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1956-05-31 第24回国会 衆議院 外務委員会 第54号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十一年五月三十一日(木曜日)    午前十時三十九分開議  出席委員    委員長 前尾繁三郎君    理事 北澤 直吉君 理事 須磨彌吉郎君    理事 高岡 大輔君 理事 山本 利壽君    理事 穗積 七郎君 理事 松本 七郎君       愛知 揆一君    伊東 隆治君       植原悦二郎君    南  好雄君       岡  良一君    田中織之進君       田中 稔男君    戸叶 里子君       細迫 兼光君    森島 守人君       岡田 春夫君  出席政府委員         総理府事務官         (調達庁不動産         部長)     大石 孝章君  委員外出席者         外務事務官         (アジア局第一         課長)     針谷 正之君         外務事務官         (欧米局第二課         長)      安川  壯君         参  考  人         (元内納灘村村         長)      中山又次郎君         参  考  人         (元国務大臣) 林屋亀次郎君         専  門  員 佐藤 敏人君     ————————————— 五月二十九日  委員重政誠之君、森下國雄君及び和田博雄君辞  任につき、その補欠として芦田均君、池田正之  輔君及び山花秀雄君が議長指名委員に選任  された。 同日  委員稻葉修君及び中垣國男辞任につき、その  補欠として伊東隆治君及び渡邊良夫君が議長の  指名委員に選任された。 同月三十一日  委員芦田均君及び大西正道辞任につき、その  補欠として南好雄君及び岡良一君が議長指名  で委員に選任された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  内灘試射場に関する問題について参考人より意  見聴取  沖縄の軍用地接収問題等に関する件     —————————————
  2. 前尾繁三郎

    前尾委員長 これより会議を開きます。  本日はまず内灘試射場に関する問題につきまして、先日当委員会でいろいろ干拓問題その他についての質疑がありました。その参考人に来ていただいて意見を聴取することになりましたので、さようにいたしたいと思います。  本日参考人として御出席お願いしましたのは、元内灘村の村長さんの中山又次郎君及び元国務大臣林屋鬼次郎君の御両名であります。  議事に入るに当りまして、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。本日は御多忙中のところ、遠路わざわざ御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。  本日の議事の順序について申し上げますと、まず参考人の方からおのおの御意見開陳していただきまして、そのあと委員より質疑がある予定であります。なお御意見開陳は、一人約二十分以内くらいにとどめていただいたら、非常にけっこうだと思います。それから参考人の時間の御都合があるようでありますから、最初に林屋さんのお話を伺って、質疑も終了していただいて、次に村長さんの御意見を伺うことにいたしたいと思います。
  3. 岡田春夫

    岡田委員 ちょっと議事進行について。参考人の方の御都合もわれわれできるだけ尊重しなければなりませんけれども、この問題については、その当時の当事者間においてどのような話があったかということを明らかにしていただくために、きょうは主としておいでをいただいておるわけですから、別別にわれわれが質疑をさしていただくというようなことでは、その間の事情が明らかにならないというような場合もあり得るわけです。御都合等も当然しんしゃくをした上で、しかもなおかつその間における事情が明らかになるというような前提に立っていただかないと、林屋参考人がお帰りになったあと中山参考人からまた別な御意見があって、食い違いが依然として残るということでは、きょうの参考人おいでをいただいたことの趣旨に反することになりますので、これは委員長としても十分その間の事情声含みの上で、その当時の当事者間における事情を明らかにするように、一つお運びをいただきたいという希望を、私は申し上げておきたいと思います。
  4. 前尾繁三郎

    前尾委員長 それはわかりました。御意見がありましたあと、もしそこに食い違いがあれば、直ちにまた村長さんにお話を願うなり何なりするように取り計らいます。  それではまず林屋用次郎君からお願いいたします。問題が非常にばく然としておりますので、お話しになりにくいと思いますが、この間ちょっと疑問になりました点は、干拓問題について約束があったかどうかというような問題とか、あるいは期限の問題についてどういう話であったとか、そういう点が問題になりましたので、その夢中心としていただいて、あとはもう質疑に譲っていただいてけっこうだと思います。
  5. 林屋亀次郎

    林屋参考人 私林屋でございます。今委員長からお尋ねになりました内灘使用したそのいきさつを簡単に申し上げたいと存じます。  ちょうど私ども閣僚にあった際でありまして、内灘問題について、政府を代表して向うへ参りまして、四カ月の契約をいたしましたのは、あの時代に風紀問題がやかましく、村としても風紀問題について政府が保証するかしないかというようなことまで、いろいろ論議されたのであります。それではとりあえず四カ月間契約をいたして、村の方が安心していけるならばあと契約をしようではないかということで、四カ月の契約をいたした次第であります。  なお河北潟干拓の問題でありますが、これは内灘事件が起らない先に、自由党内閣としては全国の潟を干拓して農地を拡張するという一大方針を立てておった際でありますので、内灘問題の起らない一年前でありますが、大体河北潟干拓しようじやないかということで、地元へ私も参りまして、内灘干拓委員会も県で設立をいたしたようなわけであります。たまたま内灘問題がそこへ起って参りました関係もありますので、河北潟干拓しようじやないかということで、大体閣議了解内灘干拓するということに話を進めておったのでありますが、内灘干拓するということは、非常に原価が高くつくので、まず調査すべきものであるというので、一年とりあえず政府としては砂丘地を二百七十町歩開墾する、あとは調査によってこれを実現したいということで、確かにこれは閣議了解を得て内灘と話し合ったことは間違いありません。  なおこのいきさつについては、中山さんがさきにメモを私の方の地方の北国新聞に発表されております。私このメモを拝見しまして、これは私もこの内容はこの通りだということを申し上げておきたいのであります。  なお今日まで石川県がこぞって反対いたしましたにもかかわらず、内灘中山村長は真に国家を思うて、非常に私と内灘村民の間に入っていただきまして、とにかく試射場というものができ上った。この御労苦は皆様も特に御了承いただきたいとお願いいたしたいと思います。
  6. 前尾繁三郎

