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1954-07-08 第19回国会 衆議院 法務委員会上訴制度に関する調査小委員会及び違憲訴訟に関する小委員会連合会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十九年七月八日(木曜日)     午前十時四十九分開議  出席小委員   上訴制度に関する調査小委員会    小委員長 小林かなえ君       鍛冶 良作君    佐瀬 昌三君       林  信雄君    古屋 貞雄君         井伊 誠一君   違憲訴訟に関する小委員会    小委員長 佐瀬 昌三君       押谷 富三君    小林かなえ君       花村 四郎君    吉田  安君  小委員外出席者         議     員 神近 市子君         議     員 岡田 春夫君         参  考  人         (東京大学教         授)      宮沢 俊義君         参  考  人         (最高裁判所判         事)      小林 俊三君         参  考  人         (大阪高等裁判         所判事)    斎藤 朔郎君         専  門  員 村  教三君         専  門  員 小木 貞一君     ――――――――――――― 本日の会議に付した事件  上訴制度及び違憲訴訟に関する件     ―――――――――――――
  2. 小林錡

    小林委員長 これより上訴制度に関する調査小委員会違憲訴訟に関する小委員会連合会を開会いたします。  本日も上訴制度及び違憲訴訟に関し参考人各位より意見を聴取いたしたいと思います。本日御出席予定の方々は、宮沢俊義君、小林俊三君及び斎藤朔郎君の各位であります。参考人の方方には、まことに御多忙のところを御都合をおつけくださつて御出席くださつた御好意に対して感謝いたします。御承知のように当法務委員会におきましては、さきに刑事訴訟法改正取扱い、また第十九国会におきましては民事訴訟法の一部を改正する法律案審議をいたした次第であります。これらの関係から現行上訴制度を何とか考えなければならぬじやないかというふうに考えまして、また一方違憲訴訟についてもさらに考慮すべき点はないかという、こういう立場からこの二つの小委員会を設けまして審査を続けておる次第でありますが、参考人各位にはこれまでの御研究並びに御経験を基礎といたしまして、われわれの審議の上にいろいろ参考になる点をお与えくださるようにと思つてお願いをした次第であります。これらの二つの問題につきまして忌憚のない御意見を伺いたいと思うのでありますが、特に宮沢参考人に対しましては、  一、最高裁判所違憲審査権範囲憲法上いかなるものとお考えになるか。特に最高裁判所具体的事件を離れて、抽象的に法令憲法に適合するかいなかを決定することは憲法解釈上可能と考えられるか。  二、最高裁判所がある法令違憲と判断して裁判をした場合、その裁判はその法令に対し、また国会政府及び下級裁判所に対し、いかなる効力を及ぼすものとお考えになるか。  三、下級裁判所係属する事件に関して憲法解釈が問題となつた場合、最高裁判所がその違憲解釈問題だけを取下げて審理し、裁判するということは憲法解釈上可能とお考えになるか、これを可能とした場合このような制度をとることは適当と考えられるか。  四、最高裁判所下級裁判所係属中の事件憲法解釈に関する重要問題を含むと認めるものを移送させて、みずからただちにその事件について裁判をすることができるというような制度をとることは適当と考えられるかどうか。  五、政府なり、国会なりが憲法解釈について最高裁判所意見を求めるというような制度をとることの可否についての御意見いかん。  六、最高裁判所違憲審査権との関連において上告制度及び最高裁判所機構はいかにあるべきものと考えられるか。  七、司法行政事務裁判官会議の議によつて行うという現行法建前は、憲法上の要請に基くものとお考えになるかどうか。これらの点についても触れて御意見を伺うことができれば幸いだと思う次第であります。どうかこれにこだわらずに一般の御意見をお述べくだすつてけつこうであります。ただそのあとでも、その中でもいいですから、一言これらの点に触れていただければと思いましてお願いする次第であります。それでは宮沢参考人にお願いいたします。
  3. 宮沢俊義

