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参考人(正木亮君) 先日お呼び出しを受けましたのでございますが、私よんどころない緊急の用事がございまして、今日に御延期を願いまして、まことに申しわけございません。与えられました課題は、
裁判所制度に関する調査事項のうちで、第一が最高裁判所の機構及び権限、なかんずく刑事上告事件の処理、特に死刑事件についての書面審理ということでございまして、第二は審級制度、特に刑事事件の控訴審の構造、特に事後審か覆審かの問題として被告人の不利益変更と破棄自判の点、この二つの点に対して意見を申し述べるようにとの御勧告のように思うのでございまして、それにつれて御送付をいただきました
裁判所制度に関する資料の二といたしまして三鷹事件の判決書をちょうだいいたしましたのであります。この判決書を拝見いたしまして、非常に私も申し上げてみたい意見がたくさん出てきたのでありますが、まず前提といたしまして、この判決書を作成されました最高裁判所大法廷においてこの判決に対して意見をお述べになった裁判官の御閲歴を考えてみたのであります。しかるところ、裁判長田中耕太郎氏以下の方々のうちで、刑事法を専門になさっている裁判官及び刑事事件——まあ民事事件も一緒でございますが、刑事事件をお取扱いになった経験のある裁判官、まあ刑事に
関係のある裁判官でございますね、それと刑事事件に従来
関係がない、また刑事法の御研究をなさっておられないとみられる裁判官を私は比較してみたのであります。そうすると、このうちで刑事事件をお扱いになったであろうと思われる、これは弁護士をやった方でございますが、弁護士出身の裁判官、それから刑事事件を扱われた検察官または裁判官、これをあげてみますというと、真野裁判官、小谷裁判官、島裁判官、斎藤裁判官、谷村裁判官、小林裁判官、本村裁判官と、この七人の方が刑事の経験のある裁判官であられる。ところが署名しておられます井上裁判官、栗山裁判官、藤田裁判官、岩松裁判官、河村裁判官及び入江裁判官、霜山裁判官は、これは刑事事件をお扱いになっておらない。まあ岩松裁判官のごときは若いころに刑事事件を扱われたことは私も知っているのですが、おおむねその人生において刑事事件をお扱いになっておられない方が七人と、こういうことになっておるのです。ですから、民事専門の方が七人、刑事専門の方が七人、こういう割り振りになっております。それで今度多数決で三鷹事件の判決が上告棄却になっておりますが、その多数決の中で七対七になっておる。その七対七になっておりますうちで、上告棄却の意見を持たれましたのが、井上裁判官、斎藤裁判官、岩松裁判官、河村裁判官、本村裁判官、入江裁判官、霜山裁判官、こういう方がその上告棄却の意見を持ちになっておられる。そのうちで刑事の専門をしておられる方が、七人の中で斎藤裁判官と、本村裁判官も弁護士出身でありまするから、刑事事件をお扱いになったであろうと思うのですが、とにかくこの二人が刑事事件に
関係を持たれるだけで、あとの五名の方はみな民事事件専門家でおられるのです。そこで今度は破棄して差戻をしなければいけないと意見を述べられた方の中で、栗山裁判官は刑事事件をお扱いになったことはないと思われるのですが、この方と、それから藤田裁判官、これは民車専門の裁判官です。この二人が民事
関係の方で、あとは全部刑事を専門にしておられる方なんです。だからちょうど逆になっているのですね。民事の多数五名の方が上告棄却で、それからこれは破棄しろと、死刑をもう一ぺん考え直せと言われた方が、刑事の専門家が五人と、こういうことになる。そこで七対七の中で、いよいよ最後に田中裁判所長官が上告棄却の方に一票を投ぜられたのです。この田中さんも民事専門家なんです。そうすると、今度の三鷹事件というものは民事の専門家と刑事の専門家の議論の衝突になりまして、しかも数において民事専門家の方が死刑を確定したと、刑事専門家の方の意見がいれられなかったと、こういうことになってきたのだと私は思うのです。これは私も長く検察官もやりましたし、行刑
関係もいたしましたのですが、これは捜査の面におきましても、刑事裁判をいたしまするのにも、今まで民事事件ばかりお扱いになった方がそう人間の生命、身体、自由、これを剥奪する裁判を確信をもってやれるものではない。なかなかむずかしいものであります。しかるに今度の最高裁判所法によりますと、そういう専門は分けないで、民事も刑事も一緒くたにして裁判官十四名とそれに長官、合せて十五名と、こういうことにしたものですから、刑事を知らない者でもやはりその表決には加わらなければならぬ、命を取るか取らぬかにも、表決をしなければならぬと、こういう非常に矛盾した点が現われてきておるのです。ところが、今までは
