○中原参考人 私は
昭和二十七年の四月に日本女子大学の方に赴任して参りましたですが、そのころはまだ学校法人事務
局長じゃございません。事務
局長とは申しておりませんで、その
あとになりますが、そのことは略すといたしまして、四月に帰って参りまして、七月と記憶いたしますが、学長兼
理事長でございますが、そちらの方から、実は東先生の教室占拠で学校は大へん困っておる、教室が足りないということで、何とか出ていただきたいけれ
ども、もう過去何年となく出ていただけない、ついては、この問題について適当に
一つ考えて、何か方法を立ててほしい、こういう命令を受けたのでございます。
それで、私といたしましては、まず第一に、東先生が占拠しておられるかどうかというようなことを事実から
調べたいと思いまして、よく図面なんか引いてみますと、準備室と、前フランス料理に使っておりました教室、合せて二十二、三坪であったと記憶いたしますが、その教室を先生が生活のために使っておられる。いわゆる占拠しておられる。それで、先生はそれでは住宅をお持ちでないかということになりますが、道
一つ隔てました向うの同窓会の桜楓会が経営しておりますアパートがございますが、そのアパートに戦前から先生は一部屋お持ちになっておる。
自分の住居は持って、しかも学校の教室二つを占拠しておられる。こういう事実を初めに確認いたしました。
次に、私の方で問題になりましたのは、東先生が果してこの教室をおのきにならなければならぬ事由があるかどうかということでございます。ここで
一つちょっと訂正申し上げたいと思いますが、日本女子大
学教授東
佐誉子先生ということになっておりますが、そのころ、
昭和二十二年ころまでは
——たしか二十三年以降になると変ると思いますが、従来は専門学校令によります日本女子大学校と申しております。これは旧制の大学令による大学でもございませんし、新制の大学令による大学でもございません。専門学校令による日本女子大学校の教授であられたのであります。その日本女子大学校の教授としての先生の資格がどうであったか、はっきりおやめになったかどうかということをはっきりいたしたいと思いまして、そのころ日本女子大学校時代の最高決議機関でありますところの幹部会というものがございまして、その
記録を
調べてみました。そこの
記録によりますと、
昭和二十二年の四月三十日の
記録に、正式に東先生の講義を閉ざしてしまう、こういうふうな決議が載っております。そうして、この閉講の決議の
あとどういう手続をとったかということをあちこちに当ってみますと、主事をしておられた市村という人
——あとで早稲田の教授をなさった方でありますが、その方が主事として東先生にその旨を通告された。これは何人かの方々に聞きましてはっきり確認いたしております。ただし、当分手当も給与するというようなことまで書いてありますので、ここでちょっと疑問を持ったのでありますが、とにかく、はっきり閉講並びに解職という通告が行っている。のみならず、
昭和二十三年の五月十九日の幹部会の
記録を読みますと、東先生の方から、今
自分は著述中であるから、来たる七月までは部屋におらしてもらいたい、この著述が終った
あとで
自分の著述の著作権の収入から百万円を学校に寄付するということが
記録に載っております。従いまして、東先生は、そういうふうな退職と立ちのきの通告と要求を受けておられる。それを御了承の上で七月までおらしてもらいたいという申し出があった。従って、これは御
本人も了承しておられるということを確認いたしたのであります。
そういう
事情をはっきり確認いたしましたので、今度は東先生がどうしてお出にならないかということをいろいろ先生方に聞いてみたのでありますが、いろんな
お話を総合いたしますと、その
真相の
記録に書いてございますように、ただ先生のところに
お話に行くと非常にごきげんがよくて、あるときはコーヒーもごちそうしていただくというようなことであるけれ
ども、この部屋を出たらどうかとか、あるいは出て下さい、そういうふうな話になりますと、先生の態度が一変して、ある人は手を振り足を踏みならされて先生から威嚇された、ある人は塩をまかれたというようなことで、もっとひどいそのころの話も出ておりましたが、それは
自分がはっきり見たという人がないために、ここには書いてありませんが、とにかくそういうふうなことがありまして、どうも先生方がみな手を上げ、学校
当局も手を上げておられる。のみならず、東先生と同級の親しい方でありますある教授に、私こういうことを頼みました。私が行けばかどが立つから、先生の方から
