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1954-12-06 第20回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十九年十二月二日  園田直君が委員長に、青柳一郎君、庄司一郎君、  高橋等君、臼井莊一君木村文男君、柳田秀一君  及び受田新吉君が理事に当選した。     ――――――――――――― 昭和二十九年十二月六日(月曜日)     午前十時四十九分開議  出席委員    委員長 園田  直君    理事 青柳 一郎君 理事 庄司 一郎君    理事 臼井 莊一君 理事 木村 文男君    理事 柳田 秀一君 理事 受田 新吉君       大久保武雄君    中川源一郎君       中山 マサ君    福田 喜東君       吉川 久衛君    田中 稔男君       山下 春江君  委員外出席者         大蔵事務官         (主計官)   大村 筆雄君         大蔵事務官         (主計官)   鹿野 義夫君         厚生事務官         (引揚援護局         長)      田辺 繁雄君         参  考  人         (日本赤十字社         奉仕課長)   古田誠一郎君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      久保田源次君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      木村 遼次君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      小野 元彦君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      西林成太郎君         参  考  人         (ヴエトナム広         地区引揚者)  藤田  勇君         参  考  人         (ヴエトナム地         区引揚者)   谷本喜久男君     ――――――――――――― 十二月六日  委員長谷川峻君辞任につき、その補欠として大  久保武雄君が議長の指名で委員に選任された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した事件  引揚者定着援護に関する件  中共地区及びヴエトナム地区残留同胞引揚に関  する件     ―――――――――――――
  2. 園田直

    園田委員長 これより会議を開きます。この際お諮りいたします。  本委員会といたしましては、中央及びヴエトナム地区残留同胞実情調査と今後の引揚げ促進のため、今回中共地区及びヴエトナム地区より引揚げて参られました元大連生活必需品倉庫株式会社支店長久保田源次君、元大連航海学院木村遼次君、元大連鉄路研究所勤務小野元彦君、元安策造船技師西林成太郎君、元正金銀行員藤田男君、元陸軍少尉谷本喜久男君及び今回日本赤十字社乗船代表として天津に参りました日本赤十字社奉仕課長古田誠一郎君の諸君を本委員会参考人としてその実情を聴取いたしたいと思いますが、御異議ありませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 園田直

    園田委員長 御異議がなければ、さよう決定いたします。  本日は引揚者定着援護に関する件及び中共及びヴエトナム地区残留同胞引揚げに関する件について調査を進めますが、その前に、過日中共地区引揚者受入れ援護状況調査のため舞鶴に参りました前委員長山下春江君よりその報告を願うことといたします。山下春江君。
  4. 山下春江

    山下(春)委員 ただいまから、舞鶴に参りまして中共及びヴエトナム地区からの帰還者受入れ援護状況調査いたしました結果について、簡単に御報告申し上げます。  御承知通り、去る十一月三日に東京で行われました中国紅十字会訪日代表団日本側引揚げ団体代表との間に行われました在華日本人帰国問題等に関する打合せに基きまして、まず今回の集団引揚げが実現いたしましたことは、一心に引揚げ問題の解決努力を重ねて号与るわれわれ特別委員会委員にとつて、まことに御同慶の至りと存ずる次第でございます。  当初、引揚げ輸送船興安丸舞鶴入港は十一月上旬という情報でございましたので、十一月二十二日に理事会を開いて各派の理事各位と御協議の上、閉会中に私が委員会代表して出迎えに参ることといたしたのでありますが、その後数日遅れるということであり、さらに最終的な情報として今国会召集日の三十日に入港ということが確実となりましたので、帰郷中の私は、急遽福島県より東京経由をもつて二十九日の夜舞鶴に参り、応召を一日遅らせて調査に当つた次第でございます。  当日は、朝早く舞鶴引揚援護局に参りまして、帰還者上陸開始時刻までの間、宇野局長以下援護局方々厚生省坂本引揚課長、日赤の工藤外事部長、その他日赤支部引揚団体方々多数とお会いし、諸般の情況を御報告願つたのでありますが、今回の引揚げの特色は、戦後初めてヴエトナム地区から七十一名の方々集団帰国されたことと、今まで一名の帰還者もなかつた旅順、大連安東地区における強制残留者が大量にお帰りなつたことでありまして、引揚げ人員の総数は六百四名で一般邦人が五百一名、元軍人軍属が百三名となつております。  その内訳は、男子は三百二十二名で、そのうち大人は二百十五名、子供は百七名、女子は二百八十二名で、そのうち大人は百六十名、子供は百二十二名で、従前の例に照しますと子供の数が非常に多くなつております。元軍人軍属では、陸軍は九十三名で、そのうち軍人が七十六名、軍属が十七名、海軍は十名で、そのうち軍人が三名、軍属が七名ということに相なつております。速報名簿による都道府県別人員について地方別に集計いたしますと、北海道及び東北六十一名、関東百三十四名、中部百六名、近畿八十五名、中国六十八名、四国三十五名、九州百八名、当時未定のもの七名ということで、最も多いのは東京の百八名、次いで大阪の四十三名、熊本の四十名、広島の三十一名の順と相なつております。  引揚地区とその人員について申し上げますと、ヴエトナム地区は全部で七十一名、中共地区は全部で五百三十三名で、中共地区内訳編成班別に申し上げますと、南京八十一名、河北四十名、湖南六十六名、熱河内蒙百三十四名、武漢四十二名、西安八十七名、その他八十三名でございまして、中共地区大半は第七次引揚げ旅大地区より本土に移動された方々であるということであります。  患者の方は全部で十五名で、病名は結核とかマラリアその他ということで、担送三名護送及び直送各一名、独歩十名であります。なお、遺骨は三十九柱でございまして、一柱を除いては全部家族の方が捧持してお帰りになられておりますが、さびしく異境においておなくなりになられた方々の霊に対し、ここに厚く弔意を表する次第でございます。  持帰り金は、香港ドル三十三万六千七百九ドル、米ドル百五十六ドル、朝鮮銀行券一万一千八百二十円、預金六万三百七十七円、債券一万八千九百二十円、各種証券七万五千九百二十七円、旧日本円一万三千八百六十五円ということでありまして、中共地区引揚者大半を占める旅人地区方々持帰り金は三千万円に当るということであります。持帰り荷物は総計一千二百八十こりで、重量にして百八十トンとなつておりますが、これらの大半旅大地区方々のもので、ヴエトナム地区方々はほとんど荷物と言へるほどのものは持つていないということでありました。  さて、上陸開始時刻も間近になりましたので、ランチで沖合いに停泊しております興安丸引揚者皆様をお迎えに参つたのでありますが、当日は前前日の暴風雨をさつぱりと忘れさせるほど空が青く澄み渡り、初冬の日ざしが湾内くまなく照りはえて、波また穏やかな、まことに珍しい好天に恵まれたのでございまして、久しい年月を異国にあつてあらゆる苦難の中に耐えて来られた引揚者方々が祖国に帰還の第一歩を印されるのを天またともにこれを祝福するかのように見受けられたのでございます。興安丸に着きましてタラツプを上りますと、上陸の用意をされている引揚者方々が、十年の辛苦をこの瞬間に忘れ去つたというふうに喜々としておられる姿を拝見して、まことに心安まる思いでございました。お目にかかる限りの方々に、よくぞ御無事でお帰りくださいましたとごあいつさを申し上げたのでありますが、引揚者方々は、まことに穏やかな、また親愛の態度でわれわれに応対せられたのであります。船内では、一目でそれとわかる真新しい紺の綿入れの工人服を着ていられるのがヴエトナム地区からの方々であり、中共地区からの方々は、赤、黄緑の色とりどりのスエーターあり、モンペ姿に幼子を背負つた婦人、からだより大きな荷物を皆中に縛りつけた子供、あるいは背広にオーバーの紳士というふうに、まことに多彩な光景で、中には番傘にバケツをさげているというほほえましい姿も見受けられたのでございます。次いで一室引揚げ団体乗船代表の方方及び輸送の大任を無事に果されました玉有船長以下の方々とお会いして、その御労苦に対し深甚の謝意を表した次第であります。  十時二十分には、担送患者の方をトツプとしてランチに移乗して上陸が開始され、四回のランチ輸送をもつて正午過ぎに上陸が完了いたしたのでありますが、引揚者方々家族及び各地の出迎え人々の旗、のぼりの中を歓呼に迎えられて足取りも軽く桟橋より寮に向われ、玄関に飾られた大きな門松を感慨深げにくぐられ、入浴の後、局の心尽しの赤飯、尾かしらつき、まんじゆう、ぜんざい、くだもの等日本の味を満喫されたのでございます。  次いで、私は、引揚者皆様にごあいさつをするため、構内放送のマイクを通じて、御無事で御帰国のお喜びの言葉を申し上げた後、七名の各地区代表者方々と局の一室座談会を開いたのでありますが、御参集の方々は、ここにお二人お見えの旅大地区久保田さんとヴエトナム地区藤田さん、それに旅大の藤井さん、安東の成本さん、普蘭店の加藤さん、上海の原さん、ヴエトナムの赤沢さんという方々でありまして、胸襟を開いて種々お話願つたのでありますが、本日ここに各地区方々参考人として出席されており、後ほど詳細に事情お話しくださるとのことでございますから、これは省略させていただきます。  座談会を約一時間半で終りますと、引揚者代表方々要求事項があるから面会したいとのことでありましたので、そちらに参りますと、中共及びヴエトナム地区方々が約三十名余りお集まりになつており、援護局長、本省の引揚課長等を交えてお話を承つたのでありますが、私に対する御要求というのはただ一つでございまして、ヴエトナム地区よりの引揚者に対しても中共地区と区別することなく帰還手当を支給するよう措置してほしいということでありました。このヴエトナム地区よりの引揚者に対する帰還手当の問題は、私が二十九日の夜舞鶴に着きまして援護局長より初めて伺つて愕然といたしたのでございますが、翌朝さつそく局において詳細にその間の事情調査するとともに、何とかして支給し得るよう対策を講ずべく努力いたしたのでございます。御承知通り、未帰還者留守家族援護法の立法当時におきましては、ヴエトナム地区の実態を把握することは不可能でありましたので、一応の議論はあつたのでありますが、法の上においてはヴエトナム地区は適用されるに至つていないのでありますが、しかし、いずれにいたしましても、行政措置をもつて支給の道が開かれ得るものと認められまする上に、一方また少額の手当の問題で、より以上大きな国家的な引揚げ問題に対し陰惨な影響を与えることは避けるべきであり、ことに、ヴエトナム地区方々は長い間の戦乱が終結後無一物で帰還されたのでありまして、他の地区に比べますと、その差は余りに大きく、その上に帰還手当も支給されないということはとうてい座視するに忍びないところでございまして、これらの方々舞鶴におられる間に本問題を解決し、ひとしく安んじて郷里に向われるよう措置すべきものと認められまするので、代表の方の御要求に対しては責任をもつて解決努力する旨をお答えし、当夜ただちに夜行列車で帰京の途につき、一日朝着京後即刻厚生省に参りまして、田遽引揚援護局長とお会いし、本問題の解決策について協議をいたしました結果、厚生省におきましては、本人意思に反して離退、逃亡、もしくは残留を余儀なくされた者は申すまでもなく、本人意思残つても、その後意思に反して参軍せしめられ、あるいは交通等事情によつて帰還できなかつた者については帰還手当を支給するよう措置するということでございまして、ヴエトナム地区における事情と、手当の性質上、幾分の例限が加えられるように受取れたのではありますが、これもやむを得ない解決として了承せざるを得なかつた次第でございます。なお、本問題に関しまして、その解決前に、われわれや当局並びに関係団体努力にかかわらず、種々の流説がなされ、本問題の解決に障害となつたことにつきまして、引揚げ問題の本質を理解しない者がいたずらにこれに介入して云々することのいかに危険であつてまた厳に慎しむべきであるかを強く教えるものと痛感した次第であります。  簡単ではございましたが、後ほど参考人方々より詳細なお話があることと存じますので、私の調査報告はこれをもつて終了いたします。
  5. 園田直

    園田委員長 山下君の報告に御質疑はございますか。――山下君には、御多忙の中を調査、御苦労さまでした。     ―――――――――――――
  6. 園田直

    園田委員長 次いで引揚者定着援護問題中特に先国会より懸案になつております引揚者住宅の建設について質疑を行います。山下君。
  7. 山下春江

    山下(春)委員 引揚者定着住宅の問題につきましては、本委員会で非常に長く議せられておりまするにもかかわらず、財政上その他の関係で遅々としてはかどらないのでございますが、実は、本委員会は、ことしの夏、最も状況の悪い北海道地区を視察いたしました。その結果、どうしても本年度内に疎開させなければならない一千七百九十五戸、これは、私どもがどうしてももうこのままここに置くことは忍びないと思われるよう状況の悪いものがこれだけの数あるのであります。そこで、この問題を解決いたしますにつきましては、実は建設省の方で第二種公営住宅をもつてわずかずつこれを解決してもらつてつたのであります。今までに四百八十戸できたのでありますが、何しろ二千戸に近いものが即時疎開させなければならない状況にございますので、その後いろいろ研究いたしまして、ただ建物という面から言いますと、これまで厚生省が七坪の疎開者のために建てました住宅から申しますと、一戸当り二十五万三千七百円、それに対しまして国が二十万二千九百六十円の補助をしておつたのであります。今度第二種になりますと、九坪になりまして、全体の金が四十六万五千二百円かかるのです。それに対して国が三十六万二千百六十円の援助をするということでございまして、ただ家建てるという面から申しますと、どちらがお建てくださつても、要はできればいいということでございますが、ただ、これが建設省にまかしておけないとこの委員会考えますゆえんは、この非常なボロの、昔の軍の施設の非常に陰惨な建物の中にいるこの二千戸のすみやかに疎開させなければならないという人々状態を見ますと、この寒さになつてからは私どもも自分の身が痛いような気がいたしますが、実はこの集団住宅の中に入つております引揚者が全部で七千八十八人あります。その中で虚弱な人が六百六十四人、病人が四百六十三人おりますが、この病人の大部分は結核患者であります。家の大きさはどうかと申しますと、昔の軍の施設の、屋根の低い馬小屋か何かを仕切つたものでございますので、一人当り大体一・六畳、畳数が一枚半ぐらいでございますが、しかしながら、その中に家財道具を置いたり、ただいまのような冬季になりますとストーブを置いたりするので、大体一人一畳という生活でございます。これが暗くてきたないと来ておりますので、ここに置きますことは、この病人がなおるどころの騒ぎではなく、漸次病人がふえて行くというよう状態に追い込まれてしまいますので、どうしてもこれは厚生省が建設すべきだと思いますので、そこで私は大村主計官鹿野主計官考え方をきようはきめていただきたい。長い間この問題を私は扱つて参りましたが、一向にまだ目鼻がつきません。どつちみち、あなた方の方で金をどつちかにきめて出してくださらなければ、田邊援護局長がここで返事をしましたところでできませんので、しよせん最後は大蔵省でというようなことでおられましたのでは困るのです。もつと時間があれば、私詳しくなぜ厚生省がこれをやらねばならぬかという点を申し上げるのですが、大蔵省の方から申しますと、第二種公営住宅とおつしやらないで厚生省の方でお建てになることが、実際に金の面からも非常に得でございまして、厚生省の言う方でお建てになりますれば、全体の国家の補助金から言つても三億お出しになればいいのですが、これが第二種公営住宅でお建てになりますと、十六億七千万円出さないとできないのでございます。そこで、この引揚げ問題その他これらの問題について非常に御理解があり御了解を得られておると思われる大村主計官のお考えと、それから建設省の家を建てるという建前鹿野主計官の、その最終的な御見解を本日は承りたい。
  8. 大村筆雄

    大村説明員 お答え申し上げます。今山下先生お話を伺つておりますと、どうも大蔵省の内部で意見がわかれておるのじやないか、従つて調整してもらいたいというような御意見ように承つたのでございますが、決してそうではございませんので、私どもとしては、北海道疎開住宅の問題につきましては、御承知通り一昨年来第二種公営住宅建前もございまして、それから国の住宅政策というものはなるべく一本でやる方が効率的であつてを解消してあげるようにして行かなければならない、かよう考えております。これは、いずれの省に計上するかという点につきましては、ただいま山下先生の御意見にございました通りに、全体の資金の量から言いましても厚生省の方が安いのではないかという点を十分に考慮しなければいけませんし、それから、建設省でお考えになつておる住宅政策全般の問題、あるいは北海道全般耐寒住宅の問題、この問題をどうするかという点もやはりあわせて考慮いたさなければなりませんので、当然、来年度予算におきましては、十分御意見の点も考えまして、北海道引揚者住宅の問題につきましてはできるだけ万全の措置が講ぜられるように私ども考えて行きたい、かよう考えております。
  9. 山下春江

    山下(春)委員 大村主計宮も、よく御存じだけに、いろいろ御返事しにくいかと存じますので、いつも結論が出ないのでございますが、私、この夏私だけではございません、受田委員自由党長谷川委員、三人で参りましたロスが少くていいのだという考え方もございまして、建設省に一本で統合して建設して参つておるのでございますが、御指摘の通り、全体の住宅資金自体が非常にわずかであり、需要に対してそれほどの金額でないという点もございまして、特に北海道で一番お困りになつておる引揚者の方に十分行き渡つておらない。この点は、私どもも十分反省いたしまして、たといそれは建設省所管といたすといたしましても、あるいは厚生省所管といたすにいたしましても、お困りになつておる方に対しまして重点的に早く住宅問題を解消してあげるようにして行かなければならない、かよう考えております。これは、いずれの省に計上するかという点につきましては、ただいま山下先生の御意見にございました通りに、全体の資金の量から言いましても厚生省の方が安いのではないかという点を十分に考慮しなければいけませんし、それから、建設省でお考えになつておる住宅政策全般の問題、あるいは北海道全般耐寒住宅の問題、この問題をどうするかという点もやはりあわせて考慮いたさなければなりませんので、当然、来年度予算におきましては、十分御意見の点も考えまして、北海道引揚者住宅の問題につきましてはできるだけ万全の措置が講ぜられるように私ども考えて行きたい、かよう考えております。
  10. 山下春江

    山下(春)委員 大村主計宮も、よく御存じだけに、いろいろ御返事しにくいかと存じますので、いつも結論が出ないのでございますが、私、この夏私だけではございません、受田委員自由党長谷川委員、三人で参りましたが、私ども終戦後十年間実にぼやぼや暮してしまつたのでありますが、引揚げられて、ほんとうにからだ一貫で、家族二、三人を持つて、あの山奥に七町六反という、しかもそれは全部人間の力で耕しておるという、あの開拓、開墾を完了しておられる方々をずつと見受けたときに、頭の下る思いがしたのです。あの集団の、暖い、不衛生な、まつた人間が住むのか何かわからないところにいつまでも置いておきますことは、十年たつて引揚げ住宅でもないじやないかという議論も出るかもしれませんが、そうでなく、これを急いで疎開住宅に移すことによつて、あんなたくましい再建の力がわき出して来るのであります。いろいろな意味から、あのままにしてお置きになることは、何としても、御本人の迷惑はむろんのことでありますが、国全体としても損なことだと思います。どうか、建設省とのいろいろなこともありましよう、なるほど、公営住宅は第二種の方が高くつきますかわりに、北海道ような燃料をたくさん消費いたします、その加熱費を差引きますれば、長い間にはそれは得かもしれません。しかしながら、今申し上げましたように、まのあたりああしておけないというものを、とりあえず疎開させるためには、私はひとつきよう大村主計官に腹をきめていただきたいと思います。この二千戸を、何とか、財政の許す最も安いのでけつこうでございますから、とりあえず、この二千戸を三年間くらいにいたしまして、年間六百戸くらいを確保して、二千戸の疎開をさせるということをひとつ約束をしてもらいたい。その点についていかがでございましようか。
  11. 大村筆雄

