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1953-12-12 第19回国会 参議院 厚生委員会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十八年十二月十二日(土曜日)    午前十時四十二分開会   —————————————  出席者は左の通り。    委員長     堂森 芳夫君    理事            大谷 瑩潤君            藤原 道子君    委員            榊原  亨君            中山 壽彦君            林   了君            廣瀬 久忠君            湯山  勇君            山下 義信君            有馬 英二君   政府委員    外務政務次官  小滝  彬君    厚生政務次官  中山 マサ君   事務局側    常任委員会専門    員       草間 弘司君    常任委員会専門    員       多田 仁己君   参考人    元軍属     鈴木  拡君    元陸軍少尉   大原 一夫君            畑野亥之助君            佐瀬 義男君   —————————————   本日の会議に付した事件 ○社会保障制度に関する調査の件  (ソ連地区引揚者援護対策に関する  件) ○派遣議員の報告   —————————————
  2. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) 只今から厚生委員会を開会いたします。  社会保障制度に関する調査の一環として、ソ連地区からの引揚者援護対策上の参考にするため、先日ソ連地区からお帰りになりました四名のかたがた参考人として御出席を願い、御意見を拝聴いたしたいと存じます。この機会に一言御挨拶申上げます。  参考人かたがたには祖国を長く離れまして、遠く異郷の地に長い間御苦労を嘗められて今回御帰国になられたのでありますが、私どもはその御労苦に対し衷心から御同情と感謝を申上げますると同時に、御帰国をお喜び申上げる次第であります。御帰国句々にお疲れのところを誠に恐縮でございましたが、抑留中の状況及び引揚事情などをお聞きいたし、又残留同胞引揚促進並びに援護対策参考に資したいと存じまするために、特に御出席願つた次第でございまして、本委員会の意のあるところを諒とせられまして、先にお手許に御通知いたしましておきました事項を中心に、率直にお話を願いたいと存じます、それでは鈴木さんから順次お願いすることといたしまするが、進行の都合上各参考人かたがたお話が済みました後に各委員から御質疑を願いたいと存じます。では鈴木さんにお願い申上げます。
  3. 鈴木拡

    参考人鈴木拡君) 私、鈴木です。留守中はいろいろと皆様に御心配をかけまして……、
  4. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) ちよつと鈴木さんに申上げますが、恐れ入りますが、向うに、例えば引揚地のカラカンダとか名前がございますが、それがどの辺かもちよつと一緒に御説明願えると結構だと思います。
  5. 鈴木拡

