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参考人(
工藤忠夫君) それでは第二次
帰国に関しまして
日本赤十字の
代表といたしまして
ナホトカに
参つてソ連赤十字の
代表と接触いたしました経緯を簡単に御報告いたします。
御存じの
通り、昨年締結いたしました日
ソ両国赤十字社間の取極めによりまして、千二百七十四名の
日本人が送還されることにな
つております。そのほかに千四十七名の戦犯者が残留しておる。その他の
日本人については何ら資料がないということで、未解決のままにな
つておるのでございます。この千二百七十四名のうち、第一回で八百九名、一名は残留を希望いたしまして、八百十名が第一回で
帰国ということにな
つております。従
つて第二回に
帰国すべき人の数は四百六十四名となるわけでございます。この四百六十四名は、第一回が終りまして十五日乃至一カ月以内で送還できるということを口頭で
ソ連の赤十字の社長が
モスクワ会談で申されたので、我々も皆さんが正月は
日本でしてもらえるように努力したのでありましたが、なかなか思うように行かないのでございます。種々交渉の結果、二月十八日に至りまして
ソ連の赤十字社から、三月十五日頃
ナホトカに集結の見込であるから、
日本船来航の期日については追
つて通知するという
回答があ
つたのでございます。三月十五日に集結と言いますから、大体三月末か四月の初め頃に帰還できるのじやないかと思
つておりましたところ、三月の七日に至りまして、三月の十七日に船を廻してもらいたいという電報が参りました。この電報に従いまして、私
たちは三月十四日に興安丸に乗りまして門司を出帆いたしまして、十七日に
ナホトカに到着したようなわけでございます。
ソ連の赤十字の
代表は、沿海州の赤十字管区の事務総長のサブチエンコという四十六、七歳の婦人でございまして、第一回の
帰国の際の
ソ連赤十字の
代表であ
つたのでございます。第一回の場合は、
モスクワの副社長のシヤロノフ氏がわざわざ
モスクワか来られたのでございましたが、今回は現地のウ
ラジオにおられるサブチェンコ女史とその補佐役が一人で、
モスクワからは
代表者が来なか
つたような次第でございます。三月十七日の午後六時半頃、この桟橋の倉庫の裏に貴賓車を廻してくれまして、その貴賓車で会見したのでございました。極めて慇勲鄭重に我々をもてなしてくれまして交渉に入
つたのでございましたが、一番に今回帰すべき人のリストをお見せするとい
つて示した数が四百十五名であ
つたのでございます。うち女が九名、そのほかに子供が五人お
つたのでございます。従
つて正式に
帰国の数に入るべき数は四百十五名でございましたが、我々の予期しておりました四百六十四名に四十九人も不足しておりますので、これは一体どういうことかと
言つて説明を求めましたところ、現に集結中であるので、今夜中にも数人は到着するかも知れない、若し到着すればこの数の上に加えることにしたいというようなことでございました。併し確信ある
回答でもございませんし、又四百六十四名には到底達するようにも見えなか
つたのでございますが、我々といたしましてもこの数字に拘泥していつまでも待つということはできない、そういうわけで集ま
つているリストの人数を受け取ることを承諾したのでございます。これは後に乗船後にわか
つたことでございますが、
帰国者からいろいろ承わりまと、五十名以上の
方々が
ナホトカに集結するまでの会合
地点、若しくは
ナホトカにおいて
帰国の意思を放棄して
ソ連に残留することを希望した方が五十名以上もあ
つたということでございまして、若しそうだとすれば
ソ連はやはり協定の数は一応出そうといたしたということが推測せられるのでございまして、この点については更に援護庁のほうで詳細
調査してもらいまして、若し
ソ連側に折衝する必要がある場合に、その理由も質したいと思
つておるのでございます。併し聞いたところだけでは、強制的に残留させられたというよりも希望で残留した、殊にその多くの人々は
ソ連の婦人と結婚して子供まで成しておるというような
家庭の事情による人が多か
つたようでございます。こういう人は勿論
帰国の希望もあ
つたのでございましようが、それよりもなお個人的な理由で残留するほうがいいと見たものだと思います。
引揚業務は午後十時頃から十八日の午前四時半までかかりまして、非常に業務が長くな
つたのでございますが、運搬するトラツクの数が非常に少か
つた。トラツクに乗せる人の数が又少か
つた。その上に
引揚者が
ナホトカの、マガジンと
言つておりますが、国営百貨店だと思いますが、そこでいろいろな買物をされて、そこで
自分で持
つて行
つたものを税関で検査してということで非常に手続が長くかかりまして、僅か四百六十二名ばかりの人々が四時間半もかか
つて乗船を集結したような次第でございます。それで四時半に終りまして、直ちにこの
帰国者のリストと引渡し調書の署名を了したのは朝の五時頃でございました。
これより先、私
たちはこの際
帰国の一般問題について何とか
ソ連赤十字のほうに我々の意思を通じたいと思いまして、あらかじめ書物にいたしました覚書を先方に手交すると共に、その説明をなしておいたのでございます。その第一は、千四十七名の戦犯者の釈放並びに早期帰還についての要請でありました。御存じのように、戦犯者は先ほど
帰国者から言われましたように、刑法第五十八条にかか
つておりまして、刑期は最低の人が二十五年という刑期に処せられておりまして、若し刑期の満了を待
つておるならば、この先何年待
つていいか、少くも二十年は待たなくてはいけないのでございます。これでは本人はもとより留守家族の人に対しても相済まない。
ソ連赤十字において人道的精神並びに
ソ連政府の平和政策の線に沿
つて減刑の
ために尽力してもらいたいということを申入れておいたのでございます。
それから今回の
