○吉川
公述人 御諮問になりました
公職選挙法の
改正に関する
法律案につきまして、
意見を申し述べたいと思うのでありますが、まず第一に、
政府案を中心として
意見を申し述べてみたいと思うのであります。
今日、私は、この小
選挙区制
法案という言葉それ自身が非常にあいまいだと思うのであります。私は、厳格に、一人一
選挙区制と申したいのであります。これは、英語で申しまするならば、シングル・コンスティチュエンシー、英米では、
選挙区制の問題については、シングル・コンスティチュエンシー、プルーラル・コンスティチュエンシー、単数と複数とに分けておるのであります。
日本では大中小といっておりますが、その
意味においては、小
選挙区制というのは、現在のが中
選挙区制であれば、三人のようなものでも私は小
選挙区制と言うことができると思うのであります。
日本タイムスでありましたか、ちょうどこの
法案につきましてスモール、コンスティチュエンシーという言葉を使っておりますが、スモールとシングルとは違うのであります。新聞等では小
選挙区即一人
選挙区制と、こういう解釈をしておるようでありますが、学問的には、私は厳格にこれは分けなければならぬものである。あとから申し上げることに関連性がありますから、まず最初にそういうことを申し上げておきたいと思うのでありますが、それは
つけたりであります。
政府案を通じまして一番重要なことは、
国会及び新聞紙並びに世間等においていわれております一人一
選挙区制の可否の問題につきまして、何か、法律とか
制度とかいうようなものが、幾何学の公理のように、架空に現実から離れて存在し得るものであるかのような建前において、
制度だけを独立的に論議されておる
傾向が非常に強いと私は思うのであります。これは、私たちの
立場からいたしますると、まず第一にお
考え直しを願いたいと思うのであります。一人一
選挙区制がよいとか悪いとかいうような問題ばかりが論じられておりますが、もうそれはほとんど論じ尽されておると思いますから、私は重複して申しません。私は
政治学を二、三の大学で講義をしておりますが、きわめて初学的な
政治学のテスト・ブックに、そんなことはいやになるほど書いてあることであります。一人一
選挙区になれば、
選挙民と
候補者との
関係が非常に密接になるとか、あるいは二大
政党の発展ということに貢献するとかなんとかいうことは、みんな書いてある。その欠点としては、情実因縁が大きくなるとか、小ボス的な人物が出るとかいうことは、おそらくこの
委員会でずいぶんたくさんの人に聞いたことだと思います。そんなことはわかり切ったことだと思います。そんなことから一歩も出ないようなことを繰り返して論議しておったところで、無
意味であると思います。新聞紙上等において現われる言説も、そんなことばかりが言われておる。論議の焦点がはずれておるということを、まず第一に申し上げたい。
しからば、その論議の焦点になるべきものは何であるかというならば、その利害得失があるところの一人一
選挙区制というものをば、時と所との
関係において、現実の今日のこの
日本に実行したときには、どういう結果を来たしてくるか。その利害得失相伴うところの一人一
選挙区制を実施して必然的に起ってくる現実的な
政治的な効果というものをば対象にして、論議されなければならない。これが論議の焦点でなければならぬということであります。
しからば、この一人一
選挙区制が今
国会を通過したものとして、すぐに実行されることといたしまするならば、どういう結果を現実の
日本の政界に来たしてくるかということであります。それは、言うまでもなく、端的に現われて参りますところの問題は、
反対党――野党でありまする
社会党の衆議院内におけるところの
勢力というものが著しく縮減されまして、大体において、私の見まするところにおいては、現在の
社会党の議席は三分の一に減少してしまう。よく見ても半分以上を出るということはまずないと推断することが、私は正しいと思うのであります。それはどういう数量的な
基礎に基いて言うかといえば、これは常識的にお
考えになっても、今日
社会党の人がどういうような
関係でもって当選することができるかというならば、今日の三人ないし五人の中
選挙区において、三人区ならば、その三人のうちの一人を何とかして議席を獲得するように当選さしていく。あるいは四人、五人の
選挙区でありますならば、その四人五人の中で一人とかあるいは二人とかを、
労働組合あるいは月給
取り、小市民層等の横断的な票を
基礎にして、
社会党の人が辛うじてその四人あるいは五人の
選挙区に一人ないし二人が出て参りまして、今日衆議院の議席の大体三分の一を獲得することができるということになっております。繰り返して、また、そういう数量的な私の推断の
基礎を、今日行われている
選挙区制における一人一
選挙区制、すなわちシングル・コンスティチュエンシーの
選挙は何によって行われているかといえば、ほかの
選挙にも行われておりますが、参議院の地方区等にもそういうところがありますけれ
