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伊藤参考人 司法制度というものにつきまして、いわば比較法というような立場から常々関心を持
つておりまする私がここで非常に粗雑ではありますが、その
意見を述べさせていただきますことは、非常な光栄に存じておるわけであります。しかしすでに七月にこの委会員で多数の
参考人の方が御
意見をお述べにな
つたようでありまして、私その記録なんかを簡単に拝見したのでありますが、そこでは非常にすぐれた御
意見が展開されておりまして、私がここで新しくそれにつけ加えるようなものもないのであります。しかしそこの
意見にも出ましたように、この問題は学問的のみならず、実際的にも非常に重要である。しかも非常に異論の多い問題でございまして、私のここで述べますことが何らかの御参考になれば非常に幸いだと存ずる次第であります。私の手元に届けていただきました質問事項も非常に広汎にわた
つておりまして、それらすべてにつきまして私が非常に熟した
意見をとうてい持
つておるわけではございませんので、私が関心を持
つております問題に
重点を置きまして
意見を述べさせていただきたいと思います。
そこで最初に
最高裁判所の
違憲審査権の
範囲の問題でございますが、これは最も重要な問題であろうかと思うので、こうい
つた問題になるべく多くの時間をかけてお話をしてみたいとも
考えております。まず現行の法制、つまり
憲法及びそれ以下の諸
法律――
裁判所法を中心とします
法律を前提といたしましたときには、これは言うまでもなく、私は
最高裁判所の現在と
つております判例の立場は正当であるというように
考えております。そもそも
憲法八十一条というものが、今金森先生もおつしやいましたように、その制定の由来から見ましても、またその
規定の置かれておる位置から申しましても
司法、すなわち具体的な権利義務
関係の争訟を解決する前提として違憲
判断がなされるということを
考えていると見ていいのではないか。
従つてむろん学説には異論があるようでありますが、抽象的に、ある法令の違憲を
判断するということはこの八十一条の
考えていないところであると思うわけであります。
従つて裁判所法以下の諸
法律がそうい
つた前提のもとに立
つて制定されていることは、これは
憲法の建前に立
つているものだろうと思うのであります。これは学説においてもやはり通説じやないかというように
考えるわけであります。しかし問題は、それでは
裁判所法を改正するなり、あるいは特別法をつくるなりいたしまして、
最高裁判所に抽象的な法令の
審査権を与えるということができるかどうかという問題でございます。私は、結論を申し上げますと、これは
憲法を改正しなくとも可能ではないかというふうに
考えているわけであります。それにはむろんいろいろな疑問があります。こういうきわめて重要な
権能については
憲法上何らかの
規定を置く必要があるのではないか。たとえば
提訴権者をどうするかという問題が
憲法上改定されていることが望ましいでありましようし、また
裁判所というものは原則として
司法権を行使する機関であるというふうに
考えますと、今言
つたように疑問は多いのでありますが、しかし
現行憲法は、そうい
つたいわゆる
憲法裁判所的
権限を与えることを違憲としてしまうほど強い
意味を持
つておるかどうか、それに対しては私はそうは思わないのでございまして、今申したように
裁判所の
権限というものは、具体的な権利義務の争いというものを前提といたしますけれ
ども、しかし近代
国家における権力
分立というものの原則は、必ずしもそれを徹底することはできないのではないか。常に見られるのは、権力
分立については抑制均衡と申しますか、チエツク・エンド・バランスの原則が付随しているのではないか。権力
分立の最も徹底していると見られる
アメリカの
憲法においても、そういうことがいわれているわけです。
従つてそうい
つた抑制均衡という
一つの
考え方から、いわゆる政策的な考慮から、純粋の
立法権がないものを
国会に与える、あるいは純粋の
司法権でないものを
裁判所に与えるということは、必ずしも絶対に禁止されているとは見られないだろうと思うわけです。現在においてもいわゆる民衆的
訴訟というものは
裁判所に
決定権が与えられておるわけでありまして、これは純粋の
司法権、いわゆる具体的権利
関係の争いというものを前提としていないのでありまして、特にいわゆる
法律上の争訟ではないけれ
ども、
法律でも
つて裁判所に与えられている
権限と見られるのではないかと思わうけです。むろん抽象的な法令
