○
参考人(野村平爾君) 総括的に私の
意見を述べてみたいと思います。
ピケツトの
正当性の範囲がどういうふうにしてきまるかというような問題は、やはり
ピケツト、それから
争議行為の形態がどんなふうな形のものにな
つているかという
実態的な分析や、又その歴史的な
関係というようなものを考えて見る必要がありそうに思うわけです。そういう
意味で、先ず
ピケツトの
実態を少し眺めて見たいと思うのでありますが、
ピケというのは
ストライキの
争議行為と実は大部分の場合において不可分な
関係で現われております。ただ特殊な場合だけに、
ピケの必要でないような
争議行為というものが見受けられます。例えば
ストライキ破りというものが全然出て来る可能性がないというような場合とか、又
ストライキ破りがあ
つても、そういう
ストライキ破りというようなものが、
ストライキに対して殆んど致命的な影響を与えていないというふうに考えられるうような場合、こういうような場合には大体
争議行為と必ずしも
伴つてピケというものが現われないで済む場合があるわけです。そうしてみますと、どうもこの
ピケツトというのは、
実態の上から見て
ストライキ破りというものと実は不可分な
関係に立
つているということが一応言えるのじやないかというふうに思うわけであります。そこで
ストライキ破りというものをどういうふうに処置して行くか、或いはそれをどうしたら減らすことができるかというようなやり方と、この
ピケツトのやり方というものは、実は相関
関係にあるのだというふうに考えることができるのではないだろうかと思うのです。およそ、そういう
意味で
ストライキ破りを減少させて行くというようなことを考えた場合に、例えば国家が直接にこの
ストライキ破りに対して或る統制を加えるというようなことも考えられるでしよう。或いは
組合自体が
使用者側との交渉のうちにおいて、あらかじめ協約で以て
ストライキ破りを禁止しておくというようなやり方も出るかも知れません。それから又
組合自体が自分の
組織を拡大して行
つて、そのことによ
つてピケを用いなくても差支えないような
現実というものを生み出すようなやり方をして行くというようなこともできるのかも知れないのであります。それならば、そういう場合に先ず国家が直接に
ストライキ破りを禁ずるということは、現在のところ
日本ではや
つていないわけでありますし、それから協約でこれを禁止するかどうかという問題は、やはりこれはあらかじめ協約ができていない場合には、どうにもしようのない問題になるわけなんです。
組合自体がこれにどう対処して行くかということは、実は
組織の問題との相関
関係であるわけです。前公述者もその問題について触れておられたわけでありますが、そこで
組合自体の
組織がだんだん強化され拡大されて来るということになりますと、
ピケというものも実は余り必要がなくなるし、
従つてこの享揮うところのいろいろの問題というようなものも考えられなくてよくな
つて来るのだということになりますと、どうしたら
組合を強くして行くかという問題をまじめにな
つて国家は取上げなくてはならないことになるのではないか。勿論
組合自身は自分の問題でありますから、国家がどうしようということにかかわりなく、自分自身としてこの問題の解決に尽さなければならないわけでありますけれ
ども、どこの国でも実はそういうような長い歴史の経過を辿
つて、そして今日或る程度までこの
組織が拡大強化された国々においては、
ピケツトというものが非常に緩和された形で、或いは厳しい形でなく行われているというふうに聞いております。英国あたりでは
ピケなんというものは余り激しくないのだということが言われている。そうしてアメリカにおいても曾
つては非常に激しかつたが、今は激しくないのだというようなことが言われているわけであります。そうして見ますと、この間に立
つては、やはり或る程度大きな眼を持
つて、
労働組合運動の育つこと、その
組織の拡大強化されること、これを
一つ待つということがやはり非常に大きな
立場から考えて必要なんではないだろうかというふうに思うわけであります。そこで国家が幾らかでもこの
組織強化ということを助ける
手段が国家の側においてあるとするならば、これはやはり
不当労働行為制度というものを拡充し、そしてこれを厳格にして行くというような途だけがあるのではないだろうか、積極的にはそういうような途があるのではないだろうか、こういうふうに考えられるわけです。ところが最近の
お話を聞いてみますと、むしろ
不当労働行為には、もつとこれを緩和して行くという途を一方において考えるということが伝えられておりますが、これは伝えられる程度でありますので、真偽のほどは必らずしも明確ではありませんけれ
