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赤羽参考人 私が
赤羽でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
私は、抑留生活中大体
ソ連の国籍人の中にぽつんと一人おりまして、他の
日本人の
方々の様子はあまり存じておりませんし、それは今まで皆さんがおっしゃいましたりいたしましたので、自分自身の抑留中の生活を申し上げたいと存じます。
私は、終戦まで三年間近く大連の
ソ連領事館で
ソ連の領事、副領事以下に
日本語を教えておりました関係上、終戦後直ちに
ソ連につかまって、大連、奉天、チタの監獄で十カ月過ごしました。その間尋問はずっとございましたが、裁判には呼び出されずに、書類裁判によりまして、それもチタにおりますときに政治犯として五年の刑を言い渡されました。一九四六年、すなわち終戦の翌年九月、カザフスタンのカラガンダの近くのアクモリンスクという近くのラーゲル、すなわち刑務所に送られました。そこは女囚人のあらゆる民族の集まりでありますが、一千名ほどおりまして、隣りには鉄条網を境に男のラーゲルもございました。ちょうどそこには刺しゅうの工場がありまして、私は力に応ずる
仕事として刺しゅうをして働いておりました。しかし、栄養の不足のために、るいれきになり、八時間労働を六時間に減してもらい、続いて四時間になり、ついに二年間の病院生活をいたしました。病院に入院している間でございますが、中耳炎をしまして、左の耳が聞えなくなったのでありますが、それも一週間くらいでずっと聞えなくなりまして、確かになおるはずのものがなおらないというようなわけでございますが、やはり栄養が足らなかったからだと、こちらの先生はおっしゃるのです。七年間もほうってあったのですから、今どうにもならないのです。
男のラーゲルも女のラーゲルも、組織や配給される衣服、食物の程度は同じでありますから、私は申し上げませんが、ちょっと申し上げておきたいことは、ラーゲルもいろいろ種類がございまして、
最初四年間以上おりましたラーゲルは大きいラーゲルでございましたが、給与が一般に悪く、ことに病弱者――インヴァリートと申しますが、その人たちには給与がある。私も長らくインヴァリートとしてそこに生活しておりましたが、そこには五十歳以上のそういう方がたくさんおりますので、ラーゲルの生活は暗い影を投げておりました。そういうところから考えまして、ハバロフスクやほかの筋肉労働のできない方たちの生活は暗いということはやはり想像できます。しかし、刑の終るちょっと前の二カ月ほど収容されておりましたラーゲルは非常に明るく、男女別々でございましたが、同じラーゲルの中に男女別々のバラックがございまして、外に
仕事に出るのも男女一緒であり、食堂も男女一緒でございまして、また、彼ら囚人自身が、ここは模範コルホーズと言っていいくらいだと言っておりました。そこは、ちょうど農事試験場がございました関係だと思いますが、模範コルホーズだと言っていいくらいだと言っておりました。食事もたいへんよく、その後私が一時帰国の途中収容されたハバロフスクの
日本人のラーゲルなどと比べものにならないほど高級のものでありまして、私がそこで病人食をもらっておりますときに、他の囚人は、私に、あなたが自由の身になって食事をするときにはきっとこのラーゲルの給与のよかったことを思い出すだろうと話しましたが、果せるかな、私どもがシベリア流刑にあいまして、そのラーゲルの食事がよかったことを思い出しました。なぜ私が向うのいいことを申し上げるかと申しますと、
ソ連のラーゲルは驚くほどたくさん数がございまして、視察に来る人たちはただこのようなりっぱなラーゲルでだまかされて、すっかり感心してしまわれるからでありまして、全体としては給与は悪いものであるということを知っていただきたいからであります。私だけでなく、皆さんあちこちラーゲルを渡っているロシヤ人の人がそう申しておりました。大ていの者は外人でございますが、ロシヤ人その他の人でも、どんなに少くとも一年に二、三回の小包を受け取って、どうやら息づいているのでございます。毎月送ってくる者もございます。私はもちろん一度ももらわなかったのでございます。
