○
田辺政府委員 私から
引き揚げ問題の
概要につきまして簡単に御
説明申し上げます。
まず第一に、
ソ連、
中共地域からの
引き揚げの
経過でございます。
御
承知の
通り、
中共地域からの
引き揚げは
昭和二十八年の三月より行われたのでありますが、それまでの
経過を簡単に申しますると、
国民政府治下よりは
昭和二十三年の十月が最終でございまして、
中共治下になりましてからは
昭和二十四年の九月と十月の二回にわたって
満州及び関東州からの
引き揚げが行われたのであります。その後、
昭和二十八年の二月までは
個別引き揚げが行われまして、
総数で三百三十二名が便船を利用して
引揚げたのであります。それから、
ソ連の
引き揚げは、
昭和二十五年の四月に
集団引き揚げが中絶いたしまして、その直後に、例のタス
通信から、
戦犯の二千四百五十八名、これは
中共渡しの
戦犯九百七十一名を含んでおりますが、この二千四百五十八名のいわゆる
戦犯と
病人の九名を除くほかは
日本人の捕虜の送還は完了したという
発表が行われたのでございます。その後二十六年の九月に至りまして、
病人の八名と、それからその後
戦犯で
刑期の満了した者が一名
樺太方面から帰って参りました。
こういう情勢で
昭和三十八年を迎えたわけでございますが、二十七年の十二月に
北京放送が行われまして、それに基いて
日本側から
日赤と
日中友好協会と
平和連絡会の三
団体の
代表が
北京に参りまして、
引き揚げ問題を紅十字会と
協議した結果、
共同コミュニケが
発表せられました。その
コミュニケに基きまして
引き揚げが行われたのでございますが、
昭和二十八年の三月から同年の十月までの間に
総数二万六千百二十七人の
引き揚げが行われたわけでございます。そうして翌二十九年の十月末に紅十字会の
代表が来日せられまして、
帰国問題等についていろいろと
協議をせられたのでございます。そこで、
日本赤十字社外二
団体と紅十字会の
代表との間に十九項目にわたりまして
帰国問題についてのいろいろの
協議が行われまして、それが
覚書として決定したわけでございます。これは
新聞等において
発表されておりますが、そのおもなる事項は、在
華日本人の
総数は
戦犯を除きまして約八千名である、
うち帰国を
希望しない女が約四千七百人、
帰国を
希望しない男がその女の五分の一である、現在の
帰国希望者は約三千人であるという
発表が行われたのであります。それから、
日本側といたしましては、
帰国を
希望する者に対しましては
帰国させるという
向うの方針を各
末端機関まで十分徹底させていただきたい。そうしてこの際
帰国を
希望する者については漏れなく
帰国の
機会か与えられるように
周知徹底方を
お願いしんい、また
内地への
通信につきましては、
全員について
内地に
通信を許可していただくだけでなしに、積極的に
通信を出すように強く勧奨していただきたい、これによって、でき得れば
生存しておる者に関する限りこの
通信によって
全員の
氏名が把握できるようにしたい、こういうことも申し入れまして、
向うでもそれを了承したのであります。
戦犯者の
うちで絶対多数の者は近く寛大な
措置を受けるであろうから、その場合においては
帰国を援助する。
戦犯一考、
一般犯罪者等の
服役場所、
刑期等もできるだけ知りたい、それについてもできるだけの協力をしよう。あるいは
消息不明者につきましては
安否調査について十分協力してもらいたい、それも
承知した。また
死亡者についてもわかっている限りできるだけ
死亡者の
状況を知らしてほしい、その点についてもできるだけ協力する。かような
覚書が締結せられたわけであります。その結果、今日まで、
昭和二十九年の九月から現在までに合計二千九百三十四名の
引き揚げが行われておるわけでありまして、従って
昭和三十八年の三月からいたしますと、
総数三方九千六十一人の
引き揚げが実施されたわけでございます。
ソ連地域につきましては、三十八年の十月に
日本の
赤十字社の
代表がモスクワにおもむきまして
会談の結果、
戦犯者の
名簿の手渡しを受けたのであります。その
会談の結果、
コミュニケが
発表せられまして、それに基きまして今日まで千三百十九名の
引き揚げが行われたのでございます。以上が今日までの
引き揚げの
経過の
概要でございます。
次に未
帰還者の数の
概況を申し上げます。お
手元に未
帰還者消息の
現況というパンフレットを差し上げておりますが、これは昨年の秋に
発表したものでございまして、昨年の五月一日現在においての
ソ連、
中共地域における未
帰還者の
状況を詳細に
発表したものでございます。その後
中共地域よりは二千九百三十四名、
ソ連地域よりは八十八名の
帰還者がございまして、それだけの人数がこの未
帰還者の中から減って参るわけでございますが、そのほかに、この
帰還者のもたらした情報によりましていろいろと
調査を進展させておりますので、その結果
死亡処理をされたもの、あるいはそれぞれの
区分欄に
区分変更を生じてきております。この
調査は日一日と進められておりますので、そのつど新たになっておりますが、大体先ほど申し上げました
数字をこれから差し引いたのが大体の現状だ、こうお考えいただいてよろしいと思います。もちろんこまかい点につきましてはいろいろと訂正を要する点がございますが、これはいずれまた本年適当な
機会に詳細な
数字をお目にかけるようにいたしたいと思っております。
最近の
引揚者から得ました
残留の
状況について申し上げますと、
ソ連地域におきましては、
日本赤十字社に手渡されました
戦犯者名簿に載っておる方で今日
