運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1956-02-16 第24回国会 衆議院 予算委員会公聴会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十一年二月十六日(木曜日)     午前十時三十四分開議  出席委員    委員長 三浦 一雄君    理事 稻葉  修君 理事 川崎 秀二君    理事 重政 誠之君 理事 小平  忠君    理事 柳田 秀一君       相川 勝六君    赤城 宗徳君       井出一太郎君    今井  耕君       植木庚子郎君    小川 半次君       北澤 直吉君    纐纈 彌三君       河野 金昇君    河本 敏夫君       周東 英雄君    須磨彌吉郎君       竹山祐太郎君    藤本 捨助君       古井 喜實君    眞崎 勝次君       松浦周太郎君    宮澤 胤勇君       山本 勝市君    山本 猛夫君       井手 以誠君    今澄  勇君       久保田鶴松君    小松  幹君       成田 知巳君    西村 榮一君       古屋 貞雄君    矢尾喜三郎君       八百板 正君    川上 貫一君  出席公述人         東京大学教授  川野 重任君         立教大学教授  藤田 武夫君         一橋大学教授  都留 重人君         早稲田大学教授 大西 邦敏君         京都大学教授  渡辺庸一郎君  委員外出席者         専  門  員 岡林 清英君     ――――――――――――― 本日の公聴会意見を聞いた案件  昭和三十一年度総予算について     ―――――――――――――
  2. 三浦一雄

    三浦委員長 これより昭和三十一年度総予算につきまして、公聴会を開催いたします。  開会に当りまして、御出席公述人各位にごあいさつ申し上げます。本日は、御多忙のところ貴重なるお時間をさいて御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。委員長より厚くお礼を申上げます。申すまでもなく本公聴会を開きますのは、目下本委員会において審査中の昭和三十一年度総予算につきまして、広く各界の学識経験者たる各位の御意見をお聞きいたしまして、本予算案の審議を一そう権威あらしめようとするものであります。各位の忌憚のない御意見を承わることができますれば、本委員会の今後の審査に多大の参考となるものと存ずる次第であります。一言ごあいさつ申し上げます。  なお議事の順序を申し上げますと、公述人各位の御意見を述べられる時間は大体二十分程度にお願いいたしまして、御一名ずつ順次御意見の開陳及びその質疑を済ましていくことといたしたいと存じます。  なお念のため申し上げますが、衆議院規則の定めるところによりまして、発言の際は、委員長の許可を得ることになっております。また発言の内容は、意見を聞こうとする案件の範囲を越えてはならないことになっております。なお委員公述人質疑をすることができますが、公述人は、委員に対し質疑をすることはできませんから、さよう御了承下さい。  それでは、まず東京大学教授川野重任君より御意見を承わることといたします。川野重任君。
  3. 川野重任

    川野公述人 私に与えられました問題が、農業問題の観点から、予算案をどう考えるかという問題であります。この問題が、単に一農業の特殊的に限られた問題として考えるのではなしに、日本経済の現段階の問題をどう考えるか、その中において農業のあるべき地位をどのようなものとして考えるか、それに対してどういう政策的な関与が必要とされるか、こういう観点に立つことによって、初めてその意見が提出されるものと考えるのであります。そういう意味におきまして、ごく簡単に、日本経済の現水準において農業の置かれている地位、従ってまた農業政策として考えねばならない問題というような点について、簡単に序論的にお話しいたしたいと存じます。  戦後の日本農業政策は、きわめて大ざっぱに言いますと、今までは農業抑圧、私はこれを再農業化傾向抑圧策ということで言っておりますが、敗戦によりまして、日本経済水準が急速に低下する、それをほうっておきますと、急速に農業国として転換していく可能性が非常に強かった。しかし、それをそのまま放任するよりは、むしろ人為的にその再農業化傾向を押える方が、全国民経済回復のためには最も早道である。こういう観点から、従来ほうっておけばもっと農業が有利になるのを押えて、それによって全経済回復工業化中心として進めてきた、ここに私は重点があると思います。理由は、言うまでもなく、工業生産の破壊によりまして、工業所得水準が下り、農業の方は食糧不足人口の増加によりまして、食糧の危機が急速に高くなる、それによって農業所得の形成が工業に比べて有利になる。ほうっておけば、職工はどんどん農村に帰る、工場建設復興も十分に進み得ない。一方、しかし日本経済全体として考えますと、工場施設はなおたくさん残っておる、ただ労働者が、食糧不足のゆえに安定的に工場で働かないというために、工場再開ができないという関係にあったわけですが、これは原料を与え、貿易を再開し、同時に工業労働者消費生活上の地位を安定せしめれば、比較的簡単に工業再開ができる、こういう観点から、戦後の経済復興政策が立てられていく。それがまた、結果的に言うと大体成功であった、こう思うのであります。ところが二十五、六年以後になりますと、国内における農業生産力回復と、それから海外における農産物価格の低落、一方において工業生産力回復、こういう点からいたしまして、漸次農業の相対的な地位が落ちてくるという形になってきた。その結果、戦後一時は工業労働所得よりも農業労働所得が高かったのでありますが、それが最近では急速に下ってきているという事態であります。そこで問題は、農業の側からは、これを社会政策的に救済すべしという意見が強いと同時に、他方におきましては、国際的な農産物価格が低落しつつある。その低落しつつある農産物は、むしろこれを輸入して、国内増産することは考えない方がいいのではないか、こういう意見が非常に強くなってきた。つまり国内増産か、あるいは輸入依存主義か、あるいは輸出産業の伸張か、国内における農産物増産か、こういう問題として、現在経済政策中心課題がそこにしぼられてきておると思うのであります。従いまして、今日の農業問題の観点からこの予算案を見る場合におきましても、焦点はそこにしぼらるべきである、こう思うのであります。  さて、現在当面いたしておりまするその農業政策の問題、つまり一方におきましては、これを自由放任立場でいく、そうすれば農産物価格が下り、農民所得が下れば、おのずから工業の方にその労働力が向いていくであろう。それによってより国際的に有利な工業が伸張し、それによって国民経済全体としては、生産力水準が伸びる、これが古典学派の教えるところであります。しかしこの理論は、農業工業の岡における完全なる自由と申しますか、資源の移動が完全に自由に行われるという前提で立てられたのでありますが、今日はそういう自由がないというところに大きな問題があるのであります。従いまして、かりに海外から、農産物価格が安くなりまして、安く入ってくるというふうにいたしましても、直ちにそれがそのまま工業化推進につながるということは、必ずしも言えないのではないか。むしろ、一時的には農村所得が相対的に下ってくる。しかもその事態がかなり長期的に続くというところに、私はその結果が予想されるのであります。しかし、これは国民経済的に考えますると、単にウェルフェア、厚生という点から農民にとって不利であるというばかりでなしに、国民経済全体としましても、いわば工業に移せばもっと有利に利用できる労働力が、農村で安い労賃でもって停滞しているということになりますから、国民経済的に見ましても、私はこれは大きな損失である、こう思うのであります。従って、経済政策といたしましては、この農村に停滞している労働力をより有効に使うということ、このために各種の措置を講ずるということこそが、現段階においてわれわれの考えるべき問題ではないかと思うのであります。  方向としましては、私は、第一には農業高度化と申しまするか、従来カロリー本位の作物を中心生産をいたしていたのでありますが、これをもっと畜産、あるいは果樹園芸という、いわゆるプロテクティブ・フード、保健食糧というふうに申しておりますが、保健作物的なものへの生産の転換をはかるということが第一。さらに、加工部門拡充ということももとより考えられるのでありますが、ともかく農業高度化ということが考えられる第一の方策。  それから第二には、農業に停滞している過剰人口を非農業の方で吸収するような積極的な政策をとるということが第二の方策であろう、こう思うのであります。従いまして、ことしの予算案は、そういう観点からした場合において、果してその問題にどの程度こたえているかということが、ここでの問題になろうかと思います。予算案全体の性格について、私の印象を申しますると、ことしの予算案は、災害がなかったために負担が軽くなった。しかし、その負担の軽くなったものが、社会保障関係費用防衛費の拡大に向けられていて、必ずしも積極的な生産力拡充に向けられていないということが言えるのではないかと思うのであります。もとより財政投融資の面におきましては、その生産力拡充という問題への回答が準備されておるわけでありますが、しかし、それはより多く民間の資本に依存するという点に特徴をもっておる。そうしますると、固有の財政政策の問題といたしましては、災害復旧災害がなかったということによって軽減された財政負担を積極的に生産拡充の方に移す、積極的に生産拡充にそれを回すということについては欠ける点があると、こういうふうに考えるべきではないかと思うのであります。その場合、社会保障関係費用防衛費費用との増大をどのように見るかということについては、これはまた意見があろうかと思いますが、一応私は、それを与えられたものとして考えますると、それについては、反面、生産的な投資の減少という点が、注目されねばならないということだけを申し上げておきたいと思います。その結果、公共事業費の一般的な削減という結果が現われておるのでありますが、この公共事業費削減については、この際その本質を考え直すことが必要ではないか。一般に不況対策として公共事業費増大考えるというのが、これまでの考え方でございますが、しかしそうではなしに、好況不況にかかわらず、むしろ経済の安定する場合におきましても、ほっておいたのでは社会的に必要な資本の投下が行われない、それを政策的に行うというところに、公共事業費意味があるというふうに考えるべきではないかと思うのであります。つまり、これは後進国開発の場合においてもしばしば問題になる点でございますが、いわば社会資本と申しますか、個別資本投資の対象とはなりがたいけれども、それを公共的に行うことによって、個別経常生産条件がよくなる、それによって全体としての生産水準が高まる、これが公共事業投資意味であろうと思うのでありますが、そういう点からしますると、昨年度災害がなかったというだけのことでもって、その削減が当然のごとく考えられるということについては、反省の必要がありはしないかと思うのであります。  第三には、農業政策の問題になりますが、農業政策の経費が、全体として、予算規模に比較して相対的に低下しておるということについてはあえて申しませんが、問題は、ことしの農業政策においては、先ほど申しましたような観点から、どこに重点が置かれておるかということについて、必ずしも基本的な線というものが明確にされておるとは言いがたいのではないか、その明確にされた基本原則に即してこの予算が組まれておるとは言いがたいのではないか、こういうような感じがいたすのでございます。  それが一般的な印象でございますが、さて個別的に農林予算の問題に入ってみたいと思います。まず第一に、プラスの面から申しますると、最高技術会議の設置を中心にいたしました試験研究費増大という一点が注意されまするが、これは一応文句なしに賛成してもよろしいかと思います。特に従来各個ばらばら、しかも非常に分散的で、零細な規模での試験研究が行われておるのでありますが、それを一本にまとめる、あるいは調整するという努力を試みておるという点においては、大いにこれを買うべきであろうと思うのであります。ただし問題は、これはあとの新農村建設、あるいは食糧増産の問題にも関係いたしますが、その試験研究重点をどこに置くかということは、さらに検討さるべきであろう、こう思うのであります。つまり先ほど申したように、農業高度化中心にした試験研究推進ということが、特にこの段階においては考えられるべきではないかと思うのであります。  それから第二には、食糧増産対策でありますが、これは全体としては、昨年とほぼ同じくらいの形になっておりますが、しかし外資導入関係を除きますと、土地改良開拓耕地整理等軒並みにこれは減少いたしております。これは、言うまでもなく、食糧はむしろ海外から買ってきた方が有利であるという認識から、一般的に増産費用削減されるという形になったかと思うのであります。これは、私は、かりに麦が国際価格の方が安くて引き合わないという形になりましても、別に食糧増産というのは、麦に限らず米に限らないと思うのであります。かりに畜産を進めるにいたしましても、飼料生産性がより高まり、より安い飼料の獲得が可能になるということになりますれば、それによって、農業高度化条件ばやはり国内においても形成される、こういうふうに考えるわけであります。そういう意味におきまして、いわゆる土地改良、あるいは開拓耕地整理という問題を直ちに米麦のみの増産の問題に結びつけて考え、従って、それが否定されれば直ちにその増産対策費削減という結果になるということについては、一考を要すべきであろうと思うのであります。  それから第三には、新農村建設の問題でございますが、これは、下から盛り上る農民生産意欲というものを培養しょうという点においては、確かに一着想たるを免れないと思うのであります。しかしながら、現在の日本農業の問題が、単なる農村の問題ではなしに、実は農村内部で解決できない問題が相当にたくさんある、こう思うのであります。従いまして、かりにこの案といたしましては適地通産、その土地に適したものを、その線に即して生産拡充するという形になっておりますけれども、実は適地通産というのは、日本の国全体としてどこに農業生産重点を置くかという構想がきまりまして、その一環として初めてそれぞれの村において適地適産ということが考えられると思うのであります。その点を抜きにいたしまして、ばく然とその村村にその生産計画を立てさせるということになりますと、全体としての方向が必ずしも統一しないところの、ばらばらの住産計画が立てられるということになりはしないかという点において、これはもっと大きな国家全体としての農業計画を立て、その一環としてこの問題を労えるというふうにすべきではないかと思うのであります。  それからこの問題につきましては、さらに予算規模が非常に零細でございますが、これは、特に結果的には個々の村々に共同施設の建物が建ち、あるいは何か牛乳の集荷所を建てるということになるかもしれませんが、全体としての生産力を高めるという点から申しますると、存外に生産力拡充にはなりがたいという点も考えられはしないか。そういう点において、予算が小規模であり、ばらばらであり、さらに国全体として、こういう方向農業生産計画考えるべきであるという点についての指示が乏しいということを心配するのであります。むしろこれは、かりに十五億円の金を使うといたしますならば、思い切って一県に一方村くらいのところに集中的にその金を投じてみる。その結果、従来ばらばらにしか予算が投ぜられないというために十分に効果を発揮し得なかった農業投資というものが、どういう効果を生むかということをテストしてみるということも、一つの行き方ではないか。日本農業におきましては、単に資本が足りないというだけでなしにかりに、資本を与えるといたしましても、その資本をどう使っていいかわからないという点から農業投資が十分に行われがたいという面も相当にあるのでありますが、もしこれがモデル農村、あるいは協同農村といったようなものが、一村一億円なら一億円くらいの金を投じましてモデル的に設定されていく。それがもし成功いたしますると、そのまわりの村々が、今度はそれをまねをして、農業計画を立てるということになることもあり得るのではないか。そういう点におきをして、失敗するか成功するかは存じませんが、むしろこれくらいの金を使うならば、そのように思い切った協同農村というものを考えることも必要ではないか。そのことにおきまして、現在七反とか五反とかいうような零細な経常がたくさんございますが、これを思い切って集中してみるということも考えることが必要ではないか。今の体制では、金は投ぜられましても、経営規模はほとんど変らないという形になっておりますが、これを、そういった試験的に集中的に使ってみるということも考えられるのではないかというふうに考えるのでございます。  それからなお農業改良基金制度というのが予定されておるようでございますが、これは、言うまでもなく補助から金融への移行という思想が中心になっていくと思います。これについては、着想そのものは私はおもしろいと思うのでありますが、何分にも、一戸当りの農家にかりに割り当ててみますと、百五十円か二百円足らずというふうな改良基金制度では、おそらく幾ばくのこともなし得ないではないか。といって、これをけなすわけではございませんで、むしろこの制度をやるならば、もっと規模を大きくしてやることが必要ではないか。確かにこれによりまして、補助金ならばただでもらえる、金を借りるとなると、利子は払わぬでも、とにかく返さなければならぬという点から補助金制度に結びつくところの弊害は、大いに是正され得るかと思うのですありますが、それにいたしましては、あまりにも額が小さい。むしろ農業投資基本線としましては、国家投資か、あるいは利子補給かという政策が従来行われてきたのでありますが、その利子補給政策モデルといたしまして、この基金制度は今後さらにこれが拡充考えるということが希望されるのであります。  要するに、現在の農業政策課題といたしましては、国策農業については、国際的に非常に不利な立場に立ちつつありますが、これは、政策的には国内農業の高慶化ということと、それから農業にあり余っているところの資源を、非農業の方に積極的に移すという努力をすることが、必要ではないか。そのためには、やはり農業経営合理化と申しますか、経常規模が何としても私は小さ過ぎると思うのでありますが、これをもっと整備拡充するということを考えるべきじゃないか。そのためには、当然財政投資が必要とされますが、それについて必要な限度においては、それを積極的に出すというような形を考えるべきではないか。今は、いわば社会的構成という観点から、農業がかりに不利であっても金を出さなければならぬというような世相も相当にあるようであります。私をして言わせるならば、むしろ農業資源がそのように低所得という形において農村で滞留しておるという事態は、国民経済的に非常に不利だと思うのであります。それを生産的な面に持っていくということに、国家としてなすべき政策課題があるのではないか。そういう観点から、以上のようなことを本年度の予算案に対しましては私として考えるわけでございます。(拍手)
  4. 三浦一雄

    三浦委員長 ただいまの公述人の御発言に対しまして、御質疑はございませんか。
  5. 小平忠

    小平(忠)委員 二、三点お伺いしたいと思います。  第一点は、ただいまの公述の中で、三十一年度の予算を見ますると、大体社会保障なり再軍備の方の予算相当重点的に重く見られておる関係上、生産力拡充という面から、農業の面では食糧増産費が削られておるという御指摘があったわけでありますが、この点は私もそう思うのです。そこで、根本的に従来は国内食糧不足のために、絶対量不足分については輸入食糧に仰がなければならないけれども、やはり何といっても国内におけるところの食糧増産をやらなければならぬという点で、土地改良開拓相当重点が置かれておるのでありますが、しかしここ一、二年の趨勢を見ますと、ことに現河野農政考え方などは、食糧増産ということよりも、外国食糧の値下りによりまして、輸入食糧という、食糧輸入方向重点を置くというような線が非常に強く、われわれいつも指摘をしておるのです。そこで、この点は川野さんはどのようにお考えかということなんですが、この輸入食糧国内食糧増産という見合いの関係国家予算とにらみ合して、どのような考え方を持っていくのが日本農業政策なり食糧問題解決のかぎを握っているというふうにお考えか、この点を第一点にお伺いいたしたいと思います。
  6. 川野重任

