○有泉
参考人 お招きいただいて出て来たのですが、私は一研究室の四角の窓から外を見ておるので、世の中の実情には非常にうといのです。従
つて、これから述べます
意見も、
次官通牒を見た所見、それについての感想程度を出ないわけで、現実の問題をあまり深く知
つておりません。それから今お帰りになりました沼田さんが、るるそのお
考えを述べられたのですが、私の
考えは、沼田さんとかなり近い。日ごろからそういうことを相互に了解し合
つておりますので、従
つて重複になりそうな部分は飛ばしまして、少し各論的なお話してみたいと思います。
しかし、とにかくこの
通牒一般についての感想を先に述べさせていただきますと、これにも若干問題があるように思うのです。というのは、
労働省というところは非常に
通牒をたくさん出しておるところだと思うのです。それは必要やむを得ない面があるのでありまして、たとえば
労働基準法を運用する場合、あるいは
失業保険法を運用するというようなときに、一体どういう場合に
失業と認定するかというようなことは、全国的に一応統一して扱わなければならぬ。そして現に
失業保険の手当を払わなければならぬ、こういうような
関係からすれば、その行政解釈によ
つて取扱いを統一する必要上、
通牒をたくさん出すということもまたやむを得ないものだと思うのです。これを、法の解釈であるから裁判がきまるまではどうもできないというようなわけには行かない面があるわけです。
ところが、この
争議に関する問題については、とにかくそういう行政上の取扱いの必要というふうなものはないわけでありまして、これは今日おいおい判例が現われて、およその線が明らかにされて行きつつある時期でありまして、
失業保険や基準法などを運用すると同じような
意味での行政解釈の必要というものではないのではないか。これはやはり裁判所の判例が、
労働組合法で正当な
行為とい
つておるその正当な内容を入れて行くのを待
つていらつし
つてもよいのじややないか。もつとも、私は実情にうといので、
労働省が
ピケの
正当性の範囲について、そういう
通牒を出さなるればならないというような差迫
つた必要があ
つたのかどうかという点になりますと、これは若干政治問題でもありますし、私の批評し得る範囲を出るわけです。しかしせいぜい新聞などで知
つている範囲ですが、そんなところから判断すると、一体そういう必要があ
つたのかということについても強い疑問を持つのです。
そこで第二には、とにかく
通牒が出ますと、これによ
つて一応いろいろのことがとりはからわれるわけです。ところが、裁判所にだんだん
事件が現われて来て、裁判所の判断というものもきまりましよう。これはすべてが最高裁判所まで行くとは限りませんが、とにかく
相当の数の下級審の裁判というものが出されますと、そこである線が明らかになる。そこでまだきまらないのは最高裁まで行
つて、最高裁で大体一定の線が出ると思うのです。ところが、今度の
通牒が、最高裁の出す線とぴたつとしてくれれば、これは内容的には不平を言うべき筋合いはないのかもしれませんが、しかし、これは必ずしもそういうことは望めない。もしこれが、先ほ
どもちよつと御質問があ
つたように、
通牒の線はまだ少しゆる過ぎるという
見解な
どもありますし、それからまた沼田さんはもちろんこれはきつ過ぎると言われたわけですが、どつちにきまりましても、判例というものがどつかに確定をしたときに、
通牒はそれとずれるわけです。そうすると、もしゆる過ぎるということであれば、これは
通牒の線は、
使用者側の
権利を侵害しているわけです。もしこれがきつ過ぎるということになれば、これは
労働者の基本権を侵害しているということになるわけです。判例が出す線とぴたつと一致するのでなければ、今度出した
通牒はどつちかに損害を与えていることになる。そういう問題は、むろん
失業保険などについても起きるわけですが、しかしそれは一応やむを得ない措置でして、
失業保険の保険金の支払いについて争いがあ
つて、最高裁である線が出ますと、一斉に取扱いをかえて、またその線に沿
つて行くよりほかはないのですが、これはどうもやむを得ないのですけれ
ども、そういう
意味でのやむを得なさというものが、一体
争議の
ピケツトの
正当性などに
関係してもあるのかどうか、こういうことが非常に強い疑問を持たされる点です。これは私のような一学徒が、自分
個人の
意見を出すというのは、それが裁判所の判決とうまく合わなく