残留しておる方は千三十一名でございます。その他の
残留者につきましては、先般帰ってきました人からいろいろと
調査してみますと、
樺太を除きますと
総数で千四百ないし千五百の間であると観察いたしております。その中にはもちろん
日赤に手渡された
戦犯者の先ほど申し上げました千三十一名を含んでおり、それが千四百ないし千五百という間の
数字だろうと思います。
樺太地区はこの前の
帰還者はたった一名しかないので正確な
数字を把握することは困難でございますが、
受刑者を入れまして全体で千
名前後ではないかと推測いたしております。なお、先般帰りました八十八名の
方々の
内訳を調べてみますと、われわれの方で従来未
帰還者として
氏名を把握していなかった人が十名帰っております。この
氏名を把握していなかったと申しますのは、お
手元に差し上げてありますその
数字の中に入っていない人という
意味であります。お
手元に上げました
調査の
数字は一人々々
名前を把握いたしましてそれを積み重ねていった
数字でございますが、こちらで未
帰還者として登録していない人の中から十名帰ってきておりまして、大部分は
樺太関係者でございます。それから
死亡処理をされた方が二人帰ってきております。いずれも
戦争中の方でありますが、一人は
張鼓峰事件の
死亡処理者が帰ってきており、もう一人は
昭和十九年ごろの
満州国境地域における戦闘で死亡したと見られておった方が
生存しておって帰ってきました。それを除きますと七十六名でございますが、その中には
昭和二十七年以降の最近の
生存資料のあった方が六十六名でございます。従って、古い
生存資料のあった人の中から
——私の方で
状況不明者と俗に呼んでおりますものの中からも、きわめてわずかではありますが、生きて帰ってくる人があるということであります。それから、八十八名の中でいろいろ
調査をしてみますと、ハバロフスクの
放送局に勤めておった四人の方、これは一
家族でございますが、この
人たちを除きますと、あとは全部
向うで刑を受けておった
関係者でございまして、その
内訳を申しますと、三十八名の方はすでに刑が満刑になって
各地において釈放されて一般人として居住をしておった方でございます。残りの四十六名の方は今次の
帰還に際し
特赦または
減刑等の
措置を受けた人でありますが、病気によって
特赦になった者が十三名、
犯罪を犯した当時
未成年者であったという理由で
減刑、
特赦になりました者が十数名、
労働成績が優秀であったというゆえをもって
減刑になった者が三名、その他原因は不明であるが、とにかく
特赦の恩恵を受けた者が十五名、計四十六名となっております。
以上
ソ連地区の
状況でありますが、
中共地域につきましては、先般紅十字会の
代表者が来日されました際に持ってこられましたいわゆる
戦犯者の
名簿によれば千六十九名でありますが、それ以外の
生存者と見込まれる数は約六千名と推察いたしております。もちろんその中には
名前のわかっている人もありまするが、
名前ははっきりわからないが、大体この人は
日本人だというのでわれわれの方で
生存と推定している数が約六千名ございます。
以上が
残留者の
概況でございます。
帰って来られました方の
援護につきましては、
応急援護と
定着援護にわかれるわけでありますが、
舞鶴におきます
援護及び
舞鶴からそれぞれの御
郷里に帰ります
援護を総称して
応急援護と申しております。あそこでいろいろの
お世話をいたす際に、物資、
日用品、
被服等を交付いたしますほか、
帰還手当といたしまして、
おとな一万円、
子供五千円を支給しております。また
帰郷雑費として、
おとな一人一千円ないし三千円、これは
うちへ帰りますまでの距離に応じて差し上げておりますわけであります。
子供はその半額であります。それから
応急医療、
病人に対しましては
全員に対しまして二十五日間
応急医療を実施いたしております。
定着援護につきましては
就職と
住宅が一番の重点でございますが、第二種
公営住宅の
ワクに特別の
ワクを設定いたしまして、
ひもつきで各
都道府県にこれを割り当てて建設するようにいたしております。二十九年度におきましては総額五百六十戸の
ワクをとりまして、それを各
都道府県につき
引き揚げの
状況に応じて建設を進めて参っております。三十年度におきましては
引揚者用といたしまして二百五十戸の戸数を設定いたしております。
就職あっせんにつきましては最も努力しているところでございますが、これは
所管省が
労働省でございますので、
労働省とも緊密な
連絡をとって
お世話をするように推進しております。今日までの
就職率は、
昭和二十八年の
中共の
引揚者につきましては、第一次から第七次までをとってみますと約七七%、それから三十八年の十二月から二十九年の三月までの間の
ソ連引揚者につきましては五九・七%、それからその後の
引揚者につきましては、日にちの
関係もございまするが、若干低下いたしておりまして約五〇%程度に相なっております。なお、先般
ソ連から帰りました
引揚者の
状況をいろいろ聞きますと、
ソ連残留者の
生活状態が以前よりも悪くなっているということを聞きまして、そういった
関係でからだの弱っている人がだんだんふえてきている、
死亡者も案外に多いということを聞きましたので、さっそく
日本赤十字社に手配いたしまして、
粉みそ、
粉しょうゆ、かつおぶし、味の素、のりなどを二百九十二個、
小包郵便で送付いたさせたのであります。今月の十九日に全部
航空郵便で送付いたさせた次第であります。
以上、簡単でございますが、今日までの
引き揚げの
状況及び
援護の
概況を申し上げた次第であります。