罰金の上告事件だとか、あるいは
懲役の上告事件でございましたから、そう大して……、これも非常に場合によっては埋れたる青春を作るような危険なこともあるのですが、まあ命の問題よりも軽いものですから、あまり問題は起らないのですが、今度のような事件になって参りまして、命を取るか取られるかというような裁判のときに、民事専門家の方がとにかく投票の数が多くて、幾ら刑事専門家が何と言ったって、数の上で勝ったのだといって、とうとう上告棄却をするというような裁判所機構というものは、私は非常に誤った裁判所機構だと思うのです。これが今からずっと
維持されておりましたら、現在の裁判所はほとんど民事専門家ばかりです。ほんとうに扱った人は四人くらい、それから弁護士の方を入れますと五人おりますからもう少し多くなりますが、裁判所出身の方で民事が非常に多いのです。そういう中で、このままにしておきますというと、死刑裁判というものは非常に危ないものになるものだと私は考えますので、その点から推しまして、今日の裁判所法の中で民事、刑事突っ込めての三小法廷及び大法廷にしておる制度というものは、絶対にこれは改正すべき必要があると私は存じます。
しからばどういうふうに改正すべきかという御質問に相なりましたならば、私はこう答える。それは前の場合と同じように、旧裁判所構成法と同じように、やはり最高裁判所の中には民事法廷、刑事法廷というものを歴然と分けて、そうして専門家の最高裁判所判事を任命してこれに充てるべき性質のものだと、こういうことを私は痛感しております。この判決においてこの点をよくお読み下さいまするというと、裁判官の構成においてその点は御納得のいく問題だと、こういうように私は考えておるのであります。
ところが最高裁判所におきましては、そういうように民事、刑事の裁判を二つに分けると、それは今の裁判官では手が足りない。それからまたわれわれの裁判は憲法の番人だということを言っておられるのですけれども、現在最高裁判所にいっておるのは、本来は刑事訴訟法の四百五条の憲法と判例の裁判の番人になっておるわけですが、事実は四百十一条の事実審理を求める上告が非常に多いのでございます。しかもその事実審理を求めるというのは、命を取るかとられるかどうかという重大な事件が最高裁判所に上告になっていっているのです。この件数が非常にたくさんございます。そこでそういうことを下調べさすために、最高裁判所の中には調査官なるものを二十六名置いておるのであります。それに下調べをさせて、その下調べをさしたところで、最高裁判所がそうかそうかと言って署名捺印するということになっている。しかし裁判というものは、そういう性質のものじゃないと私は思うのです。やはり正義に
関係する重大なる誤判があると認められるとか、重大なる刑の量定に間違いがあるとかいうような場合は、出し惜しみをしないで、裁判官みずからが事実審理をしてやるか、あるいは破棄自判をやるか、あるいは原審に差し戻すか、こういうようなことをやってこそ、私は国民に直結する裁判だと言えると思うのです。それなくしてただ憲法の番人だ、あるいは判例に違反するかどうかを見きわめる裁判だけでありますというと、私どもの要求する最筒裁判所というものとは
目的がずいぶん違うと思うのです。ですからそういうわれわれの要望にもこたえるために、私は最高裁判所というものは、その数を、現在長官を入れて十五人でございますが、最高裁判所の裁判官の数を二倍にする。そうしてその半分を刑事裁判所、刑事法廷に充て、半分を民事法廷に充てる。しかもそれを各専門的に任命する。こういうことを私は希望いたしております。
それから裁判官は、これは裁判官の選任の方法もずいぶんございましょうが、ただ世の中の有名人だけをお集めになるというのでなしに、少くとも最南裁判所の裁判官に起用いたしますためには、刑事法廷に充当するためには、刑事の学識経験を持たれる方か、あるいは刑事学者か、そういう方の中からお選びになる必要があると私は思うのです。それから民事の裁判官につきましては、これは民事の学識経験、あるいは学者であるとか、そういうような少くとも非常に深い造詣を持たれる方をもってこれにお充てになる必要があると存ずるのでございます。
