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1955-06-09 第22回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十年五月二十四日  臼井莊一君辻政信君、堀内一雄君、逢澤寛君、  中山マサ君、柳田秀一君及び受田新吉君が理事  に当選した。     ――――――――――――― 昭和三十年六月九日(木曜日)     午前十一時二分開議  出席委員    委員長 高岡 大輔君    理事 臼井 莊一君 理事 辻  政信君    理事 堀内  一雄 理事 逢澤  寛君    理事 中山 マサ君 理事 神近 市子君    理事 戸叶 里子君       眞崎 勝次君    眞鍋 儀十君       田村  元君    高橋  等君       仲川房次郎君    山下 春江君       稻村 隆一君    河野  正君       楯 兼次郎君    柳田 秀一君       受田 新吉君    小林 信一君  出席政府委員         外務政府次官  園田  直君         外務事務官         (アジア局長) 中川  融君         厚生事務官         (引揚援護局         長)      田辺 繁雄君  委員外出席者         総理府事務官         (恩給局審議課         長)      畠山 一郎君         厚生事務官         (引揚援護局引         揚課長)    坂元貞一郎君         参  考  人         (日本赤十字社         外事部調査課         長)      木内利三郎君         参  考  人         (ソ連地区引揚         者)      富永 恭次君         参  考  人         (ソ連地区引揚         者)      関口 弘二君         参  考  人         (ソ連地区引揚         者)      片倉 達郎君         参  考  人         (ソ連地区引揚         者)      赤羽 文子君     ――――――――――――― 五月二十六日  委員中馬辰猪辞任につき、その補欠として高  橋等君が議長の指名で委員に選任された。 六月九日  理事柳田秀一君及び受田新吉理事辞任につき、  その補欠として神近市子君及び戸叶里子君が理  事に当選した。     ――――――――――――― 五月二十七日  在外帰還同胞帰還促進に関する請願菅太  郎君紹介)(第一〇六七号)  同(山下春江紹介)(第一一一七号)  在外帰還同胞帰還促進等に関する請願(平  田ヒデ紹介)(第一一二三号)  ソ連抑留胞引揚促進に関する請願田中伊三  次君紹介)(第一一二五号) 同月二十八日  在外帰還同胞帰還促進等に関する請願(助  川良平紹介)(第一二五四号) 六月一日  在外帰還同胞帰還促進等に関する請願(栗  山博紹介)(第一五三〇号) の審査を本委員会に付託された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  理事の互選  参考人招致に関する件  ソ連地区及び中共地区残留胞引揚に関する件  遺家族及び留守家族援護に関する件     ―――――――――――――
  2. 高岡大輔

    高岡委員長 これより会議を開きます。  この際理事辞任の件についてお諮りいたします。理事柳田修一君及び受田新吉君より理事辞任いたしたい旨の届出があります。これを許可するに御異議ありませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 高岡大輔

    高岡委員長 御異議なきものと認め、辞任を許可するに決しました。  引き続き理事補欠選任をいたしたいと存じますが、先例によりまして、選挙の手続を省略して委員長において指名するに御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  4. 高岡大輔

    高岡委員長 御異議なきものと認めます。よって委員長神近市子君及び戸叶里子君を理事に指名いたします。     ―――――――――――――
  5. 高岡大輔

    高岡委員長 本日はソ連地区残留同胞引き揚げに関する件並びに遺家族及び留守家族援護に関する件について議事を進めますが、その前にお諮りいたします。過日の理事会におきまして御了承願いました参考人の件につきましては、都合によりまして、本日の午後より、第三次ソ連地区帰還者富永恭次君、赤羽文子君、関口弘二君、片倉達郎君、及び日本赤十字社興安丸乗船代表木内利三朗君を本委員会参考人として引き揚げ実情及び残留者の状況を聴取いたしたいと思いますが、御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  6. 高岡大輔

    高岡委員長 御異議なきものと認め、さよう決定いたします。  なお、中共地区残留同胞引き揚げに関連する中国人俘虜遺骨送環の問題、及び遺家族援護に関し開拓義勇隊沖繩義勇隊死没者処遇の問題について参考人より事情を聴取いたしたいと思いますが、参考人の人選及び招致の日時、手続等については委員長に御一任願うことに御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  7. 高岡大輔

    高岡委員長 御異議なきものと認め、さよう決定いたします。
  8. 柳田秀一

    柳田委員 ただいま、先般の理事会の決定に従いまして、ソ連より帰還の方を参考人としてお呼びして実情を伺うことになったのでありますが、なお、われわれがソ連に人道的問題としてすみやかなる帰還を要求すると同時に、われわれもまた日本になお放置されておりまする中国人遺骨、これはなお三分の二ぐらい残っておりますが、すみやかにこれを中国側に送り返す、これまた人道的問題として積極的に解決しなければならぬ問題でありまして、それに対しても、今委員長の言われるように、参考人を呼んでいただくことにきまりました。私はまことに喜びにたえません。同時に、日本人でなおビルマに残っておる遺骨引き揚げの問題が最近問題になっておりますが、あわせてこの方の参考人もお呼び願ったらどうかと思いますから、お諮りを願いたいと思います。
  9. 高岡大輔

    高岡委員長 今の問題につきましては、ただいま申し上げましたと同様に処理いたしたいと思いますが、よろしゅうございますか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  10. 高岡大輔

    高岡委員長 それでは、さよう決定いたします。     ―――――――――――――
  11. 高岡大輔

    高岡委員長 これよりソ連地区残留同胞引き揚げに関する件並びに遺家族及び留守家族援護に関する件について政府当局より説明を聴取することにいたします。  最初に、遺家族及び留守家族援護につきまして、その根本であります遺族援護並びに留守家族援護関係法案であります戦傷病者戦没者遺族等援護法の一部を改正する法律案恩給法の一部を改正する法律案及び未帰還者留守家族等援護法の一部を改正する法律案が本院に提出されておりますので、本委員会といたしましては政府当局よりその概要について説明を聴取し検討をいたしたいと思います。まず厚生省当局より説明を求めます。田辺政府委員
  12. 田辺繁雄

    田辺政府委員 まず最初に、戦傷病者戦没者遺族等援護法の一部を改正する法律案につきまして、その概要を御説明申し上げます。  本法が昭和二十七年の四月一日から実施されまして以来、各方面の御協力のもとに、すでに二百九万件をこえる裁定を行なったのでございます。この点、まことに喜ばしいことを存じます。今回さらに援護の措置を強化するためにこの法律の一部を改正することにいたしたのであります。  その改正の第一点は、遺族年金金額を、別途本国会に提出されております恩給法の一部改正による旧軍人の兵の公務扶助料金額にマッチさせるために、二万七千六百円の現行額を二万八千二百六十五円に引き上げることにいたしたのであります。すなわち年額にして六百六十五円の増額と相なったのであります。  第二に、遺族年金、それから恩給法公務扶助料も同様でありまするが、これらは戦没軍人軍属公務上の傷病によって死亡したときに初めて支給されるのであります。そういう建前に相なっております。そういったことが認定される場合において初めて支給されることに相なっておるのでありますが、太平洋戦争戦地での受傷またそれにより死亡した軍人につきましては、太平洋戦争というものの特殊事情、ことに戦争末期におきまする戦地特殊事情を考えますと、果してその受傷したあるいは罹病したその状態公務によるものであるかどうかということの判定相当の困難を感ずるものがあるのであります。かたがた、軍人戦地における傷病というものは、勤務特殊事情から考えまして、非常に公務性の濃厚なものだと考えてよろしいと思うのであります。こういった点を勘案いたしまして、軍人戦地勤務している間に受傷し、それによって戦地で死亡した場合あるいは内地に帰ってきてから一定期間内に死亡した場合におきましては、公務以外の事由、すなわち非公務によって死亡したということが明らかでない場合以外は、公務として考えて行こう、こういうふうに改正しようというのであります。従来は公務であることが認定される場合において初めて公務として裁定をするという行き方でありまするが、それを逆にいたしまして、一応戦地におけるものは、公務でないことが明らかな場合、非公務であることが明らかな場合を除いては、公務として考えて行こう、こういうふうに考え方を変えて行くように法律を直そうというのであります。公務でないことが明らかであるかどうかということは、なかなかデリケートな問題でございますので、その運営を慎重にいたしますために、援護審査会議決を要する、こういうことにいたした次第でございます。  第三は、現在、弔慰金を支給しておりまする遺族範囲は、配偶者、子、父母、孫、祖父母、それから兄弟姉妹に限られておりますけれども、弔慰金支給の趣旨から考えまして、こういった遺族がない場合におきましては、他の三親等内の親族、たとえばおじ、おばでありますが、戦没者と生計をともにしておったような者にも支給するようにいたしたいということでございます。  それから、第四点は、軍人恩給がストップになりましてから援護法が制定せられますまでの間におきまして他人の養子となった戦没者の子があります。それは、現在の法律におきましては、遺族年金恩給法公務扶助料受給権失権または失格することになっておりまするが、まことにお気の毒な事情もありますので、援護法制定以前にすでにその当該養子縁組が解消している場合におきましては、その失権、失格の規定を緩和いたしまして、今回新たにそういった方に対しましては遺族年金受給資格を認めようというのでございます。  第五は、雇用人――軍属でありますが、現在では、太平洋戦争勃発以後戦時災害によって戦地受傷、罹病した場合におきましては援護法対象となっておるのでありますが、太平洋戦争勃発直前等におきまして、同様の戦時災害戦地において受傷、羅痛した人も、きわめて少数ではありますがございまするので、こういう方々援護法対象に加えようというのが改正の第五でございます。  第六は、軍人につきましては現在非公務の場合でありましても弔慰金の五万円を差し上げるようにいたしておるのでありまするが、軍属の場合におきましても軍人に準じて考えていいのではないかと思いまするので、こういった方々に対しましても五万円の弔慰金を差し上げるようにいたしたいというのでございます。  第七は、いわゆる責任自殺でございますが、太平洋戦争の終結に際しまして、至純な憂国の至情の発露として、敗戦の責任を痛感して自決した方々相当数ございまするが、これらの方々の置かれた立場等を考えますと、まことに同情すべきものがあり、しかもこれは公務によって死亡した者と同視すべき者が相当数ございます。現行法解釈によりましては、どうしてもこれを公務として扱うことば解釈上困難でございまするので、今回、援護審査会議決によって公務と同視すべきものとの判定があった場合におきましては、これを公務死とみなして遺族援護法対象に加えるということにいたしたのでございます。  以上が改正の眼目でございまして、その他きわめて事務的な調整も若干行なったのが今回の改正内容でございます。  次は、未帰還者留守家族等援護法改正でございますが、この改正要点は二点でございます。  第一点は、遺族援護法による遺族年金の月額の増額に伴いまして、それに相当するだけ留守家族手当増額しようというのでございます。  第二点は、復員患者帰還患者療養期限がついておりまするが、本年の十二月末をもって従来の療養期限の満了する者が相当数ございますので、その後の処分につきましていろいろ検討いたしました結果、これらの方々はなお今後継続して治療をする必要があると考えられますので、さらに三年間この治療を継続することにいたそうというので、この改正案を提出した次第であります。昨年一年間延長することにとりあえずきまっておりますので、その一年に加えましてさらに三年間延長しようというのでございます。  この二点が未帰還者留守家族援護法改正内容でございます。  以上、はなはだ簡単でございますが、両案について御説明を申し上げました。あとは御質疑等によりましてお答えを申し上げたいと存じます。
  13. 高岡大輔

    高岡委員長 次に、恩給局より恩給法の一部改正について説明を求めます。畠山説明員
  14. 畠山一郎

    畠山説明員 恩給法改正につきまして御説明申し上げます。現在、この法律案は、提案はいたしておりますが、種々の事情によりましてまた御審議は願っておらないわけでありますが、提案いたしました政府原案につきまして御説明申し上げます。  この改正法案要点は四点でございますが、そのうち軍人関係が二点、文官関係が二点ということになっております。  第一の点は、旧軍人公務扶助料基本年額の引き上げでございます。軍曹伍長、兵全体、これだけのいわゆる公務扶助料と、それから、増加公死扶助料というふうに略称しておりますが、公務による傷疾疾病のため不具廃疾となった軍人がその公務傷病以外の傷病のため死亡した場合に遺族に給せられます扶助料、この二つ扶助料基本年額を引き上げることにいたしております。公務死亡の場合の扶助料は、現在兵は二万六千七百六十五円でありますが、これを二万八千二百六十五円に引き上げ、伍長または二等兵曹につきましては、現在三万七千九百三十円でございますが、これを二万八千四百円に引き上げ、軍曹または一等兵曹につきましては、現在二万八千三百二十円でございますが、これを二万八千五百三十円に引き上げることといたしております。また、いわゆる増加公死扶助料につきましては、兵は現在二万九十九円でありますのを二万一千二百二十五円に、伍長または二等兵曹は現在二万九百七十六円でありますのを二万一千三百二十八円に、軍曹または一等兵曹につきましては現在二万一千二百四十円でありますのを二万一千三百九十七円に引き上げることにいたしております。  第二の点は、いわゆる責任自殺に関連する問題でございますが、先ほど援護局長から御説明がありましたいわゆる責任自殺に関連する援護法改正を受けまして、責任自殺した場合におきまして、援護審議会議決されまして遺族年金あるいは弔慰金を給されることにたったわけでございますが、そのような場合には公務扶助料年額相当する金額扶助料を給するものとすることにいたしました。なお、恩給法では全然改正いたしておりませんが、いわゆる公務死範囲の拡張につきまして援護法改正されることになりましたので、現在の恩給法の一部を改正する法律昭和二十八年の法律一五五号でありますが、これの第三十五条の二によりまして、援護法公務と認定された場合には当然恩給法の方で公務と認められることになっておりますので、援護法におきまして公務死範囲が拡張されました場合には、特に恩給法では法律改正することなく、現行法のままで、それらの公務死亡者遺族に対しても公務扶助料が給されることになっております。  なお、第三の点は、これは文官関係警察職員関係でございますが、昨年の警察法改正によりまして、自治体警察職員であった者が引き続いて都道府県警察職員となった場合、五大市警察が近く廃止されることになりましたが、それに伴いましてそれぞれの府県警察職員となった場合、あるいは地方公務員である警察職員国家公務員たる警察職員となりました場合には、現実の問題といたしまして相当俸給が下る場合がございますので、現行法のままでございますと、恩給の上で不利益を生ずることになっておるわけでありますので、それを改めまして、このような者につきまして、身分切りかえ前に退職したならば受けるべきであった恩給と、身分切りかえ後に退職した場合の恩給と比べて、多い方の恩給を給することができるようにいたしました。  第四の点は、やはり警察関係でございますが、昨年の警察法改正によりまして、それまで自治体警察吏員であった者が新警察制度のもとにおける警察職員となった場合には、自治体警察職員であった期間をも含めまして恩給法が準用されることに規定されておるわけでありますが、その前の昭和二十三年三月以前の、県に警察部があった時代でございますが、その時代吏員期間恩給年限に通算されないことになっております。これは該当者に対しまして非常に不利益をもたらすことになりますので、これを改めまして、二十三年以前に警視庁あるいは道府県警察部勤務していた吏員が引き続きまして自治体警察職員となり、さらに昨年七月に引き続いて新警察職員となりました場合には、全勤務期間を通算いたしまして恩給を給することに改めました。  このたび提案いたしました恩給法改正案は以上四点でございます。  なお詳細は御質問によりましてお答え申し上げたいと思います。
  15. 高岡大輔

    高岡委員長 この際通告順により質問許します。山下春江
  16. 山下春江

    山下(春)委員 私は援護局長に基本的なお考え方についてお尋ねをいたしたいと思うのであります。  援護局の前身は援護庁でございまして、日本の官庁として、大東亜戦争終了後の非常事態を収拾するためにできました全く新たなる役所であります。従いまして、この役所は、旧来あります恩給法とかいろいろな法律に拘泥することなく、われわれが日本国民としてかくなさねばならないということの全般を処理される役所と心得ております。しかもまた、戦後の非常な大混乱の中でこの援護庁が果して参りました業績というものは、実に驚くに値し、感謝に値する仕事を残してきたと思うのでありますが、もはや戦争終了後十年をけみしました。従いまして、明昭和三十一年は十一年になります。人間の感情というものは、十年一昔と申しまして、十年前のことにさかのぼってということは、国が多少の余力を持てば別でありますけれども、今日のような本態におきましては、忘れるともなく、思い出したくない問題はそのまま消されてしまう。それがわれわれこの聖代に政治に携わらしてもらっておる者としては耐えられないことであります。従いまして、今回の二つ改正点につきましても、はなはだ不満でございます。同時にまた、われわれが今日まで常に本委員会におきまして主張いたしました多くの点――それは、義勇隊のようなものもありましょう。開拓団のようなものもありましょう。あるいは船に乗ってC船員同等仕事をやりながら、登録の手続ができなかったためにC船員扱いを受けなかった船員もあります。あるいは入営直前敵弾に倒れた者もあります。あるいは報道班員として実際に有給報道班員と全く同等の任務についておりながら、無給であったということのゆえに援護の手が差し伸べられない者もあります。その他数え上げれば、大東亜戦争のために国に殉じましたにもかかわらず、何ら国の補償の手が差し伸べられておらない者がたくさんあります。非常に強い団体等をもって国に迫った者は何とか手を打たれ、黙って泣いておる者はそのまま消されてしまうということは、援護庁、今の援護局という役所の性格上、これははなはだ遺憾にたえない点でございます。国会におきましては、これらの声なき人々のためにも、国の財政の許す最大の力を出しまして、これらにこたえるべきであると考えます。そこで、まず基本的な、援護局はどうあるべきかということについての援護局長の御高見を承わっておきたいと思います。
  17. 田辺繁雄

    田辺政府委員 引揚援護局根本の使命と申しますか、そういうことに触れたお尋ねのようでございますが、引揚援護局の所管しております仕事は、規定にも明らかでございます通り引揚問題の処理と申しますか、それが第一でございます。終戦後十年になります今日、まだこういう問題が解決しないということは、ただいま御質問のありましたごとく遺憾なことでありまして、できるだけ早く処理したいということを第一番に私も考えて努力をいたしております。ことに未帰遠者の家族等は、遺族の問題と違いまして、ただいまお話のありました通り、その声は最も弱いところで、とかく沈みがちであります。われわれが積極的にこの問題を推進しない限り、とかく声としても沈みがちな傾向にあり、また問題としても非常に複雑でございますので、まず第一にこの問題に力を注いでいるような状態でございます。  次には戦没者戦傷病者処遇の問題でございますが、これは、御承知通り講和独立を間近に控えた昭和二十六年の後半期ごろから政府部内においてもやかましくなってきた問題でございます。この問題は、根本的にはいわゆる軍人恩給の復活という形式においてやるべきであるか、社会保障制度ないしは社会保障制度的感覚のもとに厚生省においてやるべきであるかということは、御承知通りいろいろ議論のあったところでございます。しかし、軍人恩給講和独立とともに復活するということにつきましては、財政上も問題があり、また制度的にもいろいろ検討を要する問題があるということで、急にはできないので、これは特別に審議会を作ってそこで十分検討する、しかし、そうかといって、その結論を待った上で手を差し伸べるということではおそきに失するので、とりあえず厚生省の方で援護という形で何らかの処遇をするようにということが政府の方針でありましたので、それに基きまして、この戦傷病者戦没者遺族等援護法を立案したような次第であります。その後、軍人恩給が復活いたしまして、軍人に関する分は恩給局に移ったのでございますが、現在、お話通り軍人軍属以外の方々に対しましては、いわゆる年金としての国の援護の手は及んでいないのでございますが、弔慰金という形において国から援護の手を差し伸べているような状態でございます。その理由につきましては、私ども十分慎重に検討をいたしておりまして、声が弱いからしないのであるということはいたしておりません。それにはそれなりの主張と根拠を持っております。われわれ、こういった方々実情については、それだけに詳細に関係者の御意見も十分伺い、実情も調べ、こまかく検討をいたしております。また、最初にその援護法を制定しまするときに、戦争犠牲者に対して社会保障的なやり方をもって広くやるかどうかという点につきましては、大いに議論のあったところでございます。いろいろ研究いたしました結果、簡単に申しますと、軍人に関しては戦争前には恩給という制度がありました。これはちゃんと法律によって、いわゆる既得権としてすでに確保されておったものでございます。これが占領軍の政策によりましてストップされたわけであります。これを何らかの形において復活することは当然ではないか。しからば軍人恩給に限定してしまうかどうかということにつきましては、われわれもいろいろ検討いたしましたが、いろいろの均衡を考えまして、戦争前にすでに制度として存在しておったもの、あるいは制度として当然確立すべきであったもの、また確立すべく努力中であったものがございます。たとえば戦地における軍属のごときものは――内地における軍属につきましてはすでに当時陸海軍共済組合という形において実施しておったのでございます。戦地における軍属につきましては、それよりも先にやるべきものが、共済組合という形をかりてやることは不可能であり、特別の立法措置を要するために遅れておった。従って、当時におきましては、立案しつつ、防空壕を出たり入ったりしながら、いろいろ研究し、立案にいろいろ努力しておったことが事実としてはっきりいたしております。こういった点から、まず戦地における有給軍属をこしらえたのであります。船員につきましては、当時、政府からの要請によりまして、船員保険法という形をかりまして、国家が全額金を支出いたしまして、戦時災害による死没者に対しましては年金を差し上げておったわけであります。これは船員保険法をべース・アップすれば事足りるわけでありますが、他にいろいろ波及する関係もありましたので、一般のその他の船員との均衡もありましたので、この法律によって処遇するということにきめたわけであります。また、戦地における有給軍属共済組合というような形をかりて今日実施することも一つの方法かと思いますが、その点も、研究の結果、こういった援護法の中に入れるということになったわけであります。従って、われわれの考え方といたしましては、もちろんこれは国家財政との関係もございますが、戦争中社全通念上一時金等によって処理されておったもの、当時これで済んでおったものについては、この際弔慰金というものでがまんをしてもらう、しかし、当時すでに年金というものを差し上げるということになっており、また当然なっておった方につきましてはこれを復活しようじゃないかというところに一線を画しまして、今日やっておるわけであります。決して声が弱いからその人たちに対してなおざりにするという考えでは毛頭ないのであります。また実際問題といたしましても、弔慰金という場合と年金という場合とでは、いろいろ事実を確認する場合における程度において差が出てくるのは当然でございますが、事務的に申しましても、死没者の身分並びに死亡の原因に関して公的の権威のある資料がない場合におきまして年金というものを支給するということについては、事務的にも相当慎重を要する問題である、事務当局といたしましても慎重に考えなければならぬ、これは副次的な問題でございますが、こういうことも考えておる次第であります。  以上私の気持を申し上げまして、御了解を得たいと思う次第であります。
  18. 山下春江