ども、そうだとしますと、これは
組織を拡大強化して、そうして
労働運動の
発展ということを素直に導いて行く行き方としては、全く逆な行き方になるのではないか、こういうふうに思うわけであります。
そこで、こういうような点について、例えばアメリカの場合を考えてみますと、アメリカでは曾て非常にスト破りというものがひどかつた。
従つてこれに対処するところの
ピケというものも非常に猛烈な
ピケツトであつた。私
たちが幾つか書物その他で見たところでは、銃を持
つてピケ・
ラインに立
つているというような姿のものが曾て見受けられたわけです。
日本などは武器も何も持たないで、スクラム一点張りの形をと
つておりますが、外国ではそういうようなものが曾てあつたわけです。私は決してそういうものでいいというふうに考えているわけではありませんので、これは望ましくないことであるし、決してあ
つてはならないことだと思うのでありますけれ
ども、併しながら曾てそういう歴史的な事実があつたということは、これはやはり考えてみる
対象になるのではないだろうか。そこで例えばアメリカのラ・フオレツト
委員会あたりの報告書なんかを見ますと、曾て一八八〇年代あたりからアメリカでは
ストライキ破り会社というような一種の団体ができておりまして、これが
ストライキに際しては、スト破りというものを一括して輸送して来る。平生は
組合に対するスパイ、そういうようなことを仕事とし、そうして
ストライキのときにはその
ストライキ用物資と人員とを送り込んで来る、こういうようなことがしばしば行われた。そのために、これに対処するほうも非常に猛烈な
ピケツトを張るというようなふうにして、アメリカではしばく
ストライキがとんでもない人命や損傷にまで及ぶような惨害を招いたというような事実もあるようであります。そうであつたのかどうか、その間ははつきりわかりませんが、私は或る程度の関連があると思うのでありますけれ
ども、ワグナー法が
ストライキ破りを一定の条件の下に
不当労働行為として
取扱つていたということ、このことは非常に大事なことではなかつたかと思うのであります。特に又この
ストライキ破りに至らなくても、
組合に対する圧迫、
組織に対する破壊工作、こういつたようなものの細かなこと、例えば指導者に対する悪口、
組合に対する反
組合的宣伝、こういうようなものに対してまでも、
不当労働行為の責任を問うて行くというようなやり方をしておつたわけであります。又これは一九三六年の
法律でありますけれ
ども、例えば
ストライキ破りを輸送することを禁ずるというような
法律が出ております。これによりますと、
労働条件に関する
ストライキに対して雇入れの目的を以て
ストライキ破りを輸送する、或いはこれを教唆する、こういうような場合には、たしか五千ドル以下の罰金とニカ月以下の体刑或いはその両方が併科される場合と、こういうようなことを
規定している法緯もあつたわけであります。そこでこういうような、他面において
ストライキ破りに対する国家的な統制を加えながら、他方において裁判所は
平和的説得という理論を作り上げて行
つておるというように私は考えるのです。
平和的説得理論という形で
ピケが合法だというふうに認められたのは、英国でもそうでありますし、又アメリカでもそうであるわけですが、この
平和的説得理論というものが、実はこういうような形で、他面においては
ストライキ破りを規制しつつ、一方において
ピケツトに
平和的説得というような線を出して行つたということに対して、私は非常にこれは合理的な何かやはり納得の行く
一つの進み方であつたというように感じているわけです。そこで、この通達を貝ますと、残念ながらそういうようなことが必ずしも明確でありません。勿論
ストライキ破りに対しては、
不当労働行為に、余りひどいことをすると
不当労働行為になるということを述べておる箇所もこの中に見受けられます。それから
最後のほうのところでは、或る程度まで
使用者側の
行為というものとの相関
関係というものを臭わせる文責も書かれておるわけですが、
日本の現状では
不当労働行為というものがなかなか認められない。それから認められても、これは別に刑事責任も何も発生するわけではない。そのことは、一方そういうように
使用者側に対しては出ておりながら、他面、この
ピケのやり方、
ストライキ破りに対処する
ピケのやり方というふうな方面についてはかなり厳格な一線をここに明示しておるというように考えられるわけです。そうなると、その一線を仮に踏み越えたというように判断された場合に、
