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1954-08-02 第19回国会 衆議院 法務委員会上訴制度に関する調査小委員会及び違憲訴訟に関する小委員会連合会 第6号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十九年八月二日(月曜日)     午前十時四十二分開議  出席小委員  上訴制度に関する調査小委員会    小委員長         小林かなえ君       鍛冶 良作君    佐瀬 昌三君       林  信雄君    高橋 禎一君       井伊 誠一君  違憲訴訟に関する小委員会    小委員長         佐瀬 昌三君       押谷 富三君    小林かなえ君       花村 四郎君    吉田  安君       猪俣 浩三君  小委員外出席者         参  考  人         (国立国会図書         館長)     金森徳次郎君         参  考  人         (東京大学助教         授)      伊藤 正己君         参  考  人         (成蹊大学教         授)      佐藤  功君         専  門  員 村  教三君         専  門  員 小木 貞一君     ――――――――――――― 本日の会議に付した事件  上訴制度及び違憲訴訟に関する件     ―――――――――――――     〔小林上訴制度に関する調査小委員会委員長委員長席に着く〕
  2. 小林錡

    小林委員長 これより法務委員会上訴制度に関する調査小委員会並びに違憲訴訟に関する小委員会連合会を開会いたします。  本日は去る七月に引続き上訴制度並びに違憲訴訟に関し、参考人各位より御意見を聴取いたしたいと存じます。  本日の参考人方々は、午前中は金森徳次郎君、伊藤正己君、午後は佐藤功君であります。  この際一言参考人各位にごあいさつを申し上げます。まことに御多忙かつ酷暑のところわざわざ御出席を願いまして厚くお礼を申し上げます。当法務委員会におきましては、さきに刑事訴訟法の一部を改正する法律案審議出し、さらに第十九国会におきましては民事訴訟法の一部を改正する法律案審議をいたしたのでありますが、これらの審議にあたりまして最高裁判所における未済事件が、多いときは七千件、少いときで五千件もあるというような事情を考え、また一方憲法違反裁判に対して現在のごとき具体的争訟に関してのみ最高裁判所上告裁判所として審議し得るという解釈以外に、抽象的な憲法違反最高裁判所において審査することは必要であるか、また現在の憲法でそれができるかどうかということにつきまして二つの小委員会を設けて審議中でございます。  その趣旨によりまして先月五日から十日まで開会いたしまして、十四名の参考人方々から意見を聴取したのでありますが、さらに本日より六日間小委員会連合会を開会いたして審議を進めたいと考えておる次第でございます。参考人各位におかせられましては、どうぞこれまでの御経験並びに御蘊蓄によりまして忌憚のない御意見を述べていただければ、まことに幸甚に存ずる次第でございます。  まず金森参考人よりお願いいたしたいのでありますが、一言申し上げておきたいことは、金森参考人におかれては、ただいま私の申し上げました前半について御意見をお述べくだされば幸いであります。特にお手元に差上げてあると思いますが、  一、憲法制定当時司法制度はいかなる構想であつたか。特に憲法の第八十一条はいかなる意味を有するものとお考えになるか。抽象的違憲審査権があるかどうか立案者である政府としていかなる見解をとつておられたか。  二、いわゆる憲法裁判所に対する所見はいかがであるか。もし設置を必要とすれば(イ)憲法裁判所現行最高裁判所等一般裁判所との関係はいかん。(ロ)憲法裁判所の組織の大綱。(ハ)提訴権者。(ニ)憲法裁判効力。(ホ)公示方法について所見を述べていただきたい。  三、最高裁判所憲法以外の一般法令審査をする上告部を設けるとした場合に、その上告部裁判官が、違憲審査ないしは憲法裁判所に関与しないものとすることが現行憲法上可能であるかどうかという点について御意見を述べていただきたい。どうぞそれらの諸点に触れていただけるならばまことに幸いだと思います。金森参考人
  3. 金森徳次郎