    川野公述人 御指摘の点は、私が最初に申しましたように、海外の安い食糧国内食糧にかわっていくというのは、経済的には、農業比較生産性国内において不利であり、海外において有利であるという場合に起るわけでございますが、理論的に言いますと、もし安い食糧国内海外から入ってくる、国内ではそれだけ増産しなくてもよろしい。そのかわり、その食糧生産していた農民輸出産業の方に振り向けられるということが何ら摩擦なく行われれば、これは問題はないと思うのであります。そしてまた、経済学の教えるところは、そういうところでございますが、しかし現実には、それがそうはいかない。現にこの四、五年来の日本経済復興の姿を見て参りましても、第二次産業生産性が非常に伸びておりますが、その割に雇用がふえていない。そうしますると、先ほども申しましたような理論が必ずしもそのまますぐに当てばまるというわけにはいかないのではないか。従いまして、結論としましては、商品として考えますると、安い物を買うということは、確かにこれは消費者観点から考えると有利だと思うのであります。ですから、その原則を頭から否定することはできないと思うのであります。けれどもその場合、それを安い食糧を輸入しっばなしにしておいて、果して国内農業工業の調整がうまくいくかというと、その点がうまくいかない。政策的な関与がなければうまくいかない。そういう意味で、私は、その事態のもとにおきましては、たとえば小麦において競争ができないという場合におきましては、おそらく畜産、あるいは果樹園芸という点において競争のできる条件があるというふうに考えてよろしいんじゃないか。そうしますと、そういう点に重点を向けていくということが必要なのではないか、こういうふうに考えるわけであります。ただその場合、先ほど申しましたように、食糧増産というのがすぐに米と麦に結びつけられるということから、小麦がかりに外から入ってくることがやむを得ないとした場合において、食糧増産費用が要らないかというと、今申しましたように、新たな形での食糧増産というものがそれに考えられるという点からいたしますると、当然には増産費削減ということにはならないのではないか、こういうふうに私は考えるわけです。
  7. 小平忠

    小平(忠)委員 ただいまのお話によりまして、やはり輸入食糧という面において、商品として見た場合に、国内食糧と比較して価格の面で絶対安いということにおいては無視するわけにはいかないという、あなたの説に私も賛成です。しかし、それだからといって、輸入食糧依存政策をとることが日本農業政策日本農民というものに対してどういう影響を与えるか、日本食糧問題解決の上にどういう影響を与えるかといえば、これはもうすでに議論が尽されている問題でありまして、私は特にそういう点から、この三十一年度予算の上に現われてきているところの、食糧増産費というようなきわめて重要な費目を削減するということは、まことに遺憾に思う。  それから、それと関連して最も重要な点は、価格政策でありますが、重要農産物価格について、特に食管特別会計の中で具体的な予算米価が現われてきておりますが、これについては、また従来とも非常に論争の重要な課題であります。それで、一体米価についてはいろいろ意見がありまして、これは、どうしても支持価格制をとるべきであるという意見と、あくまでも。パリティ方式によってやるべきであるという意見が相対立いたしておるのでありますが、特に食糧がだんだんと安定度を増しつつある段階において、支持価格制、二重価格制をとることが妥当なりや、それとも従来とって参っておりますパリティ方式を採用いたしまして、逐次農産物価格を圧迫するような形をとることが日本農業の上に一体プラスなのか、こういう点についてのお考えはいかがでございましょうか。
  8. 川野重任

    川野公述人 パリティ方式と生産費方式という問題については、少し話が横道にそれますが、これは一定の価格を何によってはじくかという方式の差の問題でございまして、それによってはじかれる価格がどのようなものであるかということとは、必ずしも一次的には結びつかないと思うのであります。しかし今のお話の点は、そういうことでなしに、その算定されたる価格が、消費者の消費の方を基準にいたしますると、二重価格として考えられなければならないようなものか、あるいはもう端的に、消費者価格イコール生産価格といたしまして、二重価格制度をとらないということがいいのか、こういう問題に関係していくことであろうと思うのであります。二重価格をとるということは、結局需要を越えた生産価格考えるということでありますが、この意味は、言うまでもなく農民所得保障、所得安定ということが基準になっておると思うのであります。経済的の合理性という点からしますると、言うまでもなく消費者価格生産価格とは直結すべきもの、これが古典学派の教えるところであろうと思うのでありますが、それを否定するのが二重価格の構想であろうと思うのであります。さて、それならばその問題をどう考えたらいいか。先ほど申しましたことにも結局帰着するのでありますが、もし農民所得の減少が直ちに工業の方に労働力が移る、それによって農業をやる場合よりはより多くの所得が得られるという関係が直ちに実現するならば、それは、私は二重価格の構想は必ずしもとりがたいのではないか、こう考える。しかし現実の問題としましては、現に農民所得を幾ら低くしてみたところで、農村労働者は非農業の方に移らざるを得ない、あるいは農業高度化がそれによって実現されないという形にあるならば、生産原則よりかむしろ安定原則考えられねばならないということになるのではないか。現実はまさにその安定原則中心考えられるというところから、そのような二重米価の構想も出てきておる、こう思うのであります。もしこれを否定するならば、それにかわるところの積極的な農業高度化政策、あるいは農業労働の非農業部門への積極的移動の推進、それによる労働所得の上昇ということを考えるべきではないか。二重価格がいいか悪いかというよりは、その問題については、そういう条件の上にこれを考えるべきではないか。従って、そのような積極的な政策がとられないとしますると、安定原則という観点から二重米価の主張が出てくるのも、私ども第三者の観点から見ましてやむを得ないのではないかと思います。けれども、本来のあるべき姿としては、やはり農業高度化と非農業への労働資源の積極的な移動の推進ということを考えるべきではないか、こう思います。
  9. 小平忠

    小平(忠)委員 最後にもう一点お伺いいたしまして終りますが、先ほどの公述の中に、現在河野農相が、新農村建設、新しい村作りという表題のもとに相当宣伝されており、予算の上にも新たに十五億が組まれておる。これについて川野さんからは、重点的にこの予算を使うならば効果があるだろう、すなわち一県一村、あるいは一村に一億ぐらいのモデル農村というか、共同農村を作るという観点でこの予算を使うならばという御指摘があったのでありますが、同時に、これと関連して、新しい村作り、あるいは新農村建設一環として新農業団体を作る。その新農業団体、強制加入による剛体に農政活動を行わしめるというような考えが、河野農林大臣の試案として、あるいは農林省なり与党の人たちの一部にあって、すでにそういうことを具体的に進めておるわけです。農林大臣も、それは今まだ成案を得たわけではないけれども、その決意は変えない、今国会中に出す、これは、今の新農村建設一環として、このような考え方で今国会に出す、予算もそういう形でいきたいというふうに言っておりますが、日本農業政策なり日本農民立場からいって、現在村には農業協同組合という自主的な経済団体がありますが、こういうものに対決して、そういった強制加入による団体に農政活動を行わしめるというような考え方が果して適切なりやいなやということについて、日本の農政という見地から、川野さんどういうふうにお考えでございましょうか。
  10. 川野重任

    川野公述人 この公聴会出席するにつきまして、資料をちょうだいいたしたいというふうに事務局の方へお願い申し上げたのであります。二冊ほど送って参りましたが、実はその中には、その団体再編成の問題が、私が見る限りでは出ておりませんで、本日その準備がないわけでございます。従いまして、御質問に正面からお答えすることができないことを、最初に了としていただきたいと思います。  新農村建設と団体との関連については、私よくわかりませんが、一般に団体の問題としましては、農政活動を行う団体というお話がございましたが、これは農政を浸透せしめる団体なのか、あるいは農民自身の農政活動を行う団体なのかよくわかりませんが、もしその後者、みずから農政活動を行う団体であるとするならば、これは、いわばみずからの戦闘態勢整備の問題でございますから、おそらく自腹を切って戦闘に参加するであろうと思うのであります。そういう意味におきまして、かりに金をもらって農政活動をやるということになると、これは、農政浸透のための団体であるということになるのではないか。従って、これもはっきりしたことにはならないのでありますが、要するに、農政団体と申しましても、上からのやっか下からのやっか、そのいずれであるかということによって問題がきまってくるのではないかと思います。いやしくもみずからの農政活動をやるという場合においては、自腹を切ってやるのがほんとうではないか、そうでなければ政治活動はできないのではないか、こう思うのであります。
  11. 八百板正

    ○八百板委員 お話の中に、農業政策基本線が明確にされていないというふうな御指摘があったのですが、その基本線というものをどういうふうにお考えになっておられるのか、ちょっとお伺いしたいと思うのです。今までの話を伺っておりますと、米麦中心政策から漸次保健作物とも言うべき方向に転換している、従って、そういうふうに形における増産はなお一そう必要なのであるが、この機会に、そういう方面の財政投資はもちろんのこと、施策の重点投資的に裏づけられておらないというふうなお話に考えるのです。だとすれば、そういう方面の裏づけがあれば、今のような方向へ行くことが今日とらるべき農業政策基本線として容認せられてよいのか、こんなふうな点について、御意見がありましたら伺いたいと思います。
  12. 川野重任

    川野公述人 お話の趣旨が十分のみこめないのですが……。
  13. 八百板正

    ○八百板委員 米麦中心の必要性が弱まってきたから、そこで削られたということをおっしゃられておるわけですね。ですから、そういう点に事寄せて否定せられなければほかの方面、適地適産といいますか、あるいは換金作物と申しましょうか、そういうふうな質的な農業作物への転換傾向日本農業の中に漸次作っていって、そういう方面に投資をする、あるいはそういう方面の生産性をつちかうような金の出し方をするというふうに持っていくならば、それでよいというふうな意味でおっしゃったのかどうかというのです。
  14. 川野重任

    川野公述人 長期的に見ますと、カロリー本位の作物から漸次ビタミンとか、あるいは動物性蛋白質、脂肪質農生産に変っていくということは、これは国民の消費水準の上昇を前提にする限り、一応当然として考えていいじゃないかと思います。ただ私の言いたいことは、それならば、いわゆる食糧増産対策費としてあげられている経費が直ちに削除、不要ということになるかというと、そうはならないだろう、こういうわけです。つまり水利灌漑をやる、あるいは耕地整理をやるということは、必ずしも米を作らなければならぬということにはならぬと思うのです。その米というものは、飼料にもなりまし上うし、麦も飼料になりましょう、あるいは飼料作物というものもその上に生産できるわけでありますから、そう考えますると、農業の一般的な生産条件拡充するということについては、穀物の国際価格の低落ということは、何らそれと直接の関係はないというように考うべきじゃないか、こういうわけです。
  15. 八百板正

    ○八百板委員 それからさっき、たとえば十五億なり幾らの金をまとめて出すなら、効率的な方法も考えられようというふうなお話があったのです。その場合には、たとえば一ヵ所に集中してやるとすれば、その金を入れたことによって生産の高まる状態が考えられる、こういうことだろうと思うのですが、そういう場合は、何といいますか、一つの生産の共同化というところを頭に置いてのお話ですか。
  16. 川野重任

    川野公述人 そういうわけです。
  17. 八百板正

    ○八百板委員 だとすれば、こういうふうな問題はどういうようにお考えになられますか、農民の場合も、農民の生活水準を上げるためには、農民の労働に対する生産性を高めるというような問題が当然問題になろうと思うのです。そういう場合に、なるほど合理化は、単位労働の生産性を高めるという形になるでしょうが、一方において、いわゆる単位面積当りの生産性の低下ということも問題になろうし、さらにまた一方において、単位労働の農業面における合理化による生産性の向上というものは、農村の雇用の減少というような一つの矛盾も出てくるわけです。先ほどのお話で、二次産業の面では雇用の増大、吸収は考えられない、しかしまた一方において、農村に滞留しておる力を国家的にならすならば、この点について農業面の労働力工業面に流れていくことは喜ぶべきものだ、こういうふうな意見もあったのですが、そういうふうな関係から、少しこんがらがってくるのです。この辺をもう少し明らかに説明して下さい。
  18. 川野重任

    川野公述人 つまり私の言いたいのは、国民経済の目標は、結局農業をやろうと工業をやろうと、一人当りの所得水準が高まるということがその目標であるべきじゃないか、こういうことなのです。そうしますと、たとえば同じ食糧を作るにいたしましても、少い労働でそれを作る、これは工業の場合でも同じことだと思うのですが、そういう点で、合理化がおのずから過剰労働力を生んでくるという御指摘は、ごもっともだと思います。では、その過剰労働力をどうするかといいますと、結局人間の消費する消費財を考えますと、より消費需要の弾力的な一般消費財、あるいはもっとぜいたく品というものがありましょうが、そういう方向生産の移行をはかっていくというのがほんとうじゃないか、そのためには、おのずから労働もより多く必要とせられる。基本的な考えはそういうことなのですが、今の御指摘の、たとえばモデル農村みたいなものをかりに考えまする場合におきましても、部分的ながらそういう問題が起きてくると思う。農場の整理をやり、水利灌漑をやると、当然余剰労働力が出てくると思うのです。この余剰労働力日本全体六千の農村において一時的に起って参りますと、これは大へんであります。一県一村くらいでありますと、考えられないこともないじゃないか、特に政策的に積極的に移動の推進をはかるということは、私はできることではないかと思う。それをとにかくやってみまして、その結果がどうなるか、うまくいけば、それをほかの農村もまねるということも考えられましょうし、またその場合、労働の移動についての経験というものが、日本全体の農村考える場合に、労働移動の促進について一つの参考になるのじゃないか、こう思うのでありますが、そういう実験も実は盛り上げられるのじゃないか、こういうふうに考えるわけです。
  19. 三浦一雄

    三浦委員長 山本勝市君。御意見は長くならないように、簡素に願います。
  20. 山本勝市

    山本(勝)委員 一点だけ質問します。それは、小平君の質問した農産物価格、ことに米の価格の点ですが、価格支持制度というものがやかましくいわれますけれども、価格支持制度で果して米の価格安定ができるとお考えか、できないとお考えになるかという点であります。と申しますのは、価格支持制度をやったアメリカですらも、結局は、価格を安定さすためには減反をやるほかはなくなった。また日本の場合にも、昔減反論が起りました当時の事情を考えましても、価格支持制度というものは結局減反、つまり作付面積の限定をするというところまでいかないといかぬのではないか、こういう意見がありますが、それだけ伺いたいのであります。
  21. 川野重任

    川野公述人 価格支持制度は、短期的なものと長期的なものとあるわけですが、お話の点は、長期的な価格支持制度は、生産の減少なくしては成り立ちがたいのではないか、こういう御趣旨の御質問だと思います。理論的には、まことにその通りだと思いますけれども、問題は、政策的に価格支持政策をとるかどうかという問題だと思うのでありますが、それにつきましては、かりに減反をやりますと、国民経済的には、利用し得べき資源をみすみす遊ばすというのは大きなロスであります。他方同時に、その労働力というものが遊ぶでありましょうが、そういう点から考えますと、形式的にいえば、価格支持政策と減反論というものは、一応論理的に結びつくかのようでありますけれども、資源の利用という点からいいますると、価格支持政策の結果としてそのような政策に移るということにはいきがたいのではないか。従って、逆に申しますと、私の理想は、価格支持制度のもとにおいて労働力が――かりに減反をやる、従って土地が遊び、また労働力が遊ぶ、その労働力をもっと有利な方向に移して使えるという政策がとれれば、それは問題がないのではないか、こう思うのです。現在は、価格は下げる、しかしその資源の再配置については積極的な手が十分に打たれていないというところに、アメリカにおいても問題があるのではないか、私はこう考えるわけです。従って、それは単なる農業問題、農産物価格の問題ではない……。
  22. 山本勝市

    山本(勝)委員 価格支持制度価格の安定ができるとお考えか、できないとお考えかということをお尋ねしているのです。
  23. 川野重任

    川野公述人 おっしゃる点は、価格支持政策というのは、要するに供給が減らないことには、価格支持はできないのではないか、こういう御質問だと思います。それは、もう経済学上言うまでもなくその通りだと思いますけれども、私は、誤解があるといけませんから申し上げますが、まさに価格支持制度が問題になっているのは、そういうことではなしに、そのもとで農業面と非農業面の所得の均衡関係をどうするかということから出発している。最後の問題は、そこできまるのではないかと思うのです。
  24. 山本勝市

    山本(勝)委員 私の質問はそこまで言ってないのです。
  25. 川野重任

    川野公述人 御質問の点を逸脱したかと思いますが、その点は一つ……。
  26. 古屋貞雄

    ○古屋委員 一、二点お尋ねいたします。重複するかもしれませんが、今の先生のお話を聞いておりますと、日本の現在の農業の現実から離れた経済理論に終っているように私には聞えるわけです。日本の農政の一番むずかしい点は、相当零細農である、それに対して、人口からいっても非常に率が多い、その農村の過剰労力が工業方面に十分に吸収されない、従って、その前提において、今の日本の農政をどうするかということが今問題になっていると思うのです。  そこで、食糧の自給度を高める面において、先生のお話のように、やはり近代農業化すということの推進が必要だと思うのです。今言っておるように、割り切っておるように、農村に余っておる労働力工業方面に吸収することは、日本経済にとって一番いいことだ、こういうことが考えられるけれども、一面十分に吸収し得られない状況に置かれている現在において、一体農業政策はどこに置いたらよいかという問題がそこに生まれてくると思う。従って、純経済理論的に推進すべきものであるが、そういった日本農村の特殊性を十分に加味した、従来のような農村政策にもう少し近代的な一つの工夫を加えることによって新農業政策というものが生まれてくる、かように私どもは考えておるのですが、先生の御説明も、そういうような結論に伺ってもいいのでしょうか。それとも、経済理論的に、もう少し工業面に吸収し得る状況になったのであるから、さような方面に吸収し得る関係を前提としての農政に目標を置くべきであるか、この点についての先生の御意見を伺いたい。
  27. 川野重任

    川野公述人 大きな流れとしましては、工業方面に吸収するように政策考えるということが必要だと思うのです。けれども、それはほうっておいて吸収されるというのでなしに、政策的な関与が必要である。その政策的な関与といたしましては、一種の社会資本と申しますか、公共事業を中心にしました工業の基礎の拡充と同時に、農業高度化のための条件の整備ということにその重点が置かれることになるのではないか、こういうふうに考えられます。別に純粋に経済理論を前提とする世界を考えているわけではございません。むしろ、それが当てはまらない場合が多いということを申し上げたいというのが私の趣旨でございます。
  28. 古屋貞雄

    ○古屋委員 今一点、河野農政の新農村政策に対しまして御議論があったのですが、その方法論としまして、先生の御主張は、零細な資本ばらばらのところにやって、ばらばら経営をさせるよりも、重点的に、数を少くして、資本も十分であり、技術や能力を集中することが必要だ、こういうようなお話がございましたが、わが国におきましてやっている今までの農業政策の中で一番欠けておるのは、一方においては、国家が国営農場なら国営農場というものをはっきりと拡充して適地適作、あるいは農村高度化の試験をした結果を農民推進していく、こういう方法が今までとられておらないわけです。今回の河野農政の構想を見ますと、先生が御指摘になったように、わずかな資本をもって、多数のばらばら農村を指定して、そこで適地適作の問題を推進する、こういうことは、われわれの方から見ますと、何か新農村建設を選挙あたりに使うような気持がするわけです。そういうような割り切った小資本ばらばらな指導をする。従いまして、これは思い切って国営農場なら国営農場として、適当のところに高度な技術指導、相当資本というものを政府が投下して、そこにはっきり結果が現われてから、こういう工合に結果が現われたのであるから、こういう工合に農民は新農村建設に進むべきだというような指導をすることがいいと思う。先生の結論から見ますと、そういうふうに思われるのですが、先生のお考えはいかがですか。
  29. 川野重任