組合はどうなるかといいますと、刑事責任を発生し、民事責任を発生し、それから勿論、解雇というようなことにもなるかも知れない。そういつた危険な水準というものが他面において非常に厳しく打立てられ、他面において
ストライキ破りに対する規制というものが非常に緩やかであるとするならば、やはり
労働運動を育て、そうして
組織を拡充して、そのことによ
つて平和な
労働運動を将来に期待するというようなことには到底なりがたいものではないであろうかというような点を私は感ずるわけです。で、更にアメリカあたりで
ピケは平和的な
説得だということを言
つておりますけれ
ども、この
平和的説得理論というものは、実はアメリカの場合においては、今言つたような形の中で
ピケをだんだん合法化して来る形の上で現われた理論であるということを
一つ御理解願いたいように思うわけであります。曾
つてどこの国におきましても
ピケツトというものはすべて違法であつたというように考えられていたわけです。これは英国の
法律でもアメリカの
判例でも、ひとしく皆そうであつたわけでありますが非常に厳格でありました。第一、
ストライキそのものさえも最初は違法だというように考えられていたわけです。そこで
ストライキが合法だということが考え出されたときの理論的な一番最初の構成はどういうような理論構成を
とつたかといいますと、
ストライキというものは実は
労働者が
団結をして自分
たちの
労働力の売止めをすることなんだ、
労働力の売止めをすることなんだという理論に立ちますと、どういう形になるかといいますと、丁度石炭を売りに鉄鋼会社に行つたがその値段が折合わないので、その石炭を売らないで来たと同じような理論で、そのときその石炭屋はその石炭をどうするかということにな
つて、ほかに売るか或いは自分の倉庫に持
つて帰るか、どこかの倉庫に、預けて帰るかというような処置の仕方をするわけです。
労働力を売止めるならば、それはみずからやはりほかに行
つて売るか或いは自分の家に帰
つて休んでおればいいのだという理論構成になりますから、
従つてストライキは単に
労働力の売止めだという理論で単純に規制したときには、
ピケツトというものの合法的な理論がそこからはなかなか生れて来なかつた。そのために、どこでも
ピケツトは違法だ、違法な
行為だとして厳しく
取扱つていたように私は理解しておるわけです。ところが
現実の問題として、先ほど申しましたように、
ピケは必ず
ストライキと密接な結合をして、不可分の一体としての形で現われて参ります。そこで不可分な一体として、
組合側に対して政府が違法だとしても、やはりその合法性、
違法性の限界のところに、いつも
組合は激突して行くということを、歴史の上で繰返し、そこに幾つかの犠牲を積み重ねるということをや
つて参つたのであります。そこで裁判所にしても、この
事態を眺めて、
ストライキの合法性を認めるならば、やはり
ピケツトの合法性も認めるより仕方がないのじやないか、こういうふうに考えて来るのは至極当然だと思います。そこでアメリカあたりの場合には、如何にしてこの
ストライキの合法性を理論付け、且つ
ピケツトの合法性を認めて行くかということについて、大体次のような経路を経たというふうに私は考えているのですが、つまりアメリカの
憲法には、
ストライキ権というようなもの、或いはそれを含んでいる
団体行動権、そういつた
規定がないのであります。ありますのは言論や集会の自由、むしろそこで強調されているのは営業の自由であります。
従つてそういうような
ストライキの
ピケツト・
ラインを越えて働いて行く自由というものが、
憲法ではむしろ正面から保障されている。そうして
ストライキの自由というものが保障されているという形をと
つていない。裁判所はそれについて苦心をしたのは何であつたかというと、結局この
ピケというものは見張りに立
つていて
相手方を
説得して、そうして
ストライキに参加させないこととするならば、これは一種の言論の自由ではないかということで、言論の自由という
憲法の
規定に即して
説得理論というものを組立てたわけであります。そこで
説得は勿論、腕力で
説得をしたり抑えつけたりするということは、これは適当でないわけでありますから、
従つて平和的説得ということになり、そうして
ピケつトは
平和的説得という形において合法化して行くところに、そういう操作と
努力を重ねたのが、アメリカの
判例、裁判所の態度ではなかつたかというふうに考えているわけなんです。決して、その
ストライキにおいて不可分な形で現れたところの
ピケツトは、どちらかと言えば、やらせないという趣旨で考えたよりは、むしろこういう形で認識をしてリードして行くという態度に重要性を認めて頂けるのではないだろうかというふうに思うわけであります。この点は英国あたりの場合でも見受けられるわけです。例えば一番最初に
