日本人残留部隊の主力を第一線に立たせる。そしてここへ全
中国共産軍の主力を集中さして、他の地区におる閻錫山の子飼い部隊を太原の城内に入れるというこの閻錫山の策にあやつられて、残留
日本人部隊はほんとうに解放軍の全火力を集中した中において、百九十名が一挙に戦死をし、他の者も傷つくという壊滅的な死闘を続けたのであります。東山においてもまた
先ほどの
通りであります。
しかし残留者は、これが
日本の復興のためになるのだ、
日本の復興のためにこの山西地区の拠点を確保しなければならない、これがわれわれの任務だというまでに信じ込まされて、死闘に死闘を続けていったのであります。そして全部で、
先ほど百百参考人が言われましたように、四百名近くの者がこの残留期間において戦死をしております。このかばねもいまだ収容することができず、大
部分は山西の広野にさらされております。これらの
戦死者の身分も、現地除隊として
計画的に処理されてありますために、勝手に山西に残って勝手に
戦争に参加して死んだ者であるというふうに銘打たれて、この遺家族の
人たちは何ら保障もされておらず、うちのむすこは犬死にをしてしまったと悲しみ嘆いております。またそのほかの多くの者も、この侵略
戦争、そしてさらに続いて山西に残されたところの、この
戦争の責任を負って、ほんとうに閻錫山時代の戦犯の軟禁生活ではなく、当時の
日本軍の作った監獄の中で、数年間罪のつぐないの生活をしてきております。しかしこれらの者もすでに現地除隊として処理されておりますために、何らの保障も受けることなく、
一般邦人として取り扱われております。このために
遺族の
方々には、自分のむすこが犬死にをしてしまったということに対して悲しみ嘆き、私たち十一年目にこのような生活を経て帰ってきた者にとって、このような取扱いを受けておることに対して深い矛盾を感じ、そしてまた悲しみと不安とを感じております。どうかこのような山西の残留の実情を
日本の皆様によく了解をしていただいて、正当な身分を与えていただきたいということをお願いをいたします。