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公述人(森戸辰男君) 広島大学の森戸でございます。
教育委員会の制度が
教育改革のきわめて重要な一環であることは皆さんもよく御存じのところと思うのでございます。同時に終戦後の
教育改革のうちで、最も多くの問題をはらんでいるものが、私は
教育委員会の制度であろうと思います。そこでこの制度については現状維推ではなくて、何とか現状が変えられなければならぬということは、私はだれ人も
考えているところであろうと思うのでございます。と同時に、この問題は
政治的にというよりは、
政党政治的にきわめて関連の多い制度でございまして、これは末端にある
教師、児童、生徒、保護者というようなものとの関連もありますので、また、
政党におきましても、
政治的な傾向があるといわれる
教育者団体におきましても、そういう面ではきわめて関心の強い問題であることは争われないと思うのでございます。過去の、ことに
地方教育委員会制度の
自主性をめぐる賛否の議論を見ましても、そういう感じが深いのでございます。現在の
法案につきましての論議をいろいろ拝見いたしておりましても、
政党的な傾向というものが相当に強く出ているというような印象を受けるのでございます。
教育本来の問題というものが必ずしも直接第一義的に出ているとのみは限らないような気がいたすのでございます。
ところが
教育委員会法というものは、まさにそれと
反対のことを目ざしているのでございまして、
教育が何とかして
政党政治的な面から上にあって、中立的なものにならなければならぬということを
意図していると思うのでございます。そこで私は本院におきましては
政党的な立場ばかりに拘泥することなく、より高い立場と
教育を思う熱意、しかも公正な立場で実質的に冷静慎重にこの
法案が検討されることを期待いたしているのでございます。
私はしじゅうこの問題につきましては関心を抱いてきているのでございますが、これは先ほど申しました
日本教育民主化という戦後
教育改革の基本線の一つであるものでございまするので、そういうことのほかに私
自身といたしましては、実は私が
文部省におりますときにこの
法案ができまして、ここに剱木議員もいらっしゃいますけれども、そういう点で、実は私には特別に関心が深いのでございます。実はつい二、三日前に本院の
公聴会に出るようにという御依頼がありましたのですが、ちょうど明日で、差しつかえましてお断りをしたのでございます。ところがその電報がどういう間違いかうまく着きませんで、どうも来ることになっているというような話で、むげにお断りすることもはなはだいかがかと存じまして伺うことにいたしましたが、そういう事情で、私今日いろいろこの
法案の詳しい細密な問題についてお話いたす資料は持って参っておりませんが、この
法案ができましたそのときの事情などをお話し申し上げますならば、何らか御
審議のお役に立ちはしないかと存じまして、そういう点を主として申し上げたいと存じておるのでございます。
申すまでもないことでございますけれども、
教育改革の基調は
教育民主化という点にあったのでございまして、
教育行政におきましても、この
原則が取り上げられたのは当然のことでございます。そこで従来の
戦前、戦中の
教育行政が
中央集権化しており、文部
官僚の支配が非常に強く、また
地方においては内務
行政、ときには軍の勢力というものも非常に強かったのでございまして、そういう
地方行政の姿を民主的にしなければならぬということが、
教育行政の民主化の最も主眼を置いたところであったことは御承知の
通りでございます。そこで
教育の
地方分権化、中立性、
自主性の確立という方向に向ったのでございますが、その具体的な政策といたしましては、一つは、大学の自治を確立するということ、もう一つは、
教育委員会制度を作るということであったのでございます。当
法案で問題になっておりまする
教育委員会の制度というものは、そういう
意図を持って戦後
教育改革の重要な一環として行われたのでございます。この
教育行政の民主化の方途としてとられました
教育委員会の制度というものは、その範をアメリカの
教育委員会の制度にのっとったのでございます。そういう形でこの面における
教育行政の民主化が行われたのでございまして、この制度は、
日本の
戦前、戦中における
教育行政とはまさに対象的な姿を持っておるのでございまして、この点ではまことに適切な方向を示したものということができるのでございます。と同時に、現実の方策といたしましては、その中には幾多の問題点を含んでおったこともいなめないのでございます。と申しますのは、第一に、この
教育委員会の制度というものはアメリカの新しい国家建設と非常に結びついて、アメリカの開発と非常に結びついてできた制度でございまして、そういう点で一つの特長を持っておると思うのでございます。また制度といたしましては、極度に