    参考人鈴木拡君) 留守中は私たちのため皆様非常に御心配して頂きまして、漸く帰ることができまして、これは一重に皆様の御配慮、国民皆様の御努力によるものと思います。  私はカラカンダ附近におりましたのですが、先ず大体抑留中の状況を申上げます。満洲のハイラル終戦と同時に抑留されまして取調べが始まりました。ほかのかたは大体捕虜になられたのですが、私たちはすぐに囚人の扱いを受けました。で、ハイラルに八月から十一月までおりまして、その間大分取調べを受けました。十一月の二十六日にハイラルから貨車輸送で私たち日本人が七名、白系ロシア人が約二百名、こういう貨車があります。それでチタに送られました。チタの駅の前にやはり取調べ場所がありまして、そこで二、三日抑留されまして、それから刑務所のほうに送られました。それで刑務所自分ちよつと体を悪くしておりましたので、刑務所病院に入院いたしまして、退院しまして昭和二十一年の四月十七日に刑を受けました。五十八条の六項間諜罪として十年の刑を受けました。五月にチタからロシア人罪人一緒にイルクーツク、ノヴオシビルスク、ペトロパウロスク、カラバスに送られました。大体カラバスというのはカザクスターンのカラカンダ附近にありますが、そこの囚人中継所に収容されました。で、二十一年の七月に、目にちははつきり覚えませんが、カラバス中継所におりました日本人の私を入れまして三名が呼ばれまして、ロシア人一緒に徒歩でカラバスから約十二キロの地点に小さなカル・ラーゲルというラーゲルの第八分所に送られまして、そこでやはり二、三日休憩したのち、私ともう一人の日本人煉瓦工場に送られました。そこで煉瓦工場で年を送りまして、三月に又病気になりましたので、その附近から八キロ離れた所に病院がありまして、やはり囚人専門病院であります。そこに入りましてそこにずつとおりまして、二十四年の五月までおりました。そのときに二十三年頃からソ連には特別収容所ができた模様でありまして、特別収容所というのは一般刑事犯国事犯とを別にした収容所であります。国事犯、反革命罪のみを収容する場所であります。そこに移されまして、それはカラガンダ東南約四十五キロぐらいの地点にありますスパスクという所にあります。そこで二十八年の六月に今度の集合がかかるまで、そこにずつとおりました。それから六月の二十六日にカラガンダの駅を出発いたしまして、十一昼夜の旅行ののちにナホトカに集結、前に着きまして、そうして大体十一月の二十八日まで待機しておつたわけです。大体これが私のソ連における径路です。  では抑留中の状況を大体御説明いたします。抑留地は私の最も長くおりましたスパスクは、コザツク共和国カラガンダカラガンダ市の大体東南約四十五キロぐらいにある小さな町です。それでその町の端れに収容所がありまして、気候は大体大陸性で、冬は零下三十度ぐらい、大体私がおりました満洲里とか、ハイラル、あそこの附近よりは若干よろしく、ハルピン程度気候てす。夏は非常に暑いです。それから日が長いですね。それから冬の特徴は吹雪が多いことです。水は大体スパスク附近はまあ飲むにはよい水でした。乾燥地です。大体蒙古草原を思わせるような草原で、何と言いますかね、小さな丘がずつと続いておるというような地帯でありまして、住民は大体ロシア人が多く、そのほかに現地コザツク、それが若干、併し人口は極めて稀薄です。そんな状態です。ですから、まあ大体満洲のハルピンあたり気候とお思いになれば……。地形はハイラルとか満洲、蒙古地帯、そういうような地帯でした。  それから二番目の給与、これは大体二十二年から四年の間に特別ラーゲルというのができまして、それまでと特別ラーゲルに私たちが入りました以後と、大体給与変つております。最初の二十三年、四年までは、非常に食い物が不足しておりました。これは政治犯刑事犯もみんな一緒になつておりまして、小さな私のおりました煉瓦工場は、大体囚人が百名内外です。それからあと病院地域は大体二百名内外の小さな、ロシヤ語で言うと、トーチカと言つておりましたが、トーチカでした。そこは人数も少いし、警備もなかなか厳重でした。  食はまあ食い足りたと、自分は卑しいかも知れませんが、食い足りたということはありませんでした。  それから衣のほうですが、これは大体二十一年頃までは全然補充がありませんでした。それから二十二年、三年の頃になりまして、大体仕事をよくする人間、優秀な人間だとか、作業の班長、こうい者に優先的にいろいろな下着とか、作業衣防寒具、こんな物が配給になりましたが、まだその頃は全員には配給になりませんでした。で、最初の年は毛布などは全然渡りませんでした。ですから満洲から持つて行つた自分防寒具で寝る。昼間は着て、夜になるとそれを上にかけたり下に敷いたりして寝る、そんな程度でした。  住宅南京虫が大分おりまして、これはソ連のほうでは大分予防に努めておりましたが、やはり罪人は大して一生懸命にやらないのですね。ですから南京虫が相当おりました。風は大体風呂に入るたびに滅菌をしますので、余り風はおりませんでしたが、南京虫には相当困りました。  それから日本人に対する待遇は最初のうちは小さな百人から二百人のロシヤ人だとか、そのほかのソ連人ラーゲルに入りましたので、日本人を珍らしがつて割合に親切にしてくれました。そういう点、まあ囚人同士ですから、中には嫌がらせを言う奴もいたのですが、大体親切にしてくれました。  それから二十四年に特別ラーゲルのほうに私どもが移されましてからは、大体刑事犯と別になりましたので雰囲気が非常に落着いて、悪いちんぴらや、泥棒や、やくざや、そういうものが全然おりませんので、大体みんな落着いて、ほつとしたような感じでした。その代り監視が今までより更に厳重になつたように感じられます。  それから被服ども特別ラーゲルに着きましてから、大体全員に、働らく者、働かない者でも全員に分配して、特に優秀な者とか秀優でない者とか差がない、全員にくれるようになりまして、住宅のほうも割合に私たちがおりました所は南京虫も余りおりませんし、定期的に一年に二回とか、そういうふうな駆除をいたしますので、住みよくなりました。それから私たちのおりましたスパスクでは、大体病弱者とか仕事ができないような不具者、こういう者がおりましたので、作業生産作業はやりませんで、いろいろのラーゲルの自給的な、壁を直すとかラーゲルの塀が壊れたのを直すとか、それからラーゲルの中の風呂を作るとか、或いは自分の所の食堂を修繕するとかというような作業が主で、そのために生産ラーゲルのような報酬などというものは出ませんでした。話によりますと、カラカンダ附近生産ラーゲルのほうに行つた人たちは、大体二十七年の三月頃から働いた成績によつて金給与するというような状況で、そのかたがたと私がおりましたラーゲルとは若干違つておりましたが、まあ大体年々給与などはよくなつて行くように見受けられました。  それから労働ですが、最初に私が行つた普通のラーゲルでは煉瓦の製造をやつておりまして、十時間労働でした。それからスパスクあたりでは休養ラーゲル関係上、先ほど申上げましたように、自衛のための作業が多いようでした。大体その程度です。  第四番目の思想状況ですが、私たち最初から三人とか五人とか固まつてロシア人の中に入れられましたのですが、思想的にいろいろソ側から働きかけたとか、或いは日本人同士思想的にどうとかこうとかというような運動は全然見受けられず、仕事で一杯、大体朝早くから起されて十時間労働をして帰つて来て、くたびれて寝てしまうというような状況て、思想は満洲で捕まつたときと同じ思想で大体おるようです。  通信状況ですが、これは全然許されませんでした。一度か二度私が病院にいて大分暇つたので手紙を書いてソ連赤十字を経由して日本に送ろうといたしましたが、これも今のところは日本との交渉がないから駄目だと現地の看守が言いましたので、それ以後全然締めておりました。ですから、スパスクとかあちらのほうで戦争終戦と同時に大体刑を受けた人たちは、ハバロフスク関係人たち通信が許されておるということを全然知らなかつたわけです。私どもナホトカに帰りまして、それでハバロフスク人たち日本通信を許されていたということを聞いて非常に羨ましいと思つたよう状況です。  それから衛生状態ですが、これはまあ大体最初の二十三年、四年頃はやはり全般的に悪いようでした。ところが、特別ラーゲルスパスクあたりに行きますと、やはり医者ども囚人で相当優秀な医者がおりまして、ドイツ人の、ドイツ軍医なんという人もおりましたし、ハンガリーの軍医なんという人も医者になつておりまして、衛生状態割合に努力して、便所だとか、或いは風呂風呂などは十日に一回ずつ、そのたんびに下着と上着を新らしいのと取換えるということを、これは殆んど強制的に、風呂に入らん者はないようにというような監督をしておりました。それから一年に二回ほど自分の寝ている寝台南京虫を煮沸消毒する。寝台を煮沸消毒します。ときどき部屋の中の大掃除を、これはまあ大体ノーデーの前とか、革命記念日の前あたりには三日ぐらいに互つて掃除をやります。そうして、公衆衛生のほうは余り悪いところはないようです。  死亡、これは私のおりましたところでは、捕まつてチタに送られる間に、私たち七人送られたのですが、その一人が戦争最中から下痢をされておりまして、輸送の途中にまあ寒かつたので凍死されました。それからあと知つておりますのは、二十二年の三月になつて、二十二年中に私のおりました病院日本人が二人死んでおります。  それからスパスクにおりまして私の知つている範囲では四名のかたが亡くなつておられます。まあこれが私がソ連におりました間に直接知つております人で大体肺結核の人が死んでおります。栄養が余り摂れませんので肺結核に罹つた人は大体亡くなつておられるようです。  それから疾病の状況ですが、これは大体入院する人は栄養失調で入院しているような状況でしたが、最近は大体栄養失調のようなことも何が一般的に給与が若干よくなつたので見受けられなくなつたようです。  それから娯楽、慰安、そんなのは一週間に一遍乃至は二週間に一度ぼど無料で映画を見せます。話に聞きますとカラカンダ附近ラーゲルではそのほかに有料映画どもつて希望者を募つて好きなときに映画を注文してやるというような設備もあつたそうです。それから一月に一回ぐらい囚人が日曜の休みに音楽会を開く、或いは手品をやるというような状況でした。  それから新聞雑誌、これは大体ロシア語新聞雑誌ですが、これも図書室がありましてそこで読む、その程度です。これが大体スパスクと私のおりました煉瓦工場あたり状況ですが、それから残留者状況を申上げます。  カラカンダ地区は大体一般ラーゲル、これをカル・ラーゲルと言つておりまして、これは反革命罪を除いたほかの人間が入つております。刑事犯が主です。それと特別ラーゲル、これはカラカンダ周辺に約九つぐらいあるようです。私のおりましたスパスクは第九分所という番号が入つておりました。で、一般ラーゲルのほうにいる日本人のことは、いるかいないか、それも私は全然知りません、隔絶されておりますから。特別ラーゲルのほうにおられる日本人は、大体私が知つておりますのはカラカンダ周辺では第九分所スパスクですね。それからあと番号がわかりませんが、サロンストロイという何か都市の建設をしているところがやはりカラカンダ附近にあります、そこに一カ所。それからもう一つカラカンダ附近炭鉱がありまして、これも通称ドウボフカと言つておりました、そこに一カ所。それからもう一つやはりカラカンダ周辺炭鉱です、そこに一カ所。この四カ所に大体日本人のかたが残つておられました。私の知つている範囲ではスパスクに八名、それからカラカンダ附近の名のわからない炭鉱に四名、それからドウボフカと呼ばれるところに五名、それからサロンストロイに七名、こういうふうなかたが残つておられました。それからそのほかに二人、これは丁度私たちが集結する直前にどこかへ移動されたかたなのでありますたが、恐らくカラカンダのどつかのラーゲル向つたのだろうというロシア人の噂でした。こういうかたが二人、これが現在特別ラーゲルに収容されている私の知つている人たちです。で、只今申上げましたように反革命で引つかからない人ですね、そういう人たちが大体、或いは一般ラーゲルにおられるかも知れませんが、これらのことは全然わかりません。  第二番生活状況、これは私のおりましたスパスク生産ラーゲルでございませんのでして、余りほかの生産ラーゲルに比べますと給与がよろしくありませんでしたが、年々まあゆとりができて来ております。カラカンダ附近生産ラーゲルにおられるかたは大体二十七年の三月から働いた者に対して若干の金が出るというので、それで食のほうに向けて、食生活は大体よくなつているというような話です。それから作業も大体金が出るので、一般囚人の心理としてまあ金をもらつて余計食べようと思う人間は一生懸命やるし、金も要らんし、食べるものも足りるから金も要らんというような人は作業も適当にやるというようなことらしいです。  それから思想状態ですが、これは先ほど申しましたように日本人があつちに五人、こつちに七人というふうにばらばらになつておりまして、而もその人たちは大体満洲で捕つたままでいろいろの影響を受けておりませんので、今まで通り思想を持つているようなふうに見受けられました。それで話をすることは大体日本のこととか食物のこと、こんなことが主な状況でした。  第四の今後の引揚の見込、これは私の考えではやはりソ連の出方如何ということが一番大きな問題だと思います。ソ連に対してやはり日本政府かたがた赤十字とか日本国民全部が運動されるということによつて、何とかなるのじやないかと思います。大体簡単ですが以上です。  それから一般カラカンダカラカンダとよく言われますが、カラカンダから南のほうにバルハシという湖があります。その中間にジスガスガンというところがあります。これは銅の産地だそうですが、そこにもやはり独立した特別ラーゲルがありまして、日本人のかたが残つておられるし、又今度引揚げて来られるようですが、知らないかたはカラカンダというと、その附近も含まれておるように思われますが、そこら辺のところはラーゲルの性質上別になつております。そちらのほうから帰つて来られたかたからそちらのほうの残留者に関して調査されるということは是非必要だと思います。それだけであります。甚だ簡単ですがこの程度であります。
  6. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) 有難うございました。  次に大原さんに願います。
  7. 大原一夫