    大村説明員 お答えいたします。六百戸ずつ三年間で解消するということになつておりますが、本年度は当初の割当は三百でございます。私どもといたしましては、三百と言わずに、もつとよけいに本年度できますように、これは建設省にも申し入れてございます。建設省は当然その線でやつてくだきるものと私どもは期待しております。従いまして今年も三百戸以上やつていただけるのじやないかと期待いたしております。それから、来年度以降でございますが、これも御意見ごもつともでございまして、私どもとしては、当然、財政が許しましたら、三年と言わず、あるいは二年ででも一年ででも解消したい、そういうつもりでございますが、ここで「三年でやります」と、もちろんはつきり約束はできません。来年度予算がきまつていない関係で、そういう点はできませんけれども、できるだけ、気持は一年でも二年でも早く解消して行きたい、こういう気持で今検討いたしておりますから、御了承願います。
  12. 山下春江

    山下(春)委員 大村主計官は今建設省の方に三百戸と仰せられましたが、それは間違いございませんか。建設省の方の第二種でいらつしやると、これは鹿野さんに御言明願わなければなりませんが、第二極で三百もできますか。それができてくれれば、これほどありがたいことはないのでございますが、厚生省の方の予算でいらつしやるのか、建設省の方の第二極でいらつしやるのか。今大村主計官建設省の方でとおつしやつたので、その点御言明を鹿野さんからお願いいたします。
  13. 鹿野義夫

    鹿野説明員 ことし第二種住宅北海道の分の中で三百戸引揚者住宅関係に割当てる考えで当初から編成されておるということでございます。それは本年度でございます。
  14. 園田直

  15. 臼井莊一

    臼井委員 北海道引揚者住宅につきましては、ただいま山下委員からお話通り、前に委員会においてもいろいろ希望したのでありますが、なお、東京都の引揚げ住宅につきましても、第一次の引揚寮が一ぱいであつて、さらにこれに入る余裕がない。そこで、何とか、現在ある一時寮の常盤寮、大森寮、引揚者ホーム、この三寮の中から、独身者の寮を一棟――金町寮、世田谷郷と、それからもう一戸を独身寮にしてもらいたい。なお、家族連れのものは第二種の住宅の方に逐次引移るのでありますが、その点厚生省の希望通り大蔵省の方で予算措置をもちろんお考えだと思うのでありますが、そういう予定に進んでおりますかどうか。  もう一つは、さらに家族の方が移る第二種の住宅の中で、本年度七十五戸のうち二十戸は確保しておるけれども、あとの点についてはどうか。なお、引揚げ一時寮の中から家族がほかに引越すとなると、二百五十戸ぐらいはさらに必要じやないかというふうに聞いておるのですが、その点について大蔵当局はどうお考えになりますか。ちよつと伺つておきたい。
  16. 田辺繁雄

    ○田辺説明員 引揚げのたびに、東京に定着される引揚者の方を受入れる施設で非常に苦労いたしておるわけでありますが、現在の状態では一時寮はほぼ満員の状態でございます。従つて、一月の末までに大量の引揚げがあるようでございますから、これらの方を受入れるために現在の施設では足りないということでございます。現在の施設でも入つておる方はだんだん出て行かれますが、出て行かれる方以上に入つて来られる方が多いと思いますので、どうしても一時寮の増設が必要になつて参ります。この点はまだ計画中でございますが、計画ができますれば、大蔵省に相談いたしまして、今度の引揚者の経費全体の一環といたしまして大蔵省と相談してやりたい、かよう考えております。
  17. 臼井莊一

    臼井委員 それでは、厚生省はまだ計画中で、大蔵省の方へ予算の請求をしていないようでありますが、もしそうであれば、ひとつ至急やつていただくとともに、大蔵省においてもその点を十分お考えつて予算措置を十分お願いしたいということを申し添えておきます。
  18. 園田直

  19. 受田新吉

    受田委員 大蔵省の御意向によつて北海道疎開住宅の基本的な考え方を明らかにしていただいたのでありますが、私ついこの間北海道へまた参りまして、この疎開を必要とする住宅地帯の函館、旭川の市長などと直接会つたのですが、差迫つたこの冬をどう越すかという切実な問題もあるのでありますから、少くとも千八百戸という疎開をする住宅のうち、三箇年計画で来年度六百戸だけはどうしても確保しなければならぬ。よしそれが木造であろうと簡易耐火構造であろうと、いずれにせよ六百戸というこの戸数だけは確保しておかないと、北海道の現実はまさにあわれむべき状況にあるのであります。この点大蔵省としては六百戸確保という基本線をはつきりこの際示すことができるかどうか、ここをよくお伺いしておかないと、この委員会で安心できないので、ひとつあなたの方からあなたの決意をもう一度はつきりここへ示していただきたいと思います。
  20. 大村筆雄

    大村説明員 先ほど山下委員の御質問に対してお答えいたしました通りに、私ども気持といたしましては、北海道引揚者住宅は非常に悲惨な状況にあるということに照らしまして、三年と言わず二年でも一年でも早く解消して差上げたい、かよう考えておるのでございますが、来年度予算編成の問題もございますし、全体のわくの関係もございます。そこで、全体のわくの関係でまだ本ぎまりになつておりませんので、ここで六百戸確実に本年度はできるのだというふうにはつきりと私として断言してお約束できる段階にはございませんけれども気持といたしましては、六百戸と言わず、できるだけこれは早く解消できるようにやつて行きたい、かよう考えておるわけであります。
  21. 受田新吉

    受田委員 これが、六百戸確保と言わず、できれば来年度全部でも片づけたいというこの気持は、まことに壮なるものがあると思うのでありますけれども、実際問題として、今までの行き方を見ております、すべて、当初の計画がつぶされておるのです。この木造と耐火構造とを比べてみましても、家賃の比較においても一〇〇対五〇五という、耐火構造の方が莫大高い標準を持つておりますし、工事費においても、先ほど山下先生から御比較になつような大きな違いがあるということになると、とにかく、予算の面で苦慮する大蔵省としては、戸数の面でははつきり基本的に最低六百戸、できればそれ以上ということで、それから上は幾らでも片づけられれば片づけるというような方針を確保してもらえるかどうか。その方針をはつきり示しておいていただかないと、また予算編成期になりまして例年のごとくうやむやに葬られるおそれが多分にあると思うのです。その点特に担当主計官の御次点いかんによつてこれが決定すると思うのでありますが、大した経費でもないのですから、極寒に苦労しておられる、寒さに凍えておる引揚者――私、この間、寒波襲来する吹雪の中にこの冬を越そうとする、疎開を必要とする函館市の港寮その他の住宅をもう一度見てまわつたのですが、地元の声はまさに怨嗟の声になろうとするおそれがあるので、この点、国の政治を徹底されるように、大蔵省として基本的六百戸だけの線は確保する、それ以上は幾らでもできるだけ努力するという立場をとつてもらえるかどうか、これだけひとつ確かめておきたいと思います。
  22. 大村筆雄

    大村説明員 来年度財政の点につきましては、目下予算編成中でございますし、もちろんはつきりしたことを申し上げられません。しかも規模といたしましては今年と同様一兆億の規模でしか編成できないという見込みでございます。しかも、来年の予算計画といたしましては、御承知通り生活保護費、失業対策費という費目が何十億とふえて来るという傾向にございますので、全般としてはほかの経費は相当圧縮せざるを得ないという点をよく御了解願いたいと思うのでありますが、そのうちで、今おつしやつた引揚者住宅の問題につきましては、私どもとしては重点的に取上げて行きたい、しかしこれを最低六百と私がここでお約束できる段階にはないという点はよく御了承を願いたいと思うのでありますが、気持としては、おつしやる御意見を十分尊重いたしまして、できるだけこれが解消促進をはかつて行きたい、かよう考えております。
  23. 受田新吉

    受田委員 時間が迫つておりますから、ごく簡単に三たびお尋ねいたしますが、来年度一年でも片づける可能性もあるというようなきわめて積極的な御意見かと思うと、最低六百戸もここでお約束できないというようなことになると、これははなはだずさんな予算計画になるのであつて大蔵省としては、みなやれるかもしれぬ、しかし六百戸下まわるかもしれぬというような、そんな漠然とした住宅計画でおられるのでありましようか。この点、はなはだ不安定でわずかの予算しか考えられないこの六百戸の線もはつきりしない上に、都合によれば全部でもやれるのだというような、まことに曖昧模糊とした計画のようですが、こういうよう考えることは大蔵省としては少しふまじめではないかと思うのです。一番低い線だけ確保する、一ぺんでも片づくかもしれぬ、この点一ぺんでも片づく場合もあり得ましようか。来年度に全部千八百戸が片づく場合があり得るかどうか。それから、二年計画でやる場合もあり得るかどうか。この点についてもう一度念を押しましてお答えを願いたいと思います。
  24. 大村筆雄

    大村説明員 先ほど私が一年でも二年でもと申し上げたのは、私ども気持を申し上げたのでありまして、もちろん財政も許せば三年も持つていい問題ではないと思うのです。現状は、御承知通り、できるだけ早く解消されれば一番いいと思うのであります。そういう私ども気持を申し上げたのでありまして、何年計画でできるかということになりますと、目下来年度予算の編成中でございまして、そういう全体の計画自体はいましばらくいたしませんと決定できないという段階でございます。従いまして、最低六百戸ということも私どもとしてここでお約束できる段階にございませんが、私の気持はこういう気持でございますということを申し上げておる次第でございます。
  25. 園田直

    園田委員長 ほかに質疑はございませんか。――木村文男君。
  26. 木村文男

    木村(文)委員 ちよつと私この機会に大村さんにお伺いしたい。とにかく、住宅の問題は、今委員から御発言があつたようでありますが、私はほんとうの根本は基本的方針が政府としてはさまつてないからじやないかと思う。というのは、この前私は援護局長にもこのことを申し上げておつたのでありますが、援護局長自体が実際この住宅問題について非常な錯誤をしておると私は思う。大蔵省はなおさら大きな錯覚を起しておるのではないか、私はこう思う。というのは、現在の建設省住宅問題をまかしておるということ、それから厚生省住宅関係、こういつたような面に一体どういうように――非常に複雑な事務監査をしなければならない今日、主管問題が非常に大きな問題ではないか、それが今の質問が出る根本になる問題だと私は思う。その点について、たとえば、第一種住宅の五万円の問題、第二種住宅の単価の問題、これなども住宅の不足な今日、防寒住宅といつて第一種住宅、第二種住宅とわける必要があるかという問題、こういつたような社会政策的な大きな根本問題になつて来ると思う。そこで、大蔵省としては今日までその面に携わつて不便を感じなかつたかどうか、この基本的な問題を私はこの際簡単でけつこうですから直接の関係官である大蔵省大村さんにそのお考えをただしておきたいと思います。きようはこれだけお尋ねしまして、――私の決して長い経験とは言えません、わずか二十年ばかりの経験でございますが、社会事業家としての私からいずれ後日、あなたへ直接に細部にわたつて大きなデーターを出しての質問をしたいと思つておりますから、基本的なあなたの考えだけを承つておきたいと思います。
  27. 大村筆雄

    大村説明員 今の御意見は前々からよく承つておりまして、これは、私どもの方としては、今度の北海道疎開の問題につきまして、十分御意見は入れて考えていたのでございます。今までは、政府全般の方針として、第二種公営住宅というのがいわゆる低所得者に対する住宅だというふうに考えておりましたが、今の御意見は第二種住宅と第一種住宅をわける必要があるかという御意見ようでありますが、これは私どもも十分反省しております。少くとも北海道につきましては耐寒式でなければいかぬという法律の建前でありまして、今耐寒住宅にいたしておりますが、これは御指摘の通り非常に単価が高くなります。それを第二種公営住宅と言えるかどうか、この点については十分検討しなければならぬ、そういう意味で目下検討しておりますが、御意見の点は十分尊重いたしまして、予算編成のときに織り込んで行かなければならぬと思います。
  28. 木村文男

    木村(文)委員 あなたにこれをお聞きすることはめんどうなむずかしいことでないかとも思いますが、なぜ私はあなたにお尋ねしたかというと、こういう住宅問題が出るということそれ自体をあなたがまず第一に考えなければならぬことだ。私も下からたたき上げた人間ですから、よくわかるのです。その担当官自体がつつぱればできる問題です。そこで、検討してみますということではなくて、――今のは局長だとかあなたの上の人がする答弁であつて、あなた自身として実際やつてみて、現在の住宅政策は是なりや、事務的に分析してみて是なりやということをただしたい。検討しておくとかなんとかいうことではなく、是なりやということを、長い御経験の上に立つて御答弁を願いたい。
  29. 大村筆雄

    大村説明員 なかなかこれはむずかしい問題でございまして、一応大蔵省代表して御答弁申し上げる立場にある以上、そう政府全般の方針に対して断定的な言辞を弄することもどうかと思われます。政府を代表して御答弁する以上、先ほどの答弁の域にとどまらざるを得ないことを御了承願いたいのであります。
  30. 木村文男

    木村(文)委員 今あなたは大蔵省代表としては御答弁ができないと思う。それは今の御答弁くらいでけつこうだと思います。だが、係官としてどうか、こういうことです。それをひとつどうしても聞いておきたい。
  31. 大村筆雄

    大村説明員 一応政府を代表して参つておる関係上、今の程度しか御答弁できないことを御了承願いたいと思います。
  32. 園田直

    園田委員長 ほかに御質疑ございませんか。――この際大蔵省厚生省の政府委員委員長として一言申し上げます。本引揚者住宅の建設については、理事の諸君と打合せ相談した結果、今日の国家財政と、目前の病と寒さにふるえておる引揚者の現況とをにらみ合せて、すみやかに最低の援護をやるという目的のために、なるべく一つのわく内の支出で多数の住宅ができるように、所管厚生省とするなりあるいは一般引揚者住宅の費用をもつて、明年度六百戸の住宅を建設確保されるよう意見が一致しておりますので、両者にて御相談の結果善処されるよう要望をいたします。  他に御質疑がなければ、引揚者住宅問題についての質疑はこの程度にいたします。
  33. 園田直

    園田委員長 それでは、これより中共及びヴエトナム地残留同胞の実情について参考人よりその実情を承ることといたします。  この際一言委員長より参考人各位に対してごあいさつを申し上げます。  引揚げられた方々には帰国早々いまだお疲れのところ、また古田さんには御多忙中のところ、御出席を願い、厚く御礼を申し上げます。終戦後九年、いまだ異境の地に残留されておる同胞とその帰還を待つておられる留守家族の心情を察するとき、すみやかな引揚げ問題の解決は全国民の渇望するところでありまして、第一回国会以来本問題解決のため調査を進めて参りました本特別委員会の意図をおくみとり願いまして、古田さんには今回の引揚げについての経緯並びにその状況お話願いたいと思いますし、また久保田さんほか参考人方々には帰還に至るまでの概要並びに現地における同胞の状況等についてお話くださるようお願いいたします。  なお、お話の時間はお一人大体十分程度にお願いいたし、続いて各委員よりの質問に応じて補充的に御説明を願いたいと存じます。  では、初めに古田参考人よりお願いをいたします。日赤奉仕課長古田誠一郎君。
  34. 古田誠一郎