    前尾委員長 それでは中山又次郎君。にお願いをいたします。
  7. 中山又次郎

    中山参考人 それでは当時の模様を申し上げようと思います。  その当時を思い出すだけでも、私は実は身の毛がよだつ気がいたします。共産党が革命の突破口を内灘事件によって開くというようなことも聞いておりました。それに毎日労組の応援隊が千何百人、あるいは全学連から学生何百人、それから他の土地から現地視察で来られる、代議士各位現地視察、それから警察隊の警備千数百人と聞いておりました。それに村の人の動き、これは仕事ができない。五カ月間というものは実にうろうろいたしました。私の陋屋は数十人の応援隊と称する人たちに取り巻きを受けて出入りの者には必ず尾行がつく。それに警官の警戒が夜も昼もないような生活が長く続きました。革命の前夜というのはかくのごとき状態をいうのだろうと、その当時私は思っておりました。今にして考えてみましてよく命があったという感を持っております。幸いにその時分国警隊長の三田村氏の指揮そのよろしきを得たのでしょう、それに私ども暴動化が起らないようにという苦心と相待って幸いに無事におさまりました。私ども村民初めおろおろしておった、騒ぎ回ったとか、いろいろ申しようもありましょけれども、大体その間の要らざる費用は一億二千万円を下らぬと私は計算しております。  それから二十八年九月十四日、最後妥結をいたしました当日に移りますが、私ども試射場のために漁業ができなくなる。従ってわれわれの生業のために河北潟埋立事業を完成していただきたい、これが私ども要望の第一項でありました。それから畑地事業は、政府がその先に示された案でありまして、要望事項の書類にも最後に、政府の試案は別個とするということをここに記載してあります。そういうわけで私ども河北潟埋立事業を第一に希望し、どうかしてそれを実施していただきたいと念願しておったのであります。  それから河北潟事業に対しては、昭和二十四年ごろから運動を起して、たびたび上京してその筋にお願いしておった点でありまして、そのとき初めて私どもが言い出したというような事柄ではありません。今埋め立ての問題を約束したとかしないとかということについて、そのいきさつを申し上げるならば、私は第一に河北潟埋め立てを促進されたいということをお願いしました。そのときに伊関局長は、他の基地との関係もあり、文書から抜いてほしいという要求でありました。それでは困ると私は申しましたが、益谷先生が、来年度から着手します、緒方副総理に念を押してありますと言われました。それに伊関局長は、実行の確信あり、外へ漏れないよう特に注意を請う、かように申されたのであります。それからその翌日の九月十五日に私と議長、副議長益谷先生のお宅へごあいさつに上りましたときにも益谷先生は、埋め立ての件は緒方君に、もし実行しなかったら君と僕の戦争だぞ、と念を押してあるというふうにおっしゃって下さったので、私どもは安心して引き上げたのであります。  それから二十八年の十月二十八日、私の退職後であります。どうでもして二十八年度において幾分かの予算を計上していただきたいのだから一度お願いしてくれないかという頼みによりまして、私と当時宮本議長永見山という議員と三名で出てきました。そうして益谷先生お願いいたしましたけれども、ことしは予算がありません、来年は必ずやることになっておるというお話でありました。その次に当日参議院副議長重宗先生をおたずねいたしました。そうして河北潟事業は来年度事業費で計上されると益谷先生も言っています、本年度新規事業も災害のため控える方針であると農林省課長は言っています、私どもは信じて安心はしているけれども、それでは地元民は合点しません、本年度において幾分かは計上されるようお願いにきました、こう申し上げたが、重宗先生は、政府は三十億の食糧増産施設費でやると言っているからやると思いますと言われました。そうしてその次に事業の促進をすることは地元民不平不満を去らしむる唯一の方法だと思いますから、道路とか開発事業実地測量に当っております、こう申しました。重宗先生は、平川局長にも会って親しく話していきなさいというお話でありました。それから田中官房長官をおたずねいたしまして右のよう申し上げました。ところが田中官房長官は、それは政府が確約しておるのだから間違いありません、ただ係の役所の事務がおそいので困る、なぜだろうかというお話でありました。私は、一つ間違えば首の問題であるから慎重を期するためでありましょう、末端事務員としては私どもと同じことだと存じます、かように申し上げて引き上げたのであります。その後もこの事業について村民議員初めお願いに上っておるはずであります。  それからことしの五月二十八日かと思いますが、私どもが上京いたしまして各省係官方々にお集まりを願って話し合いをいたしました。五月二十三日の本委員会における岡先生お尋ねに対する調達庁大石部長議会答弁新聞で見ましたが、接収当時河北潟の問題は出ておったが、結論的に実行約束はしないというふうにおっしゃっておられました。私も大石部長とはそんな約束をした記憶がありません。また約束するわけがその当時はなかった。その当時は私は政府と直接交渉をしておった。その代表責任者である伊関局長田中官房長官を交えての折衝で、先ほど申し上げた通りかたく約束したのであります。そのときには六一石部長政府代表責任者でなかったはずであります。この点を皆さんが御留意願いたいと思います。  それからことしの四月二十八日に外務省欧米局第二課会議室各省係官話し合いをいたしました折にも、大石部長は、河北潟問題はいろいろの角度から見て至難である、そこで畑地事業に振りかわった、このようにおっしゃっておりました。私ども政府妥結を終って帰村すると直ちに畑地測量、それから道路測量等に着手されたのでありますが、そういう河北潟問題をいろいろの角度から検討するという時間がなかったのじゃないか。また振りかわられるものならば、一応われわれの方へ何か御案内があるべきはずだと思います。そういう御案内も受けておりません。  それから五月二十四日の、これは北国新聞で見たのですが、大石部長の話では、干拓は国の方針である、技術的に見て内灘の方ばかりやるわけにいかない、それは対岸の水害を、被害意味するものだと私は思いますけれども、私ども地先埋め立ては決して対岸の方へ被害を及ぼすようなものではありません。  それからなお大石部長試射場継続とその河北潟の問題と切り離して考えていこう、こういうふうにもおっしゃって下さったのであります。  それから欧米局の第二課長の談として新聞で見たところでは、三年間の使用に対し各種の補償が行われておる、あれは三年間のものに限ったという意味ではない、新たな補償は考えていない、こういうことであります。契約した三年で引き揚げていくならば、確かにこれは三年の補償事業に間違いないと思う。期間が切れて延長継続使用する、そのために残った事業もやはりそれに引きずられていくのだというような意味に私は解釈いたしました。  同じく四月二十八日に辻代議士はかように言われました。政府借家人じゃないか、事業のおくれておるのは借家人の家賃の未払いじゃないか、しかも今期間が切れて継続使用をする、そうしたら家主が新たな条件を持ち出すということは当然のことじゃないかと言われた。この言葉でこの第二課長の談を解くことができると思います。  それから調達庁管財部長の立川さんの新聞談でございますが、法律的にあるいは財政的にいろいろ困難がある、かようにおっしゃっておられます。なぜに困難であるか、実際困難な問題であるかということをあとでまた申し上げたいと思います。  それから話は戻りますが、四月の二十九日に益谷先生議長室お尋ねいたしまして、そうしてこの河北潟事業お話をいたしました。先生がこれだけに請け負うて下されたのだから安心できる、待っておったような次第であるということを申し上げました。益谷先生はそのとき沈黙を守っておられました。私はこの沈黙は、維摩の一黙雷のごとしという言葉がありますが、実にけっこうだと思って帰りました。  それから三十日に農林省平川次官お尋ねいたしました。そのと遂に平川先生はこう言われました。私は河北潟問題を約束した記憶はありません、こうきっぱり言われた。その次に、河北潟問題は検討してみて技術的に可能ならば別に考えてもよい、接収問題とからんでの事業は絶対できません、こういうお話でございました。河北潟問題を約束した記憶はありませんと言われたから私もおかしいと思いました。私の記録を調べてみましたところが、その日に限って出席者名前を書く欄には平川先生名前が載っておりません。まさにこれは欠席されたものだと思います。そうすれば記憶のないのもごもっともだと思っております。  それから重光外務大臣新聞談、これは岡先生の質問に対する大臣のお言葉では、内灘使用は必要な限り実現せねばならぬ、そのための努力政府はしている、こういうお答えであった。内灘使用は必要な限り実現せねばならぬとおっしゃるのだから、このお願いしておる河北潟事業を実現せねばならぬ、そのため政府努力をしていらっしゃる、こういうふうに私は解釈して喜んでおったのであります。さっきも申しましたが、河北潟のこの埋め立て問題の困難性、なぜやれないかということを私はよく考えてみました。その埋め立ての困難ということは、第一が金だと思います。二番目には技術方面、三番目には対岸への処置、これが困難だといわれる要件だろうと思うております。もう一つ、こういうことを申して失礼でありますけれども干拓事業というのと埋立事業というのと、その事業のやり方が混同されているように私は考えております。この埋立事業が果して困難なものであるかということは、これは昨年の暮れから対岸の八田地先をやっておりますが、もうこれは十三町歩だけみごとに水田になった。ここに植付をしておる写真を持ってきておりますが、そんな干拓するというような困難な事業では決してないと私は思っております。  私の今申しましたのは、大体これまでのいきさつを少しばかり申し上げたのでありますが、決して私ども接収問題とからんでどうのこうのと、そういうことを強要しておるわけではありません。私どもの村は、すでに御承知の先生方もあろうと存じますが、何によって生活しておるか、大体に漁村であるのでございますが、出かせぎか、かつぎ売り、畑作、漁業、それに補償金、こういうことになる。この出かせぎのひどいということは、青年層になりますると、お祭のころわずか三十日くらいだけうちにおる。そして家庭持ちの人でも長くて二カ月間、日数に直して五、六十日くらいのもの、あと全部外へ出ております。そういう悲惨な家庭生活者である。それからことに私が心配しておることは、補償金をいただいて生活の足しにするということは、それは非常にありがたいことでありますけれども、金をもらって生活していくということは、その人を不良化に導く素因になる、ここを私は心配しております。それでどうか埋立事業を完成していただきたい、そうして内灘村民が安楽に、安定した生活に入りたい、こういう私どもの念願であります。  それからなぜ私がそんなことを特に申し上げるかというと、米軍キャンプのいろいろな施設を見ましても、これはほとんど永久的で、米軍が引き揚げた場合には、自衛隊使用に切りかえるということを伊関局長もその当時言うておられました。それからなまいきなことを申すようでありますけれども国際情勢の不安定な今日、国あって国防のないというところは、世界で聞いたことがありません。してみれば、わが国もやはりこれと同一で、そんな点から考えてみますと、どうしてもこの浜は永久的にわれわれの使用、できぬものである、こう考えます。そこで生業の百八十度転向をせねばならぬ、要するに水田造成をしていただきたい、そうして勤労をするまじめな生活者になりたい、こういうことを念願しておる点から、お願い申し上げるわけであります。  話がいろいろ飛びまして、わかりにくいこともあったかと思いますが、わかりにくいところは、お尋ね下さればお答えいたすことにいたします。
  8. 前尾繁三郎

    前尾委員長 これにて参考人方々よりの御意見開陳は終りました。これより質疑を許します。岡良一君。
  9. 岡良一

    岡委員 中山林屋参考人には、御多用のところ御出席をいただいて、私も心から感謝いたします。問題はきわめて簡単なことでありますが、まず村長中山さんにお尋ねいたしたいと存じます。  第一に、あなたの村の砂丘地演習場としてほとんど米軍に提供される、こういうお便りをお聞きになり、また政府からの内意をお聞きになったときに、村をあげて反対をするという強いお気持に当時はなられたようであります。しかしさらにその後、どうしても接収は余儀ないこととなれば、村民生活を守るという立場から、まず何よりも生業の半ばを依存しておる浜を捨てた以上は、河北潟に新しい耕地を作って、ここに生活のかてを求めなければなるまい、これが村長としてのあなたのまず一番の要望であった、このように私はお察しをいたしておるのでありますが、その点いかがでしょう。
  10. 中山又次郎

    中山参考人 お答えいたします。ただいま岡先生お尋ね下されたのは、先ほども申し上げた通り、その通りでございます。祖先以来の漁業というあまり芳ばしくない職業でありますけれども、祖先伝来やってきた漁業をここで捨てなければならぬ、そういうせっぱ詰まったところに来ております。そこで先ほども申す通り勤労者としての安定した生活に入りたいために、水田造成をいただきたい、こうお願いしておるわけなのでございます。私どもの今お願いしておることは、河北潟三百町歩埋め立てをして下さい、こういうのでございます。この内容をちょっと申し上げるならば、反当二十万円で六億円という金がかかる、こういうことなのです。そこでこれは非常に膨大だというように言われておりますけれども、金額から申すと、なるほど膨大には違いありませんけれども、三百町歩水田からは、米が九千石とれます。時価にいたしまして一億円。だから六カ年で取り返すことができる。それにわずか百メートルから二百メートル離れてもう砂丘地があるのでございますから、その砂を出して埋め立てするのでありますから、その砂を取り出したあとに、平坦の地が約六十町歩くらいできます。そこで牛の一頭、豚の二、三頭、鶏の二十羽も置くというような多角農業の経営もできる農村になっていきたい、こういうことなのでございます。それに一億四千万円の漁業補償金というものをいただかなくてもよくなります。そうして勤労生活に入ることができる。むろん今も動労生活はやっておるのでございますけれども。  それから私はこうも思います。六億円といえば、はなはだ膨大なようでありますけれども政府の一兆予算に比べてみれば、一万円の金持が二円のあめ玉を三つ買うことで、膨大なんという言葉は当てはまらぬと私は思います。それにいま一つつけ加えて言うならば、こういうことがあります。五月の十九日に米軍の方から一般公衆試射場内を公開いたしました。そのとき米軍の出した。パンフレットを見ますと、こういうことが書いてあります。「過去三年にわたって、アメリカ合衆国は、これらの会社に対して五百四十億円以上も支払い、そのために会社では幾千人もの日本人を雇用することができたわけです、さらにそのために日本自衛隊を保持する弾薬製造産業を興しましたし、そのことに関し、日本は他国から離れて自主的な立場に立つことができた次第です。」こういうことが書いてあります。ここで私は考えましたが、六億円というような膨大なことをお願いするのは無理なことかとも思いましたけれども、この文面を見て、またこうも思いました。五百四十億円という金は、半分製造費としてわが国に残っておる。その二百七十億円については、数十万人か数百万人の人間が安定した生活を得ておる。そして政府はこれに課税をしておられるに間違いない。かりに一割、一〇%の課税ならば二十七億円、それに内灘でこれまでに使われた金が七億五千万円であると言うておられますから、それにいたしましてもまだ十九億五千万円という金が政府はもうかっておる。かりにこれを半分、五分といたしましても、十三億五千万という税収が政府に現われる。それを七億五千万円内灘の方に使ったところが、まだ六億円余っておる。ちょうどこの埋め立てに私どもが六億円お願いするのと一致しております。政府としては少しも金を使わないでもいいことになる、こう私は考えます。そこでこれらの人たちがりっぱに生活を安定しておるのに、内灘村民はそのために苦労せねばならぬという理由が一体どこにあるのか。私ども国家のために、または同胞のために犠牲になっております。だから国といたしましても、われわれがお願いしておる埋立事業くらいはやっていただいても、私は決して無理な要求じゃない、かように存じます。  どうか委員各位もこの点一つお考えを下さいまして、われわれの念願が届くようにお願いいたします。
  11. 南好雄

    ○南委員 ちょっと関連して中山さんにお尋ねしたいのですが、この試射場の問題が起きたときから、私いろいろ皆様方の御相談を受けておったのでありますが、当時の情勢を判断いたしまして、今あなたが公述で言われました通り、出かせぎも漁場その他の整備とともにだんだんむずかしくなっていくはずだ。そこで内灘の生きる方法は、何としても河北潟干拓してもらうか、埋め立てをしてもらって、そこでいわゆる農村計画に入らなければ、これはとうていやれるものではない。ですからあなたは少くとも試射場問題に要求として出してはどうかとも考えられるが、最低要求として内灘が生きるために河北潟干拓するとか埋め立てをすることを、第一に政府に要求すべきものであると私は考えるがあなたはどう思うか、こういうてあなたに再三再四申し上げたはずであります。あなたもその御意見になって、そして政府に折衝されたはずです。それがどういう経緯で政府のいわゆる事業としてはずれて、そしていろいろの事業に変ったか。非常に大事なことですから、その経緯をここではっきり、メモをとっておいでになるようですから、そのメモをよくお調べ願って、どうしてこういうふうに変ったか。むろん要求も最低限、少くとも河北潟干拓して、あなた方が食えるだけの水田を持たなければ、このいわゆる試射場というものに承知すべきものでないというように私も聞いておった。これがどういうふうに変っていったかということを、この際一つはっきりしておいていただきたい。
  12. 中山又次郎

