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参考人(
菅原恵慶君) 私は
中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の
事務局の者でございます。
菅原恵慶と申します。本日はこの小
委員会をお開き下さいましたことに対しまして、心から
皆様に感謝いたす次第でございます。有難うございました。
すでに御存じと存じますが、
終戦の以前に、十八年から二十年の春にかけ場まして、約六、七万の
中国人俘虜労働者が
日本に連行されて参りました。これらの人々は数十の
大中会社の配下に分属されまして、
全国百敷十カ所の炭鉱、
鉱山、
発電所、飛行場、
地下工場、鉄道、
工場、
港湾荷役に使役されたのでありますが、
強制労働につきものの蹴る、殴るの虐使が毎日公然と行われまして、又その上に
食糧不足のために次々と栄養失調、
殴打死、
伝染病などで倒れて
行つたのでございます。その最も代表的な、而も残虐極まるものは
秋田県
花岡鉱山の
事件でございます。その
秋田県の
花岡の
鉱山のこの
俘虜の残虐されました
死亡者は三百数十人であります。なお、私は
僧侶でございますから、そういう
数字のほうは又
あとで訂正して頂きますが、私
どもの
誠心誠意今まで尽して参りましたことを
皆さんに聞いて頂くつもりでおります。その点は御了解願いたいと思います。で、
只今申上げました
通り、
昭和二十年でございます。
終戦直後間もなく十月の一日に、食糧問題から
鉱山に働いておられました
俘虜の
労働者たちが
集団逃亡をいたしたのであります。その際に当時の
秋田県の
警察署、
自警団、そういつた
方々がこれを包囲して虐殺したわけなんであります。
戦争裁判で一応はその当時の下手人を
裁判にかけられまして、
裁判によ
つて刑務所に入
つておられる方もありますのでございますのですが、併しそれは一応申訳的に形式的にやつたものでありまして本当に
中国人の
俘虜を慰めるというようなことは全然なか
つたのであります。その証拠に、
昭和二十年にそういう
事件が起
つたのでありますが、
昭和二十四年頃までうつ
ちやつてあ
つたのであります。で、一部分だけその
遺骨をこの
花岡の或る
寺院の裏庭のほうに形ばかりお祀りしてお
つたのでありますけれ
ども、
花岡山の一帯に虐殺された
遺骨が散らば
つております。その三、四年の間に、風雨にさらされてこの
遺骨がむごたらしく地上に現われて参りまして犬や猫の餌にな
つておつたような次第でございます。
それが
昭和二十四年の暮、
華僑の
方々、又朝鮮の
方々から、これを発見されて
東京のほうへ話がありましたので、その話を私
どもが耳にいたしまして、事、この
遺骨に関しては、個人に亙りますけれ
ども、どうしてもこれは
宗教家の者が手を出さなく
ちやいかんということで、私もその
華僑の
皆さんに
協力いたしてもらいまして、今日奇しくもここに三人おりますのは、
最初その当時から真剣にこの御
遺骨をお世話をして参つたものでございます。で、その当時現在の
厚生大臣であられますところの
草葉大臣は、
外務政務次官でいらつしやいました。私と
友人関係でありますから、而も
僧侶てあられますから、
草葉外務政務次官にお会いして、こういう悲惨な
戦争の
跡始末があるんだが、幸いにしてあなたも
僧侶の分だから、是非この問題を
一つ我々に
協力して、
政府が積極的に解決をしてもらいたいんだ、こう言うて私が懇々とお話いたしましたところが、一応了解してくれられまして、早速に
内閣官房長官ですか、方に
草葉さんが行
つて話してくれましたところが、これは
左翼系の者が悪用するから、これはよしたほうがいいと言うて来られたから、君もそれは
一つやめたらどうかというような話にな
つて参り、いや、私は
左翼がこれを利用しようと、誰がどうしようと、現在私のこの目に見たこのたくさんの
遺骨を、私が黙
つて見過ごしていれるわけがないじやないか、何とかこれは私が始末しなければできないじやないかとこう言うて、それじや君、この
戦争の
跡始末というものは
外務省ではないので、
昭和二十五年の話でありますが、その当時は
法務府がや
つているんだから、
法務次官に会い給え、それで私は
法務次官の
名前はちよつと忘れましたが、その
法務次官にもお会いしましたところが、あなたのお
気持はよくわかります。あなたの
宗教家としての態度はよくわかります。わかりますが、それは
草葉さんのおつしやつたように、いろいろな人に利用されるから、悪用されるからそれはおやめに