    山下(春)委員 援護局長のお考え方及び本日までの御苦労に対しては私どもも非常に感謝をいたしております。今お言葉の中に、引き揚げ問題を最も重点的に扱うということでございました。それでけっこうだと思うのでありますが、そこで、本日お示しになりました援護法改正の中で、未帰還者留守家族等援護法の一部を改正するということで多少の金額が引き上げられておりますが、これは私ども議員としてはあまりに過少で了承いたしかねる金額でございますが、これは後ほどまた議するといたしまして、ここに私はぜひともお考えを願って御実行を願いたいと思うことがございます。それは、過般引き揚げて参られました、長い間外地で御苦労なされた方々は、年令の関係、あるいは手に職がなかったり、いろいろな御事情もあろうかと存じまするけれども、この前に援護局からお示しになった就職率というのは、よく調べてみますると、日雇い労働者等もその数に入っておったか、七割以上という時代がございましたが、過般私労働省でその数字を明らかに出してもらいましたところが、五割七分くらいなところが一番いい率のようでございます。これについては、職をあっせんしなかったのじゃないかという印象は持っておりません。それはいろいろな事情でなかなか容易でないと思うのでありますが、帰られました方々が急に職につくということは諸般の情勢上非常に困難だと思うのでありまして、帰りまして帰還手当その他のものもございますけれども、実際上は非常に困ると思うのであります。そこで、留守家族援護の費用を、帰還後最小限度九十日くらいはやるべきだと思う。いきなりあれを打ち切ってしまいますことは、あちらこちら飛び回って自分が職を見つけることにも事欠くであろうと思いますので、私は多くを望みたいのでありますが、最小限度九十日くらいはこれを延長してやるべきだと思うのでありますが、局長はどういうふうにお考えですか。
  19. 田辺繁雄

    田辺政府委員 ごもっともな御質問だと思います。この点につきましては、この法案制定の当初におきましてもそういう御意見があったのでございますが、政府内におきましては、一方帰還手当を差し上げるといった趣旨はそういった意味合いからであるということで、その点は当時取り上げられなかったわけであります。御承知通り、二十八年度帰られた方の就職の状態と、最近帰ってこられる方の就職の状態を調べますと、当時より非常に今日困難になっておることは、御指摘の通り数字も出ておりますので、この問題は今回の改正案では取り上げるまでに行かなかったのでありますが、今後ソ連の引揚者等を迎えますわれわれの心構えといたしましては、御指摘のありました点も十分考慮し、検討を加えたいと思っております。
  20. 眞崎勝次

    眞崎委員 関連して。山下委員より根本観念について御質問になりまして、私も非常に同感でございますが、二、三、私が特に体験しておるところから申し上げて、当局の反省と、そのお考えを伺いたいと思います。  大体、取り扱い上、昔はこれは陸海軍省で扱っておったものですから、実情に即し、どっちかというと理解ある取扱いをしておりましたから、適当に行われておったと思います。ところが、今度の戦争で、一つは戦争を憎むの余り、坊主憎けりゃけさまで憎いというかっこうで、軍人を虐待し、それに関連しておる者をなるべく虐待しよういう観念が一般にあったために、解釈が片寄って、不利に解釈されている感じを私どもに与えております。それから、実態をよく理解しておられたいために解釈が不行き届きと私は思います。たとえば、今の公務という解釈でも、だいぶ実態に沿う、言いかえれば好意的な解釈のようになっておりますが、大体、召集を受けて海外に出ます者は、向うでどういうことに原因するか知りませんけれども、それは別といたしまして、もうすでに命令によって本国を出て行くということが公務でありまして、すべて出先においての原因は、もうあまりせんさくせぬでも、根本原因というものが公務に因しているということをお考えいただきたいと思うのであります。たとえば、私たちの体験でも、兵を召集しまして、それを兵営に入れますと、規律正しい生活をするだけでも病気をする者が非常にふえます。海軍などにおきましては、直ちに船に乗せて訓練すると能率が上るのでありますけれども、生活の急変のために非常に病人が出ます。そういう点が、実際自分が体験しておりますと、いわゆる公務解釈ということがはっきり実態に適するように判断ができますけれども、自分が体験がないと、どうしてもそこの思いやりがなくて空論に走りやすいのでありますから、それらの点もよく考えていただいて、今山下委員の御質問もありましたが、すべてが根本の観念においてよく理解ができてない、それから、今言ったように間違った観念でもってこれに対処しておったことが災いしておる点があるかと思いますから、根本観念において今のような点をくんで処置していただきたいと思います。御意見を伺いたいと思います。
  21. 田辺繁雄

    田辺政府委員 われわれの根本観念が間違っているから待遇が悪いというような御発言ではなかったかと思いますが、御承知通り、この仕事をやっておりますのは、厚生省ではありましても引揚援護局でございます。引揚援護局は御存じの通り陸海軍の残務処理機関の統合されたものが大部分を占めております。実際の処理に当っておりますのは、旧陸軍系統で申しますと、旧陸軍の本部、それから各連隊区の後身であり出す各世話課でございます。それから、海軍関係におきましては、旧鎮守府のあとを受けております地方復員局、それから中央におきましては昔の海軍省の人事系統、経理系統をやっておられた方が中心となってやっておられるのであります。もちろん現在やっている方々が全部かつてこういう恩給関係の仕事をやっておったとは限りませんけれども、そういう人事系統をやっておった方が多いわけであります。従って、実際の制度を作る場合におきましても、また取扱いにおきましても、恩給局の過去における実例を詳細に調べ、また部内における従来の取扱いを、十分参酌してやっております。われわれは、むしろ、大東亜戦争の特殊性を考えまして、公務というものの認定につきましては実情に即するように取り計らっておるつもりでございます。そのことは、現実に、その裁定の結果いかに戦地における傷病について却下したものが少いかということに現われておりますが、ただ、戦地に行った者は全部公務ということは、従来の恩給法でもそういう建前はとっておらないのであります。戦地だからいい、内地だからいけないということはとっておらないのであります。個々のケースによって判断するという建前をとっておりまして、これは恩給法解釈でございますが、過去の恩給法裁定よりは、よほど私は実情に即するようになっていると思うのであります。これは、過去の例を見ましても、かえって過去における恩給裁定の方が幾らかかたかった面があるのではないか。それは過去の例でございますので、大東亜戦争の場合と比較にすべきでない、こういう考えから、そういうふうにいたしております。しかしながら、ただいま御質問のありました点等を考えまして、この戦争の特殊性というものを考えました場合に、公務であることがはっきり認定できるものだけについて公務としての裁定をするということは、もう一ぺん考え直す必要があるのではないか、少くとも戦地におけるいろいろな混乱した事情を考えた場合に、戦地における勤務に関連する傷病というものは、公務でないことが明らかである、だれが考えても明らかである、医学的常識から判断して明らかであるという場合は別といたしまして、それ以外のものは公務とみなして行こうじゃないか、こういうことが今回の改正案内容で、あるということは、先ほど申し上げた通りであります。在隊中いやしくも傷病にかかった者は全部公務であるという考えは、恩給局でもとっておらないのであります。むしろその点についてかたい取扱いをしておったのが従来の恩給の取扱いではなかったかと思っております。
  22. 堀内一雄

    堀内委員 ただいまの山下委員の一般戦争犠牲者の処置に対する発言は、私まことにけっこうだと思うのでございますが、それに関連して、まず精神的取扱いにおいてどういうふうになっているかということをお伺いしたいのであります。靖国神社に祭られるということは、当時の軍人の精神的な最も大なる名誉でもあったのでございます。このことは、明治初年に天皇の御意思によってでき、政府制度として私は祭られておったと思いますが、終戦後憲法改正その他によって、靖国神社が単なる宗教法人となりました今日、靖国神社に英霊を合祀するということは、国家の制度として行なっているのか、さもなければどういう形式においてこれが合祀されておるのでありますか、それを伺いたい。
  23. 田辺繁雄

    田辺政府委員 現在の憲法のもとにおきましては、国家の制度として合祀されておるのではないと考えております。
  24. 堀内一雄

    堀内委員 どういう形式において合祀されているのでございますか。現在も合祀をやっているのでありますが、あれは単なる靖国神社の、何と申しますか、一つの事業としてやっているのでございますか。その辺のところを伺いたい。
  25. 田辺繁雄

    田辺政府委員 靖国神社は宗教法人でございまして、従って私の方の所管でございませんけれども、私ども今まで伺っているところでは、御発言の通り、靖国神社の事業という言葉が当るかどうか別でございますが、そういった靖国神社の仕事として合祀されている、こういうふうに了解いたします。
  26. 堀内一雄

    堀内委員 そこで、先ほど山下委員からの御質疑の一般戦争犠牲者でございます。一般戦争犠牲者は、現在は靖国神社に合祀されることにはなっていないのでございますか。
  27. 田辺繁雄

    田辺政府委員 詳細は存じないのでございますが、靖国神社は国家に功労のあった死亡者、戦死者等を合祀するということになっております。従って、軍人でなくても、戦争に際し功労のあった死没者というものにつきましては、合祀の手続をとっているように伺っております。
  28. 堀内一雄

    堀内委員 それでは、今の報道員であるとか船員であるとかいうような人で、いわゆる恩給法なり、また恩給法には適用にはならないが扶助料には適用になるというような人は、現在は合祀されておらないのですか。
  29. 田辺繁雄

    田辺政府委員 私、詳細に存じませんので、あとで調べまして、適当な機会にお答えいたしたいと思います。
  30. 眞崎勝次

    眞崎委員 今の局長の説明説明せんがための説明で、私のほんとうに心配している点をよく理解しておられないと思いますから繰り返しますが、今から二十年くらい前、海軍では航海加俸といって航海をすると加俸がついた。ところが、一番苦しむ小さい艦艇というものは割合にその率が上っていなかった。それで、それを改正するために大蔵省の役人を駆逐艦に乗せてあげたことがある。そうすると、一ぺんにこの苦労がわかって、その率がすぐ上ったことがある。あなたは法律をたてにとって説明をされるけれども、ほんとうに苦労した者の実況と環境を御存じないから、説明を非常に上すべりしているようなきらいがあるんです。再び意見を申し上げて反省を願いたいと考える次第です。
  31. 田辺繁雄

    田辺政府委員 問題は、公務の認定が現在の法規の許す範囲内におきましてかた過ぎるのではないか、結局こういう御質問になると思うのでありますが、これは、個々の取扱いの実情をお調べ下されば、われわれの方の態度がよくおわかりになると思いますので、くどくは申し上げませんが、現在の法律範囲内でということを申し上げたのでございますが、現在の法律範囲内で取り扱う場合におきましては限度がございます。何と申しましても、法律の筋範囲内で扱う場合におきましては、法規の命ずるところによってやらざるを得ないのでございますが、その際どうも実情に沿わない点があるというふうに考えましたので、今回法律案改正を提案したような次第であります。
  32. 眞崎勝次

    眞崎委員 法律範囲内はもちろんだけれども、たとえば援護審査会というものを作るにも、現行法律だけではかわいそうな者ができるから、その審議にかけて実情に沿うように取り扱いをするようにできておるのですから、あたな方にそれだけの理解がありますと、さらに心理も拡大し得ると私は考えます。
  33. 田辺繁雄

    田辺政府委員 現行法でも審査会はございます。しかし審査会は現行法範囲内において運営されるものでございまして、これはかつての陸軍、海軍の関係の方も全部入って御審議いただいておるわけでございます。しかし、なかなか御議論は緻密でございまして、大ざっぱではございません。やはり法律というものを作ってその建前をはっきりいたしませんと、こうしたいなと思っても、合議制でございまするので、なかなかわれわれの思うようにはいかないのが実情でございます。
  34. 眞崎勝次

    眞崎委員 今のはどうも答弁が食い違っているんです。そういう立法をするにも、今の法律では無理な点があるから、こういうふうにせにゃならぬという理解があればそれでいいわけです。援護審査会ができたのも、だんだんに実相がわかったからできたんだから、そういう点をもう一そう、現在は法の範囲じゃできぬから、この法では無理があるからこういうふうにしなければならぬという考えを持ってよいと私は考えるのです。
  35. 田辺繁雄

    田辺政府委員 その通りでございます。その意味でこういう法律案を提案いたした次第でございます。
  36. 山下春江

    山下(春)委員 先ほど援護局長の御答弁は私と同意見のようでございました。そこで、法律改正いたしませんと、このままでおきましたのでは、やはり打ち切られることになっております。未帰還者留守家族等援護法の十一条の一項に、未帰還者が帰還したときに終ることになっておりますので、これを変えなければなりませんが、法律改正は、とかく予算を伴うものは好ましくないことは私も同感でございますが、未帰還者の場合、予定通り帰還いたさなかったとなると、予算はとってあるはずでございますから、従いまして、最低三カ月支給することは予算に関係がないと思いますが、いかがでございますか。
  37. 田辺繁雄

    田辺政府委員 先ほど申し上げましたのは、御趣旨ごもっともでございますので、十分検討を申し上げたいと答弁申し上げた次第でございますが、ただいま予算に関連しての御質問でございますが、実は、年度内に帰還する者何人、死亡処刑する者何人ということで予算は計上してございます。お話帰還した場合だけを御指摘になっておりますが、同様の事情は死亡処理とされた場合においても同様に考えなければならぬと思います。現在の予算の範囲内でやれるかどうかという点につきましては、もう少し、帰還の状況――帰還者が何人あるか、死亡処理が何人あるか、予定通りあった場合はどうなるか、予定通りあった場合には不足を生ずることは当然でございますが、予定通り行われなかった場合においてはどうかというように分けて考えなければいかぬと思います。現在のところでは、一応これだけの帰還者があって、これだけの死亡処理があるということになっておりますので、それを前提といたしますと、予算の経理上相当苦しいのではないかと考えております。
  38. 山下春江

    山下(春)委員 死亡処理もむろん入れて計算が立ててあることは了承するのでありますが、昨年の下半期、要するに七月一日ごろからただいまごろまでに死亡処理を、大体の数字でよろしゅうございますが、どのくらいなさいましたか。
  39. 田辺繁雄

    田辺政府委員 大まかな数字でございますが、一年間に約六千五百の死亡処理をいたしております。ちょっと一年足らずでございますが、本年の二月末で一年間に処理いたしました数字が六千五百と相なっております。
  40. 山下春江

    山下(春)委員 その死亡処理が始まりましたのは、この未帰還者留守家族等援護法制定後に始まったはずでありますが、前からおやりになっていたのですか。
  41. 田辺繁雄

    田辺政府委員 死亡処理はずっと以前からいたしております。今申し上げましたのは、毎年々々死亡処理をいたして参るわけでありますが、去年の四月一日から始まりまして本年の二月二十八日までに死亡処理された数が六千五百名となっております。
  42. 山下春江

    山下(春)委員 非常にたくさんの死亡者があったのでありますから、これは以前からおやりになっていたと思います。調査究明も国の責任において行うのですし、この法律の中にその予算が組んであることもわかるのでありますけれども、そういたしますと、昨年度大体大まかに五千人ぐらいの死亡処理をなさったとすると、その費用は、今年引き揚げられるであろう数字の見込みとを合せますと、現在の予算では帰還者に対して百日の留守家族手当をそのまま支給する費用は出ない、こういうふうにお考えでございますか。
  43. 田辺繁雄

    田辺政府委員 数字的に申しますると、ちょっと捻出は困難だと思っております。
  44. 山下春江

    山下(春)委員 困難では困るのでありますが、そうすると、今年何人の引揚者を御予定なさっておりますか。
  45. 田辺繁雄

    田辺政府委員 帰還者の数は三千人と見込んでおります。
  46. 山下春江

    山下(春)委員 三千人今年引き揚げが完了することは国民の悲願でございまして、大へんけっこうなことでございますが、明年は当然この法律改正されれば予算に組まれることでございますから、私が局長にお願いすることは、今年度の処置が何とかつかないかということでございまして、援護局は三千人を予定しておる、われわれ国民もまた三千人帰還されることを熱願いたしておるものでありますけれども、それは必ず今会計年度内に三千人お引き揚げになるということの確約はだれもできないと思います。従って、われわれは、今後帰還する者に対しては今国会におきまして三カ月を支給するということに修正をいたしたいと思うのであります。本委員会は全くの超党派で、しかも人道上の問題を扱っております関係上、各委員におかれましても、むろん一人の御異論もなく御同意だと考えまするが、修正されました場合に、援護局の方でそういう修正が出されてもまかない切れないということでは困りますので、もしそういうことになれば何とか都合するということの見込みを最後にここで明らかにしておいていただきたい。
  47. 田辺繁雄

    田辺政府委員 なかなかデリケートな御質問でございますので、よく研究させていただきたいと思います。
  48. 山下春江

    山下(春)委員 われわれの方は確実にそういうことに進むでございましょうから、すみやかに実行可能なような御研究を賜わりたいと思うのであります。  それから、今関連質問でいろいろお聞きただしがございましたので、重ねて申し上げる事項もないようでございますが、援護局の性格といたしまして、先ほど承わりましたような観点から考えますと、私は必ずしもこの年金制度を強要するものではございませんけれども、とにかく、国家補償という点から、たとい一時金になりましても、いわゆる国家の意志によって人命をなくした者全体に、この際私は国家としてその処遇を与えるべきであると思う。先ほども申しましたように、これは何年かたって日本が非常に経済的に発展いたしましてからやるということも考えられましょうけれども、人間というものは、十年たてば、大体十年一昔というようなことで、何か片づいた気持にたるものでございまして、私どもは、この処遇を何とか決定いたすために、国会の会期が延長されようと何であろうと、今国会においてこれらの戦争の犠牲者に対する跡始末を一まずわれわれ国民的良心によって全部行いたい、こういうふうに考えておりますので、その点について、援護局が今日までお扱いになりましたいろいろなケース、私の方でもそのケースを列挙いたしますれば非常な材料を持っておりますが、そういうことに対して、われわれが要求するところに基いて、援護局としてはあとう限り――もし既存の法律が不都合でございましたら、われわれはその法律改正いたしましてでもぜひそういったような処遇を今国会においてなし遂げたいと考えておりますが、援護局長としては、既存の法律に拘泥することなく、今後のそういったような国会考え方に対応するための心がまえだけを聞かしておいていただきたいと思います。
  49. 田辺繁雄

    田辺政府委員 現在、援護法の第三十四条の何項でございましたか、弔慰金を差し上げる対象を列挙しておりますが、この運用につきましても、私の方はできるだけ弾力性を持たせまして解釈をいたしております。ただし、それには限度がございまして、どうしても及ばないということがございますが、それらの点につきましては、やはり新しい立法をするほかはないと思います。しかし、いかなる人に弔慰金を差し上げるかという問題は、これは理屈ではなかなかきめがたい問題でございますが、いろいろ各方面の御要望、また当時の実情をよく検討いたしまして、実情に即するように取り扱っていかなければならぬものだと考えております。
  50. 山下春江

    山下(春)委員 そういうお心がまえで大へんけっこうでございますから、国会とこれを扱う事務当局の援護局とが、国会役所という気持にならないで、援護局とこの特別委員会とが一体になりまして、これらの問題を研究いたしまして、うらみを残さないように処置をいたしたいと思いますから、どうぞよろしくお願いいたします。
  51. 高岡大輔

    高岡委員長 楯兼次郎君。
  52. 楯兼次郎

    ○楯委員 前の委員の方から御質問がありましたので、重複を避けまして、私は簡潔に三点ばかりお伺いしたいと思います。  戦場に行かれた方たちに全部適用せよということは、これは各委員の年来の主張であるのでありまして、最初委員も強く主張されたのでありますが、公務死範囲拡大という要請がきわめて多い。今度の改正でどの点を拡大されたか、この点を一つお聞きしたい。
  53. 田辺繁雄

    田辺政府委員 お手元に法律案の要綱がお配りしてあると存じますが、要綱の第二に「昭和十六年十二月八日以後戦地において負傷し、又は疾病にかかった場合において、公務以外の事由により負傷し、又は疾病にかかったことが明らかでないときは、援護審査会議決により、公務上負傷し、又は疾病にかかったものとみなして、」云々と書いてございます。この法文は、具体的にどの場合がよくてどの場合が悪いかということを一々法文で書ける筋合いのものではありませんし、また書くべき筋合いでもありません。建前の趣旨を変えたということでございます。従来は公務による負傷または疾病であることが明らかに立証された場合において公務と認定するというのが恩給法根本の原則であります。援護法もそれを受けておるわけでございます。しかし、私が一等最初に申し上げました通り、大東亜戦争、ことに後半期における戦地の混乱等の事情、すなわち大東亜戦争の特殊性を考えました場合におきまして、明らかに認定することについて困難を感ずるものは相当あるわけであります。つまり、率直に申しまして、資料が十分でないということでございます。その資料を遺族の方に要求することは酷なことではないか、また戦地における受傷、罹病というものは、公務性相当濃厚であると言って差しつかえないと思います。現に、今日まで裁定いたしております実績をごらんいただきますと、ほとんど大部分が公務として裁定されております。そういったことを考えまして、明らかに客観的にまた医学的常識によって公務でないと考えられるもの以外は、公務として考えていこう、しかしその点はいろいろデリケートな問題もあろうから、役所だけの判断にまかせずに、援護審査会の専門家の集まっているところにおきまして、各方面のお考えをまとめまして、慎重に判断しよう、こういうことでございます。
  54. 楯兼次郎