    ○古田参考人 実は私、今次の興安丸乗船代表といたしまして、ほかの二団体代表とともに乗船をいたしたのでございますが、その引揚げられました方々の数のこと、あるいはその内訳などにつきましては、先ほど山下先生から詳細に御報告がございましたので、私どもの持ち帰りました名簿その他と照し合せましてこれを承つておりましたところ、毛頭相違がございませんので、これは省略させていただきたいと存じます。  さて、それを省略させていただきまして、今度の引揚げの問題につきまして申し上げたいことは、先ほど山下先生お話の中にもございましたように、まつたく今までとは違つた様相があつたということでございます。もつとも、これは、興安丸日本を出港いたしますときから、特別のこのたび限りのと申しますか、今までになかつたことがあつたのでございます。と申しますのは、十二人の報道関係者、新聞社の諸君が、これはニユース・カメラマンも入れまして、もちろんNHKその他もう一社の録音班も加わつてそういう陣容の十二人の人たちが乗船をいたすことになつたのでございます。ただいままでは中国の領海を離れましてから打電が始まつたのでございますから、従つてかな文字の名簿というようなものが送られますのが最初に日本において入手する名簿であつたと思うのでございますが、このたびは、さよう関係もございまして、現地からそれぞれ新聞社の人たちが打電をされるようなことができた。それから、なおそれに添えまして、これは私からでございますが、私ども乗船して参つております者からも電報を打つことを許してもらいたいということを中国紅十字側に申し入れましたところが、前回まではすべてお断りになつたそうでございますけれども、今回はこれを快くお受けをくださいまして、電報を打つことができたのでございます。そういう関係か、本国でお待ちになつていらつしやる家族方々には一応何か早くお知らせができたことは喜ばしいことであつた考えておるのでございます。  なお、これは直接引揚げには関係があるとは申せないかも存じませんけれども、参りがけに八百七十六柱の中国方々の御遺骨を乗船安置いたしまして、これをお届けいたしたのでございます。それにつきまして、内地におきます遺骨遺霊実行委員会方々がお乗りになるという御希望がございまして、――私、東京を出発いたしますときは宗教家二人だけがお乗りになつて、あとはお乗りにならないのだと承知しておつたのでございますが、その後政府との関係でいろいろの御折衝もあつたのでございましよう、十二人の方々が宗教家を交えてお乗りになることになつたのでございます。そこで、こういうことは参りました結果に直接どういう影響があつたかということは今日申し上げられませんけれども、ほかの二団体代表方々と、その遺骨を捧持して行かれる方のうちの代表者の方に、興安丸が出港いたしますときに御参集いただきまして、そうして私から申入れをいたしたのでございます。それは、このたびの任務は、一日も早く、お持ちになつておる方々へ、向うからお迎えして参る方々舞鶴にお送り届け申し上げることが第一の任務でございますから、どうかその他のことは――すべてそれに集中をしていただきますようにお願いを申し上げたいと思います。――私ども政府当局から伺つたところによりますと、これは日本赤十字社の傭船ということにはなつておりますものの、実は政府で財政的にも御用意くださつた船でございますので、私が出しやはりまして、皆さん方に赤十字の船に乗つた以上私の言うことを聞いていただきたいなどと申し上げることははなはだあたらぬことであつたとは存じますけれども、年配がどうもほかの代表者方々より私の方がいくらか上まわつておりましたので、お許しをいただきまして、さようなことを申し上げたのであります。なお、ごらんになりますように、向うからいただきますすべての書き物などは、日本赤十字社、日中友好協会、日本和平連絡会、かような順序で書かれておりますよう建前もございまして、一応団体といたしましては筆頭団体であるという意味で、私かなり皆様に先だつていろいろのことを、向うにいける交渉におきましても、あるいは皆様方に申し入れることもさせていただいたようなわけでございます。前々、遺骨を捧持しておいでになつ方々の見学その他のために、向うからの出帆が遅れた場合もあつたかのように伺つております。これは事実私が参つたのではございませんから存じませんが、このたびさようなことがあつては相ならぬと存じましたので、その域を脱しないようにと実は非常に考えたのでございますけれども、皆さん待つていらつしやる方のことを考えますと、どうしても早く帰れるように、政府の代表者の方が乗つておいでにならないのだから、私どもがやらなければならないということで、いたしたようなわけでございます。そういう申合せをいたしまして、ことに、お帰りになります方々には、私、はなはだ申訳ございませんでしたが、行届いたお世話を申し上げることについても、あまり立ち入ることを一応控えていただいたのでございます。と申しますのは、他の代表方々にも、皆さん方のお考えや何かを、私はこう思うから国へ帰つたらこうお思いなさいというようなことを決しておつしやつていただかないのがほんとうじやないかと私は思う、お帰りになる方の目で今の祖国をごらんになつていただくのがほんとうだと思うのであるから、お聞きになれば、国の事情はかようにある、かようにあると申し上げてもよいと思うけれども、私は国で見ていてこう思つておるから、あなた方もこう思いなさいというようなことは、おつしやらないのがほんとうだと思うから、そのことは行きがけからお約束していただきましようということを皆さんに申し上げたのでございます。さようなことで、まあ年輩でもございますからですか、たいへん私をお立てくださいまして、総代表々々々というようなことで、ときには団長と言つて立てていただきまして、一本にまとまつての向うとの話合いもできまして、たいへんけつこうであつたと思うのでございます。  お帰りになりました方々の中には、いろいろの御事情の方がございます。今日御出席の久保田さんの御家族のごときは、向うで西北大学の生物学科に二人の御子息が入学しておいでになりました。そこでりつぱに学業を終えられることができるお立場にありながら、お父様がお帰りになりますので、日本へお帰りになる。但し、そのときに、その御子息は日本に帰つてほんとうに学校に入れるだろうかどうか、これがたいへんな御心配であつたようでございます。しかも、西北大学は、このたびは在学証明書を出さないということであつたので、在学証明書をもらわないでは私は帰らないとまでもおつしやつたそうに承つておるのでございます。こういうことから考えましても、日本に受入れまする人たちの学業をどうするかというような問題、――それは、なるほど、ただいまは日本におりましても試験地獄と申しますようなわけで、なかなか困難ではございますけれども、その点をどういうようにか文部当局におかれてもお考えいただけるように、この委員会においても大いにお考えをいただきたいと私どもは痛感いたしましたようなわけでございます。時間がたつては相済まないと存ずるのでありますが、もちろん、向うで育つて日本語もわからない子供さん方も多勢お帰りになつておいでになるのでございますから、この就学の問題はなかなか簡単には参るまいと存じますけれども、ぜひこれはお考えのうちに入れていただきたい問題だと思うのでございます。  なお、中国紅十字の行き届いた親切につきましては、一つの例を申し上げたいと存じます。それは、白石光世と言われる三十三歳の方で、今度は当然お帰りになるべき方であつたのでございますが、この方が、一九五四年と書かれておるといわれますから、本年八月五日の午後三時に遼寧省の瓦房店の結核医院において結核性脳膜炎にておなくなりになつたのでございます。ところが、そのなくなられましたときに、入院されるまで勤めておられましたのと同じ額の入院中の俸給を中国紅十字から私に託しまして、どうかこれを遺族の方にお渡し願いたい。もちろん入院中の費用その他万般紅十字会においてまかないました上の話でございます。かような行き届いた親切をされておられることを、どうかお考えの上にお置きいただきたいと存じます。なおもう一つ例を申し上げたいと存じますが、中国紅十字会等も非常な努力で、このたびは、御存じの李徳全会長がお見えになつたときの十一月三日東京でのお話では、七十何名かのヴエトナムから帰られる方のほかに三百ないし多くて四百の方々が集まることができるであろう、そのつもりで船をよこすようにということであつたと私承つておるのでございますが、向うに参りましたときに、天津に着きましたが、まだ一人も集結していないというので、私は非常にびつくりいたしまして、さつそくそこで私は電報をどうしても打ちたい、――今までは船からでなければ打てないということであつたが、私は電報をどうしても打ちたいが、何とか打つ方法はないかということを紅十字会の方々にお諮りしたところが、よろしい、どうせ今度は新聞記者の方々も打ちたいであろうから、打つことを許しましよう、その上、お金のことを申し上げては何かと存じますが、あなた方代表がお打ちになる電報は私の方で料金も受持ちましようということで、打つていただきました。その電報がはしなくもどうも内地の皆様方に大分御心配をかけたようでございますが、二十二日、私は、そういうわけですからやむを得ず招待に応じまして、北京にみな参ることに二十一日にきめて参つたのであります。これは余談になりますが、そのときに、北京の駅に参りましたが、知つた顔の方が向うから飛んで来るのです。よく見ると李徳全一行の中の紀鋒氏であります。この方は、李徳全一行はまだ杭州にあつて北京に着いていないと伺つたのでありますのに、北京で迎えてくださつたのであります。顔見知りで、紀鋒氏は英語ができるので、私は英語は下手でありますが、一応通訳なしに話をすることができましたので、紀鋒氏といろいろお話申し上げたのでございます。そうして非常な歎待を受けております間に、そのあくる二十二日に中国紅十字会の副会長であります元政治家の彰沢民氏がおいでになつて、なごやかなお茶の会を開かれたのであります。その席上に係の人が色をなして紙片を持つて飛び込んで来られた。そうして、日本はどう考えておるのか、われわれの努力を一体どう考えておるのかと言つて、非常な勢いです。何かと思つてよく伺つてみますと、日本においては、われわれが一生懸命努力しておるのに、努力をしておらないで、まだ人も集めていないというようなことでこの電報をよこしたそうであるけれどもそんなことはない、お前たち知つておるだろう、と言うから、よく存じております、けれども電文をお聞かせ願いたいと言つて電文を伺つたのでありますが、私は、それは多分、日本人から英文に直し、なお中国文に直す間の言葉の使い方の下手な都合もあつたりいたしまして、さようなことでお気持にさわるような電文になつたのでございましようが、本国におきましても決して本意はさようでございませんから、皆様方の努力帰りましたら十分赤十字社並びにほかの団体にも伝えますから、ということを申し上げて、その場は済んだのでございます。あとで拝見いたしますると、はたせるかな、ちよつと訳文に阻害の阻という字が漢字の中に入つてございましたので、これがたいへん向うの気にさわつたようでございます。それで、私はただちにそれに対して、向うへのゼスチユアと申しましてははなはだ申訳ございませんが、気持もございまして、かような電報を打つたのでございます。「十一月三日東京会談に基く今回の帰国者天津集結に対する中国紅十字会の総力をあげての努力はわれら現地にこれを見聞して感謝にたえない。その結果現在続々集結中で、おそくも二十六日中には完了の見込みである。しかるに現地代表たるわれらを通さず紅十字会に対し詰問的な打電をされたことはすこぶる遺憾であり、」――これは内地ではこういうことは申さぬつもりでありますけれども、「事実をよく知つておるのでありますけれども、このことによつて一日も出港が早まらぬばかりか紅十字会においても遺憾の意を表された。現地代表興安丸の傭船契約等に支障を来さざるよう十分努力している。貴方においても協議の上先方へ感謝の打電その他の考慮を払われたい。」という電報を打ちました。これはもちろん紅十字の人に託して打つのでございますから、一応かように見てもらつて気持を治めてもらいましたようなわけでございます。  さようにしている間に、もはや昨晩までに百十七名天津に集結した、明日は二百名集結するであろうということを伺いまして、あなた方はまだ北京における予定が十分あるし、見せたいところもたくさんあるが、どうするかと言われるから、二団体のほかの代表の方がおられましたが、私は、もう御相談するまでもありません、私から申し上げます、明朝――それはもう夜の十一時半ごろでございます。明朝一番早い汽車で天津に帰していただきたい、私どもの第一の任務は、そういう方々が百十七名昨日から集つておられるならば、その方々にお会いして、その方方を一日も早く都合よくお帰りになるようにいたしますことが私どもの務めでございますから、北京を見せていただきますことはまたのことにいたしまして、ぜひ明朝一番の汽車で帰していただきたいということを申し上げましたところ、よろしい、そのつもりで相談してみると言つて帰られて、また午前一時過ぎになつて紀鋒氏がもう一度現われまして、実はいろいろ骨折つたが朝の汽車はとれない、午後二時ごろの汽車にしてもらいたい、なお、紅十字総会に午前中は来てもらつて、副会長も歓迎のお茶の会も開きたいし、それから晩餐のつもりであつたのを繰上げて午餐にするから、それに出て、それから天津に行つてもらいたい、それより早く天津に行く方法はないのだから、しんぼうしてもらいたいというような御親切なことでありましたから、それを全部お受けして天津に帰りました。  ここで申し上げたいことは、舞鶴の引揚寮を拝見いたしまして、政府の御苦心のほどはよくわかるのでございますけれども、向うの紅十字会が用意をいたしました宿舎は、私どもとめていただいたのは天津大飯店、これは元のアスター・ホテルで、私は元天津にたびたび参つたことがございますから、よくわかつておりますが、日本人などはとまれるところではなかつたのでございます。そこにとめていただいておりましたが、ほかの今ここにおいでの方々も天津大飯店の第三分店、それから勃海大楼、交通旅館という、二流以下とは言えないりつぱなホテルに分宿をされまして、食事も、拝見いたしましたが、なかなかりつぱな食事であると拝見をいたしましたのでございます。日本は貧乏な国でございますからやむを御ないのではございますけれども、その中国紅十字といえども、決してこれはやすやすとしたのではないと私はお見かけをいたしまして、中国紅十字のこの好意にはほんとうに感謝をしなければならぬと思いました。承るところによりますと、天津に集結される間扱いもなかなか厚い扱いをお受けになつて帰りなつよう皆様方から承つているのでございます。その同胞でありまする、お帰りになりまする方々を、日本は一体どう受けるかということにつきましては、今後、私ども団体はもちろん、国といたしましても十分の――先ほどは住宅問題のことを承りましたのでございますが、十分この委員会におかれましてもお考えをいただきたい。こんなことを私が申し上げては、報告になりませんで、はなはだ申訳ありませんが、意見を申し上げるわけではございませんが、今度見ましたから、その見たことについて感じました点を申し上げましたようなわけでございます。  何かお尋ねがございましたらまた申し上げますが、先ほど一番初めに申し上げましたように、山下先生から数その他の詳細な御報告がございまして、しかも私の持つておりまする資料と照し合せて伺つておりまして毛頭かわりがございませんので、これをはぶかせていただきました次第でございます。
  35. 園田直

    園田委員長 参考人から逐次説明聴取を終りまして後各委員質疑を許したいと思います。  次に、元大連生活必需品倉庫株式会社支店長久保田源次君にお願いをいたします。久保田源次君。
  36. 久保田源次

    久保田参考人 私が久保田でございます。私が東京から旅大市に参つたの昭和十九年五月で、間もなく一年しまして大連で終戦となつたのでございます。終戦以来今日まで約十年間、大連地区からは、昭和二十二年、二十三年、三十四年と、三回にわたりましてソ連堀司令部の手によつて引揚者引揚げておりました。家族子供を含めまして約千名がその後残つたわけでございます。そこで、われわれこの千名は一昨年の十二月二日に、新華日報により、帰国希望者は帰ることができるということを知り、ほとんど全部約九百五十名の人々帰国申請をしたわけであります。私ももちろん帰国申請をいたしたわけであります。そうして、希望により残る方が、本人十五名、家族を加えて約五十名あつたわけであります。そのうち三月十三日になりまして、中国紅十字会の大連の責任者から、ヤマト・ホテルの前にある人民クラブに全員集合するように言われまして、このたびあなた方は帰れるようなつた、第一次に大連引揚げる方は三百七十名ということで、その方々の名前も全部発表になつた。第一回集結は二月二十五日、寺児溝における収容所、向うでは招待所と申しますが、そこに入所されました。第二船には乗れる、第二船の昭和二十八年の四月十一日ころには乗れるだろうということであつたのであります。しかし、依然として動く模様はない。第三次、五月四日の奉皇島出帆の船にも乗れない。それから三箇月、四箇月たちますうちに、だんだんと模様がおかしい、どうもこれはただごとじやない、どういうわけで帰れないのか、帰してもらえないのか、招待所の人たちはみなそれぞれ当局に対して質問し、かたがた、至急に帰してもらいたい、招待所に四箇月、五箇月置かれることは非常に苦痛でもあり、一日も早く帰りたいのだということを、政府当局並びに紅十字会に対してお願いしたわけであります。しかし、紅十字会並びに政府当局の方は、必ずあなた方は近いうちに帰れるのだ、政府を信頼してもらいたい、政府が必ず帰すから、あなた方は間違いなく帰るのだということで、再三その話があつたわけであります。そのうち九月となり十月となり、十月の末になつても帰れそうもない。それが、十一月の一日になりまして、現在旅大地区残つている人は一人も帰れないのだ、あなた方は帰国をする条件として一度この地を離れなければ帰ることはできないのである、御承知通りこの旅大地区は軍事基地である、軍事基地からただちに日本に帰るということは、中国のためにもよくないし、あなた方のためにもよくない、相互利益のためにやはりこの地を離れて関内に行つてもらいたいという説明が局長からあつたわけであります。三百七十名の方々は、公安局長から話がありまして、ほとんどの婦人の方々は、涙をこぼして、どうして帰してもらえないのかということを言つたわけであります。しかし、中国の政府の方針としては、帰すわけにいかぬ。それで今まで大連におつた人たちで半年前に今の洛陽、昔の奉天あるいは長春あたりに転勤になつ人々はいずれもみな帰つたじやないか、どうして大連だけは帰してもらえないのか、半年前の大連事情はみな知つているはずだ、われわれと大差ないはずだということを申し上げたわけであります。しかし、政府の方では、半年たてば大分情勢がかわるが、現在の状態はあなた方が知つている通りだ、今の状態では、あなた方は帰つてから日本の政府その他から圧迫を受けるだろう、あなた方を保護する意味からもあなた方は残られた方がいいだろうということを話されたのであります。それで、行く先はどこですかということを聞いたのでありますが、今行く先は申し上げられません、いずれ後刻発表がありましようということであつたわけであります。しかし、行く先の大体の見当、それから時期などをお示し願いたいということを当局にお願いしたわけであります。そうしたところ昭和二十八年十一月末日までには全部の方が関内に移動する、行く先は、今のところはつきりわからぬが、西安、重慶、武漢を中心とした地方に行くだろう、いずれにしてもこの軍事基地からは直接帰るわけに行かないから、どうしても帰りたいならばこの地区から離れなければならない、それがあなた方が帰国できる条件である、だからどうしてもあなた方が帰りたいならばこの地区を離れてもらいたいということであつたのであります。それで、昨年の十一月の二十日に大連から第一次として重慶の方々が、二十二日に武漢の方方が出て行きました。なお、われわれは二十六日西安に参りました。大体十一月末ころまでにはほとんど全部の人人が大連地区を離れたのであります。その当時大連に二世帯残つたわけであります。一人は山口県出身の方で満鉄の阿部渠さん。あなたは貴州省の貴陽に行つてもらいたいという発表があつたわけでありますが、何分転勤という形で残されたものでありますから、そこの企業体の首脳者の承諾がなければ動かされない。あそこの旅人の大連ドツク、正確に申し上げますれば大連造船修船公司、そこの専家としておられた阿部氏は、そこの最高責任者であるソ連の総局長から、阿部はどうしても動かせない、だから転勤を承諾するわけに行かないというわけで、残されて、現在大連にいるわけであります。もう一人の藤村彦次氏は旅順工大の出身でありますが、その人はちようど入院中でありましたので、ずつと遅れまして、本年の十一月五日に武漢に動いておられるのであります。大連地区からは、二世帯を除くほかは、大体千名と申し上げましたが、全部離れまして、このほかに中国人あるいは朝鮮人と国際結婚した人が、正確にはわかりませんが約三百名おります。その方は現在なお旅大地区残つております。旅大地区と申しますと、昔の関東州でありまして、現在旅大市ということになつておりますが、旅大市に、中国人と結婚した以外の方は現在一人も残つておりません。  それから、私は十一月三十日に西安に着きましたが、百五十八名着いて、安東、瀋陽その他の地区から約三百名、四百五十名が西安に到着いたしました。さらに、五日、六日の間を置きまして、第二回の分散をしたわけであります。青海省西寧市に、ここに御出席の古田さんの御実弟である古田秀三郎さん、それから、もう一人、舞鶴援護局長の宇野さんと同期生の藤田尚彦さん、この二世帯と、それに奉天その他の地区から集まられた独身の方々が約二十名、二十五名の方があそこに行き、それから寧夏省の銀川には、大連地区から鷲尾さん、これは元天津の専門学校の教授をしておられた。それに中島兼文さん、上岡長作さん、清水英之助さんという方々がみな家族を連れて西安から五日間の行程でトラツクで向うへ移動されたわけであります。西安には城内に約二百四十名残つておりましたが、そのうち今度第一回にわれわれと一緒に引揚げて参りましたのが八十七名、なお百数十名残つております。その近郊には相当多数残つておるわけであります。西安から、そういうようなぐあいに、今申し上げました青海省、寧夏省、陜西省の武功、延安の東の延長、あるいは宝、草灘、覇橋など数箇所に分散しております、大体向うに行つた人たちで帰国を希望しない人はほとんどないほどでありまして、現在一番気の毒な状態にあるのは清水本之助さんで、この方は終戦後関東局土木部長高等官一等の方で、年齢七十才ですが、いまなお職を与えられず向うの人事局の招待所で――どんな家に住んでいるかということは皆さんの御想像できないところだと思いますが、天井は紙天井、窓もガラス戸一枚なく、全部障子、なおドアも障子です。ほんとうにガラス一枚もない、下は土間で、いなかにおける百姓家の土間よりももつとひどく、湿気もひどい。それで、着かれてから今日まで約一年間この湿気のひどいところで生活されておられたので、非常にからだも弱つておられて、ずつと今日まで六、七箇月間は寝ておられたよう状態です。非常に気の毒な待遇を受けており、給与はずつと同じでありますが、やはり何ら職を与えられていないということで、本人にも非常に気の毒だと思うのであります。なお、私は、旅大地区を離れますときに、局長から、あなた方の待遇は全部旅大地区と同じ待遇である、給与もそのまま差上げますということをはつきりと説明を受けたのでありますが、向うへ行きますと、ただちに給与は一割八分全部減俸されたのであります。一人残らずそういう待遇を受けましたので、最初からの話とは全然違うではないかということで、われわれは清水先生を初めとして全員で政府当局に、一応大連での言明通りの待遇にしてほしいということを再三願い出て、七月末に至つてその差額は支給され、この問題は解決されましたが、非常な不安な状態で今日まで過して来たわけであります。家屋の状態もあまりいいとは言えません。中には、ほんとうの家屋じやなしに、穴居生活ような、そういうふうな家に住んでいる方もあるわけであります。  私が立ちますときに、昨年三月二十五日から十一月末まで八箇月余大連の寺児溝収容所に収容された人たちの中で、中島康郎あるいは高松三守という六十歳前後の方々も今度の集結に漏れたのでありますが、あれだけ願い出て自分たちはこれだけ帰りたいと言つたのにどうして残留させられたのかと嘆いておられました。なお、高松三守さんは北海道農大の出身で、現在西安から西、鉄道で約二時間半、武功種馬場に住んでおりますが、この際ぜひ帰してもらいたいと願い出たわけです。私は三十二、三の娘を初め娘ばかり四人もおる、家庭の事情もあるし、自分も六十を越しておるので、とうていこの地に長くとどまられない、しかも昨年ずつと三月二十五日から大連の収容所の生活をしておるのだから、どうしてもいの一番に帰してもらいたいということを言つたところ、向うの局長は、そうあなたが帰りたいならば、あなたは帰りたい理由書をぜひ文書で出してもらいたいということを言われまして、それで今から帰つてその理由書を書かなければならぬというふうな状態でありました。  今まで紅十字会の方でいろいろあつせんしてくださいましたが、自願による引揚げということに表向きはなつてつたのであります。しかし、西安地区の八十七名の中では、西安に行きましてから一度も帰国希望云々をされたこともありませんが、今度もほとんど抜打ち的に、十一月十五日の午後五時に至りまして、十八日の三時までに招待所に集結せよと言われ、その職場の重要性その他一向に考えず、本人意思も全然考えずに全部集結を命ぜられたのであります。この私たち一行の中には、西安に行きましても、帰りたくても、帰国したいという希望を一度も申し出ない、あるいは申請書も出さない人々も入つておるわけであります。それで、多少その点に矛盾があるわけでありますが、一応私も紅十字会の責任者の方に聞いたわけであります。このたびのわれわれの引揚げ本人の自願によるのじやないか――。もちろん自願による――。われわれは西安地区では今度は八十七名集結していても一人も願書を出していないし、申出もしていない、どういうわけでこれらの氏名を決定したのかということを考いたわけであります。向うにも時日はなかつたかと思います。李徳全会長が東京を十一月十二日に立たれて北京に十四日に着かれた。十五日にはそれが発表になつた。その間時日がなかつた地区地区によつて違うわけであります。ある地区では本人残留したいかどうかという意向も聞かれたようでありますが、聞かないところもあるというふうな状態で、非常にまちまちのやり方をされておる。  なお、先ほど古田先生からお話があつたように、西北大学には八名の大学生、本科生もおつたわけであります。そのうち私の子供が二人、娘とむすこが大学生におつたわけであります。それで、政府からあまり突然な発表があつたので、とても大学に行つている子供の二人の退学手続その他の点についてはできないから、十八日三時にちやんと集結しろと言われてもなかなかそう簡単に行かない。そうしたら、あなたは行かぬでもいい、政府の方で一切合財やつてあげる、自動車も出して、手続も全部してやるということであつたので、当然在学証明あるいは退学証明、何らか書類をくださるものと期待しておつたのであります。それで、校長にいろいろ折衝したのでありますが、紅十字会の指令があつて一切そういう在学証明その他の書類は出さぬことになつておる、どうしても出すことはできぬということであつたのであります。それで、私の子供たちも、東京に帰つてから在学証明や何らかの書類をもらつて帰らなければ転学その他に非常にさしつかえる、そういうようなことで帰りたくない――。私の子供二人はどうしても書類がもらえなければ帰らないと言つたのでありますが、三回も四回も自動車を出し、ぜひ帰れということであつたので、従つて私の入所は遅れたわけであります。私は招待所に集結しましたが、子供たちは、どうしても書類をいただかなければ帰れない。なおその節全般的に出さないのかと聞いたのでありますが、これは統一した方針であるから、小学校、中学校、高等学校、大学、すべて一律に出さないのであるということを言われたわけであります。西安の招待所に参りましたら、ただ本人だけそういう書類をもらつていない。あとは高等学校、小学尋常一年に至るまで全部在学証明をもらつておる。そこで私はさらに質問しました。そのときにちようど紅十字会の代表の方、最高幹部の方が十人ほど慰問に来られたので、その点を私はただしたわけであります。政府の一貫した方針で紅十字会の指令によつて出さぬということをはつきり言われたにかかわらず、この招待所に来てみれば、ほとんど全部の人が在学証明書を持つている、西北大学の今度集結した本人だけ持つていない、われわれの子供はこれでは非常に困る、何とか善処してほしい――。子供たちはどうしても在学証明をもらわなければこの地を離れたくないと申しておりました。もつとも経済的な面もいろいろ子供たちにあつた思います。大学生になれば一切合財の費用、寮におきまする食費から教科書代に至るまで、すべて政府で大学生に対してはめんどうを見てくれます。高等学校までは親の負担でありますが、大学生は国家の負担でありますので、はたして日本に帰つて来た場合に、われわれ二人が父の収入だけでやつて行けるだろうかどうか、はたして就職ができるだろうかどうか、その点を子供たちは懸念したわけであります。私も昭和二十年終戦の直後に家内をなくしまして私の一人の手で三人の子供を育てて来たわけでありますので、親の教育その他についても行き届かない点が多分にあると思います。しかし子供たちは在学証明書をもらわなかつたことについて非常に不満を感じている。しかし政府の方ではどうしても帰れと言う。私が招待所に入りましても、子供たちは退学の手続もしない。荷物を学校に置いたまま、退学手続をしなかつたわけであります。それで、校長室で政府の人から再三そういう話がありまして、子供は、そんなに帰りたくない、要するに、在学証明を出さなければ、帰りたくない者は帰らないでいいじやないかということまで言つたのであります。しかし、政府の方は命令だからということで、無理やりに西安を立つたわけであります。それで、私は、天津に参りましていろいろと他の大学の在学証明書のことを聞いてみたところが、他の大学はほとんど出ているわけです。上海の交通大学の学生にしましても、その他全部在学証明書を持つている。高等学校、中学校、小学校みな持つて来ている。それで西安だけ出さない。西安では、小学校、中学校、高等学校で在学証明書をもらつた者は一人残らず全部回収せられたのであります。この点が私は非常におかしいと思つて、あなた方が回収されたのは政府の統一した方針によつて回収されたのか、もしも他の地区の大学なりその他の学校で証明計を出しておつたならばどうするかと言つたら、いやそれは大丈夫だ、天津の税関において中国の書類に判を押したものは一切没収することになつている、出したところは間違いだ、出さない方針に中国は指示しておるから出さないのだということであつたのであります。しかし、天津に行つても全部証明書を持つておるということであつたので、また紅十字会の方にお伺いしたわけであります。ちようど古田さんもお見えになつておりましたので、船の出る前の二十五日の晩に、紅十字会はこういうふうな方針であるらしいからぜひこの点を善処してもらいたい。それで天津へ行きましても、私の子供二人は、どうしても不安だ、これならば日本に帰れない、日本に帰つた場合に、自分たちがはたして大学生だつたことを立証すべき証拠は一つもない、――在学証明書は全部取上げられたわけでありますので、非常に私の子供は不安に感じておつたわけであります。それで、紅十字会に申し上げましたところ、それでは研究をすると言つて、二十五日の晩約四時間にわたつて在学証明書の問題について討議されたわけでありますが、結局これは出すことにしまして、あなた方の子供さんに対しましてはあなたの帰国後に後刻送りましようということになつたわけであります。こういうふうな点で、私たちの引揚げの問題に対してはスムーズに行つたようでありますけれども、いろいろな問題でひつかかりができて、非常にこの問題に対して私自身として困つたわけであります。  なお、話はもどりますが、旅大地区の千名の行き先について申し上げますと、約三十箇所に分散したわけであります。行き先を申し上げれば、西安地区は先ほど申し上げた通り、西南地区、これは重慶を中心としてそこに約三百名、それからもとのチベツトの西康省に一世帯、それから雲南省の昆明に約十世帯、貴州省の貴陽に約十世帯、その次に中南地区は武漢を中心として長沙、湘潭黄石港など、さらにまた河東地区は南京、杭州、鄭州など、それから河北地区では山西省の候馬、運城鎮、張家口の南にある宣化並びに内蒙古の帰綏、包頭方面にみな転じたのであります。  現在の残つている状態は、ほとんど帰国を希望されておるが、今まで旅大地区におつて残留したいという人も、今度は帰国したいということを願つているわけであります。いずれ紅十字会の方ではこの次の帰国者に対しては本人意思を確かめた上で名前を発表するのじやないかと思いますが、政府当局にこの点を聞いてみたところ、今度は非常に忙しいために企業体へも連絡しなかつた、それで、重要な人もあるいは重要でなかつた人に対しても今度第一次に入つてもらつた人もある、この次は十分この点は考慮しなければならぬということを西安地区の紅十字会の方は申しておられました。いずれこの次第二次、第三次にはこの方々は帰つて来られるんじやないかと思います。なお、残留希望者の方も、二、三あるようです。鄭州には二世帯あるように開いております。これはいずれ小野さんからお話があると思いますが、以上のよう状態です。  それから、このような紅十字会の取扱いについては、先ほど古田先生からお話なつように、非常に丁重をきわめました。独身者の方には八十万元、家族者に対しては、十六才以上は六十万元、十六才以下の子供については二十五万元ずつ、中国の人民紙幣で補助金をいただいて帰つたわけであります。なお、ホテルその他の設備についても、西安では西安招待所、私たちは親子四人でありましたが、十六畳くらいのりつぱな部屋、これは第一ホテルくらいのりつぱな設備、じゆうたん、ソフアーその他寝台等りつぱなもので、二部屋を提供していただいて、食事その他もあまり天津・広東とかわりないほど、非常に優遇していただいた。なお、西安から天津に来るまでも、八十七名に対して紅十字会から代表方々が五名も付添われた。それで、天津における状態は、先ほどお話のあつた通り駅頭まで来ていただき、紅十字会に対しては私は実に感謝の言葉がないほど好遇していただいたことについて、この席を借りてお礼を申し上げたいと思うのです。
  37. 園田直