    川野公述人 私の申し上げましたのは、金が足りなくて農業投資が行われないという場合と、金があっても農業投資をやる方法がはっきりしないという場合と二つある、そのあとの問題に答えるためにこの構想を生かすということが、一つの思いつきではありますけれども、どうだろうという私見だけを申し上げたわけであります。
  30. 古屋貞雄

    ○古屋委員 わが国の農業政策は、むしろいわゆる生産共同方式を推進する時期にきたのではないかと思うの川です。たとえば、現在のような遺産相続制度のもとに置かれ、しかも人口はどんどんふえている、ますます日本農村は零細農に流されざるを得ない。従いまして、今まで農業政策についての指導は、流通面における共同化を指導しておる。従って現在は、ただいま申し上げたように、特殊農村関係から、生産共同化を指導すべき方面に農村政策は転換すべきじゃないかと思うのですが、先生の御意見はいかがですか。
  31. 川野重任

    川野公述人 大体私もそのように考えます。従来協同組合の問題にいたしましても、やはり全体として共同化あるいは大規模化の方向経済が進んでおる。そういう意味におきまして、その方向に進めるような措置をあらゆる場合に考えるということが、生産的な結果を生むのではないか、その点において、理論的に大体お話と同じように考えます。
  32. 三浦一雄

    三浦委員長 他に質疑がなければ、川野公述人に対する質疑は終了いたしました。川野さんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。(拍手)次に、立教大学教授藤田武夫君にお駅いいたします。
  33. 藤田武夫

    ○藤田公述人 地方財政問題の関係から、三十一年度の予算について意見を述べるようにということで参ったわけでありますが、何しろ時間も非常に制限されておりますので、まず第一に、民生関係費の問題、第二に、公共事業負の問題、第三に、地方財政計画、第出に、地方税制の改正案についての問題、この四点にしぼりまして、簡単に要点だけを申し上げたいと思います。なお詳しいことは、また御質疑によってお答えしたいと思います。今さら申し上げるまでもなく、府県や市町村のやっております教育、土木、社会保障、保健衛生といったような民生関係の行政につきまして、国の方から約四千億円、国家予算の約四〇%というものが補助金の形で地方に出ているわけであります。従いまして、この補助金がどういうふうに国家予算に組まれるかということが、地方財政の今後の運営に甚大な影響を与えることは申すまでもないのであります。ところで、今度の三十一年度の予算を見てみますと、たとえば災害復旧関係の経費が七十二億円昨年より削減されている、あるいは住宅対策費が七十億円、また治山治水関係が十三億円、危険校舎の改築の補助金が一億五千万円、その他民生関係の経費がかなり削減されているのであります。また一方、地方債について見ますると、今日地方団体が財政が窮迫して、地方債によっていろいろ必要な行政をやっていることは申すまでもありませんが、ところが、一般行政に充てるための地方債のワクが、昨年度よりも三割減少されて、五百七十五億円ということになっております。こうして国からの補助金が削られる、地方債のワクが縮小される、これを前提にして、しかも地方財政計画では、補助金が少くなるのだから、あるいは起債のワクが小さくなるのだから、地方団体の経費もそれに従って少くてよいんだということを前提にして、そしてその経費に対しての財源措置を計画考えている。従って、地方団体といたしまして、補助金が少くなる、また起債もできない、だから自前でやろうとしても、地方財政計画の方から見ていくと仕事ができないという状態になるのであります。  ところが翻って、それでは地方の民生関係の行政の状態はどうであるか。私も地方へよく参るのでありまして、昨年の夏にも、かなり大規模に東北のある地方の赤字の実態調査をやったのでありますが、その場合にも、実は予想しておった以上だ、この民生関係の行政が非常に圧迫されておる。たとえばある都市では、その都市の一般の校舎の三六%が老朽で危険校舎になっている。ところが、それにやっとその市が手をつけると、金が足りない、補助金も少い、起債もできないということで、現在中絶されておる。子供がちょっと窓ワクにさわると落ちるといったような状態である。あるいは財政が窮迫して、公立病院の医療費が引き上げられて、従って貧しい人たちが容易に診療を受けることができない。また生活保護を受けている人について、地方事務所の民生課長さえも、実際保護すれば、現在保護を受けている者の六倍も必要であろうということを聞いたのであります。その他災害復旧もきわめて遅々としております。ところが地方団体へ参りますると、貧弱な地方団体では、税収入といいましても、幾らか税制が改正されて税収をはかるといっても、元来住民の経済力が非常に乏しいので、とうていそういった仕事はできない。どうしてもやはり補助金の援助を受けなければいけない。ところが、今言ったような来年度の予算の状態であります。この地方財政の赤字の問題につきまして、世間では、府県や市町村の町政の運営が放漫だ、あるいは補助金の使い方に不正がある、あるいは浪費されておるということがいわれております。これも、私は実際否定し得ないと思うのです。これは、そういう点では地方団体も十分財政を健全化し、また補助金も――これはあとでも触れたいと思いますが、効率的に使う必要があると思います。しかしその問題と、地方の民生関係の教育、土木、社会保障といったような行政の水準を維持するか、引き下げるかという問題とは、区別して考えていただきたい。ともすると、財政が放漫だということと、民生行政をどの水準まで維持していくのが必要かということはよく混同される。これは非常に重要な問題であって、ぜひこの点は、国会方面で御審議を願いたい。もちろん今日の日本の底の浅い経済のもとにおいて、そうだからといって、国の財政の規模がむやみにふえることを背走するわけではないのでありまして、やはり一兆三百億くらいが必要だと思います。しかしその一兆三百億円の予算の範囲内において、一体民生関係の行政にどれだけ金を使うのか。一方防衛関係の経費は百二十億円、あるいは軍人恩給のためには六十億円近くも増額されている。こういうことでいいのかどうか。この民生関係の行政に一体国がどれだけ予算を使うのかということがきまらなければ、ほんとうの意味で地方財政の窮迫も根本的には打開できないのじゃないか。これは、まず第一の地方財政に関係する根本的な問題であるというふうに思うのであります。  第二に、公共事業費の問題でありますが、三十一年度の公共事業費は一千四百十九億円で、前年度に比較いたしまして四十七億円減少しております。公共事業費の中には、治山治水、道路、港湾、災害復旧、その他いろいろ重要な経費が含まれているのであります。ところで、この公共事業費の額の計上、あるいはそれの増減につきまして外から見ておりますると、どうも計画性がない。またそこに、どうも外から客観的に見て理解できない不明瞭な点があるように思われます。たとえば昨年度の国会の予算でも、一応できたものが、中途で補助金の整理ということがやかましくいわれながら、またふやされた。あるいは昨年の補正予算で八十八億円減少したわけでありますが、その減少がむずかしくて、結局六十四億円になったというふうになっております。これは別に与党、野党の区別はないわけで、そこにわれわれとしてどうも客観的に見て、計画性、合理性が乏しいのではないか、何かそこにもやもやしたようなものがあるような感じがするのであります。これは、あるいは机の上の書生の議論だというふうに言われるかもしれませんが、しかし、公共事業費というのは、世間一般でも非常に注目している問題でありまして、こういうことが続くと、あるいは世間の国会に対する信頼を動揺させるのではないか、またこういうふうでは、国・地方を通ずる財政の運営というものが堅実に計画的に運営されにくいのではないかというふうに思うわけであります。従って、公共事業費につきましては、たとえば治山治水十ヵ年計画というのが昭和二十八年に立てられております。これは、総額一兆八千億円くらいの計画のようでありますが、そうしてそのうち一兆三千億円国が負担することになっている、ところが、二十八年度の計画を立てたときには四百億円ばかりそのために経費が計上されておりますが、それが毎年減少されて、三十一年度には約三百五十億円くらいになってきている。こういうことで、果して治山治水計画がうまくいくのかどうか。あるいはまた経済五ヵ年計画というものが、御承知のようにあるわけですが、あの経済五ヵ年計画の中には、国土の保全、開発、あるいは交通の問題、あるいは住宅の問題等、やはりこの公共事業費関係の深い計画があるわけでありまして、ああいう経済五ヵ年計画関係を結んで公共事業費が明確に国会において増減される、また計上されるということが望ましいように思われるのであります。また公共事業費の使用の問題につきましては、すでに会計検査院からもいろいろの点が指摘されておるところは御承知の通りでありますが、なお国会においても、決算委員会等において、われわれの血税をもって行われた公共事業費でありますから、十分御審議を願い、さらに単に不正を摘発するということだけでなしに、公共事業費の使用についてもっと効率的に、能率的に使用されるようにお願いをしたい。公共事業費予算について、実は私たちが寄ってアメリカのパーフォーマンス・バジェットというようなものを研究しておりますが、まだ完成したわけではありませんが、何か予算の面からも、そこにもつとはっきりした計画性を持ったものにしていただきたいというのが第二点であります。  第三の地方財政許可の問題でありますが、今度の地方財政計画においても、改善された点が一、二あるのであります。たとえば、今までは昭和二十五年度における地方財政の実績を基礎にして、その上に毎年新しい法令で義務づけられた事業とかべース・アップといったようなものを積み重ねて出しておったわけでありますが、これを、今度は昭和二十九年度の決算を基礎にして計算をし直した。こういう点は、それだけ実情に即したわけであります。あるいはまた、昨年の秋発表されました地方公務員の給与の実態調査を基礎にして計算をしているというふうな点も、今まで実態から離れがちであった計画を正確にしたという点では、改善された点だと思うのであります。しかしながら、大体やはり自治庁が作り、また大蔵省にも相談したのでしょうが、この地方財政計画というものが、国の補助金削減あるいは地方債のワクの縮小というふうな国の財政政策に従って、たとえば災害復旧費を七十二億円削減すれば、それに従って地方の災害復旧費も七億円ばかり減るというふうにして立てられている。そこに、地方自治体側からの独自の計画というものがない。これについても、先ほど申しましたように、経済五ヵ年計画、あるいは道路整備五ヵ年計画とか、そういったものと結びつけて、一体そういうことをやるのには地方団体側としてどれだけの金が要るのかというふうなことから、地方の立場からも積極性を持った財政計画を立てる必要があるのではないかというふうに思われるのであります。  それから、地方財政計画の内容についての問題として、一点申し上げておきたいと思いますが、今度の地方財政計画は、一兆四百五十一億円ということになっております。このうち、やはり国から出ているものが四千億円ばかりあるので、これだけ全然地方で使っている金だというわけにも見られないと思いますが、この一兆四百五十一億円のうちで、消費的な経費が七千五百九十億、投資的経費が二千八百六十二億というふうに出ておりまして、消費的経費の方が昨年よりふえている、投資的経費は幾らか減っている、こういう数字が出ております。ところがこの中を言いますると、この公共経費を消費的と投資的に区別することは、経済学的に考えますると、非常にむずかしい問題でありまして、なかなかそう簡単ではないのでありますが、ただきわめて常識的に考えて、今の地方財政計画で考慮すべき、あるいは間違っているのじゃないかと思われる点を指摘したいと思います。その一つは、給与関係の経費というものを、全部消費的経費の中で計算をしている。御承知のように総合開発、あるいは土地改良、あるいは道路とか河川とか、そういった建設的な事業においても、労働力を要することは言うまでもないので、県の土木関係の技師もそれに携わるわけでありまして、そういうものに使われた労働力さえも消費的と見ていいのかどうか。労働力の参加しない建設事業というふうなものは、言うまでもなく考えられないわけでありまして、実はその点を考慮いたしまして、二、三年前に私が三重県の財政の実態調査をやったことがありますが、それによりますると、自治庁式の方法で分類いたしますると、消費的経費が六七%くらいになるところが今申しましたように、投資的な建設的な事業に使われている人件費というものを投資的経費の方へ入れると、消費的経費が五七%、一〇%くらいは当然開いてきたわけであります。それから公債費でありますが、この公債費については、実は昨年ごろまでは、大蔵省では最初から消費的経費へ全部入れておったのでありますが、自治庁の方では、公債費だけは、消費的経費と投資的経費の別に含めないで扱っておったのであります。ところが最近どういう理由でありまするか、この公債費も全部消費的経費の方に、三十一年度などは入れられております。公債費のうちにも、建設的な事業のための公債費、借金というものが相当含まれている。そうして建設的な事業のために使われた金の元利の支払金というようなものを、果して消費的経費と考えていいのかどうか、これにも大きな問題があると思います。いずれにいたしましても、そういった関係で、消費的経費というものが実態よりも過大に計算が出されているのではないか、それによって、地方団体が何かむだな消費的な活動をやっているというふうな印象を与えるのではないかというふうに思われるのであります。もともと県や市町村の行政と申しますものは、サービス行政でありまして、そのサービス行政がだんだん内容が充実され、高度化されていきますれば、消費的経費が相当ふえるということは、これは考えなければならないことでありまして、そういう点も十分御考慮を願って、地方財政計画というものを内容的にも御検討願いたいというふうに思うわけであります。  最後に・地方税制の改正の問題であります。今回の地方税制改正には、いろいろな問題が含まれておりますが、時間の関係もありますので、そのうち、将来の傾向としても十分重要視しなければならない問題として、富裕団体から税源を引き揚げて、それを貧弱団体の方へ回すという方法が今度の案には相当大きく出ておったのですが、今度ようやくまとまった案では、割合小さいのですが、そういうことがはっきり芽を出している。それはどういうことかと申しますと、もうすでに御承知だと思いますが、入場譲与税というものが改正されまして、従来入場譲与税の十分の九がその府県の人口に応じて府県に按分されておったのであります。それを、今度はその全額を地方へ交付する。しかしながら前の年において、その府県や市町村において、地方交付税の基準財政需要額が基準財政収入額よりも少い場合、つまり収入が超過するような富裕県については、それに渡すべき譲与税の一部を渡さないで、その部分を貧乏な団体の方へ配分するというのが今度の案であります。この結果、東京や大阪へは譲与税が行かないことになるというふうに新聞では報ぜられておりますが、こういう方策が一体いいのかどうかという問題であります。今富裕団体における過剰財源ということがよくいわれておりまして、その過剰財源があるから今のような考え方が出てきたわけでありますが、その場合の過剰財源というものの計算の仕方、考え方というものを考えてみる必要があるのであります。何をもって過剰財源と考えているかと申しますると、政府関係では、今申しました地方交付税を計算しまする場合に、基礎財政需要額と基準財政収入額を計算いたしまして、そして基準財政需要額が上回った場合に、その不足額に対して地方交付税を交付しているわけでありますが、それをこの場合に持って参りまして、基準財政需要額よりも収入が上回っている場合には、その団体には過剰な財源がある、よけいな余った財源がある、こういうふうに判断をしている。この判断が私は非常におかしいと思う。それはなぜかと申しますると、前の平衡交付金でありますが、今の地方交付税の基準財政需要額というものは、いわば各地方団体における最低の行政水準を維持するために計算される一つの技術的な手段であります。計算の仕方であります。もちろん補正係数で補正するとか、いろいろなことをやっておりますが、しかし、とても大都市の必要な最低の行政水準をうまく反映するほどにはなっていないのであります。別に東京都の肩を持つわけではありませんが、東京都においては、基準財政需要額でもって計算すると、救済すべき失業者の数が一日七千人でいいのだ。ところが、実際は二万九千人も救済しなければいけない。その他屎尿処理についても、基準財政需要で計算したものよりも倍以上かかる。これは、ほとんど最低の基準財政需要であります。そういうものが反映されていない。またもともとこの基準財政需要額というものは、シャウプ博士が参りましたときに、貧弱な地方団体でも一人前の行政をやれるように、いわば最低生活を保障するというふうな意味で設けたものであります。それと比較して、少しでも余分な収入があればそれは過剰財源だという考え方が、私はおかしいと思うのであります。いわば景気のよい会社の従業員の賃金も最低賃金の線まで持っていく、少し極端な言い方かもしれませんが、そういったのに似ていると思われるのであります。そうは申しましても、貧弱な府県や市町村の財政に対して地方交付税をふやすというふうなことには、私はもちろん賛成であります。しかし、そのやり方が問題であるのでありまして、非常に卑近な例を引いて恐縮でありますが、一家の中でたとえて申しますると、少し金のたくさんある兄貴と弟が一つの家にいる、おやじもいるわけですが、その場合に、おやじの方から兄貴の方に、少し金回りがいいから――金回りがいいといっても、今の問題からいいますると、そうぜいたくなあり余った金とは思われないのですが、とにかくそれを弟の方に回せということなのであります。しかし、この場合われわれが考えなければならないことは、親と兄貴と弟と一家全部が、一体われわれの生活にとってどういうふうに金を使うことが一番いいのか、一番われわれの将来の幸福に役立つのかということを考えるべきであって、その全体の問題を考えないで、単に兄貴の方が少し金回りがいいからといって、それもそう金回りがいいとも思われないのですが、弟の方に回すというやり方には相当問題がある。また府県の法人事業税を引き下げる、あるいは府県や市町村の住民税のうちの法人税制ですが、これを引き下げて、それだけ国の法人税をよけい取って、交付税に回すとか、あるいはたばこの消費税を上げるという案が相当一時有力になったわけであります。こういうことをやりますると、法人事業税とか法人税割というのは、これは地方団体においては一番伸びが大きく、一番有力な財源でありまして、経済力がどんどん発達するような都会ではそういう収入がふえてくる。しかし、それだけにたくさんの人が集まり、失業者も出るわけであって、やはりその経済力に応じた仕事をしなければならないのであります。こういう一番伸びがいい財源を引き揚げる、また今度の地方財政計画や三十一年度の全体の予算でも見られるように、地方団体の単独事業はできるだけ圧縮するということになってくると、一体今後地方団体の自主的な活動はどこで表われるのか、どうして自主的な活動が展開されるのか、これがもしどんどん行われていくということになり、また最近の傾向として見られる中央集権化の傾向が強くなって参りますると、地方団体というものも、場合によっては戦前の地方団体に逆戻りするようなことにもなりはしないかというふうに心配されるわけであります。  そのほか、今ちょっと触れましたような地方財政の窮迫を通じて中央の官僚統制が強化される傾向の問題とか、あるいは地方財政問題の基本的な問題といたしまして、府県制をどうするかといったようないろいろな問題があるわけでありますが、時間も与えられました時間を超過したようでありますので、一応ここで私の公述を終りたいと思います。(拍手)
  34. 三浦一雄

