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中山参考人 それでは当時の模様を申し上げようと思います。
その当時を思い出すだけでも、私は実は身の毛がよだつ気がいたします。共産党が
革命の突破口を
内灘事件によって開くというようなことも聞いておりました。それに毎日労組の
応援隊が千何百人、あるいは
全学連から学生何百人、それから他の土地から
現地視察で来られる、
代議士各位の
現地視察、それから
警察隊の警備千数百人と聞いておりました。それに村の人の動き、これは仕事ができない。五カ月間というものは実にうろうろいたしました。私の陋屋は数十人の
応援隊と称する
人たちに取り巻きを受けて出入りの者には必ず尾行がつく。それに警官の警戒が夜も昼もないような
生活が長く続きました。
革命の前夜というのはかくのごとき状態をいうのだろうと、その当時私は思っておりました。今にして考えてみましてよく命があったという感を持っております。幸いにその
時分国警隊長の三田村氏の指揮そのよろしきを得たのでしょう、それに私
どもの
暴動化が起らないようにという苦心と相待って幸いに無事におさまりました。私
ども村民初めおろおろしておった、騒ぎ回ったとか、いろいろ申しようもありましょけれ
ども、大体その間の要らざる費用は一億二千万円を下らぬと私は計算しております。
それから二十八年九月十四日、
最後の
妥結をいたしました当日に移りますが、私
どもは
試射場のために
漁業ができなくなる。従ってわれわれの
生業のために
河北潟の
埋立事業を完成していただきたい、これが私
どもの
要望の第一項でありました。それから
畑地事業は、
政府がその先に示された案でありまして、
要望事項の書類にも
最後に、
政府の試案は別個とするということをここに記載してあります。そういうわけで私
どもは
河北潟の
埋立事業を第一に希望し、どうかしてそれを実施していただきたいと念願しておったのであります。
それから
河北潟の
事業に対しては、
昭和二十四年ごろから運動を起して、たびたび上京してその筋に
お願いしておった点でありまして、そのとき初めて私
どもが言い出したというような事柄ではありません。今
埋め立ての問題を
約束したとかしないとかということについて、その
いきさつを申し上げるならば、私は第一に
河北潟の
埋め立てを促進されたいということを
お願いしました。そのときに
伊関局長は、他の基地との
関係もあり、文書から抜いてほしいという要求でありました。それでは困ると私は申しましたが、
益谷先生が、来
年度から着手します、
緒方副総理に念を押してありますと言われました。それに
伊関局長は、
実行の確信あり、外へ漏れないよう特に注意を請う、かように申されたのであります。それからその翌日の九月十五日に私と
議長、副
議長と
益谷先生のお宅へご
あいさつに上りましたときにも
益谷先生は、
埋め立ての件は
緒方君に、もし
実行しなかったら君と僕の戦争だぞ、と念を押してあるというふうにおっしゃって下さったので、私
どもは安心して引き上げたのであります。
それから二十八年の十月二十八日、私の退職後であります。どうでもして二十八
年度において幾分かの
予算を計上していただきたいのだから一度
お願いしてくれないかという頼みによりまして、私と当時
宮本議長と
永見山という
議員と三名で出てきました。そうして
益谷先生に
お願いいたしましたけれ
ども、ことしは
予算がありません、来年は必ずやることになっておるという
お話でありました。その次に当日参議院副
議長の
重宗先生をおたずねいたしました。そうして
河北潟の
事業は来
年度の
事業費で計上されると
益谷先生も言っています、本
年度の
新規事業も災害のため控える
方針であると
農林省の
課長は言っています、私
どもは信じて安心はしているけれ
ども、それでは
地元民は合点しません、本
年度において幾分かは計上されるよう
お願いにきました、こう申し上げたが、
重宗先生は、
政府は三十億の
食糧増産施設費でやると言っているからやると思いますと言われました。そうしてその次に
事業の促進をすることは
地元民の
不平不満を去らし
むる唯一の方法だと思いますから、
道路とか
