○稻村
委員 今の山崎さんの御
意見は、
日本に天皇はおられるけれども行政権を持っておるのじゃないのだ、普通の君主が行政権力を支配している君主国と違うのだということだろうと思うが、それはむろんその
通りだと私は思うのです。そうなると、どうも自由党の草案はおかしいのです。
日本国の元首で
国民の総意により国家を代表する。それから国防の義務をきめるということがあるのです。現
憲法にはないのですが、自由党の草案の中に国防の義務をきめまして、「国防の義務、遵法の義務、国家に対する忠誠の義務を規定する。」こういうことになっているわけです。それが問題なんですが、山崎さんのおっしゃったような
解釈なら差しつかえないのですが、「国家に対する忠誠」ということになってきますと非常に問題があるわけなんです。大体
日本の国家論というのは、これはいろんなことを言いますけれども、国家というものは最高最良のものだ、最高の道徳であるとか、最高の善であるとか、こういうふうな国家に対する絶対的な善の観念ですね。これはヘーゲルの哲学から来ているプロシャから入った思想ですが、こういうふうな国家万能主義の教育、それによってあなた方が出られた帝国大学を作った。それが官僚の思想であり、それがひいては一般
国民の思想になったわけなんです。こういうことを私どもはよく
考えなければならぬ。ここでいう国家というのは、私はこれが非常に危険だと思うのですが、ただ国とか家とかいうのならいいけれども、これを法律的にいうときは、結局どうしても国家権力を
意味するようになると思うのです。ここに多くの間違いがあったのです。
そこで古いことを言うようですが、戦争中の議会ですけれども、私が議会を傍聴しておりましたとき、近衛公爵が、
国民は国家のためにあるのであるか、国家が
国民のためにあるのであるかというある議員の
質問に答えて、国家は
国民のためにあるのじゃないんだ、
国民はむしろ国家のためにあるんだ、こういう
答弁をしている。これは驚くべき
答弁でありまして、これがいわゆる神権説につらなるわけなんですが、これが
日本の過去の思想だった。これはプロシャから来ている思想なんです。最近
アメリカでアイゼンハワー大統領とイーデン
首相が会って、そして何か声明をした。これは多分、英米が全体主義国家と
考えているソ連に対する
一つの声明だと思うのです。私は、ソ連は全体主義国家と思いませんけれども、英米の政治家はソ連を全体主義国家と規定している。その中に、
国民は国家のためにあるのじゃない、国家は
国民のためにあるのである、こういう声明をしている。これはいわゆる主権在民の
考えからいえば当然のことなんです。国家というものは
国民のためにあるのであって、近衛さんの言うように、
国民が国家のためにあるのじゃないことは明瞭なんです。それでこの国家というものが非常に問題なのであって、法的に
考えて国家は国家権力だと思うのです。これは明瞭だと思うのです。それで、天皇が国家権力を代表するというふうなことになったら、これは大へんな問題になると思う。それから自民党案の国防の義務の中に、「国家に対する忠誠」という
言葉が出てきている。これは私どもから言えば非常に危険な思想です。こういうふうなことによって、
憲法を思想によって改訂されれば、幾らあなた方が主権在民とか何とかいっても、主権在民は完全にじゅうりんされるのです。そこで私は、この問題ははなはだ抽象的なようであるけれども、重要な問題だから申し上げるのですが、主権在民を守る守るといって、民主主義を守るといっても、要するに帝国
憲法に対する郷愁、これはなかなかわれわれ明治教育を受けた者の頭から離れない。国家万能主義の教育、これによって再び国家万能主義に戻る、こういう危険が
憲法改正の背後にあると私は思う。特に私は保守党の人にはこの
考えは強いと
考える。この点に対しまして、清瀬さんや山崎さんのお
考えを聞きたいと思う。