団結の自由を認めました一八二四年法が、暴行脅迫というものだけを違法な
行為として禁じたわけでありますけれ
ども、併し
ストライキが非常に勃発をして
組織が急激に拡大したために、一部はこれに対する弾圧を企図する考え方が現れた。そこで、この一八二四年の
団結法を廃止してしまうというために
委員会等を設けたわけですが、それが結果においては廃止することは到底適切でないという結論で若干これを修正して現れたのが二十五年法であります。翌年の
法律です。この
法律の中に暴行脅迫その他
妨害をする
行為というような
行為の種類が
一つ追加された。この
妨害という形が非常にその後英国の
労働運動を悩ました。これあるがために
労働組合はなかなか
ピケツトを張ることができない。張ればこれは直ぐに違法であると
なつた。何でも
妨害という
言葉にあてはまるということに
なつた。併しそれはその後たしか一八五九年の
法律で以て、
労働者をして職をやめさせたり業に就かせることを妨げるために
説得するということは、これは差支えないのだというふうに認めた
規定ができたというふうに記憶しております。そういうことで、だんだん
平和的説得という理論が、やはり英国のこれは立法の過程の中で出て来た。つまりだんだんや
つていけない
行為というものを狭い範囲に縮めて行くことによ
つて、だんだん
ストライキを守る一定の操作の行える形に進んで来たわけであります、そこで、もう
一つ考えて頂きたいことは、英国の場合でもアメリカの場合でも、現在余り猛烈な
ピケツトがないというふうに言われているわけでありますけれ
ども、これは今言つたように、
ストライキ破りというようなものが減少したり、或る程度抑えられたりしているということは
関係がある。
日本の場合は一体どういうことにな
つているのだろうかといいますと、その点は、むしろ
日本の場合には、これは
日本の
組織の
関係もあります。大体が企業別
組合の形をしかまだと
つていない
段階でもあるわけですから、
従つてストライキをやりますと、外から容易に
ストライキ破りが入
つて来る可能性というものがある。それから先ほ
ども指摘がありましたが、確かに
日本の
組合には、内部的にまだ弱い点を持
つている。そのために、内部から崩壊して来るという危険もそれは十分にあるわけであります。そういうようなことで、
ストライキ破りというものがしばしば
組合員の内部についても起る可能性があるし、それから外からも来る可能性がある。こういう状態とバランスをとるような形において、実はこの
ピケというものが引かれているわけなんです。で、私はその場合に二つのことが考えられるわけですが、一方においては
日本の
組合運動というものは、自分自身の
組織を強化することによ
つて、そして人を
ピケツトという形で強制しなくてもいいように持
つて行く必要があるということ、これは確かに指摘し得ることであります。ところが、他面においてもう
一つ指摘し得ることは、
日本でなぜそのような
ピケが張られているかという
現実を、或る程度まで消化して、その消化した
現実の上に立
つて法律の態度もやはりきめて行く、一〇〇のうち七〇%、八〇%の人がや
つておることについては、大体それと同じような
行為をする人は、みずからはこれは正しいのだという意識を持
つてや
つている。みずから正しいのだという意識を持
つてや
つており、それをとめる者が、何が不当だという感じを抱いている、社会的
現実というものを無理に法の力において曲げるのじやなくて、これはむしろそういう状態の出て来ないように持
つて行くということが、私は政治の妙諦ではないだろうかというふうに感ずるわけなんであります。そこで
日本の
ストライキと関連しまして、この通達を見た場合に、
一つ感ずることは、成るほどここに書いてある
一つ一つのこと、特に
平和的説得とかいうような
言葉自体につきましては、私も賛成なので、決して反対なのではありません。併しこの全体の通達に浮んでいることは、あたかも一人々々の
労働者が、自由な意思を持
つて就業しにや
つて来たものを
暴力的に押しとめておるという予想で書いておるかのごとく受取れることなんです。ところが
ストライキの
現実というものは、一人々々の
労働者が自由な意思を持
つてストライキ線に、つまり
ピケツト・
ラインにや
つて来るというよりは、むしろ
使用者のほうの職制にあるところの人々、利益代表者、こういうような
人たちが、そういう人間を集めて、そして行けという形を以て
ピケ・
ラインにや
つて来るという場合のほうが圧倒的な形をと
つておる。
従つてストライキをする側においても、必ずもうそういうことを予想して、初めから戦術的な態度に出てしま