    中山参考人 お答えいたします。今南先生お尋ねはしごくごもっともでけっこうなお尋ねだと私は喜びます。固い約束をいたしましたけれども、九月十四日に妥結して私は九月の末において辞表を出しまして、そして退職いたしました。そういうわけで私が指導者となってしないでも、その次の村長も陳情に上っているはずです。また現村長も何回か陳情に上っておるはずです。その陳情の模様等は十分承わっておりません。どうして変っていったかということは、ちょっと私には今申し上げかねるのでございます。
  13. 南好雄

    ○南委員 河北潟干拓の問題は、先ほどあなたが意見開陳の際にもおっしゃっておいでになりましたが、これはたしか昭和二十六年だと思います。私も農林省に協力いたしまして調査費をとっておるはずであります。二十六年、二十七年両年度にそれぞれたしか二百万円ないしは三百万円くらいの調査費をとって、河北潟干拓できるものかどうかを政府においても調べておったはずなのです。そこでおそらく私はあなたが最初いろいろお話しになりました幾つかの政府の条件、そのほかに当然河北潟政府干拓するように調査しておるのだから、調査さえ完了するならば、本件に密接に関係させなくとも必ず政府がやってくれるものというようなことで、あるいはこれの  一番大きな条件になさらなかったのか。それともこのごろときどき政府の方から、河北潟干拓試射場問題とは関係がないのだというようなことを僕も再々聞いております。非常に奇怪なことだと思うのでありますが、幸いここに当時のこの問題についての責任者であらせられる林屋さんもおられるし、あなたもそこにござるのですから、私の聞いておったと遂には、何とかして河北潟干拓するのだ、これが第一の条件だというふうに聞いておった。ところが政府の幾つかの事業に変っておるものだから、河北潟干拓内灘はあきらめて、ほかの事業に変ったように見られる。見られては困るのでして、あなた方は前から、私も絶えず品をすっぱくして言っておったはずです。またしばしば陳情にも同行しております。そして最初から最後までいつも一緒におらなかったから、その間どういうふうに変ったかをあなたに聞いておる。河北潟干拓は二十六年から調査しておった。そして政府は調査の完了次第実行にかかるのだ。だからこの際試射場の問題とひっくるめてやらなくとも、政府が善意に好意を持っていくならば、当然に実行してくれるものだと思う。先ほどそれに益谷先生がどう言われたとか、副総理がどう言われたとか断片的に出ておりましたが、そういう言葉から推察してみると、河北潟干拓あるいは埋め立てと申しますものが、こういういろいろ政府約束した条件の前に当然にやってくれるものとしてあったのだ。こういうように私は解釈して、あのときには文書には書かぬけれども、これは必ずやるのだからわざわざ当然やることを書かなくてもいいのじゃないかというようにも聞いておったのであります。その間をあなたからもう一ぺんはっきり確かめておきたい。
  14. 中山又次郎

    中山参考人 お答えいたします。南先生のおっしゃる通りに、私ども河北潟干拓問題ということについて動き出したのは、昭和二十四年ごろからかと思います。先生のおっしゃるように、なるほど二十六年ごろ先生をたびたびわずらわしておるのだから先生のおっしゃる通りなのであります。私はその後の陳情したいきさつははっきり聞いてはおりませんけれども、第一、私はこう考えております。河北潟の全面干拓という運動が起っております。そこへこの内灘地先埋め立ての問題が出てきたから、それが干拓という言葉と混同されたのだなと、私は今になってそう思っております。それで干拓事業と、それから埋め立て事業の方法が違う。違うのだけれども、混同された。そのためじゃないかと私は思います。確かにそうだろうと思います。それを私どもは考えておりますけれども、混同されておった。それで内灘だけを切り離してやればよかったのですが、内灘だけ切り離してやはりお願いに上っております。それから一緒になってまた上っておることもあります。その内容いきさつとかは私は十分聞いておりませんけれども、来たことは来ております。そういうわけであります。
  15. 南好雄

    ○南委員 それでは林屋さんにお伺いいたしたいのでありますが、あなたにお話を聞いたときも、それからその後にいろいろ御厄介になっておった際におきましても、この河北潟埋め立てまたは干拓、これは埋め立てと申しますのは内灘人たち地先水面の埋め立てをする。それからそれをある程度含まして河北潟全部の干拓という、こういう事業と二つあるように見受けられるのですけれども、実際はこれは一つでございます。河北潟をどうして処理して水田を作るかという問題の中には、時期的の差はあっても、当然内灘地先水面も干拓または埋め立ての方向に進行していくものでありますから、これは私は同じことだろうと思います。言葉干拓でも埋め立てでもけっこうですが、こういう問題が当時政府の幾つかの条件の前提になっておったというふうに私は拝承しており、理解しておるのですが、当時の詳しいいきさつを——当然政府が引き受けてくれるなら、これは何でもないのですけれども、最近になってそんな話は聞かないのだという話を聞くものですから、私らも当時の当事者として、協力者として非常に意外に感じておるのですが、まことに恐縮ですが、一つはっきりと伺いたい。
  16. 林屋亀次郎

    林屋参考人 この内灘の問題の四カ月の条件の際にも一応まとめて私が報告をいたしたことがあります。それには河北潟干拓をやらなければならないという問題も提案いたしまして了承を見ておったわけなのでありますが、私が落選をいたしまして、同時に大臣をやめました。その際内灘の問題が片づくまでは一時留任しておれということで、その後閣議にも出て、この内灘問題を話し合ったのでありますが、そのと遂には内灘を総干拓するということは、一反歩の原価が五十万円かかって経済単位にはどうしても合わないので、どうしていけばいいかということで今思案をしておるのだが、参議院議員の溝口さんでありますか、農林省関係のある方がおられますが、このお方がいろいろ研究した結果、これを総合的に埋め立てした方がいいのじゃないか、干拓ということは、七つなり八つの川から先に改修していかなければならないから、非常に困難である。だから内灘だけ埋め立てをすると、対岸にはまた水がかさまる。水がかさまると向うは非常に困る。だから総体的に四百町歩ぐらいを埋め立てした方が国家のためであり、内灘のためであり、また対岸のためであるのじゃなかろうかということで、いろいろ議論をしておったこともあるのでありまして、私どもは、先ほど中山村長が言われましたごとく、今の内灘試射場というものは、いかなる場合においても今後はやはり政府において使用せざるを得ないことになるのじゃなかろうかというような考えを持っております。私最初内灘のこの試射場の品、題に対しましては、内灘村民の百年の計を立てるのは今であると言って内灘を説破したのであります。その百年の計ということは、農業に百八十度転換させるということが私の趣旨、であったのでありますから、内灘埋め立てであろうと干拓であろうと、とにかく内灘生活が自立経済にいくように政府が骨折ってやることが政府の責任であると、私は考えておる次第であります。
  17. 岡良一

    岡委員 そこで、河北潟がかりに村の要求せられるように約三百町歩ないし四百町歩埋め立てをされる、そういうことになりましても、当時の内灘村の農家戸数は約一千戸であります。そうして田は四十一町歩ということになっております。村の予算が一千万円程度で、平衡交付金四百五十万円といえば、全くお話にならない貧村である。そこで、大事な生業のもとである浜が奪われる、従ってそれにかわるものとして当然内灘沿いの沿岸の河北潟埋め立てをしてやらねばならないということは——これは林屋亀次郎さんにお尋ねをいたしますが、あの十二月三日に内灘接収閣議において決定をせられたのでありますが、このときに内灘の百八十度の更生策としては、今の少くとも三百余町歩埋め立ては絶対に必要であるということは、閣議においても林屋国務大臣としては十分に御主張になり、かつまた閣議了解は当然得られたことと私は思うのでありますが、その間の経緯はいかがでございましたでしょうか。
  18. 林屋亀次郎

    林屋参考人 今そのほかに開墾二百七十町歩をやっております。これも私が最初政府として内灘約束をいたしましたのを、その後に至りまして農林省約束通りにやってくれなかったのであります。と申すのは開墾法による開墾をしなければならないと申しますと、内灘の負担というものが非常に多くなる。国家が全面的に開墾をやってくれないということで、昨年から本年にかけまして私は農林省の今の農林次官に再三内灘村長とともに行って、それでは話が違うんだ、この問題だけは国家が全面的にやってくれるべきものだと言って主張したのでありますが、なかなか話がまとまりませんのを、村はそれの負担ができませずいたしましたので、自衛隊国家から頼まれまして、今自衛隊でようやく開墾をしておるというような場面もあるのでありますが、先ほど岡先生からお尋ねになりましたことは了解を得ておることは間違いありません。
  19. 岡良一

    岡委員 当時の新聞紙の報ずるところによると、二日の閣議においては林屋国務大臣から地元民との折衝の結果が報告され、その結果了解された一項目として、河北潟干拓事業費として予算の数字も出ておりますが、考慮する用意がある、こういうことがはっきりされておるわけであります。そこでその後継続使用がさらに期限付の使用になって参りまして、あの内灘をめぐって大きなセンセーションが巻き起って参りました。その当時の記録を私は拝見をいたしますと、いわゆる九月十四日の伊関局長その他の方々が御出席をなされての政府側と村側との最終的な妥結の条件でありますが、その条件の中には河北潟埋め立てあるいは河北潟干拓に関する条件というものが、新聞紙の伝えるところでは出ておらないのであります。この点について重ねて中山村長からこの間の経過を承わりたいと思います。
  20. 中山又次郎

    中山参考人 ただいまのお尋ねにお答えいたします。最初私がこの埋立事業お願いいたしましたときに、他の基地との関係もあって文書に表わすことは非常に困るから、文書から抜いてもらいたい。やることは必ずやる、確信がある、それくらいに言うておられました。それから先ほど申す通り益谷先生のお言葉もありましたから、私は安心して、文書に書かないでもやって下さると思って確信しておりました。そういうわけで、私ども会議が終ってさようならと言って別れて出るときに、なお伊関局長は、河北潟のこの問題だけは極秘にしておいてもらたいと念を押しておられたのです。それくらいなのでございます。それで発表はなくても私どもは確約しておる、公約しておる、こう信じております。
  21. 岡良一

    岡委員 今中山村長お話しになった点に大きなポイントがかかっておると思います。当時伊関国際協力局長は、日米合同委員会において日米相互に議長になる、その座を占めるというような立場の人でもあり、内灘接収問題では、当初より政府代表として御折衝の責任をとっておられた力であります。そこで今中山村長の言われたように、伊関局長政府代表としてこの河北潟埋め立て約束し、公けの文書にとどめることは、他の基地への影響もあるから一つ文書にとどめることは抜いてほしい、重ねてまたこれはぜひ極秘にしてもらいたいというふうに取り扱われた、この事実は林屋亀次郎さんとしては御存じでありましょうか。
  22. 林屋亀次郎

    林屋参考人 お答えします。内灘から提案されました条件の第一項目は河北潟干拓というものが条件になっておったのでありますが、伊関君と中山村長とのお話し合いは私は立ち会っておりませんので存じませんが、中山村長の言われることはわれわれ閣議で了承しておることでありますから、いやしくも伊関局長のみでさような言葉は吐かないと思います。閣議も十分に尊重しておる。また私は緒方前副総理とは再三この話をいたして了承を得ておったのであります。今緒方さんの名前を出しますと、死人に日なしでありますから差し控えたいと存じますが、今岡先生お話でありますから申し上げますが、緒方氏は十分にこれを実行に移さなければならないという決意を持っておられたと私は存じます。
  23. 岡良一