    園田委員長 次に、元大連航海学院の木村遼次君にお願いをいたします。
  38. 木村遼次

    木村参考人 今日この地に参りまして、これからの生活の第一歩を踏み出すことのできましたことに対して、政府並びに三団体方々に、この場を借用いたしまして御礼申し上げます。  先に説明されました久保田さんと同じように、大連に今までおりました。昨年の十二月大連におつた約千名の者が方々に分散されました以前のことについて、久保田さんの正確な数字及びこの間の事情を、一緒におりました者としてこれを証明いたします。大連の人は大方出発されまして、最後に、十二月の六日でしたでしようか、約四十七、八名だつた思いますが、承徳というところへ参りました。承徳には、大連市の者と、ほかの者も参りました。一緒にして約百四名おりました。そして先方で招待所というところへ入りまして、その間に就職のあつせんなどあり、就職が全部済んだのが一月の中旬でありました。そこで約一箇年間過しまして、ちようど今年の十一月十一日にこういう問題が起きまして、大連から出発した者がもどつて参りました。今瀋陽方面のお方で数家族のお方が先方におります。  それで、申し上げておきたいことは、帰りたい意思のある者も帰りたくない意思のお方も一様に扱われておるという点です。一応は政府に申し立てた方もありますが、そういうことを向うで承認あるいは相談というか、実際残す場合には、帰りたくない者も帰りたい者も一緒に残つたわけです。帰る場合には、そういう意思を一切別にして、これは一つの中央の政策だと思いますが、その政策がいいか悪いかということは別にいたしまして、私たちの意思が尊重される程度が少かつたこともあります。それから、一九四八年だつた思いますが、大方の人が帰つたあとに残つた人、この人たちに対して、自願で残るのであるということの証明を中国におる方全部がさせられました。そのことについて一斉申し上げたいことは、この地に帰つた人が、自顔で残つていた人であるかないかによつていろいろ差別があると思われますが、これをぜひとも修正してほしいと思います。残りたい者も残りたくない者も、そういうわけで自願で残るとの証明書を書かされて判を全部押しましたから、一応は今度帰つて来た者も今おる者も自願で残つておるということに先方ではしております。その中のほんの一部分にはそういう方もおります。しかし大方の方はそうでないということを知つてほしいと思います。十一月の十八日に集結いたしまして、もどつて参りました。  別に言うことはありませんが、今後のぼくらの生活、そういうことについては非常に心配が多いのであります。そういう方面につきまして皆様の御援助をお願い申し上げます。
  39. 園田直

    園田委員長 次に、元大連鉄路研究所勤務の小野元彦君にお願いいたします。
  40. 小野元彦

    小野参考人 私は小野元彦と申します。あらましにつきましては久保田さんから詳しく御説明があつた通りであります。それで、概略につきましては省略いたしまして、ここで申し上げますのは、私自身を中心として知つておることだけを御報告申し上げます。  私は、終戦当時、一九四五年八月十五日まではハルビンの穆稜炭鉱というところで資材課長をしておりました。終戦と同町に捕虜という形でソ連の国境まで歩かされまして、四十五日の死線を越えて、ハルビンにまたもどつて参りました。そして、一九四六年の秋、みんなが日本帰国するとき、私は留用になりまして、中国長春鉄道管理局に勤めることになりました。それから、一九五〇年の十月と思います、鉄道関係の者は全部関内に移動することになりました。私はハルビンに二十年近くおりましたので、もう少しここにおりたいと言つたのでしたが、結局希望はいれられず、土曜日の夕方の七時に移動命令を受けまして、翌日の朝七時に乗車することになりました。あつちこつちと追われましたが、少し残つておる財産もそこに置いて、処理することもできず、汽車に乗りました。そして鉄道関係の者が関内に移動し、済南に一度集結をいたしまして、そこから各地に分散をさせられたのですが、私どもは北京に参りました。そうして北京に参りましたところが、適職がないので、元来私は中国語とロシヤ語の翻訳をやるのですが、本職がないから普通の事務員になれと言うのです。私はそれに反対いたしまして、こちらで言う要求、向うで言う闘争を続けたのです。そして一年ほどあそこにがんばつておりました。あげく、一九五一年の冬大連の鉄路研究所に転勤を命ぜられ、そこでソ連の最高科学院の報告中国語に訳しておりました。それで、先ほども久保田さんがおつしやられた通り、一九五三年の三月二十五日に中国の赤十字社の招待所に入所いたしました。三日後に、私の家内がロシヤ人ですから、外人は日本の政府は受付けないから帰ることはできないという通知を受けまして、それで、帰るならお前だけ帰れ、家内は置いて行けということでした。私はそれに反対いたしまして、家内は民族はロシヤ人であるが日本の国籍である、――ハルビンの領事館の出した証明書を持つておりますので、自分の国の国籍者を自分の国が断る、そんなばかな話はないだろうと、ずいぶんがんばりましたが、いたし方がありません。そうして皆様と一緒におるうちに、私の家内ばかりでなく、あすこにおつた全部の日本人の方が帰れないということになりました。その理由については久保田さんからお話がありましたが、私ども鉄道関係の者は六家族おりました。これが全部河南の鄭州というところに参りまして、そうしてこの小野と大崎の二家族が鄭州に残り、あとの四家族はそこから離れた洛陽というところに行くように話があつたのであります。ほかの四人も闘争を始めて、洛陽には行かずに、全部六家族鄭州に勤めることになりまして、勤め先は全部が全部別の各機関に勤めることになりました。しかしこれは鉄道関係は鉄道関係です。それから、鄭州には元からおつた者で山田という一家族がありました。それで、鄭州には日本人家族というのは全部で、鉄道関係が六家族、従来おつた家族と、七家族おりました。そうして、一九五四年の十一月十三日、私が勤務しております所の政治委員、その方が私を呼びまして、あなたは日本帰りたいという希望を持つておるそうだが、今度帰れそうだから、公安局に行つて手続をおとりなさいと言うので、私は公安局の外事課に参りましたところが、そこの責任者におしかりを受けまして、仕事中そうぶらぶら出て歩いてはいけない、だれがそんなことを言つたか、そんなはずはないからさつそく帰つて仕事を続けろと言うのだ、うちに帰つて来て事務所でまた仕事を続けておりました。十六日朝になつてまたその政治委員に呼ばれまして、今度は間違いないから行けと言うので、参りました。そうして、帰国希望の者は申請書を出してよい、しかし帰ることの決定はわからない、それは後日通知をする――。それで、鄭州地区帰国希望者として私と大崎さんの二家族がその日にさつそく帰国申請書を出しました。それから三田さんという方は、帰つてよいのか悪いのか、自分でもわからないので、私のところに相談に来ましたが、あなた自身のことであるから、あなたが決定したらいいということで、最後の最後までわからなかつた。しかし一番最後に申請書を出しました。十八日に、午後からあなた方は収容所に行くのだというので、私の方の工会の人が来まして、びつくりしたのです。そんなに早く立つのか――。すぐ行かなければいけないのだ、手伝つてやるということで、麻袋を持つて来まして、いるものもいらないものも、こわれるものもこわれないものも、みなぶち込んで、麻袋を五つつくつてくれました。それを持つて自動車に乗せられて、あちこちぐるぐるまわつて、向うの招待所に入りました。先ほど申しまして大崎と小野と三田と三軒入つたのです。そうして、向うの赤十字社の方がわざわざ出張して来られまして、五、六名と思いましたが、非常な御親切な接待を受けまして、いろいろ手続を済ませまして、明日汽車に乗るのだという日ですが、その晩三田さんは残つてもらいたいという話で、それで私と大崎さんの二家族だけが鄭州地区から来たのであります。そこに汲県というところからやはり四家族来られまして、それと合流して天津についたわけです。それで、結局鄭州から帰りましたのは私と大崎さんと二家族、あとに残りましたのは、鉄道関係ですが、一緒に行つた者で石田君、これは家族が四人、三田さんが家族とも三人、村田さんが五人、岡本さんが四人家族、この四家族は鉄道関係で一緒に行つた人です。それからあそこにもともとおつた山田さんという方が、おじいさんと娘さんと二人です。合計この五家族は、私ども日本帰りたくないという人なんですが、この方が残られた。その理由の一つとしては、お子様方の全部ハルビンのソ連の学校に行つておられるので、子供の教育を終らせたいというのが一つ、そのほかにまだあると思いますが、それは御本人でないとわからないと思います。   〔園田委員長退席、青柳委員長代理着席〕 天津に着きましても、非常に向うの赤十字社の方に御親切にしていただきまして、船に乗りました。船に乗りますと、日本からの三団体の方に非常に御親切に扱われました。同情を忘れられたのじやないかと心配して来ましたが、日本の同胞の方々にあたたかい心で迎えていただきました、まことにありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
  41. 青柳一郎