    ○楯委員 重複はいたしませんけれども、非常に抽象的な御説明でありますから、やはりこれは予算の範囲内で予算に縛られて適用される、そういう形になるようにわれわれには受け取れるのですが、どうですか。
  55. 田辺繁雄

    田辺政府委員 私どもは、その点はあまり心配いたしておりません。膨大な恩給の経費の中からとってみますと、この程度のものはそう多い金額ではないと考えております。
  56. 楯兼次郎

    ○楯委員 この点につきましては、できるだけ、拡大解釈といいますか、適用の方向に進んでいただくように、最後に援護局長にお願いいたしておきます。  それから、戸籍上の関係で適用のない方が非常に多い、こういうことを私ども聞いておるわけでありますが、簡潔でよろしいのでありますから、一つ戸籍上の不備から適用にならなかったのを今度の改正で適用になるという点を簡単に御説明願いたいと思います。
  57. 田辺繁雄

    田辺政府委員 簡潔に申しますと、今度の改正で戸籍関係で従来だめであったものがよくなるということはございません。と申しますのは、恩給法援護法では違っております。援護法は死没当時同一戸籍内にあったということを条件にいたしておりませんから、戸籍云々という問題は生じません。恩給法上では、死没当時同一戸籍内にあったことが条件であり、また死没後その戸籍から離脱した場合においては失権するということになっております。この点は、援護法恩給法と違いまして、終戦後新憲法下に新しく立法されたものでございますので、戸籍は要件といたしておりません。従って、援護法では現在でも戸籍を問題とせずに支給いたしておるわけでございます。ただ、先ほど申し上げましたように、終戦後恩給がストップになったあとで他人の養子になったために失権している者はこの際救おう、こういう特別の立法をいたしておりますが、これは戸籍とは直接関係のない問題でごいます。
  58. 中山マサ

    中山(マ)委員 ちょっと関連して伺います。その戸籍法のことでございますが、たとえば、同じ戸籍内にございまして、非常に大きな戸籍になっておるのでございますが、三男か四男の家に、いわゆるめいをもらって、そこに養女とした。とこうが、恩給法の第七十四条の三項かと記憶しておりますが、それには与えないということがございましたが、これは改正されておるでございましょうか。恩給法によりますと、戸籍面のいろいろな隘路を是正するということが出ておったようでありますが、私はこの間これを扱いましたときにはそう言って断わられたのであります。これは、どうなっておりましょうか。
  59. 畠山一郎

    畠山説明員 恩給法はずっと昔から沿革的に続いてきているのでございまして、新しく恩給を給するということにいたします場合でも、やはりその恩給の建前の上に積み重なるものでございます。従いまして、それぞれの事態の発生した時代の親属関係を律する法律、すなわち民法が主でございます。その民法の当時適用を受けました恩給法規定によって律せられることになっておりますし、またそれが法律上当然の建前であろうと考えております。新民法ができましたときも、その附則の第四項におきまして、やはり旧民法時代の現象は原則として旧民法時代に律せられたままにしておくということが建前になっております。やはり継続して身分関係を問題にいたします場合には、そういった措置をとるのが妥当であろうと考えまして、現在のところ恩給法では改正措置を講じておりません。また、援護法におきましては戸籍を問題にされておりませんが、援護法はいわば全然新しくできました法律でありますために、恩給と違った点があるのではないかと思われますことと、もう一つは、援護法では関係の遺族がそれぞれ別個に権利者になっておりますが、恩給におきましては先順位者が権利者であります。後順位者は資格者にすぎない、現実には恩給を支給されることがないというような状態になっております。従いまして、今新しくかりに旧民法時代の事象を全部新民法によって見直すといたしますと、遺族の順位が転倒したり、あるいは軍人のみならず他の文官その他にも全部影響して参りますので、いわば法的安定を害することになりはしないか、そう考えまして、一般的には戸籍関係におきましては恩給法においては措置すベきではないと考えております。  ただ、いろいろ個々の問題につきまして考えます場合には、かりに旧民法時代を考えましても、解釈あるいは運用において、実情に即しない場合があるのではないか、そう考えまして、解釈によって従前の取扱いを変更したところはございます。たとえば、出征軍人の父母が軍人を伴って分家したところが、その後戦死の公報が来て、分家前に戦死が判明した場合、これは従前通り明治時代以後ずっとでございますが、従前から、公務員死亡後その遺族がその家を去ったということで扶助料を受ける権利または資格を失うことになっております。これは大審院の判例におきましてもその見解をとっております。しかし、これをよく考えてみますと、公務員の父母が分家して、分家の父が戸主になるわけでございますが、その分家の戸主が家族を自分の分家に連れていく、いわゆる随伴入籍と申しておりましたが、随伴入籍させる場合には、その者が十五才以上の場合はその同意を要することになっております。出征軍人は言うまでもなく十五才以上でございますので、法律上は戦地から本人の同意を必要としたわけでございます。そのような場合には、昭和十五年だったと思いますが、そのころの戦争のいろいろな事情にかんがみまして、委託または郵便届出を要する法律がありまして、特別の措置を講ずることになっておりまして、従いまして、随伴入籍の同意につきましては、同様な措置をとられた戸籍は分家の届出をしたはずでございます。従いまして、この法律の、死亡の当時の届出効力が発生したものとして取り扱われている趣旨を推しますと、死亡当時の届出の効力を発生したものとするというその裏をひっくり返すと、届出までは生きていたものとみなすという解釈が出てくるわけでございます。従いまして、公務員は、今の例で申しますと、父母と随伴入籍をされた戦死軍人は、戦死のときまではやはり同じ家にいた、戦死したとたんに分家に行って、その分家でつまり父と母とその戦死軍人とが同じ家にいた、そのときに戦死した、死亡の瞬間にそういう事態が一緒に起ったということを考えることができるわけであります。この点は、実を申しますと、先ほど申しました大審院の判例に対して穗積博士が判例に対する反対的批評をされております。われわれ事務当局といたしましては、そういった問題についていろいろ工夫し研究しました結果、やはり、大審院の判例に従うよりも、今申しました穗積先生の見解、その他数名の学者の方も同じ見解をとっておられましたが、その見解に従った方が実情にも沿うであろうし、また関係者の意思にも合致するでありましょうし、また法律的にもやはり学者がそういう見解をとっておられます以上筋が通った考え方じゃないかと、こう考えまして、これは解釈の変更、取り扱いの変更ということになりますが、相当長い間の取り扱いをそういうように変更しました。最近でございますが、やはり各都道府県あるいは各省庁にそういう通知を出しております。  それから、御質問にはございませんでしたが、関連がございますので、ついでに説明させていただきたいと思いますが、戦死軍人の子供の出生届が遅れたという場合が相当ございます。特にわれわれよく聞いておりますのは、たとえば、昭和二十年初めころ、満州で子供が生まれた、ところがその父親は現地召集をされて問もなく戦死をした、子供の出生の届出を現地の領事館にしたところが、すぐああいうような終戦の混乱になりましたために、本籍地に届出が行かなかった、それで、その母親、つまり軍人の妻が内地引き揚げてから子供の出生届をした、従って、出生の届出は父親である軍人の死亡よりも相当あとになったという似たようなケースが相当ございます。これは旧恩給法でございますが、公務員の死亡当時同一戸籍内にあった者は遺族と認めることになっておりますが、これをやはり伝統的の恩給法解釈といたしまして、公務員の死亡当時現実に同じ戸籍に登録されていた者に限るというように読んでおりました。これに対しましてもやはり判例がございまして、実を申し上げますと、恩給局の側と申しますか、政府の側は負けております。それはおかしいのであって、同一戸籍内にありたる者というのは、同一戸籍内に現実に登録された者を言うのではなくて、公務員の嫡出子のように当然に同一戸籍内にある者を含むべきであるというように読むべき判例であります。この理論の根底には、たとえば婚姻、養子縁組みのようにいわゆる創設的届出と異なりまして、嫡出子の出生の届出はいわゆる報告的届出でございますから、創設的届出と法的効果が全然異なるものである、生まれたという届出は単に発生した事実の役所に対する届出にすぎないのであって、これによって特別な法的効力を持たせるものではない、こういうのが一応学者の見解といいますか、民法と戸籍法関係をからみ合せた学説になっております。従いまして、嫡出の子について申し上げますと、今申し上げましたような判例、理論があるいは正しいのではないかという見解が出てくるわけであります。学者の間では意見が分れているようでございますけれども、学者の考え方もやはり大多数その方が正しいという見解をとっておられます。従いまして、この点につきましても、いろいろ考えてみますと、たまたま嫡出の子が生れたという届出が何らかの事情でおくれたにいたしましても、嫡出子ならば届出があれば当然に生れたときに嫡出の子として戸籍に入るわけでございますから、旧恩給法の第七十二条第一項の同一戸籍内にありたる者ということになるのではないかという見解もとれるわけであります。この点につきましても、事務務当局といたしましていろいろ研究いたしました結果、従前の恩給法解釈なり運用なりというものを改めまして、新しい措置をとることにいたしました。  そういうふうに、たとい旧民法時代といたしましても解釈のワク内で改め得ることは改めてきております。しかしながら、最初に申し上げましたように、家族制度時代、旧民法時代に起りました事象につきまして、しかも沿革的にずっと重み重なってきております恩給法におきまして、その秩序を全然ひっくり返すことは適当でないのじゃないかというふうに考えて、法律改正措置としては全然このたびは考えておりません。
  60. 中山マサ

    中山(マ)委員 私のお尋ねしておりますのは、同一戸籍の次男、三男の養女の場合ですが、これには与えないということは是正されていないとおっしゃるのでございますね。私はその長男の養女あるいは養子を言うのでなくて、次男、三男の養女には与えないということはやはりそのまま現存しておるのでありますか。私が取り扱いました事件は結局そういうことで恩給局にけられておるのでございますが、長男の養子ならば与える、しかし次男、三男の養子には与えない、父も戦死し、母も病死し、あとに養女一人残っておるのであります。それに与えないと言って恩給局はがんばっておるのでありますが、それはいかんともしがたいのでございますか。今度いろいろワクが広げられているということでありますが、これはどうも私ふに落ちないのでありますが、お尋ねしておきます。私のお尋ねしたこととちょっと違っているようでありますから、もう一度その点だけを簡単におっしゃって下さい。
  61. 畠山一郎

    畠山説明員 これは、旧恩給法規定によりまして、家督相続人たる地位にある者でないと遺族として取り扱わないということになっております。この点は変っておりません。
  62. 楯兼次郎

    ○楯委員 いろいろ長い説明を聞いたのですが、一体恩給法でなぜそれができないのか、その焦点を簡潔に言っていただきたいと思います。それから、恩給法に、戦死者に限ってという附則の特例を設けることはできないのか。その二点を簡潔に答弁してもらいたい。
  63. 畠山一郎

    畠山説明員 御意見いろいろございますが、やはり従前からずっと積み重なっております恩給法でございますので、御意見のようなことは相当困難ではないかと思います。なお研究いたしたいと思いますが、新しくできた法律ではございませんために、恩給法の上に乗っけるということになると相当むずかしいのではないかと考えております。
  64. 楯兼次郎

    ○楯委員 そのむずかしいという対象は何かと言うのです。附則で特例を設ければ私はできると思うのだが、何の支障によってそれができないか。それは困難であるというのなら、何か対象があるはずだから、その対象をここに一つ発表してもらいたい。
  65. 逢澤寛

    ○逢澤委員 ただいまの楯委員質問に関連してでありますが、ただいま恩給局の方からお話があった。戸籍上のことは、今のお答えは、一部は修正したが、他の部分は修正しない方がいいのだ、こういう結論のお答えだったと思う。そこが問題になるのです。われわれが一番苦しんでいること、また全国八百万の遺族の一番苦しんでいることはそこなんです。同じ国家の至上命令によって応召して、人間というものは戸籍上だけのものではない。役所がやっているのは戸籍をもとにして国家のために戦死した者を処遇している。そこに大きな問題が出てくる。昔というとおかしいが、あるときには、実際自分の子であったものを自分の子とせずに、おじいさんの子や、おじさんの子にしている例がたくさんある。しかしながら、実際は子と親というものは現実にはっきりしている。戸籍というものを重要視しなかったときにはそういうふうにした例がたくさんあるのです。そこで、そういうような者の救済措置ができない。これは、あなた方役人を責めるのも私ども無理なところがあるので、立法措置によって常識上親の場合は親として処理するという方法を考えてやらねばいかぬと思うが、こういうようなことをあなた方は考えたことがあるかどうか、お聞きしておきたいと思います。
  66. 田辺繁雄

    田辺政府委員 今逢澤さんの御質問になった問題は、先ほどの問題とは全く違う問題だと思うのであります。自分の子供を自分でない人の子供として戸籍上つけてしまった場合におきましては、戸籍上においては自分の子であるということは証明できないわけであります。だれの子であるということは役人が勝手に認定することはできない。これは裁判で認定するよりほか方法がない。これは財産関係にも重大な影響があるわけであって、勝手にだれの子であるということは行政官庁では認定できない。最初に御質問になった問題は、自分の子であることははっきりしているけれども、たまたま戦死したときに同一戸籍内になかった、死んだときには同一戸籍内であったが、死んだ後にその戸籍から離脱したという問題だと思います。前段の問題につきましては、これはなかなかむずかしい問題でありまして、戦争当時は、たとえば私生子の認知につきましても、一定の猶予期間を設けまして、裁判でそれを戦死者の子であるということを認定する方法がございました。これは裁判の系統において処理されるのが一番妥当な方法ではないかと私は思っております。この点については研究したことはありますが、ただ、自分の子供であるはずだ、みんな認めているということをその本人ないし近親の方が立証したからといって、役所がそれを簡単に取り上げるということは困難ではないかと思います。最初に御質問になった問題は、それではなしに、自分の子供を拝見になってそれをはっきりと認知した場合、自分の子であることははっきりしておりながら、戸籍が同一でなかった、こういうことが問題になると思います。前段につきましては恩給法と同じであります。戸籍の問題は恩給法だけの問題であると思います。
  67. 楯兼次郎

    ○楯委員 私に対する答弁がないじゃないですか。答弁をして下さい。
  68. 畠山一郎

    畠山説明員 お答え申し上げます。恩給法におきまして、お話のように、旧民法時代に起った事象につきまして、旧民法を尊重と申しますか旧民法に従って身分関係、親族関係、遺族関係をきめている、それがなぜ直せないかという御質問に帰するのじゃないかと思いますが、その点につきましては、恩給法はずっと昔から続いておりまして、沿革的にいろいろあるものでございますので、軍人のみならず――軍人のみならずと申しますのは、これは文官をも含めまして、すべての恩給法上の公務員につきまして、ずっと同じように措置をしてきているわけでございます。旧民法時代につきましては、旧民法に合わせまして、父なり母なり、あるいは養親関係、戸籍関係、家の関係というものはすべて旧民法に合わせた規定になっておりますし、新民法になりました場合には、やはりそれに合わせたような規定になっております。従いまして、旧民法時代におきまして一たん解決したと申しますか安定した身分関係というものは、やはりそれを尊重していくのが筋ではなかろうかというのがわれわれの方の恩給局考え方でございます。恩給法の建前はそういうふうにできておりますし、一昨年いわゆる軍人恩給復活の法律と申しますか恩給法の一部改正ができたときにも、やはりそういう考え方に立って立法されており、立案されておるわけであります。全然新しい法律ならば新しく見直すこともできますが、軍人のみならず他のいろいろな公務員とともに同じような規律でずっと昔から経過をたどって参りましたために、それが非常にむずかしいのではないかというのが第一点でございます。  第二点といたしましては、そういうふうに全然新らしく遺族関係及び遺族の順位関係を見直すといたしますと、従前の順位が完全にひっくり返ってしまうということになるわけであります。新しく別に権利者ができて――それぞれ個々の関係者が同じ権利者としてそれぞれ分割して受ける場合ならば例の考え方もできるわけでありますけれども、順位がひっくり返ることになりますと、既得権の尊重という点から考えまして非常にむずかしいことになりますし、また、たとえば昭和十八年ごろ戦死しまして、十九年に、本来ならば先順位者である人が権利なしと棄却されて、次順位者が受けている、それが最近の法律によってまたその当時順位者であった人がずっともらっている、それを今になって順位を逆転させろということもやはり妥当ではないのじゃなかろうか、そういうふうなことを考えておる次第であります。
  69. 楯兼次郎

    ○楯委員 私は、この軍人恩給に関する限り、なるほど恩給法に一括して入っておりますが、それでは一体、停止をした場合、――これは占領軍の命令によってやったとはいいますが、そのときのあなたの考え方はどうですか。そういう特別な取扱い方を受けておるから、こういう場合にも私はそういう特例条文というものをうたっても差しつかえないのじゃないか、こういうふうに考えておるのですか、この関連はどうですか。あなたの御答弁だと、すでに軍人恩給を停止するということ自体がけしからぬことになりますが、過去にそういう実績を持っておるのですから、私はそういう特例でも差しつかえないのじゃないか、こういうふうに考えるのですが、この点どうですか。
  70. 畠山一郎

    畠山説明員 お尋ねをするようで恐縮でありますが、先生のお考えといたしましては、軍人恩給ストップ中に起った問題だけについてのお考えでありましょうか。それとも、昭和の初めのころ、大正の初めのころに家を去ったという理由で失権した、こういう者も救えというお考えでありましょうか。
  71. 楯兼次郎

    ○楯委員 あとの場合は特例だということであります。
  72. 畠山一郎

    畠山説明員 そういたしますと、恐縮でありますが、軍人恩給の停止中に関連したそういう事象が起ったものについては、なかったものとみなした方が適当ではないか、こういう御意見でございましょうか。
  73. 山下春江

    山下(春)委員 明快に御答弁しにくいようですから、今のことに関連して……。旧軍人恩給法が復活する前に日本軍人恩給法というものが司令部によって停止されたではないか、停止されたということは新たな事象であって、恩給局から言えば、そんなこと占領軍はよけいなお世話だ、軍人恩給法はかくあるべきだからかくすべきだということをしないで、命令によって停止した事例があるのだから、旧軍人恩給法によって解釈できない、新たな特例を設けてもよいではないか、こういう意味なのです。
  74. 畠山一郎

    畠山説明員 軍人恩給が廃止されたわけでございますから、廃止されたものについては全然新しく出発するものとして新しい目で遺族関係その他についても見直して出発させる、従って恩給法のいわば特例法的な考え方で行ってはどうかという御意見ではないかと思いますが……。
  75. 山下春江

    山下(春)委員 そういうのじゃないですよ。恩給局の人はみな頭がかたいから困るのですけれども、そうじゃなくて、軍人恩給というのは日本にあるのです。旧軍人恩給法というものが占領中停止された。恩給局はあなたばかりでなくみなかたいのですが、そういうかたい方でも、司令部がそんなよけいなおせっかいを言っちゃいけないのだ、日本国には軍人恩給法というものがあって、それを施行するのだと言わないで、司令部が停止を命じたから停止してしまったという過去においてりっぱな一つの特例的な実績があるじゃないか、そこで、旧軍人恩給法によっては解釈のつかないような問題が出てきたときには、特例を設けてもいいじゃないかということなのです。
  76. 畠山一郎

    畠山説明員 そういう点になりますと、私といたしましてはお答えいたしかねますので、上司に伝えまして、研究いたしたいと思います。ただ、今まで私が御説明申し上げましたのは、現在までの恩給法解釈考え方でございますので、御了承願いたいと思います。
  77. 山下春江

    山下(春)委員 先ほど家督相続権などという古色蒼然たる言葉をここで持ち出されても、日本の女、四千万はみな怒ってしまいますよ。それはえらいことでございまして、そういう言葉をこのごろ取り出すのは困るのでございます。いろいろな事例がありましょうけれども、今楯委員の言われた、特例を設けないと困るではないかということに全く同感でございますけれども、恩給法解釈がつかないとなるならば特例を設けてもらわなければ困ることは、こういうことがございます。  旧来の日本の男性は、全部とは申しませんけれども、たとえば二号さんを持つことを何となく不文律で許されておりました。しかし、これには子供ができます。これを私生子として届け出すことのつらさに耐えられないために、その家長たる夫のところからこれを庶子として届け出た。しかし、その夫の方にも正妻がありまして子供がたくさんあり、そこで二号の子供を一緒に育てることは家庭不和その他のために不可能であったから、二号さんのところでそのままその子供は育っている。しかもその子供が出征をいたしまして戦死をした場合に、実際の実母であり、その実母に育てられておりながら、その弔慰金及び扶助料は、何にも関係のない、戸籍があったというだけのところへ行っている。そのことなどは何としても――私は日本の旧民法の制度を認めよという意味で申し上げるのではありませんが、かなりの間違いがあります。しかも、旧民法から言わないで新しい憲法上これを解釈するならば、当然この母が受給権を持つべきである。あらゆる証明があってもそれを恩給局は拒否している。そういうことはどうしても特例を設けたい限り救われないのであります。  今のような場合でもう一つの例があります。全くそれをひっくり返した例ですが、正妻に子供があって、夫とどういうわけでけんかをしたか、その原因まではわかりませんけれども、とにかく妻が離別された。そしてまま母が来た。そのまま母とその子供との折り合いが悪く、子供は実母のところへ行って育った。ところが、そのまま母が新たな妻として戸籍上届け出てありますから、従って、この子供がなくなりましたときには、このまま母のところに行くということになります。実際に育てた生母のところには行かない。  こういうことなんですが、今の家督相続権というような言葉がこの辺で飛び出すということになると、これは大問題でございまして、それこそ日本の憲法なんてどっちを向いているかわからないことになりますので、これは自今そういう言葉を一切恩給局ではお使いになってもらっては、これはえらいことでございます。日本国四千万の女性が蜂起して恩給局をうらむことになりますので、これはぜひお取り消しを願いたいと思うのでありますが、とにかく、特例を設けろ、なぜ設けられないかという楯委員質問に対して、あなたが御答弁できないということならば、三橋局長も同じように頭がかたいのでございまして、これは困ったものでございますので、われわれ議会といたしましても、この特例を設けるためには何らかの方法を講じなければなりませんが、その方法を講じさしたり何かしたいで、恩給局自体が最も正しい人道上の解釈に立って御処置を願いたいと思います。あなたがお聞きになりましても、そういう点は恩給局の考えていることがかたくな過ぎると、きっとお思いになると思いますが、いかがでございますか。
  78. 畠山一郎