    岡委員 結局そうなりますと、率直にお尋ねをいたしたいのでありますが、中山村長並びに林屋国務大臣といたされましては、政府内灘砂丘地演習場として接収する、その見返りとして文書にはいろいろな事情があってとどめないまでも、河北潟の特に内灘沿岸の埋め立ては必ずやるのであるという意思表示が繰り返し示された、それは当然やってくれるものと今日まで御両者とも思っておられた、それがやってもらえないままに、さらに継続使用という要求が持ち出されてきた。そこでこういうふうに、当時の政府が、村民のまことに切実な要求に対して接収をしたいばかりに、今日となってみればいわば好餌をもって欺瞞をしたというふうに私どもは考えるよりいたし方がありませんが、当時の村の代表として、困難な折衝に当っておられた村長さんとしての中山さん、あるいはまた四月までは政府側を代表して、おとりなしの衝に当られた林屋国務大臣といたされまして、政府のこのやり方というものは、どうも村の人たちの期待を完全に裏切った、もしやってくれないならば裏切られたものである、こういうふうに今思っておられるかどうかということ。いま一つは、私はこの約束というものは決して政策上の約束ではないと思うのです。演習場として砂丘地が取られた以上は、内灘村民のぎりぎりの埋め立ての要求というものは、政府がどの政府に何回変ろうともこれは動かすことのない事実であり、従ってこの約束は道義的にいかなる政府といえどもその実行をいたさねばならぬ約束だと存じます。そういう意味でこの約束の道義的な意味というものをこのように私ども考えておるのでありますが、この点について一つこの際林屋さんと中山さんの率直な御見解を承わりたいと思うのであります。
  24. 林屋亀次郎

    林屋参考人 この延び延びになりましたことは、先ほど申しましたようにいかに内灘の村を救わんといたしましても、経済単位に合わないことは政府としてやりにくかったことと私は存じます。しかし今では溝口案という砂丘地の砂をもって埋め立てすれば平地もできますし、両々相まってやれるという、しかも一反歩二十万円くらいの経済単位になるそうでありますので、中山村長先ほどから言っておられます経済単位には合いますので、国家がこれをやられましても、一向国民の意思に反する仕事ではないということであります。同時に内灘村民もこれによって百八十度の生活の転回ができるのでありますので、どうか議員の各位におかれましても、ぜひともこの点を御協力を願いたいと存じます。  なお六億の埋め立て内灘に全部無料でやるのかというようなお考えの方もありましょうが、これは決してそうじゃないのでありまして、埋立法と申しますか干拓法と申しますか、その線に沿うて村民ができ上ったものをあるいは年々歳々なしくずしにしていきましてこれを買い取ってもいいというような広大な意思を持っておるのであります。さような気持でおられるこの内灘村民に対して、政府は完全な好意を寄せていただかんことをこの機会に特にお願いをいたしたいと存じております。
  25. 前尾繁三郎

    前尾委員長 岡田春夫君。
  26. 岡田春夫

    岡田委員 ちょっと暑いものですから、上着を脱いでおりますが、御了承をいただきたいと思います。林屋さんお急ぎのようですから、二、三の点を伺って参りたいと思います。  まず第一に伺いたい点は、干拓問題に関連して、政府が公約違反をしているのではないかという点を先に伺いたいと思います。先ほど林屋さんのお話によりますと、確か四月ごろに閣議でこの内灘演習場使用に関連をして、その一項目として河北潟干拓という問題が閣議で正式にきまったものであるというお話があったように私記憶をいたしておりますが、この点はこの問題に関連して実はきわめて重大な問題でございます。大体閣議はいつごろですか。
  27. 林屋亀次郎

    林屋参考人 お答えいたします。閣議で決定はいたしておりません。閣議了解を得たのであります。
  28. 岡田春夫

    岡田委員 閣議了解なら了解でけっこうでありますが、その了解は大体いつごろ行われたのであるか、この点きわめて重大な問題なのでありまして、その間のいきさつ一つもう少し詳細に伺えればけっこうだと思います。
  29. 林屋亀次郎

    林屋参考人 ちょっと日は記憶いたしておりません。御承知の通りその月の金曜か火曜は閣議でありますので……。
  30. 岡田春夫

    岡田委員 何月でありますか。
  31. 林屋亀次郎

    林屋参考人 まだ私が大臣におったときでありますから……。
  32. 岡田春夫

    岡田委員 四月ですか。
  33. 林屋亀次郎

    林屋参考人 四月ですか、三月ごろですか、その点はちょっと記憶がないのであります。御了承願います。
  34. 岡田春夫

    岡田委員 その閣議了解のときにはその中の関係大臣閣議出席大臣の中でどなたか御反対をされた方はございますか、それとも満場異議なくそのように了承をされたのですか。
  35. 林屋亀次郎

    林屋参考人 ありせまん。
  36. 岡田春夫

    岡田委員 そうしますとその当時の内閣としては、これは閣議の正式決定でないとしても、了解事項といたしまして、当然これは行政措置として行うべきもの、このような了解があったものと考えてよろしいと思いますが、いかがでございましょうか。
  37. 林屋亀次郎

    林屋参考人 いいと思います。
  38. 岡田春夫

    岡田委員 大体わかりました。その点はきわめて重大なのですが、実はこの前の委員会におきまして、外務省の関係当局あるいは調達庁関係当局にわれわれいろいろ質問をいたしましたが、そのときにそういう事実は全然きまっておらないというようなことを聞いておるのです。きょうは欧米局長も来ておりませんけれども、外務省は安川さんが見えておりますから、その間にそういう事実がないということをこの前欧米局長が答えておったように私記憶いたしておりますが、この間の実情は一体どういうようになっておりますか。その当時閣議了解事項としてきまっておったものをあなた方がお知りにならないということは、一体どういう事情になっておりますか。
  39. 安川壯

    ○安川説明員 閣議了解の話はこの間の委員会では出なかったと思いますが、あのとき欧米局長が申しましたのは、伊関局長約束を与えたということについては引き継ぎを受けておらないだからそういう事実があったということを否定するという意味ではなく、そういう引き継ぎを受けておらないということを申したように思います。  それから閣議了解の件は、昭和二十八年四月ごろということでありますが、私当時在職しておりませんの……。その後も閣議了解の件については何も聞いておりません。
  40. 岡田春夫

    岡田委員 その当時は大石さんはこの問題に関係をしておられたはずでありますが、その当時の事実はどのようになっておるか、御記憶はございませんか。
  41. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 私その当時調達庁の不動産部次長として事務をとっておりました。その当時のなにで、ただいま林屋先生から閣議了解があった、これはそういうような閣僚間の話し合いや何かでしたものは、われわれ知るべき由もございません。われわれがあとで知っておるのは、文書によってそれが内閣の方から調達庁長官に通達を受けた中には記載してない、従ってそういう事実が書いてないという趣旨を申し上げた次第でございます。
  42. 岡田春夫

    岡田委員 それは安川さんにもう一つ伺いますが、この点は閣議了解であるという点、あるいはこの前の委員会では、こういう約束をしているではないか、了解というところまで言わないにしても、そういう約束をしているではないかということは、岡君からいろいろ御質問があった。ところがあなたの方は、それは知らない、引き継ぎがないというお話であった。この間の食い違いは相当大きな問題です。その間の事情について、香港の伊関総領事にいろいろ問い合せたり、何らかの調査をされた事実はございますかどうか。
  43. 安川壯

    ○安川説明員 私の知る限りでは直接あの後に伊関総領事と連絡をしてないと思います。
  44. 岡田春夫

    岡田委員 なぜお調べになっておらないのですか。
  45. 安川壯

    ○安川説明員 私は個人的に連絡するのは別問題でございますが、在外使臣といやしくも公けの連結をする際には、責任者と出先の公館長とのことでありますので、私自身がどうのこうのということではありません。
  46. 岡田春夫

    岡田委員 私が伺っておるのは、これは安川さん個人に伺っているのではなくて、局長の代理として伺っているので、それ以上聞くのはあるいは無理かもしれませんけれども、公私にかかわらず、少くとも政府が違約行為を行なったということになるならば、そういうような懸念があるとするならば、外務省として当然調べるのは当りまえのことだ。しかも私は速記録を調べてみると、二十八年七月十日に当時の伊関局長が、ここにおられる岡委員の質問に答えて、こういうことを言っている。ちょっと読んでみましょう。「たしか三月の十四日射撃もやってみた上でという約束でありましたから、射撃を始めるのをまちまして、かたがた干拓等につきまして政府の案ができるのをまちまして、そうしてそれが三月の末になったわけであります。」これはおくれていることですね。ちゃんとこれは干拓の問題があるということを伊関局長がはっきり認めているのです。しかもこれをあなたの方はお知りにならないとおっしゃるならば、私はこの委員をもっと進めなければならないと思う。また、あとでこれは委員長にも御相談しなければならないと思うのだが、益谷衆議院議長参考人として呼んで、明らかにしていかなければならない。しかも当時の林屋国務大臣閣議了解事項があったということをこれほど明確に言っているのであります。しかもここにおられる、先ほどから質問をしようとしておられる南君は、当時建設政務次官であった。単なる議員ではなくて、行政官庁の機関の中における一つの担当者として、最終決定の中に参加しておられた。この事実は明らかなのです。こういう人々がすでに干拓問題についてに明らかに約束をしているということを明らかにしているのに、それにもかかわらず、その当時に約束をした外務省あるいは調達庁関係が、そういう約束はなかったのだから知らないということになるならば、これは大きな問題であると言わざるを得ない。行政措置として閣議了解事項というものをひっくり返した、あるいは政府の公約をひっくり返したという責任を、外務省自身が負わなければならないということにもなってくると思う。この点について、もう少し事態を明らかにしていただかなければならないと思うのだが、そういう了解事項が行われておったものとするならば、外務省としては一体どのようにされるというお考えであるか、この点を伺いたいと思います。
  47. 安川壯

    ○安川説明員 私はただ当時の伊関局長から何も引き継ぎがなかったという事実と、それから、閣議了解ということについて事務当局は何も知らなかったという事実を申し上げておるので、そういう約束なり閣議了解があった事実そのものを、ここで私は否定しておるのではないのでありまして、ただそういう事実は知らないということを申し上げたにすぎないのであります。また閣議了解があったとすればどうするかということについては、私はここで直ちにどうするということを申し上げる立場にはないと思います。これは外務省の責任とおっしゃるならば、あるいは責任かもしれませんが、いやしくも干拓をやるということ自体は、外務省がやれる問題ではございません。これは政府全体として考えなければなりません。外務省だけでどうするという問題ではありません。
  48. 岡田春夫

    岡田委員 私の言っておるのは、そういうことではない。その約束をした当事者は外務省であった。伊関局長個人ではないでしょう。直接の担当者として伊関局長がそういう点に関連をして、これは政府の代表の一人としてやったのでありますが、そういう約束をしたということは、伊関という個人がやったのではなくて、外務省の国際協力局長としてやったのだと思う。だから国際協力局長である限りは、その内容がどのようなものであれ、約束をしておるものであるならば、そうしてこの点については閣議了解を受けたとするならば、これは外務省が関係ないということにはならないと思う。そういう点を私が伺っておるのと、それからもう一つは、それでは閣議了解事項があったならばどうするのだということについては、あなた自身がここで言われないのは、無理はないかもしれないけれどもあとどういうようにされるつもりであるか、あるいは局長と御相談になってどうするとか、あるいは適当な近い機会においてその点を明らかにされるとか、これは局長だけでは困るだろうから、私は大臣からはっきりした答弁を伺わなければならぬと思うのだが、そういう点について努力をされるつもりがあるのか、そういう点についても具体的に伺っておきたい。
  49. 安川壯

