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1954-03-26 第19回国会 参議院 厚生委員会 第19号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十九年三月二十六日(金曜日)    午後二時四十五分開会   —————————————  出席者は左の通り。    委員長     上條 愛一君    理事            大谷 瑩潤君            常岡 一郎君            藤原 道子君    委員            中山 壽彦君            西岡 ハル君            横山 フク君            廣瀬 久忠君            堂森 芳夫君            有馬 英二君   事務局側    常任委員会専門    員       草間 弘司君    常任委員会専門    員       多田 仁已君   説明員    引揚援護庁援護    局引揚課長   木村 又雄君   参考人    元陸軍大尉   米田 三郎君            服部 辰三君    元樺太新聞記者 佐野審六郎君    元樺太庁海上警    備隊員     笠松 正治君    日本赤十字社外    事部長     工藤 忠夫君   —————————————   本日の会議に付した事件連合委員会開会の件 ○社会保障制度に関する調査の件(ソ  連引揚者援護に関する件)   —————————————
  2. 上條愛一

    委員長上條愛一君) 只今から厚生委員会開会いたします。  連合委員会に関する件を議題といたします。ビキニ被爆事件調査ため関係ある文部、水産、外務の各委員会連合委員会を開くこととし、その日時及び参考人を呼ぶこと並びにその人選は委員長に一任することに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 上條愛一

    委員長上條愛一君) 異議ないと認めます。   —————————————
  4. 上條愛一

    委員長上條愛一君) 次に、社会保障制度に関する調査の一環として、引揚者援護対策に資するため、本日は最近ソ連地区から引揚げられた方々及び日本赤十字社外事部長工藤忠夫さんに参考人として御出席を願つております。種々御意見を拝聴いたしたいと存じます。  この機会に厚生委員会代表いたしまして参考人方々一言御挨拶を申上げたいと存じます。  参考人方々には、長い間の御苦労の末お帰りになり、而も帰朝早々お疲れのところ特に御出席下されまして、御高見を発表下さることは誠に感謝に堪えない次第でございます。厚く御礼を申上げる次第であります。参考人方々にはあらかじめ御依頼いたしておきました点についてそれぞれの立場から隔意のない御意見を御発表下さるようお願いいたしますが、時間の都合もございますので一人当り十五分程度にお願いいたしたいと存じます。  なお、各委員方々には参考人意見発表が全部すみましてから御質問をお願いいたしたいと存じます。御了承をお願いいたします。  では先ず米田さんからお願いいたします。
  5. 米田三郎

    参考人米田三郎君) 私は、停戦が二十年の八月十八日に行われました、それと同時に軍事捕虜としてハイラル収容所に収容されました。それから二十年の十二月八日にアンゼルカ、これはグズバス炭田地帯の、一炭鉱町であります。ここに炭鉱作業作業大隊として約三カ年炭鉱作業に従事しました。このアンゼルカにおきます労役状態は、最初入ソ当時に我々が満州から持つて行きました糧秣が約二カ月分ありましたので、給与方面は悪くありませんでした。又労働最初でありまして約八時間労働を三時間から四時間で強引に切上げて帰えるというやり方をやりましたので、別に労役はそう苦痛ではありませんでした。  併しながら我々が持つて行つた糧秣が切れると同時に、ソ側からの給与に移りました。これは主としてこうりやんとか、燕麦とか、私たち日本人が今まで食べたことのないものが主でありましたので、我々は体力の低下を来たし又三カ月も作業をしたあとだものでありますから、ソ側の者も作業に対してうしろからいわゆるロシア語で言えばダワイダワイと言つて追いかけて来ます。これで非常に苦労いたしました。併しながら二十三年の夏頃からはすでに日本人熟練労働者の域に達しまして、賃金も相当多額に受領するようになりました。それで給与方面もその賃金によつて各人が購入をして食べるというようになりましたので、生活状態は非常に楽になつて来ました。それで私の感じたところでは、最初は非常に悪かつたけれども、その給与及び労役状態は、後ほど、二十三年以降には不良ではなかつた、こういうふうに自分は思つております。  私は二十四年の八月に帰国ために、アンゼルカからナホトカに集結しましたが、すでに戦犯名簿自分名前が載つておりましてすぐ取調べを受けました。そうしてウラジオストツクに後送されまして、約一カ月取調べを受けてウラジオストツクの第一監獄に収容されました。そこにおいて約一カ年、その後モスクワに送られました。モスクワにおいては約二、三カ月でありました。それからすぐレニングラード監獄に送られました。ここに約二カ年半、モスクワ及びレニングラードにおきまして私は終始独房で生活をいたしました。それで私の抑留生活状態は非常に苦しいものがあつたと思います。又そういうふうに自分感じました。併し労役一つもありません。  次の抑留邦人状況、これは私は地方に出ておりませんので申上げることができません。一般日本人に対するロシア人態度一般人日本人に対する態度、こういうのは自分軍事捕虜としての収容所におりましたときを申上げますならば、最初日本人は馬鹿にされておりました。併しながら日本人熟練労働者の域に達するようになりましてからは、日本人は非常にロシア人から尊敬の目を以て見られるようになりました。  次に、引揚の実情、これは自分にはよくわかりません。申上げることができません。  第四番目の今後の引揚見通し、これにつきまして、私はまだソ連国内各地日本人が相当数おるということは、ナホトカに到着して初めて聞いたような次第でありますが、どこに何々という人間がおるから、これを返えせというふうに指摘をして、ソ側に交渉するならば引揚は可能である、こういうふうに私は思います。又そうすることが絶対に必要であると思います。ソ側のほうでは再三再四こういうふうに事実を持つて要求すると、許される範囲においては何でもやつてくれるのが大体ソ連やり方です。私が監獄におりましたときも、非常に部屋が暗い、これでは自分の体はもたない、だから窓の大きい明るい部屋に変えてくれと要求しました。二、三回要求しますと、必らず変えてくれます。ですからソ同盟に対する交渉も、再三再四強引に粘り強くやる必要があります。  皆様の御期待に副うような意見を申述べることができなくて非常に残念でありますが、私は大体このくらいで終らせて頂きます。
  6. 上條愛一