つたつて、私の
意見が裁判所でいれられなか
つただけの話ですが、とにかく
労働省というお役所ですから、そのお役所側がある
見解を出すということは、そう軽々しいものではない。いや間違
つた、改正するというように、そう簡単に行くものじやない。それによ
つて労使関係がとにかく規律され指導されるという
意味合いを持
つていると思うのです。ですから、もつと慎重であ
つてほしいという感じがいたします。沼田さんも言われましたが、
通牒はそういう
意味では判例などをよく勉強して書いているのではないかと思われる節も多々あるのですが、それならもう少し慎重に行動されたらよか
つたのではないかという気がいたします。
それから、これがこういう時期に出された、ある一定の問題が提起されている時期に出された、こういう
意味についても、その見地からも一体どうだろうという感じを持たされます。
通牒を丁寧に読みますと、沼田さんも言
つているように、いいことも言
つているように思うのですが、しかしこれはこの通りに商業紙の上に載らないのでありまして、これは一部分が、それぞれの新聞が自分で理解した線で載り、それが一般に流れるわけです。そうすると、何か
ちよつと乱暴な
ピケは、もういけないのだというようなことが流れやすい。これは、私今度の
事件と
通牒に関連して経験したことですが、ある新聞社の方が見えて
意見を聞かれたのです。それで一応の
見解を述べたのですが、それが要約されて載
つているのが、まるで私の
意図と違
つた支離滅裂なものにな
つている、そういうものにな
つて伝わります。マス・コミユニケーシヨンの制約、そういうものがあるわけです。そういうことを
考えると、よけいこれはもう少し慎重にしていただいた方がよか
つたのではないか、こういうことを
考えます。
これが
通牒という形でそういう
意見が出された一般的な問題ですが、次に
通牒の内容について少し
考えてみたいのです。これは先ほど沼田さんが
ちよつと言
つておられましたけれ
ども、
通牒はかなり勉強されているのです。しかし、まだ非常に統一のない判例を、あれこれ読んで書いているものですから、そこに出て来る概念が非常にあいまいです。大体見出しからして、「
労働関係における不法な
実力の
行使の防止について」
——何が不法かということこそが、まさに問題ですが、その「不法な」という
言葉を使われている。それも総論的なところで不法なと言
つて、あとの各論的なところで、かなり詳しいことが出て来て、一々これがはつきりされているならば、問題ないわけですけれ
ども、各論のところへ行
つても、
実力で排除するとか、行き過ぎの
行為だとか、厳重なスクラムだとか、はなはだしいいやがらせだとか、これは何がはなはだしいいやがらせか、また解釈しなければならない、そういう
言葉が繰返し繰返し出て参ります。そういう
意味で
ちよつと概念があいまいです。
さらに、沼田さんが指摘したように。違法という概念も非常にいろいろの
言葉が使われています。許されないとか、正当でないとか、できないとか、正当であると解することはむずかしいとか、何かそんなようないろいろの
言葉が使われております。これは結局文章の続きぐあいでそういうことにな
つたという点もあるかもしれませんけれ
ども、やはり何かしつかりしたものが一本通
つていない。沼田さんも指摘されたように、一体違法だということは、刑事上の免責を受けられないというのか、民事上の免責を受けられないというのか、それとも指導者なり責任者が解雇されても、不当
労働行為で救済を求めることができないというのか、それぞれのことが明確でないのです。もつとも、これを書かれた人の気持の上では、あるいは違法であるということは、
労働者の保護を与えない、こういう
意味のつもりで一貫しておられるのかもしれませんが、もしそうだとすれば、これはまた私は異議があるのでして、刑事免責を与えるかどうかの
正当性の限界と、指導者を解雇しても不当
労働行為になるかならないかということの
正当性の限界というものは、必ずしも同じでないと思うのです。たとえば
三越の
事件でも、
三越の
ストライキをやり
ピケをや
つた責任者は遂に解雇されて、そして裁判所も二審まで行きましたが、とにかく
争議は違法である、従
つてその責任を負
つて解雇されてもやむを得ないという判断に行
つたのですが、しかし刑事上の問題としては、これはたしか起訴猶予でしようか、検察
関係では問題としては取上げない、こう言