    ○安川説明員 外務省が関係がないというようなことを申しておるのではないのであります。伊関局長約束をしたとすれば、これは伊関局長が個人で約束をするわけはない。あくまでも公けの立場に立って、しかもこれは単なる外務省の代表ということでなくて、当時の政府の全体の意向を代表して約束をしたならば、これは政府全体の意向を代表してなさるべきものであったと考えます。  それから閣議了解があったとすればどうか、これはもちろん外務省は関係ないと私は申しておらないので、外務省限りではどうにもできない。ただそういう事実が明らかになれば、それに基いて当然外務省としても……(岡田委員「調べていただけますか」と呼ぶ)そういう事実がはっきりしますれば、当然やらなければなりません。しかし閣議了解内容にもよると思います。ただ一般的な方針を言ったのか、具体的な計画を言ったのか、そういう点を含めてよく調べてみます。
  50. 南好雄

    ○南委員 ちょっと外務省の方と調達庁の方にお伺いしたいの、ですが、今の内灘試射場問題が、政府と村当局と最終的に話をしておりました当時の政府側の政治的な責任者は、たしか林屋国務大臣と伺っております。事務的の責任者は伊関君と聞いておる。当時確かに主管事務といたしましては、国際協力局長が議長席に着いておる。そうして主として関係各省と正相談しながら、返事をなさっておる。その後しばらくたって、伊関君のところへ私村長と一緒に参りましたときに、事務引き継ぎがあったように私は聞いた。そこで先ほどからいろいろの問題が非常に不明確な点が出てきて、しばしば中途半端になって困るのですが、事務引き継ぎの点において伊関君の連絡が十分でなかったかもしれませんが、これはあえて責めるわけではない。しかし責任は責任として持ってもらわなければなりませんが、確かに私は埋め立て干拓——私は干拓というように聞いておるけれども干拓はもう閣議了解もあったし、それからこれをやる前提になるものである、ただいろいろな関係から文書の上に書かないのだ、こういうように私に聞いておる。実行する際になりまして、私も政府の一部局に入りましたが、私は当時約束したときにはまだそこにおりませんでしたが、絶えず地元の人たちと接触を持っておりましたから、聞いておりましたが、当時の事務的の最高の責任者は伊関君であった。伊関君がそういうような話をして、その後外務省がやらずに、どこかへいったはずです。そのときにそういうことの十分な引を継ぎが行われなかったのではないか。お伺いしたいのは、いつごろ事務の引し継ぎがあって、いつごろ所管事務が変ったのか。これは事実ですから、事務当局としても何もむずかしく考えずに、いつごろにあったのか御答弁願いたい。
  51. 安川壯

    ○安川説明員 事務の引き継ぎの点を申し上げますと、行政協定が発効いたしましてから、外務省と調達庁との間に一応事務の限界がございまして、当時内灘問題の事務を処理しておりますときは、主として地元なり関係各省との折衝する方針をきめるための交渉は、外務省が監督しておった。調達庁は、一応外務省が代表して地元との原則的な了解がついたあとで実際の土地の賃借、買い上げ、そういう実際の事務をとる、こういう事務の限界をきめておったわけであります。二十八年の十二月一日から、従来やっておりました外務省のそういう地元との折衝、関係各省との国内的な事務一切を調達庁に移管するということを閣議できめ、その後は内灘問題について一切の施設関係事務調達庁に移されたわけであります。そのときに必然内灘は一応解決しておったのでありますが、内灘問題について事後の処置が起るとすれば、それは十二月一日以降は調達庁ということになっております。ただそのときに伊関局長から特に内灘の、今の伊関さんが約束したという事実について調達庁側に引き継ぎがあったかどうかということは、私は承知しておりません。
  52. 南好雄

    ○南委員 私たちも交渉の相手方が最初から今後までいろいろかわらぬことを望んでおったのですが、そういうように政府が変ったように私も聞いた。しかしその後におきましても内灘問題に関する限りにおいては、伊関君は十二月以降についても自分の約束を果す責任者としていつもやってくれた。陳情も伊関君のところへ行き、調達庁の堀井君だったと思いますが、先般やめられたように聞いておりますが、そこへ行って正式の事務の引き継ぎがないにしろ、私などはずいぶん何べんとなしに会っているのです。その間にそういうような話もだいぶしたはずですが、全然大石さん、そういうお話をお聞きにならなかったのですか。
  53. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 事務の引き継ぎの問題にしては、ただいま外務省の安川課長から御答弁申し上げた通りでございます。ただその一般方針は、閣議決定に基きまして、昭和三十八年の十二月一日から、調達庁で、従前外務省国際協力局が担当しておった業務のうち、そういうような国内折衝等の事務の方面を全部引き継ぎましたが、演習場関係だけについては、実は全国の演習場だけを若干いろいろな観点から——その間はちょうど外務省の国際協力局の第二課と、調達庁の不動産部と重複して業務をやるような形で進んでおったことは事実でございます。従ってそういう引き継ぎ問題なんかにつきましても、今私よほど調べて明確な線でお答えしないとはっきりいたしませんが、確かに南先生のおっしゃったように、調達庁の方が事務を引き継いでおるということは一般方針からその通りでございます。  それからなおこの干拓問題を聞いて知っておるかどうかという御質問でございますが、この点に関しましては、私先般の当委員会でもお答え申し上げましたように、私ども正規の文書に残っておるものによって事務を進めておるわけでございますから、その文書に残っているものについては、先ほどいろいろ各委員方々が念を押されているように、いろいろな施策、たとえば道路の問題あるいは畑地灌漑の問題といったようなものは全部文書に明記されております。この河北潟干拓問題については明記されておりません。従いまして先ほども外務省から御答弁いたしましたように、閣議了解で一般方針なりその他のことで話し合いがあり、そうしてそれを進めるのだという了解があったといたしましても、私ども事務屋の方ではそれがはっきりしてないのは事実であります。従いましてその根拠に基いて申し上げているわけです。それからその当時南政務次官が二十八年九月十四日総理官邸における最後妥結の線や何かでいろいろ御苦心になっておられた様子も今思い浮べることができますが、その当時私ども承知しておりますのは、河北潟の取扱いの問題は在来の基本施策であり、それは国の方、では必ずやるのである、地元の方から要望している線だからそれはそれで別個の方策としてやるのだ、ただしかしいろいろ技術的な問題、あるいはただいまも林屋大臣もおっしゃいました経済開発問題その他もあったでしょうが、いろいろな観点から今直ちに取りかかるわけにはいかないというようなことから、さしあたって耕地の少い面は砂丘地畑地灌漑でもって当座の解決策としては解決するというふうに私個人は了解いたしております。ただいろいろ調査の結末私の了解が違っておりましたならば、これは私それなり、私の見解を変えることはやぶさかではありませんが、そのように私は了解しております。
  54. 南好雄

    ○南委員 それではもう一ぺん大石さんにお伺いいたしますが、確かに昭和二十九年度内灘問題に関係して、何とか河北潟干拓に六千万円の予算を計上しようということを故緒方副総理に話をして、当時の大蔵大臣お話し願ったことを私記憶しております。不幸にして二十九年度は緊縮の戸がかかっておりました。どうしても新規の事業はやらぬというような方針で、干拓予算関係なく一般的に新規事業はやらないということに確かに変った。そういう政府の一般方針にまで逆行してその河北潟干拓予算に計上することは、当時の情勢ではなかなかできなかった。しかし閣議了解の事項であり、その後村当局もわれわれも協力して、この内灘をほんとうに救うためには、河北潟干拓するよりほかしようがないのだということでやっておりまして、昨年もずいぶんいろいろ農林省及び大蔵省に話をしているはずです。ですからお立場上いろいろむずかしい場合もありましょうけれども、あなた方は事務官僚ですから、責任ある御返事をなさる場合にも種々お困りだろうと思いますが、あったことはあったとおっしゃっていただきませんと、問題が非常にむずかしくなります。道路の問題、公営住宅の問題は、私がたまたま建設省におりましたから、これは支障なく私の政治責任のもとにおいて実行いたしましたが、農林省のことはやはり陳情するよりほかないので、しばしばその運動に立ち会っておりますし、あなた方にもそのお話を申し上げているはずです。これは政府方針が緊縮方針に向ったために、あのときに予算が計上されなかったというように記憶しておりますが、大石さんはどういうふうに考えておりますか、その間のことを御記憶ありませんか。
  55. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 今南委員からの御質問の点について、私明確にお答えするだけの自信がないのですが、ただその当時から現在まで記憶していることは、河北潟の取扱い方については地元多年の御宿望でもあり、政府の方においてもそれは必ずやるのだ、ただしかし直ちに実行はできない、それはいろいろ技術士の問題、あるいは予算上の問題、その他の問題があったのでしょう。そのために直ちに実行もできないから耕地が不足である。耕地を造成してあげねばいかぬという施策は、畑地灌漑をもって処理をしたのだというふうに私は了解しております。
  56. 岡田春夫

    岡田委員 そうすると今の話は、干拓問題を畑地灌漑にする必要があったという意味ですか。もう一つ、引き継ぎの問題は、あなたは知らぬと言うけれども、伊関さんが行政担当の部面がいろいろ変って、調達局の関係に変更になったというなら、その当時の伊関局長は、一体当時の調達局のだれに引き継いでいるべきものなのであるか。これは行政的に見てですが、そういう点はどういうふうになっておりますか。その当時のだれ、そして調達局のどういう一部局のどういう局長であるのか、課長であるのか、あるいは長官であるのか、だれに引き継いでおるべきものなのか、この二つの点をちょっと伺っておきたい。
  57. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 今の引き継ぎ問題から申し上げます。行政的には閣議決定で、外務省の国際協力局の業務の一部が調達庁に移管になったという場合は、当然伊関局長から調達庁長官、しかし内部規程によりまして、当時の調達庁不動産部長もしくは連絡調査官という方面に引き継がれていくべきものと存じます。
  58. 岡田春夫

    岡田委員 その部長というのは何という人ですか。
  59. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 その当時の部長は山中部長です。それから連絡調査官は、松木連絡調査官です。しかしながら当時私は次長をしておりましたから、当然私も了知いたしております。
  60. 岡田春夫

    岡田委員 前段の干拓の引き継ぎはなかったけれども、それを畑地灌漑に転換するという引き継ぎはあったという話ですか。
  61. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 私の申し上げておることは、そのような引き継ぎは、河北潟干拓畑地灌漑に切りかえたのだという引き継ぎがあったのだということを申し上げておるのではないのです。私ども内灘の一般の状況の問題を、書類その他によりまして引き継ぎを受けたわけでございますが、その引き継ぎを受けた時点は、先ほど申し上げた閣議決定の引き継ぎの時点よりは若干おくれておるはずであります。一般状況で引き継ぎを受けておりますから、書類等によって引き継ぎを受けているのであります。その引き継ぎを受けた書類なんかについては、河北潟の取扱いについては明記されておりません。明記されておりませんが、私も昭和二十七年の内灘試射場問題が生起された当初から、事務当局として業務の一部に鞅掌いたしておりましたから、私若干の経緯を知っておるわけであります。先ほど林屋大臣から閣議了解があったという話でありますが、その了解のあった点や何かにつきましては、私ども下の方までうかがい知ることはできませんが、確かに当時のここにおられる中山村長の御要求の中には、河北潟の問題は載っておりました。しかしながらあとで成文化されたものには載っておりません。それはなぜかという点は、先ほど来申し上げたようにいろいろな観点から、急速に実現はできない。しかしながら基本的に河北潟の取扱い問題については、国の方で十分これを真剣に取り扱っておる。それで急速に実現できないから耕地の少い問題を直ちに補充するという施策は、畑地灌漑の問題で急速に補充した、このように私自身は了解いたしております。
  62. 岡田春夫

