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1954-10-04 第19回国会 参議院 厚生委員会 閉会後第5号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十九年十月四日(月曜日)    午前十時十八分開会   —————————————   委員の異動 九月十五日委員小笠原二三男辞任に つき、その補欠として湯山勇君を議長 において指名した。 九月二十四日委員横山フク辞任につ き、その補欠として谷口弥三郎君を議 長において指名した。 本日委員前田穰辞任につき、その補 欠として高橋道男君を議長において指 名した。   —————————————  出席者は左の通り。    委員長     上條 愛一君    理事            常岡 一郎君            竹中 勝男君    委員            榊原  亨君            中山 壽彦君            高野 一夫君            高橋 道男君            湯山  勇君   事務局側    常任委員会専門    員       草間 弘司君    常任委員会専門    員       多田 仁己君   参考人    帰国者集団長西    陵地区華北交    通乗務員    湯浅 質治君    北京地区軍医    大尉      吉沢 国雄君    西陵地区陸軍    上等兵     桑島 璋八君    上海地区一般邦    人       石和 清子君    日本赤十字社社    会部長     高木武三郎君   —————————————   本日の会議に付した事件 ○小委員長報告社会保障制度に関する調査の件  (中共地区引揚げ問題に関する件) ○派遣議員報告参考人の出頭に関する件   —————————————
  2. 上條愛一

    委員長上條愛一君) それではただいまより厚生委員会を開会いたします。  まず社会医療関係の諸問題に関する小委員長報告をお願いいたします。
  3. 中山壽彦

    中山壽彦君 私より御報告を申し上げます。  去る八月十一日開催の本委員会におきましては、特に社会医療関係の諸問題に関する小委員会を設置せられ、私ども五名の小委員が指名せられたのでありますが、八月十三日の第一回の小委員会におきましては、小委員長中山委員、副小委員長山下委員が互選せられ、まず現下の容易ならざる問題となつておる社会保険医療上の諸問題について検討を加えることになりました。自来小委員会は八回にわたり開催せられましたが、この間厚生当局を初め、参考人として広島県医師会長松坂義正君、日本医師会長黒沢潤三君、日本医師会常任理事太田清一君、非現業職員共済組合理事長今井一男君、健康保険組合連合会会長宮尾武男君、日本病院協会原価計算委員長神崎三益君を招致して説明を聴取し、また平田国税庁長官大蔵当局より社会保険収入に対する課税問題について所見を聴取して、重要事項に対する基本的調査を完了したのでありまするが、その詳細につきましては毎回速記を付してありまするので、何とぞ御覧を願います。  小委員会は本調査に基きこれを総合的に検討を加えた結果、今回一応の所見に到達しましたので、ここに次の通り報告申し上げる次第であります。    社会保険における医療問題に関する報告書   近時社会保険における医療上の諸問題につき保険医の間に容易ならざる形勢を招来し、保険制度運営に対し一大暗影を投ずるは勿論、国民医療に関して甚だ憂慮すべき状態にあることを認め、参議院厚生委員会は、特に「社会医療関係の諸問題に関する小委員会」を設置し、数次委員会を開催して種々検討を加えつつあつたが、今回左記の通り小委員会所見を決定したので、政府当局及び関係機関の速かなる善処要望するものである。      記一、中央社会保険医療協議会運営    現行健康保険制度において、保険者、被保険者療養担当者及び学識経験者が重要問題の処理に当つて隔意なき意見を交換し利害相反する立場を調整して協力の実を挙げる法的機関はただ一つこの医療協議会あるのみである。若し、この協議会運営を誤り、関係者をして対立激化せしめ、協調の場をして却つて激突の場となさしめるようなことがあつて健康保険制度上非常なる弊害をかもし、甚大なる損害を惹き起すことになるのである。公益を代表する委員の任務は重大であると共に、協議会運営を司る当局責任は実に容易ならずと言わねばならない。    我々は、本協議会運営につき次の通りこれを改善すべきことを要求する。   1 議事規程を定めること   2 会議に附すべき議案は少くとも二週間以前に委員に配布し検討の余地を与えること   3 保険者監督者同一立場を悪用しないよう努めること   4 利益代表委員に特に関係ある議案については、その利益代表委員意見を十分開陳させること   5 答申案について無理に多数決を用いることは無意味であるから、多数意見小数意見を明らかにして答申するよう努めること   6 協議会の構成については、将来保険者代表及び公益代表の数を減じ、療養担当者代表委員の数を増加すること(地方協議会についても同じ。)  二、点数引下げ交渉について今回抗生物質等一部薬価の値下りに伴い、点数引下げを実施するに当つて療養担当者との交渉経過検討して見ると療養担当者側から単価問題、点数不合理是正問題、課税問題の三点を指摘し、関連して政府善処要望したところ、政府当局はこれを容認し、相当相手方をして希望をいだかせるよう印象づけたことは疑いもない事実である、然るに政府当局はその後において、現実に口約を実行しようとせず、うやむやに問題の処理を回避しようとしておる。   かくの如きは市井の小売といえどもあえてなさざるところであつて政府当局は速やかに猛反省をしなければならない。  三、単価問題の検討現行単価は言うまでもなく暫定単価であつて関係条件を伴うものである。   然るに単価の要素たる諸情勢の変動著しく、殊に課税問題の解決を不可能とする今日、速かに単価合理的解決を図るべきである。  単価の決定に当つてあながち保険経済を無視することはできないが、それだけの理由で単価を不合理のまま放置することは許されない。単価の改訂が直ちに医療費に影響することは勿論であるが、適正なる診療報酬の改正は同時に正確なる診療報酬請求と直結し、仮に二割の値上りとなつても、請求審査実状から見て必ずしも二割の支払増加と即断することはできない、我々は保険者療養担当者との相互信頼相互協力の成果があらゆる面に合理的に実現することを期待するものである。四、社会保険診療収入に対する課税問題社会保険診療報酬に対する課税一般課税と同様に取扱うとの方針にするならば、厚生大臣の告示する診療報酬単価は、これと見合つて改訂しなければならない、併し課税政策上、特に社会医療に顕著な公益性を認めるならば、又は国民医療政策上、社会医療実態改善を重視するならば、更に収入源の全部を把握し得るという現行社会保険診療報酬支払制度実状を認めるならば、社会医療収入に対する課税標準苛敬謙求に陥らないよう留意することは喫緊の急務である。  併しながら、これを昭和二十八年度のごとく、徴税行政上の運用にのみ待とうとするのは依然不徹底のそしりを免れない、よつて将来明確にこれを法制化し、合理的に解決する必要がある。殊に診療設備に対する固定資産税の減免は速かに断行しなければならない。五、社会保険医制度について現下社会保険運営上に横たわる不明朗性を一掃するためには「保険医」をして社会保険制度に対し、全面的に協力せしめ得る体制を確立せねばならない、これがため保険医の位置をして保険者に接近させ、同時に被保険者の味方たらしめ、現在のごとく保険者と被保険者の両者から挾撃を受けるような立場から速かに脱却せしめる必要がある。これがために次のような問題を考慮する必要がある。 1 保険医国家公務員に準じて取扱うこと 2 保険医はすべて厚生大臣が委嘱し、若干の委嘱固定給を支出すること。 3 不適当な保険医対策を考究すること 4 保険医診療所公的医療機関に準ずる取扱いをなすこと 5 診療設備改善拡張等ため医療融資制度を確立すること 6 優良社会保険医表彰制度を確立すること 7 支払制度を改善すること 8 日本医師会に対する要望この際我々は、社会保険療養担当者の所属する日本医師会の態度について若干の要望をなさざるを得ない。  日本医師会(以下「日医」という)が従来保険医代表団体として公認の立場にあつたことは言うまでもない。  即ち医療協議会出席すべき委員日医の推薦にかかわり、政府は問題の解決に当つてはこれらの代表者と折衝して来た。  最近急進的傾向保険医協会が各地に設立されたようであるが、現在のところ日医内の単なるグループと理解され、未だ対外的独立団体となるに至つていない。  然るに日医内部の不統制は、山積する社会医療面の重要問題の処理を遅滞せしめ遂に今日の幹部の弱体と、対策の貧困をもたらし、今後懸案解決ためには果して、現状を以てして適当であるか否か、多くの疑問をいだかざるを得ない。  我々は穏健中正なる保険医の、而も社会保障制度ために、積極的協力目的とする新団体必要性さえ叫ばれている現状に鑑み、此際、伝統に輝く日医が右の趣旨を取入れ善処することを期待し、進んで「医師会法」(歯科医師会法薬剤師会法亦同じ)の立法を考慮したいと思う。以上であります。
  4. 上條愛一

    委員長上條愛一君) ちよつと速記をとめて。    〔速記中止
  5. 上條愛一

    委員長上條愛一君) 速記をつけて下さい。  当小委員長報告質疑は次回に廻すことに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  6. 上條愛一

    委員長上條愛一君) 御異議ないと認めます。   —————————————
  7. 上條愛一

    委員長上條愛一君) 次に、中共地区引揚問題に関する件を議題といたします。派遣議員の御報告をお願いいたします。
  8. 榊原亨

    榊原亨君 今回中共地区引揚状況調査するため、私と湯山委員が派遣されることに決定されまして、両名は多田専門員を同行して、去る九月二十六日舞鶴市に出張し、翌二十七日興安丸舞鶴に入港帰還いたしました引揚者を出迎え、その状況調査いたして参つたので、簡単に概況を御報告いたします。  今回の引揚者は五百六十六名で、去る九月二十三日塘沽を出帆いたしました興安丸は途中第十五号台風に遭遇し、非常な難航を続け、予定より数時間遅れて二十七日午前十一時舞鶴に入港いたしたのであります。  今回の引揚人員総数は五百六十六名で、引揚者五百五十八名と海賊船に襲われて、中共政府に保護されていた沖縄漁民八名が送還されて来たのであります。  引揚者の大部分はいわゆる戦犯釈放者で、その数は四百十七名でありますが、その他に中共地区からの一般邦人が百四十一名引揚げて来ました。男女別に申しますと、男が四百八十八名、そのうち子供は二十七名、女が七十八名、そのうちに子供が二十四名、一人は船中で出生したのであります。  戦犯釈放者の大部分は旧支那派遣軍所属の元軍人軍属であり、もとの階級は将校が非常に少く五名で、准士官下士官が九十三名、兵が百二十八名、軍属が七名、階級不明の者二十九名であり、陸軍関係がほとんど全部で、海軍関係はわずか二名であります。この人たちは終戦後強制的に残留させられ、閻錫山軍に加入したため戦犯に問われ、河北省北部西陵というところに収容されていたのでありますが、今回釈放されて帰国したのであります。その辺の事情等については、あと参考人の方から説明があることと存じます。なお、引揚者中に、入院を要する病人が十六名おりました。それから邦人の遺骨十六体が引揚者によつて持ち帰えられておりました。  私たち興安丸が入港すると同時に、同船に行つて各船室を訪問し、また引揚者が上陸して引揚寮に入つたあとマイク放送によつて参議院を代表して引揚者に対してあいさつを行い、寮内を回つて慰問し、さらに引揚者代表七名と両院議員が約一時間半ほど懇談して、中国における生活状況等につき説明を聴取いたしたのであります。今回の引揚者は非常に明朗であるように見受けられたのでありますが、今後の内地における生活について不安を抱いているようであります。すなわち郷里に帰つても、一般から白眼視されるのでないかとおそれ、就職問題等についても相当心配しておる模様でありました。  以上簡単でありますが、御報告を終ります。
  9. 上條愛一