    参考人大原一夫君) 自分大原一夫であります。自分ハバロフスク状況を報告するように言われているのでありますが、ハバロフスクに参りましたのが四十八年でありまして、一年足らずの間に刑を受けまして、囚人になつてからのハバロフスクのほうが長いのでありますので、而も現在残つておる約九百名くらいの日本人の数が現在その環境下において生活しておりますので、前に帰られたかたがいるからいろいろハバロフスクの前の状況御存じだと思いますので、その点に特に限定してお話したいと思うのです。  ハバロフスク抑留中の事情というのは大体御存じだろうと思うのですが、四九年の十月、早い人は八月頃から監獄に入りまして、四九年の十月、十一月頃にハバロフスクの第六分所というラーゲルがありまして、そこに一つの完全に刑を受けた日本人囚人収容所ができました。それから五〇年の二月、これまでは最後の梯団が四九年に帰りまして、五〇年の二月に軍事捕虜として残つた者はなく、殆んど刑を受けた者ばかりで生活するような状況になつておりました。五〇年の四月にもう一個梯団ですが、そのときに刑を受けた者が何名だつたか記憶はありませんが、その梯団が入りました。そのために自分たちもそのときに恐らくこれで帰れるだろうというような希望を大きく持ちましたし、殆んどみんな信じていたのでありますが、実際そういう結果は生れないで今日に及びました。  向うのほうの給与、衣食、そういうふうな状況はいろいろ書かれおりますし、殆んど言い尽されておるのですが、戦後十年も経過しまして、大体現在の状況はおおむね初めの頃に比べますと非常にいい状況になつております。勿論食生活においてもそれで十分だというような食事ではありませんが、腹が減つて困る、どうにもならんというような食生活ではありません。具体的な数字を申上げますと、パンが三百五十グラム、雑穀が四百五十グラム、野菜が八百グラム、肉が五十グラム、魚が百五十グラム、砂糖が十八グラム、油は動物性か大・七グラム、植物性が十グラム、塩二十グラム、茶が三グラム、味噌の代用としてもらいますドロジーという一つの飲物を作りますが、それにもらう粉が十五グラム、それからたばこ巻たばこのマホルカが十グラム、葉のたばこが五グラム、大体そのような状況です。それから衣のほうは冬の被服の切替が十月の二十日頃に切替えになります。着用します被服綿袴自分たちが着て帰つて参りました綿の入つた昔の満腹のような服を貸与してくれます。寒いときは零下三十度から三十五度まで下りますので、何枚着ても実際のところ非常な寒さを感じます。併し着るものも限定されておりますので、それ以上着ようにも着るものもなし、それでも特別に立つていても凍えて死ぬというような被服状況ではありません。それから夏の被服はここにメーデーを前後としまして、綿衣綿袴を返納しまして、普通の薄い木綿の上下が支給されます。これは必ずしも毎年新らしいものが支給されるわけではありません。去年使いましたおおむね程度の良好なものは号のまま繰返して使わして行きますが、被服で困りますものは、向うロシア人もなかなか殆んど着ないのですが、メリヤスのシヤツというものは実際泊りません。そのために寒さに余り慣わていない日本人としては非常にその占困ります。それから作業状況は、損在殆んどが建築作業に従事しております。向うのほうの気持としましては、働く者の気持としましては、どうせ働かなければいかんのならば、若干でも働いて、何らかの報酬を得て自分達生活を少しでも何とか築き上げようじやないかというような気持て衝いておりますので、強い者はそれに応じた仕事をし、弱い人をかばつて行くというような形で自分達がおりますまで、その後も恐らくそうだと思いますが、非常に日本人の間で気持よく働いて参りました。建築内容は、仕事内容は、建築作業でこれほど大きな建物ではありませんが、三十六軒の、三十六家族が住めるような普通のアパートみたいな建築とか、学校とか、それからトーリを作る、ベリイトを作る、トーリ工場といつたような、そういつた建築作業が現在の主体をなしている作業です。一〇〇%全部の仕事を、いろいろな仕事があるのですが、一〇〇%の平均賃金というものを出して見ますと、大体一〇〇%が二十五ルーブルくらいになります。雑役とか建築とか、そういうものをひつくるめまして、それで自分達が手に取ることができる最高額が百五十ルーブルということに限定されております。これを稼ぐためには六百七十ルーブルという金を稼がなければいかんということになつております。四百五十ルーブルというものを生活費にこれを支払います。これは捕虜なつたときからも、それから現在でも生活費が全然変つてないのですが、何回も向うに聞いたのですが、はつきり回答を得たことはありません。それから更に三〇%国家に納めまして、あとの残りが七〇%が自分たちのものになります。これが大体百五十ルーブルという金になつて参ります。このもらいました百五十ルーブルの金を個人が一〇〇%取つても、それが百五十ルーブルが初めはもらえたのですが、最近ではもらえません。ブリガータ、作業隊が全部一〇〇%を超えた場合においてのみこの百五十ルーブルという金がもらえます。これを日本人の間で更に再分配いたしまして、老弱者、こういうふうなかたにバターとか砂糖が食べて頂けるように各人から二十ルーブル乃至三十ルーブルくらいの金を集めまして再分配いたしております。それから特例といたしまして、九百ルーブル稼いだときに二百ルーブルの金がもらえるようになつておるのでありますが、実際九百ルーブル稼ぐということになりますと、若干期間そういうような例も、作業隊も出ましたのですが、体力もなかなか二百ルーブルでは十分に補いがつかないので、やはりそう長期間この二百ルーブルという収入は得られませんでした。僅かの期間こういうようなことがありました。  思想状況でごいますが、前からハバロフスクにおつた人たちが、ハバロフスクが今まで帰りました民衆運動の一番大きな根源地のもとになつてつたようであります。自分たちも四八年に自分は初めから将校ラーゲルにおりまして、ラーダ、タンボフ州のラーダ、それからカザン、これはタタール自治共和国の首都です。それからエラブカというようなところを廻つて参りまして、四八年に来た頃にはハバロフスクに来てびつくりしたような状況にあつたのですが、刑を受けましてからそういうふうなハバロフスクに前からありましたような機運というようなことは全然ありません。というのは自分ハバロフスク最初来た当初は、前職者というために非常に日本人の間からも攻撃されましたし、いろいろな取調べやら何やらで非常に不愉快な思いを一年いたしました。自分を例にとりましても、自分が刊を受けた二つの原因として、関東軍情報教育隊に丸二十日間教育を受けました、それでそのもらつた刑期が二十年でありました。こういうような刑罰が殆んど全員に推して考えられますので、そういうようなことをハバロフスクでやつてつた人たちでも、現実に現われたそういうような結果から、非常な幻滅というものを感じて、現在ではそういうような形は殆んどありません。日本人が異国の地に僅か残され、自分たちのときは千名足らずでありましたが、親以上又肉親以上の愛と情を持つて自分たち生活して参りましたし、現在でも恐らく生活しておると思います。  通信状況は、去年の六月に改めて又許可になりました。小包は本年の三月頃初めて到着いたしました。手紙もまだ全員がもらうところまでは行つておりません。どういう理由か知りませんが、検閲が相当厳重に実施されますので、そういう関係か何か知りませんが、非常に遅れたり、ひどい例は八カ月ぐらい遅れてもらつた事例もあります。それから小包は自分がおりました頃では全員の約四分の一ぐらいしかもらつておりません。四分の一まで行つてないかも知れません。小包の検閲も非常に厳重でありまして、受領いたしましたときに非常に気分をこわすようなことがありました。例えば当初の頃送つて参りました小包の中にはたばごが入つてつたときに、そのたばこを半分に折つて調べてみたり、あとで役に立たなくなつてしまつた例もあります。  衛生状況でありますが、非常にどういう理由からか知りませんが、高血圧の患者のかたが非常に多くあります。若い人でも血圧が二百二十もあつたり、そのような人が大分おつたようであります。死亡それからその他の状況に関しましては長谷川さんのほうで、前にはつきりした数を申されましたので、自分はつきりした数を持つて参りませんでしたので申上げません。  それから娯楽、慰安の状況は刑を受けましてから当初の頃は、日本人の間で劇も許されましたし、音楽も許されたのでありますが、その後だんだんやかましくなりまして、自分が参りました頃ではもう演劇も許されなくなり音楽だけが許されておつたのでありますが、ナホトカに着いてから約ニカ月遅れて参りました病人のかたから聞くと、その音楽も大体禁止されたようであります。映画はもとは一週間に一回、自分たちナホトカに参りましてからは一週間に二回向うで実施しているそうです。  残留者状況でございますが、今まで自分が述べましたような状況下に現在の残留者がそのまま生活しており、自分たち生活しておつたとき以上に帰ることを欲しておるでしようし、日本を恋しがつていることと思います。生活状況の中で自分たちが出てから若干雑穀に代つて米が大分支給されるようになつたというようなことも聞いております。  思想状況は前おりましたより以上にお互いがお互いを信じ合い、お互いがお互いを愛し合つて苦しい生活を凌いでいると思います。  今後の引揚のことに関しましては自分たちがこの日本へ帰りまして非常なたとえようもない感激を覚えました。併しながらまだ向うに残つておられる人たちのことを考えますと、必ずしも全部割り切れたような気持になりません。というのは、自分と同じような者、又或いは自分よりもまだ年の少い者、或いは仕事においても単に給仕しかやつていなかつた、こういうような人もまだ向うに残つておられます。自分としてこうしたらいい、ああしたらいいというようなことはやつたこともありませんからわかりませんが、とにかく同じ日本人が帰ること、ただそれ一つ希望にして向うに残つております。日本の国の要職に就いておられますかたがたに、くれぐれも一日も早く向うの人が帰れるようにお願いいたしたいと思います。又自分たちも帰る日まで勿論微力ではありますが、できるだけのことをいたしたいと思います。  以上簡単ですが自分の報告を終ります。
  8. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) 有難うございました。次に畑野亥之助さんにお願いいたします。
  9. 畑野亥之助