    岡田委員 この問題の妥結の仕方が、九月の十四日の四カ月の一時使用以降において三カ年間続けて使うという、その妥結の仕方について私はどうもふに落ちない点があるのです。これは中山さんに伺いたいのだけれども、九月の十四日に最終的に妥結したときには幾つかの項目が妥結された。たとえば三カ年間使用する等、それと同時に中山さん、そのときには河北潟干拓の問題も進めるという話が実は出ているが、これが文書、で取りかわされておらないということは、どうも私はふに落ちないのです。あれほど重大な問題が文書で取りかわされておらないということは、何か政府側から河北潟の問題はぜひやらなければならないのだけれども、相当金もかかることだし、補償金の問題にしても、いろいろ問題になることだから、文でかわさないけれども、必ず実行するからとかなんとかいうことで、はっきりした約束が——先ほども何かそういう点についてお話があったようですが、この点非常に重要な点だと思うのです。河北潟干拓の問題に関連して文書にしなかったという何か特別の理由がこのときにあったものなのですかどうなのですか。この点が干拓の今後の問題に一連してあなたの方としては一番重大な問題だと思うのです。役所というものは大体おわかりの通りに文書がないと、そういうことは知らなかったと言ってよく逃げるもの、ですから、文書でなかったという特別の事由を明らかにしていただくことがぜひ必要だと思うのですが、その点はどうなっておりますか。
  63. 中山又次郎

    中山参考人 お答えいたします。ただいまの岡田先生お尋ね先ほども申し上げました通りに、他の基地との関係もあるから、これは文書から抜いてもらいたいというのが伊関局長の最初からの申し分でありました。それじゃいかぬということを私は言ったのですけれども、さっきも申した通り益谷先生も、緒方君も言われていることだから、こうしてやれ、こういうふうにおっしゃったので、伊関局長も確信がある、これくらいに言い切っておられたのでありますし、ことに柴野知事もおられたのだし、南先生を初め選挙区の代議士たちもおられたのであるから、これだけは文書を取りかわすのは見合せたのであります。
  64. 岡田春夫

    岡田委員 今度は調達庁大石さんに伺いたいのですが、引き継ぐというのは、何も公文書でなくったっていいはずです。口頭による引き継ぎというものも——これは一般的な問題として伺っておきますが、口頭による引き継ぎがあっても、これは違法でないし、当然引き継ぎの効力を持つと思いますが、いかがですか。
  65. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 御見解の通りでございます。
  66. 岡田春夫

    岡田委員 そうするとあなたは公文書になかったということを再三さっきから言われておりますが、伊関局長から先ほどの山中部長ですか、あるいはその他の部長に口頭での引き継ぎがあったかもしれないが、そういう点についてはあなたはお聞きになっておりますか。
  67. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 先ほど申し上げましたように、私当時の不動産部次長といたしましてこの業務の一部に鞅掌しておったわけでございます。しかしながら調達庁関係では主として私が鞅掌しておったようなことになっております。その理由は当時山中不動産部長は、多分二十八年の六月以降、北海道開発庁の方から着任になったと存じております。その間四月から部長が欠になっておりまして、当時の堀井次長が不動産部の事務取扱いをなさっていたはずでございます。そんな関係で私がこの内灘問題には外務省の会議等にも参加したり、いろいろ折衝の末席を汚しておったというような経緯もございます。その関係でその後閣議決定によって業務移管の問題以降、特別に伊関局長から当時の堀井次長なり、あるいは山中部長なり、あるいは松木連絡調査官なりに口頭で引き継ぎがしてあったというふうには私承知していないのであります。
  68. 岡田春夫

    岡田委員 これはあとでいろいろ明らかにしたいと思うのですが、伊関局長がそういろ約束を事実している。これは当事者中山さんが先ほど言っておられるのですが、あなたの方には引き継ぎがなかった、これは明らかですね。口頭による引き継ぎがなかった事実は明らかなのですね。そうすると伊関さんのところでその話が立ち消えになったという解釈をせざるを得ない、そういうことになりましょう。
  69. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 先ほどからの論旨の進め方の形から申し上げますと、御見解の通りのように私も存じますが、しかし先ほど来から私申し上げておりますように、また南委員の御発言の中にもございましたように、私ども承知いたしておりますのは、河北潟干拓なりそういうような農地造成の取扱い方針については、いわゆる内灘問題が生起される以前から国において計画があり、そしてまたその後も私農林省等に対していろいろ尋ねておるのでありますが、これはぜひ達成したい、こういうふうに考えておるわけでございます。従いまして、いわばこの問題が必ずしもなくても必ず達成される、そういう事案だと自分は存じております。従いましてその当時必ずしも明文として書かない、でも、この問題についてはおそらく必ずやるというような御発言があったものと私は推測いたしております。
  70. 南好雄

    ○南委員 中山さんに冒頭から私が尋ねておるのは、この間のことを申し上げた。と申しますのは、河北潟干拓の問題は二十六年から調査費が計上されておる。それから畑地灌漑に関係のあります河北台砂丘地の灌漑というのも、やはり二十六年からあなた方の陳情によって私が調査費を計上いたしまして、当時畑地灌漑の方は調査が完了して大体経費までわかっております。それから一方は調査中で、どれだけ金がかかるのやら、水の量がどれだけあるのやら、まことに不明確な状態です。政府の文書にいたします上におきましては、数字が比較的はっきりしておるものは書けるが、はっきりしないものは書けない。それともう一つは、他の基地に関係があって、この河北潟の処理問題は文書にしないのだというふうに、私はたしか伊関局長かあなたから聞いた。その間の事情を私はよく知っておるから、河北台砂丘地灌漑のうちから抜き出して、内灘砂丘地の問題はあのときは予算がはっきりわかっておった。それから一方の河北潟干拓は計画が膨大で、また百万円か二百万円の調査費ですから、ほんの概略だけで三十億ともいい、百億ともいい、はなはだしきと遂には三百億ともいわれて、てんで見当がついておらないという当時の事情であったから、文書に載らない、それからもう一つは他の基地に非常な影響があるから載らない、こういうように私は聞いた。しかしこれは載らなくてもあなた方しっかりしてやらなければだめですよということは何べんも私は申し上げた。そうであったかどうかを、もう一ぺんはっきりここで再確認しておきたいのです。
  71. 中山又次郎

    中山参考人 ただいま南先生のおっしゃったことに間違いありません。それから先ほどほかの先生からもお話のございました口約束というような、これはほんとうにややこしいことになります。けれども——これはなまいきなことを言って失礼ですけれども、河野農相の日ソ交渉は口約であります。政府と国民とが約束したのであって、親と子と約束するのだから文書に載らないからといって、確かにやってやるとおっしゃったので私は安心して控えていたわけであります。それで御了承願いたいと思います。
  72. 岡良一

    岡委員 最後調達庁の公式な御見解をこの機会に承わっておきたいと思うのです。  まず第一の問題でございますが、河北潟干拓の問題と、それからせっぱ詰まった内灘村の砂丘地接収をされるということに基く内灘村の埋め立てをしてもらいたいという要望とは、一応切り離して考えなければならない問題なのでございます。河北潟干拓はもう二十年来石川県の大きな課題になっております。これは米軍接収されるということとは無関係な石川県の大きな課題なのです。ところがたまたま内灘村では米軍に何十万坪河北の砂丘地が取られるので浜の仕事ができない、それで農業に転換をしたい。先ほどお話のあったように、一千戸の農家で水田四十一町歩、田畑合せて一戸当り一反六畝くらいの農地しか持っておらない。これではとてもやれるものではない。穴埋めとしてかえ地をもらいたいというのが切実に村の要求として起ってきたものであって、河北潟の一般的な干拓という政策と、政府の政策とはもちろん無関係ではありませんが、新しい事態に即応して起った内灘村の切実な要求であるということを、調達庁の方としてもよく御認識いただかなければならないと思います。  次に畑地干拓の問題と、そしてまた地先埋め立ての問題とは交換条件の問題でないということは、すでに村長先ほど強く訴えておられました。先ほど来のいろいろな質疑応答を通じて明らかになったことは、一応内灘村の切実な要求にこたえて埋め立てをしようということについての閣議了解があった。ということは、その閣議出席をした当時の国務大臣であり、かつまた政府を代表して内灘村の折衝に鞅掌せられた林屋国務大臣から明確な御言明があったわけです。かつまたこのことに基いて最終的な、妥結の翌日九月十五日には、政府を代表する伊関局長とそれから村を代表する中山村長との間にも、ただ文書にはしないが必ずいたしますという確約があったわけです。政府の村に対する公約があった。  そこでお伺いいたしたいのは、すでに御承知の通りあの当時内灘村の問題を契機といたしまして私が提案をして国会の承認を得た法律があります。日米安保条約第三条に基く行政協定の実施に伴う国有の財産の管理に関する法律の一部を改正する法律案、あれに基きまして、今後国有地を演習場の用に供すると遂にはその土地の所属する市町村長意見を聞かなければならないとはっきり書いてあります。従いまして今後調達庁がこの法律に基いて内灘村の演習地をさらに継続使用される場合に、いかなる態度をもって臨まれるかという問題、と申しますのは、今ほど明らかになったように政府の公約は実現されておりません。従って村の人たちの切実な要望というものは、今日まで完全に無視されております。従って村といたしますれば、当然こうした公約を無視されているということでは、継続使用に応じられないという強い意向を持っておることも御承知の通りであります。そこで先ほどの法律の趣旨に基きまして、当然内灘村といたしましては継続使用を拒否し得ると私は思います。これは国有地を演習場の用に供しようという新しい問題ではありません。三年前の約束が全然実現されておらない。ここに地元の諸君とすれば、これを拒否するところの明確な理由を持っておると私は思います。このような事態において、調達庁としては、今後継続使用についてはあの改正された国有財産の管理に関する法律の趣旨をいかに解釈をされ、運用されるかということに、私どもとしては重大な関心を持っておるわけでありますが、この点について大石部長としてはここでお答えが願えないならば、調達庁として明確な御方針をお示し願わなければならない、こう思うのであります。この点について部長としての御見解があれば、この機会に承わっておきたいと存じます。
  73. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 ただいまの御質疑の点は、私責任担当の部長といたしましては、当然国有財産管理に関する法律の趣旨にのっとって、関係市町村長意見を十分聞く、またそれを尊重する、こういう態度で今後も臨んでいきたいと存じます。今までもその態度を貫いて参りました。従ってこれは明文にありますところの三年というお約束の線もありますし、それからまたその法律の趣旨にのっとっても、当然内灘村の村長の御意見は聞かなければいかぬということで、いろいろお願いしておるような状況でございます。  またただいまの政府の公約の点につきましては、私どもはもう一度慎重になおいろいろな調査を遂げてはっきりいたしますれば、むろん私どもはそれを尊重いたすことは当然であろうというふろに判断いたしております。
  74. 岡田春夫