    委員長上條愛一君) それでは次に、御出席を願つております今回の帰国者湯浅質治君、吉沢国雄君、桑島璋八君、石和浩子君及び日赤社会部長高木武三郎君の各位から、今回引揚げ状況及び抑留中の状況残留者状況等をお聞きするため、いずれも参考人として本日の委員会において意見を聴取いたしたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  10. 上條愛一

    委員長上條愛一君) 御異議ないと認めます。それではただいま申し上げました五人の方々参考人に決定いたしました。  この機会に厚生委員会を代表いたしまして一言ごあいさつを申し上げます。参考人方々には、長い間の御労苦の末お帰りになつて、しかも帰朝早々お疲れのところ御出席を下さいまして誠にありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。本日は突然に御意見発表をいただくので、誠に申しわけございませんが、抑留前及び抑留後の状況残留邦人状況をできますれば概数、今後の見通し等今回の引揚状況その他参考となるべき事項等について御意見発表をお願いいたしたいと存じます。また、赤十字社高木社会部長からは、今回の引揚状況について概括的に御意見発表をお願いいたしたいと存じます。時間の関係もございますので、一人あたり十五分以内にお願いいたしたいと存じますので、何とぞ御了承を願います。  なお、各委員方々にお諮りいたしますが、参考人全部の方々意見発表が済んでから御質疑をお願いいたしたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  11. 上條愛一

    委員長上條愛一君) 御異議ないと認めます。  ではまず帰国集団長湯浅質治君からお願いいたします。
  12. 湯浅質治

    参考人湯浅質治君) 自分は今次第八次の興安丸引揚者湯浅質治であります。  今回の引揚者は四百十七名の元日本軍人とその他の一般居留民、それから海賊船に襲われた漁夫八名で、五百六十六名です。特に私たち四百十七名、これはすでに中国政府から発表されておりますように、また日本の各新聞が発表しておりますように、旧日本軍人であり、また日本では戦犯と申しております。これに対して私たち舞鶴に上陸し、当然政府当局としても、私たちの身柄は復員者である、このように考えて来ました。しかし政府当局としましては一般民留民である、このように受入態勢をとつておりました。これに対して私たちは納得が行きません。ですから実際の当時の状況をここにお話しまして、私たちの身分がいかなるものであるかということを決定していただきたいと思います。  当時の状況を申しますと、昭和二十年九月以降から昭和二十一年五月まで南同蒲線介休—北同蒲線折口鎮までの間及び石太線楡次—娘子関までの間に部隊を配置しておりました。将校以上はこの当時において元芸者を軍属として抱き、下士官兵に対しては無給で警備戦争をさせておりました。当時所県地区には独混三旅楡次地区には一一四師団司令部及び八四旅団司令部平造地区には八三旅団郭県地区には独混一一四旅団陽泉地区には固旅団がおりました。  次に昭和二十年の十一月から十二月、これは期日は不明確です。軍命令として特務団編成命令を出しました。折県に第二団、陽泉に第五団、楡次に第三団、太谷に第四団、太原に総指揮所及び第二団、通信、工兵の各営一、この準備工作として各大隊より将校下士官、兵の中で雄弁にして学歴のあるものを選出して残留ため思想教育行なつた。彼らはきわめて極秘裡残留教育を各中隊に潜入して行なつた。われわれ全員の復員は不可能だ、少くとも復員を援護するだけの兵力を残さなければ、われわれだけでなく邦人引揚もできない、このように言われております。そして皆のために若い者は犠牲になれ、そして祖国復興ため大陸の礎石になれ、このように言われております。  編成としては独混三旅団中隊長以下全員強制的に残された、中隊長はこのように言いました、「おれが帰らないのだからお前たちも帰れない、帰るというやつは国賊だ。」その証拠には昭和二十二年の晋中作戦後においても、まだ軍士第一団では中隊長殿曹長殿と呼んでおりました。特に一一四師、楡次の八四、平造の八三を含む旅団では第三団の編成を始めたが、人員が足らず、至る所で脅迫、欺瞞、テロ手段が行われた。太谷三八二大隊迫撃砲小隊長曹長は……、氏名を忘れましたが、残留を強制された不満から大隊長室に手榴弾を投げ込んだところ、翌日副官が酒を呑ませ、酔うと滅多打ちにし、雪の中に放置し小幡軍医中尉が注射して殺してしまいました。  この完成は、特務団として太原に総指揮所、これは元泉少将山岡少将岩田少佐工兵営は成瀬、通信営は日裏、折県の第二団は今村方策大佐陽泉の第五団は、これは名前を忘れました。楡次第三団は大庭、太原第一は五閑少佐、それから南段柏第六団布川直平鉄道護路総隊総指揮所太原城野中尉太原古谷隊楡次井上隊の各営がおりました。  その後の状況昭和二十一年夏国共合作問題が発生した。これには三人小組アメリカ兵が一、共産軍が一、国軍が一で軍事境界線検定云々山西にも来ました。当時特務団護路隊は三人小組に発見されると、国際問題になるおそれがあるから、日本人は一人も太原に出てはならないと言うて、中国の服または山に身をかくしました。それから昭和二十二年夏、陽泉中共軍に包囲されたため急援に行く途中、盧家荘でたたかれ敗退し、総指揮元泉はこれによつて失脚しました。その後独立暫編第一総隊の司令官に元泉、今村岩田などの勢力が割れまして、結局もめて、今村司令官になりました。晋中作戦で五分の三を失つたため、軍一、軍二、教一、教二、教三に改編し、主要ポスト日人、他は華人新兵でありました。その後東山作戦で壊滅し、砲兵団に改編し、吠虎山におりました。それで昭和二十三年元旦吠虎山に小隊長以上を集合させ東方を遥拝させ、「何も言わずに国のためだ、おれと一緒に死んでくれ、命をおれにくれ。」このように今村大佐は言われておりました。そして昭和二十四年三月二十四日投降と同時に今村方策大佐は服毒自殺しました。  さらに具体的な材料としまして、これは中村武材料陸軍中佐林豊及び同副総隊長元第四独立警備隊第二二大隊長陸軍少佐五味丑之助命令を受け北京に出張し、日本政府及び日本軍隊によつて組織されていました日本政府連絡所北京出張所に行きまして、同出張所長恵師団戦車師団参謀長永山中佐との連絡特務工作命令された。北京日本連絡所永山中佐以下四、五名で編成された、婦人秘書一名、昔のままの当番兵を置き、その他事務員を置いていました。本連絡所は旧日軍及び日本政府の直接の命令指揮下にあり、旧日本軍人復員工作と、特に彼の持つ秘密工作戦犯釈放工作及び戦犯の隠匿であつた。私が最初永山中佐に会つたとき、彼は大同残留白軍のその後の様子を聞くとともに、直ちに大同に帰り、一九四六年第一次大同解放戦争に反攻して戦死した者及び受傷者名簿及び残留日軍将兵及び日僑民名簿各二部を提出、名簿日本政府に提出するから二部ずつ出すのだ、又林中佐五味少佐に特別会談することがあるから、どちらかが上記名簿を携行して直ちに北京連絡に来るようにと命令を受け、二月末大同に帰りこのことを五味に伝えた。五味及び林は副官処書記に命じ名簿作成とともに、四月上旬私は五味とともに再び北京日本連絡所に出張した。五味名簿を渡すとともに大同より携行して来た薬品、わかもと五十余個及び金額不明を戦犯及び連絡所維持費援助として送り届けた。金はさらに二、三回送つている、これらは全く兵士の給料の中から控除したものである。このとき彼らは今後の方針について会談した。永山はこの名簿日本政府に提出することや、今後日本軍が再び中国に来る日は近いということや、兵隊をよく掌握し、残留理念とその意義を常に教育することを強化し、最後まで目的を完成するよう、さらに政府に対して今後連絡を密にするために、もつと連絡を強化するというようなことを話しました。