なつたほうがいいんじやないか、こういうふうなまあ御挨拶であります。私は断わられましても、現にこの目に見ておるあのたくさんの御
遺骨を、それをむげに見送るということは到底私には忍びなか
つたのであります。それで私は
仏教連合会とか、
宗教連盟とか、そういつた方面にも話をかけたのでありますが、
政府がやらないことをこの我々がやればアメリカの圧迫を受けたり、いろいろな差障りあるから、それは我々できない。あらゆる
民間団体の
仏教側でも
神教側でも私を相手にしてくれなか
つたのであります。併しながらこれはどうしても私がやらしてもらわなければ、この
中国と
日本の
関係においても、
人道上においてもこれはもう申訳ないことだということで、止むを得ず不本意ながらこの
華僑総会にお願いいたしまして、なお
日中友好協会の
方々と
一緒にこの御
遺骨の
跡始末をして
参つたのであります。
昭和二十四年の暮にこの御
遺骨が発見されまして、二十五年の春第一回の現地で盛大な
慰霊祭をいたしまして、その後
慰霊祭も二十六年になりますというと、
平和推進国民会議、なお
友好団体仏教会の一部も
一緒になりまして、第二回目の
慰霊祭を二十六年に催しました。二十七年度にも催すはずでありましたが、いろいろの
事情でできませんで、二十八年の一月十七日にかの
島津団長を初めとして
在外邦人帰国打合代表団が
中国に行かれるということでございましたので、私の寺で形ばかりの
慰霊祭を催しまして、各
代表団は皆御参詣下さ
つて中国に行かれたのであります。その前日にその三
団体と
政府会談がございましたが、そのときの
会談においてこの
中国人の
遺骨は適当な時期に適当な
方法で以て
送還を考慮するという言明がそのときに初めてあ
つたのでございます。我々はそれに意を強うしまして、同年の二月に
中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会というものを設けまして、その
委員長には
大谷瑩潤先生を
委員長に頂きまして、私が
事務局長ということになりました。
各派団体、
各党各派あらゆる党派を超越しました
国民総懺悔の下にこの
委員会を作りまして発足したものが
慰霊実行委員会であります。それが昨年の二月でございます。それまでに相当我々は苦労して
参つたのでございます。ところがそういう
実行委員会も結ばれまして、去年の四月一日には大
慰霊祭を
中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の主催で
浅草本願寺で催しまして、七月二日に第一回の御
遺骨を
黒潮丸で神戸から出帆いたした次第でございます。そのときには
興安丸でお送りしようか、
黒潮丸でお送りしようか、いろいろ問題がございましたが、その点は又疑義がございましたらお答えいたしますことにしまして、
黒潮丸で参りましたということにとどめておきます。
そのときの第一回の御
遺骨は
花岡ほか
秋田県下の御
遺骨でございまして、五百六十体をお送りいたしたのであります。第二回目は八月二十六日に
興安丸で
舞鶴から出帆いたしました。これは
北海道、
新潟、栃木の御
遺骨でございまして、五百七十八体、そのときの
団長は私が命ぜられまして
団長とな
つて無事御
遺骨を
中国に送り届けて
参つたのであります。第三回目は十月二十九日、これも
興安丸でございまして、
舞鶴から出帆いたしまして、
静岡、
群馬の御
遺骨であ
つて二百三体であります。全部で千三百四十一体現在まで
中国へ送り届けたことにな
つておる次第でございます。現在では約一千体以上の御
遺骨が
発掘されて
地方の
寺院、
公会堂に安置されておるのであります。この御
遺骨をどうしても今回お送りして頂かなければならんと思うのであります。その御
遺骨は
地方別に申しますというと
静岡、兵庫、
長野、
山口、
四国、九州、
北海道この御
遺骨が
地方地方で
発掘されまして
寺院公会堂に安置されてあるのでございます。そういう今日の
現状でございます。なおこの
発掘の準備中でございますのは
北海道、
岐阜、茨城、
静岡、
長野、大阪、長崎、福岡、この土地におきましては現在進行中でございます。そこで未
発掘の、まだ手の付けない御
遺骨は約四千五百休ある次第でございます。で、
外務省の
調査によりますというと、この
俘虜労働者の
死亡者は六千八百人の
死亡者がある、
外務省の
調査資料によればそういうことにな
つているのであります。で、連行して来たのが三万八千九百三十五人、なくな
つたのは六千八百人ということにな
つているのでありますが、その
戦争当時この
労働者を迎えましたいろいろな