つておられるのです。今の例が適切かどうかわかりませんが、違法だと、こう言
つた場合の
効果は、ずいぶん違うわけですから、従
つて、また何が違法かということの決定も、それぞれの
効果をにらみ合せてきめられることです。
通牒には、遂にその三つの点の
効果について何にも触れておられない。そして何となく違法だ違法だということになると、これは実際にや
つている人たちは、これをや
つたら不退去罪でやられるだろうか、これをや
つたら首切られるだろうかと、全部一緒くたにびくびくせざるを得ない、こういうことになる心配が非常にある。
それから、
通牒の全体を通じて感じたもう
一つの総論的な点は、
労使を対等に扱
つているということです。これは先ほど沼田さんは、
労使対等ということは
一つも出て来ない、こう言われましたけれ
ども、それと私の言
つていることとは矛盾しているわけではありません。
労使の実質的な対等をつくり出すために、法律的な面では対等でなく扱
つているわけでして、憲法自身がすでに勤労者の
争議権というものを大体認めたと言
つてもいいでしよう。二十八条は、団体行動権を認めているのです。それに対して、憲法二十九条は財産権を保障していますが、しかし、それは何も
争議権を保障しているということではない。
ストライキは、いつでもできますが、ロツク・アウトはいつでもできるというわけではない。そのことは、
通牒も、ロツク・アウトは防禦的でなければならないというふうな気分を見せておりますけれ
ども、しかし全体を通じて
労使を法律の面でもま
つたく対等のように受取れそうな書き方をしております。ロツク・アウトに現われたところが
一つですが、同時にこの八というところで「相手方の違法
行為等に対する対抗的
行為」、こうなりますと、ここでは両当事者がま
つたく平等に取扱われている。そういう
考え方自体が、やはり検討を要する点ではないかと、こう思うわけです。
そこでなお各論を少しやりますと、第二にこの
ピケツトについていろいろのことを言
つていられるようですけれ
ども、
ピケツトの
考え方の基本を、この
通牒では、
平和的説得の範囲にとどまらなくてはいかぬ、こういうふうにはつきり出しまして、それに少しあとで説明を加えているのですが、しかし「
平和的説得の範囲」というのは、これはこの
通牒全体を流れている
考え方を私が感じたところが正しいとすれば、どうも言論の自由という程度にとどま
つているように見えるのです。もつとも、厳重なスクラムでなければ、ゆるやかなスクラムならばよろしいというような点などがちらちら見えまして、それで徹底しているというふうには思いませんが、しかし一般の基調としては、どうも言論の自由ということでとどま
つているように
考えられます。言論の自由を
ピケツトの根拠にするのは、アメリカ流の
考え方ですが、しかしアメリカにおいても、実は言論の自由ということに
ピケツトの根拠を求めるのは、必ずしも正しくないという
見解が出ております。それはなぜかといいますと、たとえば私宅を
ピケツトするということはいかぬ、しかし
工場の入口ならいい、こういうのがわれわれの常識で、アメリカでも常識なんでしよう。ところが言論の自由ならば、何も私宅の前でや
つて悪いということはない。そうすると、やはり
工場の前で
ピケツトするのは、言論の自由を越えるものがあるのではないかということが疑問を持たれているのです。そこで何かこの言論の自由を越えるもの
——むろん
日本の憲法二十八条、それから労組法の規定など読み合せると、言論の自由以上のものがあることは明瞭のように
考えるわけです。
〔日野
委員長代理退席、
委員長着席〕
ただ、もう
一つ向うに限界があることは確かでして、
争議だからとい
つて、どんなことでもできる、こういうわけではもちろんない。その限界の
一つは、
労働組合法の一条二項の但書が出しているような
暴力の
行使ですが、これは明瞭に
一つの限界です。それからもう
一つは、財産権の侵害で、これももう
一つの限界だと思います。それは憲法二十九条で、財産権はこれを保障するというように保障しております。ただその財産の侵害というところは、少し註釈を要するのでして、ここで私が言
つている財産権というのは、労働力を結びついて出て来る財産権ではなくて、労働力の結合とま
つたく無
関係に存在する
権利——機械なら機械というものは、労働力と無
関係にやはり
一つの価値を持つわけです。しかし、それが運転をすると、そこで企業、営業としての価値を生み出すわけです。それで営業譲渡ということも