これまで私は彼らの特務として利用され、彼らの会議にも同席した私の事実であります。  二、一九四七年七月から八月までに一九四六年大同解放戦に反攻し死んだ者の骨と受傷して不具となつ隊員及び部隊の足手まといになる一部日僑及び不良隊員及び帰国を希望する日僑民六百余名、軍人二百余、日僑二百余、骨二十余、この中には林、五味腹臣の部下旧陸軍大尉、姓名は忘れましたが、は林、五味の命を受け、これらの敗兵の中にまぎれこんで帰り、中国局勢を伝えるとともに、増援日軍山西派遣を要求するという活動を開始した、これはその後にもありました。当時帰国者出発前に岩滝中尉と私及び帰国先発者陸軍少尉王通訳四名は北京日本連絡所に先行し、復員手続などの事務を行い、日本連絡所を通じ、彼ら帰国者復員軍人として帰国させている一九四七年から一九四八年までの帰国者の手紙が届いている。だから私は復員が一九四六年五月でわれわれが現地除隊なつたという言い方に対して、明白な根拠を持つて反撃することができる。さらに一九四七年及び四八年の帰国者に対してそれぞれ林と五味の旧陸軍官職名前各人に八・一五後の年歴及びその証明及び八・一五後の受傷に対する証明書を発行し携行させたし、機甲隊員にはさらに八・一五後に運転手となつた者には、旧陸軍自動車隊大陸金業某の印を押して運転手免許書まで発行している。また一九四九年大同解放戦には、全隊員に約十日間の自動車運転教育を行い、かつ上記自動車免許書各人に配付するよう昔の印鑑を用いて作成した。われわれの戦時名簿は旧軍隊そのままを用い、帰国者にはこれに林、五味証明印を押して復員局に提出している。これらの二、三の例から言つても、決して復員局日本政府が全く知らないと言うことはできない。  目上のことは、人から聞いたとかということではなく、強制され私自身か実際に行なつて来たものであります。  各個人の証言によるもの、1、独混三旅団通信隊長陸軍大尉今野淳の言、「われわれの部隊は軍の命令で一部残留することになつた。お前も家はないのだし、残留して俺の当番をやれ、そうすれば大部分の者が復員ができる、犠牲的精神をもつて残れ、祖国ためだ。」、2、将一一四師団砲兵隊陸軍大尉松原の言、「われわれが残らねば、居留民及び他の軍人も帰れない、司令部からの命令で当大隊にも何名かの残留割当が来ている。」また第一軍司令官陸軍中将澄田頼四郎の言、「日本は必ず復興する、われわれはここで共に日本復興、再起に努力せよ」、3、将師団司令部師団参謀太田黒中佐は、「第一軍司令官陸軍中佐澄田頼四郎、一一四師団長三浦三郎中将の命を受け昭和二十年十一月頃日本軍閻錫山軍に残らなかつたら、第一軍山西より撤退することはできない。二四師団師団長三浦三郎中将が長となつて保安隊隊部及び一個団を編成するからぜひ残留してもらいたい。残ることは将来日本が復興するのに決定的な意義があり、これこそ新しい日本を作り最も祖国を愛する行動であると強制した。さらに太田黒中佐は、閻錫山軍に残ることは、日本軍の延長であり、すべて日本軍と同様に待遇する。もし戦死、戦傷したら、日本軍と同様に日本政府が一切の責任を持つと誓つた。4、塁部隊丸山大隊長の言、元泉兵団長の命として当大隊に百五十名の残留割当をされたと言つた。また、小林中隊長中村人事係は、お前みたいな両親も家もない者は残れ、日本人ため犠牲になれと言つた。そして彼らは逃げるように自分だけ帰つて行つた。5、独混三旅団大隊岡田重光少佐の言、命により部隊の三分の一は残る。また君たちは二十年二月寧武県で五十数名の中国人を虐殺している、帰る途中必ず戦犯として引きずり下される。大隊長責任を持つて残留する、君たちも残れと言いながらかくれるようにして帰つた。私の中隊は三〇%の割当をさせられた。一中隊長東登太郎中尉は各中隊を宣伝に歩き廻り、司令部残留ための留用室ができ参謀部電報班は留用室と改め、高級参謀今村方策大佐の下、班長北村大尉、班員野崎中尉以下軍司令部命令に基く旅団下の編成及び軍隊典範令規約の制定及び状況調査報告の作成を行なつた。私はその中で助手をして勤務していた。昭和二十年五月華北交通が軍属の宣誓式を行なつて後、将一一四師団直轄へ号装甲列車機関手として軍命で派遣された。八月十五日終戦後再三退務願を出したが、お前はまだ若いから我慢しろと言つて部隊では受付けなかつた。7、終戦直後兵隊には小遣銭もなかつた状況を利用し、残留する者には閻錫山軍准尉の最低階級で一人一万五千円を支給する。帰るという者には一銭も支給しないと、また支給を申出でても、区別して強制残留の工作を行なつた。8、第一軍司令部残留させるため会議に参加した大隊副官の言、病人虚弱者を日本引揚げさせるためには、どうしても一部軍人を残さねばならない。編成数は第一軍全兵力の三分の一とする。もしこの数字に満たない場合には、年次の若い者は強制的に残らずようになる。強制残留させるための宣伝工作をした。北支方面の引揚げは一番最後になるだろう。山西には一万人の日本軍人一般人がいるが、引揚げ船の関係で、五年先か何年先になるか不明である。ゆえに帰国を断念しなければならぬと宣伝工作が行われた。  帰国の機会があつても掃えれなかつた理由と事実、1、塁兵団一四七五部隊布川直平大尉の言、「お前が帰ると頑張るなら俺にも考えがある、お前のような奴は日本軍人の面よごしだ」と脅迫し、帰国名簿より削られた。2、山西軍教導三団団長大庭の言、一九四六年六月帰国を申出たとき大庭は軍刀を抜き「斬り殺すぞ」と迫まり、同行の鈴木、落合、佐々木、高橋、斎藤等五名も脅迫され、指を切り、帰国断念の血判を押さされた。3、独立混成三旅団高級副官、川原少佐の言、「日本再建のため闘魂を消滅してはいけない、この仇を必ず討て、赤穂浪士の復讐精神を堅持して臥薪嘗胆せよ。個人の自由行動は許さぬ」と「軍規律と組織により峻厳に処罰する。」と行動を束縛した。4、将三八二大隊長、田垣の言、「軍司令部命令として全兵士の身上調査を行い、祖国復興ため山西閻錫山軍に入りまた僑民と軍隊引揚げを保障せよ」と。5、山西軍教導四団団長古谷敦雄の言、帰国を申出たら「それでも死を誓つた同志か、それでも天皇の臣か、君の身辺に注意したほうがいいぞ」と脅迫、残留させられた。6、山西軍教導四団団長古谷敦雄の言、「終戦の詔勅は第二の維新の六号令だ、帰国を叫ぶのは国賊だ、死ぬまで残れ」と自分の作つた結社を利用して帰国したがつた渡辺君も、古谷の指令を受けた水谷元憲兵曹長の手により絞殺された。  永富等の四人の関係。上海に行つた目的、永富が上海に行つた目的は、表面は貿易である。上海を通じて台湾、日本貿易の関係を持つことにあつた。また個人の仕事もあつた。その裏面は五城、これは合謀社の情報をやつておりました。この五城は城野宏、永富等と結びついて長官部から証明書をもらつて日本に義勇軍募集に行つた。日本に行き、沖縄で消息不明となり、その後矢田が帰り、そのままになつた。そのために永富は大使命をもらつた。内容目的は義勇隊募集のためである。連絡は閻錫山から今村に話し、その関係は閻錫山、今村方策、城野宏、永富等である。永富の連絡目的は、今村と岡村の結びつきのためで、岡村寧次は上海で会つている。また国民党の銀行総裁と会見の目的は、貿易と称して兵隊護送をしている。南京で伯崇禧と会見している。  当時大原にあつた合謀社、これはどういうものであつたかというと、一般人を残留させる機関である。関係者は閻錫山、澄田頼四郎、岩田清一、今村方策、山岡道武、三浦三郎、松本広瀬の下に関係を持つている大庭、小田切、永富、古谷等がおります。この以上の問題は、永富の奥さんの証言であります。  以上をもつて当時の状況を私たち復員軍人として身分を確認させていただきたいという私の一つの証言であります。終ります。
  13. 上條愛一