審査というものは、こうい
つた民衆的
訴訟などに比べますと、はるかに違法権が稀薄になるのでありまして、そうい
つた点で問題はあると思うのでありますけれ
ども、しかし
法律でも
つてそれが与えられた場合に、
憲法はむろんそれに対してきわめて消極的であると思いますけれ
ども、それを違憲であるとはしないのではないかというふうに
考えているわけでございます。しかし言うまでもないことでございますが、
憲法上可能であるということと、こういう
制度を採用するのが適当であるということとは別問題でありまして、その採用が適当であるかどうかにつきましては、これは適当でない、いや著しく適当でないのではないかというふうに私は
考えておるわけでざごいます。
その理由について少し述べさせていただきたいと思うのでございますが、
裁判所が具体的な
事件を通じてそうい
つた憲法を保障するということは、歴史的に見てみますと、結局非常な権力作用について法の優越性を確保する、そういう
一つの
手段とな
つて来たように思うのでございますが、これに反していわゆるそういう
司法作用を離れて、
国会の上に立つとい
つたような、一見そうい地位を
裁判所に持たせますときは、むしろかえ
つて裁判所自身を非常に危うくする。のみならず
国家全体の構造を非常に破壊するおそれが強いのではないかというふうに
考えておるわけであります。このことを
考えるわれわれに資料を与えてくれるのはやはり
違憲審査権の母法ともなりました
アメリカの
一つの
経験ではないかというふうに
考えるわけであります。なぜ私が
アメリカを取上げるかと申しますと、私寡聞にしてほかの国のことはよく知らないのでございますが、いろいろな方の研究を拝見してみますと、世界の国のうちで
憲法裁判所とい
つたようなものも含めまして、広い
意味での
裁判というものを通じて
憲法を保障しようという試みがいろいろなされて来たのでありますが、結局一番成功しているのはどこかといえば、やはり
アメリカを除いてはあまりないのではないかというふうに
考えるわけであります。ほかの国でいろいろな
方法がとられましたが、確かに
理論上は非常にけつこうだと思われる点が多いのでありますが、しかしその実効はどうかということになりますと、どうも
アメリカほどの成功は見ておらないのではないかと思うわけであります。ところが
アメリカでは御承知の通りでありますが、百七十年前につくられた
憲法が、しかもそのつくられたときの
アメリカと言えば一弱小国でありまして、また農業国である、それが現在のような大国とあり、しかも世界最大の商工業国である
アメリカをそのまま規律しておる、むろんその間に
憲法改正が若干行われましたけれ
ども、これはほとんどとるに足りない、そうしますと全然違
つた社会情勢を同じ
憲法が支配して来ておるわけであります。しかもそれが支配し得ているのは、言うまでもなく
アメリカの
最高裁判所というものが判例によ
つて憲法を発展さして行
つたからであろうと思うわけであります。そういう
意味では
アメリカの
憲法の歴史は、判例法の歴史であるというふうに言われておるわけであります。しかしこのように
アメリカにおいてこの
違憲審査権を中心とする
裁判所の活動による
憲法の成長といいますか、そういうものが成功して来たのはやはり私は
裁判所自身が、謙抑という
言葉を使いますが、非常に謙譲な態度を常に一貫して来たからではないかと思われるわけであります。そういう態度はどこにあるかといいますと、何よりもまず第一に
アメリカにおいては
司法権の本質から来る制約というものを重んじて来たからにほかならないわけであります。
裁判所というものは
司法権を運用する機関である、それ以外には及ばない、これは
アメリカことに連邦
裁判所においては非常に厳格であるようでありまして、たとえば
日本で言う確認
訴訟に当る宣言的
判決すらこれは
司法権の
範囲に入らないのではないかという強い疑問を長い間持
つていたくらいでありまして、
従つていわゆる具体的
訴訟の解決ということが
裁判所の使命である、それ以外には及ばないということを彼らは堅持して来たように思われるわけであります、むろんこれは
アメリカが連邦
制度であるというようなことも関連しているかと思うのでありますがそうい
つたふうに思うわけであります。そうしてなぜそれではそういう立場をと
つたかという根拠が、質問事項にあるようでありますが、私の
考えるところによりますと、この
違憲審査権を成立せしめ、それを発展せしめた要因としてはいろいろなものが
考えられると思うのであります。たとえば自然法