    三浦委員長 ただいまの公述人の御発言に対しまして、御質疑はございませんか。
  35. 柳田秀一

    ○柳田委員 概念的なことをお尋ねするのですが、最近陳情政治ということが非常にやかましくいわれるわけであります。これは、民主政治ということの関連において非常にむずかしいと思うのですが、ことに陳情政治のほとんど全部といっていいくらい、これは地方団体と中央との関係なんです。これは、今日行政で行われている国の税制、地方税制の立て方、あるいは補助金制度等いろいろ関連するものが非常に多いので、なかなか簡単に割り切れませんが、こういう陳情政治が続く限り――これはその裏打ちになる財源の問題もありますが、実際に地方団体そのものがほんとうに地方自治体かどうか、地方団体ではあっても地方自治体かどうかという根本的な問題があると思います。これは非常に概念的な点ですが、こういう点に対しての先生のお考えを、一つお伺いいたしたいと存じます。
  36. 藤田武夫

    ○藤田公述人 地方団体が中央政府に向っていろいろな関係で陳情を盛んにやるということは、お話の通りだと思いますが、しかし陳情をやるということは、これは、別に地方自治と当然に結びついた問題ではないのであって、地方自治を運営していく場合に、日本の機構では、御承知のように地方自治を認めていると言いながらも、官僚の統制が強い、たとえば、最近地方財政の赤字を解消するために府県のいろいろな行政機構を簡素化しようとすると、中央政府から横やりが出て、そう簡単にいかないというようなこともいわれております。そういう状態で、日本の現実の機構が非常に官僚的で、地方自治を与えたと言いながらも、やはりかなりの中央集権的な行政機構を持っている。そのために、どうしても地方団体の方から陳情をしなければならないような地位に置かれる、だからそういう問題を解決する。これも、そう簡単ではないと思いますが、そういった行政機構のあり方、たとえば地方でいろいろな行政をやっておっても、実際の行政の権限というものは中央政府が握っているというふうな、そういった行政の機構というものを改めるということをすれば、地方自治というものは発達し得るのであって、何も地方自治と陳情とが直接問題があるわけではなくて、やはり地方自治を発達させるためには、陳情しなければならないような行政機構というものを改めていくというふうに考えるべきだと思うのです。これは、かなり書生論に終ったかもしれませんが、実情はそうではないかと思います。
  37. 柳田秀一

    ○柳田委員 もう一点、これも思いついたことなんですが、地方の行政をやる上において、たとえば基準財政需要額を策定する、あるいは交付税交付金を配分するときに、最近は多少組み入れられておりますが、今の行政では、ほとんど全部といっていいくらい人口割である、比較的面積割というものが薄いと思うのです。これは、交付税交付金の中に道路の延長とか、学校においても分教場とか、教室と生徒数とか、何とかかんとか多少加味されておりますが、もう少し面積割を加味する必要があるのではないか。その面積割も、単なる面積だけではいけない、地形割が非常に必要だと思う。平野なら平野で、大きな平野もあるが、面積が小さくても、複雑な地形とか非常にへんぴな地形とか、これは、航空写真でもとってみないことには簡単にその基準はつきにくい問題ですが、地形割を加味した面積制というものが、行政のいろいろな基準にもう少し取り入れられてもいいのではないか。これは、どこに線を引くかということはむずかしい問題と思いますが、概念的でけっこうでございますから、そういう点を一つ。
  38. 藤田武夫

    ○藤田公述人 地方交付税の算出の場合、基準財政需要に面積割を取り入れる必要があるのではないかというお説でありますが、これは、私も地方へ行ってよくそういうお話を聞き、その必要があると思います。実は、これはすでに御承知かと思いますが、現在の基準財政需要の計算の中に、面積と人口の比率、つまり人口の密度を補正係数で幾らか補正するということをやっております。それでは不十分であるので、お説のように、面積を取り入れる必要があると思います。しかし面積、さらにお説のような地形割を取り入れるということになると、それをどういうふうに技術的に組み入れるかということが非常にむずかしい問題だと思いますが、それをどう取り入れるかということについてまでまだ研究が及んでおりませんので、それ以上お答えいたしかねます。
  39. 三浦一雄

    三浦委員長 藤田公述人に対しまする質疑は終了いたしました。  藤田さんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。(拍手)  それでは午後一時より再開することとし、暫時休憩いたします。    午後零時十五分休憩      ―――――・―――――    午後一時十八分開議
  40. 三浦一雄

    三浦委員長 休憩前に引き続き公聴会を開きます。  御出席公述人各位にごあいさつを申し上げます。本日は御多忙のところ貴重なるお時間をさいて御出席をいただきまして、委員長より厚くお礼を申し上げます。申すまでもなく、本公聴会を開きますのは、目下本委員会において審査中の昭和三十一年度総予算につきまして、広く各界の学識経験者たる各位の御意見をお聞きいたしまして、本予算案審査を一そう権威あらしめようとするものでございます。各位の忌輝のない御意見を承わることができますれば、本委員会の今後の審査に、多大の参考となるものと存ずる次第であります。一言ごあいさつ申し上げた次第でございます。  なお議事の順序を申し上げますと、公述人各位の御意見を述べられる時間は、大体二十分程度にお願いいたしまして、御一名ずつ順次御意見の開陳及びその質疑を済ましていくことにいたしたいと存じます。  なお念のため申し上げますが、院規則の定めるところによりまして、発言の際は委員長の許可を得ることになっております。また発言の内容は、意見を聞こうとする案件の範囲を越えてはならないことになっております。委員公述人質疑をすることができますが。公述人委員に対し質疑をすることはできませんから、さよう御了承を願います。  それでは一橋大学教授都留重人君に御意見を承わることといたします。都留重人君。
  41. 都留重人