    委員長上條愛一君) それでは次に元陸軍大尉吉沢国雄さんにお願いいたします。
  14. 吉沢国雄

    参考人吉沢国雄君) 私が古沢でございます。私昨日このお手紙を受取りまして、私について参考意見を聴取されたいという御意思でございますが、私はこの一、二、三、四について申上げますがそれでよろしゆうございますか。
  15. 上條愛一

    委員長上條愛一君) けつこうです。
  16. 吉沢国雄

    参考人吉沢国雄君) 先にお断りしておきますが、私は今度一般邦人という中に加わりまして帰国いたしました。従いまして今湯浅代表がお話になりました四百十七名の西陵からお帰りになりましたこの四百十七名の元軍人戦犯こういつた方々と少しこの帰つて参りました状況がいろいろ異なります。私はこの参議院のほうから私に意見を聴取される四項目についてお答えしたいと思います。  で第一項目は、抑留前及び抑留後の状況とこうなつております。これについて回答いたしますと、私は一九五二年でございますから、昭和二十七年北京におきまして反革命分子として、北京の軍事管制委員会の未決看守所に拘留されました。そうしてこのたび帰国の直前、九月の十四日に判決を受けまして、罪名は反革命罪でございますが、八年の有期徒刑を受けまして、同時に即日国外追放、この処決で国外追放になりまして、帰つて参つたわけであります。  で、私の抑留前の状況、まあこれを申し上げますと、非常に長うございますから、簡単に厚生委員会方々に御必要だと思われるようなことについて私はお答えして行こうと思いますが、私が終戦のときには、北京郊外、清華園の陸軍病院に軍医でおりました。終戦のときに一級北支軍は上りまして、いわゆるポツダム大尉というのでありますが、大尉に任官いたしました。その前は中尉でございます。終戦後部隊長茂木中佐、私たちの病院も、元は病院の中に教育部というのがございまして、病院と全く独立部隊だつたのでありますが、終戦と同時に教育部が病院と合併されたわけであります。従つて茂木中佐は元の教育部長でありますが、この方から勧められまして、中国に残つて、今から思うと大変反動的な思想でありますが、もう一度日本の再興、大陸へのもう一回発展、いわゆる発展という言葉で、そのために若い軍人中国に残るように、そのような部隊長の話がありました。で、二、三の者と相談をいたしまして、軍が接収される前に、武装したまま部隊を飛び出しました。それから今こちらに帰つておられる根本博軍司令官、当時中将でございました。この根本博さんに個別に面会いたしました。そして長期中国残留して、やがて時期を見て活動するように、こういうお話で、当時私は若い者五、六名、下士官とか、見習士官とか連れまして中国残留したわけでございます。その後いろいろな行動は略しまして、反革命罪に問われました。第一の罪状は私が根本博さんの、つまり軍司令官であります。その命を受けて中国に潜伏しておつた、日本軍特務、これが第一の罪状でございます。そのほか私が北京におきまして、日本人救済会というのを北京解放後三回ばかりやりました。もちろん中国におきまして、日本人北京、ことに首都北京でそういう組織を作り上げることは、解放後禁止されておりました。従つて日僑の、昔ありました自治会というようなものも解散されておりました。私どもはそれに反対いたしました。どうしても日本人の間に困つた者が出る、あるいは牢に入つた場合に、家族の者が困る。そういう者たち、そういう方々を救済するために、救済会は必要である。しかし許されてない、こういうようなところから、非合法に救済会というものを三度にわたりまして作り上げました。そのときに私たち非常に思想的にはその当時中国側に対立しておりましたので、まあ中国側の誹謗をいたしました。それが私の罪状の第二であります。それで反革命罪に問われまして、八年の刑を受け、今度寛大の処置を受けまして帰つて参りました。  抑留後の状況抑留後の状況は、私がそれらの罪を初め全然認めませんでした。一九五一年、つまり昭和二十六年になりますか、昭和二十六年から私は北京市において管制状態に入りまして管制状態と申しますと、大体毎週、一週間に一回ぐらい公安局に私が向うから聞かれたことを答え、自分の反省をする、つまり自分の罪をその間に白状する。すでに公安局は私に、お前は日本陸軍特務と認めるから、一切の罪状を白状しろ、白状を終えれば政府は寛大な処置をする、こういう通達がございました。しかし私は逮捕されるまでそれを認めませんでした。拘留後は、私が今考えてみまするに、ひとの国に日本帝国主義が銃や剣を持つて侵入したという事実、これは中国人たちにとつて、最も中国人民が胸の中まで憎んでいる、敵であります。私は帝国主義が、日本が投降しても、なおかつ日本の再興によりまして、中国に残つたのでありますから、これは当然中国人といたしまして、私を刑に処するということは当然だと思います。これらの罪を自分が認めますと、中国の今の政府は非常に犯人に対しても寛大であります。従いまして拘留後は、私のそういうがんこな反動思想を、政府の工作の方々はほとんど毎日のように討論の形で私にいろいろと新しい見方、私の誤りを是正いたしました。なるほどある点では非常に私自分が悪かつたということを認めました。その結果今度牢獄の中に入りましたのは二年でありましたが、お前は大体お前の罪を認めたし、ものの是非は何を根拠として、いかなる根拠からものの是非をきめるか、そういうことはお前には大体わかつたはずだから、日本帰つて医者は医者として医者の道を歩くように、こういう私を教育をしておりました看守所の所長さんが、そういうお話で判決を受けて帰つて参りましたわけであります。牢獄の中のいろいろの生活問題等、これは申し上げますときりはありませんが、皆さん御質問なさるならばお答えいたします。これで第一項を終ります。  第二項、在留邦人状況につきまして、私は一九五二年に牢獄に入りましたから、最近二年間の北京市の状況はわかりません。しかし今度天津に私が集結いたしましてから、私の友達あたりを通じまして、私が聞いたり、また日本に帰りましてからも、多少今までに接触しました人たちから聞いてみますと、現在北京市におきましては、ほとんどの日本人がすでに引揚げたようであります。牢獄の中に私が今度帰ります前、まだ三名の日本人が一緒の場所におりました。これは朝夕顔を合せますから、確実であります。この三名の日本人、この氏名はすでに私舞鶴で申告してあります以外には、牢獄の中にあと何名おるか、はつきりしたことはわかりません。私たちは各個別に、ほとんど日本人日本人と一緒になることがありませんから、そういうことはなかなかむずかしいのであります。しかし私の今の予想では、まだ北京の軍事管制委員会の未決の中に、まだ日本人が少くとも十名くらいはおるのではないかというような考えをいたしております。そのほか一般邦人のほうにはほとんど私が知つておりました者は、すでに全部帰つて来てするようであります。付け加えますが、一九五二年私が逮捕されますときに、北京の広安門外の監獄の中に山西関係戦犯が三名入つておりました。岩田元参謀、岩田何と言いましたか、岩田さん、河本大作、城野実、この三名が広安門外の監獄におるということを聞きました。これに差入れしておりました者もおりました。この差入れをしておりました者は、今湯浅代表もちよつと言われました松本広瀬という、つまり山西軍を閻錫山に交渉して中国に残した計画者の一人であります。松本広瀬は、これはやはり反革命罪に問われまして、中国で反革命罪で逮捕され、五年の刑を受けまして、昨年帰つて来ております。松本広瀬、この人が岩田、河本、城野、この三人の人に差入れをしております。それからあとこの三省は太原に移されたという情報も聞きましたが、この辺は私たちわかりません。在留邦人北京における概要はそんなものです。  今後の引揚げについての見通し、この問題に関しましては、私はほかのほうはわかりませんが、少くとも反革命罪で逮捕されている日本人、これに対しては、この一、二年の閥どんどん帰つて来るのではないかという見通しであります。今度北京の未決監から判決を言い渡されまして私と一緒に国外追放になりました者が五名おります。この五名のうち、十年の刑が五名でありますが、一名は四年未決におりました。一名は三年、もう一名も約三年であります。十年の刑を約三、四年で国外追放になつております。私は八年の刑で、一年管制に置かれ、二年未決に置かれまして、前後三年でやはり今度強制帰国を許されました。もう一名も八年の刑で、三年で帰つて来ております。従いまして、私が今大体予想しておるのは、未決監中に大体十名ぐらいおるのではないかと考えるのでありますが、こういう人たちもあるいはこの次の引揚でまた国外追放になつて帰つて来るのではないかと思います。中共側の私たち反革命罪の罪人に対する処置は、決して刑が十年だから十年務めろということではないようであります。大体罪を認めれば、あとは国外追放という形で日本に送り還すという方法をとつておるようであります。これが私の今後の引揚についての見通しであります。  第三、今回引揚の実情、四百十七名の未復員軍人についての実情は、この方々については、湯浅代表からお話がありましたし、私も実情を詳しく知りませんし、別に第四組について少し申し上げます。今度の私たち帰国は、四つの組に編成されております。第一、第二、第三は山西関係軍人方々、第四組がいわゆる一般邦人ということになつております。しかしながら、今度の第四組も少し今までの引揚者状況を異にしております。この第四組の中に、大体国境追放という、牢獄を出て向うの公安局員に武装で護送されまして天津の紅十字会に渡されました者が、私の調べたところでは約十七名おります。氏名もわかつております。この人たちは、いずれも十年なり八年なりの刑を受けまして、その刑がまだ終らないうちに国外追放になつた人々であります。そのほかに強制的に帰れというような状態で帰つて来たと認められる方が約七名おられます。この人たちもかつては、あるいはどこかで教育を受け、あるいはかつて帰国を希望したけれども、いろいろな事情で帰国が許可されなかつた人で、急に今度出発の前四、五時間くらいで帰国するようにというような命で、荷物も持たないでほとんど準備もできずに帰つて来た、こういう方がいるわけであります。そのほかは、あと自由帰国ということになります。私はこれは個人で船の中で調べた状況でありますから、数字の上に多少の出入りがあると思いますが、御参考までに私が申し上げますと、今御発表になりました百四十一名が一般邦人ということになつておりますが、大体その中に、世帯数でいいますと約八十世帯ばかりであります。で、託送荷物の数が六十六個となつております。ただし、この第四組の中にさらに小さい組、小組というのがございますが、これは山西の元軍人関係方々で、戦犯に問われないで帰つて来た方々でありましてこの人たちは除いてあります。従つて第四組の中の第一、第二、第三、第四、この四つの小組の託送荷物の数でありますが、大体六十六個であります。大人一人につきまして平均一個くらいの数にしか当りません。携帯金を全然持つていない引揚者が二十八世帯ございました。約五〇%は大体こういう状態であります。従いまして、今度の私たち第四組の状態も、昨年のように非常なこまごましたものまで何梱包も持つて帰つて来た人たちとはまるで状況を異にしております。自由帰国の方方も、大体帰国の前一日、あるいは二日、短い人は半日くらいの時間の余裕で帰国するようにという通達がありまして、従つて各方面に困つておられます。それが一つの状況であります。  それからもう一つは、今度帰国いたしますときに、各方面から集まりまして、北は長春、落陽、東北の各地から一名、二名ずつ集められました。南は広東まで行つております。重慶から来た人も一名おるそうであります。こういう各地から集まりまして、天津のいわゆる赤十字社に集結し、赤十字社のお力で帰つて来たわけでありますが、その間の交通費が、ある人には中国側から負担がありましたが、ある人はその間の交通費を自弁しております。これも昨年までの帰国状況と違うようであります。昨年あたりは、たとえば長春に集結いたしますと、長春から天津までの旅費も中国側から負担があつたようでありますが、今年はばらばらに各地から一名、二名ずつ集つた関係でありますか、交通費を自己負担された方が相当あります。従つて、天津の赤十字社に入りましたときに所持金がすでにないという人が非常に多うございました。これが今度の引揚状況のうち今までと違うところではないかと思います。  この状況の中に、私付け加えますが、天津の赤十字社に私たちが入りましてから、私は国外追放でありますが、赤十字社の私たちに対する帰国の援助は非常に親切でございました。金のない者には金が支給されました。私と一緒に参りました五名の国外追放者の中の三沢君という人は、これも陸軍特務で逮捕され、反革命の罪で十年の刑になつたのでありますが、着のみ着のまま一文の金もございませんでしたが、中国の紅十字会から五十万円の金をもらいまして、洋服を作りたばこなどを買つて帰つて来たような実情でございます。従つて、窮迫の事情に応じまして紅十字会からいろいろな補助がございました。これが今回の引揚の実情のうち私が知つておる大体主要なことであります。  第四、その他参考となるべき事項、これもいろいろございますが、どういう方面から申し上げてよいのか、ちよつと今のとこ二漠然としておりますので、皆さんから質問していただいてお答えしようと思います。ただ一言私はここで付け加えたいと思います。今度私、ち五百六十六名が一つの団体として帰つて参りました。その中には、四百十七名の日本軍人方々、元山西残留された軍人方々、それから私たち一般引揚者と、中にはおのずからそのような差別もございますが、共通した点はどこにあるかと申しますと、やはり日本帝国主義の侵略戦争のもとに、多かれ少かれ、程度の差こそあれその犠牲になりまして、そうして日本に今度帰つて来たと、やつと終戦したというような者が私も入れまして相当数おるわけであります。で、私は今この四百十七名の方々の詳しい事情はわかりませんが、私の希望といたしまして、どうか参議院の厚生委員会方々が、もう十何年になります、人生のうち最も若い、最も勉強しなければいけないその時期を全く空白に過ごして、青春を犠牲にし、結婚も遅れ、内地に妻や子も苦しみ、自分戦犯として中国で拘留されておる、そして帰つて来られたのであります。私の見方といたしまして、これは私個人の考えでありますが、これが参謀の命令によつて残つた未復員である、あるいは一部の援護局の局長が舞鶴で言われたように、君たち復員しておる。僕はそういうような問題ではなくて、先ず実質の問題であります。何とかして経済的にこの戦犯の釈放された方々を助けて上げていただきたい。私自身も何とか、今私背広も何もございません。裸で帰つて参りましたが、もしできることならば、何とか皆様のお力で、まあ生活が、非常に大きな要求をするわけではありませんが、目下困つておることは、一つ皆様のお力で助けていただきたいと思つておりますが、ことにこの四百十七名の方々は、一兵卒、大部分将校ではありません。大体兵隊として徴兵されて外地に渡りました。死なれた方も非常にたくさんございます。で、こういう方々に対して、これはやはり日本人全体が援助の手を差しのべていただけたならば私は一番いいんじやないか、私の見方はこういう見方であります。未復員であるか、あるいは軍人であるかということよりは、実質的にこの人たちを援助する。もちろんそこに大きな問題があるわけです。もし未復員であるならば、恩給が取れる。未復員と認めなければ、毎月千円の手当しか出ない。しかし毎月千円の手当でこの人たち犠牲にされた青春の代替になるかどうか、私はこの点はもつと皆様がこの人たちに同情していただきたい、こういう気持でおります。私の発言を終ります。
  17. 上條愛一

