○芦川
参考人 杏林製薬日本科学
労働組合を代表いたしまして、その経過を御
報告いたします。
人員は九十二名でして、
女子は八十二名で男子十名、しかも
女子の
平均年令は、大体新制中学を卒業したての少女たちがおもでございます。ですから、
平均年令は非常に低く、年少者が多いのでございます。
女子の
平均日給額ですけれ
ども、大体二百円前後で、これは手取りに直しますと、一カ月皆勤いたしましても約四千七、八百円から五千円どまりという非常な低
賃金でございます。職種は、その名のごとく、注射薬製造を主としております。
日本科学と杏林製薬の関係でございますが、日本科学というのは、昭和十三年に川本信之氏が水溶性ホルモンをその独自の製品として創立されましたが、だんだん営業不振に陥りまして、これを昭和二十四年に杏林製薬が実質上の買収を行なっているのでございます。ですけれ
ども、日本科学という名を残す必要があったらしくて、日本科学という名前を現在まで残しているのでございます。
ですけれ
ども、日本科学と杏林製薬とは、下請
工場とか姉妹
工場とかいう関係のものではございませんでして、日本科学の
社長であるところの萩原秀氏は杏林製薬の副
社長であり、かつ杏林製薬の
社長のむすこさんであります。また
工場長は熊谷
工場長でして、この方が日本科学の
工場長であり、杏林製薬の
工場長であり、兼務というよりも、全く同種の事業管理を行っているのです。
会社の分類によりますと、大体昭和二十八年四月以前に入社した者を日本科学の在籍者とし、それ以降の入社の者を杏林というふうに分けているらしく思われます。ですけれ
ども、最初杏林に入社した者が、何らの通告もなく、また何らの手続をとったこともなく、日本科学に移されている事実がございます。現に私と同じ試験室に勤務している者でございますが、昭和二十五年の十一月に入社いたしまして、その入社のときには、杏林に入社するとはっきり言われて入社いたしまして、十一月、十二月の給料明細書は、ちゃんと杏林製薬という給料明細書をもらいました。ところが、翌二十六年の二月に至りまして、突如として日本科学の給料明細書が入ってきたのです。初めて自分は日本科学に移されたのかなと思ったのですけれ
ども、問いただすこともなく、何らの不審を抱くこともなく今日まで来てしまったのです。その間におきまして、給料明細書に押してあります印鑑は、日本科学の明細書のときも、杏林製薬の明細書のときも、通して杏林の重役の判が押してあるのです。またタイム・カードにいたしましても、日本科学の閉鎖宣言をいたします数日前までは、日本科学と杏林製薬のものを一緒にいたしまして、その入社年月日順に、ですから勤続年数の長い者から、職場別に通し番号としてタイム・カードを作ってあったのですが、解雇通告をよこす数日前に至りまして、初めてタイム・カードを急いで分けたというような
状態でございます。
また建物は、大体杏林製薬と日本科学と分けてあるらしく思われますけれ
ども、就業規則な
ども全く同一でありまして、
作業内容に至りましては、両社に在籍しております
従業員は、全く同じ原料から全く同じ製品を毎日作っているのです。ですから、このような事実から見まして、私たちは、杏林製薬と日本科学の関係は、単なる姉妹
工場とか下請
工場とかいう関係のものでなくて、両社全く合体のもの、同一のものと思って、今日まで認識して参りました。
組合結成前におきましては、熊谷
工場長みずから、寮におります男子職員の私信を公開いたしております。また男子寮内の私物を、熊谷
工場長また
社長みずから寮内に立ち入りまして、職員が
作業場に出ておりまして、絶対に来ない時間を見計らいまして、調べているのです。就業規則などは、もちろん全然ございませんし、有給休暇もございませんし、生理休暇ももちろんございません。また、
うちの
会社におきましては、製造もやっておりまして、塩酸ヒスチジンという薬品を作る過程におきまして、どうしても硫化水素という毒ガスを使うのです。その硫化水素という毒ガスにやられました幾人かの犠牲者の災害補償は、一回もいたしたことがございません。
このような