    畠山説明員 先生のお話、よくわかりました。ただ、家督相続人という古色蒼然たる言葉を持ち出しまして恐縮でございますが、旧恩給法に、養子は家督相続人たる地位にある場合に限って扶助料を給すると書いてありまして、それをそのまま引き継いでおりますために、家督相続人たる地位にある者以外の養子には扶助料は出ないことになっておるというふうに御説明申し上げただけでありますので、御了承願いたいと思います。その他いろいろお教えいただきましたが、私としても十分研究いたしますと同時に、上司にも伝えたいと思います。
  79. 楯兼次郎

    ○楯委員 それでは、次にお伺いしたいと思いますが、私どもが考えております考え方を少くとも援護法にはこれを適応していくのが妥当だと思いますが、どうですか。
  80. 田辺繁雄

    田辺政府委員 ただいまの戸籍関係の問題でございますか。――先ほどから御説明いたしておりますように、援護法では戸籍ということは全然要件とはいたしておりません。
  81. 楯兼次郎

    ○楯委員 私は、次に、遺族に対するいろいろな援護措置があると思いますが、就職の問題について一点お伺いいたしたいと思います。  私が過日新聞を見ておりますと、フィリピンの未亡人の方が日本へ来られておりまして、座談会をやっておられるのでありますが、その中に、ノルマンディという方が、日本では未亡人や遺児の就職は困難だというが、フィリピンでは、政府でも個人企業でも人員の五%は未亡人や遺児を採用しなければならぬことになっておる、また公務員試験のときには戦争未亡人は採点が十点増しになっておる、こういうような談話を発表されておるわけです。私は、全国にわたりましてこの片親のない子供が非常な就職難に陥っておるということを聞いております。その一例といたしましては、非常に学校の成績がよくて、これは必ずパスをする、こういう保証付の子供が、試験を第一次、第二次とだんだんと受けて進んで参りまして、最後のどたんばで試験にけられております。それで、おかしいというので会社に問い合せましたところ、これは片親がないからいけない、こういう理由で就職をすることができなかった。そういうような実例を聞いておるわけでありますが、このフィリピンの未亡人のおっしゃるような援護措置をお考えになったことがあるかどうか、将来どうされるのか、こういう点をお聞きしたいと思います。
  82. 田辺繁雄

    田辺政府委員 未亡人ないしは遺児の就職ないし職業の問題でございますが、これは厚生省では主として児童局の方でいろいろと御心配になっておられます。厚生省の中にあります児童局で、母子問題に関係して取り上げておられます。就職それ自身の問題になりますと所管は労働省でございますが、私どもは戦没者に関する限りは特別に考えてほしいという希望を常に申し上げているわけでございまして、事実上も、労働省といたしましても、職業安定の関係でございますが、できるだけの考慮を払っていただいていると思っております。特別な立法措置ということはなかなか困難だと思いますが、事実上そういった片親がないために不利益をこうむることがあってはたらないということは当然のことでございますから、むしろ、戦没者の遺児につきましては、特別の国民的な優遇として、そういったことがあることが望ましいことでございますから、従来もそういう気持で要望いたしておりますが、今後もそういう気持に変りありませず、一そう強く要望して参りたいと思います。
  83. 楯兼次郎

    ○楯委員 そういう気持で要請しているということでは解決はしないと思います。私は何らか具体的な立法措置をとられることがいいとは思いますが、一つその面を研究していただくということと、それまではなお強くこういう方たちに対しまして就職等についてはより以上の一ついい措置をとられるように、再度関係方面へ御要請を願いたい。  それから、最後に一点だけお伺いしたいと思いますのは、内地の陸軍病院で腸チフスで死亡し、これは公務出張をやりまして、その腸チフスの流行している地域へ行きまして、帰ってから発病して死亡したのでありますが、今日適用がない。こういう人があるわけですが、これは考慮の余地があるかどうか、御意見を伺いたい。
  84. 田辺繁雄

    田辺政府委員 恩給法には、公務旅行中に、腸チフスに限りませんが、一定の伝染病系統の病気になったときは公務とみなすという規定がございます。どういうケースか知りませんが、それがもし却下になったということであれば、ただいまお話しになったようなケースに該当したいのではないかと思われますが、なお個別的によくお教えいただきまして、調査したいと思います。
  85. 受田新吉

    ○受田委員 議事進行について、本日は午後一時からソ連地区引き揚げの数名の代表者をお迎えして状況を聴取することになっております。この二つ法律案の御提案に対する質疑は続出してとどまるところを知らない状況で、いかに委員各位が熱意を持っておられるかを証するに余りあると思います。この点、私も今ごく簡単に重大な質問をしようと思っているし、中山さんも手をあげておられるし、いろいろとまだあると思うのですが、少くとも要点だけをつかんで質問しようとする人がある程度意が満ち足りるようにやらなければいかぬと思います。何時から参考人の意見聴取をやるか、これからの日程をよく考えて御指示いただきたいと思います。   〔「別にやりましょう」と呼ぶ者あり〕  それでは、私今非常に急ぐ質問があるので、ここで質問さしていただきたいと思います。二つ法律案をお出しになられた政府といたしましては、今民自両党でその修正案の最後案を作ろうと非常な努力をしておられます。従って、この委員会がなかなか聞かれない情勢のもとにおいては、ここで基本的な観念を明らかにしておかれないと、民自両党の修正も非常にずさんな結果になると思いますので、ここで一言だけお尋ねしておきます。援護法に基く援護対象恩給法に考えている問題との関連です。  援護法というものが二十七年四月一日に法律になったときのあの精神は、軍人軍属に対して国家補償的見地からこの法律を作るということであったと思うのです。しかし、この援護法そのものは内縁の妻を含むものであり、あるいは弔慰金というような制度を含んだりして、非常に生活保障的な要素を持っておると思います。そうなれば、これは社会保障制度の一環としてでも考えられる問題じゃないかと思いますが、社会保障的要素を持つものと認定されるかどうか、簡単にお答え願いたい。
  86. 田辺繁雄

    田辺政府委員 簡単に申しますと、軍人恩給が復活するまでの間、暫定措置として社会保障的見地から軍人恩給というものを修正しておるという点があります。もちろん恩給対象でない者も入っておりまするけれども、国家補償の精神と、援護的精神と申しますか、社会保障的精神とが融合されまして、この二つが織りなされて援護法となったものである、こういうように考えております。
  87. 受田新吉

    ○受田委員 社会保障的な要素を持つ議題につきましては、法的にも社会保障制度審議会なるものに諮問することになっております。従って、援護法に関する対象が社会保障的性格を持つものであるとすれば、当然社会保障制度審議会に諮問されていなければならぬと思いますが、過去政府はこれを社会制度審議会に諮問なさいましたかどうか。
  88. 田辺繁雄

    田辺政府委員 諮問いたしておりません。これは、厚生省はその方面の担当ではございませんけれども、おそらく社会保障制度審議会に諮問すべき、いわゆる社会保障制度のものとは一応違ったものである、こう考えられた結果であると考えております。
  89. 受田新吉

    ○受田委員 援穫法が恩給法に切りかえるまでの暫定措置だという要素があるということになると、これはまたその方面に関係してくるのですが、しかし、社会保障的な性格がはっきりしておる以上は、その方からの意見も聞くことは非常に大事だと思うのです。同時に、もう一つ、恩給法は非常に厳格な基準を設けておる。これは、かつて公務に従事し、天皇の文武官として勤められて有形、無形に犠牲を払ったということに対する反対給付といいますか、損害賠償といいますか、恩給法は非常に厳格なワクを考えられておる。この恩給法が一ぺん天上から地下におりて援護的な要素を持つような形、たとえば厚生年金法あるいは国家公務員共済組合法、こういうような性格を持つ相互扶助、生活保障的な要素を恩給法が取り入れることになったならば、援護法も当然恩給法の中に吸収して一本でもいいし、恩給という名前が何だか特権的要素を持っておるというのならば恩給の名前を変えてもいいのですが、この点について、恩給法援護法とによって年令的な差別がある。たとえば、十八才未満の者を対象にしておるのが援護法であり、また六十才未満の父母、二十才までも認めておるのが恩給法である。同じ遺族に対して援護法恩給法とが年令に差をつけておる。こういう大きな矛盾がある。こういうものに対して、政府として援護法の精神と恩給法の精神が歩み寄りするという立場、あるい遺族範囲解釈政府自身が統一していく、そういう考え方はありませんですか。
  90. 田辺繁雄

    田辺政府委員 厚生省でやっております遺族援護法といたしましては、年令制限と申しますか、遺族範囲を他の社会保険の場合と同じようにするのが正しい行き方である、こう考えております。恩給方を将来どうするかという問題につきましては、これはもっと大きな問題でありますので、私から答弁することを差し控えたいと思います。
  91. 高岡大輔

    高岡委員長 午前中の会議はこの程度にいたし、暫時休憩し、なお午後一時半から再開し、参考人より事情を聴取するとともに、外務当局から日ソ交渉のことについて聴取いたしたいと思います。  暫時休憩いたします。     午後零時五十六分休憩      ――――◇―――――     午後二時七分開議
  92. 高岡大輔

    高岡委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  ただちにソ連地区残留同胞引揚げに関し、参考人より事情を聴取することにいたします。  この際一言委員長より参考人各位に対してごあいさつを申し上げます。各位には、御多忙中のところ御出席をいただき、厚くお礼を申し上げます。いまだ異境に残留されておる同胞を一日もすみやかに帰国させて、引き揚げ問題を解決することは、全国民の渇望するところでありまして、本特別委員会はその設置以来この解決のために努力し、調査を進めて参っております。現在日ソ交渉が開始せられまして、未帰還同胞問題の解決が交渉に先だって要望されておりますときに、参考人方々より残留の実情及び引き揚げの状況を伺い、本問題解決に力を尽したいと思っておりますゆえ、参考人方々には、この特別委員会の意図をおくみ取り願いまして帰還に至るまでの概要並びに現地における状況等についてお話し下さるようお願い申し上げます。なお、木内参考人には第三次ソ連地区残留同胞の引き揚げについての状況と経緯につきましてお話しを願いたいと思います。  お話しの時間は一人約二十分程度に願い、続いて各委員よりの質問に応じてお答えを願いたいと存じます。  では、初めに木内参考人にお願いいたします。
  93. 木内利三郎

    ○木内参考人 四月の中旬にナホトカに第三次のソ連からの引き揚げ方々をお迎えに参りました。そのときの状況をお話し申し上げます。  今回の帰国は、昨年後半ごろからの御家族への通信の内容等によりまして、相当数の、少くとも三、四百の方がお帰りになる、そういう予想でございましたが、四月の引き揚げの前に、ソ連赤十字と日赤との電報連絡等に基きまして、わずか八十名ぐらいの方である、そういうことを聞きまして、非常に意外に思ったところでございます。船は興安丸でございまして、四月十五日朝ナホトカ港外に到着いたしました。そのときにソ連側からは検疫官、税関、沿岸警備隊、水先案内人、合計八名が乗船して参りましたが、船内の検査等は非常に簡単でありまして、船長の話によりましても、前二回に比べ非常に友好的である、そういう話でございました。昼近くナホトカ岸壁に着きまして、ソ連赤十字のナホトカの委員が連絡に参りまして、引き渡し等の行事は船でやるか、それとも上陸されるかというこちらの意向を尋ねられまして、上陸したいと申しましたところ、約一時間たちまして、あらためて出迎えに参りました。このときに、やはりソ連赤十字との事前の連絡で、新聞記者諸君が乗船してきてよろしい、そういう連絡がありましたので、内地から十二新聞あるいは放送関係の記者が乗船して参りましたが、ナホトカの赤十字の方では、その話は何も聞いておらないから、上陸は許可できないという話で、これはその後たびたび交渉をいたしましたが、ついに上陸は許されないということがございました。  正午ごろに上陸をいたしまして、ナホトカの港湾局の建物で、ソ連赤十字のウラジオ支部、その最高委員をしておりますサフチェンコという婦人でございますが、これと引き揚げについての打ち合せをいたしました。まずソ連側から今回帰られる方の名簿を提示いたしまして、八十六名である、これは帰られた子供の方二人を含めておりませんので八十六名でございますが、実際に帰られた方は八十八名でございます。その名簿を提示いたしまして、これだけの方を今回は帰す、そういうことでございました。この名簿は最後に帰国者の方が乗船をされたあとで正式に受け取りましたが、初めに昼にこれを見ましたときに、また非常に意外の思いをいたしましたのは、昨年末以来近く帰れるという便りをよこしておられた方がその中にほとんど見当らなかったということでございます。その名簿の提示がありましてから、何か日赤の方から話があるからということでございました。こちらは、出発前に留守家族の方からお預かりをいたしました小包、慰問品の小包でございますが、これが九百六十七個ございました。これをそれぞれ名あて人にできるだけ早く届けてもらいたいということを頼みましたところが、快諾しまして、これは後にソ連赤十字の代表も興安丸のそばまで参りまして引き渡しをいたしました。その小包のほかには、留守家族から未帰還者にあてた通信、これが六十通お預かりをして参りました。それから、やはり留守家族からソ連の赤十字の社長あて、あるいはブルガーニン首相あて、あるいはハバロフスクの収容所長あて等の嘆願書、これが十二通お預かりいたしまして、合計手紙類七十二通をお預かりをして参りました。これを受け取ってもらえるかと言いましたところ、通信については向うでは従来から非常にかたい態度でありまして、われわれ日赤代表団がモスクワに参りましたときにも、通信はなかなか受け取ってくれなかったような経験もございましたので、今回はどうかと思いましたところが、これを快く受け取りまして、それぞれ届けるからということでございました。  次に、日赤の社長からソ連赤十字社長にあてました引き揚げ問題全般に関する手紙を提出いたしまして、これをモスクワに伝達してもらいたい、ただ伝達では意味がございませんので、この写しを先方に渡しまして、われわれから説明をいたしました。その内容は、従来赤十字からいろいろ向うに要望しておった事項をまとめたものでございまして、第一は、捕虜名簿、赤十字がもらいました名簿にある千六十三名の方の帰国をすみやかに実現してもらいたい。第二は、戦犯名簿にないが、明らかに向うにおられる方々相当数ある、その帰国をすみやかに援助してもらいたい。第三点は、通信の問題でございまして、通信のない未帰還者があるので、通信を漏れなくやれるようにあっせんしてもらいたい。第四点は、死亡者の問題で、死亡者の名簿は従来赤十字からもたびたび要求をしておりますが、今日まで反応がございませんので、これをあらためて申し入れました。死亡者名簿を一部分でもよろしいから提供してもらいたい。第五点は安否調査の問題でございます。これは、モスクワにおける話合いに基きまして、各国赤十字の間で慣例として行われておる安否調査の用紙というのがございまして、これに一名ずつ情報を記載いたしまして安否の回答を求める制度でございますが、この安否調査を昨年以来百九十九名について向うに調査用紙を送りまして頼んだが、いまだに回答がありませんので、これについての回答を督促いたしました。それから、第六点は、今回の引き揚げは第三次であるが、第四次の見通しはどうであるか。この六点を向うに尋ねました次第でございます。  これに対しまして、とにかく現地ウラジオあるいはナホトカの赤十字でありますので、はっきりした回答はもらえなかったのでございますが、一般の人あるいは捕虜の帰国については引き続きできるだけ早くするように援助をする、それから通信も漏れなくできるように援助をしたい、死亡者名簿はモスクワの赤十字には一部分あると思うから、さっそくモスクワに連絡して日赤の方へ送らせるようにする、それから安否調査は、調査のでき次第回答をするようにモスクワの方にすぐに連絡をする、第四次の帰国は明言はできないが、そう遠くなく帰せることと思うという回答でございました。  この話合いが済みまして、午後にはナホトカの駅へ参りまして、ここにいらっしゃいます常永さん、関口さん、赤羽さん等の皆さんにお目にかかりに参りました。それから船のそばに戻りまして、先ほど申しました小包を船からおろしまして先方に引き渡しました。夕刻六時に皆さんの乗船を開始いたしました。両国赤十字と沿岸警備隊の立ち会いで、一人々々名前をお呼びして乗船されたわけでございます。乗船が終りますと、向うの赤十字の代表が船に来まして、そこで先ほど申しました名簿に署名をいたしまして、これで完了したわけでございます。船は一晩、十五日の夜はナホトカにおりまして、十六日朝ナホトカ発、十八日舞鶴に帰って参りました。  以上、簡単でございますが、今回の引き揚げの状況でございます。  その後、ソ連の赤十字から最近こちらにひんぱんに連絡をするようになっておりますので、その点を一つ、二つ申し上げます。従来電報あるいは手紙によるこちらの要望に対して、なかなか向うからは回答が来なかったのでございますが、五月の末ごろからひんぱんに、前に頼んであるいろいろなことに対して返事が参っております。五月の二十六日だったと思いますが、モスクワを四月の半ばに出した手紙をもって、三十九名の未帰還者の方について、これらの方の状況は何もわからないという通知がございました。この三十九名と申しますのは、われわれ日赤代表が一昨年の十一月、モスクワで四十二名の安否調査、先ほど申しましたような形式の安否調査を頼んできましたが、それに対する回答でございます。ただ、返事はくれたのでありますが、その内容につきましては、あまり情報としての価値は認められないようなものでございました。と申しますのは、その三十九名のうち三十二名の方は、すでに昨年リトクゼン女史以下中国紅十字会の代表が来ましたときに日赤で受け取りました中国におる日本人戦犯の名簿にある名前でございまして、ソ連側はこれは中国に渡してしまったものであって状況がわからない、そういうような人々でございますので、内容としてはあまりこちらで目新しい結果を得たことにはならないような次第でございます。その次の手紙は、留守家族の方がウラジオの郵便局気付でお出しになった手紙を十四通戻して参りました。これらの方の住所は不明である、そういう添え手紙をもって戻して参りました。それからもう一つは、やはり五月の末に参りました手紙で、北海道の留守家族の方が直接ソ連赤十字に息子さんの安否調査をお頼みになったその返事で、内容はやはり状況不明であるということでありますが、これはそのお父さんの方に伝えてくれという手紙でございます。それから、四番目は、昨年の暮れ日赤から前の帰国者のお話でわかりました病人の方の名前十一名列挙しまして、すみやかに帰国させてくれと頼みましたのに対する返事で、今回四月に帰した中には日赤の要望に基く四人の病人を含めておる、それから、別に手紙で今年の二月に頼んでおきましたここに見えておられる赤羽文子さんを早く帰れるようにしてくれと頼んだ手紙に対する返事も記載してありまして、日赤の要望に基く赤羽文子さんも今回帰したということでございます。それから、今申しました十一人の病人の中で一人の死亡について通知をよこしました。死亡者の通知を正式にして参りましたのはこれが初めてでございます。こういうように、だいぶ連絡を密にする――内容は別としまして、とにかく連絡をしてくれるようになりましたので、今後も安否調査あるいは帰国の促進を赤十字のルートの方でも努力を続けたいと存じております。  簡単でありますが、以上申し上げます。
  94. 高岡大輔