    金森参考人 お尋ねになりましたことは実は相当の年月を、といつても十年未満ではございますが、経過いたしておりますので、こまかいところまではすぐにはお答えできにくい点があるように思つておりますが、大体の考え方として司法制度をつくりましたときは、例の三権分立思想と申しますか、立法権行政権司法権、そういうものの間にある程度の独立性を保たせよう、そして国政全般がほどよく統一するようにありたい、こういう着想から来ておつたのでありますが、この憲法全体の法律的考え方というものは、従前のヨーロッパ大陸風考え方と違いまして、英米系統思想が骨子になつているというふうに私どもは当時から意識しておりました。そのときに一体司法ということはどういうことであるかということを考えますと、日本言葉で書きますと、司法とは法をつかさどるのでございまして、まず法があつてその法を適当に個々の場合に当てはめて行く、こういうような考え方のように思われます。この考え方はもちろん大体学問的には成立しておることと思いまするけれども、しかし治国の根本制度を立てますときに、そればかりを着想することはできませんで、当るか当らぬかは別といたしまして、当時私の考えておりました気持というものは、一体人間世界には正義が実現しなければならぬ、正義が実現せらるるということはどうして実現せらるるかといえば、結局国民みずからの考えるところによつて正義を認定し、これを実現するように持つて行かなければならぬ。これまでは非常に普通の考え方でありますが、しかしそのときに一方には法律というものがあり、つまり国会の議決によつてできた法律というものがあり、一方には裁判所というものがある。裁判所はあくまでもその法律を発展さしてこまかいところまでに当てはめて行くものであるかどうか、これが多少個人的な意味を持つておりまするが、私の疑問とするところであります。たとえば百条、五百条という法律がございましても、これが未来永劫に発生するあらゆる問題を適切に解決しておるとはどうしても私には考えられません。法文はいかに巧みにできておりましても、それが森羅万象のことごとくに当てはまつて行くような、そういう奇跡的な内容を持つことはできてないと思います。要するに法というものは一つのあらかじめ予想したところの認定的な秩序でありまして、これが具体化されまして個々の場合に当てはまつて行くときには、その書かれたる法以外のものが同時に現われて来るに相違ない、私はそう思つております。そこで法はもとより尊重しなければならぬ。しかし法に現われていないこと、あるいは法の根底に隠れておるようなことは、裁判所を通して具体化されて行く、裁判所というものは、ある意味におきまして、法律そのものをただ分解して、ちようど手品の種を箱の中から探り出すようにする以外に、自分正義を具体的な場合に当てはめるようにあらゆる能力を持つて処置して行かなければならないような気がしております。だから憲法の中にも、裁判官自己の良心に従つて行動する、こうございまするのはそういう意味を含んでおるもののように思います。もつと具体的に言えば、裁判官個々の場合に、ごく微温的な形ではあるけれども、みずから秩序をつくるものである。裁判官判決は法の適用とは言つておりますけれども、しかしそこの中に、個々正義の問題を具体的にいろいろな条件の制約のもとにつくり出すのである。少しく大胆な結論のようでございまするが、しかし私の独断ではございません。そういうふうに考えております。そこでそれでは、法をある意味においてつくる、正義の標準をつくるということになれば立法とどこが違うかという問題が起つて来まするが、これは立法にはおのずから広い範囲抽象的秩序をつくるという機能がございまするし、裁判官が、私が申しましたように、ごく微温的に補助的に秩序を認定するといたしましても、これはごく限られた範囲で、しかも具体的な場合に当てはめてやつて行くものである、こういうふうに考えられます。  長々と申しましたが、かく申しましたことは、要するに裁判特有範囲を持つておるのである、具体的な場合に、正しいと思う判断裁判官を通じて現わして行くのである、こんなふうに考えております。そこでもしも裁判官が一国の法律そのものを動かすようなことがあれば、これは立法権を無視するものである。いわば権限を超過するものであるに相違はないと思います。もちろん裁判官立法権を与えることも憲法のつくり方によつては不都合とは言えないかもしれません。しかし日本の長い伝統及びおそらくは英米系統の国に流れておりまする長い伝統によりまして、裁判官は具体的な場合に正義を宣言しこれを実現して行くものである。一国の法律はその根本において、抽象的に、ことに多くの場合に一般的に原理をつくり出すものであつて、これによつてなわ張りがきまつておるのである。裁判所立法権を侵害してはならない、こういうふうの考えを持つております。そこで憲法立法規定司法規定というものをわけまして、それに付属する国会のこと、裁判所のことを規定しておりますのは、そういうような意味におきまして、権限分立従つて互いに相侵犯せざることを原則としておる、私はさように思つております。ところでここに困難な問題といたしまして、法律というものを国会でつくりますときに、いかに注意をいたしましてもどこかに不備なところがあるかもしれぬ。裁判官が具体的な場合に法律適用するときに、その法律が事によると、具体的の場合に適用する見地から見て、憲法抵触することがないとは言われません。まさか立法機関憲法違反法律をつくるとは推定はできませんけれども、しかし現実の場合にそのような場合が起らないとは何人も断言できません。そこである程度にこの二つのものを調節しなければならぬのでありますが、しかし根本的に三権分立趣旨を破壊しないように、ほどよき程度においてその調和をはかるということであろうかと思つております。  そこでこの憲法はどういうふうに予想しておるかと申しますると、第八十一条によりまして、憲法抵触するような法律について、憲法に適合するかしないかを決定する権限を有するというような規定を設けておるのであります。何も法律を無効とするという権限を認めておるわけではございません。裁判所わくというものはおのずから理論的にきまつておる。これは一種の独断でございまして、条文から推定はできませんけれども、しかし裁判所というものがある限り、その持つておる権能は、個々の具体的の場合に正義を実現するのである。司法ではなくてむしろ正義を執行するアドミニストレーシヨン・オブ・ジャスティスである、こういう考えの方が本来の精神に合うように思つておるのであります。これは英米系思想ならばすぐわかるのでありますが、日本にはたしてその英米系思想が移されたかどうかということは、もちろん解釈問題になつて来まするが、大体この思想に関しまする規定を推して行けば、そういうふうのことになろうかと思つております。  そこで憲法ができまする当時に、その一つ原理、つまり個々の場合に、法律憲法抵触するというならば、その決定をして、その決定に基いて個個の場合にのみ当てはまるような裁判をして行く、こういう趣旨をもつてこの憲法ができておるというふうに考えております。ただ立法の過程、憲法が制定せられまして条文化される通り道におきまして、現在の八十一条は衆議院修正をされております。その修正をされました結果字句に多少増減がございまするので、そのために一応疑いをすれば疑いのできるような余地もあるかと思いまするが、しかしあの修正のときの道行きをひそかに外部からうかがつておりますると――衆議院のおやりになつたことはほんとうのことはわかりませんけれども外部からほのかにうかがつておりますると、意味の上には変化がないというような御趣旨であつたように聞いております。政府はさように答弁をしております。従つて元意味で理解いたしまするならば、八十一条の規定は、要するに最高裁判所終審裁判所である、その上にはもはや訴訟を持つて行く道はない、これを原案の第一項において決定しております。しかし原案の第二項におきまして、重点について申しますれば、法律憲法に適合するかしないかを決定する権限を有す、こういうことを認定をしたわけであります。字句が今から丁寧に見て行きますと多少どこかもの足らぬところがございまして、将来いろいろな解釈を呼び起しておるのは、素朴に見てそれだけのことであります。要するに裁判というわくをあらかじめ予想しておいて、その中で憲法がいわば法律審査権、そして終審というこの二点をきめたものと思つております。この点につきまして私どもの記憶しておるところでは、明治憲法におきましては、裁判所法律審査し得るやいなや、法律の実質上の効力、つまり憲法に違反するかしないかを審査し得るやいなやということが学問上争われておつたように思います。また裁判の実例におきましては一定の道行きをとつてつたように、つまり法律審査はできないというようなふうに行つておるように記憶しておりまするが、しかし理論上から申しまするとそうならなければならぬりくつはございません。裁判所裁判をいたしまするときにいろいろの法を当てはめなければならぬのであります。憲法適用しなければならぬ、法律適用しなければならぬ。この二つのものが衝突しておるときには、裁判所は何とかしてこれを自分の力で解決をしなければなりません。だから憲法違反法律があれば適用しないといつて理論上の形としては悪い、私は学説としてはさよう考えております。しかし国会できめたものを裁判所が動かすということは、これは三権分立制度に照しておもしろくない、こういうふうな気持で実際が動いておつたように思います。だから勅令以下は裁判所審査しておりますけれども法律はそのまま通用しておる、多少憲法上疑わしいものでもおそらくはそのままに認められておつたように思うのであります。ところが今回の憲法におきましては、特に明白に国会立法機関であると同町に国の最高機関であるということを宣言しておりまするので、うつちやつておけばもう裁判所法律効力を批判するということはおそらく許されないと解するのが正当になつて来るのであります。しかしそういうふうになりますると、明治憲法以来国民の悩みでありましたところの法律個々の場合の憲法違反性というものを批判することができなくなり、やはり国民は満足しない。だからして最小限度と申しまするか立法権を著しく侵害しない、しかもやむを得ざる抵触裁判所に解いてもらうというのが、憲法第八十一条の違憲法律審査権というところに現われておると思つております。それ以上でもなければまたそれ以下でもない、この意味においてこの規定ができておるというふうになつておりまして、すでに憲法ができまするときにも、たしかこの裁判所法律審査権というものは法律そのものの運命を奪うようにできておるのかどうか、こういう御質問があつたような記憶もございます。そのときに私はそうじやない、これは裁判をつくり出す途中の道行きとして法律憲法との関係裁判所に関する範囲においてきめるのだというふうに、ごく具体的の効力のみというような意味において認めておりまして、今日いろいろの議論がございまして、裁判所というものは一般的に法律憲法違反の理由によつて無効とすることができ、あるいは無効としないまでも個々の場合にその判決をすればその反射的な効果としてその法律自体が無効になるというような解釈がございまするし、また裁判所が初めから個々事件関係なく法律そのもの違憲性を論議し得るという議論がございまするが、事の当否は私は今申しませんけれども憲法のできまする当時の三権分立精神から言えば、私ども考えておつたことの外にある問題のような気がしております。では実際にそういう必要はないかどうか、こういう議論はもとより起りましようけれどもこれは別の問題でありまして、憲法裁判所権能をきわめて小さく、もし大小の言葉で言い表わしまするならば、立法権最高として、そして司法裁判所は限られた意味において憲法違反法律審査し得るのだ、こういうような意味考えております。一体一国の法律憲法に違反するかどうかということはいろいろな場合に適用があります。何も法律の問題は裁判所ばかりに現われるわけではございません。国民日常生活に全部現われて来るのであります。だからものによつて裁判所に行き得ざる種類のものもあろうと思いまするが、そういうときに裁判所に特に一般的に法律効力を否定するような権能を認めるということは、おそらく無理でございまして、憲法の第何条でございましたか、憲法違反法律効力を持たないということはございましても、これは一般的な理論を言うのであつて個々の場合にいかに処置せられるかということは、複雑な憲法制度の中において別々に取扱わなければならないのであります。裁判所においてのみこの問題がきまるということは、憲法のできます当時そう大胆な気持は持つていなかつたのであります。たしかアメリカ憲法におきましては、何も裁判所が特に法律憲法違反のゆえに否定するという権能は、憲法には書いてなかつたように記憶しております。裁判所というものは先ほども申しましたように各種の法律を扱わなければならぬ、自然憲法法律と両方出て来て衝突して、自己特有権能において憲法違反として法律適用を拒むのだという解釈から来ているように思いますが、日本の方はいろいろの経験に徴し、また国会最高であるということを幾分この場合に補正する意味で特に憲法八十一条の第二項ができたのであります。その原案国会修正せられました前の方に行きますとその辺のことはちやんとわけて書いてありますので、終審裁判所であるということと法律審査権を有する裁判所とわけて書いてございますので、かえつてその方が本当はわかりやすかつたのではないかという気がいたしております。  そこで次に問題を展開さして行きまして、それでは憲法裁判所というものをつくる必要があるかないか、こういうような問題でございます。一体国家の働きは実に複雑なものでございまして、三権分立とは言いますけれども何も三つにわけるわけはございません、理論的に言えば三権のいずれにも属せざるものが相当あると思うのであります。これは現実人間政治をやつて行く上におきましては、ある程度はつきりさせる必要があるが、ある程度は人間良識にまかせておいて適当に動かして行くということが多少できることと思つております。だからこの憲法におきましては、憲法違反法律ができたからというのでこれをてきぱきと片づけて行く手段がないといいましても、これは憲法の欠点にはならない、一体良識ある国民であればこういう基本的の問題はほどよくあしらつて行くものではないかと思つております。ちよつと思ひ起しまするけれどもアメリカではもとより最高裁判所法律審査ができるというときに、ニュー・デイールの問題のときに五つくらいでございましたが、法律憲法違反であるということを裁判所判断をいたしまして、もちろん法律を無効とするわけではございませんが、とにかく一応はこれは論評したり適用を拒んだのであります。そのときに問題が起りましたが、こんな裁判所制度根本的に建て直したらどうか、立法府裁判所に対するいわば非常に不信任の考えを起したのであります。これも無理からぬことでありまして、国家の持つている大きな任務をたれが根法的にさばいて行くか、これは非常に大きな問題であります。大体裁判官というのは安定性の方に重点を置きます、しかし生きた国家はぐんぐん先へ進んで行きます。だからニュー・デイール法律などは大体世の中に合つていると思われておりますけれども、それは古き伝統を持つている裁判所に現われると衝突を起し、そうして立法府がいきり立つということは政治の上から言うと免れにくいことになります。幸いその場合は、いろいろな案が出ましたけれどもそんなにはげしい手段もとらずして、多少は裁判所が実質的に譲歩したような形でおちついたと思つておりますが、にわかにもしも日本におきまして憲法のあらゆる論議を裁判所できめてもらうということに持つて行きますと、私どもには平地に波瀾を起すというようなことは、最高立法機関たる国会最高性というものにかなりの響きが入つて来る心配もあろうと思います。しかしこれは実際の害悪と対応せしめて考えなければならぬので、抽象的にはきめられない、しかし今日まだそういう現実の必要が起つているとは私どもには感じられません。ですから大体の方針が今の方針であつてもいいのではないかと一応は思つております。しかし他の御意見等を伺つておりますると、何となく物足りぬ、国会法律であつてもはげしく論評したいようなものがあり、裁判所行つて裁判所憲法の番人とするのでなければ、国民の自由、権利は守れない、何とかしたい、こういう議論もあるように思います。それも一応は筋が通ることでありますが、いわゆる三権分立ということは、立法機関司法機関行政部とがほどよく対立するということであります。しかし立法機関をねじ伏せるということになれば、それはどうも三権対立ではなくて、三権のうちの一つが他の二つをとつて押えるということになります。三権分立でなくて、三権の破壊ということに極言をすればなるかもしれません。たしかこの委員会におきまして宮澤俊義氏が、国民最後判断をすべきものである、国民こそは主権者であるから……、こういうふうの御意見があつたと思いますが、私もまつたくそのように思つております。三権というのは、川の流れに例をとりますれば、末の方の分流でありまして、末の方で川が三つにわかれておるときに、その間に何かの抵触が起るとすれば、これを統一するものは一番源流でありますところの国民判断をするよりしようがない、理論上はかようになるものと思います。しかし実際面から申しますると、このむずかしい法律的な問題を国民が明瞭的確に裁くということはほとんど予想できません。さればとてほかに方法もないというところに困難な問題がございます。要するに国民良識が実際の要望に応じてほどよく働く。たとえば国会に働きかけて、国会間違つたと思う法律はこれを補正する、こんな形で行くのが結局いいと思いますけれども、しかしそれも理論的に裁判所が全部の法律を批判する、ことに法律そのもの効力を否定する、ある法律憲法に違反するがゆえに絶対に無効である、こういう宣言をするような憲法裁判所をつくつてはどうかという論になるのであります。外国の例にはいろいろその規定の備わつておるものがあるように見受けておりますけれども、はたしてそれが現実にうまく行つておるかどうか、私は実は存じません。ただ日本に今の形でやるとすれば、われわれは過去に統帥権が国の政治の全部を独占してしまつた。どんな法律があろうとも、どんな憲法原理があろうとも、最後には統帥権を組み立てておる人が、統帥権独立という背景によつて一切を指導したという政治的な事例がございますが、もしも裁判所に強い法律を否定するような権能が充実するものといたしまするとき、せつかく国会を国の最高機関といつても、結局司法権こそ国の最高機関であり、司法権の認めるところによつて国家の全部が動くところ、かつて統帥権が力強く動いたかと同じようになるのではないかという気がいたしまして、現在国民の一部にありますように、裁判所をもつて法律を否定するようなものに組み立てて行こうという考え方は、なお研究の余地が大きく残つておるものと思つております。ただしかしそれにしても絶体絶命として、どうしてもそのように法律効力を否定するような裁判所をつくりたいというような情勢が出たといたしまするとき、これは先ほど私が引用いたしました宮澤君の言にありますように、もう三権の統一をはかるのは結局、国民みずからの意思によるよりほかにしようがないという原理に立ち返りまして、しかも国民はほんとうの裁判はできないのだ、人民裁判というものは乱暴という言葉の入れかえである、こんな気持を持つて来るとすると、これは空想的な見解になつて来まするが、私は法律を否定するような裁判所またはこれに類するものも認めるといたしまするとき、それは国民の表決に効力をかからしむるようにでもすべきものではないかと考えます。つまり判決できましたあとで何箇月かの後に国民審査をいたしまして、国民審査によつてその判決を是認した場合に初めて法律効力が失われて行く、こういうふうにいたしますとそれは筋がよく通るのであります。ただ時間がかかる、めんどうだということは当然です。国会がつくりました法律というものはそんなに軽率に批判すべきものではございません。国民投票するくらいのことはあたりまえのことじやないかと思つております。大体日本政治の行き道を見ておりますと、国民国会を軽く見て、そうして国会のつくつたところの法律の権威を軽く見て、自分の欲するある主張を重く見る、その間に混乱が生じておるように思われますけれども、そういう主張そのものが民主主義を破壊する思想であり、民主主義は何といつて秩序根本を置かなければなりません。そこのところに非常にむずかしい問題が起つて来ると思います。  あいまいなことを少し申しましたから、念のためにもう一ぺんこれを明瞭にいたしておきますと、日本憲法国会というものを最高にしておる。これは根本原理でありまして、国会のつくつた法律はできるだけ動かさないようにして、この権威を疑わないようにする。しかしいろいろ手続上や何かの事情によりまして疑わしいことが起つて来るとき、これを現実の場合に当てはめるという原理におきまして、裁判所にその審査権を認める、それ以上に認めない、これが趣旨であろうと思います。  次に一つの問題が起つております。憲法裁判所というものをこの憲法は認めていないのであります。しかし法律をもつてすれば憲法裁判所をつくることができる、あるいは現在の最高裁判所法律を否定する権能を新しき法律をもつて認めて憲法上何らの支障はないのだ、こういう議論がかなり強く行われておるように思います。それもそれだけの論拠はあると思いますけれども、私自身はさように思つておりません。なぜかならば、当初から立法範囲司法範囲というものはこの憲法はわけておるのであります。憲法司法という言葉を使つても、あとで法律でどうでも範囲が動く、そんなぬるい気持でできておりません。言葉は文字にすぎませんけれども、その根底には、司法には司法という範囲がちやんときまつており、これでもつて憲法意味を持つておると思うのであります。だからして一般的に法律を否定する、あるいは普通上の具体的な裁判を離れて、法律憲法にかなうやいなやを裁判する、こういうことになりますと、私どもの先ほどから申しました司法というこの憲法に予想しておる言葉の外に出るものであろう、この憲法をこのままにしておいて、法律でもつて憲法裁判所的の規定を確立することは、おそらく無理が起つて来るのではないかというふうに私は予想しております。これは学説的にいろいろ問題があるかもしれませんけれども、しかし私は深く研究しておりませんけれども、これは従来からの私の一つ考えであり、なお外国の事例なんかを見ておりましても、むしろ私の考えを支持するものがあるのではないか、これはまだ調査中でお答えできませんが、そういうふうな気持を持つておるのであります。そこでなお議論を進めて行きまして、それにしても困るじやないか、実際ある法律が初めから有効であるか無効であるかということがわからないことがあり、いろいろと憲法違反疑いのある法律がたくさん出て来るときに、手をこまねいて見ておるわけに行かないのでありまして、これを何とか早く必要に応じた手段を講ずべきであろうという論も現に現われておりますが、そこへ行くと憲法の持つておる根本の意識にぶつかつて来ます。国会というものの最高機関たるの性質をある程度まで犠牲にするという気持を持つております。何となく気持が悪い考えでございますが、しかし改正するときにいろいろな考慮をする必要がございます。私はそういう部分につきましては、この憲法が実は今問題になつておりますようなある法律効力を争う、こういうことではないのであります。憲法規定自身はそんなに完全無欠なものと私は思つておりません。いろいろ穴があるのじやないか、こんな疑いもこれまでに起つておりまするが、若干予想してみましても確かに穴があるような気がいたします。というのは、これは私の独断解釈でございまするけれども、この憲法の生れて来る道順からそういうことが出て来ておるような気がいたします。ごく普通の平和なる時代に一国が憲法をつくりまするときに、非常に用意周到にどこを押えてもボロの出ないように考慮してつくられるのが普通であろうと思います。一例をあげますると明治憲法であります。明治憲法というものは、もちろん今の目で見れば幾多の破綻を生じ、従つて修正されたのではありますけれども、しかし明治憲法というものはかなり用意周到にできておる。あるいは用意周到にでき過ぎておるから、かえつて世の非難を受けておりまするが、谷川の水がさかのぼつて、もうこの上にさかのぼれない、行き詰まつたのじやないか、こう思うことがございますが、おのずからそこに一つの進むべき道が出て来ると同じように、この明治憲法はあるいはずるいということがいえるかもしれませんけれども、かなり勢いきわまつたと思われるような場合に、ちやんと変通と申しますか、そのときにある程度の、手段を講ずることができるようにできております。だから数十年使つても――批評は別でありますが、どうにかほどよく動いて来たわけであります。これを一言にして申しますると、平常時の憲法であると同時に非常時の憲法である、こういう性質を備えておりました。だから実際に明治憲法を使つて来て、現実の場合に行き詰まるということはおそらく予想はできませんでした。しかし新しき憲法は何しろ非常のときにできましたので、ことに占領下にできたことでありますので、そこに観点を置きまして、いろいろの動機が伏在と申しますか、時代の背景というものがこれに現われておるのではないか、従つて平常時にはこれで動きます。けれども一歩非常の場合が起つたときに、はたしてこれで動くかどうかという疑義は幾多存在しております。これは私深く研究しておりませんから間違つたらあとで補正をいたしますが、一国に非常な急変が起つて来た、たとえば関東の大震災を予想するといいのでありますが、食糧の供給はほとんどとまつてしまつた。流言飛語はわくがごとく起り、うつかり表を歩くことができないという社会の動乱が起つたときに、この憲法でこれをどうして防げるか、私はおそらく防げないような気がしております。非常な場合に処する何らの規定がない。しかしこれは人間良識でありまして、憲法にその規定が欠けておつて人間良識でこれを補正して行く。これができなかつたら国の発展はできませんので、道はあろうと思いまするけれども、しかしその道を見つけるまでになかなか議論が起つて来る。少しよけいな方へ飛びましたけれども、私の言わんと欲することは、なるほどこれは法律ができそこねておるというときにぴしやつと当るところはありません。けれどもそのくらいのことは国民の常識によつて立法府が反省する。あるいは国民の輿論によつて立法を促して、多少気長ではございましても、そこに応急の道を発見することができるのではないか。一刀両断に、あせつてやるということはまだ早い問題である。もつと大きな穴がたくさんあるのじやないかということをひそかに思つております。よく人が議論をいたします。極端な例をあげて、内閣の閣僚が閉会中に汽車に乗つてどこかに旅行した。不幸にしてその汽車がひつくり返つた。これは不吉な例を出しますが、全部人がなくなつてしまつたならばこの憲法でどうするか、あとで国会を召集する人もおりません。行政を担任する人もおりません。ぴしやつととまつてしまう。これは一例でありまするけれども、そういうふうに見て行けば、私ども非常に気になつており事が、その穴はそこここにいろいろとあるのじやないかと思つておるのでございます。今の法律憲法違反というような問題のところも、多少そこに一定の道があるのではないかと思うのでございますけれども、しかしまた急務でない、もつとゆつくり考えて実験の結果に徴して、必要やむを得ざる場合に適切なる手段考えればいいのじやないかという気持を持つておるわけであります。  なおお尋ねの中に憲法裁判所というものについても、もし設置を必要とすればその構造とかなんとかございますけれども、そこのところにまではまだ考えが熟しておりません。もしこれに類似をするものが必要であるとすれば、必要が先に起る、法律無効を宣言する裁判所でなく、もつと広い意味憲法裁判所、つまりこの憲法がうまく動いて行くためにはどうしたらよいかというような意味裁判所のような気がいたします。たとえば国会におきましても衆議院と参議院との権能について争いを起す、予算の審査権ははたして参議院にあるかどうかというようなところで何か紛糾が起つたといたしましても、これはまさか裁判所に行くわけに行かぬのであります。そんなところに穴があります。明治時代には隠れてはおりましたけれども、そういう問題を決定するかすかな道はあつたような気がいたします。これは君主政治でありますから、最後には天皇が三権の対立を調節せられるというようなことになつておりました。今のような民主主義になりますとそこらのところに疑問が起る。長くなりましたが、憲法裁判所考えるよりも、もう少し前に憲法の円満な運行ができるように一種の憲法裁判所、その他の憲法争議のための裁判所が何か必要であるのじやないかというような気がしております。  次に最高裁判所の上告とかいうふうの問題でございますが、この点は私どもはほんとうはよくわからぬのであります。最高裁判所というものは今申しますように具体的に国民正義を執行するものであります。アドミニストレーシヨン・オブ・ジャスティスということの中の最高権威のものが最高裁判所であると思つております。従つてこれを憲法違反の命令、法律審査する裁判所というところに限定するような考え方はあまり好ましいものではございません。それが憲法に違反するとまでは言えないかもしれませんが、しかしおそらくは憲法最高裁判所をつくつた趣旨とは違うような気がいたします。と申しますのは、元の問題にもどりますが、裁判所というのは法律適用するばかりではないのであります。表面的にはそれは法律適用するといつても通用いたしますけれども、そうではない、法律の足らざるところを補いつつ一審適切なる正義を執行するというのが裁判所趣旨であるといたしますとき、その最高裁判所権能を極度に幅を狭くして行くと、角をためて牛を殺すのたぐいになるのであります。現在の一般的権能を持つておる最高裁判所の行き方が正しいのじやないか、こういうふうに思つております。そうすれば数十件の事件がたまることもございましようが、そこは個々の必要に応じて具体的に決定して行くべきものであつて裁判官のオーバー・ワークということはこれは無理でございましようけれども、それは人間の知恵というものは制限はございません、与えられた方法従つて何とかいい効果をあげる道は知恵次第ではないかというような気がいたします。  上告審ということの問題になりますが、それとてもやはり国民最高のところでちやんと判断してもらいたいという希望は強いと思いますから、最高裁判所は一般には普通の上告事件は扱わないというようなことは妥当の問題ではございましようけれども、あまり好ましい気がいたしません。それかといつて国家の一番尊き裁判官がルーティンな仕事に没頭してゆつくり物を考え余地がないというような気持裁判所のあり方とは違うものであります。ほんとうの最高裁判所を組み立てる人々がルーティンに没頭して国家百年の大計を考えることができないというようなことは、これは裁判所のために好ましいことではございません。そこをどういうふうにやつて行くか、あとはいろいろなつり合いとかいう問題が出て来まして、むやみには言いかねますけれども、今まで示されておりますように、中の三人の部を十分活躍させるとか、あるいは上告を普通に主として取扱うところの裁判官をつくるとかいうような考え方一つ考え方であろうと思つております。但し憲法の上から見れば、その上告審を扱う裁判官といえども、もとより国民審査に付しなければならぬ。憲法の所定しておる条件を完備させなければならぬのでありますが、しかしこの権能範囲、ある裁判官はある事件しか扱わない、ある裁判官はある事件しか取扱わないことを常の姿としておる。こういうふうになりますことは、これは裁判所の中の組立ての問題でございまして、それをどういうふうに組み立てたからといつて、これは裁判所特有のいわゆる自治立法権とでも申しますか、それに属するものであつて、それが憲法違反という問題を呼び起すことはおそらく絶対にあり得ないものと思つておるし、私ひそかに――ひそかにというのはあまり堂々と言うだけのほんとうの気はございませんけれども裁判所のことは裁判所できめる。今日裁判所で規則を制定する権能を認めております。相当の自治的なものを認めておりますが、これは偶然に起つたものではございませんので、先ほども申しました、法律をつくるのは国会がやるのだ、裁判所裁判をやるのだというその考え方で、つまり最後に具体的な正義を行う裁判所というものはできるだけ法律から制肘せられないようにしよう。だから規則もいわば立法権に類するものまで、この裁判所に関するものならば裁判所でやるのだという一つの基本原理がここにひらめいておるものと思います。しかしそれとてもあまり極端になれば困るので、今の日本では立法権が上であつて裁判所の規則制定権はこれに付随するものと私は思つておりますけれども、これは相当の議論のあるところであり、外国の事例を見ましても三つくらいに意見がわかれておるように見受けられますし、一朝一夕にはきめられませんが、裁判所の中の事務分配ということは裁判所の自治権として行われますれば、どこからも非難を受けることはないのじやないか。ほかに道がなかつたならば、そういう線において考究してもよかろうと思つております。  なお思いつくこともあるかもしれませんけれども、時間が延びますので、この辺のところで打切ることにいたします。
  4. 小林錡

    小林委員長 それでは次に伊藤参考人にお願いいたしますが、伊藤さんにはお手元にお届けいたしましたように、  一、最高裁判所の機能、権限及び機構に対する改革意見があれば述べてもらいたい。(イ)、最高裁判所違憲審査権の範囲は、現行法上いかなるものと考えられるか。最高裁判所が具体的事件を離れて抽象的、一般的に法令が憲法に適合するかどうかを決定するということは憲法解釈上可能と考えられるか。(ロ)、最高裁判所がある法令を違憲と判断して裁判をした場合、その裁判は、また、国会政府及び下級判裁所に対し、いかなる効力を及ぼすものと考えられるか。(ハ)、下級判裁所に係属する事件に関して、憲法解釈が問題となつた場合、最高裁判所が、その憲法解釈問題だけを取上げて審理し裁判するということは、憲法解釈上可能と考えられるか。これを可能とした場合、このような制度をとることは適当と考えられるか。(ニ)、最高裁判所が、下級裁判所に係属中の事件憲法解釈に関する重要問題を含むと認めるものを移送させて、みずからただちにその事件について裁判をすることができるというような制度、または、権利として、あるいは訴願として申し立て得ることとする制度をとることの可否についてはいかに考えられるか。あわせて、米国における勧告的意見すなわち政府または国会の諮問に応じて最高裁判所憲法解釈に対して意見を述べるという制度についても御意見を伺いたい。  二、米国及び英国における違憲審査は具体的事件を通じてのみ行われ、抽象的審査を許しておらないということであるが、その制肘理由はどこにあるか。  三、わが国の上告制度をいかにすべきかについて御意見があれば承りたい。  四、憲法裁判所に対するお考えはいかん。それを受けまして、(イ)、その憲法裁判所と現行最高裁判所等、一般裁判所との関係いかん。(ロ)、憲法裁判所の組織の大綱。(ハ)、提訴権者。(ニ)、憲法裁判効力。(ホ)、公示方法。  上について触れて御説明願えればけつこうだと思います。  それでは伊藤参考人にお願いします。
  5. 伊藤正己