考えられる。その
意味で、労働力と結びついて出て来る財産権というものは、今言
つた限界に入らない。ですから、
争議だからとい
つて、
工場をこわしたり機械をこわしたりということはできないという
意味での限界があるわけです。その
暴力と財産権の侵害と、それからこつちの言論の自由、その中間に広い幅があるように思うのです。
通牒の
ピケツトについての初めのところで「
平和的説得」と言
つているのが、どうもこつちの言論の自由の方に非常に近い
考え方で書かれている、こういうように思うのです。そしてそこへ続けて「例えば」というふうに出て来まして、「例えば」として二つのことをあげております。その
一つは「
工場、事業場に正当に出入しようとする者に対して、
暴行、脅迫にわたることはもとより、一般にバリケード、厳重なスクラムや坐り込み等により、物理的に出入口を閉塞したり」
——「この物理的な閉塞」ということです。バリケードでどうしても入れないという点は、これは物理的でしようが「厳重なスクラムや坐り込み」
——「坐り込み」の方には「厳重な」という形容詞はかか
つていないと思うのですけれ
ども、そうすると、すわり込みはもう物理的閉塞になる。すわり込んでいても、その上を歩いて行けば中に入れるじやないかという気がするわけで、物理的閉塞の例として、一体それが適当かどうか、こういうことが
一つ問題だと思います。それからもう
一つは、「
説得又は団結力の誇示の範囲を越えた」
——説得または団結力の範囲はいい。しかしそれを越えた「多衆の威嚇や甚だしい嫌がらせ」これがいかぬというのです。これはこの草案を書かれた人は、おそらく前の方は物理的な障害で、あとの方は精神的な障害によ
つて入らせない、こういうつもりなのかもしれませんが、この書き方は非常にあぶないところでして、「甚だしい嫌がらせ」なんというのは、一体どこまでがはなはだしいいやがらせなのか、これは解釈の幅の非常に広いところでして、これは
ちよつと困るところですね。
そこで
通牒は、一般的にはそういうことを言
つていますが、しかしもう
一ついいことを言
つているのです。まあ、いいことと言
つていいでしようね。それは、「
ピケツトの
方法、態様はその対象なり、状況なりによ
つて、若干の差異があろう」と、こう言
つておりまして、そしてその対象を基準にして、ここに五つの段階を認めておることであります。それはまず使用者、その他利益代表者、それから
第三者、それから
組合員以外の
労働者、それから
争議を機会に結局
組合から脱落した従業員、それから第五番目が
組合員または現に
組合員である者、この五つの段階を認めておりまして、そしてそれぞれについて
ピケの張れる範囲に標準をつけておられる。第一の使用者、利益代表者には、
ピケツトはできない。
第三者に対しては、これは
通牒の
言葉を書き抜いてみたのですが、穏和に要請できる。それから
組合員以外の
労働者に対しては、理解と協力を要請し、就業を阻止すべく要請できる。それから
争議から脱退した従業員に対しては、極力
説得に努める。それから第五番目の
組合員に対しては、これは
相当長いのです。除名その他の
組合規約で罰するぞと、その反省を求め、統制に服すべきことを要求し、情理を尽して
説得に努める。これは
説得のねばり強さの標準を示しているのじやないかと思います。ですから、
組合員が来たときには、あれも言い、これも言い、いろいろのことを言
つて、そしてここでとめられる。ところが、
第三者が来たときには、穏和に要請することしかできないというふうな、そういう順序を言
つているように思えるのです。そしてそれぞれ段階を認めたということは、
日本の
労働組合のでき方や何かについての実情というようなものも、ある程度取入れられておるように思うのです。
しかし、これとスクラムと結びつけて
考えますと、スクラムは、初めの総論のところで、とにかく厳重なスクラムは初めからいかぬということにな
つてしまいますから、スクラムを組んでいないと、さつさと間を通り抜けて入られる。
組合員に対しても、こんなに
組合の規約で処罰するぞと、その反省を求め、統制に服すべきことを要求し、情理を尽して
説得に努めるなんてことをや
つていると、その間に入
つてしまう、そういうことになるのであります。そこで、むしろスクラムそのものに段階が認められるのじやないか。それは現在の