    参考人畑野亥之助君) 自分畑野亥之助であります。タイセットの生活状況お話するのですが、実はタイセット地区は余り期間が長くないのでどうかと思いますが、一応タイセット労面におりましたときの状況をお語いたします。私がタイセットに参りましたのは、勿論裁判を受けまして刑をもらいましてからです。四十八年の十一月十六日にタイセットの囚人の集まるところの大きな収容所、そこに着きまして、別に完全な防寒具もなし、そこで約三カ月、翌年の二月まで小さい部屋に大勢の人間が集まりまして、本当にもう横になつたら横になつたままという状況で、そういう状況ですから、南京虫もやはりおりまして、非常に苦しめられたのです。それで今申しましたように、二月の末にそれからブラック方面に行きますところの支線があります。その支線の、タイセットのラーゲルからほど遠からんところの三十六号分所に入れられました。それはそこは以前に日本捕虜がおつた形跡があります。壁に或いは門のところに日本の文字、ここには近所に糧秣倉庫があつたらしく、そこに日本製の小さな手鋏、日本人の書いたものがあつたのです。その書き物は糧秣、糧食状況を書いたものでありました。そこは大体伐採のラーゲルになつておりまして、そこに集つておるロシヤ国内の人間或いは我々のような東洋人全部集りまして、三個のバラツクにおよそ六百名ぐらいおりまして、一個班或いは二個班の別な作業に就きますが、大かたの人間は全部そのラーゲルから二キロ或いは三キロ離れたところの伐採所まで出かけます。  給与、この給与に関しては全部きめられたところの囚人用の給与で、早く言えば友食いということで、やはりよく働く者はそれの報酬としてたくさんのパン、たくさんの御飯というものをもらつておるわけです。初めのうちは私などそこに入つた頃は余り体の状況がよくなくて、本当の最低を食べておつた次第ですが、ブリガジールが我々の面倒を見てくれるのであります。それでときどき中級どころの給食を頂くようになりました。衣服は大体そのラーゲルに行きましたときに約半月ぐらい経つてから新らしい綿入れの上衣、ブシラー、防寒用のカートンキ、それは全部新らしいものではありませんが、新らしいもの若干と、修理して作業に差支えないというところの衣服を支給されまして毎日の作業に通つたわけです。  作業状況、私たちは大体こういう肉体労働というものに本当は初めての者で、大体現場に通う行き帰りという、この時間だけでも相当肉体的に疲労を覚えるのに加えて、初めての伐採作業ということについて本当に心配したのですが、やはり何が何でもやらされればやらなければならないというのが規則みたいになつていまして、どうしてもそれをやり遂げるということになるわけであります。それで何株切れば何%で幾らという、二、三日あとになるのですが、食糧によつて結局釣られるというような感じで働くわけです。そのほかいろいろ、自動車の積込み、或いは丸太の整理、それから丸太の搬出、いろいろ仕事がありますが、やはり結局そのノルマによつてその給食を目当に相当みんな真剣になつてつているのであります。  思想状況については、大体がそこのラーゲル全部五八条組が殆んどなのであります。別に思想的に教育或いは自分たちの講習なんというものは全然ありません。  通信状況は、ここで日本人が意見を持寄りましてラーゲル側に交渉したのですが、本部のほうと、地区本部のほうと連絡してみようというだけで全然回答がなく、通信状況は全然零でした。  衛生状況は、やはり狭い所に大勢の人間がおるために、南京虫というものに非常に攻められるのて、本当に、体力の落ちた者は入院までするというような人もあるのですが、幸い日本人の中ではそういう人は見受けられませんでした。死亡者においては一名今川さんという人がすでに死亡者名簿によつて皆さんに報告されておりますが、倒木で、風のために目的のほうに倒すべきやつが風のために反対に廻つて本人を下敷にし、僅かな時間を置いて死亡したという悲惨事がありました。それからやはり大きな丸太、立木を扱つております関係上、まあ若干の向脛を叩かれた、ちよつと手を狭まれたとかいう、まあ状況はありますが、それはすぐに治りまして、その方面のほうは大したことはないと思います。  娯楽方面は、そこにおいては初めのうちはこういう方面に余りソ側のほうから言いませんので、又こちらのほうからも大体若干作業の時間も長いために、帰つて来て相当疲れるので、それどころではないというような調子で、まあ放つてつたのですが、やはり何らかの慰安を求めたいというところから有志が集つて交渉した結果、映画を持つて来ることになつたのです。勿論古い映画でありますが、前半、後半と二回に分けて映画を、みんな喜んで映画を見に行きました。演芸会も私のおつた期間にたつた一回でしたが愉快な、日本で言うところの万才風な喜劇などをやつてみんなを喜ばせてくれました。  残留者状況はその地区には、そのラーゲルには私たち日本人が約百人近くの人間がおつたのですが、私どもは今度集るまで、何回か他に転属した人間がありますので、本当に最後に残つた人間というものは僅か五人、六人、多くても十人足らずの人間しかなかつたわけです。今度もお別れするときに当然帰るべきだと思つてつた人が残された。で、お別れするときに本当に涙を流して別れたという状況です。その附近はバムの沿線はラーゲルの数が多いようなんですが、私はあちらこちら歩きませんので、全然と言つていいくらいその人員に関して余りはつきり申せません。生活状況は、最近いろいろと作業の成績も上りまして、みんな給与関係というものは、勿論金は全然出ないのですが、寝具類の補給があつたり、或いは被服、それから靴、そういうものも或る程度の衣類が来るようになつて、みんな喜んでおります。作業は相変らずの伐採が主体なラーゲルだけに、別に変つた作業はないので、本当に初めからしまいまで材木相手の商売です。勿論この思想においても以前と同じ状況です。  そうして今後の引揚に対して、本当にそういう人たちが一日も早く帰れるように、当然帰れるべき人間がどうしたのか向うに残されておる状況は、私たちには本当に不思議なくらいに思われるのですが、この人たち引揚に関してお国の皆様がたからいろいろと御尽力を給わりたいと思います。なお私どもとしましても、本当に微力ではあるが、この留守家族のことも思いまして、一日も早く本人の帰国の途を開きたいと思つております。本当に簡単でありましたが、大体これで終りたいと思います。
  10. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) 有難うございます。  次に佐渡君にお願いいたします。
  11. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) 私、佐瀬であります。私は刑を受けて参ります前は、南樺太の南端にありますところの弥満という所の学校の教員をしておりました。そこで私の学校には青年学校が附随しておりましたので、青年学校の主事を兼ねておりました。そういう関係上、青年学校の、本当の軍で使う擬銃、銃でありませんが、擬銃でありましたが、その擬銃の不始末と言いましようか、それを隠しておりましたところを、いろいろな日本人のかたが、ソ連側のほうからいろいろと何か探すことを、取調べを受けるついでに私のところの学校の武器のことが出たのでないかと思うのです。それで私はその当時御真影を持つてつておりましたので、それを大泊という港に御奉遷いたしまして留守でございました。その留守に指導員であつたところの満月という審が、いろいろ後始末をしてくれましたが、その不始末の責任を以ちまして五十八条の条項の十四項、武器隠匿という罪名を以ちまして、一九四七年の三月に逮捕されまして、豊原を一九四七年の六月二十一日に出発いたしました。そこから邦人並びにソ連の住民の、刑を受けた者を合せまして、はつきりソ連の人数がわかりませんからわかりませんが、約百四五十人が六月の二十一日、豊原を出発いたしまして、ウラジオ経由で丁度モスクワとウラジオの中間の所にありますところのクラスノヤルスク地区のラーゲルに送られました。それが私のクラスノヤルスクに参りました径路でございます。クラスノヤルスク地区というのは、どんな所かと申しますと、気候は夏ですとやはり七、八十度ぐらいになりまして、冬は三十度から、寒いときになりますと零下六十度ぐらいに下ります。大抵どこのラーゲルも同じでないかと思いますが、四十二度以上になりますと作業を中止いたします。併し時間が経過いたしまして、温度が又四十度ぐらいになりますと、すぐ外へ出して働きに出るような状態でございます。私のおりました所は、エニセイ河の丁度上流になつておる所で、本線はリシヨウトという駅から北のほうに線を延ばしておるわけです。それはその線は、名前は何とついておるのか、はつきりわかりませんです。その線に沿うて木材を主として伐採している線でございます。将来はそれは又何かの線に結局は繋がる線ではないかとも想像されます。その線に沿いまして、ラーゲルが約三十ぐらいございます。それからそのリシヨウトから又南のほうへ下りますと、これも又二、三十のラーゲルがあるように思われます。私らがおりましたのは、そのクラスノヤルスクの第十一号というラーゲルに初め参りました。そこは主に伐採で非常に立派な木工場がございまして、そこで以て私どもは伐採の事業に携わりました。併しそういう箇所は新らしいところ新らしいところと開拓をして行くのでありますから、先ず先決問題として鉄道を敷くということになります。で、鉄道の敷設と言いましようか、鉄道工事に、木材の伐採と同時に鉄道を延長して行くというようになつて行くわけです。で、参りました者はこの鉄道の工事に当る者、或いは伐採に当る者、それから木工場の工場に働く者、こういうふうになつております。それからこのラーゲルは大抵私どもは五十八条でありますから、一カ所に置かないというのが向うの建前のようでございます。同じ場所に置かない、大抵二年、或いは一年半とか一年くらいになりますと、その人間を各ラーゲルに移動して参ります、それでありますから所どころほうぼうとラーゲルをその近辺を廻る、こういうふうに前はなつておりました。併し現在はそれがちよつと変りまして、私らが来るときにはゴーパーのラーゲルと言いまして、五十八条のかたは一カ所のラーゲルにまとめておるようです。それからそのゴーパーの人間でもいろいろあるのです。或いは一項から十四項までありますから、それによつて一般ラーゲルに許す条項もあるわけです。大抵十項であるとか十四項なんというのは、一般ラーゲルにもおりますが、大抵ゴーパーの人間は一カ所に集結しておるのが建前のようでございます。  それから私ども給与方面でございますが、参りました当時は、前者のかたからもよく御報告がありましたが、まあ私らがどういうふうに一番先にされるかと言いますと、ラーゲルに入りますと、先ず人の級がきめられるわけです。人間の等級がきめられます。それは女のお医者さんもありますが、男のお医者さんもあります。そのお医者さんが一々体を調べまして、それを大抵私どもつてつたときには、一級から四級までに分けまして、その等級をきめてくれるわけです。その一級から四級によりまして、今度はそれに附随しましてノルマと言いましようか、基準が違つて来るわけです。一級の人は非常に体もいい、それから力もありそうだ、年も若いと言いますと、これにノルマが変つて来ます。それから二級、三級となりまして、大低三級くらいになりますと、それは重労働に充てないで軽労働に充てる。それから四級というふうになりますと、それは仕事をしなくても、ラーゲルで休養いたしまして、給与、衣服、いろいろ全部やつてくれるようになります。それがラーゲルへ入りました一番初めに、そういうふうに私たちに等級がきまるわけでございます。それからそこできまりまして、それぞれの仕事というふうに入るのでありますが、その仕事は、伐採、それから伐採されたものを積み込む人を向うの言葉でパブロスクと申すのですが、それを台車に積む仕事、それからその山から伐り出したものをスタベルと言いまして、山から来た材木をおろしてすぐ台車に積むような仕事、或いは木工場、或いは道路の工事であるとか、そのほかに、私がおりました地方は非常に気候も大体いいんじやないかと思うのです。それと同時に土地も肥沃な関係上、このラーゲルには必ず農業を以て立つところのラーゲルがあります。そのラーゲルは、前に申上げたラーゲルの中に、私らのラーゲルを若し一号といたしますと、一号のラーゲルに、第一分所、第二分所、第三分所、第四分所というふうにラーゲルが分かれておりまして、そこのラ治ゲルの中に女のラーゲルもあるわけであります。その女のラーゲルでは、そういうふうに農業をやりまして、この第一線に働いているところのほかのラーゲルにいろいろな農作物を供給する役目をしておるようでございます。で、参りました当時は、前者のかたが申されたように、非常に、こちらにおりますかたも御苦労なさつたと同じように、やはり当時はソ連でも戦勝国といえども非常に食糧事情はよくありませんでした。で、普通の働きではとても足りませんので、食べる物も何とかして皆さんで食べなければ生きて帰ることができないというような関係で、ラーゲルの中にありますところの草という草は皆食べていました、大体皆。それでまあ向うのほうでは心配して、露助の上のかたが心配して、成るたけ日本人はそういう草を食べたら早く病気になつて亡くなるからやめろやめろと言いまして注意をしてくれるのですが、やはりお腹が空くものですから、大抵いろいろな草を採りまして、それを一回煮まして、その煮たものをスープの中に入れて食べておつたという現状です。それからお腹が空きますから、大抵、私もやりましたのですが、歯などの金を向うで欲しがるので、できるだけそういう歯等も外して皆パンに換えたような次第です。  それから日本人で若い人、私どものような年をとつておる者は、非常にこすいと言いましようか、ずるいと言いましようか、要領がいいと言いましようか、成るたけ働かないようにするのですが、若いかたは非常に張り切つておりまして、何、彼らに負けてたまるものかということであつて、働くのも彼らに負けない、気候、風俗、食糧にかかわらず彼らに必ず負けないで、相当いいパンももらう、又働いてやろうというために、その無理を来して将来、将来ということはないのですが、三年、四年と経つ間にその無理が崇つて来て、病気になつて倒れられたかたも少くないのではないかというふうに考えられます。それでソ連人は、私どもはいろいろな人種と一緒に入つておる一般囚人ラーゲルなんですが、彼らは私たちに、お前たちは余りまじめに働くなくと言つてくれるのです。働かないように、このラーゲルにおつたら働くと早く命を縮めるのだから、お前たちも成るたけ働かないようにせよと言つてくれまして、できるだけ私たちも大事に生き伸びるように教えてくれたのです。そういうような現状です。  併し、ここで思想的方面とか、いろいろございますが、私たちはその思想的に特別な教育を受ける暇もなし、各人種が雑多の中に拠り込まれて、その日その日の働いて帰つて先ず寝ることと食べること以外に楽しみはないのでございますから、そういう思想方面とか、そういうことも全然特別な教育も受けませんし、ありませんでした。  それから通信の方面でございますが、通信状態は、私どもは全然これはありませんでした。  それから衛生状態でありますが、この衛生状態は、樺太で教員をした者が到頭死んでしまわれたのですが、亡くなつたのですが、彼は若かつたのであります。それに病気が、彼の病気は神経痛といいましようか、何というのですか、私らではちよつと解釈できないのですが、熱がないのに足が痛んで、足がつけないような状態になつたのです。ところが医者に行つてみますと、身体は健康である、それと同時に熱がありませんから、休みもなかなか病院ではくれないのです。向うでは、ちよつと見ただけでは痩せてもおらず、熱もありませんので休ましてもくれない。又入院もさしてくれませんので、いろいろと日本人のかたが全部集まつて、たくさんのお医者さんにお願いしたのですが、どうも皆、あれはずるいずるいと言われまして、嘘だ嘘だというような関係で、なかなか本気にしてくれません。まあしまいには、ドイツ方面から来られて俘虜になつておられるお医者さんなどが非常に好感を持たれておるのです。そういうかたに、結局は入院などもさしてもらつてつたのでありますが、結局は亡くなつてしまいました。非常に残念ですか、この休みといいましても、休みもなかなか、一日にノルマのようなものがあるのです。それでお医者さんのところへ行きましても、前に今日は二十人に仕事を休ませると言いますと、行きまして頼んでも、もう二十一人目でありますと、ちよつと熱があつてもお医者さんのほうで休ませないというようなこともあります。そんなような関係で、熱でも高くない病気ですとなかなかちよつと休ましてくれないというようなところが非常に残念でした。又それからこういうことも言えます。お金があればやつぱり何とかそういう入院もできたのではないかと思うのですが、最後にはいろいろお頼みしまして、この人は入院をさせて頂きましたが、到頭それはたしか結核性カリエスというのでしようか、何というのですか、そういう方面で結局は亡くなつてしまつたのです。そういうわけで、まあ向うでこの衛生方面はお医者さんがドイツ人なんかもおりまして、日本人を非常によく面倒を見て下さいました。又向うのほうのお医者さんも日本人のためにはできるだけ便宜を図つてくれておるのでありますが、栄養失調、それから結核性方面といいましようか、そういうような関係から亡くなるかたも多かつた。それから老年で以て脳溢血で亡くなられたかたも非常に多かつた。私らがおるラーゲルで、最近ではレントゲン列車であるとか、そういうものがありまして、又非常によく検査して下さつているようです。私らが参つた当時は非常にそういう、どこも同じでしようが、不備なところも少くなかつたのではないかというふうに考えられます。  それから娯楽ですが、娯楽も前者の申されました通りに、やはり映画であるとか、新聞雑誌であるとか、或いは何といいましようか、日本でいう何かお芝居のようなものをたまにやりまして、私たちラーゲルの中の全体を慰めてくれるというような状態でありました。それが大体一般の我々の、この欄に取扱われたような点でございます。  では、今度は残留している者という方面に移りたいと思います。私たちのクラスナヤスクのほうでは、残つたのは私のラーゲルでは日本人はたつた三人のみであります。私のラーゲルはクラスナヤスクの第一号です。三人残つたのですが、その人たちは一番初めに今回のアミシの結果呼び集められたものは東洋人が一人もなかつた。アミシは東洋人はかからないのかと思つて心配しておりましたところが、これがかかつたわけです。それで非常に喜んでおりましたところが、この五十八条がかからないのです。これはてつきり五十八条はだめかと思つてつたのですが、ところがこれが何といいましようか、五十八条てない人間か三人残りまして、そこにおりましたのは大体五十八条の十項、十四項でございますが、その者は皆二、三日あとにアミシの発表がございまして、私らも今度帰国する一人の仲間へ入れて頂いた仕合せなものの一人であります。あとに残つたかたは、私のラーゲルに残つたのは、その当時火災を起してその責任で帰れなくなつたかたです。それからあとまだ日本人が残つていますのは、大抵殺人方面或いは前に死刑囚であつたかた、その死刑囚であつたかたが死刑がなくなりまして、二十五年の刑になつております。その死刑囚であつたかたと、クラスナヤスクの私の管轄線です、リシヨウトウ駅の北の方の線には、日本人がもう二十名くらいきりしかいないのじやないか、あとは全部刑を明けておるかたです。  それでは地方に出たかたはどうかということになるのですが、地方へ出たかたは初めにいろいろ聞かれまして、お前はどつちへ行きたいとかということを聞くのですが、なかなか自分希望したところへはやつてくれません、刑を明けて出てゆく人たちを見ますと。で、結局は指定された地区に、刑を明けておるものが参るわけですが、それは大抵クラスナヤスクの地区に、私らのように刑を明けた人間は、大体刑を明けておるのじやないかと思います。で、そこからパスポートのようなものが出ますので、そこから自分の好きな場所へ行くというわけにも参りません。そこへ指定されますと、その所に参らなければならないことになるわけです。  それではその参つたものはどうかということになるのてすか、それは私どもラーゲルの中に働いておるものは、そとの様子を測り知ることはできないのですが、想像をしてみますと、働いておられるかたが、若いかたはともかくとして、年取つておられるかたは非常に困つておるのじやないかというふうに考えます。  で、コルホーズとかソフホーズという集団農場に参りますと、働いてそれが収穫した後でなければ、金であるとかいろいろなものがもらえないことになるのでありますから、そこに働いておられるかたは、或いは非常に惨めな困つた生活をなさつているのではないか、刑が明けても困つているのじやないか、一日も早く帰るようにして上げなければならんのじやないかというふうに思つております。それで若い人は、結局は向うはノルマのようになりますから、そのノルマ以上に働きますと金の取れ方もいいわけです。で、私のほうで聞いたところによりますと、カンスク方面に出ておる人たちは、全部でもつて金を出し合つて、そうしてラジオを買いまして、日本のラジオをキヤツチした、そうして非常に張切つて日本の内地の唄が聞けたというので喜んだ便りも、このラーゲルの中に参つたこともございます。  それではそのラーゲルの中のものと地方人との通信はどうかといいますと、これもやはり月に一遍なりニ遍なり、検閲が非常にやかましくて、思うような通信もできておらないような状態です。  それからこれは主に、私が知つている範囲内では、石炭卸しであるとかアルコール工場或いは、ミルク工場であるとか、いろいろ町場にいるかたはそういう所におるだろうし、それから余り働けないかた、やはりそういう農業のほうにおられるかたといろいろ散らばつておるようでございますが、大体クラスナヤスクで刑を明けた人間は、クラスナヤスクの方面にまだ残つて元気で働いておるのじやないかというふうに思われます。  それで思想方面というようなことも、私どもは全然そとのことは知りませんのでわかりません。  それで今後の引揚の見込等ですが、これはどうぞ一つ現在まで御尽力下さいました御心労といいますか、御考慮なさいましたお気持を最後の一人までもお続け下さいますことを切にお願いしたいのです。向う政府はなかなか相当困難なものかも知れませんけれども、どうぞ向うの、ソ連政府の好感を持たれるようにしつつ、根強く、向うもなかなか根強いような国民なんですが、根強く一つこれを続けて残留のかたの一日も早く引揚げられんことをお願いしたいのでございます。私なんか考えるのですが、なかなか検閲とかいろいろなことが非常に向うは厳重でございますから、できればプラウダというモスクワから出している新聞がある、ああいうようなプラウダでも日本と交通ができるというようなことが若しやできるとしたならば、確かにそれを見た露助はすぐ日本へのところに行つてお前は通信できるのだということを知らせてくれるのじやないかと思う。但しその通信を許すということを向うの一流のプラウダに果して出してくれるかくれないか、これは疑問なことですが、何よりも先にそういうことが日本人じやわからないだろうと皆さんお考えになるだろうと思いますけれども若しそれが新聞などに出ますと、露助は日本人に非常に好感を最近持つて来てくれておるのです。なぜ持つて来てくれているかと言いますと、日本人は非常に勤勉でまじめで泥棒をしないというような点で、ほかのものに鍵を与えなくつて日本人に重要な鍵を今では持せてくれるような現状です。ラーゲルなんかで働いておる理髪屋とか洗濯屋というようなところは今までの私たちの線に沿うたラーゲルでは大抵東洋人が洗濯場とか理髪とかいうことをやつて非常に重宝がられております。病院なんかでも重要な鍵なんかを日本人に持たしておると一番安心しておる、日本人を最近では非常に見直しておるように私は考えさせられております。  それからこれはイルクーツクとクラスナヤスクの近辺にラーゲルではなくつて日本人がまだ匿まわれておるのではないかというようなことも人によつては申されて耳にすることもございますから、或いはラーゲルでなくてもそういうところにも匿まわれておる日本人もあるかどうかわかりませんけれども、そういうところに匿まわれておるのもあるかもわかりません。  それから私が教育方面に携わつておりました関係上、向うの方面の教育のところをちよつと申上げますと、今は義務制が四年から六年になりまして、そうしてどんな辺鄙な場所にでも学校を設けておるようです。日本ですとあれは前科者であるとかいいまして、一回でも刑務所生活でもしますと先生ができないようですが、向うではラーゲルに入つておるかたでも先生の資格があるものはラーゲルの中から引つぱり出してそうして教育しておる。それから土地が広いのでありますから、通信教授の発達も相当やつておるようです。それから最近では教科書をそとの子供たちのを借りて見ましても、年度を増して逐次新らしいもの、新らしいものと教科書を作つておるようです。それからピオネールとかコンソモールとかいいまして、共産青少年連盟と申しますか、同盟と申しますか、何か名前が付くでしようけれども、そういうふうにいたしまして非常に小さいときから教育を施しておるようです。それじやお前どうしてラーゲルの中でわかるかと申しますと、私はラーゲルで洗濯のほうに最後は携わつておりましたが、洗濯場のほうにピオネールの洗濯が私たちのほうに参るのです。洗濯してくれと来ますから、それで大抵どの方面において青少年のあれに当つておるかというようなこともわかる、それで非常に一生懸命小さい子供から教育をやつておるように伺つて参りました。  それから服装なんかも一般は非常に悪いように見えますけれども、子供の服装なんかですが、それでもなかなか子供たちは意思の強いところを持つておるようなところも見受けられます。それは汽車の中から私たちがお菓子でも投げてやつても、彼らは欲しくて一ぱいですけれども、そういう人種の違つたものから投げたものなんかはもらつて食べんというくらいの今プライドを持たせて教育しておるのでないかということを私どもは見て参りました。なかなか頑張つて教育のほうにも力を入れておるというようなところが伺われました。  まとまりませんでしたが、私の申上げたいことは以上です。
  12. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) 有難うございました。只今四名のかたがたがいろいろ御陳述下さいましたが、先ほどの四名のかたがたの陳述に対しまして、或いはそれと関連して外務政務次官並びに厚生政務次官出席しておられますから、御参質疑がございましたらお願いしたいと思います。
  13. 林了