    委員長上條愛一君) それでは次に、元陸軍兵で西陵地区から引揚げ桑島璋八さんにお願いします。
  18. 桑島璋八

    参考人桑島璋八君) 自分桑島璋八です。大体さつき湯浅さんが話されたような状況、これは自分は重複しません。さらにもつと自分が深く突込んで話したいというのは、決してこれが山西だけにとどまらなかつたという点です。これは石家荘、天津、北京、こういう方面にまで山西の第一軍残留工作というものが行われていた、こういう点を付加えておきます。  次に、湯浅さんが発表されなかつた点を自分は補足します。それはまず閻錫山の軍隊に残つて自分たちが大きな罪悪を犯した。これは自分たち自身で調べた統計によつても、大体自分たちは六百人くらいの人数でありました。しかしその人間が中国人を何人殺しているか、数千人の人間を殺しております。こういう自分たちは罪人であつた。当然戦犯として中国人から問われる、こういう人間であつたわけです。しかし、自分たちが捕虜になつて、それに対して中国人たちはどういうふうに扱つてくれたか、自分たちに対して扱つてくれた扱い方、これはただ、君たちは戦争挑発者じやない、戦争の責任者じやない、覇されて戦争にかり出されて来た人間だ、こういう立場から私たちを待遇してくれた。そうして現在中国で一番いい生活、これをしているのは中国人民解放軍です。この中国人民解放軍と同一の給与、待遇、これを与えてくれた。自分たちが、長い者はもうすでに六年からのこういう収容生活を送つております。しかしその間に、殴られたとか、あるいは罵られたとか、こういうような虐待というものは一度も受けたことはありません。また日常生活においても、運動用具、これもすべて整えてくれました。そして運動をすることによつて自分たちの健康を保障するということ、こういう扱いをしてくれました。また現在中国は建設中で、やはり農村の一部、こういうところには医療施設も満足にできていないというようなところもあります。しかし自分たちは、収容されたと同時に、自分たちに対する衛生所というものを作つてくれ、そうして自分たちの健康というものを保障してくれた。だからこの収容生活中に病気になつた者、これも数名あります。しかしそれは向うでもつて備えてくれた衛生所、こういうおかげでもつて助かつたという人間が相当おります。さらに娯楽設備、こういうものについても、映画も見せてくれるし、あるいは自分たちの間でもつて娯楽会を組織するとか、この収容生活というものを、自分たちが本当に健康を保ち、そうして愉快に送れるという、こういう点に大きな力というものを自分たちに注いでくれました。で、自分たちが本が読みたいというような要求を出した。これは一つの例ですが、そのときに自分たちに対して一つの図書室も作つてくれました。これには日本語の本が三千冊、四千冊、こういう膨大な本をわざわざ集めてくれた。そして自分たちために便宜を計らつてくれた。経済の問題なんかも、これは向うから一人に食糧がどのくらい、また金がどのくらいというふうに支給されるわけです。そういうものを皆自分たちで管理する。自分たちが経済委員というものを選出して管理するという方法をとりました。そしてまあ今度帰つて来たのですが、自分たちがそういう食費代とかおかず代というものを余した、これを自分たち自身で分けて持つて帰りました。こういう状況です。それから被服の而として、これは毎年々々夏には新しい夏服が二着、それから冬になると綿の入つた冬服、こういうものが新しいものが一着渡ります。そうして靴、また日用品、たばこ、こういうものもすべて滞る。小遣い銭も渡る。このようにして、自分たちはこの収家所におる間何一つ不自由のない生活、こういうものを与えられて来ました。これが抑留後の自分たち状況なんです。だからこれは皆さんも私たち帰つて来て、私たちの実際というものを見ておわかりのように、非常に明朗に、元気に、愉快に帰つて来た。こういう状況自分たち中国人のあたたかい気持から与えられたわけです。  次に、残留邦人状況、これは前にも申し上げましたように、自分たち西陵、これは収容所です。だから中国全般の残留者状況というものについては私たちはわかりません。それで自分たちの場合を申し上げますと、西陵におつた者は全部帰つて来た、一人も残つておりません。従つて自分にしても、今後の引揚についての見通しというものはわからないわけであります。それからもう一つ、これは自分個人の意見であります。今も吉沢さんが発表されたように、なお少し向うに希望で残つておる方もあると思います。だがこういう方が今後もし帰国を希望するというような場合には、やはり今までの日本居留民に与えられたと同じような便宜、同じような待遇、こういう手厚い態度でもつてやはり中共は帰してくれる、このように自分は考えております。  それから三の今回引揚実状、これはあくまでも中国人民の寛大政策、自分たちはこれ以外にはありませんでした。前にも申し上げたように、自分たちの一人々々が自分たちをこの四年間世話してくれた中国人民の親兄弟を殺しておるわけです。実際に自分たちを世話してくれた解放軍の人たち、この人たち自身が私たちの撃つた鉄砲によつて不具になつた人もいる、また自分の姉を強姦された上に殺されたという人もあります。こういう人たちが私たちをこのようにして帰してくれたわけです。そうして親兄弟のもと帰つて平和な生活をしなさい、このように私たちを励ましてくれたわけです。だからまず私たち戦犯である、このような罪業を犯した人間であるという点から見て、私自身としても今回の私たち引揚げという問題について、これは全く中国人民の寛大政策、解放軍の寛大政策、これ以外にない、このように私考えております。  そのほかの参考、これはあとから御質問を受けた場合に御答えすることにしてこれで終ります。
  19. 上條愛一

    委員長上條愛一君) それでは次に、上海地区から引掛げられました一般邦人石和清子さんにお願いいたします。
  20. 石和清子

    参考人石和清子君) 一の抑留前及び抑留後の状況につきましては、これは上海地区ですと、個別的になりまして複雑いたしますから、二の残留邦人状況の概数の中でお話上いたします。残留邦人状況、イ、概数、現在上海地区に残つておりますのは大体百名、中日結婚者をあわせて百八名くらいじやないかと思います。その中の私どもにわかつております八名は入獄中の者、これは反革命分子で未決にある人、そういつた人たちを入れます。それからそのうち半抑留者、これがわかつているところでは大体五名乃至六、七名じやないかと思います。それからあと四十五、六名、これは自由意思によつて残つた人たち、この人たちの中でも管制状態にある人たちもあるでしようけれども、私どもにはこれはわかりません。それからあとの大体五十名が中日結婚者、こういう数になつております。そうして半抑留者と申しますと、現在の行動に疑惑を持たれている人、あるいは過去の歴史についてはつきりしていない人、または過去の歴史、それから現在の行動に疑惑を持たれているために教育を受けていた人、こういう人たちが昨年の引揚問題が起きましたときに帰されずに、今度強制的に帰される、こういうことになつたのです。それであと四十五、六名の自由意思による人たち、これは上海地区で私営工場を持つている人、あるいは工場の技師、そういつた人たちで占められております。  それで口の今後の引揚についての見通し、これは私の主観といたしましては、上海地区では中日結婚者は帰国を希望していない向きが多うございますから、大体五十名の中日結婚者はおそらく帰国はしないだろうと思います。あとの大体五十名ばかりは管制状態にある人もおりますから、これは個別的な形で帰国するようになるのではないかと思います。しかし中には半抑留者、管制状態にある人は、ほとんど失業者でございますから、生活が非常に困難になつておりまして個別的に帰国するということは不可能な状態ではないかと思います。ですから今後の引揚についての見通しと言いますと、かなり上海地区人たちは時間がかかるのではないかと私は見ております。  それから第三の今回引揚実状、これは先ほど詳しいお話がございましたから、ここに簡単に補足させていただきますが、自由出境の二十三名、これは中日結婚者、国際結婚者で、中日結婚に破れて、そうして半ば強制的に帰国を命ぜられた人たち、それで帰国準備のいわゆる時間的にも余裕がございませんでしたし、所持金もほとんどない、幼児をかかえている方が大多数です。  それから四のその他参考となるべき事項、これは私はどういつたお話をしてよいかちよつとわかりませんから、質問がございましたらお答えいたします。私の話はこれだけでございます。
  21. 上條愛一