    委員長上條愛一君) それでは次に服部さんどうぞ。
  7. 服部辰三

    参考人服部辰三君) 今回興安丸で三月の二十日に帰国した服部辰三であります。私の体験談を述べる前に、このたびの帰国に対しまして全員四百二十名を代表し心から御礼を申上げます。  私は一九四五年、昭和二十年大泊中学を卒業したのでありまして、その後自分日本大学の文科に入学する予定になつておりましたけれども、敗戦後それも変更になり、その後四カ月のロシヤ語の語学の研究に入つたわけであります。そうして四カ月の講習を終えて、通訳として民政所並びに民政局に従事したのであります。昭和二十二年四月三十日自分は五十八条十項、反ソ連的煽動で以て検挙されて、五年の刑に処せられ、昭和二十二年九月シベリヤに送られたのであります。昭和二十二年九月七日ウラジオストツクに着きましてからシベリヤ本線通りまして、クラスナヤルスクより約二百キロ手前のレエシヨトという駅に下りまして、そこから密林を入ること六十五キロ、そこには二十五カ所の強制収容所があつたのであります。一つ収容所には約千人の罪人がそこにおりまして、伐採並びに鉄道工事に従事しておりました。初めのうちは馴れないパン食並びにあらゆる精神的、肉体的、経済的な歎きのために衰え、骨一つとなつたときもありました。そうして毎朝出される労働に、自分の前の小さな邪魔物、木であろうと何であろうとある場合に、それをまたぐことのできないまで痩せ衰えたものであります。それにもかかわれず彼らは、うしろ軍用犬をつけて、遅れる者に対してそれを押しをかけるとか、そういうような本当に僕らから言わせるならば、これが生き地獄であろうと思います。そうした苦しい時が昭和二十二年より二十五年まで大体続いたのでありました。そうして二十五年から幾らかその制度が緩和になりまして、二十五年より二十七年まで私はパン工場のパン焼きとして仕事をして、二十七年の二月十七日に解放になつたのであります。  解放になりましてそれよりミヌシンスクという所に自分参つたのであります。これはミヌシンスク市に参りますと、エニセイ河の一番南のほうに当りまして、クラスナヤルスクより遡ること大体六百キロでありまして、そのミヌシンスク市というのが人口約六万、農業の集散地でありまして、その町から離れて六キロの所で石油探索隊石油探索に当つておりまして、その建設部が町にありまして、そこに自分は班長としまして約十人の日本人と共に土方、又は石積み又は左官の真似などをして来ましたが、稼ぎ高は五百円から八百円、そのうち独身税並びに所得税などの税金を引かれまして手に入るところは四百円から六百円といつたもので、自分がおりましたミヌシンスク市におきまして一カ月の生活費というものは二百五十円から四百円ぐらいまでかかつたのであります。そうして二月二十六日機関のほうから通知がありまして、ミヌシンスク市より三十七名のものがクラスナヤルスグ市まで送られたのであります。三月三日クラスナヤルスク市に着きまして、そこにおきまして五名の者が帰国を希望せず、二名の者が書類不十分並びに病気等の理由によりまして残つたのであります。  それより三月五日のクラスナヤルスク市を発ちまして、三月十四日午前二時ナホトカに着いたのであります。三月十七日午後七時から行動を始めまして税関の検査とかありまして、そうして十八日午前二時乗船したのであります。乗船したときの感じは実に何とも言えないほど有難く、ただ日本人としての誇り、日本の国に生れた有難さというものを私は再認識したのであります。三月十八日午前十時二十分ナホトカ港を出帆しまして、三月二十日午前九時東舞鶴港に着いたのであります。  私はここにおきまして共産党は如何なるものか、事実と学理との差はどのくらいあるかということに対して私は簡単な意見を述べたいと思うのであります。彼らの学理における共産党自分労働により、自分の能力により、それによつて権利を得る、資格を得るというものが簡単な共産党の訳だと思うのであります。併しそれが今ソ連の国において行われておるか否かということは私は疑問に思うのであります。併し共産党社会主義というものが完全にできていないけれども、彼等はそれに向つて努力しておるということを言わざるを得ないのであります。彼らは彼らの中にいる共産党員赤手帳を持つているというものはどういうものか、彼らがそう赤手帳によつて、早く言うならば地位をかばい、自分権利を獲得せんがためにその赤手帳を持つているのであります。なぜならばたとえいろいろな、又はそれだけの権利等を持つていても、共産党員でなければ上部に立つことができないというのが歴然とした証拠であり、それがために彼らたちはその赤手帳を手に入れるということによつて自分たち地位をかばうというのが共産党員の実相なのであります。又選挙におきまして、彼等の憲法第百三十八条に出ている選挙についての法則、そういうものがありますけれども、彼らの代議士候補者というものは、ソ連共産党員の指定するものにきまつているのであります。そういう選挙におきまして、何らその選挙自由選挙であるとは言われないと私は思います。  又彼らのいいところと申しますのは、彼らは人種並びに階級に差をつけないことです。たとえ君が日本人であろうと、ウクライ人であろうと、国には何の差はない。又君が長であり、又君が下のものであつてもそれらに対して何ら差をつけないということは、今後日本人も学ぶべき点であろうと私は思います。  もう一つ彼らの持つている家族的友情といつたものに対して私も言いたいのですが、我々日本人が、日本の国で受けた家族的情愛というものを持つている我々が、ソ連にいて彼らの家庭状況を見るのに、非常に呆然たるものがあるのであります。彼らには親子の情もなければ、友人の情もないのであります。併しこれは彼らのほうが、こうなさされたのであつて、彼らには罪のないものでありますが、併し私は早くそういうところから逃れて、そうして温い日本式家庭生活に入ろうと思つていたのであります。ソ連憲法第百三十二条において認められている言論の自由、これは全く嘘であります。たとえ僕がそれに関して一言でも発するならば、十年の刑をすぐもらうのであります。  私が乗船し、感激に燃え、そうして舞鶴に着きまして、非常に何とも言われない有難いそうしてこの日本再建ために闘うという決心をつけ、現在まで至つたのであります。そうして現在の日本青年諸士を見る場合に、私は非常に遺憾なのであります。敗戦国の国民がこれでいいのかと私はここで言わざるを得ないのであります。我々青年諸士がこの日本再建に当らねばならない場合に、精神的に、或いはいろいろな方面において奈落のどん底に落ちているように私は考えるのであります。これもすべて政府のほうより強力にこの落ち行く日本状態を補助協力して頂きたいと私は思うのであります。  又これは自分の個人の意見になりますけれども、この入学問題につきまして、でき得るならば皆様方の御援助の下に入学いたしたいと思つておるのであります。今まで四カ月のロシア語講習も受けまして、できることならば外語なりどこなり皆さんの御援助の下に、そうして日本再建ために努力したいと思います。  甚だ簡単ですがこれで終ります。
  8. 上條愛一