    伊藤参考人 司法制度というものにつきまして、いわば比較法というような立場から常々関心を持つておりまする私がここで非常に粗雑ではありますが、その意見を述べさせていただきますことは、非常な光栄に存じておるわけであります。しかしすでに七月にこの委会員で多数の参考人の方が御意見をお述べになつたようでありまして、私その記録なんかを簡単に拝見したのでありますが、そこでは非常にすぐれた御意見が展開されておりまして、私がここで新しくそれにつけ加えるようなものもないのであります。しかしそこの意見にも出ましたように、この問題は学問的のみならず、実際的にも非常に重要である。しかも非常に異論の多い問題でございまして、私のここで述べますことが何らかの御参考になれば非常に幸いだと存ずる次第であります。私の手元に届けていただきました質問事項も非常に広汎にわたつておりまして、それらすべてにつきまして私が非常に熟した意見をとうてい持つておるわけではございませんので、私が関心を持つております問題に重点を置きまして意見を述べさせていただきたいと思います。  そこで最初に最高裁判所違憲審査権の範囲の問題でございますが、これは最も重要な問題であろうかと思うので、こういつた問題になるべく多くの時間をかけてお話をしてみたいとも考えております。まず現行の法制、つまり憲法及びそれ以下の諸法律――裁判所法を中心とします法律を前提といたしましたときには、これは言うまでもなく、私は最高裁判所の現在とつております判例の立場は正当であるというように考えております。そもそも憲法八十一条というものが、今金森先生もおつしやいましたように、その制定の由来から見ましても、またその規定の置かれておる位置から申しましても司法、すなわち具体的な権利義務関係の争訟を解決する前提として違憲判断がなされるということを考えていると見ていいのではないか。従つてむろん学説には異論があるようでありますが、抽象的に、ある法令の違憲を判断するということはこの八十一条の考えていないところであると思うわけであります。従つて裁判所法以下の諸法律がそういつた前提のもとに立つて制定されていることは、これは憲法の建前に立つているものだろうと思うのであります。これは学説においてもやはり通説じやないかというように考えるわけであります。しかし問題は、それでは裁判所法を改正するなり、あるいは特別法をつくるなりいたしまして、最高裁判所に抽象的な法令の審査権を与えるということができるかどうかという問題でございます。私は、結論を申し上げますと、これは憲法を改正しなくとも可能ではないかというふうに考えているわけであります。それにはむろんいろいろな疑問があります。こういうきわめて重要な権能については憲法上何らかの規定を置く必要があるのではないか。たとえば提訴権者をどうするかという問題が憲法上改定されていることが望ましいでありましようし、また裁判所というものは原則として司法権を行使する機関であるというふうに考えますと、今言つたように疑問は多いのでありますが、しかし現行憲法は、そういつたいわゆる憲法裁判所権限を与えることを違憲としてしまうほど強い意味を持つておるかどうか、それに対しては私はそうは思わないのでございまして、今申したように裁判所権限というものは、具体的な権利義務の争いというものを前提といたしますけれども、しかし近代国家における権力分立というものの原則は、必ずしもそれを徹底することはできないのではないか。常に見られるのは、権力分立については抑制均衡と申しますか、チエツク・エンド・バランスの原則が付随しているのではないか。権力分立の最も徹底していると見られるアメリカ憲法においても、そういうことがいわれているわけです。従つてそういつた抑制均衡という一つ考え方から、いわゆる政策的な考慮から、純粋の立法権がないものを国会に与える、あるいは純粋の司法権でないものを裁判所に与えるということは、必ずしも絶対に禁止されているとは見られないだろうと思うわけです。現在においてもいわゆる民衆的訴訟というものは裁判所決定権が与えられておるわけでありまして、これは純粋の司法権、いわゆる具体的権利関係の争いというものを前提としていないのでありまして、特にいわゆる法律上の争訟ではないけれども法律でもつて裁判所に与えられている権限と見られるのではないかと思わうけです。むろん抽象的な法令審査というものは、こういつた民衆的訴訟などに比べますと、はるかに違法権が稀薄になるのでありまして、そういつた点で問題はあると思うのでありますけれども、しかし法律でもつてそれが与えられた場合に、憲法はむろんそれに対してきわめて消極的であると思いますけれども、それを違憲であるとはしないのではないかというふうに考えているわけでございます。しかし言うまでもないことでございますが、憲法上可能であるということと、こういう制度を採用するのが適当であるということとは別問題でありまして、その採用が適当であるかどうかにつきましては、これは適当でない、いや著しく適当でないのではないかというふうに私は考えておるわけでざごいます。  その理由について少し述べさせていただきたいと思うのでございますが、裁判所が具体的な事件を通じてそういつた憲法を保障するということは、歴史的に見てみますと、結局非常な権力作用について法の優越性を確保する、そういう一つ手段となつて来たように思うのでございますが、これに反していわゆるそういう司法作用を離れて、国会の上に立つといつたような、一見そうい地位を裁判所に持たせますときは、むしろかえつて裁判所自身を非常に危うくする。のみならず国家全体の構造を非常に破壊するおそれが強いのではないかというふうに考えておるわけであります。このことを考えるわれわれに資料を与えてくれるのはやはり違憲審査権の母法ともなりましたアメリカ一つ経験ではないかというふうに考えるわけであります。なぜ私がアメリカを取上げるかと申しますと、私寡聞にしてほかの国のことはよく知らないのでございますが、いろいろな方の研究を拝見してみますと、世界の国のうちで憲法裁判所といつたようなものも含めまして、広い意味での裁判というものを通じて憲法を保障しようという試みがいろいろなされて来たのでありますが、結局一番成功しているのはどこかといえば、やはりアメリカを除いてはあまりないのではないかというふうに考えるわけであります。ほかの国でいろいろな方法がとられましたが、確かに理論上は非常にけつこうだと思われる点が多いのでありますが、しかしその実効はどうかということになりますと、どうもアメリカほどの成功は見ておらないのではないかと思うわけであります。ところがアメリカでは御承知の通りでありますが、百七十年前につくられた憲法が、しかもそのつくられたときのアメリカと言えば一弱小国でありまして、また農業国である、それが現在のような大国とあり、しかも世界最大の商工業国であるアメリカをそのまま規律しておる、むろんその間に憲法改正が若干行われましたけれども、これはほとんどとるに足りない、そうしますと全然違つた社会情勢を同じ憲法が支配して来ておるわけであります。しかもそれが支配し得ているのは、言うまでもなくアメリカ最高裁判所というものが判例によつて憲法を発展さして行つたからであろうと思うわけであります。そういう意味ではアメリカ憲法の歴史は、判例法の歴史であるというふうに言われておるわけであります。しかしこのようにアメリカにおいてこの違憲審査権を中心とする裁判所の活動による憲法の成長といいますか、そういうものが成功して来たのはやはり私は裁判所自身が、謙抑という言葉を使いますが、非常に謙譲な態度を常に一貫して来たからではないかと思われるわけであります。そういう態度はどこにあるかといいますと、何よりもまず第一にアメリカにおいては司法権の本質から来る制約というものを重んじて来たからにほかならないわけであります。裁判所というものは司法権を運用する機関である、それ以外には及ばない、これはアメリカことに連邦裁判所においては非常に厳格であるようでありまして、たとえば日本で言う確認訴訟に当る宣言的判決すらこれは司法権範囲に入らないのではないかという強い疑問を長い間持つていたくらいでありまして、従つていわゆる具体的訴訟の解決ということが裁判所の使命である、それ以外には及ばないということを彼らは堅持して来たように思われるわけであります、むろんこれはアメリカが連邦制度であるというようなことも関連しているかと思うのでありますがそういつたふうに思うわけであります。そうしてなぜそれではそういう立場をとつたかという根拠が、質問事項にあるようでありますが、私の考えるところによりますと、この違憲審査権を成立せしめ、それを発展せしめた要因としてはいろいろなものが考えられると思うのであります。たとえば自然法思想であるとか、あるいはイギリスから受け継ぎましたルール・オブ・ローの考え方であるとか、あるいはアメリカが連邦であるとか、あるいはまた憲法制定初期に財産権を非常に強く保障しなければならぬというような要求が、違憲審査権を成立せしめたというふうに言われておるのでありますが、しかし周知のようにアメリカ憲法はこの違憲審査権を明瞭には憲法でうたつていないのですから、この違憲審査権を確立しようとした例のマーシヤル最高裁判所長官のあの意見は、結局憲法にある根拠を求めてこの違憲審査権というものを確立させなければならなかつた、そこでマーシャルが用いた論理というものは、簡単に申しますと、三つの根拠から成り立つていると思うのでありまして、一つアメリカ憲法の有名な最高法規の条項であつたわけです。そこでは憲法及び憲法に準拠してつくられた法律最高法規であるという規定があるわけであります。従つてそこでいわゆる準拠条項と言われておるものでありまして法律だけでなくて憲法に準拠してつくられた法律最高法規である。従つて憲法に準拠しない法律はこれは無効ではないかという論理があるわけであります。しかしこれだけは、それではなぜその判断裁判所がするかということが出て来ないわけであります。そこでマーシャルは第二の論拠として、憲法にいう司法権憲法に基く事件に及ぶという条項がございまして、憲法に基いて生じた事件について司法権が及ぶという条項を取上げまして、従つて司法権を運用する場合には、当然憲法というものを考えてみなければならない。むろん法律考えなければなりませんが、しかし憲法法律とがそこで抵触しておる場合には憲法が今言つたよう最高のものである。そういう論拠です。それでは第三番目に司法権とは何かということになりますと、これまた憲法規定があるわけでありまして、事件と争いという言葉が使われ、ケースとコントラヴアーシイ、事件と争いとは何か、これは具体的な争訟に限るということであります。こういう論拠からアメリカ法律的な根拠を求めれば、アメリカでは具体的事件についてのみ違憲審査は及ぶということになつたと思うわけであります。むろんこの根拠にはいろいろな批判があるわけでありますが、しかしとにかく抽象的な判断はここでできないということになつておると思うわけであります。そこにアメリカの違法審査権一つの本質的な制約があつたと言われておるのであります。のみならずアメリカにおいてはこういつた本質的制約のみならず最高裁判所を中心とする裁判所は政策的にもこの違憲審査権はできるだけ発動しないようにということをはかつて来たように思うわけです。たとえばある法律二つ解釈が可能である。一つ解釈をすれば違憲である、一つ解釈をすれば合憲であるという場合には、常に合憲の方の解釈をとるというような慣行、それから法律は常に合憲法性の推定がなされる。ちようど刑事事件において被告人は無罪の推定がなされると同じように、法律は合憲法性の解釈推定がなされるのであつて、これをくつがえすためには合理的に考えて当然これは違憲である、その程度でなければこれは違憲とはしないというふうにいわれている。それからこれは日本最高裁判所の規則にも取入れられているようでありますが、最高裁判所の全員の多数を得なければ違憲とはしないというような慣行、あるいはさらに非常に重要な問題として取上げられております政治的問題はここでは取上げないといつたような慣行、そういつたいろいろな慣行をつけまして、アメリカではこの違憲審査権はで当るだけ謙譲な態度を示そうとしているように思われるわけであります。そうしてまさにこういつた制約された権限の行使、これがアメリカ違憲審査権を成功せしめた重要な理由でないかというふうに考えるわけであります。非常によくこのことを示すのは、今金森先生も少し御指摘になりました例のニュー・デイールの場合の事件であるように思うのでありまして、あの場合には、最高裁判所はやはり具体的事件を通じてでありますが、御承知のように非常に大きな政治的問題に乗り出したわけであります。国民の多数が支持するものに対して最高裁判所は、しかもその内部では五対四にわかれるような非常にわずかの差でもつてこれを違憲であるというふうにして来たわけであります。これに対してルーズヴエルト大統領が非常な反撃を加えたのでありまして、その最高裁判所改造政策というのは御承知の方も多いと思いますが、国会法律を出して、結論だけをいえば定員を増す。そうして定員を増したところで自己の政策に賛成する裁判官を送り込む、そうして自己意見に賛成する裁判官多数を得させようという政策をとつたわけであります。従つてこの事件は、結局はこの法律は通らなかつたのでありますが、具体的には最高裁判所の力が意見を変更するという結果を見て落着したようでありますけれども、この事件の示唆するところは具体的事件を通じてですら、最高裁判所というものが政治的な非常に重要な問題に乗り出して行つたときは、最高裁判所自身が非常に危機に落ちるということを物語つているように私は考えるわけです。最高裁判所憲法の番人であるとか、あるいは司法権の優越というようなことがアメリカでも言われておりますけれども、これはやはり非常に象徴的な言葉でありまして、そのまま受取ることはできないように思うわけです。それは今金森先生が非常に詳しくお説になりましたように、近代の民主制の下においてはやはり国会というものが非常に強い、高い地位を占める、国民の代表者である国会、しかもその国会の多数が、これは憲法に違反しておらないと認めてつくつた法律効力最高裁判所が否認するということはあくまでやはり謙抑でなければならたいと思うわけです。むろんこの議論を徹底して行けば、これは具体的事件についてすら違憲審査権を行使するのはけしからぬのであつて従つてイギリスの憲法のとつておりますような国会主権、国会のやつたことは何でも正しいのであつて裁判所では争えないのだというところにおちつかざるを得ないかもしれないのでありますが、しかし私はイギリスのこの国会主権の原則というものは、中世以来のイギリス憲法の発展を背景にして考えてみなければならないのでございまして、そこではやはり常に法の支配とでもいいますか、そういう伝統につちかわれて来たイギリス人の政治良識の裏づけがあるのでありまして、これは憲法学者も常に認めているところであります。法律的には国会は何でもできるけれども、事実上は非常な制約が国会にはあるんだということをいつているわけであります。そういつた意味でイギリスの国会主権というものは決して万能のものではないとみなければならないわけであります。日本においては、残念ながらそういうイギリスのような伝統がないのでありまして、少くとも非常に謙抑な態度ではあつてもやはり最高裁判所が法の支配の伝統をつくり上げて行く必要があるのではないか、従つて具体的事件を通じて行使する違憲判断というものは、やはり非常にけつこうな制度ではないか、しかしもしそれを越えると非常に問題が多いのではないかというふうに考えているわけでございます。大体それが違憲審査権の範囲についての私の意見であります。  それでその次の問題としてある法令を最高裁判所が違憲と判断した場合には、これはどのような効力を持つかという点であります。これも学説は非常にわかれておるようでありますが、私はそういつた象徴的判断を許した場合ならとにかく、現在のもとにおいてやはり個別的効力しか判決は持たないのではないかと思うのであります。むろん八十一条を読むだけでは一般的効力を持つのではないかというような意見も出そうでありますけれども、しかしそれはやはり司法権あるいは司法作用というものに非常に矛盾した見方ではないかと思うわけでございます。むろん個別的効力説といいますか、そういうものをとりますと、具体的には当事者だけしかそういつた判決効力を受けないというので、不平等な結果に陥るようにも思えますけれども、しかし具体的にはこれで十分解決できるのではないか、たとえばあの刑罰法規に違反である場合には、もう検察官はそれ以上起訴をいたさないでありましようし、英米のような判例拘束力は日本の判例は持つておりませんけれども、しかし事実上の拘束力は持つておるのでありますから、そういつた形でもつて事は解決して行けるのではないか、そして当然そういつた判決があれば、内閣なりあるいは国会なりが、その前後処置をとるということになるのではないか。最高裁判所事務処理規則の十四条には、内閣に通知、また違憲の場合には国会にもさらにそういう通知がなされるように処置されておるようでありますが、その通知を受けた内閣なり国会がその法律修正するなり何なりして適当に措置をする、これで解決できるのではないか。アメリカでもいろいろな論議はあるようでありますが、大体実質的にはそれで解決しておるのではないかというふうに考えておるのでございます。  それから御質問事項の(ハ)と(ニ)とは、ともに関連しておると思うのでありますが、憲法問題が起きたときにその問題だけを最高裁が取上げる、あるいはまたその事件を移送させるという問題でございますが、私の意見を申し上げますならば、やはり裁判所というものは抽象的判断をするのは非常に不適当である。あくまで具体的事件を通じてある法令が合憲か違憲かを判断することが適当であるというふうに考えておるのでありますので、その憲法解釈論だけを取上げるということは適当ではないというように考えております。アメリカではややそういう例があるように思うのであります。どうも日本においてはそれは適当ではないのではないか。もちろん憲法上そういう法律をつくれば可能だと私は思うのでありますけれども、しかし司法権というものは、あくまで具体的事件を通じて発動され、そして法令の解釈のごときも、そういつた事件を通じて判断されるのが適当であろうというふうに考えます。従つてもしとるとすれば、事件そのものを最高裁判所に移送させる、そして最高裁判所はその事件判断を通じて、憲法判断をするという方法が適当ではないか。むろんそれに対してはいろいろな用件なり手続なりが必要かと思うのですが、まだその点の私の意見は熟しておらないのでありますが、少くとも当事者がただちに最高裁判所判断を求めたいと考えておるような場合には、そういう道を開いておくことは適当でないのではないかというふうに考えております。  それからいわゆる勧告的意見についてでございますが、これは司法権というものを厳格に解釈すれば、当然勧告的意見というものはこれは司法権範囲には入らない。また権力分離を厳格に考えてもやはりそうだろうと思うのであります。そういつたものを厳格に考えようとするアメリカの連邦においては、終始これが認められておらないのはやはりそのためであろうかと考えるわけであります。これに反して権力分立というようなものもあまり厳格に考えないようなイギリスにおいては、むろん慣行として行われておるようでございます。但しそれも裁判官自身は、あまりこの制度をよいとは考えていないようであります。カナダなどでは、法律でもつてやはり勧告的意見制度をとつておるようで、これはカナダでは、憲法というと少しおかしいのですが、まあ憲法がありますから、その憲法違反ではないかという争いが起りまして、イギリスの枢密院が判決をして、こういう勧告的意見は、カナダにおいて有効であるという判決があるようでございます。しかし全体を通じて、勧告的意見というものは、実際上あまり効果は上つていないのではないかと思うのであります。アメリカでは、州においては、御承知の通りつ幾つかの州がこれをとつているのでございますが、その効力は非常に疑問であるようでありまして、この制度が盛んになつて行くようには思えない。むしろ廃止して行く州が多いように思われるのであります。むろん理論的に考えますと、いわゆる予防司法ということが最近アメリカなどでも言われているようございます。争いが起る前にこれを予防しようというので、理論的にははなはだ勧告的意見はけつこうのように思うのでありますが、やはり裁判官が抽象的に法令の解釈をやるということはあまり適当でないんじやないか。ややその点については気楽に勧告的意見を与えるという可能性もございますが、何よりもまず裁判所というものは、それぞれ対立する意見が陳述され、そういう対立する意見を十分に聞いた上で判断をするということが必要でございまして、抽象的にある問題が違憲かどうかということの決定を迫られた場合には、ややもすると非常に成熟した意見がそこで出されるということが期待できないのではないか。むろんこの勧告的意見は、具体的訴訟について拘束力を持たないと思いますけれども、しかし持たないといいながらも、実際上には一度そういう意見を出したものについては、あとで拘束力を持つのでありまして、そういうねらいが勧告権にあることは当然でありますから、そういうことをいろいろ考えますと、どうも適当でないように考えられるわけであります。もしつくつても実効はあまりあがらないのではないかというふうに思うのでございます。  その次は、上告制度に関してでございますが、私は訴訟法などについてははなはだ無知でございますので、これについての自分意見を述べることができないのでありますが、単なる感想程度のことを申し上げますと、私は最高裁判所はやはり憲法上、現在のような裁判所であることを予定されていると考えるのでありまして、従つて現状はやはり維持すべきものではないか、こういう現状維持の前提のもとにいろいろな処置を考えてみる必要があるのでははないかと思うのであります。そうしますと、やはり当然上告制限ということが出て来るのでありまして、刑事訴訟法ないし民事特例法のような制限が一応正当なのではないかと考えるわけであります。さらにこういつた上告制限を実効あらしめるために、いろいろな方法考えてみる必要があるのではないかと思います。一部には、最高裁判所以外に上告裁判所をつくれというような意見もあるようでございますが、これは今金森先生の御意見もありましたように、やはり最高裁判所については、単なる違憲判断をする裁判所ではないのでありまして、普通の判例抵触のごときは取扱つて行く。それでなければ最高裁判所は浮き上つてしまうのではないかと思われる。そういつた意味で、必ずしもそういつた意見には賛成できないのであります。これは自信はないのでありますが、できれば原審が上告審査をするというような方法考えられてよいのではないか。むろんこれも非常に欠陥がないわけではないと思うのでありますが、この意見の立つ基盤としては、やはり第一審なり原審なりに対する信頼があるということが基礎になると思うので、現状ではやはり不満が起ると思うのですが、司法制度思想としては、そういつたふうなところに持つて行くべきではないかと思うのであります。もともとそういう上告制度考える場合には、一体上告審というものがどういう性格を持つているかということに結着をすると思うのでありますが、結局上告審というものは、特殊の性格を持つているものでありまして、確かに三審制度をもつて人権を保障するという点も十分うなずけるのでありますけれども、やはり第一義的には国家法律制度というものを統一するという機能が上告審の第一義的な機能であるのではないか。やはり訴訟当事者の権利を強く保障するのは、一審、二審というものを非常に充実させるということによつて解決して行くべきではないかと思うわけです。こう言うとはなはだ独断のようにも見えるのですが、私が少しばかりの最高裁判所の判例なりを見ましての感想では、どうも上告している相当多くは、ただ最高裁判所まで行つたということで満足感を得る。あるいはまたあそこまで行つてだめなんだからというあきらめの感じを持つ。そのために上告しているのではないかと見られるような事件が少くないのではないか、その結果として、一方のいわゆる上告された側は、民事訴訟なんかにおいては、権利が非常に侵害されているのではないかと考えるわけであります。むろんこれも日本国民性なりあるいは国民感情などからいろいろ検討しなければならないと思いますし、またこまかい点では、地方裁判所が第一審の場合には会議制をとることが必要ではないかというような、いろいろな考え方も出て来るのであります。ともかく法や制度をそういつたように持つて行く、そうして実際的には法曹の方々がそうした方向に努力するのが筋ではないかと考えているわけであります。  最後憲法裁判所の問題でありますが、これも私はほとんど調べておりませんので、意見を述べる資格もないのでありますが、感想だけを述べさしていただきますならば、最高裁判所が抽象的判断をすること以上に、これはあまり好ましくないのではないかと思うのであります。それはむろん憲法裁判所の構成その他によつて解決できるかもしれませんけれども、何か国会における政治的な争いというものが、そのままこの憲法裁判所の中に持ち込まれて、そうして国民とつながりのないところで、重要な政治的問題が解決されて行くということがおそれられるわけであります。日本国民の今の全体の政治的水準から見ましても、どうもあまり適当でなく、実効を上げ得るように思えないので、むしろこれをつくりますと、どうも欠陥が露呈されるのではないかということをおそれるのであります。もちろん私の考え方によりますと、最高裁判所というものは憲法で設置されておりますから、とにかく憲法を改正しなくとも、抽象的判断を与える権能法律で与え得ると思いますけれども、新しく憲法裁判所というこういう第四権的なものを設置いたしまして、そういう大きな権能を持たせるということになれば、当然憲法改正というものが必要になつて来るのではないかと考えております。しかしまあそういつたことを考えているだけでありまして、この提訴権者をだれにするかということは、全然考えておらないのであります。  はなはだ粗雑な意見でありましたが、これで終ることにいたします。
  6. 小林錡