一九五〇年、私は五年の刑を終えまして、一応自由が与えられ、鉄条網の外に銃を持った監視人のいないところに出たので、
日本に帰してもらえる資格が十分あったのでございますが、シベリヤの流刑、すなわち島流しにされて、クラスノヤルスク地方に送られ、ロシヤの自由民、一般人と一緒に生活をしておりました。と申しますのは、そこには、上着なり、または自分の自由意思で移住して来た人たちもおりますが、私は政治犯としての前科者としてシベリアに流されて来たので、ある一定の
範囲外に行くと、また監獄に入れられ、刑を受けたければならぬわけで、一月に一回係官が回って来るとサインをしなければならないのであります。私のいた村は、クラスノヤルスクから汽車でカンスクまで行きまして、そこからバスで四、五時間行くと小さへ町に着きます。そこから七十五キロ隔てた川沿いの森林――タイガーの中の、人口四百ほどの小さな村でございました。五年の刑を終えて私の行けるところは、その七十五キロ隔てた小さな町へ行けるだけで、非常に不便な村で、その町に出かけるのが大
仕事でございまして、ちょっとその町に出かけると、一週間の予定でないと行って来れないというふうでございました。その村の周囲は果てしない松とシラカバの森林で、全村あげて森林伐採作業に従事いたしておりまして、筋肉労働に適しない者の行くところではなかったのでございました。私は
最初掲示板書きをさせられました。材木を切るときいろいろ危険が伴うので、その危険を注意する掲示板を書いたのであります。また、三月になると、半年降り積ったシベリアの雪は固く厚くなっておりますが、その雪かきを朝から晩まで一月森林の中でやっておりました。川の次が解けて川が流れ始めますと、六月には、冬の間準備しておいた高く積まれた材木をころがし、川に流し込みます。私は、適当な皮の長ぐつを持っていないために、雪解けにリューマチにかかって苦しんでおりましたが、やはりかり出されました。シベリアの材木は長くて大きく、厚いのですが、それをころがすのも、普通の健康があれば何とかやっていけるので、またロシヤの婦人たちにはもちろん何でもないのでございますが、筋肉労働に適しない、またリューマチをわずらっている自分は、心身ともに最大限度に張り切って働かなければならないのでございました。ロシヤの婦人たちは、私の力が足りないために一緒に働くことが不利なので、みな私とともに働くのを喜ばなかったのでございます。そのほか麻布修理もいたしましたが、それは一時的の
仕事で、落ちついて生活することができなかったのでございます。そのうちに便所掃除婦として二百七十ルーブルを与えられたときは、私も大いに満足したのです。月給二百七十ルーブルあれば、いなかのつつましい生活はどうにかやっていけるのでございます。そのほか私は刺しゅうの下絵を書いたりなどして、ジャガイモとか牛乳とかを村の女たちからもらって足しにいたしておりました。最後に私は託児所の保母として働き、月給三百十ルーブルもらい、もし
日本に帰れないようなことがあったら、死ぬまで託児所の保母として働いていたいと考えていました。それは、そこで働くより、小さい村の中のことでございますから、ほかに適当な
仕事がないのでございました。また、皆が、あなたは家の中で働いていいですねと言うのです。屋根の下で働けるということは、シベリアに住む者にとって非常にありがたいことで、厳寒中零下四十度くらいで、森林の中で働かなければならないのが普通なのでございます。三百十ルーブルというと、
日本金に直して幾らになるかというと、物価が一々同じ率で計算できないものでございますから、比較は無理でございます。もちろん、その中から収入税、国債、子なし税を引かれます。子なし税というのは、独身税というのとまた違うので、子がなければ、結婚していてもいなくても取られるという税でございます。しかし、その子なし税は、外国人だというので、一九五四年あたりから返してくれました。と申すのは、