    高岡委員長 次は富永参考人にお願いいたします。
  95. 富永恭次

    富永参考人 参考人としてこの席にお話をさせていただく機会を得ましたことを深く光栄に存じます。  日ソ交渉もいよいよ開始せられまして、抑留者の帰還問題は、新聞の報道によりますれば、話し合いのまず第一番に取り上げられます様子で、かねがね私どもの希望いたした通りに取り運ばれましたことは、全く皆様方の深甚なる御同情と、またお心添えのおかげでございまして、この点は厚く御礼を申し上げます。内にこの皆様方の御配慮、御支援があり、他面またソ連といたしましても国交正常化に向って交渉を進めます以上は、この抑留者帰還に関するわが方の要求を受諾することは、まことに理の当然と存ぜられますので、私どもは抑留同胞並びにその留守家族の方々とともに、釈放帰還の問題は必ず実現すべきことを強く期待をいたしておる次第でありまして、しかも、今や抑留者の体力、気力は、満十年にわたる消耗のために加速度的に衰弱をいたしまして、今日一日の救援遅滞は、その日その日十年の忍苦に耐え続けてきましたわが同胞数人の貴重な生命を倒しつつある実情に照らし、特に速急なる実現を熱願いたしておる次第でございます。  さて、この日ソ交渉全般にわたる将来の見通しにつきましては、私ども無知の者がとうていうかがい知ることはできませんが、交渉成立に比較的長くかかるような場合もあるのではないかと考えております。ことに、すべての諸懸案をみな解決したあとで国交の回復をするというような場合にありましては、停頓あるいは決裂というような不幸な場面に陥ることも絶無ではなかろうと懸念をいたしておる次第であります。そこで、せっかく第一番に取り上げられましたこの抑留者帰還の問題が予想通り解決されましても、もしこの問題を他の懸案事項と一括して全部の交渉妥結後実行に移しますようなことになりますると、全部の交渉がきわめて電撃的に迅速にまとまりますれば別でございますが、まずそんな公算は少いでございましょうし、またかりに数カ月後に妥結したといたしましても、事務的の処理はなかなか敏速に運ばないのがソ連の従来のやり方でございますので、いよいよ抑留者を送還するという運びに至るまでには、さらにまた数カ月を要することと思われます。果してそうなりますると、抑留同胞は、せっかく帰還問題が解決しながら、むなしく時日を経過いたしまして、近く眼前に光明を望みつつ恨みをのんではかなく異国の地に死んでいくというような悲哀が、幾十人あるいは幾百人の抑留同胞に降りかかります。これがまたひいて一日千秋の思いをして待ちわびておる幾十幾百の留守家族の痛恨と相なるのであります。いわんや、この交渉が停頓、決裂というような最悪の場合を想定いたしますれば、まことに寒心の至りにたえない次第でございます。そこで、他の幾多の交渉事項を引き離しまして、単独でこの帰還問題を解決しまして、全部の交渉妥結を待つことなく、話し合いがつき次第に直ちに実行に着手するようにしていただきたいのでございまして、この点は、当事者においてはつとに御明察、万手抜かりないとは信じておりますけれども、老婆心ながら私どもよりくれぐれも皆様方にお願いいたす次第でございます。むろん抑留者一人残らず帰っていただくことが私どもの切なる念願でございます。ぜひともそろって全部帰還するようにお願いをいたしたいのでございます。もし万一交渉の結果どうしても先方が一部の人を残すというようなことになりましたならば仕方がございませんが、この場合には、残留する人方の保護、また将来の引き揚げを容易にするというような見地から、次のような処置を講じていただきたいと思うのでございます。  第一番、残留者名簿を作成して必ずわが方に渡してもらいたい。だれとだれが残ったのかということです。二番目には、自後一カ月ないし二カ月ごとに必ず死亡者を通達してもらいたい。三番目には、広大なる地域に散在いたしております同胞を一つの収容所、あるいはそれができぬならば、なるべく少数の限定した収容所に集団してもらいたい。今のように、はなはだしいところは一人、二人というふうにばらばらにしておりましたのでは非常に困るのであります。四番目は、満刑者、つまり刑期満了者あるいはその他の特別の法令によって釈放された者がありましたたらば、今までのように長くソ連領土にとどめずに、なるべくすみやかに送還の手続を考えていただきたいのであります。これがために、日本側といたしましても、今のような大きな船でなくても、小さい船で、五人でも三人でもよろしゅうございますから、なるべくひんぱんにこれを迎えてやっていただきたいのでございます。五番目は、漏れなく通信を許可する。人によっては通信をもらえませんので、漏れなく全抑留者に通信を許可しまして、またゆえなく本人の発する通信を没収しないこと。またゆえなく本人の受領すべき留守宅その他からの通信を没収せざること。これがいろいろ宣伝的のことその他を書いてあれば没収もやむを得ませんけれども、そうでない普通の安否を知らせる程度の通信ならば、発信も受信もみんな渡していただきたいのであります。これらも、今までの経験によりますと、そうは行っておらないようであります。六番目は、収容所の衛生設備の改善。七番目、労働賃金より引き去る生活費の負担額の低減。これは、ハバロフスクでは一カ月に四百五十六ルーブル低減しており、これはむしろずっと物価の高いときにやって、今でもこのまま踏襲しております。はなはだ不合理であります。  なお、大部分が帰国をしまして、一部残留するようでありますと、残された人の失望、悲愁はまた格別のものでございます。従って、これに対しまして、せめてもの精神的慰め、また体力保持の手段として、日本から慰問品を一そう活発に送ってあげることが必要と信ずるのでございます。この種事業は従来県や赤十字社の方から御同情をいただいておりますが、国家の事業としてもしこれをやっていただきましたならば、異国にわびしく禁獄の鉄鎖につながれまして重き労働を課せられて苦しんでおります同胞の感激はいかばかりでございましょう。私どもは、ドイツ人の私らと同じような境遇にある者と数個のラーゲルにおいて暮らしておりまして、彼らの感激をよそからうらやましくながめておったものでございます。  それだけでございます。
  96. 高岡大輔

    高岡委員長 次は関口参考人からお話しを願います。
  97. 関口弘二

    関口参考人 いかに十年の間とはいえ、小さいロシアの鉄窓から見たソ連の実況はあるいは一方的であると言われるかもしれません。しかし、皆さんの中で、代議士あるいは芸能人、文化人、運動使節団、そういった方がソ連へおいでになってごらんになって帰られてからいろいろな方法をもって発表されたのでありますが、そういうことを私たちはソ連におってプラウダ、イズヴェスチア・ガジェーター、そういったソ連の新聞から伺ったのでありますが、それはきわめて美しく飾られておったという感じを受けておったのであります。私たちが見てきたソ連の実況と在ソ同胞の生活というものに大きな距離があると思うのであります。それについて、皆さん国民大衆もそうでありますし、全然わかっておられぬ。そこで、そうしたことをお話したいと思います。  まず、各種の形態をもって世上に話題を投げたいわゆる捕虜の復員であります。そのために、国民の一部には、赤の洗礼を受けた者はお断わり、またその反面には、流行おくれの軍国主義者が帰ってきた、そう言ってひそかに冷笑する人さえおったのであります。これは無理もないことで、その点について説明したいと思います。この捕虜ラーゲリというもの、ラーゲリ・ヴァエンナプレンヌイ、これはいわゆる刑を受けなかった旧日本軍人を収容されておったのであります。これらに対しては、大体軍隊組織をもって自治制がしかれ、ソ連独得の教育が強制せられておりました。この教育のことを詳しく申し上げるといいのですが、時間がありませんから……。これも過去における階級制度への反動、それから画一的な軍隊教育の貧困というものもあるのではありますが、いわゆる教育された者から引き揚げさせておったという実情であります。それがいわゆる新聞紙上に現われました天皇島上陸あるいはその反動として日の丸梯団となって現われたのであります。ここで一般ラーゲリ、――ラーゲリにはいろいろ種類がありまして、今申し上げましたヴァエンナプレンヌイ、捕虜収容所、もう一つは一般刑収容所、そのほかに国事犯特別収容所というのがあります。そのほかに、ここにおられる富永さんが入っておられた禁錮刑刑務所、ザクリテチュリマーというのがあります。この中の一般刑収容所というのは各種各様の犯罪者が入っておるのでありまして、これが大体昭和二十六年まで一緒になっておったのでありますが、国事犯は国事犯、禁固刑の者は全部禁固刑の刑務所に入れる、そういうふうに分類されました。そして、いわゆる捕虜収容所におって帰ってくる者と、一般刑収容所から帰ってくる者、あるいは私たちのように国事犯特別収容所から帰ってくるものとでは、引揚者の内容が全然違ってくるのであります。現在は捕虜収容所から帰ってくる君は一名もおりません。これは全部国事犯特別収容所におった者であります。それで、皆さんに知っていただきたいことは、国事犯特別収容所と一般受刑者収容所において、捕虜に対するようなソ連独得の教育を強制されておったかというと、そういうことはありません。いわゆるラーゲルという言葉はいろいろあるのでありますが、これは英語のキャンプ、いわゆる野営所というのでありまして、言葉は美しいのでありますけれども、内容は労働をもって強制するという、人道上見られない点であります。そして、十年もおったから相当教育されておったのであろうというふうに誤解される方もあると思いますが、国事犯収容所あるいは一般刑収容所において、そういうソ連式の教育というものは、ロシヤ人にさえも強制されませんでした。それで、国事犯収容所におけるロシヤ人は、全然そうした面には興味を持っておりません。いわゆる政治的な興味を持っていないと申し上げて……。委員長、ちょっと記録をとめて下さい。
  98. 高岡大輔

    高岡委員長 速記をとめて下さい。   〔速記中止〕
  99. 高岡大輔

    高岡委員長 速記を始めて下さい。
  100. 関口弘二

    関口参考人 そういう環境にあって、私たちは十年の生活をしてきたのでありますが、ロシヤのいいところ、ロシヤの悪いところ、そういうものをある程度までは見てきたつもりでおります。  それで、私たちが帰りまして、待っていたものは就職難と十年の空白である、こういう現実であります。私もロシヤで片目を失ったのでありますが、群馬大学の医学部の先生に見てもらったところが、もう手術してもだめである、現在見込みがない、そういうようなことで、ロシヤにおける収容所の医学というものは全然進歩しておりません。また、当時ヴァエシナプレンヌイ――捕虜収容所におった日本の軍医が言われましたごとく、向うの医者は日本の看護婦ぐらいの程度でしかない、そういう現状でありまして、今残っております二千五、六百名の同胞は、収容所に医療機関があっても、その技術が拙劣であるということによって、どんどん体力が低下していく、健康状態はきわめて悪いのであります。この際一日でも早く帰還について一そうの御協力をお願いいたします。また全員の送還につきまして一そうの御尽力をお願いいたしたいと思います。全員の送還といいましても、今出席の方がおっしゃったように、名簿がはっきりしておらない。人員が二千五、六百名という漠然たる数字でありまして、はっきりしておらない。でありますから、そうした名簿の確定、人員の詳細な報告、それによって一人残らず帰してもらいたい、こう思うのであります。  今回の引き揚げに関しては、重光外相も明言しておりまするように、政府みずからこれに当るとのことでありますが、帰還後の対策、すなわち、帰還者を予定されたる失業者として計算し、これを放任することのないよう、計画的に積極的に善処されたいと思うのであります。  以上。
  101. 高岡大輔

    高岡委員長 次は片倉参考人からお願いいたします。
  102. 片倉達郎

    片倉参考人 私、片倉達郎であります。皆様方の御援助と御尽力によりまして今回待望の祖国日本へ帰ることができましたことを心から厚く御礼申し上げます。  一九四五年八月、停戦当時、私は兵として樺太の特務機関に勤務しておりました。兵でございましたが、仕事が諜報関係でございましたので、対ソ諜報工作の罪名をもって、ソ連陸軍刑法によって十年の刑を受け、豊原刑務所に入れられ、同年十一月、同刑務所におきまするところのソ連軍の将校、下士官、兵にしてソ連陸軍刑法によって処罰されたるソ連囚人とともに、大泊港より貨物船の船底に入れられてウラジオストックへ向けられました。ウラジオにおいて監獄の監房に約一カ月半。それからハバロフスクへ移されまして、囚人中継所に約三週間。その後、客車の後尾についております囚人用の網かご車といいますか、そういうような特別の囚人を乗せる車に入れられまして、定員外の人数を入れられて、非常に苦しい輸送状態のまま、クラスノヤルスク州のカンスクへ送られまして、一九四六年二月、カンスクの囚人労働収容所に着きまして、約三週間。カランチンと申しまして、休養期間がありましたが、三週間たちますとすぐ強制労働に服させられ、きわめて低下した食糧のもとに、きわめて重い仕事に従事させられました。  その当時は、体力の弱い者に対しては、医務室の検査によりまして、衛生上の等級を、カテゴリヤと申しますが、一級、二級、三級、四級ときめまして、四級の者は、きわめてからだが弱いかあるいは不具者で、作業を免除する、三級は軽労働、一、二級は市労働というふうにきめられまして、ロシヤ人の囚人の中に入れられて作業に従事いたしました。もとより、気候に適ぜず、苦しい輸送状態のみならず、敗戦の苦悶のために、われわれの健康状態がきわめて悪いコンディションにあったことは明らかでありますが、寒さの中で強制労働に服している間にみな体力を消耗しまして、約三カ年の間芳しい労働生活の中で一命を落された方も数多いことをきわめて残念に思っております。ですが、その方々は、捕虜の方々と違いまして、みな囚人として入りました関係上、ソ連人と起居を共にしましたので、全然いわゆる共産教育を受けずに参りました。従って、思想上のそのような悩みはございませんでしたが、敗戦国民である日本人が、反日教育を受けたソ連人の間にあって相当苦しめられたことは事実でございます。  それから、ロシヤ人が作業班長をやって、日本人が作業班員であったために、同じパーセントを遂行した場合、同等の食糧を受くべき場合にも、日本人にやるくらいならロシヤ人にやれ、そういうような考え方をもって虐待した人が多かったのでございます。私は特務機関でロシヤ語を多少やっておりました関係上、時にわたって異議を申し立てましたところ、理屈で負けますと、最後に、その弱い体でウラルまで攻めるつもりだったのかという言葉を浴びせかけて参りました。  約三年の間一般ロシヤ囚人と生活を共にし、一九四九年三月、ウカース、つまり特令によって、政治犯を全部一緒にまとめ、われわれもその政治犯の中に入れられて、クラスノヤルスクのタイシェット方面に移されました。そこでは、よりきびしい監視のもとに、つまり一般囚は表門のところにただかぎをかけていたのでありますが、政治犯は各バラックにかぎをかけ、窓には全部鉄格子をはめ、夜の消燈時に鐘が鳴りますと、バラックの中に便器を入れまして、外からかぎをかけ、バラックとバラックとの問の通行を禁ずるというような、きわめてきびしい監視のもとに置かれましたが、中の囚人同士は、ソ連人の政治犯はインテリ階級が多く、元大学教授、技師あるいは元共産党員にして意見の違った者が十五年あるいは二十五年の刑を受けて入ってきておりましたので、たとい苦しく乏しい食糧の中でも、人のものをとったり、あるいは自分のためにどろぼうを働くような方々は一人もおりませんでした。従って、きびしい中にも秩序ある生活が政治犯の収容所の中にはありました。一九四九年以降、そのような中に入れられまして、いろいろソ連の囚人ではありますが有識の方々と話すことができまして、対日観念というものを聞いて参りましたが、あなた方は、ソ連政府によって拉致され入れられた以上、絶対に日本へ帰ることはない、もし日本へ帰るということを考えるならば、おそらくあなた方の間違いであるということを何回も身をもって聞かされて参りました。  労働はいろいろな種類でございますが、鉄道作業とか、もうすでに引揚委員会の方へこまかい報告書が出ていることと思いますが、国政に参与しておられる議員の方々の前でこまかいことを詳細に申さなくともおわかりと思いますから、略しますが、一九五三年、タイシェット地区からオムスクへ集団移動がございました。その目的は、当時ラーゲルに参りましたプラクロール、つまり検事が、――私は直接その人から聞いたのではなく、その人が官憲に申しましたことを私は聞いたのでございますが、政治犯はきわめてきびしい監視のもとに、食糧的にもきわめて悪い条件にあったにもかかわらず、一般の囚人がよりよい条件下においてなしたパーセントよりもよりよき成果を収めている、政府はあなた方政治犯に対して見方を変えたから、これから重工業地帯であるところのオムスクへ行って重要な作業に従事してほしい、あなた方を信用してやるのであるから、こちらにおいて維持した秩序をあちらにおいても維持していただきたい、という趣旨のもとにわれわれは移動させられました。  一九五三年、オムスクにおきまして、囚人収容所でございますので、外国人が多く、日本人も多いときには大体三十名、四十名おりましたですが、少いときには、二千二百余名の外国人の中で日本人はわずか七名でございました。私のおりました囚人収容所においては、そのような状態で、日本人同士は作業がかち合いますので毎日会うわけにもいかず、たまたま他地区から移動で来ますと、日本人同士が集まって非常に珍しがり合い、慰め合い、日本人は他人であっても自分の親しい肉親であるような感じをもって相互に援助して参りました。従って、私たちの歩いてきましたコースにおいては、俘虜の方々が、演じたような活劇は全然ありませんでした。  一九五四年の七月、初めて祖国日本から小包をいただきました。それまでは日本人が日本から通信をもらう、小包をもらうというようなことはあり得ないという観念をソ連人が持っておりました。また、われわれでさえも、おそらく不可能であろうと思っておりました。なぜならば、俘虜はおのおのの名前が日本に行っている、そして二年も前から通信しているようだ、またどこかで新聞を発行して見ているようだけれども、――それはロシヤ人から聞いたのです。兵隊にして先に捕虜収容所で捕虜を監視していた人たちが、捕虜が帰ったために今度は囚人の監視に当ります。それで、作業場に来たときに、私は何年前に日本の新聞を見た、そういうことを言います。私たちは全然わかりませんでしたが、そういうところから聞いて参ったのであります。初めてもらいましたときに、日本のかおりに非常に感激して小包をいただきましたが、そのとき、私のところの官憲が、日本から小包が来たのかと言って不思議がっているほどでありました。そして、私たちのところの曹長の人ですが、それがいわく、日本の赤十字社から日本人に小包が渡ったということを口外してはならないということを言っておりました。それで、渡すときに箱をあけて、何か箱の上に書いてあったのですが、見せないようにして、品物だけ検査して渡しました。ロシヤ人の収容所では、私たちあのときには二人いただいたのですが、小包をいただくということはあり得ないことのような状態で、非常にびっくりしておりました。と同時に、それをいただいてからは、ソ連人の態度が一変して参りまして、何も力がないと思っていた日本の力がどこかに現われているような感じがしたのであります。  一九五四年十月、命によってハバロフスク地区に送られました。それは、直接は聞きませんが、大体東洋人を一緒に集めるとか、あるいは帰すとか、そういうことを聞いておりました。  それまでのことを一言申しますと、作業間におきましては、作業系統、つまり企業体の官憲と監視兵と系統を異にいたします。従って、監視兵は、本来は作業には関係なく、ただ作業状態、つまり一定の範囲内の区域から外へ出てはいけないという、そのための任務でありますが、日本人でもそうですが、囚人が坐って休憩しておりますと、なぜ働かないのだ、そういうことを言っております。それで、作業を担当する官憲のみならず、警備に当る監視兵さえもが、作業をするように強制します。そしていじめます。それは、監視の者たちが、その扱っているところの囚人がよいパーセントを出した場合、報奨を政府から受けるという組織になっているそうでございます。そういうふうな状態でございました。  ハバロフスクへ参りましたところ、あそこに二十一分所というのがございます。日本人だけの収答所であります。若干朝鮮人と中国人がおります。そこへ初めて行きまして、その中に、捕虜の生活をされた方々がいかなる形を経てきておられるか、ソ連政府が誘惑した共産教育と、それに対抗するところの方々とが相剋してきたその跡形がずっと見られまして、私たちは非常にびっくりいたしました。そこで九年目に私たちは日本の活字に接し、並びに日本の翻訳書に接しました。あそこにおられる方々は、今は、一部のアカハタ組と申しますかは、数ははっきりいたしませんが、ごく少い。この方々を除いては、みな一致協力し、日本に帰って決してわれわれは日本の国民に迷惑をかけてはならない、われわれが考え得られる以上に、日本の方たちはわれわれのために尽力して下さっている、そういう考えのもとに、帰国すべき時期を待っております。決して恨んでおりません。ただ、一部のアカハタ組というものが、自己の生命の保存、自己の優先的な地位の確保のために同胞を売ったことは事実であります。  一九五四年十月にハバロフスクへ参りましてから、出発までの間、皆さんと一緒にいろいろ話をしたのでございますが、山の奥地から来た方々はすぐそのまま帰すだろう、いや残されるだろう、いろいろなうわさが飛びましたが、結局、ただいま赤十字の方がおっしゃられましたように、八十八名という形になって出まして、出発の約一週間ばかり前に発表があったのですが、その中に私は入っておりませんでした。前日になりまして突然呼び出されまして、お前も中に入れる、お前はすでに刑が終っているのを知っておるか-。知っております、私は作業日数が百九十三日減刑されて、二月二十二日に刑が終っている、それでそれ以後は地方人として取り扱ってもらいたいということを申請として出してある、しかし今度の発表で抜かされていたからあきらめていた、本来から言えばそういうことは私たちから言うべきではなくて、あなた方の方から言ってくるべき筋合いのものだと思って私は信用していた、こういうふうに言いました。そういうふうに、俘虜の移送、抑留者の移送に対しては事務がきわめて怠慢でございます。  それから、今のハバロフスク地区におります日本方々は、非常に一致協力しておられますが、給与が悪い。物自体は給与に比べていいのでありますが、日本人同士ですから、仕事のできない者には仕事のできた者から融通してやる、そういう経済一本の方法をとっております。そして、俘虜の給与と囚人給与を一緒にしまして、差し引く方だけは多く差し引き、ソ連側からくれるものは少いという実情で、みな努力しているのですが、総量としてはいただく量は少いわけです。それで苦しいのです。ソ連の囚人の待遇全体は向上したかもしれませんが、あの収容所におきます日本人の給与の状態はそういう苦しい状態でございます。その切りかえ及びあそこの収容所の経済の機構並びに作業現場におけるこまかい現状は、非常に参考になると思いますので、もしこまかくお知りになさろうとするならば、私たちと一緒に帰りました森川という方がおりますから、この方に聞いて提出していただいたらいいのではないかと思います。  それから、今度帰って参りましたのは八十八名でございますが、私たちの方から申しましたならば、もしできますれば、こちらの方から積極的に名前を出して、少くとも一つの船を出すからには、それだけ以上の者はぜひ乗せてほしいという方法でやったならば、あのような悲喜劇にはならないと思います。  御清聴ありがとうございました。
  103. 高岡大輔