    委員長上條愛一君) それでは次に佐野さん一つ……。
  9. 佐野審六郎

    参考人佐野審六郎君) 只今お二方からいろいろ観測を申されたので、私は概略をお述べします。  抑留の場所、私は南樺太に当時おりまして、当時真岡で私が日本に脱出するため密航船の計画を立てたというので、私は捕えられまして、処刑を受けまして、二年の刑を受けました。  そうしまして労役状況は、私は最初はナリンスキーという北緯六十八度、ほぼ北極に近い点でありますが、この辺に参りまして、ここはロシアの非常に最近の工業地帯で、非常に優秀な地点であります。ここには住民が相当おりまして、私ら日本人もその頃約二百名、私の観測では二百名前後ではないかと思いますが、二百名がおりまして、主に工場建設をやりました。給与はその頃非常に悪くて、最初の二年間というもの、この間に日本人が多く栄養失調その他で相当亡くなりました。パーセントにしたら恐らく四〇%近い死亡率を見ておるのじやないかと思いますが、で、私はここで二年の刑を受けまして、地方人にすぐなりまして地方人になりましてからは、道路工事などをやつておりました。ロシア人はここで日本人を非常に非文化人的に見ておつたようですが、使つているうちにそうでないということをだんだん認めて来たようでして、私らに対する態度は非常に二年後には変つて来たようでした。そこで私は無我夢中で暮しましたのですが、この頃、一九五〇年にセエルエニセスクという所に又強制移住を命ぜられました。セエルエニセスクというのはエニセ川の北西四百キロ、クラスノヤルスクから西北八百キロの地点にありまして、ここは炭鉱の町で、私らは主に住宅建設、その他炭鉱に附随したいろいろな建設仕事に従事しました。収益は大体五百五十円ほどで、最初一九五〇年、五一年前後は手一ぱい生活でしたが、いわゆるスターリンの丁度死亡した頃から、一九五三年頃からは非常に生活も楽になつて参りました。商店なんかも、衣服など相当数多く見られるようになつて来ました。労役は囚人のときは非常に苛酷でしたが、地方人になりましてからは一日八時間、これをロシアは絶対的に厳守しておりまして、非常にそう苦痛というほどでもありませんでした。  大体労働状況はそうでありまして、抑留邦人状況につきましては、私、自分地区のみしか知りませんが、このナリンスクには、私は一九五〇年に発ちましたのですが、そのときにまだ残つているのは八十人ほどあるのではないか。これは見たり、聞いたりした自分観測ですが、大体八十人くらいまだ残つているのじやないかと思います。この中に二、三自分から残つた人もおります。それとロシア人パスポルトというのがあるのでありますが、日本人で矢崎というのですが、これは日本人でありながら刑をあけたときにパスポルトをもらいまして、ロシア人の国籍になつてつたのが一人おりました。それがために今回の帰還のときには帰られなくて、非常に残念がつておりました。ナリンスクでは大体私の見たところで……。  それでセエルエニセスクという所には、二人の日本人が残つておりました。一人は樺太から捕えられまして特務機関におりましたが、前名は宝部と申します。もう一人は張鼓峰事件ソ連に捕えられまして、捕虜になりまして各地転々としておつたのでありますが、私らの地点に一九五〇年に送られて来まして、この方も一人残されました。  大体数字的にはそんなようなものですが、それから一般人日本人に対する感情、これはいろいろ感じますが、ロシア一般民衆は比較的服部さんの申されたように、盲目的と言うのでしようか、文字の書けない連中が多くて、そういつた人は日本人に対しては余り冷淡ではない。日本人であろうが、支那人であろうが、朝鮮人であろうが或いはその他の人種であろうが、割合いに同じような態度で親しみを持つて接近しております。私が一、二感じましたのは、私を使つてつた現場の長ですが、これは共産党員ですが、非常に冷たい感じを私に与えました。この日本人めという侮蔑的な言葉を一、二度吐いたことがあります。一般民衆はそんなことはないようでした。  引揚の実態ですが、これは只今皆さん申されたようですが、クラスノヤルスク集結された後、五日に出発しまして、十四日にナホトカに着きました。ここで私が感じたのは、今までよくロシア諸所強制移住を命ぜられましたが、こんなに親切によく待遇して、日本に送つてくれたことがなかつたよう感じます。非常に明るい気持で私たちロシアを発つて参りました。  それから今後の引揚見通しですが、私は非常に今後なお一層有望ではないかと思います。と言いますのは、私の地点残つた日本人がおりましたが、残つた人たちも非常に日本に帰りたがつておりまして、私幾度かソ連当局警察に参りまして、どうして残したのかという質問を発しましたところ、モスクワの指令による名簿に二人の名前が載つてない、それがために残すのだ。併しながらあの方も必ず次には帰れるのだと言つて、今までそういうように親切に吐いた言葉がないような言葉を吐いてくれました。クラスノヤルスクに行きましてから、クラスノヤルスク収容所で又私はその二人の問題につきまして当局にお願いしたのでありますが、やはり同じような回答でしたが、非常に態度は親切で、今までに見られない親切な態度で、いや必ず次の船で帰れるだろうということを言つておられたようで、その全般的な空気から推して、なお将来もあり得るのじやないかと思います。  その他参考となるという事項ですが、私は昨年九月にラヂオを買つて、向うにおりまして、日本放送を聞いておつたのですか、そして今回の引揚も未然に知つたのですが、そのときに非常に感じたのですが、ラジオの電力が弱いのでしようか、時々聞えなくなる。実に肝心なニュースのところへ来て聞えなくなる。もう少し本国で電波を強くしてくれればと、何度か涙を流してダイヤルを廻したことがあるのです。これが若しできるならば、自由日本という放送、どこからか放送しておるか知りませんが、非常に強力な電波でして、その他の電波が非常に邪魔して肝心の日本放送が聞えなかつたのですが、どうかラジオ電波を強力にして欲しいということを痛切に感じました。  それともう一つ、私らのほうは非常に初め強制移住などされましたために非常にみんなが萎縮しておりまして、警察当局で昨年の九月に日本手紙を出してもいいと言われたのですが、私らは非常にソ連に対する不安があつたものですから、手紙を出さない人が多かつたのですが、それでも私の知つておる範囲で十何通出しましたところが、回答がたつた一通しかなかつたのです。それでこれはロシア自分たちの思想を調べるためにこういうことをしておるのじやないかという懸念が非常に強くて手紙を出さなかつたのであります。誰かが出して返事があつたならば出そうという声が非常に強かつたのでありますが返事が来ない。自分たちがそのときに感じたのですが、日本の田舎に住んでおる人はロシア字手紙の宛名が書けなかつたため回答するほうが出さなかつたのじやないかというようなことを感じたのですが、その点ももつとよく調査して頂けば結構だと思います。  大体そんなような意見であります。
  10. 上條愛一

    委員長上條愛一君) それでは次に笠松さん。
  11. 笠松正治

    参考人笠松正治君) 私は昭和二十年の終戦当時まで樺太庁海上警備隊に勤務しておつたものであります。終戦昭和二十一年六月に日本に渡るべく越境いたしまして、十日間海上を浮遊いたしましてソ連官憲に捕われたのであります。当時その後十月にシベリヤに渡されまして、途中略奪にあい、丸裸になつて強制労働収容所に入りました。  その当時の強制労働収容所は非常に苛酷な労働を課せられて、又食糧も日本食と違いまして非常に悪い主食を与えられましたがために、日本人の同胞は栄養失調を起しまして死亡したものが多数にあるのでございます。その後各強制労働収容所を二、三カ所廻されまして、そこにおいて満刑いたしまして、刑を明けて係官に私は刑が明けたのだから、日本に帰してくれとお頼みしたのです。ところが今日本に帰すことができない、それじやどこへ行つたらいいか。日本人の多数おる所に廻してくれとお願いしたところが、カザツクスタンのチユーという地区に送られました。私のおつた所はここです。(図示)まだこちらにも日本の婦人がおられたのが今度一緒に帰つて来られました。そこで労役状態、任意におのおの各ロシア人家庭に参りまして、その当時サマンといいまして生煉瓦を型に入れて抜いて千本二百円です。これが一番重労働に服しておつたものです。月収は、体の達者な方で約千二百円から普通七、八百円程度です。ここで今度引揚の命令を受けるまでそういう仕事をしておつたものであります。  抑留邦人状況につきましては、我我地区には一人強制的に残された者がございます。それから我々より三百キロ南に行つたジヤンブーという市には、日本人自分で欲してソ連残つた者が三名でございました。  今回引揚のことにつきましては、日本政府並びに日赤方々の御援助によりまして私たち引揚げて参りました。当時ナホトカに収容されまして、ソ連官憲の我々に予想だにもしない穏当な温かい、何と言いますか、ソ連渡つてソ連の看守が我々に対してこういうふうに接してくれたというのは初めてでございます。  今後の見通しも、ソ連に在住する残留者ために、日本政府日赤関係当局の御助力によりまして、一日も早く速かに帰国の運動を続けてもらいたいと思います。
  12. 上條愛一

