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1956-05-11 第24回国会 参議院 文教委員会公聴会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十一年五月十一日(金曜日)    午前十時二十分開会   —————————————  出席者は左の通り。    委員長     加賀山之雄君    理事            有馬 英二君            吉田 萬次君            湯山  勇君    委員            雨森 常夫君            川口爲之助君            剱木 亨弘君            笹森 順造君            田中 啓一君            中川 幸平君            三浦 義男君            三木與吉郎君            秋山 長造君            安部キミ子君            荒木正三郎君            村尾 重雄君            矢嶋 三義君            高橋 道男君            竹下 豐次君   国務大臣    文 部 大 臣 清瀬 一郎君   政府委員    文部省初等中等    教育局長    緒方 信一君   事務局側    常任委員会専門    員       工楽 英司君   公述人    学習院大学教授 久野  収君    大妻女子大学学    長       河原 春作君    一橋大学教授  上原 専禄君    評  論  家 内海 丁三君    長野教育委員    会副委員長   池上 隆祐君    東京経済大学教    授       伊部 政一君    広島大学学長  森戸 辰男君   —————————————   本日の会議に付した案件 ○地方教育行政組織及び運営に関す  る法律案内閣提出衆議院送付) ○地方教育行政組織及び運営に関す  る法律施行に伴う関係法律整理  に関する法律案内閣提出衆議院  送付)   —————————————
  2. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) これより文教委員会公聴会を開会いたします。  問題は地方教育行政行政組織及び運営に関する法律案及び同法律施行に伴う関係法律整理に関する法律案であります。本法律案は、周知のごとく、わが国の地方教育行政に関する重要法律案であり、従って当文教委員会といたしましても、今日まで慎重な審議を行なって参りましたが、その重要性にかんがみ、委員会審議に資するため、本日及び明日にわたって公聴会を開き、各界の方々の御意見を伺うことになった次第であります。  本日の議事の進め方につきましては、先般の理事会におきまして協議を行なった結果次のようになっております。公述人は一人ごとにその時間は約二十分、質疑時間は約四十分とすることにいたしました。  この際、一言ごあいさつ申し上げます。本日は当委員会のため、貴重なお時間をおさきいただきまことに、ありがたく存じます。本法律案に関しまして御意見を十分御開陳いただきたいと存じます。これより公述に入ります。
  3. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 公述に入る前に議事進行について。ちょっと速記とめて下さい。
  4. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 速記をとめて、   〔速記中止
  5. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 速記を始めて。  久野収君。
  6. 久野収

    公述人久野収君) 私ただいま御紹介にあずかりました久野でございます。学習院大学教授をしております。本日実は病気をしておりまして、医者から外出を差しとめられているのでありますが、国会から公述人として参考意見を述べよというお話がありましたので押して出て参りました。  私は率直に申し上げますと、この法案反対でございます。その反対の論拠は、衆議院文教委員会南原先生矢内原先生、それから東京朝日新聞友人であります論説委員伊藤昇さんのおっしゃった意見で、ほとんど委曲は尽きていると存じます。どうか参議院諸公が、この議事録の中のそういう方々の述べられました公述意見を、できるだけ御参照下さって、賢明な判断をして下さることをお願いする次第であります。従いまして重複を避ける意味で、私は本日私自身専門に属しております教育基礎となる思想や、哲学方面原則論を申し述べまして、なぜ反対しなければならないかという意見を申し上げたいと存ずるのであります。  重複を避けますといたしますと、私がどうしてもこの法案を読みまして賛成できない、あるいはまた積極的に反対せざるを得ない理由は、この法案に盛られた意図の問題ではありません。意図がいかなる意図であっても、この法案は実際に実行された結果において、どういう効果をもたらしますかと申しますと、これは教育、特に国民公教育に関する直接の責任者であります教師及び父兄としての国民位置が、だんだんと教育の問題についてわき役の位置に押し下げられざるを得ないということです。この前教育二法が出ましたときにも、やはり私は心配いたしまして、ラジオ討論会に出席しましたときに、自民党の坂田さんやあるいはその他の方々にも討論会で申し上げたのでありますが、あの教育法案というものもやはり教育の、たとえば偏向教育なら偏向教育でよろしいのでございます、偏向教育というものを処理する場合に、教師よりも警察官というものにたよっている。言いかえれば、教育プロパーな問題について、行政官信頼を置いている。教師よりも行政官信頼を置いている。つまり現場教師を信用するよりも、取り締る警察官を信用する、こういう立場にやはり立たざるを得ないようになっているように感じたのでありますが、今度の法案もまた同じことが言えるのであります。なるほど公教育というものは、あるいは国家が責任を持っておるものであり、政治家が一半の責任を持っているということは否定できません。しかし、それよりも大事なことは、公教育についての面接の責任者は、何といっても教師であるし、父兄である。で、父母教育に対してやはり自分の意思を率直に発言する、教師教育に対して全責任を負うという、そういうし方で教育運営するというのが、少くとも敗戦の教訓から、しみじみ学ばされたわれわれの再出発点基礎であったと思う。その基礎意図いかんにかかわらず、結果においてくつがえされる危険を持っている。  その実際の証拠はどこにあるかと申しますと、第一番には教師であります。教師について、たとえば第十九条によりますと、指導主事権限がはなはだ拡大されております。つまり現場教師の自主的な活動だけではどうしても安心がならないから、指導主事取締りをさせようとするような法規が見えておるのであります。なぜそう申しますかと申しますと、この前の現行法法案におきましては、指導主事の仕事は五十二条の四に書かれておりますが、指導主事校長及び教員助言指導を与えるが、命令及び監督をしてはならないということがはっきりとうたわれております。ところが今度の法案においては、指導主事上司の、つまり上の官吏の命令を受けて、これは第十九条の三項でありますが、上司命令を受けて、教育課程学習指導その他学校教育に関する専門的事項指導に関する事務に従事すると、つまり命令及び監督をしてはならないという非常に深い配慮——校長及び教員助言指導を与えるけれども、命令及び監督をしてはならないというこの重大な一項が、新しい法案においては抜け去っておるのであります。でありますからして、今の教育界の実情それから一般の文化的の背景からいたしますと、指導主事指導に関する事務に従事するという名前のもとに、命令及び監督をしても悪くはない、しても差しつかえがないというふうな条文になっておるのであります。このようなし方で、もし現場における教師諸君指導主事指導という名前のもとにおける命令及び監督を受けるといたしますと、これはやはり実際上の結果においてでありますが、意図いかんにかかわらず、実際上の結果においては、旧教育の、戦前及び戦時中の教育視学の弊、県視学郡視学その他の人々教育をやはり監督命令したこの弊をやはり再現するおそれが非常に濃厚であると言わなければならぬ。これは文面の解釈の問題ではなくして、こういう重大な証拠を脱落しておる場合には、その法文が実際の場面運営されるときに、必ずそのような問題が起ってくる。で、教師は一番大切な、つまり教師自主性教師自分自分の研究なり教授なりをやっていくと、誤りがあれば、教師がやはり自分自分を直す、外からによる権力誤りの矯正というものは、これは失敗であります。私はこれは繰り返し申しますけれども、権力によって誤りを矯正された場合には、どこで自分が誤ったかという自覚がないのであります。子供についても、たとえば子供罰則を加えて、直ちにお前はこういう悪いことをしたから蔵の中へ入れるというような罰則を加えたときには、子供はなぜその罰則を加えられたかということについて自覚ほんとうに持たない。つまり誤りから学ぶことができない。誤りから学ぶことができなければ、必ず次に同じような場合が生じてきたときにまた誤りを犯す。そして誤りを犯した場合には、また権力が発動して干渉して、その誤りを直していく。こうして繰り返していくうちに、教育は完全に権力によって命令され、権力によって指導されるということが常態になるのであります。これは戦前及び戦時中の教育の弊でありまして、後に申し上げます通り政治教育の違いはそこにあるのであって、教育自主性というのは、あやまちをあるいは犯すかもわからないが、その犯したあやまちというものを、世論の力や、本人のどこであやまち犯をしたかという、つまりあやまちを踏みしめて学ぶと、これは人間のみに許されておる特権だと思いますが、あやまちからほんとうに学ぶことによって、再びそのあやまちを犯さないという、そういう教育を作っていくということが、こういう指導主事取締り権限強化によってこわされるということ。  それでは指導主事政治家及び当局は百パーセントの信頼を置いておりますかと申しますと、そうではありません。指導主事は、今度は教育長によって指導される、そうして、この教育長というものは教育委員会指揮監督を十七条によって受けることになっておる。さらに十六条によりますと、府県教育長文部大臣承認を得なければならないと、つまり率直に申しますと、だんだんと取締りの線が上へ上へとさかのぼっていく。教育委員会は今度は四条によりまして、委員は任命されるということになっておる。こういうし方でだんだんと上の方へ取締り権限が上っていく。そうして最後においては、五十二条で、衆議院公聴会においても公述人がたびたびその危険を指摘されました、文部大臣指揮権の発動というものを承認する条項がある。これがやはり何と申しましても、私は意図は決して疑おうとは思わない、意図はきっとよかったに相違ないが、もたらす結果においては御存じの通り、戦後の教育というものは、そういう縦の命令系統をできるだけはずしまして、そうして横の連絡系統にしようという考えであります。このような考えがいかに教育にとって必要であるかは、次の段階の一般的な問題を申し述べるときに申し上げたいと存じますが、そのような横の連絡によって地域現場を中心に教育体制を作り上げていくという戦後の新しい考え方、戦後十年教育委員会方々や、あるいは市町村方々や、あるいは教職員が苦労して、やっとここまで育て上げてきましたところの考え方を、実際の効果において、意図ではありません、実際の効果において、結果において、やはりあと戻りをする、もっと強い言葉で言いますと、やはり少しだめにしてしまう、あるいは踏みにじるというような結果を持つのではないかということを非常におそれるのであります。教師がこのようにして上から取り締られた場合には、さっきも申しましたように、教師自身のよさというものが全然なくなって、かつあやまちを犯したときも、そのあやまちから学び得ないということになって教師は完全なるマイクロフォンになる。何かマイクロフォンになります。そのなぜマイクロフォンになるかということは、教材の問題で、すでにこの法案においても現われております。たとえば三十三条の二項によりますと、教科書以外の教材はすべて教育委員会に届け出て許可を要するという条項があります。そうすると、実際の問題として、いろいろの教科書以外の教育材料を、そのつど地方教育委員会に申し出て、そうして許可を取っておっては、実際上できない。従って、教師としてはどうしても教科書一本やりということにならざるを得ないのであります。このような教科書一本やりの制度が非常な弊害を及ぼしたということは、これは戦前及び戦時中の教育を通じて明らかでありまして、教師はそういう文部省なら文部省の作った教科書を、ただマイクロフォンのように下に伝えるだけの存在である。そうしてもっぱら教科書の方針から逸脱することをおそれるマイクロフォンになってしまう、そういう結果をもたらすと思うのであります。実際上この教材が、教科書以外の教材については、教育委員会に届出て許可を要するという第三十三条第二項の規定は、すでにNHKが二十一週年にわたってずっと行なって参りました学校放送というものを、実際において不可能にする、そういうつまり効果を持っております。その点については、日本放送協会会長垣鉄郎氏がお書きになった陳情書がありますので、これを読み上げてみたいと思います。「NHK学校放送は、開始以来今年の四月で二十一週年を迎えました。現在、全国の小、中、高等学校のうち、九割六分が受信施設を持ち、小学校の約五割、中学校の約四割、高等学校の約二割がそれぞれ学校放送を、計画的に利用しております。さらに、この三年来、テレビジョンによる学校放送も開設しており、ラジオと相並んで、都市はもちろん、特に地方農山漁村における教育の上に、絶大な効果をあげ、今や学校教育上、欠くべからざる教材の一つになっております。しかるに、ただいま国会審議中の「地方教育行政組織及び運営に関する法律」の第三十三条第二項によれば、「教育委員会学校における教科書以外の教材についてあらかじめ教育委員会に届出させ、または教育委員会承認を受けさせる定めを設けることとする」とあります。もし、本規定が実施された場合は、そのときどきの問題をとらえ、これをきっかけとして生きた学習を展開させたり、また視聴覚教材によって経験を広め、豊かな情操を培い、興味の中に理解を深めることに努めてきた現場に、大きな波紋をまき起すことはもちろん、これらの教材の利用を著しく困難にするものと存じます。さらにまた本規定適用いかんによって、ラジオ並びテレビジョンによる学校放送に、検閲的措置をこうむるおそれがはなはだ大きいのであります。従って、今回の立法に際し、深甚の考慮を得たいと存じます。」ということを、古垣鉄郎会長陳情書の中で述べていらっしゃいます。これは非常に控え目に大きな波紋を巻き起すとか、そういうふうに述べられておりますけれども、私が実際この学校放送講座というものに若干相談を受けて、委員の一人になって携わったのでありますが、この経験からいたしますと、実際上は不可能になります。そうしてこれはNHKのこの陳情書の中にも触れられておりまするが、どのくらい大きな講座であるかと申しますと、これはもう月火水木金土全部にわたって、小学校の音楽から、国語あるいは社会科、地理、理科、英語、そういったものの全部にわたって、このつまり講座は非常に慎重なプランのもとに行われております。私も高等学校の方に三回ぐらい出ましたが、私自身ほかに論文を書いたり、いろいろなことをするよりも、もっと慎重な委員会の側からの指導なり、あるいは勧告なりを受けて、そうして十五分話した内容について、意外に反響先生や生徒の方から多くて、この点はまずいじゃないかとか、この点はもっとこういうふうにしてもらいたい、ああいう論じ方は困るというような反響が多くて、私自身一驚、実はびっくりしたような次第であります。かようなNHK学校教育講座というものが、全部へ実際的には不可能になるというふうなことを、参議院諸公はぜひとも考えていただきたい。こういうことは二十一年にわたる教育放送そのものが壊滅するということは、実に重大な事件なんでありまして、そうのんきに、それはそうなっても仕方がない、また別法を講ずるということはできないのであります。  なぜできないかと申しますと、今までなおざりにしておりました視聴覚教育、現に見て、あるいは現に聞いて、その人の肉声を聞き、あるいは現にテレビジョンを見て教育を行うというふうな、こういう教育の仕方は、すでに外国の国々においては、もはや初等教育中等教育高等教育において全く欠くべからざる手段になっております。国会においてもマイクロ・フィルムとか、いろいろの問題というふうなものが、実際上うんとうんと利用されなければならない段階にきておりますのに対して、日本教育予算というものは、いわゆる各場所において、各所において、そういう視聴覚教育というものを根本的に行うことができないので、NHKがそれを代行してやる。従ってNHKがその学校放送、二十一年にわたる学校放送を閉じるということになれば、実際上不可能になれば、日本子供たち視聴覚教育というものは、ほとんど壊滅状態になるのであります。そのような重大な規定が盛られております。  従って私はただ教師という側面から申しまして、教師に対する取締り権限強化教材に対するつまり取締り権限強化に対して、教師がまた戦前及び戦争中と同じように、上級の行政機関からするところの命令に対する単なるマイクロフォンになってしまうという、そういう実際的な効果をもたらすと思うのであります。  で、教師に対する取締り教育とか、お目付け教育は、教師行政上の役人の手足に使うという、そういう旧教育の復帰としてしか考えられないのであります。そして政党人々や、あるいは行政官僚が、教師や、父母教育内容を完全に支配するということが、これがすなわちファッシズムなんであります。ファッシズム教育とはほかでもありません。それはスローガンとか、内容ではなくして、ファッシズムの全体主義教育というものは、政党、あるいは行政官僚が、現場教師や、あるいは子供に対して責任を持たなければならない父母や、あるいは教育内容を、完全に支配するということなんでありますから、意図いかんにかかわらず、意図にはどれだけ今日の弊害を是正しようとするよき意図が盛られているにせよ、この法案意図とは反して、結果において、意識すると意識しないとにかかわりなく、ファッシズム教育への傾斜を含んでいると私は言わざるを得ないのであります。これは私たち友人、私たち自身の、戦前から戦後にかけての長い体験がこのことを言わしめているのであって、私たち自身政治権力というものに対して非常に弱いものであります。教師は非常に弱いものであります。教師が団結したとか、何とか申しましても、これは政治権力に対しては非常に弱いものであります。その弱いものが、教育において、教育場面だけは何とかして守っていきたいという考えからすれば、こういう法案というものはやはり非常に危険であると言わざるを得ない。  それから第二には、国民にあります。つまり父母としての国民信頼しないという結果を、この法案は、繰り返し申しますが、意図いかんにかかわらず、もたらして参ります。で、公選制から任命制への変化というものに、この国民というもの、父母教育に対する父母というものの持っている責任というものに、あまり信頼しないという結果をもたらすようなきらいが、この公選制から任命制への変化に非常に現われていると私は思います。なるほど今までの選挙の仕方によりますれば、往々にして不適格者や、偏向教育というものが生れがちだという理屈もありましょう。しかし戦後の教育委員会というものは、教育における、教育場面における国会役割国会という任務をするために、あるいは地方議会教育における国会あるいは地方議会役割をするために設けられたものなのであります。でありますからして、国会の現在の選挙に欠陥があるからして、国会議員選挙をすべて任命制にしようというふうな考え方暴論である、言うでもなく暴論でありますといたしますれば、これはやはり今不適格者や、偏向教育が出てくるからして教育委員会公選制を改めて任命制にするということは、やはりそれと同じ暴論であります。私はかす時日をもってせよ、みずからのあやまちは、教育委員会みずからをしてあやまちを直さしめるような世論を形成するために、政府は熱心になっていただきたい、こういうことを言いたいのであります。かつて学務委員会というのがございました。これは全く地方府県学務部長あるいは学務課長教育課長諮問機関でありました。もし今ここで任命制が……、任命制つまり公選制というものを抽象的な上で比較いたしました場合には、それはそれでの一利一短はございましょ。うしかし、今の条件、今の日本の長い間の教育虫ばんで参りました中央集権弊害、あるいは官僚独善弊害、この官僚独善弊害についても、私は官僚を攻撃するというような意図を持たないのだ。はっきりいえば、つまり官僚の方が優秀なのですよ。残念ながら……。政党人やあるいはつまり父母よりも官僚の方が優秀なのです。しかし、優秀であるからといって、官僚独善を許すわけには、これは民主主義である以上ゆきません。やはりわれわれとしては、父母が成長し、国民としての父母が刻一刻と成長し、それからまた、教師が刻一刻と成長して、官僚ひもつきでないような、あるいは政党人が刻一刻と成長して、官僚に押えられないような政党人、あるいは官僚ひもつきにならないような教師、あるいは官僚独善を批判できるような国民を作り上げてゆく以外に、つまり民主主義としての任務は、民主主義原則はないのでありますから、現在官僚独善あるいは官僚の統制が能率上うまくゆくからこれをやろうというのは、やはり戦前経験から学ばず、戦前経験と同じことを繰り返すことになる、私はどうしてもそう思わざるを得ません。  このような二点から考えました場合に、どうしてもこの法案というものは教育という専門場面において、専門家である教師に対する信頼よりも、むしろ命令系統の上な教育行政に関する官僚信頼する。それから現場教育地域教育が、子供に一番責任を持たなければならない、また、一番愛着を感じている父母というものを抜きにした専門家というものによって教育運営しようという考え方なのでありますから、結果としてそういうことになりますから、どうしてもこの法案には反対しないわけにはゆかないのであります。  この法案が実施されてから、おいおいと父母たる国民の切実な自覚は高まって参りました。そのような実例を示せと申せられますれば、これは後の、つまり教育委員会で御苦労をなさった、おそらく長野教育委員会の副委員長がおみえになっておりますから、この方にでもお聞き願えれば、どれだけ実績が上ったか考えてもいただきたいのでありますが、戦後、戦争中に政治家はあれだけの失敗をして、占領中の政治なり、占領中の教育弊害を、今述べ立てるためにきゅうきゅうとしておりますが、実際は戦争中に政治家諸君軍部にしてやられ、官僚にしてやられて、議会は完全な意味での軍部官僚のやった政策を事後承諾する機関に化し去ったがために、つまり戦後の教育は混乱したのであります。その混乱した教育の中で教育委員会というものを作って、曲りなりにも六・三・三制をしき、今日まで教育の復興をもたらしたのは、むしろ政治家ではなくして、地方教育委員会功績、それに伴う地方市町村長の非常な功績だったと私は思います。このような功績をもう少しやはり評価して、かす時日をもっていただきたい。早急にいろいろ能率の上で不便な事柄が出てきたからして、こういうものをどしどし改めてゆくということであれば、名は修正でありますけれども、原則においては民主主義のいわば根本的な変革であると言わなければなりません。  実際上、教育委員選挙も、一番最初は政党選挙があのようなばかばかしいデモ騒ぎをして、ここにいられるような参議院の良識ある諸先生すらもトラックの上に乗って、お願いします、お願いしますと、ただ大きな声でわめき散らすような、そういう運動様式がありましたから、それが教育委員の方に伝播しまして、教育委員がまたもやお願いします、お願いしますとやったのでありまして、実は根本的な弊害の起因は、政党のいわゆる選挙運動の弊にあると私は思います。そういう点についても、教育委員選挙はだんだんと改まってきておりまして、少くとも国会議員選挙に見られるような、ばかばかしいデモ運動は、だんだんとかげをひそめて参りました。そのようにして運動がそういうデモンストレーションの非常に金の要る性質がなくなって参りまして、冷静で率直なものになればなるほど、政治家諸公が憂えておられますところの適格者が出ないという空気はなくなってしまいまして、簡単に出られ、自分が何かアクティヴな、積極的な運動をしなくても、自然にかつがれて出るというような教育委員選挙に、空気がだんだん生れてきておりますが、そういう空気がだんだんと醸成されれば、そういう杞憂も消し去ると思います。  それからもう一つ特に述べたい事柄は、父母自覚が高まってくれば、国民としての父母父母としての国民自覚が高まってくれば、教師がかりに、一部の教師がかりに片寄った偏向教育などをやろうとしても、これはできるものではありません。父母がやはり監視者として、あるいはまた、外に民主主義社会の世論としての大新聞やその他地方の新聞があるのでありますからして、これはやはりその方向こそが非常に遠いように見えるが、一番確実な、つまり教育委員会選挙委員選挙というものをやりやすいものにする。そうして父母自覚を高めるというふうなことが権力による弊害の是正よりもはるかに、そういうものは非常に能率が上っていますから、ついそういうものを採用したくなるのでありますけれども、遠い道のように見えるこの方法が、一番いいのではないか、政府はその方向にこそ努力してもらいたい。どうもわが国のつまり伝統といたしまして、政治家及び官僚諸公は、どうもやはり口ではいろいろなことをおっしゃっておられますが、国民の知能や教師の知能に対する信頼が薄い。なるほど国民の知能が薄いということもあるかもしれません。教師の知能が薄いということもあるかもしれませんけれども、けれどもこれは薄いといって命令指導しておった限りにおいては、いつまでも教育というものは政治の小使に終ります。教育というほんとうの使命は、政治が見通しを誤って失敗したときに、たとえばプロシャの政治家が見通しを誤って失敗してナポレオンによって侵略を受けたとき、哲学者のフィヒテは立って、今こそ教育政治の弱い、政治が腰を抜かしたところのその場所で、国民国民の向うべきところを指示しなければならないのだということをはっきり言って、新しいドイツ国民というものをフィヒテは形づくっていったのであります。最初から政治の二号的存在、めかけ的存在に教育を追いやる、教育自主性をじゅうりんしておいて、政治が万一失敗したときに、お前よろしく頼むと言っても、それは教育としてはもうできない。教育政治と同じように腰を抜かしてしまう。そういう意味からいえば、割に日本教育というものは、政治家諸公占領ぼけをし、敗戦によって腰を抜かしたのに比較して、自分自身の部署を守って私はよくやったと、自分をも含めてひそかに政治家諸君よりも少しは誇りに思っておるものであります。それをもっと伸ばして、政治というものはどうしても目先のことを原則において、現実に解決する問題ですから、これはやはり能率が大事であります。それは政治としてはどうしてもそうやらなければなりません。しかし、教育というものは、未来の人々を作るわけであります。二十年先の未来の人を作る。二十年先の未来というものは、今世界史はどうでしょうか、大きな曲りかどにきておるじゃありませんか。それをどう評価するにせよ、原子力というものが発見され、それからまたさらに続いてアジア、アフリカというところの目ざめが、深刻な目ざめが行われ、ソ連の共産党が自己批判をし、こういう問題というものは、世界史が、新しく世界の歴史が展開しようとしておる。そういう展開しようとしておるそういう見通し、これは政治家にとっては手近な見通しがあって、政治家としては一つ一つ順は順を踏んでやらなければなりませんが、教育としてはどうしても十五年先にこれはどうなるかということは見当をつけなければならない、そういうものを見通しをつけなければならぬ、それがどれがよかったということは今からいえない。そのときになって初めていえる。どれが一番進歩の原則であったかということは、それぞれの見通しが自由に競争することによって行われる。そういう自由に競争するためには、教育に自由がなければならない。教育に自由がなければならないということは、教育が自主的である。自律的であり、自主的であるという、自主的であるということは、教育教育以外のところに主人は持たない、自律的であるということは自分のワクを作る、ワクに誤まりがあれば、自分で直していく。自治性ということは、これは民主主義の根幹でありまして、地方自治と根本的に一緒になっておりますから、私はもうここでちょうちょうする必要は持ちません。そういうつまり教育における自主性の原理、自律の原理、自分自分の主人である。自分自分の方向を決定して誤まりがあれば、世論の批判を受けてそれを改めるということが、政治によっては果せない役割教育に果さしめる最小の条件なのでありますから、この条件をくずした場合には、どうしても結果としてもう一度文部大臣府県知事、学務局長、視学校長教師という命令系統だけで組み立てられた戦争前、戦争中の教育に復元してしまう。この復元は私自身は私的にわたって恐縮でありますが、京都大学の先生をしておりましたのですが、国家公務員法がしかれましたために、私は私の個人的などうしても信念に反しますから辞表を出して、そうして私立大学に就任したのであります。そういう公務員法にしろ、何にしろ、やむを得ぬものであるかもしれませんけれども、教師の一人心々をこれだけ悩ましているということを、どうか参議院諸公考えていただきたい。教育においては政治におけるように進歩と保守が対立するのではなくて、教育においては進歩の原則が第一番に必要であります。これはルッソー場合を見ましても、ペスタロッチの場合を見ましても、中江藤樹の場合を見ましても、福沢諭吉の場合を見ましても、これは大教育者というものは十五年、二十年先の未来を見通して論じておるのであります。私のようなものは、つまらない教育者として一年、二年先しか見通せない。ちょうど言ってみれば、幕末の佐藤一斎という儒学者は教育とか学問というものはつらいものだ、暗夜にちょうちんをぶら下げて行くようなものだということを申しましたが、私のはちょうちんであります。しかし中江藤樹であるとか、あるいは福沢諭吉であるとか、ペスタロッチであるとか、ルッソーであるとかいうものは、大体十一、二年先を照らすサーチライト、こういうサーチライトを持っている現場教師を作り出していくということ以外に、日本の作り直し、日本つまり建直し、日本つまり復興ということはあり得ない、私はこのように考えております。  このような危険があればこそ、この問題に直接の利害を持たない学者、あるいは大新聞、あるいは民衆が大きな声で、この法案に対して批判の声をあげております。現にここに傍聴者としてお見えになっている方々もこういうところへ傍聴にくるというのは、庶民としては大へんなことですよ。自分つまり電車賃を払ってそうしてここへやって来て、そういうところへ傍聴者として見えているということが、いかに関心が切実であるかということが現われておるのでありますから、どうか参議院諸公の良識と信念に従って、厳正な逐条審議を行なって、教育を百年の安きに置いていただきたいというのが、公述人としての私の公述内容でございます。
  7. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) ありがとうございました。  ただいまの久野公述人公述に対しまして、質疑のある方は御発言願います。
  8. 雨森常夫

    ○雨森常夫君 非常に御熱心な公述をお聞かせ願いまして、まことにありがたく存ずる次第でございますが、私が聞いておりますというと、久野先生は非常にこの法案について先走った心配をしておられるように考えるのであります。これは私のお聞きしておる感じであります。たとえば例にあげられました十九条の三項で、どこにこの指揮命令監督をするように考えられるか、指導主事……。あるいはまた三十三条の教科書以外の教材、これは今おあげになりましたように、教科書以外の教材を使うのは、毎日心々のことでありまして、たとえばラジオのスイッチを入れるのにしても、一々届出をしなきゃならぬというようなことをお考になるのは、少し心配し過ぎる、第二項は前の基本的事項についてということでありますから、それを受けての第二項でありますから、そういう点まで御心配になる必要はなかろうと思うのであります。  それからもう一つ、私はこれは御注意願いたいと思うのでありますが、御陳述の中に政党人よりも官僚がはるかに優秀だということをおっしゃったのでありますが、私は実は官僚であったのが、今政党人なんであります。そういうことを言われますと、まことに愚劣になったような感じがいたすのでありまして、そういう点……。
  9. 久野収

    公述人久野収君) 今の御質問にお答え申し上げます。第一番に私が政党人を侮辱したような発言をしたということでございますから、これはつつしんで取り消します。過去においてそういうことがあったかもしれませんが、現在はそうでないかもしれませんから取り消します。  それから第一の御質問の十九条でありますが、これはつまり現行法において指導主事を繰り返し申しますように、命令及び監督をしてはならないという明文がちゃんと現行法にうたってあるのであります。それがこの今度の法案において削られておる、繰り返し申し上げますように削られておるということは、やはり私の思い過しではなくして、指導という名前のもとに、命令及び監督をしてもいいという解釈が通るということを私は深く確信します。それから第三十三条におきましても、基本的ということを今お述べになりましたけれども、この基本的ということは、ばく然としておりまして、どこからどこまでが基本的であるかというふうな判定というものについては、別に法文に明記されておりませんようでありますから、やはりそういうもし単なる杞憂であれば、二十一年間学校放送に携わって参りましたNHKが、会長名前でこのような陳情書を出すはずは、僕は絶対ないと思います。
  10. 笹森順造

    ○笹森順造君 お尋ねいたしたいと思いますが、一番最初にお述べになりましたお言葉を伺っておりますと、この法案の目的、意図はよいと思う。だが結果的にはいろいろ危惧されるところがある、こういう工合にお話しになったように聞きますが、その通りでございますか。
  11. 久野収

    公述人久野収君) いいえ。
  12. 笹森順造

    ○笹森順造君 そこで、私はっきりお尋ねしたいのですが、この法案の目的とするところが、少くとも立案者の意図が善意であった、こういうことをお述べになって、しかも結果としては非常に危惧される、こういう印象を得ましたが、それをお尋ねしたいわけであります。
  13. 久野収

    公述人久野収君) 善意であるか、つまり教育を取り締るような意思があるかということは別としてと、私は論じました。これについてはいろいろの議論の余地があるから、これについてはつまりこういう意図のいかんにかかわらず、結果としてこのようになる、だからいいという意図でお考えになったかもしれませんが、あるいは悪いとお考えになったかもしれませんが、そういうそんたくはできない。してもこれはむだであって、結果として現われてくるものは、そのような教育に対する非常な大きな脅威であるということを申し述べたのであります。
  14. 笹森順造

    ○笹森順造君 この言葉で、もう一度一つはっきりしておきたいと思いますが、公述人政府の提案の意図が、これがよくない、意図がよくない。悪意から出発した、こういう御認定でありますか、お尋ねいたします。
  15. 久野収

    公述人久野収君) 私はやはり政治の立場、官吏の立場から教育の問題を考えておられる結果、能率とか、あるいはまた統制とか、あるいは基本的、つまり原則を通すというふうな、いわゆる教育上における行政中心主義の立場から立案されたものだと考えます。従いまして私の主張するところの教育の問題は、父母教師というものが中心にならなければならないという考え方に対しては、つまり対立するような考えで立案されておると思います。
  16. 笹森順造

    ○笹森順造君 私どもの理解によりますと、特に、義務教育は、国民がその責任を持つ、子弟に対してやはり教育責任を持っている。これはやはり憲法の規定する通りで、さように理解しております。しかし、これは法の定めるところによってやるものである。同時に国家もまたこの教育に対しては、重大なる関心も持ち、しかも責任を持っているものだと、こういう工合に私は理解しておりますが、この点はいかがでございますか。
  17. 久野収

    公述人久野収君) 私は国家の教育に対する、国家と申しますと、具体的には政府でありますが、中央政府教育に対する責任というものは、衆議院公聴会矢内原先生がお述べになりました通り民主主義の社会においては、行政の中では教育を特に独立さすという建前から申しまして、消極的であるという信念を持っている。つまり予算の整備であるとか、いろいろな事柄について配慮する。つまり教育的環境、教育に最も好ましい環境を作るという、そういう消極的な使命しか持たないのが、それが私は民主主義社会における文部大臣責任である、そういうふうに了解しております。
  18. 笹森順造

    ○笹森順造君 もう少し立ち入ってお尋ねしたいと思いますが、この教育基本法において示されておりまするところを、私どもは忠実に見てみましても、やはりこれは国家の形成者としての人間を作るのだということが大きくうたわれている。従って自由はどこまでも尊重しなければならぬ、基本的人権はあくまでもこれを尊重していかなければならないということとともに、国全体がやはり個々の人間の社会形成の一人としての資格をこれは十分持ってもらわなければならないということは、教育者のみならず、国自体が考えなければならぬ点だと私は考えますが、この点はいかなる御理解を持っておられますか。
  19. 久野収

    公述人久野収君) この点については、私はこのように考えております。やはり国を中心とする教育、国家の教育とか愛国の教育というものは、従来の最もいけなかったのは、愛国教育がいけなかったのじゃなくて、愛国教育内容がいけなかった。なぜいけなかったかといえば、それは政府に対する無条件の、つまり批判を没した忠誠というふうなものだけを要求する。それを政府命令に対して唯々諾々と従うような、そういう愛国心を愛国心の基礎において、国家的のものの基礎においておりました。私自身ここで申すのも全く恥でありますが、戦争が敗北に終ったときに、私たちにはもうわかっておったのであります。もちろん私自身は日中事変が始まったときに、昭和十二年にわかっておりました。それから十四年、十五年になれば議員の諸公もおわかりの通り、わかっておりました、日本は敗北すると。しかしそれが言えない。言えなくて敗北を迎えた。なぜ言えない、なぜ言えないかということを反省して、これはやはり一旦政府で決定したものは、もう国策として決定されているのだから、それに対して反対し、それに対して批判するような者は非国民だというような考え方で、われわれは忠君愛国の教育を受けてきたのであります。そういうつまり愛国の教育の仕方というものは、国があやまちを犯そうとしているときに、そのあやまちを深みに一そう追いやることがわかっているときに、反対ができない。たってそれは危いよということを言うことができないといったような教育だった。理解してはいけない。だから愛国教育基礎というものは、言うまでもなく、国土を愛し、同胞を愛するというような点においてけちであったり、条件をつけたりしてはならないと思う。しかし同胞を愛したり国土を愛したりする、そういう人間の生まれながらの持っている気持というものが、時の政府の政策を無条件に愛し、それを信奉せよというふうなことになれば、これはやはり教育としては問題であって、もちろん教育者も国民の一人でありますから国家の定められた法律を順法するのは当然でありますが、しかし順法しながらも、その法律なり、あるいは特に現場教育についていろいろな問題を起すような規定なりについては、批判をしていくことの方が、そういう国民を作っていくことの方が、私は長い伝統から見た場合には、つまり新しい国民を作る第一歩になるのであって、それからは今の委員の方が御質問になりましたように、積極的な愛国心というものは、そういう古い私自身涙と恥とでしか思い出されないような、私自身の怯懦を作り上げた、卑怯さを作り上げたそういう教育から脱却して、同胞愛やあるいはまた、国土愛については無条件であるが政府の政策決定については、やはり法律として施行された場合は守りながら、しかも批判の目をゆるめず、批評の自由を確保するような、そういう国民を、教師父兄を作っていくことが、私は愛国教育の一番肝心なことではないかと思うのでございます。
  20. 笹森順造

    ○笹森順造君 先ほど来時代が非常な勢いで進歩発展し、変化をしておるということをお述べになったのは、私もそうだと思っております。ところで今のお話は大体戦前における日本の過去の政府のとっておりました方針なり、あるいはまたその性格なり、それから生まれて参ったいろいろな御体験を通しての現代の変化しておる民主主義の時代の政府に対する認識との間にお述べになったことに、非常な矛盾があるような感じがいたします。われわれは過去におけるああいう戦前のファッショ的な、あるいは独裁的な、君主的な日本政府ではなくして、新しい憲法によって新しい時代ができたと、またこれが民主主義である。しかもこれは単なる国家主義あるいは愛国主義ということではなくて、建設された民主主義国家の上に、私どもの教育というものは成り立つべきものであって、しかしてその中にいろいろと働いておりまするところの人々をあるいは官僚とおっしゃるかもしれぬが、これは私は公務員だと思っております。この公務員に対して、この公務員をどう一体憲法が資格を要請しているかというようなことなどを考えてみますれば、今のあなたのお話は非常に先の変化のことを仰せになりましたけれども、戦前のことにまだこだわっておって、現代の日本の新しい進み方についての御理解に欠けておるのではないか。ここに私は理論の矛盾を発見する。あなた自身は矛盾を御発見なさらないか。やはり戦前のこのような民主主義国家を批判し、かかるが故に戦前反対したと同様な態度で反対されるのが、それが正しいと思っておるかどうか。それをお伺いしたいと思います。
  21. 久野収