思想であるとか、あるいはイギリスから受け継ぎましたルール・オブ・ローの
考え方であるとか、あるいは
アメリカが連邦であるとか、あるいはまた
憲法制定初期に財産権を非常に強く保障しなければならぬというような要求が、
違憲審査権を成立せしめたというふうに言われておるのでありますが、しかし周知のように
アメリカの
憲法はこの
違憲審査権を明瞭には
憲法でうた
つていないのですから、この
違憲審査権を確立しようとした例のマーシヤル
最高裁判所長官のあの
意見は、結局
憲法にある根拠を求めてこの
違憲審査権というものを確立させなければならなか
つた、そこでマーシャルが用いた論理というものは、簡単に申しますと、
三つの根拠から成り立
つていると思うのでありまして、
一つは
アメリカの
憲法の有名な
最高法規の条項であ
つたわけです。そこでは
憲法及び
憲法に準拠してつくられた
法律が
最高法規であるという
規定があるわけであります。
従つてそこでいわゆる準拠条項と言われておるものでありまして
法律だけでなくて
憲法に準拠してつくられた
法律が
最高法規である。
従つて憲法に準拠しない
法律はこれは無効ではないかという論理があるわけであります。しかしこれだけは、それではなぜその
判断を
裁判所がするかということが出て来ないわけであります。そこでマーシャルは第二の論拠として、
憲法にいう
司法権は
憲法に基く
事件に及ぶという条項がございまして、
憲法に基いて生じた
事件について
司法権が及ぶという条項を取上げまして、
従つて司法権を運用する場合には、当然
憲法というものを
考えてみなければならない。むろん
法律も
考えなければなりませんが、しかし
憲法と
法律とがそこで
抵触しておる場合には
憲法が今言
つたように
最高のものである。そういう論拠です。それでは第三番目に
司法権とは何かということになりますと、これまた
憲法に
規定があるわけでありまして、
事件と争いという
言葉が使われ、ケースとコントラヴアーシイ、
事件と争いとは何か、これは具体的な争訟に限るということであります。こういう論拠から
アメリカの
法律的な根拠を求めれば、
アメリカでは具体的
事件についてのみ
違憲審査は及ぶということに
なつたと思うわけであります。むろんこの根拠にはいろいろな批判があるわけでありますが、しかしとにかく抽象的な
判断はここでできないということにな
つておると思うわけであります。そこに
アメリカの違法
審査権が
一つの本質的な制約があ
つたと言われておるのであります。のみならず
アメリカにおいてはこうい
つた本質的制約のみならず
最高裁判所を中心とする
裁判所は政策的にもこの
違憲審査権はできるだけ発動しないようにということをはか
つて来たように思うわけです。たとえばある
法律が
二つの
解釈が可能である。
一つの
解釈をすれば違憲である、
一つの
解釈をすれば合憲であるという場合には、常に合憲の方の
解釈をとるというような慣行、それから
法律は常に合
憲法性の
推定がなされる。
ちようど刑事
事件において被告人は無罪の
推定がなされると同じように、
法律は合
憲法性の
解釈、
推定がなされるのであ
つて、これをくつがえすためには合理的に
考えて当然これは違憲である、その程度でなければこれは違憲とはしないというふうにいわれている。それからこれは
日本の
最高裁判所の規則にも取入れられているようでありますが、
最高裁判所の全員の多数を得なければ違憲とはしないというような慣行、あるいはさらに非常に重要な問題として取上げられております
政治的問題はここでは取上げないとい
つたような慣行、そうい
つたいろいろな慣行をつけまして、
アメリカではこの
違憲審査権はで当るだけ謙譲な態度を示そうとしているように思われるわけであります。そうしてまさにこうい
つた制約された
権限の行使、これが
アメリカの
違憲審査権を成功せしめた重要な理由でないかというふうに
考えるわけであります。非常によくこのことを示すのは、今金森先生も少し御指摘になりました例の
ニュー・デイールの場合の
事件であるように思うのでありまして、あの場合には、
最高裁判所はやはり具体的
事件を通じてでありますが、御承知のように非常に大きな
政治的問題に乗り出したわけであります。
国民の多数が支持するものに対して
最高裁判所は、しかもその内部では五対四にわかれるような非常にわずかの差でも
つてこれを違憲であるというふうにして来たわけであります。これに対してルーズヴエルト大統領が非常な反撃を加えたのでありまして、その
最高裁判所改造政策というのは御承知の方も多いと思いますが、
国会に
法律を出して、結論だけをいえば定員を増す。そうして定員を増したところで