ども、全国を通じて行われておりますものは、地方自治体の首長の
選挙であります。すなわち都道府県の
知事の
選挙及び
市町村長の
選挙は一人一
選挙区制であります。シングル・コンスティチュエンシーの
選挙制度において、今日
選挙が行われておるのであります。町村合併によって、町村の数は一万何千から今日では四千台に減少しておりますが、この五千に満たないところの全国の都道府県市町村の自治体において、その
知事、
市町村長が、しからばどれだけいわゆる革新派から出ておるかというと、大体において一割にも達していないのじゃないかと思います。例外的に、北海道の
知事が
社会党から出ておるとか、長野県の
知事が出ておるとか、京都府の
知事が出ておるとかいうことはありますけれ
ども、全国を通じて数量的に皆さん方がしさいに御吟味になりますならば、私はその数はおそらく一割にも達していないだろうと思うのであります。だからして、同様に一人一
選挙区制が衆議院議員の
選挙区制に行われるならばどういうことになるかというならば、大体それを
基礎にして当選してくるであろうところの、いわゆる革新派の議員の数というものは、これは数量的にかなり確実なところの
予想がついてくるのであります。これが論議の中心でなければならぬのであります。
政治学の初歩の教科書に書いてあるように、わかり切ったような一人一
選挙区制の利害得失なんかを、堂々たる
国会議員がこの
国会議事堂で時間を費やして論議されておるようなことは、私たちから見ると、はなはだ噴飯にたえない。新聞なんかそんなことばかりをやっきになって書いておるが、問題は、このように野党の代表的
政党であるところの、普通の言葉でいわゆる
革新政党といわれておるところの
社会党が、今日の議席の三分の一の
政党に転落し、よくても半数を出でないような微小なるところの
勢力に転落してしまう。その
勢力が縮減されるということが――私は決して
社会党のひいきをするものではありません。今日の
社会党にも非常に不満を持つものでありますが、これが果して
日本の国民の
政治生活の前途によきことをもたらすであろうか、あるいはそれは悪いことになるのではないかということが、私は、この
法案を論議していただくところの、国民も、言論機関も、
国会においても、論議の焦点に置いて、
一つ御吟味が願いたいと思うのであります。このことをまず第一に申し上げておきたいと思うのであります。
それで、今一人一
選挙区制を主張する人の主張を聞いてみますと、二大
政党の樹立ということに、この一人一
選挙区制が
基礎的に貢献するといわれておることであります。それは
政治学の
基礎的な教科書にはみな書いてあることであります。ことに英米の教科書にはそういうことをみな書いております。そこで
一つ二大
政党ということについてお
考えを願いたい。今日
保守合同が行われて、また
社会党の左右の合同が行われて、二大
政党ができたといって、その合同は一応国民に歓迎されたのであります。しかしこれは二大
政党の域にはまだ達していない。
イギリスの
保守党と労働党、あるいはアメリカにおける共和党と民主党のような、相拮抗するところの
政治的
勢力と、議会における数的議席が、互いに一対一の
立場にまでその
勢力が伸びておりますときに、初めて二大
政党といえるのであります。ところが、今日の
社会党は、民自党に比べますならば、わずかにその半分の
勢力を辛うじて持っているにすぎない。二対一のこの
勢力で二大
政党もくそもあったものではないのであります。だからして、ここに二大
政党を樹立するということが
議会政治のいい道である。それにつきましてはいろいろお
考えの違う人があるでありましょうが、私は、それはできるならば、そういう英米のような二大
政党拮抗の形に
日本の
議会政治を持っていくことがいいと、私は
考えております。そういうことをするということでありますならば、むしろ民自党の半数の
勢力しか持っておらぬところの
社会党というものをば、民自党に対抗する
勢力にまで
一つ盛り上げる、伸ばしていくということこそが、ほんとうにその言う
意味である二大
政党主義実現のために貢献するところの道でなければならぬと
考えるのであります。
ところが、今、
保守派の方においては、対
社会党について、一面においては二大
政党のためにやるのだ、やるのだということを言いながら、しからばその首脳者がどういうことを言っておるかということを調べてみますと、私は、その代表者としての、
保守党の総理大臣の職に過去においてつかれ、また今日においてもなっておられるところの二人の総理大臣であった人及び総理大臣である人の言を引用して、皆様たちに御考慮を願いたいと思うのであります。前総理大臣であった吉田茂さんは、かつて、
日本の
議会政治を完成していくためには、現在の
社会党を育成していかなければならぬということを言ったことがある。当時、
