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柳井参考人 このたびは
皆様に一方ならぬお世話になったことを、厚くお礼申し上げます。
わしら学生四名は
漁生丸に実習に行き、
山口県下関港を
昭和二十九年十月十七日十九時三十分に出港しました。拿捕されたのは位置は不明ですが、大体
あとで聞いたのでは、
済州島からサウス・
イースト四十マイルという話です。日にちは
昭和二十九年十月二十二日零時三十分に拿捕されました。その拿捕当時の
状況としては、同年の十月二十二日、零時二十分ごろ、当時は天候は晴で風位がノース・
イーストでした。それから風波は二ないし三で、さばはね
づり操業中、突然
船尾約三十メートルくらいに無灯火の艦船を発見、同時に曳光弾の射撃を受けるようになりました。そのときには
本船はそれを見てすぐ全速をかけて逃げたわけです。それから約十分間くらいで拿捕されました。僕
たちが逃げるので相手の船が全速をかけてきたのですが、
船尾にぶっかり多少破損いたしました。
そのときに
海洋警察隊員の者が四、五名乗り込んできて、僕
たちの船橋に行き、
機関停止をされて甲板に乗り込んできたわけです。そのときに
警備艇は
本船の右舷に回って
船長に乗れと叫んで
船長だけは乗り、
あと四五人
本船へ置いてから僕
たちを船首、
船尾の船室へみな監禁されました。まあ入れられたわけです。それからすぐ
済州島に
向う途中、
警備艇に続行せよと言われついていったとき、また十二
共進丸のさばはね
づり漁船が拿捕されたのです。それで夜が明けてきたときにはもう
一般の
船員の者が大体ブリッジに上ってワッチを取っておりました。
済州に入ったときにはもう十二
共進丸の方は少し早かったので、それが
韓国の
警備艇索星号に横づけしていました。そこで僕らの
本船が
済州へ入港し、その十二
共進丸のへりへ僕らが横づけしたわけです。それで同月の二十四日十八時
済州港を出発し
釜山に
向つたわけです。この
済州港出帆当時は
回航要員として
三沢船長、
徳野機関長外六、七名の者が
本船に残り、
あとの三十名近くの者は全部
韓国警備艇の方にみな監禁されたわけです。そして翌日の二十五日十七時に
釜山港へ入港いたしました。
それから
私物を全部持って
トラックで
海洋警察隊へ行ったわけですが、そのときは十二
共進丸、
漁生丸、各船二、三名ずつ残して、
あとの者は全部
海洋警察隊に行き、そこで名前や何か呼ばれて人員点呼されて、そのまま少し休みました。そこで翌日すぐ
私物検査をし、
私物一切を常置してくれました。そこで
取調べを受けたわけですが、
本船の係としては四名ぐらいで、
船長、
漁撈長なんかは四回ぐらい呼ばれて
取調べを受けておりました。
一般船員が二、三回で僕らは
学生だったので一日だけで、それも昼間だけで四人は済みました。調べられたことは、
李ラインを知って入ったか、二番は
李ラインにこれから入ると
船長または他の者から言われたか、三番は
ラインに入ってから見張りを立てたか、四番は在学中に
李ラインのあることを教えられたか、五番は
李ライン内でどれくらい漁獲したか、六番は天測は習ったか、
各人の宗教、家庭の
財産等について問われ、大体適当に
自分たちは答えたわけです。
海洋警察隊では朝と昼と二食、
白飯を普通の
どんぶり一ぱいに
副食はとうふの
みそ汁で、
待遇はよかったわけです。それから夜間は牧之島の
水上警察留置場に入れられたわけです。そこでは
起床が六時で
就寝が九時ごろでした。そこでも僕
たちは
食事を持ってくるのですが、その
食事は少し小さいような普通の
食器に
すり切り一ぱい、
丸麦の上に
海草を少し置いて、それが
副食の
御飯でした。しかし僕
たちは十時ごろになると
海洋警察隊の
検事局から
トラックで迎えにくるので、それに乗っていけば
海洋警察隊で食べられるので、僕らは食べなかったのです。ただ土曜、日曜日なんかは連れにこないので食べなければならぬので食べたところが、みな下痢をして、中には二日も食べられなかった者もおったそうです。
十一月三日までは
海洋警察で
取調べが終り、翌四日十時に
一同徒歩で
私物を携行し、
検事局に行きました。
検事局では
各人の
身の上等その他を聞かれ、
韓国漁業資源保護法違反及び
李ライン侵犯の
容疑者確認で、全部が拇印または印鑑をその犯したという
書類に押したわけです。同日夜
全員トラックで
刑務所に送られました。
刑務所に行って
囚人服に着かえて、一度
身体検査をし、
洗面類と
衣類——寒いのでできるだけ着用し、それ以外は
一つところに留置保管されました。一
監房が約八畳の板張りで、
本船の者が二十名監禁されました。その翌日
本船乗組員未成年者十六名、十二
共進丸乗組員五十名の二十一名が雑居三十一
監房に監禁されたわけです。同時に
本船乗組員成年者二十名は
隣監房に監禁される。
監房内では
起床六時、
就寝十九時三十分、そうして一日ぢゅう正座しておるわけです。それで三日に一回くらい団体で体操を許されるわけです。それも三日に五分くらいです。それから
洗面は二日に一度ですが、二十人くらいおって大体二十分程度で、看守がむちを持って早く洗えといって、中にはたたかれた者もあると思います。所内の
起床その他
食事等はラッパを使用し、そして十一月二十二日十九時三十分
本船未成年者十九名、ほかに十二
共進丸七名、第一
大和丸五名、いずれも
未成年者で、