    公述人久野収君) 私はその点については、衆議院公聴会矢内原先生がお述べになった通りであって、現在のこの教育法案はたった一つだけの法律的な現象でないと感じております。その他一連の小選挙法案であるとか、あるいは憲法調査会法案であるとか、国防会議法案であるとか、その他一連の法案の、つまりそういう全体が流れていく方向が世界の変化、世界自身変化していく方向に逆行して、前のところは帰る非常に危険な傾向を持っているのじゃないか。そうしてその持っているということは、政治家は現実の要求のためにどうしてもそういう問題を認めてないのが通説でありますが、教育者、学者というものは、やはり先立ってそういう点を警告する。そういう点で矢内原先生衆議院公聴会にお述べになりました全体としての古いところへ日本が帰ろうとしている。しかも世界は新しいところへ出ていこうとしている。ギャップが非常に大きくなるから、その点について私は実際上こういうことが申せましょう。教育において進歩の原理を確保しておけば、革命はできてこないのであります。なぜなら、二十年後に、二十年に応じたその後の変化において子供がおとなになるわけでありますから、革命は回避されます。しかし教育政治に屈服して、政治の現在の要求に奉仕しているときには、二十年後のコンディションが教育を取り巻くところの条件、政治を取り巻く条件が激変した場合には、これをつまり適応せしめるためには、根本的に破壊しなければならぬというような考えが出てくるのでありますから、私自身教育において進歩の原理を主張するのは、実は政治において革命というものを少くとも好ましくないと思っているから、このことを主張しているのであります。
  22. 笹森順造

    ○笹森順造君 ただいまのことで明確を欠く点がございますから、明確にしておきたいと思いますが、学校先生及び父兄に対する信頼は、私これはあなたのおっしゃる通り信頼すべきだと思います。また、信頼しなければならないことになっております。とともに、これと協力する公務員に対する信頼がないように、あなたのお話からうかがえますが、つまりこれを官僚という、強い言葉をお使いなさいますが、私どもはこの教育に携わるところの公務員と考えております。この公務員なるものが、全体の奉仕者としての立場が明確になっておる。この理念に全部がなっておるかおらぬかは別として、現在のわれわれの観点とし、立場とし、また教育を一つの基準としてそこに私は置くべきものと考えておる。ところがあなたのお話しだと、公務員に対しては不信である、信頼できぬというような御発言があったようでありますが、やはりあなたは公務員に対する不信ということをお述べになるお考えでありますか、お尋ねいたします。そこを明確にしておきたいと思います。
  23. 久野収

    公述人久野収君) それは御意見の相違になると思いますが、つまり近代における官僚システムというものは、機構という言葉でいわれております通り、メカニズムという名前で呼ばれております通り、巨大な組織であります。そして一方のところを刺激すれば自動的にこういうふうになる。そういう点は機械と同じでありまして、この官僚機構の持っております大きな動きというものを、政治家がどのようにコントロールするかという問題は、これは政治学上、哲学上、あるいは思想上の最大の問題であります。機械が人間を支配する場合と同じであって、機械に比するような巨大な官僚機構というものがそこに現われてきて、これは私の説明を要するまでもなくマックス・ウエーバーが詳細に官僚論の中で表わしたものであります。つまりそういう一種のフランケンシュタインのような性格を持っておると私は思っております。それは個々別々の官僚機構の中にお勤めになっておる、その一つ一つの歯車を形成していらっしゃるところの方々の御意思いかんにかかわらず、一つの大きな歯車になっておりまして、その歯車が教育をとらえたときには、どうしてもやはり教育官僚に従属し、官僚政治が競合して、かつての戦前教育と同じような教育官僚機構と政治機構のマイクロフォンになってしまう、あるいはメガフォンになってしまう非常に大きな確率があるという認識に立って、つまり私は官僚個人個人を攻撃するのではなしに、政治家の皆さん、教育家の皆さんに、つまり官僚機構というものが持っておる原爆の機構にも比較するような、そういう大きなものが教育としてどうしても近代国家に必要なのであります。しかし、それをどうコントロールするかについては、今も申し上げました通り非常に政治家も、たとえば日本戦争に入ったときの状況をお考えになればわかりましょう。日本の軍人というものが一つの軍事機構、軍閥、つまり軍人の官僚的なものを築いておって、もう政治家の斎藤隆夫や浜田国松あたりがいかに御批判なさっても、一たんそれが戦争をやるのだ、満州事変を起してこれからここへ行くのだと軍が一方的にきめてしまった。天皇個人は非常にそのことを憂えておられるが、天皇個人も、重臣層も、あるいは資本家の人々も、あるいは政党人々も、一切の人々がとめようとしたけれども、どうすることもできなかった。これは軍部というものが武器を持てる官僚であった、官僚機構の上にさらに武器を持っておったからということもありますけれども、官僚機構というもののコントロールは割合楽にできるとお考えになっていることは、少し私と意見が違うし、そこはちょっと委員の今御発言なさいました方と私の見解の異なるところで、私は官僚機構の非常に重大さを考えます。
  24. 笹森順造

    ○笹森順造君 ただいまの御発言をもう少し明確に理解したいために、続いてお尋ねいたしますが、お話はやはり戦争中の例などが飛び出しますけれども、私どもはお話しの通り、そういうことは、この法案についても考えてない。つまり、この法案は時の政治によって教育が左右されてはならないということは、私自身も堅持したいと思い、また、この法案もそういう趣旨でできておると思います。さらに今私のお尋ねしましたのは、公務員は全体の奉仕者であるというので、私は信頼を置きたいし、現に信頼を置いておるし、国民信頼をさるべきものとしてこれが取り扱わるべきものを、いろいろのお話しで今修正されまして、個々の人間にはりっぱな人がある、しかし一つの機構としては、なかなか信頼ができがたいようなお話しでありますけれども、現在においては、御案内のように内閣ができ上って、この内閣のもとに大臣がおって、その大臣は全部これは民主主義的に選挙された者によってでき上っている。しかし、その一つの手足としての一つの機構はこれはございましょう。しかしこういうことは日本の新しい作り方であって、総理大臣、各大臣以下、日本の国が民主的の一つの機構の中に動いているということに対するこれは御理解が十分ないのじゃないかというような疑いが起る。そこに今の公務員に対する不信というようなものも起ってくるのじゃないか。そういうことを私どもが新しい時代の建設面において、なおおっしゃる官僚的な勢力の、私どもなお考え直してもらわなければならぬ点があるとしましても、そういう根本の物の考え方が、日本の新しい基盤の上に立っているのだ、そこに一つの進展を持っているのだということに対する理由がない。これは意見の相違であれば、それでよろしゅうございます。しかしながら、新しい日本の国がそうあるべきだという、そこに私は学者にせよ、政治家にせよ、国民全体にせよ、ここに作り上げてきたということが、互いの責任だと思っておるがゆえに、この点に対する公述人の御見解をもう一歩進んでお尋ねしたいと思います。
  25. 久野収

    公述人久野収君) 私は官僚機構というもののシビリアン・コントロールというのは、やはり政治家あるいはレーマン・コントロール、つまり普通の人々によるところの支配というものは法文にうたわれておったり、あるいはいろいろの仕方でいわれているほど簡単なものでなくて、これは非常にむずかしいことであるという点で今の委員の方と少し見解を異にする。この点についてのほんとうのコントロールの仕方というようなものを、やはり政治家などはほんとう考えていただきたい。そうでなければ教育の場合をせっかく、つまり教育行政から独立さして、そして実施しても、その教育行政に従属さしてしまえば、シビリアン・コントロールというものが名だけのシビリアン・コントロールであって、そして実は形式上大臣は判こを押すけれども、実際上は全部そういう官僚機構がこれを行なっていくということになる、そういう危険性についての評価の相違かと思います。
  26. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 私はきょうあすの公聴会を開くに当って、委員長にまず御要望申しておきたいと思います。今までこの国会でよく公聴会が開かれる場合のことを私は回顧して、そしてあえて申し上げるわけですが、公述人は同僚諸君から詰問されるために出席しているのでもございませんし、また、公聴会は質疑するに当っては、若干の最小限の同僚諸君意見を必要とはいたしましょうが、討論すべきものでもございません。従って先ほどある委員から冒頭に詰問的な語勢をもって御発言がございましたが、いつも参議院にあることでございますので、きょうはこの公聴会を開会されるに当っては、特にその点を委員長において心して運営していただきたいということを御要望申し上げておきます。  そこで二点だけ伺います。それは先ほど以来先生から政治教育との関係、さらにこの法案が成立、施行された後における教育の国家統制、中央集権化によるところの憂うべき事態について、まことに該博なる知識をもってあんどんならぬサーチライトにおいて警告的な公述をいただいてありがたく拝聴いたしました。また、先刻来同僚委員から熱心に質疑が展開されましたが、これも私の聞く限りにおいて、まことにあざやかに明白に警告的な公述をいただいたことを、ありがたく傾聴いたした次第でございます。私がお伺いいたしたい点は、あなたはこの法律が成立、施行したのちにはこういうことがおそれられるということを御発言になりましたが、私はここでお伺いいたしたいのは、現在におけるわが国の大学から幼稚園に至る教育行政並びに教育の現状、動向というものをいかように見ておられるかということでございます。これと関連して、先ほどから愛国心教育ということが出てきたわけですが、われわれは本委員会審議しておりますというと、文部大臣は、教育基本法の第一条の教育目的の中に国を愛するという愛国という活字がないので、どうもそこが足りない、だからそういう活字を入れる必要があるということを非常にたびたび力説されております。これを現状のわが国の教育といかように考えておられるか。先ほど愛国心教育というものはかくあるべきだということを公述いただいたわけですが、そういう教育というものは、現在のわが国の教育においては行われていないのかどうか、そういう立場からお答え願いたいのであります。  それからもう一点は、私これは先生は哲学者であるし、先生にお伺いするのが最も適当かと思いますので、伺うわけですが、それは、終戦後わが国の文部大臣というものは、ある時代には学者、ある時代には政党人という方が文部大臣になられたわけですが、御承知のように憲法六十八条には、総理大臣が国務大臣を任命する場合には、半数は国会議員でなければならない、こういう規定があるわけです。従って、国会議員でないまあいわば党籍を持たない党人でない人も国務大臣になれるし、もちろん文部大臣にもなれるわけですが、終戦後本日までに至る各内閣における文教政策等ともあわせ、一体文部大臣というものは、政党所属の文部大臣がよろしいのか、それとも他に御見解があられるか、まあこれは人にもよるし、政党にもよるかと思うのですが、一応どういう御見解を持っておられるか、承わっておきたいと思います。
  27. 久野収

    公述人久野収君) 愛国心を事あらためて教育基本法の第一条の中にうたうことは、必要ないと思います。そういうことをうたえば、結局現在の段階では、つまり前の古い愛国心というものを形式的に、古い愛国心は、かつては国民をたばねるだけの力を持っていたのですが、今ではそういうものはありませんから、形式的にお題目的に唱えることになる。元来愛国心というものは、そういうお題目として唱えられるというようなつまり概念的なものであってはならない。静かに水のようにわき出てくるものでなければならん。そういうものはだんだんと国が悲運に際会して参りまして、国の独立が名目上何であれ傷つけられてくるというふうになれば、これは自然とわいて参ります。そういう自然とわいて参りまする愛国心を基礎とした教育をやるべきなんであって、ことさらに上の方から愛国心の教育というようなものを押しつけても、それに呼応してわいてくるようなそういう愛国心というものは、まさかの用あるいは日常の用にはほんとうには立たない。私は新しい教師たちによって、新しい愛国心がだんだん育ちつつあるという実例を、きっと本日の午後公述なさいます池上公述人長野県の教育委員会の副委員長でありますが、長い間しておられる、私の友人でありますけれども、その方がきっと御質問に応じて生き生きと具体的にお述べになると思います。で、第一点については、私はそういうものを入れることには反対だ。  それから第二点の文部大臣が党人である方がよいか、あるいは党人でない方がよいかという問題は、これは一般論としてはなかなか論じられない問題でありますが、しかし現在の日本の状況から申しまして、戦後の経験から申しますと、やはり教師の立場として考えた場合は、学問や教育について専門家でいられる党人でない方に大臣になってもらったときの方がわれわれ教師はずっと安心感がありました。党人であるいろいろの大臣が、とんでもないいろいろな思いつきとしか思われないような声明をなされるのに対して、われわれはいつも危惧の念と、ある場合には憤りの念を持っていた、そう率直に言って差しつかえないと思います。  〔秋山長造君発言の許可を求む〕
  28. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) いかがいたしましょう、あとにも公述の方が見えておりますが、それじゃ簡単に秋山君。
  29. 秋山長造

    ○秋山長造君 今の矢嶋さんの質問と関連して、もうちょっとお伺いしたいと思うのですが、よく清瀬文相はおっしゃることなんですけれども、今の教育基本法はりっぱでいい、いいけれども、それはコスモポリタンとしてりっぱなんだ、日本人としての自覚ということが欠けておるのだ。だから現在の徳目、まあ徳目という言葉は語弊がありますけれども、人格だとか、勤労だとか、あるいは平和だとか、健康だとかいうそういういろいろな徳目にプラス愛国とか、あるいは日本人としての自覚、何かプラスアルファをやりたいんだ、こういうことを言っておられるのですが、私自身日本人だとか、コスモポリタンとかいうように類型的に分けて、そうして何か別な型のような扱い方をするということそれ自体に、相当一つの意図を持った意図的な表現の仕方だという感じを持つのですけれども、そういう問題について教育的にどうなのかということと、それから第二点といたしましては、こういう問題と関連して道徳教育ということが依然としていわれておる。具体的には修身、倫理科を設けるということがいわれておる。私自身考えるのは、こういう道徳教育というようなものを特に修身科というような形に固定して、そうしてその修身科によって道徳教育というものが一体実質的に推進され得るものかどうか、私は非常に疑問を持つのです。そういう問題について教育本質論としてどういうようにお考えになるか、その二点をお教え願いたい。
  30. 久野収

    公述人久野収君) 今の委員の方の御質問は、大体御質問はお答えももう含んでおりますが、そのお答えについては原則的に賛成であります。第一番には、徳目を羅列するというふうな仕方は、封建時代の教育でありまして、封建時代の教育というのは、徳目を羅列しながら、その徳目を実際の人がやってみせて、つまり親のまねをする、上長の先生のまねをするということだけで、道徳というのは成り立ったのでありますが、市民社会の道徳ということになりますと、徳目を羅列するような仕方では、道徳教育は行われません。つまり非常に違った環境、先生とは違った環境で自主的な態度をとるというふうなそういう子供に育てるためには、徳目を羅列したような教育ではなしに、かえってそういう徳目をこなし得るような、そういうつまり主体性を持ち、自主性を持った子供を環境との相互作用の中で、どのように鍛えていくかということが、それが大事なんです。であるならば、徳目の基礎にまず知育がなきゃならん、徳育の基礎に知育がなきゃならんのであって、その知育というものの教え方ということこそ、実は一番大事な問題だと思うのであります。ですからして、徳目を羅列をする、それからまた、コスモポリタンであるとか、つまり日本人としての心が欠けておるというような考え方も、あくまで日本人は日本人なんでありまして、どれほどイデオロギーが違おうと、結局みんな日本人の行動の仕方、日本人のものの考え方というようなものを脱却することはできません。ですから、意識的に申しました場合には、教育の使命というものは世界の公道に反しない、世界のどこへ出しても堂々と通用する使命をもって、そういう目標でもって、子供ほんとうに育てでいくことの方がいいのです。なぜいいかと申しますと、前は日本の国旗というものにも実力がありました。おれは日本人だと言えば、何か相当なことを中国へ行ってできたかもしれません。今はキャッシュ・ヴァリューの力しか持てない。われわれ一人々々がほんとうにどこへ行っても、徳目において世界万国に通ずるつまりいろいろな資質において、能力において、才能において、現金としての力を持たなければならぬ、その現金としての力を持っている子供をどのようにして作るかということが、教育に課せられた使命であって、徳目の談議であるとか、あるいは愛国心とコスモポリタニズムの談議であるとかいうようなものは、私たち教育の理論を研究しておる者の立場から見ました場合には、やはり閑葛藤である、ひま人の談議であるという感じを免れることができません。
  31. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 以上をもちまして久野収君に対する質疑を終了することにいたします。どうも久野先生ありがとうございました。   —————————————
  32. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 次に、河原春作君から公述をいただくことにいたします。河原先生どうもお忙しいところありがとうございました。
  33. 河原春作

    公述人(河原春作君) 私は初めに申し上げたいことは、新聞や、雑誌や、あるいは放送などで、この問題は政治上、教育上、社会上相当大きな問題としてあるにもかかわりませず、法案内容実質について議論されているように見受けられないのが非常に遺憾であります。ほとんど全部、その全部と申しますのは、いわゆる十大学長の声明をも含めて内容に事実の裏づけのない声明、宣言の放送というような印象を受けますのは、ほんとうに遺憾であります。数年前ですか、いやもっと前でありますか、あいつはアカだといって第一線から葬り去り、あいつは親米派、親英派だというので、社会生活の上から姿を消したという実例がずいぶんありますけれども、近ごろはこれに反して何かあると、あいつは反民主主義者だ、非民主主義者だという一言で片づけてしまうようなやり方が多いように思うのは、ほんとうに残念に存じます。  この法案の問題となる点は二つあると思います。第一は、地方における教育行政の主管機関としての教育委員会はこれを存置するけれども、教育委員公選制を廃止して任命制とするという点であります。第二は、文部大臣と都道府県並びに都道府県教育委員会との間、都道府県委員会市町村委員会との関係を、従来よりも密接にしたという大体この二点が要点だろうと思います。  元来この教育委員会の制度というものは申し上げるまでもなく、昭和二十一年にアメリカの教育使節団が参りまして、そこで検討をしてその報告に基いて、連合国総司令官から日本政府に勧告された教育制度に従ったものであります。それではそのアメリカにおいてはどうかと申しますると、御承知の方には重複して恐縮でありますが、全部の教育委員会が公選ではありません。ステートすなわち州の教育委員というものは、知事の任命する州の方が六割ぐらい、あるいはそれ以上になっておるのであります。学区は日本で申せば、大体市町村と同じだろうと思いまするが、これははるかに公選の方が多いのでありますが、しかし、ニューヨークとか、その他の大都市では、任命の方が多いのであります。なおその上に、教育委員会そのものを置かない、教育委員会制度を採用していないステート、州も一割かあるいはそれ以上あると思います。いずれにしても、教育委員公選制を廃して任命制とすることによって、直ちに教育民主化の精神に反するなどという観念的な議論は、この制度をもたらしたアメリカにはないようであります。  私考えますのに、この公選制度は、日本の官吏が満州国を作った当時に、その満州に参りまして、白紙のところへ、自分考えを全部実行に移したと同じように、教育使節団の一部である人が、その関係者が少し言葉は悪いかもしれませんが、いわゆる点数かせぎに、一つの制度を非常に賛美して、それが報告書に載ったものと思います。なお、都道府県市町村の当局者が、ほとんど全部公選制廃止に賛成なことは御承知の通りであります。また、地方行政調査委員会においては昭和二十六年、政令改正諮問委員会においては同じく昭和二十六年、地方制度調査会においては昭和二十八年いずれも新教育委員会法、ただいまの法律は長いですから、新教育委員会法と申し上げますから、さよう御了承願います。新教育委員会法のように、長が議会の同意を得て教育委員を任命することを適当と認める旨決議しております。また、文部省に設けられました教育委員会制度協議会におきましては、昭和二十六年公選制任命制いずれを可とするやの議論が伯仲しまして、委員の説がほとんど同数でありましたがために、とうとう結論を出さないことにいたしました。中央教育審議会におきましては、昭和二十八年公選制を維持する旨決議いたしております。  以上私が申し上げましたことは、現行公選制と新任命制とのいずれかいいか悪いかということを申し上げたのではありません。人によってその可否得失を主張することを否定したものではございません。ただ、公選制度のみが民主的制度で、公選制の廃止が民主主義教育の破壊であるというような説は、初めに申し上げましたあれはアカだ、あれは親米派だというような簡単な議論のやり方であって、必ずしもわが国有識者階級すべての同意を得ておるものでないということを申し上げただけであります。  さて、それじゃ私はどっちに賛成するかということになるわけでありますが、先ほど申し上げましたように、アメリカ自体においてもステートにおいては任命制の方が六割以上を占めておる。ニューヨークその他の大都市では任命制が多い。市町村としては公選の方が多いけれども、大都市においては任命制の方が多い。これはひっきょう、どういうわけだと考えますと、結局教育委員会はいわゆる行政委員会でありまして、執行機関であります。やはり大都市のように事務が多くなり煩瑣な場合にはただ選挙された委員だけによって事務を執行するということは、なかなかむずかしい。従って大きなところ、事務の複雑なところにおきましては、どうしても任命制による方が委員の構成、選択等の点において実際必要であるという自然の要求から出たものであろうと存じ、結局こうならざるを得ないのじゃないかと思います。なお、かつ任命制任命制ということを非常に力強く申しますけれども、これをそれじゃ任命する人はだれかと申しますと、自分が直接選挙した地方団体の長であり、そうしてその地方団体の長が推薦した人を、自分選挙した議会によって同意を求められておるのでありますから、その点について別にこれが反民主主義とかというような議論を立てるような問題ではないと私は思います。  それから第二は、先ほど申し上げました文部大臣と都道府県委員会市町村委員会との関係でありますが、私はただいまちょっと先ほどの公述人の御意見も少し拝聴いたしたのでありますが、私は元来都道府県市町村各別に全然独立した教育なんというものはある道理がないと思います。教育基本法は「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」と定めており、どんな市町村教育だって国民全体に対して責任を負わなければなりません。ただ地方における教育行政は、地方の実情に即して行われることを必要とすることはこれまた言を要しません。ただ、現行法はあまりに個々の地方団体ごとの教育事務の処理を強調し、国民全体に対して責任を負うという点を顧みないのじゃないかと思うのであります。数年前のことを考えてみますと、たとえば山口県の夏休み日記事件、あるいは京都府の旭丘事件、ああいうものは事件が起ってずいぶん世間の問題となりましたけれども、どういう結末をつけたんだかわかりません。おそらくうやむやになったのでありましょう。かりに私たち子供がああいう教育を受けていると考えると、そのお父さん、お母さんはどういうふうな考えになるでしょう。しかし、現在の制度では、かりにその学校の児童の両親があの学校教育のやり方はどうも困ると思っても、自分の住居を動かさない以上、ほかの学校に転学することはできません。憲法、教育基本法、その他の法律によって日本国民は義務教育の間は、その子弟を学校に通わさなければならないと強制して、しかもその学校はお前の子供はどこのどの学校に入らなければならないと強制しておいて、そうしてその学校においてどうもああいう教育をされたのでは困るというような教育をしておる場合において、国が何にも関係する、関与することができないということは、私どうしても了解ができないのであります。先ほど申しました通り日本では昔からでも、現在はなおさら地方自治庁がありますし、また地方におけるすべてのこともそうでありますが、ことに教育などでそうこまかいことを上から干渉されることは適当でありますまい。私もその点はそうだと信じております。ただ、現在提出されておりまする教育委員会に関する法律内容に盛られました程度の関与が生じることは、私はむしろ望むべきことではないかと思います。  第二の点でこまかいと申しますか、内容の説明を少しく申し上げますれば、第一は、おそらく教育長の任命について、文部大臣あるいは都道府県教育委員会承認を受けることを必要とする点であると思います。しかし、これは何も昔のように文部大臣が任命するのでもなければ、また、文部大臣が勝手に罷免することができることを認めたわけではありません。ただ、これを任命する際に、適任かどうかを認めることを法規に規定しただけであります。これは何も日本に限ったことでなく、イギリスなどでも大体そういうふうになっておる。およそ国の一部をなす団体において、全然その仕事に国が関与することができないということは、どうしても了解ができないのであります。  第二点は、おそらく教育予算送付権の廃止という問題だろうと思いますが、これは元来教育税というものをこしらえて、そうしてその教育のために税を取るくらいの権限を認めることまでいかなければ、実際のところほとんど意義がない。過去数年間の経緯にかんがみましても、事務の複雑化をきたすだけで、そうほんとうの力はないのであります。先ほども申しましたアメリカの教育使節団が参ったときに、向うの人が教育税のことも申しておりましたが、必ずしも、むろん全部がそうなっているようでもないし、ほとんどやっているところは少いのじゃないかと思いまするが、実際のところ教育税ということは、なかなか実現はできない。できなければ、ほとんど意味がないのじゃないかと思います。  それからその次に問題になりますのは、第三十三条第二項、いわゆる教材使用についてあらかじめ届出させるか承認を受けさせるようにする定めを設けるものとするという規定であります。これは何かおそろしく例外の場合を考えて、どんな場合でも規定しなきゃいけないというように解釈されることもあるようですが、私はそう解釈いたしておりません。ある場合を想定してそうして定めを設けるものとする。教育委員会の規則できめればよろしいわけであります。大体先ほど申しました山口県の夏休み日記などという問題は、大体県の教育委員会学校でああいうものを使っているのかどうかわからないというのが、もう大体適当な措置ではないと考えます。中央教育審議会におきましても、副読本については届出制をとる方がよかろうという決議をいたしたこともあります。大体あの夏休み日記などというものは、夏休みが済んでしまうともうほとんど使用されないのでありますから、みんなで騒いでいろいろ議論しているうちに、問題は事実上解消してしまう。こういう点について、教育委員会において適当な措置をあらかじめ講ずるということは、やはり必要なんじゃないかと思います。  その次に、問題になりますのは、おそらく県費負担教職員を都道府県委員会で任用するということでありましょうが、それはもう人事交流のために大体妥当であるということは、これはもう初めから識者はそう言っておったので、現在これに対して反対されている人でも、前はこれに賛成した人があったようにも存じます。  大体二十分ということですから、あと御質問によりまして……。
  34. 田中啓一

    ○田中啓一君 河原先生に一、二お尋ねを申すのでございますが、いわゆる教育予算の点でございますが、教育に関する支出と収入に両面やればともかくも、片方だけの現行法ではほとんど意味がないのじゃないかというお説でございました。大へんこの点も世間で論議をされまして、これをなくすれば、骨抜きだというような論も行われておるのでございますが、ただいま河原先生は、この教育委員会制度の由来というものは、アメリカ教育使節団の報告書というものが一つのもとになっているようなお話しでございまして、かつまた、そのころからこれらの新制度の樹立につきましては、ずっと御関係をなさっておったろうと思うのでございますから、そこでお尋ねするのでございますが、私はどうもアメリカの教育使節団の報告にこういうことがあったのかないのか存じませんが、あって、こういうものが現行の法に入りましたのでございますか。  それからまたこれはどの予算にしましても、それぞれの行政の主管省は自分のところの予算を取るには、きわめて熱心でございまして、結局地方においてこういう強力な予算を取るような力を持たしておけば、自然文部省関係の予算も多くなるはずだというようなことでもありますか、どうもそういう動機はわかるのでございますが、しかし、私はどうも行政制度と申しますか、あるいは国、あるいは地方公共団体の議決機関、あるいは執行機関との能力、配分の関係、ことに国にしましても、また地方公共団体にしましても、統治体としての一つの法人でございますから、予算編成権を持っておるものが二人おるということは本来変でなかったか。これならまあ一つ大いに教育尊重の意味文部大臣には、一つ原案執行権を認めようじゃないか、これなら大いに教育予算が取れるだろう、こういうことにもなりかねないのでありますけれども、国についてはさすがに今日憲法に書いてあります予算編成権というものを、二つに分けて考える必要はないのであります。ところが地方公共団体に対しては、現行法は予算編成権が二つあるようになっている。先ほどアメリカの例をお話し下さいましたので、その点もお伺いしたいのでありますが、私はアメリカでは中には教育委員会ではなくて、一般市町村とは別の教育自治体という組織のものもあるやに実は聞いておるのであります。そういうところであれば、むろん先生のおっしゃったように、それはもう予算は編成もし、議決もし、同時に税も取らなければならない、こういう完全な教育予算ができ上ることになろうと思う。どうも一つの自治体の中の教育行政を扱っておる委員会で、こういうのがありますか、どうでありますか。私は国なり地方公共団体なりの予算というものの性質上、編成権が二つあるということは、どうもこの教育委員会法は初めから変である、こういう感じを持っておりますので、その辺のもし御解明が願えましたらば幸いであります。
  35. 河原春作

    公述人(河原春作君) 先に申し上げたのですが、私はこの教育委員会法の制定につきましては、全然関係いたしておりませんでした。従ってその経過についてお答えを申し上げるわけにいきませんですが、ただいまお話しのように、一つの団体における予算編成権は一つであるべきだということは、最初から当然の話だと思いまして、ただ先ほどの方もお話しになったやに思いまするが、あの当時は、とにかく教育というものを全然独立させようという空気というか、その当時の為政者あるいは司令部の考え方から、ただいま申し上げた予算送付権というようなものが生まれたのだと思います。結論としてはただいまお話しの通り私も考えております。
  36. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 河原先生に若干お伺いをいたしたいと思います。  その第一点は、公選制廃止と任命制に関する問題であります。これは理念として論じた場合はいろいろ意見があるということですが、私は現状というものを考えて今任命制を実施するということが、何らの心配がない状態にあるのかどうか、そういう点について御意見を伺いたいと思うのですが、河原先生も御承知の通り、これを都道府県に例をとってみましても、現在の知事諸君はほとんどが大部分が政党人であるか、あるいは政党の背景を持っている人たちであります。それから都道府県議会を見ましても、政党の分野というものが明白になっております。もっとさらに言えば、現状においては自民党の背景を持った知事が大多数を占めております。また、議会を見ましても、大体同様のことが言えると思うのであります。そういう実情の中において、果して教育委員にふさわしい人が選ばれるかどうか。何らの心配なしにふさわしい人が得られるかどうか。御承知のように知事選挙といい議会議員の選挙といい、非常に激しい選挙を経て当選している人たちであります。こういう議会承認を得て、そうして知事が任命する現在のこの事情から言えば、こうして選ばれた教育委員によって構成された教育委員会は、現在よりもさらにひどい政治的な対立がその内部に起ってくるのじゃないかというふうに私は考えているわけなんです。そういう点に対する御判断を一つお聞かせ願いたいと思います。  それから第二番目の問題といたしまして、これは予算の原案送付権に関係をするのでございますが、私どもの判断では、いろいろの事情がございまするけれども、教育予算というものが、教育を守る最小限度の線を割ろうとしている。私はその一つの例として現在一学級に六十人を収容している学級、そういう学級は相当あります。これは私も教育に若干経験を持っておるものでございますが、とうてい満足な教育はできがたいというふうに考えております。これはやはり教育予算が最小限度のものすら容易に獲得できないというふうな事情になってきているというふうに私は考えておるのであります。そういう現在の事情から考えまして、やはり教育委員会の予算要求というものに、何らか支柱を与える必要があるのじゃないか、そういう意味において教育委員会が予算の原案送付権を持っておるということは、これは必要なことではないかというふうに実情から考えて判断をしておるわけなんですが、こういう点について一つ御所見を伺いたいと思います。  最後に第三点といたしまして、教育と国の責任の問題でございます。これは非常に重大な問題であると同時に、非常にまた私はむずかしい問題でもあると考えておるわけでございます。私は現行の建前といたしましては、先ほど久野先生がお話しになりましたが、教育については政府といえども干渉しない、干渉できないというのが建前になってきておったと思うのであります。そうしてただ国の責任として強調されている点は、教育がしやすいように施設を充実するとか、あるいは環境を整備するとか、そういう点に重点が置かれてきた、そういう方針できた、ところが今度の法案におきましては、先生は先ほどこの程度では大して問題ではないのじゃないのかという御意見でございましたが、それで先生の御意見は明白になっておるのですが、ただ、私は今度の法律では教育長をきめるのに文部大臣承認を経なければならないというふうな点、そういう必要がどこにあるのか、了解に苦しんでおるわけであります。なお、そのほかに教員の行う研究集会についても、文部大臣が直接指導をする、あるいは主催する、こういうふうに研究の内部にまで文部大臣が立ち入るということも、規定されておるわけであります。そのほか教育委員会が行なったいろいろの執行について、これが是正を要求する権限もございます。私は非常にこの権限はもしある意図をもってこの権限を行使するならば、それこそ国家統制という非常にわれわれが心配しているそういう結果が生れてくると思うのです。これはもちろんその運用に私はあると思うのですが、しかし私どもが法案を研究する場合は、それはその運用をする人のことを条件にして考えることはできないのです。どうしてもこういう法律がある以上、そういう国家統制を行う危険がこの法律から考えられるというふうに私は思っておるわけなんです。そういう意味において、国家統制の心配が全然ないのかどうか、私どもは非常な危惧を持っておるわけであります。以上の三点について先生の御所見をお聞かせをいただきたいと思います。
  37. 河原春作

    公述人(河原春作君) ただいま荒木さんからの御質問にお答え申し上げます。第一点の、その任命制につきましては、私この教育委員会の制度を日本に持ち込んだアメリカでも、任命制の方が州では六割以上、市町村でも多数は公選制ですが、ニューヨークその他のところでは任命制によっているということを申し上げましたから、その問題でなくして、ただ荒木さんがただいまもおっしゃいましたような現実の問題として適当と思うかどうか、こういう御質問のように存じますので、それをお答え申し上げますが、そういうしかし御心配をなさると、今度それじゃ社会党内閣になったらどうか、いつまでたってもその任命制がいいか悪いかということは議論できないことになる。私は自民党内閣がつぶれれば、当然社会党内閣ができるものだと、二大政党の上からそう思っております。そのときになって任命制がやはり危かしくてやれないのだというのでは、この問題は永久に解決する道がない。ことに先ほど繰り返してアメリカの例も申し上げましたが、この公選制日本施行するときに、おそらく文部大臣は森戸辰男先生だと私は思いますが、伺いますと、午後こちらでやはり公聴会公述人として御出席になるそうでありますから、私は希望するならばその当時日本政府といいますか、文部省がどういう態度であったか、どういうふうなやり方でやりたいのかという案をこしらえて司令部へ持っていって、CIEといいますかね、シビール・インフォメーション・アンド・エデュケーションですか、民間情報教育局の方はある程度耳を傾けたんだそうでありますが、何といいますか、もう一つの民政局ですか。何かその方面ががんとして聞かないのでとうとうその現在のような教育委員会法ができたというお話を伺ったことがあります。そこで根本的には私はやはり任命制の方がいいんだ。なぜかというと、これは執行委員会なんだから、行政委員会なんだから、こういうものを審議会と同じような方法で委員を選ぶのは、適当でないという私は根本的に考えを持っておりますし、それからまた、ただいまおっしゃいました現在の地方における長とか、道府県会議員の数の多数とかということをおっしゃると、これは私は永久に解決しない。今度社会党内閣になるとやはりそういう反対論が出るかもわからない、そういうことは私としては議論いたしたくない。私はやはりただ理屈の上から任命制の方が適当だと思う、こういうことだけを申し上げて、あるいは御不満であるかもしれませんが、御返事にかえたいと思います。  第二のその予算原案、予算案の送付権、これは私も長いこと教育のことに関係しておりましたから、教育予算があまりに少いということは常に考えておったところで、それをなるべくいわゆる荒木さんのおっしゃる教育を守る最小限度の点まではぜひ確保したいという点については全く同感であります。けれどもね、そうかと申しまして何かね、ある一部の人の言うように、教育だけが国家の行政から切り離し、府県行政から切り離すという考え方は、実は私はどうも納得できないのです。やはり教育といえども、全体の行政の一部であるという考え方を私は持っておるのであります。従ってその原案送付権というようなものも、ほんとうはあり得べからざるものであると私はそう思うのです。これは意見の相違になるかもしれませんが。ただ繰り返して申し上げますが、私も教育をやってきたのですが、教育を守るに最小限度の予算だけは確保したいという点については、もう全然御同感であります。  第三点の教育と国の責任という点でありますが、これはその一部相当有名な学者と称せられる人の中でも、国はただ予算を取ってやればいいんだ、施設をしてやればいいんだ、そのほかには関係してはいけないのだ、これはその人の学説としてなら一応伺ってもよろしい。けれども現在の制度の上において、どうもそういうふうには解釈できないのであります。私はまたそれでは困ると思うのですね。先ほど申し上げた例をまた繰り返すのも非常に失礼に当るから、もう申し上げませんけれども、いやしくも国民教育するんですから、宮崎県人と青森県人と全然別個で、その間の関係がないというような、そういうやり方は私はないんじゃないかと、やはり国はある程度の責任を持たなきゃならぬ。ただそれをあまりに干渉にわたるとかいうことがあれば、それはよろしくないけれども、それを是正する道がないようにおっしゃるけれども、私はそう思いません。なぜ国会でそれを取り上げてなさらないんですかと申し上げる。御承知のように、戦争前は教育というものは予算を伴うもの以外は、この国会の決議を経ておりませんでした。大学に関する規定でも、方針でも、高等学校、中学校小学校、全部文部省で立案して、その当時ありましたいろいろの審議会、現在別に御提案になっているそうでありますが、臨時教育審議会というような、大体ああいうものを設けてそれにかけていく、そうしてその会議で大体これでよろしいとなると、文部大臣はその案を一応天皇のもとに提出して、さらに枢密院で慎重審議して、昔の大学令でも、高等学校令でも、中学校令でも、小学校令でも、その他の学校法令というものは、全部それでできて、国会というものは全然それに関与するということができなかった。従いまして国会の議論というものは、文部省の関係は非常に少い。私らも文部省の役人をしておりましたが、私らは国会よりも枢密院の方が実はこわい、枢密院で法令をすみずみまで突つかれると困るから、非常に苦労をしたものであります。ただ、国会に出ると、そういう点は非常に楽であります。国会に来るのは、義務教育費国庫負担法だとか、そういう予算を伴うもの、金を伴うものだけしかかかっていかないし、議員さんの質問も少いし、割に楽でありました。戦争前はそういうものであった。しかし先ほど笹森さんからもお話がありましたように、現在の状態と昔の状態とを混同して、昔の状態でもって議論を進められるのは、実はどうかと思う。現在はすべてのものがこの国会を通過しなければ、文部省としても一つも仕事ができない。そのあらゆる問題について国会議員方々の御意見を吐露されることができる、かりに文部大臣が研修会にどうとかしたとか、もしそういうことがあったら、それがまた不当ならそれが国会で議論になれば、文部大臣といえどもそうひどい間違ったことはなし得ない状況に現在はなっておる。すべてのことが国会で議論され、しかもこれは白昼堂々と議され、文部大臣がかりによこしまなことを考えられる人がありと仮定いたしましても、そういうことは抑制し得られるのじゃないかと考えます。
  38. 安部キミ子