社会党の諸君は、それを聞いて、吉田のやろう何を言いやがるのだと言って、なまいきだというようなことを言った人もあったようでありますが、私は第三者として冷静にこれを見ますならば、吉田さんがどういう動機でそういうことを言ったのか。ただ単なる
政党人としてのデマゴギーとしてそういうことを言ったのかもしれませんが、私はそういうように悪く解釈したくない。ステーツマンとしての吉田茂さんの心情を吐露したものであるとするならば、これがほんとうに
一つの
政党の党員であるというような小さな偏した
考えを捨てて、
日本の国の
政治をどこへ持っていかなければならぬかということを総理大臣の責務であると
考える
政治家からするならば、この吉田茂さんの言葉は私は正しいと思うのである。ところが、今総理大臣でいらっしゃるところの鳩山さんは、
社会党についてどう言うていらっしゃるかというと、新聞紙の記事によりますると、こんな
社会党は減殺しなければならぬ、減じ殺してしまわなければならぬということを、共立講堂その他の演説会において、卓をたたいて、涙を流さんばかりにして叫んでおられるということが新聞記事に出ておりましたが、この吉田さんの、
社会党を育成していかなければならぬという言葉と、
社会党の
勢力を減じ殺してしまわなければならぬというところの、
保守派の二人の代表者の対照的な
意見というものは、どっちが正しいか。私は、吉田さんの、育成していかなければならぬという見解にくみするものであります。個人としては、鳩山さんが非常に話が上手で、いかにもリベラルな感じのする好意の持てる人でありますけれ
ども、鳩山さんの
政治的なお
考えというものは、現下における
日本の
政治を指導するところの、ほんとうのステーツマン・シップを持ったところの総理大臣であるとはいいにくいことを、私は非常に遺憾に思うものであります。そのようにして
社会党が現在の三分の一の
勢力になってしまったならば、今度の
政府案によりますと、定員は四百九十七名ということになっておりまするから、五、六十人の
政党に
社会党がなってしまいまして、片一方は四百何十人という
政党になってしまうのでありますから、もうこれは、自民党の
立場からするならば、ものの数ではないのであります。そんなものを歯牙にかける必要はない。
社会党のやつが幾らわめいていたところで、あんなものはほったらかしておいたらいいという
考えになるのは当然のことであります。
そこで、
政党というものは、政権獲得のために
組織されたる戦闘的な
団体でありますから、政権獲得のために、このでき上りましたところの、国民の一部に歓迎されているところの
保守合同は、再び再
分裂をいたしまして、自由党と民主党の形、あるいはずっとそれ以前の形、政友会と民
政党等々の対立によるところの
保守の再
分裂が起って参りまして、言われるところの二大
政党は、今日国民の歓迎しているのは、
保守か革新かの二大
政党の対立を期待いたしておるのでありまするけれ
ども、その
革新政党は見る影もない微小なる
勢力に落下してしまうのでありますから、
保守の再
分裂による
保守の二大
政党が必然的にでき上ってくる。これは、私は太鼓判を押して、その
通りになると予断いたしましても、私の予断は間違いないと思っておるのであります。この一人
選挙区制の実施によって必然的に起ってくるところの事実、これがこの
法案を審議していただくところの焦点でなければならぬ。世間のこれに対する論議は全然的をはずれておるということを、どうぞお
考えを願いたいのである。
そこで、
社会党の本質の問題でありますが、私は、今日の
社会党については、相当なる不満を持っております。過去におけるところの、この無産
政党の、
社会党の
基礎をなしました諸君が持っておりましたような、たとえば安部磯雄さんが持っていられたような高きヒューマニズムのかおりというものは、あまり今見ることはできない。あるいは、大山郁夫さんが、われわれの行くところは墓場である、牢獄であると絶叫せられたところの、この烈々たるところの闘争的な意思というものは、私は今日の
社会党には非常に影が薄くなっていると思います。そういう点は私の個人的な不満でありまするが、一面において、
社会党はまた、昔に比べるならば、きわめておとなしい
政党になってきておると
考えるのであります。去年の秋でありましたが、京都大学に
日本政治学会の大会が開かれまして、そこで、戦後における
政党の役割というので、きょうも私のあとで
公述せられまするところの早稲田大学の吉村博士が、
保守党の役割について講演せられました。そうして他に一私立大学の学長である
政治学者から、戦後における
社会党の
日本の
政治に貢献したる役割についての講演があったのでありますが、そのときに、その人が言うのには、戦後の
政党としての
社会党が
日本の
政治、国民の
政治生活に貢献したる最大のものは何であるかというならば、それは、この戦後の敗戦によるところの、いわゆる民主革命と呼ばれておるところのもの、全く革命に値するところのものであった新
憲法の制定といい、それに現われたる人民主権の思想、あるいは