    ○都留公述人 私に課せられました問題は、財政経済一般ということでございまして、非常に範囲が広うございますので、適当に問題を幾つかに限定して私の見解を述べさせていただきます。  第一には、予算全体のワクでありますが、これがほぼ一兆円の中におさめられたということは、何はさておきけっこうなことだと存じます。三百四十九億円ほど超過いたしておりますが、国民所得に対する比率は一四・八%でありまして、昭和二十七年度が一七・九%、二十八年度が一七・五%であったことから考え合せますと、来たる三十一年度の予算案は、国民経済の基盤との関係におきまして、大体妥当な線であるということが言えると思うのであります。その点非常に政府及び与党の皆様方がワクを守るということに御尽力なさいました点には敬意を表する次第でございます。しかし同時にそれだけのワクにおさめるために何とかつじつまを合せようとして、かなりの無理があるということを指摘せざるを得ません。たとえて申しますと、三十年度の予算との比較をいたしますためには、財政投融資と民間資金活用見込み額を予算額に合せて比較するのが妥当かと思いますが、そういたしますと実は三十年度よりも千百二十二億円ほど多くなっておりまして、国民所得に対する比率も前年度の一九・七%に対して二〇・五%になるのであります。また内容の上から申しましても、予備費といたしましては、ぜひとも百三十億円くらいは必要だということを、大蔵省の方々は以前から言っておられましたのに対し、八十億円に減らされましたし、国債費のクッションをかなりの程度まで使っておりますし、幾つかの項目を三十年度の補正予算の方に回しておりますし、また歳入の中には罰金や過料、没収金等の収入を七億円水増しいたしておると見られますし、さらには国立大学演習農場でとれまする農産物の売り上げ代金までを数億円見積っておりますし、さらには閉鎖機関であります旧朝鮮銀行及び台湾銀行の資産の清算収入を三十五億円見積っておる。特にこの旧朝鮮銀行の資産につきましては、韓国の側にも言い分があるかに伝えられておりまするやさき、それを予算の歳入面に計上するという点については問題ないわけではないと思われます。このようにかなり無理をいたしておりますために、もしも何らかの必要上歳出の補正を必至といたしますような場合には、当然補正予算が出ることが予想されるのでありまして、そういうことを考えますと、表面の数字の上では一兆三百四十九億となっておりますが、その内容として盛られております幾つかの項目の中には、昨年度よりややインフレ的な要因を含んでおるといわなければならないものがあるのではないかと思います。しかし総額から申しますと、現在のフランスなどが年々赤字を続けておりますのと比べると、きわめて健全というべきでありまして、その点だけに関する限り私は大いに敬意を表しております。予算は必然的に政策を反映するものでありますし、またすべきであると存じます。従って予算を検討することは、どうしても政策を検討することであるのでありますが、個々の政策をあげつらうことは本日の私の任務ではございません。ただ日本が当面している経済上の課題との関係において、今度の予算に盛られている事柄が、どのような経済効果を持つか、従ってどの程度国民の税金をそれに充てるに値いするか、また相互の項目の間の評価の関係から、つり合いが妥当にとれているかどうか、そういう点を検討することが、本日私に課せられました財政経済一般についての意見を述べるという仕事の範囲内にあるものと解釈いたします。  そこでただいまのような観点から、以下時間がもし許しますならば、五つほどの問題について私の意見を申し上げます。第一は賠償費、第二は防衛関係費、第三は経済五ヵ年計画との関係、第四は科学技術振興予算関係、第五は食管特別会計についてであります。  第一の問題点であります賠償関係費でありますが、これは昨年末の大蔵省の原案として新聞に発表されましたところでは、防衛関係費と一緒になっておりましたために、内訳がはっきりいたしませんでしたが、間もなく防衛関係費が明瞭になりましたところから逆算いたしますと、約二百四十億円を予定されておったようであります。それが次の一月になってからの大蔵省の第二次原案では、九十二億ほど削られまして、百五十億円になりました。さらに今度国会に提出されておりまする予算案では、この賠償関係費は百億に削られております。現在の鳩山総理はかねてから賠償問題を早急に解決するということを言っておられましたし、ごく最近鳩山首相の特使として東南アジアを回られました三木特使も、去る二月四日帰刺されました後の新聞記者との会見で、賠償問題の解決がいかに重要であるか、東南アジアの貿易振興の目的一つを考えてみても、現在賠償が停滞しておることが、どれくらい障害になっているかということを力説されております。その点につきましては、私もかねてから同感でございまして、過去三年間ほど毎年のように東陶アジアの諸国を旅行して、いろいろな人たちと意見を交換する機会を持ったのでありますが、そのたびごとに痛感いたしますことは、日本が賠償問題について一刻も早くほんとうに誠意を示して、初めて妥当な線でもって解決をはかるということ、これがわれわれの貿易をあの地域に伸ばすことだけのためにも重要である。それ以上にさらに、日本がかっての侵略戦争において犯しましたいろいろなる私たちの罪過を償うという面において、何よりも重要であるということは明瞭だと思うのであります。そして昨年末の大蔵省原案は、現在進行中の対ビルマの賠償、おそらく三十一年度中には実施予定の対フィリピンの賠償、それからタイ特別円債務などを含めまして、当初二百四十億円と推定したものと思われるのでありますが、次にこれが百億円に削られてしまっておるということは、もしも対フィリピンの賠償が三十一年度から実現することになるとすれば、そのためには補正予算を組むことが必至であるということを意味するものでありまして、特にこの対外債務の問題といたしまして、現在政府が賠償問題については早くから誠意を示すという態度を示されておるのにかんがみまして、予界の上に当然予定さるべき対フィリピンの賠償が計上されていないということは、まことに残念に思うのであります。  第二に私が申し上げたいと思いますのは、防衛関係費であります。防衛関係費につきましては、高碕長官がかねてから固会において、この項目については国民所得の二・二%ぐらいが適当だと思うということをたびたび言っておられます。二・二%ということは、別に学問的に深い根拠は私もないと思いますけれども、国民所得のうちの約二%の金額のものが国の防衛のために使われるということは、一般的に申しますると、ほぼ妥当な線だと考えるのでありまして、もしも二・二%という線をほんとうに貫き通して守られるならば、私は大いにその点で敬意を表したいと考えるのであります。  私はかつて賠償と防衛と両方を合せまして、国民所得の二%ということを妥当な線であるということを提唱したことがございます。なぜ賠償と防衛の両方合せたものを国民所得の二%に限定することが望ましいか。つまり両方を合せて二%というふうに考えることの重要性について、一言したいのでありますが、元来賠償と再軍備とは無関係ではないのであります。昨年もいわゆる砂田放言というのがございまして、その際にある外国人が東京の英字新聞に一文を寄せまして、日本の政治家は日本軍がフィリピンやシンガポールや中国で、戦争中どんな残虐を働いたかを忘れてしまったのかと詠嘆したことがありますが、まさにその通りだと思います。しかるに日本政府は、賠償がまだ糸口につく前から再軍備を始めておったのでありまして、対外的な意味におきますと、賠償と再軍備とは単に無関係でないといというだけでなく、お互いに反発し合うものを持っていると思われます。と申しますのは、賠償に誠意を尽すという態度は、現在の段階においては軍備拡張を許さぬ立場に通じるものであると思いますし、軍備拡張を急ぐような日本は、賠償交渉そのものをおのずから自分の手でむずかしくするものだと思います。賠償を受け取る相手方にしてみれば、それだけ再軍備に金や資材が使えるのなら、なぜもっと賠償額を多くしないのかということを言い出すのは当然でありまして、性格上この賠償と再軍備費用とが反発し合うものであるとするならば、予算の上でこの両者が競合的に互いに競い合う形で仕組まれているということは、理にかなっているものとは言えないでありましょうか。もしそうだとすれば、防衛費をふやしたければ賠償費を減らさねばならず、賠償を早く片づけようと思えば、再軍備はあと回しにせねばならぬという関係が、そこからは自動的に生まれてくるのであります。  そこで私は、両者合せて国民所得の二%をもって妥当な線とするということを提案したゆえんでありまして、三十一年度の国民所得、大蔵省による推定を基礎にいたしますと、その二%は一千三百九十四億円になります。その中で、最初大蔵省が原案として予定いたしました賠償費二百四十億を差し引きますと、防衛関係費は一千百五十億円ぐらいが、ほぼ現実的な意味において妥当な線であるといえるかと思うのでありまして、今度の予算はそういうような計算から申しますと、二百五十億円ほど多過ぎるのであります。  次に、かりに防衛関係だけについて高碕長官が言われるように、国民所得の二・二%に押えるということを言われたといたしましても、政府は果してこのワクを守り通すおつもりであるかどうか。今までに発表されましたところの経済五ヵ年計画や、あるいは新聞に報道されておりまする防衛六ヵ年計画等から判断いたしますと、私たち局外者には非常に怪しくなるのでありまして、昭和三十五年度に防衛六ヵ年計画において予定されております費用は、国家予算で二千百五十億円でありますが、経済五ヵ年計画の最終年度であるその年の国民所得は、八兆と予定されておりまして、その二・二%というのは千七百六十億にすぎないのであります。従ってここにおいてすでに高碕長官の言われる二・二%というものが守り通せるかどうかということに対し、私たちが疑問を抱くのは当然といわなければならぬ矛盾が露呈しておるのであります。しかしいずれにいたしましても、政府の責任の方が、防衛関係費は国民所得の二・二%に押えるのだということを言っておられますので、私たち国民としてもまじめに今後の推移を見守りたいのであります。なぜ私がこういうことを申し上げるかといいますに、今度の予算編成過程におきまして、少くとも新聞の報ずるところによりますと、防衛庁費だけは当初の大蔵省の査定八百九十億円が、防衛庁と大蔵省との話し合いで九百六十四億円に落着しましたあと、さらにいかなる理由によってか、それが千億円をこえるところまではね上ったりしておるのであります。新聞にはかなり極端な表現を使いまして、防衛関係費の治外法権性を論じておる向きもあるのでありますが、私たちにはしさいな点はわかりませんけれども、どうもこの防衛関係費が他の項目とのつり合いということと、ある程度無関係にきめられていく状態を見守っておりまして、もしそういう性格のものであるならば、高碕長官の言われるような国民所得の何パーセントというような線をはっきり打ち出して、それを守り抜くという態度にも一理あるものと解するのでありまして、従ってそういう態度がどの程度貫き通されるかということについては、まじめに私たちも見守っていきたい、かように申し上げたわけであります。  本日再軍備の問題それ自体を論ずることは、その場でございませんので、私は詳しい点については申し上げたくないのでありますが、そのための費用を、他の予算項目と一緒にはかりにかけてみるということは必要であろうと思います。そういう点からただいままでの点も申し上げたのでありますが、この再軍備関係費用に関しましては、三木特使がやはり今度帰られましてから、ビルマの指導者の言葉として、次のようなことを言っておられることは、十分に味わうべきものと私は解しております。そのビルマの指導者の言葉というのは、アメリカ、ソ連のいずれか一方と結ぶからこそ、他方がそれを排除にやってくるのである、ビルマのようにどちらとも結ばなければ、冷たい戦争の被害者になることはない、このようにビルマの指導者が語ったということを三木さんが述べておられます。そういう言葉を私など、現在の日本の防衛関係費が年々ふえていく状況と比べ合せまして、十分にかみしめるべきだと考えておるのであります。  第三の問題点といたしまして、経済五ヵ年計画との関係を簡単に述べさせていただきます。経済五ヵ年計画は安定経済を基調として、経済の自立と完全雇用の達成をはかるという目標を掲げております。この目標に関する限りはまことにけっこうでございまして、日本の政府が真剣にこの計画達成のために必要な施策をとられることを期待するのでありますが、残念ながら予算の上には、この計画がそれほどはっきりと反映していないように思います。二、三の例を申し上げましょう。  第一は食糧増産関係費用でございますが、経済五ヵ年計画では、これが年平均三百四十億円を予定しておるのに対しまして、今度の予算ではそれよりも百億少く、二百四十七億円を見ているにすぎません。経済自立と申しますのはもちろん自給自足ではなくて、外国との間に有無相通ずる貿易をするということは当然前提いたしておりますが、日本経済合理的にできる限りのことは増産もし、産業構造の改変も行うということを合意いたしておるものと解釈されるのでありまして、その観点から見ますと、やはりある程度の食糧増産ということは、私たちも正しい政策考えておるのでありまするが、経済五ヵ年計画で予定しておられるような食糧増産計画が、その第一年度である三十一年度において年平均三分の二しか見積られていないということは、これはやはりどこか五ヵ年計画予算との間に調整がとれていないのではないかと考えられる節があるのであります。  第二に産業鋳造の適正化あるいは産業基盤の強化というような言葉でもって表現されております問題、すなわち日本としては国際収支のバランスをとる必要上から、もし日本国内資源でもって有効にかつ合理的に私たちの必要とする、たとえば繊維製品のようなものが化学繊維の形で供給し得るならば、綿花や羊毛の輸入を減らして、そういった種類の化学繊維産業を振興するとか、そういう産業構造の上において合理的な政変を行うということが五ヵ年計画課題でありますが、そのためにどういう措置を講じておられるかということを探してみますと、やはりそのための資金はあげて民間に期待しておられるようであります。民間の営利的なる観点からなされる投資が、果して長期の計画の線に沿った日本経済の求める産業構造の改変を行い得るかどうか、その点については歴史の経験に徴しましても、私はかなりの程度において疑いを持たざるを得ないのであります。  第三に、五ヵ年計画との関係において何よりも大事だと思いますことは、雇用対策であります。しかるに三十一年度の鉱工業生産、つまりマイニング、製造工業生産は三十年度に対しまして七・二%の増加を経済計画では見込んでおられ、同時に生産性が四・五%ふえるとされておりますので、雇用人員は約二・六%ふえることになるのであります。絶対数から申しますと、それは約二十五万人ということになりまするが、他方就業者人口は八十八万人の増加が経済計画の中で見込まれており、しかも同時に完全失業者は二万人減らすという見込みでおられますので、そのうち二十五万人だけが鉱工業に吸収されるのでは、他の大部分が商業サービス部門関係に吸収されざるを得ないことになります。経済企画庁で出されました五ヵ年計画の第一年度、三十一年度に関する計画案の中にも、新しい雇用の大部分が商業サービス部門で吸収することになるのであろうと書いておられますが、そういう態度は私にはやや安易に過ぎるのではないかと思われます。現に商業サービス部門の雇用が、かなり過剰の状態になっておるということは、昨年行われました事業所調査報告、それを三年前の事業所調査報告と比較してみましても、だいぶん商業サービス部門には人間がだぶついておる。特に中小規模の商業においてはそうであるということが明らかになっておるのでありまして、そういうところへしわ寄せをするというような必然性をはらむ計画であるという点は、もう一ぺん考え直して、もう少し強くこの雇用対策というものを考えなければならぬのではないかと私には思われるのであります。  第四に、やはり五ヵ年計画との関係において、住宅建設計画の点について一言申し上げたいのでありますが、昨年の二月総選挙の前に、いわゆる選挙管理内閣でありました当時の鳩山内閣が、住宅四十二万戸建設という公約をなされました。私も最初それを新聞で拝見いたしましたときには、ほんとうに四十二万芦新しく政府が何らかの援助をして、あるいは直接にお作りになるのかと思ってびっくりしたのであります。と申しますのは、それよりわずか前のこと、たしか昭和二十七、八年のころかと思いますが、当時の吉田内閣がその当時の住宅の下足数を建設省の調査によって三百十五万戸と推定されまして、どうしても二十年かからなければこれだけの不足を補うことはできないというので、二十年計画でもつて住宅対策というものを発表されたことがあったのであります。そのときでも年間の政府の直接関与するところの住宅建設は十万戸、十五万戸程度であったと記憶いたしておりますために、四十二万戸建設計画ということを伺いましたときは、実はびっくりしたのでありますが、よく調べてみましたら、四十二万戸というのはその半分が――正確に申し上げますと半分以上がいわゆる民間自力建設というのでありまして、二十四万五千戸というのがそれに当るのであります。しかもその民間自力建設の中にも単なる――単なると言っては失礼でありますが、増築、改築の分も含めて、さらには政府の関係いたします公団住宅におきましても、その大部分が増改築を予定されたものであるということを伺いまして、それならば四十二万戸もできるであろうかと考えるに至ったのであります。現在までの実績を政府の報告ないしは新聞の報道等から拝見いたしますと、去る二月三日のこの予算委員会では社会党の伊藤議員がその点を質問されましたのに対し、鳩山首相が、私が聞いているところでは四十二万戸は建つという御返事をしておられますので、私などよりは正確な資料をお持ち合せの内閣の方の御発言であれば当然だろうとは思うのでありますが、しかし同じく政府が発表しておりますいろいろな資料によりますと、たとえば公団住宅は十二月末でもって三六%が入札済みになっただけであるということが報じられております。特にこの公団住宅につきましては手続が非常に煩瑣で、なかなかうまくいかないのだということが、新聞の投書などにもたびたび出たことでありますが、その点を今度は改善されまして手続をやや簡素化されたということは、私はたいへんけっこうなことだと考えております。また公庫住宅は十二月末で七三%が着工されたにすぎない。公営住宅は八五%が藩主されております。民間自力の方は実は推計が非常にむずかしいらしいのでありまして、私などにも資料の収集はなかなか困難でありまするが、建設省で出しておられます建築動態統計によりますと、それに増改築分をある程度のサンプル調査に基いて加えますと、十二月末でもって約七割の着工ができたようであります。この一、二、三という冬の時期に、どれくらいあと着工が始まりまするかわかりませんが、少くとも公団住宅については、現在の予定は満たされないだろうと言って、私はそれほど間違いではないと思うのであります。  さて今度の新予算では、四十三万戸の建設を計画されておりますが、その計算の基礎になっておる点について一言申し上げたいのであります。昭和二十七年の建設省の調査では、当時の絶対不足が三百十五万戸ということでありましたが、今度の計画をお立てになる際には、その不足が二百五十万戸程度に減っているという計策になっております。果してそれだけの、つまり約六十五万戸の新設補充ができたかどうか疑問だと思うのでありますが、一応現在の不足二百五十万戸というのを正しいといたしまして、政府は十年間で不足分をカバーする、従って最初の五年間は、半分だけをカバーするという計画になっております。年々の老朽、災害による損失、新しい世帯、すなわち人口純増による住宅の需要増加等をそれぞれ計算いたしまして、政府は五年間に二百三十二万戸の新築が必要であるという計算をしておられ、その中にかなりな程度増改築を入れておられるのでありますが、そのうち災害による損失についての計算が、五年間で十五万戸となっております。これは非常に少な過ぎる数字ではないかと私は思うのでございまして、建設省で出されました国土建設の現況というパンフレットの六十二ページには、建設量と災害による滅失量との比率が、昭和二十一年度から二十九年度に至るまで九年間について出ておりますが、その平均はちょうど二〇%であります。建築量の二〇%が火災、風水害等によって滅失するという統計であります。もし過去九年間くらいの状態が今後もほぼ続くものと考えますならば、災害による滅失は五年間十五万芦ではなくて、おそらく少くとも四十万程度になると考えられるのでありまして、絶対不足に関する調査の数字が、昭和二十七年度のころよりなぜか急に少くなっておるということなども勘案いたしますと、たとい増改築を含めた数字とはいいながら、四十三万戸の建設では、向う十年間に不足をなくすということはできないのであります。もう少し率直に住宅問題についての現況を見つめてみるということが私は必要ではないかと思います。食糧、繊維品、衣服等については、私たち国民もかなりの程度まで生活が豊かになって参りまして、いまだに困っておる人もたくさんあるにはありますけれども、全体の水準から申しますと、よほど戦争直後よりはよくなっておるのでありますが、住宅については非常なアンバランスがございまして、銀行、大会社等の寮に泊れる者、社宅に泊れる者、公務員住宅を利用できる者 そういう人たちにとっては非常にわずかな家賃で生活ができるのに対して、そういう便法のない人たちにとりましては、住宅費というものは非常に高価なものになっております。畳一畳千円というのが大体東京の相場でございます。しかるにたとえて申しますと、大銀行の独身寮などでは、一月二百円という家賃しか取っておらないという状態でありますので、このアンバランスを生ぜしめた基本的な原因である住宅の絶対不足の問題、それに対処するために私たちがどれくらいのことをしなければならぬかというその課題の大きさ、そのためにどれだけの資材が要る、資金が要るかという計算、火災を減らすということがいかに重要かということの自覚、そういう点も含めまして、白書ばやりの世の中ではございますが、政府が住宅白書ともいうべきものを公けになさいまして、私たち国民に住宅問題の実相を伝えると同時に、その対策の重要性についても教えるところあっていただきたいと考えるのであります。  その次に、大きい順風の第四といたしまして、科学技術関係予算について一言申し上げたいと思います。この点につきましては、詳しく申しますると非常に時間のかかることでございますので、簡単に申し上げます。日本人は、私の理解する限り、非常に科学技術という面で、本来すぐれた才能を持っている国民だと思うのであります。その才能を十分に生かすことができるならば、決して外国には負けないと私は考えております。私の専門外ではありますけれども、たとえて申しますと、フェライトとか、現在使っておりますような交流バイアス方式によるテープレコーダーとかいうのは、元来その原理を日本の学者が発明いたしまして、それを実用化することができなくて、その後たとえばフェライトの場合にはオランダのフィリップス社に特許をとられまして、現在はそのフィリップス社の特許を日本が買っているというような状態になっております。日本のすぐれた科学技術の才能を全面的に伸ばす態勢を強く打ち出すということについては、私は全く同感であります。その点で、総額としては科学技術関係予算が、今度ふえておりますことは慶賀にたえないのでありますが、ただ原子力偏重と申しまするか、その点が私には不安に感ぜられるのでありまして、科学技術の性格から申しまして、何と申しましても、基礎から広げて、ちょうど富士山のように、すそ野の広いところに初めてりっぱな技術も育つのでありまして、一見したところは何かむだなことをしているようでありながら、実は結局において何かの科学技術を生かすことになるような研究というものが至るところにあるのであります。原子力の平和利用という、どちらかといえば、この流行的な課題のために予算が傾斜されて使われるということは、日本の幅の広い科学技術の振興という点から申しますと、やはり一考すべき点ではないかと思います。  現在科学技術関係で外国への依存は依然として相当大きくございます。いわゆる甲種技術援助契約と申しますのは、契約期間が一年以上のものでありますが、そういうものだけで昭和二十九年度には、日本は四十七億円外国に払っております。他方国立の研究機関、それを自然科学関係だけを合計いたしますと、二十九年度はちょうど四十七億円でありまして、日本の自然科学関係の国立の研究機関全体に払っている金額と同じものを甲種技術援助契約と称する部分だけで、外国に払っている状態なのでありまして、おそらくこのままにいたしますと、この種の援助契約に基く費用は今後ふえることが必至でありまして、一刻も早く元来日本人の持っておりますこの科学技術の才能を生かす上に、もっと万全の均斉のとれた措置を講じていただきたいと思うのであります。特に技術者養成ということは、東南アジアの貿易その他を今後振興いたしますためにも非常に重要な点でありまして、ソ連とアメリカ、イギリスとの競争題目の一つが、ますますこの技術者養成という点にかかってきたことは、新聞雑誌等の報ずる通りだと私も考えております。しかるに技術白書と通称いわれます通産省で出しました文書によりますと、民間の研究員の一人当りの経費は、現在日本で七十七万円であるのに対しまして、国立では四十八万円にすぎないのでありまして、そういう例があるために、なかなか国立の研究機関にすぐれた研究公務員という人が残らない。そういう状態がだんだん続きますと、率直に申せば、二流の人が国立の研究機関に残って、一流の人がどんどん金の入るところに行ってしまう。そういうような態勢になることは望ましくないのでありまして、特に研究施設を十分に与えることによって、せっかくできている国立研究機関として、政府及び国会が認めておられるものであるならば、十分の研究ができるように、そうして新しい技術員の養成が豊かにできるように、十分の配慮をしていただきたいと私は考えるのであります。自衛隊の一人を養うのに百万円を必要とすると称しますが、この自衛隊員を二万人ふやす計画を立てられる間に、科学技術の研究員をもしその金でふやすとすれば、とてつもない大きな数、現在一人当り四十八万円といたしますと、実に四万人の科学技術者が養成できますが、現在の日本にたとえて申しますと、工学関係の科学者というのは、日本学術会議の有権者として登録されておりますのが、ちょうど四万人程度でありまして、それくらいでしかないのであります。それを少くとも二倍にすることができるのであります。それだけの金を自衛隊の増加のためにお使いになるのであるならば、少くともその半分くらいを科学技術者の養成のためにお使いになるならば、かえって日本の自衛、日本の民生の安定という点からいって、はるかに大きな効果があるのではないかと私は愚考いたしております。  最後に食糧管理特別会計のことについて、一言申し上げたいのでありますが、これは私たちの台所に直接つながる会計でありまして、一番国民としても関心の深い特別会計なのでありますが、なぜか昔からこの特別会計は非常にわかりにくいのであります。私たち専門の経済学者が調べましても、容易にその真相をつかむことができないのであります。この点でも、ついででありますが、食管特別会計白書というものでもお出しいただいて、国民にわかりやすく、一体この食糧管理特別会計というのは、どういうことをやっているのかということを教えていただけるならば、非常に幸いだと思うのであります。現在大蔵省で出しておりまする国の予算というような膨大な調書などにやや詳しく出ておりますのを、四苦八苦して私などは数字をいろいろ計算してみておりまするけれども、なかなかその実態というものがつかめない。この実態がつかめないということに対して私は異論と申しますか、反対の意見を持っておるのであります。と申しますのは、この食管特別会計では内地米及び外米、小麦ないしは飼料その他を購入いたしまして、今度はそれを国民に売るのでありますが、買って売る過程において値段がいろいに変るわけであります。中には間接税的なものをそこに課することもございましょうし、中には補助金的なものを課する結果になることもありましょう。現に、四年前には食管特別会計は四竹四十五億円の蓄積利益を持っておりましたが、三十年度には御承知のように六十七億円の赤字が生じまして、これを埋めるために、今度の補正予算の一部をさいておるような状況であります。約四年間に五百億円の金がいつの間にか食管特別会計でなくなっておるのであります。これは何も私は不正をしてなくなったというのではもちろんないのでありまして、その真相を追及してみますと、一方においては、外米の値段がその間どんどん下っておりますから、外米の買い入れ値段は安くて済んだはずでありますが、国内の米の生産価格はかなり上昇いたしております。私たちも聞いて初めてびっくりするのでありますが、現在の日本の対米為替率が三百六十円一ドルとなりましたのは、昭和二十四年四月でありますが、その二十四年の秋の米の生産価格は現在の、つまり昨年産米の生産価格の半分以下なのであります。米の値段が二倍になっている間に、日本の為替率は三百六十円で一定に押えられて現在に来たっているのであります。そういう状況から申しましても、生産価格がいつの間にか上ってきた、そのこと自体はある面ではけっこうなことであります。農民の勤労が償われるということはけっこうでありますが、その生産価格が上った程度には消費者価格を上げていない。すなわち内地米についてはある程度の補助金的なものを見ておる。外米につきましては最近は間接税的なものをそこに含ませております。そういうことが食管特別会計の中のやりくりで行われておると私たちには見えるのでありますが、特別会計のやりくりで行う性質のことではなくて、これは国会の政策として国民がはっきりと伺いたい。どういう趣旨でこれをなさるのか。内地米については補助金を出すとか、外米については間接税を取るとかいうようなことは、もう少しはっきりと外に打ち出して私たちに教えていただきたい。食管特別会計の中のやりくりだけで処理するというようなことはしないでいただきたい。そうしておったがために、四年前に四百四十五億円ありました蓄積利益が、遂に三十年度には赤字六十七億円を生むようなことになって非常にあわてて、私には予算措置上は全く例外であると思われます砂糖業界からの三十億円のものを国庫に対する寄付という形でもって、補正予算を組三なければならぬということになっておるのであります。  私が財政経済一般という観心から、今度の予算について特に申し上げたいと思いましたことは以上の五点でございますが、最後に、国民の一人といたしまして、今度の予算編成の過程について一言申し上げさしていただきたいと思いますことは、昨年の国会において、政府の提出しましたものが、当時の自由党の希望によりまして自由党、民主党の両者で話し合いの上で修正されて、国会を通ったわけでありますが、その修正のときもあったことでございますけれども、今度の予算編成過程においては、国会へ出ますまでの間に、少くとも私たちが新聞紙上で見る限り、どの程度それが正しいかを私は正確には把握いたしておりませんが、国民としては非常に不安を抱かざるを得ないような新聞の報道がございました。一言で申しますと、予算をあたかも何かぶんどり合いをする対象であるかのごとく考えておられるのではないかという、そういうような報道が一部にもございまして、国民には予算編成過程について非常に残念なことだと考えている人が多いと思われるのであります。そういう点につきましてはだんだん改善されることと私などは期待しておりましたのに対し、特に今度のように保守合同で絶対多数を取っておられる与党が、内閣を持っておられます状況のもとでは、もっとそういう点の国民の期待が報いられると考えておりましたのに対し、かえって裏切られた思いをいたしておるのでありまして、その点がきわめて残念であったということを一言つけ足して、私の公述を終りたいと思います。(拍手)
  42. 三浦一雄

    三浦委員長 ただいまの公述人の御発言に対しまして御質疑はありませんか。  都留さんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。(拍手)  次に早稲田大学教授大西邦敏君。
  43. 大西邦敏