    安部キミ子君 先ほど先生は、山口県日記のことを申されましたが、私は当時山口県の県の教育委員をいたしておりまして、二十八年に東京へ出てきまして後にあの問題が大きくなったのです。少くとも山口県の日記については先生よりか、私の方が事情をよく知っているんじゃないかと思いますが、あなたはどの程度に山口県日記というものを認識しておいでになりますでしょうか。
  39. 河原春作

    ○参考人(河原春作君) 私は東京におりましたし、それに関係する職責を持っておりませんでしたから、むろん私の方が知識は少いんだと思います。ただ私は、あの山口県の小学生日記を見て、かりに一つ今記憶していますのは、要するに朝鮮事変というものは、あれは南鮮の李承晩が北鮮に攻め込んでそうしてきたから、北鮮がさかしまに討ってこれを海岸まで押しつめたんだとかいうような、詳しい正確なことは記憶しませんが、とにかく南鮮から攻めて入ったんだという記事、まあほかにもありますけれども、私はそう記憶しておりませんが、私はそれだけでも、こういうことが事実かどうか、これはあるいは百年を待たなければ決定しないかもわかりません。しかしそういうことを小学生に教える必要がどこにあるんでしょう。私はもうそれだけでもって、山口県の小学生日記というものが非常に不当なものであると考えておる。
  40. 安部キミ子

    安部キミ子君 今のお説によりますと、私は先生の学識を少々疑うことになります。私どもが今まで教育を受けたものは、やはりある約束のもとに、その説がどのように違おうとも、ただいまのこの法案にいたしましても、あなたはこの法案はいい法案だという建前で公述をしていられる。賛成の建前、ところが先ほどの先生反対の立場を持っておられるように、やはりものの見方によって違うのだと思う。でありますから私は山口県日記についての、あれがいいという断定に立って申しておるのではありませんが、もう少し実情を申しますと、あの問題は県の教育委員会というものが今日まだこの法案が出ます……。
  41. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 安部委員にちょっと御注意申し上げますが、質疑をなさるように。それからお忙しい中を出ていただいておる公述人の方に批判をされることは、先ほど矢嶋委員の発言もありました通り、お慎しみ願いたいと思う。
  42. 安部キミ子

    安部キミ子君 それで実はあの問題は教育委員会で処理さるべきだと思うのです。山口県教育委員会というものがございますので、しかし世間にあんなにぱっと大きくなったのは、今度参議院選挙に立候補しようというある政党の方が問題にされてますます大きくなったのですね。そういうふうな実情もありましてですね、この政党人がですね、委員会制度というものがある時代でも、そのように教育を利用するという傾向が多分にあるのですよ。今度この法案が出ましたから、そういうふうなことが絶対にないと、こういうふうにお考えになりますでしょうか、その点もし……。以上でございます。
  43. 河原春作

    公述人(河原春作君) 委員長から御注意ありましたけれども、私ただいまあなたのお話しのうちに決して不愉快な感じを持った点は一つもございませんから、(「その通りだ」と呼ぶ者あり)ただですね、山口県の日記のことを申し上げましたのは、ただああいうことをして、ああでもないこうでもないと言っているうちに、夏休みというものは二カ月くらいすぐたってしまうんですからね。問題にならないですよ。あとあとから議論しても。私はそういうことがしかるべく教育委員会に届け出か何かあって、この日記はお互いにどうだろうというような考えさせる期間があった方がいいとこう私は考える。それから第二の点ですね、あなたと私とあるいは立場が違うかもしれません。従って教育委員会法、新しい法律施行されましたから、あなたの御心配になるようなことが絶対にないと信ずるかと、私はそう信じませんとは申し上げませんね。大ぜい人がいるんですからね。なかなか法律なんというものは、全部に徹底するまでには相当期間がかかるのですから、そうは思いません。けれども私はさっき最後に申し上げましたように、今はすべてのことがこの国会審議の対象となり得るんでありまして、しかし幾らかそうだといったッて、間違えたことを提出するということは、できないと私は思うんですね。
  44. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 簡単に二点お伺いしたいと思います。先生は長いこと日本教育に携われた方で、文部省の次官まで進まれた方でございますので、その造詣も深いと思いますので、伺いますが、教育委員会法が成立した当時、教育委員がまず第一にやらなければならん一番大事なことは、その教育委員諸公信頼してまかせることのできる、教育専門家である教育長を選ぶことは最も大事なことだと、こういうように法律ができたときに解明されて参ったわけですが、このたびの法案によりますというと、教育長教育専門家でなく、市町村においては五人ないし三人の教育委員の中から一人選ぶということに相なっておりますが、これをどうお考えになられますか。これを伺いたいのです。いろいろな場合をまあ考えますというと、首長が議会に推薦を求め承認を受ける場合に、あるいはこの人は教育委員であり、あるいは教育長であるということを予想してやることがあるかもしれませんし、そうした場合に、一体三人あるいは五人で構成される教育委員諸君の主体性というものはどうなるのかと、いろいろな問題が出てくるかと思うのですが、それと一体教育委員諸君の職務内容と、それから当初法が発足した当時に、あくまでも教育専門家でなければならないという教育長規定、それはずいぶん実質的には変ると思うのですが、どういう御見解を持っていらっしゃるかというのが一点と、それから他の一点は、先生は昭和十一年から十二年にわたってと、それから終戦前後文部次官をお務めになっていらっしゃるようですが、終戦後教育刷新審議会が発足しまして、いろいろと検討されております。衆議院における南原公述人速記録を読みますと、自分教育刷新審議会の委員であった。委員は四十五名前後の委員で構成しておって、多数の専門委員も委嘱されておって、そしてここに強調したい点は、この戦後の教育刷新審議会によって行なった教育の基本が、たとえばアメリカの強制によったとか、当時の司令部の指令に基いたとかいうことは断じてございません。こういう当時の刷新審議会の委員であった南原先生は、こういうふうに公述されて、さらにこういうことを言われているのです。それは教育予算の適正なる確保という立場から、教育委員会は現行の予算二本建制、原案送付権、これではあき足らぬ、もう少し教育予算が適正に確保されるように、もう少ししっかりした規定をしなければ、とうてい戦後の日本教育はだめだと、こういう強力な意見があったが、そうもいくまいというので、やっと現行法の予算の二本建制、原案送付権というところに落ちついたのですが、それが今後削除されるということは、非常に今後の日本教育が懸念されると、こういう公述をされておるわけです。先生文部省におられた昭和十一、二年といいますと、ちょうど支那事変の起った前後でございますが、それと終戦前後、文部省事務次官をやられておるので、ずいぶんと御造詣が深いと思います。その当時の日本の識者が教育刷新委員会を構成されて、こういう結論を出され、その後、教育委員会法が発足した当時から、やはり予算の二本建原案送付権というものはよくないという、こういう御見解を持っておられるのでしょうが、それとも最近になってお変りになられたのか、もしお変りになられたとするならば、どういう御見解のもとにお変りになられたか、その点を承わりたいと思います。一つの小さな自治体で予算を二つこしらえることは云々と言いまするが、結局議決機関である議会への予算の提案権というものは知事と、それからどうしてもまとまらぬ場合は、委員会が出せる。しかもそれに知事の説明、その他もなせることになっておりますので、私はそれほど制約されなくてもいいのではないか、かように私は考えておるわけですが、その二点について、先生の御所見を承わりたいと思います。
  45. 河原春作

    公述人(河原春作君) 第一点の教育長を選ぶことにつきましての御質問は、大体市町村の例の一人で教育委員も兼任するという点についての御質問のように拝承いたしましたが、それでよろしいですか。
  46. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 そうです。
  47. 河原春作

    公述人(河原春作君) それは理想からいえば、むろん専任の教育長を置く方が私はいいと思います。けれども市町村と申しましても、経済状態、財政状態の非常に悪いところもありましょうし、そこで市町村長教育長として適当な人を教育委員の中に加えて、市町村会の同意を求めるというやり方は、必ずしも悪いとは思いません。それは私たち教育行政をやりて来た関係者として、教育のことはできるだけ豊かにやりたいという気持は持っておりましたが、しかし全体から考えますれば、市町村というものも、それぞれ一つの生きものでありますから、その生きものの暮し方を考えるということも、これはやむを得ないじゃないかと思います。しかし私は市町村が充実して、今のような赤字市町村といわれないような時代になってくれば、これを御変更になるのは、むしろ私も賛成で、これは当然だと考えます。  第二に、私の履歴をおっしゃっていただいて恐縮なのですが、私は二回次官をやりましたが、どちらかというと、終戦前の古い役人ですから、その後のことについては、そう口はばったいことを申し上げるわけにはいかないのですが、ただいま南原先生がこの法案について司令部から何も圧迫を受けたことはないというような御発言をなされたか、どうかということでありますが、圧迫とか何とかということは、その解釈論でずいぶん違いがあると思いますが、これは全然司令部の意見に従わないで、独立でやったのだというのは、それはうそです。それは断然うそです。文部省の役人は一々司令部からOKをもらわなければやれなかったのです。それで、それはあまり突っぱったりなんかするというと、お前をパージにかけると、その当時メモランダム・パージと称するものがあり、あまり言うことを聞かないと、それにかけるとおどかされた。こういうときにできたものを、日本国民の総意によってできたというのは、それは全然間違いだと思います。それから先ほども申しましたように、森戸さんを、ここに引き合いに出しては失礼かもしれませんが、森戸さんの教育委員会法の原案というものは、現在の原案とは違う。それは先ほど申しました通り、民間情報教育局の方はある程度耳を傾けたらしいが、もう一つの民政局というか、何というか、その方面ががんとして聞かないので、ああいうことになった。従って私はこれをはっきり申し上げます。これを全然司令部とは関係ないのだ、司令部からただ資料をもらった程度だというお話は、それはうそです。
  48. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 私の述べ方が悪かったので誤解されたようで、私のお伺いしたポイントをお答えいただけなかったのですが、南原先生教育委員会法を立法するに当って、司令部と何ら交渉はなかったと言ったというのでなくて、教育委員会法ができる前に、教育刷新委員会というものがあって、教育委員会制度の実施についていろいろ協議をなさった。その協議の中に、教育委員会の予算の編成権を確立ということがあるのですが、これらを協議するに当って、何ら抑制というものはなかった。そしてある人はやはり今行われておる二本建という形も必要だが、それ以上のものも必要だという非常に強い意見もあったが、しかし自治体を考えるときに、そうもいくまいというので、現行法のようになった。それを今この二本建をとってしまうと、教育は予算面から非常に懸念されるのではないか、こういうことを述べたということを申し上げたのです。そこで先生戦前からずっと日本教育予算を御存じなのですから、今は二本建を今度廃止することは適当だと公述をいただいたわけですが、当時教育刷新委員会で大骨をきめて、そして教育委員会法ができたわけですが、そしてこの教育委員会法に二本建ということが盛り込まれたのですが、当時からこの二本建というものはいけないというお考えでおられたのかどうか、あるいは当時はこうしなければ日本教育は守れないと考えておったか、その後、二本建制に改むべしというお考えに変られたのか、変られたとすれば、何か理由がおありと思うので、その理由はいかがですと、こう伺っておるのです。ちょっと誤解されておるようですので、南原先生にお気の毒ですから。
  49. 河原春作

    公述人(河原春作君) あるいは私の聞き違いかもしれませんので、それはおわび申し上げます。教育刷新委員会でいろいろ議論のあったことは、私陰ながら承知しております。教育刷新委員会で議論、討論は多かったかもしれませんけれども、それを決議するときには、結局司令部のOKが要った。これだけは確かだということを一つ御了解願いたい。  それから予算送付権についてお話ございましたが、予算送付権なんというものは、私が役人、小役人をしていた時代には夢にも思わなかったことです。従って私は私の在任中そういう考えをしたことはございません。それからまた、教育刷新委員会で御議論になっている最中は私は公職追放を受けていたので、そんなことはかりに考えても発表するということはとてもできない時代だった。従って予算送付権をやめてもよかろうという今日申し上げた議論が、公けの席上では初めてでございますということをお答え申し上げます。
  50. 湯山勇

    ○湯山勇君 簡単に二点だけお尋ねいたします。なるべく簡単にお尋ねいたしたいと思いますから、お許し願います。その一つはアメリカの例をお引きになられましたが、先生の例におあげになった点から考えましても、州と市町村とでは、非常に様子が違っておる。そういうことから考えまして、私はおそらくそれらのものはその地域の、あるいは自治体の住民の直接意思によって、そういう形態がとられておるのではないかというように考えます。今日日本でと申しますか、現在の法律よっては、これを一律に国でやろうとしておる、こういうところに私は問題があると思いますので、その辺の消息を先生はどのように御把握になっていらっしゃるかが第一点でございます。  第二点は、先生文部大臣権限のところでおっしゃいました、たとえばこれは例でございましょうけれども、宮崎とどこでございましたか青森、これが全然違った教育がなされては困るというような意味の御発言がございましたが、これは現在の状態におきましても、教員養成機関である国立学校は、全部文部大臣が所管しております。それから学校教育内容の基本をなすところの学習指導要領というものは、これは文部省が作ってこれによってやれということを法律でもってきめてございます。そういたしますと、そういったものはこれは国がきめるべきものであって、そういうことによってこの教育の不統一は是正できると思います。なおまた、それでできない分については、文部省設置法の第五条の第十九号に「地方公共団体及び教育委員会、都道府県知事その他の地方公共団体の機関に対し、教育、学術、文化及び宗教に関する行政組織及び運営について指導助言及び勧告を与えること。」これが文部大臣責任であり、権限としてちゃんと出ております。で、こういうふうに考えて参りますと、今新たに教育長について承認するといったようなそういう権限とか、あるいは新たに措置要求をする、しかも市町村末端に至るまで文部大臣が措置要求を求める、こういうような新たな強い権限を与えなければならないという根拠が、私にはなお先生の御説明では了解いたしかねますので、その二点について御説明いただきはいと思います。
  51. 河原春作

    公述人(河原春作君) 湯山さんの御質問に私も簡単にお答え申し上げたいと思いますが、第一点のアメリカの教育委員会の制度ですね、私は実は教育使節団の来たときには、まだ追放を受けなかったんですから、私はそれの仕事の向うの話を、英語だからよくわからないけれども大体聞いたんです。で、私はこう思います。つまりアメリカというのは申し上げるまでもなく植民国家ですわね、ヨーロッパから来て、未開地に入って来て、そこで仕事をして部落を作る、部落を作ると、そこへ固まって子供ができる、子供ができれば、教育のことも考えなければならぬ、お互いに委員を出してそれにまかしてやらせようじゃないか、これがどうも教育委員会の発端のようです。ところがだんだん大きくなると、先ほど例にしましたようなニューヨークとかシカゴとか、シカゴはどうか知りませんが、ニューヨークは確かにそのとき聞きましたから覚えておりますが、ニューヨークとか大都市、州なんかでは、教育行政というものが非常に複雑になってくると、とてもやれないんです。いわゆるレーマン・システムはやれない、執行機関なんですから。そこでだんだんと、数字が示すように州とか大都市の教育委員会任命制になったんだと私は思います。ところが日本のは、全然昭和二十一年以前には予期していなかったことを言われてやったんですから、必ずしもうまくいかない道理かとも思いまするが、日本ではそれが逆に都道府県の方は教育委員会を置いて市町村委員会をやめてしまうというような説が、これは百人のうちおそらく九十九人そうだったかもしれませんが、それは私はほんとうは成り立ちからいうと間違っているんだと今でも思う。しかしその市町村委員会をやめろという人が設置論者になったり、設置論者が廃止論者になったり、私、聞いても何が何だかさっぱりわからんので、これはやっぱり現在の教育の方がいいんじゃないかと、ただそれだけのことを申し上げたんです。  それから文部大臣権限についてお話ございましたが、現在の文部省設置法その他の法律規定によって、さっきの安部さんに申しわけないんですが、山口県の小学生日記、旭丘中学事件というものが、少くとももう少し早くその地方の当局者にわかって、そうしてこれはやむを得ないじゃないか、うっちゃっておいてもよかろう、あるいは相当の処置をしなければならないだろうといった、何らか都道府県教育委員会あるいはさらにそれが大きくなれば、文部大臣によって妥当な処置がとられる機関を置くようなことにするためには、現在の文部省設置法その他の現行法では不可能だと私も考えておる。従って現在このぐらいの程度、私は役人上りですけれども、結局どこまでも文部大臣権限を拡張しようなんで論に賛成するわけではむろんございませんけれども、それぐらいのことはどうもやむを得ない。しかも教育長の選任については、先ほど申し上げましたが、やはりイギリスなどにもその例があって、あれは民主国家ですが、それでも別に民主主義反対だなんていう意見は別にないように伺っております。
  52. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 以上をもって、河原春作君に対する質疑は終了することにいたします。どうもお忙しいところを大へん時間もおそくなりましてありがとうございました。  午前中はこれで休憩いたします。午後の公聴会は、大へん時間が詰まっておりますが、一時十五分から始めます。    午後零時四十八分休憩    ————・————    午後一時二十九分再開
  53. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 午前に引き続き、公聴会を再開いたします。  まず、上原専禄君の公述から始めることといたします。どうもお忙しいところ、御苦労様でございます。
  54. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) 急のお呼び出しでございまして、いただきました資料などを丁寧に拝見している間もあまりないままに伺ったわけでございますが、まず今までの、現行の教育委員会法というものと、今度御提案になっていられます地方教育行政組織及び運営に関する法案、こういうものと比較いたしますと、いろいろな点で非常に大きい違いがあるように私には感ぜられるのであります。もっとも現行の教育委員会法は、何と申しますか、決して完備したものとは私には考えられないのでありまして、どこか、表現はあまり適切ではありませんが、間の抜けたところがあって、これで日本教育というものがやっていけるのだろうかというような印象を与える点もあると思うのであります。これに対しまして、今度の法案というものは、拝見いたしますというと、大へん行き届いている。一般的な印象からいえば、行き届いておるという印象を受けるのでありますけれども、問題は、どっか間が抜けたような現行の教育委員会法と、行き届いた今度の法案というものとが、どちらが今日の日本教育行政のあり方として適当かという問題だと思うのであります。  今度の法案の提案理由の説明として、清瀬文部大臣が理由を説明していられる。それを拝見いたしますと、この法律は、現行の教育委員会制度というものは、占領下早急の間に、ほかの諸施策とともに採用実施せられた制度でもあり、検討を加えなければならない問題を多数包蔵している、こうおっしゃっておるわけであります。つまり現行法というものが早急の間に、他の諸施策とともに採用実施せられたというような、一般的御印象のもとに立案されたという工合に考えられるのでございますが、確かにそういう点もあったかもしれない。ただ問題は、そういうことを、なるほど早急の間に作られたものであるかもしれないけれども、作られた法律、またその後の実施状況などを見まして、日本教育というものを今日まで進めてきたかどうか、また今後そういう現行の法律で十分やっていけるのみならず、その方がいいのではないかというような確信がわれわれに持てるかどうかが、問題なんでありまして、一般的に早急の間にという御表現はいかがであろうかと思うのでございます。  それと同時に、やはり文部大臣の提案理由の御説明の中に、今度の法案には二つの重要点がある、その一つは地方公共団体における教育行政と、一般行政との調和をはかるということだ、教育政治的中立というものを確保して、教育行政の安定をはかるということが、そこに含まれておる、これがこの第一点。第二点といたしましては国、都道府県市町村一体としての教育行政制度の樹立、これが第二点だというお考えでありまして、その御説明に基きまして法案を拝見しますると、なるほどそういうことがある程度まで行われておると思うのであります。しかし問題はその先にございまして、果して地方公共団体における教育行政というものと、一般行政との調和というものが大事であるというのは、一体どういう意味において大事であるのか。行政の立場からしますると、一般行政教育行政とがばらばらになっておっては困るということはもとよりございましょうけれども、教育というものの本質から見まして、その両者の間に、それがすっかりばらばらになっては困るけれども、教育というものが一般行政とは違った特色を十分発揮し得るような工合にできている方が、いいのじゃないという問題もある。それから第二は国、都道府県市町村一体としての教育行政制度の確立ということも、これも一般的な考え方としてはごもっともだと思いますけれども、どうしてそのような国と都道府県市町村というものにおける教育行政の一体化が望ましいのかということは、それぞれ問題でありまするし、またそれが望ましいとしても、どういう仕方でその一体性というものを確立していくかという方法については、別に考えるところがなければならないと思うのであります。  これは私の感じ方でございますけれども、この戦後日本教育というもののあり方、教育の目的というようなものについては、国民だれもが非常に深いまあ心配をした。教育本来の目的というような言葉が、今度の法案にもいろいろ使われておりますけれども、一体教育本来の目的というのは何のことなのか、こういう問題というものは、非常に深いところにまで降りていって考えてみなきゃならぬ、そういう状態に日本の全体が置かれてしまったと思うのであります。教育本来の目的というような言葉は、決して自明の概念ではないと、こう思うのであります。どうすれば国民の全体が、確信が持てる教育本来の目的というようなものについての観念が持てるかという事態が、実は大きい問題であるのに、教育本来の目的というものが何か自明のものであるというような考え方、これは問題だと思うのであります。  それと同時に、先ほども言いましたように、地方公共団体における教育行政と一般行政との調和というような問題は、深く掘り下げて参りまするというと、単に地方公共団体のみならず、国の一般行政教育行政との関係はどういうものでなければならぬかという問題を含んでいる。ないしは、それを前提にしているわけだと思うのであります。確かに教育も、何かそれが行政という角度から見られる限りにおいて、一つの組織を持たなければならないことは当然でありますけれども、一般行政教育行政とをどう調和させていくかということは、そう簡単な問題ではない。決しでその二つの間に摩擦が起ることは望ましくはないけれども、一般行政のあり方と教育行政のあり方とは違ってもいいのではないか。例は必ずしも適当でないかもしれませんけれども、立法というものと、司法というものと、行政というものとをそれぞれ区別して、まあ三権の分立という考え方自体をここでとやかく考えるわけではありませんけれども、そういうものと並んで、教育というものは一般行政の外に立たせてもいいという考え方もあり得る。教育というものは、第一、一般の行政とは違いまして、ペースが違う。それからねらっているところも違うわけでありまして、できるのならば、教育というものは一般行政の外に立たせるようなことが望ましいという議論もあり得る。そういう問題を考えないで、地方公共団体における一般行政教育行政との調和が望ましいということを、何か機械的に考えていられるような印象をこの法案は私たちに与えるのでございます。  それから国、都道府県市町村一体としての教育行政制度の確立も、抽象的な考え方としてはけっこうだと思いますけれども、そこに、ことに日本の文化とか日本社会の基本的なあり方として考えてみるというと、どのような意味でも、日本には地方というものが非常に文化的にも社会的にも希薄な存在になっている。これは西ドイツなどの場合と比べて非常に顕著な違いがございまして、本来日本の社会や文化の構造というものは、日本の全体がそこに中央におって統一されている、あるいは一様化されている、そういう状態の上に成り立っている。そういう点は必ずしもけっこうだとはいえないのであって、日本の将来を考えてみますというと、地方いうものの持っている独自の性格なり独自の意味というものを、相当強く打ち出していいのではないか。もとより西ドイツのように八つも文部省があるというような、そういうあり方がいいと考えるわけではありませんが、日本全体の一つにまとめるまとめ方というものは、特に教育の面においては問題があると思うのであります。かりに一つにまとめなければならないといたしまして、そのまとめるまとめ方は、文部大臣権限強化するという仕方でまとめるのがいいかどうかというと、非常に疑問があって、まとめるのがいいということになりましても、それは別の仕方、たとえば今の教育委員会というものは、現行法におきましては都道府県教育委員会というものが一番大きい単位になっておりますが、それをさらに全国的な形にいたしまして、全国的な教育委員会というような制度を作るという仕方でも、日本教育における教育行政の一体化は可能だと考えられる。そういう点をこの法案の上ではお考えになったかどうか、こういう問題があるのでございます。  そういう疑問を持ちまして各条を読んで参りますと、各条それぞれ問題があります。一番初めの第一条は、現行の教育委員会法にございます教育委員会の存在理由というようなものについては、ほとんど触れられておらぬ。現行の教育委員会法では、「この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする。」、これもただいま申し上げました現行法に対する所感と同じように、教育本来の目的というものが自明のように考えられておるところに、あいまいな点があると思いますが、実は教育本来の目的というものそれ自体をはっきりさせるその仕方として、それは教育は不当の支配に服しない、国民全体に対する直接の責任を持つということと、それからもう一つは、公正な民意により地方の実情に即した教育行政を行う、そういうようなことが内容としてまあ考えられておる。一口に申しまするというと、それは教育というものは、これは政治の手段になってはいけないのだ、こういう意味だと思うのであります。  一体、教育というものは何かということは、国民全体が考えていかなければならぬことであって、それから国民全体がその教育の主体になって行わなければならぬのだと。そういう教育の全体のあり場所というものをそこに明記すると同時に、実際そういうような教育をどうしてやっていくか、行政的な措置面としては、「公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行う」、こういう工合に書かれておる。公正な民意というものは、これは教育の、全体は国民であるという考え方をはっきりさせるということであるし、地方の実情に即したというのは、これは文字通りではなくて、先ほど申した日本文化や日本の社会における地方というものの持っておる独自的な意味と、これが顧慮されでなければならないことだと理解するのであります。全体としては、先ほど申しましたように、まだどこかはっきりしない点はありますが、そういうような問題意識で教育行政のあり方というものを考えてみたいというのが、現行教育委員会法の第一条の精神だと思うのであります。ところが、それは今度の法案では全く事務的に考えられておる。教育行政の問題が事務的に考えられておるという印象を受ける。現行の教育委員会法の精神というふうなもの、これは全然そこには明記されていない。事務的にそれが扱われておる、こういう工合に感じるのでございます。  そういたしまして、現行の教育委員会法では、これは文部大臣というものはどの程度の権限を持つかと申しますと、それは五十五条の一項、それから五十五条の二項に、文部大臣というものが顔を出すわけですが、それ以後は文部大臣というものは顔を出さない。この五十五条の第一項によりますと、それは都道府県委員会地方委員会に対して年報その他の必要な報告を提出させることができるということ。その第二項に「文部大臣は、都道府県委員会及び地方委員会に対し、行政上及び運営指揮監督をしてはならない。」こういう指導監督上の権限がないということが明記されておる。それでどうして教育なんというものをやっていけるのだろうか、こういう疑点が起るかもしれませんが、それはまあ教育というものは野放しに、手放しにすべきものではありませんから、それは監督するものがなければならない。だれが監督するかといえば、それは国民監督をするということが現行の教育委員会法の精神だと、こう考えるのでございます。  で、現行の教育委員会法は、ただいま申し上げましたように、あくまで教育の主体は国民である。それからそのためには公正な民意に基いた教育委員、そうしてそれは地方の実情に即した教育委員教育行政責任を持つ、こういう仕組みでありますが、新しい法案におきましては、そういう教育委員はこれは地方公共団体の長によって任命される。その任命にはもとより地方議会承認を経ることになっておりますけれども、結局地方公共団体の長が教育委員というものを任命することによって、その上位に立つ。これによって地方一般行政教育行政との調和をはかるというおつもりであろうと思うのですが、そういう仕方で一般行政教育行政との調和をはかることが、果して日本の今日にとって望ましいことであるかどうか、こういう問題があまり考えられておらない、こう考えるのであります。  そういう工合に見て参りますると、いろいろ問題が多いわけですが、そういう教育委員会教育長、その教育長はやはり、都道府県教育長文部大臣承認の上で都道府県教育委員会によって任命されることになっている。教育長というものは、やはり文部大臣承認が要るということになっている。こういう点で、文部大臣の意思は教育長の任命の上にも作用するというわけであります。  それだけでなく、この教育委員会権限でありますが、この権限は、今のような地方公共団体の長によって任命されるその教育長というものは、文部大臣の意思というようなものを反映させながら任命されている。その教育委員会教育長はどういうことをするのか、その権限は、ちょっと見まするというと、現行の教育委員会法における規定と大差はないようですけれども、たとえば第三十三条の二項というようなものを見ますると、これはどうかと思われるような規定があるわけでございます。第三十三条の二項は、これは「教育委員会は、学校における教科書以外の教材の使用について、あらかじめ、教育委員会に届け出させ、又は教育委員会承認を受けさせることとする定を設けるものとする。」、教科書の取扱いについては、すでに前の条項規定がございまするので、ここでは教科書以外の教材の使用のことだけが問題になっているわけでありますが、そういう教科書以外の教材、たとえば新聞であるとか、ラジオであるとか、そのほかのものが現在小学校においては教材として使われているわけですが、そういうものは「あらかじめ、教育委員会に届け出させ、又は教育委員会承認を受けさせることとする定を設けるものとする。」という規定がございますので、まあ届出をしさえすればいいじゃないか、承認を得さえすればそれでいいじゃないかということになるかもしれませんが事実こういう場合には、新聞であるとかラジオであるとか、そういうふうなものが教材として学校で使われなくなってしまう。で、この点は新聞やラジオの立場からはいろいろ問題があると思いますが、特に教育の側からすると、始終新しい生きた社会現実というものに対する理解を国民が持つように、それは子供のときから育成していかなければならない。特にそれは今の日本教育にとって非常に大事なことでありまして、日本教育というものは、この戦争前の教育国民の一人心々が自主的な、自立的な判断が持ちにくいような工合に行われておった。それではいけない。非常にむずかしい状態でやっていかなければならない日本のこれからの国民というものは、その一人々々が生きた社会現実に対する自主的で自立的な判断が行えるような工合になっていかなければならない。そのためには、常に生きた現実を教材として用いていく必要があると思う。それが第三十三条の二項などがございますと、事実行えないことになってしまうのではないか、そういうような工合に考えられる。  それから、さらに最後に、文部大臣権限がいろいろ強化されております。その点は第四十八条であるとか、あるいは第五十一条、第五十二条などに、文部大臣権限強化されているということがはっきりわかるわけでありますが、先ほども申しましたように、教育の一体性というものを打ち出すためにはどうすればいいかという問題は、何も文部大臣権限強化するという仕方だけで行われるのがいいとは限らない。むしろ現在の教育委員会法の不徹底さを改めるならば、教育委員会の全国的構成というようなものを考えて、そこで全国一体的な教育行政というものを考えることも可能だ、こういうふうに考えられる。で、そういう問題について今度の法案は十分お考えになったかどうか非常に私たちには疑問があるのでございます。つまり教育行政の一体化、また地方公共団体における一般行政教育行政との調和、そういう点に力点を置かれまして確かにこの法案が作られていると思いますが、そのために、たとえば教育哲学の問題、教育社会学の問題、教育史の問題、そこではいろいろむずかしい問題があるわけです。そういう問題についての御考慮がなされていない。あるいはそういう点についての御考慮がなされているとしましても、それは何か非常に機械的にされている。教育というものは非常にデリケートなものだ、どうすればそのデリケートな教育のなかに内容を与えていくことができるだろうか、そのような教育日本国民生活の進展というものの支えにほんとうになり得るような工合にしていけるかという問題については、一体教育をやるのはだれかという問題、これは差しあたっては教師であります。教育行政のあり方について直接に心配するものは国民だ。その国民教師がどうすればそういう教育にりっぱな内容を与えさせることができるか、そういうことを考えるのが実は今日の日本教育にとって一番大事なことである。何か事務的にこれを一まとめにしてしまう、一般行政教育行政との間にいざこざが起らないようにしてしまう、これは一応ごもっともでありますけれども、そういう観点からだけの考慮では、今日の日本教育というものをうまく伸ばしていくことはむずかしいのではないか。  先ほども申しましたように、現行の教育委員会法にはいろいろ欠陥もありまして、それを間が抜けたという言葉で私は申したのでありますが、そういう点があるにもかかわらず、今日なお存在理由があると思いますのは、そのために、つまり国民が直接に公選する委員教育の問題を扱う、その中で教職員が自分の創意を生かしつつ教育が行える、その二つの特色は、比較的短い期間でありましたけれども、発揮されてきたのではないか。一体そういう点を今度の法案ではどう考えておられるか。今まで国民教育に熱心でなかったとは言いませんが、その国民教育に熱心であるというものは、特に父兄としての国民自分の子女に対して熱心であるというだけで、日本国民日本の国全体の教育について一般的な関心を持っていたとは言えないと思います。教育委員会の制度ができまして、自分が公選した委員教育行政責任者になるという体制ができました。それをきっかけにいたしまして、日本国民は、単に父兄としてではなく、国の教育という問題について関心を持ち始めた。と同時に、そういうような国民を主体とする教育の中で、教師は、あるいは教職員は、自分の創意というものを十分に生かすような気持になり始めた。この二つの点だけは、ほかに教育委員会法から生じたいろいろの故障があるにもかかわらず、今後とも現行の教育委員会法というものを存在させていかなければならぬという理由になると思うのであります。そういうような教育のエネルギーの根源がどこにあるかという問題が、一体今度の法案では考えられているのだろうかと思います。私は考えられていない、少くとも法案の上には具体化されていないと思う。非常に残念に思う。そうしてそこでこの権限強化された文部大臣の意思というもの、これを、りっぱな方が文部大臣になっていかれるわけですから、不安はないとはいうものの、実は問題は、文部大臣教育全体について心配をするよりは、国民が全体として教育について心配をしていくような体勢の方がより望ましいのではないかという意味で、文部大臣権限強化というものは考えものだ、こういうふうに思うのであります。  いずれにいたしましても、この法案の背景になっている教育哲学や、あるいは教育社会学や、教育史的な認識というふうなものがどの程度のものであるか、この法案自体からはほとんどうかがえないような、単に行政的措置がここに考えられているということを私は非常に遺憾にするのでございます。  一応、これで公述を終らしていただきます。
  55. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) ただいまの公述に対し、質疑のある方は順次御発言を願います。
  56. 笹森順造

    ○笹森順造君 ただいまの公述人のお話を伺いまして、大体お考えのことは一通りわかったような気がいたしますが、なおお尋ねしたいと思います。  御承知おきの通りに、昭和二十一年の八月になりましてから、田中耕太郎氏が文部大臣でありました当時、教育刷新要綱案ができました際に、ちょうど今あなたのおっしゃったような思想が現われておったのじゃないかという気がいたします。つまりあの当時は、いわばこのフランス式の中央集権形態を、官僚的ではなくて、そうして教育的に考えるような考え方があって、そうして今の教育委員会というものが全国的にできて、それでやったらどうかという考えもあったようでありますが、これはその当時の一つの意見としてあったにもかかわらず、これは実現しなかったということがあったというように記憶しております。今公述なされましたお考え方は、これと同じようなお考えは含んでおられますのですか、その辺を一つお聞きしておきたいと思います。
  57. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) お答えを申し上げます。その当時のお考えと同じものかどうかという御質問だと思うのですけれども、そういうものを考えて、それと同じような線で私が特別に考えておるわけではないのであります。これは特に今日の日本の歴史的事情、歴史的な問題、状況というようなものを考えまして申し上げているので、考えの性格は今御質問になったようなものと似ている点があるかもしれませんが、それから独立に考えておるわけであります。
  58. 笹森順造

    ○笹森順造君 そこで今のお話は、現在の教育委員会法に対して新しいこの法案が出たわけでありますが、これに対しまして、今の点は先ほど述べましたこととは変ったものとして、実は現在のこの教育委員会法ができているわけでございますが、それを今度新しい法案において性格がだいぶ変ったように印象を受けられるというお話の中に、特に強調せられました二点あったようでありますが、そのうちの一つは、この教育というものはやはり国民責任を持ってやるべきである、また実際担当しておるところの教師がこれと協力してやるべきものである。従って、もしもそこに監督等の必要があれば国民がこれをやるべきものである、そこに文部大臣などが出てくるということでない方がよろしい、大体こういうようなお話のように伺いましたが、そうでございますか。
  59. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) そうでございます。
  60. 笹森順造

    ○笹森順造君 そこでお尋ねをしたいと思まいすのは、私の言うのは、一体どういうことで具体的に行政の面に現われてくるか、つまり教育委員会という形だけが一体正確な国民の総意として現われるものか、そのほかに国民の総意を現わす教育の上に適切なる行政の中心になるものがあり得るとお考えにならないのかどうか、そこを一つお尋ねしたいと思います。
  61. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) むずかしいお話でございますが、問題は一般行政というものと教育行政と一緒にしていいかどうかという問題がもう一つ前にあるわけでございますね。一般行政について国民の総意を現わすあり方というものは、これはあり得るのでありますが、私が特に問題にしておりますのは、一般行政教育行政というものとは必ずしも同じものではないペースが違うという点からして、一般行政のワクの外に立ち得るようなあり方というものが望ましいのではないか、こういう考え方でございます。
  62. 笹森順造

    ○笹森順造君 教育目的なり、教育哲学なり、あるいは教育目標というものは、お話のごとく、私も決してそれに不同意ではございませんけれども、一般行政となる場合には、これはやはり国家統治の一つの働きがあり、地方自治体の一つの働きでなければならない。ですから、私はそこの間をはっきり区別して考えなければいかぬ。しかし教育思想であるとか、教育社会学や教育哲学であるとかいう面については、お話の通りでありましょうけれども、一たんこれが立法化されたものの行政となりますと、そこにやはり別のものが出てくるのじゃないか。何かそこは紛淆したように、私は理解の仕方が悪いのかしれませんけれども、御発言では、その教育思想というものと教育行政というものをごっちゃまぜに聞えるようなことになりましたので、その辺の御理解をもう少しはっきり伺いたいと思います。
  63. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) 先ほど現行の教育委員会法がどっか間が抜けていると申しましたのは、その点でございます。現行の教育委員会法では、都道府県教育委員会までしか存在しない。その高次の全国的な教育委員会というようなものができてそれが教育行政に関する統括をするということはあり得るのではないか。そういう仕方で考えるべきであるのに、それを文部大臣というところにすぐ持っていくところに問題があると申し上げたのでありまして、その点混同しているわけではないのであります。
  64. 笹森順造