    委員長上條愛一君) それでは次に、日本赤十字社社会部長の高木さんにお願いいたします。
  22. 高木武三郎

    参考人高木武三郎君) 私どもは今度の帰国のお世話をするために、私と日中友好協会の島田さんと、それから平和連絡会の印南さんと三人で参りましたのでありますが、これらのことにつきましては、今までいろいろお話がございましたので、ごく簡単に私どもがその間に感じておりましたことを申し上げて御参考に供したいと思います。  この帰国に対します中国紅十字会の行届いた世話ということにつきましては、先ほどもお話がございましたが、これは日本引揚をしたり、また今後中共から引揚げするときの参考にもなるわけでありますが、そういうふうな非常に向うが行届いた世話をしておるということは、例えば向うでは帰国者を天津に集結させますと、これを一流というのか二流というのか、とにかく一流の宿屋へ泊めまして、普通のお客さんと同じような待遇をして、ベッドの上にちやんと寝せて待遇しておる。しかもこれが天津飯店であるとか渤海大楼であるとか、あるいは交通旅館であるとかいつたような、皆さんもかつてはお泊りになつた程度のところへ泊めて待遇をしておる、こういうことであります。それから今小遣いのない人には小遣いをくれるというようなお話がありましたが、汽車にいたしましても軟席車、これは硬い席の汽車でなくて軟かい席の汽車です。一等、二等とはいいませんが、とにかく軟かい席の汽車にみんな乗せて、そうして塘沽の波止場まで送つて来る。患者は七人しかありませんでしたが、それに医者が一人、看護婦が二人ついて、その患者の保護をしながら送つて来てくれるというような非常に行届いたやり方をやつてくれておるということは、これは向うがどういう目的であるとか何とかいうことをほかにいたしまして、帰国する人々に対して最大の敬意と善意を尽してくれておるということはすなおに受け取らなければならんと思います。  それから次に一番大きな問題は何といたしましても、まだ残されておる人間がどのくらいあつて、どこにおつて、どんな生活をしておるかという問題であるのでありますが、その問題につきましては、先ほど来中共に長くおられました人々がお話になりましても、明確な点はつかめないということでありますが、私どもはその概括的な点におきまして、中国の紅十字会とお話をいたしましても、結論的に言いますと、これはつかめなかつたということになるわけであります。と申しますのは、私どもの国のほうで調査いたしましたものとか、あるいは政府発表せられたものとか、あるいは個々の留守家族の人々の陳情等を聞きますと、相当数の人々がいなければならんということになつておるのでありますが、そのいなければならん人々が果してどこにおるかということになると、何人も明確な返答をしてくれないというのが現状であるのであります。ただこういうことを言つています。残された問題といたしまして、私どものほうでは生きておると思つても、向うでは死んでしまつておるかもわからん、だから一つ生死不明の問題というものについて、紅十字会で十分調査を願いたいという申入をいたしましたが、この問題につきましては、御依頼がありまして具体的な問題が出れば十分協力いたします。ただしこの問題は日本軍の終末期におきまして相当多数の人が死んでおるかもわからんのであつて、われわれの責任において明確にすると言つても、明確にならないものも多数あるということを考えてもらわなければならんということをだめを押して言つておりました。  それからもう一つの問題は、今日向うに残つておられます人々には三つのケースがあると思います。一つは帰りたくても帰れない人々と、それからもう帰る意思のない人と、それから帰る、帰らんの意思の発表をすることもできないかくれた人々と、この三つのケースがあり得るように思います。その問題につきましてお尋ねをしたのでありますが、これは公式な機関としてはお話ができないが、少くとも日本人で帰る意思のない人がたくさんあるということは想像されますということを言つています。これはお帰りになつた皆さん方から聞きましても、国際結婚をいたされました相当数の人々が、もはや向うで生活の根拠を持ち、家庭の安定を得られて、帰る意思がない。故郷忘じがたしで、故郷へは帰つてみたいけれども、しかし生活そのものを移して帰ろうという意思がない。故郷のほうでは帰つて来そうなものだ、どうして帰らんのか、帰る意思があるのにかかわらず、帰してくれないのではないかというようなことを国のほうでは思いながら、向うではもう帰る意思がなくなつてしまつておるという人が相当数あるようであります。もつともこういうものをもつと仔細に検討してみますと、その中には、国際結婚で、もう別れても帰りたいが、しかし子供の愛に引かされて帰れないといつたような、いわゆる国際結婚のもたらすところの不幸をはらみつつ、向うにおる人もあるようでありますが、少くともそうした人々が相当数あるということも認めなければならんと思います。この点は今後の留守家族の問題とか、帰国の問題につきまして相当……これをどのくらいあつて、どういう生活をして、どうなるだろうといつたような見通しをつけて、帰らん、帰らんというばかりでなくて、帰る意思のない人は帰らんのでありますから、この点は一つこれを引き去つた問題を考えなければならん一つの課題だと思います。  それからもう一つは、今帰りたくても帰れない、いわゆる今なお管制者という立場に置かれておる人々、それからもう一つは、今度私どもそういうことを行くときに頼まれて交渉したり、また書面を持つて行つたりしたものもあるのですが、八月二十六日のラジオを聞いて、どうしても今度は帰してもらいたいということを末端のほうにおりまして機関に頼んだ。ところがそういう通知は来ていないから、帰国証明は出せないといつて帰してもらえなかつたといつたような人々もあるのであります。これは非常に広い中国でありまして、末端にそういう指令が行き届かんのであつて、何らの悪意はないのでありましようが、そういう点で今度はどうしても帰してもらいたいということを頼みましても、末端へそういう通知が徹底しないために、帰りたくても帰れなかつたという人もまだあるようであります。  それから帰る、帰らんの意思の発表のできない人はどういう人であるかといえば、これは今度西陵地区の四百十七名はお帰りになりまして、あそこのところは全部終つたということでありますが、またある人の噂によれば、まだ二百七十名がどこかにかくされておるだろうというようなことを言う人もあります。これは巷間の噂でありまして、信頼するには足りませんが、そういうことを言う人もあります。それから私ども本当に現実につかんでおります問題といたしましては、ソ連地区から九百十七名の人々を確かに中共へ渡したといわれておるのでありますが、中共ではいまだこれを受取つてどこに置いているというようなことも言つていないのでありますが、ソ連が少くとも中共に渡したというのは、これは公式に言つているのでありますから、中共におるということは厳然たる事実と思わなければならんのでありますが、その点について、これはどこに置いてあるとか、いつ帰すとか、どういうことをしておるとかいうようなことは聞いていないのでありますから、これは私のいわゆる第三項に属する帰る、帰らんの意思を発表すべき能力すら与えられていないところのケースであるとこういうふうに思うのであります。  そういうようなことが非常に漠然たるものでありますが、そういう人々が相当数そういうような形でおられるということは看取できると思うのであります。ただ、中国紅十字会といたしましては、帰国を希望する人があればいつでも十分な御援助を申し上げましてお送りします、ただし帰る意思のない人にお帰りなさい、お帰りなさいということは、これは中国紅十字会としてはいたしかねることでありますということを言つておりますが、さらにこれをもう一歩掘り下げて相談したり聞いたりしてみますと、実際中国から帰つて来るのには、今もお話がありましたが、経済的な問題もありますし、個別帰国にも援助すると言われますけれども一個別帰国というものはなかなかこれは困難であります。結局集団帰国で船でも持つて行つて受取つて来るというふうな態勢を持たない限りは、まとまつた人を帰してもらうということは非常に困難な問題が伏在しておるだろうということを考えます。  それから次に、今回の帰国者の特色でありますが、これはここに帰国者がおられますからですが、ここは私は参考意見を求められたのでありますから、自分の忌憚のない意見を申し上げますが、今回の帰国者は私ども天津におきまして皆さんと一堂にお会いをいたしましてごあいさつを申し上げ、さらにそのうちの約二十名の幹部の方々に会つて懇談会をいたしましたのでありますが、そのときに私が直感をいたしましたことは、今度の帰国者は非常に健康で明朗であります。といいますのは、大部分が若い人のせいもありますが、そこで私が一番感じましたことは、大体戦犯あるいは罪に問われて釈放せられて帰るというような人の感じ方というものは、生きて帰れてよかつた、命を持つて故国へ帰れてよかつたという感じが非常に強い部面を占めまして、そのほかのことを考えるような余裕が比較的少い。日本の船に乗つて日本に帰してもらえる、ありがたいなという感じがもう大部分を占めてしまつて、それからの問題というものは、しばらくたたなければそういう感じが出て来ないのでありますが、今度帰られる人々はその第一回の座談会におきまして日本の実情を聞かれるとともに、自分たち帰つてどういう生活ができるだろう、われわれの就職はどうなるのか、われわれの住宅はどうなつておるかといつたような、生活の深刻なる問題を第一番に取り上げられたということであります。だから普通ならば命を助けて帰してもらえば、これがもう感激一ばいであると思われるような第一回のときに、自分たち生活がどうなるのだというようなことが非常に大きな部面を占めておつたということは、もはやこの人々が中国におつても生命の危険はないのだ、生命は安全に保持せられておるのだというその段階が済んでしまつて、今度国へ帰つてどういう生活が展開されるだろうということが大きな部面を占めておつたのであります。そういう意味におきまして、この人々が大体二十才くらいの本当の徴兵で行かれまして、十年ないし十数年間の空間をここで暮らされまして、全く転変いたしました日本の実情のまつただ中へ帰られましてどう生活するかということは、非常に大きな心配の種であつたと思うのでありまして、その点につきましては、私ども日本におきますことにこの国権の最高機関である国会におかれまして特別な御配慮を願つて、この人々が第一回に私どもが会いましたその印象で、非常な心配顔であつた点を一つ解決ために万全の御努力をお願いいたしたい、こういうふうに思うのであります。  はなはだ簡単でありますが、皆様方からもすでにお話が出ておりますので私が今回帰国のお迎えに参りまして感じました印象を申し上げまして御参考に供した次第であります。
  23. 上條愛一

    委員長上條愛一君) 参考人方々のお話は終りましたので、次に御質問がございましたら、御質問をお願いいたします。
  24. 高野一夫

    ○高野一夫君 私高木さんと石和さんに一つずつ伺つてみたいと思うのですが、先ほど吉沢さんのお話の中に、今度帰すという場合には、きわめて短時間前に通告されたのが多い、例えば半日とかどうとかいうようなところが多かつたように思うと、従つて跡始末もろくにできなかつたのじやないか、こういうふうな意味のお話があつたように思うのでありますが、それは帰す人を選定するのに中共側で手間取つたのか、わからなかつたのか、それがどういう事情によるものかというようなことを高木さんのほうで何かお感じになつたか、お調べになつたかどうかということを一つ伺つてみたいと思います。
  25. 高木武三郎

    参考人高木武三郎君) お答えいたします。そういう問題につきましては直接正確な返事を得て参りません。ただし私が実情、あるいはその他の留守家族から預かりました手紙等を見ますと、八月二十六日のラジオのニュースによつて初めてその実情を聞いたというようなことを言つている人があります。これがかなり辺阪の西康省であるとか、あるいは重慶であるとかいつたような遠い地区の、各機関を経て来るのには、日本で電話でやるというようなことでなくて、非常にこれは中国の一つの特色だと思いますが、機関から機関を経て行くのに時間が相当かかると思います。そこに月がたつて、塘沽を二十日に出る船に、二十三日に実際は出ましたのですが、二十日に出る船に乗せるためには、その末端といたしましては、相当のスピードで出さなければ間に合わんといつたような実情が、相当あつたのではないかというようなことも考えられます。
  26. 高野一夫

    ○高野一夫君 石和さんにお尋ねしますが、上海地区のほうで一般邦人生活状況、例えば終戦後、一般邦人が適当な仕事にありつけたかどうか、生活して行けるような収入がある程度取れるような状態にあつたかどうかということの一点と、それから一般邦人に対して、中共側の政治教育みたいなものが、やはり抑留者同様に、何らかの形で行われておつたかどうか、この二点についてお聞かせ願いたい。
  27. 石和清子

    参考人石和清子君) お答えいたします。上海方面の一般邦人生活状況は、管制を受けている方以外は、大体優遇されていたように思います。特に技術者は、現在は形が違つて参りましたけれども、解放直後から三反、五反が起きますまでは、工場を三つぐらいかけ持ちいたしまして、一般中国人よりも遙かにいいサラリーを取つております。それから資本家も私営工場をやつておる方もおりまして、その方などもかなり楽な生活をしている。ただ、その管制と申しましても、私どもはどの程度なのか、はつきりわかりませんけれども、去年の帰国問題が起きたときに、帰国申請をしても帰してもらえない、どういう事情で帰してもらえないのかわからないのですが、今度も帰してもらえない。その方たちは仕事は現在ございませんで、売り食いをしたり、友だちの世話になつたり、そういうような生活をしております。それから失業者が四、五名おりました。その人たちは失業しておりますけれども、大工をしたり、それから帰る人の荷造りを手伝つたり、そういう形でどうやら生活をしのいでおるような状況であります。  それから政治教育は、政府のほうから強制的にさせられるという形はございません。皆自発的に、この時代になつたのだから自分たちの頭を洗つて、その時代に即するような行き方をしようとして自発的にやつた。特に東北地区から来られた邦人が指導をいたしまして、それで中共、上海で日僑の間に学習会を設け、そうしてそれによつて皆学習をするということ、中には初めから政治教育に自分たちは参加するということを非常に拒みまして、そうして去年の第四次の引揚まで、ついに政治教育に進んで参加しなかつたという方もかなりございます。
  28. 竹中勝男

    ○竹中勝男君 湯浅さんにお尋ねしたいのですが、強制残留という、御報告の中の、いろいろ将校が兵を強要して残留さしたという理由は、どういうところにあるのですか。その点を一つ。
  29. 湯浅質治

    参考人湯浅質治君) お答えします。この中にもありますように、理由は日本の帝国主義の復活、それから戦犯の援助、こうしたことと、八・一五の軍人邦人引揚を保証する、やはりこうしたところにあると考えます。
  30. 竹中勝男

    ○竹中勝男君 その帝国主義の復活、八・一五のどういう点ですか、そこのところ私はつきりしませんけれども、日本軍残留さしておいて、そうしてやがて日本の国内と呼応して中国にもう一度帝国主義的侵略を企図するという、そういう意味にとつていいのですか。さらに将校自身はどうしたわけですか。これによると、あなたの御報告によると、将校は逃げておる将校が相当あるように見受けるのですが、そういう点との関係は……。将校というものが本当にそういう考えを持つて残留を強要したのか、あるいは自分たちの安全のためにやつたという面もあるのですか。そういう点をもう少し、私はつきりわからないものですから湯浅さんに伺いたい。
  31. 湯浅質治

    参考人湯浅質治君) お答えします。八・一五の残留をさせたということは、やはり先ほど発表しましたように、日本帝国主義の復活、すなわち中国を再度侵略する、やはりこうした意味にとつてよいと考えております。それから逃げて行く将校、これに対して逃げておるという意味は、これは漠然としてわからないのですが……。
  32. 竹中勝男

    ○竹中勝男君 将校自身がやはりそこに一緒に残留したわけですか。将校がわからなくなつておるのじやないですか。将校ですね。上級の軍人が一緒にあなた方と残留されたわけですか。
  33. 湯浅質治