自己の政策に賛成する
裁判官を送り込む、そうして
自己の
意見に賛成する
裁判官多数を得させようという政策をと
つたわけであります。
従つてこの
事件は、結局はこの
法律は通らなか
つたのでありますが、具体的には
最高裁判所の力が
意見を変更するという結果を見て落着したようでありますけれ
ども、この
事件の示唆するところは具体的
事件を通じてですら、
最高裁判所というものが
政治的な非常に重要な問題に乗り出して行
つたときは、
最高裁判所自身が非常に危機に落ちるということを物語
つているように私は
考えるわけです。
最高裁判所は
憲法の番人であるとか、あるいは
司法権の優越というようなことが
アメリカでも言われておりますけれ
ども、これはやはり非常に象徴的な
言葉でありまして、そのまま受取ることはできないように思うわけです。それは今金森先生が非常に詳しくお説になりましたように、近代の民主制の下においてはやはり
国会というものが非常に強い、高い地位を占める、
国民の代表者である
国会、しかもその
国会の多数が、これは
憲法に違反しておらないと認めてつく
つた法律の
効力を
最高裁判所が否認するということはあくまでやはり謙抑でなければならたいと思うわけです。むろんこの
議論を徹底して行けば、これは具体的
事件についてすら
違憲審査権を行使するのはけしからぬのであ
つて、
従つてイギリスの
憲法のと
つておりますような
国会主権、
国会のや
つたことは何でも正しいのであ
つて、
裁判所では争えないのだというところにおちつかざるを得ないかもしれないのでありますが、しかし私はイギリスのこの
国会主権の原則というものは、中世以来のイギリス
憲法の発展を背景にして
考えてみなければならないのでございまして、そこではやはり常に法の支配とでもいいますか、そういう
伝統につちかわれて来たイギリス人の
政治的
良識の裏づけがあるのでありまして、これは
憲法学者も常に認めているところであります。
法律的には
国会は何でもできるけれ
ども、事実上は非常な制約が
国会にはあるんだということをい
つているわけであります。そうい
つた意味でイギリスの
国会主権というものは決して万能のものではないとみなければならないわけであります。
日本においては、残念ながらそういうイギリスのような
伝統がないのでありまして、少くとも非常に謙抑な態度ではあ
つてもやはり
最高裁判所が法の支配の
伝統をつくり上げて行く必要があるのではないか、
従つて具体的
事件を通じて行使する違憲
判断というものは、やはり非常にけつこうな
制度ではないか、しかしもしそれを越えると非常に問題が多いのではないかというふうに
考えているわけでございます。大体それが
違憲審査権の
範囲についての私の
意見であります。
それでその次の問題としてある法令を
最高裁判所が違憲と
判断した場合には、これはどのような
効力を持つかという点であります。これも学説は非常にわかれておるようでありますが、私はそうい
つた象徴的
判断を許した場合ならとにかく、現在のもとにおいてやはり個別的
効力しか
判決は持たないのではないかと思うのであります。むろん八十一条を読むだけでは一般的
効力を持つのではないかというような
意見も出そうでありますけれ
ども、しかしそれはやはり
司法権あるいは
司法作用というものに非常に矛盾した見方ではないかと思うわけでございます。むろん個別的
効力説といいますか、そういうものをとりますと、具体的には当事者だけしかそうい
つた判決の
効力を受けないというので、不平等な結果に陥るようにも思えますけれ
ども、しかし具体的にはこれで十分解決できるのではないか、たとえばあの刑罰法規に違反である場合には、もう検察官はそれ以上起訴をいたさないでありましようし、英米のような判例拘束力は
日本の判例は持
つておりませんけれ
ども、しかし事実上の拘束力は持
つておるのでありますから、そうい
つた形でも
つて事は解決して行けるのではないか、そして当然そうい
つた判決があれば、内閣なりあるいは
国会なりが、その前後処置をとるということになるのではないか。
最高裁判所事務処理規則の十四条には、内閣に通知、また違憲の場合には
国会にもさらにそういう通知がなされるように処置されておるようでありますが、その通知を受けた内閣なり
国会がその
法律を
修正するなり何なりして適当に措置をする、これで解決できるのではないか。
アメリカでもいろいろな論議はあるようでありますが、大体実質的にはそれで解決しておるのではないかというふうに
考えておるのでございます。