    ○笹森順造君 そこで先ほどのお話を焦点を合せてお尋ねしたいのでありますが、この文部大臣というものの存在は、これはやはり国民の総意を一つ焦点を合せる場所だと私どもは理解しているのでありますが、つまり教育委員会というものはばらばらにある。しかし、前の式ではなくて、こういうものになってしまったのでありまするが、ところが、そのばらばらにありまするものが、文部大臣という一つの存在においてそれが国民の総意を表わすところのものとして、しかもこれは謙虚に、決して自分のある特殊な行政力を発揮するとかあるいは意図をそこに表わすのではなくて、国民の総意をそこに結集したものの存在としての行政官としての文部大臣はあり得ないとお考えでございますか、あるいはまたそういうものはあり得る、またそうあるべきだというお考えでございますか、その辺の御理解を伺いたいと思います。
  65. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) 一般的にはあり得ると思います。一般的にはあり得ますけれども、今日の日本教育の現実とか、今日の日本が置かれている、世界の中に置かれている日本全体の今日の状況とかいう点から見るというと、教育の一体的な、あるいは統一的な、統一というようなもの、文部大臣の意思を通すというあり方が望ましいとは私は考えないわけであります。
  66. 笹森順造

    ○笹森順造君 私のその点についてなお明らかにしておきたいと思いまするのは、この文部大臣というものの存在は、特にある政党人であるというがゆえに、その政党の政策を行うものとは私どもは理解したくないし、またそうあってはならないものだと考えておりますので、新しい憲法下においてできたこの内閣の、その代表者でありまする行政の任に当っておりまする文部大臣は、今あなたのお話の、そういうこともあり得るというような表現を私どもは育成強化していくことこそ、これは私どもの責任ではなかろうかと思いますので、それがもしも無視される、あるいは否定される、それがまた不信用になるということになりますならば、これは非常に現行の憲法なり、われわれの意図する法制の立て方とは違うのではないかという気がいたしますので、それに現在の状況は不信ではあるが、しかし理想的にはそれはいいんだという御観点でありますかどうか、そこまでつづめてお伺いしたいと思うのであります。
  67. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) その問題につきましては、もう先ほど来申し上げたことを繰り返すわけでございますけれども、現行の教育委員会法の弱点をもっと強化することによって、教育行政に関しては文部大臣教育指導とか監督とかをやらないようなやり方の方が望ましいと私は考えております。
  68. 笹森順造

    ○笹森順造君 どうも、望ましければどなたが実際の何に当るかというと、結局教育委員会ということにまあ御発言になると思いますが、その教育委員会というものが、いろいろとこれからわれわれ考えて、しかもその総意の結集するところがそこにある。これはいつまで言っても同じことだと思いますから、その点はどうも私のお尋ねに対してはっきりしたお答えがないように思いますので、重ねてもし御質問ができれば、また別な問題を御質問いたしたいと思います。
  69. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) その問題の裏側には、今も御質問の中にありますように、どうすれば国の教育を一つとしてつかむことができるだろうかという問題については、やはり御心配になっているのだと思うのでありますけれども、そのつかみ方としては、文部大臣が統括の任に当るということでないことが、日本国民教育というものに対して熱意を持っていく、総意を出していくそのやり方としては必要だ、適当だと、こういうふうに考えます。文部大臣はやはり現行の教育委員会法に規定されている通りの非常に消極的な立場で十分ではないか、これが私の考え方でございます。
  70. 笹森順造

    ○笹森順造君 そこで、それは同じことでありますから、それに関連した別のことからお尋ねしたいと思いますが、教育は、申し上げるまでもなく、憲法で規定しておりまする通り法律の定めるところによって国民がその保護する子弟のために教育をしなければならない責任があるとともに、国もまた責任を持っている。現行の委員会法におきましても、財政の面においては当然国が責任を持っている。ところが、私どもは長い間この問題を取り扱っておりまして、教育財政の問題はおよそ常に大事な問題として論議され、しかも国の大きな責任であって、これは究極するところは、父兄の、あるいはまた国民の税金になりましょうけれども、その責任を負うところのものの予算を作り、あるいはまたこれを支出するということは、やはりこれは文部大臣責任においてなされているということは明確であって、今までの委員会法においては、それさえやればよろしいのだと、監督やら指導やらは要らないのだという建前で来ておるようでありますが、しかしこの新しい法律では、つまり統一という言葉は少しかた過ぎるようでありますけれども、国、都道府県市町村教育政策が有機的にこれがやはりある水準に達するということに対しては、国が責任を負うことが当然ではなかろうか。そういう場合に、やはり文部大臣というものはそこに監督して、これをいろいろとこう、悪いところを是正するというと変でありますが、そうではなくて、非常なよい意味において、これをもっとよいものにするための責任を感ずる意味において、文部大臣がもっとそこに出てくるという親切な考え方を、往々にして誤解して、これは困るのだというような偏見があっちゃ困るから、そうじゃないのだという点がございますならば、はっきりしていただきたい。特にこの教育財政の面についてどうお考えになっているか、国の責任とこの法案に対しての御理解を伺いたいと思うのです。
  71. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) いろいろ御疑問が出て参りますのは、一般行政というものと教育行政というものとの本質が同じだというような御認識の上に、いろいろな御質問が出るのではないかと思います。教育というものは確かに、それを行政のルートに乗せて措置していかなければならない面は持っているけれども、教育行政というものと一般行政とは同じではない、本質上は違う。従って、今の教育委員会法の精神をもっと徹底してやるならば、この教育については、政府外に国の教育全体を心配する機関があってしかるべきじゃないか、こういうことでございます。これはそこで中途半端だということを申し上げたのですが、中途半端なままでもこれでやっていく方がいいのか、それとも、今あなたのおっしゃるような、文部大臣権限強化する親切な気持でやっていくとすれば、その方がいいんじゃないかと、こういう比較の話になると思うのですが、一体いかに善意でやりましても、いかに主観的にこれでこまかく心配しているだけで、決して統制をしようとか思想統制をしようとかいう意思ではなくても、結果においてどういうことになってしまうだろうかということを考慮いたしますと、今の教育委員会法というものの中にはいろいろ欠陥があるにもかかわらず、その方がいいと、こういうことになるのでございまして、別に財政的措置につきましては、やはりこの司法の系統が、国の中にありながら、なおかつ一般行政のうち外に立っている、そういうこともあり得るわけでございますね。そういう工合になるのが望ましい。しかしそこまで行けなければ、現行の教育委員会法のままで、欠点を含みながらも、やっていくというのは今日の段階としては望ましいのではないかというのが、私の見解なんでございます。
  72. 笹森順造

    ○笹森順造君 私の特にお尋ねしております点は、教育財政をもっとこの必要にかなうだけのことをしていく配慮をする者はだれであるか。これは今お話しのごとく、教師も究極には税金を出しておりましょうし、父兄も出しておりましょうし、この企画を立てて必要な財政の需要に応ずるものを捻出して作り上げていく責任は、どこにそれがあるかというと、これは言うまでもなく、内閣にあるわけであります。しかもこの内閣は、特に教育委員会において文部大臣責任を持っているのである。この責任の所在を一体どう明確にしていけば、これが私の究極の目的の教育について必要なものを作り上げるに便宜か。少くとも便宜であるかということを考えまする場合には、やはり文部大臣というものはそこに進出してくるということが、これは私至当でないかという点、またこれがいいんでないか。さらにまたお尋ねしたいのは、この国の財政状況については、これは国民及び国会に報告しなければならない義務がある。しかもまた、会計検査院の検査を要することになっておる。こういうことを考えてみまする場合に、この支出の責任者である文部大臣は、当然その財政の最終末端の使用せられるところまで、これが適当であるか適当でないかを知らなければならない。往々にしてこの問題について私どもが不徹底なものを過去においては見てきたというふうなことは、国民に対するところの一つの責任もこれはあるのではないかというような点などもございまして、そこで文部大臣が、不当なことがあったならば阻止要求権があるというのは、国民に対して忠実なやり方でないか。こういう意味で、文部大臣が決して時の政治の権威によって自分の意思において左右するのではないので、こういう理由がこの法律の中にあるのではないかと思いますので、この点に関する御見解を承わっておるわけであります。
  73. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) 御質問の意味はよくわかっているのでございます。それはよくわかっておりますが、この与えられた現行の組織の中でですね、文部大臣というものの権限を多くしなければ文部大臣責任も尽せないような状態になっておる、こういう角度からの御意見でございますね。で、私の申し上げるのはそうではなくて、国民がやらなければならない教育、そういうもののエネルギーをどうすれば発揮させることができるか。それからもう一つ、根底には、戦後まだ日本民主主義というものはまだ幼稚であり、文部大臣権限強化されると、これは非常に残念な話でございますけれども、国民はそれを文部大臣なり文部大臣を通しての指揮というようなものに対しては決して主体的になれないような、まだ残念ながら未熟な状態である。(「その通り」と呼ぶ者あり)その民主主義考え方だけでなくて、民主主義の意識をどうして国民が持てるようになるかという、そういう問題が片っ方にありますから、今私が申し上げたような意見が出てくるのであります。その日本教育、それから教育をめぐって日本民主主義をどうすれば育て上げることができるかというような問題が、この新しい法案の方ではどの程度考えられておるか、ほとんどその点については考えられていないのではないか、こういうふうに思うのであります。
  74. 笹森順造

    ○笹森順造君 よほど話が核心に触れてこられたようで、私の心配しておりまする点にお触れになりましたから申し上げたいと思うのですが、文部大臣に対する認識が、私がもう一つ先生から伺いたいと思うのですが、文部大臣は、言うまでもなく、これは公務員であって国民全体に奉仕すべきものだと、こういう認識のもとに私は信じておる。またそうあるべきである。その認識と、そういうふうな風習と、そういうような考え方国民の中に浸透していくということが一番大事なことだ。それをそうでないがごとく、またそうでないものが現状であるがごとく考えておること自体が、考え方が少し私とは違うので、すでに私どもそういう最高理想である日本の憲法なり、あるいはまた教育基本法なり、あるいは教育理想なり、教育哲学なりが、そこまで徹底しているということを強調されていくことによって、御懸念の点がなくなるのではないか。多くの方のお考えは一つの仮定の上における御懸念であるところに、そういう御議論が出るのではないか、こういうことを実は伺いたいのであります。
  75. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) 仮定とおっしゃいましたけれども、私の見ておりますのは、日本の現在における民主主義の現実がどうかということ、結局教育の点についても国民が主体的でなければならないということがほんとうであるにもかかわらず、何か教育というものは上からだれかがやってくれるのではないかという考え方がまだどこかにあるという考え方、その現実をどう民主主義徹底化の方向へ是正していくかという問題、そういう問題がありまするので、別に仮定の上に立っているわけではないのでございます。
  76. 田中啓一

    ○田中啓一君 大へんいろいろ御懇切に御答弁願いまして、まことにありがとうございます。ただいま笹森委員との質疑応答を拝聴いたしておりましても、またさきに御公述願いました点を拝聴いたしましても、どうもお考え基礎が、教育政治の下にあってはならぬと、こういうことをおっしゃいましたのでございますが、そういうところから来ておるのではないかと思われます。それからもう少し具体的に申しますると、学者方のうちにも、少くとも現在の政治教育との関係から申せば、あるいはもっと極端な言葉で申しますると、現在の議会文部省のあり方では、せいぜい教育に良好な環境を作ってあげるということにもっぱら努力すべきで、その他のことは教育教育者にまかせておけ(「法律や規則があるじゃないか」と呼ぶ者あり)というようなふうにも受け取れる御意見があるように実は思うのでございます。何か先生のおっしゃったところと通ずるところもあって、そういうようなことでないかと実は考えますので、お伺いするのでございますが、今日私ども新憲法下に国民生活あるいは国家生活というものをやって参ります場合に、それの憲法のもとに方向を定めていく責任を持つものはやはり国会でなかろうかと、私どもは実は思うわけであります。国会はひとり環境をただ良好に置く、それは大いに眼前の必要事として今力点を置くということについては、何も異論はございません、環境は今必ずしもよくございませんから。急務だということはよくわかるのでございますけれども、さりとて、教育全般のことについて、国民に対して議会責任がないとは私は言われぬと思う。これが私は一番最高の責任者でないかと思うのであります。  国会は、御承知のように、予算を通じ、または法律を通じて以外には仕事はできませんのでございますから、あとはただ国政全般の調査権があるだけでございますから、議会の意思というものは予算または法律を通じて出ますので、まあ法律規定できないようなことまで教育についてどうしようもないのでありまして、これはどうしても先生方、教師の方たちに待たなければならぬことだと思いますが、そう考えますると、やはり私がまあ、あるいは先生のおっしゃった教育は、政治の下にあってはならぬという点を誤解しているのかもしれませんから、これは忌憚ない御意見を承わりたいのでございますが、しかも政府あるいは内閣というものは、国会がやるべきことにつきましては、法律といわず、予算といわず、全部提出権を持っているということは、すなわちやらなければならぬ、立法的にも原案を出さなければならぬ責任があると私たち考えるのであります。  そう考えていきますると、どうも下とか上とかいうことがよく私にはわかりませんし、かつ環境だけ整えておるのにとどむべきだということにも、私にはどうしても了解が行きかねる。実は私ども個人としては、分不相応な、身に余る重責だとは思いますけれども、(「そう謙遜するな」「質問、質問」と呼ぶ者あり)やはり国会としてはそうであり、国会議員もそうである、こう実は考えておるのであります。その辺のところを、まず一応御見解をお伺いしたいと思います。
  77. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) 単に教育の問題だけではなく、行政一般というもの、さらに進んでは国民生活の全体というものについて、国会というものの持っているその権限責任の大きさというものについては、私も承知いたしております。教育というものはただ教職員だけがやればいいものだ、あるいは教職員というものが教育に関して責任国民に対して持っているのだというような、そういう乱暴な考えも私にはございません。従って、国会とされましてこの教育の問題についてどういう態度や御措置をおとりになるのが一番国民に対して責任をお尽しになる最上の道か、こういうことについて今あなたがいろいろと御心配になる点、これはごもっともだと思うのであります。しかし、問題はそういうところではないのであります。問題の本質は、戦争前のように、日本教育というものが政治の手段にされるようなことになってはいけないが、どうすればそういうことがなしにやっていけるか。それと同時に、そういう消極的な方面だけでなくて、日本教育の正しいあり方というもの、かつ日本教育能率というものをどうすれば一番上げていくことができるだろうか、こういう積極的な一面もあると思うのであります。しかし教育の問題は、ただそれだけではなくて、もっと学校教育とかあるいは社会教育以外に、日本国民がまだまだ未熟な民主主義の状態にある、それをどうすれば日本の社会に民主主義的な精神と生活態度を打ち立てていくことができるだろうかということも、同時に問題だと思う。学校教育の問題だけでなく、実は国民自体の自己教育の問題がそこに含まれている。そういう多くの問題を同時にとらえて、国会としてどういう工合に教育の問題をお考えになるのがいいかというのが問題でございまして、すべての問題を文部大臣という一点に集中させるような仕方でやるとすれば、確かに形式的な責任体制というものはそれで立ったような外観を呈するわけですが、そうすると、今のような未熟な未発達の日本国民民主主義の生活状態では、決して戦争前の通りになるとは思いませんし、またなっては困るし、世界の現実というものが、それを許さないでしょうから、その心配はありませんけれども、文部大臣権限が強まり、それの意思が直接教育の末端にまで行くような仕方になると、教育そのものは萎靡してしまう。はなはだ残念なことでありますけれども、日本国民の今のような未熟な民主主義の意識の状態では、これを絶対的なものとして受け取ってしまうという危険がある。それをなくしていかなければならない、こういうふうに考えるのでございます。大へん抽象的なことを申し上げますようですけれども、教育というものに対する責任体制を外形的に整えることが問題ではなくて、どうすれば日本教育の実体を民主化さしていくことができるか、それと同時に、日本国民の生活の中に民主主義の生活の態度なり原理がどうすればもっともっと深く浸透していくことになるだろうか、そういう問題こそ国会でお考えいただきたいと私は思うのでございます。
  78. 田中啓一

    ○田中啓一君 もう一点だけ。先生のお心持ちはよく了解いたしました。従って、こういうことになるのでございましょうか。政治理論あるいは行政理論等から考えれば、今度の改正はそれはそれで意味はあるのだが、現在の、まあ民主主義というても戦後十年の話でございますし、国民全体の教育的な立場と申しますか、考慮から考えれば、もう少し国と地方とを通じての有機的な、何と申しますか、一体性と申しますか、一貫性と申しますか、というようなことをやろうとするにも、もう少しよりいい方法があるのじゃなかろうか、こう自分は思うと、こういうふうな御議論でございますか。
  79. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) その通りでございます。
  80. 吉田萬次

    ○吉田萬次君 時間がありませんから、簡単に、実際問題として私は二、三質問したいと思いまするうちの一つだけ質問いたします。それは、先ほど上原先生は、地方に完備したところの教育委員会というものが、県あるいは都道に置いてあれば、それにまかしておけば、文相がそれまでに関与する必要もないし、その必要を認めないというようなお考えのように拝聴いたしました。ところが、山口県におけるあの有名な山口日誌を見ますると、この問題について、かような天下の耳目をそばだたせるような重要な問題であるにかかわらず、県の教育委員は何ら施すことなくして、結局うやむやに終ってしまう。もし将来かような問題が各地に起きた場合において、だれがそれじゃ教育委員会というものに対して覚醒を促し、あるいはその方針を指示するという指針になることができるでしょうか。
  81. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) お答えいたします。現行の教育委員会法は、先ほど来たびたび申し上げておりますように、中途半端だと申し上げたのも、その点でございます。そういう心配がございますから、教育委員会法を改正するならば、それは全国的な教育委員会組織というものを作る、その全国的な教育委員会の中で、今の各都道府県において処理できないような、当然処理すべきものだと国民考えながら処理できないようなことを処理する、その事件の措置に誤りがないようにしていけばいいのでございまして、そういう御疑問がございましたら、都道府県以上の全国的な教育委員会組織というものができるべきじゃないか、こういうふうに考えております。
  82. 吉田萬次

    ○吉田萬次君 そこで私はこの法案というものに対して、文部大臣というものがいわゆる監督する必要があると認めるということと、もう一つついでに承わっておきたいのは、あなたは先ほど、いわゆる現在のあり方とそれから今後のあり方とについて、公選云々ということについてのお話がありましたが、公選ということもなるほど多数いい点もありまするが、またその反面において、たとえて申しますると、今日たくさん教員のいわゆる教育委員が出ておるということになりますと、これは将来においても私はないとは断言できぬということは、かようないわゆる教員というものをした人が教育委員になるということにおいて、いわゆる利益代表になるようなおそれなしとはしないと思うのであります。かような面については私は相当考慮を必要とすると思うのですが、どうお考えになりますか。
  83. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) 教育委員教師の利益代表になってはいけない、これは一般的な御心配としてはごもっともだと思います。その場合に選挙をする者は、教師だけが選挙するのではなくて、日本国民でその地方に住んでいる住民がこれを公選する。従って、教育委員の選任、それから現行の制度では教育委員の解職を求めることも選挙権者にはできるわけですが、国民がそれを監督すればいいのでございまして、教育委員としてのあり方をコントロールするのは、そういう仕方で国民ができる、こういうふうに考えます。
  84. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 先ほど先生公述を承わっていますと、非常に高いレベル、広い視野から、きわめて深みのある意味深長な公述をなさっておられますので、よほど注意して承わらないと先生の本意が十分つかめないほど、先生は非常に御配慮なさって慎重に公述なさっております。私はこの国会という所は若干直接法で話さないと通じかねる傾きがあるやに、私自身考えておりますので、(笑声)の質問を二点いたしますから、直接法でお答え願いたいと思います。  第一点は、先ほどいろいろ承わったわけですが、もし先生が今の日本国会に席を置かれてこの法案審議される立場に立った場合、あるいはかりに——私は私がわかりやすいお答えをいただくためにお伺いするわけですが、あなたが今の日本国の文部大臣の席にいたとしたならば、どういうお取扱いをするかという点、お答え願いたいと思います。いや、仮定ですから、けっこうです、御遠慮なくお話しいただきたい。  もう一点は、三月十九日付で東京都内の東大の矢内原総長以下十人の学長さんの声明を私どもいただいたわけです。この「文教政策の傾向に関する声明」というのは、本委員会並びに本院の予算委員会等でもずいぶんと論議されたのでございますが、この十人の方で今回公述においで願ったのは、先生だけでございます。従って、私はここで先生に明快にお答え願いたいのですが、それは、この声明は私ども文部大臣の所見をただしたところが、文部大臣は、教育を政争の具に供してはならぬとか、民主的でなくちゃならぬ、そういう点は同意見であるが、どうもこの声明は法案内容を十分検討されてやったものではない。で、この現実から非常に浮いた声明で、もう少し現実をしっかり把握した声明ならなおよかっただろう、(「その通り」と呼ぶ者あり)こういうお答えを何回もなさっているわけです。で、私どもいやしくもこのわが国の最高学府の十人の学者の方々が、国会にこういう声明文書を送っていただく以上は、私は相当責任ある態度と覚悟をもってなされたと思いまするので、院内におけるこの声明の質疑応答においてはさようなことになっておりまするので、この声明に署名されたお一人として、この文教政策の傾向に関する声明の本意のあるところを明快に一つお教えを願いたいと思います。
  85. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) 二つの御質問でございますが、最初の御質問、これは全く想像なんでございまして、まあ私個人としては国会議員になりたいと思っておりませんし、文部大臣になりたいとも思わないのですが、かりにそうでございましたら、この法案を撤回いたしまして、もう一度この問題について考えてみたいと思います。(笑声)  それから第二の問題につきましては、そのもっとこまかい現実的な問題や何かも研究した上でああいう声明を出すべきだ、一般的な民主主義を尊重するというふうなそういう考え方としては大臣も同感だとおっしゃったというお話でございましたが、こういう声明は実は、日本において民主主義の確立というものはどうすれば可能なんだろうか、それがちょっとでも脅かされるおそれのあるようなことはすべきではなかろうと思う、こういう考え方でございまして、決して教育の現実がどんなものであるかを私たちが存じないわけではない。確かに日本教育は現実には、現大臣も御同様だと思いますけれども、お互いに心配なことがたくさんございます。また現行の教育委員会制度自体についても問題があることも存じております。それにもかかわらず、今日の日本民主主義の現状がまだ残念ながら未発達な状態であるとすると、いかに善意でこの法律をお作りになりましても、結果においては、教育を通じて国民の思想統制をやってしまうような結果が出てくるようなおそれが十分ある、それはよろしくないと、こういうふうに判断したわけでございます。もしその点につきましていろいろ御疑点がございましたら、ついででございますから、その声明の内容につきましてももっと詳しいことを申し上げてもけっこうでございますけれども、その趣意はそういうところでございます。つまり立法者の善意な意思というものは、必ずしも結果においてその善意を反映するものではなかろう、そういう現状認識に立った声明であります。
  86. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 以上をもって上原専禄君に対する質疑を終了することにいたします。どうも上原先生、いろいろありがとうございました。   —————————————
  87. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 次に内海丁三君から公述をいただくことにいたします。
  88. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) 私はここには評論家とございますが、実は新聞記者でございまして、時事新報におりまして、最近は産経時事で論説を担当している一人でございます。そういう立場から、少し自分の方の仕事に関連した見地から、今度の問題についてここで御参考までに申し上げたいと思います。  法案内容は、すでに衆議院でも長く審議されて、それから参議院にもすでに配付になっておるのでありますから、十分御承知でありましよう。ただ、私の結論的賛否を申し上げますと、概観しまして、これはやはり広い意味占領改革行き過ぎ是正の一端だ、こういうふうに理解しております。で、二つの点だけで言いますれば、公選制度を全国の市町村に津々浦々まで行き渡らした、こういう点の実際問題としての行き過ぎ、それからもう一つ、教育の国家統制を排除するという理想から、文部大臣の発言というものを極度に押えた、こういう点に行き過ぎがあった。その他いろいろあったかもしれませんが、これが若干引き戻された、こういうふうに理解しております。つまり引き戻すというのは、よく言われます逆コースであります。若干逆コース。もしこれが、今度の地方教育行政の問題に関する法案内容が、このまま占領改革として当時実施されておりましたとするならば、実に十分に民主的であり、十分に地方分権的であり、十分に自治的でりっぱな制度であったろうと思う。それがある行き過ぎがあって元へ戻るところに、逆コースという意味がある。  ちょうど、本案に関係ございませんけれども、たとえば警察法でございます。警察制度は中央の権力を警察から排除するためにあらゆる考慮が加えられて、御承知のような人口五千以上の町村にまで強制的に自治体警察を持たした。その弊に堪えかねて、だんだん改良されまして、一昨年の警察法の改正にまで来たのであります。しかし、これも、現在の警察制度なるものを戦前の警察制度に比べますと、実に民主的であり、地方分権的であり、りっぱな制度ではないかと思うのであります。これも一つの行き過ぎを元へ戻したがゆえに、その過程において非常なる非難を受けた。あらゆる最大限度の反対の言葉が、非難の言葉が加えられて、非常な問題を起しました。これはよく御存じであります。ちょうどこの教育委員会制度もそれに当る意味の逆コース性があって、その点が非難されておるのだろうと、こう思うのであります。全体を私はそう理解しております。  で、この逆コースというものは、むろんある方向へ行ったものが元へ戻るということ、そうしてそれは一言にして尽せば、占領改革が理論といいますか、理想と申しますかに従って、少し極端にまで行き過ぎた。それが現実の体験、経験に照らして、いろいろの点に不十分の点あるいは不都合の点があるのが、元の方向へ戻る、こういうわけでありまして、元の方向へ戻る方向をどんどん遠くまで発展させていくと、戦前の制度の方角に向いておるという意味において、それが非難されておる。そこへ行っては大へんだという議論と私は理解するのであります。でありますから、今回の法案に対する反対、非難その他は、この法案そのものが企図しておる制度がいけないという議論は、先ほどから言いましたように、あまり聞きません。そこに内在しておる一つの方角がいけない、その裏にある保守勢力の根性がいけない、これが当てにならない、こういう意味のように理解するのであります。先ほど問題になりました大学総長の声明も文教政策の傾向に関する声明、こういうふうに言われておりまして、その傾向というものが問題になった。これはひとりこれに限らず、あらゆる場合に今まで問題になったことは御承知の通りであります。  で、私は新聞記者、特に論説担当の記者の立場から、こういう問題を世間であるいは新聞で、ラジオで、あるいは識者の批評の面で、こういう問題が扱われているある一つの特徴について御参考までに申し上げたい。これは法案内容から離れますけれども、この法案の非難されている一つの根拠が、この法案だけの問題でなくて、いわゆる逆コース理論に連なる占領以後、独立完成以後の日本のいろいろな政治的な改革に伴う共通のものであるがゆえにここで申し上げるのであります。反対論者の論法なんかに非常に明白な特徴がある。それは私は悪い言葉で、悪く申し上げますが、それは歪曲と誇張がある。このことはしばしば新聞の批判をする上に、私どもは今までも表明して参りましたのでありますが、今度のような反対意見が今までも多々あったということは、今度参考にしていただきたい。その著しい前例は、前にも教育法案という問題がありました。その当時、新聞の論調に出た言葉を二、三引用してみます。昭和二十九年五月の半ば、ちょうど今時分であります。ちょうどそのときもあの教育法案衆議院を通過しまして参議院委員会に参りました。この委員会委員長である加賀山委員は、当時中心の一人となってこの法案の成立にあるいは修正的な調整に努められたように記憶しておりますが、そのときにある東京の大新聞の社説であります。「教育法案は廃案とすべし」という題で、その理由として、全部読むわけにいきませんから、その一部を引用しますと、こういうことがあります。その理由、「政治権力教育内容に干渉したり、警察権が教育の場に侵入することを許し得ずとするばかりでなく、」こういう文句があります。つまりこの二法案は、政治権力教育内容に干渉する、あるいは警察権が教育の場に侵入するということを前提としたこれは反対意見であります。もう一つの大新聞、これは同じころであります。「教育法案の不成立を望む」、やっぱり反対意見であります。その理由をちょっと引用します。「それは明らかに吉田自由党政府政治権力をもって教育を不当に支配し、ひいては思想言論の自由までも押えつけようという専制的な権勢へのほしいままなる意図から生まれたものであるからである」というのであります。もう一つ引用します。同じ新聞の東大教授の海後宗臣先生、その海後先生の時評の中では、「最も重大なことは、国民教育全体を政治教育の点から」、ちょっと意味がはっきりしませんが、多分政治教育の面においてという意味でしょう、「窒息させてしまうからである。」、こういう極端な言葉が使ってあります。  ところが、この二法案というのは、すでに皆さん御承知であるはずだと思いますが、しかし今われわれの同僚でありますが、ほとんどだれもその内容を覚えていない。一般には知られていなかったのじゃないかと思いますから、ちょっと申し上げます。このときの二法案というのは義務教育の教職員が自分の所属する市町村以外の地区においては政治活動をすることが認められておったのであります、それまでは……、その特例を廃止して一般公務員並みにやってはいけないというふうに改めること、それからもう一つは、教職員を主たる構成要素とする団体、つまり日教組のような団体の組織並びに活動を通じて偏向教育を扇動あるいは教唆してはいかぬ、こういう二つの点であります。この二つの法律がどこをたたけば、政治権力教育内容に干渉したり、警察権が教育の場に入ったり、それから言論、思想の自由が押えられたり、国民教育が窒息させられたりするいかなる要素があったでありましょうか。当時全然内容に関係なく、一般の人が知らないのを、もし悪く言えばいいことにして、そして声を大にして、さっき言った逆コースの点をついているわけであります。その傾向を誇大に歪曲、誇張して、そうして非難したのが当時なんであります。その後何年かたちまして、私は国民教育の窒息も、言論自由の弾圧も、警察権が教育の場に入ったことも寡聞にして知らない。もし御承知の方があったら、実は教えていただきたいくらいで、その後何もなかったではないかと私は思います。(「なぜ修正したんですか」と呼ぶ者あり)修正したのは、世論のためにしたのであるから、世論が入ることはよかったと思う。廃案にすべし、不成立にしよう、こういうときにおいては修正しつつあるときのこれは議論でありまして、全く修正ということとは関係ない全部やめにしろ、しかも極端な言葉を使って言っているんであります。この例はほかにもあります。破壊活動防止法、それから警察法の改正のときも、あるいは一切の国民の自由はなくなるかのようなことを言ったり、それから警察法のときは、政治警察が横暴をきわめる……、これらはどういう結果になっておるかしれませんが、おそらくこれも過大なる表現であっただろうと今では思っております。過大な表現をだれがするのか、匹夫野人がしているんではないのであります。大学の先生や、一流大新聞の論説委員、記者がやっているんであります。こういうのが世論であって、それに従わないのは反動、横暴、多数の横暴というような声が当時天下に満ちておったんであります。今度の学長声明、大学総長声明を見ましても、やはり誇張されております。「民主的教育制度を根本的に改変する」、あるいはもう一ぺん繰り返して「根本的にくつがえす」という言葉があります。それからこれのあとで六百十七人の学者の諸先生のお出しになった声明でも、学問と思想の自由を脅かす、こういう。これは先ほど委員のお一人から上原先生に質問が出た、つまり法案内容を読んでいないのじゃないかといわれる点であると思います。これは私が再々申し上げたように、根本からくつがえす意味のものは、私は何ら発見できない。私の頭があるいは悪いのかもしれませんが、しさいに点検しましたけれども、根本からくつがえすという過大な批判の表現を、大学の総長がするような内容は全然見当らない。こういうふうにですね、私どもから見ると世論というものがときの法案を、そのあるキャラクター、つまり逆コース、逆コースであるという点をとらえて、それを過大に吹聴する、しかも内容に関係のない、事の内容を知らぬのではないかと思うほどの極端な歪曲をするというのが過去の実例であり、現在の眼前にある実例であります。このことを頭に置いて、そうして委員会の皆様は法案内容をよく審議して、そうして実情に合わして、当然そうしていらっしゃるだろうと思うけれども、こういう過大な表現の圧力、あるいはそういう空気の中でばく然と賛否をきめないようにしていただきたい。これが私が今日申し上げたかったただ一つの点であります。
  89. 湯山勇

    ○湯山勇君 公述人にお尋ねいたしますが、公述人は現在の新聞の論調なり、国民の声なりは、これは歪曲誇張されておるというような意味の御発言がございました。そうしてその根底をなすものは、公述人の言葉をそのまま借りて言えば、保守勢力の根性という言葉をお使いになりました。そこで私は単に歪曲誇張ではなくて、そういう心配をしなければならないという事態があるのではないかということを事実をもってお尋ねいたしたいと思います。その一つは、憲法改正の問題、これは講和条約当時に、日本の憲法はあの条約によって改正されるのではないか、憲法改正があるんじゃないか、で、憲法改正反対という声が起りました。ところがその当時は、やはり今のお話しのように、それは誤解である、そういうことは絶対ない、当時の政府責任者からもそういうことが述べられておりました。しかし、今日においては、それは決して杞憂ではなかった。また、軍備の問題にいたしましても、当時これは再軍備につながる問題ではないかと、再軍備反対という声が起って参りました。しかし、これも今公述人がおっしゃいましたように、それは杞憂だ、それは歪曲だという批判はずいぶんありましたけれども、しかし決してそれは杞憂でもなければ、歪曲でもなくて、心配した人がそうあってもらいたくないと念願しておったことが、現実になってきております。こういう事実を見せつけられたときに、果して今日の学者なり、当時からそれを心配した学者なり、あるいは国民の声を果して取り越し苦労であると断言できるかどうか、このことを立証する裏づけとして教育法案の例をおあげになりましたが、教育法案は確かにあのまま通れば、これは教育に対する権力の介入になり、警察権の介入になり、そうして窒息するようなことが予想されたわけでございます。衆議院ではそのまま通って参りましたけれども、今の加賀山委員長が中心になってわずかに「ための」という字句を削るとか、あるいは刑事罰を削除するとか、そういうことによって警察権の介入とか、拡大解釈、そういうことをなくしたので、今日公述人のおっしゃるような事態は起ってはおりません。こういうことから考えてみまして、しかも、そろいもそろって、すべての新聞論調が公式にこれに反対しておる。こういう事実も考えあわせますときに、私は今の心配が杞憂であり、歪曲であり、誇張であるとは考えられないと思うのですが、この点に対する御見解をいま一度承わりたい点が第一点。なお、そのときには、私が引きました例につきましても、御言及いただければ、仕合せと思います。  時間があまりないようですから、まとめてもう一点お尋ねいたしますが、それは最初占領行政として公選を一斉に実施したところに行き過ぎがあると、こういうことをおっしゃいましたが、もし、それでは公選を任意に行わせる、つまり当時論議されました任意設置であれば、公述人は御賛成になるかどうか。それから自治体警察を廃止するのには、手続として住民投票という手続が前段にございました。そこで廃止は最初の間は、ずっと住民の総意によって廃止されて参りまして、決して今回のように法律をもって一挙に公選を廃止するという態勢はとらなかったのでございます。手続としてどちらが一体民主的な手続と公述人はお考えになるか。以上の点について御説明願います。
  90. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) 全部にお答えできないかもしれませんが、最初の再軍備その他の例が杞憂でなかったという点は、その通りだと思います。これは軍備の全廃というそのことは、憲法の条章にある一番これは大きな占領行政の行き過ぎでありまして、それが何年かの間に適当のところへ戻したいという必要が起った現象であって、これは当時の政権の座にある人たちが、責任者が、そういうつもりはないというのは、その場の国会の答弁であって、世の中の歴史的な勢いとしては、あのときの日本の軍備の全廃、戦力の完全否認というような文字は非常に行き過ぎであった。そのために今問題が残っているのでありまして、当時のあの話と、この誇張歪曲とは、全然私は違うと思います。  それから最後におっしゃいました民主的手続の問題、これはこの法案内容、あるいはこの誇張、歪曲と関係がございませんが、お聞き下さったから申し上げますれば、もし住民投票でもすれば、それは確かにその方が一応民主的でございましょう。そういう手続の点については、私はただ抽象的な比較をここで申し上げることは、あまり意味がないかと思いますが……。もう一つございましたか。
  91. 湯山勇

    ○湯山勇君 もう一つは任意設置であればどうだったか。教育委員会の任意設置……。
  92. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) それも私は地方の実情は知りませんが、最初から申し上げたのは、最初からこれが公選でなくて任命制で行われたとすれば、それはそのまま維持できた実にいい制度ではなかったか、つまり逆コースの必要がないから、非常にそれでも戦前の状態に比べて民主的な新らしい画期的な教育制度であったろう、こう申し上げたいのであります。
  93. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) ほかに御質疑の方はございませんか。
  94. 秋山長造

    ○秋山長造君 私も二、三点お伺いしますが、まず第一点は、占領行政の行き過ぎということで、教育委員会を全国の津々浦々に設置したのはいかぬと、だからそれを逆コースで少しあとへ戻すのだ、こういう御説なんですけれども、そういたしますると、あなたのお考えは、小さい町村へ一つ一つ教育委員会を機械的に設けさしたのがいかんので、もっと大きくまとめて、教育委員会というものを設けるならばいい、こういうことでございましょうか、その点をまずお伺いしたいと思います。
  95. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) そういう点に関する、この法案と別の点に関する私の意見、見識というものは別にないのであります。私はただ占領行政の行き過ぎのもとへ戻るこれが一つの例である。その他たくさんあってその全部を通じて同じ意味のあることであるという意味において占領行政の行き過ぎをこの法案に関連して申し上げたのであります。
  96. 秋山長造