労働者の、沼田さんが言われているモラルといいますか、そういうところから一定の標準がつけられるのじやないかと
考えているのです。
まず、ゆるやかなスクラムを組んでいること自体は、
通牒もこれがいかぬとは言
つておられない。そこへ使用者がや
つて来る。そうすると、使用者は
説得してみても、きき目がないでしよう。たとえば
個人経営の使用者だ
つたとすると、その人がや
つて来たときに
説得してもきき目がないのでしようから、どうでも入るといえば、あけてやる。しかし利益代表者となるると、これは同じ
労働者で、労政課からどつかへかわればたちまち
組合員になる、そういうものから、まず
説得の機会はあるのではないか、あ
つてもいいのではないか、まずそういうふうに思います。ですから、はいはいと言
つてスクラムを解かないでも違法にはならない。
第三者並に、あるいは
組合員以外の
労働者並に扱
つてもいいのではないかと思います。
それから
第三者が、たとえば
三越の
ピケで、中で買物をしなければならぬ、あしたの結婚式の式服をとらなければならぬ、こう言
つて来たときに、一応きようは
ストライキ中だと言
つて、しかしどうでも入らなければならぬと言
つたら、あけてやらなければならぬ。これはわれわれが
三越の
事件があ
つたあとで、あるいは判例などが出たあとで話し合
つた場合でも、大部分の労働学者が、やはりそういう場合には、どうだとい
つて入れなければならないということにな
つた。ところが、ほかの
労働者が来たときですね。そこからデリケートになるのですが、ほかの
労働者が来たときには、もしそこに
労働者のモラルというものが、沼田さんが言
つたように非常に強い
意味でみなぎ
つておるとすれば、同じ仲間ではないか、それでもわれわれの職場にかわ
つて入るのか、それならばわれわれを乗り越えて入れ、そういうことを言
つてもいいのではないか。たとえばすわり込んでおる場合、どうでも入るならばその上をずかずか歩いて入
つてくれ……。しかし今の点は、脱落した
組合員が来たときには、もつと強い
意味でそれが言えるのではないか。現にまだ
組合にとどま
つておる人が来たならば、これは
通牒によ
つても、とにかく
相当長い時間
説得をやれるわけですから、これはそう簡単にはスクラムを解かない。これはなぐ
つたらいけないわけですが、スクラムをちやんと組んでおれば、なぐれないわけです。まあ押し合いへし合いをやるというところまで行
つても、ただちに違法とは言えない。そういうことをやれば、これは初めの総論のところまで厳重なスクラムという中に入
つてしま
つて、もうだめだ、私はこうは
考えないのです。
時間があまりありませんので、少し飛ばしながら行きますから、そこで
団体交渉というようなところは飛ばしまして、
通牒で言うと四に「
工場占拠、生産管理、強行就業等」という部分があります。
工場占拠は一般にいかぬ、すわり込みはいかぬと、ここではつきり言
つておりますが、しかし、
日本の
労働組合のでき方というのは、周知の通り、企業別、
工場単位でできておりまして、そうしてそこの
工場の
労働者は、大体そこで一生を送るつもりでおる。ですから、労働時間が過ぎれば家には帰るけれ
ども、しかし、とにかく一日二十四時間のうち八時間は眠
つておる。自分のことをや
つたり、家庭の自分の時間というものが八時間、あとの八時間は
工場におる。つまりその
工場は自分の
工場、うちの会社だと思
つておる。そういう意識が強いわけで、そこで首切られれば、すぐよその職場に行く、会社でレイ・アウトすれば
組合が引取
つてくれて、またどつかほかの
工場に世話してくれるという事情のない場合なわけでありまして、従
つて、
ストライキにな
つてそこにすわり込むというのは、自分が、自分の一生の重要な部分をいるべき場所にすわり込む、こういう意識が非常に強いと思う。非常に極端な例を言うと、借家人が、借りたうちですけれ
ども、しかしてそこに住んでいる、これは自分のうちだと思
つて住んでおります。そうすると、借家の期限が切れると明けなければならないわけですが、それはすぐ明けなくても、たちまち不退去罪にならないと同じような、それにかなり近い
意味で、むろん乱暴したり機械をこわしたりはいけませんが、その職場に静かにすわり込んでいるという場合に、これがすぐに不退去罪になるかどうか。こうなると、私の知
つている範囲内では、東京の
労働法学者が大勢集ま
つて労働法懇談会というところで議論をしたことがありますけれ