それから御質問事項の(ハ)と(ニ)とは、ともに関連しておると思うのでありますが、
憲法問題が起きたときにその問題だけを
最高裁が取上げる、あるいはまたその
事件を移送させるという問題でございますが、私の
意見を申し上げますならば、やはり
裁判所というものは抽象的
判断をするのは非常に不適当である。あくまで具体的
事件を通じてある法令が合憲か違憲かを
判断することが適当であるというふうに
考えておるのでありますので、その
憲法の
解釈論だけを取上げるということは適当ではないというように
考えております。
アメリカではややそういう例があるように思うのであります。どうも
日本においてはそれは適当ではないのではないか。もちろん
憲法上そういう
法律をつくれば可能だと私は思うのでありますけれ
ども、しかし
司法権というものは、あくまで具体的
事件を通じて発動され、そして法令の
解釈のごときも、そうい
つた事件を通じて
判断されるのが適当であろうというふうに
考えます。
従つてもしとるとすれば、
事件そのものを
最高裁判所に移送させる、そして
最高裁判所はその
事件の
判断を通じて、
憲法判断をするという
方法が適当ではないか。むろんそれに対してはいろいろな用件なり手続なりが必要かと思うのですが、まだその点の私の
意見は熟しておらないのでありますが、少くとも当事者がただちに
最高裁判所の
判断を求めたいと
考えておるような場合には、そういう道を開いておくことは適当でないのではないかというふうに
考えております。
それからいわゆる勧告的
意見についてでございますが、これは
司法権というものを厳格に
解釈すれば、当然勧告的
意見というものはこれは
司法権の
範囲には入らない。また権力分離を厳格に
考えてもやはりそうだろうと思うのであります。そうい
つたものを厳格に
考えようとする
アメリカの連邦においては、終始これが認められておらないのはやはりそのためであろうかと
考えるわけであります。これに反して権力
分立というようなものもあまり厳格に
考えないようなイギリスにおいては、むろん慣行として行われておるようでございます。但しそれも
裁判官自身は、あまりこの
制度をよいとは
考えていないようであります。カナダなどでは、
法律でも
つてやはり勧告的
意見制度をと
つておるようで、これはカナダでは、
憲法というと少しおかしいのですが、まあ
憲法がありますから、その
憲法違反ではないかという争いが起りまして、イギリスの枢密院が
判決をして、こういう勧告的
意見は、カナダにおいて有効であるという
判決があるようでございます。しかし全体を通じて、勧告的
意見というものは、実際上あまり効果は上
つていないのではないかと思うのであります。
アメリカでは、州においては、御承知の通りつ幾つかの州がこれをと
つているのでございますが、その
効力は非常に疑問であるようでありまして、この
制度が盛んにな
つて行くようには思えない。むしろ廃止して行く州が多いように思われるのであります。むろん
理論的に
考えますと、いわゆる予防
司法ということが最近
アメリカなどでも言われているようございます。争いが起る前にこれを予防しようというので、
理論的にははなはだ勧告的
意見はけつこうのように思うのでありますが、やはり
裁判官が抽象的に法令の
解釈をやるということはあまり適当でないんじやないか。ややその点については気楽に勧告的
意見を与えるという可能性もございますが、何よりもまず
裁判所というものは、それぞれ対立する
意見が陳述され、そういう対立する
意見を十分に聞いた上で
判断をするということが必要でございまして、抽象的にある問題が違憲かどうかということの
決定を迫られた場合には、ややもすると非常に成熟した
意見がそこで出されるということが期待できないのではないか。むろんこの勧告的
意見は、具体的
訴訟について拘束力を持たないと思いますけれ
ども、しかし持たないといいながらも、実際上には一度そういう
意見を出したものについては、あとで拘束力を持つのでありまして、そういうねらいが勧告権にあることは当然でありますから、そういうことをいろいろ
考えますと、どうも適当でないように
考えられるわけであります。もしつく
つても実効はあまりあがらないのではないかというふうに思うのでございます。
その次は、上告
制度に関してでございますが、私は
訴訟法などについてははなはだ無知でございますので、これについての
自分の
意見を述べることができないのでありますが、単なる感想程度のことを申し上げますと、私は
最高裁判所はやはり
憲法上、現在のような
裁判所であることを予定されていると
考えるのでありまして、