    ○秋山長造君 そういたしますとおっしゃる意味は、今問題になっておる法案の具体的な内容について、たとえば公選制がいいか、任命制がいいかというようなことは、一応論外にして、ごく大ざっぱな議論として、まあ何か知らんけれども、とにかく逆コースで少しあとへ返すのだから大体いいのじゃないか、こういう大体論でお話し下さったのでしょうか。
  97. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) それは違います。公選制をやめて任命制に改めようという案がここに出ております。これに賛成か不賛成か、賛成であります。これに反対する議論が過大なる表現を用いているという意味であります。
  98. 秋山長造

    ○秋山長造君 その点はよくわかりました。  それから第二点としてもう一つ行き過ぎの点は、文部大臣教育に対する権限をあまり押え過ぎたので、これもちょっと逆コースへ戻す、こういうことで大体今度の案に盛られておる程度ならよかろう、こういう御説明だったのですが、その御説明も、この内海さんのお考えとしては一応わかりますが、ただもう少し一歩立ち入ってお尋ねしてみたいのですが、先ほどの御説明では、それはちょうど警察行政で自治警を廃止したと同じことだと、警察法であれだけ中央集権などといってやかましかったけれども、その後の実情は、それほど心配するほどのことはなかったのじゃないかというようなお話があったのです。そういう説明は実は文部大臣からも再々聞いておるのです。ただしかし、この教育行政とそれから警察行政との場合は多少違うことは、その他にもいろいろ違う点はありますが、一番根本的に違うことは、文部大臣というのは中央政府におけるこれは独任制の国家機関なんですね。それに対して警察行政の最高責任者は、これは国家公安委員会というこれは行政委員会ですね。独任制でないわけです。しかも政府から一応独立した機関なんです。ところが文部大臣はこれは内閣の一員でもあるし、政党の党員でもあるし、そうして清瀬文部大臣のお言葉をもってすれば、私は自由党の小使だ、自由党の出店だ、こういうことを口癖におっしゃっておるような存在なんですから、だいぶその点は違うように私は思うのですけれども、その独任制の文部大臣地方教育委員会教育長の任命に一々関与する、承認権を持っておる、文部大臣承認がなければ地方教育長すら任命できないということは、ちょうど町村長が助役を任命しようとするのに、一々県知事の許可を得たり、あるいは政府許可を得たりしなければ、助役の任命ということができないということと似たり寄ったりの関係だと私は思うのですが、そういう点は行き過ぎの是正ということによって、また、逆にこの逆コースといっても、その逆コースに少し帰り過ぎるのじゃないかという私は心配を持つのですけれども、そういう御心配はお持ちにならないかどうかお伺いします。
  99. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) ちょっと私には、最初のお話し、何でございましたか。すみません。
  100. 秋山長造

    ○秋山長造君 最初申し上げたことは、先ほど文部大臣権限を強くするのはちょうど警察と同じだと……。
  101. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) あ、わかりました。ごもっとも、その通りであります。警察行政教育行政は違う、従って警察法の建前と今度の教育委員会の建前も非常に違っております。私は文部大臣権限強化ということは、先ほどの上原先生のお言葉のあげ足をとるわけではありませんが、強化ではなくて皆無であったのが少しつけてもらったという程度のことであって、今まで文部大臣はほとんど何の発言もできんような制度は、少し行き過ぎではなかったか、そういう意味において今度のこの法案に盛られている程度の発言ならば、あってしかるべきではいか、こういうふうに思いまして、それは最初からいろいろな世間でも言われておりますように、国民教育のためによき環境を作るのが政府文部大臣責任であるというならば、そのよき環境を作るために、必要な程度の立法であると私は理解しております。  それから今の教育長の任命について文部大臣承認という点については、私も今御質問の趣旨と似たような、つまりこれはそれほどの必要はあるのかという意味で、心配するというほど逆戻りしておるとも思いませんけれども、そういう意味の多少奇異の感を抱きましたので、文部省の方にも聞いたことがあるのでございますが、ちょうど大学総長はやはり文部大臣の任命になっておるというようなのと同じような意味で、ひどくそのために民主主義の度合いが減りはしないと、こういうふうな説明でひどくは釈然としませんでしたけれども、多少難点があれば、そういうところではないかとは思っております。それから教育内容までそれが左右する効果があるとは考えません。
  102. 秋山長造

    ○秋山長造君 今の点は内海さんもまあそこまでせんでもいいじゃないかといういうようなお感じを持っておられるようですが、それ以上はお尋ねしませんが、さらにもう一つ、特に新聞人の内海さんでございますので、私もう一点お尋ねしたいと思うのですが、今この放送関係の人、あるいは新聞協会等から、今度の学校教科書以外に使う教材について、一々教育委員会へ届け出て承認をもらわなければいかんという項目がある。これについてずいぶん新聞方面、それから放送関係の人たちから、これは不穏当だという声が上っておることは、御承知だと思うのです。この点について新聞人としてどのようにお考えになりますか。たとえばあなたのお勤めになっておられる時事新報に何かいい記事が出ている。先生がちょっと教材に使いたいと思っても、すぐというわけにいかない。一々教育委員会にこういう記事を教材に使ってもよろしゅうございますかということを、一々伺いを立てなければいかんというようなことが、適当であるかどうかということをお尋ねしたい。
  103. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) その点は三十三条の問題だったろうと思いますが。私はもうちょっと別のことを考えておったのであります。たとえば今おっしゃったのはその日その日の特殊のケースについて、この新聞を教材にしてもいいかというような許可を取るというもののように、お話しに承わりましたけれども、私はそうじゃなくて、たとえば教材として次のこれこれの新聞を使いたいとか、あるいは教材として学校放送を聞かせたいというふうなことで、許可あるいは承認ということを手続をやるんだろうと、ばく然思っておったのでありますが、その点は、この規則がどういうように作られますか、その場合にあまりやかましく、一つ一つ毎回のケースについて承認を求めるというふうなことはしない方がいいのではないか、そういうことをしないことによって、十分この目的を達しますし、また、NHKの方が見えましたとき、私、十分その点をお聞きしたいんでありますが、私はたとえばNHKの放送そのものがすでに放送法の建前、あるいはNHK当局の良識あるいは世論の監視、そういうものによって良識的に運営されておる。そのものの、個々の、毎日々々のことについて、問題を提起してその承認を求めるというようなことはあり得ない、その全体の良識を信頼して、おそらくNHK学校放送を聞きたいというのならば、それはよかろうということになるのだろうと思いますが、いかがでしょうかという。もう一つそれからその点について手続がめんどうくさいから、ついやらなくなるというお話をさっき先生もやはりそういうことをおっしゃいましたけれども、手続がめんどうくさくて学校教育教科書以外の教材が使えないようになることは、これははなはだ妙なことでありますから、その手続はぜひ融通のきく簡略なものにしていただきたいと、そうしていただくことによって、手続の問題等はないのではないか、こう考えております。
  104. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 一、二点伺いますが、念のために伺いますが、公述人は、産経時事の論説委員の方でございますね。   〔委員長退席、理事吉田萬次君着席〕
  105. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) はい。
  106. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 そうでございますね、お伺いしますが、おたくの方では、この地方教育行政組織並びに運営に関する論説を何回掲載なさったのでございましょうか。
  107. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) 今度の問題が起りましてから、二度は確かに書きましたが、あるいは三度かもしれません。それ以上ではないと思います。
  108. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 まあ私は、こういうことをお伺いするゆえんは、先ほどの公述の冒頭に、との大学の総長並びに学長の、文教政策に関する傾向の声明等を見ても、どうも法律案内容を十分検討しないで出されているにおいのするものもあると、さらに都内の大新聞、同業者の主張に、ずいぶん歪曲と誇張に満ちたものが過去にもあり、現在においてもあって、そうして若干国民世論指導を誤っている面があるやに考える点が遺憾だと、この点が本日の公述人の重点でありましたので私はあえてお伺いしたわけですが、私ただいま調査したところによりますと、この法案国会に提出される前後から本日まで、産経時事で社説は四月二十一日一回しか出ていないようです。そしてこの二十一日の社説について、ちょうどあなたの公述と関係があるから承わるわけですが、第一節、第二節、第三節と、三節に分けまして、第一節においては衆議院審議は実質的に十分審議していない、そういうことでよろしいのか、参議院に移ったのであるが、慎重審議をすべきであると、こういう論陣を張っておられます。第二節において教科書法案にちょっと触れておられますが、これについては、本日の議題外だから申し上げません。伺いたい点は、第三節でございますが、第三節において、この教育行政組織並びに運営に関する件を取り扱われておるわけですが、この中にですね、私が拝見したところでは、朝日新聞とか、毎日新聞、読売、東京新聞というのは少くとも数回、法案が出る前から、出たあと、国会審議と並行して刻々と社説を掲げられておるのを私は承知しておるわけなんですが、おたくの社説を見ますと、他のいずれの論説にも出て参ります文部大臣の措置要求ですね、そういう点に一言も触れておられません。それから今秋山委員からお伺いしました三十三条の教材届出の点ですね、これに一言も触れておられないのでございます。それからまた、いずれの論説にもあります都道府県教育長文部大臣承認をすると、一体この地方公務員を国の文部大臣承認を与えなければ、任命できないという地方公務員は、今のわが国の自治行政下において一人もないのです。全然ありません。御承知のように憲法には地方自治というものは非常にたたえているわけですが、一人もないのです。今度初めて地方公務員の都道府県教育長は、国のまた内閣の文部大臣承認を得なければ任命されないということになる。ある人はこれは地方自治権の侵害だと言っているのです。この点についてはこのいずれの論説にもあるわけですが、あなたはちょうど論説委員だというので、私は承わるんですが、そういうことは一切触れておられないのですが、こういう点は大した問題でないという、こういう御見解に立たれておられるのか、その点ちょうどあなたの口述と関連するところがたくさんありますので、もう少し伺いたいと思います。
  109. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) 論説に教科書法のことまで触れたために、スペースが足りなくて簡単になり過ぎたという意味において、非常に不十分なものでありましょう。それで今教育長の点なども、私はそうまでする必要はないのではないかという印象を受けた。それは先ほど申し上げた通りでございますが、これは論説というものは新聞の論説でありまして、ここで私は個人の意見を述べておりますが、もしそういうことまでこまかく書けば、そういうことはあるいは書いただろうと思います。その点についてはほぼ御同感であります。
  110. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 次に伺いたい点は、あなたはさっきの口述の冒頭に二つの行き過ぎがあって、それで少し逆コースにしたのであるが、その一つは全国津々浦々まで公選にしたのは、行き過ぎだったと、こういうふうに御発言になって、私の耳にはすべての町村には無理であるが、都道府県単位くらいの行使規模であったならば、教育委員を公選してやった方がよろしいのだ。すべての小さい行政規模の町村には行き過ぎであったと、かような気持で明言されたように私の耳には入ったんですが、そうでございましょうか。はっきりいたしたいと思います。
  111. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) 全国津々浦々までやったのが行き過ぎであったと私が判断するんでなくて、そういう一つのいろいろな面のうちで、教育の面においてそういうのが一つのある行き過ぎで今度元へ戻っている現象であると、こういうふうに私は理解して、そのケースだけでなくて、ほかにもいろいろな場合があると、その全体のうちの一つのケースだと、こういうふうに私は理解して、その題の賛否の態度をきめておるのだと、そういうようなことを申し上げたのでありまして、それから今の先ほどの、もっと広い単位ならば公選がいいとか、あるいは任命がいいとか、そういう点に関しては、実は私自身がそっちの方を盛んに研究しているわけじゃありませんし、いろいろなのを調べてみますと、公選論、あるいは任命論、いろいろ論が過去においてもいろいろな機関で対立しているそうでありまして、その両方に議論があるんでありましょう。ただ、今度はいろいろなその説明も聞きましたけれども、公選をやめて任命にするという案に対してこれに賛成した、それでいいじゃないかと、それに対する反対論のいろいろはあまり意味がない、でそれに対する長所を若干聞きましたが、それはすでに今まで委員会においても当局からお聞きだと思いますから、ここで繰り返しませんが、それでよさそうだと消極的にこの案に対してこれはよかろうという意味であります。
  112. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 私どもがこの法案を今日まで審議をして参りましたが、文部大臣は非常に強い世論反対に対しまして、それは誤解に基くものであるという答弁をしばしばいたしておるのであります。ただいま内海さんのお話を聞きましても、そういう意味のことがございました。特に新聞の社説、あるいは学長声明、こういうものは非常に誇張されておるというような御意見の発表がございました。私はここにいろいろ新聞の社説を持ち合せておらないのですが、幸い学長声明については、ここにその本文を持っておるわけなんです。私はこれを見まして、別にこの法案を誤解しておるようにも思われませんし、また、この法案に対して非常に誇張、歪曲をしておるようには全然感ぜられないのです。私は世論反対をそれは誤解であるというふうな言葉でこれを押えるといいますか、そういうことがあれば、これは非常に小さくない問題であるというふうに考えておるわけです。すでに御承知かもしれませんが、国会にはこの法案に対して反対の請願がされております。しかもその請願は七百二十万という多数の人が署名をして出しておるのです。これらの反対も、これは誤解に基くものであるというふうに簡単に片づけられてしまうということであれば、これはゆゆしい私は問題になるというふうに考えております。幸い学長声明が私の手元にありますので、どういう点が誤解であり、どういう点が誇張をした声明であるのか、一つ参考のために聞かしていただきたいと思います。
  113. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) 学長声明につきましては、これが法案の正確な認識の上に立っていないのではないかという疑問を抱かせる点は、これが民主的諸制度を根本的にくつがえすものである、前のところでは変えるとあり、あとのところではくつがえすとありますが、二回繰り返されております。最初に申し上げましたように、これは根本的にくつがえすものではない。根本的にくつがえすというような表現を用いるならば、それは単なる誇張ではなくて誤解だ、あるいは歪曲だと、こう考えざるを得ない。それから誇張と考えられる点は、言論の自由の圧迫ということと、この法案の持つ内容とは少しも関係がない。これは全然関係ないのでありまして、そういう根性を持った保守勢力はいずれそんなことをするつもりだろうぐらいなことならば、わかりますけれども、この法案の賛否をきめる場合には、そういう言論の自由という問題に結びつけるということは、私は間違いだと、こういう意味において歪曲、あるいは誇張という言葉を使ったのであります。  もう一つちょっと先ほどのことでお答えしておきたい。私が新聞社の論説を話題にしましたのは、前の教育法案のときの現実の例をここに引例したのでありまして、その前にこういうことを言ったけれども、それは当時の案の内容を全然離れた意見であったということと、その後そのような事例は起らなかったではないかという過去の例を参考に申し上げた。現在いわれておることは、将来起らぬか起るかはこれは私はわからない。過去においてそういうことがいわれたけれども、その後起っていないではないか、このことは現在いわれていることを判断する上で御参考にしていただきたいと、こういう意味でありまして、現在の新聞社の社説については全然私は触れておりません。
  114. 吉田萬次

    理事(吉田萬次君) 時間の関係上、遺憾ながらこの程度で打ち切ります。(「質問が続いているのだから許しなさい」と呼ぶ者あり)……それでは荒木さんに発言を許します。
  115. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 僕は一言吉田理事に言っておきたいのですが、やはり質問は一区切りついてから、切るなら切る、そういうふうにやってもらいたいと思います。時間がないからということでは困ります。それでは簡単にお尋ねをいたします。私は今度の地方教育行政組織及び運営に関する法律施行に伴う関係法律整理に関する法律案、この中身は教育委員会法であると思います。しかし、教育委員会法の修正案として出すことができなかった。それほどの内容に大きな変更をきたしております。これは政府が提案しておる題目を変えておるというふうな点からも判断されるのであります。私は中身については、時間が長くなりますから申し上げませんが、私はこれは相当大きな変革だと思うのです。しかし、この点はあなたと議論するということはできませんし、判断の相違ということになると思うのです。しかし学長声明においても、これをもって直ちに言論、思想の自由を脅かすというふうな表現は使っておらないのです。そういうおそれがある、そういう心配が十分ある、こういうふうに言っておるのであります。この限りにおいては、また、私もこの法案はそういうおそれは十分にあると思うのです。これは決して誇張でも、歪曲でも私はないと思うのですが、一つ重ねてお答え願うということも何ですけれども、そういうおそれが十分にあるということは、私はもっともな意見であると思うのですが、どうですか。
  116. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) この法案のどこを探しても、私は言論、思想の自由に対する脅威を発見できなかったのであります。もしあれば、教えていただかなければいけませんが、先ほどから繰り返して申し上げましたように、こういう逆コースに当ることをやる勢力は、いずれこんなことをやるなら、言論の方でも何かやりかねないぞという懸念だというならば、それは懸念ですから、これは主観的のものですから、これはそう感じておる以上は、誇張でも、歪曲でもありません。それはけっこうだと思います。この法案に対する反対ということならば、非常に別なことを言っておる。こういうふうに考えます。私はこの法案をここで皆さんが審議されて賛否の意見をおきめになるのに、若干御参考になりやしないかというので、ここで発言しておるのでありますから、そう御承知願いたいと思います。
  117. 吉田萬次

    理事(吉田萬次君) 以上をもって内海丁三君に対する質疑は終了することにいたします。(「委員長、発言」と呼ぶ者あり)  それでは村尾君簡単に。
  118. 村尾重雄

    ○村尾重雄君 ごく簡単に私御意見をお伺いしたいのですが、それは今の矢嶋同僚委員のあげられた新聞の論説の第一節に、また、衆議院における審議においても、もっと具体的に法文の内容に触れて論議すべきであるということが述べられております。それから公述人が当初の公述をなさるときに、内容にもっと触れるべきであって、非常に内容に触れない、ただ傾向を憂いた表現は、歪曲並びに少し誇張し過ぎるという言葉がありました。そういう表現でなされたように、非常に傾向のみに重点が置かれておるという御意見があったと思います。私は重ねてあなたに少しお尋ねしたいのは、もちろん内容を具体的に条文に触れて、個々にこれが検討されることは当然であります。しかしそれ以上に今日この法案審議する、たとえば政治に関与するものの立場、並びに学識経験者、教育に相当責任の立場に立っている者、また日本の将来を非常に憂える人たち、ともにやはりこの法案が持ってくるところの傾向、並びにこの法案からくる一つの危険ということについて、やはり相当これは検討さるべきことと、こう思うのです。こういう点で、この内容に触れることを非常に親切にわれわれに強調されますが、それ以上に、やはりこの法案が持ってくる傾向で論議がもっと私はされてもいいんじゃないかと思います。その点についての公述人の御意見も重ねてお伺いしたい。
  119. 内海丁三

    公述人(内海丁三君) 先ほども申し上げましたように、傾向に関して論議されることが悪いとは私、思いません。ただ、それは一つの誇張であり、歪曲があるのだということと、それからこの内容そのものでないということを申し上げたのであって、過去において同じことが言われたけれども、その後の何年間かそれのような懸念は見えないではないか、こういうために御参考になるのであろうと申し上げたのであります。
  120. 吉田萬次

    理事(吉田萬次君) 以上をもって内海丁三君に対する質疑を終了したものと考えます。   —————————————
  121. 吉田萬次

    理事(吉田萬次君) 次に、池上隆祐君から公述を求めることにいたします。池上隆砧君。
  122. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) 私はただいま審議中であります地方教育行政組織及び運営に関する法律案に対しまして反対でございます。以下その理由を順を追って公述さしていただきたいと思います。  まず第一番に申し上げたいことは、現行の教育委員会制度が、わが国の実情に合わぬものであるというような議論が一部にあるようでございます。現に、鳩山総理大臣も参議院におきまして、わが国は独立国になったから占領政策中の行き過ぎを是正したい、特にわが国の国情に合わぬものは是正をしたいと申されまして、その例といたしまして、たとえば教育委員会制度というふうに申しておられます。  そこで私どもは、このわが国の国情というそういう言葉に対して、私どもはそういう抽象的な表現でなしに、非常に謙虚な態度で、もっと具体的にこの言葉の内容考えなくてはならない、きわめて重要な時期に今日際会しておるものと私は信じます。そこで御参考までにこの現行の教育委員会制度がわが国に輸入、実施されました当時の内閣の諮問機関である教育刷新審議会の報告書の一部を、これは短かい文章でございますが、きわめて重要な幾多の示唆を与える文章でありますので、それをまず御参考に朗読さしていただこうと存じます。「すべての行政機構について、地方分権をできるだけ推進せしめようとすることは、戦後わが国が、採用してきた重要政策の一つである。教育に関する行政機構の改革も、また、その線に沿うて行われて来たことは論ずるまでもない。しかしながらわれわれは、教育行政地方分権を図るにせよ、教育重要性に思いをひそめ、これを、一般地方行政と同一に取扱うべきでないと考えたのである。」これはきわめて重要なことであります。「そして、地方教育のために独立した機構をつくり、これに、一般公民の教育行政への参画を得て、真に民主的な教育行政機構を成立させようと期したのである。」こういうふうに言っております。すなわち、教育行政と一般行政とを分離しなくてはならないと言っております。国民教育行政参画の道を開かなければならない、言いかえれば、直接公選制をとらなければならない。こういうことを報告書において述べております。次に、これもまたきわめて重大なことであります。特にわが国の明治五年の学制発布以来の教育行政の過去に対する深刻な反省として、同じくこの教育刷新審議会は、報告書の中で次のように述べております。これも朗読させていただきます。「日本の学制は遠く一八七二年(明治五年)八月、フランスの学区制に模してつくられたのであるが、一八七九年(明治一二年)九月、米人ダヴィト・モーレーを参画せしめた教育令が公布された。これによると、従来の学区取締に代えて、町村人民の選挙による学務委員をおいて、町村内の学校事務の管理に当らせた。しかし、この制度は翌一八八〇年十二月に改正されて、地方長官の権限を著しく強化し、児童の就学を督励するようになって以来、幾変遷を経たのであるが、結局教育行政文部大臣に帰属し、その執行に当っては、大体において地方長官が文部大臣に対して責任を負い、しかも地方長官の任免は、内務大臣が、これに任ずる形を出ていない。地方長官が教育事務を執行するに当っては、教育に全く無経験の若い事務官僚などを、学務課長として使う場合などが多かったのである。このような行政制度のために、真の教育が行われにくかったことや、これに伴う種々の弊害が積っていたことは当然といわなければならない。」、こういう報告書を出しております。この報告書に基きまして教育委員会制度という新しい制度をわが国に輸入したのであります。  御承知のようにこの報告書が提出されましたのは、昭和二十一年であります。敗戦の直後でございます。当時わが国は非常な深い悔恨、深刻な反省の中にわれわれは立っていたはずであります。このときに本気に、まじめに、深刻にわが国の教育の過去のあり方はこれでよかったかどうかという、そういう深い反省の上に立ってこういう報告書がなされたものであることは、論を待ちません。  そこでわが国の国情という言葉をもう一度思い浮べていただきたい。わが国の国情といえば、何でもかでもいいもののように思うかもしれない。わが国の国情の中には、しかしながら喜ぶべき国情もあれば、悲しむべき欠陥を持った国情もあり得るのであります。わが国の教育行政の歴史は、不幸にして幾多の欠陥、積もる積弊を持っておったということは、この報告書によって明らかな通りであります。従いましてわが国の国情という言葉をどうかこの際具体的に、個別的に考えていただきたい。そうしてその価値判断は別個の問題として考えていただきたい。このことをまず第一番に申し上げたいと存じます。  次に、かくのごとき深い悔恨と反省の上に立って導入せられた行政委員会制度、特に教育委員会制度というものが発足以来、都道府県におきましては、すでに八年の歴史を持っております。この八年の歴史を静かに考えてみて、果して教育委員会制度というものが有害無益なものであり、事実においてわが国の国情に合わない不思議な変なものであったかどうか、この点を今度はもう一度考えてみなくてはならぬと思います。私は昭和二十三年に教育委員会制度が実施せられて、今日まで八年間教育委員をいたしております。この八年間の過去をきわめて謙虚な気持で振り返ってみますると、まことに感慨にたえないものがあります。なぜかなれば戦時中の荒廃を受けついで、戦後のあの社会的な不安と動揺の中にあって、しかも財政的にはきわめて窮迫をしておった。当時は町村には強制的に委員会ができておりませんでした。町村の財政のことまで町村長の立場になったつもりで考えなければなりません。そこへ六・三制は起って参りました。従って学校建築という非常にお金のかかる問題が次から次へと起りまして、第一回の公選村長の大半は、この学校建築の資金造成に悩んで、ついに辞職をしておるわけであります。中には自殺をした村長さえも、あります。こういうつまり幾多悪条件の中において、われわれは一体八年間何をしてきたのかということをひそかに振り返ってみますると、ここで数え上げるいとまもありませんが、幾多の深い実績を積み上げております。時間がありませんので、その一々を御納得のいくように御説明申し上げる自由を持ちませんけれども、もし御質問の場合がありますならば、私は一つ一つ実例をもって、いかに教育委員会というものがこの混乱と財政の窮乏の中にあって教育復興のために実績を上げてきたかということを申し述べさせていただきたいと思いますが、これはもし質問があった場合に譲りまして、ここでは省略をいたします。しかしながら、ここで振り返ってみますると、あの不安と動揺と財政の窮乏の中にあって、どうしてこのような教育復興に対する情熱が生まれ、勇気が生まれたかと申しますと、これは申すまでもなく直接公選制の結果であります。われわれは直接住民に対して責任をもって教育行政をやれという大きな使命を与えられたのであります。人間はそういう使命観に目ざめたときに、異常な情熱と勇気とがわくものであります。また、直接公選制によって、われわれと住民との間には精神的な深いつながりを持っております。苦楽をともにするというほんとうの共存同栄の気持を持っております。こういうことはすべて直接公選制のたまものであるということを、私は今日あらためて自覚をいたしておる次第であります。これも御参考に申し上げておきます。  このようにして考えてみますると、教育委員会制度というものがアメリカ占領政策の行き過ぎであって、わが国の国情に合わんものだというような、きわめて慨念的な抽象的な考え方だけでこれを論じ去ることは、いかにも乱暴しごくなことであって、私は何としてもこの議論には承服ができない、この点をまず第一番に申し上げておきたいと思います。   〔理事吉田萬次君退席、委員長着席〕  次に、申し上げたいことは、今回のこの法案内容について申し上げたいと存じます。この法案は現行の教育委員会法と比較いたしますると、全く別個なものであるということをまず申し上げたい。これは現行法の第一条とこの法案の第一条とを比較してみれば、おのずからわかるところでありまして、この点につきましてはすでに先ほど上原先生がるる申し述べたところでありますので、私は重複を避けまして、この点は省略させていただきますが、ごく簡単に申せば、現行の教育委員会法をささえておるところの三つの大きな柱があります。すなわち教育地方分権、教育自主性の確保、教育の民主化、この三つの大きな柱は、この新しい法案では事実上においてみごとに取り払われております。なお、この法案の中に使われておる文字は現行法の文字と全く同じ文字を使っておるけれども、内容はまるっきり違っておるものがあります。そのうちの一つ、二つを申しますならば、この法案にも教育委員会という言葉を使っています。この法案に言うところの教育委員会は、現行法に言うところの教育委員会とは本質的に全く別個なものであります。また、この法案に言う指導主事という言葉は、現行法に言うところの指導主事とは全く別個のものであります。条文を一々あげまする煩を避けますけれども、現行法では指導主事というものは一つの独立したものであるが、現場へ参りましていろいろの指導助言はするけれども、指揮監督はしないことになっております。しかるに、新法におきましては上司の命を受けて指揮監督をするというふうになっております。同じ指導主事でありましても、文字は同じでありましても、その中身というものはかくのごとく大きな変質をいたしておるということを参考のために申し上げておきたいと存じます。  次に、申し上げたいのは、この町村の段階におきまする委員会の構成でありますが、町村におきましては新法によりますと御承知の通り三人の委員からできております。その三人の委員のうちから、教育長を県の教育委員会承認を得て選ぶことになっております。従いましてこの三人というものの実際上の現実の構成を見ますると、一人は委員長になる、一人は教育長になる、平委員は一人である、こういう結果になります。そうして新法によりますると、教育委員会の会議招集権は教育委員長のみ与えられるようにこの法案ではできております。他の委員からの会議招集請求権というものは現行法では与えられておりますけれども、どういうわけかこの法案ではそういうふうにできておりません。従いまして委員長教育長と、会議招集権のない平委員、この三人が集まって果して合議制執行機関であるところの行政委員会意味をなすかどうか、これは理屈でも意味をなさないと思う。現実の実際運営に当ってみても、これは行政委員会の体裁をなしません。のみならず教育長に選ばれた方は、教育長に選ばれた瞬間から教育委員たるの資格を失うものではありません。すなわち教育委員であり教育長であるという形になるわけであります。従いまして教育長であると同時に、教育委員長を兼任することは許さんというような禁止規定もございませんから、教育長が町村の段階において委員長を兼任すれば、ほとんど独裁的な機関にもなり得るように法律の体裁はできておるのであります。それのみならずこの教育長は常勤の職ということになるようにこの法律ではできております。このことは今日の町村の財政、私は町村長ではございませんけれども、今日の地方財政がいかに窮迫しているかということを、人ごとならず同情もし、心配もしておる一員であります。今日の町村の財政は専任の教育長さえ置くことができないような状態にあるのでありまするが、この法案が実施されて来年の四月一日からこの通りになるとしますならば、教育長に対する給与を支払わなければならない。それだけ分、町村に対する新たなる財政の負担が加わる。これに対して政府は町村に対していかなる財政援助の保証を与えておるかどうか、この法案にはそういうようなところは少しも見えておりません。のみならず先ほど来問題になっておりますところのこの法案第三十三条の教材の適否を判断するのは、教育委員会にあらかじめ諮らなければならぬ、その場合には何としても教育長が矢面に立ってこの判断をしなくちゃならぬ。けれどもそれをするためには、その教育長専門的、技術的な知識、才能、能力を持っておらなければ、ならない。けれどもこの法案から見ますると、そういう適当な能力を持った教育長が選べないような、少くも非常に困難なような仕組みになっております。なぜかと申しますならば、町村の住民のうち選挙権のある者から委員を選びますので、小さな村などに、これだけの重要な判断を下し得る人材がどこにもおるとは限らないから、こういう点を考えてみますと、この法案は不可思議である。のみならず教育長の身分ということを考えてみますと、首長が推薦して、議会承認を得る者はこれは地公法によりまして特別職であります。しかしながら教育長という立場から見れば一般職であります。またこの法案におきましても、「教育長教育委員会指揮監督の下に、」と書いてあります。教育長の立場では指揮監督せられる人である。教育委員の立場からすれば、指揮監督する者である。一人の人間が特別職であったり、一般職であったり、指揮監督する者になったり、指揮監督される者になったり、まことに不可思議千万なものと言わなければならない。しかも今言ったように、教材の適否、善悪を判断する能力を持った人材は容易に得られない仕組みになっておる。その上この人間を常勤者として、これに相当額の給与を支給しなければならない。こういうところから見ますと、この法案というものは一体何のためにこういうことにしたのか、私には何としても納得ができません。  また、都道府県教育委員会段階におきましても、教育委員は知事の推薦により任命するものである。そうすれば先ほど申されました通り、何としても首長の方が優位な地位に立ちます。そうして教育委員会の一番重要な専門職である教育長は、文部大臣承認を得なければならない。そうなりますと、都道府県教育委員会の性格これまた不可思議なものになることは、これは当然でございます。さらに、この都道府県教育長文部大臣承認を得るという、この点でございますが、これは今日のわが国の民主化の程度というものを非常にすなおに、率直にながめて、はるかに民主主義から隔たったところにあるわけであります。なかんずく、今日といえども官尊民卑の思想というものは、非常に根強く加わっております。従いまして上級官庁たる文部省に対する気がねと申しますか、単なる気がねばかりでなしに、実質上の、たとえばいろいろなことを陳情に行ったときに聞いてもらえるとか、あるいは補助金なり、交付金なりをもらえるとか、おそらく今後そういうことが起きるだろうと思います。自分の県の教員の定数を三人でも五人でもふやしてもらう、こういったことをするために、文部省のお声がかりでない教育長を持っておる県と、お声がかりの教育長を持っておる県とでは非常に効果が違います。非常に端的な言葉で言いますならば、外様教育長、譜代教育長というものができて参ります。そうすれば各府県は背に腹はかえられませんので、こぞって譜代教育長承認したくなるのは、今日の日本人の民主化の程度であれば、当然そういう現象は起り得るのであります。従いまして、この法文を見ましても、なるほど都道府県教育委員会は、文部大臣承認を得て教育長を任命すると書いてありますけれども、これは文部大臣は都道府県の了解を得て、その府県教育長を任命すると言いかえても、結果は同じような現象が十分に起り得るのであります。(「その通り」と呼ぶ者あり)  また次に、文部大臣権限強化というような問題が先ほど来問題になっておりましたけれども、あの五十二条の措置要求権並びに文部大臣みずから措置することができるという、あの強大な権限は四十八条を踏まえて立っておるのであります。四十八条をよくごらんになりますとおわかりと思いますが、例示的にあげておりますけれども、四十八条というものはきわめて広範な範囲にわたっております。しかも四十八条は、御承知の通り地方自治法の体裁をそのまま置きかえてきておりますので、普通地方公共団体というようなものを前面に強く出しております。教育委員会というものははるかにうしろに押しやられておることは、これまあ御承知の通りであります。こういう四十八条を踏まえて五十二条の文部大臣の措置要求権、あるいはみずから措置をすることができるというこの強大な権限というものが、果して妥当なものであるかどうか、この点につきましては、私どもははなはだ疑問に思う次第であります。  なお、非常に問題になっております三十三条のこの教材の問題でありますが、この教材という言葉が法文の中に出て参りますのは、今までの教育委員会法にもほとんど教材という文字は出ておりません。出ておりますのは、学校教育法の二十一条第二項に出ております。その学校教育法の第二十一条第二項を読んでみますと、「教科用図書以外の図書その他の教材で、有益適切なものは、これを使用することができる。」と、こう書いてあります。この条文によりまして、教科用図書以外の教材で、有益適切なものと判断をいたし、かつこれを使用する者は一体だれであるかと申しますると、これは社会通念から申しましても、法の解釈から申しましても、これは当然教師であります。教師教育活動における教材の取捨選択というものは、これは非常な重要なものであります。従いまして、言ってみれば、教育上当然教師の固有権とも思われる教材の使用権、判断権という権能は、この新法によりまして大きく制約を受けているということはこれはどういうことか。さらにしいて申しますならば、この法案学校教育法第二十一条の第二項と抵触をしはしないかとさえも思われるものであるということを申し上げたいと思います。  なお、実際問題としまして、小中学校ならば、その地方教育委員会にあらかじめ届け出たり、あるいは承諾を得るというようなことは、しいてやれば、絶対に不可能だと言い切ることはできないかもしれません。非常なむずかしい条件があるとしても、しいてやれというならば、絶対にできないということは、あるいはないかもしれません。しかしながら高等学校においては、これはできるものじゃありません。全県の、遠い所に幾つもある、こういう教材を使いたい、ああいう教材を使いたいというようなことを、あらかじめ届け出たり、あるいは承認を得るというようなことは、まあ非常な時間もかかるし、金がかかる。事実上はできがたい、ほとんど不可能に近い、こういうことに相なるのであります。  このように考えてみますると、この法案というものを全体的に見ますると、総括して次のようなことが言い得ると思います。すなわち、この法案には、法の解釈の上から非常な無理がある。他の教育関係法律を見ましても、法体系全体から見ても、そこには非常な自己撞着、あるいは抵触するきらいがある。非常な無理なものがある。言ってみますならば、すっきりした、一つのまとまった法律としての体裁を欠いておるのではないかと思われる節節がたくさんあります。にもかかわらず、これを実際の問題として考えるならば、現場教育者に対して非常な不信任なような、不安なような気持が非常に横溢しておって、そのためにあちらからもこちらからも監視の目を光らせ、教育活動そのものにも大きな制約を加え、その結果はどうなるか、おそらく生き生きとした教育というものが、今後は行われがたい状態に立ち至るのではないか、これは私は、先ほど来もありましたけれども、単なる杞憂であるとは決して思いません。実際自分教育委員をしておりまして、そうして現場教育というものをときどき行って見ております。最近の新しい教育というものは人間を形成するという大きな建前に立っております。どうしてもそこには生き生きとした創意工夫がなくちゃならない。生き生きとした創意工夫というものはある自由が与えられるところにのみ発生するものであります。こういう自由の制限をするというようなゼスチュアが至るところにこの法案では見えております。従いまして、私はこの法案に対しましては、根本的に言って、現行法の精神を根底から抹殺しているという点が一点。  第二には、この法自体百歩を譲って精細に逐条的にこまかく見てみると、非常ないろいろな無理がある。しかも教育効果は減殺されるきらいだけが残る。そういう意味においてこの法律は趣旨としては私は賛成できない。以上をこの法律については申し上げたいと思います。  もう一点申し上げたい点がございます。これは先ほど上原先生も少しくお触れになったわけでありますが、私並びに私どもの仲間である長野県の教育委員会がこの法案に絶対に反対いたしておりますのは、決してひとり教育行政というような狭い視野に立って反対しているものではございません。私どもは教育行政というものを考えるたびにいつも考えなければならないことは、わが国の地方制度全般ということを考えなければならぬと思うのであります。わが国の教育行政の歴史を見ても、常に地方制度とともに歩んでおります。地方制度が改革されれば教育行政制度もその線に沿って改革されておりました。一例を申し上げますならば、明治二十二年の自治法が根本から書き直されて大修正を受けたのは御承知の通り明治四十四年であります。この明治四十四年の改正は、上級官庁の監督権限強化するという意味を含めて地方自治体の長の権限強化するという方向に向って改正をされています。それにつれまして、教育行政中央集権に傾きました。その結果が御承知の通り大正の初期における画一主義教育の弊に陥ったことはあまりにも顕著な事実でございます。しかも、この方向は時とともに進みまして、ついに行政政治に優位するような事態が完全に生まれました。すなわち昭和初頭におけるいわゆる官僚政治の台頭、これはついに軍閥と官僚の提携することとなり、大東亜戦争の勃発に至り、ついに敗戦のときまでこの無暴な政治力が全国民を支配し、今日に至ったことは皆様の御承知の通りであります。しかるに、今日のこの教育委員会法改正というものを見ますると、これは昭和二十八年の地方制度調査会の答申書の線に沿っておるものであることはおうべくもない事実であります。従いまして本法案は、ひとり教育行政制度の改廃の問題ではなくて、実にわが国の地方制度の大きな大転換を意味する氷山の一角と言わなければならないものと私は考えておるのであります。この点はどうか十分にお考えを願いたいと思います。  なお、私は決して極端な、中央集権は一切いかぬ、中央が権力を持つことは絶対にならぬとかいうような、そういう極端なことは考えている者ではありません。一番大事なことは、今日の日本において一番大事なことは、地方というものをもっともっと重要視して考える、地方というものをもっと強くしながら、しかも中央がこれをうまく全体として調和を保っていく、つまり中央の権力地方の持っておる権力との間に妥当なる調和があり、妥当なるバランスがとれるということにさらに一段の工夫をしなければ、われわれは大きな失敗を繰り返す憂いが十二分にある。従いまして私どもは、この法案を見ますると、地方権限を一生懸命で削ることに専念しております。がそれだけ文部大臣権限強化するように努めております。言ってみるならば、ピラミッドの焦点に文部大臣を据え置いて、都道府県教育長はその息がかかったものでずらりと並べて、さらに市町村教育長ですと、先ほど申しましたように、不可思議な性格ではありますけれども、県の息がかかっておる、県の息がかかっておるということは、これは教育長を通じて文部大臣の息がかかるということに間接的にはなります。こういう態勢に組織を切りかえている。文部大臣政党人であることには間違いがありません。こういう一体大制度として行政制度を置いていいかどうか、この点はだれでもにわかに賛成しがたいところであろうと存じます。  以上のような諸点を考えまして、私は本法案反対をいたすものでありますが、どうか皆様におかれましても、この法案は単なる教育の問題だというような目先の小さな問題のようにお考え下さらずに、実に国家の将来の運命を卜するところの非常に大きな重大な意味があちらにもこちらにもひそんでおるというふうにお考え下さいまして、一条々々をどうか精細に緻密に御審議下さいまして、その上でかかる法案が日の目を見ないように絶大なる御考慮をなされることを私は切にお願いを申し上げたいと存じます。私は国家将来の運命を考えまして、私ばかりでない、多くの人々はきわめて深い憂いをもって本法案の成り行きを注視いたしております。どうか議員の皆さまにおかれましても、国家百年の計を立てるという真に経世家の念をもって、この法案と取り組んでいただくように切にお願いを申す次第であります。  私の公述は以上をもって終ります。
  123. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) ただいまの公述に対し、質疑のある方は順次御発言を願います。
  124. 笹森順造