地方分権の方向がとられ、また自主化という面でも非常に強い
自主性を持っておる制度でございました。こういう制度は一面からいいますと、アメリカ
自身におきましても、だんだんとこれは何とかしなければならぬというふうに
考えられてきておるのでございまして、ヨーロッパの
教育行政の大きな一つの方向というものも、そういうあまり極端な
地方分権化をある程度調整していこうということがうかがわれるようでございますし、またその点では
教育行政の何といいますか、
地方自治の統一をどういうふうにして求めたらいいかという問題、それからあまり末端
組織の独立制というものがだんだんと薄れて、重点が上位の
組織に行っておるというような傾向がうかがわれるのでございます。こういう制度を
日本に、しかも従来の
日本の制度とは非常に違ったものを敗戦を機会に取り入れたのでございまして、これは全く新しい道であり、しかも先ほど申しましたように、外国でもいろいろと問題を含んでおる制度でございましたので、これを取り入れる場合にはきわめて慎重でなければならぬと、こういうように
考えられたのも当然でございます。そこでこういう新しい
教育の制度を取り入れる場合に、
日本では
教育刷新
委員会というものができまして、これで
教育改革のいろいろな問題を
審議されたのでございますけれども、そこでもこの問題が
審議をされましたけれども、なかなかそう簡単にはきまりませんで、あるいは一年以上も続いたのではないかと思われるのでございます。いろいろと議論があり、
日本の実情にどうして即せしめるかというような問題が、
審議されたことと思うのでございます。その結果、ともかく相当な期間の後に
教育刷新
委員会の答申ができまして、私ちょうど
文部省におりましたので、これが一つの大きな文部
行政の、ことに
教育行政の方針となるものでございますから、これを参考とし、
文部省の見解も加え、さらに当時
占領治下でございましたから、司令部のCIEと交渉をしまして、この
教育委員会の原案の骨子を作ったわけなのでございます。この折衝に当って一番私が、少くとも
責任者として努力いたしましたのは、
選挙に当りまして公正妥当な推薦母体を作って、その推薦されたものを候補者として
考えていく、これは
選挙の場合もそうでございましたが、第一次には私どもは
任命制が適当であると
考えたのでございます。しかしそれはやはり公正妥当な推薦母体で推薦された候補者の中から任命するということでございまして、これは新しい制度を作っていく場合、
地方自治体との関係を円滑にしていくと、こういうようなことが考慮に払われた点が一つと、公選ということが必ずしも手放しでよい結果を持つかどうかということについても不安を感じたからでございました。しかし任命の場合もそうでございますが、公選の場合におきましても、これを手放しにするということは、これは必ずしも望ましい結果を得られがたいというふうに
考えまして、一般投票によります場合にも、妥当な公正な推薦母体を作って、それからある数の候補者を推薦して、それに対して一般投票を行うのが妥当であろうと、こういうふうに
考えまして、この推薦母体を持った一般投票の制度を次には提案いたしたのでございます。けれども、これにつきましても、なかなか当時のCIEは同意いたしませんでした。あるいはCIEというよりは、むしろもっと上位の総司令部の部局でございましたか、公選というものはそういう制限を付してはならぬものであり、むしろ手放しの
選挙にしなければならぬ、それでなければ
民主主義でないという
考えでございました。私はそれは必ずしもそうではないのであって、この新しい制度を始める場合には、公選によるとすればなおさら推薦母体が必要であると、こういうふうに強く主張いたしました。けれども
民主主義は試行錯誤であって、やってうまくなければ直したらいいじゃないか、こういう
意見でございました。私はそうは
考えなかったのであります。抽象的に進歩的なと
考えられる制度を作って、それがうまく合わなかったらこれを直すということは容易なことではないのであります。これを変えるといえばすぐ反動だといわれるのであります。実情に即するというふうに直しても、なかなかこれは抵抗が多いのであるから、むしろ初めに実情に即したものを作って、漸次進歩的な方向に進めていくのが正しい立法のやり方であると主張いたしたのでございます。労働組合の立法についても、方式としては初めに行き過ぎで、あとからいろいろ制限を加えるということは、実に当局者として困難であるということは、あなた方はよくわかっておいでになるはずであると申しましたけれども、ともかく私
たちの主張は
通りません。そしていわゆる手放しの何ら制限をつけない一般投票、公選の制度が作られたというのが経過でございます。私個人としては、どんな制度でも