それから、そうなりますというと、いろいろ伝え聞くところによりますと、最高裁判所に非常にその牧がふえて、それで最高裁判所というものは非常に尊厳なところでなければならぬから、格式が下るというような御意見も裁判官の中にあるようでございますが、これは旧刑事訴訟法時代におきましては、やはり三十人くらい、あるいは四十五人くらい大審院判事というものがございました。ですから三十人にいたしましても、大してふえた中に入りませんが、その三十人を現在の国務大臣待遇の裁判官にしなくても、民事、刑事各小法廷に裁判長を置いて、その裁判長に今日の地位をお充てになって、そうしてあとの平裁判官というものは、最高裁判所の裁判官たるの地位をもって満足すればいいのであって、決してそういう格式などにこだわってこの改革を遅延さすべき筋合のものではないと私は考えるのであります。
それから先ほど私は調査官制度はこれを
廃止した方がいいと申したのでございますが、この調査官制度というものは、これは刑事裁判というものはやはり被告人を直接扱って、被告人を基盤として裁判をするのが刑事裁判の本命なんです。それを調査官に下調べをさして、その得た結論だけを見て裁判をするようなことになりますから、今日のように命の裁判のときに、平気で命を取ることを確定するような裁判に参与することができるようになるのだと思うのです。もう少し自分で本人をお調べになって裁判をなさいますというと、これはもう一年の刑を引き上げることについても、裁判官としてはちゅうちょするのが当りまえなんです。それを調査官に下調べさすからこそ、裁判というものが非常に今日のように形式的に流れてくるということになりますので、これはぜひとも調査官制度をおやめになって、手が足りなかったならば、調査官に相当するだけの平判事を最高裁判所の中に増員なされば、むしろその方がよりよき最高裁判所の機構を充実することと存じますので、私といたしましては、ぜひとも調査官制度を廃して、それに相当する裁判官を増員することを申し上げたいのであります。
それからこの判決を読んで非常に感じましたことは、最高裁判所の権限に属する部分としまして、刑事訴訟法四百五条の
規定がございます。これが今日の最高裁判所の扱うべき本筋の裁判とされておるわけです。「憲法の違反があること又は憲法の解釈に誤があること」「最高裁判所の判例と相反する判断をしたこと」それから「最高裁判所の判例がない場合に、大審院若しくは上告裁判所たる高等裁判所の判例又はこの
法律施行後の控訴裁判所たる高等裁判所の判例と相反する判断をしたこと」、これだけになっております。それでこのほかに四百十一条がございまして、これは上告趣意書その他の書類によって、四百十一条に「上告裁判所は、第四百五条各号に
規定する事由がない場合であっても、左の事由があって原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認めるときは、判決で原判決を破棄することができる」ということで、これは五つあげてありまして、その中で一番大きな問題が、「刑の量定が甚しく不当であること」「判決に
影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があること。」、それから一の文に「判決に
影響を及ぼすべき法令の違反があること。」この三つが職権で調査し、裁判することができることになっております。これを最高裁判所で積極的に進んで、国民のために
適用して下さいますれば、私どもは何をか文句を言わんやなんですが、実は最高裁判所はこの点を出し惜しみいたしまして、今日われわれが上告いたしましても、おそらく上告で成功して原判決を破棄するということが立ちますのが、百分の一だと思うのです。百件やって一件通れば、これは大成功の方であります。これではこの四百十一条というものは全く空文にすぎないと思うのです。
ことに私は三鷹事件の判決を読みまして非常に感じましたことは、三鷹事件には大きな争点が二つあります。一つは、
刑法の百二十五条の問題です。あの無人電車を走らせたこと、ところがあの場合に竹内景助は、あれを走らせてそして人を殺そうなんていうことは毛頭考えていない、原判決の、あれは一審判決の認定からいたしましても、決してそのものに殺意があるかどうか、そういうことは全然ない。全くいたずらにこれをやったものなんです。そこでそういう場合に「汽車又ハ電車ノ住来ノ危険ヲ」生ぜしめるような
行為をやったのですが、たまたまそれが転覆いたしまして、その点において