    ○林了君 只今四名のかたから伺いましたのですが、大体のことは地区は違いますが同じような様子に拝見したのでありますが、ちよつとどなたでもよろしいが、最後に佐瀬さんがいろいろ言われましたので、佐瀬さんにちよつとあなたの考え方を伺いたいのですが、先ず第一番にマレンコフ政権になつてから、ラーゲルの中で成るほどこれは平和攻勢というか、政策が変つて来たなというふうに感じさせられる点があつたかどうか、これが第一点。  それから病気の点を言われまして、医者が診ても体は外見から見て何でもない。併し本人は非常に弱つておるにかかわらずなまけ者だと言われたのは野菜が非常に欠乏しておるというので、野菜の欠乏の結果そういうふうな病気が起きたのではないか。それはどなたでもよろしい、それが第二点。  第三点は、刑を終つた者が指定されたところに追放になるというか、どこかへやつてしまわれた、そういう人たちが人種平等ということを言つておるあのソ同盟において食つて行けるかどうか、又これらの人たち引揚が始つておるという事実を知つておるかどうかという問題、これは第三点。  それからラーゲルの中では先ほどラジオなんかを貯蓄した金で買つて聞けるという話がありましたが、自由に物を買えるかどうか、こういうことが第四点。  それから第五点は、ロシアの婦人が非常に日本人を好くということは、男性というものに対しての憧れが強いのか、或いは日本人そのものに非常に興味を持つておるのか、そうしてこれらの人が結婚をして、日本人向うに永久にとどまつたほうがいいというふうなことを刑を終つた人たちの中で言つている人があるかどうか、それが第六点。  それから第七点でありますが、教育の問題でありまするけれども、義務教育が、これは佐瀬さんに伺いますが、四年から六年になつたとおしつやるのですか、年限が延びたと……。
  14. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) 四年制が六年制になつてるのじやないかと……。
  15. 林了