    小林委員長 それでは質疑に入ります。吉田君。
  7. 吉田安

    ○吉田(安)委員 金森先生に一、二点お尋ねをいたしたいと思います。先生の、憲法制定以来、国会は国権の最高機関だという御意見、これはどこまでも憲法の明示するところでありきて、われわれもその通りに解釈もし、また推し進めて行かねばならぬことはもちろんでありますが、先生の違憲審査権に対する御意見、よく了承いたします。私どもも今日まで、前月から多数の学者、参考人方々を御足労願つて、御意見を拝聴いたしましたが、いろいろ御意見のわかる点もありますけれども、先生のおつしやる御意見のことは、ほかの方は存じませんが、私はまたさようにあるべきではないかと考えておるものであります。といつて、いろいろの角度から考えましたときに、非常に迷うことが今もなおたくさんあるのでありまして、たとえば今の最高裁判所違憲審査権につきまして、これはやはり具体的争訟を前提として、そこに違憲の問題がある場合にはこれを判断することは当然であるが、抽象的に違憲なりとして、ただちにこれを提訴して、それを判断するという権限はないのだ、これは御説の通りであり、また最高裁判所もさような判例を示しておりまするが、そこに一つ迷いがあるのでありまして、今の政治の立て方は多数決政治であります。やはり国会最高の機関であり、国の唯一の立法機関ではありまするが、多数決をもつてやることになつておりますために、そこはどうも無理が生じ、ややもすると横暴が生ずる。これもまた私は今日の多数決による政治をして行くということについての一つの欠点であると存じますが、そういうことを推し進めて行きましたために、あの法律は違憲だ、ああいうことをやつておることは、憲法違反じやないかという声が起つて来るのでありまして、具体的争訟を別として、さような抽象的違憲論が起つた場合に、現行憲法のもとでは最高裁判所はそれを取上げる権限がないということになりますると、ややもすると、それに反対する一部には、非常な憤懣を生じますために、かえつて悪い結果を生ずるのではないか。それでそうした憤懣のはけ口を何とかして認める必要はないかどうかということを心配されるのであります。先月の某参考人の方の御意見も拝聴いたしますると、これはいきなり憲法八十一条では抽象的に審査権があるんだ。それで国民はそれに提訴することができる、そういうわけ口を認めないというと、国民の憤懣はどこにに行くか。最後の抵抗権を行使するほかないんだ、こういうことを言われる参考人があるのであります。私はそのときの抵抗権ということについてひやつとはいたしましたが、あえて繰返して質問はいたしませんでしたけれども、静かに考えてみますると、その最後の抵抗権を行使するほかないという解釈というか思想というか、これは私見のがすことのできない思想であり、意見であり、解釈ではないかと思います。でありまするから、そういうことのないようにするためには、最高裁判所に抽象的な違憲立法審査権を認めるということもあながち不適当じやないじやないかというような点も考えられるのであります。そのうちに宮澤先生からきよう先生がおつしやつたよう意見が出ました。そうして最後には国民がそういうときには審査するほかないだろう、こうおつしやつたのでありますが、それで国民審査するということにすれば、どうすればいいかということをまた考えてみなければならぬ。国民の代表は国会でありますから、国会審査すればいいじやないかと思うと、その国会が違憲だという法律をつくつたということになると、それが審査するわけには行きませんから、どういうことにすればいいかと思うておりますると、本日ただいま先生から、そういうのは国民審査のようなことも一つ方法だ、こうおつしやられる。ところがそれは審査方法もけつこうですが、その程度のものでいいかどうかもまた私心配するわけです。たとえば最高裁判所の判事の適格を投票できめるやつ、あれなんかももう今日になつては十年もたちますると、あんなやり方は憲法を改正するときには廃止しなければいけないという声さえも実は出ておるわけであります。実はこれは昔のことを申し上げて恐縮いたしまするが、あの制度をつくるときに、先生に――これは記録にはもちろんありませんけれども、われわれ専門家である者でも当時の大審院の判事さん方がどれだけいるかということさえもわかりません。それから最高裁判所の判事の名前を国民の前に並べて、これがいい、あれが悪いということの判断を求めたところで、あるいはひつかけやまるぼしをつけるだけであつて、それは愚の至りではありませんか、こういうことを私は率直に生先にお尋ねすると、先生は、いやそういうことをして、まず日本国民政治的知識の程度を高めて行くのだ、これも将来必要なことであるというようなことを承つたことも覚えておりまするが、やはりそれと同じような考えが先刻しましたものですから、遠慮なくさような点についてもお尋ねをするわけであります。国民審査するということはそのほかに方法でもないでしようか、その点をひとつ。これは漠としたお尋ねの仕方でありますけれども……。
  8. 金森徳次郎

    金森参考人 どうも一審ものの根本というものは、なかなか制度で片づけることのできないものでありまして、末梢的なこまかいことは制度ではつきりさせられますけれども、一番根元になることは結局国民良識というものできまるほかにしようがないのであります。ただ、そのところをできるだけうまい方法でもつてある程度まで解決をして行きたいというのが私どもの願望でありまするが、今のある法律憲法に違反するやいなや、従つてその効力を一般的に否定する方が好ましい、こういうことで幾多の争いが起つておりますけれども、これを解決する名案が実は私どもには思い浮ばないのであります。現在の最高裁判所へ持つて行きますれば、結局今度は最高裁判所がまた恨みの中心になりまして、要するにこの不平というものがどこへ持つてつても片づかないから最後にこれを担任する者がこれを背負うよりほかにしようがない。国民良識が発達しない限りは例の抵抗権の問題におちついてしまうわけであります。ですから非常に不愉快でございまして、私が先ほど申し上げましたいろいろのものを考えても、国民審査――直接の国民審査ということは、これは乱暴であつて、真理を遠ざかる。しかし裁判所がやるといつても、国民主権の時代にそんなにまで裁判所に信頼を払う人があろうとも思えないというわけであります。まあその折衷説とでも申しまするか、前には省略いたしましたが、私の着想は、ある法律憲法に違反するといつて裁判所へ訴えました場合に、裁判所がそれは憲法違反にあらずと、こう言えば裁判所を信用しておこう、しかしもし裁判所が、その法律憲法違反であるというような判決をいたしますると、それは国会の権威を傷つけるような非常に重大な事件になりまするから、三権分立一つがこれを解決することは困るので、一応知識的な説明は裁判所にやつてもらうけれども、あとで国民に一ぺん批評をさせて、国民がその裁判所判決に得心をすれば、これはもうそれでいいのであり、これにはいかなる抵抗権も成立しないであろう。そのときに国民がぼんやりして怪しげな表決をしたような場合には、どうも何ともほかに道がないのであつて国民の運命とあきらめるというような着想で一応の御説明はいたしましたが、これは実際の問題にはめ込んで行くと相当むずかしい問題がございまして、最後にそういう着想になつて行くものでなかろうか、しかしそうなりますと、今の最高裁判所がこれを担任するに適当かどうかということになりますと、これはちよつと疑わしいのであります。普通の司法の問題でありますれば、最高裁判所に信頼すべきでありましようけれども、何しろこれは立法司法、行政を超越して、ほとんど国民の総合的直感というような程度の高い問題になりますので、むしろそういうものは今の最高裁判所以外のところでということに議論が進んで行くことになるわけでありますが、これをつくるののもなかなか道はございません。古い時代、君主政治のときには割合に楽でありまして、君主がこれを決定する。君主は一国の権威者として国民が信頼しておる、事実は別といたしましても、そういう建前が成立いたしまするので、そこで明治憲法の時代には、枢密院に諮詢して天皇が御決定になるということで、一ぺんだけはこれが行われております。しかしこれも政治の実情から言えばやれないのであつて、ただ一ぺん限りであり、それから枢密院を憲法裁判所のようなものにしようというような案も幾たびか出ましたけれども、結局それきりで至難のわざとしてたな上げになつておりました。今に至つてこれをどうするかという点でありますが、しかし百歩へり下つて考えてみましても、適当な裁判所があり、そこで注意深い人がいろいろ考えてくれる。あとは国民審査にいたしまして、多少の怪しげな国民判断があるにしても、まず輿論の決するところにして行けば、結果として国民はまさかこれに歯をむいて争つてかかるということはないでございましようから、その辺が妥協の道じやないかという着想をしたのであります。いろいろの段階でまだこれは疑問があるのでありますが、どうもこれは道がございませんので……。そこで先ほどちよつと申し上げましたが、あまり裁判所に幅をきかさせますと、結局裁判所を全部的に疑う、一面においては裁判所が不信用になる、他面におきましては裁判所横暴ということになりまして、これは紛糾が絶えないと思います。どうも私が言つたのが実行可能とまでは言えませんが、一審実行可能に近い一つの試みの案じやないかと思います。
  9. 吉田安

    ○吉田(安)委員 もう一言簡単に伺います。どうも今の政治のあり方をながめておりますと、多数決をもつて決定して行く政治のあり方の建前に立つております以上は、これからますます、横暴とは言わぬまでも、無理にやつて行くということが非常に多く頻発して出て来やせぬかと私は思います。そこに違憲をするというようなことができ上つて来そうな気がしてなりません。そういうことが、はなはだどうもおはずかしいことですけれども、この間のようなああした乱闘事件までも引き起して来やせぬかということは憂慮にたえません。でありますから最高裁判所に――これは私の一つの小さい着想ですが、昔の枢密院のようなものでなくても、審査部というようなものでも置いて、そうしてそういう問題が起つたときにはこれを審査する、こういうことにしますと、三権分立の建前から行けばどうかと思いますけれども、ことに国会が国権の最高機関である建前からいうとおかしな感じはいたしますものの、やはりそういう建前をとつておきますと、国会も十分慎重な歩き方をしやしないか、慎重な歩き方をすることが私は望ましいことであつて、この点をどういうふうに調整をとられるかどうか。今先生のおつしやつたように、裁判所にそういう権限を持たすと、うつかりすると裁判所が横暴という声が出やせぬかという御意見でありますが、私はそれは先生と少し気持が違うのであります。これは国民は妙なもので、裁判所を非常に信頼しております。これは私はありがたいことだと思う。でありますから裁判所が横暴になるというような違憲審査はよもやせぬじやないか。ただしかしこういうことは考えられます。そうなるというと裁判官の入れかえということがまた起つて来る、そういこうとまでも政治的に行われるということになると、これは私は世も末だと思うのであります。だから裁判所を信頼するものは、政府国会国民もすべてのものが信頼する、そういう建前からいつてそういう制度を設けたならばどうかということが、ちらほらちらほら頭にするわけであります。しかし先生の御意見のようなことも考えられますから、ただ私は困つているということだけを申し上げまして、そして御意見を承りたいと思います。
  10. 金森徳次郎

    金森参考人 私どももそういう点は非常に心配しておりますが、これだけの大きなものになりますと、そう一刀両断にこうするということはできない。小出しにいろいろな急所をつかまえて行くべきじやなかろうかというふうに思つております。この事の起りがかりに国会審議ということにおいて起るとすれば、やはり国会審議をもう少し緻密な規定に服せしめまして、最後には何となるかわかりませんが、とにかくものさしがちやんとあつて、これに従つて行く、そうやつておりますうちによき政治のやり力ができて来るということで一つの道は開けるものと思います。それが一つの道でございます。それから裁判所へ持つて行くことがいいか悪いかは私は容易にきめられませんが、いろいろの事情でのつぴきならぬということになりますれば、やはり裁判所に持つて行く項目を、どういう論点のときに持つて行けるかというふうに、こまかくして持つて行かなければならないじやないかという気がいたします。というのは、たしか西ドイツの憲法裁判所の事項でもかなりこまかく規定してあるように思います。というのは、ごく手続上の争いとか何かこまかい法律上の見解の差ということから起つて来る問題は、それはいいのでありますけれども、実際一国全体の血潮を沸かせるような問題になりますと、それは非常に危険でありまして、たとえば今の再軍備という問題にいたしましても、これは反対する者もあり賛成する者もあり、国際事情もこれにからみ合つており、人ごとに意見を異にしておりまして、これは歳月の経過と政治の効きによりましてほどよく解決して行くであろうと思いますけれども現実の問題として国政に直接責任を持たない裁判所へ持つてつてきめてもらうということになつたら、相当影響するところが大きくて、どちらにころぶにいたしましても国民の反射意識はとまることはない。政治的な争いなら勝負がつきませんから、いわば論戦をやつておればいいのでありますけれども裁判所できまりますとこれは議論余地がございませんので、絶体絶命の抵抗がこの上に行くところがないということになりますと、ちよつとめんどうでございまして、もしそういうお考えのようだつたら、何か事項を何とか無事に、どつちへころんでも国民がのみやすいような項目だけに限定して、それを裁判所へ持つて行く、そして裁判所できめてもらうというふうに行くべきものではなかろうかという気がいたします。もちろんこれは憲法をかえなければできぬと私は思つておりますけれども、そういうようにポイントポイントを押さえて行けば漸進的にきまつた一つの進歩の道かと思つております。
  11. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 今の金森先生の御説明吉田君の質問、いずれも現代の日本における、あるいは民主政治における悩みを現わしておる深刻な問題だと思うのであります。なぜならば、三権分立思想というものが現代において実際にどういうふうに現われているか。いわゆる政党政治三権分立制度との調和でありますが、御存じのようにただいまの政治を具体的に見ますならば、自由党が多数党と相なつて、その総裁が内閣総理大臣をやつて、大多数が、自由党の党員が内閣を組織しておる。そしてまた国会はどうだといえば、自由党が最大多数党でありまして、自由党の欲するところによつて法律ができ、いかにわれらが反対をいたしましても、これは通つて行く。そこで立法と行政とが多数党に握られているという現状であります。この立法権及び行政権が、制度としてはそうではないけれども、実際具体的な問題としては多数党に掌握せられておるということから、多数党の横暴ということが出て来ると思うのであります。そこでこれに対して、国家的な抑制機能というものがどういうふうに樹立さるべきものであるかということが今の悩みではないかと思うのであります。もちろん国民の多数の輿論によつて出て来た代議士によつて多数党ができているのでありますがゆえに、この多数党の存在自体が国民の輿論だと申せば申されるのであるから、民主政治としては多数党の政治になる。それをまた抑制することが度を過ぎて、統帥権独立だ、枢密院だということになると、これはまた昔の政治に返る。さればと言うて、この行政権立法権を事実上動かしております多数党というものに対し、何らの抑制機能がないということになると、多数党の横暴ということに相なりまして、結局民主政治の堕落ということに相なり、民主政治そのものが国民に飽かれて来て、ここにまた昔の全体主義的な政治思想が現われて来る。これを防がんとするならば、多数党の政治を何らかの形において抑制する機能が必要である。しかしこれは非常に至難な問題であつて、今金森先生がおつしやいましたように、根本的なものを法律的、制度的に樹立しようとすることに対する一つの限界が来ておるのではないか、そこの悩みではないかと私どもには考えられる。結局国民良識的に相なり、選出せられます国会議員に良知良能の人が多くなるならば、この悩みは解決するのであります。つまり制度にあらずして教養にありということに相なるのであつて、現在のような国民の意識のままに、われわれ自身も含めましての国会議員が現在のままの制度の運用をやつてつたなら、一体これは国民の信頼をつなぎ、ほんとうに民主政治を発展せしめるゆえんになるかということは非常に疑問がある。ことに現在の日本におきましてこの疑問が深刻だと思うことは、金森先生などが主としておつくりになりました、世界に類例のない軍備放棄、戦争放棄の規定を置いておる日本憲法第九条、世界に類例がないのでありますので、あまりわれわれが手本にする制度がない。こういう戦争放棄の規定そのものが今中心の課題となつて憲法改正問題が審議せられているというところに非常にわれわれの悩みの深刻なものがあるのであります。憲法九条がありながら現在のような自衛隊というものが存在しておる。これに対して反対の者が訴えるところがない。軍隊にあらざることをただ強弁しておるだけでありまして、何人もこれは納得いたしません。この何人も納得せざることが今どんどん実現しているというところに実に恐るべき事態が発生するのではないか、これを一体どういうふうにすればいいか。私どもはその意味におきまして違憲訴訟を起した警察予備隊は憲法違反のものであるという訴えを起した。あれは法律違反を問うたのではないのであります。内閣の行政処分、つまり予算をとつたり、設営したり、そういう警察予備隊のためのいろいろの行政行為を目標にいたしまして、これは違憲なる行政行為であるということで、憲法八十一条でもつて違憲訴訟を起したのであるが、御存じのようなことでやられた。そこで今具体的な事件でなければならぬというために、いろいろのことを構想いたしておりますけれども、なかなかこれはうまく行かぬのでありまして、ここに世界に類例のない憲法九条をめぐりましての大いなる悩みが出ている。これが違憲訴訟というもののわが国において特にやかましくなつておる理由じやないか。われわれの真剣に考えなければならぬ理由であります。  いま一つ、また新しく日本的な問題として追加せられたものは、先般の六月三日以後の変態国会におきまして、与党のみ出席した国会というものの存在であります。これは事実上は六月三日に国会が終了しておることは明らかである。これはいかなる方法でも、裁判所で争われましたならば、六月三日で閉会になつていることは明らかに出て来る問題であります。そうすると四日以後は国会ではない。国会ではないものが国会の名において警察法その他の法律を出しておる。そこで今この問題につきまして幾多の訴訟が起らんとして来ております。先般横浜市の公安委員の人が参りまして、自分が公安委員をやめさせられたことを不服として、あの警察法は改正になつておらぬのだ、自分はまた公安委員であるということで地位確認の訴訟を起すというふうな相談を受けまして、手続をやつております。  かような意味におきまして、この裁判所に対する期待というものは実際非常に強まつておりますが、こはが一切取上げられないということになりますと、そのエネルギーがどういう方向をとるか。吉田君の質問もあつた通りであります。ここに私ども良知良能をしぼつていただきたいという切なる考えがあるのでありますが、今先生方の御説明を承りましてもまた非常に同感するところがあつて、ドイツの憲法裁判所も――昨年私どもはドイツに参りまして様子を聞いたのですが、どうもこれはあまり感心しない。結局その判事を内閣総理大臣が任命するようなことになつておりますので、やはり政党の出店みたいな形になつてしまつて、要するにわれわれの考えているようなほんとうの政党政派を超越した正義ということから判断するというような立場ではないようでありまして、憲法裁判所というものをつくつても、それが金森先生の心配なさることと違つた方向に、つまり政党に同調して、うまく調和させるという方向ではない方向に、現在のドイツの憲法裁判所は向いているように私どもは聞いて参りました。やはり政党の鼻息をうかがつてつておるというように聞いて参りましたが、そうなるとこんなものは何も意味がないというようなことも考えられますので、実は思案に困るのでありますが、今の自衛隊、これは明瞭なる軍隊であります。これを軍隊にあらずとすることは、憲法そのものを侮辱し、国民の遵法精神を稀薄ならしめる最大のものだと私は思う。こういうものを一体救済しないでいいかどうか。それからいま一つ、この変態国会において幾多の法律が出ておる。これを法律なりとして認めるということになると、えらいことになると思う。議長が議長席で国会が延長された、いやこの法律ができたのだ、こういう宣言をすれば、それがもう法律になる。実際議長席について開会を宣言したわけでもなし、採決をしたわけでもない、ただ議長が延長になつたと言えば延長になるというのならば、法律がないと同じことになる、法律が成立したと言えば成立したということになると、これは私は容易ならざることだと思うのです。法なんというものは何の意味であるかわけがわからぬことになる。さように今憲法においても、法律においても非常に重大問題を含んでおりまして、その欠いから民主政治というものを破壊せんとするやからが出て来るのではないか、これに対して一体安閑としてなすがままにしておいていいだろうか、あるいは多数党がこういう無理なことをやつた場合に、それを押える機能がないでいいものだろうか。具体的な自衛隊の問題及び変態国会の問題に関連いたしまして、金森先生及び伊藤先生の御意見を承りたいと思います。
  12. 金森徳次郎