公選制であれば民主的である、それが違うと非民主的であるというふうには必ずしも
考えておりません。正しい判断力のある民意が反映されることが望ましいのであって、抽象的に公式的に、ただ公式で公選をやればそれで
民主主義が進んだというふうに
考えることはどうかと私個人は
考えておるのでございます。また
民主主義であるという
日本の制度のお手本になっておりますアメリカの実情を見ましても、少くとも上位の
教育委員会は、公選によらぬものが半数ぐらいあるのではないかと、数はしっかり申し上げられませんけれども、あるのではないかと私は
考えておるのでございます。
それでは
日本の事情はどういうふうであったかといいますと、これは私の個人的の
経験でございますから、一般に及ぼすことは危険でございますけれども、広島で
教育委員の
選挙演説会に行きましても、ごく少数でございまして、数人しか出席しておらぬのでございまして、とうとう候補者は話し合って演説はやめるということになったのでございます。ところで候補者についての知識を持つということが、この
選挙には特に大事であるということは、大部分が実は
政党に属しておらないのでございます。
政党に属しておって、
政党の綱領等を知っておれば、ある程度、
選挙ができますけれども、そうでない場合にはなかなかその判断がむずかしいのでありまして、私個人もわかりませんでしたので、私の大学の
教育学部や付属の
先生に聞いてみましたけれども、みなよう知らぬと言っております。私も知らない、
教育学部の
先生方も知らぬというのですから、一般の人はもっと知らないのじゃないかと思うのです。そういうところで、
選挙されるという状態というものは、一体
選挙されても、
ほんとうの
民主主義が生きておるかどうかということは、
教育にはなりますけれども、必ずしも即断はむずかしいと思います。なお投票率を見ましても、いろいろ数字がございますけれども、二十七年の数字でありますと、大阪市が二〇%でございます。東京都はちょっと調べてもらったところ、八王子で二四%、立川で二三%、武蔵野で二〇%、三鷹で二六%、青梅は多くて四四%、これは例外的に多いのです。この数字がどのくらいの指標になりますか知りませんが、大都会では約二割ちょっと上ぐらいです。一割五分ぐらいの投票を得れば、大体当選するということになっておるようでございます。投票であれば民主的であるといっても、一割五分という票で当選するのは、果してよく全体の民意を代表をしておるかどうかということは、そう簡単に結論は出ないのではないかと思うのであります。と言いましても、手放しの
任命制というものについてもいろいろ危険があるのではないか、もちろん自治団体の長が党派心をもってへんぱなものを選ぶというふうに即断することも非常に間違っておるのでございまして、
法案に書いてあるような人が選ばれるとすれば、また自治団体の長が
政党人である場合もあり、しかも公共団体の代表者でもございますから、そう乱暴な選択をいたすことはなかろうと思います。けれども同時に党派的な選択をされるという心配もないわけではない。場合によっては相当にあるかもしれないと思うのでございます。そこで党派所属者数の制限というものが出ておるのでございますけれども、そういう党派所属者数を制限することよりは、望ましいことは、むしろ
政治的に中立の人が
教育委員になるということの方がより望ましいのではないかと思うのでございます。こういうような方向をとりますのには、私は
選挙というよりは、妥当、公正な推薦母体を作って、そこで適切な人を選ぶ、そうすればそれが
選挙されましても、またそれが任命されましてもすでに一定のワクができておりますから、そう将来大した逸脱というものはないのではないかと、こう思われるのでございます。かようにして、
教育委員につきましては、公選でなければ非民主的である、それでなければ民意が十分に伸びないという議論につきましては、私はそう簡単に賛成しかねるのでございまして、もっとこれは深く
考えて、適当な民意を代表し公正な立場に立てるものが、ただ手放しの公選よりはより妥当な方法で選ばれ得るのではないかということが
考えられるのでございます。
それから第二の点は、町村に
教育委員会を置くかどうかどいうことでございましたが、これは
教育刷新
委員会におきましても、少くとも初めはそういうようなところまでには置かないがよかろうということでございました。
なお私言い忘れましたけれども、
教育刷新
委員会の十七回の建議におきましては、「
教育委員会委員の
選挙は、当分の間」——とございますが——「次の方法によること。都道
府県の
教育委員会委員については、都道
府県会議長、都道
府県内の市長の互選による者一人、都道
府県単位の町村長
会長、都道
府県内の大学長、