労働組合法の制定によるところの労働者の団結権、罷業権、
団体交渉権等の労働三権の
公認であるとか、あるいは婦人に参政権を与えたことであるとか、あるいは農村の民主化のために農地を小作人に解放したことであるとか、こういうことは、非常にドラスティックな、旧
憲法時代においてはとうてい
考えることのできない――あの封建的な旧
憲法と、そしてわれわれが子供のときから育成されてきたあの教育勅語の思想からするならば、とても
考えることのできないような大きな
政治的革命が行われた、その大きなドラスティックな
政治的な革命が、今日において一応国民の間に安定感をもたらすような結果を来たしておる、そういう戦後における民主革命の安定感を与えたところのものは、すなわち
社会党の母体をなした大正年間から過去三十年にわたるところの、社会運動や無産
政党運動等に一身を犠牲にして、あるときは牢獄に入れられ、ブタ箱に入れられ、一家離散し、貧困のどん底に陥りながらも、このために戦ってきたところの志士的な、いわゆる無産
政党、社会運動家の
努力の数十年の堆積というものを通じて、その間に
日本の国民が一応そうした民主主義あるいは民主
社会主義の精神を理解したことが、すなわち今日のこのドラスティックな新
憲法を中心とするところの、民主革命のこの安定が国民の間にもたらされたその最大の原因であって、それが
社会党が
日本の国民生活の進歩発展のために貢献したところの最大の貢献であるという研究発表があったのでありまするが、私は学校の先生が言うことを必ずしもそのままうのみにして背定するものではありませんけれ
ども、この言は私は実は正しいと思っておる。それは、その無産
政党者が今日の
社会党を生むに至りたこの数十年間の志士的な犠牲的行動というものは、ちょうど今日の
自由民主党の、過去の歴史におけるところの、明治初年の自由民権運動のために同様に身命をなげうって
努力せられたところの、自由民権の志士の精神の堆積が今日のものを生んでおると思うのであります。ところが、こうしたパイオニアの美しき高邁なるところの道義的な精神とヒューマニティは、その
政党がだんだんと量的に大きくなるとともに失われていくのは、今日の
社会党においても、今日の
自由民主党においても同じじゃないかと思うのであります。これは残念なことでありますが、そういうように私には
考えられるのであります。そこで、そのように欠点は持っておりまするけれ
ども、そういう今日の
日本の政界における革新的な
勢力として、ここに数十年の歴史の上に打ち
立てられてきたところの
社会党が、欠点は持っておるけれ
ども、これを今言うように一人一
選挙区制でも鳩山総理大臣が言われるように減じ殺してしまうのであります。その
勢力を減殺し、たたきつぶしてしまうところの行動に出ることが、果して
日本の国民生活や
政治の向上のためにいいことか悪いことか、実に重大な問題であるということを、どうぞ皆さんたちにぜひお
考えを願いたい。ことに私は、
自由民主党の幹部の諸君に対して、ほんとうに愛国の熱情を持った皆様たちの良識と良心とにアピールしたいと思うのでございますが、どうぞぜひお
考えを願いたいと思うのであります。私は、そういう挙に出るということはよろしくないことであると
考えておるのであります。
それで、なぜいかぬかということにつきましては、時間がございませんから、非常に省略いたしますが、今日の
日本の歩んでおります
政治的な行程というものが――私は、三十数年前、一
政治学の学生といたしまして、一年間ばかりドイツで学生生活を送ったことがあるのでございますが、第一次世界大戦後のドイツが歩んだと同じ地獄の道を、今日
日本の国民は知らぬ間に歩みつつあるということであります。と申しますのは、御
承知のように、ドイツは第一次世界大戦で負けまして、そして共和革命が起って、いわゆるワイマール
憲法が制定せられたのであります。そして、あのワイマール
憲法は、第一条第二項において、主権は人民より発するという人民主権の精神を明確にいたしまして、そしてその中には多分に
社会主義的な要素も加わっているところの
憲法でありますが、今日の
日本の国民と同じように、十九世紀の中ごろ以来、長年の間、ビスマルク、モルトケの軍国主義や
国家至上主義でドイツの国民というものは教育されてきたのでありますから、そういうワイマール
憲法が指示しているような人民主権とか民主主義とかいうようなことはわからない人が非常に多かった。相変らず封建的な、軍国主義的な、
国家主義的な
考えを持っている者が大部分でありまして、
憲法は非常にりっぱな
憲法ができたのでありまするけれ
ども、そのワイマール
憲法の精神を理解するところの明を持たない者が多数であります。あまたの賠償金の問題であるとか、世界的不景気の問題であるとか、いろいろな外的な圧迫もあり、そうしてまた比例代表
制度のために絶対過半数を占める
政党ができないで、
政局が不安定であったというようなこと、第一党であったところの社会民主党に労働者が投票しても、絶対過半数を占めていないために、その社会民主党は単独の政権を持つことができないで、多く傍観者の地位に立って、中間的な連立政権に
