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中山福藏君 今日
憲法改正については世論が二分されて、ずいぶん騒がしい問題になっております。私は青年
時代におもしろい体験を持っておるのですが、実は二十五、六のときに南洋ボルネオに行って山の中を跋渉しておりましたときに、ヘビとリスがにらみ合いになって木の上にとまっておった。これを見てどういうわけでこれが動かないかと思って近くに行って見ますと、両方ともにらみ合ったままミイラになって死んでおった。これは日本の世論が二つに分れ、その結果日本
国民が二つに分れてにらみ合っておると、やがては体裁のいいミイラができ上ることを暗示するのじゃないか。国家としてのミイラが生まれ出るのではないかと
考えられる。私はこの
憲法の調査会でももう少し……、
政府が
内閣に
憲法調査会の審議会を置くというようなことをやめて、
国会に置かれて、小選挙区制の問題とともにもう少し検討されて、冷静に相当の時をおいて
国民の判断を待つというふうになさらないと、日本人の
国民性というものは
ほんとうに……奴隷根生が七、八百年続いているのですから、扇動者に利口な人間がいたら、
国民がそれに乗っていくのじゃ、ないか、故に十二分に判断するための時期を与えなければ、なかなか
国民をして右すべきか左すべきかという判定をさせることはむずかしいのではないかと見ている。ことに
憲法調査会というものが設置されますと、すぐ軍備というものをやるのだ、海外派兵をやるのだ、大資本家を擁護するのだ、お前の夫もおれの子供も死ななきゃならぬ、そういうべらぼうな
憲法改正に賛成できるか、こういうふうに婦女子も若い青年も言っておるのです。私はなぜもう少し
政府は徹底的に
改正の目標や趣旨というものを掲げて、これを周知せしむる方策をおとりにならないかと言いたい。そうでなければ、日本の
憲法改正というものはなかなか軌道に乗らない。だからもしどうしても
憲法改正が必要であるとのおぼしめしがあるならば、一そう
憲法全般にわたって、単に
政府のいう
憲法上の三大原則、すなわち基本的人権の尊重だとか、あるいは主権在民の原則だとか、あるいは家族制度を維持していくとか、
戦争を放棄するとか、しぼられた部分以外の、全面的な範囲にわたって
憲法改正する必要を力説すべきである。どの点が日本の国家並びに
国民性にぴったりこないのだ、ことに人間の価値の自覚の上に立った、フランスの人権宣言の思想に基いたただいまの日本の
憲法、これは世界一般共通の普遍的な理想に基いていると思うのですが、これに反し、明治
憲法は、これは古事記や日本書紀やあるいは昔の伝説、換言すれば昔のおとぎ話を肯定し、その上に立った日本の
憲法であった。だからホワイという問に対する正確な答えが出てこない。いわゆる古代の伝説を神聖化して、これに触れたならば刑法上の罪人になるという建前にありましたから、何らそこに歴史的な研究もなければ、あるいは哲学的な人間としての価値を認めるという人間らしい行動というものはなかった。この二大主潮の流れの上に立った明治
憲法と現在のこの
憲法との区別がここに現われておるのであります。でありますから、
憲法改正をするにしても、
昭和十二年以来というものは歴史を習っていない。今の二十五、六の青年までは習っていない。明治
憲法のような復古調を帯びた
憲法を作る方がいいかどうかということは、青年というものは全部迷っている。私は日本のすべての古代の伝説というものを一種の哲学として見ております。これを現実的に明治
憲法上の証拠があるかと
質問されたら答えはなかなかできない。日本の明治
憲法は、これをその根源を哲学的に思索してみる場合に、そこに初めて真の価値と神聖さが現われてくる。これらの問題について日本中の青年、学生に対して、文部大臣もここにおられますが、何らこれらの問題に対する分析とかあるいは指示とか、そういう点についてちっとも触れていらっしゃらない。単的に言って、
憲法改正するかどうかという大きな場面に私
どもは直面しておるのです。もう少しなぜ
政府は徹底した
態度をおとりになり、
国民全般がなるほどとうなずいた納得のゆく
憲法改正の手段をおとりにならないか。この点まことに遺憾に存じます。どうか首相並びに文部大臣、ことに文相は、自主
憲法改正調査会の副会長か何かしていらっしゃいますね、そういうことから首相に並んで御
答弁を一お願いしたい。