    岡田委員 私その点を今伺いたかったのですが、内灘演習場は先月一ぱいで期限が切れているわけですね。そうすると、今月から継続使用するとするならば交渉していなければならないと思うのですが、この交渉はもう始まっているのですかどうですか。
  75. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 その交渉は、具体的には私先月の二十二日来地元に参りまして、村長さん初め村議会の皆さんにお目にかかって、三日間、継続使用さしていただきたいというお願いをしたのでございます。ところが、先ほど来問題になっておる三百町歩内灘地先埋め立て問題の達成を条件とするという御要望がありまして、いろいろ応酬があったわけでございますが、結論的に申し上げますと、そういうようなことをよく調べ、また関係各省とも十分話出し合って一つの結論を出すのにはやはり時間が必要である。その時間は一カ月あればよろしい。従って一カ月半、六月の十五日までは従前通り使ってよろしいというお許しを得ております。なお、目下この問題につきましては各省とも緊密な連絡をとって、政府機関の結論を出すべく努力いたしております。それによりましてなお地元の方々とも十分協議いたしまして、合意の上で施策を進めたい、こういうふうに考えております。
  76. 岡田春夫

    岡田委員 そこで伺いたいのは、今後継続使用の場合の期限はどういうようになっておりますか。たとえば三年とか五年とかあるいは永久とか、こういうような期限がついている交渉になっているのか。  それから第二の点は、その演習場の性格は、今まで行われたような米軍演習場としての継続を調達局から申し入れているのですか。この二つの点を伺いたいと思います。
  77. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 期限の点は米駐留軍が使用いたします期間お願いしたい、このように申し上げております。  それから性格は、米駐留軍の試射場として継続使用したい、性格は従前の通りであるというふうに申し上げております。
  78. 岡田春夫

    岡田委員 米駐留軍が駐在する期間中ということになると、いつまでということはきまっていないわけですね。三年とか二年とか一年とかというのじゃなくて、ずうっとというわけですな。  そこで中山さんに伺いたいのですけれども、四カ月の使用期限が済んでから、そのあと三年間ということについてずいぶん問題があったようです。あなたの方としては二年間という主張を最後になってからなされた。ところがここにいる当時の南建設政務次官の話では、五年でどうだという話も出たし、いろいろ話があって、結果において三年間ということになった。その三年間という理由は、三年の間にアメリカの駐留軍は全部そこから帰ってしまうはずだ。そうすると、そのあと日本自衛隊が使うということになる。自衛隊がここを使うかどうかはあらためて相談をすることにして、ともかくも三年間アメリカがいるのであるから、アメリカのいる間だけ貸してもらいたい、そうでなければ貸しません、こういう地元側の非常に強い要求があって貸したのであって、それ以外のことについては約束できない、こういうことで話が妥結しているように私は記憶しているわけです。そこで、少くとも政府側の態度としては、三年たったらアメリカの駐留軍がいるいないにかかわらず、今度は自衛隊演習場という方向に切りかえてくれるのであろう、そういう希望を持たせるような意見で話が出ておったと思うのだが、地元関係者としてはどういうようにお考えになっているのか。現在も相変らずアメリカの駐留軍があれを使うということについて、使わせるのはかまわないとお考えになっているのか。しかも今度は期限がいつまでかもわからない。三年というようにきまっていないので、アメリカの駐留軍のいる問いつまでもというようにお考えになっているのか。その当時ならばそういうことはとうてい承知できなかったろうと思うが、そういう関係についてはどのようになっているか、その点を伺いたい。
  79. 中山又次郎

    中山参考人 お答え申し上げます。ただいま岡田先生のおっしやる通り米軍試射場として三カ年、こういう約束、三カ年まではおるまいと思うが、それからあと自衛隊に切りかえるつもりだったということは伊関局長が言うておられました。その後私ども様子を見ておりますと、先ほども申し上げた通り米軍のやっておるキャンプの施設自衛隊に切りかえられる、あるいはこれが国防軍とかいうようなものになるか、国際情勢のいかんによって。そういうことを考えてみますと、この浜はどうしても永久的にわれわれの手へ返ってこないというようなことが、これは私だけの意見でありますけれども考えられるのであります。従って、内灘村民としては、どうしもこの浜を返してもらえる見込みがないならば、前からお願いしている通り埋め立て実行していただきたい、われわれは農村として生活を百八十度転回していきたい、こういうふうにお願いしておるわけです。先ほどもたびたび出ていましたが、接収問題とからんでいやでもおうでもこの仕事をしてもらわなければならぬというような、そんな考えを持っておるのではありません。私どもも、政府のおっしゃる通り、われわれの生活が安定できるようにこの埋め立て実行して下さい、こういうふうにかえって御同情を願っておるような始末でございます。村の意向は一体どうだということは、どうだこうだと申し上げるわけにいかぬと思います。とにかく今の状態ならば当分見込みがないと思っております。私どもの前からお願いしていることを実行して下さい、こういうわけなのであります。
  80. 岡良一

    岡委員 そこで大石部長先ほどの御答弁でありますが、誠意をもって地元の内灘村との折衝を進めたい、こうおっしゃいます。私ども大石部長がこの問題について多年の間まことに御苦労をしておられる苦衷はお察ししております。ただしかし、問題は、本日もかなり明らかになったように、誠意をもってというその誠意は具体的な事実をもって示されなければならないと存じます。村は約束だから埋め立てをしてくれということを言っております。それが果していかなる約束であったということは、きょう明らかになったように、国務大臣として林屋氏が出席をされた閣議において行政的にやろうという了解がついている。ただ問題は、政府代表として伊関君が内灘村との折衝の過程において、今中山村長が訴えられたように明文化しない。同時に伊関君はこれを調達庁の方へ引き継ぎをしておらない。これは内灘村民の責任ではないと思う。これは明らかに伊関君なり政府の責任である。従いまして、村はどうしても埋め立てをしてくれ、これは約束であったと主張することは当然である。してみれば、政府としてはその間の手落ちは十分究明して、この公約にのっとってそれをする意思があるかどうかという態度を明らかにすることが——もはや政府に残された誠意の内容は、それしかないと思う。だから、調達庁の方ではこの間の経過をはっきり究明するということ、政府は態度を明らかにすること、これなしには誠意ある村への説得というものは私は不可能だと思う。こういう措置を講ぜられる御用意があるかどうか、この点を特に大石さんから承わっておきたいと思います。
  81. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 ただいまの御見解の御趣旨を十分尊重いたしまして、誠意をもって施策を進めたい、こういうふうに考えております。
  82. 岡田春夫

    岡田委員 そこで大石さんにもう一つ伺っておきたいのは、三年間という約束は、伊関局長がその当時三年のうちに内灘からアメリカを帰すのだから、だから三年間にしてくれというので、ようやくまとまった。ところが今度、再度継続使用させてもらいたいというと遂に、アメリカの駐留軍がまた使うのであるから、再度駐留軍の演習場として貸してくれというように持ち出してくることは、これはその当時の約束とだいぶ話が違うのではないか。この内灘問題のいきさつから見て、初めは静岡県の御前崎かあるいは伊良湖岬その他があった。そして結果において林屋国務相がその間にあって内灘になった。内灘になったと遂に四カ月だけ使用したいという話になった。四カ月が済んだならば、青森か北海道に持っていきたいというような話があった。こういうような点からいって、内灘はほんとうは初めは黙っているならば永久使用というような考えを持っておったのだけれども、黙っていないものだから初めは四カ月でいく、そのあとは三年でいく、そしてそれが済んだら今度は永久でいくというような手で、手をかえ品をかえて、その間の交渉においては政府のそれぞれの関係者がうまいこと内灘村民をだまして使ってきた、そういうようにわれわれは解釈せざるを得ない。しかもそれの条件として約束した補償の問題なんか、今になったら、そんなこと聞いた覚えはない、こう言ってまただましている。一体政府の態度としてそういうことが妥当なのかどうかという点を、まずあなたの率直な感じとして伺いたい点が一つと、三年間という期限は、その間には必ずアメリカを帰すのだ、そのあと使う場合においては、アメリカがいないというような場合でなければ話はできないはずだと思うのだが、アメリカの駐留軍の演習場としてまた貸してくれといって交渉するその理由は一体どこにあるのですか。伊関局長は三年間でアメリカは帰すのだと言っているのに、おれは伊関じゃないかわりの別な者だから、今度はまたアメリカの駐留軍の演習場に貸せという話は、一貫した政府の施策としてはあまりにも国民をなめたやり方だと思うのだが、こういう点についてはどうなのですか。政府は、アメリカとの約束がそういうことになっておって、国民に対する約束の方は裏切っても、アメリカの約束の方だけは守らなければならないと考えて、そういうことをおやりになっているのですか。一体どういうことなのですか。
  83. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 ただいまの岡田委員の御発言のうち、もしかりに先生のおっしゃった通り政府がそういうような欺瞞的な施策を進めていくというならば、これはまことに妥当じゃないという見解を私は持っております。ただし私承知しておる限りにおきましては、この内灘問題につきましては政府諸機関はえらい人はもちろんのことわれわれ事務当局に至るまで、全部誠意をもって終始いたしております。従いまして、そのつどそのつど欺瞞的な政策をもって地元民をだますといったような、そういう気持なり施策の進め方なりは、断じてございませんことを御了解いただきたいと存じます。  それから期間の問題につきましては、昭和二十八年の九月十五日の覚書の中にはっきりと、三年とする、その起算点は二十八年の五月一日からとするとございますので、本年の四月末をもって期限は切れたわけでございます。従いまして、なぜ今後も使わなければいかぬかということと、もう一つは、国民に対しては三年と言い・アメリカに対してはまるで永久であるというようなことをやっておるじゃないかという御質問ですが、この点はそうじゃないのでございまして、地元に対して三年と約束するとともに、アメリカの方に対しましても、合同委員会ではっきり三年間ということを通告いたしておるのでございます。ただこの問題が切迫しない前から日米間双方においていろいろ協議した結果、米軍の方におきましては、日本において砲弾をぜひ購入したい、その具体的な計画や何かがいろいろ合同委員会でも吟味されましたので、いろいろ判断の結果、やはり当分の間使わしていただきたいというふうに新しくお願いに参っておるような次第でございます。従いまして、決して三年という約束を無視して勝手に引き延ばすのであるというような、そういう施策を進めておるのではないということを、これまた御了承いただきたいと思います。
  84. 岡田春夫