つている。つまり
ストライキ破りという状態というもののあり方についての、それに応じたものを
研究しているという、どうも、い
たちごつこに似たやり方が見受けられるのであります。そこで、そういう
現実であるならば、もう少し
ストライキの
現実に親切な形においてこういうような問題は考えられて然るべきではなかつたろうか。今のように恐らく一人々々の
労働者が自由な意思を持
つて、
ピケ・
ラインにや
つて来る場合には、数人の
労働者が立
つていて、自分
たちの利害を説いてやつたならば、恐らく
日本の
労働者といえ
ども大方の
労働者は、そこで以て
ピケ・
ラインから帰
つて行く、これが普通じやないか。ところがお前、是非とも働けという形で、まとめて持
つて来られた場合には、これは一人一人の自由な意思で突破するというのじやなくて、むしろ指揮命令権に
従つて突破しているということで、実はこの
ピケ・
ラインに来たときの状態には、自由な
説得をするという前提条件がすでに欠けてしま
つているのじやないか。私はできるだけこの自由な
説得を許す前提条件というものを作ることが必要であ
つて、まとめてそこに行かせるような状態から、それに反抗して
ピケツトを生み出させる、こういうふうに指導すべき問題でないように考えるわけであります。これは
日本のみならず外国でもそうでありましたが
ピケ・
ラインの突破というときには、多くどちらかといえば、例えば相撲の選手であるとか、拳闘の選手であるとか、或いはこれはそういうことは必ずしもあつたとは言いませんが、一、二そういう例は新聞などで見ておるわけですが、それから又、腕に手拭を巻いたり刺青をした
人たちであるとか、そういう
人たちが実は
先頭にな
つてや
つて来る。近江絹糸の場合を見ても、新聞で露骨に書かれていたのはそういう
事例でありまますけれ
ども、
先頭にな
つてや
つて来るのは、どちらかというと名付けて
暴力団と言われるような態度の
人たちである。これがや
つて来るということになると、どうした
つて頑固な強固な
ピケ・
ラインを引かなければならんという、こういう状態に達してしまう。で、一体そういうような人々を
説得した
つて恐らく聞かないでしよう。そこで先ず通したといたします。通つた人が中でどういう仕事をしているかということは、資本本来の目的に副う
業務には従わないのであ
つて、恐らく中にいて何もしていない。或いは場合によ
つては、私の
調査したところでは、中で以て特別な御馳走にあずか
つていたという例な
ども指摘できるわけでありますが、そういうような状態になりますと、一体
業務妨害というのは、
暴力団が
暴力で
業務を
妨害するのか或いは真面目に仕事をするのを
妨害するのか、どちらかわからなくなるような状態ができて来るのであります。少し
言葉の点が私、粗大でありまして工合が悪いと思いますが、いわばそういうふうに感ぜられる点さえもあるような
事態ができるのではないだろうか。そういう
意味で、私は今度のこの通達はやはりこれは適切でないというふうに感じておりますので、少くとも
個々の
行為を分析して、その
行為自体に対して言うならば、まあ大方はそう違つたことは言
つておらないということであります。併しながらそれが行われておる
現実と比較してみますと必ずしも適切ではないんだということ、そして特にその点については、例えばこれは非常に私は裁判所でもわかつたような物の言い方をする裁判官もあるものだとい
つて感じておる例があるわけですけれ
ども、北海道の古河の雨龍炭鉱
事件で下されました判決などの中に、こういうような
言葉があるわけです。「
争議行為の態様なるものは、
使用者の施す対策との
折衝面において、相対的に流動して、これに対応せんとするも一のであるから、その具体的な態様を無視して、常に、固定的に
争議行為の
手段、方法の
正当性の範囲を限ろうとする考え方は、往々
労働組合の側にのみ不利益を強いる結果となり、
労働組合法第一条第一項に明定する斯法の根本理念であり、且つ、基本的な目的である
労使対等の
立場を失わしめ」
云々といつたような表現を使
つている箇所がある。これは私は何もこの判決が唯一無上のものだというふうには考えておりませんけれ
ども、たまたま私
たちの考えておりました
争議行為に対する物の考え方を非常に適切に言い現わしてくれているものとして読み上げたわけであります。それは二十四年の労組法の改正がありました際に、あの第一条二項
但書の、如何なる
意味でも
暴力は正当とは見なされないという、あの
規定を作りました際の論争の過程でありますが、その際、亡くなりました末広博士は次のような表現を使われました。「およそそういう問題を考えるに、三つの原則的な考え方があるのだ。その