内閣の権力をゆだねておったというようなこと、そんなことがいろいろ相待ちまして、
議会政治なんというものはだめだ、幾ら自分の信ずるところの
政党に投票したところで、その
意見が行われるものじゃない、そういうようないろんな原因が重なっておりますところへ、十八世紀、十九世紀からの、今日の
日本と同じような、久しく半封建的な
政治的な見解で教育されてきたドイツの国民の欠陥に乗じまして、あの不世出の扇動家の天才でありましたところのアドルフ・ヒトラーが台頭いたしまして、その民心の虚につけ込んで、あのナチスの台頭になりました。そうして彼は比例代表制を通ずるところの
選挙によって、ナチスの
政党はドイツ
国会――ドイチェ・ライヒスタッハの多数党になりまして、その多数党の
勢力を通じて自己の独裁権を確立したのであります。
議会政治におきましては、多数党というものはその権力が強いのであります。
イギリスのことわざにありますように、男を女にしたり女を男にすること以外は、
イギリスの
国会の多数党はどんなことでもできる。私は、今日の自民党の方は、どんなことでも――この
法案を出して
国会を通過させることができる絶大な権力をお持ちになっておるのでありまするから、その権力に応ずる自己の
国家に対するところの責任の重大性ということを痛感して、そうしてきわめて厳粛な気持でもって国事に携わっていただきたいと思うのでありますが、その議会の多数党となりましたところのナチスは、ここでドイツ国民の経済窮乏を救済するところの
法律案というものをドイチェ・ライヒスタッハに提案いたしまして、そのナチスの多数でもってこれを直ちに通過させてしまったのであります。ところが、名はなるほどドイツ国民の経済窮乏を救済する
法律案でありまするから、名だけ聞くならばだれも
反対のしようもありませんが、その実は、その法律を通じて、すなわち一切の権力というものをば総統であるところのヒトラーに委任してしまう内容を持った法律であって、いわゆる全権委任法がそこで制定せられたのでございます。かくして、ドイツの軍国主義は復興し、あるいはフランスに対する、あるいはオーストリアに対する、あるいはチェコスロバキアに対する、あるいはポーランドに対する、ああいうような帝国一主義的な侵略がまた繰り返されまして、一時はよかったのでありますが、
日本の軍閥の侵略戦と同じように、その結果はどうなったか。さんたんたる第二の敗戦を喫しまして、ドイツ国民というものは、実に、
日本の国民と同じような、言うべからざる悲劇のどん底に陥れられたのであります。今日一人一
選挙区、小
選挙区、しきりにその可否を現実の
政治から離れて、ただ独立して
制度を論議されておりますが、おそらくは、ドイツの国民の間には、そのときドイツ国民の経済窮乏ばかりを救済する
法案の
制度的可否ばかりが論議せられておったでありましょうが、その結果は、全権委任法となって、ああしたドイツの軍国主義の復興を見たのであります。鳩山さんは、議会では、あなたはこの一人一
選挙区制を
憲法改正のために行うのではないかという質問が起ると、
憲法改正は一人一
選挙区制とは別の問題でありますということを答弁しておられますが、一面において、鳩山さんは、声を大にして今日の懸法を
改正せなければならぬということを言っていらっしやる。ここで、
憲法改正の目的からいたしますと、わずかに三分の一を数名越しているところの、いわゆる革新陣営の議員の数というものが目の上のこぶでありますから、何とかしてこれをたたき落さなければならぬということも
考えていられるでありましょう。幾らそれは別の問題であるといったところで、国民は、そんなことはよっぽどばかな人でない限りは、鳩山さんが言った
通りには解釈していない。
憲法改正のためにやるんだ、あるいは今日の戦後におけるところの、いわゆる民主主義の
政治と言われるものをば、戦前の明治
憲法の時代の
政治にできるだけ復帰さすということの
政治的意図を持ってそれが行われる、そういう
政治のためのいわばこれは全権委任法であります。一人一
選挙区制が行われるならば、鳩山さんの一番きらいである
反対党というものは、見るかげもない
勢力に転落してしまうのでありまするから、そういう
政治をもたらすためのこれは全権委任法であるということを
考えて、それを第一義の問題として論議するのでなければ、単なる
制度論は全くナンセンスであって、笑うべきことであります。どうぞ、
国会議員の
方々はそのことを対象として論議していただきたいと思うのであります。
憲法の問題は論議いたすと時間がかかりますから、このことにつきましては時間を省略いたしますけれ
ども、一月の十一日に
政府案に
賛成される証言をされました
矢部貞治さん、私はその
反対派の議論を読売新聞に発表いたしておるのでありまするが、この前の
内閣の
選挙制度調査会では、五人の学界代表の中で、一人一
選挙区制に
賛成の意を表せられたのは拓殖大学総長の