開発事業の
実地測量に当っております、こう申しました。
重宗先生は、
平川局長にも会って親しく話していきなさいという
お話でありました。それから
田中官房副
長官をおたずねいたしまして右のよう申し上げました。ところが
田中官房副
長官は、それは
政府が確約しておるのだから間違いありません、
ただ係の役所の
事務がおそいので困る、なぜだろうかという
お話でありました。私は、
一つ間違えば首の問題であるから慎重を期するためでありましょう、
末端事務員としては私
どもと同じことだと存じます、かように申し上げて引き上げたのであります。その後もこの
事業について
村民、
議員初め
お願いに上っておるはずであります。
それからことしの五月二十八日かと思いますが、私
どもが上京いたしまして
各省の
係官の
方々にお集まりを願って
話し合いをいたしました。五月二十三日の本
委員会における
岡先生の
お尋ねに対する
調達庁の
大石部長の
議会答弁を
新聞で見ましたが、
接収当時
河北潟の問題は出ておったが、結論的に
実行の
約束はしないというふうにおっしゃっておられました。私も
大石部長とはそんな
約束をした
記憶がありません。また
約束するわけがその当時はなかった。その当時は私は
政府と直接交渉をしておった。その
代表責任者である
伊関局長、
田中官房副
長官を交えての折衝で、
先ほど申し上げた
通りかたく
約束したのであります。そのときには六一石
部長は
政府の
代表責任者でなかったはずであります。この点を皆さんが御留意願いたいと思います。
それからことしの四月二十八日に
外務省欧米局第二課
会議室で
各省係官と
話し合いをいたしました折にも、
大石部長は、
河北潟問題はいろいろの
角度から見て至難である、そこで
畑地事業に振りかわった、このようにおっしゃっておりました。私
どもが
政府と
妥結を終って帰村すると直ちに
畑地の
測量、それから
道路の
測量等に着手されたのでありますが、そういう
河北潟問題をいろいろの
角度から検討するという時間がなかったのじゃないか。また振りかわられるものならば、一応われわれの方へ何か御
案内があるべきはずだと思います。そういう御
案内も受けておりません。
それから五月二十四日の、これは
北国新聞で見たのですが、
大石部長の話では、
干拓は国の
方針である、技術的に見て
内灘の方ばかりやるわけにいかない、それは
対岸の水害を、
被害を
意味するものだと私は思いますけれ
ども、私
どもの
地先の
埋め立ては決して
対岸の方へ
被害を及ぼすようなものではありません。
それからなお
大石部長は
試射場の
継続とその
河北潟の問題と切り離して考えていこう、こういうふうにもおっしゃって下さったのであります。
それから
欧米局の第二
課長の談として
新聞で見たところでは、三年間の
使用に対し各種の
補償が行われておる、あれは三年間のものに限ったという
意味ではない、新たな
補償は考えていない、こういうことであります。
契約した三年で引き揚げていくならば、確かにこれは三年の
補償事業に間違いないと思う。
期間が切れて延長
継続使用する、そのために残った
事業もやはりそれに引きずられていくのだというような
意味に私は解釈いたしました。
同じく四月二十八日に
辻代議士はかように言われました。
政府は
借家人じゃないか、
事業のおくれておるのは
借家人の家賃の未払いじゃないか、しかも今
期間が切れて
継続使用をする、そうしたら家主が新たな条件を持ち出すということは当然のことじゃないかと言われた。この
言葉でこの第二
課長の談を解くことができると思います。
それから
調達庁の
管財部長の立川さんの
新聞談でございますが、法律的にあるいは財政的にいろいろ困難がある、かようにおっしゃっておられます。なぜに困難であるか、実際困難な問題であるかということを
あとでまた申し上げたいと思います。
それから話は戻りますが、四月の二十九日に
益谷先生を
議長室に
お尋ねいたしまして、そうしてこの
河北潟事業の
お話をいたしました。
先生がこれだけに請け負うて下されたのだから安心できる、待っておったような次第であるということを申し上げました。
益谷先生はそのとき
沈黙を守っておられました。私はこの