    青柳委員長代理 それでは、次に、元安東造船技師の西林成太郎君にお願いいたします。
  42. 西林成太郎

    ○西林参考人 御紹介いただきました西林でございます。久保田さんから大体の状況お話していただきましたものですから、私個人の今までの体験談というような形で、遺家族方々にお役に立つかどうかは存じませんが、参考のために申し上げたいと思います。  私停戦のときは鞍山におりました。そこで停戦になりまして、一時混乱状態になつたのですが、それぞれ、行商をやつたり、中には持つている方は食いつなぎという形で苦労しておりました。間もなくソ連の進駐軍が入りまして、幾らか治まつたときに、鞍山の製鉄所の解体作業に、残つている日本人が全員参加しまして、ソ連の解体作業に従事いたしました。これは、生活のためにやむを得ず――参加する参加しなくても、いいというわけじやないので、参加した方が生命の関係もありますからいいというわけで、ほとんどの人が参加して解体作業をいたしました。解体作業に従事しております当時、   〔青柳委員長代理退席、委員長着席〕 鞍山から約十キロ行きましたところに七嶺子という部落がありますが、そこに鞍山製鉄所の疎開住宅がある。そこに私参りまして、その前に私は疎開住宅におりましたから、入つたのでありますが、停戦の年の六月、七月ごろに、内地から避難されて来た方々が、三百名ばかりだと思いましたが、大阪、名古屋、各地方から来られました。間もなく停戦になつたものですから、その方々は路頭に迷いました。言葉はわからないし、その時分非常に苦労しました。私たちは幸いその以前からおりましたから中国語が少しわかつてつたので、当時しようがないから、とうふ屋を始めたり、あるいは中国人の部落に入つてそこの仕事を手伝つたりして過しておりました。ところで、その当時、前に満軍におりました近藤勇、たしか少佐で大隊長だと思いますが、この人が菊水隊というものを組織しまして、八路軍と戦はうじやないかということで、そのとき鞍山並びに遼陽方面から逃げて来ました航空隊の方々とともに構えておりました。たびたび鞍山の八路軍管轄になつております軍の倉庫を襲つて、軍の物を盗んで来たり、非常な不安な状態にあつた。ところが、十一月二十八日に、八路軍が、どのくらいの人数だつたか存じませんが、その七嶺子の周囲を取巻きまして、七嶺子を攻撃した。当時菊水隊というのは人数は六、七百名だつた思いますが、それが手向つたのであります。手向いましたが、御承知ように武器も何もありませんから、ほとんど肉弾的な形でやつた。一般の私どもはどうしておつたかと申しますと、なるべくそれに参加しないで難を避けようというような形でありましたが、戦闘が終つたときに私たちは一同捕虜というような形になつた。ところが、いろいろ調査しましたが、別に菊水隊とかそういう方面に関係していなかつたということが証明されて釈放されたわけであります。  翌年、一九四六年に国民党が入りまして、幾らか治安も治まりまして、残つた方々もそれぞれ鞍山製鉄所にまたもどるようになつて、幾らかおちついた感がありましたが、間もなく引揚げの問題が出まして、ほとんどの人が引揚げました。ところが、技術者はぜひ必要だから、何とか残つてくれというわけで、元から技術者と見られた方方、あるいは課長と見られた方々はほとんど残られた。その中には、ぜひ帰りたいということで、身がわりにだれかを押しつけまして、自分は実は課長でも何でもありませんからということで、課長代りを置いて帰つた人もあるわけです。ですから、鞍山製鉄所の中にはほんとうの技術者もおりますし、にせの技術者もおります。大体技術者が多いわけです。その人たちが残りまして、鞍山の復興にかかつたのでありますが、一九四九年だと思いますが、またまた八路軍が今度巻き返して来た。そのときに、国民党はその当時とにかく規律のない、非常に落伍した軍隊でありまして、毎日々々物価がどんどん上つて行き、人民は非常な苦しみだつた。そういうような落伍した兵隊であつたために、たちまちにして包囲されて、最後に国民党は鞍山製鉄所の中にとじこもつた。そこで八路のためにやむを得ず降参した。それでまた八路の行政下になつたのですが、再びまた国民党が攻めて来る。八路がこれはいかぬというので逃げて、一時真空状態なつた。八路もおりませんし、国民党もおらない。管理する者がいないものですから、暴民が多く現われまして、特に日本人方々は非常に迷惑がかかつた思います。家の中にとじこもりまして、窓という窓は全部くぎで打ちつけて、絶対入らせないようにしたので、野菜など物を買いに行くのに非常に困つた。そういう日が二日ばかり続いたのです。  間もなく八路が政権をとりまして、鞍山製鉄所を復活させたのですが、また国民党が入るけはいがあるというので、当時の技術者は安東の方に一時避難という形でみな連れて行かれた。私の職業は大体動力関係でありましたので、佐賀県の山口という人と耳鼻咽喉を担当した医者の久保正雄という人と残つて、なお鞍山製鉄所に働いておつた。みなが安東引揚げた後に私たち三人は鞍山の製鉄所にとどまつて働いておつたのであります。それはデイーゼル・エンジンを動かしまして、電気を重要なところへ送る。要するに発電の形で働いていたのですが、そういうような不安が続くものですから八路の方では再び私たちを安東に連れて行くというので、私と山口という人は普蘭店をまわりまして貔子窩に出て安東に行つた安東に出まして造船所に勤務した。当時二百トンの内燃機関をつくつてつたのですが、ちようどソ連の専家が見えまして、ソ連の方と相談しながらともども仕事をやつていたのです。それから別にかわつたこともなく、九年ごろだと思いますが、アメリカ軍が新義州まで占領して参つたのであります。当時非常に空中戦がはげしく、また爆弾投下も安東にもたまにある。そしていつ何どき安東に攻め上つて来るかわからないというので、重要機関はほとんど全部疎開させられた。その当時私たちは遼陽の光華機械廠の機械部内で働いておつたのですが、間もなく引揚げるということになりまして、昨年の三月から引揚げ開始ということで、私たちも四月ごろから同工廠内で帰国の学習をやつた帰国の学習というのは、中国の今までの発達の歴史とか、生産量とか……。
  43. 園田直

    園田委員長 発言中ですが、西林さん、発言が低くて速記が困難をしておりますから、もう少し高い声で発言願います。
  44. 西林成太郎

    ○西林参考人 そういうわけで、学習を受け、私たちも帰国の手続を全部済ませまして、写真まで提出して、間もなく帰れるのだということでやつておりましたが、八月になりまして、いよいよ帰すということになつて、人名が発表されたのです。あのとき遼陽には約百人くらいおつた思いますが、私たち六家族は、公費局の方から、お前たちはしばらく待てといつて残されたのです。そこで、どういうわけで残すのかという疑問を持ちまして、公安当局に尋ねました結果、安東に出かけた人、中国の国家の軍事機密工作に関係した人々残つてくれということであつた。私個人としていろいろ考えたのですが、別に中国の国家機密に関係したこともなく、どうも見当がつきませんので、一体、私はどういう国家の機密工作をやつてつたのか話してくれと言いますと、それは胸にじつと手を当てて考えてみればすぐわかる、だからしばらく待つてくれ。――要するに、今そういう人々日本に帰ると中国の不利だ、中国の不利ということはあなた方にも不利である、今は中国日本との国交関係が非常に険悪の状態にあるから、しばらくの間待つてくれないかと言われて、あのときに残されたのであります。いろいろと運動してもみましたが、結局むだで、みなが帰りました後三箇月くらいして、十一月の二十三日に武漢地区にまわされた。  その当時の私たちの気持は、これは三年ないし五年は残されるのではないかという非常に不安な気持であつた。そのとき武漢地区にまわされました六家族のうちで三家族は――三家族といいますと長野県の歌川毅、鹿児島県の原山吾郎、いま一人は吉田悟、この三家族は重慶に行つた。それからもう一人、藤井芳正、この人は長沙に行つた。それから私と杉浦孝、この人は北海道ですが、この二家族が武昌の動力機械廠に勤めておつた。そこにさつきお話がありましたが藤村彦根という人が私がこちらへ出る十日ほど前に参りました。そうして、私と杉浦孝と木下友雄、この人は兵庫県で元吉林省におりましたのですが、原新之助、山田達郎、この人々の六家族が武漢におつたのですが、そのうちの三家族、山田達郎、原新之助並びに私に抜打ちに帰れという命令が十一月十六日の朝通知があつた。それで、残つた方々は、全部帰りたいけれどもなぜ残したかというので相当闘つたのですが、間違いなく次の船で帰すからというので、残つた方々は涙をもつて残つて、次の船が来るのを待つているのであります。その間、いろいろな人にもめぐり会つたりしたのです。その当時々々でおもな人並びに帰国さすべきだという人を手帳に控えておつたのですが、中国側としましては、筆記したものは絶対に持つて帰さない、持つてつてはいけないというわけで、私が今まで仕事をして来ました仕事の経験を書いたものも、人名簿も全部置いて来まして、はなはだ残念に思うのです。それで家族方々に済まないと思いますが、どうも名前を忘れてしまいました。中には死んだ人もおります。その人は静岡県の人で、名はどうも思い出せないのですが、埋葬までしてもらつたのであります。名前は忘れました。そのほかに、私が遼陽で四、五人の方に会いましたが、この人は八路軍のジエツト機の整備員として働いていて、後に安東に出かけたのですが、その後消息はないのです。また中国状態としまして、そういう人々お話を伺つたり、何の工作をしておつて、どんなことをしておつたかということを聞き合うというのが精神上非常につらいところがある。というのは、そういうことを知つておりましても、もし公安局でこういう男を知つているか、ああいう男を知つているかという場合に話しますと事めんどうなものですから、なるべくお互いに事情を話さないというような形でおつたものですから、自然とそういうような、本籍だとか所だとか、何をしておつたかということを避けがちであつた関係上忘れた、あるいは記憶してなかつたりしているのであります。  さつきもお話がありましたように、実は私も工程師という役目で行つたのですが、内地に帰りましてからその工程師の身分というものの証明がつきませんから、何らかの証明を願いたいものだ――。ところが、今小野さんがおつしやつたように、中国の証明は出せないというわけで、身分証明も何もしてもらえずに、そのまま帰つて来たのであります。それで、内地に帰りまして、この現状を見ますと、就職難である、あるいは住居難であるということを聞きまして、今後どうなることだろうと思つて、私は非常に不安に思つておりますが、何とぞその点お願いしたいものだと思います。  これをもつて私の話を終ります。
  45. 園田直

    園田委員長 これにて中共地区から引揚げられた参考人方々の総括的な事情聴取を終ります。  この際特に参考人に対する質疑の通借がありますので、まず古田誠一郎君を含む中共地区関係参考人に対する質疑を逐次許します。  なお、この際参考人の方にお断りしておきますが、時間が相当経過いたしましたが、実は本日国会は相当多忙な日でございまして、それぞれ委員が相当任務を重複して持つております。従いまして、お気の毒ではございますが、休憩することなしに審議を続行いたしますから、御了承願います。  質疑を許します。青柳一郎君。
  46. 青柳一郎

    青柳委員 ただいま皆様から非常にお苦しい貴重な御体験を承りまして、私どもといたしましても、心のおののき、非常な感動を受けたのでございます。なお、将来の学校の問題、生活、就職の問題につきましても、委員会の皆さんは必ずやこぞつて皆様方の御希望達成のために努力をすることと存じます。  実は、私は今回中国に国会議員一行の中に入りまして参りました。そして私の主たる任務は引揚げ並びに戦犯の問題であつた関係から、少しく皆様方に御質問いたそうと存じます。  われわれの折衝の当初におきましては、中国紅十字会におきましては集団帰国のことは何も申さなかつたのであります。最初の段階におきましては個別帰国の段階でございました。この個別帰国につきましては、日本の方が日本の国に帰るために日本の船に乗るまでは、あらゆる物質的な精神的な援助を行うということを李徳全さんからもはつきり聞いたのであります。その当時われわれとして一番心配だつた点は、もちろん、先ほどお話がありました、主として旅大地区方々が一度集結されて分散された、その意義、これはどういう意義であるかということであります。最初にお聞きしたのは、個別引揚げをする、それについて中国は在留日本人日本の船に乗るまであらゆる援助をする、こういうのであります。そうすると、日本中国におる在留民、これらの人々はいかなる方法によつてそういうことが行われているということを知るか、その周知徹底を中国紅十字会はあらゆる方法を講じてくれというのが私の要望の一つの点であつたのであります。さらに、最後の段階、私が最後に李徳全先生に会つたのは北京を去る前の日、十月十四日でありましたが、そのとき紅十字会は初めて、日本の人を集団的に今回帰国せしめる、そのためには二つの船が必要であるということを言明されました。従つて集団帰国をするにいたしましても、やはりその周知徹底の方法を問わざるを得ないのであります。それを私が尋ねました。この二回の場合におきまして、いずれも、中国紅十字会においては、心配ない、あらゆる方法を講ずる、こう申しましたと。ころが、その周知的徹底の方法が、その後帰つて来ましていろいろなことを聞きますと、あまり達成されておらないように思つておるのであります。この点がまず一つの心配でございます。あちらではいかにしてこれらの問題についての周知徹底をはかつているか、この点につきまして、どなたかからお知らせ願いたいと思います。
  47. 久保田源次

    久保田参考人 ただいま御質問のあつた点についてお答えをしたいと思います。昨年大連地区における千名の集団引揚げにつきましては詳しく申し上げました通りでありますが、その後われわれは十一月二日に、あなた方はこの次は帰れない、並びに大連地区に出張その他で来た人もやはり出張しているために帰れない、だから結局あなた方は引揚げの可能な条件をつくるために旅大地区を離れなければならないということを言われたわけであります。それで、われわれは昨年の十一月二十日から、承徳地区は十二月五日に、離れたわけでありますが、関内には十一月三十日までにほとんど全員散開したわけであります。その後、われわれとしましても、いつ帰してもらえるのだろうかということを再三当局、すなわち公安局の外僑課に対して照会したわけでありますが、中国としては個別的な帰国希望者の中から帰すということを再三言われております。その後本年の五月かと思いますが、ジユネーヴ会議中国のスポークスマンの方が、とにかく帰国希望の方は皆帰したということを言われたのを新聞あるいはラジオで知つたわけであります。それで、なお政府当局方に、こういうようなこと言われている、すでにわれわれは帰国希望について当局に再三申し上げている、しかるに向うでは全部帰したということになつているが、はたして集団帰国なりあるいは個別的に帰してもらえるのかどうかということを再三尋ねたわけであります。現在の情勢ではこちらの方に船がないから日本の政府と折衝してまわしてもらうということになるだろう、しかし今のところでは個別的に帰つてもらうよりほかに道はないと思う――。時期はどうだろうかということを聞きましたら、時期は今のところわからないということで今日に至つたわけであります。それで、西安に参りましてから、ほとんどの日本人方々は、旅大地区ははたしてどの地方に分散したのかと留守家族その他の方が非常に不安であろうと思われましたので、ある人は一週間に一ぺんずつ必ずはがきもしくは手紙を日本に出したわけであります。それがほとんどついていない。また返事も来ない。非常に不安に思われているだろうということを聞いたのであります。なお、ラジオでも、旅大地区の千二百人の日本人は各地に散開したようであるということを言つたわけであります。われわれとしても非常に不安であるので、公安当局に対して、検閲してもいいからぜひはがきなり手紙なり日本に届くようにしてもらいたいということを申し上げたのですが、当局の責任者は、そんなことはない、自分の方で没収するようなことは決してないということを言ておりましたが、一つも通つていないということで、どうもその間がおかしいし、われわれが西安に行つてみたら、あなた方の移動はもうすでに昨年五月にきまつてつたというような話を聞いて、さらに驚いたのであります。そうしますと、われわれは十一月の末に旅大地区を離れたのですが、政府の方で、五月にはたれそれは西安に行く、たれそれは武漢に行く、たれそれは重慶に行くと、すでに決定されていたわけであります。それで、招待所に入つておる三百七十名に対しては、一切の費用を紅十字会で持たれ、なおそのほかに専家の勤務中の給料はもちろん出たわけであります。これはおかしいじやないかというので、非常に不審を抱いたわけでありますが、結局われわれの移動ということはすでに早くから決定されておつた。なお、われわれがどこに行つたかという問題については、政府としても非常に関心を持たれて、結局手紙は全部没収されておつたということがはつきりわかつたわけであります。それは、西安の郵便局に行つてみると、日本人あての手紙、はがきが山積みにされている。これは見た人があるのであります。どうして日本人に対する政策はそうなんだろうか、われわれは中国人同様に扱われているがどうか――。なお、われわれから武漢あるいは重慶に出した手紙も三信に一通、四信に一通しか着いていないのであります。第一信、第二信というふうに書いてみたが、第一信、第二信は届かぬ、第三信は届いたというふうに、国内における通信も非常に制限を受けたわけであります。なお、本年の十一月十五日に、日本の学習院大学の安倍能成さん外十三名が西安地区を少し見物したい、新興都市の上海もみたいということで申入れをされて、西安地区に十五日に来られるというので、われわれは非常に期待を持つてつたわけであります。中国で日本人が最も多く密集しているのが西安地区で、約四百五十人おりますので、ぜひその取扱いについても、帰国状況についても、来て実情を聞いてもらいたいと期待を持つておりましたが、その前日に至つてほとんど全部の人が離散をさせられたわけであります。特に、第一医院におりました、鮎川さんの経営されておつた満州重工業の病院長をされていた月野博士は相当からだも弱つていたのですが、前々日に至つて、あなた方は全部華山の山に行きなさい、子供も奥さんも連れて行けという話があつた。月野博士は非常に健康を害していたので、私はからだが悪くて登れない、子供は試験の最中だ、試験の最中に子供を連れて行つては困る――。いや、試験は受けなくてもいい、どうしても連れて行きなさい――。自分はからだが悪い――。いや、向うにかごがあるからかごで行きなさいというので、そういうことまで言われては行かなければいかぬだろうと、月野博士も遂に行かれることにして、ほとんど全部の人が華山もしくは宝その他各地区に散らばつたわけであります。華山に行つた当時は、月野さんの義弟の久木崎さん、その人は一昨年脳溢血で倒れて現在も廃人同様の人でありますが、その人も連れて行けということを言つたわけであります。月野さんは、病人、しかも脳溢血で倒れた人、普通の状態でない人を連れて行つて、もし山の上で万一のことがあつた場合はどうするか、万一の場合あなた方は責任を持つかということまで言われたのであります。そこで、それではあなたは登らぬでもよろしいということで何されたのでありますが、われわれは通信の杜絶、並びにそういうよう日本から来られた方々に会わせない、消息を知らせない方針をとられたことは、今日なおいまだに了解ができないのであります。通信の点についても、以上の通りで、われわれの手紙が着いていない。一通辻真氏に対する手紙が来たのであります。それは二字であるから日本人と思わないで配達されたのだと思いますが、通信のできなかつたことが一年間続いて、われわれ精神的に非常な打撃を受けたのであります。
  48. 青柳一郎

    青柳委員 もう一ぺん私の質問を繰返します。簡単な質問であります。私は一時から法案の説明をしなければならぬのであります。私の質問は、個別引揚げなり集団引揚げが行われたが、個別引揚げの場合には物的、精神的あらゆる援助があるということを何によつて知られたか、新聞によつて知られたか、ラジオによつて知られたか、公安局あるいは町内会、部落会の手によつて知らされたかということが一つ、もう一つは、周知徹底をすることについても、日本人がどこにいるかということを知つていなければならないが、日本人の所在の調査についてどういうふうなことをされておつたか、その二点を伺つておきたいと思います。
  49. 久保田源次

    久保田参考人 お答え申し上げます。私のお答えが質問の要点をはずれておつたようでありますから、この点おわびします。  集団引揚げもしくは個別引揚げという問題は日本のラジオによつて初めて知つたわけであります。新聞その他においては、そういうことは一切書かれませんから、何ら知る由もございません。通信その他もとざされておりますので、そういうものによつては何ら伺つておりませんでした。  日本人調査をしておつたということについては、李徳全会長がこちらに来られて名簿を渡すというような話であつたが、はたして政府当局がそういうふうな調査をしておられたかどうか、私ら自身は知らなかつたのであります。しかし、旅大地区から離れても、各地区通信によつてたれがどこにおるかということは知つておりましたし、公安局にだれがどこにおるかということの調査はできておつた思います。ということは、旅大地区を離れたのは十一月末でありましたが、十一月十五日にはすでに武漢にやられるということが命令によつて、北京の指令によつて決定しておつたのでありますから、そういうふうな命令がすでに北京の方にあつたのではないかと思うのであります。
  50. 古田誠一郎

    ○古田参考人 青柳先生がお忙しいようですから、簡単に申し上げます。別の意味におきまして、私の弟は、先ほど久保田さんの発言にもありましたように、今青海省の西寧におりますが、それがよこしました手紙が四通ございます。それは、初めは大阪あてで、私の前住所に参つておりましたのが回送されて東京に来た。昨年の三月、招待所に入るようだ、三月二十五日に集結して移動しますというのですから、何らかの形で知らされておつたようであります。この返事はとうてい間に合いませんから、すべて舞鶴上陸してからのことにしたいというのでありますが、前住所に参りまして、しかも回送されて参りました。それに東京から手紙をやりましたら、今度はその招待所の中からよこしました。だから、それが着いて、またこちらへも着いた。その次に青海省の西寧から二度参つている。でございますから、そういう間に周知徹底の方法が何らか講じられておつたということがわかります。
  51. 青柳一郎

    青柳委員 それなら、率直に伺いますが、皆様方が最初に引揚げが行われるということを知られましたのは何で知られましたか。それによつて動かれて来られたわけでありますが、最初に御承知になりましたのは、どういう方法で知らされ、動かれたか、それをひとつ伺いたい。
  52. 久保田源次

    久保田参考人 李徳全女史が日本を訪問されて、残つている日本人帰国の希望のある方は帰すということを言われて、ラジオで初めて知りましたので、それによつてわれわれは初めて近く帰ることができるのだということを知つたわけであります。それで、十一月十五日の五時になつて初めて名前の発表がありましたので、集結して帰つたわけであります。
  53. 青柳一郎

    青柳委員 大体わかつたよう思いますが、もう一点だけ伺います。昭和二十六年の夏にソ連から中国に引渡されました戦犯、いわゆる中国の戦犯、これが九百六十九名おられます。われわれは日本人として初めてこれらの人人が戦犯として監禁されておられる場所を視察をいたしました。ところが、大体勘定してみますると、五、六人の小さい部屋が二十四ありました。十五人ないし二十人入つている大部屋が三十二ありました。そのほかに病室に入つておられる方が二十五人ありました。合わせまして、どう勘定しても六百名、九百六十九名に足らさること三、四百人であります。ところが、うわさによりますと、撫順の戦犯管理所以外に旅大地区に同じようなものがあるように聞くのであります。皆様方は幸い旅人地区におられた方でありますので、もし御承知でありますならば、その状況についてお知らせを願いたいと思います。
  54. 木村遼次