状態のときに、三月二十三日に、このような
状態を打破するために、
会社の親族関係の二、三人の者を除いて、
全員が
組合を
結成いたしました。しかしながら、三月二十四日に至りまして
組合結成を通告に行きますと、熊谷
工場長は、これを全く認めようといたしません。それのみでなく、
女子職員もまじえました四、五人の者を順に呼び出しまして、個人々々の
つるし上げを行い、
組合を即時解散しろの、これは
女子職員に対して吐いた暴言ですけれ
ども、お前たち世帯持ちのくせに
組合を作るなんというのは、まことにもって不届きだ、身のほど知らずだというような暴言を吐いておるのです。
組合を
結成したことが、何で世帯を持っていることに関係があったり、また何で非常識であるか、私たちには全く理解できたかったのであります。このような個人切りくずしを行いましたが、その反面即日に大倉
組合長——現
組合長ですが、この大倉という
組合長に対しまして、解雇通告を発してよこしました。翌二十五日の団体交渉におきまして、この解雇通知は撤回いたしました。またそのときに、
労働基準法適用、有給休暇、就業規則を示すというような、ごく当りまえのことをようやく認めたのです。二十八日になりまして、ふとしたことから、就業規則を届け出るときに、一
組合員の印鑑を盗用して届け出てあったという事実が判明いたしました。何回就業規則を見せてくれと頼みましても、就業規則は一回も見せられたことがなく、しかも、その就業規則を届け出るときには、
従業員の印鑑を盗用してあったのです。
次回の
団交におきまして、熊谷
工場長は、
会社の
社長から全権限を委任されて
団交に臨んだと、はっきりおっしゃって、完全ユニオン・ショップを認めました。しかしながら、それから
団交はだんだん引き延ばされまして、四月八日に持ちました
団交におきまして、前回の
団交においてはっきり認めておいた完全ユニオン・ショップを認めるということを、正面から認めないと言い出したのです。自分は
社長から全権限を委任された、決定権を与えられて
団交に出たと思っていたけれ
ども、
社長は自分に決定権を与えていなかったのだから仕方がないじゃないか、おれはこう思ったのだけれ
ども、
社長がこう言うのだから仕方がない、前に言ったことは仕方がないことだ、すなわち完全ユニオン・ショップを認めたということは無効だということを言い出してきたのです。第三者も交えた公式の団体交渉の席上ではっきり認めましたことを、次回の
団交におきまして、まるで秋の日の空のようにくるっとひっくり返って無効を申し出たということに、私たちはただただ驚きと憤りとのほかに
言葉がなかったのです。
このころになりますと、だんだん熊谷
工場長の個々の
組合員に対するいやがらせはひどくなりまして、たとえば、
作業時間中につめを切っていたから始末書を書けの、読んでもいない本をそばに出しておるから始末書を書けのと言って、
従業員の仲間に始末書を書かして歩きました。また非常に寒い日に、アンプル洗滌をしております職場の
従業員が、下がたたきで水を使う
仕事場ですので、非常に寒くて冷えますので、足の下だけでもいいから、すのこを敷いてくれと懇願に行ったのですけれ
ども、このすのこもなかなか敷いてくれず、現在までに敷いてくれたことは一回もございません。四月十三日に至りますと、年少の
組合員の中に人望がありました一
組合員の
配置転換を熊谷
工場長は申し出てきました。これは単なる
配置転換ではなくて、その人を
配置転換したことによって、
組合内部の分裂をねらったと私たちには解されました。この
配置転換に応じなければ首を切ると言ってきまして、
労政事務所の
あっせんによりまして四月十九日に行なった
団交により、ようやくこの
配置転換をのみまして解雇を撤回してもらいました。
このように
組合員の個々のいやがらせや弾圧がはげしい中を、私たちは
全員がまんして、毎日一生懸命
作業に従事してきたのでありますけれ
ども、五月四日に至りますと、午後四時ごろに、熊谷
工場長は全
従業員を二階のホールに集めまして、経営不振のため赤字になった、また
工場長が病気であること、今までは東京