一つは、原則として
争議行為というものは正当なんだということ、これが第一の考え方。第二の考え方は、幾ら原則的に正しい
行為であるからとい
つても、そのやり方によ
つては違法になる場合もあるんだ。例えば
暴力を使
つてやるというようなことは、これは合法とは言えないんだということ。それではその第二原則でとどまるのかというとそうではない。第三に、そういう
暴力のごとき形態が現われたという場合にも、それはたまたまそれを誘発して来るような原因というものが
相手方から与えられて出て来るという場合があり得るのだ。この場合は第三原則としてやはり合法性を全面的に判断する場合に取入れなくてはならないのだ。」こういうようなことを言われたわけです。で、
争議行為というものは一体そういつたようなことの現われるような総合的な形で出て来るものなので、それを
一つ一つ或る一ヵ所だけの
行為を抜き上げて考えるべきものではないのだ。こういうふうに言われたわけです。勿論、裁判官の方
たちにしましても、例えば正当なる
行為、それからそれが権利の濫用その他によ
つて違法になる場合があるのだということ、或いはそういうふうな形を現わす場合でも、場合によ
つてはそれに対して正当防衛が認められるときもあろうし、それから緊急避難が認められるときもあろうし、或いは責任阻却が考うられるような
事態もあろうし、或いけ単に情状の酌量にだけとどまるようた問題になる場合もあろうし、そうい4
段階のあることは御承知だろうと思います。併しこの具体的な問題に当
つて、裁判をなさる
人たちが考えるそういつた問題を、やはり合法性、
違法性を判断する場合には、いつも総合的に心の中に持
つて対処するということが非常に大事なことなんです。ところがこの場合の通達を見ましても、たしかこの
争議行為は正当なのだ、併し
ピケツトが違法になる場合があるのだ、その違法になる場合が
使用者側の挑発というようなことによ
つて起る場合があるのだ、併しそうした場合でも、それに対するこの通達の書き方というものは、実は非常にやわらかな表現しか用いておりません。
最後のところでありますけれ
ども、「
相手方に違反
行為があれば如何なる実力的対抗
手段をと
つても必らず正当化されるというのではなく、
相手方の違反
行為に対抗するために直接に必要止むを得ないと認められる場合に限られ、且つ、その場合でもその方法、態様において社会通念上妥当とされる最少限度のものでなければならない。特に、
暴力の行使又は脅迫等の
行為は 如何なる場合においても許されない。」というふうに書かれております。で、或る程度私の言つた考え方はここに表現をしたつもりかも知れません。併しながら全体から考えるというと、これではまだ考え方としては不足なんです。実際の
争議というものは、いつもこういう形がむしろ常態なので、こういう形に来ないことのほうがむしろ異例なのでありますから、
従つてそういう状態を全体の
争議行為の評価の中に、もはや土台として漂わせておいて、その上で合法、違法を考えるということのほうが大切なのではないだろうかというふうに考えるわけであります。
全般的な点として今言つたようなことを申上げましたが、更に理論的な問題として一、二申上げてみたいと思います。
それは、この通達の中に現われているところの考え方は、ピヶというものはこれは
組合の
団結に基くところの統制力なんだ、こういう考え方を基本にして考えているわけです。ところが
団結に対する統制力という形だけから出て来るならば、
説得を行うのは
組合員だけだという理論になりそうであります。ところが読んでみますと、ほかのほうでもみな同じように
平和的説得はずつとできることにな
つているわけです。そうすると、一体この通達の基本的
立場というものは何なのだろうかという点で、やや不明確なものをずつと漂わせているわけです。で、どうしてこういう不明確さが出て来るかというと、
現実の
争議行為というものは単に
組合員に対する統制だけではないので、
組合員以外の者に対しても、
ストライキ破りを防ぐために出て来るのだが、議論として
組合のものに対する統制力だこいうふうな言い方をするから——その点と、
現実を認めて、
ストライキ破りでありさえすれば、
組合員以外の
労働者であ
つても、
組合を脱落したものであ
つても、或いは
第三者を装お
つて来た者であ
つても、やはりこれに対して
平和的説得を行わなければならないことは当然になると思うのです。こういう点に不明確さがあるものですから、
従つて理論的な根拠を
組合に対する統制力という点に置きながら、而もほかの者に対してもひとしく
説得ができるのだ、ただ幾分かその