ソ連の国籍を持っていない者はソビエト人と結婚を許されないので、子なし税があるわけはないというのでございましょう。託児所は生後三カ月から三才までの幼児を預かって、保母一人で二十人の子のめんどうを見ております。
私の印象では、ソビエト人は個人としては気持のよい人でした。しかし一つ不愉快なことがあるので、それは、ただいま
片倉さんもおっしゃいましたが、向うの人たちは、あなたは
日本に帰れると思っているのか、それは間違った考えだ、あなたは決して帰れるはずがないと言うのです。私の言葉を記憶していて下さいなどとよく言われました。私は、いやなことを言うやつだ、黙っていればよいのにと思いました。これは何を示しているのでございましょうか。私は、
ソ連政府の国民に対する態度の反映でないかと思います。また、彼らは、あなたは
日本に帰ると
日本のラーゲルに、すなわち
日本の刑務所に入れられるよと、何度も言うのでした。私はこれを心の中で笑っていたわけでございます。向うの人はそう思っているのでございますね。私たちがすぐ家族の者と生活するなんというのはむずかしいと思っていたらしいのです。
私は、ラーゲルにいる間、新聞を見るのを避けておりました。私は政治犯なのです。またどんな疑いをかけられるかわかりません。新聞といっても、もちろんソビエトの新聞です。また政治、外交に関して
質問したいときも
質問しないでがまんしておりました。シベリア流刑中、自由になってから、ラジオを通じて
日本の声を聞くことができたのですが、聞いていたのが原因で帰国できないようになっては大へんだと思って、聞かないでがまんしていたのでございます。あるとき、
ソ連の者がクラブでラジオのスイッチをひねりますと、東京から幼稚園の子供たちの「おててつないで」の声が聞えてきたので、私はびっくりして、うれしいやらおそろしいやらという気持で、急いでとめてもらいました。それは、私がばか正直だとか、憶病だからそういう態度をとったのでは決してないのであることは、これから申し上げることでも御了解できると思います。
私は、一九五四年、すなわち昨年、外国人に与えるパスポートの一種、無国籍者の居住券と申しましょうか、そういうものを与えられました。しかし、私の行けるところはやはり七十五キロ離れた小さい町へ行けるのみでございました。そのパスポートの中には、最後の国籍というところに
日本と書いてありました。私は、機会が来ればきっと帰れる、外交関係がよくなれば
日本に帰れると思っておりました。しかし、
日本人の中には、ロシヤ語がよくわからなかったり、またパスポートの知識が不十分なために、ソビエト人のもらう普通のパスポートをもらいまして、困っている方があるのです。
今度お友だちの
日本人は帰国できても自分は帰国できないという
状態にある
日本人がまだほかにおられるかは、私は存じておりません。刑が終りましてラーゲルから釈放されている抑留者の多くは、この一、二年に帰国できなければ、がまんの緒も切れてしまうのです。そして、いつ帰れるかいつ帰れるかと首を長くして待つのをやめて、腰を据えてシベリアに落ちつこう、仕方がないからシベリアで家庭を持とうと思っておられる方もあるようです。
戦争中ならいざ知らず、平和になりまして十年も、不自由な、不自然な生活を続け、ことにラーゲルを出まして一応自由を与えられて、そして不自然な生活を続けるということは、非常に困難なことでございます。私のようにからだの弱い者でも、シベリアで生きることは生きてきたのでございます。しかし、帰りたい、ぜひ
日本に帰らなくてはならないと思っておりました。それは、ラーゲル生活でもまた流刑中でも聞いたことでありますが、ロシヤの人たちで、ソビエトに籍がある人で、夫が政治犯だったために刑を受けて、自分は何の悪いこともしていないのですけれども、夫のためにラーゲルに入っているという女性もたくさんございます。また、一度自由になって家庭で平和に暮しておっても、政変があってまた流刑を受けている人もございます。また父が政治犯で子が流刑になっております。そして
日本のような国に行けるなら自分は
日本に行って暮したいというような口吻もちょいちょい聞いたわけであります。それは当然だと思うのであります。今度川国の途中私がハバロフスクのラーゲルに四十日ほど収容せられましたときに、ある