    ○笹森順造君 公述人の方が述べられましたように、この現在の委員会法が成立されましてから、委員会自体が教育の発展、進展のために貢献のあったということは、これは私どももそう認めており、また国会におけるいろいろな論議の際にも、この法案を論議しました際にも、総理大臣においても、文部大臣においてもこれは明白に認めておる次第であります。ところでそれは、どうしてそういうことが行われたかというと、ただいまの公述人のお話によりますると、これは一にかかって公選制であるから熱情が出たと、こう仰せになります。そこでお尋ねをしたいのでありまするが、それでは任命になりますると熱情が起らないということになりますか。つまりこの教育に関するそういう制度が改まった場合に、新しい委員が出た場合にどうなるかということをまずお尋ねしたいと思います。
  125. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) お説の通り、私は情熱は非常に薄らぐものだということは断言してはばかりません。
  126. 笹森順造

    ○笹森順造君 私はそのことをもう少し深く伺いたいと思います。つまりそれは、任命であろうが、公選であろうが、この仕事は日本教育の進展にある。つまり委員会の使命を果すことによって、日本教育を進めていこうということが、これがその委員というものの使命である。そこに、いかにそれが公選であろうと任命であろうと、主目的自体の精神というものが一にかかって日本教育をいかに愛し、いかにこれに奉仕していくかということになければならない。この信念がなければ、これは私は今のような御返事ができるのじゃなかろうか。私はいかなる形においても、その国家に対し、あるいはまた国に対し、国民に対して非常な教育制度あるいは教育の実際というものがあった場合には、いかなることでもこの熱情は起るという本格的なものの理解を持っていかなければ、今後いかなる法律ができてもこれはなかなかうまい工合にいかないだろう。そこで公選にあらざればこれが熱情が起らないということは、私はすべての日本国民の意思であるとは私は受け取れませんが、公述人はやはりすべての日本人が将来かりにこの法案ができて、この委員会がこの形においていった場合に、今までの熱情が起らないという御認識でありますか、お尋ねしたいと思います。
  127. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) 任命制になればなっても、教育の使命は重大だから情熱を持てというような御議論であります。御議論としてはごもっともだと思います。しかしながら、教育委員というものがほんとうに情熱を持って実際に、現実に仕事をするには、教育委員だけがさか立ちをしても仕事はできるものではありません。それを選んでくれた自治体の住民とともに苦難の道を切り開くというのでなければ、実際問題として出てくるものではない。私は自分自身の体験からいたしましても、直接公選であるがゆえに住民は教育に対していろいろの要求をして参ります。それに対して、財政が許しませんとか、そう言われても、こうだああだというふうにいろいろ話し合いをしてきました。住民たち自分たちの、われらの教育委員だという考えを持っておりますので、こちらの苦もこちらの努力もともに分ち合ってくれるという形になるのであります。で、国民教育行政の参画の道を開くということは、そこに非常な大きな意義があるのであります。その国民教育行政への参加というものの門を閉ざしておいて、その中で任命されたものだけがいかに熱心になろうとも、どうしても国民教育に対する関心というものは今日より後退することはこれはもう火を見るよりも明らかであります。で、相手がそうなったときに教育委員だけが大いに真剣になってみても実効が上らない。上らなければ教育委員も自然にお役目式なものになる。もともと首長の任命したものであって、首長に対する責任さえとればいいのだと、しかもこの法案を全体を通じてこまかくお読み下されば、現行法教育委員の持っておる権限というものと比較にならぬほど縮小を受けております。こういうあらゆるものを閉ざしておいて、そうして今までと同じようにやれ、それが使命ではないかと言えば、それは一つのまあ理論としては成り立つかもしれませんが、実際にはそういうふうにはならぬということを申し上げておきます。
  128. 笹森順造

    ○笹森順造君 ただいまの点は議論になりまするから、この上お尋ねはいたしません。  次にお尋ねいたしたいのは、今度の新しい法案によって指導主事上司命令を受ける——「上司の命を受け」と書いてありますが、この点に対していろいろ御異論があったように伺ったのでありまするけれども、現在の教育委員会法においても教育委員会のもとに事務局がある、そこに教育長が働いておる。しかもその教育長というものはやはり教育委員会の指揮を受けるということがございますので、根本的な違いでない。今のこの何でありましても、やはり指揮を受けてやっている。これがこの上司の命を受けるということと全く違うものだという御観察はどういうことから起ってくるか、御説明願いたいと思います。
  129. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) お答えします。笹森先生は「上司の命を受け」ということだけをお読みになっておる。これは「上司の命を受け」云々とありまして、そうして専門的事項指導に関する事務に従事するために……、しまいにこれは指揮監督権までここにはあるんです。ところが現行法では、指導助言はしてもいいけれども、指揮監督はしてはいけないというふうに禁止されておるのです。その点が違うんです。(「その通り」と呼ぶ者あり)
  130. 笹森順造

    ○笹森順造君 それは現行法の五十二条の三をごらんを願いましょう。「教育長は、教育委員会指揮監督を受け、」と明確に書いておる点についてのお尋ねです。そこをもう一ぺん御解明を願います。
  131. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) 指導主事とおっしゃられたものですから、指導主事のことを申し上げました。
  132. 笹森順造

    ○笹森順造君 それではもう一ぺん徹底して申し上げましょう。つまり私の申し上げますのは、これは皆専門家だから私はこまかく内容を申し上げなかったのですけれども、つまり委員会というものがあって、そこに委員会の仕事が御案内の通りたくさんございます。何を委員会でやるかは、現行法の四十九条にこまかく書いております。そうしてこの委員会がやるべき仕事につきましては、事務局を設けておる。この事務局を設けておって、そこに教育長というものがある。また、その下に事務をつかさどる者といたしましていろいろな主事がそこにおる。その主事には指導主事もあれば、事務職員もあれば、技術職員もあると、こういうことにまあなっておりますですね。従って、その事務局の仕事は、全部これは委員会の決議による指揮命令のもとにあってやるべきものだというふうに、ここに明確にそういう指揮監督というものはあるのに、この「上司の命を受け」ということと非常に違うと言うから、今その点を申し上げたので、そこまで申し上げれば返事が明確にできると思いますので、お答えをお願いいたします。
  133. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) 行政法規として、上司の命を受けるということは、これは当然です。しかしながら、指導主事というものは現場教育を見に行ってそれに指導助言をするものであるべきものであって、行政の全体の系列の問題と指導主事の事業そのものとは別個なものなんです。それを行政の一つの指揮命令権というようなもので指導主事の仕事の中まで割り切っておることがおかしいと言うのです。
  134. 笹森順造

    ○笹森順造君 次の問題についてお尋ねしたいと思いますが、新しい法案が非常に非民主的で現行法と変っておるということをお述べになりましたものの中に、第十六条の任命権者と承認を与える者とのことについての御表示がありました。これは逆に公述人は、この承認を与える文部大臣がむしろ任命して、そうして今度は都道府県教育委員会がこれを承認すると言っても差しつかえないというふうなことを申されましたが、これは非常に行き過ぎの言葉だと思う。私は、あくまで任命権者は任命権者であり、これに承認を与える者は承認を与える者である。承認を与えなければ、任命権者はまた別の者を考えるのであって、さっきの御発言は、あれで適当なものとは私には響かなかったのでありますが、あれは表現が強過ぎたのではないかということを疑いますので、その点をはっきりもう一度伺いたいと思います。
  135. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) よくわかります。これは実際に教育行政責任を負わされて、この責任遂行の任に当った体験がありませんと、文字通りに解釈なさるはずです。御無理はありません。しかしながら、実際に教育行政の任に当った者から言いますと、私の言うことが事実なんです。たとえば、現行の義務教育費国庫負担法のできる前の旧負担法がありましたあの時分は、文部省が何々県の小中学校先生を何人というふうに割り当てたのです。従いまして、各県では教員の数が足りないものですから、文部省のその割当をする専任の主管の課長のところに全国から日参をしております。その場合に、文部省に何か足がかり、手がかりがあればよいがなあということは、だれしも考えたところなんです。こういうことがつい最近まであった。従いまして、文部省の受けがよいとか、文部省へ行けば古巣であって顔なじみが多いとか、そういう人は割合にうまくつながるだろうというふうに都道府県教育委員会側が考えるのは、これはいかにも自然の成り行きである。しかも、日本人の現在の民主化の程度は決して高いものではない。のみならず、官尊民卑の思想というものは、これはなかなかぬぐい去ることのできないものです。こういう現実の事実を基礎にいたしまして、われわれの体験するところを率直に申し上げると、結果においてこういうふうに結局においてなるものだということを申し上げる。(拍手)
  136. 笹森順造

    ○笹森順造君 それは、ただいまのお話はお話として承わりますが、次にお尋ねいたしたいと思いますのは、先ほど来この法案反対をなさる方々の御意見は大体この政府に対するところの不信、国家罪悪の思想から出発した考えのように伺われる。つまり文部大臣がそこに出てきていろいろと、あるいは指揮をするとか監督をするとかいうことは非常に困ることだと、こういう思想がすべての反対者の方々の心の中に流れておるように考えられる。私どもはその点については、過去においてはそうであったかもしれない。また、事実そういうようなことも私ども体験したこともあります。しかしながら、現在の民主日本の姿、日本の民主国の教育の姿に対するわれわれの期待と熱情は、それではならないと、そうでないものであるべきだと、これが私は、総理大臣にせい、あるいは文部大臣にせい、すべての公務員の心得ていなければならない、それに合わないようなお考えで、これに反対する言い方がずいぶんあったと思う。ところで、私はその考えは、まあ皆さん方の認識と私の認識及び日本の将来に対するところの期待及び熱情とは変っておるかもしれませんから、それはあえてお答えを願いませんが、つまり私どもの考え方は、そうした熱情を持つところの日本行政責任にある者、公選によってできた者を、さらにまた議会で選んだ総理大臣、それらの者を中心としてやっておるところの国家的な責任、文教の責任文部大臣がとるということは、私はぜひ必要なことではないかと、そこで先ほど公述人のお話しになりました日本教育の実態を地方的にながめてみると、いろいろバランスを必要とする、でこぼこはずいぶんある、こういうことを仰せになった。私もそれはそのように思う。このでこぼこのあるところの、及ばないところのこれらのものを、どうしてもある水準に上げてゆかなければならない。これは地方だけにまかしておけばなかなかできにくい、こういう意味で、全体的に有機的に国の教育というものを考えたその地位にあって、視野を広げて、実際にその問題を処理し得るところの文部大臣がここに出てきて、そうしてこの足らないところを親切丁寧に補うということが、この法案を通しての精神でなければならない。その理解があってこそこの法律というものを私どもは考えるのだが、これに対して、やはり依然として国家政府罪悪観の思想に立ってこれを批判されるとしたならば、どうも私どもはその点についてしっくりしないところがありますので、根本的な問題に加えて、今の地方教育の変ったところの、でこぼこの水準を上げるということのために、国がもっと力を入れるのだ、それがために、あるいは知事の任命権のようなものが必要なのだ、あるいは教育の実際のこともある程度親切丁寧に、民主化のために力を入れる方がいいのじゃないかということがあった方がいいのじゃないかという気がするので、その点に対してお尋ねいたします。
  137. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) 教育というものの本質からいたしまして、教育というものが一般行政と異なるということをまず十分に理解してかからなければならない。この点については、先ほどの上原先生のお説と全く私は同じ意見を持っております。それからそういう考え方からいたしまして、教育というものをすくすくと健全に成長させるためには、教育行政の独立というものを期さなければならない。そういうふうな考え方が一方にありますと同時に、他方日本の民主化の現在の段階というものがどの程度のものであるかということについては、これはわれわれは率直に事実を認めてかからなければならない。決して私どもは国家罪悪視だとかいうような、そういうへんぱな、固陋な考え方ではなしに、すなおな気持で、今後の日本教育と現在の日本の民主化の段階というものから考えまして、現行の制度は完全無欠ではないにせよ、この方が、これでしばらくゆく方がいい。そういう際に、先ほど来幾たびも繰り返される善意を信じろといいますけれども、これはあくまでも個人間の話で、人間の個人のつき合いにおきましては、あくまでも相手のグッド・ウイルというものを信頼してかかるということは非常に大切なことであります。しかしながら、これは制度の問題である。個人間のグッド・ウイルという問題ではないのです。この点はどうか一つ私どもの心持を非常なへんぱなものであるとお考えにならずに、制度の問題として考えたときに、文部大臣というところに非常な強大な権限を持たせるということがいいか悪いかということは、教育の本質、また日本の現在の民主化の程度というようなものを考えた上で、今後の教育行政はどうあるべきかというような点を考えたときには、制度として文部大臣権限を非常に強化すればいいというようなふうには、私は結論としてはもってゆけないと、そこに非常な疑いを持たざるを得ないと考えます。  なお、私は先ほど申し上げましたことは、地方と中央との間に調和のとれた一つの権限があることが望ましいといったわけでありまして、地方の町村間にアンバランスがあるということを申したわけではないのです。私は地方自治というものをもっと日本の国ではもう少し重大に考えてほしい、そうして地方というものを、地方を生かしませんというと、国家の基礎というものは非常に脆弱なものになるのです。地方自治こそは民主主義の母であるということわざまである、こういう地方自治というものを非常に大事に考えるという考え方が、従来日本には非常に希薄であった。その証拠には、先ほど申した通り、せっかくの明治二十二年の自治制というものが四十四年の改正で根本的に書き直されてきた、その明治四十四年から二十二年またたったのが昭和の初頭である。そのときにどういう現象が事実として起ったか、歴史的事実を証拠にいたしまして、今日ほど地方というものを重大視して考えなければならぬときはない。この地方というものを考えてくれば、この地方制度というもののあり方というものは、当然また別な考え方をしなければならぬ。この地方制度のあり方と教育行政のあり方とは密接不可分の関係にある、こういうことを申し上げておるわけであります。私はこの法案ではそれであるのにかかわらず、都道府県教育委員会権限を圧縮したり、あるいは住民の直接教育行政参加の道をふさいでしまったりしておいて、一方文部大臣権力を増大しておきながら、それでも大臣のグッド・ウイルを信じてゆけばいいじゃないかというお説には、制度論として何としても承服できないということを申し上げておるのであります。
  138. 田中啓一

    ○田中啓一君 まことに適切なる御議論でありまして、ありがとうございます。遠いものでありますから、最初の時分におっしゃったことを聞き漏らしたかと思いますが、現行教育委員会制度が実施された際に、教育刷新委員会の建議の意見がこれこれ、こうおっしゃったわけですが、実施だけではなしに、輸入するとか何かそんな言葉があったように思いますが、移入でございましたか。
  139. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) 輸入です。
  140. 田中啓一

    ○田中啓一君 インポートという意味でございますか。
  141. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) そうです。
  142. 田中啓一

    ○田中啓一君 そうすると、教育委員会制度は輸入品なりという、まず御判断でございますですね。
  143. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) その通りです。
  144. 田中啓一

    ○田中啓一君 ありがとうございました。  それから次に、上原先生も、池上さんの午後の御公述でいろいろお話があるということで、よく聞けとおっしゃっておりました。上原先生の方では、現行の教育委員会法と今度の新法案とを比べてみると、今度の新法案は行き届いた、体裁の整うた法律だと、こういうお話でございます。(「都合のいいところだけ耳に入っておる」と呼ぶ者あり)今お話を伺いますと、新法の体系は全体からみて無理ありということは、これまた整うておらぬ、大いに中に混乱その他矛盾撞着ありということではないかと思うのでございますが、その辺はどういうことになりましょうか、これをまずお聞きしたい。
  145. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) 上原先生公述について、私も聞いておりましたけれども、上原先生は、この新法は文部大臣を長として非常に行き届いたというのは、そういう形になっておるといったわけでありまして、それに対して価値判断として、だからいいとか悪いとか言ってはおられなかったのであります。私はこの上原先生とは全然別個な立場でこの法案を逐条的にこまかくみましたし、また他の関係法律、現在ある関係法律の全体系からもいろいろみましたし、また現実に実際にこれが通った場合の、執行された場合の起ってくるいろいろの具体的事実、こういうようなものを考えてみまして、そうしてみますると、この法律は非常に解釈に無理を生ずるようなところがあったり、自己矛盾があったり、あるいは他の法律と抵触しはしないかと思われる節も相当たくさんある。非常にこれは無理な法律であって、まとまった一つのある目的、こう目的をちゃんと立てて、そこに整然とした一つのものというような、しかも現在ある法律の全体系の中にぴしゃっとすなおに当てはまるものではない、こういうことを申したのであります。
  146. 田中啓一

    ○田中啓一君 現在ございます憲法並びに全法律体系からみますると、私はよく当てはまっておるように思いますのでございますけれども、それはもうせっかく公述者の御意見を伺っておるのでございますから、それを論をするわけに参らないのでございますが、そこで今この本法律反対の理由として、一つは今の法体系全体から見て混乱、矛盾撞着、無理ありとこういうことと、もう一つは現行法の精神、しかも教育行政組織運営法を作る以上は、どうしてもその精神は出さなければならぬものを、その精神を捨ててしまっておる、これがいかぬのだ、これはおそらく体裁論よりももっと強い論拠のように伺いました。そこでなぜそうおっしゃるかと思って伺っておりますると、現行法の第一条には、教育基本法をそのまま引いて、教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行わるべきだと、こういう文言がございますのを、それを取ってしまった。だから精神はなくなったじゃないか、かようにお話しでございますけれども、私どもは教育基本法と別な規定を作っておるのでございますし、それから、これはもう御承知のように、憲法の次には教育を律するものは教育基本法であることは今日炳として疑うべからざるものなのです。でありますから、直接文言を引かないところで、教育基本法各条を受けてこの法律ができておることは、もう法体系から見まして、きわめて私は明白なことだと思うのであります。でございますから、法体系全体から見まして、今度の法律にその文言を引いておらぬから、その精神は抹殺したのだ、こういうふうにお断じになることは、どうも私には了承できないのでございますが、御見解を伺いたい。
  147. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) 法体系と申し上げましたのは、憲法とか教育基本法ばかりではありません。もとより憲法や教育基本法に抵触しておっては大へんです。そうではなくて、もっと立法技術的に申しますと、非常にたくさんな法令があります。これらの全体を、何十というものを渉猟してみますると、そこに非常な無理がある。たとえば先ほど引例しました学校教育法第二十一条に第二項ですか、それとこの新法の三十三条というようなものを比較してみますると、そこに法解釈の上に何かわれわれが割り切れない、すっきりしないものがあります。これはほんの一例であります。私は法律専門家でありませんので、ここではあまり細かいことは申し上げませんが、私の知れる範囲でも相当無理なところがあります。そういう意味で、法体系という言葉を使ったわけであります。それから、その現行の教育委員会法の精神を抹殺しておるということは、これは単なる紙の上に書いた抽象的形容詞的な表現で御理解を願いたくない。私は現行の教育委員会法第一条は、単にお題目を唱えておるのではない。二つのりっぱな目的を立てて、その第一条を受けているからこそ教育委員公選制というものが必然的に出てきている。それを現行法では当然のこととして規定しておる。また教育行政と一般行政との分離ということは、当然あれから出てこなければならない。またそれを受けて現行の教育委員会に対して予算の原案、あるいは条例案の発議権を認めておる。こういうことは、この新法では、直接公選制を抹殺しておる。また予算の問題、あるいは条例案の発議権は全然首長の手に移されておる。中身が具体的に違っているのです。決して、単に抽象的な言葉の表現の上で精神と申しますと、いかにも抽象的でありますけれども、私はそういう抽象的な意味ではなくて、具体的な、この新法の法案を一つ一つに当ってみて、それを要約すれば現行法の精神を抹殺しているという結論に簡単に言えばなる、こういうことを申し上げたのです。
  148. 田中啓一

    ○田中啓一君 意見にわたることは申し上げませんが、ただいま「不当な支配に服することなく、」ということから、一般行政教育行政とを分離してということが出てくるのだ、今度は大分分離というのが、一般行政教育行政との調和とか統一とかいうことを企図したために薄れて、従って不当な支配に服することになるおそれがあるのだ、こういうようなまあ御意見があったように思いますが、そもそも私は教育基本法なり、現行の教育委員会法に「不当な支配に服することなく、」ということは、私は正当にでき上っておりますところの政治なり行政権なりに服していくことをもって「不当な支配に服することなく、」と教育基本法にうたったものとはどうしても思われません。これはもう先ほどからもいろいろおっしゃるように、たとえば教育については、一般教育については、責任のない軍部が無理々々に口を出すとか、極左の団体が出すとか、極右の団体が出すとか、あるいはボスが出すとか、そういうことであろうと、これは考えておるのであります。教育委員会といえども、やはりあれで、でき上りましたものは一つの行政権力でございまして、これに服するのは当然のことだと思うのであります。でありますから、どうもあそこから一般行政教育行政との分離が論理的に必然的に出てくるとは私は考えませんのでございますが、どうもそこのところよくわかりませんでございますから、なお一つ伺いたいと思います。
  149. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) それは教育が、教育というものの本質から考えますと、繰り返して申し上げますが、教育というものの本質からすれば、一般の行政教育行政とは違っているのであります。それは具体的に非常に違ったものが出てきますけれども、その中で一番われわれが考慮しなければならないのは、教育が不当な支配から常に守られなければならない。それはなぜかというと、教育政治の手段としてこれを使われる。これに使われるとか、あるいは政争の具に供されるとかいうようなことは非常に困るわけです。そういう大きな問題ばかりでなしに、日常のささいなことであっても、たとえば教員の人事等におきましても、情実採用というようなことを非常にいろいろ言ってきたり、ある特定の人の感情的な憎しみから、あの教員を首切れというふうなことは従来あったのです。そのために教育者は地方の有力者というものに対してずいぶん卑屈にされてきております。またそればかりじゃなくて、官の力、官僚の方からの命令の力、これによってずいぶん没義道なことを言われてきて、それに対してレジスダンスをしなければならなかったというような事実は枚挙にいとまがない。私の県の事実なんか申しましても、長野県は今日皆様からおほめにあずかっておりますけれども、実にそれに至るまでの間に七十年という長い苦闘の歴史を経てきております。その中にはレジスタンスの極点に達して、ついに鉄道往生をして抗議している先生もあります。七十年の歴史はまさに血をもって色どられた歴史であります。これは何のためか、古い言葉で申せば教権の確立のためであります。言いかえれば、教育が不当な支配から常に守られなければならないという本気な努力の一つの現われであります。こういうふうに七十年やって参りましたので、世の中が民主主義と騒いだ時分には、私の県では民主主義というものが別に珍らしいものではなかった、教育の民主化というものが決して珍しいものではなかった、当然来るべきものが来たという気持でおったのです。それにもかかわらず、終戦の直後実はあるボスの感情からして何でもない校長が知事によって首を切られているという事実があります。これに対して現行の教育委員会法によれば、複数人による合議制の執行機関であります。一人の人間がいかに憎しみをもって人事を左右しようと思いましても、多数の人たちの前ではそういうことは言えない、ここに合議制の執行機関というものの妙味があり、ここに一党一派や個人の感情に偏しない妙味がある。今日われわれが考えられる範囲内でいろいろ考えてみても、教育政治的中立性を守らしめたり、あるいは教員自主性を確保して不当なる支配からこれを守ろうとするには、やはり直接公選による合議制の執行機関、すなわち行政委員会制度、これは日本には今まではなかった、先ほど申し上げました通りアメリカから輸入したものであるに相違ありません。しかしながらアメリカから輸入したものであろうが何であろうが、日本の短を補ってくれるものならば私はいいものだ、しかも八年の経験の上に立って考えますというと、こういう行政委員会というものは、教育行政にとってはまことにいい効果をもたらしたものである、そういうふうに考えて申し上げたわけであります。
  150. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 時間が参りましたので……(「ぜひ聞かなきゃならないことがある」と呼ぶ者あり)それでは簡単に……。
  151. 秋山長造

    ○秋山長造君 質問を始める前に委員長にお願いしますが、私はさっきからじっと笹森さんと田中さんの御質問の時間を時計で見ていたのですが、それぞれ十五分……、田中さんは十八分ぐらい聞かれました。それから笹森さんは同じぐらいやられました。だからやはりそういうようにすぐ時間で切られるのでしたら、初めから委員長が大体あんばいして御指名願いたいと思うのです。そうしないと一方的にやって、すぐあとでぱっと切られたら、これは……。だからそれだけお願いしておきます。  簡単にお尋ねします。第一点は、今度の法案の提案理由の最大のものになっているのですが、どうも文部大臣の御説明なり、また当局者の説明を聞いておりますと、とにかく今の制度ではもう文部省は、文部大臣教育というものに対しては何ら発言権もないのだ、何の権限もない、年々一千億円という予算を国が出しておりながら何の発言権もない、予算を出していれば当然それに伴うところのそれだけの、それ相当の権限というものも持ってしかるべきだ、こういう説明をされる。これは私は非常に誇張があると思うのですけれども、そういう説明をされるのです。そこで実地にこの制度が発足して以来八年間、教育委員として実務に当って来られた一つ池上さんの御体験から、この縦の連繋というものがそれほど薄いものかどうか、一つお尋ねしたい。  それからついでにお尋ねします。第二点は、今度は今の教育制度では地方それぞれてんでんばらばらで、まるで宮崎県と青森県とはてんで別世界のような教育をやっているというような意味の説明がよくあるのです。で、それはつまり横の連絡あるいは横の連繋というものが今の制度では全然断ち切られている、だから同じ日本の国の教育がそんなてんでんばらばらなことをやられてはいかぬから、一つ横の関係においてもおのずからバランスをとっていかにゃいかぬ、そういう意味で横の連繋ということを非常に強調された。そうしてそのために文部省が、文部大臣が中に入って、そうして教育委員会同士、府県教育委員会同士、市町村教育委員会同士の連絡調整という名において介入していかなきゃいかぬ、こういう御説明なんです。一体それほど今までの教育というものは、長野県の教育とそうして新潟県の教育とが全然連繋なしに、バランスを考えずにてんでんばらばらにやっているのかどうか、あるいは相互に自主的に連絡を十分とってやっていられるのかどうか、あえて文部省の、文部大臣連絡調整というような名においての介入を必要としなければその連絡ができないのかどうか、これを実地に即した一つ御説明を願いたい。
  152. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) お答えいたします。御承知のように教育関係にはたくさんの法律があります。中校教育法とか、文部省設置法とか、その他いろいろな法律がございます。従いまして、これらのいろいろな法律によりまして各府県が勝手な教育などということができるものではありません。またあってはならないと思います。従って文部省でも、たとえば小中高を通じまして指導要領というものを出してきて下さいます。一定の基準も示して、各府県はその基準を忠実に守りながら、その上に立って各府県の特殊事情を勘案しながらこれを消化しているというわけであります。決して教育現場において、まるで北と南と違うような勝手な教育をするなんということは法律上でき得べきものではありません。また場合によりますと、次官通牒とかいろいろのものが参りまして、文部省からの法律の許す範囲内において通牒やいろいろな形で参っております。これに対しても、少くともわれわれの県ではこの通牒に対して忠実にこれを守るようにいたして参っております。このようにいたしまして、文部省と都道府県教育委員会、あるいは具体的に言えば小中高の学校とが全然無関係にあるというようなことは、これは当然ございません。  今度は各都道府県間の横の連絡はどうかということになりまするというと、全国都道府県では、全国都道府県教育委員会議会というものを設けまして、共通の問題はその中に調査委員会を作りまして、私その会長でございますが、非常に克明にやっております。その際、決して文部省を入れるなとかいうようなそういう間違った狭い量見ではなしに、文部省の担当の課長さんなども来ていただきまして、お互いに地方の実情はこうだというふうに話し合いをしながら、それでその研究をして、横の連絡もとっております。現に現行の義務教育費国庫負担法を国会の皆様方の深い御理解と御熱意によって制定実施していただくときなんか、私どもなんか全国の都道府県教育委員会の総力を結集してあの実現に邁進いたしました。その他六三建築の負担法にいたしましても、老朽危険校舎その他の補助立法にいたしましても、共通の問題は共通の問題として十分にわれわれは自発的意思をもって連絡もとっております。しかも今申しましたような、必要とあらば決して文部省を除外するというようなへんぱな考えは一度もとったことはございません。その意味において私は現行法では困るというようなことを感じてはおりません。
  153. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 委員長の御要請がありますから、私は一音だけ伺います。  まず公述人は全国都道府県教育委員会議会の役員であるかどうか、あるいは構成メンバーであるかどうか、お答え願います。
  154. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) 私は全教委の調査委員会会長を長年ずっと継続して務めております。
  155. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 それでぜひ私はここでお伺いしなければなりません。それは私どもこの法律案審議するに至りまして一番問題にした点は、この法律案の提案者である政府、その代表者である清瀬文部大臣は、世論を十分聞くところの態度をとったのかどうか。特に中央教育審議会に最近諮問しなかった、これに対しては中央教育審議会の天野会長、あるいは矢内原委員等が遺憾の意を表しておる次第でございます。そこで私どもあなた方の会からいただいた資料の中に、あなた方の代表がこの法案を提案するに当って、どうしてその意見を十分聞かないか、こういうふうに文部大臣にただしたところが、文部大臣はあなた方に聞くぐらいならば中央教育審議会に諮問しますよ、こういったと、そういうプリントをいただいたわけです。そのことの中には十分この法律案を出すに当って世論を聴取するという雅量がなかったのではないかという点が一点と、それからその当時あなた方のこの会の名前によってわれわれは書類を受け取ったわけですが、その中に、教育委員会法を改正するときに教育委員に相談することは、監獄法を改正するときに囚人と協議するようなものだと、かように言ったということをプリントしていただいたわけです。よろしゅうございますか。そこで参議院の予算委員会審議段階にこれを大臣にただして、その発言は穏やかでないのではないか、こういうわれわれの質疑に対して、最初はないと言っておったが、あとで、いや、これはないことにしてあると、そうして相手が、ことに国権の最高機関であるところの予算委員会で、速記をつけて、どうもあのときは相手は酒気を帯びておったようだと、こういう何で、酒気という言葉は速記に残っております。ともかく、しかしないことになったのだが、今度は文教委員会において審議段階に入りましたところが、一切否定して何もこれはないのだと、こう文部大臣は発言されているのです。そこで私は文部大臣世論に対するところの態度と、それからこういう発言があったかないかということはきわめてこれは重大なことでありますから、あなた方からいただいた書類と文部大臣の言とずいぶん食い違っているから、少くとも全国都道府県教育委員会委員議会というところは公けの団体であるから、われわれは正式にこういう陳情をいただいている以上、これをはっきりしなければならぬ。そこで従ってその代表を国会にお呼びしてはっきりすべきだということを私は発言をいたしました。で、委員長理事懇談会で御協議願いました。ところが不幸にして各会派の意見がまとまらなかったためにお呼びすることができなかった。ところが本日われわれの公述人としておいでになった教育委員会関係はあなただけです。しかもあなたはこの全国都道府県教育委員会委員議会の構成メンバーであり、しかも非常に重要な役員であると承わりましたので、私は承わるのでございますが、一体そういう事実はあったのかなかったのかということ。実際なかったとすれば、少くとも私たちにこういう書類をあなた方の会の名前で出した以上は、あれは誤まりであったと、何とか陳謝の意を表明されてしかるべきだと思うのです。私は平素からあなた方の会からいろいろと資料なり、また日本教育に関するところの識見豊かな資料をいただいていることは非常にありがたく思っております。その点については常に敬意と感謝の意を表しておるわけですが、これに関する限り、これを出しっ放しではならぬと思うのです。あったのかなかったのか。そうして果して相手の人が酒気を帯びておったのか帯びていなかったのか。ともかく酒気を帯びておったということは速記録に残っておりますから、全国都道府県教育委員会委員議会の名誉のためにも明確にしなければならぬと思う。私は特に招致して明確にしていただきたいということを要望したわけですが、これができなかったので、この席でお伺いするより機会がないのですから、簡単でよろしゅうございますから、明確に御答弁願いたいと思います。
  156. 池上隆祐

    公述人(池上隆祐君) お答えいたします。  本法案の作成の前に、現文部大臣である清瀬文部大臣と話し合いをする機会を申し込んだわけでありますけれども、その機会が残念ながら与えられなかったという点は事実であります。これは少し余談になりますけれども、松村前文部大臣はいずれ十分に相談しよう、またこれは国会に提出する前には中教審にも必ずかけると言われました。大連文部大臣も同じようなことを言われました。ところが清瀬文部大臣の代になりましたら、どういうものか、こちらから懇談の機会をお願いしましたけれども、残念ながらその機会が与えられなかったということは事実であります。  第二点の質問につきましては、これは全教委の幹事長である松沢一鶴氏が同じような質問を衆議院公聴会の席で受けまして、そうして酒気を帯びていたなどということは絶対にないということをはっきり申しました。それは速記録に残っておりますから、それをごらん願いたいと思います。  それから囚人云々のことであります。これはその当時私病気をしておって上京いたしておりませんでしたが、あとで聞きますると、確かにそういうことを言った事実はあると言っておりますから、これはまた聞きでありまして、はなはだ不確かでありますけれども、簡単に言えば、プリントで差し上げたことは事実に相違ないものだと私は確信しております。
  157. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 以上をもちまして、池上公述人に対する質疑は終了することにいたします。どうもありがとうございました。   —————————————
  158. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 次に伊部政一君から公述をいただくことにいたしますが、前もって申し上げておきますが、伊部先生はどうしても六時までに御帰宅にならなければならない所用を控えておられますそうでございますので、あとで質疑をなさる場合には、そのおつもりでどうぞお願いします。
  159. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 ここを出る時間が六時ですか。
  160. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) お宅へお帰りになる時間です。で、十分前くらいに院を出たいという御意思でございます。  では伊部さんどうぞお願いいたします。
  161. 伊部政一