    ○林了君 これはわかりました。  それからその次が、プラウダ紙等に通信日本内地とできるということを発表すれば、日本人引揚が非常に、又追放になつた人たちがそれによつてつて自分もここにおるから、だから是非とも引揚の人の中に入れてもらいたいというようなことのお考えで先ほど言われたか。これも又今の質問以外に佐瀬さんにちよつと伺いたいのです。そういう意味ですか。
  16. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) そういう意味です、それを見まして。
  17. 林了

    ○林了君 それでは以上の第六点について、皆様のどなたでもよろしいから伺いたいと思うのです。
  18. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) どなたか御答弁下さいますか。ちよつと速記をとめて下さい。    〔速記中止〕
  19. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) 速記を始めて下さい。
  20. 大原一夫

    参考人大原一夫君) 自分ハバロフスクラーゲルでありますが、自分ラーゲルではマレンコフに迭つたからどうこうということは自分には感じられませんでした。
  21. 林了

    ○林了君 ほかのかたはありませんか。わからなければわからないで結構です。佐瀬さん、あなたのところはありませんか。あなたは随分いろいろのことについて、教育の問題あたりまでも出入りの者まで捉まえて聞くくらいのかただから、そういう点について感じませんでしたか。
  22. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) 大して、特別変つた点というのは見受けられないように思われます。
  23. 林了