高等学校長、中等
学校長、
小学校長の互選による者一人、
教員組合の選出する者一人、並びに都道
府県知事が産業経済関係二人、文化関係一人、労働関係一人、婦人一人を
議会の同意を得て選任した者計十人の選考
委員により、定員の三倍の候補者を選び、これについて一般投票を行う。」そして「市区
委員会については、これに準ずること。」というふうな建議をいたしておるのでございまして、当時
教育関係その他の団体でなされましたいろんな建議案等には、大体この推薦母体というものを
基礎にしたものとなっておるのでございます。
先に返りまして、町村の
委員を置くということにつきましては、この
教育刷新
委員会におきましても、「当分の間、都道
府県、市及び特別区のみに
教育委員会を置き、町村にはこれを置かないけれども、従来の学務
委員のような方法その他適当な方法によりできるだけ民意の反映につとめること。」というふうに書いておりまして、小さなところまでは少くとも当分のうちは置かない方が妥当であろう、それは経済的その他の事情によるのでございますが、そういうふうな建議案がなされておりまして、私どもがこの案を作りまする場合にも、そのように
考えたのでございます。従って小さな町村には少くとも町村一般についてもと
考えましたが、
教育委員会は当分は置かぬという方針でございます。それはどういうわけであるかというと、この新制度は先ほど申したようないろんな事情もございますから、まだしっかりとテストが終ってしまっていない、いろいろこの制度については、よしあしの問題が含まれておるから、少くとも都道
府県市等のところで十分検討して、これならしっかりやれるという自信がついたときに、末端の方に伸ばすべきであって、そういう確信のつかないときには、まだ町村に及ぼすべきではなかろうという見解でございました。それが基本でございましたが、さらに過度の
地方分権というものは、いろいろアメリカ等の事情を見ましても、だんだんとこれが弱くなっておるという傾向もございますので、そういうときに非常に末端の小さなところまで機械的にこれを持ってゆくのには、私は少くとも自信を持たなかったのでございます。あるアメリカの人なども私に個人的に、
教育委員会の制度を作るのはよろしいけれども、小さな町村に作っては、これはいろいろ問題があって困っておるのだ、そういうようなことはせぬようにというような話をした人もございました。
それからもう一つは、先ほどもちょっと述べましたが、小さな自治体の経済的な能力というものが、これを耐え得るかどうかということの問題もございまして、少くとも都道
府県市——五大市並びに市くらいのところでとどめておいて、よく実験をした上で、末端に及ぼすのが妥当であろう、こういうふうな
考えをとったのでございまして、法文には
規定されておりまするけれども、延期をすることになっておったのでございます。ところが二十七年に、これはどういうことでございます、偶然というか、
意図しなかったのみならず計画的でなかったのでございますが、
国会が解散になり、これを延期するという
法律ができなくて
施行されるということになったのでございまして、十分な準備なしに町村にまで
施行されたということであります。それの当時のいろいろな議論を見ますと、これにもなかなか
教育がどうしたらよくゆくかということだけはなくて、
政治的ないろいろな
考え方がそれにからみ合っていたような印象も受けたのでございます。かようなふうにして町村にまで
教育委員会が現に行われるようになったのでございまして、これに対してどういうふうに
考えてゆくかという問題が起っておるのは、私は当然なことであると思うのでございます。そうしてすべての
教育委員が同じ重さをもって
考えらるべきであるか、重点をどこに置いて考うべきであるかという問題が客観的に
考えられなければならぬのではなかろうか。形式的な
民主主義の議論でなくして、実際の民主的な形がどうしたらよく行われるかというところに観点を置きながら
考えてゆかれるべきではないかと私は
考えておるのでございます。中教審の決議の中にも、あまり小さいところ、経済力の弱いところに——町村に
教育委員会を置くのはどうかというような意向も表明されておるのでございます。これが第二点でございます。
第三の点は、
教育委員会ができたときに、私どもの
考えでは、これはいわゆるレーマンといいますか、いわゆる
教育専門家でない、職業的な
教育者でない者が
委員になって中立的な立場で
教育全体を見ていく、こういうことが建前であったのでございます。そこでそういう趣意に沿いまして私どもは、現職の教職員は立候補するのは適当でないという見解をとったのであります。そうしてそういう
法案を作ったのであります。けれども、これは
国会におきまして修正をされました。これは当時の社会党も自由党も共同であったと思いますけれども、