説得の強さというものを若干
言葉でも
つて差別をつけているかのごとく見受けられる点があるわけです。
そこで、それでは
ピケツトというものは、
団結に対する統制力の現われであるから、そういうふうな理論付けで行くべきものであるかというと、私はそうは考えておりません。私は、ピヶというものは、先ほどその
実態の分析から申しましたように、
実態面におきましては、これは確かに
ストライキ破りに対抗する方法として生れているわけです。併しそれを
法律的理論に構成してゆく場合には、一体どう考えたならば一番適切であるかといいますと、これはやはり私は一極の
組織強制的な作用、
組合の持
つている
組織強制的な作用である、こういうふうに考えています。御承知の
通りすでに
日本の労組法第七条でもそういうことを
規定しているわけですし、大体世界の
労働法理論の上でも、まあ現在のタフト・ハートレー法あたりはちよつと違いますけれ
ども、クローズド・シヨつプやユニオン・シヨツプの効力というものを一般に承認しております。然らばクローズド・シヨツプやユニオン・シヨツプというのはどういうことかというと、自分の
組織から脱落した、自分の
組織に参加しない者から就労の自由を奪うことなんです。つまりお前は
組合を脱退した、
組合に参加しない、それならば、この
経営から除けてしまえというのが、実はクローズド・シヨツプやユニオン・シヨツプになるわけです。ですから、クローズド・シヨツプやユニオン・シヨツプの効力を認めるということは、人の就労の自由を或る程度強圧してゆくという作用を
伴つているわけです。人の就労の自由を強圧することが、なぜそれならば合法だというふうに歴史的に考えられるようにな
つて来たのかといいますと、つまり
労働者の個人的な自由、働く自由というようなものは、単に
個々ばらばらの
労働者だけであつた場合には決してこれは守られるものではない、これが
団結を通してはじめて守られるのだというところに、
組合運動というものが起
つて来ているわけです。ですから、
団結権というものを通してはじめてこの就労の自由というものを守
つてゆくのだという考え方に到達したときに、或る程度の
組織的な強圧性を、そういう
組合を出て行つた者、
組合に入らない者に加えることが合法だと考えられるようにな
つて来たのだと私は思
つております。そうでありますと、この
ピケツトというものも実はそういう
関係にあるのだ、
組織の可能の
対象、つまり
組織することのできる
対象になるような可能性を持
つている人聞というものが
ピケラインにや
つて来る、そういうときに、その足をとめて、そうして
説得をするという
行為、これは当然その人の個人的な自由をいくらかの
意味で妨げている形を出すわけです。併しそういう個人的な自由を妨げていることも、今言つたような
意味があれば、つまりクローズド・シヨツプやユニオン・シヨツプの合法性というものが認められるような観点に立つならば、これは甚だしい抑圧でない限りは承認して然るべきだということになるわけです。ですから、
ピケツト・
ラインというものを固いて、一応その
人たちの足をとめるというようなこと自体は、私はクローズド・シヨツプやユニオン・シヨツプの認められる
段階では、だんだん認められていいのではないだろうか。少しでも足をとめることそれ自体が人の通行の自由やなんかを妨げたのだ、こういうふうに考えてゆくことは当らないというふうに思
つているわけであります。それなら、しまいまで抑え付けてどうしても通さないというような形に行くべきものであつたかというと、そういう形に初めから行くということは
現実にはないわけですが、仮に本当の
意味で自由な意思に基いて働きたいという者が、どうあ
つても
説得を聞かないという場合であるなら、これは本来なら通すのが建前だと私は考えております。併し先ほど申しましたように決してそういう形では問題が出て来ていないということが残念ながら今のようなスクラム形態というものを
発展させている、そこに
一つ思いをいたして頂きたいのだというふうに考えております。ですから
組織対象にな
つていない
使用者というようなものは、これは私は
ピケ・
ラインでとめるべきだなどとは絶対に考えておりません。勿論言論の自由はあるわけですから、何か申して、そして
相手かたの気持に影響を与えようとせる
努力は、これは一向差支えないというふうに感じておるわけですが、併しながら
使用者が、これは
組織対象じやない、ところがまま
使用者が
ピケ・
ラインにおいてとめられるという
現実があるのは一体どういう場合に起
つているだろうかと言いますと、例えば、いつもそうだとは言いませんが、こういう場合があるわけであります。工場の中に一部