一つ東先生にお会いいただいて、友だちとしてお勧めいただけないだろうか、こういうことをお願いしたことがございますが、いや、実は、
自分も話に行って、そういうことを言うてくるならばあなたの孫子までのろってやる、こういうふうに言われて、私は
自分がそういうふうにのろわれるのはいいけれ
ども、
子供、孫までのろわれては困るから私は行かない、そういうふうな
お話もございました。結局、結論といたしましては、そのころ、
高橋錬逸といって学校の
理事をしておられる男の方がありますが、五月十九日の幹部会で、自後東先生との
交渉はこの
高橋理事に一任するというはっきりした
記録が載っておりますので、この
高橋理事が、ずっと二十五年以後、私がこの問題でいろいろお伺いするまで、月に一度あるいは多いときには二度くらいおいでになっていたと承わっております。しかも、その先生も、とてもこれは私にはだめだ、
あと一年、二年というふうに言われているが、これはなかなか解決しない、こういう状態でありました。男の
理事の方も友だちの先生方も、もうほとんどみなどうにもしようがないというありさまで、手を上げておられたという状態でございます。
それで、私は、これはもう何か感情問題かあるいは東先生の方に非常に刺激されるようなことがその間あったのではなかろうか、こういうことであれば、もうそこは話し合いができないのじゃないか。しかし
自分も一ぺん先生にお目にかかってみたいということで、
高橋錬逸という方に、私を連れていって下さい、こう申しましたけれ
ども、君、それはだめだ、もう私が今まで何年となく会っておって
お話するけれ
ども、とてもだめだ、君が会うといったって、会ってもいただけない、そういうような話もございまして、とめられて、私もそのまま引き下ったのでありますが、そういう状態でありますので私といたしましては、
理事会に三つの提案をいたしました。ただいま荘先生からちょっと
お話がございましたように、第一は、民事裁判と申しますか、調停裁判と申しますか、その裁判によってはっきり物事をきめていただく、それから、第二のことは、もしそれが大げさであるとお考えになるならば、所轄の
警察の署長さんにでも中に立っいただいて、
警察の立ち会いの上でこの問題を何か解決していただく方法がないであろうか。第三の問題といたしましては、もう学校が手を上げておりますので、これはやはり肉親の方によく先生に
お話をしていただいて、その肉親の方の御協力によってこの問題を解決していただいてはどうか、この三つの私の考えを提出いたしました。そうして、学内
理事会と申しまして、卒業生の御婦人の先生方が四人
理事でおいでになりますが、この先生方のいわゆる学内
理事会に私の案を出しました。ところが、その四人の先生も、みな昔から東先生と同僚であり、またそのうち二人の先生は
自分の教え子であるというようなことを
理由になさいまして、裁判では気の毒だ、
警察に
お話するのも東さんに対して気の毒だ、だからこの第一と第二は困る、だから、第三の、肉親の協力を得て何か円満に解決する方法に向って努力してもらいたい、こういう
お話がございました。それで、私は、弟さんあるいはお母さんがおありになるということだけは伺いましたのですが、どこにおいでになるかということがわからない。それを
調べなければならぬということになっておりますときに、校舎の増築が三つばかり一度に参りまして、非常にごたごたいたしましたので、そのままにしておきましたところ、和歌山のある卒業生の方が、学校の先生に手紙を書きまして、私が大陸から引き揚げて和歌山の郷里に帰ったときに、村役場にお勤めになっておる東先生の弟様に大へんお世話になった、こういう手紙が参りましたので、そこで、その先生が、弟さんの居所がわかりましたよとおっしゃったのが、
昭和二十九年の二月か三月ごろだったと記憶しております。それではさっそくその弟さんにお目にかかろうというので、私、弟様に連絡する手紙を書いたのでございますが、手紙を書くよりもさっそく行った方がいい、こういうふうな皆さんの御意見でございますので、家政学
部長をいたしております月田という先生と二人で、たしか二十九年の四月十二日に和歌山に着きました。
弟さんにお目にかかったのは十三日ごろであったと思います。そのとき
お話しいたしました内容については、一昨日でございましたか、弟さんがここでおっしゃっておった
通りでありますが、なお少し補足がてらもう一ぺん私の記憶によって繰り返しますと、姉は
——弟さんのお言葉で、性格異常だ