教育者は現職でも立候補できる、こういうことになったのでございまして、もちろん
教育者としての
経験のある者が立候補して悪いということでないのでございますけれども、職業的な利益と直接に結びつくことについては十分注意をしなければならぬということでございました。先ほど申しました中央
教育審議会の
教育委員会についての決議におきましても、教職をやめて一定年限の後に立候補するようになるのが妥当であろうというような
意見が付せられておったと思うのでございます。
教育の中立性を確保するというのは、一面では
政党の問題もございます。同時に、
教育職業者といいますか、そういう
人々が職業的の利益を
教育委員会にすぐに持ち込んでくるということについていろいろと疑問があるのでございまして、そこで現職の
教育者というものが
教育委員に立候補するのは遠慮してもらったらいいのではないか、そういうことで
ほんとうにレーマンな、公正な立場で中立的に
教育行政を見ていくということができるのであろうと、こういう
考え方でございましたけれども、これも実は
国会の修正によりまして、それとは違った事情に今日なっておるのでございまして、
教育委員会法ができました本来の趣意からいいますと、これは少し曲っておりはせぬかと私個人は
考えておるのであります。これが私の過去の
経験から申し上げる点でございます。
〔
理事吉田
萬次君退席、
委員長着席〕
なおちょっと触れておきますることは、これは
教科書の問題と関連いたしまして、私は中央
教育審議会の
教科書の問題の主査をいたしましたので、実はそれに関連しましてでありますが、私どもはこういうふうなことを答申したのでございます。夏休み帳、読本等の使用については届出制とすること、ということを答申いたしまして、それは現在夏休み帳、副読本等の使用は、野放しにされており、
父兄の負担も相当になっておるので、この際、これらの使用の際には
教育委員会等の
監督庁に届け出ることにしたいと
考えます。これによって
監督庁は十分その使用状態を把握することができ、これに基いてその使用の適正化を期することができるからであります。こういうふうな答申をいたしましたが、それは
教科書法に載りませんで、本
法案の三十三条の二項に、そのある部分が載っておりまして、
教科書以外の材料の使用につきましての
規定でございます。三十三条の二項に「前項の場合において、
教育委員会は、
学校における
教科書以外の
教材の使用について、あらかじめ、
教育委員会に届け出させ、又は
教育委員会の
承認を受けさせることとする定を設けるものとする。」というふうに出ておりまして、これは私どもの
考えましたものとはよほど強い形で出ておるのでございます。この点はいろいろ問題になっておると承知いたしておりますが、私どもの
考えは、
教科書につきまして価格の問題を問題にいたしておりますが、同時に読本その他任意ではあるけれども、事実上生徒が買わなければならぬ。そういう書物その他の資料というものがむしろ
教科書のお金よりは高いような実情にございますので、
教科書の値段だけを下げてもそれではいかぬから、そういうものがやたらに使われるというようなことについては、相当に考慮しなければならぬというようなことが主で、もちろん多少日記事件というようなこともございましたけれども、そういうようなことで一つこれは別に
承認を得るとか
許可を得るとかいうことではなくて、届け出てもらうようにして、
教育委員会で見通しをつけられるような状態にしておいた方がいいということでございましたけれども、ここではやや
教科書以外のすべての
教材について
承認を……届け出させ、あるいは
承認を得るという強い形に出てございますので、これらにつきましては、少くとも私どもの
教科書の関係で
考えた形とは相当に強い形で出ておりまして、そのことが
教育の
教材の使用の上に非常な圧迫を加えるようなことがあってはなりませんので、この点をちょっと申し上げ添えておきたいと思うのでございます。
以上申しましたように
教育委員会の制度は、重ねて申しますように、新しい
教育の改革の重要な一環であるということ、同時にそれは多くの問題を含んでおる。そうして改革を必要としておるのでありまして、従ってこれを変えるということは必ずしも反動でも非民主的でもそのこと
自身はないのでございます。ですから
民主主義の抽象論からではなく、抽象論や公式論からではなくて、わが国の現状に即しながら世界の
教育行政の方向についても十分考慮に入れながら、
教育民主化の実をあげ得るものにしていくということが、何よりも大事なのでございまして、
参議院におきましては、かようにして
教育自体ということを中心にいたしながら、この
法案が公正に
審議が尽されて、よいものとして日の目を見るようになることを私は心から期待いたしておる次第でございます。