    木村参考人 戦犯があそこにおるということを今言われましたけれども、そのことについては全然知りません。
  55. 園田直

  56. 山下春江

    山下(春)委員 今回三十日に舞鶴へお引揚げになりました引揚船は、李徳全女史が来日後における最初の船でございました。たまたま私は委員長としての最後の仕事でございました。しかも非常に天気もよく、長い間祖国を離れておられた皆様方が祖国に第一歩を踏まれるにあたつて、まことにうつてつけのよい日でございました。ただいま青柳委員から御質問のような点は、現地において皆さんから座談会の節に承つたので、いずれお話がありますからということで先ほどの報告には省略をいたしたのでありますが、私ども思いますのに、非常に長いこの十年間、国会にもこの特別委員会を設けましてこの問題に打込んで参りましたゆえんのものは、いろいろ小さい問題はございましようけれども、この間私は舞鶴でも申し上げましたごとく、私どもは、向うで人権を尊重されながら、あるいは中国人と同様に扱われながら幸福にお暮らしの方々をしやにむに連れて帰りたいというのがこの引揚委員会の趣旨ではないのでございます。長い間留守を守つております人たちは、戦死なら戦死であきらめます。わが道を考えます。しかしながら、いつ来るか、いつ来るか、生きておるものか、仕合せなのか不仕合せなのか、この十年はそれは矢もたてもたまらない十年でございました。そのために、私どもは何とか中国に生存しておられる方々の消息をつまびらかにいたしたい。その上で、向うの生活が幸福ならば、それでお暮しいただくことがけつこうなことだし、どうしても祖国に帰りたいということならば、すみやかにお帰しをしなければならないということでございます。従いまして、ただいま久保田さんなどからお話がございましたように、昨年の十一月ごろに旅大地区から各奥地に移動をお始めになつたということを私ども風のたよりに聞いたのであります。これはこの委員会といたしましては矢もたてもたまらない一つのできごとでございました。もうとてもいいようには考えられないというところから、実は私提唱いたしまして、李徳全女史をお招きするということをたまたま日赤の島津社長が北京において約束もなさいましたし、李徳全女史をお呼びすることは、引揚げ問題とは直接の関係はございませんけれども、これまで二万六千以上の者をお帰しいただき、その間いろいろお世話になりましたことの感謝も申し上げたいし、何か思うのに、この李徳全女史一行をお招きすることによつて次の引揚げ問題に対する何かの私どもの手がかりは得られそうな気もいたしましたので、院議を決定いたしまして、過般おいでを願うようになつたのであります。そこで、皆様方の御苦労を承れば承るほど胸の詰まる思いをいたすのでありますが、とりあえず私も、時間も非常に経過いたしておりますので、簡単にちよつと古田さんにお尋ねいたしたいのであります。  この間皆様方をお迎えをいただきました古田さんは、三団体の長として、その間他の二団体方々、小林さん、片山さんとの御調和も非常によく行きまして、船内非常になごやかであつたということは、まつたく古田さんの当を得たお扱いによるものと、私は船へ行つてみて非常に感謝したのでありますが、ただ、先ほどの御報告の中に漏れた点がありましたので、その点をさらに確認させていただきたいと思います。今後の引揚げ問題につきまして、紅十字会とお会いの節どのようお話をなさいましたか。
  57. 古田誠一郎

    ○古田参考人 その点を先ほど申し上げることを私は心にありながら控えたのでございます。はなはだ申訳ございません。ただいまお尋ねをいただきまして、かえつて恐縮をいたしております。実は、二団体代表方々は、今山下先生から私が当を得た扱いをしたなどというおほめの言葉をいただきましたが、さようではございませんで、二団体方々が、ほんとうに初めから、まつたく一つになつてやらなければこの仕事は完全に行かないというお気持を十分向う様からお示しになつて――向うという言葉はいけませんが、一緒になつて三人がさように参りましようというようお話合いでできたのでございますので、その点はどうぞさように御了解願いたいと思うのであります。なお、先方におきまして、もちろんその問題は私どもの今度の任務の第一任務であるかどうかは別ではございますけれども、私どもといたしましては一番の関心を持つている問題でございましたので、仰せられますまでもなく、もちろん伺つたのでございます。あらゆる機会に小出しと申してははなはだあれですが、正面向つてそういうことを公開の席上で伺うことは、どうもさようなことはあまりいたさない方がいいような空気でございましたので、私のみならずほかの二団体代表方々も、事あるごとにそれはお尋ねになつたことを、私はそばからお見かけも申し上げております。ところが、お答えは、私たちではわからない、けれども紅十字会の総力をあげて十分努力をしているから、そのうちに用点ができ次第電報をもつて団体連絡事務局にお知らせする、そうしたならばただちに船が来られるように待ち受けていてもらいたい――。何回尋ねましてもさようなことで、これは幸いだだいま参考人ではございませんが同じく参りました小林氏がここの席上に見えております。それで、私一人でなく申し上げる気がいたしまして、なお心強いのでございますが、さようなお答えでございました。と申しますのは、先ほど私が申し上げました中にもございました通り、まだ一人も集結していないと初め言つておきながら、まだその間二日たつていないきのうは、もはや十七名案まつた、あしたは二百名集まることが確定したというような発表の仕方でございます。従つて、今後のことにつきましても、さような発表の方法であろうかと推察いたしまして、私どもはそれ以上につつ込んで聞いてもむだだと思つてつたのでございます。  なお、先ほど御遺骨のことが出ました。これはお尋ねの御趣旨の外にそれるかもしれませんが、この問題につきましては、参りますときにも、四十柱くらいは必ずお返し願えるであろう、それも奉安して帰るようにということを伺つておりましたので、そのことも実は、これはやはり三団体代表が集まりました席上で私からお尋ねを申し上げたのでございます。そういたしましたら、紅十字天津分会においては、個々の家族がその家族の遺骨を奉持して帰られるということは今までも例があるし、今度もあるであろう、けれども、そのほかの者で特別に紅十字会が扱つて今度の三団体代表にお託しするような遺骨のことについては何ら承知いたしておらないというのがお答えでございました。  でございますから、私ども、空気から察しますると、どうも今年末あるいは一月までの間に必ずや次の船をまわせという電報が来るように感ずるのでございます。これは言葉で受取つておりませんので、今ここではつきり申し上げることはできませんが、いろいろの向うでの動きその他を感じまして、さように感得いたしております。それでお答えは、はなはだ申訳ございませんけれども……。
  58. 山下春江

    山下(春)委員 実は、古田さん、それから小林さん、片山さんおそろいのところで、船の中でその様子は生のところを詳しく、今のような言葉の外のニユアンスをも含めていろいろ伺いましたけれども、なお本委員会としては確認をいたしておく必要がございましたので承つたのでありますが、もう少し勘を鋭くしてはつきりお答えを願えれば、もうちよつとよろしいのでありますが、それ以上はちよつと御無理かと思いますので、その点はその程度にいたしておきましよう。  なお、他の四人の方に私伺いたいのでありますが、この前李徳全さん御一行がおいでになりましたときに李徳全さん御自身がおつしやつたことは、ただいま中国に婦人が四千七百へおる、これは皆さんすでに中国人と御結婚をなさつておる、その四千七百人の五分の一、――従つて数で言えば約九百人であります。そのくらいの男子がおられるが、その方たちは帰国を希望しておらない、こういうお話でございました。ところが、先ほどからお話を伺つておりますと、いずれも帰国を御希望にならない方はほとんどまれだ、皆さん希望しておられるというふうに伺いまして、その間ちよつと李徳全さんのお話と食い違つておるように思うのでありますが、皆様方の御記憶なりあるいは御想像なりで――先ほどから私は根本問題を申し上げておるように、御幸福ならばそのままいてもらうことが好ましいのであります。しかしながら、これはよほどそこのところを根本的に考えておきませんと、日本は狭いところで貧乏をいたしておりますのに、しやにむにあなた方を連れ帰つて苦労させるということは趣意ではないのでございますが、その間まだ相当の人数がおられると思いますが、皆様方でその方たちはどのくらい帰国を希望しておるということであるのか、どなたからでもけつこうでございますから、承りたいと思います。
  59. 久保田源次

    久保田参考人 今の山下先生の御質問にお答えします。李徳全先生から九百人というお話があつたそうでありますが、先ほど申し上げました通り旅大地区には約千人おりまして、その当時、大連地区ならば、残りたいと希望しておる方が十五名、家族子供を加えて約五十名であつたわけであります。なお、安東地区約三百名、その他奉天、チチハル、ハルビン、吉林並びに遼源、この方々が約七百名、二千名の方が昨年旅大地区あるいは安東地区あるいは軍事基地を知つているということで招待所に何箇月も待たされて、関内の各地区約三十箇所に散開させられたわけであります。この方々はほとんど帰国を希望しておる。私の知つておる範囲で、約二千名の方は、現在でも心境がかわつていないとすれば、おそらく帰国を希望しておられるということを言うことができると思うのです。西安地区四百五十名の中で残りたいという方は、もともとあすこで中国人の御婦人の方と結婚したような方、それは台湾の方で、父を日本人に持つておる人で、この人は前々から帰国を希望しない。これは旅大地区関係のない、ずつと以前から西安におつた人であります。ちようど革命大学の教授をしておつた宮崎さん、この人もずつと以前からおられた。この二人を除いては、私はかつて帰国を希望しないということを聞いたことはありません。だから、四百五十人のほとんどすべての方が帰国を希望しておるということを今はつきり申し上げることができると思います。これは単に西安地区方々だけであつて、私が各地区すなわち重慶、成都、宜賓、あるいは責陽、武漢その他の地区から手紙をいただいたのは、みな、一日も早く帰りたい、何とかお願いしてとにかく帰国願書を出して帰してもらいたいということを言つておられましたので、少くとも二千名の方々帰国を非常に熱望されておるということが言えるのじやないかと思います。今回私らが帰りましたのは六百余名でありましたが、そういたしますと、あと大体千四百名の方々帰国を希望しておるということが言えると思います。  それから古田さんのお話の中に一つ補足したいと思いますが、西安はそういう通信がとざされておる。古田さんの御実弟の古田秀三郎さんの方は通信ができる。西安は全然とだえておる、向うはできるということで、成陽の柴田さんや、それから西安におつた松村さんも、全部古田さんの御実弟もしくは藤田尚彦さんに頼んで日本人との通信をしてもらいたいということで、西寧地区の方に、手紙を日本に送つてもらいたい、向うは通信ができるそうだからということで、向うにみな手紙を送つて日本との通信をしてもらつたのであります。だから、地区によつて違いますが、わずかに大連で二家族だけで、非常に取扱いが緩慢であつたためにそういう通信が可能であつたということが言えるので、これは特殊な例だと思う。西安におつた四百五十人はほとんど通信ができていない。一、二の例を除き、名前がわからないということで、あるいは何かの手違いで漏れて配付されものだということを皆で言つておりましたくらいで、全然通信ができなかつた。来もしませんし、こちらから送つたのも全然ついていないのです。藤田さんも一つの実例ですが、われわれの地区には、そういうようなぐあいで、多数の日本人がおつて通信ができなかつたという事実はあります。
  60. 山下春江

    山下(春)委員 よくわかりました。先ほどから伺いましたように、久保田さんは特に大学在学中の坊ちやんとお嬢さんをお連れになつて、今後入学できるかできないかということも御心配だと思います。木村さんからも特に、何もわからない祖国に帰つて来て、これからのことが案ぜられる――。これは、きようの四人の参考人中国からのお引揚げ方々だけのお気持でなく、今回お帰りなつた五百数名の皆様のお気持だと思います。そこで、今後私どものこの委員会におきまして、これらの問題を解決するということ、及びあとに残られた二千名に近いであろう方々引揚げということに対して、この委員会といたしましては一大決意をもつてこの仕事を進めなければならないということがよくわかりましたが、どうか、お帰りになりました皆様方にお会いの節、この委員会におきましては皆様方の御帰国後の職業あるいは住宅その他の問題につきまして今後も層一瞬努力する覚悟でみながいるということをお伝え願いまして、私の質問を終ります。
  61. 久保田源次

    久保田参考人 この第一船で六百余名の引揚者が参つたわけでありますが、先ほど申し上げておる通り、大体あと千四百名の人が帰国を非常に熱望されているということでありますので、私のお願いしたいのは、日本政府当局並びに日本赤十字社、日中友好協会、平和連絡会の方々に今後も引続きぜひこの引揚げが実現できるように御尽力、御協力をお願いしたいと思いますので、この席を借りて特にお願いしたいと思うわけであります。
  62. 園田直

    園田委員長 田中稔男君。
  63. 田中稔男

    ○田中(稔)委員 もう時間もございませんから、簡単に木村さんと小野さんにお尋ねしたいと思います。それぞれ二点。第一点は、皆さんが中国で働いておられました職場の中国の同僚の者、あるいは一般に中国の国民が日本なり日本人に対して一体どういうふうな感じを持つておるか、対日感情について御所見を伺いたい。もう一つは、皆さんみな旅大地区にいらつしやつて、その後地地区に移動を命じられて、今度お帰りになつたのですが、旅大地区はこの間までソ連の海軍基地でありまして、非常に重要な基地でありますが、その旅人地区事情について、帰国日本の政府機関あるいはまたアメリカの機関によつて何かいろいろ聞かれたことはないか。この二点について三人からお答え願いたいと思います。
  64. 木村遼次

    木村参考人 先方におきましての対日感情について申し上げます。そのことにつきましては、こちらにおられて心配されるようなことは全然なかつた。一体にわたつて非常に親切であつた。しかし一部の方面では、政府の通達が十分でなかつたために、ある方面で与えた待遇、またこの方面で与えた待遇、これが一致していないこともあつた。しかしながら、一般を通じて、先方におつた生活はいい方であつた思います。  もう一つのことについては、そういうことは聞いておりません。
  65. 小野元彦

    小野参考人 職場の同僚、上司の方方、関係者は、大体においてあそこで政治学習というものをみなしておるのです。それで、教育程度の高い人、よく事情をのみ込んだ人は非常に親切にしてくれました。しかし、私は中国をあちこちとずいぶん歩きましたが、一般に言いますと、文化水準の高い町、北京、大連、ハルビンなどにおきましては、大部分非常に親切にしてくれまして、了解を持つていただけたのです。ところが、一番最後に参りました鄭州、これは非常にいなかで、文化水準は前におつたところと比べものにならない低いところです。そこに参りまして、前申し上げました通り、よくわかつていただける方、党員の方などは非常に親切にしてくださつたのですが、文化程度の低い方、ことに日本軍の災害を受けた人が非常に多いので、私たちが参りました当時は、――向うでは日本人をルーベンと育つておりますが、あまりいい感じを持つていなかつたようです。しかし、そのことを、あそこの学校の先生、それから地区におられる警察の方などに何か不便はないかと聞かれたときに漏らしましたら、みんなに説明をされたのだろうと思いますが、だんだんと親切にしてくださいまして、そうした侮辱的なことはあとでは全然なくなりました。一時はちよつとそういうことがありました。  それから、第二の問題は全然ございませんでした。
  66. 西林成太郎

    ○西林参考人 対日感情について少しお話したいと思いますが、小さい範囲内におきまして、工作場所では日本人に非常に期待をかけて依頼している、――日本人には仕事をやつてもらいたい、その気持は非常にあるじやないかと思います。日本人がこのたび帰られるということについても、中国人などの代表者たち並びに現場に当つている技術者たちは、日本人が全部帰つてしまつたらあとの工作をどうしてくれるのだということで非常に心配しまして、私ども帰りますときにも、もし日本中国とがうまくつき合うことができるならば、ぜひ来てほしい、中国の建設のために援助してほしいということをくれぐれも言われまして、今までの経験上においては工作内において非常に感じがよかつた思います。
  67. 久保田源次

    久保田参考人 今の対日感情について一言申し上げたいと思います。旅大地区におきましては、以前日本統治下にあつた関係上、日本人に対する感情は終戦直後あまりいいとは言えなかつたのでありますが、しかし、二年、三年たつに従つて非常によくなつた。ほとんど、中国人と日本人の差別待遇は、日本人だからどうというような待遇は、あるいはそういうような感情は持つておりません。なお、旅大地区から西安に参つてからというものは非常に日本人に対する態度は親切であり、特にドアをあけたときなどは先に通すというようなぐあいで、鄭重をきわめた待遇で、決して日本人だから卑下するとか、あるいは戦勝国中国が優越感をもつて本人に対するというような点はひとつも見られなかつた。なお、待遇の点につきましても、日本人の技術者に対する待遇は、専家及び総工程師、工程師、副工程師、助理工程師というようなぐあいに相当な待遇を与えて、向うに行きましても、局長、工場長よりも日本人の専家などはその倍の給与額をいただいているというわけで、その技術によつてその給与額をきめるというよう中国のやり方は非常によかつたと思うのです。待遇の点においても、その他感情上においても、差別というようなことはなしに、日本人の技術者に対して非常に尊敬の念をもつておりまして、私どもの発電所においても、小さいことから大きなことまで日本人の技術者に相談して行くというようなぐあいで、感情上は非常によかつたということは言えると思います。
  68. 園田直