    委員長上條愛一君) それでは最後に工藤さん一つ……。
  13. 工藤忠夫

    参考人工藤忠夫君) それでは第二次帰国に関しまして日本赤十字代表といたしましてナホトカ参つてソ連赤十字代表と接触いたしました経緯を簡単に御報告いたします。  御存じの通り、昨年締結いたしました日ソ両国赤十字社間の取極めによりまして、千二百七十四名の日本人が送還されることになつております。そのほかに千四十七名の戦犯者が残留しておる。その他の日本人については何ら資料がないということで、未解決のままになつておるのでございます。この千二百七十四名のうち、第一回で八百九名、一名は残留を希望いたしまして、八百十名が第一回で帰国ということになつております。従つて第二回に帰国すべき人の数は四百六十四名となるわけでございます。この四百六十四名は、第一回が終りまして十五日乃至一カ月以内で送還できるということを口頭でソ連の赤十字の社長がモスクワ会談で申されたので、我々も皆さんが正月は日本でしてもらえるように努力したのでありましたが、なかなか思うように行かないのでございます。種々交渉の結果、二月十八日に至りましてソ連の赤十字社から、三月十五日頃ナホトカに集結の見込であるから、日本船来航の期日については追つて通知するという回答があつたのでございます。三月十五日に集結と言いますから、大体三月末か四月の初め頃に帰還できるのじやないかと思つておりましたところ、三月の七日に至りまして、三月の十七日に船を廻してもらいたいという電報が参りました。この電報に従いまして、私たちは三月十四日に興安丸に乗りまして門司を出帆いたしまして、十七日にナホトカに到着したようなわけでございます。  ソ連の赤十字の代表は、沿海州の赤十字管区の事務総長のサブチエンコという四十六、七歳の婦人でございまして、第一回の帰国の際のソ連赤十字の代表であつたのでございます。第一回の場合は、モスクワの副社長のシヤロノフ氏がわざわざモスクワか来られたのでございましたが、今回は現地のウラジオにおられるサブチェンコ女史とその補佐役が一人で、モスクワからは代表者が来なかつたような次第でございます。三月十七日の午後六時半頃、この桟橋の倉庫の裏に貴賓車を廻してくれまして、その貴賓車で会見したのでございました。極めて慇勲鄭重に我々をもてなしてくれまして交渉に入つたのでございましたが、一番に今回帰すべき人のリストをお見せするといつて示した数が四百十五名であつたのでございます。うち女が九名、そのほかに子供が五人おつたのでございます。従つて正式に帰国の数に入るべき数は四百十五名でございましたが、我々の予期しておりました四百六十四名に四十九人も不足しておりますので、これは一体どういうことかと言つて説明を求めましたところ、現に集結中であるので、今夜中にも数人は到着するかも知れない、若し到着すればこの数の上に加えることにしたいというようなことでございました。併し確信ある回答でもございませんし、又四百六十四名には到底達するようにも見えなかつたのでございますが、我々といたしましてもこの数字に拘泥していつまでも待つということはできない、そういうわけで集まつているリストの人数を受け取ることを承諾したのでございます。これは後に乗船後にわかつたことでございますが、帰国者からいろいろ承わりまと、五十名以上の方々ナホトカに集結するまでの会合地点、若しくはナホトカにおいて帰国の意思を放棄してソ連に残留することを希望した方が五十名以上もあつたということでございまして、若しそうだとすればソ連はやはり協定の数は一応出そうといたしたということが推測せられるのでございまして、この点については更に援護庁のほうで詳細調査してもらいまして、若しソ連側に折衝する必要がある場合に、その理由も質したいと思つておるのでございます。併し聞いたところだけでは、強制的に残留させられたというよりも希望で残留した、殊にその多くの人々はソ連の婦人と結婚して子供まで成しておるというような家庭の事情による人が多かつたようでございます。こういう人は勿論帰国の希望もあつたのでございましようが、それよりもなお個人的な理由で残留するほうがいいと見たものだと思います。  引揚業務は午後十時頃から十八日の午前四時半までかかりまして、非常に業務が長くなつたのでございますが、運搬するトラツクの数が非常に少かつた。トラツクに乗せる人の数が又少かつた。その上に引揚者がナホトカの、マガジンと言つておりますが、国営百貨店だと思いますが、そこでいろいろな買物をされて、そこで自分で持つてつたものを税関で検査してということで非常に手続が長くかかりまして、僅か四百六十二名ばかりの人々が四時間半もかかつて乗船を集結したような次第でございます。それで四時半に終りまして、直ちにこの帰国者のリストと引渡し調書の署名を了したのは朝の五時頃でございました。  これより先、私たちはこの際帰国の一般問題について何とかソ連赤十字のほうに我々の意思を通じたいと思いまして、あらかじめ書物にいたしました覚書を先方に手交すると共に、その説明をなしておいたのでございます。その第一は、千四十七名の戦犯者の釈放並びに早期帰還についての要請でありました。御存じのように、戦犯者は先ほど帰国者から言われましたように、刑法第五十八条にかかつておりまして、刑期は最低の人が二十五年という刑期に処せられておりまして、若し刑期の満了を待つておるならば、この先何年待つていいか、少くも二十年は待たなくてはいけないのでございます。これでは本人はもとより留守家族の人に対しても相済まない。ソ連赤十字において人道的精神並びにソ連政府の平和政策の線に沿つて減刑のために尽力してもらいたいということを申入れておいたのでございます。  それから今回の一般人並びに戦犯者以外の人々の問題については、ソ連の赤十字は資料がないと言つておるのでございます。モスクワにおいて我々が出発した以後何らか資料が出て来ておるならば、その資料を頂きたいと共に、今後とも日本人の存在について調査をしてもらいたい。そしてこれらの人たちの早期帰還について尽力してもらいたいということを申入れしてございます。それが第二点でございます。  第二点は、モスクワにおいて約束しました消息不明者の安否調査でございます。これについても今回第二回の帰国者として帰られました方からいろいろ情報を聞きまして、残留者名簿を整理いたしまして、消息不明者についても、又リストを作りましてソ連赤十社のほうに最終的な調査を依頼するから御協力願いたいということを申入れておいたのでございます。  それから第四番目は、死亡者のリストをもらいたい。死亡者の数は前回モスクワで一万二百六十七名と言つておりましたので、その際名前はもらえなかつたのですが、ついでに本人の名前、死亡時の年齢、場所、死亡の原因、その死亡当時の階級、本籍そういうようなものを詳しく申しまして、詳しい事情を知らしてもらいたい、こういうことを申入れました。  第五番目に今後の協力についてこの上ともよろしく願うという五点を先方に出しておいたのでございます。御存じのように現地の機関でありますから、なかなか責任ある回答を期待するということはむずかしいのでございまして、どうしてもこれをモスクワの本部に伝えてもらいたい。本部から責任ある政府筋に交渉して、我々の希望を実現するようにしてもらうように措置することが必要と認めまして、わざわざ書物でやつた次第でございます。先方はこの要請を政府の責任に属する事項として遅滞なく政府に伝えますということを確言しております。これが我々が先方に要請した事項でございます。  今回の帰国者は先ほど報告がありましたように、前回殆んど大部分の方が戦犯者として収容所労働しておられ、直ちに帰国された方とは違います終戦直後いろいろの理由でソ連の五十八条以外の廉で刑に処せられ刑期を満了せられた後、地方人としてソ連各地に散在して労働しておられた方方でございます。東はマガダンから西はアルマアータ、タシケント、ザツクスタンというような所におられまして、南はミニチンスク、北はナリンクスというように、殆んどソ連の全地域に分散せられておつた方々でございます。その条件は初めは非常に苦しかつたけれども、スターリン政権の末期、殊にマレンコフ政権になつてから、消費物資が出廻つて給与状況も悪くはない。従つて生活状況も漸次改善しつつあるというような状況でございまして、こういう点におきまして第一回の方々と第二回目の方々とは、ソ連における条件が非常に変つておられるところが特色であると思います。  いずれにいたしましても非常に言葉に言い尽せぬ苦労をされまして今回故国に帰られたのでございまして、日本赤十字社といたしましてもこれらの方方が就職の問題或いは住宅の問題、日本に帰られてソ連の出発前における条件よりも日本に帰つたほうがよかつたというようにせられるように、議会、政府筋に善処方を御依頼したいのでございます。  それからこのソ連赤十字社の我々に対する態度でございます。私たちが昨日モスクワに行きましたときも、極めて友好的でございまして、会談の零囲気も国交のない国人に対するような態度とは見えなかつたのでございますが、今回ナホトカにおきまして先方の我我に対する待遇振りを見ますと、モスクワにおけるよりも更に友好的であつたというような感じがいたすのでございます。会談が終りまして茶菓の饗応にあずかりましたが、ウオツカ、コニヤツク、シヤンペン、そういうようなもの、それからクリミヤの蜜柑まで出されて、極めて友好的に我々を処遇され、その態度も全く友好国の国民に対するような態度でございました。それからいろいろの我々に対する入港の際の措置、出港の際の便宜のような問題につきましても、前回におきまするのとは非常な相違でございます。入港の際も、港の真中に着くまで殆んど誰もやつて来ないというような状況でございました。出港に際しましては、ラジオのアンテナから写真機まで出発前に全部封印を解いてしまつてくれまして、極めて我々を信頼した態度を示されました。なお十七日の会談の際に、過去数回引揚船が来たけれども、ソ連の土に足を置いた日本人は殆んどいない。何とかこの機会にナホトカの見物のために上陸を許されたいということを申入れたのでございましたが、翌日に至つて船員全部の上陸が可能であるという親切な申入れがありました。ところが、折角申入れておきながら、我々のほうは乗船業務が非常に遅くなりまして、みんな疲れておりましたということ、それからすでに乗船を終りまして出発の時間が迫つておりましたために、却つて我々のほうからお断りしなければならないような工合で、非常に残念でありましたが、先方の好意は我々深くアプリシエートいたしたのでございます。  そういうような工合でございまして、ソ連赤十字の態度が極めて良好であつたと、こういうようなことから見ますと、それから又ソ連政府の最近の行き方、又帰国者がまだ残つておるけれども、これらの帰国者に対してソ連官憲なり、ソ連人全般が非常に友好的に取扱つてくれておるということを見ましても、今後の引揚げが決して悲観するには及ばないと、協定には何ら謳つてありませんけれども、我々の努力によつて引揚げの見込みがあるのではないかという、おぼろげながらそういう楽観的なほうに傾いている次第でございます。そういう観点からいたしまして、日本赤十字社といたしましては、今後帰国者の御協力、又政府筋から得られました材料を頂きまして、残留者帰国の問題に最善の努力をいたすつもりでございます。  簡単ながら御報告いたします。
  14. 上條愛一