——先ほど荘先生は、精神異常とおっしゃっておいでになりますが、私の記憶では、性格異常とおっしゃいました。小さいときからいろいろ変ったところがある、いつも会うときには怒られてばかりおって、
自分の言うことはほとんど聞かない。そういう性格であるので、一度がんばり
通りしたら、だれが何と言ってもその言うことを聞かないような強い性格を持っておる……。だから、私そこへ参りまして、学校の窮状を訴えて、学校の方針がこうでありますからというので弟様に協力を願ったのでありますが、そういうふうな性格があること、また、過去の経験では、私が姉に会ってもしかられるに終る、これにとどまる、何も
自分としては解決の力を持たない、だから
自分は行かない、ただ、
——井上秀子という先生がありますが、これは日本女子大学校の総長を勤めておりましたのですが、この井上先生は、姉の
——東
佐誉子先生ですが、姉がフランスに留学するときにいろいろお世話になっておる、だから井上先生のおっしゃることならば姉も聞くと思う、もし井上先生の言うことを聞かないようだったら、もうだれが何と言おうと言うことを聞かない、とことんまでがんばり通す、そういうふうな性格の者だ、だから
——今度は弟さんの方から逆に提案がございまして、井上先生に
一つ説得をお願いしていただきたい、もしそれでいけなければ、学校が裁判にかけて立ちのき命令でも出してもらって、表面そういうふうに法的にぴしゃっと手を打って、裏面どこか卒業生の方々に会って話をしていただいて、そうして姉を招聘するという形で、いいポストを与えていただければ、あるいは姉も心機一転してそういう
方向へ動いていくかもしれない、だからそういうふうな手を
一つ打ってほしいという弟さんの逆の御依頼がございました。
そういうことになりましたので、帰りまして、それを一応学内
理事会に
報告いたしまして、井上先生、御苦労ですが、
一つこういう弟さんの御希望でありますので、東先生に
お話しいただけませんかと申したのでございます。井上先生は、もう私はだめだ一。よく聞いてみますと、いつか東先生に
仕事をやめろとか部屋を出ろというようなことをおっしゃったそうでありますが、そのときに東先生がやはり手を組み足を踏み鳴らして非常に
自分を非難された、もうあの態度は、これは絶縁を意味する、私がもう何と言っても東さんは聞いてくれない、これはだめだ、こういう
お話でありました。それで、今度は法的に云々という弟さんの
お話でもありましたが、これは、法に訴えるということは、初めから学校はやらないという方針でございますので、それではどこか関西の方に
一つポジションを探して当ってみようということになりました。なお、その前に、弟さんにお会いしましたときに、弟さんがこういうふうにおっしゃいました。弟さんの非常にりっぱなお気持でありますのでお伝えいたしたいと思いますが、先ほど荘先生から
お話ししましたように、病気の看護が悪かったから、もう将来お前とは縁を切る、きょうを
自分の命日として心得てもらいたいということを言って出ていったけれ
ども、やはりこれは私が姉の死水をとらなければならない、しかしながら、先生の妹さん、束論さんのお姉さんになる方があったそうですが、その方がなくなられたときも姉は帰ってきてくれなかった、母もだいぶ高齢でどうなるかわからないけれ
ども、そのとき
一つ帰ってもらいたいと思う、もしこの前のように姉がおりながら帰ってこないと、
自分は非常に世間に肩身が狭い、ほんとうはもう姉がこっちの方へ帰ってきて
自分のうちに落ち着けば、
自分も姉のめんどうを見ながら、世間の方も体裁がよくなるので、できるならば大阪あるいは和歌山、そういう方面に
一つ姉の
仕事を探してほしい、こういうことがありました。ちょうどそのころの学長の大橋と申しますのが同窓会のことで関西に参りますので、そういうふうな弟さんの申し出があったから、大阪の同窓会の席上そういうふうなお願いをしてほしい。そうして何とか大阪あるいは和歌山の方へ東先生のいいポストができますように
一つお話ししてもらいたいということを申し出ました。たしか、二十九年の七月に外国に立っておりますので、その前でございます。五月か六月と思いますが、井上先生とお二人で、大阪の同窓会の席上で東先生の就職方を依頼いたしました。その場合に、もう東先生は困るというふうな話が出たということを申しておりました。なぜ困ったかということは、別に
理由があるのでございますが、これは略します。とにかく断わられた。こういう状態になっておりました。それで、一応弟さんの申し出も実を結ばなかった。こちらから弟さんに対する御相談も御協力を得なかった。こういう状態になっております。
もう少し経過を
説明するのですか。