    公述人(伊部政一君) 私は今日の日本教育界を見ましたときに、一部外国の思想が猛威を振っているという一面があり、また特定外国の利益に奉仕しているというような風潮があることを否定し得ないと思います。まことに遺憾に存じておったのでございますが、今般教育委員会制度の改正に関する法案に対しましては、そのような観点から原則論的には賛成をするものであります。もっともこの法案につきましてはいろいろな批判がございますが、その批判のうちでも特に指摘されるところのものは、まず第一に教育行政中央集権化ということが指摘されております。さらには教育内容に関して国家統制が強化されるという点も指摘されております。あるいはまたさらには政党教育支配ということも指摘されておるのであります。ところで、私はもしこの教育に対する中央集権化が正しくない、あるいは国家統制が行われることも正しくないとするならば、それと逆に教育の無政府状態が正しいのであるかということ、これは私はまことにこの今日の教育の状態を見ましたときに、無政府状態にひとしいようなものであることを憂えておるのでございます。と申しまするのは、私は教育というものは国民的基盤に立つものでなければならないと存じます。あたかもたとえば経済が国家のワクの中において国民経済としての秩序を維持しておりまするように、やはり教育も国家のワクの中で国民教育として秩序づけられなければならないと考えておるのであります。もとより今日民族独立とかいろいろと言われております。この民族独立とかあるいは愛国心と、こういうものが不必要なものだというのならば、これは別問題でありましょう。しかし、われわれ日本人が愛国心を持たなければならない、あるいは民族独立ということを尊重しなければならないとするならば、やはり国家的秩序のもとに国民教育国民的基盤に立った教育というものが必要である。ところが今日のこの日本教育というものを見ますると、国民的基盤に立っておらないと私は考えておるのであります。すなわち今日の日本教育を見ますると、国家的基盤に立った中心的存在、担当者がない。権力分散化というか、無政府権力分散化の様相の方がはるかに強いのじゃないか、こういうふうに考えておるのでありまして、そういうような無政府状態につけ込んで一種の革命的な勢力が入りやすくなる。これはもう日教組という事実をみても、私は明瞭だろうと思うのであります。これらは、日教組の活動を見ましても、こういう民族的祖国愛というよりも、むしろ階級的な闘争をやっておる。国民的基盤に立たないで、階級的な意識のもとに運動を行なって無政府状態に乗じておるのであります。で、私は教育における国家的秩序というものを、ぜひとも戦後の日本において打ち立てていただきたいのであります。むしろ担当者であるべき文部省がその点ではまことに弱体化しておるのじゃないか。もとより文部省が特殊の独裁的権力をふるうというようなことのないようないろいろな諮問機関とか、中央教育審議会もありましょうが、いろいろな機関というものを同時に考えなきゃならないとは思いますけれども、逆にこういう国家的基盤に立った国家的秩序の担当者が弱体化されておって、反対に日教組というようなものが逆に全国的組織強化しておる。まことに私の立場からすると逆の感じがするのであります。もとより、私は学問の自由というものを尊重していかなければならないと考えておるのでありますが、しかしながら、学問の自由と教育の自由とは、これは厳に区別されなければならないと思うのであります。すなわち、たとえ学問の自由が認められておるにせよ、教育界において、たとえば「チャタレイ夫人の恋人」とか「太陽の季節」、ああいうようなものを認めていいか。少年、児童の教育の中で、やはりこういう点については国家的立場から教育の自由というものを制約していかなければならない、こういうふうに私は考えます。こういうような民族的、国家的な秩序というものがまだ確立されない今日の教育状態、そういうところにつけ込んで、今日特定の政治的立場を教育に持ち込むところの運動が行われておる、教育界を混迷に陥れようとしておるのである。今日の教育委員会、現状のこの教育委員会制度の弱点を利用して、教育界の無政府状態をついて、容共的、破壊的な行動が今日の日本に猛威をたくましくしておるのであるというふうに私は考えます。これは私一個の国民的感情と申しますか、こういう立場から申し上げておることではありましょうが、私自身は、やはり教育界というものは、階級的利益に奉仕するものではない、あるいは個々人の利益、権益に奉仕するようなものであってはならない、国民的利益に奉仕するようなものたるべきである。国民的利益は、個人的利益や階級的利益に優先しなければならない、もとより階級的利益、個人的利益というものも尊重しなければならないけれども、それ以上に国民的利益ないしは民族的利益というものがこれらに優先すべきである、こういう観点で日本教育というものを今後再編成していかなければならないと思うのであります。そうでないと、ある特定国の思想が、先ほど申し上げましたように、猛威をふるい、特定国の思想の支配下に置かれる。日本国民的基盤、教育の基盤である精神的基盤としての教育が植民地化されていく。私は今日の日本は精神的に植民地化されている面が、非常に教育界に多いということを嘆いておる一人であります。私はそういう意味において今日国民自覚というものを強調したい、そうして教権の確立と申しましても、これはやはり国民的教権の確立でなければならんと考えるのであります。  私は今般の法案に対して幾多の大学学長ないしは教授がこれに反対意見を述べていることをも知っております。しかしながら、われわれの立場に立つ数百あるいは数千をこえる心ある教授のいることを皆様方に申し上げたいと思うのであります。なるほど宣伝はしておらないでしょう。表面には出ておらないでしょう。しかし、こういう立場の教授がわが日本にまだたくさんあるということを実はここで申し上げたかったのであります。私個人は経済学の専門の者でありまして、教育に関する知識をここで披瀝するには不十分であると、みずから認めておりますけれども、しかし、私はこういう心ある学者、大学教授が多数あることをこの際ここで強調しておきたいと、こう考えまして、あえて非才を省みず今席に参りました。  実は二時間ほど前に参りまして、長い間待っておりました。もう当然私の終了時間くらいに考えておりまして、万やむを得ざる約束がございますので、残念ながら、今日私の申し上げるところの言葉を非常にはしょってしまったのでございますけれども、これをもちまして私の意図するところをおくみ取り願いたいと存ずるのでございます。   〔委員長退席、理事吉田萬次君着席〕
  162. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 私はただいま伊部さんのお話を聞きまして、非常に意外の感に打たれておるのであります。ただいまのお話しの中に、教育は無政府状態にひとしいような状態にあるというお話がございました。これは私は非常なお言葉であると思うのであります。教育に対しましては、教育委員会が御承知の通りでございまして、教育行政については責任をもってやっておるのでございます。さらに、学校には教師がおりまして、その教師責任をもって教育に当っておるのであります。また、父兄もPTAを組織して、学校先生と協議をしながら子供教育を進めておるのであります。どこに今の日本に無政府状態にひとしいような状態があるか、これは私はこの言葉はゆゆしい言葉であると思う。聞き捨てにならない言葉である。何かある意図をもってやっているのじゃないかというふうな感じさえ持つのであります。そこでどこにそういう状態があるか、まず第一点お伺いいたします。
  163. 伊部政一

    公述人(伊部政一君) 教育基本法の第十条でございますか、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」というのがございます。私は教育は私の見解からいたしまするならば、さきほど申し上げましたように、国民自覚という点に立ってそうして国民的基盤に立って行われなければならない、各地方々々で個々ばらばらに行われるのであってはならないと、それから「教育は、不当な支配に服することなく、」という言葉がありますが、むしろ今日はたとえば日教組の一時早退とか、こういうようなかえって全国的団結の日教組は文部省意図に反していろいろな行動をとっておる。こういうことは私は国民的な立場に立って見るときには、かなり無政府的な状態があるものと私自身はそういう意見を持っております。全部がことごとく無政府とは言いません。私は無政府的な面が非常に多いということを遺憾に思う、こう申したわけであります。
  164. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 個々ばらばらの教育というお話がございましたが、現在教育について非常に大事な教科書文部大臣が検定をしてきめておるのであります。さらにどういうふうにしてこれらの内容を教うるかということについては、先ほどからお話がありましたように文部省において指導要領、これが全国一律にいっておるわけであります。これを中心にして教育が行われておるのであって、個々ばらばらの教育が行われておるということは考えられないのです。もし、大阪でやっている教育と東京でやっている教育とが非常な隔たりがあるというならば、そのことを私は御説明いただきたいと思います。少くとも私どもの見るところでは、それは地方によって地方の実情に即するような考慮が払われております。これは当然のことであります。しかし、大綱においてはそう変化のないようにきめられておるのでありまして、個々ばらばらの教育などということは考え得られないことだと思います。この点を私はどういう理由でおっしゃっているのかお聞きしたいということと、次に、この文部省意図に反して日教組がいろいろなことをやっている、これは非常にけしからぬ、私はこういう考えこそけしからぬと思うのです。日教組は法律によってきめられた職員団体として結成され、そうしていろいろの組合運動をやっている。これは当然民主国家において認められておるところであります。私どもはこれに対して諸外国に例のないような大きな制限を加えておることに対して、非常に遺憾に思っておるのです。日教組は文部省の御用機関ではありません。下部機関でもないのです。独立した教員の結合団体なんです。何ゆえに文部省の言うことを聞かなければなりませんか。私はどういうお考え文部省意図に反していろいろ行動しておると言うのか、これは全く別個の自治的な団体である、その理由をおっしゃっていただきたいと思います。
  165. 伊部政一

    公述人(伊部政一君) これは私が直接知ったことではございませんが、広島県のある小学校に火事が起きた、そのときに村民の人たちが村長に対して非常に残念なことであったと申しましたときに村長がこの責任教育委員会にあるというような言葉を吐いて、いかにもこの村長と教育委員会と全然別個のものである、何か、こう同じ村がばらばらであるような状態であったということを聞いたのであります。こういうふうに私は今日の教育委員会の実情については直接知りませんけれども、あちらこちらで非常に(「そんなことを言っていない」「でたらめだ」と呼ぶ者あり)そういうことを聞きました。それはあとでお調べ願えればいいことであります。(「議事進行」と呼ぶ者あり)それで私はともかく各市町村において、それぞれ特殊の教育方法をやっておる、全国的国民的な統一というものがないと私は考えております。  それから次に日教組の問題でございますけれども、ともかくあの日教組は一つの共産主義というものを(笑声)中心に動いております。たとえばソ連の悪いことなんか一つも言っていない。あああいう団体が日本に横行しておるじゃありませんか。(「議事進行」「議事進行と言っても質問があるじゃないか」と呼ぶ者あり)
  166. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) まだ答弁中ですから。
  167. 伊部政一

    公述人(伊部政一君) 国民的な自覚国民的な基盤に立った自覚なんというものは、全然ないと私は考えております。(「議事進行」「質問が続行されておるのに議事進行もないじゃないか」と呼ぶ者あり)
  168. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) いや、議事進行だからお許しいたします。
  169. 田中啓一

    ○田中啓一君 けさほど矢嶋君から議事進行について御発言がありました、せっかく公述に来ていただきました方たちに対して、詰問的な態度はお互いにやめようじゃないか、私はまことに適切なお言葉であろうと思う。しかし今拝聴しておりますというと、どうもやはりこれは詰問的に聞える。でありますから、(「傍聴者黙っていなさい、委員長傍聴者を整理しなさい」と呼ぶ者あり)発言中。(「君以上に問題じゃないか、傍聴者がヤジっておるじゃないか」「大きな声を出すな」「傍聴者がヤジっておるのに衛士何をしておるのか」と呼ぶ者あり)
  170. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 傍聴者御発言を禁止いたします。(「ヤジっておるじゃないか、退場を命じなさい」と呼ぶ者あり)
  171. 田中啓一

    ○田中啓一君 ですから、お互に一つ穏かに疑義を御質問申し上げるようにお取り計らいを希望する次第であります。
  172. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 それではその次の問題といたしまして、日教組に対する御意見がございました。これにつきましてお尋ねをいたしたいと思いますが、先ほどお話しの中に、日教組は教育界を混迷に陥れるようなことをやっておる、教育委員会の弱点につけ込んで容共的、革命的な勢力をふるっておる、さらにただいまは日教組は共産主義を信奉してやっておるということでございます。これは全国の五十万の教育に従事しておる人々が作っておる団体であります。従ってこれはこのまま私が質問しないで黙過するということは、非常に重大な影響を私は与えると思いますので、この点は明らかにしておきたいと思うのであります。日教組が共産主義を信奉しておるということは、私は実は初めて聞いた言葉であります。私も、伊部さんは御存じであるかどうか知りませんが、初代の日教組の委員長をいたしておりました。日教組結成以来これに関係をいたしておる一人であります。そうして今日といえども若干の知識を持っておるつもりでございますが、日教組が容共的な考えを持っておるというようなことは、いまだかつて私の知らないところであります。また、教育委員会の弱点につけ込んで革命的な猛威をふるっておるということは夢にも考えられないところでございます。もちろん日教組のいろいろの運動が何人をも満足せしめるようなそういう行動をしておるというふうには、とうてい参らないかもしれません。しかし、今日日教組は日本教育の危機を救うために非常な努力をしておるということは、私は認めなければならぬと思うのであります。それを共産主義の思想を信奉して、そうして革命的な行動をしておるということは、あまりにも私は事実を無視した御意見であるように思いますので、もし言い過ぎであるとお考えになれば訂正していただくし、そうでなければ、やはりこの際なぜそういうふうに判断せられたか、それらの資料をお示し願って明らかにしていただきたいと思うのであります。何せ、先ほど申しましたように全国の教職員をもって組織されておる団体であり、しかも子供教育に携わっておる人々の団体という点において、軽々な判断は許されないと、特に私は感じますので、この点は明白にしていただきたいと思うのであります。
  173. 伊部政一

    公述人(伊部政一君) 先ほど、今の質問の前に、教科書の問題もお持ち出されになりましたが、私は憂うべき教科書という、ああいう問題からでも言うべきことがあると思っておりますが、とにかく日教組が容共的であるという考え方は、今日私は捨てておりません。もしそうでなければ、今日の日教組の幹部の何人でもよろしい、われわれは共産主義反対である。そして今日の日本のいわゆる共産主義反対の立場の人々、ないしはそういう制度をこきおろすばかりでなく、今日のわれわれの立場と協力し得る、そうして共産主義には反対だということを、幹部の一人でも言える人があるならば、私は私の今まで考えておる考え方を改むるにやぶさかではありません。
  174. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 私はこの問題について伊部さんとこれ以上論争しようとは思いませんが、この際私は伊部さんにもお願いをしておきたいと思いますが、日教組の幹部とも、ときどき御懇談をいただいて、どういう考えを持っているか、直接一つ御承知をいただきたいと思います。そうすればおのずからそういう極端な考えを持っておらないということを了解されると信じます。
  175. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 簡単に伺いますが、最近こういう意見があるのでございますが、公述人、どういう御見解か、この際承わりたいと思います。それはこの私学に対して文部省なり、さらに地方にある高等学校以下の私学に対して、教育委員会なり、あるいは知事、いわば官側ですが、そういう方面からの私学への発言権というものが非常に薄い、従って私学にそういう方面からの関与力を強めるべきである、こういう意見、並びに一つの私学の経営を能率化するために、経営者の権限をもう少し強めていくべきじゃないか、こういう意見があるわけですが、こういう意見に対して、公述人はどういう御所見を持っていらっしゃいましょうか、お伺いをいたしたいと思います。
  176. 伊部政一

    公述人(伊部政一君) 私は今日大学に教職を持っておる者でありますので、大学のことならば私自身はっきりした見解を表示することができます。私は各大学においては、経営者の経営権及び教授の教権、この教権と経営権が両立していく体制を考えており、それが可能である、こういう方針で大学、この場合は私立大学であります、私立大学を運営することができる、こう思っております。これは大学に関することで、私自身中学、小学、高等学校という体験を持っておりませんので、その点についてははっきりしたお答えを今ここで出すことはお許し願いたいと思います。
  177. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 文部省の大学に対する関与権については……。
  178. 伊部政一

    公述人(伊部政一君) これは大学……、これは私立大学ですか、官立大学ですか。
  179. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 私立大学。
  180. 伊部政一

    公述人(伊部政一君) 私はね、私立大学は特殊の立場にありますから、私立大学の経営権というものは、当然に確立しなければならんと思っております。教権と経営権とは別でありますけれども……。
  181. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 もう一つ伺って、さらにもう一回伺わせていただきたいのですが、それは先ほど来あなたの公述の中に、さかんに無政府状態という言葉があったわけですが、従って公述によりますと、この法案が成立すれば、今のこの日本教育の無政府状態は、相当程度に解消するというお考えのもとに公述されておりますが、この法案のですね、どういうところで今のあなたが無政府状態とお考えになっていらっしゃる面が解消されるように、この法案を読んでいらっしゃるか。一、二の例でよろしゅうございますから、お答え願いたいと思います。
  182. 伊部政一

    公述人(伊部政一君) 私は今般の法案を見ますと、文部大臣が全権を握っておるというほどの権限を要求しているものではないと考えております。でありますから……。
  183. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 無政府状態の傾向が緩和される点で賛成だという御意見ですわね。それでこの法案のどういうところで今のあなたが無政府状態とお考えになられるところが直されると、この法案を読んでいらっしゃるか、お伺いしたいんです。
  184. 伊部政一

    公述人(伊部政一君) ですから、文部大臣権限を、教育委員会に対する権限を高めていくということが必要だと私は思うんです。
  185. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 そこで無政府状態は解ける……。
  186. 伊部政一

    公述人(伊部政一君) そうですね。
  187. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 もう一回。よくわかりました。私どもはこの無政府状態にわが国の今の教育制度があるとは考えておりません。時間がありませんから申し上げません。ところが公述人の方は無政府状態、それを解消するのに、文部大臣権限は強くなったからということをお認めになりました。それはとりもなおさずわれわれが中央集権、国家統制になるからといって心配している点なんです。問題は現在のわが国の教育の情勢分析いかんにあると思います。私はここでなぜこういうことをあえて申すかと申しますと、これは皆さん御承知の通りに、公聴会というのは何人公述人を呼ぶかということをきめまして、そうして社会党の方は社会党の意見にふさわしい最もこの人がいいと思う人を推薦します。自民党の方ではまた最も自民党の主張に近いという人を御推薦申し上げる。緑風会においてもまたしかり。かようにして公述人というものは構成されているわけでございます。で伊部公述人は、この自民党推薦にかかっておられるお方でございます。従ってこの伊部さんのさっきの御発言というものは、御推薦なさったところの自民党側においても私は責任を持たるべき御発言だと思うのでございます。ところが政府並びに与党においてはですね、文部大臣権限を強めるものではない、こういうことを常にいわれております。ところが公述人はですね、文部大臣権限が強まるので、今無政府状態かどうか私にはわからんのですが、この無政府状態が解消する、そういう意図をもってこの法律案が出されたとするならば、きわめて重大だと思うんです。幸いにして委員長は自民党出身の方ですが、ただいまの伊部公述人意見が自民党の意見に最も近いという立場においてこの公述人を御推薦申し上げて、われわれに公述を聞かしていただいたのでございましょうか。答弁次第ではさらに質問をします。
  188. 吉田萬次

    理事(吉田萬次君) お答えいたします。内容を知りませんから、そして私がまた個人として推薦した方でありませんから、それに対する十分な私個人としてのお答えはできません。
  189. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 これで終ります。個人云々ということを言われますが、自民党さんで推薦されたことは事実なんですから、それとまたですね、私は穏やかに申し上げますがね、ずいぶんと現実把握が私は若干偏向されているんじゃないかと心配しております。そしてあえて申し上げる点は、この点については公述人と全く意見は同じです。あなたは私学に対して文部大臣権限強化すべきでない、また私学の経営に当っては、経営権と、あなたは私立大学の教授でいらっしゃるわけですが、その教権とははっきりと確立しなければならん、そういう点で意見が一致するわけですが、それは公立学校関係で無政府状態だというのとちょっと私は矛盾するように思うのです。それで伺うわけです。今のわが国の国立並びに公立学校教育の実態はこれは無政府状態であるというなら、私はそれ以上に国民教育という立場から言うならば、わが国の今の私学はこれを無政府状態と、かように私は分析されなければ首尾一貫されていないのではないかと思うのですが、その点少し私は納得いたしかねる点がありますから、その点御解明願いたいと思います。
  190. 伊部政一

    公述人(伊部政一君) 私は教育委員会法案に関して申し上げたのですが、無政府状態の面があるということを今経営権、教権について申し上げたのは大学に関して言っておりますから、大学の場合とは別にしなければならないと思います。簡単に申し上げました。それから文部大臣権限ということを申しましたけれども、私は再三申し上げましたように、日本国民的な立場に立って文部省の機能というものももっと拡大してしかるべきだと、そういう意味で申し上げたことであります。と同時に、さらにこの文部省権限というものが極端に中央集権化への道をたどらないためのいろいろな手段というものは、当然に講ずることができるということは前に申し上げた通りであります。
  191. 吉田萬次

    理事(吉田萬次君) 矢嶋君、簡単にお願いいたします。
  192. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 教育委員会法に関連してだけでなくて、あなたのさっきの発言は、教育は無政府状態で、さらに冒頭に特定外国に奉仕しているものがいるということを述べられている。おそらくこれは何かをマークして言われたと思うのだが、ただあなた六時までにお帰りになるということですから、失礼になるから、あまりお伺いいたしませんが、それで委員長に御要望申し上げますが、この公聴会公述人意見というのは聞きっぱなしというわけでわれわれ開いたわけじゃございません。今後の審議に当って国民の代表とも目すべき、しかも各政党会派の推薦にかかる人から十分意見を承わって、そうして法案審議の一つの大事な資料にしようというわけなんですから、参考人の御発言というものは今後の法案審議に非常に密接な関係があるわけであります。今のところ社会党はずっと百パーセント出席しております。自民党さんは平素は質疑を打ち切ろう打ち切ろうと言われるが、今ようやく七〇%になったが、さっきまでは五〇%であります。緑風会は七五%であります。それで至急に全委員の方をおいで願って、そうして公述を願いたい。これを私は委員長に要望いたします。
  193. 吉田萬次

    理事(吉田萬次君) 了承いたしました。以上をもちまして伊部公述人に対する質疑は終了いたしました。どうもありがとうございました。   —————————————
  194. 吉田萬次

    理事(吉田萬次君) 次に、森戸辰男君の公述をお願いしたいと思います。
  195. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) 広島大学の森戸でございます。  教育委員会の制度が教育改革のきわめて重要な一環であることは皆さんもよく御存じのところと思うのでございます。同時に終戦後の教育改革のうちで、最も多くの問題をはらんでいるものが、私は教育委員会の制度であろうと思います。そこでこの制度については現状維推ではなくて、何とか現状が変えられなければならぬということは、私はだれ人も考えているところであろうと思うのでございます。と同時に、この問題は政治的にというよりは、政党政治的にきわめて関連の多い制度でございまして、これは末端にある教師、児童、生徒、保護者というようなものとの関連もありますので、また、政党におきましても、政治的な傾向があるといわれる教育者団体におきましても、そういう面ではきわめて関心の強い問題であることは争われないと思うのでございます。過去の、ことに地方教育委員会制度の自主性をめぐる賛否の議論を見ましても、そういう感じが深いのでございます。現在の法案につきましての論議をいろいろ拝見いたしておりましても、政党的な傾向というものが相当に強く出ているというような印象を受けるのでございます。教育本来の問題というものが必ずしも直接第一義的に出ているとのみは限らないような気がいたすのでございます。  ところが教育委員会法というものは、まさにそれと反対のことを目ざしているのでございまして、教育が何とかして政党政治的な面から上にあって、中立的なものにならなければならぬということを意図していると思うのでございます。そこで私は本院におきましては政党的な立場ばかりに拘泥することなく、より高い立場と教育を思う熱意、しかも公正な立場で実質的に冷静慎重にこの法案が検討されることを期待いたしているのでございます。  私はしじゅうこの問題につきましては関心を抱いてきているのでございますが、これは先ほど申しました日本教育民主化という戦後教育改革の基本線の一つであるものでございまするので、そういうことのほかに私自身といたしましては、実は私が文部省におりますときにこの法案ができまして、ここに剱木議員もいらっしゃいますけれども、そういう点で、実は私には特別に関心が深いのでございます。実はつい二、三日前に本院の公聴会に出るようにという御依頼がありましたのですが、ちょうど明日で、差しつかえましてお断りをしたのでございます。ところがその電報がどういう間違いかうまく着きませんで、どうも来ることになっているというような話で、むげにお断りすることもはなはだいかがかと存じまして伺うことにいたしましたが、そういう事情で、私今日いろいろこの法案の詳しい細密な問題についてお話いたす資料は持って参っておりませんが、この法案ができましたそのときの事情などをお話し申し上げますならば、何らか御審議のお役に立ちはしないかと存じまして、そういう点を主として申し上げたいと存じておるのでございます。  申すまでもないことでございますけれども、教育改革の基調は教育民主化という点にあったのでございまして、教育行政におきましても、この原則が取り上げられたのは当然のことでございます。そこで従来の戦前、戦中の教育行政中央集権化しており、文部官僚の支配が非常に強く、また地方においては内務行政、ときには軍の勢力というものも非常に強かったのでございまして、そういう地方行政の姿を民主的にしなければならぬということが、教育行政の民主化の最も主眼を置いたところであったことは御承知の通りでございます。そこで教育地方分権化、中立性、自主性の確立という方向に向ったのでございますが、その具体的な政策といたしましては、一つは、大学の自治を確立するということ、もう一つは、教育委員会制度を作るということであったのでございます。当法案で問題になっておりまする教育委員会の制度というものは、そういう意図を持って戦後教育改革の重要な一環として行われたのでございます。この教育行政の民主化の方途としてとられました教育委員会の制度というものは、その範をアメリカの教育委員会の制度にのっとったのでございます。そういう形でこの面における教育行政の民主化が行われたのでございまして、この制度は、日本戦前、戦中における教育行政とはまさに対象的な姿を持っておるのでございまして、この点ではまことに適切な方向を示したものということができるのでございます。と同時に、現実の方策といたしましては、その中には幾多の問題点を含んでおったこともいなめないのでございます。と申しますのは、第一に、この教育委員会の制度というものはアメリカの新しい国家建設と非常に結びついて、アメリカの開発と非常に結びついてできた制度でございまして、そういう点で一つの特長を持っておると思うのでございます。また制度といたしましては、極度に地方分権の方向がとられ、また自主化という面でも非常に強い自主性を持っておる制度でございました。こういう制度は一面からいいますと、アメリカ自身におきましても、だんだんとこれは何とかしなければならぬというふうに考えられてきておるのでございまして、ヨーロッパの教育行政の大きな一つの方向というものも、そういうあまり極端な地方分権化をある程度調整していこうということがうかがわれるようでございますし、またその点では教育行政の何といいますか、地方自治の統一をどういうふうにして求めたらいいかという問題、それからあまり末端組織の独立制というものがだんだんと薄れて、重点が上位の組織に行っておるというような傾向がうかがわれるのでございます。こういう制度を日本に、しかも従来の日本の制度とは非常に違ったものを敗戦を機会に取り入れたのでございまして、これは全く新しい道であり、しかも先ほど申しましたように、外国でもいろいろと問題を含んでおる制度でございましたので、これを取り入れる場合にはきわめて慎重でなければならぬと、こういうように考えられたのも当然でございます。そこでこういう新しい教育の制度を取り入れる場合に、日本では教育刷新委員会というものができまして、これで教育改革のいろいろな問題を審議されたのでございますけれども、そこでもこの問題が審議をされましたけれども、なかなかそう簡単にはきまりませんで、あるいは一年以上も続いたのではないかと思われるのでございます。いろいろと議論があり、日本の実情にどうして即せしめるかというような問題が、審議されたことと思うのでございます。その結果、ともかく相当な期間の後に教育刷新委員会の答申ができまして、私ちょうど文部省におりましたので、これが一つの大きな文部行政の、ことに教育行政の方針となるものでございますから、これを参考とし、文部省の見解も加え、さらに当時占領治下でございましたから、司令部のCIEと交渉をしまして、この教育委員会の原案の骨子を作ったわけなのでございます。この折衝に当って一番私が、少くとも責任者として努力いたしましたのは、選挙に当りまして公正妥当な推薦母体を作って、その推薦されたものを候補者として考えていく、これは選挙の場合もそうでございましたが、第一次には私どもは任命制が適当であると考えたのでございます。しかしそれはやはり公正妥当な推薦母体で推薦された候補者の中から任命するということでございまして、これは新しい制度を作っていく場合、地方自治体との関係を円滑にしていくと、こういうようなことが考慮に払われた点が一つと、公選ということが必ずしも手放しでよい結果を持つかどうかということについても不安を感じたからでございました。しかし任命の場合もそうでございますが、公選の場合におきましても、これを手放しにするということは、これは必ずしも望ましい結果を得られがたいというふうに考えまして、一般投票によります場合にも、妥当な公正な推薦母体を作って、それからある数の候補者を推薦して、それに対して一般投票を行うのが妥当であろうと、こういうふうに考えまして、この推薦母体を持った一般投票の制度を次には提案いたしたのでございます。けれども、これにつきましても、なかなか当時のCIEは同意いたしませんでした。あるいはCIEというよりは、むしろもっと上位の総司令部の部局でございましたか、公選というものはそういう制限を付してはならぬものであり、むしろ手放しの選挙にしなければならぬ、それでなければ民主主義でないという考えでございました。私はそれは必ずしもそうではないのであって、この新しい制度を始める場合には、公選によるとすればなおさら推薦母体が必要であると、こういうふうに強く主張いたしました。けれども民主主義は試行錯誤であって、やってうまくなければ直したらいいじゃないか、こういう意見でございました。私はそうは考えなかったのであります。抽象的に進歩的なと考えられる制度を作って、それがうまく合わなかったらこれを直すということは容易なことではないのであります。これを変えるといえばすぐ反動だといわれるのであります。実情に即するというふうに直しても、なかなかこれは抵抗が多いのであるから、むしろ初めに実情に即したものを作って、漸次進歩的な方向に進めていくのが正しい立法のやり方であると主張いたしたのでございます。労働組合の立法についても、方式としては初めに行き過ぎで、あとからいろいろ制限を加えるということは、実に当局者として困難であるということは、あなた方はよくわかっておいでになるはずであると申しましたけれども、ともかく私たちの主張は通りません。そしていわゆる手放しの何ら制限をつけない一般投票、公選の制度が作られたというのが経過でございます。私個人としては、どんな制度でも公選制であれば民主的である、それが違うと非民主的であるというふうには必ずしも考えておりません。正しい判断力のある民意が反映されることが望ましいのであって、抽象的に公式的に、ただ公式で公選をやればそれで民主主義が進んだというふうに考えることはどうかと私個人は考えておるのでございます。また民主主義であるという日本の制度のお手本になっておりますアメリカの実情を見ましても、少くとも上位の教育委員会は、公選によらぬものが半数ぐらいあるのではないかと、数はしっかり申し上げられませんけれども、あるのではないかと私は考えておるのでございます。  それでは日本の事情はどういうふうであったかといいますと、これは私の個人的の経験でございますから、一般に及ぼすことは危険でございますけれども、広島で教育委員選挙演説会に行きましても、ごく少数でございまして、数人しか出席しておらぬのでございまして、とうとう候補者は話し合って演説はやめるということになったのでございます。ところで候補者についての知識を持つということが、この選挙には特に大事であるということは、大部分が実は政党に属しておらないのでございます。政党に属しておって、政党の綱領等を知っておれば、ある程度、選挙ができますけれども、そうでない場合にはなかなかその判断がむずかしいのでありまして、私個人もわかりませんでしたので、私の大学の教育学部や付属の先生に聞いてみましたけれども、みなよう知らぬと言っております。私も知らない、教育学部の先生方も知らぬというのですから、一般の人はもっと知らないのじゃないかと思うのです。そういうところで、選挙されるという状態というものは、一体選挙されても、ほんとう民主主義が生きておるかどうかということは、教育にはなりますけれども、必ずしも即断はむずかしいと思います。なお投票率を見ましても、いろいろ数字がございますけれども、二十七年の数字でありますと、大阪市が二〇%でございます。東京都はちょっと調べてもらったところ、八王子で二四%、立川で二三%、武蔵野で二〇%、三鷹で二六%、青梅は多くて四四%、これは例外的に多いのです。この数字がどのくらいの指標になりますか知りませんが、大都会では約二割ちょっと上ぐらいです。一割五分ぐらいの投票を得れば、大体当選するということになっておるようでございます。投票であれば民主的であるといっても、一割五分という票で当選するのは、果してよく全体の民意を代表をしておるかどうかということは、そう簡単に結論は出ないのではないかと思うのであります。と言いましても、手放しの任命制というものについてもいろいろ危険があるのではないか、もちろん自治団体の長が党派心をもってへんぱなものを選ぶというふうに即断することも非常に間違っておるのでございまして、法案に書いてあるような人が選ばれるとすれば、また自治団体の長が政党人である場合もあり、しかも公共団体の代表者でもございますから、そう乱暴な選択をいたすことはなかろうと思います。けれども同時に党派的な選択をされるという心配もないわけではない。場合によっては相当にあるかもしれないと思うのでございます。そこで党派所属者数の制限というものが出ておるのでございますけれども、そういう党派所属者数を制限することよりは、望ましいことは、むしろ政治的に中立の人が教育委員になるということの方がより望ましいのではないかと思うのでございます。こういうような方向をとりますのには、私は選挙というよりは、妥当、公正な推薦母体を作って、そこで適切な人を選ぶ、そうすればそれが選挙されましても、またそれが任命されましてもすでに一定のワクができておりますから、そう将来大した逸脱というものはないのではないかと、こう思われるのでございます。かようにして、教育委員につきましては、公選でなければ非民主的である、それでなければ民意が十分に伸びないという議論につきましては、私はそう簡単に賛成しかねるのでございまして、もっとこれは深く考えて、適当な民意を代表し公正な立場に立てるものが、ただ手放しの公選よりはより妥当な方法で選ばれ得るのではないかということが考えられるのでございます。  それから第二の点は、町村に教育委員会を置くかどうかどいうことでございましたが、これは教育刷新委員会におきましても、少くとも初めはそういうようなところまでには置かないがよかろうということでございました。  なお私言い忘れましたけれども、教育刷新委員会の十七回の建議におきましては、「教育委員会委員選挙は、当分の間」——とございますが——「次の方法によること。都道府県教育委員会委員については、都道府県会議長、都道府県内の市長の互選による者一人、都道府県単位の町村長会長、都道府県内の大学長、高等学校長、中等学校長、小学校長の互選による者一人、教員組合の選出する者一人、並びに都道府県知事が産業経済関係二人、文化関係一人、労働関係一人、婦人一人を議会の同意を得て選任した者計十人の選考委員により、定員の三倍の候補者を選び、これについて一般投票を行う。」そして「市区委員会については、これに準ずること。」というふうな建議をいたしておるのでございまして、当時教育関係その他の団体でなされましたいろんな建議案等には、大体この推薦母体というものを基礎にしたものとなっておるのでございます。  先に返りまして、町村の委員を置くということにつきましては、この教育刷新委員会におきましても、「当分の間、都道府県、市及び特別区のみに教育委員会を置き、町村にはこれを置かないけれども、従来の学務委員のような方法その他適当な方法によりできるだけ民意の反映につとめること。」というふうに書いておりまして、小さなところまでは少くとも当分のうちは置かない方が妥当であろう、それは経済的その他の事情によるのでございますが、そういうふうな建議案がなされておりまして、私どもがこの案を作りまする場合にも、そのように考えたのでございます。従って小さな町村には少くとも町村一般についてもと考えましたが、教育委員会は当分は置かぬという方針でございます。それはどういうわけであるかというと、この新制度は先ほど申したようないろんな事情もございますから、まだしっかりとテストが終ってしまっていない、いろいろこの制度については、よしあしの問題が含まれておるから、少くとも都道府県市等のところで十分検討して、これならしっかりやれるという自信がついたときに、末端の方に伸ばすべきであって、そういう確信のつかないときには、まだ町村に及ぼすべきではなかろうという見解でございました。それが基本でございましたが、さらに過度の地方分権というものは、いろいろアメリカ等の事情を見ましても、だんだんとこれが弱くなっておるという傾向もございますので、そういうときに非常に末端の小さなところまで機械的にこれを持ってゆくのには、私は少くとも自信を持たなかったのでございます。あるアメリカの人なども私に個人的に、教育委員会の制度を作るのはよろしいけれども、小さな町村に作っては、これはいろいろ問題があって困っておるのだ、そういうようなことはせぬようにというような話をした人もございました。  それからもう一つは、先ほどもちょっと述べましたが、小さな自治体の経済的な能力というものが、これを耐え得るかどうかということの問題もございまして、少くとも都道府県市——五大市並びに市くらいのところでとどめておいて、よく実験をした上で、末端に及ぼすのが妥当であろう、こういうふうな考えをとったのでございまして、法文には規定されておりまするけれども、延期をすることになっておったのでございます。ところが二十七年に、これはどういうことでございます、偶然というか、意図しなかったのみならず計画的でなかったのでございますが、国会が解散になり、これを延期するという法律ができなくて施行されるということになったのでございまして、十分な準備なしに町村にまで施行されたということであります。それの当時のいろいろな議論を見ますと、これにもなかなか教育がどうしたらよくゆくかということだけはなくて、政治的ないろいろな考え方がそれにからみ合っていたような印象も受けたのでございます。かようなふうにして町村にまで教育委員会が現に行われるようになったのでございまして、これに対してどういうふうに考えてゆくかという問題が起っておるのは、私は当然なことであると思うのでございます。そうしてすべての教育委員が同じ重さをもって考えらるべきであるか、重点をどこに置いて考うべきであるかという問題が客観的に考えられなければならぬのではなかろうか。形式的な民主主義の議論でなくして、実際の民主的な形がどうしたらよく行われるかというところに観点を置きながら考えてゆかれるべきではないかと私は考えておるのでございます。中教審の決議の中にも、あまり小さいところ、経済力の弱いところに——町村に教育委員会を置くのはどうかというような意向も表明されておるのでございます。これが第二点でございます。  第三の点は、教育委員会ができたときに、私どもの考えでは、これはいわゆるレーマンといいますか、いわゆる教育専門家でない、職業的な教育者でない者が委員になって中立的な立場で教育全体を見ていく、こういうことが建前であったのでございます。そこでそういう趣意に沿いまして私どもは、現職の教職員は立候補するのは適当でないという見解をとったのであります。そうしてそういう法案を作ったのであります。けれども、これは国会におきまして修正をされました。これは当時の社会党も自由党も共同であったと思いますけれども、教育者は現職でも立候補できる、こういうことになったのでございまして、もちろん教育者としての経験のある者が立候補して悪いということでないのでございますけれども、職業的な利益と直接に結びつくことについては十分注意をしなければならぬということでございました。先ほど申しました中央教育審議会の教育委員会についての決議におきましても、教職をやめて一定年限の後に立候補するようになるのが妥当であろうというような意見が付せられておったと思うのでございます。教育の中立性を確保するというのは、一面では政党の問題もございます。同時に、教育職業者といいますか、そういう人々が職業的の利益を教育委員会にすぐに持ち込んでくるということについていろいろと疑問があるのでございまして、そこで現職の教育者というものが教育委員に立候補するのは遠慮してもらったらいいのではないか、そういうことでほんとうにレーマンな、公正な立場で中立的に教育行政を見ていくということができるのであろうと、こういう考え方でございましたけれども、これも実は国会の修正によりまして、それとは違った事情に今日なっておるのでございまして、教育委員会法ができました本来の趣意からいいますと、これは少し曲っておりはせぬかと私個人は考えておるのであります。これが私の過去の経験から申し上げる点でございます。   〔理事吉田萬次君退席、委員長着席〕  なおちょっと触れておきますることは、これは教科書の問題と関連いたしまして、私は中央教育審議会の教科書の問題の主査をいたしましたので、実はそれに関連しましてでありますが、私どもはこういうふうなことを答申したのでございます。夏休み帳、読本等の使用については届出制とすること、ということを答申いたしまして、それは現在夏休み帳、副読本等の使用は、野放しにされており、父兄の負担も相当になっておるので、この際、これらの使用の際には教育委員会等の監督庁に届け出ることにしたいと考えます。これによって監督庁は十分その使用状態を把握することができ、これに基いてその使用の適正化を期することができるからであります。こういうふうな答申をいたしましたが、それは教科書法に載りませんで、本法案の三十三条の二項に、そのある部分が載っておりまして、教科書以外の材料の使用につきましての規定でございます。三十三条の二項に「前項の場合において、教育委員会は、学校における教科書以外の教材の使用について、あらかじめ、教育委員会に届け出させ、又は教育委員会承認を受けさせることとする定を設けるものとする。」というふうに出ておりまして、これは私どもの考えましたものとはよほど強い形で出ておるのでございます。この点はいろいろ問題になっておると承知いたしておりますが、私どもの考えは、教科書につきまして価格の問題を問題にいたしておりますが、同時に読本その他任意ではあるけれども、事実上生徒が買わなければならぬ。そういう書物その他の資料というものがむしろ教科書のお金よりは高いような実情にございますので、教科書の値段だけを下げてもそれではいかぬから、そういうものがやたらに使われるというようなことについては、相当に考慮しなければならぬというようなことが主で、もちろん多少日記事件というようなこともございましたけれども、そういうようなことで一つこれは別に承認を得るとか許可を得るとかいうことではなくて、届け出てもらうようにして、教育委員会で見通しをつけられるような状態にしておいた方がいいということでございましたけれども、ここではやや教科書以外のすべての教材について承認を……届け出させ、あるいは承認を得るという強い形に出てございますので、これらにつきましては、少くとも私どもの教科書の関係で考えた形とは相当に強い形で出ておりまして、そのことが教育教材の使用の上に非常な圧迫を加えるようなことがあってはなりませんので、この点をちょっと申し上げ添えておきたいと思うのでございます。  以上申しましたように教育委員会の制度は、重ねて申しますように、新しい教育の改革の重要な一環であるということ、同時にそれは多くの問題を含んでおる。そうして改革を必要としておるのでありまして、従ってこれを変えるということは必ずしも反動でも非民主的でもそのこと自身はないのでございます。ですから民主主義の抽象論からではなく、抽象論や公式論からではなくて、わが国の現状に即しながら世界の教育行政の方向についても十分考慮に入れながら、教育民主化の実をあげ得るものにしていくということが、何よりも大事なのでございまして、参議院におきましては、かようにして教育自体ということを中心にいたしながら、この法案が公正に審議が尽されて、よいものとして日の目を見るようになることを私は心から期待いたしておる次第でございます。
  196. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) どうもありがとうございました。
  197. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 いろいろ貴重な御意見を伺いまして、ありがとうございました。今お話のように、教育委員会が発足をいたしました当時から、教育委員会制度については非常に議論の多い法律でございました。特に地教委を設置するかどうかということは、国会でもかなり論議されましたし、各政党でも非常に論議された問題でございます。従って現行教育委員会制度が十分なものであるというふうに考えておる人は、私は非常に少いと思うのであります。私ども委員会制度については絶えず研究もし、検討をしてきたところであります。しかしなかなか教育の民主化をはかるとともに、今後の十分なる地方教育行政を打ち立てるということは、非常にむずかしい問題でございます。で、今日私どもは森戸先生も御承知の通り政府が提案をいたしておりまする法案につきましては、非常に強い賛否の意見があるのでございます。しかしこういう重要な教育の制度を改変するという場合には、やはり大かたの世論というものが一致する点を見出して、そうして改革すべきものは改革していく、こういう態度で進むべきであるというふうに考えておるわけであります。鳩山内閣は今度の国会におきまして、臨時教育制度審議会というものを設置したいという法案を出されておるわけでございます。この法案の趣旨は、占領下に行われたる教育に関するいろいろな制度、そういうものについて、一つ広く人材を集めて検討をしたい、そういう理由でこの審議会を設けることを提案されておるわけでございます。私どもはこういう重要な問題であり、しかも政府提案に対しては、相当議論の余地のある個所も多い。また世論も強い反対を示しておる。こういう点をかんがみて、何でもかんでも早急にこれを実施するというふうな態度はおもしろくないという考えを持っておるわけなんであります。そこでせっかく臨教審も設置しようということになっておるのでありますから、こういうところでも十分審議して、そうして大かたの意見が一致するというところできめる方が、私は取り急いできめることよりも、さらによいことであるというふうに考えておるわけであります。しかし教育委員の任期がことしの十月で切れるわけであります。教育委員の任期が十月で切れるということだけを考えますと、この国会で仕上げるということは順当のように思われるのですけれども、しかしそういうことだけにこだわらないで、従来も教育委員の任期を延長した例もあるのでございますから、一カ年延長するというふうな措置もとれないことはないと私は考えておるのです。先生、この法案を見られまして、もう少しときをかして審議をして、国会だけでなしに、そういう機関においても審議をして、そうして十全を期する方がいいとお考えになられますか、あるいは残りの期間少いこの国会でもやらなければならぬというふうにお考えになっておられますか。そういう点、特に森戸先生は、先ほどもお話にありましたように、この教育委員会法を生まれた大臣でございます。非常に無理なことを申しておるかもしれませんが、御所見を伺いたいと思います。
  198. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) 今のお話の一つで、できるだけ世論の一致したところでこういう重大な法案が推進される方がよろしいが、今のところなかなか世論がそう一つになっておらぬということでございました。これはその通りだと考えております。ただこの問題は論議されなかったのではなくて、相当長くから論議されておることも事実でございまして、相当長い間から、この問題をどうしていくかという点につきましてはいろいろな案も出ておるのでございます。ただその場合、できるだけ十分に諸種の案を検討した上で、これは政府案も相当に検討した上でできておると思いますけれども、そういう点は十分にされるべきであろうと思うのであります。私自身につきましても、この案については、今臨教審が妥当であるかどうかは知りませんけれども、臨教審ができるとすれば、中教審とはもっと広いベースで、できるとすればそういうところで審議されるということが妥当なんではないでしょうかということもお話をしたことがございます。しかし今も御指摘になりましたように、選挙が十月にあるのだから、急いで法律を改めなければならぬ、する方がいいのではないか、こういうことでございまして、改めた後にも、しかし中教審にさらにかけることも一つの考え方でありますと、こういうような文部大臣からのお話でありました。
  199. 笹森順造