    金森参考人 今お尋ねくださいました点は、非常に重大な点でございますが、実は私はほんとうの事情をよく知らないので。ほかから多くの意見によつて教えられておるだけでございまして、それを具体的にどう言つていいか、ちよつと困るのであります。私自身は再軍備の現状というものは相当の段階まで進んでおつて憲法九条の面から申しますと、境界線というか、議論がかなり深刻な段階に行つておるとは私は申しませんが、非常に近づいており、こういう何となく人に疑惑をわかせる姿でもつてつておるということは好ましくないと思つております。だからこれがやらないというならそれでよろしいし、やるというならばこれに必要な憲法の改正をして堂々と行くというようにしなければ、私個人の立場として、憲法が軽蔑されて行く、秩序の根源がうちから薄らいで行くということで非常に悲しいことと思つております。しかし私は実は政治論をする資格がございませんので、まずそういうような感想を持つており、適当な方向に行くことが望ましい、こう希望しておるわけであります。  さきの議会がはたして継続しておつて、会期が延長されておるかどうかというと、問題はこれはどうも事実の問題であつて、私ども意見として何事も述べられませんので、延長するだけの条件が満たされておつたならば延長したというような形式的なことを言うより私としては知識がないわけであります。しかしこういうものをどうして解決するか、これはほんとうにわからぬ問題であります。私はよく存じませんけれども、こういうものが裁判所に行つて――つまり憲法に違反するというよりも、むしろ議会が法律をつくるに必要な条件がはたして備わつてつたかどうか、こういう問題でございますから、もしこれが具体的な形として裁判所へ行けば、裁判所で扱つていいことではないかとひそかと思つております。それ以上どうも知恵がございませんので……。
  13. 伊藤正己

    伊藤参考人 私の意見を率直に申し上げますと、たとえば今猪俣さんがおつしやいました再軍備の問題、あるいは変則国会の問題は、確かに憲法上非常に大きな問題でありまして、ことに非常に政治的色彩の強い問題であろうかと思うわけであります。それがいわばきまつていない状態で事実が進行しているということは、国民にとつて何か憲法というものに対するあき足らない感じを与えていることは確かだと考えるのであります、これが具体的訴訟を通じて出て来た場合にはとにかくとしまして、またそこで問題はあると思いますが、それに対してただちにそれが裁判所に持ち出され、ことに最高裁判所へ打ち出され、その決定が支配するという結果になることを想像いたしますと、結局非常に大きな政治的な争いというものが法を適用する司法権の中に持ち込まれる。これは結局司法権そのものを非常に危うくする結果になるのではないかというふうに思うわけであります。そういつた形の考え方がまあフランスでいえば統治行為であるとか、あるいはアメリカにおける政治的問題の理論となつて現われているのだろうと思うのでありまして、確かに憲法は行われなければならない。しかし憲法という非常に政治的色彩の強い法に関する問題がすべて裁判所でもつて解決されるということは、これまたかえつて非常にむずかしい結果を生ずるのではないか。そうなればこれは確かにデモクラシーに対する非常なる混乱を生ずる問題だと思うのでありますが、しかしやはりデモクラシーというものはそういつた意味において国民の常識というものを前提としているのだろうと思うのでありまして、常識的な意見ではございますけれども、その場合にはまず第一に、国会自身が非常にデモクラシーのルールに従つたような形でもつてそういうものを持つてつていただきたい。そうしてもしそうでないような事態において法律がつくられる、あるいは事実が進行するという場合には、やはり国民がこれをためさして行く、そして次の総選挙なりそういつたところでもつて判断をして行くということにならざるを得ないのではないだろうか。私が申しましたように、イギリスにおいて国会は何でもできるということでありますけれども、しかし学者は、それを押えるものは――国民の自由なる選挙権が確保されていることがやはり国会を制約する最も大きなものであるというふうに言つているようでございまして、そういつた形に持つて行かざるを得ないのではないかと思うわけであります。しかしむろん問題によりましては、裁判所はそれは政治的であるというふうに言つて責任を回避することはできないのでありまして、具体的訴訟なつた場合には、その前提問題として相当強い政治的色彩のものが審査されることは確かでありますけれども、すべてがすべてこれが裁判所の問題になり得るとは私は考えておらないわけであります。もしそれがなり得るとすればこれは非常に大きな混乱が生ずるのではないかと思う。たとえば自衛隊の現状については私はよく存じませんが、もつとはつきりと軍隊の色彩をとつて、それが裁判所へ出て行つて裁判所でもつてこれが違憲であるとされた場合に一体どうなるか、その処置は一体どうするか。裁判所は結局そういつたことに対する責任を持たない。ただそれを判断するだけでございまして、国政に対しては直接関与しないのでありますから、そういつた形のことを考えますと、どうも司法権の限界というものはやはり守らなければならないのではないか、そういうふうに考えているわけでございます。
  14. 小林錡

    小林委員長 高橋君。
  15. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 これは両先生にお尋ねいたしたいと思うのですが、お尋ねいたしたい点は、憲法の八十一条と裁判所法第十条に関連する問題ですが、先ほどの両先生の御意見を伺つておりますと、金森先生の方は上告の道はできるだけ開いた方がいいだろう。それから伊藤先生の御意見は、むしろある程度制限した方がいいだろうというふうに伺つたのです。結論として私はむしろ金森先生の御説の方に賛成するわけです。伊藤先生の方は主としてこれは最高裁判所の判例等に出たところによればというお話でございましたから、ここでひとつ裁判、ことに上告するような事件についての実情を、むしろわれわれの立場から一応申し上げておいた方が、上告の道を開くべきか、若干制限すべきかという問題に関連して伊藤先生にも少々考え直していただく節があるのではないかと思いますから、特に申し上げるわけですが、最高裁判所の判例に現われておる部分だけをとつてみますと、確かに上告の理由というのは、これは民事にしても刑事にしても無理があるのです。ところがそういうような無理があるのはどこにあるかといいますと、あまり上告を制限しておるものですから、実際はその事件について上告する人としては、事実の認定とか刑の量定に刑事事件として非常な不平がある。それから民事事件にしても、事実認定並びに法の適用なり最後の勝敗の結論について非常な不平がある。ところがそのありのままの不平を述べたのでは、もうてんで玄関払いを食うような制度になつておるものですから、裁判の実態から見るとどうも不平がある。どこかに救われる道はないだろうかというので、上告趣意書をつくるときには、ほんとうのことが言えないで、まあ何かどこかにひつかかりはないだろうかと思つて憲法違反だとかいうような無理を書くわけでして、そこに上告というのはてんでとるに足らないものが多いのだというわけに行かないと私は思いますので、私どもはできる限りこの上告の道を制限しないようにしてやりたい。こういう制度をつくつたらいいんじやないかと考えておるわけです。そこで、あまり上告の道を開きますと、最高裁判所が今の程度の人員で今のような機構で参りますと、とても事件をさばき切れないで未済事件が非常に多くなつて、それがかえつて国民の権利を擁護することができない。こういうことになるので、それをいかに調節するかというところに大きな問題があるわけです。  そこでお尋ねいたしたいと思いますのは、憲法八十一条の「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」というこの最高裁判所というのは、一体最高裁判所全員をもつて構成した裁判所でなければならない絶対的のものであるかどうか。すなわち最高裁判所が少くとも事憲法に違反するかいなかという問題を審理、裁判する場合は、裁判所法のいう大法廷でやらなければならないものであるかどうか。もしもこれが小法廷でもやり得るのだという制度になると非常に問題を解決するのに楽になつて来るわけです。かりに大法廷で裁判するにしても、そのときにはただ法律なり命令なり規則なりが憲法に違反するというので、いわばそれは憲法に適合しない、違憲であるという結論を出すときだけ大法廷を必要とするというような制度にして、その他の場合には一応法律、命令、規則等は合憲性を持つておるのだという推定をもつて裁判所制度を打立てて行くというふうにできないものかどうか。ここのところが上告制度最高裁判所の機構に関して非常な重要な点だと私は考えるわけであります。と申しますのは、なおつけ加えますと、最高裁判所としては、いわゆる大法廷を開く場合に、あまりにも裁判官の人数が多いと、合議なんかなさるときにとてもたいへんなんだそうです。だから今でも多いくらいで、大体九人くらいの裁判官が一番適当ではないかというような意見もあるわけです。ところが九人の裁判官ということになると、憲法問題について常に大法廷を開かなければならぬということになると、上告というものは非常に制限しなければとてもさばき切れない、こういつたようないろいろの問題がここにあるわけでして、これらについて両先生の御意見をお伺いいたしたいと思います。
  16. 伊藤正己

    伊藤参考人 私最後のところから申し上げますと、八十一条で最高裁判所と言つておりますのは、常識的に考えれば最高裁判所全員だろうと思いますが、むろん法律で大法廷でなくてもいい、ことに違憲としない、合憲とする場合はいいというふうに手続で定めれば、さしつかえないのじやないかと思います。ただ問題は、憲法上の判断というものは、判例を変更でき得るかいなかというふうな問題でいろいろ問題がありまして、これはできるとしても、できるだけ憲法上の判例というのは動かないのが筋だと思うわけです。一度合憲としたのが後に違憲となり、違憲としたのがあとで合憲になるというのは、何としても好ましくないわけでありますから、なるべくならば判例は変更できないような形にする必要があるのではないか。アメリカでも日本でも最高裁判所全員の多数がやはり必要である。たとえば定足数はあつても、その多数ではだめなので、全員の多数が必要であるということの根拠には、やはりあとで多数が出て来たと出ひつくり返されると困るという考え方があるのだと思うのでありまして、そういつた意味では、やはり大法廷といつたようなもので憲法判断はする方が適当なのではないかというふうに考えてはおりますが、しかしほかの考慮によつてほかの形をとることも可能ではあろうと思います。  それから上告の問題について、確かに今おつしやいました通り、上告理由だけ見ては判断できないことは当然でございますが、ただ私の意見の前提には、上告審というものはやはり法令解釈の統一といつたようなところに重点があると思うのでありまして、従つてむろんこれには、第一審、第二審をもつと充実させて、そこで満足が行くようにしなければならないと思いますが、もし法令違反あるいは量刑不当その他についても最高裁判所に上告できるという形になりました場合には、おそらくそれでも非常に多くの上告が出て来るであろう。そうなつたときには、結局最高裁判所というものの真の姿というものが失われざるを得ないような機構にしなければならなくなるのではなかろうか。私は実情をよく知りませんのではつきりしたことは申せませんが、ただ漠然とそういうふうに考えているわけでございます。
  17. 金森徳次郎

    金森参考人 お尋ねの件は実は私にはまだはつきりわからないようなところもございます。ちよつと初め上告についての私の意見から事が起つて参りましたが、私自身は、裁判ということはほかの政治のことに比べると、実に小さな個人の利益のために非常に国家が金をかけて煩瑣な手続をとつておる、こう非難をちよつとしてみたくなるのであります。しかしそこのところをそんなふうに非難したら、民主政治というものはこわれてしまうのであります。民主政治というものは主として形式に重きを置くものでありますから、できるだけあちらこちらの人の考慮を入れてもらつて、そう人生に絶対の真理とか正義というものがわかるものではございませんが、しかしこの世の中に許され得る道を開いて、そうして最後に得心するところまで行こう、こういうのがほんとうでありまするから、私はどこまで事実の問題を持つて行くか、法律の問題を持つて行くかというふうなこまかいことは、あまり専門でございませんからわかりませんが、とにかくよしんば国家がほかのことと比べてめんどうくさいと思つても、道だけは十分開いておかなければ、近代的な国民気持を伸ばすのには不適当である、こう思います。だから最高裁判所には、技術的に上告の範囲を限定する必要も起りましようけれども、しかしそこは常識を用いて、できるだけ広い範囲に上告を認めたい。そうしないと実際国民気持は通らないのでありまして、一人々々の国民気持なんかどうでもいい、こういう前提をとつて制度をつくつたら、それこそ昔の封建的な形式的な形になりやすいと思うのです。そういう見地のもとに最高裁判所の組織をどうするかというと――これはどちらかと申しますと、初め憲法のできまするときには、そんなに詳しくそこまで研究がついていたとは思いませんけれども、大体私ども当時の日本の大審院の組織というようなことを幾らか胸に持つてつたわけでありまして、たくさんの裁判官があつても、そのおのおのの裁判官の担任する方法法律その他の適当な方法によりまして所属をわけて、そしておのおのの部において判断して、それが最高裁判所がやつたことになるのだということは、おそらくこの裁判所の組立てを考えるときの常識のようなものでありまして、そういうふうになることは憲法的には可能なことであるように思つておりました。だからして、法律その他によりまして適当な方法で部属がきまり、そうして部の制度が十分発達するということは、この憲法はきらつてはいないというふうに思つております。ただしかし、裁判所の目的に照しましてどんなふうに内部の関係をきめるかというところに行きますと、これは技術的な問題になりまして、大きな憲法問題のときはなるべく広い会議体がよろしい、小さい問題は適当に行くというふうに、あとは妥当の問題になつて解決がつくような気がしております。
  18. 小林錡

    小林委員長 鍛冶君。
  19. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 金森先生にひとつ……。八十一条だつたと思いますが、よく最高裁判所は旧来の大審院と異なつてアメリカの連邦最高裁判所と同一の権限のものができたのだ、従つて法律の専門家ではなくて一般の方面から来て特別の最高裁判所というものをつくつておるということが常識のように考えられておりました。しかし今般研究に当りましていろいろ疑問を持つておりまするのは、あの八十一条でそういうことがほんとうに出ておるのかどうか、これは私非常に疑問になつております。憲法制定の際はそういう考えでおつくりになつたか、また現在の法条を読みましてそうしなければならぬという結論が出て来るかどうか、この点をひとつ聞いてみたいと思います。
  20. 金森徳次郎