    委員長上條愛一君) それでは御質疑等がありましたら……。
  15. 常岡一郎

    ○常岡一郎君 ソ連に残留を希望せられました方が五十七人あつたとかいう工藤さんのお話がありましたが、そういう方々と実際におつき合いせられました皆さんの率直な気持で、ソ連を非常に愛好するといいますか、共産主義に深く傾倒して、思想的にソ連に愛着を感じ、或いはおることを喜ぶ意味において残られたというような人が相当にあるのでしようか、御存じないですか。
  16. 笠松正治

    参考人笠松正治君) そういう方はないと思うのですが、ただソ連婦人と子供ができたとか、ただそういうような日本的な考えからであります。
  17. 佐野審六郎

    参考人佐野審六郎君) 私もそういう点におきまして非常に気にしまして、極力あちらにいましたときに聞いてみましたのですが、多くは日本に帰つても家がない、親がない、そういうような人たち、又私の感じたのでは、余り優秀な人物ではない、結局働いて酒を飲めばいいという、そういう人が多く残つています。
  18. 藤原道子

    ○藤原道子君 いま一つ、私この間舞鶴でいろいろお伺いしたのでございますが、そのときのお話の中に、手続がこの前の帰国希望者のときの調査に洩れた人たち、辺鄙な地にいて名簿に載せることができなかつたたちが、今度も帰ろうとしたけれども、名簿に記載されていないので残留の止むなきに至つたというようなお話があつたと思うのでございますが、そういう人たちはどのくらいあるようなお見込みでしようか。これは座談会のときにそういうお話があつたと思うのですけれども……。
  19. 服部辰三

    参考人服部辰三君) 私がおりましたミヌシンスク管内では二名でございます。それは詳しいことを申しますと、その方は北海道の稚内の人でありまして、名前は高津一郎と申します。このクラスナヤスク支所におきまして、我々のおりましたミヌシンスク市内とカンスク市内に同姓同名の高津一郎さんがおつたわけでございます。それでミヌシンスクを発ちまして、そうしてクラスナヤスクに参りましたところが、お前の高津一郎ではない、これはカンスクの高津一郎である。だからお前は帰れと、今度のときもあるからと、そう言われて彼は涙を呑んで帰つたわけであります。それからもう一人の三野辰治というのは、てんかんの持病を持つておりまして、出発の際に長期に亘るてんかんを起しまして、どうにもできなくて向うに置いて来たわけなのでございます。
  20. 藤原道子

    ○藤原道子君 集結地まで来ていて、てんかんのために帰れなかつたのですか。
  21. 服部辰三

    参考人服部辰三君) それはクラスナヤスクでございます。私たちはクラスナヤスク州におりましたから、州の中心地ミヌシンスク市に集結したわけでございます。それからナホトカに向つて出発したわけでございます。ですから、クラスナヤスクにおいて二名残つたわけでございます。
  22. 常岡一郎

    ○常岡一郎君 工藤先生にお尋ねいたしますが、今のお話のように、大体一カ所二人、三人ずつ残されたようにこの間も聞きましたのですが、一カ所に二、三人としますと、およそがわかるために、全体としてどのくらいの地区日本人が収容されて、或いはその人たちの集団的におります場所があるのか、それについては別にお話がなかつたようですが……。
  23. 工藤忠夫

    参考人工藤忠夫君) その点につきましては私たちは収容者がどのくらいありますかということは全然存じていないのでございます。恐らく援護庁のほうで帰国者からいろいろの情報を受けられまして、援護庁のほうで調査されているものと思います。恐らく詳しいことは発表されないのではないかと思うのであります。併し第二回に帰られた方々自分の地域に関する限り情報を提供するのであります。第一回は第一回に関する限りそういうようなものを聞きますとそれだけはわかりますが、そのほかにまだ未知のものがありますので、その辺は全般的に総合調査をしてもらわないとなかなかわからないと思うのでございますが、はつきりした数は私のほうではわかりませんです。
  24. 常岡一郎

    ○常岡一郎君 それからもう一つお伺いしたいのですが、ソ連の国民の感情の中に、いわゆる米・ソ対立の状態を我々非常に今日感じますように、ソ連人の感情の中に、或いは考え方の中に、政治感覚の中に、反米的な感情とか考え方というものが相当訓練と申しますか、行届いておるようにお考えになつたでしようか。それをお伺いいたしたい。
  25. 服部辰三

    参考人服部辰三君) 前に聞かれた問題ですけれども、大体何カ所くらいに日本人がおつたかという問題ですが、私ナホトカクラスノヤルスクにおいて本部の手伝いとかいろいろいたしまして、大体三十カ所から三十二カ所に皆が収容されておりました。  それから今聞かれました反米的煽動があるかということに対して私はちよつと述べたいと思うのですけれども、彼らのプラウダ又はイズベスチヤ紙とかいう新聞には堂々と反米的な意思が表われております。もうすべての本を見ても、すべての新聞を見てもあらゆるところにおいて反米的な思想が出ているのであります。
  26. 常岡一郎

    ○常岡一郎君 それには日本に対する反日、それと附随して日本人を悪く考えるようなほうに、或いは日本に対して反日的な考え方といつたようなものの宣伝は出てないのですか。
  27. 服部辰三

    参考人服部辰三君) 彼らは日本という国に対して非常に現在は好意的に出ているのであります。例えば一つの実例をとつていいますと、あの有名な五月一日のメーデーという日に呼びかけというのが書かれるのです。労働者よ、どうどうとかと、いろいろな叫びが書かれるのでありまして、その中に日本の国民に対する、日本労働者に対する呼びかけというものが最近に至つて出るようになつたのでありまして、非常に向うは好意的に出ているものと私は思います。
  28. 堂森芳夫

    堂森芳夫君 工藤さんにお伺いいたしますが、この前私も舞鶴に行つたんですが、あのときも工藤さん来て頂きましたね、参考人にお呼びになつたときに……。そのときのお話によりますと、もうソ連側には今度お帰りになつた四百何十名以外はいないと、こう言つたんでございますか、或いはこれだけは記録があるから帰すことができると、どちらでございましたか。
  29. 工藤忠夫

    参考人工藤忠夫君) それ以外のものについては何ら資料なしと言つたんです。モスクワのときですね、いないとは言わなかつたです。それでやはり私たちも、これはソ連側のよくいえばなかなか好意的な回答ぶりで、今後交渉の余地を残している言葉だと思つて、当時余り深く追及しないで帰つたわけなんです。そういう次第でございます。
  30. 堂森芳夫

    堂森芳夫君 もう一つお伺いしますが、そうすると、今度いらつしたときに、次に又あるのじやないかというような発言は向うからあつたんでしようか、どうなんでしようか。
  31. 工藤忠夫

    参考人工藤忠夫君) そういう問題については先方は一言も言わなかつたのです。これは恐らくたとえモスクワから来ても、そういう問題については何らオミツトすることはしないと思うのです。ただ私のほうで重ねて調査してくれということを依頼しておいたのでございます。若し具体的な資料が集まりますれば、私のほうから今度はこれはどうしてくれというわけで申し上げたいとそういうわけです。
  32. 堂森芳夫

    堂森芳夫君 さつきの米田さんでございますか。あなたはそうするとレニングラードの刑務所ですか、から直接お帰りになつたわけでございますね。そうでございますか、釈放されてから……。
  33. 米田三郎