    ○笹森順造君 ただいまこの現教育委員会法が制定されました当時、文教の府の責任にあられました御体験からいろいろとお話を伺いまして、私どもが今後の法案審議に当って非常な指針をいただきましたことを喜んでおるものであります。その当時司令部の意見日本側の意見との対立のありましたことは、私ども若干承知をいたしておるわけであります。結局するところ、それが一つの形となって現われて、さらにこれが国会においてまた修正せられたということも、私どもは記憶に新たなところでございます。ところで、今お述べになりましたことの中で、当時日本側の意見が司令部側にいれられなかったという点について、今私どもが審議しておりまする新しい法案にそのものが現われてきておることによって、今までこの法案の不備であった点、経験上これが改められなければならなかった点等が、ここにまた是正せられるのではなかろうかという点を、私どもは深く考えるわけであります。つまり、これは突如として、今急にこの法案をここへ出すというようなものではなくて、すでにこの原案が成立いたしました当時から、日本側における経験のある教育専門家、あるいは教育行政家において論議せられました点が、なおそのときに触れられておったものであるやに思う。しかもそれがいろいろな点において、私どもが不備を感じておる点があるように思うわけであります。その点の一つとして、たとえば教員の人事権の問題であります。その当時私どもも心配し、日本側でも心配したことは、果して小さな町村等において、その人事のことをつかさどり得るかということを非常に心配した。ところが、その心配にもかかわらず、ついに司令部の意見としては、この小さな町村までこれが委員会を開いて、しかも人事権はそこにおいて行われるというふうなことになったわけであります。ところで、今度の新しい法案におきましては、それではいかぬから、任命権は市町村委員会にありましても、やはりもう少し広い視野において、都道府県教育委員会が、これについてその任命権を持って、その小さな市町村委員会意見を聞くというようなことになりました点などは、当時この法案に盛られなかった点を是正したかのように私どもは考えられますが、この辺のいきさつが、当時どういう工合でこうなっておったか、またこの法案がそうなったとすれば、これはどういう関係になるか伺っておきたいと思います。
  200. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) その問題は、ことに教員の任命権などが非常に末端の自治体にいきますと、実際非常に困難を来たしておることは、今日数年の経験からわかってきておるのでありまして、一応はしかし、それがいいというふうにも形式的に考えられましたけれども、実際の掌に当っておられる人などの意見を聞きましても、この点は改めなければならぬというふうな意見が多いようでございまして、これは、私どもその当時から考えたようにいっておるようでございます。けれども、たとえばいきなりの任命というふうなものは、これは私どもはむしろ考えませんので、適当な推薦母体があって、そしてそれで倍数なり、三倍というのはちょっと少し多過ぎると思うんですけれども、倍数なら倍数の候補者を選んで、その中から選挙をし、あるいはその中から任命するということでございますれば、その点は非常に弊害がなくなると思うんであります。で、そういう点が、私は大事な点が取り入れられていないような、これは私どもとしては非常に力点を置いて実は主張したところでございまして、もし当時の事情を考えて、一面手放しの公選にも弊害があり、また手放しの任命にも危険があるとするならば、それをどういう形で防止したらいいかという面に、この法案については考慮がされていないような感じがするのであります。
  201. 笹森順造

    ○笹森順造君 私のお尋ねいたしましたのは、教員の人事権のことをお伺い申し上げましたので、第二段の問題は、私同意でございまして、その形式は、委員選挙のことは、後段のことは私も議論があると思っております。しかし今度の法案はその通りでないことは、これはまあ別の考えでございますけれども、しかし最初に私のお尋ねしましたのは、教員の人事のことについて、今度の法案の方がいいのではないかと、こういうお尋ねでございます。第一段はそれで御同意でございますか。
  202. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) はい。
  203. 笹森順造

    ○笹森順造君 それではもう一つだけお尋ねしておきたいと思います。それは今公選制の問題は、それで御意見もわかり、私どもの考えもございますが、その次の問題は委員に対する社会的な期待と、それから国家的な処遇というものが、当時の司令部の考え方とよほど違っておったのではなかろうか、つまりあの当時、委員に対しましては、いわゆるレーマンというお話をお述べになりましたが、そういうような考え方で、むしろ良識を持った社会的に地位の高い方が奉仕的に、これは社会奉仕的な性格を持っているものであるから、奉仕的に無報酬でやるべきであるという工合に、向うの人が考えておったように私は記憶しております。ところがそれを日本側は、むしろ積極的に日本人の教育生活の事情であるとか、あるいは社会的事情であるとか、その人の労力であるとかということを考えて、報酬を出すことになったという工合に私どもは考えてきておりますのですが、今度の新しい法律ができた場合に、やはりこれらの処遇の問題がいろいろ考えられてこなければならない、従ってその当時どうして向うの意見と変った形になったのか、これがどういうことに運べばいいとお考えになるか、その点をこういう機会に御意見を伺っておきたいと思います。
  204. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) これはおそらく本来の考えはレーマンで、無報酬で、奉仕的な形で、教育行政のために尽してもらう人を得るということでありましたけれども、日本の当時の事情等、なかなかそういう形がむずかしかったのと、それからもう一つは、教育の職員が相当に入られて、これは当選すれば職員をやめなければならぬので、生活を保障する必要があるというようなこともございましたろうし、それからまたある程度地方政治に志す人が委員会委員になるという場合もあり、そういう場合にはやはり生活支持が必要であるというようなこともありまして、そういう形になったと思うのであります。そのことはまた、委員会の性質なり、そのことでだいぶ変ってきたのではないかと思われるのであります。
  205. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 まず、まげて公述に御出席いただいたことを厚くお礼を申し上げます。  第一番に伺いたい点は、先ほど先生が引用されました教育刷新委員会第十七回建議事項、この件については、衆議院文教委員会公聴会において南原先生が、アメリカの強制等は絶対になくて、われわれ教育刷新審議委員が、全く自主的にこの第十七回建議事項は打ち出したのである、かように公述なさっているのでございますが、先生もその点はお認めになられることと存じますが、あえてお伺いいたします。
  206. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) 私は当時刷新委員会の中にはおりませんで、詳しいことは存じません。しかしこれにはスイティアリング・コミティーというのがございまして、そこでいろいろ話し合って、重要なことをきめていくという、こういうような仕組みになっておったと思います。で、そこにはもちろんCIEの人も来ておられまして、そういうところで話し合った結果、あるところに落ちついたものと思うのであります。それは相当に長い間かかったということでございます。実はその速記があると非常によくわかるのでございますけれども、あったのがどうも見当らないようでございまして、はっきりしたことは私は申し上げかねますけれども、しかし当時の国会の事情などから考えてみましても、いろいろと影響は少くともあったと考える方がむしろ妥当なのではないかと思います。ただ教育刷新委員会につきましては影響であって、そう強制的にものが言われるということは性質上なかったかと思います。
  207. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 先ほど先生は、この第十七回建議事項の中で、教育委員会法が立案されたときに、採用された面と採用されなかった面があったという御説明をいただいたわけでありますが、私、先ほどから先生公述を清聴いたしておりまして、現在における先生のわが国教育委員会制度に対する荒筋というものは、教育長の件について、あるいは設置単位について、あるいは選出方法について、あるいは教員の人事権の所在について、これらの諸点について、ほとんど第十七回建議事項の線を先生はまあまあ適当だ、こういう御見解を持たれているように私は拝聴したのでございますが、いかがでございましょうか、お伺いいたしたいと思います。
  208. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) それは必ずしも全部その通りというわけではございません。しかしその一々の細かい問題につきましては、今日私御答弁をいたすことは差し控えさしていただきたいと存じます。それは私は当時の事情をお話しするということで実は一応お断りをしたのでございますけれども……。
  209. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 私たち敬服している権威者でございますし、若干お尋ねすることをお許し願いたいと思うのです。  その一つは、先生先ほどから教育委員には教育専門家でない方の方がよいという考え方であったが、現実においては若干この線はくずれているのではないかと思う、こういう公述をなさいました。これから私考えることは、教育委員会教育長というものは教育専門家の方が適当であり、教育委員教育専門家でない適当な人の方が望ましいのだ、こういう御見解と拝承するのですが、いかがでしょうか。
  210. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) そういう見解を持っておったわけでございますけれども、今度の法案ではややそれがくずれておるわけであります。
  211. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 そうすると市町村教育委員会において、委員教育長が兼ねるというようなのはおかしいという御見解と了承いたしますが、そうでございますね。
  212. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) はあ。ただですね、町村の委員会において、完全な委員会の型を持てるかどうかということについてやや疑問があるわけなんです。
  213. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 ということとあわせてお伺いいたしたい点は、先ほど、この自分らは当時市町村全部に教育委員会を設けることはいかがかというので、漸進的な方途を考えたが、という御発言がございました。このことは教育委員会の設置単位というものについて、先生は特別の御見解を持っているものと推察をいたした次第でございますが、そのことと、このたび全国の町村に設けられる教育委員会が果して教育委員会としての形態を整え得るかどうかという点に疑問を持っているというこの公述とあわせ考えるときに、わが国の現在の行政規模からいって、すべての市町村教育委員会を設置することは賛成いたしかねるという御見解を持っているやに私は拝聴したのでございますが、念のためにお伺いいたしたいと存じます。
  214. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) なかなかむずかしい……この完全な能力を持った、完全な人的な、物的な設備を持った委員会日本の小さな町村にまで作られることはむずかしいのではないかというのであります。
  215. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 次に承わりたい点は、委員の選出の方法でございますが、先ほどから承わっておりますると、先ほど先生が朗読されました第十七回建議事項の算用数字の2のこの形態が大前提としてとられるのが適当だ、こういう御見解のように承わるのでございますが、すなわちこの大前提のもとに、あるいは住民の直接選挙の道を選ぶなり、あるいは地方公共団体の議会においてさらにこの推薦母体の推薦した範囲から選ぶ、そういう選任方法がまず適当である、かような御見解と先ほど拝聴したわけですが、さよう了承してよろしゅうございますか。
  216. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) そうであります。ただ教育刷新委員会の書いてある推薦——選定委員でございますか、それの構成などはこれはその通りであると考えておるわけではございませんけれども、たとえばそういうようなものである。公正な形で選ばれた、そして信頼のできるもので、委員よりは広い幅の候補者が選定されるということが、公選であれ、また任命であれ、重大な前提である、こういうふうに考えます。
  217. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 私は次に、先生はかつては政党人でございましたし、現在は政党から離脱されまして、わが国の国立大学の学長という良識の立場におられるだけに、私はぜひお伺いをいたしたいわけですが、それは先ほど公述の際に、教育委員政治的中立の人が望ましいという御発言がございました。私は政治的中立ということと政党人であるということは、行政をやってゆく場合においては別ものだと考えております。で、現在のわが国の政党並びに政党人の現状分析がいかようなものであるか、それがよいのか悪いのか、そういうことはともかく別にいたしまして、政党政治並びに民主政治のわが国における成長という立場から考えた場合には、私は政党組織が確立され、政党人の出したところの政党費によって政党運営されてゆく、かような形態に相なることが、私は日本において政党政治が、すなわち民主政治が育成されていく理想の形である、そういう意味において、現段階においては、わが国の政党並びに政党人の現状の分析からそういう結論は直ちに申し上げることはできませんけれども、政党人教育委員になってはならないということをいつまでもお互い日本人が言っておるのでは相ならぬのではないか。理想としては先ほど私が申し上げたような気持で一日心々われわれは前進しなければならぬのではないか、かような考えをまあ持っているわけですが、先ほど先生政治的中立の人云々と申されたことと、地方では教育委員政党人は好ましくないというような一部に意見があるだけに、私は相当関心を持っている問題であります。幸いに先生はかつては政党の幹部でございました。現在は政党を離脱してわが国の国立大学の学長をなさっている方でございますので、この点に関する御見解を承わりたいと思いましてお尋ねを申し上げる次第であります。
  218. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) 私のお話はお説の通りでございまして、必ずしも政党人だから悪いということではございません。自治団体の長のときにもちょっと申したのですけれども、自治団体の長は政党人である場合もあるが、政党人だから必ずしも政党百パーセントでいくものではないので、公共の代表者としての立場をとるということも十分に考え得ると思うのですから、政党人がだんだんと広い視野をもって、ただ狭い政党的な考えだけでなく、高い意味政治的な意識をもって行動をされれば、私はそういう状態になれば、あえて中立と言う必要はないと思うのであります。ただ、現段階におきましては、これは私よりもよく御存じと思いますけれども、ことに地方に行きましては、今お話しになったようなりっぱな政党人が非常に少いのではないかと、こういうことが考えられるわけでございます。
  219. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 ということを一歩掘り下げますと、それだけに地方公共団体の首長並びに議会は、ほんとうにりっぱな政党人、あるいは政党集団となっていない傾きは私はあると、かような現状分析が成り立つのではないかと思います。そのときにそういう状況下においてある首長に推薦権を与え、そして議会承認権を与える、そのことが政治的中立性を一現状下における住民の直接選挙による公選よりはより政治的中立性が保てるということは、私は現在のわが国の、ことに地方における政党並びに政党人の情勢、現状分析から私は出てこないのではないかと、かように懸念しておるものでございますが、先生はそういう御懸念は持っていらっしゃいませんでしょうか。
  220. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) 懸念を持たないことはございません。それは申した通りでございますけれども、その場合に、これは公選でございましても、先ほど申しましたように、ことに大都市では一割五分くらいの票を得れば大体当選が可能なんでありますから、そういう意味ではいろいろな何といいますか、ほんとうに民意を代表するということになるかならぬかに疑問の点があるわけであります。そこで私は申したいのですけれども、こういうような選挙の場合には、適当な形での推薦母体が、これは公正でなければ、片寄ったものでは困りますけれども、公正なものができて、そこで候補者のある程度のワクができれば、これでその中から任命するということでございますれば、首長が任命されてもそう大きな逸脱はないのではないかと、かように考えます。
  221. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 最後にお伺いしますが、それは東京都の矢内原東大総長以下十大学長が文教政策の傾向に関する声明というのを発表されました。その後、大阪、京都の大学の総長、学長さんが、これに同調されたわけでございますが、私、先生に承わりたい点は、私どもこういうこの声明を象牙の塔から国立大学の総長、学長さんが出されなければならないような状況下にわれわれ政治に携わっているものが日本教育を置いたという点については、非常に心苦しい気持を持っているわけでございますが、先生はこの声明に対しては、どういう御見解を持っておられるかという点が一点。  それからそれと関連して参るのですが、今度公述においでになったお方の中では、大学の学長さんは先生お一人でございますから、あえて最後に聞かせていただくのでございますが、私は現在においては、各大学の定員等も、これは行政府の事項に入って、もとのように国会では審議しなくなりました。ましてや各国立大学の予算というようなものは、これはわれわれ立法府に席を置く者の予算審議権の外でございまして、国立大学合せて全部の予算だけを審議して、あとは全部文部省にまかしてあるという形に相なっております。その結果、国立大学の学長が文部省の会計課にしょっちゅう出入りされるというようなこういう形態、ひいてはそれらが若干私は影響があるかと思うのですが、果してわが国の今の七十二の国立大学の学長にわが国の文教政策、それらについてその所見を述べる全く、自由というものを持っておられるかどうかと、若干私は疑念なきを得ません。で、このたび文教政策の傾向に関する声明が出されたのですが、ずいぶんとこれは希有のこととして、勇気をふるって、私は総長、学長さんが出されたものと思うのでございますが、こういう点について、最後に承わりたいと存じます。あそこに文部大臣おられますけれども、一つはっきりとお答え願いたいと思います。
  222. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) これはちょっと教育委員会法とは少し関係がない問題ですがね。
  223. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 まあ学長さんだからお伺いしたい、関係ございますから……。
  224. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) 学長としては関係あるけれども、しかし、あれは学長としての声明じゃないですよ。教育有志の声明であります。学長としての声明ではない。これは新聞が非常に間違っております。個人的の意見であります。個人的の意見はいろいろございます。書かれた人もございますし、東京の大学長で書かれない人もございます。勧誘されて書かない人もございます。それですから、教育者の一群の方方が今日の政治についていろいろと心配をされておるということは、これも私は理由のあることだと思います。と同時に、これは皆さんもみな政治については、日本が将来どうなるか、ことに文教につきましてはどうなるかということは、それぞれ皆さん学長の方々に劣らず御心配になっておることと思うのです。で、それについてそれぞれどういう形で意見を出すかということは、これは各人の自由でございまして、皆さんが確信に基いて意見を発表されるということはけっこうであると、私はその点では敬意を表しておるわけでございます。しかし、たとえば学術会議などで、これに対して二法案についての何か反対意味の決議をするというようなことにつきましては、私はこれは適当でないと考えておるのでございます。それは、学術会議は本来学問を中心にやっておるわけでございます。教育というものは間接なのであります。やってないことはございませんけれども、間接的なのであります。しかし政府機関でございますから、政治の問題に全然触れていかぬというわけではございませんけれども、間接の問題で、非常に政府にデリケートな問題で機関が全体としてどちらに肩を持つというような形は、私どもは避けた方がいいと考えております。しかし、それでも、間接の問題でもまた政治に関する問題でも、確信を持って場合によれば発言のなければならぬことがあると私は思います。そういう場合には、よく知って確信を持って言わなければならない。法文を読んだことも十分ないような人が、みんなが言うからこりゃいかぬだろうというのでは、私は学術会議の決議としてはどうも不十分だと思います。そこで、この会議の方はもちろんこれはおわかりになっておるだろうが、そうでなければ、一部の報告に基いて決議をされるのは妥当でない。もっとよく知って確信に基いて、学術会議らしい確信に基いて、しかも決議をもって宣言をすることは、私もそういう意味において反対をしませんけれども、よく見たこともない、ただ人に様子を聞いただけでするのでは、これは私はどうも賛成できませんということでございまして、おそらくはその署名された方でも、たとえば教科書法案教育委員会法案とはよほど違う性質のものでございまして、二つひっくるめてこれは民主主義教育を根本から変えるものであるというようには、なかなか即断ができないのではないかというふうに思いまして、これはそれぞれ人々の判断によることでございまして、そういう声明をされる人についても、そういうお考えを持っておることを私どもは承知をいたしますし、もちろん大学学長としてではありません、個人として……。同時にそれは、そういうことは適当でないと考えておる人につきましても、これもまた私どもは敬意を表しておるわけでございます。お答えになりませんけれども……。
  225. 矢嶋三義

    矢嶋三義君 けっこうです。
  226. 湯山勇

    ○湯山勇君 私は二点だけぜひ先生にお伺いしたい点がございますので、お願いしたいと思います。  第一点は、現在の市町村教育委員会は、そのほとんどが一回選挙をやっただけでございます。当時の事情につきましては、先生も御承知の通りに、大多数の国民が時期尚早、あるいは設置について批判的な意見を持っておりまして、そういう関係で、大多数の国民の望んでいない状態の中で、あの教育委員が生まれたと思います。そういう関係でございますから、先生が御指摘になりましたように、教育学部の先生にお聞きになりましても関心を持っていない、こういう実情はあったと思いますし、私は、私自身経験に徴しまして、当時これが設けられるか、られないかということには非常に強い関心を持っておりましたけれども、急遽設置されるということになりまして、これを選挙するということについては、私自身の当時の実情から申せば、故意に無関心の態度をとりました。ですから当時の実情と今日の市町村教育委員会との実情を比べますときに、それ以後における教育委員会が、たとえば戦災のあとに寄付を集めて回って、各部落を回って学校を建てていった、あるいは青年団の集会なり婦人学級なり、そういった社会教育の面に非常に強い力を示していった、権力という意味ではございませんけれども、非常に働いた、さらにまた子供たちのいろいろな修学旅行に当ってとか、あるいはその他の問題についても相当その後の働きというものは、私自身の気持からいえば、当初期待しておったものよりもはるかに大きいものがあったのではないか、そういうような感じがいたします。それであればこそ、今日この問題に対して、先生がただいま矢嶋委員の質問に対してお答えになりましたように、私も率直にいろいろ申しておる声の中には、あるいは十分理解しないで人の言うことをただ無批判に受け入れたのもあるかもしれないということは認めますけれども、しかしいまだかつてないほど多数の署名なり、請願なりというものが今国会に、当委員会に寄せられておる、そういった実情等をにらみ合せますときに、今日の教育委員会に対する国民の関心というものは、ああいう状態の中でああいうふうに生まれた教育委員会とは若干違っておるのではないかという感じを持ちます。そこで先生は特に伝統的に教育の問題については歴史ある学校の学長であられ、かつまたこの法案の生みの親でもあられる関係上、そういった経緯についてはいろいろ御観測をしておられると思いますので、そういう点についてのお見通しをお聞かせいただきたいと思うのでございます。
  227. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) 今お話のように、地方においても教育委員会に対しての認識というものは初めよりは高まっておる、全部ではございませんけれども、高まっておると考えられます。ただ投票の結果を見ますと、これは都道府県ですけれども、二十三年が五六%、二十五年が五二%、二十七年が四四%で、投票者の数が漸次減っておりますですね、これは都道府県教育委員であって町村のなにではないのですけれども、そういう数字も出ておりますから、選挙についての関心というものが高まっておるということは、数字的には出てこないようにこれは思いますけれども、さっきおっしゃいましたように、地方委員会が村あるいは町の、あるいは部落のために非常に働いたというところでは、この委員会についての認識がふえておるということも事実と思います。と同時に、この委員会の働きとして、小さな単位の委員会委員会として十分の働きができるかどうか、これは教育委員会として、寄付を集めたり何かするというようなこととは別に、教育委員会としての働きというのは、よい先生あるいはよい教科書等を選ぶ、そういうような任務については、小さい教育委員会が果して十分に任務を果せるかということについての問題があるのでありまして、そういう点からは少くともアメリカの例によりましても、漸次非常に末端の教育委員会の重点というものが次第に上位に移ってきている。ことに教育委員会本来の仕事としてですね、アメリカではもちろん教育税がございますから、それを取るという仕事は残っておりますけれども、教育本来の仕事については、どうも上位の方に動いているというのが大勢であるように承知いたしております。
  228. 湯山勇

    ○湯山勇君 いま一点お尋ねいたしたいのは、この教育委員会法を最初文部大臣として国会に御提案になったときの提案理由の中に、こういう一節がございます。「最後に教育の本質的使命と従ってその運営の特殊性に鑑みまして、教育が不当な支配に服さぬためには、その行政機関も自由制を保つような制度的保障を必要といたします。教育委員会は、原則として、都道府県又は市町村における独立の機関であり知事または市町村長の下に属しないのでありまして、直接国民にのみ責任を負って行われるべき教育の使命を保障する制度を確立するに至りました。」、こういう一節がございます。そこで先生公述なさいましたように、この生まれた教育委員会先生の御意図通りでなかった点等から考えまして、最後の御断定になったところには私も触れないで、前段である「教育の本質的使命と従ってその運営の特殊性に鑑みまして、教育が不当な支配に服さぬためには、その行政機関も自由制を保つような制度的保障を必要といたします。」、こうお述べになったことは、これはそのときの特殊な事情に支配されたものではなくて、今日もなお通じている原則であり、原理であるというように私は受け取っているわけでございます。そしてただいまの、前回の質問にお答えいただいた、アメリカ等においても上級の機関にいろいろ権限等が移行しているというお話もございましたけれども、それはやはり教育行政機関という、そういう範疇の中において下から上に移っているということをおさしになっているのだと私は了解いたしております。ところが先生が御指摘になったこの原則に立って考えますときに、ただいま出されております法律案には、この原則と違って、つまり制度的な保障はかえって先生が立案された当時よりもくずれて参りまして、たとえば市町村長あるいは知事、そういう人たちが、従来教育委員会の持っておった権限なり、あるいは事務を相当たくさん持つことになっております。さらにまた文部大臣がこれに相当強く関与するようになって参っております。その他あげていけば、幾つかこの法案の中からそういう例をあげることができると思うのでございますけれども、そういう事例から判断いたしまして、先生のお持ちになっておる、教育行政機関も自由制を保つような制度的保障を必要とする、こういう命題はこの法律においては若干後退しておるのではないか、こういうふうに私は感ずるのでございますけれども、これに対する先生の御所見をお伺いいたしたいと思います。
  229. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) これは御指摘になったところに相当の真理があるのではないかと私は感じております。ただ問題は先ほども申しましたように、従来の過度に中央集権的であり、過度に外部的な力に圧迫されておった教育行政が、新たに出発するために非常に強い形をとったのでございますけれども、同時に教育行政地方的の過度の細分化と、機能の過度の独立化というものは、また地方自治全体の問題からしますと幾多の問題を含んでおるのでございまして、アメリカでもヨーロッパでも、この問題が地方自治の問題で、地方自治をいろんな形で分割して果してうまくいくのか、あるいはこれをどういう形でか統合していって地方自治というものがうまくいくのかということは、今日非常に大きな問題になっておると私は考えておるのであります。そこであまりに機械的に分割をし、機能的に分割をし、また地域的に小さく分割することは、かえって全体の機能を十分に育てることを困難にするのではないか、そうするとあまりに地方に分たれ、過度に機能的に分たれたものが、どういう形でか有機的に調整されるようなことが同時に必要になってくるという事態、これは過度にいわゆる民主化されたところでは、今日そういう反省がなされておるのでございまして、日本の民主化はややこの点では、ことに教育に関しては多少反動といいますか、逆作用で過度に進められた点もございまして、全体的な調整というものも考えられなければならぬのじゃないか、同時に、そのことはしかし中央集権にかえるという意味のことを申しておるのではないし、おそらくこの法案も、その意図するところは、中央集権を確立しようという形ではなくて、全体の中の自主性の、あるいは地方の分権の調整をどういうふうにしていこうかという意図が現われておるのではないかと思うのです。その点では今御指摘になったような点は確かにあると思います。だけれどもそのことは先ほど申しましたように、過度の形で形式的に民主化されたところでは、最近の反省では、全体的な調整をどういうふうにして保っていくかというところに苦労しておるようでございまして、いろんな形で、それがことにヨーロッパの諸国の教育制度には現われておるようでございます。
  230. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 森戸先生に、大へんに長時間になっておりますので、恐縮でございますが、できるだけ簡単に……。
  231. 村尾重雄

    ○村尾重雄君 一点だけ公述人森戸先生にお尋ねしたいのですが、先ほど同僚からお話があった教育委員の選出の方法についてであります。これはわれわれこの新しい教育法案をば審議するについて非常に重大な問題なのであります。そこで重ねて御意見をお尋ねしたい点は、現行教育委員会法案が生まれた当時のお話がつぶさにありまして傾聴いたしました。当時民主主義を正しく貫くためにおいても、当時において公選制という行き方は決してとらるべきものではない。そこで推薦母体によって何人かの候補者を選び、その候補者によって選ぶという行き方をば考えたのだというお話がありましたが、しかし現行のような公選制をとることによりまして、その結果第一回の選挙が二十五年にあり、二十七年と選挙が続けられたのでありますが、私も直接関係者でありませんが、選挙には直接間接にその都度関係いたしまして、教育委員選挙のあるときには非常に関心を持った一人であります。そこであなたは最初の投票率が都道府県においてはこうであった、また二十五年においてはこういう率であった、二十七年にはこういう率であったと、幾分か都道府県においても減少の状態があるという例を引かれて、それを一つの根拠にされたと、こうとるのですが、現在新しい教育法案公選制を廃して、これがただいま議論になりましたような各自治体の長の任命により、これが地方議会承認という形によって選ばれるのですが、さてこれが正しいか、あるいは公選制によって選ばれることが正しいかにおいては、あなたはどちらにも一つの疑問があるというようにお答えであったように私は思うのであります。一番最初に考えられたときに推薦母体を作り、それによっての候補者を選ぶその選挙において選ばるべきだという考え方を持たれたようでありますが、当時と現状とは非常に状態が違います。その点については十分御考慮になっておることと思います。それで今度出された、これは新しい法案現行法案とは明確に公選と任命という二つになっているのです。ここでどちらに正しいという解釈は、ウエイトをつけられるかという点について、私は非常に今後法案審議についてもわれわれは重要でありますので、あなたの御意見を伺いたいと、こう思うのであります。  それから公選制選挙ですが、私があなたに申し上げるのはさかさまだと思うのですが、たとえば選挙というものは、戦後の、女子に選挙権を持たせた選挙が一回、二回、三回、四回、五回と続けるにつれて、どれだけその選挙というものは非常に啓蒙が今日行き届いていたかということを考えた場合に、一回、二回、三回の教育委員選挙、それが二十九年度の教育委員選挙がともかく施行されなかったということはわれわれ非常に残念なのです。こういう点から考えると、教育、特に今日の教育、特に義務教育子供教育に対する国民一般の考え方をわれわれがこれをどう把握するかということ、また選挙があのままでもう一回でも続けられていった場合において前の時代とは非常に情勢を異にしておりますので、私は教育に対する選挙というものは非常に関心の度が深められ、高められておると、こう思うのであります。こういう点からいって、どうか現政府案による任命制並びに現行の公選制、こういう点について、あなたがお考えになるようなたとえば推薦母体を作り、出た候補者を選ぶということの可能がない場合に、どちらにウエイトを置かれますか、一つ御意見をお伺いしたいと思います。
  232. 森戸辰男

    公述人(森戸辰男君) 私は政府法案に、この問題で政府法案に賛成するか現状維持であるか二つのどちらかを選ばなければならぬという制約が私にはないのでありまして、両方とも欠陥があるので、その欠陥を直すのには、どうしたらよいかということについての私の考え方で、これは私がここで考えたのではなくて、長い間、というのは、相当前に日本教育者などが集まって考えられたことをもう一度ここに持ち出しておるわけでございます。そうして法案としても、私は政府案を出されたら、政府案か現状か、そう二つを選ぶというのが国会のなすべきことでもないと思うのでございまして、政府案で適当でないところは改めるとか、どうもあの全体が適当でなければ、それが成り立たなくなるということもございましょうから、こういう政府案か現状維持かということだけで態度をきめるというのはどうかと思います。ことに私のような政党に属さない立場にある者は、もう少し客観的にものを考えていいのではないかと私は思うのであります。
  233. 加賀山之雄

    委員長加賀山之雄君) 以上をもちまして、森戸先生に対する質疑を終了することといたします。  森戸先生には大へん長時間、特にまげて時間過ぎまでおいでをいただきまして、非常に貴重な御意見をお聞かせいただき、委員会を代表しまして厚くお礼申し上げます。  また今朝来御出席の各公述人の諸先生方におかれましても、本委員会のために非常に貴重な御意見公述いただきました次第でありますが、この機会に各委員を代表いたしまして厚くお礼を申し上げる次第であります。  本日はこれにて散会をいたします。   午後七時三十七分散会