ども、それがすぐ不退去罪になると言
つた学者は、ほとんど一人もありませんでした。そういうふうな
考え方からすると、すぐすわり込みはいかぬ、こういうふうに書かれているこの内容には、必ずしも賛成できない。
ことに、
通牒は若干ここでもまたあいまいな
言葉を
使つておられるのです。「有効にロツク・アウトが行われている場合」という
言葉を
使つております。有効にロツク・アウトが行われているというのは、実はロツク・アウトはどうすれば有効に行われてるかという問題をすつ飛ばしているわけでありまして、ロツク・アウトは宣言だけでいいか、それともやはりちやんと
工場を閉鎖しなければいかぬかというのは、学者の間に議論があるところです。それをすつ飛ばして「有効にロツク・アウトが行われている場合」こう言
つておられる。どうもこの書き方の中には、ロツク・アウトは宣言だけでよろしいというふうな気分が少しある。そうすると、ロツク・アウトが宣言されたら、たちまちぞろぞろと
工場から出て行かなけければならないという結果になるわけですが、この
通牒はその点には触れないで、ロツク・アウトが行われているのに「使用者の
意思に反して
工場、事業場に侵入し」と、そつちの方だけを取上げておりますけれ
ども、それでは、ロツク・アウトを宣言して、しかしすわり込んだらどうか、それは前の方のすわり込みはいかぬというところで押さえるつもりなんでしようか。そうなると、この有効にロツク・アウトが行われた場合という点も、ただちに賛成することはできないのです。
それから第五というところでは、ロツク・アウトについて
労働省の
考え方が書かれているわけですが、その初めの方に、使用者は、一般に、
争議行為が現に行われているか、または行われようとするおそれが明白かつ逼迫して存する場合には、ロツク・アウトができる、労働協約でロツク・アウトできないと書いてあれば別だが、そうでなければロツク・アウトができる、こういうふのに言
つているのです。しかし、これはある
意味でロツク・アウトの防禦的
性格というものを肯定しているわけでして、その
意味では原則としては正しいと思いますが、しかしここに
争議行為を単に言
つておりまして、いかなる
争議行為でもただちにロツク・アウトができるようにこれは読めるわけです。たとえば、リボン戦術とというのを、全銀連か何か銀行でと
つたことがある。そうすると、リボン戦術というのは
争議行為かどうかということが問題になるのですが、リボン戦術というのは、人によ
つてはあんなものは企業の正常な運営に支障を来さないから
争議行為じやない、こう言うでしようが、使用者の方では、いや、そんなものをやるとお客さんに悪い感じを与えて預金が減
つてしまう、こういうことを言
つて、
争議行為だとも言いがちなことです。ところが、リボン戦術をや
つて、もしそれが
争議行為だということになると、ロツク・アウトができるという結論にならざるを得ない。
争議行為は何もここで制限がく、いきなりぱんと出された概念ですから、そうすると、これはどうも承服ができないことなんです。というのは、これはことしの秋ですが、もう二、三週間前に、関西で、
日本労働法学会の総会がありまして、そこで大阪の色川さんという方が、
争議権と補充の原則とか、何かそういう問題について報告をされましたが、その要旨はこういうことです。
労働者の
争議権の方は、これは
権利としてそもそも認められておることだから、
権利の濫用となれば、
争議権についても濫用
行為は来るが、しかし、たとえば、ごくささいな要求で、使用者に大きな損害を加えるというようなときに、補充の原則で、両方の得る利益と相手に加える損失というものがつり合
つていなくちやいかぬ、こういうようなことが、判例の中でも
ちよつと出ているけれ
ども、それは間違いだ。
労働者の基本権というものは保障されているわけで、正面から
争議権の濫用ということにならない限りは、補充の原則というものはとらない。ですから、
三越事件のときは、何人かの
組合の幹部が解雇された。それは法廷でも争
つていたわけですが、
実力で撤回させようというわけで
ストライキに入
つて、そうして会社には何億かの損害を加えた。こういうものは補充の原則からい
つてもいかぬというような議論が行われがちですけれ
ども、それは
労働者の基本権からいえば間違いだ、こう言われたわけです。色川さんという人は、現に
使用者側の弁護を多くやられている方ですけれ
ども、
労働法学者としてはそう