    園田委員長 引続きヴエトナム地区より引揚げられた藤田、谷本両参考人より事情を聴取いたします。まず藤田参考人よりお願いいたします。
  69. 藤田勇

    藤田参考人 私、ただいま御紹介いただきました藤田勇であります。今回中国及び日本赤十字社ほか二団体の絶大なる御援助によりましてヴエトナムから第一回の引揚げ邦人として帰還できましたことに対しまして、以上申し上げました各団体委員に心から感謝申し上げます上また、今回私たちがヴエトナムから帰還いたすことができましたのは、その陰に日本の同胞の皆様から絶大なる御支持があつたわけでありまして、私たち心から感謝いたします。  まず、ヴエトナムに残りました当時の状況から、帰還に至ります状況につきまして、私個人の経験から御報告申し上げます。  終戦当時の状況は、私、当時横浜正金銀行のハノイ支店の行員としましてハノイにおりました。終戦直後、横浜正金銀行ハノイ支店の支配人以下全員は日本帰還のために北部ヴエトナムの広安省というところに集結中でございました。しかし、私は、支店の支配人の命令によりまして、インドシナ銀行の栄県の支店をフランス側に引渡すという任務を受けまして栄県地方に出張しておりました。その後一九四五年の年末に私はその仕事を終りまして、ハノイに帰還いたしました。ハノイに帰還いたしますと、今度はヴエトナムに進駐して参りました国民軍が、ハノイにあります日本人各商社の接収をいたしました。私はその接収の方の委員としまして、また引続きハノイで仕事をするように命ぜられました。その当時私は毎日のようにハノイにありました日本軍司令部と連絡をいたしまして、日本状況につきましていろいろと尋ねました。その当時の軍の方の情報によりますと、日本の占領下の状況につきましていろいろとお話を聞きましたが、私、当時の考えとしましては、敗戦国民として今すぐ日本帰りたくない、いつか日本が再建するときを見て帰りたいという気持を持ちました。しかし、一方におきまして、ヴエトナム地区、私の知つておりました北部地区におきましては、当時まだヴエトナム人民共和国の政府が政立したばかりであり、外におきましては、国民党だとか大越、その他いろいろな団体が活動しておりました。私、何が何だかわからず、ただどうしようか、帰還すべきであるか、あるいは一時残留すべきであるかということにつきまして非常に迷つておりました。しかし、私、前の戦争で生き残つたというのであるから、このままヴエトナム残つてひとまず日本の再建まで待とうと考えました。私は軍の方に連絡しまして北部ヴエトナムにあります南定省の方にとりあえず自分の生活ができるかどうかということのために出張しました。しかし日本に帰るか帰るまいかということにつきまして、その当時も躊躇しておりました。そのうちに、私が南定省におりますときに日本の在留邦人は全部引揚げてしまいました。また日本軍も逐次移動しまして、南定省には全然日本人はおりませんでした。そのまま私は南定省に残りました。まず最初にやりましたのは、何とかして生活して行きたいというので、私、前に銀行におりましたために、ある会社の会計を手伝つたり、あるいはそろばんなどをして生活しました。その後一九四六年の十二月からヴエトナムとフランスの間に戦争が始まりました。私は、南定地区に戦火が及びましたので、そこから北の方へと移動をしました。そしてやはりほかの会社に勤めました。またそれからいろいろと会社をかえました。会計をやつたり、会計を教えたり、あるいはそろばんの方を教えておりました。  その間私の感じました越南人民の日本人に対する態度でありますが、初めは、やはり日本軍というものに対する悪い感情から、どうもぐあいが悪いと思いましたことがありましたが、その後日本人というものに対しましては非常に好意を持つて来ました。そうして、われわれには特別に、日本人さんとか、あるいは新ヴエトナム人と呼んでくれました。ほかにおられます、たとえば中国の華僑の方に対してはやはり華僑という呼び方をしておりますが、日本人には特別の呼び方をしておりました。たとえば、私は悪性マラリアにかかつて三日ばかり人事不省に陥つたことがありましたが、そのときも、会社のへとか部落の近所の人がつきつきりで看護したり注射をしたりしてくれました。これは私個人で感じた非常によかつたことであります。よかつたことはほかの人に聞いても大体同じようであります。  今度の帰還につきましては、私はことしの十月上旬だと記憶しますが、政府の方から、これはヴエトナムにあります世界平和委員会の方かもしれませんが、職員の方が来られまして、もし日本帰還したいなら援助しようということでありました。そう言われましたので、前から日本帰りたいと思つておりましたから、ぜひすぐ帰還さしていただきたいということを申し上げました。十一月の初め、すぐヴエトナムの北部にあります太原に集合するように言われまして、私はそこへ集合したのであります。そうしてそこへ方々から集まつて参りました。今度帰られた七十一名の方と一緒になりました。そこへ参りまして、もう一度政府では正式に政府の方に帰還願いを出すようにということで、帰還願いを出しました。その結果全員帰還を許可されました。そうして、私がヴエトナムに残りました当時ハノイで知つてつた方、またその後戦争中にときどき会つた方は、みんな今度ので帰還されました。  次に、帰還につきましてヴエトナム側また中国側から受けましたいろいろな援助につきまして御報告申し上げます。ヴエトナム側でありますが、帰国につきまして、まずわれわれほとんど衣服を持つておりません。それで、紺の服を二着、それから下着一切、洗濯に使うものとか、そういうこまかい品物をくれました。そのほかに、中国の金にしますと約三十五万元の小づかい銭をくれました。それからいよいよ十一月の十三日に自動車をもちましてヴエトナムを出発いたしました。そのときは、ヴエトナムの赤十字社の代表の方、名前は忘れましたが、医学博士の方がついて来てくれました。それからそのほかに世界平和委員会の副書記長が直接の責任者で出発いたしました。そのほかにヴエトナムの方が約十名われわれの身のまわりの援助というので来られました。ヴエトナム中国の国境を通過いたしまして、南寧という広西省の首都でありますが、そこに参りました。そこで私たちは中国赤十字社に申し送られました。そこでは、寒いだろうというので、綿入れの服、それから綿の入りましたくつだとか、帽子を支給になりました。それからまたそこから汽車で漢口に参りました。それから天津。天津に着きましたのが十一月二十三日であります。中国側の物質的援助といたしましては、先ほど申しました服でありますとか、また天津に着きましてからはメリヤスのシヤツとかワイシヤツ、くつ下、綿入りのふとんなどが支給されました。またそのほかには、南寧、漢口、天津におきましては市内見物あるいは映画、中国の劇を見に行きました。特にわれわれに注意してくれていると感じましたのは、中国の汽車の中では食堂車がついており、食堂車には、われわれ日本人の口に合うよう日本料理をつくるようにというので、日本料理を知つておられる中国の料理人が乗つておられきた。そして、われわれの食事のたびに、どうだ、食べられますか、ぐあいが悪かつた言つてくださいと言つておりました。天津に着きましたが、私たちほとんど何も持つておりません。七十一名中トランクを持つてつた者は一人しかおりません。そして困つておりましたら、ヴエトナムの赤十字社の方からまた一人当て中国人民券で八十万元を各人に支給してくれました。その金によりまして、私たちトランクだとか荷物を入れるものを買いました。これかヴエトナム国、中国側から受けました直接の援助であります。私たち、向うで非常によくやつてくれたと考えております。  次に残留者の方々状況でございますが、私たち日本帰りましてつくづくわかるのは、われわれが帰つてよかつた、われわれは直接われわれの家族に会えて安心させたという喜びが大であります。しかし、その一面におきまして、まだ海外に残つておられる方方の御家族のことを思いますと、私たちは、ほんとうにお気の毒だ、何とかして帰られて御家族の方を安心させることができたらと思います。そういう意味におきまして、私の知つておる範囲において状況を申し上げます。  御承知通り、現在ヴエトナムが北と南とにはつきりわかれておりまして、南の方はフランス軍が集結中であります。私が聞きましたところによりますと、北部ヴエトナム、中部ヴエトナムから帰つて来たのはわれわれ七十一名だけでありまして、そのほか、家族があるから帰りたくないとか、病気で帰れないという方が一、二名あると聞いております。そのほかに日本人残つておるかどうかはつきりしたことはわかりません。南の方でありますが、私考えますのには、南の方におられる方も、もし南から北部に来られて帰還されれば、私が受けたのと同様にヴエトナムから援助を受けて必ずお帰りになれると思いますので、南の方については、政府の方で南の当事者に連絡をいたしまして、早く帰れるように手を尽していただきたいと思います。舞鶴帰還いたしまして、私たち全員で向うに残つておられる日本人方々の名簿を見ました。ある方は確実に生きておられることがわかり、ある方はなくなつております。またある方は名簿に載つておりませんが、なくなつておる方を、これは私自身みつけました。その個人々々の名前については私たちが引揚げ事務局にあります在留邦人名簿に記入して参りましたので、詳細のことはおわかりであろうと思います。  それから、私考えますのは、私たちが帰りましたヴエトナムの人たちでありますが、いつも日本と仲よくしたいからということをだれもが申しておりました。それで、私個人の考えですが、われわれ何とか無事に帰還できたことについて、日本政府の方、あるいは団体の方から、ヴエトナム中国の方へ、礼状と申しますか、そうしたものを出していただきたい。そうすれば、われわれのこともわかり、安心してもらえると同時に、この次の引揚げ邦人に対する援助も今まで以上の積極的な援助が受けられるのではないかと思つております。  それから、もう一つ、われわれ帰還して考えますのは、何年もの間日本帰りたいという希望はみな持つておりましたが、一番心配なのは就職のことであります。日本に帰つて日本で働きたいが、就職の問題が一番心配であります。その点、政府並びに団体方々にぜひお願いしておきたいと思います。  以上が大体私個人で見て参りました感じであります。
  70. 園田直

    園田委員長 次に、元陸軍少尉谷本喜久男君にお願いいたします。
  71. 谷本喜久男

    ○谷本参考人 私は、今日の報告を、第一に帰国に至るまでの事情、それから第二に帰国後における感想、第三に現在及び今後に対しましてのお願い、こういうふうに申し上げたいと思つております。  第一に、帰国に至るまでの事情でありますが、私は大正十一年に生れ、三十三歳で、もう戦争も押し詰まつた昭和十九年、福岡から台湾を経て仏印に送られて、ちよつとした作戦をやつて終戦になりました。今回の興安丸引揚者六百四名のうち七十一名は越南からの帰国者です。そのうち御夫妻が一組、子供が四名、ほとんど日本語はしやべれません。そのうち本日ここに御報告に参りましたのは私と藤田氏二人であります。でありますから、帰国の感想といたしましては、私個人の感想でもありますが、一般的な皆さん共通の状況も加味して御報告申し上げたいと思います。  御承知通り、終戦と同時、にわれわれの当時の気持といたしまして、長い間の戦争が終つたのだ、勝敗はともかくとして早く祖国に帰りたいというのがわれわれの希望でありました。帰心矢のごとしと申しますが、まつたくその通りでありまして、いろいろな事務の繁雑な中を、状況の治まるのを待つておりましたが、内地でもそうであつたろうと思いすまが、特にヴエトナム状況というものは、当時英軍が入つて参りますし、当時の中国軍、あるいはインド軍が入つて参ります。各国の軍隊が入る。それに加うるに、民族独立運動とかいろいろ説明なさる方もありますが、越盟というものもあり、社会的な混乱を起しました。とにかく通信あるいは交通機関というものは杜絶し、各地において生命を賭したところの闘争が行われました。そのために、われわれ日本軍といいますか、日本人の行動、進退に対してもずいぶん制限が加えられたのであります。あるいは行方不明となり、あるいは終戦のどさくさに消えられ、あるいは心ならずも捕虜となつて中共に入つた――これは思想的な進展になりますが、そういうよう状況であります。当時日本軍はもちろん連合国の指揮下にありまして、集結地というものはきまつてつたのであります。それで、全般的に言いますれば、集結して帰る、日本軍及び連合軍としてはできるだけこれを収容して故国に送り返すというのがその当時の私の見た実際の状況であつたと思われます。しかしながら前にも申しましたように、それが完全に達成し得られなかつた。その間においていろいろな社会的な風説としては、いやあるいは罪を恐れて残つたとか、あるいは金のために残つたとか、あるいは神経衰弱になつて気違いになつてつたとか、あるいは霊魂が引きとめたとか、あるいはわがままだつたとか、いろいろ申しておりますけれども、結局それは当時の実際の状況に即して考えなければならぬ問題だと私は考えます。そして、実際的問題として、残つた者といたしまして、まず考えなければならないのは自活であり、生業の道であります。もちろんその間には現地の幹部が引きとどめて社会の復興と自国の生産と建設のために利用しようという考えもあつたと私は考えます。もちろん、そういう事情でありますから、途中においてそれらの人々あるいは向うの政府の役人がいろいろ連合国あるいは世界のニユースあるいは世界の風潮というものをわれわれに、われわれの言葉が進展するに従つて説明してくれる、話してくれるというようなことも事実ありました。そういうようにしてわれわれの思想とわれわれの行動というものが逐次に進展しまして、さつき藤田さんがお話になりましたように、十年近くたつた今日こういうようにわれわれの実に待つてつた帰国が実現せられるようなつたと私は考えます。  以上大体帰国に至るまでの事情を表面的に御説明申し上げました。もちろん、その間には、もつと詳しく申し上げますれば、まず食うものと着るものでありますから、自活の道を講ずる、あるいは魚をとり、あるいは田畑を耕し、あるいは医薬をつくり、あるいは紙とかいろいろな社会的な生産に当つて、この九箇年、十箇年を過して来たというのが実情であつたと私は考えます。  これで第一を終つて、第二の帰国の感想ですが、現在われわれは第九回目の帰国になつておるようであります。私は、今まで引揚げられた日本人のことを聞いて、そういうニユースが入つて来るようになつて、初めて、ああ帰国できるのだな、そういうふうにわかつた次第であります。そして、帰つてみて、前に帰つた方は、何か戦犯としての取扱いで、とにかく帰つても顔を合されないとか、いろいろな待遇において非常に困られて苦労があつたというようなことも聞きました。同時に、それに関して感じることでありますが、中共をまわつて帰る途中私の感じたのは、金の換算率というものが違う。われわれが十年近くも海外で苦労して何百万元もの金をためた、あるいはわずかな金をためた。それが金の換算によつていろいろ価値がかわつて来る。そして、そういうようなことも、われわれは、資本主義の社会、金の社会というものはこういうものだというふうに判断を下しております。その間の事情については藤田さんが御説明なされましたから私はやめます。とにかく、自分の感想としては、まつたく外地で長いことばかを見た、日本ぐらいいいところはない、美しいところはない、何と言うか、海外に取残されてからだを養つてつた、そうして不便ながらも過して来た、そういうような感想があります。  第三番目に、現在及び今後に関する要望でありますが、現在まだ向うに残つていらつしやる方、そういう方もあります。それは意識的に残つておられるか、あるいは無意識的に残つておられるか、これはいろいろあると思います。しかし、現在の私の気持では、これもいろいろ勉強したことですが、何のためにわれわれは生きるか、人間というものは絶えず幸福と自由とを求めてやまない、そうして死者と生存者といろいろありましよう、あるいは論功行賞とかいろいろありましようが、要するに現在の社会の生産力の実情に応じて、現在における実績結果に応じて、公平合理的な社会的な待遇、取扱いをしていただければ、われわれとして満足これに過ぎるものはなかろうと思われます。要するに、社会の勢力、社会の労働力、日本だけでなくて、要するに、今回のことによつて知られたのは、その社会に応じて、その団体に応じての力と、それから実力、実情というものが自覚されつつある。だれしもそのいい社会に入りたい、協力したと思うのがその実情であります。それで、いわゆる数少い少数民族であるとか、劣等あるいは劣勢な団体あるいは民族におきましては、ここに一種の団結というか、一つの反発が生れて来るであろうと考えます。要するに、現在の社会風潮であるところの国際友好、社会主義建設、平和風潮の団結と協力の新しいいい風潮を伸ばして行くように政府当局の方々にお願いいたします。要するに、われわれは何のために十年近くもの間、まだ帰らない方はそれ以上もの間、苦労しておるか、またなぜ苦労しなければならなかつたか、今後においてその結果というものをさらに伸ばして行くことができないものであろうか、採長補短ということはありますが、われわれの念願するところは、政府当局の方々の明晰なる頭脳と意識的な新しい時局の正確なる把握と、それによりましてわれわれの努力並びに現在残つておられる方の将来の風潮というものをよろしく御指導、御鞭撻いただくように念願いたすものでございます。  帰国にあたつて特に感じましたことは、同胞の方々及び留守家族方々がわれわれをほんとうに情愛を持つて迎えてくださいましたこと、それに対してわれわれはただ着のみ着のまま何らお報いすることができない、からだも弱つており十分なる御報告も申し上げることができないということをわれわれは非常に遺憾に感じます。今後とも協力してこの点を伸ばして行きたいと考えておるのであります。  以上で私の報告を終ります。
  72. 園田直

    園田委員長 これにてヴエナム地区より引揚げられた参考人からの総括的な事情聴取は終りました。  この際総体について追加の申出がございますので、これを許可いたします。古田誠一郎君。
  73. 古田誠一郎

    ○古田参考人 追加と申しまするのは、先ほど山下先生お話の全数字を私すべてその通りでございますと申し上げましたのは、六百四名という帰国着に関する問題でありまして、それから抜けておりまする向うに残られた方のことをついうつかり失念しておりましたので、今加えて申し上げたいと思います。  本来六百十名お帰りになるはずであつたのでございますが、そのうち一名は病気のために残留されました。あとの正名は、山高昇氏、これは初め六百十名のうちにはなかつた方であります。山高昇氏は天津で就職しておられました。長沙から引揚げて来られましたその夫人と四人の子供さんの五人が、その方の意思によつて帰るか帰らないかをきめるということで、紅十字会天津分会におきましては一晩その考えを持つたのでございます。結局御主人の残つておられる天津に残られるということになりまして、それで六百四名になつたのでございますから、この点追加をさせておいていただきたいと存じます。
  74. 園田直

    園田委員長 これより委員各位の質疑を順次許可いたします。受田新吉君。
  75. 受田新吉

    受田委員 お二人のヴエトナムから帰られた方々にお尋ねを申し上げたいと思います。  長いことあちらで御苦労いただきまして、無事お帰りになられたことを、心からお喜び申し上げ、またお待ちしていた留守家族方々とともに御同慶に存じ上げます。私からごく簡単に個個の問題についてお尋ねをしてはお答えいただくという形をとりたいと思います。ことに今度お帰りいただいたヴエトナム地区方々に対しては国民も非常な関心を持つてつたわけでありまして、この点、その関心を解決するためにも、第一に、皆様方が今日までヴエトナムに長いこと、ここ十年近くもおいでになるよう事情がどういうところから起つておるか、ことに帰国を終始希望されておつたと思うのであるが、その帰国が今日まで遅れたのはどういう理由であると思うか、そういう点について、特に実業界におられた方と軍人さんであられた方でありますので、それぞれの方から簡単にお答え願いたいと思います。
  76. 藤田勇

    藤田参考人 私個人の場合から考えまして、帰国が非常に延びたということは、ヴエトナムとフランスとの戦争が九年間も引続いたこと、また中国ヴエトナムとの国境が開放されてなかつたので、たとい私たちが中国を通じまして日本帰国いたしたいと思いましても、向うに渡ることができなかつた。国境にはフランス軍がずつとおりまして、そのために、私たち希望いたしておりましたが、政府の方からは直接帰国についての具体的なことは聞いたことがありませんでした。
  77. 谷本喜久男

    ○谷本参考人 ただいまのお答えに、これは少し笑い話に入るかもしれませんが、若干補足いたしますと、たとえば、われわれがあそこ残留いたしましたときに、まず考えたのは、昔、有名な阿倍仲麻呂ですか、例の「天の原ふりさけ見れば春日なる……」と歌われた人ですが、唐から帰る途中、その木造船があらしのために海陽付近に流され、帰れなかつた。われわれも帰るにはまず船をつくらなければいかぬ。  しかしながら、船をつくるとなると、そこにおいて感じたのは、われわれの力がいかに微力であるかということであります。それではフランス語、英語でも覚えて外国の連合軍の手にすがつて帰らしてもろおうかと思いましたが、それも当時の交戦の状況としてはなかなかむずかしい。それかといつて、また中国ではずいぶん日本軍がむちやくちやなことをしております。中国をまわつて帰るということは、これもちよつと考えられない問題でありまして、その間どうなることかとわれわれも考えて、まつたく四面楚歌といいますか、まつ暗やみの中で手さぐりをするという状況でありましたが、とにかく、要するに残留の原因、動機というのは、当時の社会的な混乱と戦争の余波というものが一番の原因であつた思います。
  78. 受田新吉

    受田委員 十年近くもあちらにおいでになられて、しかも帰国の自由を得られなかつたということに対しては、これはほんとうに御同情申し上げ、またそうした原因の解決努力の足りなかつたわれわれの責任も痛感しておるわけですけれども、この期間中故国日本におきましては皆様の安否を非常に心配しておつたわけです。しかるに、この期間中通信その他においても事を欠いて、相互の連絡もとれなかつたようでありまするが、中共地区からお帰りになられた方々ようにある程度の通信が認められたというよう状況にあつたのか、一切通信は認められなかつたのか、この点をお伺いしたいと思います。
  79. 藤田勇

    藤田参考人 私たちは通信の方法もありませんでした。
  80. 受田新吉

    受田委員 そうしますると、日本の国の実情というものを何らかの機会に知るよしもなかつたのでございますか。故国日本の様子はさつぱりわからぬままで十年近くあちらにおいでになられたことになりますか。
  81. 藤田勇

    藤田参考人 ヴエトナムの新聞にたまに日本状況が出ておりました。あるいは日本の雑誌、中国の雑誌などに日本の情勢が載つておりますので、それで知つたぐらいなものでございます。
  82. 受田新吉

    受田委員 日本の雑誌といいますと、こちらから向うに行つた雑誌ですか。
  83. 藤田勇

    藤田参考人 はい、日本から来た雑誌であります。たとえば「文学の友」だとか、そういうようなものです。
  84. 受田新吉

    受田委員 あとに残つておられる方方特に南部ヴエトナム地域にはどのくらいおられる見通しか、そういうものについて、直接お近くにおられた方々お話状況などによつて残留者というものがどのくらいおられるか、その見通し、それと、その人々は帰ろうと思えば今後はあなた方と同じように自由に帰されるような見通しになつておるのかどうか、お聞きしたいと思います。
  85. 藤田勇