矢部貞治さんだけでありまして、あとから述べられる吉村博士ら私
ども四人の
委員、五分の四まではこれには
反対であったということを、どうぞ御記憶が願いたいのであります。時間の省略上これをちょっと朗読さしていただきたいと思いますが、一節だけです。長いのでありますが、一節だけ。「敗戦前の
日本国民は、第一次大戦前のプロシヤ王国
憲法の翻訳焼直しに過ぎなかった明治
憲法と」明治
憲法というのはプロシヤ
憲法の翻訳なんですよ。これはみな
日本で秘密にしておった。自民党の先輩である星亨さんが、それを暴露したために、一年八カ月牢屋に入れられた今日でもそういうことは知らぬ人が多いのです。外国の学者はみんな知っているのです。こういうことを知らぬで
憲法改正を叫んだところでナンセンスです。プロシヤ
憲法の焼直しに過さぬ「明治
憲法と旧いプロシヤ主義官僚の書いた、あの教育勅語」井上毅なんかが書いたんですね。「教育勅語とによって子供の時からただ一筋に教育されてきたものばかりなのであるから」私たちもその一人でありますが、「デモクラシーとか、人民主権とかの真の理解からは縁遠く、それらの精神は明治
憲法からは絶対に生れては来ないものなのである。しかるに各大学では、」これも重要なことですから
一つお聞きおきを願いたいのでありますが、「その旧
憲法の学者が、戦前のまま教壇に居残って、自分の人生観、
政治観に存在していない基本精神の上に立つ新
憲法を、ほおかむりしながら、これの形式的文理解釈だけを、講義するのが、
日本憲法学界の現態だ。」この
通りなんです。これはおそるべきことではありませんか。「
憲法もその必要があれば、
改正されてもよいであろうが、」私は
改正されてもいいと思うのです。「今は断じてその時ではない。それは新しい学者によって新
憲法の理論体系が、
憲法学界に一応普遍化し、戦後の新しい民主主義教育を受けてきた青少年たちが、
日本の中堅年齢層にまで成長した時を待って、再検討することもよいであろう。」われわれは戦争を食いとめることができなかった。青少年に対してざんげすべき前科者であるということを、みずから
考えなければいかぬと思う。国をあやまったということ、協力はしなくても、強力にあの東条
内閣等に現われているところの軍国主義的侵略を阻止し得なかったということを、私たちは自責しなければならぬ。それから今日の
政治が出発しなければならぬと私は
考えるのでありますが、「アメリカ一部の軍閥の意向に隷従して、これこそ「他動的」にこれが改悪を企図し、旧い
憲法学者たちの前世紀的
憲法論によって、戦時
内閣の閣僚であった岸信介や広瀬久忠」や山崎巖「とかいう人が、」名をあげて非常に失礼でありますが、「その与党内の
改正調査会の
委員長になってこれを国民に強うるというに至っては、まことにサタの限りというの外はない。」まことに失礼でありますが、私は何も個人的に岸さんや山崎さんや広瀬さんに怨恨を持つものではありませんが、
国家のために実にけしからぬことだと思っております。東条英機氏が今地下からよみがえって、あの
憲法は間違っている、戦後の
政治はみんな間違っているのだともし国民の前に叫んだら、国民は憤激するでしょう。東条
内閣の商工大臣であった人や逓信大臣や厚生大臣であった人が、今日
憲法改正の音頭
取りになって、戦後の民主主義の
政治は間違っておるというようなことを諸君言えた義理ですが。私は実に
日本のために涙を流したいと思います。この大きな厳粛なるところの、
日本政治の今遭遇しているところの一大危機というものを外にして、それに大門を開くところの授権法を制定するがための、授権法であるところのこの一人一
選挙区制の
法律案を、
制度の上だけで独立して審議している。これは、先ほどから繰り返して申し上げますように、何らの
意味のないものであるということを重ねて申し上げておきたいのであります。
また、私たち
選挙制度調査会、すなわち
内閣選挙制度改正調査会の
矢部さんや何かが中心になって作られた案、あれは間違っているのです。あれは
政府案と同じものです。あれを、何が朝日新聞なんかが社説であれに変えたらいいようなことを言っておりますが、とんでもない。大新聞としては恥さらし、愚劣きわまる言論であって、同じものであります。ただ自民党の諸君が小手先でちょっちょっとしたところを面したというだけであって、最も重大なる核心的な問題は一人一
選挙区ということなんです。それは同じことであります。あまり世間がやかましいものでありますから、あれに
賛成したところの――私は端的に申し上げます。これらをきめたのは御用学者です。御用新聞記者です。御用古手官僚です。こういう人は、体裁が悪いものですから、何か最近になっていろんなゼスチュアをやっているようでありますが、こういう愚劣なるところのゼスチュアに
国会議員の良心が麻痺されてはならぬのです。目をおおわれてはならぬのです。こんなものは笑うべきことであります。「
反対委員や野党側の意向をじゅうりんし、官僚を使駆してその一人一区の地域区分案作成に着手しているが」これは作成している最中であります。「これは