考えるというふうに言われました。その裏には、今度は、
使用者側の
争議権というものは憲法に保障してありませんし、労働立法を探してみても、定義だけは工業閉鎖というものがありますけれ
ども、
工場閉鎖権を認めたとはだれも言
つていない。通説はそうは言
つていません。そこで、そういう
労働者の
争議行為に対抗して認められる使用者のロツク・アウトというものは、ここには補充の原則が来る。だから、ほんの少しばかしの
争議行為に対して、ただちにロツク・アウトができるということにはならないと思うのです。これはかなり広く承認される主張だと思うのです。ところが、この書き方は、その主張を排斥している。
争議行為がとにかく行われようとしている。行われておれば、あるいは行われる可能性があれば、これはロツク・アウトができる。その
争議行為がどんなものであ
つても、それを問わないというように読めるわけですが、この点は承服できない点です。
それから六の公務
執行妨害というのは、これは飛ばします。これは裁判所が一度出て来ますと、法律上の問題としては、その裁判所の命令に違反してもよろしいというような一般論はとうてい展開できないことでして、問題はあまりないのです。
それから七番目に応援団その他の問題が出ている。この
通牒は、本来、そこの、
争議が行われている
工場の従業員が行う
争議行為と、応援団がやる場合とでは、ある程度違う、こういうことが言われておる。一般論としては、
日本の
労働組合の出来方が、企業別にできていて、必ずしも横断的な
組織がない、こういうことで応援団を
考えれば、一般論としてはそうでしよう。ですから、そこの従業員だ
つたらすわり込んでも、私の
見解によればおとなしくすわり込んでいる限り、すぐに不退去罪ということにならない。しかし、その
工場と縁のない、それからそこでや
つている
組合と
組織上の
関係のない応援団、こういうものが中にすわり込めば、これはやはり排除されてもやむを得ないことでしよう。ただ今日、
日本の
労働組合というのは、だんだんと大きく
組織化されつつありまして、上位団体などがや
つて来て
——これもここでいう応援団に入るかどうかそういうことが明確でないのです。一体
通牒では、そういう上位団体、
組織のつながりを持
つているものがや
つて来たときもひつくるめて応援団と言
つているのかどうか。そうだとすれば大いに疑問がある、こういうように
考えるわけです。
それから最後に、相手方の違法
行為等に対する対抗的
行為、この問題をここで取上げているのは、これは
考え方として正しいと思います。とかく
争議というのは両方でや
つているのに、裁判所などはレンズを
組合の方にだけ焦点を合せる。そうすると、しきりに乱暴をや
つているわけですね。ところが
使用者側の方へ焦点を合せてみると、こつちも乱暴をや
つているので、こつちだけに焦点を合せて、少し乱暴で行き過ぎだという判断をされては困る。そういう双方のこと
考えなくちやいかぬ、そういう前提に立
つて議論をされている、それは正しいと思います。ことに
労働争議というのは、ある瞬間ぱつと起きてぱつと片づくものではなくて、それぞれの原因があ
つて、それが次第に積み重な
つてある
争議に行くわけで、不当解雇があると、撤回しろというようなことを言
つた。なかなか
がんこで、少しやると、また使用者が切
つて来た。あとは何かそういうよらな積み上
つたところで出て来る。その点をもあわせて考慮に入れてもら
つたら、もつとよか
つたというふうに思うのです。そうや
つて、相手のあることだから、相手が行き過ぎて来ると、ついこつちも行き過ぎる。こういうことは一応念頭に置いて、
正当性の限界を
考えなければならぬ。
そこまではいいのですが、ところがそれから先が少し不満があるのです。というのは、ここでも刑事責任、民事責任その他のことについて一緒くたに議論をされている。たとえば緊急避難という
行為についても、刑法の規定と不法
行為に関する民法の規定とでは書き方が違います。そういうようなものを全然念頭になく、これは
労働法的な立場で一括して言われておるのかもしれませんが、そういう差別を無視して、そして必要やむを得ない場合というふうに、やり得る手段というものを限
つて行きまして、そして最後に「特に
暴力の
行使又は脅迫等の
行為は、如何なる場合においても許されない。」とういうふうに締めくく
つているのですけれ