    金森参考人 私どものあのときに考えておりましたのは、アメリカ三権分立の形に司法権は似ておると思つたわけであります。しかしあの当時はいわば理想主義に燃えておるとでもいいましようか――だれが燃えておつたちよつと答弁しにくいのでありますが、大体憲法関係を持つてつた人は理想主義に燃えておりまして、そこでちよつとここでは言にくいのですけれども、大体日本裁判官というものは裁判ばかりやつてつて来たのであるから、ほんとうの国の最高司法を担任するには必ずしも適当といえない、この気持が強かつたわけであります。だから当初から裁判官というものは相当広い範囲から人材を集めて来よう、そうすにば従来の狭い範囲の見解を持つてつた裁判官と違つて広い視野の人が入つて来る、それでもつてある法律憲法違反であるかどうかという人間の総合的判断を加えることができるであろう、こういう気持がございました。そこで御承知のように、当初どんなような方法で人を選んで行くかというときにも、やかましい問題が起りまして、その最高裁判所の長官を選ぶためには、初めは関係者と申しますか、狭い範囲の人が投票をしてきめましたけれども、それではおもしろくない、もつと一般的な方面から投票をして裁判所の――あれは、長官ばかりではなかつたですね。最高裁判所裁判官を人選いたしますときは、当初からいろいろな方法で、学者の範囲裁判官範囲その他のいろいろなグループから百人かそこら選んで、それからまた別な方法で任命されておりました。任用の制度を具体的にきめるときでも、何分の一かは特別任用と申しますか、裁判官経験を持たなくてもよろしい、こういうふうにできておりましたが、どうも当初の気持は、広い視野を持つた、いわば政治というと語弊がございますけれども、高等常識的な人をもつて充てるという気持は強く入つてつたと思います。私ら内部で議論いたしますときには、いつもその標準を重くしておりました。ところが、そういうような気持が、今度従来の裁判官の方の系統から、おそらく相当反対があつたと思います。そこで折衷されて現在のような形が生れて来ておる、さように思つております。
  21. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 八十一条の条文から見れば、憲法についての最終の裁判所である、しかも現在の最高裁判所の判例から見ますと、司法裁判所としての最終の判決をするところであるということだけがきまつております。そうしてみますと、今言うように、広い視野の人を集めてやる、それから特別今までよりかもつと高等のものにして、そのかわり人数を十五人に制限してやるというようなことは、法律上の問題ではなくして、そのときの国民の輿論と申しますか、立法者の考え方その他から出て来る政治論である、かように解釈してよろしいでございましようか。
  22. 金森徳次郎

    金森参考人 私あるいは錯覚を起しておるかもしれませんが、政治論と申しますよりも、三権分立の建前からいうと、一面においては国会、一面においては政府、これと相匹敵するようなものをつくつて、今まで裁判所が低く見られておつたところをずつと高めて行こう、たとえば待遇等も高めて行こう、ここまでは政治的な意味はなかつたと思います。いわば法律的と申しますか、純粋な考えで行つておる。しかし権能憲法できまつておりますように、最終審でありかつ法律、命令等の審査ができるというその特色を持つた裁判所、こういうことになりまして、これを現実にどんなふうに組み立てて行くかということは、これは当時の立法関係した立法者の判断に属するわけです。そこを政治論と言えば言えぬことはございません。しかし、政治論とは言いましても、大体あの当時の気分では、もう型ができておりまして、問題は、いわゆる裁判官系統の人がどのくらいの重さを占めるか、一般の人がどのくらいの重さを占めるかというところは、別にものさしはございませんので、ああいう現在の制度のようにけりがついたわけであります。このところは、今後憲法関係なく立法的に時代の常識に従つて動き得ると思いますが、そういうのを政治論というか法律論というかよく存じません。これは私そのくらいしかよくわかりません。
  23. 小林錡

    小林委員長 参考人各位にはまことに暑いところを長時間にわたつて意見をお述べいただきまして、たいへん参考になりました。厚く御礼を申し上げる次第であります。  それでは午後二時から開くこととして、暫時休憩いたします。     午後一時十分休憩      ――――◇―――――     午後二時二十九分開議     〔佐瀬違憲訴訟に関する小委員会委員長委員長席に着く〕
  24. 佐瀬昌三

    佐瀬委員長 休憩前に引続きまして会議を開きます。  午後の会議におきましては、佐藤功君より参考意見をお述べいただきたいと存じます。  佐藤参考人よりは、特にお手元に差上げておきました  一、憲法制定当時、司法制度はいかなる構想であつたか。特に第八十一条はいかなる意味を有するものと考えられるか。抽象的違憲審査権があるかどうか、立案者である政府としていかなる見解をとつていたか。  二、憲法裁判所に対する所見いかん。もし設置を必要とすれば(イ)憲法裁判所と現行長高裁判所等一般裁判所との関係いかん。(ロ)憲法裁判所の組織の大網(ハ)提訴権者(ニ)憲法裁判効力(ホ)公示方法等について所見を述べていただきたい。  三、最高裁判所憲法以外の一般法令審査をする上告部を設けろとした場合に、その上告部裁判官が、違憲審査ないしは憲法裁判所に関与しないものとすることが憲法上可能であるかどうか。  その他これらに関連した事項について御意見を承りたいのであります。佐藤参考人
  25. 佐藤功

    佐藤参考人 ただいま委員長からお示しをいただきましたような問題につきまして私の考えを述べなせていただきたいと思います。今お読みいただきましたのは資料の(A)の方でございましたが、(B)の方にあげられております問題も関連いたすと思いますので、少しく(B)の問題にも触れるこをお許しいただきたいと思います。まず(A)の一番の問題でございますが、これは本日も金森先生がお話になつたそうでございますので、私はあの当時少しくお手伝いをいたしましたけれども、それほどその実情を詳しく知つているというわけではございません。ただ当時も思つておりましたことは、この日本憲法司法の章は、大体におきましてアメリカの合衆国憲法にならつたものであると考えることができると思います。この司法の章の最初の条文でありますところの七十六条の第一項などを見ましても、これは御承知のようにアメリカ憲法の第三条の第一項とほとんど文字が同じであります。すなわちアメリカの第二条第一項は、合衆国の司法権は、一の最高裁判所及び連邦議会が随時設定することのできる下級裁判所に屈するという規定でありますが、これは日本憲法七十六条一項とほとんど文字すらかわつておりません。それも一つの証拠でございますが、日本憲法司法の章は特にアメリカ制度にならつたものであるということが言えようと思います。そうなりますと、この問題の八十一条を解釈いたします場合にも、それはいわゆる憲法裁判所的なものではなくて、やはりアメリカ最高裁判所の違憲法審査制度を前提としてつくられたものではないかということが想像できると思います。ただ、あるいは金森先生からお話がなかつたのではないかと思いますから特に申し上げたいと思いますが、御承知のように日本憲法の最初の原案が総指令部によつて書かれたということはもはや周知の事実になつておるわけてあります。ただ最初総司令部で書きました原案というものは、今までごく最近に至るまで、一般には公にされなかつたのでありまして、私たちもそれを利用することを差控えていたよう事態であつたわけでございますが、御承知のように最近自由党の憲法調査会でいわゆるマツカーサー草案というものが発表されましたので、私たちもそれを利用することがでるようになつたわけであります。そのマッカーサー草案におきます現在の八十一条の原案であります七十三条というのを見ますと、御参考になるのではないかと思われる興味のある規定があるわけであります。その七十三条は最高裁判所終審裁判所である。この憲法の第三章に関する事件または関する事項を含む事件については、法律、命令、規則または処分の合憲性の決定が問題となる場合においては、最終のものとなる。その他の事件については法律、命令、規則または処分の合憲性の決定が問題となる場合においては、最高裁判所判決国会審査を受ける。国会審査によつて最高裁判所判決を取消すためには、国会議員の総数の三分の二の一致した投票によらなければならない。国会最高裁判所判決審査手続に関する規則を制定しなければならないという規定であつたわけであります。これはおわかりになりますように、最高裁判所違憲審査権が最終のものとなるのは、憲法第三章に関する事件だけであつて、それ以外のものは国会がさらにレビユーする、そしてそれを取消すことができるというような非常におもしろい制度考えていたわけであります。つまり国会最高機関であるという点と、それから裁判所の法令審査権との関係をどう調整するかということが、違憲審査制度根本問題であることは言うまでもございませんが、この草案では今の二つの中で、国会最高機関制の方が現行の憲法八十一条よりもさらに強調されていたわけであります。といいますことは、裁判所違憲審査権には限界があるのだということを示すものでもあつたと言えようと思います。つまり今の規定の第三章に関する事件、または関する事項を含む事件という表現は少しあいまいでありまして、不明瞭でありますけれども、しかしそれでも裁判所違憲審査権の中心は、第三における国民の権利自由の擁護にあるのだということが示されているように思われます。つまりひとしく違憲であるかどうかということが決定されなければならない事件でありましても、第三章以外の事件については、国会がフアイナルにきめるのだ、つまり裁判所以外の機関がフアイナルにきめるのだということが示されているわけであります、この草案七十三条といいますのは、その後日本政府の例の憲法改正草案要綱というものができ上りますまでの間におきまして修正されて、大体現在の八十一条が日本側の要綱のときからでき上つて来たわけでありますが、なぜ修正されたのかということは私実は承知いたしておりません、しかし先ほど述べましたこの原案考え方、つまり裁判所以外の機関がフアイナルに決定することが望ましい事件があるのだという考え方は、今の八十一条のもとでも考えなければならない問題ではないかというふうに思うわけでございます。そしてそのことがこの八一十一条の解釈の場合にも考えなければならない点だというふうに考えるわけであります。そこでそういう八十一条が、政府憲法改正案としまして憲法議会に出されました当時、これが憲法裁判を認める趣旨であるのかという問題は、実は今日ほどは論議されなかつたのであります。今日はそれが非常に大きな問題でありますことを考えますと、あの当時なぜそれがそんなに論議されなかつたのかというふうにすら考えられるのでございますが、それほど論議されなかつたのであります。それがたまたま論議になりましたときは、金森さん初め当時の司法大臣でありました木村大臣なども、この八十一条は憲法裁判趣旨ではないのだ、通常の司法権の作用を行う場合に法令を審査する、そういうアメリカ流の違憲審査権の制度であるという趣旨を述べられていたわけでございます。そこでこの憲法設定当時の構想といたしましては大体今述べましたようなことに帰するわけでございますが、それに対しまして今日八十一条の解釈が争われているということは御承知の通りでございます。この点はいろいろお調べになつて来ました点でありまして、特に私から申し上げることもないと思うのでありますが、私はやはりこの八十一条の解釈としまして、それはいわゆる憲法裁判を認める趣旨ではないという見解をとつているわけであります。その論拠は、ごく簡単に申しますと、この司法権は、最高裁判所云々に属するというところに使われております司法権の観念というものは、やはり具体的な事件におきまして、当事者に権利の争いがあつて、それを解決し調整する上に、その事件に法令を適用する。その適用する場合にその法令の違憲性審査する機会が与えられるという、そういうことが司法権の観念でありまして、それをこの憲法は前提としているというふうに考えるわけであります。もしそうでありませんで、いわゆる憲法裁判、つまり通常の司法権とは違いました法令の違憲性の判定を抽象的にする、そしてその効力をその具体的な事件の当事者以外にも及ぼすという、そういう憲法裁判制度を認めるものであるとするならば、それはその趣旨をはつきりと憲法のほかの明文で定められていなければならないと考えるわけであります。  その点で、今度は質問事項の(B)の方になるわけでございますが(B)の一の(イ)の問題、これがただいま述べました点で、これは詳しくお話をする必要はないと思います。一の(ロ)の問題でありますが、この点は憲法議会の際に当時の木村司法大臣が答弁をされたことがあるのでありますが、判決の効果というものはその事件の当事者にのみ及ぶというのが司法の建前であると言われまして、つまり当事者のみを拘束するのだ、当時者以外の者、すなわち国会とか政府に対しては拘束力がないという答弁であります。ただその場合に、国会並びに内閣はその判決を尊重すべきは当然であります。そして九十四条、これは現行の九十八条でありますが、その九十四条との関係上、その判決は尊重され擁護さるべきものと信ずる。つまり形式的には拘束力はないが、実質的には拘束力があると考える次第でありますというような答弁が見られます。それが先ほど申しました八十一条を憲法裁判的なものとは見ていなかつた現われでもあるわけでございます。そしてこの点は憲法規定では必ずしもはつきりしていないということは確かに言えるのでありますが、御承知のように現在の憲法のもとにおきます多くの法令の体系では、判決が一般的拘束力を持つ、学者が一般的効力説というようなことを言つておりますが、そういう一般的効力説をとつているのではなくてむしろいわゆる個別的効力説をとつている。またそう考えなければ理解できないような制度があるわけでございます。たとえば国家公務員法の第一条の四項などを見ますと、「この法律のある規定が、効力を失い、又はその適用が無効とされても、この法律の他の規定又は他の関係における適用は、その影響を受けることがない。」というような規定がありますし、それから、これは現在廃止されましたが、旧公共事業令の九十五条はそれをさらにはつきりと示しておりまして、「この政令のある規定効力を失う、又はその適用が無効とされても、この政令の他の規定又はその適用が無効とされたもの以外の人若しくは事案に対する適用は、その影響を受けることがない。」というような規定が御承知のようにございます。これはいわゆる個別的効力説をとらなければ説明のでない規定であります。そういう法律規定そのものが問題なんだという考え方も、もちろんあり得るわけでありましようが、そうなりますと、先ほど言いました憲法司法権の観念という問題に返つて考えなければならないことになるわけでございます。  そこで(B)の方の一の(ハ)、それから(ニ)などは、あとで御質問でもあれば見解を述べさせていただきたいと思いますが、ただ一つ私として申し上げたいことは、先般最高裁判所の入江裁判官が、この委員会で見解を述べられたようでありますが、その際に最高裁判所に抽象的な裁判権能法律によつて与えるということは可能である、違憲ではないという意見をお述べになつたようであります。この点は私は反対でございまして、入江さんのその御意見は、何か現行の最高裁判所の本質をそこなうと七はできないけれども、現行の最高裁判所の本質をそこなうことなく、法律によつて基本的人権に関する法律については、抽象的な裁判をなし得る、そういう権能を附加することはできるのだという御意見のようでありましたが、もしそういう権能を附加いたしますならば、それが現行の最高裁判所の本質をそこなうことになるのではないかというふうに思うわけでございます。その理由は先ほど述べましたところにまたもどつて行くわけでありますが、抽象的な裁判というものは、この憲法が前提としておる司法権範囲の外のものであるからであります。入江裁判官のお考えは、おそらく具体的事件で、特定の当事者の間の法律上の争いをのみ裁判できるのだということは必ずしもいえない、必ずしも絶対的なものじやないのだ。その証拠には民衆訴訟といわれておりますたとえば選挙法におきまする選挙訴訟どもあるではないかという御意見、そういうお考えではないかと推察するのでありますが、しかしこの選挙訴訟とか、いわゆる民衆訴訟といわれおりますのは、私たちは、これは司法権の作用に非常に似てはおりますけれども、本質的には司法権の作用以外のものであるというふうに考えるわけであります。すなわち例の裁判所法三条におきまする法律上の争訟ではなくして、法律で特に定める権限という方に入るものであるというふうに考えます。それならば、抽象的な裁判法律で特に与える権限として与えてもいいではないかというふうにいえるのじやないかとも思われますが、しかしそういう選挙訴訟などの民衆訴訟と申しますのは、これは裁判所の公正性に着目いたしまして、選挙の公正を確保するための制度である。つまり極端に申しますと、必ずしも裁判所にその権限を与えなくてもいい。ほかに何か公正な機関があれば、その機関にその判定をさせてもいいのであるけれども、しかしほかに適当な機関もないから、裁判所をいわば借りてそういう判断をさせ、そういう訴訟を受けさせる、そういう仕事をやらせるという形のものだというふうに考えるわけであります。ですから、つまりその場合には選挙の公正を確保するということがその目的であり、またその結果でありまして、法律効力を動かす、法律効力をどうするということはそこでは問題にはならないわけであります。あるいは言葉をかえて申しますと、立法権との関係はそこには出て来ない。しかるに抽象的な裁判というものをやらせるということになりますと、そこには法律効力を動かすことになり、立法権との関係が出て来る、そこは違うのでありまして、選挙訴訟ができるから、抽象的な裁判権能を与えてもいいということにはならないというふうに考えるわけでございます。  それから私に主として与えられました憲法裁判所に対する所見いかんという点でございますが、これもあらためて申し上げるまでもなく、非常にむずかしい問題でございます。根本的に申しますと、裁判所をいわゆる憲法の番人にして、そうして国会や内閣でややもすると破られるおそれのある憲法裁判所によつて守るという必要と、それに対しまして他方、国民から選ばれた国会、その基礎の上に立つ内閣というものの決定を尊重するという二つ考え方なり要求なりというものをどういうふうに調整するかというのが、この憲法裁判所根本の問題だというふうに思うのでございます。最近一部に内閣や国会憲法を蹂躙することが多い。そこで裁判所にそれを守つてもらうよりほかないのだ、そういう考え方が強くなつて来ておるわけでありまして、御承知のように、たとえば關口先生などが盛んにそういう主張をしていらつしやるわけであります。ただそれは、確かにそういう考え方も成り立つのでありますが、しかし極端に申しますと、あまりに裁判所に期待をかけますとかえつてその裁判所が、かりに反動的な判決をしたという場合には、いわばひいきの引倒しになるという場合も出て来るということもまた考えなければならないというふうに思うわけでございます。つまりこの法令審査制度というものが必要だということ、特に日本憲法におきまして第三章で国民の基本的人権が法律によつても制限し得ないとされていながら、例の公共の福祉のわくというものが定められておる関係で、法律が違憲であるかどうかということを裁判所審査し、決定する必要が非常にあるということは否定できないことなのであります。但しそうかと申しまして、それがただちにいわゆる憲法裁判を必要とするのだということにはならない。すなわち九十八条なりあるいは八十一条なりがただちに憲法裁判、すなわち直接に抽象的に訴訟を提起してその法令の違憲性そ、のものを決定させ、そして裁判所がそれを決定した場合には、その効力を一般的に失わしめるということが必要だということにはただちにはならないというふうに考えるわけであります。この点はいわゆる政治問題あるいは統治行為というような問題が裁判所審査権の対象となるかどうかという問題として特に現われて来るわけでありまして、この点はあらためて申し上げる必要もないと思います。つまりいろいろな事件の中には、国会や内閣の決定をフアイナルなものとすることが適当であり望ましいものがあるのであつて、それを裁判所審査権の対象とすることは、そういう事件についても裁判所がリードし、あるいはデイクテートすることを認めることになるので、望ましくないという議論があるわけであります。これは例の苫米地事件、解散無効のあの事件などのときにも大いに議論なつた点でありますし、またついこの間の会期延長問題のときにも問題になつたわけでありますが、そういういわゆる政治問題と言われるものにも裁判所審査権を及ぼすべきであるという議論もないわけではございません。しかし御承知のようにアメリカの場合にも、政治問題というものがいろいろな判例の上で現われて来ているわけでありまして、そういう政治問題の処理にあたつて裁判所は非常に慎重な態度をとり、できるだけそれにはタッチしないという態度を今まで続けて、いわば確立をして来たというふうに言われているわけであります。これは本日伊藤助教授がその点は特に詳しく見解を述べられたのでははないかと思いますので私は省略をさせていただきますが、要するに政治問題に関して裁判所権限を認めるということが、かえつて裁判所の権威なりあるいは法令審査制そのものをもなくしてしまうことにもなるということが指摘されているわけであります。それにかんがみてアメリカの場合にそういう慎重な控え目的な態度をとつて来たんだというふうに考えることができるわけであります。  そこでそういうふうにいわゆる憲法裁判所制度につきましてはいろいろな観点から考えなければならない点があるわけでありますが、しかしその場合に、もしもそういう長所、短所を比べまして、長所の方を重要視するのだということで憲法裁判所を設けるという決定がなされるといたしますならば、それはやはり一つの行き方であることは確かであるわけでありまして、憲法の改正によつてそういう制度を設けるということは、是非の問題は別としてもちろん可能であるわけであります。しかしそういうふうに憲法を改正して憲法裁判所制度を設けるということにいたしました場合にも、先ほど言いましたようなその憲法裁判所の弊害というものは避ける用意がなされていいのではないか、また諸外国の憲法裁判所制度でもそういう用意がなされているわけであります。それが質問事項の(A)の二に当る問題でありますが、この二の(イ)の「憲法裁判所現行最高裁判所等一般裁判所との関係如何。」という問題は、今申しましたように、私は憲法の改正をしなければ憲法裁判所を設置することはできないというふうに考えるわけでありますから、現行最高裁判所との関係というようなことは出て来ないと申しますか、そういうふうに考えるのであります。つまりもし憲法改正によつて憲法裁判所を設けましたならば、それは現在の最高裁判所とは全然別のものができて来るわけでございます。この(ロ)の「憲法裁判所の組織の大綱」というのですが、これはいわゆる憲法裁判所の組織の民主的構成という問題になろうと思います。先ほど申し上げましたようなことにかんがみまして、ここの憲法裁判所裁判官には民主的な選任の方法考えなければならぬということが出て来るわけであります。これは西ドイツの憲法裁判所の組織などが参考になるわけでございますが、結局国会がそれを選定をする、あるいは党派による比例代表制のような形で裁判官国会が選任をする、それが全部ではございませんが、そういう裁判官をも含ましめるというようなことがそこで考えられなければならなくなるわけでございます。  それから提訴権者の問題は、これはやはりそういう憲法裁判所を設けます場合に、いわゆる乱訴の弊害を予防する必要があるわけでありまして、そこでたとえば西ドイツの憲法裁判所などを見ましても、一般の国民には提訴権を与えていない。政府それから国会の両院それから議院における三分の一以上の議員というようなものに提訴権者を限つているわけであります。そうい用意がなされていいというふうに考えます。  それから憲法裁判効力という点は、言うまでもなくその判決がありました場合には、問題となりました法令の効力が一般的になくなる。ただその場合に命令ならば政府法律ならば国会というものに一ぺんもどして、それの手続によつて法令が改廃されるという順序をとるか、それともそういう順序を経ずしてただちに効力を失わしめるかというような問題が出て来るわけでありましよう。  それから最後公示方法というのは私はあまりよくわかりませんので省略をさせていただきます。憲法裁判所に対する所見というのは大体そういう点でございます。  最後に、三番目の最高裁判所憲法以外の一般法令審査をする上告部を設けた場合、その上告部裁判官違憲審査には関与しないということが憲法上可能であるかという問題が出されておりますが、これは私は憲法上不可能である、もしもそういう制度を設けるならば、それは違憲であるというふうに考えます。それの理由は、最高裁判所裁判官の中にそういう二つの種類を設けまして、一方の種類の裁判官違憲審査には関与できないということになりますと、最高裁判所権限として違憲審査権というものがあるわけでありまして、そういう権限を持つて最高裁判所を構成する裁判官に、その違憲審査権の行使ができない裁判官を認めるということは、これは許されないというふうに考えるわけであります。それはちようど内閣の中に閣議に列席し得ない国務大臣を認める、あるいは行政権を統轄する権限を与えられない、行政権の統轄に関与することができない国務大臣を認めるということと同じであるというふうに考えます。ただ最高裁判所の中に、普通の上告部と、いわば違憲問題だけを取扱う部との二つを設けるといたしましても、今言つたよう裁判官をはつきりとわけませんで、ただ違憲審査の部に全裁判官が順繰りに充てられるということにするのならば、それは違憲の問題は出て来ないというふうに考えます。  そのほか(B)の方の問題につきましては一応省略をさせていただきまして、何か御質問でもあればお答え申し上げますが、大体以上で私の御説明を終らせていただきたいと思います。
  26. 佐瀬昌三