協会がございましたが、その
協会の
人たちから聞きますと、そんな数じやない、それ以上の数だということを
言つておられますが、ま
あとにかく
外務省の
調査によりましても六千八百人の
死亡者がいるわけでございます。ところが現在まで千三百何体の御
遺骨は一旦お返しした、現在は千体以上の御
遺骨が
只今発掘して安置してある、残りがまだ約四千五百体ぐらいある
現状なのでございます。
で、大体今日までの御
遺骨送還の
経過というものは雑駁でございますが、この
程度でございますが、私が第二回目の御
遺骨送還の
団長といたしまして
中国に渡りましたときに、
中国では御
承知の
通り一応この新聞なんかに
宗教排撃だというようなことがございましたので、私も実はびくびくしながら行つたわけでございます。ところがあの埠頭に着きまして、御
遺骨を今お渡しするという段にな
つて見ますというと、
中国の軍隊がたくさんに整列しておられてそうして軍楽隊で吹奏されて、又各
団体の
おのおの代表者がそこに整列されて、厳粛に、我が
日本で申しますれば
国民儀礼でございましようが、そういつた厳粛な雰囲気を以て私
たちを迎えたときには非常に私
たちは異様な感じを受けた。実は
宗教を排撃している
中国でありますから、どんな扱いをするだろうと
思つて私は
参つたのでありますが、それは私の意に反して誠に鄭重な
国民儀礼で受取
つて下さ
つて、そうしてこの北京に参りまして紅十字会の招待に私が出たときには、今度おいでになります
李徳全
会長並びに
顧問である廖承志氏は私の手を取
つて、本当にあなたは
中日両国のために
人道上よいことをして下さつた、ありがとうございますと、心から感謝して迎えましたので、私はざつくばらんに申しますというと、
日本の
政府というものはなんて冷淡だろう、我々が
誠意を以てこの正業にいそしんでいるのになんたる冷淡なやり方であろうか、然るに
中国のこの紅十字会の
方々は本当に私らの
誠意を認めてくれまして、この
宗教排撃どころか、心から感謝してくれたことに対しまして私は本当に嬉しかつた次第でございます。
で、先ほ
ども申しましたように、この
中国実行委員会が結ばれましてからはあらゆる
団体が寄
つておりましてそして
皆さんの
浄財によ
つて何とかや
つておりました。それまでが、
昭和二十四年から
昭和二十八年までのこの間は、ここにおりまする三人の者は本当に
自分の身内のようにや
つて参つたのであります。で、
実行委員会が結ばれてからこの
浄財もどうやら集るようになりましたけれ
ども、到底この大きな
仕事でございますから、なかなか
経費の点においても我々は及びがたい。で、
政府に
要請書とか、いろいろな手段を以て参りましたが、今日まで何ら好意ある積極的な回答を得ていないのであります。我々はこの
浄財を求めますについて、あらゆる
宗教団体とか、又檀家の
方々にお話するというと、これは当然
政府がやることじやないですか、これは我々の
浄財は寄付さして頂きますが、この問題は誰が聞いた
つて、これは
政府がやる
仕事じやないか、こう言うて私を鞭撻して下さるのでありますけれ
ども、私の力の足らないところでありますか、
現状のままでございますが、すでに今日まで些細な
浄財でも集めまして使いました
数字を見ますというと、
北海道では百二十万の
経費を使
つております。それから神奈川県では四十五万、
新潟では四十五万、
秋田では、これは百万ぐらい使
つておりましようが、これははつきりわか
つておりません。
群馬では五十万、
静岡県では百二十万、宇部では百万、
愛媛では百万、
長野もありますが、これはわか
つておりませんが、すでに
皆さんの
浄財によ
つて四百九十万の
お金を、
浄財によ
つて今まで注ぎ込んで来ておるのであります。又
東京の我々の
事務局におきましても、ほうそれから金を借り集めて二百万ぐらいはもう使
つておりまして、すでにもう七、八百万の
お金を使
つておるのでありますけれ
ども、
政府は何かといろいろな条件、いろいろな理由を以て
送還並びにこの
遺骨発掘に対して積極的な
誠意を見せてくれないのであります。
本日、ここに小
委員会をお開き下す
つてこの問題を御討議下さることに対して、私は心から
皆様方に感謝の意を表する次第でございます。どうかこの今日までの
経過は雑駁でございましたが、どうか私
どもの心あるところをお汲み取り下さいまして、
人道上且つ
日中両国のために
一つ御奮闘、御
協力下さいまして、
政府に積極的に我々の
仕事を推進するように、どうか御鞭撻あるように
一つお願いするところでございます。簡単でございますが、以上で終ります。