日本人の方で、前に奉天においでになり、ハバロフスクのラーゲルでお医者をしておられた方が、去年皆さんと一緒に帰国さしてやるというわけでナホトカまで出ていらっしゃったのですけれども、身体検査のときに、死亡者名簿をお持ちになっているのが見つかりまして、引きとめられて帰されないで、二十五年の刑をもらっていらっしゃいます。私のところに会いにいらっしゃいまして、そういうわけだから、よく注意して、何も書いたものは持たないで帰るようにと、つくづくおっしゃいました。私がまた監獄からラーゲルに行くのに、ロシヤは広いものですから、汽車で幾日も乗って行くその途中、またはラーゲルからシベリア流刑に行く途中でも、中継所があります。その中継所でもってよく病院の看護婦たちが
日本人のこういう人がなくなったと私に言われたのです。たくさんあって、書いてはいけないものですから、どういう方がなくなったかということを覚えていないのです。こちらではっきりしていない方たちなどは、そういうところでおなくなりになった方がかなりいらっしゃると思うのです。それは、私も頭が悪くなっていることもあるでしょうけれども、そのほかに、書いてはいけないと言うものですから、全然書きませんし、どういうときに身体検査を受けるかわかりませんから、書いてないために、今度皆さん方に申し上げることができなくて、はなはだ残念に思っております。
それで、私が
日本人なるがゆえに
日本に帰りたい、親兄弟がいるから
日本に帰りたいというほかにも、
日本に帰りたいという大きな理由があるのでございます。ロシヤにいては、またどんなことになるかわからないから、ぜひ今のうちに帰れるなら帰っておきたいという気持でございます。健康のある筋肉労働のできる者は、ラーゲルは別でございますけれども、ラーゲルを出まして
ソ連で暮すには物質上はあまり困ってはいないのです。私のような者でもどうにか暮してきたのです。また、私のように三百ルーブルぐらいしかかせがないという者は少くて、先ほど申し上げましたように、千ルーブルも働いているような方がかなりいらっしゃいます。しかし、それはみんな筋肉労働者の場合でありまして、その方たちがいつも千ルーブル以上ももらえるというのではなく、ある月は三、四百ルーブル、ある月は
仕事がないというようなわけで、いろいろでございます。今度一緒に帰ってきた人々の中に二人の方がインヴァリートのドム、これは養老院とは違うのですが、病弱者の家というところから二人帰ってきました。一人の方に
お話を伺いますと、インヴァリートの家というのは、病院のようなところでありまして、大体はいいそうですが、食物が足りないということで、非常に困っていらっしゃいました。ほかのそこにいらっしゃるロシヤの人たち、ほかの民族の方たちは、家から小包を送ってもらって補っているそうですが、
日本人には小包が来ないので、そこに働いていたドイツ人のおばあさんが同情して何かと持ってきてくれたということであります。
一般の生活について申し上げますと、ロシヤの人でも、前科のある者、特に政治犯は都会地においては親類に敬遠されております。そして、手紙を出すときには遠慮した方がよい、子の勤め先にも関係するからという工合でございますが、いなかにおいては非常に気楽でございます。私のいた村は人口三、四百ですが、そのうちに三分の一は流刑の人である。政治犯で流刑にあっている者がいるために、私ども政治犯の前科者にも、肩身が狭いということは決してございませんでした。シベリア土着の人たち、またロシヤ人との結婚、すなわちソビエト人との結婚は、外国人である以上は、すなわちソビエトの国籍を持っていない者は
法律上できないのでございますが、同棲するという意味においてはだれも文句をつけることはないのでございます。職は優先的に現地人に与えられまして、流刑を受けている人のよくこぼすところでございますが、それも筋肉労働の場合には当てはまりません。民衆運動のあったことは、今度
帰還するに際しまして、ハバロフスクのラーゲルに一時収容されましたときに、民衆運動があったということを教えられたのでございますが、思想教育を私たちに積極的にでも消極的にでもするという傾向は一度もございませんでした。それも、ハバロフスクのラーゲルのように多数の