    ○林了君 それから先ほど第二点の、これは佐瀬さんが言われた言葉ですが、外観上は何にも、健康体に見える。併しだんだん弱つて行くのだ。ノルマをやはり相変らず課しまして、医者も体が大丈夫なんだからそういうことについては一級を二級とか、二級を三級に落すことはできないということで働かされたことについては、野菜が非常に欠乏しておるということは、どなたも皆さんの御意見ですね。これをどういうふうにして補つてつたか。或いは又これに対して特別な症状が出ていなかつたということなんですね。
  24. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) これは私が彼にやりましたものは、それは日本人が食堂であるとか、そういうところに勤めておるかたがあるのです。そういうところにはいろいろと食べさせる野菜とか、そういうものが入るわけです。それでそういうかたから特別に、あれを食べたいというので、人参を、向うでは生の人参は大した……、乾燥人参を私の方面では乾燥ばかり食べさせないのですが、地方では乾燥人参を食べさせておるそうですが、生の人参が入る。その生の人参とか、生の玉葱、そういうものをもらつては彼の寝ている所に野菜としてはそれをやつたわけです。
  25. 林了

    ○林了君 それでわかりました。それでは三番目の刑を終つた者が指定された所へ行くのですね。
  26. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) 大体そうです。
  27. 林了

    ○林了君 これはもうお前は刑を終つたからどこにでも、ソ連の国の中ならどこへ行つてもよいというのじやなくて、お前はどこどこへ行けということは指定されるわけですね。そうするとその指定された所へ行つた人たちが一体どういうふうな生活をしておるか。人種平等だといいますから、私は恐らく……これは私も経験があるのです。終戦後になりましてから、悪い言葉かも知れませんけれどもとアメリカ人があんなに親切であつたけれども、我々は玄関で、個人的には非常に仲よくしておつたけれども、公開の席ではなかなか中に入れない。ところがソ連の大使館は堂々と中に入れましていろいろ待遇されて、実に人種平等ということに対して、これだけやつている国はないとそのときに私は思つたくらいです。あなたが追放された人たちが、追放という言葉は当るか当らんか知りませんが、自由になつた人たちが職を永めて働いて、満足して働けるかどうかということです。私の伺いたいことは、そういう人たちがあつたかどうか、ソ連には。
  28. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) 向うのかたと一緒の所へ入つてソ連人と共に同じ途を歩んでいるのじやないでしようか。特別日本人だから差別をつけておるんじやなしに、同じ農場なら農場で一緒ソ連人日本人も朝鮮人も皆で働いているのではないかという、想像です。私はラーゲルから、刑を終えて出ていませんからわからないが。
  29. 林了

    ○林了君 わかりました。  それでは大原さんあなたに質問いたします。この間の引揚のかたに私お目にかかりましたときにその話を伺つたんです。ちよつと名前を忘れましたけれども、自由になつた人たちに会つたときに、犬のような生活をしておつて、本当に自分としては希望を失つてしまつた、ただ生きて行くだけだということを私は聞いたのです。そういう人たちの姿が残留者のすべてである、自由になつた人たちのすべてであるというのであるか、或いは中にはロシヤ婦人と結婚をして、愉快な生活を送つている人があつたかどうか、そういうことを御存じかどうかということをちよつと伺いたい。
  30. 大原一夫

    参考人大原一夫君) 自分がおりましたハバロフスクの、いわゆる戦犯としてハバロフスクで刑を受けた人たちの中で残つた人もいないし、又捕虜の中から残つたへもおりませんので、そういう話は全然自分は知らないのです。わからないのです。
  31. 林了

    ○林了君 ほかの二人はそういうことについて……。
  32. 大原一夫

    参考人大原一夫君) ロシヤ人ラーゲルを廻られたかたは知つておられるかも知れませんが、自分日本人ラーゲルばかり廻つておりましたので知りません。
  33. 林了

    ○林了君 そういうかたはお見えになつておりませんね。
  34. 鈴木拡

    参考人鈴木拡君) 大体刑が終ると五十八条は……スパスク辺りの人はクラスノヤルスクに流刑されるということを聞きました。そこでやはり或る期間には点呼を受けると聞きました。完全な自由人にはなれないらしいです。最初のうちはそこでロシヤ人でも日本人でも、私たちの所は日本人は一人もそういうのはおりませんでしたけれども、とにかく民族は問わず、そこへ行くと流刑地みたいなもので、ラーゲルの壁がなくなつ程度です。
  35. 林了

    ○林了君 それでは今日はその問題は、この間私が伺つたかたがおられませんのでよくわかりませんが、大体そのくらいでとどめます。  それからなおこれらの人たち引揚の始つている事実を知つているかどうかという問題ですね、これは如何です、これは想像になるかお知れませんが、これについては皆さんがどういうふうにお考えになるかどうか。
  36. 鈴木拡

    参考人鈴木拡君) それはやはりプラウダで或る程度赤十字委員のかたが交渉されていおるという記事がありまして、その後のプラウダを私読んでおりませんが、或る程度プラウダを通じて知り得るんじやないかと思います。
  37. 林了

    ○林了君 それから関連いたしまして、プラウダを通じて知るということになると、今収容されている人たちは相当長い年限だから、殆んどロシヤ語の新聞くらいの簡単なことくらいわかりますか。
  38. 鈴木拡

    参考人鈴木拡君) それは大体私たちのいた所は二つに、日本人が少いのですが、二つに傾向がわかれておりました。一つの傾向は年寄の方です。もうつかまつた際にしやくでたまらんというような気持の方ですね。それから若い人でまあ何かに役に立つだろといつて勉強されている方。こういうふうに二つの傾向にわかれました。
  39. 林了

    ○林了君 そうですが。それからロシア婦人との関係ですが、これはちよつと読んだものを見てもそういうふうに面白く書いてあるのかどうかこれは知りませんが、ロシア人日本人との結婚した例は私もたくさん知つておりますし、その家庭も東京でも知つておりますが、これはどうですか、非常に男性に憧れているというのですか、それとも日本人を特にロシア婦人が好いているというのですか、これはどうです。これはどういうふうに見られたのですか。わかりませんか。
  40. 鈴木拡

    参考人鈴木拡君) これはナホトカ収容所で聞いた話です、ですから又聞きですが、大体流刑地に行くとそうすると一人でいるとやはり又にらまれる、家庭を持つと或る程度にらまれないというので結婚するというような話を私は聞きました。これは又聞きですから。
  41. 林了

    ○林了君 ああそうですか。別に日本人が好きだからというわけでもないんですね。(笑声)そういうふうでもないということですね。差支えのあるところは速記を抜いてしまいますから。これはどういうふうに皆さん考えておられるか。そんな程度でそれじやそれはとめておきましよう。それじやそれくらいで大変有難うございました。
  42. 大原一夫

    参考人大原一夫君) 先ほどロシア語の問題で言われたのですが、ラーゲル日本人だけのラーゲルとそれからロシア人一緒に入つて来られた人のラーゲルと大きく二つにわけられるのです。問題を常に二つ差別して考えられませんといろいろな食い違いが出て来ると思いますが、日本へだけのラーゲルにおりました中では別にロシア語を使う必要もないし、局限された、元から東京外語とかそれからロシア語日本でやられたり軍隊当時にやられた人がそういう衝に当られて、結局軍隊又は地方でロシア語を習わなかつた人も別に習わんでも新聞も翻訳してくれるし、日本語にしてくれるし、大して不便を感じないわけです。だから日本人ラーゲルばかりで生活をしていた人間は、初めからロシア語を知らなかつたのがそのままロシア語を知らないで殆んど帰つております。
  43. 林了

    ○林了君 そうした人たちが刑を終えてどつかへ、あすこへ行きなさいと言われたときに、ロシヤ語の話もできないで、それがプラウダにたまたま出ておるということを見ても、こういう引揚状況がこうなつているということを知らずに済むかも知れませんね。
  44. 大原一夫

    参考人大原一夫君) 特に刑が明けた方というのは、樺太地区とか、それからああいうふうな所でソ連の占領下に入つて若干期間ソ連人一緒生活をしてロシア語のようなものを若干でも会得して何か監獄に入つてそれから出たという人が多いのです。自分たちのような純粋な軍人捕虜で出たというのは聞いておりませんし、自分たちの身の廻りでも一回もないです。
  45. 林了

    ○林了君 それからもう一つラーゲルの中で自分がノルマ以上に働いて節約して貯蓄するなら貯蓄する。金を持つているですね。持つこともできるんでしよう。
  46. 大原一夫

    参考人大原一夫君) 貯蓄するなんという……。
  47. 林了

    ○林了君 例えばノルマを或る程度以上やると欲しい食糧あたりでも買つて食べることができるという話ですね。それと同時に、何か物が欲しいという場合に、先ほどラジオなんか買つて日本通信なり或いは歌が久しぶりに聞えたというようなことを佐瀬さんが言われましたけれども、自由にそういうことが買い得るかどうか。
  48. 大原一夫