    参考人湯浅質治君) お答えします。そうです。
  34. 竹中勝男

    ○竹中勝男君 そうですか。
  35. 湯浅質治

    参考人湯浅質治君) はあ……。一緒に残留されだ将校の中にも、やはり八・一五、日本はこれで戦争は終つたから当然帰るべきだという将校の方もおりました。しかし一面には、決して帰る問題ではない、日本はこの山西太原の地で帝国主義を復活しなければならない、こうした将校がだいぶんおりました。終ります。
  36. 竹中勝男

    ○竹中勝男君 ありがとうございました。
  37. 湯山勇

    湯山勇君 湯浅さんと桑島さんにお尋ねしたいのですが、強制残留こいうような形をとられたと言われるのですが、たとえば具体的に、湯浅さんはどういうケースでお残りになつたか、桑島さんはどういうケースでお残りになつたか、簡単に一つお述べいただきたいと思います。
  38. 湯浅質治

    参考人湯浅質治君) 自分昭和十二年に現役兵として満州のハイラルに行きました。そうして病気で一年八ヵ月入院しまして、現役免除となつて帰つて来ました。それから華北交通の軍属として、そうして八月四日に現地召集を受けました。その当時には、現地召集を受けた当時は、自分が会社におりましたときに、軍のほうから命令がありまして、すぐ自動車で何名かの者が軍の野戦倉庫に連れて行かれて、そこで鉄砲を持たされました。そうして太原の周辺の警備に任ぜられました。そうして八・一五の命令、これからすぐ自分たちは警備を解いて今度は庶務に入つて仕事をしておりました。そこで庶務においてはいろいろな事務上の問題、その当時の鉄道は華北交通団というて第二野戦鉄道司令部もとにありました。そうして自分はいろいろな事務、整理引継ぎのために残されました。続いて今度は鉄道護路総隊というものがあつて、その中に今度は包含され、このようになつて自分はしかしながら帰りたい、ところがもうすでに護路総隊の中に編入されておると言うて、三月一日にその護路総隊のほうから命令が来まして三月四日に晋中作戦自分はこれに鉄砲を持たされて連れて行かれたわけです。その後も自分は帰りたい、このように再三申請しました。しかしながらそこには当時いわゆる上級はいろいろ言葉、または私の生命に危害を及ぼすような言動をもつて私は脅迫されました。こうした中から私はやはり自分の生命を愛しておりました。てんからやはりそういうことを言うては、あるいは殺される、もちろん殺した事実はたくさんあります。それでついに自分の生命を愛すという点から、自分は解放軍の捕虜になるというところまで残留をしておりました。簡単でありますが……。
  39. 桑島璋八

    参考人桑島璋八君) 自分の場合を申します。自分の場合は四百十七名中でも、やはりさつき申し上げたようにこの山西の第一軍残留工作、これが北京、天津、石家荘まで来ておつた。これは自分は特別の例に当てはまるわけです。ですからこれは自分のほうは特別なそういう方面から行つた人間だということを頭において聞いていただきたい。まず自分は終戦当時兵隊でした。そうして投降、これを聞いてさらに張家口でもつてソ連軍が入つて来るというので、そこで戦闘をする、そのために水盃をしてそうしてたこつぼを掘つてその中に数週間おりました。しかしその場で自分たちは戦闘をしなかつた。それで一度北京に帰りました。そのときに山西の第一軍の参謀長山岡少将、この人からこれは古い話ですが、日露戦争当時の沖、横川特別挺身隊、この人たちの生残りでもつて当時後藤猛という老人があつた。別名川崎といつておりました。この手を通じて北京から軍人または一般邦人、こういう人たち山西に送るという工作が行われておつた。    〔委員長退席、理事常岡一郎君着席〕 当時北京人たちも、やはり終戦後自分生活が苦しい、金もないという人が非常に多かつた、そういうことからそういう人には必ず銃は持たせない、向うに行つて農業をするなり、技術のある者は技術、そうして山西を開発するのだ、こういう名目で募集をしておりました。そういう手を通じて行つたものがやはり数名おります。私もやはりその部類です。
  40. 湯山勇

    湯山勇君 そうすると桑島さんの場合は、一応自分でもそういうことを納得されて行かれた。それから湯浅さんの場合は脅迫を受けて入られた、こういうふうになるわけでございますか。
  41. 桑島璋八

    参考人桑島璋八君) そのときは私、ここでよく考えていただきたいのは、これは自分自身の考え、私の希望ですが、そういうふうにして太原に送られたわけですね。送られた人が、向うに行つて銃を持たせられる人は、いやでいやでしようがない戦争に狩り出される。こういう状態に無理やりに置かれたわけです。だから当然そこでもつて帰りたいという希望もあつた。しかしその場合に、いわゆる当時の将官連中がどういう報告を送つたかというと、この書類にもありますように、脅迫、あるいは暗殺、こういう手段まであえて辞さなかつたのであります。そうして実際にこういう報告でもつて殺されたという人間がやはりあるわけです。これはやはりこれを見ていただけばわかりますけれども、もう一度自分が補足しておきたいのは、これは実際の証人として、当時自分関係ではありませんが、湯浅さんですか、当時第一軍司令部で行われた強制残留の工作の教育、これに参加した者が今回の引揚げで二名帰つて来ております。念のため名前は、茨城県の小沢富三郎、これは当時伍長で、下士官代表として命令で教育に参加したのであります。それからもう一人は、高谷進、これは県は忘れましたが、今度帰つて来ておりますから、詳細お調べ願います。
  42. 湯山勇

    湯山勇君 湯浅さんの報告は非常に私は重要なものを持つていると思います。と申しますのは、こういうふうに、たとえば医官が帰りたいという者を注射をして殺したとか、あるいは手榴弾を投げ込んだ曹長を、酒を飲まして、さらに注射をして殺したとか、重要な要素を持つているわけですが、これはほかから、直接御体験になつた分ではないと思いますが、直接こういうテロとか、あるいは迫害を加えたというのを目撃された例はございますか。これはお二人の両方とも直接御覧になつたのがあるかどうか、その点について一つお述べいただきたいと思います。
  43. 湯浅質治

    参考人湯浅質治君) 自分がお答えします。この点について自分自身、自分は殺されたわけでありませんが、一九四四年の十月に自分が戦闘をするのを拒否した。そうしたところが村山中尉、これは日本軍の村山中尉、閻錫山当時は村山中尉、彼が私のところに脅迫状を持つて来ました。と同時に閻錫山関係の憲兵、これが十数名私の家を包囲しまして、その当時私のところに通訳をやつておりましたところの者とか、さらに中国人が四、五名おりまして、憲兵と交渉して私は逮捕を免れたのであります。それからさらにその部隊に整理室というものがありまして、これが日本人が長になりまして、やはり華人を二十数名で殺さしておる。これの長が奈加井というので、彼が直接解放後において私に話した点として、私の銃殺、暗殺を計画しておつたということを話されました。  それから私が太原解放軍の東山作戦において、池井戸量正、この人は岐阜県で、発疹チブスで四十度の熱を出して寝ていた。ところが当時日本人はどんどん死んで行つて日本人が少くなつて来た。これに対して村山中尉は脅迫状を送り、その四十度の熱を出してうなつている池井戸君をその戦闘地に引つ張つて来たわけです。しかしながら彼はあまり動くことができなかつた。そうして望楼の中に入つておりましたときに、迫撃砲弾のためにその望楼を破壊されてそこで即死した。このような実例を私は見ております。  それから自分が住んでおつた所は、太原城の南門街の旧日本軍軍属宿舎であります。このすぐ南方約二、三百メートルの所に変電所があります。これは自分が朝起きたところが、その変電所のかきねとして有刺鉄線があります。そこに日本人が引つかかつて死んでおつた。で、すぐに大騒ぎになつてそれを確めたところ、当時の古谷、これは日本軍の中尉です、古谷中尉の部隊兵隊です。彼がやはり帰国を申請したところが脅迫された。彼はやけくそになつてその晩酒を飲んだわけです。同時に古谷の支配下にあつた元日本軍の憲兵曹長である水谷、この者が長になり以下何名かで彼を絞殺した。そうしてあたかもその本人が自殺したようにその有刺鉄線に引つかけておつた。この事実を私は見ております。  以上でございます。
  44. 桑島璋八

    参考人桑島璋八君) 自分が直接これを見た、これは自分はありません。しかし実際にいた人間がいなくなつたということについて、あとからこうだつたんじやないかということは、これは聞きました。で、この点についてここにごく少数の罪状しか挙げておりません。しかしこのほかに強制残留をさせられたという者は、私たち四百十七名の中にずいぶんおります。だからここに名前も書いてございますが、これはごく一部だということを御承知になつて、まだ若し御入用だつたら資料を作つて差し上げます。
  45. 湯山勇

    湯山勇君 それで次にお尋ねいたしたいのは、あなた方がそういうふうに残つたことが当時幹部の人が言つたように在留邦人引揚、そういうことに役に立つたとお考えになりますか、これは全くそういうことは事実無根であつて、あなた方を何と申しますかだますためにそういうことを言つたんだというようにお考えになりますか。これは湯浅さんから一つ。
  46. 湯浅質治

    参考人湯浅質治君) この点につきまして私はこのように考えます。当時において中国においては、ただ単に山西だけに日本軍がおつたかというと、決してそうではない。これは広範な中国の約半分以上のところに日本人がいました。で、こうしたところから引揚げ日本の元軍人は非常に多いと思います。だから山西にこの武装部隊が残らなくても、引揚げには何ら支障はなかつたということは私は言えると思います。だから邦人日本軍引揚げために残らなくてはならないというのは、やはりこれは当時の上級の意思、これを貫徹するためにとられた一つの方法であると私は考えております。このように思います。
  47. 湯山勇

    湯山勇君 お話を承わつておりますと、シベリアの抑留所では暁に祈るというようなことがあつて問題になつたことがありましたが、今回のは非常に計画的に組織的に行われているという点において重要な意味があると思います。それと別個にこれは帰つた方々の身分にもかかわることでございますから、こういう組織ですね、今おつしやつたような、幾らかは先ほどありましたけれども、もう一つ部隊の幹部がこういうことをしなければならなかつたということについては、あなた方はどういうふうに御把握になつていらつしやいますか。例えば幹部と閻錫山との間に黙契があつてこういうことをしたんだとか、あるいは幹部があなた方を悪く言えば、売り込もうということでそうしたのか、純粋にそこでもう一度北支軍の再建を図るというようなことであつたか、これらの点についてはどういうふうに御把握になつていらつしやるか、一つお感じのままをお述べいただきたいと思いますが、湯浅さんから。
  48. 湯浅質治