刑法百二十六条の第一項に当てれば当るのです。少くとも百二十七条にありますように、百二十六条の第三項に
規定してあります死刑にまで至るという
規定は、百二十七条は予定しておらぬという議論が少数意見の中に非常に強くなっているのです。私の
刑法の解釈といたしましては、罪
刑法定主義がございまして、少くとも無期とか
懲役とかいうものを言い渡す、法定するような場合に、どういう
行為が死刑、無期というようなことをきめてやらずに、ばく然とこういうものをやったら死刑だということをやったら、これは罪
刑法定主義、いわゆる法治国家の立法とは言えぬと思うのです。これは少数意見の中に書いてありますが、たとえば強盗殺人の場合におきましたら、
刑法の二百四十条で強盗して人を殺したものは死刑、無期、または七年以上の
懲役、こういうふうにちゃんと
行為と
刑罰をきめております。二百条の尊属殺におきましても「自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期
懲役」こういうふうにちゃんときめてある。しかるにこの場合はそういうことは全然きめていない、百二十六条の第三項では。それから百二十七条におきましては全然きめていない。こういう立法はこの
刑法の中に一つもございません。そこをついて少数意見者が、あれは
刑法上の議論もずいぶんあるのだ、絶対あれは、原判決は間違っているのだということを力説しているのです。これは力説されるはずです。島裁判官のごとく
刑法のほんとうの専門家がおられる、それからまた弁護士出身の刑事専門の弁護士が多数おられる。その人たちがしきりにそれを言っているのにかかわらず、民事専門の裁判官は、訴訟手続には間違いないのだ、
刑法の今の百二十七条というものは百二十六条の三項を受けているのだというようなことを言って、簡単にこれを上告棄却してしまう。これはいわゆる刑事訴訟法の四百十一条にも書いてありますように、判決に
影響を及ぼすべき法令の違反があることが
理由になっているのです。ですから違反があるかどうかを最高裁判所で絶対にこの場合みずから調べて、それで判決をなさるべきであって、少くとも刑事訴訟法の四百条にありますように、こんなものを高等裁判所がやったようにただ手続きされて、一審の証拠でもうわかるからというのみをもって、一審の無期を死刑にしたということを是認するというようなことでは、最高裁判所の職責を果さないのだと私は思います。
それから第二の点は、第一審ではこれは無期
懲役、第二審においては書面審理だけでこれを死刑にしております。この点について少数意見は非常に激越に戦っておられます。その多くの
理由は、こういう命を取る、また取ってしまってから、取り返しのつかない重大裁判を書面審理だけでやるなんてことは絶対に許すべきではない。栗山裁判官も言っておられますが、生命の尊貴ということを考えない意見だ、こういうことを言っておられます。私はしょっちゅう言うのですが、引例いたしておるのですが、昭和二十三年に、弁護士側から死刑は憲法違反だ、残虐な
刑罰だということを上告の論旨に書いたのです。そうすると昭和二十三年の最高裁判所の判例の出されました冒頭に、こういうことを書いておるのです。生命は全地球よりも重いということを書いてあるのです。これは先日私真野裁判官に会っていろいろ話を聞いたのですが、真野裁判官の少数意見として書かれたものが、多数意見としてあの言葉が用いられたのです。何でもこれは西国立志編の序文にあった言葉です、日本の昔の……。それを用いて生命は全地球より重いという言葉を使われたのです。それにいたしましても、生命というものが全地球より重いという判例を出しているのですから、私はその意味で、憲法の番人と同じように、四百五条の一に、憲法に違反した場合と、生命裁判についてという、この二つを四百五条の中に入れていただいてけっこうな事案だと思うのです。何か真野裁判官の論壇に書かれた記事を見ますというと、外国にも、生命裁判だけは最高裁判所の審理の