    参考人大原一夫君) これもロシア人を主体にした囚人ラーゲル日本人自分たち囚人ラーゲルと全然違うのです、やり方が。というのは、自分たちのほうは生活費四百五十六ルーブルというのは先ほど申上げましたように戦争が終つてから現在まで四百五十六ルーブル天引で引かれるのですが、現在のロシア人収容所で適用しておるのは、現在の価格において大体被服配給なつたら自分の金で幾ら、そういうようにして出しておるようなんです。それとロシア人収容所生活というのは日本人よりは若干いい点もあるわけなんです。彼らはやはり個人が主体になつておるわけですね、収容所で。作業隊と言つても必ずしも作業隊が固つておるわけでもないし、個人が常に生活の主体なんです。ところが日本人収容所はそういうようなやり方をとつていないのです。向うは勿論やられるのは個人でしようが、日本人は飽くまでも日本人として固まつた集団としてすべてのことをやつているわけなんです。だから個人でそんな莫大なラジオを買う余裕もないし、とてもそんなあれは出て来ません。
  49. 林了

    ○林了君 いや、私は個人でなくとも、一つ仕事に対してノルマを計算して連帯責任をさせるわけですね、日本人に対しては。
  50. 大原一夫

    参考人大原一夫君) そうです。
  51. 林了

    ○林了君 その連帯責任の中に入つたグループが先ほどの第一何とか班とか第二班とかいうその班でそういうものを買うことができるかということなんです。
  52. 大原一夫

    参考人大原一夫君) 収容所の中に引かれておるラジオは有線ラジオと言いまして、スピーカーだけ付いておるのです。ダイヤルの付いたラジオはないのです。ロシアの地方でもダイヤルの付いたラジオを持つておる家なんというのは殆んどありません。ラジオ配給所というのがありまして、町の中に、そこにダイヤルのついたラジオがあつてあとは全部有線で引つ張つているわけです。スピーカーだけがついているわけです。一日中そのスピーカーが鳴つているわけです。
  53. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) 話の最中ですが、先ほど私が話したのは、ラーゲルの中ではございません。地方に出ておられる方の中でということですから、それだからそれもはつきりしたことを言いませんけれども、買つたというのはカンスク地方です。地方人です。ですからそれもどういうふうにして手に入れて或いはどういうふうに聞けたかどうかもはつきりいたしません。
  54. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) 他にございませんですか。
  55. 湯山勇

    ○湯山勇君 アルコール飲料ですね、これはどなたもお飲みにならなかつたのですか、全然飲む機会というのはございませんか。
  56. 大原一夫

    参考人大原一夫君) 自分たちラーゲルでは禁止されております、はつきり。
  57. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) 駄目です。若し誰かが地方で飲んで来たようなことがあつても、それは非常に何というのですか、調べておる門番といいましようかという者もおりますし、大変罰せられるというふうになつておりますから、ラーゲルの中では禁止されております。
  58. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) 他にございませんか。
  59. 有馬英二

    ○有馬英二君 さつきどなただつたか結核にかかつて死んだ人が多いようだ、鈴木さんでしたか、というようなお話でしたが、それは何ですか、初めから結核であつて向うへ行つて発病したのか、向うで感染したのかというような点わかりませんか。
  60. 鈴木拡

    参考人鈴木拡君) その点専門家でないとわかりませんが大体痩せ型の人がやつぱり栄養が足りなくなつて出て来るのじやないかと思うのです。私たちのいたラーゲルで殆んど結核の方は参つてしまいました。
  61. 有馬英二

    ○有馬英二君 それはこつちから向うへ送られる際にどの地区から来た人が主に死ぬというようなことはありませんか。例えばマンチユリーにいたとか或いは樺太にいたとか、そういう人が余計死んだとか、そういうようなことはわかりませんか。
  62. 鈴木拡

    参考人鈴木拡君) 私のいた所でやはり亡くなられた方が五、六人あるのですが、その方はあつちこつちから来られて、自分の折はハバロフスクみたいに日本人がまとまつておりませんから、ですから、そういう統計的なことはわかりません。
  63. 有馬英二

    ○有馬英二君 そうして大体向うに行つてから一年或いは一年半とかいう、つまりラーゲル生活を行なつて間がないうちに大抵死にましたか、或いはあとから死にましたか。
  64. 鈴木拡

    参考人鈴木拡君) そうです。やはり最初の二、三年が一番死にました。
  65. 有馬英二

    ○有馬英二君 なお伺いしたいのですが、向う医者は、さつきもお話なつたが女の医者がある。これは樺太占領当時もそれから満洲あたりでも女の医者が相当たくさんやつて来たらしいのですが、ラーゲルは主として女の医者が多いようですか。そうでもないですか。ドイツ医者もいたというが、それは俘虜ですか。
  66. 鈴木拡

    参考人鈴木拡君) そうです。
  67. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) 女のかたが大体多いようです、私らのラーゲルでは。
  68. 有馬英二

    ○有馬英二君 薬品ですが、薬品が樺太あたりでなくても、北満でもそうであつたように聞きましたが、ドイツの製品がたくさん入つて来た……。
  69. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) 日本のものが入つておりました。そうして日本の字があるから、これは何に効く薬だという……。
  70. 鈴木拡

    参考人鈴木拡君) チェッコスロバキヤのもありました。
  71. 有馬英二

    ○有馬英二君 それからそういう医療に用いておる機械類、例えばレントゲン機械とかいうような設備に対してはどういうような何がありましたか、おわかりになりますか。
  72. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) 今リシヨートーから北の私らのラーゲルには第一号というところにレントゲンがありまして、それから列車に今、前までは地方のラーゲルから身体の工合の悪い者は私の一号まで皆下げて来ました。そして身体を調べて悪ければ入院させるし、それでなければ帰したのであります。現在は列車のレントゲン設備がありまして、もう列車についたレントゲンで以て第二号なら第二号に技師と一緒に行きまして、そこで以て調べて一々囚人を下げて来ずに、列車についたレントゲンで以て各ラーゲルを廻つて歩いて、そうしてレントゲンの調べをやつております。
  73. 大原一夫

    参考人大原一夫君) ハバロフスク収容所内にあります。
  74. 有馬英二

    ○有馬英二君 そういうような設備の改善というようなことはこの二、三年と、あなたがたが収容された当時、格段の差があるというふうにお感じになりますか。
  75. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) 感じます。
  76. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) 如何でしようか、もう一時になりますし。
  77. 藤原道子

    ○藤原道子君 衆議院との関係で中座ばかりしておりまして、看護婦さんたちが相当どつか連れて行かれたというような例も聞くのでありますが、そういう日本の婦人は全然ソ連では消息はわかりませんか。
  78. 大原一夫

    参考人大原一夫君) 自分は聞いた話ですが、ビロビジアン地区に大分看護婦さんが入れられましたが、最初の帰還で殆んど帰られたらしいのですが、自分は一遍もお目にかかつたことはありません。一緒におつたこともありません。
  79. 藤原道子

    ○藤原道子君 全然残つておるという消息はどなたもお聞きになりませんか。
  80. 大原一夫

    参考人大原一夫君) 聞いておりません。
  81. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) 聞いておりません。
  82. 湯山勇

    ○湯山勇君 原爆の噂ですね、そういうことは収容所内でお聞きになつたことはございませんか。
  83. 大原一夫

    参考人大原一夫君) そういう話は聞いたことはないですな。何せ、もう塀に囲まれた中ですからね。
  84. 鈴木拡

    参考人鈴木拡君) 私はそういう話を聞いたことがありました。取調べの時に先ず聞かれたのです。ハイラル取調べられた時に、取調べの将校が、原子爆弾が落ちたのを知つておるか、こういうふうなことを一番初め聞かれた。その時に、自分は全然知らなかつたから知らんと答えました。それからあとで、最近になつて一人のロシア人が私に話したのですが、やはり広島の、原子爆弾のことを何かいろいろ質問していましたけれども、彼は何か原子爆弾が落ちると白血球がやられるというようなことを言つて、却つて私に説明してくれておりました。そんなロシア人も一人おりました。大分関心を持つておるらしいです。その程度です。
  85. 藤原道子

    ○藤原道子君 皆さんがお帰りになりましてからそれぞれお家がおありになりますか。
  86. 佐瀬義男

    参考人(佐瀬義男君) はあ、あります。
  87. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) ようございますか。それでは、本日はお疲れのところ長時間本委員会のために御陳述或はは質疑に対して御答弁願いまして有難うございました。厚くお礼申上げます。  ちよつと速記をやめて下さい。    〔速記中止〕
  88. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) 速記を始めて。  次に先に派遣されました委員の各位から派遣の調査報告を願いたいと思います。
  89. 中山壽彦

    中山壽彦君 私は先般院議によりまして愛知県及び福井県に出張いたしまして、ここに報告書ができておりますが、もうすでに時間も遅くなつておりますし先例もあることでありますから、この報告を速記録に残しましてこの席での報告を省略願いたいと思います。
  90. 藤原道子

    ○藤原道子君 私も過日横山委員と共に、岩手、秋田県下へ派遣されまして、冷害地における生活保護実施状況や或いは児童福祉対策、又人身売買の実情等について視察して来たのでございますが、ここに報告書を作成してございますので、同じく速記録に載せて頂きまして、皆さまにそれで御了承願いたいと思います。
  91. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) 速記をとめて。    〔速記中止〕
  92. 堂森芳夫

    委員長堂森芳夫君) 速記を始めて。  本日の委員会はこれにて散会いたします。    午後一時二分散会