    ○大西公述人 私に本日課せられました問題は憲法改正をめぐる問題であると存じます。時間がありませんので、話を非常に端折らざるを得ないことをまことに遺憾に存ずるのであります。  ごく簡単に申し上げますが、私は、学界におきまして最も早く、最も強く憲法改正の必要を強調しておる一人でございます。私をしてなぜこのように憲法の改正の必要をば強調せしめるに至ったかということを本日主としてお話し申し上げてみたいと思うのでありますが、インドのネール首相が――これはバスーという人が書いたインド憲法の註釈書の中に、ネール首相の憲法改正の必要をば述べた言葉を引用しておりますが、それによると、今日世界は混乱のさなかにある、非常なスピードでもってすべてが非常に激変する過渡期の時代にある、従って、今日適当であると考えたことが、もはや明日は適当でないというようなことが非常にひんぱんに起るのである、こういう時代において憲法の改正というものは、やはりそのときどきの必要に応じて、一国の最高法規である憲法ではあるが、やはりこれを時代の必要に応じて改正しなければならぬ、もしもその改正を怠るならば、国民の成長発達、有機体である国家の成長というものば阻害されてしまうという言葉を述べておりますが、私はこのネール首相の言葉に全く同感でありまして、今の憲法が制定されたときにおきましては、御承知のように占領下でありまして、今の憲法というものは、その原案を見ましたけれども、その原案というものは御承知のように時の占領軍の最高司令官でありましたマッカーサー司令部によって示されたものでありまして、なるほど時の帝国議会におきまして若干の修正はありましたけれども、しかしながら、この修正といえども、それはすべて先方の意見に伺いを立てて、その許可を得て修正がなされたというようなことは、その後明らかにされた記録によってわれわれが知るところでありまして、その当時は全く日本人には自由な発言の機会が与えられなかった。先方にいたしましても、まことにどさくさの時代において早急に今の憲法を制定いたしたのでありまして、また、その憲法の制定に際しましても、ほんとうに憲法の専門家というものがこれに参加したという何らの明らかな証跡が示されていないのであります。その後、われわれは、第二次世界大戦後諸外国におきましてはすでに六十の憲法が制定されておりますが、それらを全部通覧いたしましても、外国では非常に進んでおりますけれども、今の憲法というものは非常に進歩的というよりはむしろ保守的な色彩というものが非常に濃厚でありまして、こういう見地から、私は早くから憲法は改正しなければならぬ、こう痛感するようになってきたのであります。  まず、この憲法改正の要点でありますが、第一の点が御承知のように再軍備の問題であります。これにつきましては、私は外国の憲法の規定の仕方を一応通覧してみたのでありますが、軍に関する国家の態度には、日本を入れて大体五つの方針がある。一つは、軍というものをば全然憲法に規定しない、従ってまた兵役の義務というものも憲法に全然規定しないという仕方であります。これが第一の仕方。それから、第二の仕方は、軍に関する規定というものは憲法に全然持たぬ、そうしてただ兵役の義務を憲法に規定するという仕方、これが第二でありまして、第三の仕方ば、軍の規定を持つが、しかしながら兵役の義務は規定しないという規定の仕方であります。それから、第四は、軍の規定も持ち、同時に兵役の義務の規定も持つという仕方であります。それから、第五は、これは日本でありますが、軍を否定する、従って兵役の義務というものをも憲法に規定しない。この五つの方針があるのでありますが、第一の方針をとっているもの、すなわち軍の規定もしない、兵役の義務の規定もしないというのは、今日世界では小さな国のモナコであります。第二の、兵役の義務は規定するが、しかし軍の規定をしないというのは、人口十三万のアイスランドであります。それから、第三の、軍の規定はするが、しかしながら兵役の義務は規定しないというのが、今ちょっと失念いたしましたが、その形が一つあるのであります。それから、第四の規定の仕方であります軍の規定をし同時に兵役の義務を規定する、これは世界で一番多いのでありまして、現在では五十ヵ国の多きに上っております。軍の規定をしながら兵役の義務の規定をしないというものは、今日世界のうち二十二ヵ国で採用されております。最後の、軍を否定し、同時に従って兵役の義務も規定していないというのは、今日世界で日本一つあるばかりでありますが、このような外国の憲法の軍に対する態度にかんがみますと、いやしくも独立国家であるならば、軍というものはもう国家存立の前提条件である。先ほど申しましたように、軍の規定もしない、そうしてまた兵役の義務も規定していないというところではどう考えているかといいますと、これは決して軍を否定しているわけではないので、軍の存在というものは国家存立の前提条件である、これは規定を待つまでもないのだ、だから、憲法に軍の規定がなくても、また兵役の義務の規定がなくても、これは当然国家であれば軍を持ち得るし、軍が必要であるとするならば当然兵役の義務というものは伴うべきものであると考えているわけであります。私は、もう軍に関しましては、日本が独立した以上は、軍というものは当然持たなくちゃならない、ただそれには日本の実情にかんがみましてそこに制限がなければならないことは申すまでもないことでありますが、しかし、軍が独立国家において全的に否定されるということは、国家の独立を全的に否定するものと同一視しているものと解釈せざるを得ないのであります。  軍に関しましては以上にとどめまして、軍というものに関連して日本の憲法を改正するということももちろん非常に重要でありますけれども、実は、私は、それ以上にその他の憲法の改正が非常に早急になされなければならぬということを痛感しているのであります。私をしてなぜこのような考えを抱かしめるに至ったかと申しますと、私は比較憲法を研究いたしておりますが、その研究のさなかにおきまして、民主的な憲法は制定されたけれども、しかしながらこの憲法のもとにおいて間もなく民主政治を放棄せざるを得なかったというような、そういう実例を私は非常に多く発見したのであります。時間の節約の関係上、例証をわれわれがおぼろげながら文明国なりあるいは文化国家が比較的そろっていると考えておりますヨーロッパだけに限定することにいたしますが、第一次大戦後世界的に非常にデモクラシーの礼賛の声が起ってきたのでありますが、それにつれまして、第一次世界大戦前後ヨーロッパにおきましても各国は相争って民主政治を取り入れたのであります。例をあげてみますと、一九一一年にはポルトガルでその当時最も民主的であると考えられた憲法が制定されております。一九一一年には御承知のようにドイツでワイマール憲法が制定されました。非常に高度の民生的な憲法であります。それから、一九二〇年には南のオーストリアとチェコスロバキアで民主的な憲法が制定されております。二一年にはユーゴスラビアとポーランドにおきまして民主的な憲法が制定されております。なお一九二〇年にはエストニアにおいてやはり民主的な憲法が制定されております。それから、二二年には、小さな国でありますが、ラトヴィアとリトワニアで民主的な憲法が制定されております。それから、翌年の一九二三年には、ルーマニアにおきまして、従前の非民主的な描法が廃止されまして新たに民主的な悪法が制定さてれおります。翌々年の九二五年には、アルバニアという新興国家におきまして民主的な憲法が制定されました。それから、二七年にはギリシャにおきまして、従前の君主憲法が廃止されまして新たに民主的な共和国の憲法が制定されております。その他イタリアとスペインとブルガニアにおきましては、民主的な憲法は新たに制定することはいたしませんでした。それは、従前の憲法のもとにおいて、あるいは選挙法を民主的に改めるなり、あるいは実際の政治の運用をばイギリス流の議院内閣政治に切りかえることによってけっこう民主政治を行うことができるというので、新しい憲法は制定しませんでしたけれども、民主政治を取り入れたのであります。すなわち、以上十五の国におきまして、第一次世界大戦、ことに第一次世界大戦後新たに民主政治が取り入れられたのであります。もしもこれらの十五ヵ国におきましてこの民主政治が全部成功をおさめ、これが維持されたのでありますれば、あるいは私は今日憲法改正をば強調しなかったかもしれないのであります。ところが、この十五ヵ国におきまして、第二次世界大戦に入るまでに民主政治が全部崩壊を来たしたのであります。一体この民主政治がこれらの十五ヵ国においてなぜ崩壊を来たしたかということは、これは皆さんに非常に御考慮を願いたいと思うのでありますが、私がいろいろ調べた結果、民主政治が維持されんがためには、いかに憲法が民主的な規定になったって、それば民主政治は維持できるものじゃないのだ、民主政治が維持されんがためには必要な条件があるのだ、この条件を備えている国家では、民主政治は自然的に興り、しかもこれが成功をおさめて長く維持されるけれども、もしも必要な条件が備わっていないとき一にば、いかに民主的な憲法を作ったって、その国家では民主政治が成功するものじゃない、従って国民がこの民主政治に信用を置くものじゃない、国民が民主政治に信用を置かないときには、ここに右左の独裁政治がつけ込んで国の政治が崩壊するに至るのだ、だがら必要なのは条件だということであります。  その条件というものは、ヨーロッパの学者によって六つばかりあげられておりますが、第一の条件は、民主政治におきましては精神的な条件が必要なんだ、国民が民主的な国家の国民たるの適格性を持たなくちゃならないのだ、もう少し具体的に申しますと、民主政治においては、民主政治が最善の政治形態であるという深い確信を国民一般が持たなければならぬのだ、この確信がないと、すぐに左右の独裁政治が乗じて、ここに民主政治は崩壊するに至るのだ、それから、民主政治は、なるほど最善の政治形態であるけれども、しかしながら、民主政治は決して完全な、無欠なものじゃないんだ、欠点があるんだ、欠点は、これを放置しておくときには、やがて民主政治は崩壊するに至るんだから、民主政治を長く続かしめるためには、民主政治にやはり欠点があるということを国民はよく知って、この欠点が現われることをば防止する、現われた場合にはすみやかにこれを是正する心がまえが国民に必要だといわれております。  それじゃ一体民主政治においてはどういう欠点があるかといいますと、ヨーロッパの学者によって指摘されている欠点は、第一には、民生政治においては、自由と平等の二つを両立せしめる、調整することがきわめて困難であるという一つの欠点がある。それから、第三番目には、民宅政治におきましては、数の政治に堕して、理の政治が行われがたいという欠点があるといわれております。第三番目には、民主政治におきましては、非常に国費が浪費される。それから、第四番目にば、民主政治におきましては、国政の能率が著しく低下を来たすといわれております。それから、第五番目には、民主政治におきましては、言論の自由というのでありますからして、従って、ボスとか、あるいはアジテーターとか、あるいはデマゴーグとか、あるいは民衆におもねるところのフラッタラーとかいうやからが暴威をたくましゅうするという欠点があるといわれております。それから、第六番目の欠点は、民主政治におきましては、非常に精神的な条件が必要なのですから、教育というものを非常に振興しなければならないのだが、しかしながら、民主政治におきましては、ややともするとこの重要な教育というものが軽視されがちであるという欠点があるということが指摘されております。このような欠点のうちで、ことに日本の今日におけるような貧乏な国におきましては、国政の能率の低下とか、あるいは国費の浪費というものは致命的な欠陥でありまして、これを長く放置しておきますと、国民は民主政治に対して信頼感を失ってくる。そこに非民主的な勢力が乗じて、民主政治は崩壊を来たす。ですから、民主政治の国家の国民は、民主政治の欠陥というものをよく知って、これを未然に防止する、現われた場合にはこれをすみやかに除去するということが必要である。さらに具体的には、民主国家の国民というものは理性が非常に必要だ、感情ではなくして理性が非常に必要である、また、民主国家の国民というものは非常に勤勉でなくちゃならぬ、あるいは、民主国家の国民というものは、あまり利己主義に走ってはいかぬ、公共精神を持たなくちゃいかぬ、あるいは、民主国家の国民は順法精神を持たなくちゃいかぬ、あるいは、民主国家においてこそ自然的な愛国心が必要なんだ、こういうことが民主国家の国民に必要なる心がまえであるといわれておりますが、こういう精神的な条件が必要だ。  それから、第二番目の条件は、経済的な条件でありまして、これは国家が富んでいなくちゃいかぬ、民主国家においては国家というものが富んでいなくちゃならない、貧しい国家においては民主政治は必ず崩壊をする、成功しないということ。それから、第三番の社会的な条件というものは、富んでいるだけではだめであって、富というものが国民の間に平均して分配されていなくちゃならないというのであります。それから、第四番目の条件は、民主政治におきましては平和というものが必要である。それから、第五番目におきましては、民主国家におきましては、国家というものが国防上安全な地位に恵まれていることが必要である。それから、最後に第六番目の条件というものは、民主政治におきましては、言語とか人種とかあるいは宗教とかいうものが同質性を持たなくちゃならないということが民族的な条件としてあげられております。  このような条件を持つということが、民主政治が成功するに必要なことでありまして、先ほどのせっかく民主政治を採用した十五九国においてなぜ民主政治が滅びたかといいますと、その原因は一にこの民主政治の条件を欠除していたということであります。ところが、イギリスにいたしましても、あるいはアメリカにいたしましても、あるいはスイス、デンマーク、スエーデン、オランダ等におきまして民主政治は成功しておりますが、それらを見てみますと、大なり小なりこの民主政治の成功に必要なる条件というものを備えていることをわれわれは知るのでありますが、翻ってわが国を見てみますと、このような条件をわれわれは不幸にして備えていることを発見することができないのであります。このような国家におきましては、どうしてもすみやかにこの民主政治の成功に必要な条件を与えなければならないのでありますが、先ほどあげました、民主的な憲法を制定しながら民主政治を維持することができなかった国家を見てみますと、この憲法はすべてこの民主政治の成功に必要なる条件を与えることを怠っていた。なるほど十五ヵ国の憲法、それは規定の詳細においては各国相違がありますけれども、その根本というものは各国において共通しておったのであります。わが国の現在の憲法を見てみますと、その根本をなしている思想におきましては、実にすべて民主政治が崩壊を来たした十五ヵ国の憲法に似ておるのであります。従って、私は、今の日本の憲法を維持する限りにおきましては、とうてい日本では民主政治は成功しないのじゃないか、もしも民主政治が最善の政治形態であるという確信を持つならば、すみやかにこの民主政治を成功せしめるように憲法の改正をしなければならない。先ほど上げました十五ヵ国におきまして、一、二ヵ国におきまして民主政治が崩壊を来たしたのでありますれば、今日私は問題にしないのでありますが、この十五ヵ国において全部民主政治が崩壊したということは、もしも同じ原因があるならば同じ結果が生ずるという、ここに歴史的な法則が支配しているものと考えなくちゃならぬのではないか。同じ原因が存在している日本におきましても、今の憲法を維持する限りにおきましては、この最善の政治形態たる民主政治を長く維持することはできないのではないか。この最善の政治形態たる民主政治を維持しようとするならば、われわれはすみやかに今の憲法を改正しなければならない。外国の憲法は非常に進んでおります。日本では、憲法改正反対論者の中には、今の憲法は世界の憲法の粋を集めたものであるというような言葉を吐いておりますけれども、私はこの発言に対しては強硬に反対せざるを得ないのであります。決して今の憲法はそのようなものではないのでありまして、今日、世界の国家は、先ほど申しましたように、十五ヵ国において民主政治が滅びたということに対して非常な反省をいたしまして、各国ともに、この民主政治をばあくまでも維持しよう、そのための態勢をば憲法においてとっているのであります。従って、この第二次世界大戦後の憲法を見てみますと、非常に多くの国家で採用されている憲法の規定というものが、今の日本の憲法においてはほとんど発見することができないのであります。多くの国家が必要であると考えていることは、地理的には東洋に偏在している日本におきましても、これは十分に考慮の中に入れなければならないことであります。こういう見地から、私は、今の憲法をばすみやかに思い切って改正しなければならない、一部改正では事足りない、全面的な改正を必要とすると確信しているのであります。  時間がありませんので、ただ私の大ざっぱな見解を申し述べたにすぎませんが、何か御質疑がありましたらお答えいたすことにいたしまして、私のお話を終りたいと思います。(拍手)
  44. 三浦一雄

    三浦委員長 ただいまの公述人の御発言に対しまして御質疑があればどうぞ。
  45. 稻葉修

    ○稻葉委員 公述人の御意見では、現在の日本国憲法は民主政治擁護の条件を備えていないから、全面的な改正に進まなければならない、こういう御意見のようでありますが、全面的改正をなすに当って憲法第九十六条の規定する手続によってなすのか、別段の手続を必要とするのか、その辺についての御意見を承わりたいと思います。
  46. 大西邦敏

    ○大西公述人 お答えいたします。もちろん、今の憲法の改正でありますから、現在の憲法におきまして改正の手続を規定している九十六条によって行うべきであると考えております。これにつきまして、若干今の九十六条を改正するということはできないという意見がありますけれども、これは学界におきましては多数説ではありませんし、また、諸外国におきましては、事実この日本の憲法第九十六条に該当する規定をば改正しているという例を相当発見することができるのであります。
  47. 稻葉修

    ○稻葉委員 そういたしますと、たとえば、九十六条に規定する手続、すなわち国会総員の三分の二と国民投票によって、九十六条自体を改正して、将来憲法を改正する場合の手続として国会の三分の二以上の歳次があれば憲法の改正はできるとする改正もできますね。
  48. 大西邦敏

    ○大西公述人 まず九十六条を改正するということは可能であると考えます。ただ、しかし、その場合には一体どういうように憲法を改正するつもりであるかということを国民に公表して納得を求めるのでなければ、九十六条そのものを改正するということは、法律上は不可能ではありませんけれども。困難が伴うのではないかと思います。
  49. 稻葉修

    ○稻葉委員 その点ば昨日の公述人である鈴木教授の説の、九十六条自体を九十六条の改正手続で改正することは不可能である、法律上ばできないのだという御説とは対立いたしますね。
  50. 大西邦敏

    ○大西公述人 はい。
  51. 稻葉修

    ○稻葉委員 次に別な問題ですが、公述人も憲法第九条の解釈については軍備を一切許さぬ、いかなる目的であっても一切許さぬ規定であるというふうに御解釈になっておられますか。
  52. 大西邦敏

    ○大西公述人 今の御質問に対しましてお答えいたしますが、私はいかなる目的であろうと、すなわち自衛のためであろうと今の憲法では軍というもの、戦力というものは持ち得ないと解釈しております。
  53. 稻葉修

    ○稻葉委員 そういたしますと、一方憲法の前文には、われらは国際社会に伍して名誉ある地位を占めたいと思う、こう書いてありますが、現在の国際社会には国際連合という機構がある。従って憲法前文の規定を誠実に国家行動として日本国がとる場合に、国際社会に伍して名誉ある地位を占めるには、国際連合に加盟するということが自然の成り行きだと思いますが、国際連合に加盟した場合には、国際連合憲章の命ずるところに従って、共同防衛義務を分担することになるわけです。そのときに憲法第九条を厳格に解して、これを一兵をも、軍隊、戦力は持ってはならぬ規定であるというふうに解するならば、同じ憲法典の中に、一方は国際社会に伍して名誉ある地位を占める、すなわち国際連合に加盟して共同防衛義務を分担するのもやむを得ないということを、国家行動としてとるべきことを命じてあり、他方においてそういうことばやっちゃいかぬ、憲法九条に命じてあるという、同一法典の中に二律背反を犯しているというふうに私どもは理解をいたしますが、公述人はその点については私の理解をどう思われますか。いかがでありますか。
  54. 大西邦敏

    ○大西公述人 私は前文の中の「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」というのは、今の憲法が制定されたときには今日のような事態というものは予想しなかったものでありますから、従って国際連合に入って、そうして共同防衛の集団安全保障機構上の義務を負担するというようなことは予想していなかったと考えます。ところがいよいよ国際連合に加入する、これは日本でも国論になっていると解釈しておりますが、この国論に従って国際連合に加入いたしますとすると、これはどうしてもやはり集団安全保障上の義務を日本は負わざるを得ない。この義務を負うことによって国際上日本は今日におきましては名誉ある地位を占めることができるに至るのだと思いますが、この点からいたしまして、やはり私はすみやかに憲法第九条の第二項は改正して、すみやかに軍を持つ必要があると考えております。
  55. 稻葉修

    ○稻葉委員 そういたしますと、反対にもし憲法第九条第二項を厳格に解して、一兵をも戦力は持ってはならないという規定を擁護するという立場からいたしまするならば、国際連合に加盟して共同防衛義務を分担するという一方の要求はこれを放棄して、中立的な立場、非武装中立という立場をとらざるを得ないのではないかと理解いたしますが、それでもよろしゅうございますか。もう一度申しますが、憲法第九条第二項を厳格に解して、武装を持ってはならぬという規定をあくまでも擁護する立場をとる人が、同時に国際連合加盟を政策としてとられるということは矛盾ではないかと思いますが、いかがでしょう。
  56. 大西邦敏