    藤田参考人 先ほど御報告申し上げましたように、南の地区の在留日本人状況につきましては私わかりません。しかし、現在南の半分の方はフランス軍の集結地になつておりますから、もしも日本の同胞が北へ出て来れば必ずわれわれと同様に帰れると思います。もしも出て来ない場合、日本の政府から直接南の方の当局に要求をせられて、そうして安全に帰還をとりはからわれたいと思います。  それから、先ほどの御報告にちよつとつけ加えさせていただきますが、現在御承知通り来年五月ごろまでフランス軍がハイフオン地区におります。その後はハイフオンの港はヴエトナムの人民共和国が自由に使用いたします。私たちのお願いといたしましては、もしわれわれが帰りましたよう中国をまわつて日本帰りますと、十七、八日かかります。ところが、もしも日本船が直接ハイフオンの港に入りますれば、多分五日で大丈夫帰れると思います。この点、日本船がハイフオンの港につきまして、そうして帰還希望のわれわれの同胞が無事一日も早く帰還できるようにおとりはからい願いたいと思います。
  86. 受田新吉

    受田委員 軍人としてお残りになつた立場から谷本さんの御見解を伺いたいのですが、戦争に参加された期間中戦死した人々、あるいはその戦争に参加されたときの事情というものは、これはまた帰還手当などに関して重大なる問題にもなつて来るのですが、先ほど特に取上げた御説明としてはお聞きしなかつたのですが、命令によつて残されたという線と、自発的に戦争に参加したという線と、それぞれの立場の者があつたのか、あるいはそこにおられる方々はどうにも動けなくなるようなわくにはめられて残された形になつたのかどうか、この点、わけてお答えいただきたいと思います。
  87. 谷本喜久男

    ○谷本参考人 ただいまの御質問にお答えします。当時は終戦と同時にもう命令とかあるいは強制的にやらせるということは一切ありませんでした。でありますから、当時の残留した者としては、ほんとうに自由に、民主的に、まあそういう環境も環境であつたと思われますが、個人的な動機とか原因を探れば、そういう軍隊的なことは全然なかつたと私は言明できると思います。個人的なあれから言えば、一つの社会風潮をそういう命令のように感違いした者もあるいはあつたかもわかりませんが、個人的に、どうしろとかこうしろとか、そういう私的な命令を出された人はなかつたと私は思います。それから、当時現地側としては、たとえば残つた本人を部隊として越南側に使つてフランスと抗戦をさせようという思想の幹部もおりました。それから、外国から、たとえばシヤムとかあるいは越南人で革命に参加した幹部なんかでは、そういうことをしてはいかぬ、まつたく個人の自由意思にまかせて、とにかくそういう部隊というものは組織しない方がよろしいというので反対をした幹部もございました。それで、残つてつたわれわれ日本人としては、その当時一番欲していたのは何といつても自由であります。部隊で戦争をするというのはまつたくいやであります。とにかくそういう時局を切り抜ければいいというように感じておりました。ですから、個人的に自活の道を講じるというのが主体であつたというよう考えております。結局、その当時は、日本人の間でなるべく連絡をとつて、早く集結地の方に生きて帰れるようにしたいというのでありましたが、集結もあの当時は三年以内ですか、結局、あとで聞いてみたら、日本軍は帰つてしまつたとかいうようなぐあいで、まつたく取残されてしまつたわけです。私の推定では、よくわかりませんが、その当時にあちらこちらにおつたので、まだまだ相当数の――相当数といつてもそうたくさんではないと思いますが、残つている方が確実におられると私は信じております。
  88. 受田新吉

    受田委員 戦死された方々のことをまだお答えがなかつたのですが、参戦して一緒に行動された方々でなくなられた方というのはございましたですか。
  89. 谷本喜久男

    ○谷本参考人 私は行動をともにしたわけではありませんから、実際に見たとか、あるいは実際にその墓を見たというのは一柱か二柱くらいあつたかもわかりませんが、うわさに聞いたというのがほんとうのことであります。
  90. 受田新吉

    受田委員 現地におられる方々は、大体において自由な立場で戦争に参加を決定できたということになりますと、戦争に参加しなくても済んだのでありますか。いやだと言えば国へ帰ることができるとか、あるいは現地でほかの仕事につくとかいうような自由も与えられておつたのですか。
  91. 谷本喜久男

    ○谷本参考人 いやだと言うことはできないと思います。それは、人間は社会的な動物でから、一人ぽつちになつては結局死ぬよりしようがない。死ぬということは、これはいかぬ。ですから、やはり生きんがためには闘争しなければいかぬというようなあれです。
  92. 受田新吉

    受田委員 そうすると、その環境からはどうしても戦争に参加しなければならぬという状況に置かれたということになつておるのではありませんか。
  93. 谷本喜久男

    ○谷本参考人 もうちよつと御説明申し上げますが、その当時の越南の状況は、たとえばここにAという村がありますと、次のBという村に来ても、Bという村の人間が同じ越南人でも殺してしまうというよう状態です。ほんとうに部落々々でわからない、それがだんだんとこういうように統一されて来た、そういう状態だと私は思います。
  94. 藤田勇

    藤田参考人 確かに終戦当時の状態が非常に混乱しておつたことは事実であります。しかし、私は、自分で外におつた方がいいと思つて、会社に入つて、会計を教えたり、そろばんを教えたりしておりました。それについて無理やりに何しろと言われたことはありませんでした。それから、越南人が一つの部落から次の部落に行くときに殺されてしまう。これは全部そういうわけではむろんありません。ただ、ヴエトナムとフランスとの間に戦争が始まりましたから、その間に怪しいと思われた越南の人は、あるいはそういうことが起きたかもしれませんが、それは一般的なことでないと思います。
  95. 園田直

  96. 山下春江

    山下(春)委員 ヴエトナムのお二人にお尋ねをいたしたいと思います。この間私が舞鶴へ参りましたときには、今回お帰りなつたときの帰還手当ヴエトナムの七十一名だけは出ないということになつておりました。しかしながら、その取扱いにつきまして、――藤田さんから、非常に混乱をしておつた、従つて自分は、今にして考えれば正しいことではなかつた思いながらも、どうもそのときは帰る勇気がなかつた、負けて帰るということはどうしてもできないために自分は残つたと言われましたその一言は、非常に私は真実に聞えました。むろん真実であつた思います。ただいま谷本さんのお話、これも私は、お帰りなつた早々で、決してその言葉じりを責めるわけではございませんが、まつたく自由を求めるために、だれからも強制されないで自分の自由意思で残つたんだ、こう言われましたけれども、それだと、私がこの間舞鶴でとりました処置は、必ずしも適切ではないのであります。自由意思で残つた人に私がよけいなおせつかいをしたことになるのでありますが、私は、あなた方が帰りたいと思つても帰られない、その後いろいろな事件が起つたとしても、当時は帰られなかつた、帰る方法がなかつたためにお残りになつたと了解したのでございます。その点は、特に谷本さんのお話では相当残つていると言われますが、あとの方にも非常に影響する点でございますから、自分の自由意思で残つたのかどうか、帰ろうにも帰られなかつたにいう状態であるのかどうかということを、お二人からもう一度簡単にお伺いしたいと思います。
  97. 藤田勇

    藤田参考人 これは何も状況が全然平穏なのにただ残りたいといつた気持ではありません。その当時の状況から見まして、私たち、日本が負けた、何とか帰りたい、しかし、日本状況を軍とか官憲から聞きまして、われわれは帰るのに躊躇した。しかし残るのも非常に危険だということはわかつておりました。ヴエトナム語もよくわかりません。経済的な裏付もありません。このどちらにすべきか。――しかし、もしも生きておつて将来の日本の再建のために何かできればというよう気持つた。単に残りたいから残つたと一口に言つてしまいますと、そのほんとうの状況皆様におわかりいただくことができない。これは、そのときの状況でやむを得ず残つた、あとになつて帰りたいと思つても方法がなくなつてしまつたと言う方が正しいんじやないかと思います。  それから、ヴエトナムにまだ相当残つてないかということは、私先ほど申し上げましたように、ヴエトナムの北部と中部におられた方は、大部分は今度の七十一名で帰られたのではないか。そのほかに何人いるかということは私はわかりません。しかし、私今わかりますのは、やはり南の方に部隊として残つて、そのままおられる方が相当あるのではないかと思います。相当というのはどのくらいかわかりませんが、しかし、いろいろな話を聞きまして、その当時相当な部隊が残つてつたというようなことを聞いております。
  98. 山下春江

    山下(春)委員 お帰りになるまでの道程の間に、昨年の八月にジユネーヴで開かれました国連の捕虜特別委員会に初めて日本から厚生省が苦労して集めました名簿を携えて行つてそれを提示いたしました。そして、この人たちはいるはずなんだ、いろいろの調査でいるはずなんだ、もしこの人たちが生きているならば、日本では非常に心配して待つておるし、またヴエトナム事情が全然捕捉できないので非常に困つておるから、手紙なり何かの方法で、生きているのだということを日本へたよりをしてくれ、せめてそのくらいのことを赤十字社で速急にやつてもらいたいということを非常に切実に訴えたのですが、あなた方に何かその結果と思われるようなことがあつたかどうか伺いたい。
  99. 藤田勇

    藤田参考人 私、皆様から去年そういう申込みがあつたということは、この間実は初めて伺つたのです。私おりました当時は全然そういうことは聞いておりません。但し、今度私帰りますときに、中国の赤十字社から代表日本に来られましたときにその話が出たということは聞いております。
  100. 山下春江

    山下(春)委員 その後放送局が、日本内地から特に東南アジア向け、すなわちヴエトナム方面に向けて特に放送の番組を組んでくれました。皆さんが健在でがんばるように、あるいは日本の声、日本のその他の事情を知らせるために放送をいたしておりましたが、お聞きになつたことがありますか。
  101. 藤田勇

    藤田参考人 そういうふうな方法をとられたということはわれわれ知つておりません。というのは、戦争中であり、また経済的に言いまして、ラジオを持つておるとか、そういうことがありませんでした。それで聞きませんでした。
  102. 山下春江

    山下(春)委員 先ほどからお話を聞きますと、ヴエトナムの北には、もしいたとしてももうあまりたくさんは残つてないだろう、いれば南であろうということでございますが、南でございますと、サイゴンに日本の領事館がある。そこで、もし帰国を希望するならば、その南へずつと出まして、日本領事館を通つて帰る方法が何かありはしないか、あるいはそこに出れば何とか方法がつくのじやないかということを、あなた方何か耳になさつたことがあるかどうか。
  103. 藤田勇

    藤田参考人 私たち、聞いたことありません。
  104. 山下春江

    山下(春)委員 そういう状態であつたとすれば、皆様方が今日まで帰国できなかつた事情――根本的にあなた方がどういう意思であろうとも帰れなかつたということの事情がだんだんわかつて来たようでございます。そこで、多少この間中誤解されたような報道等もありましたが、今後の問題を解決する上におきまして、皆様方があとう限り厚生省援護局の方に詳細に御通知、御連絡を賜わるようにお願いいたします。皆様お元気だと思いますが、どうぞよろしくお伝えください。
  105. 園田直

    園田委員長 中山マサ君。
  106. 中山マサ

    ○中山委員 ちよつとお尋ねいたしますが、ある方面から、日本実情がよくわからないので、独立したということが徹底しない部分においては、帰つて来れば戦犯になるかもしれない、もう一つの事情は、現地において家庭を営んでおるのでそれで帰れない、こういう二つの事情によつて、何とかして日本に帰ることをもう思いとどまつて、そうして早く向うで自分たちがいわゆる幽霊配給というようなものをとるのでなくて公然とおられるよう措置をとつてもらいたいというような希望もあるやに伺つておりまするが、あなた方がいらつしやいました方面においては、こういう点はいかがなことをお聞き及びになつておりますか、参考までに伺いたいと思います。
  107. 藤田勇

    藤田参考人 私たち、帰つて参りました中で元日本軍におられた方がやはり日本に帰つて戦犯として何か処分を受けるのではないかということを非常に心配しておりました。しかし、日本軍各団体の方がよくそのことを言われましたので、幾らか安心しておりました。しかし、実際にそうなのかどうかということについては、やはり相当心配があるのではないかと思います。それから、家族を持つておるためにどうかということでありますが、今度私が聞きましたところでは、やはりそういう、――もう家族もおり、お子さんもおり、生活の方も安定したので、また日本に帰つても親兄弟も戦争のためにもういないという方もあり、全然身寄りもないから、どこにいても同じだということを言われた方もあると聞いております。
  108. 谷本喜久男

    ○谷本参考人 今の問題でありますが、とにかく、当時の私たちの方としては、捕虜として帰りたくない、これは皆に共通の心配だつた思います。捕虜として帰るくらいならば、残つた気持は全然ひつくり返されてしまう。でありますから、それは確かに南に行けば船はあるというようなことも少しは聞いておる者もありましたが、実際そのときの状況としてそういうことは非常に困難であつた。とにかく越南側で交通を相当制限していましたから、われわれが生業のために、――たとえばまきを買いに行くとかあるいは食糧を買いに行くとか、そういうはつきりした理由があれば交通をさせてくれますが、昔の日本軍のようにがむしやらに行動するということはむずかしいことでありました。ですから、結局、今の質問でありますが、現在残つておる人も確かに今おつしやつたようなことはあると私も多少同意するところもあります。しかし、藤田さんがさつき答えられました答え方は正しい、そのよう状態であつたと思つております。
  109. 園田直

  110. 受田新吉

    受田委員 私は最後に総括的なお尋ねをして終りますが、通信の問題です。ヴエトナム方面に残つておられる人々で名前などがある程度はつきりしておる者があるならば、その人々に対して今後は通信を許してくれるのかどうか。そうして、今小野さんでしたか、西安には郵便物が山と積まれておるのに、向うへついていないというようお話がありまして、中国地区における通信についてもまだ円滑を欠いておるという実情をお聞きしたのですが、こういう問題について、今あそこに残つておる人の名前なんかは、今度お帰りなつた方などによつて相当はつきりしたのでありますから、この機会に、残つておる方々に対して、よし一月の初めに帰られる方であるにせよ大急ぎでその方々に一日も早く国からの通信を差上げる措置をとつてやる必要はないかと思うのでありますが、その点については日本赤十字社としてはどういうように用意しておるかということについても古田さんからお答えをいただくことにして、残留者に対して故国のたよりを出していただくということに対して、中国ヴエトナム及び日本赤十字社という三つの立場からお答えをいただきたいと思います。
  111. 中山マサ

    ○中山委員 ちよつと途中ですが……。私は今やむを得ざる用事で少し遅れて参りましたのですが、今私の開き得ましたところによりますと、赤十字というものの活動がどうも私どもが望みをかけておつたほどではないということを感じるのでございますが、赤十字方面の活動について、皆様方のお耳に達すること、あるいはお目に達する方面で、これはやはり世界の団体がしつかりやつてくれておるというようなことをお感じになつたことがございますでしようか。ここに来て初めてこの引揚げ委員会が懸命になつて望みをかけておつたのだということをお知りになつたのかどうか。これをちよつと伺いたいと思います。
  112. 藤田勇

    藤田参考人 ヴエトナムでありますが、私今度帰りまして初めて日本赤十字社で実に御援助いただいたことがはつきりわかりました。そして、直接関係はありませんが最近に至りましてヴエトナム中国との間の郵便物の連絡はあります。これは、前は国境が封鎖されておりましたのでありませんでした。それから、ヴエトナムにはヴエトナム赤十字社というのが正式にあります。それで、もしできましたならば、日本赤十字社から直接お話になつていただけば、中国経由よりも早く具体的な連絡ができるのではないか。向うにも組織がありますから、ぜひひとつ御援助いただきますようお願い申し上げます。
  113. 中山マサ

    ○中山委員 そこで、私は、委員長は御着任早々でまことに恐れ入りますし、またあるいはこれがこの国会の最後の委員会になるかもしれませんので、まことに恐れ入るのでございますが、私も海外同胞引揚げ委員長をさせていただき、国連へ行つてこの問題を提唱し、いろいろ心配し、活動して参りましたけれども、結局最後の望みは赤十字というものに徹底的な信頼を寄せて来ておつたわけでございます。ところが、お帰りいただきましたお方方から伺えば、どうもこの赤十字も何か国々の事情によつて確立されないとか、あるいは行届かないとかいう点があるのかもしれませんけれども委員長におかれましては、今日の話の結論といたしまして、ぜひひとつ日本赤十字社を通じて、あるいは直接でもけつこうでございますが、世界の赤十字社の総本部に向いまして、いわゆる人道的観点から、ぜひひとつこれをわが国の人々がいると考えられる国々の赤十字社に徹底せしめていただくように願いたい。過去の時代におきましても、その海岸まで出てもらつたら、――英国あたりも、私は英国大使館にもみずから行つたのでございますが、船賃は日本に帰つて来たならば日本が払うから、ぜひひとつこの船に乗せてやつてくれということを申し上げてありますし、向うも承知してはおるが、そういう便があるということが一向皆様方に徹底しませんで皆様方のお帰りが遅くなつたのではないかと思うのであります。委員長には御苦労さまでございますけれども、ぜひひとつこの基本方針を日赤の方を通じて世界の総本部に訴えていただきたいということをお願いいたしまして、これで私の質問を打切ります。
  114. 園田直

    園田委員長 中山マサ君の御発言、了承いたしました。善処いたしたいと思います。
  115. 小野元彦

    小野参考人 先ほど御質問の通信の問題について御参考までに申し上げます。私は鄭州地区におりました。西安地区ではございません。鄭州地区におります者は、通信に関しては、日本と手紙を往復するのはたつた家族しかありませんでした。その方は私のお隣だつた大崎さんです。あるときは来る、あるときは制限されているのじやないかというくらいのことをちよいちよいお伺いしておりました。それから中国国外よりの手紙、これは三日で来ることもあり、二十日もかかつて来ることもあります。しかし大体において受取れておつたよう思います。
  116. 古田誠一郎

    ○古田参考人 日赤を通しての通信のことのお尋ねがございましたが、新聞でも発表いたしましたように、このたび残つておりまする方々へのこちらからの御通信、並びに戦犯の方々で御住所のわからない方でも、日赤でこれを一括してまとめまして、一袋にいたしまして、――名前と、もし住所のわからない方は写真をお添えいただきましたならは、――というのは、向うで偽名と申しますか名前をかえておいでの方もございます。それで、それを中国紅十字へ日本赤十字から送りまして、その写真並びに名前によりまして、これを中国紅十字が努力いたしまして探してでも渡そうという約束ができておりますから、日本赤十字社へお持ちをいただきましたならば、さような手続をできるだけすみやかにいたしまするように赤十字社ではその用意をいたしております。もちろん向うからの分も同じような形でできるように道は開いております。先ほどから向うの西安地区その他で日本向けの郵便物がたまつてつたのを目撃したというお話も伺いましたが、それは中国紅十字会の手落ちではございませんで、多分その輸送その他のことの係のあれではないかと思います。そういうことがあつたのかどうか、私どもはよくわかりませんが、紅十字会では私にも直接に、さような手紙のことについてはできるだけ骨を折つておるということを言明いたしておりました。
  117. 園田直

    園田委員長 ほかにございませんか。  これにて参考人よりの聴取を終ります。参考人の諸君には長時間にわたり詳細に状況を御説明願いまして、本委員会といたしましては引揚げ問題の解決に対し非常に参考になりましたことを委員長として厚く御礼を申し上げます。  本日はこれにて散会いたします。次会は公報をもつてお知らせいたします。    午後三時三分散会