政府本位のいわゆるゲリマンダーリングを行わんとするものであって、許すべからざる専横行為である。一人一
選挙区制の即時実施を
政府に答申するに
賛成の
選挙制度調査会の
委員諸君は、それによる
憲法改正と、
日本民主主義の圧殺と必至的に起るべき国内混乱とに対して、自ら深く責を負うの覚悟を持たねばならぬ。」ということを、一月でありますが、書いたのであります。
時間が迫ってきたようでありますから、すべて省略いたしまして、あとで私の申し上げましたことについて御質問がありましたならば、重ねて論じたいと思いますが、結論だけ申し上げておきたいと思うのであります。
第一に申し上げたいことは、この
法案はどうなりますか。ここに多数の威力によって衆議院を通過いたしますると、参議院に回りまして、世論がやかましいものでありますから、今申しましたことと関連いたしまして、
内閣は、参議院におけるところの与党でありまする自民党と準与党でありまするところの緑風会、これに手を回して、何かこそくな修正をやって、そうして本質的に同一のものであるところの
内閣の
選挙制度調査会の一人一
選挙区制案というものが、何か無知な人たちがいいものであるかのように書いている新聞なんかもあるのでありますから、あれを本位としたもののところに参議院で緑風会と自民党とに修正をさすような修正案をお作りになるということが、今
考えられておるのじゃないかと思っておるのでありますが、そういう小手先細工に国民はごまかされてはならぬのであります。緑風会と申しまするのは、これは古手の官僚の集団であります。よく世間では緑風会の良識とかなんとかいっておりますが、緑風会の良識というのは、この間の参議院議長である緑風会選出の河井彌八氏の
政治家としての出所進退を点検をされるならば、古手の官僚の良識というものは大体どの程度のものであるということは十分見えるはずである。
社会党の投票でもって議長となっておいて、今度
選挙が間近になってきたからというので、重要なる議長の職を取引の道具に使って、自民党さんどうぞ私を党友か党員にして
選挙を応援して下さいということの承諾を得るために、参議院の議長の職をやめたのであります。(「人身攻撃はやめて下さい。」と呼ぶ者あり)人身攻撃じゃありません。これは重大にして最も厳粛なるところの
政治的事実であります。参議院議長とは何であるか。今日の新
憲法下においては……。(「
選挙法と
関係がない」と呼ぶ者あり)
関係がある。
内閣総理大臣よりもなお序列が上にあるところの
国会の議長がこういう不公明なるところの取引的な出所進退をしておることは、これは、大きな
政治的な事実として、みなが真剣に
考えなければならぬ。そういうようなものが良識といわれて、その良識にたよって、こうしたものを本質とするところの、良識を売りものにしているところの
団体を使って世間をごまかすために、この修正が参議院で行われようとしております。こんな修正は二束三文の価値もないのだ。(拍手)
内閣の
選挙制度調査会において、自民党や
政府の意を受けて、われわれの少数
意見をじゅうりんして、
政府にサービスするために何か議論が沸騰してくると討論打ち切りを提案して、そうして
政府にサービスするために一番
努力したのは、
自民党側の
委員ではなくして、実に緑風会出身の官僚議員であったということを思い起さなければならぬのであります。(拍手)そういうことと結びついて、緑風会が参議院においてやるところの、
政府に味方したところの修正案の本質というものを、国民は知らなければならぬのであります。それを申し上げておるのであります。
第二に必要なことは、
内閣の
調査会案というものが相当有力なる基準になると思うのでありますが、
内閣の
調査会の答申は、先ほど来申しましたように、非常にインチキなものであるということであります。すなわち、
調査会の構成というものが、さっき申しまするように、初めから
政府に味方するところの、いろいろな
立場にある古手の役人や何かを多数集めてきて、議決をとるならば当然三分の二あるいは四分の三でもって勝つにきまっておるように構成をしておる。そうして純正な議論を吐くものや
反対党のものが必然的に負けるように構成いたしておる。初めから結論はわかっている。一人一
選挙区制を答申するということはきまっおる。ただ世間体をごまかすためにああいう諮問
委員会を構成しておるということ、これを国民は知らなければならぬ。
政府の諮問
委員会の構成は大体そういうものである。かりに今問題になっておりますところの
憲法改正調査会法案が通過しまするならば、
憲法改正調査会も、やはりそれと同じように、初めから結論がわかっていて、その結論に持ってくるのに便利なような御用学者、御用官僚あるいは古手の御用新聞記者のようなものを集めてやる。だからその構成がインチキであるということ。それから、