工場が主力であったけれ
ども、
組合を
結成したために——
組合を
結成したためにですよ、主力を岡谷に移すことになったということ、
組合員が非協力であること、人員が過剰であること、都庁から本社を一本にしてほしいといわれていること、この六点を問題といたしまして、
全員五月十日までに退社の手続をとるように申し出てきました。しかし、経営不振のために赤字になったと申しましても、現在こそ増築しておりませんけれ
ども、この五月八日現在には、まだ大工さんが入りまして、新しいボイラー室とか食堂とか車庫とか倉庫とかいう建物をどんどん増築中であったのです。このように幾むねもの建物を増築しながら、経営不振ということは、私たちにはどうしても納得できませんでした。また
工場長の病気ということも、ほかの重役が
工場長の代行をすればよいことで、そのために解散とか人員整理とかいうことは、とうてい考えられることではございません。また、今まで東京
工場が主力であったけれ
ども、
組合を
結成したために、その主力を岡谷に移すようになったというようなことになりますと、私たちにはどうしてもうなずけないのです。
組合を
結成したからといって、何も主力を、東京にあったのを岡谷に移す必要は全くないのです。これは
組合を
結成されたというそのことをきらう
会社の一つのりっぱな現われではないかと思います。
組合員が非協力であるということに至っては、全く
会社の一方的な考え方にすぎません。人員過剰であるという点に至りますと、三月末に新制中学を卒業する
女子、また三月末に高校を卒業する男子数名に対しまして採用試験を行い、その採用通知を出してございます。このように新規採用の事実がありがながら、人員過剰であるという点は、私たちにはどうしてもうなずけませんでした。
また、前にも申しましたように、日本科学と杏林とは、私たちには全く同一のものと考えられているにもかかわらず、日研だけを閉鎖するということは、
会社があげました以上六点のことではなくて、
組合の幹部の大多数が日研に在籍しているという関係上、日研を閉鎖してしまえば、
組合は自然つぶれるという、
組合取りつぶしの策としか、われわれには受け取れませんでした。
五月七日に持ちました
団交で、熊谷
工場長は、解散とか人員整理、閉鎖と言った覚えはなくて、整理の段階にあるから希望退職者を募ったのだと、またまた前言を翻しているのです。またこの同じ日ですけれ
ども、日研の大島監査役は、一人の
女子組合員に対しまして、
組合がつぶれれば、
会社は日研を閉鎖しなかっただろうと言っております。このことははっきりと証人がございます。
五月八日に至りまして、倒産のはがきが日本科学在籍者の家庭に配られました。
五月九日に持ちました
団交によりまして、株主総会により五月中日付で日本科学は解散決議をした、また日本科学の解散せざるを得なかった
数字的な
経理内容は見せる必要なしといって、
会社側の一方的な突っぱりによって、私たちは何の取りつく島もなく、この
団交もまたまた決裂のやむなきに至りました。またこの同じ日ですけれ
ども、前の大島監査役は、今度は違う一
組合員に、君たちのやり方と違った
組合を作り、僕が第二
組合長になるというようなことを言っております。
五月十一日に至りまして、各
労働組合の応援旗を私たち
組合員が門前に立てましたところ、熊谷
工場長は、
組合員は業務につく意思がない、そのような
状態では
作業をさせることができないといって
作業場の入り口に錠をかけ、私たちを
作業場に入れてくれません。で、大島監査役は、君たちは
作業をする意思がないのだから、表に出て草でもむしっておれというので、私たちは、どんな
仕事でも、
会社から与えられた
仕事はとうとい
仕事ですので、暑い日ですけれ
ども、一同がまんして
会社の門前の草をむしっておりました。で、私たちは
作業をしに来ているのにこのような
会社の門前の草むしりをさせられ、それも、草が茂っているからむしってくれというのなら、喜んでむしりますけれ
ども、お前たちは
作業する気持がない、このような
状態では