対象として取り上げられておる国が二、三カ国あると、こういうことを言っておられます。ですから最高裁判所みずから生命は全地球より重いという判例をやっておる手前から言いましても、こんなに疑義が多い、論議の伯仲しておる場合に、長官まで出ていって一票を投じて殺すことがどこにあるかと思うのです。しかもその長官が民事専門の、刑事を扱ったことのない長官が一票を入れて、そして刑事専門家の方を負かしておる。これは多数決というものが民主主義の一つの表われでありましょうが、民主主義の一番悪いところだと思うのです。じゃんけんぽんをして人間の命を取ってしまうという裁判はけしからぬ裁判だと痛憤いたしておるのです。こういう点を栗山裁判官が非常に論議しておられます。また、谷村裁判官も非常に論議しておられます。この判決書を見ますと、まさに大多数の意見よりも、少数意見の御議論の方が非常に正しいものだと考えられました。七対七で長官の一票を加えて、竹内景助という人の死刑が確定したようです。私は死刑問題というものは、あるいは裁判というものは、その人がどういう思想を持っておいでになろうと、それにこだわることなしに、人間が人間をさばく、人間の裁判でありますから、いやしくももし彼が共産党の端くれであるとか、それに関連があるとかいうことで、そういうことはないと思うのですが、もしかりにそういうことが多数決の中に多少でも色合いでもつけられたことがありとすれば、非常に残念なことだと思うのでありますが、とにかく少数意見者の意見が非常にまあ私は正しい意見だと思います。従ってこういう判決を見ました結果におきまして、私がお願いしたいことは、ただいま申し上げましたような判決に
影響を及ぼすべき法令の違反、こういうものは第四百十一条の中に最高裁判所が任意に調べることができるというようなことでなしに、最高裁判所はそれを調べなければならぬということを条文の中に入れてもらいたい。それから死刑に関する刑の量定について疑義のある事件については、これは裁判所が四百十一条でやってもよいし、やらなくてもいいような
規定にしないで、絶対に裁判所は審理する義務のあるというような法制にしていただきたい、こういうことを私は非常に感じておるわけであります。これはまあ上告審の問題です。
それから次に、控訴裁判所における裁判官という問題でございますが、これは私は控訴裁判所は今日のように少くとも刑事事件におきましては、アメリカの民事訴訟手続のような手続にしないで、控訴裁判所は続審でなしに覆審制度をおとりになる方が正しいものだと思います。それから刑事訴訟法の四百条但書はいかなる場合においてもこれは認むべきものでございませんので、これはもう削除すべきものだと思います。それから読んでみますと、刑事訴訟法の第四百条但書のところで、「但し、控訴裁判所は、訴訟記録並びに原裁判所及び控訴裁判所において取り調べた証拠によって、直ちに判決をすることができるものと認めるときは、被告事件について更に判決をすることができる。」こういうことで、もう本人の面通しをしなくても裁判ができるような無謀な
規定なんです。やはり刑事事件というものは、その人の顔を見ないで刑事裁判をやるということは外道であります。昔板倉重宗が、これは三宅正太郎氏の随筆の中にもございますが、刑事裁判官というものは、ほんとうにその人と取り組まなければならん。板倉さんが正しい裁判をやるために障子越しにひきうすをひいて、心を冷静にしてその人と面と向って裁判をやったという刑事裁判官の心意気を書いておられます。私は刑事裁判官が人を見ないで、しかも一審で無期の判決であったのを、人もみないで訴訟記録にそろっておるからということで命を取るということは、刑事裁判官としてはとても許しがたいミスだと思います。ことに最高裁判所におきまして、みずから生命は全地球よりも重いという判決をしておきながら、それほど伯仲して右するか左するかというような場合に、長官までそれに一票して人間の命を奪うことが、果して判例にいわゆる全地球よりも重い生命といわれることができるでしょうかといって、非常に私は痛憤してこの判決を読んだようなわけでございます。
そのほかのことにつきまして感じましたことをこの中にちょっと書いてあったのですが、裁判官の現在兼用しておる法服は、一体いいか悪いかというようなことですが、私どもも現在着ておられる裁判官の法服で、裁判所の法廷に威厳が保持できるとは私は思いません。むしろここまでいったのなら、弁護士も検事も裁判官も、同じような服装で坦懐にやった方が、むしろこういう裁判のときに役立ってくるのじゃないかと思います。それから今日検察官が法服を脱ぎまして、弁護に当る私どもも法服を脱ぎましたけれども、これは非常に介護士や検察官の格を下げたかというと、決してそうじゃないと思います。私の思っておりますのに、むしろあれをやめて被告人たちと同じ角度から裁判をすることの方が、活発な
運用ができると思って、私はむしろ法服のなくなった方を賛成しておるようなわけであります。
もし足りませんところがございましたら、御
説明いたします。