    佐瀬委員長 これより質疑に入ります。猪俣浩三君。
  27. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 先ほど憲法制定の経過のお話がありました。いわゆるマッカーサー憲法原案を読んでいただいたのでありますが、非常に長いもので一々頭にとめておられませんけれども憲法第三章の国民の権利義務に関して、その権利義務に関する違反の法律なり命令があつたかどうかを審判する規定についての御説明があつたのでありますが、このマッカーサーの原案からいえば当時いわゆる抽象的な裁判ができるという意味であつたのでしようか。その原案からいうても、ただいまの八十一条のあなたの解釈のように、抽象的な違憲裁判はできないのだということになるのでしようか。その辺のところを伺いたいと思います。
  28. 佐藤功

    佐藤参考人 今の点は、この草案の文字の上だけでははつきりしてないと思います。ただ先ほども申しましたように、このマッカーサー草案ができましたときにも、やはりアメリカ最高裁判所違憲審査制の考え方があつたのではないかというふうに想像するわけです。それはこの今のマッカーサー草案の規定にも、何々の事項を含む事件についてはというふうな言葉が使われております。この事件というような言葉は、やはりアメリカ人が書く場合には、アメリカ憲法のある事件あるいは争訟、つまりケースとかコントラヴアシイですか、そういう事件や争訟を最高裁判所はやるのだという規定が、アメリカ憲法にあるわけでありまして、よく日本の学者などが、その事件性とか事件や争いに限られるというようなことを言うのは、そういうところから来ているのだと思うわけですが、今の草案にも事件というような言葉が使われておるところは、やはりそういう具体的なケースということを頭の中に入れてできた規定ではないかというふうに思つているわけでございます。
  29. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 ともかく国会は国権の最高機関だ。その国会でつくる法律最高裁判所が無効というようなことになると、立法権との関係において、ここに司法権の行き過ぎがあることは、先ほどの午前中の参考人方々も言われたのであります。そこで午前中にも私は申したのですが、いわゆる司法権独立とかなんとかいう問題は、歴史的にその内容において変遷があるので、現代の政党政治下における司法権独立とは何ぞやというならば、いわゆる多数党の専横に対する司法権独立三権分立といいましても、政党政治になるならば、多数党政治になる。そうすると多数党なるものは、立法権行政権を結局実質において握つているような形である。内閣といいましても要するに自由党の総裁が総理大臣であり、結局自由党の内閣である。また国会と申しましても結局衆参両院において多数を占めている自由党ないしその同調者によつて最終的には決定されてしまう。そうすると立法権行政権といつても結局これは多数党が掌握をする、そこで多数党の横暴というような現象が起つて参ります。強大な国家権力を多数党が握るのであります。そこでこれに対しまして牽制的な働きをする国家機関が必要でないのだろうか、政党政治を円満に発達せしめて多数党の横暴というものから国家を守る上において、この多数党の横暴を、すなわち行政権立法権を握つております一党の権力行為に対しまして、これを抑制する機能が国家的に存在しないでよかろうかという、民主政治下におきまする大きな悩みがあるわけなんですが、専制政治下あるいはまた戦前の日本の帝国憲法時代には、最高をいえば君主の権威がありましようし、統帥権というようなものもありましよう。それに枢密院というようなものがあつて、いわゆる多数党の横暴に対します抑制機関があつた。しかしそのような存在は私どももちろん歓迎しないものでありますが、いわゆる三権分立のうちの司法権によつて行政権あるいは立法権を握つておる多数党の横暴を押えるという意味において、ドイツの憲法裁判所のように少数党、すなわち国会の三分の一なり四分の一なりの定数者があるならば、多数党が横車が押してつくりましたる法律その他の行為に対しまして審判をする機能を裁判所に持たせることが、憲法政治、民主政治を進展せしめる上に必要ではなかろうか。たとえば憲法九条の問題ですが、現在自衛隊なるものができておる。これが憲法九条に違反であることは、ほとんど国民の常識になつておると思う。しかるにかかわらず違反せられたることが堂々と内閣において行われて、国会通過しておるというようなことになりまして、訴えるところがないということになると、どういうことになるのであろうか。私どもが起しました警察予備隊の違憲訴訟は、あなたが心配なされたような法律を無効とする建前で起したのではありません。いわゆる警察予備隊の予算とか宿舎とか敷地の買上げとか、武器の購入とか、そういう一切の内閣の行政行為、これを無効とするという訴訟を起したのでありまして、法律を無効とする訴訟ではありません。憲法に違反した内閣の行政行為を無効とするという訴訟を起した。だからこれは国会立法権と衝突する問題ではない。ないのですが、やはり抽象的なものは審判の限りにあらずということで、これはしりぞけられた。そこで私どもはなるほど今の裁判所法から見れば抽象的なものはあるいは起せないということが一理あるのではないか、そこで裁判所法を改正するならば、憲法の八十一条と相マツチして違憲訴訟を起せるじやないだろうか。これは保守党の側が政権をとつておるときに言われるだろうし、あべこべに今度われわれの社会党が政権をとつた際に、いわゆる憲法の私有財産側などを破壊いたしました革新政策をどんどんやつた場合に、これは自由党の諸君も大いに考えなければならぬことだろうと思う。そういうふうにして行き過ぎを是正するような何か国家的な機能が必要じやないだろうかというふうなことは、保守党からも革新党からも、言い得ることじやないだるりかそういうような議論もあるわけでありますが、いわゆる民主政治を円満に発達せしめる意味において、そうして民主政治は多数党政治になる、これは当然なことだと思いますが、その横暴といいますかやり過ぎを是正する機能というものを何らかの機関に持たせる必要があるのじやなかろうか、そういうことに対する御意見を承りたいと思います。
  30. 佐藤功

    佐藤参考人 内閣や国会、あるいは実質的に申しますと多数党の横暴というものを牽制する機関が必要だということについては、私は同感なのでございます。そもそもこの法令審査制、憲法の八十一条というものもやはりそういうチェック・アンド・バランスの機能のものであるということは、これは確かだと思うわけであります。ただその場合にどういう形でそれがなされるかというと、今の制度というものは、今も御指摘になりましたような事件性というものを必要としているのでありまして、それが私の考えによれば司法権の観念にも一致するというふうに今考えるわけなんです。つまり警察予備隊の違憲訴訟のお話をただいまお伺いいたしましたが、あの場合でもいわゆる事件性を帯びた形であの訴訟が提起されたといたしましたならば、裁判所といえども取上げざるを得なかつたわけでありまして、そうなりますとやはりそこに牽制の機能というものは働き得ることになるというふうに思うわけであります。
  31. 佐瀬昌三

    佐瀬委員長 その事件性というのは、基本的人権を侵害したという具体的事件意味することになるのですか。
  32. 佐藤功

    佐藤参考人 たとえば予備隊のあの訴訟で申しますならば、警察予備隊の演習用地に土地を収用されたというような、そういう事件の形であの訴訟が提起されたならば、はねるわけに行かなかつたと思うわけであります。
  33. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 今御説明のように、純然たる民事、刑事の具体的事件、すなわちあの利害関係を有する人からでなければ訴訟ができないということは一応わかるのであります。どうも憲法八十一条及び七十六条を読んでみましても、さように限定するような意味が私どもには出て来ない。この八十一条を見ましても、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」一体最高裁判所終審裁判所であることは昔も今もかわりない。最高裁判所の上にまた何か終審でない裁判所があるとすれば、これは最高でないので最々高というものが出て来るわけです。ですから最高裁判所である以上は終審裁判所でなければならぬ。これは一体どういう意味でこういうふうな論議になつたものであるか。しからば明治憲法時代に、今御説明のような司法に関すること、しかも刑事、民事の具体的事件であつたならば、昔の大審院においてその法律の有効無効、憲法違反であるかどうかまで審査せられたはずなのである。それを禁止する規定はないと思います。だから同じ司法権という言葉を民事、刑事の具体的事件に関するケースだと考えるならば、明治憲法時代においても、その具体的事件憲法に違反した法律効力から来ているということになるならば、これは審査する理由があるわけで、明治憲法にはこれを禁止している規定は私はないと思う。しかるに今度は八十一条によつて最高裁判所にさような違憲審査権限を与えておる。しかも時の吉田総理大臣は、今の最高裁判所憲法裁判所のような働きを同時に行わせるのだということを国会で答弁しております。この立法当時は憲法裁判所という色彩が相当濃厚にあつたわけですから、そうすると判事の構成も昔の大審院と非常に違つてしまつて、昔は四十五人もあつたのを十五人にするのみならず、いわゆる一般の法律技術屋にあらざる、広い視野に立つた広い政治的の理解力があるような人も最高裁判所の判事として適任じやないかというような議論になつて、そうして人選が進められたと私は記憶しております。さようなことから考えると、この新しい憲法においては、明治憲法と違つて最高裁判所なる新たなる機構をつくつて、ここに憲法裁判的な一つの性格を付与したのじやなかろうか、ただ現在においては、その手続法が完備しないがために、この前の最高裁判所のような判決が出たのじやないか、だから手続さえつくるならば、この憲法の七十六条、八十一条から、さような抽象的な違憲訴訟はできないのだという結論は出て来ないと思う。明治憲法と比較いたしましてそういうふうに考えられるが、それについてはどういうふうにお考えになりますか。
  34. 佐藤功

    佐藤参考人 明治憲法の場合にも、いわゆる憲法裁判的な権限があるのかないのかということは、ただいまお聞かせいただきましたように憲法上ははつきりしていなかつたわけであります。ただ御承知のように明治憲法の時代には、命令が法律に違反するかどうかということは裁判所審査し得るのだ、しかし法律につきましては、いわゆる形式的審査はできるけれども憲法に違反する内容を持つているかどうかという実質的な審査はできないのだというふうに取扱われて来たわけであります。その取扱われ方が聞違つていたのだということなのかもしれませんけれども、一般の学説もそれを認めていたわけでありますし、長年の間裁判所はそういうやり方をとつて来ていたわけであります。それの根拠は、やはり法律というものは帝国議会の協賛を経て天皇が裁可したものであつて法律憲法に違反するかしないかという判定は、帝国議会が責任を持つてやるべきであるという考え方であつたのだというよりしようがないのじやないかと思うのでございます。それと今の八十一条を比べてみますと、今お話がありましたように、憲法裁判的な機能をも果させるのだというようなことは、当時の吉田首相なり当時の政府もあるいは言つたかもしれませんが、その場合の憲法裁判的な働きというのが、このごろ言われておりますような厳密な意味で使われていたかどうかということは私は疑問だと思うのです。ただこの法律の内容の違憲性をも審査し得るのだというそのことだけを憲法裁判的という字で現わしていたのであつて、抽象的な法令の解釈というものをもさせるのだという意味で、憲法裁判的という言葉を使つていたのではなかつたのじやないかというふうに私は考えるのでこざます。
  35. 佐瀬昌三

    佐瀬委員長 吉田安君。
  36. 吉田安

    ○吉田(安)委員 簡単に一、二点お尋ねをします。現在の最高裁判所に違憲立法審査権があるかどうかということにつきましても、学界その他実際家あたりの御意見は大体拝聴いたしましてわかつたのであります。きようもまた佐藤参考人の御意見も聞きましたわけで、現行憲法解釈論、法律論についても了承することができるのであります。ところで政治論といいますか、立法論といいますか、私どもが特に最近悩みますのは議会政治のあり方です。このことにつきまして、明治憲法時代には何と申しましても上御一人と申しますか、天皇がおられた、だから大体天皇の名が出ることによつて問題は解決しておつた。ところが今は御承知のような時代になりまして、国民が全然思想的にかわつてしまつておる、主権在民で、三権国民にあるとは申しますものの、これもほとんど抽象論であつて明治憲法の時代のような行き方のようには行けない、これはやむを得ぬことであります。ところで今日の議会政治は多数政治であり、多数党政治でありますから、法律をつくるについてもそこに時に行き過ぎがあるし、横暴の起ることはやむを得ぬのじやないかとこう思うのです。そこで問題はその横暴が起つたとき、行き過ぎがあつたとき、あるいは違憲行為が行われたという場合に、これをどう調整をとるかということが非常に大きな問題ではないかと思います。猪俣委員が質問することの裏表になるかもしれませんけれども、私この点をもう一度佐藤参考人から承つておきたいと思うのでありますが、これはその時の内閣あるいは与党のあり方にもよるでしようが、とにかく政府をとれば――これは多数党がとつておるに違いない、時の与党と時の政府で勢いのおもむくところ将来横暴をやらぬとは保証ができぬと私は思う。これは多数政治をやります以上はそういうことになります、そうすると一方に不満不平が起ることもこれは当然のことであります。だからそれを調整をとるのには、やはり制度最高裁判所のようなところに違憲審査権というものを認めまして――独立最高裁判所を設ける設けぬはまず別といたしまして、そういう権限を明らかに付与する、認めるということがよくはないかとこう制度上思うわけであります。さいぜん佐藤先生は、そういうことを裁判所判断にまかせるということは、かえつて反動的な結果を招来するおそれがありはしないかというような御意見のように承りましたが、ほかに方法があるかどうか。最高裁判所にさような権限を認めないでも、ほかに適当な調整役を果し得る機関があればよろしい、また認め得るならば幸いでありますが、どうもそういう方法も今のところ思いつきがないわけでございます。これまでの参考人によりますと、そういう場合には結局違憲なりやいなやということは、最後には国民が審判するよりほかにないじやないかという御意見もあるのです。きようもまたそういう御意見がありましたが、それならば最後国民が審判すればよろしいという、その審判の方法はどうすればよろしいか、こういうことがやはり考えらるるのでありますがその点に対する佐藤参考人のお考えがありましたならば、この際承つておけば幸いだと思います。
  37. 佐藤功

    佐藤参考人 何かほかに適当な方法がないではないか、究極的には国民なり輿論なりが決定するといつてもそれでも効果がないんじやないかということは、確かに御意見の通りだと思うのであります。ただ私が考えますのは、たとえば今の憲法で申しましても、五十五条でありましたか、議員の資格争訟については国会議員が裁判をするという規定があるわけでございます。こういう点は、やはり議員の資格争訟は裁判所には持つて行ないかで、国会でフアイナルにきめるのだという考え方が現われているわけでございます。そういう考え方を押し広めて、やはり政府部内が責任をもつてきめるべき事柄というものがあるのではないかというのが私の考えなんでございます。それでたとえば浦和事件というのがございまして、最高裁判所と参議議院の法務委員会との間に非常にはげしい争いが起きたことがございます。あれは法務委員会でもありますし、あるいは参議院でありまして、国会そのものではないわけでありますけれども、ああいう場合はどんなことでも裁判所にきめてもらわなくちやだめだ、あるいは国会だけできめるのではだめだという考え方に立つといたしましても、国会裁判所との間に何か争いが起きたという場合には、それを裁判所だけにきめてもらうということにはならないのじやないかと思うのです。だからそういう裁判所とか国会とか内閣とかいう国家最高機関の間の争いというようなものは、やはり裁判所が一義的にきめるというのではなくて、お互いの機関の自省と言いますか、良識と言いますか、そういうものできめるべき性質のものであると思うわけなのです。だからやはりそういうふうにしてきめるべき事柄というものがあるのじやないか。それを何もかも裁判所できめてもらわなくちや憲法が蹂躙されるというふうには言えないのじやないかというのが私の考えなんでございます。
  38. 吉田安