    高岡委員長 次は赤羽さんからお願いいたします。
  104. 赤羽文子

    赤羽参考人 私が赤羽でございます。どうぞよろしくお願いいたします。  私は、抑留生活中大体ソ連の国籍人の中にぽつんと一人おりまして、他の日本人の方々の様子はあまり存じておりませんし、それは今まで皆さんがおっしゃいましたりいたしましたので、自分自身の抑留中の生活を申し上げたいと存じます。  私は、終戦まで三年間近く大連のソ連領事館でソ連の領事、副領事以下に日本語を教えておりました関係上、終戦後直ちにソ連につかまって、大連、奉天、チタの監獄で十カ月過ごしました。その間尋問はずっとございましたが、裁判には呼び出されずに、書類裁判によりまして、それもチタにおりますときに政治犯として五年の刑を言い渡されました。一九四六年、すなわち終戦の翌年九月、カザフスタンのカラガンダの近くのアクモリンスクという近くのラーゲル、すなわち刑務所に送られました。そこは女囚人のあらゆる民族の集まりでありますが、一千名ほどおりまして、隣りには鉄条網を境に男のラーゲルもございました。ちょうどそこには刺しゅうの工場がありまして、私は力に応ずる仕事として刺しゅうをして働いておりました。しかし、栄養の不足のために、るいれきになり、八時間労働を六時間に減してもらい、続いて四時間になり、ついに二年間の病院生活をいたしました。病院に入院している間でございますが、中耳炎をしまして、左の耳が聞えなくなったのでありますが、それも一週間くらいでずっと聞えなくなりまして、確かになおるはずのものがなおらないというようなわけでございますが、やはり栄養が足らなかったからだと、こちらの先生はおっしゃるのです。七年間もほうってあったのですから、今どうにもならないのです。  男のラーゲルも女のラーゲルも、組織や配給される衣服、食物の程度は同じでありますから、私は申し上げませんが、ちょっと申し上げておきたいことは、ラーゲルもいろいろ種類がございまして、最初四年間以上おりましたラーゲルは大きいラーゲルでございましたが、給与が一般に悪く、ことに病弱者――インヴァリートと申しますが、その人たちには給与がある。私も長らくインヴァリートとしてそこに生活しておりましたが、そこには五十歳以上のそういう方がたくさんおりますので、ラーゲルの生活は暗い影を投げておりました。そういうところから考えまして、ハバロフスクやほかの筋肉労働のできない方たちの生活は暗いということはやはり想像できます。しかし、刑の終るちょっと前の二カ月ほど収容されておりましたラーゲルは非常に明るく、男女別々でございましたが、同じラーゲルの中に男女別々のバラックがございまして、外に仕事に出るのも男女一緒であり、食堂も男女一緒でございまして、また、彼ら囚人自身が、ここは模範コルホーズと言っていいくらいだと言っておりました。そこは、ちょうど農事試験場がございました関係だと思いますが、模範コルホーズだと言っていいくらいだと言っておりました。食事もたいへんよく、その後私が一時帰国の途中収容されたハバロフスクの日本人のラーゲルなどと比べものにならないほど高級のものでありまして、私がそこで病人食をもらっておりますときに、他の囚人は、私に、あなたが自由の身になって食事をするときにはきっとこのラーゲルの給与のよかったことを思い出すだろうと話しましたが、果せるかな、私どもがシベリア流刑にあいまして、そのラーゲルの食事がよかったことを思い出しました。なぜ私が向うのいいことを申し上げるかと申しますと、ソ連のラーゲルは驚くほどたくさん数がございまして、視察に来る人たちはただこのようなりっぱなラーゲルでだまかされて、すっかり感心してしまわれるからでありまして、全体としては給与は悪いものであるということを知っていただきたいからであります。私だけでなく、皆さんあちこちラーゲルを渡っているロシヤ人の人がそう申しておりました。大ていの者は外人でございますが、ロシヤ人その他の人でも、どんなに少くとも一年に二、三回の小包を受け取って、どうやら息づいているのでございます。毎月送ってくる者もございます。私はもちろん一度ももらわなかったのでございます。  一九五〇年、私は五年の刑を終えまして、一応自由が与えられ、鉄条網の外に銃を持った監視人のいないところに出たので、日本に帰してもらえる資格が十分あったのでございますが、シベリヤの流刑、すなわち島流しにされて、クラスノヤルスク地方に送られ、ロシヤの自由民、一般人と一緒に生活をしておりました。と申しますのは、そこには、上着なり、または自分の自由意思で移住して来た人たちもおりますが、私は政治犯としての前科者としてシベリアに流されて来たので、ある一定の範囲外に行くと、また監獄に入れられ、刑を受けたければならぬわけで、一月に一回係官が回って来るとサインをしなければならないのであります。私のいた村は、クラスノヤルスクから汽車でカンスクまで行きまして、そこからバスで四、五時間行くと小さへ町に着きます。そこから七十五キロ隔てた川沿いの森林――タイガーの中の、人口四百ほどの小さな村でございました。五年の刑を終えて私の行けるところは、その七十五キロ隔てた小さな町へ行けるだけで、非常に不便な村で、その町に出かけるのが大仕事でございまして、ちょっとその町に出かけると、一週間の予定でないと行って来れないというふうでございました。その村の周囲は果てしない松とシラカバの森林で、全村あげて森林伐採作業に従事いたしておりまして、筋肉労働に適しない者の行くところではなかったのでございました。私は最初掲示板書きをさせられました。材木を切るときいろいろ危険が伴うので、その危険を注意する掲示板を書いたのであります。また、三月になると、半年降り積ったシベリアの雪は固く厚くなっておりますが、その雪かきを朝から晩まで一月森林の中でやっておりました。川の次が解けて川が流れ始めますと、六月には、冬の間準備しておいた高く積まれた材木をころがし、川に流し込みます。私は、適当な皮の長ぐつを持っていないために、雪解けにリューマチにかかって苦しんでおりましたが、やはりかり出されました。シベリアの材木は長くて大きく、厚いのですが、それをころがすのも、普通の健康があれば何とかやっていけるので、またロシヤの婦人たちにはもちろん何でもないのでございますが、筋肉労働に適しない、またリューマチをわずらっている自分は、心身ともに最大限度に張り切って働かなければならないのでございました。ロシヤの婦人たちは、私の力が足りないために一緒に働くことが不利なので、みな私とともに働くのを喜ばなかったのでございます。そのほか麻布修理もいたしましたが、それは一時的の仕事で、落ちついて生活することができなかったのでございます。そのうちに便所掃除婦として二百七十ルーブルを与えられたときは、私も大いに満足したのです。月給二百七十ルーブルあれば、いなかのつつましい生活はどうにかやっていけるのでございます。そのほか私は刺しゅうの下絵を書いたりなどして、ジャガイモとか牛乳とかを村の女たちからもらって足しにいたしておりました。最後に私は託児所の保母として働き、月給三百十ルーブルもらい、もし日本に帰れないようなことがあったら、死ぬまで託児所の保母として働いていたいと考えていました。それは、そこで働くより、小さい村の中のことでございますから、ほかに適当な仕事がないのでございました。また、皆が、あなたは家の中で働いていいですねと言うのです。屋根の下で働けるということは、シベリアに住む者にとって非常にありがたいことで、厳寒中零下四十度くらいで、森林の中で働かなければならないのが普通なのでございます。三百十ルーブルというと、日本金に直して幾らになるかというと、物価が一々同じ率で計算できないものでございますから、比較は無理でございます。もちろん、その中から収入税、国債、子なし税を引かれます。子なし税というのは、独身税というのとまた違うので、子がなければ、結婚していてもいなくても取られるという税でございます。しかし、その子なし税は、外国人だというので、一九五四年あたりから返してくれました。と申すのは、ソ連の国籍を持っていない者はソビエト人と結婚を許されないので、子なし税があるわけはないというのでございましょう。託児所は生後三カ月から三才までの幼児を預かって、保母一人で二十人の子のめんどうを見ております。  私の印象では、ソビエト人は個人としては気持のよい人でした。しかし一つ不愉快なことがあるので、それは、ただいま片倉さんもおっしゃいましたが、向うの人たちは、あなたは日本に帰れると思っているのか、それは間違った考えだ、あなたは決して帰れるはずがないと言うのです。私の言葉を記憶していて下さいなどとよく言われました。私は、いやなことを言うやつだ、黙っていればよいのにと思いました。これは何を示しているのでございましょうか。私は、ソ連政府の国民に対する態度の反映でないかと思います。また、彼らは、あなたは日本に帰ると日本のラーゲルに、すなわち日本の刑務所に入れられるよと、何度も言うのでした。私はこれを心の中で笑っていたわけでございます。向うの人はそう思っているのでございますね。私たちがすぐ家族の者と生活するなんというのはむずかしいと思っていたらしいのです。  私は、ラーゲルにいる間、新聞を見るのを避けておりました。私は政治犯なのです。またどんな疑いをかけられるかわかりません。新聞といっても、もちろんソビエトの新聞です。また政治、外交に関して質問したいときも質問しないでがまんしておりました。シベリア流刑中、自由になってから、ラジオを通じて日本の声を聞くことができたのですが、聞いていたのが原因で帰国できないようになっては大へんだと思って、聞かないでがまんしていたのでございます。あるとき、ソ連の者がクラブでラジオのスイッチをひねりますと、東京から幼稚園の子供たちの「おててつないで」の声が聞えてきたので、私はびっくりして、うれしいやらおそろしいやらという気持で、急いでとめてもらいました。それは、私がばか正直だとか、憶病だからそういう態度をとったのでは決してないのであることは、これから申し上げることでも御了解できると思います。  私は、一九五四年、すなわち昨年、外国人に与えるパスポートの一種、無国籍者の居住券と申しましょうか、そういうものを与えられました。しかし、私の行けるところはやはり七十五キロ離れた小さい町へ行けるのみでございました。そのパスポートの中には、最後の国籍というところに日本と書いてありました。私は、機会が来ればきっと帰れる、外交関係がよくなれば日本に帰れると思っておりました。しかし、日本人の中には、ロシヤ語がよくわからなかったり、またパスポートの知識が不十分なために、ソビエト人のもらう普通のパスポートをもらいまして、困っている方があるのです。  今度お友だちの日本人は帰国できても自分は帰国できないという状態にある日本人がまだほかにおられるかは、私は存じておりません。刑が終りましてラーゲルから釈放されている抑留者の多くは、この一、二年に帰国できなければ、がまんの緒も切れてしまうのです。そして、いつ帰れるかいつ帰れるかと首を長くして待つのをやめて、腰を据えてシベリアに落ちつこう、仕方がないからシベリアで家庭を持とうと思っておられる方もあるようです。戦争中ならいざ知らず、平和になりまして十年も、不自由な、不自然な生活を続け、ことにラーゲルを出まして一応自由を与えられて、そして不自然な生活を続けるということは、非常に困難なことでございます。私のようにからだの弱い者でも、シベリアで生きることは生きてきたのでございます。しかし、帰りたい、ぜひ日本に帰らなくてはならないと思っておりました。それは、ラーゲル生活でもまた流刑中でも聞いたことでありますが、ロシヤの人たちで、ソビエトに籍がある人で、夫が政治犯だったために刑を受けて、自分は何の悪いこともしていないのですけれども、夫のためにラーゲルに入っているという女性もたくさんございます。また、一度自由になって家庭で平和に暮しておっても、政変があってまた流刑を受けている人もございます。また父が政治犯で子が流刑になっております。そして日本のような国に行けるなら自分は日本に行って暮したいというような口吻もちょいちょい聞いたわけであります。それは当然だと思うのであります。今度川国の途中私がハバロフスクのラーゲルに四十日ほど収容せられましたときに、ある日本人の方で、前に奉天においでになり、ハバロフスクのラーゲルでお医者をしておられた方が、去年皆さんと一緒に帰国さしてやるというわけでナホトカまで出ていらっしゃったのですけれども、身体検査のときに、死亡者名簿をお持ちになっているのが見つかりまして、引きとめられて帰されないで、二十五年の刑をもらっていらっしゃいます。私のところに会いにいらっしゃいまして、そういうわけだから、よく注意して、何も書いたものは持たないで帰るようにと、つくづくおっしゃいました。私がまた監獄からラーゲルに行くのに、ロシヤは広いものですから、汽車で幾日も乗って行くその途中、またはラーゲルからシベリア流刑に行く途中でも、中継所があります。その中継所でもってよく病院の看護婦たちが日本人のこういう人がなくなったと私に言われたのです。たくさんあって、書いてはいけないものですから、どういう方がなくなったかということを覚えていないのです。こちらではっきりしていない方たちなどは、そういうところでおなくなりになった方がかなりいらっしゃると思うのです。それは、私も頭が悪くなっていることもあるでしょうけれども、そのほかに、書いてはいけないと言うものですから、全然書きませんし、どういうときに身体検査を受けるかわかりませんから、書いてないために、今度皆さん方に申し上げることができなくて、はなはだ残念に思っております。  それで、私が日本人なるがゆえに日本に帰りたい、親兄弟がいるから日本に帰りたいというほかにも、日本に帰りたいという大きな理由があるのでございます。ロシヤにいては、またどんなことになるかわからないから、ぜひ今のうちに帰れるなら帰っておきたいという気持でございます。健康のある筋肉労働のできる者は、ラーゲルは別でございますけれども、ラーゲルを出ましてソ連で暮すには物質上はあまり困ってはいないのです。私のような者でもどうにか暮してきたのです。また、私のように三百ルーブルぐらいしかかせがないという者は少くて、先ほど申し上げましたように、千ルーブルも働いているような方がかなりいらっしゃいます。しかし、それはみんな筋肉労働者の場合でありまして、その方たちがいつも千ルーブル以上ももらえるというのではなく、ある月は三、四百ルーブル、ある月は仕事がないというようなわけで、いろいろでございます。今度一緒に帰ってきた人々の中に二人の方がインヴァリートのドム、これは養老院とは違うのですが、病弱者の家というところから二人帰ってきました。一人の方にお話を伺いますと、インヴァリートの家というのは、病院のようなところでありまして、大体はいいそうですが、食物が足りないということで、非常に困っていらっしゃいました。ほかのそこにいらっしゃるロシヤの人たち、ほかの民族の方たちは、家から小包を送ってもらって補っているそうですが、日本人には小包が来ないので、そこに働いていたドイツ人のおばあさんが同情して何かと持ってきてくれたということであります。  一般の生活について申し上げますと、ロシヤの人でも、前科のある者、特に政治犯は都会地においては親類に敬遠されております。そして、手紙を出すときには遠慮した方がよい、子の勤め先にも関係するからという工合でございますが、いなかにおいては非常に気楽でございます。私のいた村は人口三、四百ですが、そのうちに三分の一は流刑の人である。政治犯で流刑にあっている者がいるために、私ども政治犯の前科者にも、肩身が狭いということは決してございませんでした。シベリア土着の人たち、またロシヤ人との結婚、すなわちソビエト人との結婚は、外国人である以上は、すなわちソビエトの国籍を持っていない者は法律上できないのでございますが、同棲するという意味においてはだれも文句をつけることはないのでございます。職は優先的に現地人に与えられまして、流刑を受けている人のよくこぼすところでございますが、それも筋肉労働の場合には当てはまりません。民衆運動のあったことは、今度帰還するに際しまして、ハバロフスクのラーゲルに一時収容されましたときに、民衆運動があったということを教えられたのでございますが、思想教育を私たちに積極的にでも消極的にでもするという傾向は一度もございませんでした。それも、ハバロフスクのラーゲルのように多数の日本人のいるところとは違いまして、散在して日本人が生活しているのでございますから、効果がないからではないかと思っております。  最後に、帰国するための私の努力及び経路を申し上げます。五年の刑が終えましてラーゲルを出ても日本に帰されませんので、まあ平和条約によって国交が平常にならなくては帰れないからと思いまして、日本に通信などは考えもいたしませんでしたし、またできるなどとも思っておりませんでした。一九五三年にスターリン死後、恩赦によりまして、五年までの刑を受けた者はどんな政治犯でも取り消されるということがわかりまして、私は日本に帰るということを心待ちするようになりました。一九五四年、昨年、興安丸の来るのを三月の初めモスクワのプラウダ紙によって知り、どんな日本人がその帰還者に選ばれるかを私は知りまして、私はその資格を十分持っているから、その興安丸で帰国できると思いまして、呼び出しを毎日待っておりましたが、通知がなくて、興安丸もそう長く停泊しているはずがないから、置いてきぼりにされたとわかったのです。同じ年、昨年六月、流刑中の政治犯で刑期五年の者に青色の証明書が交付されまして、それに前科は取り消される、流刑もなかったものとして取り消すということが書いてありました。それで私は直ちにモスクワのソ連赤十字社とソ連の外務省に嘆願書を出しましたが、何の返事もございませんでした。それからいろいろ考えまして、ウラジオストックのアメリカの通商代表を通じて日本の家族に連絡方を頼みましたが、それも返事がございませんでした。返ってはきませんでしたけれども、そのままでした。去年の十二月の初めに、前に申し上げた無国籍者のパスポート――居住券ですね。それをもらいましたときに、日本に帰りたいなら引き取るという手紙が家から来ない以上は帰国できないと向うの人が言うのです。それで、私は、いいえ、日本は、家がなくても、家の方で何とも言わなくても、国家が引き取ってくれるのだからと、そう言ったのですけれども、向うではそういうことはどうもわからないらしいのです。それで私は期待をかけなかったのでございますけれども、原籍長野の方に手紙を出しまして、東京におる姉のところにその手紙が参ったということをナホトカで知ったわけでございます。そのようなわけで、私は一度も小包も手紙もソ連ではもらわなかったのでございます。私が実際嘆願を出しているのに、今度帰る場合には、私が嘆願書を出していないからという理由で、危ないところで残されるところだったのでございます。詳しいところは略しまして、私とともに同じ村で一九五三年から働いていた一人の男の方がおられました。その方は、無国籍のパスポートももらっていらっしゃらないし、流刑中の人で、私よりも刑が重く、嘆願書も出したことのない人なのですが、その人に私より先に帰国呼び出しが参りまして、その人はするすると帰れるようになったのに、私は途中何度も引きとめられまして、私の名前が名簿に載っていないからというので、嘆願書を書くようにとさえ言われまして、さっそく書いて出しましたが、ロシヤという国は、広いのでありましょうか、わけがわからないのでございます。書いたものは書いてないと言われますし、書いてないものがうまく行きますし……。私のほかに、呼び出しのなかった人で、嘆願書の返事をもって第一に帰還さしてやるという約束をもらっておりますので、無理に自分のお金で飛行機でナリンスクから飛んで来られた方もあります。それで、嘆願書が大きな役割をするということは確かでございまして、ロシヤはそういう国で、向うの人たちが、あなたたちは書いて書いて書かなければならないのだとおっしゃるのです。どこに書いていいか、それは赤十字社か外務省か、あて名がはっきりわからないのでございます。抑留者自身が書くとしても、ハバロフスクのように日本との通信のある所の人に教えることはむずかしくないでしょうけれども、地方、すなわちラーゲルを出た人にこれを伝えることはむずかしいことでございます。  私の報告はそれだけでございます。
  105. 高岡大輔

    高岡委員長 これにてソ連地区より帰還せられました参考人方々及び日本赤十字社の木内参考人よりの総括的な事情説明は終りました。  参考人に対する質疑の通告がありますので、逐次これを許しますが、この際委員各位にお願いいたしたいことは、参考人各位に対し、引き揚げ問題以外のことについては御質疑を御遠慮願いたいと思います。  なお、去る五月二十一日日比谷公園において行われましたソ連引き揚げ完結期成国民大会の当日の写真を、今ロンドンにおられます松本全権より、この七日に間に合うように至急二部送っていただきたいとの要請があり、これをこちらから送りましたので、その一部を皆様にごらんに入れたいと思いますので、御回覧願いたいと思います。  通告順に発言を許します。小林信一君。
  106. 小林信一

    ○小林(信)委員 抑留生活の非常に苦しい体験を通じて、われわれ同胞のいろいろな情報を得たのでありまして、厚くお礼を申し上げます。また、なお残っている方たちに対する切実な気持を披瀝されまして、われわれもまた同じような感を深くしたものでございますが、一つ、簡単でけっこうですが、お気づきでありましたならばお聞かせ願いたいと思いますことは、実は、昨年ちょうど今ごろ参りまして、七月の二十二日にソ連の外務省をたずねまして、ヴィシンスキーがときの副大臣でございますが、私たち会いまして、抑留同胞の帰国を要望したことがございます。そのときに、私たちもまことに用意がなかったわけでございましたが、大体聞いておりますところから、外務副大臣に対しまして、一体日本人が幾ら残っておるかという問題と、それから、実際通信をもらっておりながら、日本の方に通信がありながら、そういう者を合せると数の上でもって合わない点がある、だからソ連がこちらに通告するよりも以上の数が残留しておるとわれわれは考えるのだが、そういう点に疑問を持たせることは非常にいけないことであるというので、その問題を解決するためにいろいろ討議をしたわけですが、その中で、ソ連の方におった者を一部中国に移したということを聞いておるが、そういうことは事実かどうかということを尋ねたのですが、ヴィシンスキーも、そういうことはあったと思う、こういう返事があったのです。これは、その後になりまして、北京でリトクゼン女史に会いまして、ソ連の方から同胞がこちらに相当引き揚げられておるはずだけれども、そういうことはあるかと尋ねましたら、ある、数はと言ったところが、数は私は知らない、こういうことで、この数が問題になっておったのですが、その途中、蒙古ウランバートルに私たちの飛行機が給油をするためにとまったのです。しばらく時間があったので、飛行場の中を歩いておりますと、たまたま中国人に会ったのです。中国の人たちが十五、六人おったのですが、その人たちが私たちをつかまえて、日本人だろう、こう言うのです。それから、そうだ、君らはと言ったら、われわれは中国人だ、そういう話をしておるときに、たまたまその人たちが、お前たちはハバロフスクから来たか、こう言うのです。そこでわれわれは、非常に簡単な言葉ですが聞きのがすことができなくて、今までのヴィシンスキーとの話、その後の事情等からも御想像願いたいのですが、重大関心を持ちまして、君らはここにいつでもいるのかと聞くと、たまたまいる、こう言うのです。それではときどき日本人を見るのかと私たちが尋ねたところが、見たのは初めてだ、こう言うのです。しかし、そういう点から私たちが想像しますのは、シベリアの方から抑留同胞がこの線を通って中国に送られておるのではないか、あるいは、そこでうわさを聞いたのですが、ウランバートルに相当いるんじゃないかという話も私たちは聞いたのです。そういうふうな行方不明の人たちのあることを私たちは何とかしてこの旅行の中でつかみたいというような念願でずっとおったのですが、そのウランバートルの問題等から考えて、皆さんも、おいでになった所から、もちろん皆さんにはおわかりにならないけれども、何かの風のたよりというようなもので、皆さんの仲間が中国の方に相当移されたというようなことをお聞きになっておられるかどうか。私は非常な関心をもってこの問題をずっと考えておるのですが、ウランバートルにおるというようなことも、私まだ日本政府にも尋ねてないのですが、そんな点、あるいはハバロフスクあたりからこういう経路でもって中国の方に送還という形ですか引き渡された者があるのではないか、こういう点につきまして、お気づきになった点がありましたら、この際お伺いしたいと思います。どなたでもけっこうです。
  107. 富永恭次