ども、その締めくくりについても、実は問題があるので、先ほど沼田さんもその点触れられたような気もしますが、正当防衛ということも起り得るわけで、正当防衛の場合であれば、
暴力の
行使または脅迫等の
行為は、いかなる場合においても許されないというのは強過ぎるのでして、正当防衛なら
暴力行使も脅迫もできるのじやないか。正当防衛ということをここで落しておられる。緊急避難的な
考えで問題を処理されている、こういうふうに思います。
大体与えられた時間が詰ま
つて参りましたが、最後に少し感想と言いますか、
通牒と少し離れはしますが、きようの話題の中には、警察権の
介入というようなものが問題にな
つているようですが、具体的な問題は最初にお断りしたように私にはわかりません。しかし警察権がどういうときに出て来べきかということ、これは一般論としては言えるわけで、大体私の
権利と私の
権利とが衝突をしているところでは、警察権というものはそう簡単には出て来ない。これは私自身の乏しい経験ですが、隣の家と土地の争いが起りまして、私に言わせると相手が確かに不法なんで、私の土地へ物をどんどん積み上げる。それを片づけようとすると、
妨害する。それから警察の相談部に持ち込みまして、どうだどうだとや
つておりました。ところが相手が一言、これは私法上の争いなんで訴訟になるという問題なんです。こう言いましたら、おまわりさんがさつと引上げて行きました。なるほど、そのときには物足らなく思いましたけれ
ども、警察というものはそういうものだろう、私の
権利の争いであれば、これはやはり裁判をしてやるほかはない、こういうことをさとりまして、結局訴訟をして勝
つたわけでありますが、警察権というものはそういう私の
権利には出て来ない。しかし、私の
権利の侵害が、公の秩序に
関係して来るようなときに初めて出て来る、こういうようなものである。ところで
労働争議というものは、本来私のものなんです。公に非常に影響のある
争議な
どもありますが、本来私のもので、そして一方は
労働者の基本権、
争議権というものをたてにと
つて行く、一方は所有権を理由に攻撃を排除しよう、こうや
つてや
つて行く。そうしてその争いには
——これはアメリカの人が
日本に来て
日本の
組合を指導するときに、
組合運動は、まず
官憲からの自由、使用者からの自由、政党からの自由
——この政党からの自由というのは問題がありますが、アメリカ流の
考え方ではそうです。そう言
つて指導したそうですが、そういう
国家権力からの自由を
組合が与えられておる。また与えられなければ、
労使の対等が実現しない、そういう
考えで
労働関係というものは律せられているのですから、そこへ警察権力というもうが出て来て
ピケ破りをする、そういうふうに見える行動をされることは、厳に慎まなければならないのであります。だから、人をなぐ
つていたら、その人はひつぱ
つて行かなければならないでしよう。物をこわしている人がいたら、それは連れて行かなければならないでしようが、しかし、それはその個々の問題で、その犯罪を犯していると思われるその人をひつぱ
つて行けばよいので、
工場にスキヤツプを入れるために道を開いてやるというのは、警察権としては行き過ぎではないかという印象を持つわけです。新聞に伝えておることがどの程度正しいかは、確かめて参りませんとわかりませんが……。
最後にもう
一つ。大体
労働争議行為も、最初から言いましたように、どこまで行
つてもいいということではない、どこかで限界があるわけでして、その限界の出て来たときに二つのものが出て来る。同じようではありますけれ
ども、出て来るものが違う。それは
一つは警察だと思いますが、もう
一つは裁判所です。イギリスなどの場合では、おまわりさんがこん棒を持
つて出て来て、そうして乱暴をしている人は連れて行くということで、
争議に裁判所が出て来ない。ところが、アメリカの場合は裁判所が出て来て、そうしてインジヤンクシヨンを出したのですが、それでどつちがいいか。これときようのあれとは、あまり
関係ないかもしれませんが、私は裁判所が出て来る方がこわいような、そういう気がいたします。そこで警察権の
行使に強い制約を加えた上で、もし乱暴があれば、その乱暴をしているその人、違法な
行為をしているその人に警察権というものは向けらるべきものであろう。これはいらないことかもしれませんけれ
ども、
通牒を読んで、あるいは最近の新聞を読んでの感想をつけ加えたわけです。時間を少しお約束を超過いたしましたがこれくらいです。