    ○大西公述人 私はその点はお説と同じように矛盾であると考えております。
  57. 眞崎勝次

    眞崎委員 御説は私も全然同感でございますが、お話を総合して結論を得ますると、憲法というものは、日本国でいえば、日本の伝統、日本の国民性を基調として、世界の進運に伴うような憲法を作るのが一番当然ではないかと思うのですが、どうですか。
  58. 大西邦敏

    ○大西公述人 よく一部の人で言われることでありますが、日本の伝統を重んぜよ、そうして外国とも歩調を合せて、多くの国家が必要と考えているように、憲法を改正しろという意見があるのであります。それでこの伝統でありますが、よく日本の憲法だけを見ている人は、日本の伝統ということを非常に強調される。われわれ比較憲法を研究している者に対して、日本の憲法を考えるのに、外国の憲法なんかは全然参考にする必要はないではないかというのでありますが、しかしながらデモクラシーということになりますと、一つの大きなワクがここにあるわけでありまして、ここでは議会を設けないということになりますると、これはデモクラシーではなくなる、言論、集会、結社の自由を認めなくなるということになりますと、デモクラシーでなくなる、多数決の原理を認めなくなりますこれはデモクラシーではなくなるのでありまして、憲法の規定の上で伝統を重んずるといえば、あるいは日本においては君主国が憲法の規定の上に現われているくらいでありまして、その他の点においては伝統を重んずるということを憲法の規定の上に現わすことは、デモクラシーの国家におきましてはそう考慮の中に入れるべき事柄ではないのではないか、むしろ重要なことは、世界の多くの国家考えていいというようなことは、これは非常に参照すべきことであるというのであります。
  59. 眞崎勝次

    眞崎委員 ちょっと今の私の伺い方がまずかったかもしれぬが、憲法の条章の中に、伝統を重んずるということを入れるという意味ではなかったのです。つまり作るときにそれを最も尊重すべきものだ。そこで今おっしゃったように、日本を破壊した明治憲法自体でも、日本のほんとうの伝統、日本の政治のあり方についてよく研究してみますと、必ずしも大畠にすべて隷属しておったのが日本の伝統ではなくて、君民国家一体というのが日本の指導原理だったと私は思うのであります。これを取り違えて何でも天皇に隷属するように持っていって、ちょうどドイツ、イタリアの全体主義と同じ思想に走っていったところに日本を破壊した原因がある。これと同様に、現在の憲法はあまりに個人の自由に走り過ぎて、国家の統制力と個人の自由とのつり合いを失ってしまっているところに非常な危険性があると私は考えて、すみやかにこれを改正しなければ国家を破壊に導くだけであると私は考えているのでありますが、この点はいかがでありましょうか。
  60. 大西邦敏

    ○大西公述人 その点はやはり同感でございまして、今世界の筋二次世界大戦後の先ほど申しましたように六十九国において制定された憲法を通観してみますと、第一次世界大戦後デモクラシーを採用した、その国家で全部デモクラシーが滅びた。それに対する非常に深い反省――どういう点に深い反省が現われているかと申しますと、第一次世界大戦後デモクラシーを急速にとったそのときには、非常に観念論に走った。観念論に走ったがために、今まで抑圧された自由というものを最大限に認めるということになったわけですね。それで国民に急速に最大限の自由を与えた。ところが国民は、すべて自分の欲することは何でもなし得る、これが自由であると曲解したために、自由の乱用が非常に起ってきた。そのために、たとえば言論の自由あるいは集会、結社というものを極端に認めたために、ナチスとかファシストというような政党の台頭を認めてきた。すなわちデモクラシーというものが反デモクラシーに対して、ひさしを貸しておもやを取られたという結果が現われてきたのですね。それに対する深い反省が第二次世界大戦後の各国の憲法に現われているのです。そしてやっぱりデモクラシーが最善の政治形態であるからこれを維持しよう。この反デモクラシーに対しては、それが言論であろうとあるいは集会、結社の自由であろうと、適当にやはりこれをコントロールする、制限を課する。今日反民主的な言論あるいは集会、結社の自由を禁止するという憲法が、実に三十六の多くの国家において採用されております。これば第一次世界大戦後採用した憲法においては、そのような規定を盛った国家は一ヵ国もなかったのであります。今日は実に三十六ヵ国の多きにおきまして、反民主的な言動は禁止するということを憲法に規定しております。  それから国民の自由が大事だ。だから国民の自由は認めなくちゃならぬ。国民の自由を守るがためには、国民の代表である国会に大きな権限を与えなくちゃならぬと考えたのは、第一次世界大戦後デモクラシーを採用した当時考えた事柄であります。ところが各国ともにこの国民の代表である議会というものが、実は非常に権限を乱用して国民の期待を裏切ってしまった。先ほどの例からお考えになてもおわかりのように、大体ヨーロッパ大陸におきましては一九二七、八年ごろから各国においてデモクラシーが危機に直面したのであります。そのためにヨーロッパの学者、思想家等がデモクラシーの危機という著書あるいは論文なりをたくさんの人が雷きましたが、私はその当時これを読みまして痛感したことは、この国民の代表である議会というものが、実に議会というものをば全く政争の場に供してしまった。ほんとうに国民が期待しているところの政治というものが議会において審議されることがなかった。それで議会を構成しておる議員というものはあたかも国庫をば私物視した。あるいは国庫をば飼葉おけ、まぐさおけのごとくに考えたというようなことが、私の読んだ三つばかりの論文の中にあったことを、私はいまだに記憶しておりますが、こういうような結果であったのですね。それで国民がデモクラシーは最善の政治形態だと思って採用したのだけれども、デモクラシーは最善の政治形態ではないではないかと非常なる疑いが起ってきた。そこに右あるいは左、ことにその当時は平時でありましたから、右というものが国民の不満に乗じて国民に呼びかけた。国民はわけもなくそれに引きずられた。だから一九二六年にはポルトガルとリスワニアとポーランドで、同じ年に三ヵ国でデモクラシーが崩壊いたしましたが、このポルトガルなんかを見ますと、軍人のクーデターが起きたわけでございますが、もう一滴の血も雨も流さずして、一日の間にこの軍人のクーデターが成功してしまった。国民はわけもなくそれにくっついてきた。それほどその当時の議会というものに対して国民は不信任を抱いておった。私はこういう点から考えまして、何とかこれは早くしないと国民がこの議会に対して不信任を抱く、やがてはデモクラシーそのものに対して不信任を抱くのではないか、こう痛感するのであります。
  61. 眞崎勝次

    眞崎委員 もう一つ、これは一番大事な問題で解釈が区々になり、またよく理解してないように思いますので……。第二次大戦後の戦争の様式というものは全部変ってしまっていると私は思うのであります。詳しくいえば、第一次大戦後ロシヤ革命が起った後というものは、戦法が変ってきておるのにもかかわらず、多くの法の解釈は、依然として第三次大戦のようなことを基礎として戦争に対する論評をしているように思いますが、私どもが見まするところでは、第二次大戦後は武力戦は副になった。思想戦すなわち冷戦を主として、むしろ各国を思想的に自縛するようにしむけて、レヴォリューションにもっていって、戦わずして勝つという戦法をとっていると思うのであります。こういう見解から申しますと、中立もあり得ないし、国境もはっきりしないし、平時と戦時の境もなし、後方部隊と第一線の境もございません。かようになっている時代に、憲法第九条を現在のように解釈をすることは、全然国家の存立をあるいは否定していることだと私は思うのでございまして、また戦力ということを狭義に解釈すると、今のように武力的になりますけれども、大きくいえばいわゆるオール・ポテンシャルと書いてあるので、国家のすべてのものが戦力ならざるものはないと私は思うのでございますが、この点に関してどういう御所見でございましょうか。
  62. 大西邦敏

    ○大西公述人 一国と一国との国際戦争というものは、皆さん御承知のように原子力の発達によって私はもう不可能になるのではないか、むしろ朝鮮やあるいはインドシナの例に見まするように、内戦の形式をとってくるのではないか、軍というものはその内戦をば防止するという点に重点が置かれていいのであって、そのためには、私はむしろ膨大な軍というようなものば必要としない、また実際には日本の国力からしてさようなものは絶対に持つべきではないと考えております。これはソ連系の憲法を見てみますと、ソ連系の国では、軍という章をもった憲法が四つありますが、それから一条で軍を規定したものが数カ国ありますが、それらの憲法によって軍の任務というものを規定しているものを見てみますと、まず第一に軍の任務というものは、国家の独立を維持する任務を帯びております。それから第二番目には国民の自由を防衛する、自由を守る任務を持っている。あるいは国内の秩序あるいは安全を守る任務を軍は持っている、こう規定しております。ですからソ連系の国でも――これはソ連系以外の国はもちろんのことでありますが、ソ連系の国におきましても、国家の独立を守るため、あるいは国民の自由を守るため、あるいは公共の秩序、安全を守るためには軍というものが絶対に必要であるということを認めている。それがソ連系の国家の憲法には私は現われているのだと解釈しておりますが、こういう見地からいたしましても、私は今日は対外的な戦争をやるために軍なんというものは考えるべきではなくして、重点はむしろ内乱が起ることによってデモクラシーが滅びてしまうことに対する備えのために、その他の経費を圧迫しない限度における、最小限度の軍隊を日本で持つべきである、また持って十分であると考えております。
  63. 八百板正

    ○八百板委員 お話を伺いますと、民主主義を擁護するために憲法の改正がすみやかに必要だ、こういうふうな御意見のように伺ったわけでございます。さらにまたただいまのお話を伺いますと、デモクラシーを破壊するものを押える、いわば権力というふうなものの設定に不十分である。こういうふうな点が、民生政治擁護のために憲法の改正をしなければならぬという意見のように伺ったわけでありまするが、先ほどのお話の中では、そういうふうな点を述べられまするとともに、軍備よりもより以上に改めるべきものがある、こういうふうにおっしゃっておられるのであります。そうしますると、現在の憲法の上で、より民主的とするために、どういうふうなを軍備以外の点において改正すべきものとお考えになっておられますか、これを少しお聞かせをいただきたいと思います。
  64. 大西邦敏

    ○大西公述人 ごく簡単に、憲法の章の順序を追って要点だけを申し上げますと、第三章の国民の権利及び義務の章におきましては、現在は公共の福祉を理由として、国民に与えられた自由なり権利なりを制限することができるということが、憲法の十三条に明白に規定されております。ところが公共の福祉という概念がきわめてばく然としているために、ほんとうはデモクラシーを守るがための自由なり権利の制限なり、あるいは他人の自由を尊重するための自由の制限とか、あるいは公共の秩序、公共の安全、公共の利益、あるいは緊急の危難を防止するために、国民の自由なり権利を制限するというようなことが実は必要でありながら、憲法の規定が、公共の秩床というばく然とした言葉を用いているために、非常な困難に直面している。ですからこれは、公共の秩序がデモクラシーの国家においては必要なこと、あるいは公共の安全が必要なこと、あるいは他人の自由なり権利を尊重するということの必要であることは、言うまでもないのであります。またデモクラシーが最善の政治形態として国家が選択した以上は、反デモクラシーの言動というものは、制限せらるべきことは当然のことであります。ところがそれが非常に困難に直面しておりますので、これらの点におきまして具体的に、こういう場合はやはりこれは自由なり権利を制限することができるのだということを、憲法で明白に規定することが私は望ましいと思う。諸外国の憲法では、今その方向にもっぱら進んでおるのであります。  それからさらに、私は今の憲法は、いわゆる社会正義の実現に対しては、非常になまぬるいと考えております。社会正義と申しますと、要するに弱者あるいは貧しい者に対するほんとうの保護の規定が、私は不十分であると考えております。今日第二次世界大戦後の外国の憲法は、やはり社会一飛の実現ということを非常に強調しております。たとえば、勤労者の利益は国家が保護する。その具体的な方法を見ますというと、かつて日本でも問題になりましたように、賃金委員会において政府に向って採用を答申している、あの労働者の最低賃金の規定でありますが、これはたしか二十八ヵ国の多くの外国の憲法では、この最低賃金の採用を明白に規定しております。  それから、まだ数多くはありませんけれども、第二次世界大戦後の一つの顕著な傾向といたしまして、勤労者に対しましては、営利企業におきましては、賃金以外にさらに純益の分配をなすということを憲法に規定しておりますが、私は社会正義の見地からして、このようなことも実は可能になるようにしなければならぬと思う。われわれは、ただ単に反動的な憲法の改正なんというようなことを考えているのじゃないのでありまして、世界各国の趨勢にかんがみまして、ほんとうに社会的な正義が実現されるような、社会福祉国家を真に実際に建設していきたい。そのための憲法改正を、私らは第三章の領域において考えております。  その他母子の保護というようなことは、これは非常に多くの国家の憲法で、第二次世界大戦後考えているのであります。それから婦人労働の保護、とにかくそういう弱い者あるいは貧しい者に対して国家がこれに保護を加え、そのことによって社会正義を実現しようというのが、今日世界の傾向であります。それでこのような方向に第三章は改正すべきものと、私個人は考えているのであります。  それから第四章の国会の章におきましては、これは先ほども申しましたように、今日でも世界の各国は、何も国会の権限を縮小しようとは考えておりません。ところが先ほども申しましたように、国会がその権限を乱用したことが、デモクラシー崩壊の原因であったのであります。だから国会が権限を乱用することを阻止しょうという、その具体的な方法といたしまして、これは日本でも問題になっておりますが、予算の増額修正、これは今日世界では、二十六九国の憲法で明白に、議会は予算の増額修正をなすことができぬということを規定しております。それから二十ヵ国では、予算を伴う議員立法は、これは議員はなすことができないというようなことを憲法で明白に規定しております。それから、これは内閣の章との関連もありますが、どうも国会は政争の場になって、ほんとうの国事を審議しない。それからひんぱんに内閣に対して不信任案を可決するような事態が起きるが、不信任案というものが通過すると、これは議会が解散するか、あるいは内閣が総辞職するかいずれかになる。内閣が総辞職をしますと、政治の空白が相当続くし、また議会が解散されますと、これは選挙のために相当大きな国費を費すようになる。だからよくよくのことでありまして、不信任案というようなものは、通過せしむべきじゃないという反省が起きております。従って、国会の不信任に対して一定の制限を課するということが、第二次世界大戦後の外国の憲法が示している非常に大きな傾向であります。これらが国会の領域であります。  それから次に内閣の領域におきましては、デモクラシーの内閣というものは、たとえば日本の明治憲法当時の内閣じゃ決してないのです。明治憲法当時は、いわゆる超然内閣で、国民に基礎を置かない内閣であったから、国民の代表である議会というものが内閣を敵視するというようなことは、それはあり得たけれども、しかしながらデモクラシーにおきましては、総選挙を行なって、そして衆議院において多数を占めた政党が内閣を作るのじゃないか、だから内閣というものは、決して国民に基礎を持たないものじゃないので、衆議院における多数党と同じように、内閣は大きな基礎を国民の間に持っているんだ、今日は非常に複雑な時代だ、国事も非常に多端をきわめているんだ、ですからほんとうに政治をなさしめるためには、内閣に大きな安定を与えなくちゃならないという考えが非常に濃厚に今日は現われまして、外国ではいろいろな方法によって内閣の安定をはかっております。  この点ちょっとついででありますから申し上げますが、実際内閣の安定するところにおきましてはデモクラシーは成功をおさめている、あるいは国威は隆々として進展しつつあるのであります。イギリスのごときは、実に一内閣の平均寿命数は三年五ヵ月でございます。アメリカは一大統領の寿命は憲法上四年保障されている。しかも普通は大統領は二期存在いたしますから、アメリカでは今までの一大統領の平均在職年限を見ますと、五年八ヵ月になっております。ソ連のように、これはその形式にはわれわれは批判を持っておりますけれども、しかしそこでは何としても内閣は安定している。独裁政治でありますから、これ以上の内閣の安定ということはあり得ないわけであります。そういう国家においては、とにかく国威は隆々として上りつつある。ところが先ほど申し上げましたデモクラシーが崩壊した国家を見ますと、実に内閣は短命であります。ポルトガルやユーゴスラビアなどは、デモクラシー時代におきましては、一内閣の平均寿命数が四カ月、イタリアがムソリーニが出る前の一内閣の平均舟命数が五ヵ月、それからドイツのヒトラーが政権を取る前のデモクラシー時代の一内閣の平均寿命数が八ヵ月、フランスはデモクラシーにしていますが、しかしながらあそこでは実際にはデモクラシーは成功をおさめていないのでありますが、ここでは一内閣の平均寿命数は六ヵ月半、戦後は五ヵ月くらいの平均になっております。あそこでは内閣が無力短命、不安定ですから、デモクラシーは成功をおさめていない。だからデモクラシーが成功をおさめるためには内閣の安定が非常に必要なんですが、今日世界の国家はいろいろな方法によりまして内閣の安定をはかるという方向に向いつつありますが、われわれもこの点にかんがみまして、やはり来たるべき憲法改正には、この内閣の安定ということについて、相当重点を置いて改正をしてしかるべきだと考えております。  その他司法の領域におきましては、今日御承知のように裁判所におきましては、最高裁判所で数千件の事件がたまっているということですが、これには私はやはりいろいろな原因があると思うのです。今日最高裁判所の裁判官というものは身分が保障されており、給与が非常によく、待遇がいい。ですからこれば人間の常といたしまして安易に流れる。安易に流れることが、あるいは裁判の停滞に影響しているのではないか。これをためるためには任期制をとる。最高裁判所の裁判官も十年にする。十年にして、その裁判官の成績が上らなければ再任しない、成績が上れば再任するということにすれば、裁判官が非常に緊張して、事件というものは着々消化されてくるのではないか。
  65. 三浦一雄

    三浦委員長 次の公述人もございますので、簡潔にお願いいたします。
  66. 大西邦敏

    ○大西公述人 そういうような点におきまして、憲法改正は必要じゃないかと考えております。
  67. 八百板正

    ○八百板委員 今伺いまして、私は、より民主的にするためにどういう部分の改正が必要だとお考えですかと伺ったのですが、伺いますと、まず第一点には、公共の秩序というものをもっと守れるような点を憲法の中に強調していきたいという点や、社会正義の強調とか、あるいはまた国会の立法権の乱用と申しましょうか、そういうような点について政争の場になる点を防がなくちゃならぬというふうな点であるとか、あるいは内閣に対してもっと安定性を持たせなくちゃならぬという点、さらにまた司法権の問題などに触れられたのであります。しかしこれらは、いずれもいわゆる現行憲法を運用する過程を通じて直していける事柄であって、これ自体で憲法の改正をしなければならぬという緊急なるお話のようには伺えないのでありますが、こういうような点について議論をするわけではございませんし、私といたしましては、先ほど民主憲法擁護のためにこの憲法の改正が必要である、こういうふうな点を強調せられましたので、従って、より民主的に憲法を改めるためには、どういうふうな点をより民主的にして、憲法擁護のために憲法の改正が必要であるかという点を明瞭にしていただくように、次の機会にまた一つ御意見を伺いたいと思います。
  68. 三浦一雄