    参考人湯浅質治君) これに対して先ほども私が言いましたように、やはり日本の復興、これが主要である、このために、これともう一つは戦犯これを助けるためである。戦犯を助けるためという一つの実例がございます。それは柿副という人、これは大同の炭鉱の警備隊長をやつておりました。この人が太原回りで日本に帰る予定であつたところが、太原に降りた。そうして武装部隊に入つたのです。この人が戦犯になつて銃殺されたわけです。このときに田中というて今日私たちと一緒に引き揚げて来ました田中清次という人がおります。この人が何とかしてこの柿副君を救おう、こうしたところから、当時の高級参謀であるところの岩田参謀、この人のところにお願いに行つたところ、ところが岩田参謀がその場でもつて何と答えたかと言いますと、エビとタイはどちらが大切であるか、このように言われたそうです。だからこうしたところから見まして、柿副君はそうした戦犯犠牲なつたということが言えるのじやないかと私は考えるわけです。それから帝国主義の復活、これに対しては今考えると、本当に馬鹿らしいほどですが、ある国におきましては、神風疾風隊、こうした日の丸のはち巻きをしたり、あるいは鎧を着て街の中を歩くとか、あるいはまつぱだかになつてはち巻きをして、街の中を集団的にかけ足するとか、すべてこのように軍国主義の復活、日本帝国主義の復活、この方向に進んで行つたということが言えるわけです。しかしながらこうした中において世界の情勢というものの変化から、またその当時の高級将校、こうした人々の個人的な利益から、それがだんだんと腐敗して行きました。だから解放前私たち中共軍に捕虜になる一年前くらいにおきましては、当時の私たち生活というものはどのような生活であつたかと申しますと、中国で白洋貨(パイヤン)、一枚が一円です。これが大体自分たちが二、三枚、これでもつて生活するということは全く不可能です。で、一カ月の給料というても、これが二カ月も三カ月も遅れるという状態でした。やつともらつたものが単にたばこ、これが三つか四つしか買えない状態です。そのため隊員すなわち旧日本軍人兵隊であつた人々の生活というものは、自分の着物を売り、あるいはすべてのものを売つて、本当に裸になつておりました。では一面高級将校たちはどのような生活をしておつたかといいますと、たとえば今村方策大佐、この人は太原東山作戦当時において安全な場所に身を置き、毎晩酒と女にうきみをやつしておりました。こうした生活、さらに私たちが一カ月二、三枚のパイヤン、このくらいの手当しかもらえないときに、今村方策大佐は一カ月の機密費が一千枚のパイヤンを司令部から送つておりました。このようにそうした日本帝国主義を再度復活するその当時の目的、この意思というものもそうしたいろいろの情勢から腐敗堕落して、個人の生活の方向に入つて行つたということが、私は実際の中から言えるのじやないかと思うのです。それからさらにここでもつて私が付加えておきたいのは、八・一五後結婚した人もあります。子供さんが生まれた、こうしたときに、戦闘によつてその夫が死んでしまう。これに対してある程度閻錫山のほうから援助金が、あるいは援助米というものが出されたわけです。ではこれが完全に戦死された方の家族のところに届いているかといえば、それが完全に届かない。約半分以下、大体四分くらいしか届いていない。あとはどうなつたのかというと、それはすべてそうした人々の生活費、享楽費に使われておつたということが私は言えるのじやないかと思う。これは私があとから司令部付になつて副官処の管理課に勤務したときにその状況を発見したわけです。だから時の変化によつて、そのように最初は日本帝国主義の復活、こうした意識のもとに入つて行つたけれども、情勢の変化は個人のただ単なる生活の方向に入つて行つたということが言えるとともに、しかしながらでは日本の軍国主義の復活のこの理念を捨てたかというと、決してそうでなかつたということが私は言えると思うのです。終ります。
  49. 湯山勇

    湯山勇君 最後に簡単におわかりでしたら、お答えいただきたいと思いますが、閻錫山軍に従軍して戦死あるいは戦病死した人の数、大体どれくらいというか、あるいはどれくらいの率、そういうことでもけつこうですが、あるいは推定、もつと言えば漠然とこれくらいじやないかという想像の程度でもいいのですが、そういうことがお答え願えるものでしたら、これは桑島さん、湯浅さん、どちらのかたでもけつこうですから、お述べいただきたいと思います。
  50. 桑島璋八

    参考人桑島璋八君) 自分のわかつている範囲ですね。まず八・一五直後山西残留した日本兵隊、いわゆる日本の軍の組織のもと軍人として鉄砲を持たされたこの数、自分ははつきりした数は知りません。しかしちよつと自分の聞いたところでは三千五百というふうに聞いております。それが太原東山作戦、一番最後の作戦です。このときにはすでに三百くらいしかおらなかつた、こういう話を聞いております。また自分のおつた隊ですが、この状況の比率というものを申し上げると、大体初め百二、三十人おりました。しかしそのうちに自分がはつきりと死んだというふうに思う人間、自分が大体確認できる人間です、これは約十五、六人おります。補足します。それからその間にやはり戦争に使えない老人とか、それから不具者あるいは賭博または麻薬をのむ者、こういうような者は、その軍の司令部からの割当の帰国のときに帰つております。
  51. 湯浅質治

    参考人湯浅質治君) 自分はこの問題は非常に重要な問題だと思うのです。たとえば自分の夫、子供あるいは父親が帰つて来るのじやないかと待つておる人がたくさんあると思うのです。この状況について私は当時においても感じたのですが、戦闘に敗れる、そうすると、もういわゆる指揮官というものは勝手に自分で護衛さして帰つて来てしまう。もう兵隊はちりぢりばらばらです。病気した者あるいはけがをした者は中共軍の病院に入れられて、なおつて帰つて来ている人があります。またけがをしなくても、捕虜になつた者はそこに帰つて来ております。しかしその間において誰が死んだということはやはり本当に不明なんです。もう一人あるいは二人、三人、このようにちりぢりばらばらになつてしまつておる。だから相当多くの人が死んでいるということは私は言えると思う。それからもう一つは、閻錫山のこれはいわゆる秘密警察みたいなものです、ここのところに日本人が約四十名抑留されておりました。これは閻錫山軍を誹謗するとか、あるいは日本軍を誹謗するとか、こうした人々がここに監禁されておりました。その中にはもちろん中国人もおつたわけであります。そして手と額に反共産党というこのような入墨をさせられた人々がおつた。太原の解放が一九四九年の四月の二十四日に解放され、解放の前の二十三日にその監禁しておつた所を火をつけて焼いてしまつた。この中には四十名の、大体自分が知つておるのは四十名ですが、四十名くらいの日本人の方がここで大ぜい死んでおるということが私は言えると思う。しかしながらこの人々の姓名というものはわかりません。これはそこを逃亡して来た中国人の一人と、それからまだほかにこうした問題はほかの人も知つております。こうした人々の住所姓名というものは全然わからないわけです。だからこの人が生きておるのか死んでおるのか故郷の人々はわからない。こうした状況はたくさんあるわけです。だからここに政府当局としては多くのものは残つておるのじやないか、残つておると予想を立つておりますが、私これは個人の考えでありますが、決してそうでない、死んだということが知らされずにおる人がたくさんあるんじやないかと、このように考えております。
  52. 高野一夫

    ○高野一夫君 私吉沢さんにちよつと伺いたいのですが、中共に残留しておられる方々に対しては我々本国にいる国民として非常にお気の毒だと思うし、またどんなにして朝晩暮しているのだろうかとしよつちゆう考えておつたわけです。ところがお帰りになつ方々の話を伺いますと、きわめて朗かな、気楽な生活ぶりであつた。何らその点について不安がなかつたというような非常にうれしい話が多いのです。今日はあなたの話だけは多少違つたように思うけれども、ほかの方々の話を伺つてもそういう印象を受ける。今までにお帰りになつた人々の話を聞いても非常に中共礼讃と申しますか、まあ実に自分たちが非常に優遇されて、大事にされて何ら不安のない朗かな生活ができた、こういうお話を聞く、ところがまた一方においては、たとえば批判の自由がなく思想の自由が奪われておるというようなことを訴える人がないでもない。そこでもしあなた方が日本にお帰りになつて来て、中共に対するあるいは政治的な、桂会生活上の問題経済的の問題に遠慮のない批判をされたという場合に、それが残留しておる人々に何らかの悪い影響を与えるか、あるいはそんなことはないとお考えになるかどうか。あなたの一つお考えを伺いたい。
  53. 吉沢国雄

    参考人吉沢国雄君) 今御質問のお言葉の中で、中共つまり中国から帰られた方々が皆さんいずれも中国は明るい生活が楽しいと言う、私の発言が少し違うようにお聞きになつたというお話でございますが、これは私の発言のどの点をお取りになつておつしやるのかちよつとわからないのであります。私自身なるほど逮捕されるまで全く反革命分子でありまして、中国政府に対立しておりました。しかし逮捕されましてから、牢獄の中におきまして私が過去の過ち、過去の帝国主義の罪悪を認めましてからあと生活は、牢が明るいと申し上げると皆様にはちよつとぴんと来ないと思いますが、やはり私は中国側の私たち罪人に対する取扱いという面においても非常に寛大であるという感じを受けて帰つて参りました。今参考人のどなたでしたか、お名前忘れましたが、おつしやつたように、戦犯の拘留所においてもそうでありますが、私は中国で最も人民の敵であるとして厳重に処罰する反革命分子の未決監、つまり軍事管制委員会がこれをやつている軍法所であります。そこの未決監におつたのでありますが、その中で私自身やはり叩かれたこともなければ、ののしられたこともないのであります。生活の面におきましても、私自身中で半年ばかり病気もいたしましたが、そういう面では非常に手厚い治療も受けました。もちろんこういう面から私が過去に先入観として中国政府中国共産党に持つておりましたものが、多少ともこの牢獄生活のうちに変つたということは私今でも感じますし、この面を通じて、私はもつと共産党あるいは中国政府、こういうものに対して何かこういわゆる黒幕だとか、あるいは何か色眼鏡をかけて見るとかそういつた面を、私たちみんな日本人が取り除かなければいけないというような感じをして帰つて参りました。従つて委員の方の私に対する御質問、帰国者が何かある発言をした場合に、向うに残つている者に影響を与えないかという問題でありますが、これは共産党政府のやり方を私が見ておりますと、そのようなことに動かされて私たちの処置を云々するというようなことはないと思うのであります。で、私たちの発言も、決してそこに何かないものをあると言い、あるものをないと言う……少くとも私はこれでもまあインテリの端くれでありますし、見たままをありのままに言いたいとこれからも思つております。それが何か中国政府日本人に対する取扱いの上に影響を与えるというようなことは毛頭あり得ないと思います。終ります。
  54. 常岡一郎

    理事(常岡一郎君) それでは本日の本問題については、この程度にいたしたいと存じます。  引揚方々には、帰還早々長時間にわたりまして種々貴重な御意見発表下さいまして、誠にありがとうございました。委員会当といたしましては、今後政府日本赤十字社等と協力いたしまして、残留者の早期引揚について万全の対策を講じたいと存じますので、参考人各位におかれましても今後とも御協力下さいますようお願いいたします。誠に今日はありがとうございました。  本日の中共地区引揚問題に関する件はこれをもつて終了いたしました。   —————————————
  55. 常岡一郎

    理事(常岡一郎君) 次に、お諮りいたします。ビキニ被爆事件に関して患者の医療状況等を本月六日の本委員会において関係者出席を求め参考意見を聴取いたしたいと存じますが、その人選その他の事項は委員長に御一任願いたいと存じますが、異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  56. 常岡一郎

    理事(常岡一郎君) 異議ないものと認めます。  本日の委員会はこれをもつて散会いたします。    午後零時三十五分散会