    参考人米田三郎君) いやそうじやありません。釈放されたのはウラジオストックの監獄です。
  34. 堂森芳夫

    堂森芳夫君 それからレニングラードへ行れたのですか。
  35. 米田三郎

    参考人米田三郎君) いや私はずつと監獄ばかりです。
  36. 堂森芳夫

    堂森芳夫君 それではそれでお尋ねするのですが、この前お帰りの方々は集結してナホトカへ来るまでわからなかつた、わからなかつたとおつしやつたのですね。どういうことになるのか、俺たちは何をしに集結するのか集結するまでわからなかつた。移動命令だけが来て、そうしてナホトカへ来て初めて何かいろいろな模様でこれは帰れるんだ、こういうふうに感じたと、確かにそういうふうに証言されたと思うのですが、今度は皆さんどうも帰れるんだと、初めからおわかりのようであつたと思いますが、そのようでございますか。
  37. 米田三郎

    参考人米田三郎君) 私の場合を申上げます。私は今年の一月二十日にレニングラード監獄から、モスクワ監獄に移されました。二月の八日に呼出されまして、検事から、これは最高軍法検事であります。それから呼出されまして、お前を祖国に帰すということを聞かされました。それから二月の十四日にその監獄を出発して、三月の十五日の夜にウラジオストツク監獄に着きました。翌十六日に釈放されました。十七日船が入る四、五時間前にナホトカに着きました。
  38. 堂森芳夫

    堂森芳夫君 ほかの方々どうですか。
  39. 服部辰三

    参考人服部辰三君) 私の場合を申上げますと、私たちは二十八年の十月の十二日機関のほうから全部が呼出しを受けたのであります。そうしてその後新聞を読みまして、十月三十日赤十字団体が来た。又十一月十九日条約が成立つた。又十二月の二日赤十字社団体が帰つたということを知つていたわけであります。それから後二月の二十六日機関のほうから通知がありまして、お前たちは帰るのだ。君たちが余計に持つているものは売つて、そうして蒲団などを持つて二十八日の午後六時までにここに出頭せよ、こういう命令を受けたのであります。そうして二日間ばかりありまして、案外物を処理するとかいうような余裕があつたわけであります。
  40. 有馬英二

    ○有馬英二君 服部さんにお伺いしたいのですが、ほかの、佐野さんもおつしやつたと思うのですが、初め二十二年ですか、向うへおいでになつて、そうして労役を課せられて、二年間ばかり非常に食物が自分たちに不適当で非常に痩せた、皆栄養不良になつた。そうしてそれによつて多数の日本人がなくなつたというこれは、この前の帰還者の方々からも同じようなことをやはり伺つたのでありますが、どんなような食事を初めはしておられたのですか。黒パンにスープというような非常に栄養価の足らんものばかりでありましたか。或いは自分たちが、服部さんでしたか。自分たちが持つてつたものを食べたとおつしやつたようですが、どなたでしたか。
  41. 佐野審六郎

    参考人佐野審六郎君) 私です。
  42. 有馬英二

    ○有馬英二君 その辺をもう少し詳しくお話を承わりたい。食べ物ですね。初めお出でになつたときに、労働が過激であつたのかも知れませんが、栄養不良で非常に痩せた、そうしてそのほかの人もそれがために亡くなつたというお話でしたが、どんなふうな食事であつたのか、或いはそれが不適当であつたのか、食事です。
  43. 服部辰三

    参考人服部辰三君) 私は二十二年の十月にレエシヨトから六十五キロ入つた第十二強制収容所に入つたのであります。そこの制度は若しか一〇〇%行なつた場合には六百五十グラムパンがあつたのであります。そうしてその六百五十グラムのパンはどういうふうに与えるかというと、朝に三百グラム、そうして夜に、夕食に三百五十グラム、そうして昼食は単なるスープである。それでその場合にカポースト、カポーストと申しますのは野菜でありますが、野菜は本当につゆの中からちよつと顔を出している、そういうものであります。若しか一〇〇%できなかつたものは、不まじめに働らいたとか何とかいう場合は、班長より三百グラムしかもらえないのであります。そうして一〇〇%以上あつたという場合は、八百五十グラムとか九百五十グラムとかと、そういうふうにパンのあれを行う。又スープ以外に大体二百グラムぐらいのカーシヤ、カーシヤと申しますとお粥です。お粥を頂いていたのであります。併し仕事が非常につらいのでありまして、それだけの食物では全然足りないので、自分が経験したところでは、投げてあるいもの皮をつついてストーブの上で焼いて食べたことも何回かあつたのであります。
  44. 有馬英二

    ○有馬英二君 ただそのパンだけですか。或いはほかに豚の脂を食わしたとか或いは又そのほかの脂を食わしたということは、まあいわゆる副食物ですね、そういうことは……
  45. 服部辰三

    参考人服部辰三君) そういうことは、豚の脂とか、そういう副食物は全然ないのです。併し砂糖とかそういうものは僕らのいた所では十五グラムとか、それから脂は結局余計働らいたものはお粥の上にかけてもらうとかしたけれども、その当時は班長がおりまして、露助がおりまして、砂糖を見るということは毛頭考えられなかつたのであります。
  46. 米田三郎

    参考人米田三郎君) 私たちはハイラルにおいて戦闘を十日間やりました。それがために入ソしてからの栄養失調患者というものは非常にたくさん出ました。私たち収容所に大体千七百名の人員がおりましたが、その一割が栄養失調で死にました。併しその数はほかの収容所に比べて非常に少いようであります。約百六十名のものが栄養失調で死にました。そのほか炭坑作業でありましたから、若干炭坑作業による事故で死んだものがありますが、これは十名内外であります。給与のほうは、初めは自分たちが満州から持つてつた糧抹で、牛を何頭持つてつた自分ははつきり知りませんが、大体五、六十頭の牛は持つてつたように思つております。これは約三カ月に食べました。御飯は米ばかり自分たちは初め食べておりました。それがなくなつてからは高梁、燕麦、それから黍、粟、こういう奴をもらいました。これで腹の弱いものは皆参つたわけです。それから二十三年頃、二十三年の暮から作業遂行量に応ずる給与、これが約四カ月ほど実施されました。これはロシア側のほうに聞いてみましたところが、これはウクライナの地方が旱害で作物が取れなかつた。それでどうしてもこういうふうにしなければならんのだと言われました。この給与でも相当皆痩せ衰えましたが、大体ロシア給与に馴れて来ておりましたので、死ぬようなものは出ませんでした。
  47. 有馬英二

    ○有馬英二君 一般の給与の悪いことは殆んどすべての人が言われるのですが、そういう栄養失調に対して何かそれを病気と見なして手当をしてくれるというようなことはないのですか。
  48. 服部辰三

    参考人服部辰三君) 先ずその強制収容所に入りますと、体格検査というものが行われます。それでその体格検査は如何にしてやるかと申しますと、裸にしておきまして、けつの肉を引つ張るのであります。その肉の付き方によつて一級、二級、三級、四級と等級がきまるのであります。それで四級となりますと骨一つで以て皮だけが残つている。そういう状態になりますと、彼らはロシア語で称してオーペイという班に入れるわけです。そうして仕事はさせないで七百なら七百、八百なら八百という給与を与えて、少し肥つたら又出す、痩せたら又入れる、こういう軽く言うと豚みたいなんです。
  49. 常岡一郎

    ○常岡一郎君 お帰りになつて、まあ直感と申しますか、日本感じですね。それとソ連におられましたときの感じ、言い換えますとソ連はうらやましい国だなというように最近は感じられたのでしようか。そうして又日本はこの点遙かになつちやいないというふうに、日本青年、婦女子が余りよくないということについては、だらしないという点はお話があつたようでずが一体日本人の、日本生活日本の明るさと申しますか、楽しさと言いますか、そういう点とソ連との、非常にうらやましいと思われるような点があるでしようか、比較せられて……。
  50. 米田三郎