作業させられないという一方的な見解のもとに草むしりをさせられておりますのでは、どうしても承服しかねますので、どうしてこのようになったかということについて
団交を持ちたいからということで、熊谷
工場長に申し出たのですけれ
ども、熊谷
工場長は、
病院に行くという一点ばりで、全然誠意を
示してくれません。今ここで熊谷
工場長に
病院に行かれてしまって、そのまま戻って下さらなかったならば、私たちはどこへ行って交渉をしていいか、どこへこの気持を訴えればいいか、この気持の訴え場所、交渉の相手を失ってしまいますので、
病院にいらっしゃるならば、二人ばかりついていって、お帰りまでお供させていただきますと願いましたところ、いろいろなことをおっしゃいまして、なかなか言うことを聞いて下さいません。このときに、心ならずも門前で小ぜり合いが生じ、熊谷
工場長自身も幾らか負傷し、私たち
組合員にも負傷者を出しております。
五月十三日に再び
団交が開かれましたが、なかなか整理するに至った
数字的内容というものが、何ものも示されませんでした。五月十二日の
団交は、夜おそくまで続きましたので、この
団交の結果を心配しました年若い
女子従業員が、
団交が終るまで待っていたのですけれ
ども、
団交が終了しましたときにはもう深夜で、とても
女子従業員が帰れる時間ではなかったので、男子寮内の一室をあけまして
女子職員が泊ることになりまして、
女子職員数名がその一室に泊りましたところ、翌日の午前六時ごろでしたか、熊谷
工場長が、かぎをかけてあった
女子職員の寝室の窓ガラスを破って窓からおどり込みまして、お前たちは
会社のふとんに無届で寝ていて、
会社のふとんがよごれるじゃないかといって、下着一枚で寝ている
女子職員のふとんを引きはがしてしまったのです。これ以上申し上げなくても、そのときまくられた
女子職員の姿は、先生方よろしく御想像いただきたいと思います。また、そのときのふとんは、
会社のふとんと
組合員の私物との半々であって、決して熊谷
工場長の言うように、
会社側のものが全部ではなかったのです。
五月十四日に出勤いたしますと、日研の在籍者のタイム・カードがありませんので、まだ解雇は有効になっていない、私たちの解雇は認められないのだから、どうかそのタイム・カードを出してもらいたいと
事務所に行きましたが、事務員だけで、なかなからちがあきませんので、熊谷
工場長がいらっしゃるならば、熊谷
工場長にお願いしてタイム・カードを出してほしいと、
組合員一同でお願いしたのです。けれ
ども、このときも、がんとしてタイム・カードを出して下さらず、少々もみ合いを生じまして、
組合員の方で二名ばかり負傷者を出しております。
五月十五日に至りまして、前日の
団交は午前七時まで続行いたしましたが、
会社は全く責任ある態度を示さず、二十七人もの大量の首切りを出しながら、一片の
数字的内容を
示したわけでなく、ただ
数字的内容は
示しようがない、赤字になったからお前たちは首を切るのだという一点ばりで押し通してしまいました。このとき
全員は、知長さんか専務さんに責任ある回答を求めたいから、ぜひとも
社長さんか専務さんに出席してくれるようにお願いしたのですけれ
ども、このことに対しても、責任ある回答はとうとう聞かれませんでした。
十六日、十七日に至りますと、
会社側は一方的に臨時休業を宣言し、十八日に至りますと、杏林製薬東京
工場の閉鎖を宣言してきたのです。五月十九日に、このような私たちの困っている
状態、どうぞ専務さんとか
社長さんとか、最高責任者に会わせて、はっきりした
数字的なものの一片なりとも見せてほしいと三、四十名の
組合員が本社に陳情に行きましたところ、
会社側では、
社長も専務もおらない、そんな
数字的な内容なんか見せる必要はない、お前たちはじゃまだと言いまして、無抵抗の
女子職員をなぐったり、け飛ばしたり、バケツで水をひっかけたりしまして、十四名の負傷者を出しております。そのとき、熊谷
工場長は、まっ先に立ちまして、
組合員を皮ぐつでけ飛ばしましたり、机の上におどり上りまして
女子職員の下腹部をけ飛ばしましたために、その