違反の事実はあるが将来を考慮し
刑務所釈放となり、
身体検査の後私服に着かえ、
私物携行で
トラックで
外国人収容所に向ったわけです。それで
収容所には十一月の二十二日二十時三十分に着きました。
そこは一棟の
トタン屋根の
平屋建で、内部には中央に通路があり、両側がずっと間になっているわけですが、その畳といってもボロボロの
破れ畳が並んで、それが大体五棟くらい周囲にありました。それでそのまわりはずっと
鉄条網で囲いがありました。
起床なんかは自由でしたが、
就寝の場合には十時以後過ぎたなら絶対いかぬと言われました。それは
一般市民でも十時になったら全部消燈で、夜回りが回わっております。
手紙なんかも自由に出せ、また入浴、
散髪なんかも自由ですが、これはみな実費でやらされました。それで
私物を売るというても安いため金がなかったので、
ふろなんか二月に一回とか、長くて三ヵ月に一回、
散髪なんかは一ヵ月半か二ヵ月に一回程度行っていました。外部に
ふろ屋とか
散髪屋があるのですが、その場合には係員に言ったらすぐに出して連れていってくれるのです。
昭和三十年の六月十五日以降は
内務部の所属に変更、
強制送還者は
刑期満了未成年者の
日本漁船員は二棟に
集団収容、この二棟のみは事前に多少修理されたので、それまでは比較的
がらんどうだったのです。かわるときに修理してくれたわけです。それでそれへ移ってからはあまり長くおらなかったのでよくわかりませんが、
起床が大体七時で
就寝がやはり十時でした、
韓国海洋警察隊関係で
済州島において同船は大体一航海してから後も
——一航海するに米が少し足らなかったわけです。それで
済州で米がないから米をくれと言ったら、
海洋警察隊から
カビのはえているような米をくれました、そうして相当新しい
野菜をくれたのですが、これはサバと少し交換してもらったわけです。それで
済州から
釜山の間は二十三時間ぐらいの航海なので三人に二人の乾パンですが、これも
カビがはえていました。
刑務所関係について申しますと、
貸与品には一人につき
囚人服上下二枚、
木綿毛布が二枚、
アルマイト食器が二個、はし一ぜん、一
監房にボロぶとんが二枚で、それも二、三日してからわかったのですが、
刑務所の中のふとんには
シラミがたくさんおりました。給与の
食糧は外米二、
大豆が二、大麦が六の混合でこの中に米の虫がたくさん入り、砂利が少し入っていました。そうして
食事といったら型に入ったもので、上が二寸、下が大体二寸五分くらい、高さが三寸ぐらいの
円錐形になっているのでそれが
一つの主食で、
副食は
みそ汁一ぱい、
みそ汁といっても腐ったような
クチ塩辛をダシにして、その中へ
海草またはほし大根の葉っぱの古いのを入れていたので、くさくて食べられないので塩をくれぬかといって頼んだところ、
日本人だから
特別待遇だといいながら
みそをくれたり、
たくあんをくれたりして、僕
たちだけ特別にくれていました。それで
収容所の
食事関係については、初め入ったときには米麦が
半々で、そうして
副食はとうふの
みそ汁で、それに
たくあんや
朝鮮のキムチというつけものなどを出していました。それで一週間ぐらいはよかったのですが、それから後はだんだん米、麦が減って、僕
たちが今度
炊事するようになりました。
炊事し出してから十二月の末からますます
食糧事情が悪くなって、
米少しで三分づきの麦八ないし九割になり、一月ごろから全然米というものはなくなりました。それから一月一日には朝麦ばかりの
御飯を食べさしたので、僕
たちが文句を言ったわけですが、昼はどうやらこうやら
白飯を食わせてくれました。晩はまた麦ばかりでした。そうして麦ばかりになってからの
副食といったら、
みそ汁というよりも
塩湯と言った方が早いくらいです。それは大体三十一人の人で五十匁
足らずの
みそで、
あとは
岩塩を入れてそれを
副食としていたわけです。このままいったら栄養失調で倒れるかもしれぬといって
外務省に言ったわけですが、
外務省は
一つも引き受けてくれず、死んでも仕方がない、そのときに
病人が出たのですが、
病人が出たからどうかしてくれといったのですが、そのときには死んでも仕方がないと
外務省の者が言っていました。ちょうど冬で寒かったので
毛布を少し貸してくれといいましたが、
毛布なんかも全然貸してくれず、夜間相当寒くて眠れない日がたくさんありました。それで三月一日からどうやら米、麦
半々の米に変りましたが、その後
収容所でも
刑務所でも米麦はいつでも、一、二年たったくらいのものすごい古い米なので、
カビなんかはえたり米虫がたくさんわいていました。それで
半々になったわけですが
外務省の者がものすごくけちって、まともなら一人が一日麦二合、米二合の割合ですが、二合くれずに一合五勺ずつくらいに大分けちっていました。麦は当りまえにくれていましたが、米虫がわいているので、大体一人平均三合当てくらいになっていました。
副食は
カビがはえたイリコをダシとしてそれに菜っぱを入れたり、もやしがほとんどでしたが、もやしなんかを入れてそれをおかずにしていました。毎日それが同じ
副食で、そうして帰るまで大体そういうような
食事でした。
昭和三十年六月の二十一日の十五時ごろ
学生四名が帰れるといって、事務室に呼んでから送還されるという申し入れを受けたのです。そうして翌日の二十二日十五時に
強制送還者七名は大和乗船で過よく帰ったわけです。
以上大体私の感じたことはそれで終ります。