    参考人米田三郎君) 全然ありません。
  51. 服部辰三

    参考人服部辰三君) 全然ありません。
  52. 佐野審六郎

    参考人佐野審六郎君) 今回帰りましたときに、舞鶴に上陸しまして皆な見ましたのですが、私らを出迎えに来てくれたバスを見まして、皆抑留引上邦人は歓声を上げていました、立派なバスだというので……。日本のバス、自動車のすばらしいのに皆なびつくりしておつたのです。汽車に乗つても同じようでした。私自身も日本に来て、日本が立派になつたというので、実に胸打たれるばかりです。ロシアにおいてその点うらやましいと思うものは何もありません。ただ日本人というか、日本が少し派手でありすぎるのじやないかという感じが非常に強かつたのです。それと私、我が家に帰りまして、いろいろ食事の接待などされましたのですが、日本には食糧の無駄、いわゆる日本人は食い過ぎが多いという感じを非常に強く受けました。というのはロシアでは皆スープ、それからカーシヤといいましてお粥ですが、これが主食で、これを主に食べます。そうしてそのほいろいろな副食物はありますが、非常にテーブルの上に飾られたものはそう美しくない。色が一色ですが、日本の料理を見ますると赤だの何かで、さしみなどをお食べになりますと非常に麗わしい。結局これは余計なものを、食べたくなくてもつい箸が出て食べてしまう。非常に無駄が多いのじやないかということを感じました。この点大いに考えなければならん。ロシアの食生活は非常に着実な生活をしていると思います。
  53. 笠松正治

    参考人笠松正治君) 私が舞鶴に上りまして感じたのは、日本人は紙を粗末にする、大変無駄に紙を使つております。我々のおつた地区では全然紙が道路に一枚も落ちておりません。ところが舞鶴に上りまして感じたのは大変紙を粗末にしている。戦敗国である我々はもう少し考えなければならんと思いました。
  54. 藤原道子

    ○藤原道子君 私はもう一つつた角度から伺いたいのですが、ソ連生活状況は大変よくなつて来たということをしばしばお伺いするわけでございますが、生活状態というのはどういう生活状態なんでしようか。漠然としてわからないので、わかるように説明してもらいたい。  もう一つ日本の男の人は非常に働き者だというのでソ連の女性にもてるということですが、そのために帰りたくても離さないで止むを得ず残つた人があるというようなことを私聞いたのですが、然らばソ連労働者は怠け者なんですか。そういう点についてちよつとお伺いしたい。
  55. 佐野審六郎

    参考人佐野審六郎君) ソ連労働者は実に怠け者です。質問が大きな質問回答が困難なんですが、私のおつたナリンスク地区で道路人夫をして、いろいろな家を訪ねましたが、ロシア生活は先ほど誰かの話にありましたが実に簡単です。どこの家庭に行つてもトランク一つしかない、あと財産というのは寝台、ふとん、それから食器も一人当り一つか二つ、それが一般のいわゆる労働者の生活です。実に簡単な生活をしております。それはいろいろ条件があるのですが、ロシアという国は非常に権力の強い国で、当局の命令に対してはいわゆる必要に応じて人間の移動というものを常にやる。それがためロシア人というものは貯蓄心もなくどうでもいい、今日こうして暮せれば明日はどうなるかわからない、品物を持つてつてもしようがないという実に簡単な生活です。
  56. 服部辰三

    参考人服部辰三君) 二番目の問題ですが、ロシア労働者がどうこうということについて一つ言いたいと思います。日本人の奥さんになつたのロシアの女で誰にももらつてもらえないものが日本人の奥さんになつたので、それは日本人は露助とは違つて飲み歩きもしないし案外まじめなので、日本人の奥さんになるわけです。そんなに日本労働者がどうこうというわけではないのです。
  57. 藤原道子

    ○藤原道子君 それからソ連では社会的な犯罪、つまり泥棒とか人殺しとかそういうような状態はどんなふうですか。
  58. 佐野審六郎

    参考人佐野審六郎君) 先ほどソ連の女性が日本人と結婚することについての御質問でしたが、ソ連人の共産主義というものは最低生活するには確かにいいのです。失業者はありません。併しひとたび自分地位を獲得したりして頭を持上げようとすると、皆から両足を引つばられて叩き落される。そうしたことは私もこの目でよく見ました。結局ロシアは一般の最低生活者のためにはいいのですが、比較的娯楽が乏しいのです。楽しみというと結局酒を飲むのです。シベリヤではその酒もよくアルコールを飲みました。そういつた状態でとにかく働いて酒を飲む、その結果どういうことになるかというと、働きに出なかつたりして労働法違反に触れ、いわゆるサボタージユの刑にひつかかつたりする。それから結局貯蓄心、執着心がなくてその場しのぎの生活をして、何か必要なものが自分の家にないとすぐ隣りの家へ行つて何んでもかんでも持つて来て使う、こういつた泥棒は非常に多いのです。ロシアの家で一番びつくりしたのはどこの家へ行つても三つも四つも鍵が付いておつて、それにしつかりした十センチもある厚い鉄の格子のようなものを張り付けております。そういつた状態なんです。  それからロシアの女性と結婚して残つた日本人の多い地点はカンスクというところで、いわゆるシベリヤ鉄道の沿線でマテリケといつてこれは故郷という意味だそうですが、この地点には非常に女性が多い。男性というものは皆だらしのないためにいろいろな刑を食つて囚人として収容所に収容されてしまう。残つた女は大概自分のおやじは刑を食つてしまつて子供を抱えて自分も働かなければならない、併しロシアでもやはり女手一つでは生活はなかなか容易でない。そこで結局男がなければならん、男がなければどうしても生活できない。こういうことで誰か男がいないかと物色してロシア人はいい女を食つてしまうので、結局あとに残つた子供を二人も三人も抱えた者とか、ロシア人に誰ももらつてもらえない女性とぶつかつたの日本人の酒飲みだつたのです。まあこういうような状態です。
  59. 藤原道子

    ○藤原道子君 重ねて伺いたいのですが、売笑婦の状態はどうですか。
  60. 佐野審六郎

    参考人佐野審六郎君) 只今のお話の結局連続になりますが、淫売婦としては結局いないのですが、この淫売婦との境目がむずかしいのです。結局こういつた生活に困つて食わんがためにどんな男とでも一緒になる、そうして嫌になると二日でも三日でもすぐ別れてしまうというようなことで、性慾を満足したり或いは生活の補いにしているのが一般のソ連労働者のいわゆる最下等の労働女性です。
  61. 藤原道子

    ○藤原道子君 それから社会保障施設の状態はおわかりでしたら伺いたいのです。保育所とか養老院であるとか、そういう問題について……。
  62. 佐野審六郎

    参考人佐野審六郎君) その点は確かに共産主義はいい点だと思います。病院は無料です。それから託児所などの設備も非常によくできております。そうして又ロシア政府もこれにはかなり力を入れておるようです。その点労働組合というものがありまして、これに入つて何年以上働いておれば、病気をした場合には何%というふうに非常にいい制度があります。その点は日本人でも学ぶべき点だと思うのです。
  63. 藤原道子

    ○藤原道子君 元に話は返えるのでございますが、工藤さんからも大変明るいお見通しを伺つて希望を持つておるのでございますが、ただ結婚して残つた人の問題だけが気になるのでございますが、その人たちが満足して必ずしも残つているのではない。帰りたいけれども帰れん状態にあるのだ、一人はどこか帰ろうと思つて途中まで来たらば細君に追つかけて来られて、止むを得ず残らざるを得なかつた人もあつたというようなことも伺つたのでございますが、向うに結婚して残つた人たちは必ずしもそんな……ソ連兵は男はいい女いい女と結婚して行くわけね、残つたのは屑ですね、屑と結婚して残つたというのは非常に困難な希望のない生活をしているのでしようね、その人たちは帰ろうにももう帰れないのかしら、皆さんのように志操堅固で帰つた人もあるのだから、一応は我々女性から見れば志操が薄弱であつたんだと言えば、言えますけれども同胞とすればその点もやはり気になるのですけれどもどうなつておるのですか。
  64. 服部辰三