    富永参考人 私はシベリアの奥の方におりまして、日本人が三名とか四名というようなところを転々といたしましたので、その話は聞きませんでしたが、昨年の十一月にハバロフスクに来まして、日本人の方々のたくさんおるラーゲルに来まして初めて聞きました。そのときにはっきりと承わりましたのは、主として満州国の大官、また満州国におられた日本人の武部さんのこと、その他将官級の者、若干名のことは聞ましたが、兵の方その他一般の満州国大官以外の方の中国に行った話はあそこでは承わりませんでした。それから、ウランバートルの話は、これは初め熱河の方におりました部隊があすこに移されたそうでありまして、何年か捕虜としておりまして、そのうちで今なお残っておるのが一名、印南という憲兵の少佐であります。この方だけが今残っておると本人は言うておりました。その方は今ハバロフスクの第二十一分所におられます。ほかの者は全員帰ったが、自分だけここに残っておるという話でありました。それだけ私は聞いております。
  108. 小林信一

    ○小林(信)委員 ありがとうございました。  それから、これはやはり私の参考にしたいのですが、今赤羽さんが御説明になりました向うの待遇の問題でございますが、三百ルーブルというのはいつごろの給与であるか。給与の上で非常な差が出てきたときがあると思うのですが、これをお伺いしたい。
  109. 赤羽文子

    赤羽参考人 一九五三年から帰るまで私託児所に働いておりまして……。
  110. 小林信一

    ○小林(信)委員 そのころの給与ですか。
  111. 赤羽文子

    赤羽参考人 さようでございます。
  112. 小林信一

    ○小林(信)委員 それから、その前に御説明なさった方にお伺いするのですが、囚人として抑留されておられる場合にはいわゆる共産主義の指導というようなことはされなくて、集団的な生活をしておる場合にそういうことが行われるが、それは指導者が自分の立場を作るために率先して行い、またそのためにそうでない人たちに非常な迫害を加えるというようなお話をちょっと承わったのですが、その通りですか。
  113. 片倉達郎

    片倉参考人 お答えいたします。囚人収容所におきましては、作業が本来の任務でありますので、思想的な教育は全然ありませんでした。私が一九五四年ハバロフスクの収容所に行きましたところ、そこは前の日本の捕虜収容所からただいま日本人囚人収容所になっておりまして、そこにいる方々から私が聞き、並びにそこにおいて行われたコースを私があとから見まして、また、東京在住当時の友だちのところに、ただ昔の友だちであるということのためにお伺いしましたところ、帰ってきましてから、君、あれはこういうコースを持った人間だから決してつき合ってはいけない、日本人がその人のために売られてきたのだ。私はただ昔の友だちだから会いに行ったのですが、様子を聞きまして、それからつき合わないことにしましたが、そういうような形で私は知ったのでありまして、直接共産主義の教育が行われているそのときに行ったのではありませんから、確言できませんが、その範囲内でお答えいたします。
  114. 小林信一

    ○小林(信)委員 ありがとうございました。私も実はイワノヴォという捕虜収容所にお伺いしたことがあるのです。これはモスクワの北三百五十キロくらい離れたところでございまして、そういう皆さんの生活の実態というようなものも多少想像できたわけですが、そこにおられるのはみんな二十五年の刑を受けられた人たちでありまして、今赤羽さんのおっしゃったことで私も納得できたのですが、やはり五年この人たちも減刑されたらしいのです。その減刑をしたということを手紙などで故郷に話すことはいけないことになっているから、私の口伝えで家族に知らしてくれということを私は頼まれたのですが、そこの人たちからも、この思想的な面につきましては話を承わったことは全然ないのです。やはり重刑の方だからかもしれませんが、山田乙三大将などは、私たちに会うときは、もう取っておきの軍服を着て、軍帽をかぶって、堂々と出てきて私たちにあいさつをして、いささかもそういう点は見せなかったので、非常に意外に思ったのですが、やはりそういうような特別なものにはないのだと思ったのです。  それから、赤羽さんに、ちょっとつまらぬことですが、ラジオをひねって日本の放送が聞えたというのですが、向うでも日本語の放送をやっておりますが、向うの放送ではなかったのですか。ほんとうにダイヤルを自由に回せるようになっているのか。これは実は、私たちは、中国でもソ連でも、どこのラジオを見ましても、みなラジオが五つの段階に分れておりまして、それ以外のところにはダイヤルを回すことができないようになっている。だから限定された放送しか聞えないようになっているのですが、地方に参りますと自由にダイヤルを回せるような装置になっているのですか。小さなことですが、私の参考にしたいのでお聞きしたい。赤羽さんのお使いになったラジオはダイヤルは自由に回せたのかということなんです。
  115. 赤羽文子

    赤羽参考人 私よくわからないのですけれども、自由に回したわけなんです。それはモスクワじゃないと思うのです。日本からじゃないかと思うのです。クラスノヤルスクでございまして、短波でございます。
  116. 高岡大輔

  117. 戸叶里子

    戸叶委員 一、二点お伺いしたいと思います。ことしの六月ぐらいから日ソ交渉が積極的に行われるということが発表されたわけなんですが、こういうことによって、ソ連におられた皆様方に何か変ったような雰囲気が感じられたかどうかを伺っておきます。
  118. 富永恭次

    富永参考人 当時私はハバロフスクの第二十一分所におりまして、その日ソ交渉に関するニュースは、向うからラジオで発表するもの、また中国の新聞――向うの方では三種類か四種類中国新聞を購読させておりますが、それによって、また向うのプラウダ、イスヴェスチアという新聞によって、全員非常な熟思をもってこれに対しては注意しておりました。それに関して、向う側の待遇としては別に変ったような様子は一つも見受けられませんでした。
  119. 戸叶里子

    戸叶委員 赤十字の方に伺いたいと思います。これはなかなかわかりにくいことかもしれませんが、先ほど赤羽さんの御意見の中にもありましたように、満刑者もずいぶんいるわけですけれども、まだ刑が満了しておらないような方が非常に多くいるかどうか、おわかりでしたらお伺いしたいと思います。
  120. 木内利三郎

    ○木内参考人 赤十字は、向うからもらいました戦犯者千四十七名、そのうち死亡者あるいは帰られた方があって千四十三名の名簿がございますが、それ以外には、向うに一般犯罪者などについて問い合わせをしたこともございますが、全然回答がございませんので、何も資料を持っておりません。
  121. 戸叶里子

    戸叶委員 もう一点だけ片倉さんに伺いたいと思います。初めて小包をごらんになってどんなにかお喜びになったことと思いますが、その中でも一番うれしいと思った品物――何でもうれしかったと思いますけれども、向うにいて日本から送ってもらったもので一番うれしいと思ったものは何でございますか。参考までに……。
  122. 片倉達郎

    片倉参考人 祖国日本、なかんずく郷土のにおいのするものでございました。高価な品物も入っておりましたが、食べてしまえば一週間もしたら何も残りません。またいろいろな衣服その他珍しいものもありましたが日本人みんなにわけてやります。最後に私のところに残りましたのは、感謝の念と、郷土のにおいのした手ぬぐいでございました。
  123. 高岡大輔

    高岡委員長 ほかに御質疑はございませんか。――なければ、これにて参考人よりの事情聴取を終ります。  参考人各位には、長時間にわたり詳細に実情を御説明下さいまして、本委員会といたし引き揚げ問題調査の上に非常に参考となりましたことを、委員長として厚く御礼申し上げます。   暫時休憩いたします。    午後三時五十三分休憩      ――――◇―――――    午後四時四十四分開議
  124. 高岡大輔

    高岡委員長 これより会議を開きます。  この際、日ソ交渉に関する残留同胞引き揚げ問題について発言の通告がありますので、これを許します。中山マサ君。
  125. 中山マサ

    中山(マ)委員 私は、実は外務大臣にお尋ねしたいと思っていたのでございまするが、お越しがございませんので、政務次官にお尋ねしたいと思います。  政府が閣議で決定なさいましたことに、ソ連との国交の正常化をはかり、領土、残留邦人引き揚げ、北洋漁業、国連加盟などの懸案を解決するというふうに御決定事項がなっておるということでございまして、そういう趣旨の日ソ交渉の基本方針をお定めになったのでありますが、私は、この問題が提起された初めからこの経過を見ておりまして、どうも総理大臣と外務大臣との御意見が一致しないようにずっと見ておりました。ところが、留守家族の大会があり、あるいは外務委員会とか、いろいろな方の御発言がございまして、ようやく政府の思想統一ができたように表向きではなっておるのでございますが、しかし、私が思い出しますことは、今日世界の情勢を見ておりますと、英米のようなああいう大きなりっぱな国々ですら、ソ連を相手といたしましては非常にてこずっておるような状態を見受けられるのでございます。まして、われわれのような立場に立っておりまするこの日本が、外地に出向いてソ連との交渉をするという段取りになっております。いつか、武者小路さんでございましたか、新聞紙上でもって、今度の交渉に当られるマリク氏は一度もヴィートー権を発動したことがない人だ、非常にいい人であるから喜んでおるというようなことが出ておりましたが、私は、この引き揚げの問題で国連に参りましたときに、マリク氏が政治委員会におきましてやはりヴィートー権を発動なさった場合を見てきたことを思い出すのでございまするが、なかなか政府やそのまわりの方々がおっしゃるようななまやさしいことではないと私は考えておるのでございます。それで、この閣議決定の言葉を回して、結局、残留同胞あるいはその他の懸案を解決して、それから国交調整にいくというように、前文とうしろの方とが今度は反対になってきたように考えて最近富んでおりましたところが、きのうきょうの新聞を見てみますと、松本全権から非常に長文の電報が外務省に入った、そうして九日の午前中には外務省では重要なるところの協議をなさる、そうしてその電報に対する返事を持って外務省の人がロンドンヘおいでになるというような発表を見まして、これはただごとではないというような心配を私はけさから非常に抱いているものでございます。最後に外務大臣と総理大臣が思想を統一なさいました線を逸脱するようなことが今度は出てくるのではないか、もうすでにお話し合いになって英国へおいでになりましたのに、なぜ長文の電報を打つ必要があったか、それは、閣議決定の内容ソ連へ聞えておって、その線に沿ってソ連がいこうと考えているのではないかというようなことを私は非常に心配いたします。きょうも、午後、この間ソ連から帰って見えましたところの参考人のお方々の話を聞きましても、どうしても引き揚げの問題を早く解決してもらわないと、残っている人たちの命がそのときまで続くかどうか心配だというような御発言もありましたのを見ましても、私は非常に重大なることがきょうあすの間に外務省できめられるのではないかということを非常に心配をしておるものでありまするが、この点について政務次官のお答えをいただきたいと思います。
  126. 園田直

    ○園田政府委員 お答えをいたします。  まず、本日は、数日来より大臣の出席を求められておりまして、引き揚げ問題に関連する日ソの国交の折衝の問題についてはまだ御報告の段階ではございませんが、事重要なる問題でございますから、ぜひ大臣が出席をして所信を披瀝する予定でございましたが、御承知のごとく、参議院の予算委員会審議の状況によりまして、出席不可能と相なりましたので、政務次官が代理として出席をいたしました。不本意ではございましょうが、責任を持って、誠意をもって御答弁をいたしますので、御了承を願いたいと考えます。  ただいまの中山委員の御質問で、ソ連日本との国交調整の基本方針について、国交調整をやって、しかる後に引き揚げ問題を初めとする諸懸案を解決したいという閣議の決定をして、この間に総理と外務大臣との意見の食い違いがあるのではなかろうかという第一の質問でございますが、さようなことは表向きにも裏向きにもございません。意見は完全に一致をしておりまして、その内容は、外務大臣が衆議院の本会議並びに参議院の本会議で御報告をいたしました演説の内容及び大橋君の質問に対する答弁、鳩山総理の各委員会における答弁におきましても明瞭であります通り、これにつきましてはいろいろな御意見もございまして、わが国といたしましては、諸懸案を解決し国交を調整したいという大体の方針でございます。この方針に基きまして、ただいま派遣しております松本全権には詳細なる訓令並びにその他の内容を指図をいたしまして出発をいたさせました。七日の午後三時からの会見は、外面的な問題については新聞にすでに報道されておる通りでありまするが、内容についての新聞の報道は、はっきり御報告申し上げる段階ではございませんが、新聞の報告は実際の会談の内容とは少々違っているような感じがいたします。この第一回の折衝の会談は、決して、両方から重大な問題が提案をされたり、あるいは意見の食い違いがあって、緊迫化して両国が各本国に向って方針その他の変更を請訓しなければならぬというような重大問題が起っておるようなわけではございません。第一回の会談はきわめて友好裏と申しますか、非常にスムーズに発足をいたしまして、あいさつの後から始まりまして、いろいろな問題の提案をいたしたわけでございます。長文の電報が参ったことは事実でありますが、それは何ら、新たなる事態もしくは予想せざるソ連側の出方によって、新たなる事態に対して請訓を仰ぐような筋合いのものではございませず、今までの訓令に従って訓令通りに動いた全権の行動なりあるいは発言の内容なり等を、念のために詳細に報告して参ったようなわけでございまして、本日九時十五分からの首脳部会談におきましても、この報告に基いて何か新たなる段階に関する諸方針等を指図すべく開いたわけではございません。会談の内容等から、次の会談における事態をいろいろ想像して、これに対する準備をする程度のものでございまして、今日までの会談の内容は、大体本会議並びに委員会において外務大臣、総理大臣から御報告を申し上げました線、並びに松本全権に訓令を与えました、われわれの予定通りに動いておるようなわけでございます。ただ具体的にこれを御報告できないことはまことに遺憾でございまするが、当委員会とも特に関係の深い重要問題等も提案されておる模様でございまして、これはまだ折衝の段階であって、しかも新聞ですでに一部報ぜられております通り日本ソ連の両代表はこれを発表しないという約束をいたしております。第一回の会談においては、日本側もソ連側も、きわめて友好裏というか、しごくスムーズに発足をいたしておりますので、その段階に、両方で相談し合った発表しないということをここで発表できる段階ではございませんので、その点はまことに遺憾でございますが、以上のような状況でございます。
  127. 中山マサ

    中山(マ)委員 私ども吉田内閣がやっておりましたときには、秘密外交ということで非常に責められておったのでございますが、やはりそれでは外交は秘密であると政務次官はお考えになりますか。
  128. 園田直

    ○園田政府委員 秘密外交と、行政庁たる外務省に委任せられたる折衝の段階における一つのワク内での経過の報告をしないことは、別個の問題であると考えます。われわれは、当然議会に基本方針は報告をし、了解を求めて、その方針のワク内において、ソ連日本との国交を調整し、諸問題の解決をしたいと考えておりますので、全部方針あるいはその他の状況を国民の代表たる国会の承認もしくは了解を得ずして勝手にやることが、意思に反してやることが秘密外交であると考えております。われわれのやっておりますことは、国民の代表たる皆さん方から委任せられたるワク内において折衝しておりますので、そのワク内において折衝の経過中に御報告申し上げないことは、これは皆さん方の御命令に忠実たるゆえんであると解釈いたしております。
  129. 中山マサ

    中山(マ)委員 これは立場の主観と客観の違いでございまして、これまでも、こういう事態で進行いたしておりましたときもやはり秘密外交のそしりを得ておりましたので、立場を変えるとそういう御説明にもなるのであろうかと私は思うのでございますが、しかし、この基本方針がもし変更されまして、いわゆる向うが希望いたしますほかのところを見ましても、いろいろと心配になる節がたくさんあるのでございます。今日留守家族が非常に熱望をしておりますこの問題がうしろへ回されるというような心配は政務次官はしていらっしゃらないのでございましょうね。
  130. 園田直

    ○園田政府委員 さようなことは断じてございません。国会の示された方針に従いまして、忠実に、しかも熱心にこれを主張いたしておることだけは、責任を持って御報告を申し上げます。
  131. 中山マサ

    中山(マ)委員 それでは、政務次官のお言葉は、外務省なりあるいは内閣の変らざる方針ということで、もしこれが変りまして宣言がされて、留守家族が泣かなければならない場合には、どういう責任をおとりになりますか。
  132. 園田直

    ○園田政府委員 今日までの交渉の経過におきましては、不肖政務次官ではございまするが、代理として出席した以上は、政府並びに外務大臣同等の資格をもって責任をとるつもりでございます。
  133. 中山マサ

    中山(マ)委員 何だかあまり御雄弁で、私はあなたのお言葉がまことに失礼なことを申すようでございますが、いわゆる雄弁というのか能弁というのでございましょうか、私はわかりませんが、どうも非常に軽々におっしゃるような気がいたしまして、お言葉はまことにりっぱでございまするけれども、私の心があなたのお言葉を得心しないのであります。それで、私はもう長い間引き揚げの問題をやっておりまして、自分の家族にそういう者はおりませんけれども、これは非常に重大な問題であって、私はまことに失言と言われるかもしれないけれども、あまり何というのでしょうか調子がよ過ぎて、私はそれを絶対に信用ができないのであります。それで、あなたが政務次官としてこの責任をとっておやめになるならぬということは問題じゃありません。それはただあなた一人の一身上の立場でおありになります。責任をとるとおっしゃれば、それでいいのでございましょうけれども、どうぞ、私が信用のできるような態度と、そうして真心と誠意をもって御発言が願いたい。どうもあなたのお言葉は非常に調子が軽うございます。あなたが外務大臣を代表してお話しになるのでしたら、もっと慎重にお願いをいたします。しかも命をかけて家族は待っているのであります。日比谷におきましてのあの叫びをも、あなたはおいでになっていなかったようですから、多分お聞きにならなかったでしょうけれども、私はあなたの態度は非常に浮薄であるとしか申し上げられない。非常に失礼かもしれませんけれども、これは私の心に響くままを言わせていただきたいと思うのでございますが、いかなる事態がロンドンにおいて起るかは知りませんけれども、島なんかに待てば待てますけれども、この引き揚げの問題というものはなかなか待てない問題であります。どうぞ一つ、もっと慎重な態度で、真心をもってお答えが願いたい。
  134. 園田直

    ○園田政府委員 私の態度なり答弁の言葉の使い力等に軽薄に聞える点がありましたら、これは私個人の人格上の問題でありますから、謝罪をいたします。ただし、申し上げました点は、私があっさり申し上げましたのは、交渉の内容をすでに電報で受け取っておりますから、今日までの経過では、あなたの御心配になるようなことはなく、こちらは訓令通りに行動をしておりまするので、そのことをよく知っておりまするから、将来にはいろいろな問題が起りましょうけれども、今日までの段階では、指図通りに、一番大事なことは一番先に一番大事なところに取り入れてやっておりますので、ほんとうはそのことを具体的に御報告申し上げたいのでございますが、御報告できませんので、ただその事実を知っておりますから、ついあなたの御質問に対してあっさりいうわけではなく何のよどみもなく答えられたわけでございますから、御信用願えればけっこうでございます。
  135. 中山マサ

    中山(マ)委員 それではよろしゅうございます。
  136. 高岡大輔

  137. 臼井莊一

    臼井委員 中山さんがやったから、もういいです。
  138. 高岡大輔

  139. 受田新吉

    ○受田委員 せっかく外務大臣の意思を代表して政務次官がおいでいただいておりますので、ここであわせて中共との外交交渉について政府の所信をただしたいと思います。目下日ソ交渉におきまして、松本全権を派遣せられて、今政務次官御答弁のごとき進捗ぶりを見ているということは、一応われわれとしては安心をしておる次第であります。ところが、その成功を祈るとともに、いま一つ引き揚げ問題の重要なポイントは中共に残存する人々の問題です。この人々に対してば目下何ら政府として外交上の軌道に乗せておられない。日赤その他の民間諸団体を通じてわずかにあちらとの交渉が保たれ、引き揚げが継続されてきたのであります。先般アジア・アフリカ会議に出席した高碕国務大臣の帰来談を伺いますと、その会議に出席したシュウオンライ氏は、日本の首脳部と話したいという意思を表明せられたと聞いております。この問題は政府といたしましてはいかように考えておられるか、その点が第一点。まずそのことを先に伺いましょう。
  140. 園田直

    ○園田政府委員 中国の残留同胞の引き揚げで民間三団体が主体となって逐次成果をあげてもらっておりますことは、政府としましてはまことに感謝の至りでございます。この民間三団体のやりましたことを直接政府がみずから責任を負ってこれを引き受け、政府責任において向うの政府と話し合いを進めまして、引き揚げ問題を推し進めるという問題は、すでに外務省としましても種々の検討をいたしておりまして、直接折衝もやった方がよいのではなかろうかという大体の結論がただいま出ております。しかしながら、この問題は、いろいろその他の国際情勢等ともにらみ合せまして、大事ではございまするが、政務次官の私がここで政府責任を持って直接交渉をやりますと申し上げることは、また浮薄のそしりを受けますので、ここで私がそういうことをいたしますとは申し上げられませんが、大体そういうふうな方向に沿っておりますので、すみやかにいろいろな検討を進めまして、ただいまの御発言の意向を十分しんしゃくいたしまして、そのような方向に進めていきたいと考えております。
  141. 受田新吉

    ○受田委員 外務省として中国残留者の問題について直接交渉の用意があるという意味の御発言であると解しておきます。ただ、その方法についてはいろいろ御検討をしておられると思うのでありますが、中共の最高責任者の周恩来氏の御発言などを聞いて、私たちは、日本政府は当然何らちゅうちょなくこの問題の処理について中国政府との交渉に当るべきである、かように考えております。その方法としては、あらゆる案件に先だって、少くとも人道問題の処理は、外交交渉上において国際法上における独立国としての認定が互いにされていないというようなこととか、あるいは条約が締結されていないとかいうこととは別に、この問題の処理を考えるということについて、外務省当局としては十分の御考慮をいただいておりますかどうか、この点を伺いたいのであります。
  142. 園田直