労働者が初めから残
つているというような場合がある、それから
争議不参加要員といつたような形で以て初めから工場の中へ残
つている者があるというような場合、どうも一定の
使用者側の人をそこへ通す、直ちにそういう
労働者をつかまえて、そうして今度は代替労務をやらせて行くという傾向がある。そこで何とかしてこの
使用者と
労働力の結び付きを切断したいという意欲が
ピケ・
ラインにおいて足をとめるというようなことをや
つている、そういう
現実もあるわけであります。私はだからとめることがいいと言
つているわけではありませんけれ
ども、そういう
現実もあるのだ。そこでむしろそういう場合にあの例の
争議不参加要員というようなものを、
日本の
労働組合と
使用者の間では協約で以て締結しておるわけですけれ
ども、
争議不参加要員というのは何でもいいから
使用者が使
つていい要員ではなくて、これはやはり保安のためとか、一定の目的のために
労使が協約で以て定めた人員でありますから、それ以外の労務に対して指揮命令をして使うというようなやり方は、これはやるべきでないものだというふうに考えて、むしろそういうことが避けられるならば、自然
使用者の入門といつたようなことは私はもう問題なく通過させて行くような慣行というものを育てることができるのではないだろうかというふうに考えております。
大体理論的な構成としては私はこういうふうに考えておるわけですが、更にもう
一つ申添えておくべきことは、純然たる
第三者が
ピケ・
ラインを本当に自己の所用のために通過するなんという場合は実はそれほど起
つていないということ、普通
争議が例えば或るテンポにおいて行われている場合、それは
第三者は入りたいかも知れない、併し
ピケが普通いただけでも入らずに済んでしまうという場合がかなりあると思います。外国なんかの
ストライキの現状を私幾つか見ましたけれ
ども、やはりピヶが立
つている所には一般の人が余り入
つて行かない。これは非常にいい訓練だと思うのであります。つまり
ストライキをや
つているものに対して成るべくそういうことにタツチしない、中立の
立場を守ろうということからそれを避けて行くわけであります。大体そういう慣行が育つことが私は結構だと思うのであります。併した
つて行きたい
第三者が、本当の
意味の
第三者があつたら、これは通過さすべきだと思うのであります。併し多くの場合
第三者を装
つて入
つて来て、中に来て代替労務をやるという問題が起るわけですから、そこで首実験というようなことをやり出すということにな
つて来るのではないだろうかと思うのであります。それもまだ全体としての
争議に対する一般的な考え方が成熟していない
日本の現状のために今言つたような問題が起
つて来ているので、いずれにしましても私はやはり長い眼で以てこの
労働運動を育てて行くという観点でこの問題を処理して行くことが大切なのではないだろうか。ところが残念ながら今度の通達はそういうような
意味を持たない。先ほ
どもお話がありましたが、成るほどこれが出たからと言
つて、裁判所はこれに拘束はされませんし、それからこれによ
つて立法府ももとより拘束されるわけではありませんし、
労働組合もこんなものに拘束される必要はないという議論にもなるわけでありますから、そうな
つて見ると、一体誰を拘束するためにこれを出したのかという問題が改めて考えられなければならないことになるわけですが、その場合にこれは下級の行政官、その本来の所属の管轄下にあるところの行政官に対するものだといたしますと、これは余分な考え方か知れませんが、こういう通達が出て、この通達を振りかざして教育をやつたら、恐らく
労働者に対する教育は私は
意味をなくしてしまう、反抗だけを煽
つてしまうことになるのじやないか。だから真正な
意味で、
労働教育的な
意味で各行政官にこういうような指令を出したとするならば、恐らくもらつた行政官も困るだろうし、これによ
つて教育されようとする
労働者も徒らに反抗をするというようなことであ
つて、決して
意味がなくな
つてしまう。そうすると一体司法的にも行政的にも、又立法的にも
意味のないようなふうな結果に陥るようなものであつたとするなら、これはやはり出さなかつたにしくはない、こういうふうに考える。そういう
意味において私は妥当ではないものだというふうに考えておる次第であります。
非常に大まかな議論でありまして、或いは私に期待されましたことは細かな議論であつたかと思いますけれ
ども、私はこれは紬かな
法律論よりも実はそういう点が非常に重要な問題であるかのごとく考えましたので、少し道を外れたかも知れませんが、私の感想を述べさして頂いたわけであります。