    岡田委員 最後にこの点だけで終りますから。私の言っておるのはそういうことを言っておるのではない。三年間貸してくれということは、アメリカの駐留軍は内灘に三年だけ置いて、そうしたら帰すのだから、少くとも内灘には置かないのだから、三年間は米軍演習場として貸してくれという交渉をした。ところが、そういう約束であるのに、三年たった今になって、まだ大きな顔をして——われわれからいえば大きな顔をしてと言っていいと思うのだが、大きな顔をしてアメリカの演習場にまた貸してくれという交渉はできないはずだろうと言うのですよ、これはお互いに人間ならば。三年前に、三年たったらアメリカは帰すのだから、三年貸してくれと約束したのだ。三年たったら、アメリカの問題なんか一向かまわないで、アメリカの演習場にもう一回貸せ。この貸す期間は、アメリカはいつまでいるのかわからないのだから、いる間ずっと貸せなんて、よくずうずうしくそういう交渉をしたものだなと私は言うのですよ。それを言っておるのですよ、私の言っておるのは。そうでなくて、はなはだ申しわけないけれども日本の演習炉にしたいからとか何だとかいって交渉してくるなら、まだわかる。よくもずうずうしくそういうことを言えたものだなということを私は伺ったので、そういうずうずうしいことを言っておる根拠には、アメリカとの約束は守らなければならないし、仕方がないから日本との約束はずうずうしく知らぬ顔をしてやれ、こういうことを言っておるのじゃないかということを言っておるのです。日本政府は相変らずアメリカ様々で、アメリカから言われればその通り、いつまでも永久にいるんだと言われれば、はいさようでございますか。日本国民はだましてもいいから、永久に貸してくれといって日本の国民をまただますのではないかということを言っておるのです。これが一つ。  それから第二の点は、誠意をもってやるというなら、この九月の十四日に妥結しておる中に補償の問題が出ておる。たとえば漁業補償の問題、五月一日から起算する三年間の補償ですね。それ以外にいろいろな補償の問題があるでしょう。今後永久にアメリカの駐留軍がおる間の補償、その補償が新たにされるということが誠意をもってやることの一つだろうと思う。河北潟干拓の問題はもちろんそうですが、誠意があるならそういう補償についても具体的な案がおありなのですか、どうなのですか。第一の点と質問の趣旨がやや違いますけれども。最初のいかにもずうずうしい点については、ぜひあなたの率直なお感じを伺っておきたいと思います。
  85. 大石孝章

    大石(孝)政府委員 いかにもずうずうしくというお話でございますが、私は非常に恐縮して申しわけないというような態度でお願いしておるような状況でございます。率直にそう感じます。  それから今後もし御納得いきまして継続使用が許されるならば、従前いわゆる経営的に権利等を制限したために生じますところの損失に対する補償継続いたすことは当然のことでございます。
  86. 前尾繁三郎

    前尾委員長 これにて内灘試射場に関する質疑は終了いたしました。  参考人方々には、長時間にわたりまして種々御意見開陳していただきまして、まことにありがとうございました。委員長より厚くお礼を申し上げます。  この際暫時休憩いたします。午後二時より再開することといたします。    午後零時五十分休憩      ————◇—————    午後三時三十三分開議
  87. 前尾繁三郎

    前尾委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  沖縄の軍用地接収問題等について高岡大輔君外六名より決議案が提出されましたので、この際本決議案について議事を進めます。  まず提出者よりその趣旨の説明を求めます。高岡大輔君。
  88. 高岡大輔

    ○高岡委員 私は、このたび社会党と自由民主党の両党の共同提案といたしまして、沖縄の軍用地接収問題等に関する決議案を提出いたしたいと思います。  まず案文を読みます。   沖縄の軍用地接収問題等に関する決議案   終戦後すでに十年を経過した今日、沖縄はなおアメリカの管理下におかれ、八十万同胞は物心両面の苦難に喘いでいる。すなわち人権が軽視され勝ちであるのみならず、軍用地接収についても遺憾の点が少くない。政府は平和条約発効前の土地等の補償についてはすみやかに実情調査のうえ必要な国内的措置を講ずるとともに、アメリカに対しては沖縄及び小笠原諸島の施政権回復のため適宜折衝を進むべきである。   右決議する。  以上が決議案の案文であります。  申し上げるまでもなく、沖縄につきましては、去る五月十八日当委員会におきまして、桑江朝幸、比嘉秀盛、真栄城守行の主君を参考人として詳細にわたる状況を聴取したのでありますが、今日、アメリカの管轄下になっております沖縄の行政は、遺憾ながらわれわれの満足すべきものではなかったのであります。すなわち沖縄におけるわが同胞の人権は、はなはだしく軽視されておるのでありまして、その一例といたしましては、四月八日の未明に美里村において起きました与那嶺悦子さんの銃殺問題があります。この問題につきましては、当委員会においていろいろと述べられておりますので御承知のことでありますが、そのほか幾多の問題がありまして、最近の事件を拾ってみましても、沖縄住民の殺傷は、死亡、重軽傷を含めまして、アメリカ軍部隊並びに外人住宅などで行われましたものが最近四カ年間で十八件に達し、部隊外における殺傷事件は、最近五カ年間、で殺人三件、殺人未遂三件、強姦致死一件、強姦二百九件、強姦未遂十七件、強盗百十八件、強盗未遂八件、放火十一件、放火未遂五件、住宅一侵入七十八件、器物毀棄二百九十五件という驚くべき数字が見られるのであります。そのほか、交通事故によって死亡しました、ないしは重傷を負いました沖縄人の数も、非常に多いのであります。さらに労務関係におきましても、はなはだしく人権が無視され、人種的な差別が行われ、同じ人間でありながら、アメリカ人に対し沖縄人はその三十分の一ないし十三分の一というはなはだ低廉な労銀であります。こうした点から見ましても、われわれとしては十分人権を擁護すべく努力しなければならないと思うのであります。  なお軍用地問題につきましては、これまた宮城盛蒲さんということし六十四歳の人について過般当委員会において話があったのでありますが、この老人が涙と汗の開墾をいまだに続けておられるという悲しいことが当委員会で明らかになったのであります。しかもこうした軍用地に対しましては、一坪平均六円九銭という実にわずかな補償料が払われておるにすぎないのであります。しかもアメリカの方では、何か不服のあった場合には訴願をしろというようなことを言っておるそうでありますけれども、実際問題としては、平和条約発効後接収されました土地が相当ありますけれども、いまだかって一回といえども訴願に対する審理さえなされたことがないのであります、このように軍用地の接収問題は悲惨なものであります。ただいま一坪年間わずかに六円九銭の賃貸料が支払われておると申し上げましたが、これは農耕地でありますれば、メロン等の高級くだものを栽培しますれば年間の収益は五百円もある、大根やカボチャといった普通野菜を作りましても年間百円の収入があるのであります。これではとうてい沖縄の農家の人たちは、人間らしい生計を営むことはできないものと思われるのであります。こうした問題につきましてアメリカの方では、平和条約発効前は、これはアメリカで支払うべきものでなく、当然日本において支払うべきものだ、こう言っておるのでありますが、この金額は相当多額なものであります。しかし沖縄は、御承知のように大東亜戦争の末期において、全島が古今の百歴史にもまれに見る激戦地となり、この世の修羅場と化し、住民は老いも若きもほこをとって戦っておるのであります。かのひめゆり部隊であるとか、あるいは中学生や師範学校の生徒で作りました健児隊等のことを考えますとき、われわれはどうしてもこれらの補償は当然日本がなすべきだと考えるのであります。  あれを思い、これを思うとき、沖縄や小笠原諸島の同胞が、かくも苦難の人生を送っておることを考えますとき、ただこれを運命と言うにはあまりにもむごたらしいものがあるのであります。しかしこれらの問題も、施政権が日本に返還されることによってのみ、その大部分が一挙に解決できるものと信ずるのでありまして、日本政府は一面国内的措置を一日も早く講じますとともに、アメリカ政府に対し、すみやかに施政権の回復に関し外交折衝を推し進め、沖縄や小笠原諸島の八十万同胞のため、さらに一段の御努力要望する次第であります。  以上をもちまして提案理由の説明にいたしたいと思います。(拍手)
  89. 前尾繁三郎

    前尾委員長 ただいまの決議案について討論の通告がございます。これを許します。田中稔男君。
  90. 田中稔男

    田中(稔)委員 私は日本社会党を代表して、本決議案に賛成の意を表するのであります。  沖縄が日本の固有の領土であることは歴史的に明瞭であります。さらにまたここに住む八十万の住民がわが同胞であることも明瞭な事実であります。しかるに戦後沖縄はアメリカによりまして占領され、立法、行政、司法の三権が事実上アメリカによって行われておるのであります。しかもただアメリカがこれを占領しただけでなく、極東における最大の軍事基地としてこれを築き上げております。先年、当時の内閣委員長であるわが党の稻村順三君が、国会を代表して沖縄に視察に参りました。その視察の報告の中に、沖縄の中に基地があるのではなく、基地の中に沖縄がある、こういうふうな表現をいたしました。全くこの表現は適切であります。私どもが飛行機で香港方面に参ります際に、沖縄の上空を通過するのでありますが、上空から沖縄を見ますと、すばらしい軍用道路や広大な飛行場がよく見えるのであります。そういうわけで、これが軍事基地として日々に強化され、しかもアメリカの軍当局は、これは永久に手放さないのだと公然と声明をしております。そういう軍事基地としてこれの占領を継続するというアメリカの方針のもとに、八十万の同胞がまさに塗炭の苦しみの中にあることは、われわれが絶えず耳にするところであります。  今高岡委員からもお話がありましたように、軍用地として接収されましたところの土地は、その面積において広いばかりでなく、その借地料というものがお話にならないほど低廉でありまして、土地を奪われた農民はついに流民と化して、全くこじき同様の生活をしておる。さらにまた基本的な人権が著しく阻害されておることは、われわれがたびたび訴え聞くところでありますが、最近わが党の委員であります門司委員が、世界自由労連の代表として行くときに、沖縄に参りまして労働者の状態を調査いたしました。その報告を聞きますと、形式的には日本の労働三法に似たような法律があるのでありますが、しかしそれは沖縄におるアメリカの司令官の命令によりまして、全部実質的には否定されておる。団結権であるとか、団体交渉権であるとか、罷業権であるとか、これは労働者の基本的な権利でありますが、こういうものは全然認められておらない状態であります。しかも賃金のごときも、今高岡委員からもお話がありましたように、人種によって非常に大きな格差がある。アメリカ人の労働者の賃金に比べまして、その数十分の一にすぎない、こういう状態であります。同一労働に対する同一賃金という原則は、ここで極端にじゅうりんされておるのであります。また沖縄にある中央銀行でもその株の五一%をアメリカ側が握っておりますために、沖縄の金融というものは完全に米軍の手にあります。だから沖縄で事業をやります場合、すべて米軍の自由な金融操作のもとに置かれておる。従ってたとえば新聞社の営業にいたしましても、もしその社論が少しでも反米的な色彩を呈しますと、その新聞社に対する金融の道を閉ざすことによって結局正義の主張を封鎖する、こういうふうなきわめて陰険な政策も行われておるということを聞くのであります。沖縄の名は、戦時中は日本国民のために犠牲になったとうとい愛国者の言葉として響いておるのですが、戦後この沖縄の名は、アメリカの悪政と圧制と道徳的な犯罪を代表する言葉として聞くに至ったのであります。私は、八十万の同胞のために、沖縄が一日も早く日本に復帰することを希望し、沖縄に対する施政権が完全に回復することを希望するものであります。  なお、この際申し上げておきたいことは、千島であるとか南樺太であるとか、北方における領土権の問題が日ソ交渉において問題になっておりますが、わが党はもちろんこの北方の領土が再び日本に返ってくることを希望いたすものでありますけれども、このたびの日ソ交渉によってこういうふうな領土問題が解決するとはとうてい考えられないのであります。いつの日にかこれらの北方の領土が日本に返ってくる日があるとしますならば、これは南方における小笠原あるいは沖縄の領土が日本に返還される日であります。そういうようなことを考えましても、私どもはこの沖縄の返還ということが日本にとって非常に重要であるということを痛感するのであります。  こういう見地から、私は本決議案に対しまして満腔の賛意を表するものであります。(拍手)
  91. 前尾繁三郎

    前尾委員長 これにて討論は終局いたしました。  本決議案を採決いたします。本決議案を可決するに御異議ありませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  92. 前尾繁三郎

    前尾委員長 御異議なければ、さよう決定いたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後三時五十二分散会