    ○園田政府委員 人道問題上必要な点につきましては全く同意見でございまして、そのような方向に進みたいと考えております。
  143. 受田新吉

    ○受田委員 日ソ交渉においてこの引き揚げ問題が最初に取り上げられるごとくに進められておる、その内容については今事務上の問題としておまかせ願いたいというお言葉でありました。日ソ交渉においてまず引き揚げ問題を取り上げるということは、総理も外務大臣もしばしば申されておることでありますが、その内容において万遺徳たきは期してあると思いますけれども、残留者の氏名とか、あるいは死亡者の氏名とか、あるいは郵便物その他の交換とかいう問題についてのこまかい話合いの筋を通した用意がされてこの交渉に当られることになっておるのでありますか。この点においていささか不安もありますので、あらかじめ御答弁を願っておきたいと思います。
  144. 園田直

    ○園田政府委員 ただいまの問題は、松木全権は、いまだ帰らざる人々の数並びに行方不明、あるいは死亡者の推定数、あるいはこれに関する資料、あるいは本問題に対してわが国民の寄せられる関心を向うに説明するためのいろいろな写真あるいは手紙等の資料を持って行っております。しかし、きわめて重大な問題でございまするから、さらに念を入れて必要な資料等も集めて、必要なものは逐次送りたいと考えております。
  145. 受田新吉

    ○受田委員 政府の精密をきわめた態度には一応の敬意を表します。われわれは、ソ連及び中共地区に残存をする同胞の身上については、何よりも深い関心とまた同情を寄せて、わが事のごとく心配しているのですけれども、この問題を一日遷延するならば残存者の生命の上にそれだけ危険が加重することであるという意味からも、この外交上の交渉は非常に急を要する問題だと思うのであります。従って、日ソ交渉がまず引き揚げ問題を掲げて今軌道に乗った歩み方をしているということに対しては、一応の安心をし、また政府の御努力を期待するわけでありますが、あわせて、中共に残存する人々に対しては、ソ連との交渉等の経過などから見て、非常に手おくれのような感じがしておるのです。この点、昨年リトクゼン女史を迎えた機会にも、リトクゼン女史みずからも日本国の政府とわが国の政府とが直接交渉をすることをわれわれは期待すると発言しておられました。その点については中国政府側といたしましても十分の受け入れ態勢ができていると私たちは考えております。そこで、この際に中共との交渉に当りましても用意があるという今の御発言にわれわれは大いに期待して、その交渉の段階としてはいかなる方法があるか。たとえば、インドにおるところの中共の代表者と日本の代表者とが直接交渉をする、あるいは英国において中共の大使と日本の大使とが直接交渉をするとか、いろいろ方法があると思いまするが、それらの方法についてのいろいろの検討も加えられておりましょうかどうか、この点も伺いたいのであります。
  146. 園田直

    ○園田政府委員 ただいまのことはよく研究中でございます。
  147. 受田新吉

    ○受田委員 今国会の中の空気といたしましても、政府の直接の外交交渉に対する期待と合せて、われわれ国会の内部において、お互いの代表者が日本国を代表し国民を代表してソ連、中共に直接はせ参じて、この大事な問題の処理の懇請をいたし、その親善をはかりたいという熱意をもって、すでにその用意をされておるのでありまするが、これらの問題の処理について国会代表が派遣される場合には、旅券交付をなさって下さいますか。
  148. 園田直

    ○園田政府委員 御承知のように、不肖私、本委員会委員長を前に務めさせていただいておりまして、その問題は私の委員長在任の当時から皆さんから御下命をいただいていろいろ折衝しておった問題でありますので、よくその意味を了解いたしております。もちろん、この問題が正式に取り上げられて向うへお渡りになるということになれば、これの旅券の交付は問題はないと考えております。
  149. 高岡大輔

    高岡委員長 小林信一君。
  150. 小林信一

    ○小林(信)委員 私もこの引揚委員会をしばらく留守をしておりまして、この問題をあまりよく知らないのであります。従って、前にそういう討議がなされておるかもしれませんが、その点は御了承願って、御答弁願いたいと思います。  まず第一に、私は、政務次官が政務次官という立場でなくて、個人としての見解でもよろしゅうございますが、残留同胞の気持を考えてお答え願いたいと思います。次官は、昨年ソ連に参りまして、今はなくなっておりますが、ヴィシンスキーにお会いになって、そのときに私も一緒におったのですが、次官が強硬に抑留同胞の返還の問題については交渉したはずでございます。そうしてある程度そのときにはわれわれ期待を持って答弁も承わったわけでございますが、このときのソ連の態度と、現在次官が、個人としてでもよろしゅうございますが、外交の衝に当っておいでになってロンドン会議をながめられてのソ連の態度、これをどういうふうに考えておいでになるか、お伺いしたいと思うのです。時間がありませんから具体的に私お伺いいたしますが、まずヴィシンスキーはこういうふうに言っておりました。われわれは、国交を正常に返すということは不可能であっても、少くとも文化、経済の交流はどんな形かではかっていきたい、従って、お互いの間に代表等を何らかの形で送って、そうして友好関係を深めていきたい-。しかも、そのときに外務次官は直接おっしゃったと私は記憶しておりますが、その友好関係を結んでいく最も大事な問題は、われわれ日本人の同胞がここに抑留されておるということは国民感情として非常に友好関係を阻害するものである、この問題をまず君らが寛大な態度をもって対処せられなければ、友好関係を結ぶことはできない、こういう前提から、次官が直接要望したことは三つの問題があったと思うのです。たとえば、受刑者等は日本に帰して日本で刑を終えさせるという方法もある、それから減刑をするというふうなことも考えられる、それと、さらに三つ目の問題としては、全部あらゆる問題をなくして日本に帰してもらうことである、こういう三つの問題に対して、どういうふうに考えるかというところまでヴィシンスキーに質問されたことを私聞いておったのですが、これに対して相当な好感を持って返答しております。そういうことが今のソ連との交渉の間において――これはもちろん正式に次官として承わっておらないと思いますが、しかし、あなたの外交的な観点から、そういう点が考えられるかどうか。個人の考えでもよろしゅうございますから、お伺いしたいと思います。
  151. 園田直

    ○園田政府委員 昨年ソ連に参りましたときに、ヴィシンスキー氏と会談の際、今のような雰囲気であり、そういう談話を取りかわしたことは私も記憶いたしております。ただし、あの場合の会談は、われわれは正式のものではございませんが、日本国民の一員としての発言であり、向うのヴィシンスキー氏も明瞭に言われた通りに、政府の役人としてではなく、国民の一人としての発言であるということはつけ加えてございました。従いまして、その当時にやりとりした発言内容というものは、今日もかわらないものであると私は想像はいたします。しかし、事外交の問題となり、国交調整を始める段階に参りますと、やはりそこには外交的ないろいろな問題が起って参りますので、当然おのおの、日本もそうでございましょうし、ソ連もそうでございましょうし、いろいろ自分の国の立場から解釈をいたしますので、そのままわれわれが交換した言葉通りの雰囲気では出てこないのではないか、出てくれば非常に幸いであると考えております。たとえば、今中山委員から、今まではそうであるが、今後もそれを通せというお叱りを受けましたが、確かにそういう御懸念はわれわれもするところでございまして、やはりこの段階にきますと、問題は、国交調整を先にやるのか、あるいはそういう諸懸案の問題を先にやるのかという意見の食い違いなどの出てくることを非常に心配するところでございます。そこで、その問題については、今のところ、推察はいたしまするが、われわれの推察の見解を申し述べますことは、ソ連の全権代表とこちらの全権との約束にも反しますし、またわれわれがここで発言いたしますことは、直ちに電報をもって向うに参りますので、こちらの意思を推測される拠点ともなりますので、私の推察の具体的なことは申し上げられませんけれども、ある場合においては、そういう問題が一つの問題になってきて、それが一つの焦点になるおそれなきにしもあらずと心配しております。そこで、そういう場合におきましても中山委員のお叱りは十分注意をしたいと考えておりますが、やはりこれは、外交の問題になりますと、国交調整という問題をめぐって、ソ連はやはり日本と国交調整をしたいという熱意は十分持っておるとわれわれは考えております。だが、それをやる場合に、どういうものを先にし、どういう場合はあとにした方がよいかという解釈は、おのおの自分の有する主観によって解釈が違って参りますので、どのような出方をしてくるかということは、今後の出方を待たなければならぬ問題でございます。
  152. 小林信一

    ○小林(信)委員 これは非常にむずかしい政府の態度でございますので、はっきりお伺いすることはできないかもしれませんが、しかし、昨年われわれは、個人的な話し合いではございましたが、これは相当公式的なものに近い話し合いであったわけですが、全部帰すのが私たちの最も要望することであるけれども、しかし、もしそれが不可能な場合は、日本に帰して、そこでもって刑を終えるという方法もあるんだということまで話し合ったのですが、こういうふうなことは、今政府としては段階的なものは持っておるのかおらないのか、この点もお伺いいたします。
  153. 園田直

    ○園田政府委員 ただいま御報告を申し上げました通りに、現在は、両者の意見の論争はまだされませずに、諸問題を提案した段階でございます。その諸問題をこれから解決せんと折衝中に、これができなければこれでけっこうだと、これができなければ次善の策はこうだとかいう点については、委員会において発言する自由は私は持っておりませんので、御容赦を願いたいと考えております。
  154. 小林信一

    ○小林(信)委員 私もそういうことは考慮してお伺いしたわけですが、要するに、そういう昨年あたりの事情から考えても、相当政府としてはいろいろな問題を考えて、とにかくあくまでも身柄だけはこっちへ引き取るという方図は考慮せられなければならないと思うのでございますが、これ以上はお伺いいたしません。  その当時非常に問題になったのは数の認定でございますが、こういう問題も、単に向うが提示するものではなくして、外務省といたしましては一切日本側において調査した事実をもって強硬に交渉されることが、国民全体の最も希望するところでありますが、そういう点につきまして、外務省の見解は、相当食い違っていると考えておられるかどうか、この際お伺いしたい。
  155. 園田直

    ○園田政府委員 数字等は詳細に調査をいたしまして、その数字は、推定ではございまするが、食い違いのない、ほとんど確実に近いものを持って行っておりますので、その数字に基いて交渉するつもりでおります。
  156. 小林信一

    ○小林(信)委員 昨年われわれが交渉した際にも非常にそういう点があいまいであったわけですが、これはほんとうに、家族のことを考えてみるときに、一人でもこれが落されるようなことがあってはならないわけでございまして、その点は、私、外務省といたしましては確実な数字をもって向うと強硬に交渉されることを希望するのでございますが、この際特にお伺いし、またお願いしたい問題は、われわれの同胞を一日も早く帰せというこの大きな外交はもちろんのこと、外務省として責任を持ってもらわなければならないことは、今抑留されているあの人たちに対しまして、ソ連の待遇というものはこれが適切でなければならないわけでございますが、こういう点につきましても、外務省としては、これは今日のロンドン会議の問題でなく、日常の外務省の責任としてされなければならない問題でございますが、こういう点につきましては努力しているかどうか、ことに、先ほどの参考人の諸君から聞いたのですが、めったに日本側からは慰問品というようなものが行かない、そういうものに接しないで十年の抑留生活を終えてきたという方もある、一度慰問品等を手にしてほんとうに感激したというような話も承わったわけでございまして、われわれがイワノヴォに同胞をたずねたときにも、そこにドイツ人が抑留されておりましたが、ドイツ人の百八十名の抑留者のところには非常にたくさんの慰問品が来るけれども、日本人にはそういうものが来ないと、非常に残念がっておりました。ドイツ人の方では来るたびに日本人の方に分けてくれる、しかしわれわれの方からはかつて一度でも分けてやったことがない、こういう情ない話を聞いたのですが、これらは、折衝する機会が少いでございましょうが、何らかの方法をとって、こういう人たちの要望にこたえなきゃならぬと思うのでございますが、こういうことにつきまして、外務省が今まで措置された点がございましたならば、お伺いいたします。なお、今後努力するというふうな点がございましたならば、この際承わって、家族の方たちを安心さしたいと思うのでございますが、お漏らし願いたい。
  157. 園田直

    ○園田政府委員 ただいままで各留守宅から慰問品が送られておりますほか、民間団体、各府県においても心配されておりまして、つい最近日赤から厚生省の援助のもとに嗜好品を含む慰問品を送っております。今までは諸団体、日赤を通じてやっておりましたので、今後は今の御意見の点も十分考慮いたしましてやりたいと考えております。
  158. 高岡大輔

    高岡委員長 受田君。
  159. 受田新吉

    ○受田委員 せっかく今中川アジア局長がおいでになるので、局長にちょっとお尋ねしたいと思います。北鮮におる日本の残留同胞で帰国を希望する者についてはこれを考慮するという北鮮の政府の意見があるということが先般新聞に報ぜられておりましたが、これらについて局長としてはいかなる御意見を持っておられるか、お伺いしたいのです。
  160. 中川融

    ○中川(融)政府委員 残留邦人の帰還につきましては、これは人道上の問題でありますから、いろいろの政治的な考慮を離れまして、いかなる地域にあります邦人でも、これが日本にできるだけ早く帰還し得るようにと、政府はかねて熱心に考慮し、かつそれについていろいろ試みをやってきておるのでありますが、今御指摘のような北鮮におきまする残留邦人につきましても、すでに久しい前からこれの帰還方につきましては日赤を通じまして再三交渉したのでありますが、残念ながら従来までは何ら先方から音さたがなかったのでございます。しかるに、最近、現地を訪れました日本の有志の方々の御交渉によりまして、北鮮からも日本人が帰れそうだ、また帰す意思が先方にあるという報道が参りましたので、さっそく、日赤を通じまして、日本はこれの帰還方についてあらゆる便宜を供与する意向があるから、ぜひそれを最近の機会に実現してもらいたい、またそのために必要な具体的方法はすぐに知らしてもらいたいということを先方に交渉しておるのであります。先方からはまだその日赤の照会に対しまして回答は来ていないのでございますが、これをできるだけ早く実現したい、かように政府としても当然考えておることでございます。
  161. 受田新吉

    ○受田委員 北鮮のみならず、ビルマ及び、旧聞印、特にニューギニア、サマテ島などには日本人が残されておる、こういうことが帰還者によって明瞭にされておる。それで、特にサマテ島における残留者に対しては、その家族がぜひ会いたいといって、現地に自分で旅費を作って行きたいが、外務省が旅券を交付してくれないと嘆いておりましたが、これらについてアジア局長としていかなる御見解を持っておられますか、お伺いいたします。
  162. 中川融

    ○中川(融)政府委員 中共、ソ連等の共産地域ばかりでなく、御指摘のように南方諸地域にはいまだに戦争中の兵隊の方々が残留しておられる数が相当ある模様であります。これの状況の把握につきましては、従来も一生懸命努めておるのでありますが、なかなか現状の把握が困難でございます。ただいま御指摘になりましたようなニューギニアの近所にあります小さな島、ここに日本軍人方々がまだ少くとも数名残っておられるはずだということを、帰還されました人々の報告から推定されまして、それについて留守家族の方々が非常に御努力をしておられるのでございます。私も直接何回か留守家族の方にもお会いしたのでございます。これについて、もちろん、その方方が直接現地に行かれて、そうしてこれを調査されたい、また見きわめたいとおっしゃるお気持は十分わかるのであります。私どももできるだけそのようなことについて御援助したいと思っております。しかし、何と申しましても、相当大へんな費用もかかることでございますので、そのような措置をとられる前に政府としてできるだけの調査の手を尽してみたい、なお、外交の経路を通じましてのいろいろの交渉もやってみたいからということで、お話しいたしまして、現に、オランダ政府とは、政府からも直接照会いたし、オランダ政府に調査を依頼して、オランダ政府からの返答がこの三月ごろに参りましたが、それによりますと、遺憾ながらその問題の島には日本の元の兵隊さんはおられない様子であるという調査の同等が来ております。これが果して現地にまで人を派しての調査の結果であるかどうかは、われわれとしても疑問とは思っておりますが、そういう調査になっております。なお、問題の島は、インドネシアとオランダとの実は係争になっておる地点にあるのでございますので、オランダのみならず、さらにインドネシア政府にも照会してみたい、かように考えまして、今その方法を進めております。インドネシア政府から、調査の結果やはり当該事実がないというようなことになりますと、政府の経路を通じます調査というものは、それ以上の方法はなくなるのでございまして、その上は、現地に船を出しまして、調査団を出しまして現実にそこを調査してみるというほかなくなるのでございますが、これは実は南方諸地域にまだ未調査の地域がたくさんあるのでありまして、果して問題になりましたその島嶼に船を直接政府が出すということが可能となりますかどうか、これは私は今自信がございません。もしもその留守家族の方々が御自分で、ぜひ何らかの方法でそこへ行ってこれを見きわめたいというお気持であるならば、その際に旅券の発給を差しとめるというようなことは全然考えておりません。これはあらゆる便宜を供与したいと考えております。
  163. 受田新吉

    ○受田委員 局長からはっきりした御答弁をいただいて、その家族も安心していることでありましょう。  私はいま一つ局長にお伺いしたいのですが、外務省の責任ある局長といたしまして、終戦直後に、南方諸地域には残留者なしという政府発表がされたことには非常な大きなそそうがあったんじゃないか、調査が十分でなくて残留者なしという数字の発表は重大な過誤ではないかと思うのでありますが、ソ連、中共等については、帰らざる人々が膨大にあるというので、その方面に重点を置いた余りに、南方諸地域については十分の調査をせずして、残留者がいないと発表したおそれが多分にあると思うのでありまするが、これに対する政府の過誤があったと私は思う。たとえば、フィリピンのごときは、これも全然いないと発表されておるのでありまするけれども、あとからあとからと残留者が帰ってきて、生きた英霊としてその家族に悲喜劇を与えております。これらの点につきまして、政府も南方諸地域についてはもっと調査を徹底さして、残留者の確認をすることにお努めになる必要はないかということを伺いたいと思います。
  164. 中川融

    ○中川(融)政府委員 終戦直後に、南方諸地域に残留者がいないということを政府が声明したということは、実は私不勉強で存じません。さようなことがあったとすれば、それは非常な速断であった、かように考えます。現に南方諸地域に相当数の残存者がおるのでありまして、これはもう明らかな事実でございます。昨年、厚生省といたしまして、この「未帰還者消息の現況」という小冊子の中にも、最後に南方諸地域の残留者のことについて言及しておるのでありまして、これは確かに残留者がおるのであります。なお、その南方諸地域におきます残留者の状況調査につきましては、政府もすでに数回にわたりまして現地の各公館に訓令を出しまして、現地の公館が直接調査をすること、なお現地の政府に依頼いたしまして調査を進めるということと、これを訓令いたしております。それに基きまして、ちょいちょい残存者についての情報が参っております。これは具体的な姓名までわかりまして、ちょいちょい残存者の報告が参っておるのでありまして、その都度これは厚生省に移牒いたしまして、厚生省から内地の留守家族等に周知の方法をとっておるのであります。これらの方々の調査を今後さらに徹底いたすことについては、われわれ、もとよりそのつもりで努力をしておるところでございます。
  165. 受田新吉

    ○受田委員 いま一つ、ヴェトナムに残存する日本人を細別に引き揚げるために、あそこへ行く船にその引き揚げを依頼することに対する可否について意見があるようでありまするが、外務省としての御見解を伺いたいのであります。
  166. 中川融

    ○中川(融)政府委員 ヴェトナムに残存しておる日本の人たちで、あそこの治安状況が乱れておる、その他の事情から、内地へ帰りたいと考えておられる方がおられるのでありまして、その方々には、従来ともあらゆる便宜を供与いたしまして、便船のあり次第お帰りになるように努めておるのであります。最近もヴェトナムから、数は少うございますが、三人ぐらいじゃなかったかと思いますが、内地へ帰りたいという話があるのでありまして、そのための便船といたしましては、日本の保安庁の船が最近フィリピンに参ります。そのフィリピンに参ります保安庁の船を便宜ヴェトナムの港に寄らせまして、その問題の人々をお乗せして帰すという措置をただいま考慮中であります。その点につきましては、方針がきまりまして、すでにさような手配になっております。
  167. 戸叶里子

    戸叶委員 関連して。アジア局長に一点だけ伺いたいのですが、先ほど受田委員の御質疑に対して、留守家族の人が自費ででもいいから自分の家族を調査に行きたいという場合には、パスポートを出すというような御発言がございましたが、現実の問題といたしまして、そういう場合でなくても、なかなか外務省の渡航課の方でパスポートを出してくれない。そういうような場合でも、必ずアジア局長が承認して下さってお出しになるかどうかを確かめておきたいと思うのですが、この点……。
  168. 中川融

    ○中川(融)政府委員 今南方諸地域等に残存しておられる旧軍人方々等に連絡に行かれる、あるいはそれを調査に留守家族の人が行かれるという目的のために外務省に旅券を申請されたということは、具体的の例として、フィリピンに兵隊さんが三人残っておられて、これを説得に行かれるという際に行かれた例はありますが、それ以外には私は例を聞いていないのであります。ただいまニューギニアの問題がございましたが、あの件につきましては、私は、一応政府で手を尽してから、そういうことをお考えになられてはどうでしょうかということを好意的にお勧めしたのでございまして、従って、あの件がもし具体化すれば、それがある意味で最初のケースになるのじゃないかと思います。なお、旅券の申請がありました際に、これを拒否あるいはそれが非常に困難であるということは、私はあり得ないと思います。もちろん外貨の割出の問題が付随いたしますが、こういう目的のために行かれるという場合には、必要な外貨というものは、十分大蔵省当局と交渉いたしまして、認めてもらえると私は考えております。
  169. 高岡大輔

    高岡委員長 ほかに御質疑はありませんか。――なければ、本日はこの程度にいたし散会いたします。次会は公報をもってお知らせいたします。    午後五時三十六分散会