    ○吉田(安)委員 今の良識ということですが、私はえらく裁判所のことばかりむずかしく言うようでございますけれども、やはり国民の信頼する機関に持つて行くということが一番いいことだと思うのです。最後国民の審判であるとかどうとか言つておりますと、一方では既成事実がどんどんでき上つてしまう。たとえば今度の警察の問題でも、ああいうことを反対側の方では無効国会によつてつくり上げられたのだから、これは無効じやないかと言つておりますが、これは一つの例にすぎませんけれども、そういうことで争いがこれからも起らないという保証はできません。なるべく起らないように国会自体がもう少しく常識的に紳士的にまじめに民主的やつて行けるような国会になつて行けば、これは幸いでありますけれども、先般のようなああしたかつこうを見ておりますとこれは将来はどうなるだろうかという心配をします。ああいう場合でも、あれがやはり最高裁判所違憲審査権というものがあるということであつたといたしますならば、私はあんなばかげた問題をよもや議場内で展開するようなことはなかつたのじやないかと思うのです。それを前例もありまする通りに、社会党あたりが警察予備隊というような問題についての訴訟を提起してみましても、抽象的審議権はないのだといつてやられてしまう。そうすると一方では多数党の横暴だというので盛んに憤懣を言つておるわけであります。そういう雰囲気の中からでき上つた法律ということになりますと、この法律を通過させてはいけない。しかし通過してもすぐにこれを救済するだけのそこに制度なり機関なりがありますれば、そういうことはなくても済むはずなんです。それがないということになりますと、非常手段に訴えねばならない、こういう結果を招来することがこれからもないという保証はようできないと心配をいたしております。だから何とかそういうことのないようにしませんと、――私はこの間のあのことは六・三事件と言つておるのですが、あれはまつたく議会内のクーデターです。あんなことはあるべきものではないのです。実に私は、あれは思い余つた一つのクーデターだと思います。ああいうことが将来ないということは保証できない。一方では何もかも多数で押し切つてしまえということになりまするならば、やはりはけ口がない以上は、国民最後の抵抗権とかなんとか恐しい言葉まで使つて、乱暴狼藉に出でようとする。これを私どもはおそれておる。でありますから、こういうことのないようなはけ口を見つけたいのだ。そのはけ口を見つける一つ方法として結局最高裁判所にいきなり抽象的に、具体的事件を伴わずしても、こういうことは違憲法だ、だからよろしく裁判所判断してくれというようなはけ口でもありますれば、それによつてああした力の抵抗というようなことはなくて済みはしないかと思うわけなんです。でありますからそういうことを考えますと、最後国民が審判するんだというそんななまぬるい考えを学者が持つてつては、今の日本の情勢、今の国際情勢なんかを考えましたときに、いや、そういうことは最後には国民が審判するのだから、あるいは国民審査権でやつたらいいだろうというようなことではいけないと私は思う。だから最高裁判所にもそういう権限を認めたらどうかというようなことを考えているわけなんです。参考人はさいぜん、もし最高裁判所憲法裁判所を設くるとすればここうだ、ああだという御意見がありましたが、これは結局質問者の質問条項に対する仮説的な御意見つたと思います。これが必要だという意味における参考人の御意見ではなかつた。こういうことをおやりになるならばこうだという仮説的な御意見つたと思いますが、私今申し上げたようなことを心から憂慮しつつこの問題にとつ組んでおります。最後にもう一度参考人としては、いわゆる裁判所に依存するということはまだ早過ぎるというお考えでしようか、その点をお聞きしたいと思います。
  39. 佐藤功

    佐藤参考人 ただいまお聞かせいただきましたことは、私は実はよくわかるのでございます。ですから憲法裁判制度についても一つ考え方があるということを申し上げたわけでございます。ただそういう制度をつくるかどうかということは、私が先ほどから申し上げておりますような弊害の面と、今お話になりましたような長所の面と両方あると思うのです。こつちもあるけれども、長所がこういうのがあるんだという、それをどちらをとるかという決定の問題でありまして、その決定がつまり憲法改正というステップでなされるとするならば、私はそれも一つの行き方だというふうに考えるわけでございます。その場合に先ほど言いましたような用意をしておけばいいのではないかということなんです。ですから吉田先生のおつしやいますことはもちろんよくわかるのでございます。たがもしも最高裁判所に抽象的な審査ができるのだ、たとえば会期延長なんということも強引にやつて裁判所に持ち出せるのだということがあつたなら、この間のような乱闘事件が起きなかつただろうとおつしやいました点は、私は少し意見を異にいたします。そういう制度があつたからといつてああいう事件は起らなかつたとは私は言えないと思います。
  40. 佐瀬昌三

    佐瀬委員長 高橋禎一君。
  41. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 この質問事項の(A)の三の点についてお尋ねしたいと思います。と申しますのは、私ども今大きい研究題目の一つとして上告制度最高裁判所の機構という出題があるわけですが、私がこれをお尋ねする意図について簡単に申し上げますと、実は最高裁判所というのが単に法律、規則、命令等の合憲性があるかないかというような点とか、あるいは法令の解釈適用の統一をはかるというだけのものでなくして、今の裁判の実情、それから今日までの日本裁判制度伝統と申しますか、三審制度というものを十分生かして行つて最高裁判所はえらい浮き上つたものではなく、やはり国民相互間の争いのある具体的の事件を通じて、国民の権利、自由を擁護する、こういつた地味であるけれども、非常な効果のある仕事をやつて行くものにしたいという気持がするわけです。そういたしますと、上告というものをいたずらに制限するということはいたしたくない。ところが今民事訴訟にしましても刑事訴訟にしましても相当制限しておるにかかわらず、未済の事件が非常に多数係属しておつて、さばきがつかないという実情にあるわけであります。そこで今よりはもつと上告の門戸を開放し、最高裁判所がそれを十分裁判し処理して行けるというふうにしたい、こう思うのです。そこで問題は、もしもこの違憲問題について、最高裁判所裁判官全員が参加しなければ裁判できないということになると、今よりも最高裁判所裁判官の数をふやすいうことになると、今でさえ人数が多過ぎて困ると言われているような事情もあるのですから、合議で意見をまとめるというようなことが、非常にむずかしいことになるのではないか、そこでお尋ねいたしたいのは、先ほどの最高裁判所裁判官のすべてのものが違憲審査に関与しなければ憲法違反だ、こうおつしやいましたですね。午前中の参考人の金森、伊藤両氏のごときは、それは憲法違反じやないのだというような御意見であつたと思うのです。もつともあまり掘り下げてお尋ねしなかつたので、先ほど先生のおつしやつたような、――一応全員が裁判し得る立場をとりさえすればいいのだというようなところまでは行かなかつたわけですが、その問題について全員が裁判をし得る立場をおいて、たとえば選挙によるとか、何かそういつたやり方で、一部の人にだけ、一つの部の構成をさして、裁判させるといつたようなことは一体できるものかできないものか、たとえば全員が裁判するという関係に立たせなければならぬということにしまして、選挙等でやらせるということになると、やはり一定の期間を設けなければなりません。ところがその期間の間にたとえば裁判官が停年等で資格を喪失することが明瞭であるというような場合になりますと、その後の、たとえば退職後の時期については、もうその人が裁判に関与しないということが明瞭になつているわけですから、いろいろ問題が起こるのではないかと思うのですが、そこのところを、何か全員が直接裁判関係しなくても、憲法に違反しないやり方というのを何か名案がありましたらお伺いいたしたい。  それから今の裁判所法及び最高裁判所の事務処理規則等からいたしますと、大体憲法に違反するという、違反の場合を非常に重要視しておるようで、憲法に合致する裁判をする場合にはいくらか緩和されたような規定になつておるのですが、この憲法の八十一条に適合するかしないかを決定する権限、その適合する場合には全員がやはり関係しなければならぬかどうか。適合しないという裁判をする場合に、全員が関係するだけで、適合するという場合には全員でなくてもいいのだというような解釈が出るものか出ないものか、その二点についてお伺いしたいと思います。
  42. 佐藤功

    佐藤参考人 第一点の方の何かよい方法がないかというお話でございますが、実は私はそれほど詳しく考えたことがございませんので、これぞという名案はないわけであります。ただ先ほども申し上げましたのは、一時これは政府の方でやつております法制審議会の方面で、最高裁判所の機構改革が問題になりましたときに、四十人くらいにして憲法事件だけをやる裁判官は、たとえば認証官にして、それに参加しない裁判官は認証官にもしないのだ、そんなような区別もつけながら二種類の裁判官を設ける、そういう案があつた時期があるわけです。そういうのは違憲だという考えを私は持つているわけでございます。そこで今お話のように、全員が憲法事件にも関与し得るという建前をとりながらも、何か互選みたいな形で憲法部の裁判官をきめるという行き方ならば、私は今までそういうことを考えたことはございませんでしたけれども、その難点は除かれるのではないかという感じがいたします。ただそれよりも私が先ほど言いましたように、互選でもいいのですが、あまりその期間を長くすることではなくて、できるだけ短くしてそして全員が順繰りにその部に配属されて行くような、そういうことなら一番難点がないのじやないかと思うわけです。  それから二番目のお尋ねの点ですが、違憲の判定をする場合は、憲法に適合するという判断をする場合よりも、何か要件を重くしているような建前になつているわけでございますが、これは八十一条というものからは、直接には出て来てはいないと私は思います。ただ法律、命令を違憲だと判断することの結果の重要性というものにかんがみて、要件を重くしている。適憲だと判断するのならば現状維持なわけでありますから、それほど重く見る必要はないということから、そういう制度になつているんじやないかと思います。八十一条とは関係ないと思います。
  43. 佐瀬昌三

    佐瀬委員長 今の問題に関連しまして、現在の裁判所法では、最高裁判所を大法廷と小法廷にわけて、大法廷が違憲訴訟法的な事件を取扱うということになつているようです。そこで高橋委員の質問にそれを関連さして行くと、現在の裁判所法が合憲的であるというものであるならば、最高裁判所にいわゆる憲法違反の問題を取扱う違憲部と、しこうしてこの質問事項に出ている上告部を、たとえば普通部といつて普通の事件を取扱うというふうな形態にしても、憲法違反ではないのじやないかというような考えが出て来るのですが、これに対するお考えはどうでしようか。
  44. 佐藤功

    佐藤参考人 今の制度で、大法廷と小法廷の問題でございますが、憲法問題は重要であるということと、それからやはりアメリカ最高裁判所制度の上で憲法問題の判断は全員の過半数を必要とするという建前がとられておるものですから、十五人の裁判官の過半数なければならないということから大法廷でやらねばならぬという形になつて来ておるのではないかと私は理解しておるのでございます。そこでかりに最高裁判所裁判官を四十人なら四十人ぐらいにふやした場合に、先ほどの問題とも関連いたしますが、憲法問題については四十名全員の大法廷でやらなければならないということになると思います。ですから今の制度の大法廷で違憲問題をやらねばならぬということが憲法上の要請ならば、四十人にふやして、その四十人の大法廷でやらねばならぬということになるわけですが、私は今の大法廷の制度は、今申しましたようなアメリカの実例などの考え方から来ているのであつて、必ずしも憲法上の要請だとは考えないわけです。ですからかりに四十名にふえた場合に、その全員でなければ憲法問題はやれないということにならないというふうに思います。ですから先ほど申しましたように、順繰りみたような形にして憲法部というようなものをかりに設けるとすれば、それで憲法事件はやれるというふうに考えるわけです。
  45. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 今の問題に関連して具体的な例をあげて鑑定をしていただきたいのです。たとえば今の大法廷と小法廷とわけるとして、最高裁判所裁判官が四十名としまして、大法廷はそのうち九人をもつて構成する、そういうふうにして毎年これをその年の初めに構成をかえるということにして、そうしてその構成は最高裁判所の長官が適宜決定する、そういうふうにやることは先生のお説だと私は憲法に違反せぬと思うのですが、するかしないかもう一度お伺いしたい。今の最高裁判所の見解をもつてしても、最高裁判所の事務処理規則などでは、大法廷の場合でも大法廷は九人以上の裁判官出席すれば審理、裁判をすることができると、こう今なつているのですから、事実上全裁判官が関与しなければ憲法八十一条の審理はできないのだということは言えないと思うのです。それとはやや性質は違いますけれども、先ほど例をあげましたような問題でも、私はさしつかえないと思えるのですが、先生の御意見も同一だと思うのですけれども、なお念のためにお伺いいたしておきたいと思います。
  46. 佐藤功

    佐藤参考人 今お話になりましたその具体的な案、これは私の意見では毎年交代して行くようなやり方であるならば違憲ではないと思います。それから大法廷が九人出席できれば開けるというのは、これは言うまでもなく議院におきましても議事の定足数があるのと同じでございまして、本来は全員が出るべきなのだけれども、定足数の最低限をきめただけの話であります。ですから今の建前で言うと、十五人全員が同じ権限を持つていなければならない。ただどうしても都合の悪いときには九人出ればいいという制度だと思いますから、十五人全員でなくても憲法問題はできるんだということにはならないと思うわけでございます。
  47. 林信雄

    ○林(信)委員 今の点およそわかりまましたが、そういう点で質疑の試みられておりますように、最高裁判所の機構をどうするかの問題でついて非常に貴重な御発言であつたと思うのです。大体わかりましたが、念を押しますと、あなたのお考えは、アメリカ制度から考えればおそらく不可能な点であろうと思う。しかしながらそうでなく理論的に考えられる。だから自分意見はいわば便宜の議論だ、実際論である。理論的にはさしつかえはないんだから順繰り担当説とでも申しますか、資格をとつてしまつてはいけない。しかしタッチするときがあればよろしい、そういう意味個々事件を順繰りに担当するという一般的な担任の形をとるか、あるいは高橋君の質疑にお答えになりましたように、任期を定めてもよろしい、こういう便宜論だということに大体私了承するのでございますが、それでよろしいのでございますか。そうなりますればそういう便宜論はおよそ何かそこへ限度が考えられると思いますが、一般的に資格さへ保持しておれば、言いかえますればどこまでも押し広げてもいいというお考えなんでしようか。順繰りという言葉が最初に出まして、順繰りにはいろいろ期限的な順繰りもありましよう、事件的な順繰りもありましよう。ところが任期的な、期限的な順繰りもお認めになつたようです。繰返しますが資格を保持することであればどこまで行つてもいいというようなお考え方になるのでございますか、念のために伺います。
  48. 佐藤功

    佐藤参考人 先ほどの高橋先生の案の毎年初めに最高裁の長官が構成をきめるのだ、そのことは違憲ではないだろうと申したのですが、この場合にやはりほかの裁判官がその任期中全然憲法部に入る機会が与えられないというのでは問題じやないかと思います。ですからこれは運用の問題ということになるのかもしれませんけれども、私が順繰りということを申しましたのは、非常に自動的に全員にまわつて来るというようなことを考えながら申し上げていたわけです。ですから一応資格はあるんだ、しかし毎年初めに長官がきめるんだというので、その長官がある特定の数人だけを常にやるというのではどうも問題じやないかと思います。ですからあるいは再任とか三度それに任命されることがあつてはならぬ、そういうような制限を加えて全員に順番がまわつて来るような形にすることを私は考えて違憲じやないかということを申し上げたわけでございます。
  49. 林信雄

    ○林(信)委員 そうしますと憲法違反訴訟が重要であり、それがある意味では最高裁判所の特権であるということから、最高裁判所裁判官というものは、その責任を持つためには全員がその事件にイエスかノーかの意見が入らなくてもよろしいということに、結局においてはなるのでしようか、順繰りであれば裁判所の特質といたしまする、その特権的なものは、なおそこに維持されておるということなのでしようか、どうもその辺が私前述いたしましたように、理論的でなく、実際面で結局最高裁判所の意思さえ現われればそれで足りる、内部機構というものはさまで重要でないというような意見にもとれますし、言いかえますれば順繰り説的な御意見は結局最高裁判所裁判官というものは、それであれば常に違憲訴訟には意見が入つておるという考えなのでしようか、もうそこのところは離れてしまつての非理論的の実際論になつてしまうのでしようか。なお理論的なものがそこにあつて、その程度を離れてはいけないというお考え方なのでしようか、くどいようですがもう一度……。
  50. 佐藤功

    佐藤参考人 実はそれほどこまかく考えておりませんでしたので、そういうお尋ねになりますと困惑するのでありますが、私の言う順繰りの制度でもそれに当らなかつた人は、とにかく発言の機会はなくなるわけですから、従つて実質的に言うと権限なり資格なりその期間中は少くとも奪われることになるわけです。そういうふうに考えますと、確かにお示しのような議論も出て来るのじやないかと思います。ただ私は、そういう場合にも何か運用の面で、たとえばほかの裁判官にも大いに議論がありそうな事件については、何らかの形で意見を聴取するとか、そういう運用の面でやれる面もあるのではないかというような感じを今伺つてつたわけでございます。この点はなお研究させていただくことにいたします。
  51. 佐瀬昌三

    佐瀬委員長 なお先ほど公示方法に対するお答えを差控えられたようでありますが、これはたとえば違憲判決法律の廃止とかあるいは法律の無効ということを示す場合に、これをたとえばボンの憲法規定のごとく、官報で公告するような制度をとつた方がいいかどうかというような問題でありますから、もしお考えがありましたならばこの際伺つておきたいと思います。
  52. 佐藤功

    佐藤参考人 今お話がございましたように、ボン憲法なんかの官報に公告するというようなことしか私も考えられなかつたものですから、特にその考えがないということを申し上げたわけでございます。ですから、もしもそういう方法をとるといたしますれば、そういう官報に公告をして、同時に内部的に国会や内閣に通知するとか、そういう制度しかないのじやないか、こう思つております。
  53. 佐瀬昌三

    佐瀬委員長 他に御質疑はありませんか。――なければ、これをもつて終了いたします。  参考人においては、たいへん暑い中を、また御多忙中御出席くださいまして、種々貴重な御意見をお述べいただいたことを厚く感謝いたします。  本日はこの程度にいたし、次会は明日午前十時より開会いたします。  本日はこれにて散会いたします。     午後四時二十一分散会