女子職員は、十分ぐらいしてから出血をしまして、子宮周囲炎を起しております。そのほか、幾日たっても消えないようなあざとか骨折、そういうものは数限りなく出しております。このように暴行されましても、何といたしましても、年若い少女ばかりでありますので、こちらは抵抗する何ものも持たず、ただ泣く泣く引き下っただけだったのです。
五月三十一日に行われました
団交においても、私たちがあれほどお願いしているにかかわらず、
社長さんは出席して下さらず、ようやく専務さんと副
社長さんだけが出席して下さいましたけれ
ども、示された
経理内容というのが、何と驚くなかれ十三万四千円の赤字のために二十七人の首を切った無責任きわまる
数字しか
発表されなかったのです。またこのとき、日研の人が就業しなければ、閉鎖を解くということを申してきましたけれ
ども、認めることはできない、私たちにはどうしても合点のいかない二十七名の首切り、すなわち日研の閉鎖ということは、どうしても私たちには納得できませんでしたので、このときの
団交も物別れになりました。
六月の三日に至りますと、熊谷
工場長は、五月十一日と十四日の草むしりの日と、タイム・カードの事件のときの暴行事件を告訴してあったものとみえまして、刑事が実地検証に参りました。私たちは終始それを静視していたのですが、刑事が来たということに便乗いたしまして、熊谷
工場長は、製品の持ち出しを行なったのであります。私たちが、これほど
仕事をしよう、
仕事を与えてくれといっておりますのに、製品を持ち出されてしまいましたならば、私たちは取りつく島がないのでありますから、どうぞ製品を元の場所に返してくれとお願いいたしましたところが、なかなか返して下されず、そのとき居合せました刑事さんが間に立ちまして、そうやく製品を元の場所に戻すことができました。
六月九日に至りまして、また
女子組合員数名が、本社に
社長さんに会わせてくれ、専務さんに会わせてくれ、この私たちの気持を聞いてくれと、せつない気持を訴えに行きましたところが、熊谷
工場長、副
社長の荻原秀さん、入倉重役など、大体三人が主になりまして再び暴行を働きまして、このときは、
組合員が五名負傷しております。その暴行の
状態になりますと、まことに気違いざたというほかはない。無抵抗の
女子を、くつでけ飛ばしたり、髪の毛を引っぱったり、ひっかいたり、常識では想像ができないような暴行をしておるのであります。またこのとき、たしか
都労委だったと思いますけれ
ども、
都労委に
組合員が行っておりますと、そのとき熊谷
工場長も来ておりました。杏林の
会社の方から、今
組合員が大あばれをして困っておるから、大へんだから来てくれというような電話がかかってきましたので、それは大へんだというので、熊谷
工場長、入倉重役は車で大急ぎで本社へかけつけて来ました。あとを心配した飯崎さんだったと思いますけれ
ども、飯崎さんも一緒にかけつけて来たところ、暴行は一つもしていないし、窓ガラスも一つも破れておらなかった。窓ガラスは一つも破れておらなかったという熊谷さんの証明の書きつけもいただいております。今、熊谷さんの窓ガラスが破られた云々ということについては、全くうそでございます。
六月十日に至りまして、王子の
労政事務所で最後の
団交が持たれましたけれ
ども、
会社は何ら反省の色も示さず、あくまで二十七名の首切り、杏林の閉鎖を強く主張いたしました。このときの
団交もとうとう決裂いたしまして、今日に至っております。
この五月十九日、六月九日の暴行のときには、日本橋の刑事と思われる方が数名見えておりましたけれ
ども、なぐったり、け飛ばしたり、髪の毛を引っぱったり、さんざんひどい目に会われておる暴行の現場に居合せながら、しかも
女子組合員が、来ておる刑事さんに、この暴行をとめてくれ、私たちがこれほどひっぱたかれたり、け飛ばされておるのをとめてくれと、泣きながら懇願したにもかかわらず、ただそばで暴行を手をこまねいてながめていただけだったそうです。そのときの
状態を考えますと、そのときやられた
女子組合員が、今でも思い出しては泣いております。
以上で、大体でございますけれ
ども、私の経過
報告を終ります。