従つて現状はやはり維持すべきものではないか、こういう現状維持の前提のもとにいろいろな処置を
考えてみる必要があるのでははないかと思うのであります。そうしますと、やはり当然上告制限ということが出て来るのでありまして、
刑事訴訟法ないし民事特例法のような制限が一応正当なのではないかと
考えるわけであります。さらにこうい
つた上告制限を実効あらしめるために、いろいろな
方法を
考えてみる必要があるのではないかと思います。一部には、
最高裁判所以外に
上告裁判所をつくれというような
意見もあるようでございますが、これは今金森先生の御
意見もありましたように、やはり
最高裁判所については、単なる違憲
判断をする
裁判所ではないのでありまして、普通の判例
抵触のごときは取扱
つて行く。それでなければ
最高裁判所は浮き上
つてしまうのではないかと思われる。そうい
つた意味で、必ずしもそうい
つた意見には賛成できないのであります。これは自信はないのでありますが、できれば原審が上告
審査をするというような
方法は
考えられてよいのではないか。むろんこれも非常に欠陥がないわけではないと思うのでありますが、この
意見の立つ基盤としては、やはり第一審なり原審なりに対する信頼があるということが基礎になると思うので、現状ではやはり不満が起ると思うのですが、
司法制度の
思想としては、そうい
つたふうなところに持
つて行くべきではないかと思うのであります。もともとそういう上告
制度を
考える場合には、
一体上告審というものがどういう性格を持
つているかということに結着をすると思うのでありますが、結局上告審というものは、特殊の性格を持
つているものでありまして、確かに三審
制度をも
つて人権を保障するという点も十分うなずけるのでありますけれ
ども、やはり第一義的には
国家の
法律制度というものを統一するという機能が上告審の第一義的な機能であるのではないか。やはり
訴訟当事者の権利を強く保障するのは、一審、二審というものを非常に充実させるということによ
つて解決して行くべきではないかと思うわけです。こう言うとはなはだ
独断のようにも見えるのですが、私が少しばかりの
最高裁判所の判例なりを見ましての感想では、どうも上告している相当多くは、ただ
最高裁判所まで行
つたということで満足感を得る。あるいはまたあそこまで行
つてだめなんだからというあきらめの感じを持つ。そのために上告しているのではないかと見られるような
事件が少くないのではないか、その結果として、一方のいわゆる上告された側は、民事
訴訟なんかにおいては、権利が非常に侵害されているのではないかと
考えるわけであります。むろんこれも
日本の
国民性なりあるいは
国民感情などからいろいろ検討しなければならないと思いますし、またこまかい点では、地方
裁判所が第一審の場合には会議制をとることが必要ではないかというような、いろいろな
考え方も出て来るのであります。ともかく法や
制度をそうい
つたように持
つて行く、そうして実際的には法曹の
方々がそうした方向に努力するのが筋ではないかと
考えているわけであります。
最後に
憲法裁判所の問題でありますが、これも私はほとんど調べておりませんので、
意見を述べる資格もないのでありますが、感想だけを述べさしていただきますならば、
最高裁判所が抽象的
判断をすること以上に、これはあまり好ましくないのではないかと思うのであります。それはむろん
憲法裁判所の構成その他によ
つて解決できるかもしれませんけれ
ども、何か
国会における
政治的な争いというものが、そのままこの
憲法裁判所の中に持ち込まれて、そうして
国民とつながりのないところで、重要な
政治的問題が解決されて行くということがおそれられるわけであります。
日本の
国民の今の全体の
政治的水準から見ましても、どうもあまり適当でなく、実効を上げ得るように思えないので、むしろこれをつくりますと、どうも欠陥が露呈されるのではないかということをおそれるのであります。もちろん私の
考え方によりますと、
最高裁判所というものは
憲法で設置されておりますから、とにかく
憲法を改正しなくとも、抽象的
判断を与える
権能は
法律で与え得ると思いますけれ
ども、新しく
憲法裁判所というこういう第四権的なものを設置いたしまして、そういう大きな
権能を持たせるということになれば、当然
憲法改正というものが必要にな
つて来るのではないかと
考えております。しかしまあそうい
つたことを
考えているだけでありまして、この
提訴権者をだれにするかということは、全然
考えておらないのであります。
はなはだ粗雑な
意見でありましたが、これで終ることにいたします。