日本人のいるところとは違いまして、散在して
日本人が生活しているのでございますから、効果がないからではないかと思っております。
最後に、帰国するための私の
努力及び経路を申し上げます。五年の刑が終えましてラーゲルを出ても
日本に帰されませんので、まあ平和条約によって国交が平常にならなくては帰れないからと思いまして、
日本に通信などは考えもいたしませんでしたし、またできるなどとも思っておりませんでした。一九五三年にスターリン死後、恩赦によりまして、五年までの刑を受けた者はどんな政治犯でも取り消されるということがわかりまして、私は
日本に帰るということを心待ちするようになりました。一九五四年、昨年、興安丸の来るのを三月の初めモスクワのプラウダ紙によって知り、どんな
日本人がその
帰還者に選ばれるかを私は知りまして、私はその資格を十分持っているから、その興安丸で帰国できると思いまして、呼び出しを毎日待っておりましたが、通知がなくて、興安丸もそう長く停泊しているはずがないから、置いてきぼりにされたとわかったのです。同じ年、昨年六月、流刑中の政治犯で刑期五年の者に青色の証明書が交付されまして、それに前科は取り消される、流刑もなかったものとして取り消すということが書いてありました。それで私は直ちにモスクワの
ソ連赤十字社と
ソ連の外務省に嘆願書を出しましたが、何の返事もございませんでした。それからいろいろ考えまして、ウラジオストックのアメリカの通商代表を通じて
日本の家族に連絡方を頼みましたが、それも返事がございませんでした。返ってはきませんでしたけれども、そのままでした。去年の十二月の初めに、前に申し上げた無国籍者のパスポート――居住券ですね。それをもらいましたときに、
日本に帰りたいなら引き取るという手紙が家から来ない以上は帰国できないと向うの人が言うのです。それで、私は、いいえ、
日本は、家がなくても、家の方で何とも言わなくても、国家が引き取ってくれるのだからと、そう言ったのですけれども、向うではそういうことはどうもわからないらしいのです。それで私は期待をかけなかったのでございますけれども、原籍長野の方に手紙を出しまして、東京におる姉のところにその手紙が参ったということをナホトカで知ったわけでございます。そのようなわけで、私は一度も小包も手紙も
ソ連ではもらわなかったのでございます。私が実際嘆願を出しているのに、今度帰る場合には、私が嘆願書を出していないからという理由で、危ないところで残されるところだったのでございます。詳しいところは略しまして、私とともに同じ村で一九五三年から働いていた一人の男の方がおられました。その方は、無国籍のパスポートももらっていらっしゃらないし、流刑中の人で、私よりも刑が重く、嘆願書も出したことのない人なのですが、その人に私より先に帰国呼び出しが参りまして、その人はするすると帰れるようになったのに、私は途中何度も引きとめられまして、私の名前が名簿に載っていないからというので、嘆願書を書くようにとさえ言われまして、さっそく書いて出しましたが、ロシヤという国は、広いのでありましょうか、わけがわからないのでございます。書いたものは書いてないと言われますし、書いてないものがうまく行きますし……。私のほかに、呼び出しのなかった人で、嘆願書の返事をもって第一に
帰還さしてやるという約束をもらっておりますので、無理に自分のお金で飛行機でナリンスクから飛んで来られた方もあります。それで、嘆願書が大きな役割をするということは確かでございまして、ロシヤはそういう国で、向うの人たちが、あなたたちは書いて書いて書かなければならないのだとおっしゃるのです。どこに書いていいか、それは赤十字社か外務省か、あて名がはっきりわからないのでございます。抑留者自身が書くとしても、ハバロフスクのように
日本との通信のある所の人に教えることはむずかしくないでしょうけれども、地方、すなわちラーゲルを出た人にこれを伝えることはむずかしいことでございます。
私の報告はそれだけでございます。