議事の進め方が非常に不当であったということであります。(発言する者多し)どうぞ、御不満がありましたら、あとからいろいろ御質問願いたいと思います。――それ場で、新聞記事にも出ておりますように、幕切れのところにおいて、たとえば学界代表の蝋山政道君が修正案を出した。二人区制本位で
社会党を育成するということが二大
政党主義に近づくものであるからというので、二人区制
法案を出した。そういうようなものは十分に審議されないで、しゃにむにこの答申書にあるような案にするような
議事の進め方だ。
議事の進め方が非常に不公正であったということ。それから、もう
一つ申し上げたいことは、あの
内閣の
調査会というものがスタートを切りました一年前と、あの答申書が作られましたときとは、
日本の政界の情勢が著しく急変化しておるということであります。たとえば、よく、一人一
選挙区制の万の方は、
社会党は
反対しているけれ
ども、元
内閣総理大臣の片山哲さんは
賛成したではないかということをしきりに言っておりますが、これは、片山さんの真意も十分了解しておりますし、私も関連性があることでありますが、その当時においては、
保守党の合同も
社会党左右の合同も行われておらなかったところの
政治情勢にあったということ、それから、自治庁で
選挙法の
改正案として用意いたしておったところのものは、現在のような一人一
選挙区制ではなくして、二人一
選挙区制が
政府、自治庁において三つ用意されておったのであります。自治庁の役人がわれわれの集会に来て話をいたしましたときにも、それを話した。一人一
選挙区制であるならば
社会党が不利であるから
反対するにきまっているが、二人区なのです。こういうところで片山さんはそのときは
賛成の意を表したのであります。私もそれならまあいいだろうと思ったのであります。その後
保守合同が行われ、
社会党の合同が行われ、知らぬ間にその中に入ってきたところのいろいろな人たちが、この用意してあったところの案をみんなどこかへやってしまいまして、そうして自分たちの欲するところの一人一
選挙区制が即小
選挙区制の全部であるかのようなところへ、この運動を引きずっていった。だから片山氏もそれから離反しておられる。私たちも離反しておるという結果になっておることも、どうぞ御了解を願いたいのであります。
それから、最後に申し上げたいことは、従って、今日の一
選挙区制というものは、
日本の
政治生活の歴史の齒車を前に進めるのではなくて、時計の針をうしろへ回すように逆転さすところの、非常なる暗黒
政治を
日本の
議会政治にもたらさんとするところの悪法集であります。従って、このような
法案は廃案することを、私は、
政治学の専攻者の
立場からいたしましても、国民の一員といたしましても、
一つ国家の前途のために
保守政党の
方々の良心と良識にお願い申したいと思うのであります。樹立されております。しかし、小
選挙区制にしたいところの念、これは十分論拠があるのでありますが、これは私省略しておきますが、それならば、あの
内閣の
調査会に蝋山氏が提案したところの、一人一
選挙区制と比例代表制をミックスして、そしてこの一人一
選挙区制から来るところの死票を全国的に集めて、比例代表の原則によって生かすという現在の西ドイツがとっておりまするところの
制度、これは
国会の立法考査局から出されておりまするところのリファレンスに詳細に照会されているのでありますから、――これは審議もされないでしゃにむに答申書が作成されたのでありますが、こういうものをもっと有力に
取り上げて再検討してみるべきだと存じます。
私の提案いたしましたところの二人区制案、私がこれを申し上げたときには、星島二郎君のごときは非常に
賛成せられたのでありますが、結果的に見ますと、星島さんが
賛成したのは、吉川さんの二人区制は非常にいいですよ、われわれの党内においても――原則は
社会党をたたきつぶすために一人一
選挙区制にして、一人一
選挙区制だと
保守党が少し不利になる憂いがあるというところだけ二人区にしているのです。私の主張する原則はすべて二人区なんです。そして例外的には三人区のようなものを若干認めている。今度の単位をすべてもう
一つ上げる案なんです。だから、蝋山さんの案も、私の案も、ここに新しい
一つ調査会をお作りになって、今度の案は愚案でありまするから、これを国民の世論とも相照応して民意を入れて、大
政党であるとこて、これを廃案にしてしまって、新しい
調査会を作って――私なんかならなくてもけっこうであります。古い
委員はみなやめてしまって、公平な新
委員でもって
委員会を作って、そういうものをも十分論議の対象にする。それから、論議の対象は、あくまでも、この
選挙制度を実行したならば
日本の
政治界がどうなるかということを論議の焦点に置いて、練り直していただきたいということを、私は、別に一党一派に偏する
立場でなく、一個の
政治学の学徒といたしまして、一国民といたしまして、皆様たち議員諸公の良識にお願い申し上げたいと思うのでありますが、なお言い足りませんところは、御質問がありましたならば、お答えいたすときを持ちたいと思います。(拍手)