沈黙は、維摩の一黙雷のごとしという
言葉がありますが、実にけっこうだと思って帰りました。
それから三十日に
農林省の
平川次官を
お尋ねいたしました。そのと遂に
平川先生はこう言われました。私は
河北潟問題を
約束した
記憶はありません、こうきっぱり言われた。その次に、
河北潟問題は検討してみて技術的に可能ならば別に考えてもよい、
接収問題とからんでの
事業は絶対できません、こういう
お話でございました。
河北潟問題を
約束した
記憶はありませんと言われたから私もおかしいと思いました。私の記録を調べてみましたところが、その日に限って
出席者の
名前を書く欄には
平川先生の
名前が載っておりません。まさにこれは欠席されたものだと思います。そうすれば
記憶のないのもごもっともだと思っております。
それから
重光外務大臣の
新聞談、これは
岡先生の質問に対する
大臣のお
言葉では、
内灘使用は必要な限り実現せねばならぬ、そのための
努力を
政府はしている、こういうお答えであった。
内灘使用は必要な限り実現せねばならぬとおっしゃるのだから、この
お願いしておる
河北潟の
事業を実現せねばならぬ、そのため
政府は
努力をしていらっしゃる、こういうふうに私は解釈して喜んでおったのであります。さっきも申しましたが、
河北潟のこの
埋め立て問題の
困難性、なぜやれないかということを私はよく考えてみました。その
埋め立ての困難ということは、第一が金だと思います。二番目には
技術方面、三番目には
対岸への処置、これが困難だといわれる要件だろうと思うております。もう
一つ、こういうことを申して失礼でありますけれ
ども、
干拓事業というのと
埋立事業というのと、その
事業のやり方が混同されているように私は考えております。この
埋立事業が果して困難なものであるかということは、これは昨年の暮れから
対岸の八
田地先をやっておりますが、もうこれは十三
町歩だけみごとに
水田になった。ここに
植付をしておる写真を持ってきておりますが、そんな
干拓するというような困難な
事業では決してないと私は思っております。
私の今申しましたのは、大体これまでの
いきさつを少しばかり申し上げたのでありますが、決して私
どもは
接収問題とからんでどうのこうのと、そういうことを強要しておるわけではありません。私
どもの村は、すでに御承知の
先生方もあろうと存じますが、何によって
生活しておるか、大体に漁村であるのでございますが、出かせぎか、かつぎ売り、畑作、
漁業、それに
補償金、こういうことになる。この出かせぎのひどいということは、
青年層になりますると、お祭のころわずか三十日くらいだけうちにおる。そして
家庭持ちの人でも長くて二カ月間、日数に直して五、六十日くらいのもの、
あと全部外へ出ております。そういう悲惨な
家庭生活者である。それからことに私が心配しておることは、
補償金をいただいて
生活の足しにするということは、それは非常にありがたいことでありますけれ
ども、金をもらって
生活していくということは、その人を
不良化に導く素因になる、ここを私は心配しております。それでどうか
埋立事業を完成していただきたい、そうして
内灘の
村民が安楽に、安定した
生活に入りたい、こういう私
どもの念願であります。
それからなぜ私がそんなことを特に申し上げるかというと、
米軍キャンプのいろいろな
施設を見ましても、これはほとんど永久的で、
米軍が引き揚げた場合には、
自衛隊の
使用に切りかえるということを
伊関局長もその当時言うておられました。それからなまいきなことを申すようでありますけれ
ども、
国際情勢の不安定な今日、国あって国防のないというところは、世界で聞いたことがありません。してみれば、
わが国もやはりこれと同一で、そんな点から考えてみますと、どうしてもこの浜は永久的にわれわれの
使用、できぬものである、こう考えます。そこで
生業の百八十度転向をせねばならぬ、要するに
水田の
造成をしていただきたい、そうして
勤労をするまじめな
生活者になりたい、こういうことを念願しておる点から、
お願い申し上げるわけであります。
話がいろいろ飛びまして、わかりにくいこともあったかと思いますが、わかりにくいところは、
お尋ね下さればお答えいたすことにいたします。