    参考人服部辰三君) 誰かが前に述べた通り日本のこのたび残つた人は五十何名おるのですが、実に思想的に俺は共産党員がいいからどうだこうだ、そういう何といいますか、高級な頭脳を持つている人は一人もいません。私ははつきり言えます。そうしてたとえ彼らが女に追つかけられようが何しようが、自分の信念を一時の感情に左右するというのは大きな間違いだと思います。中には帰つても誰もいない、帰つて土方をやるのであつたら、こちらで土方をやつたほうがいいという、そういう理由の下で残られたのであります。
  65. 藤原道子

    ○藤原道子君 もう一つ私はまあ留守家族が非常に待つているわけなんですね、便りがなくつても希望を持つているのです。だから残つた人が、そういう人が絶対多数で、帰る名簿の記載が遅れたり、手続きが間に合わなかつたり、集結地に来ても帰れなかつたりした人も相当いるはずなんですね、そうするとそれらの人は家族も待つているわけなんですが、そういう人たちは何らかの方法でわかつた人は帰れるわけですね。まあ帰れると工藤さんも言われたし、私たちも期待しているのです。ところがなお山の中で全然知らない人たちには何らかそういうことを知らせるような方法があるとお考えでございましようか。私この前南方のほうへ参りまして直接見たり聞いたりして来たんでございますが、本当に山の中へ入つている人はもう土地の人と同じ生活をしているために、新聞を読むような機会もないし、ラジオを聞く機会もないし全然社会のことがわからないのですね。そういう人たちソ連にはいらつしやると思うのですけれども、そういう人たちに何らか知らせる方法等がお考えになれましようか。全然ソ連というものが余り広いので私たち想像がつかないので、お帰りになつた方に伺うより方法がないわけなんです。
  66. 服部辰三

    参考人服部辰三君) この残留されておられる方々の中にロシア語がよく話す方がおられると非常に結構ですけれども、一人りぼつちで村にいるとか、それからロシア語が話せないので話せないのでラジオが聞けない、又新聞も読めないという人が残つておるのじやないかと思います。それで若しかそういう場合においてこちらの留守家族の方が一本なり二本なりの手紙をウラジオの郵便箱一〇〇の一を通して出されたほうがいいんじやないかと思います。そのほうが彼らの行動を待つより却つてそのほうがいいんじやないかと思います。
  67. 藤原道子

    ○藤原道子君 重ねて今度は工藤さんにお伺いするのでございますが、日赤としてこんなにラジオが向うじや自由に引けているらしいのですね、山の中に行つてラジオがあるというのですが、ロシア語放送では今言うように聞くことができない。何らか赤十字同士の御交渉を願つて日本放送というような方法をお願いしてみるというお考えはないでしようか。若しお願いをしたとして、それが受入れられるという可能性はないのでしようか、どういうお考えですか。
  68. 工藤忠夫

    参考人工藤忠夫君) 今、突然の示唆でございまして確答はできないのでございますが、いろいろの情報を聞きました暁において、そのほかに手がないということでございますれば、申込んでみることも一案かと思いますけれども、この点はなお研究いたしましてお答えしたいと思つておるのです。
  69. 藤原道子

    ○藤原道子君 政府のほうへお伺いするのですが、私この点なぜ申上げるかというと、南方へ参りましたときに、本当にそういう人がいたのです。ですから私がいたときなどは全然日本がこういう状態になつているということすら知らない人たちがいたのです。それでもう内地の人も死んだものと諦めておつた。それで私が行つて初めて連絡がついたという人が、広島が原爆でやられたのだから帰つてもお父さんもお母さんも死んでしまつているだろうというので現地へ残つている人があつた。この人にも会つたものですから、私は帰つてから連絡いたしましたら、御両親とも生きておつたのです。それで連絡がつきまして喜んでおられたという例もあつたのですが、ソ連ではこういう自由が許されておりませんので、若しできるならば日本放送というようなことが許されれば大変有難いと私は思うのです。ですから日赤とも御相談なさいまして、そういう方針も一つ考慮して欲しいのですが……。
  70. 木村又雄

    説明員(木村又雄君) 誠に御尤もな御意見でございまして、御趣旨の通り日赤とも御相談いたしまして善処いたしたいと思つております。
  71. 西岡ハル

    ○西岡ハル君 私、今朝のラジオで伺つたのでございますが、あちらのほうで一年半、山の中へ引込んでおられまして、こちらへ帰つて来られた方のお話でございますが、一年半樵をした、樵をする前は三年、二年と刑務所にぶち込まれてやつと解放された生活ができた。その樵をなすつている方のお話でございましたが、ラジオも新聞も聞けないで何もわからなかつた。あなた方が我が家に帰つて来て、今日のその話を伺いまして、又今、藤原先生のお話を伺つておりますと、そういうところもあつたということ、それから又団体でいられるところは非常に高級なラジオを購入して、共同で購入されまして、日本ラジオをよく聞かれる、こんな話を伺つた。それからお帰りになりました方のお話を伺つておりまして非常に私は嬉しく、非常に指導者を得たような気がいたします。日本へ帰つて来られまして、感じられたことを、殊に率直なお話を伺いまして、本当に敗戦日本として非常に華美に流れ、非常に無駄な生活をしているという……、帰つて来られたその瞬間のお気持を今後とも人間はやすきに流れるというのが常でございますが、只今のお気持を永久に一つ今の日本の人たちを御指導の意味で一つ大いに普及して頂いて、できるだけ日本再建ために無駄のない生活をすることに御尽力を願いたいと私はお願い申上げたいのでございます。
  72. 上條愛一

    委員長上條愛一君) それでは大変長時間有難うございました。  帰還せられて間もなくお疲れのところを、又本日は本会議の関係で大分お待たせいたしまして恐縮に存じました。  只今ソ連生活日本の感想、引揚の情勢等いろいろ私どもにとつて参考になるお話を承わりまして深く感謝をいたします。  なお、今後の引揚につきましては、どうぞ帰還せられた皆様、赤十字、引揚援護庁等と御連絡を願いまして、なお未帰還の同胞の方々が帰還できるようなふうに御協力をお願いいたしたいと考えるのであります。私ども厚生委員会といたしましても赤十字、引揚援護庁等、その他政府当局とも連絡をいたしまして、できる限り早く未帰還の方々がお帰りになれるようなふうに努力をいたしたいと考えております。  なお皆様がお帰りになりましてから後の生活その他等に関しましても、いろいろの御事情があろうと思いますが、日本はいろいろな法律、政策もありまするので、こういうことについても腹蔵なく御連絡を願いたい、こう思うのであります。  本日は大変有難うございました。
  73. 藤原道子

    ○藤原道子君 私はこの際政府一つお願いしておきます。今までの引揚についてやはり援護は余ほど努力はされておるけれども、まだ遺憾な点が多々あると思うのです。お帰りになつた方が、殊に今年度の緊縮予算の影響もあつて、就職その他が非常に困難じやないかと思うのです。折角祖国の温い出迎えに会つて心ふくらむ思いでおられるときに大きな失望を与えることのないように、一つ格段の努力をして頂きたい。大体の方が家族があられるようでございますけれども、若し家族等がなくて住宅等で非常にお困りになる人も中にはあるのだろうと思いますので、そういう点についても今度は刑務所から解放されて市民生活も送つて来られた人たち、相当な人たちがあるのでございますから、一つその点は十分、失望した結果を考えるときに私たちも十分思いをいたさなければならない点があるのじやないかと思いますので、十分一つ御考慮を願いたい。  一番気になりますのは、樺太からお帰りになつた人、この人たちは北海道に落ちつかれても、仕事もなければ家もないという人が大変多いのだろうと思いますので、北海道に対しましては特に私は御考慮を願いたいということを最後にお願い申上げます。  それから引揚の方たちには、いろいろ御苦労様でございました。なおいろいろ伺いたいこともございますが、この関すでに衆議院のほうでもお聞きになつておりますので、大体総合すれば私たちも了承することができますので、今日は私は引揚皆様方には感謝し、政府には強い要望をいたしまして、私の質問を終ります。
  74. 上條愛一

    委員長上條愛一君) それでは本日はこれで散会いたします。    午後四時三十四分散会