一般人並びに戦犯者以外の人々の問題については、
ソ連の赤十字は資料がないと
言つておるのでございます。
モスクワにおいて我々が出発した以後何らか資料が出て来ておるならば、その資料を頂きたいと共に、今後とも
日本人の存在について
調査をしてもらいたい。そしてこれらの人
たちの早期帰還について尽力してもらいたいということを申入れしてございます。それが第二点でございます。
第二点は、
モスクワにおいて約束しました消息不明者の安否
調査でございます。これについても今回第二回の
帰国者として帰られました方からいろいろ情報を聞きまして、
残留者の
名簿を整理いたしまして、消息不明者についても、又リストを作りまして
ソ連赤十社のほうに最終的な
調査を依頼するから御協力願いたいということを申入れておいたのでございます。
それから第四番目は、死亡者のリストをもらいたい。死亡者の数は前回
モスクワで一万二百六十七名と
言つておりましたので、その際
名前はもらえなか
つたのですが、ついでに本人の
名前、死亡時の年齢、場所、死亡の原因、その死亡当時の階級、本籍そういうようなものを詳しく申しまして、詳しい事情を知らしてもらいたい、こういうことを申入れました。
第五番目に今後の協力についてこの上ともよろしく願うという五点を先方に出しておいたのでございます。御存じのように現地の
機関でありますから、なかなか責任ある
回答を期待するということはむずかしいのでございまして、どうしてもこれを
モスクワの本部に伝えてもらいたい。本部から責任ある
政府筋に交渉して、我々の希望を実現するようにしてもらうように措置することが必要と認めまして、わざわざ書物でや
つた次第でございます。先方はこの要請を
政府の責任に属する事項として遅滞なく
政府に伝えますということを確言しております。これが我々が先方に要請した事項でございます。
今回の
帰国者は先ほど報告がありましたように、前回殆んど大部分の方が戦犯者として
収容所に
労働しておられ、直ちに
帰国された方とは違います
終戦直後いろいろの理由で
ソ連の五十八条以外の廉で刑に処せられ刑期を満了せられた後、
地方人として
ソ連の
各地に散在して
労働しておられた方方でございます。東はマガダンから西はアルマアータ、タシケント、ザツクスタンというような所におられまして、南はミニチンスク、北はナリンクスというように、殆んど
ソ連の全地域に分散せられてお
つた方々でございます。その条件は初めは非常に苦しか
つたけれども、スターリン政権の末期、殊にマレンコフ政権にな
つてから、消費物資が出廻
つて給与の
状況も悪くはない。従
つて生活状況も漸次改善しつつあるというような
状況でございまして、こういう点におきまして第一回の
方々と第二回目の
方々とは、
ソ連における条件が非常に変
つておられるところが特色であると思います。
いずれにいたしましても非常に
言葉に言い尽せぬ苦労をされまして今回故国に帰られたのでございまして、
日本赤十字社といたしましてもこれらの方方が就職の問題或いは住宅の問題、
日本に帰られて
ソ連の出発前における条件よりも
日本に帰
つたほうがよか
つたというようにせられるように、議会、
政府筋に善処方を御依頼したいのでございます。
それからこの
ソ連赤十字社の我々に対する
態度でございます。私
たちが昨日
モスクワに行きましたときも、極めて友好的でございまして、会談の零囲気も国交のない国人に対するような
態度とは見えなか
つたのでございますが、今回
ナホトカにおきまして先方の
我我に対する待遇振りを見ますと、
モスクワにおけるよりも更に友好的であ
つたというような
感じがいたすのでございます。会談が終りまして茶菓の饗応にあずかりましたが、ウオツカ、コニヤツク、シヤンペン、そういうようなもの、それからクリミヤの蜜柑まで出されて、極めて友好的に我々を処遇され、その
態度も全く友好国の国民に対するような
態度でございました。それからいろいろの我々に対する入港の際の措置、出港の際の便宜のような問題につきましても、前回におきまするのとは非常な相違でございます。入港の際も、港の真中に着くまで殆んど誰もや
つて来ないというような
状況でございました。出港に際しましては、
ラジオのアンテナから写真機まで出発前に全部封印を解いてしま
つてくれまして、極めて我々を信頼した
態度を示されました。なお十七日の会談の際に、過去数回
引揚船が来たけれども、
ソ連の土に足を置いた
日本人は殆んどいない。何とかこの機会に
ナホトカの見物の
ために上陸を許されたいということを申入れたのでございましたが、翌日に至
つて船員全部の上陸が可能であるという親切な申入れがありました。ところが、折角申入れておきながら、我々のほうは乗船業務が非常に遅くなりまして、みんな疲れておりましたということ、それからすでに乗船を終りまして出発の時間が迫
つておりました
ために、却
つて我々のほうからお断りしなければならないような工合で、非常に残念でありましたが、先方の好意は我々深くアプリシエートいたしたのでございます。
そういうような工合でございまして、
ソ連赤十字の
態度が極めて良好であ
つたと、こういうようなことから見ますと、それから又
ソ連政府の最近の行き方、又
帰国者がまだ残
つておるけれども、これらの
帰国者に対して
ソ連の
官憲なり、
ソ連人全般が非常に友好的に取扱
つてくれておるということを見ましても、今後の
引揚げが決して悲観するには及ばないと、協定には何ら謳
つてありませんけれども、我々の努力によ
つて引揚げの見込みがあるのではないかという、おぼろげながらそういう楽観的なほうに傾いている次第でございます。そういう観点からいたしまして、
日本赤十字社といたしましては、今後
帰国者の御協力、又
政府筋から得られました材料を頂きまして、
残留者の
帰国の問題に最善の努力をいたすつもりでございます。
簡単ながら御報告いたします。