    三浦委員長 大西公述人に対する質疑はこれをもって終了いたしました。大西教授にお礼を申し上げます。ありがとうございました。(拍手)  次に京都大学教授渡辺庸一郎君。
  69. 渡辺庸一郎

    ○渡辺公述人 農政一般についてという課題を与えられまして、今日ごく簡単にかいつまんで申し上げたいと存じます。  両三年来わが国の農業をめぐる気候の変動とでも申しますか、クリマ・ヴェクゼル、気候の変動が起りまして、日本の今後の農業の行き方というものに大きな変化が起る一つの岐路に立たされておる、こういうふうに実は思うのであります。そういう意味におきまして、今日の段階における農政のかじのとり方というものが非常に重要な意味を持っておる、かように考える次第であります。  しからば一体日本農業をめぐる気候の一つの変動と申しますのは、どういう意味かと申しますならば、戦争中及び戦後の食糧不足の時代に、費用を惜しまないで増産努力する、こういう建前が農政の根本ではなかったかと思うのでございますけれども、ここに両三年来、世界全体の農業生産力が著しく伸びて参りまして、世界全体の食糧の供給はむしろ需要を上回って、年々ストックが累積されていくという段階に入って参りました。従ってわが国の食糧不足の輸入ということも前よりよほど楽になっておる、あるいはまた輸入食糧価格が年々下ってきておって、わが国の食糧経済における輸入の負担経済的なと申しますか、お金の負担が幾分軽くなってまておる。こういうふうな変化でございまして、国全体の食糧経済立場からいうならば、むしろ歓迎すべき事態であったかもしれないのであります。しかしこの気候の変化は、日本農業に対して非常につらく当るようになってきたと考えざるを得ないのであります。それは申し上げるまでもないのでございますが、年々一年に三百万トン以上の米麦が輸入され、しかもその価格が漸次下って参りますときには、日本国内産の米麦その他の農産物価格に著しい圧力を加える、引き下げる作用もする、こういうふうなわけでございまして、従って食糧経済に対してはむしろ好影響を与えたとも申せましょうけれども、農業に対してはこの気候の変化が非常にきびしい、こういうふうに考えざるを得ないのであります。その証拠といいますか、徴候はすでに現われておるのでございまして、麦類の輸入価格はすでに国内価格相当に下まわってきておる。また外米、これは東南アジアの米を主といたしますが、こういつた米の価格もかなり大幅に下って参っておる。また準内地米と称する米でも相当に下って参りまして、すでに農家の政府に売り渡しまする価格以下で入るような趨勢になってきたわけであります。こういうふうな徴候がすでに歴然としておりますし、また今度の昭和三十一年度の予算計画を見ますと、やはりそれがはっきりと出て参りまして、食糧管理特別会計におきましても、米麦の買い上げ価格は去年の買い上げ価格決定の方式によるというのでありますが、予定ではむしろ、麦類のごとき、市場の価格にさや寄せするといいますか、市場価格というのは輸入麦の影響を受けておる、そういう関係でたんだん下げていく、そういうふうな形がもうすでに現われてきておる、そういう問題が徴候として指摘できるのじゃないか、こう思うのであります。  こういうふうな状況でありまして、この日本農業をめぐる気候の変化と申しましょうか、お天気工合の変り方というものが、日本の農政の動向というものに大きな影響を持つ。これに対処する仕方としましては、できるだけ農業に対する資本投下を増強いたしまして、投下労働一人当りの生産力を高めるような方向、言葉をかえていうならば、主要農産物生産費を切り下げるような方向に持っていく。そういうことによって国際的な農業競争圧力に対処するように持っていく、これが一つでございますし、また一つは、できるだけその影響というものを、急激にではなくて、徐々に下げるように、一極の緩衝的な地帯を設けるといいますか、クッションを設けるといいますか、価格の指示制度をもって徐々にその影響を吸収していくような、そういった価格政策をとっていく。もちろんこの価格政策所得分配の政策と関連を持ちますから、これは実質的には非常にむずかしい問題でございますけれども、そういったような政策といいますか、対処する仕方で持っていくよりほかはないのではなかろうかと思う次第であります。  こういつたような方向日本の農政を今後持っていくという見地に立って、両三年来の予算の編成を見ますと、国際農業生産力競争に立ち向う力を養うような方向への国家資本投下を強化していく、あるいは農民の私的資本の投下を誘導していくような、そういう政策というものがかえって年年弱くなるような感じを、実は私は抱いておるのであります。それは単に金額ばかりでなくて、一つの経済的な考え方といいますか、むしろ健全な経済の基礎のもとにというふうな考え方が、おそらく基礎になっておるのではなかろうかと思うのであります。  しかしそこに大きな問題があるのでありまして、農業のごときはきわめて長期の政策をもってやっていかなければならないのでありまして、こういった今日の一つの変動の時期に際しまして、もう少しく遠い将来というものをも見渡して、私的投資と公共投資とを結びつけて、日本農業生産力を一段と高める方向への政策というものを、強化する必要があるように私は考えるのであります。  昭和三十一年度の予算の総額については、市場一般の状況からしてそれほど問題ないかと私思いますけれども、しかしたとえば食糧増産対策のうち土地関係――土地改良開拓その他の部面におきまして、いわゆる余剰農産物の資金をもってする事業は別問題としまして、一般の土地改良開拓としての費用はむしろ減っておる。これは数年来こういつたようなスロー・ダウンの傾向というものがはっきり出てきておるのであって、これは少しく安易な行き方ではなかろうか、もう少しく日本農業の長期的な発展というものを計画して、その計画の線に沿っていくということが大事な点ではないかと思うのであります。たとえば経済自立五カ年計画を拝見いたしますと、そこには農林水産業全体の生産性の増加、大体二〇%程度見込んでおるようでありますが、これによって玄米換算で約十三百万石くらいの増産を期待する、こういうのでありますけれども、先刻都留教授が御指摘になりましたように、これは決して十分な目標とは言えないのでありまして、従来の一年間の食糧不足米麦不足、大体三百二十数万トンというものを年々輸入する。しかし今後の人口の増加、生活水準の上昇に伴う米麦の需要増加及び減産からくるものを差し引きまして、今後輸入がふえない、一応今までの三百万トン内外の輸入でまかなっていくという計算になっておるようでありますが、これは長期的に見まして果して適正な方策であるかどうか、ここに一つの問題を持っておるのであります。日本農業全体として見まして、長期的な政策の根本をなす土地改良とか開拓等々の政策につきましては、もう少しま公共投資を増加いたしまして、そして農民の私的投資を誘導する、そういうかまえをはっきりと示していくことが大切な点ではなかろうかと実は考えておるのでございます。これが第一点でございます。  第二点は、農業の内部の生産構造についてでございます。経済自立五ヵ年計画の内容を拝見いたしますと、作物の栽培部門、いわゆる耕種農業の部門、これは生産性の増加が五ヵ年間に大体一七、八%、これに対しまして番産部門の生産性の増加、これが三〇%をはるかに越えておるように伺うのでありますが、これは今後の日本農業生産構造を変えていくというかまえであると存ずるのであります。その内容を見ますと、畜産部門の中でも、ことに乳牛飼養部門、養鶏部門、こういう部門の生産性の増強に対しては、非常に大きな目標を掲げておるのでありますが、これは将来の日本の国民所書の増大、生活水準の上外というものに見合う食糧需要の構造変化を見通してのかまえであると思うのであります。こういうふうな農業生産構造の変化につきましては、やはり慎重なかまえをもって臨むことが大切であろうと思うのであります。あまり急激に目標に持っていこうといたしますと、農業の内部における資源配置のバランスがこわれて、かえって資源利用の効率を落すというような危険もないわけではないと思います。そういう意味から、こういった農業の一つの大きな転換期の政策のかじのとり方としましては、できる限り急激な混乱を避けながら、やはり生産力を高めてやっていく。もちろんその場合に、農業は他の産業のように、多数の雇用をかかえ込んでいかなければならぬというような事情ではありません。むしろ今日一番大きな悩みは、農業者の就業人口一人当りの生産力あるいは生産数量が、他産業に比べて半分とかあるいは三分の一というような非常に低い水準にあって、そのために所得が非常に少いことであります。この問題を解決していくためには、やはり農業に対する資本の投下を増強いたしまして、そして農業から低所得雇用の状態あるいは過剰の労働力を引き揚げまして、他産業に移していく。そういうことによって農業就業者一人当りの生産性を高め、所得を増強していく。経済自立五ヵ年計画によりますと、五ヵ年間の雇用の増加はわずかに四%くらいにとどめておりますが、しかし主産力の方は約二〇%もふえるのでありますから、結局一人当りにいたしますと農業生産力ば一四%くらいにふえる、こういうふうな計算が出されておるのであります。  こういうふうなことで生産力の増強ということが――農業におきましては、農業生産規模のむしろ弱小と言っては語弊があるのでありますが、他産業はますます雇用を拡大して膨張していくに対しまして、農業ばそれについていけない、こういうふうな対照的な関係にございますが、やはり生産力を高めると同時に、農業者一人当りの所得を高めるという政策を強力に遂行していかなければならない。そういう意味から考えまして、農業内部の生産構造を、先刻申し上げた方向へ向けていくということはけっこうだと思うのであります。しかし、これをあまり急激にやって混乱を招かないようにする用意がきわめて必要である。従って、今後そういう部面におきましては、支持価格制度と市場の整備ということが非常に大野な問題である。ただ、生産構造を変えるように奨励していけばよい、あるいは財政的な投資をする、あるいは融資をするということだけではならないのでありまして、やはり親切に価格の安定と市場における配給の効率的な運営を伴うように配慮することが非常に大切であることを痛感する次第であります。  そういう意味合において、今度の予算案の中に、特に重要な政策として新農村の建設ということがうたわれております。これはかっての恐慌対策としてとられた農漁山村の経済更生運動の行き方に類するような印象を受けるのでありますが、あまりこれは数多く農村をとるよりも、少くして、そして政府あるいは地方府県あるいは農業団体等が、市町村の方々と協力して施策の統一をはかることが非常に大事なのではなかろうか。そこに一つの実験村といいますか、大きな日本農業の転換期における一つの実験的な農村、こういった問題になろうかと思いますから、その運営には特に御配慮をいただきたいと思うのであります。また従来大小さまざまな補助金をもって農業生産の奨励を行なっております。これは一極の公共投資でありますが、その効率が批判されましてだんだん整理され、むしろこれを融資の方向に切りかえて、この資本を用いる農家自体の責任においてやっていく、これに対して若干の利子補給とか危険負担をしていくといったような進み方をとっておるようであります。今度の農業改良基金制度のごときその一つの手始めともいえるのでありますが、これなども果してお上の制度としてやっていくのが適切であるのか、あるいは徳川の末期に日本農村の復興に努められた二宮尊徳先生の報徳の仕法のような形で、農民もやはりそういった基金に出資をして、そうしてこの資金を効率的に利用していくというような行き方が、むしろ民主的ないい制度ではなかろうかというようなことも、実は考えられるわけなんですが、これはあるいは枝葉にわたるかもしれません。ごく大づかみに申しまして、こういった一つの大きな農業の転換期に際しては、私はぜひ長期の経済計画にマッチする農業計画というものがあってほしい。漫然とこういつた一つの国際的な大きな変化に対して安易な処理をして参りますと、もはや取り返しのつかない状態に陥ってしまう。国家の安全と申しますか、あるいは社会の保安と申しますか、そういう価値も非常に高く認めて、単純に経済的にのみ考慮するということではなくて、もっと国家社会全体の立場農業というものを特に考えていく必要がある。たとえば北欧スエーデンのごとき非常に平和な国でありますが、こういった国でさえも総合食糧の自給度を九五%というふうなところに置いて、国民をあげて農業生産の増殖に努力してきておる。イギリスにつきましても、農業法のもとにますます農業生産力をあげるような措置をとっておるのでありまして、今日ではおそらく総合食糧の自給度は七〇%近くまで高められてきておるのではなかろうかと思うのであります。そういうようなわけでございます。また農業に対する投資の評価でございますが、一般の投資、他産業に対する投資に比べて、農業投資というものがいかにも能率的でないというふうな評価が行われがちでありますが、しかし農業資本投資というものは、四十年、五十年、八十年というような非常に長期の効率効果考えていかなければならないということと、農業以外の社会的な国民の福祉に対する効率というものも非常に高いのでありまして、こういう点も考えまして、やはり今後の日本農業が国際競争の中でしっかりした地歩を占めていくような方向に、政策をとっていただきたいということを常々念願いたしておる次第であります。  ごく大づかみに今日の、あるいは最近の、農政の大きな転換期に際して、特別に慎重に、日本農業の将来の進路というものを御検討いただきたいということをお願いする次第であります。
  70. 三浦一雄

    三浦委員長 ただいまの公述人の御発言に対しまして御質疑はございませんでしょうか。
  71. 古屋貞雄

    ○古屋委員 大体御趣旨はよくわかったのですけれども、今公述人公述された趣旨に基いて、三十一年度の予算に盛られておる予算の盛り方についての御批判を、もう少しいただけませんでしょうか。私どもが見ますと、今の御趣旨と反対のような予算の組み方が行われておるような感じがいたしますが……。
  72. 渡辺庸一郎

    ○渡辺公述人 私は予算書の正確な読み方を実はよく存じませんのですが、一つの点は食糧対策費の中の土地改良開拓その他の費用、これは数年来傾向的に下っておるように思われる。これはむしろ増額して、そうして日本の今後の農業の根幹であるところの米麦生産費というものを引き下げる、逆にいえば米麦生産力を高めて国際競争力を喪っていく、そういう方向に公共投資を増加すべきではなかろうかというのが第一点でございます。  それから価格政策でございますが、これば先刻も申し上げましたように、輸入食糧、これは昭和二十九年度の数字でございまして古いのですが、三百二十数万トンというような大量の米麦が入っております。二十九年、三十年、三十一年と年々輸入価格というものが国内産の米麦よりも下ってきておる。その下ってきておるということが、国内米麦価格というものに経済的には非常に強い影響を与えておる、こう認めざるを得ない。価格政策はそのために今後これとの調整と申しますか、そういう問題になっていくのじゃないか。私はその場合に純然たる経済主義に基いてではなくて、日本農業全体の今後の進路というものを波乱なくずっと持っていくためには、ある程度の保護は必要とする。そこに一つのクッションといいますか、そういうものを設けなければなるまい、こういうふうに思いますから、今後の買い上げ価格の決定にしましても、あるいは輸入食糧の決定にしまうても、若干そういう考慮は必要である。先刻都留君がおっしゃったのですが、たとえば輸入米麦価格が安くなっていくのにかかわらず、政府はその差金をもうけておるようなお話でありましたが、私は若干そこで調整をするということには、これはやむを得ない措置ではなかろうかと思う次第であります。そのほか生産力を高め、逆に裏からいえば、生産コストを下げるという方策でございますが、肥料にしましても、あるいは農薬にしましても、家畜飼料にしましても、いろいろなそういう生産費を下げるような方向にやはり努力を続けていかなければならない。そういう方策によって日本農業の転換期における混乱を最小限度にとどめて、そうして日本農業が国際農業生産力にとにかくついていく、そういう方向政策を向けていくべきではなかろうか、こういうふうに思うわけであります。
  73. 古屋貞雄

    ○古屋委員 今のお説はごもっともだと思うのですが、具体的に日本農業を世界水準にまで引き上げていかなければならない。生産コストを下げるのだ、そうしなければ競争に勝てない。これはよくわかるのです。従ってことしの予算を見ましても、むしろ逆に、先生の今おっしゃった、長期的な農産に関する土地改良費用でありますとか、あるいは積雪寒冷地帯の補助金というものがなくなって、その面はむしろ投資が減っておるわけなんです。一面しからばコストを下げるには高度化農業政策というものが行われなければならない。従って農業の近代化を実現する必要がある。その最も必要なものは、近代的な技術面の推進、実施ということが必要になってくる、かように考えるので、その点について考えてみますと、予算面においても、農業技術指導面に相当予算重点を置くべきだというように考えるわけです。もう一つは、従来のような流通面における協同化を推進したり指導しておりますけれども、生産面においてむしろ共同生産推進するような施策を政府がすべきだ、それに対して相当な資金投資をすべきだ、かように私どもは考えるわけであります。さような点についての先生の結論でもけっこうですが、御意見を承わっておきたい。
  74. 渡辺庸一郎

    ○渡辺公述人 農業生産力を高めるための科学技術の進歩を促進するような施策を強力に進めるべきである、これは全くお説の通りだと思うのでありますが、こういったような進歩した生産技術を個々の農家に取り入れて、生産力としてこれを実現していくという場合に、もちろん資本の投下を普通伴うわけでありますが、その場合に個々の農家の経営資本増加あるいは追加資本の増加として持っていくか、あるいはむしろ共同施設のような形で資本の効率を高めていくか、これはやはり非常に問題だと思います。現に日本農業におきましても、戦後の機械化あるいは動力農機具の使用の増加は非常に著しいものがあると思うのでありますが、これらは実はフルに使われておらないという見解を私は持っておるのでありますが、これをどういうふうに持っていったらいいか。資本効率をもっと高めるような仕方がないか。たとえば農村における実行組合でありますとか、あるいは農業協同組合でありますとか、いろいろな組織を通じて、もっと効率的に農業に投下された資本を利用していく道、これはまだ具体的に私は一々調べておりませんけれども、確かに御指摘のような問題が非常に大事であって、ことに開拓地などにおきましては、できる限りやはり共同の施設によって、投下した開拓資金というものの効率化をはかっていく。そして日本農業における小規模経営経済というものを克服していく、これがきわめて大事な点だと思っております。
  75. 三浦一雄

    三浦委員長 渡辺公述人に対しまする質疑は、これをもって終了いたしました。渡辺さんに対しましてお礼を申し上げます。ありがとうございました。(拍手)  以上をもちまして公述人の御意見は全部聞き終りました。  この際公述人各位に対しまして一言お礼を申し上げたいと存じます。何かと御多忙のところ御出席をいただき、貴重なる御意見をお述べいただきまして、本委員会今後の審査の上に参考になることが多かったと存じます。ここに厚くお礼を申し上げます。  明日は午前十時より開会いたします。本日はこれにて散会いたします。    午後三時五十五分散会