    宮沢参考人 ただいまお尋ね諸点関連してごく簡単に意見を申し上げます。いずれも理論上も実際上も非常にむずかしい問題で、学界、実際界において意見のわかれているところでありますので、私の意見も将来さらに検討の上、不当と考えられれば改めて行きたいと思うのでありますが、ただいまのところ私が考えております範囲でお答え申し上げたいと思います。  第一の最高裁判所違憲審査権範囲云々、この問題は私は、ただいまの糧法が保障しているところは、裁判所というものは具体的な事件について審理する。そしてその審理にあたつて法令声法に適合するかどうかを裁判所審査する権能があるということを憲法が保障しているのであると考えられますので、現行法のもとでは最高裁判所判例がこの点に関してとつているような態度、すなわち具体的な事件を離れて、抽象的、一般的に法令憲法に適合するかどうかを決定するという権能裁判所にないという解釈が正当だろうと考えます。ただ問題は、現行法を改めまして、最高裁判所がいわゆる憲法裁判所的権能を持つことが可能であるかどうかというところにあると思います。もちろん憲法改正してそういう制度をとることは可能でありますが、これは別問題といたしまして、憲法に触れないで、法律改正によつてそういう権能最高裁判所に与えることができるかどうかという問題があります。これも現行憲法解釈としていろいろ意見のあり得るところだろうと思います。現行憲法のもとでは最高裁判所にそういう機能を営ませることは不可能であるという解釈も、憲法文字からいえば成り立ち得ないことはないと思いますが、やはり現在すでに最高裁判所以下裁判所に対してこの具体的な争訟の裁判以外の権能を特に法律によつて与えている場合もありますし、またそういう事件裁判において適用すべき法令憲法に違反するかどうかを裁判所審査する権能があるということも一般に承認されているようでありますし、また憲法の八十一条の文字からいつても、法律でそういう制度を認めるならば、最高裁判所にそういう権能を認めることも必ずしも許されないわけではないというふうに考えられますので、いろいろな規定を総合いたしまして、現在の憲法のもとでも法律をもつて最高裁判所にそういつた賑法裁判所的な権能を与えることも許されるのではないかというふうに解するのがよかろうと私は今のところ考えております。ただ、立法論としてそういう制度を設けることがはたして適当かどうかということになりますと、これは必ずしも無条件にそうだ、それが適当だとは言えないように思います。と申しますのは、第一にそういう制度は諸国の経験におきましてもまだ十分に確立されておりませんし、そういう制度が非常にいい成績をあげるということの証明はまだ実際なされておりません。反対に大国、イギリスとかアメリカとかフランスとかいう国ではいまだにそういう制度を採用しておりません。そういうような点から見ても、われわれがこの制度をもし設けるとすれば相当慎重に考えていいのではないか、私はそれは不適当であるというふうに考えるわけではありませんが、そういう制度を設ける場合にはよほど慎重に各方面から考えなくてはいけないのではないか、ことにそういう訴訟の訴権をだれに認めるかという問題あるいはどういう事項に関して認めるかという問題、その他を十分に考えなければなりませんし、さらにそういう権能を与えた場合の最高裁判所組織というものについても、また別の考慮が払われなくてはならないのではないか。今日すでに法令審査権を認めている最高裁判所につきましては、組織の点におきましてもすでに十分な、あるいは相当な考慮がその点に関して払われていることは御承知通りでありますが、そしてまたこれは当然そうあるべきところでありますが、それに憲法裁判所的権能が与えられるとすれば、一層その点については慎重な考慮が払われなくてはならないと思うのでありまして、憲法裁判所的機能最高裁判所に認めることは、立法論としてもよほど慎重に考えなくてはいけないのではないか、こういうふうに考えます。  それから第二点の、最高裁判所違憲判決効果でありますが、この点につきましても、その効果が個別的なものであるか一般的なものであるかについて学説もわかれておりますし、まだ十分この点について判例の確立したものもないようでありますので、どう考えたらいいかなかなかむずかしい問題でありますが、私は、従来この場合には、効果一般的に及ぶといういわゆる一般的効力説というものを今まで考えて来ているのであります。それはやはり違憲判決がありますと、かりに個別的な効力しか持たないという解釈をとりましても、実際問題として、そのままほつておくことはきわめて公正を欠く結果を生ずるので、いろいろな方法で、あたかもそれが客観的に効力を失つたかのごとき結果が生ぜしめられるのが普通と思います。そういう点を考慮いたしまして、やはり一般的効力を持つというふうにはつきり解釈した方が実際の取扱い上便宜なのではないか。といいますのは、個別的な効力という建前で、しかもそれによつて生ずる不公正を取除くためにいろいろな措置をするということになりますと、非常にそこに実際上の困難が生ずるのではないか、こういうふうに考えまして、一般的効力説というものを私考えているのでありますが、ただこれは、かりに個別的な効力しか持たないという解釈をとりましても、それはもうその事件だけであとは知らぬ顔をしているというわけには実際上参りません。結局、ほぼ一般的効力を持つのと同じような取扱いにならざるを得ないと思いますので、実際の結果としては、それほど違わないのではないかと考えております。現にアメリカあたりで――私よく存じませんが、法令審査権が長年行われておりますけれども、現在でも、その判決効果一般的であるか、個別的であるかについて、いろいろな本などを見ましても、学説もどうも一致していないようでありますし、裁判所意見も、必ずしも明確でないように伝えられております。そういうところから推測しますと、これはどちらの解釈をとりましても――これに対して同じような効果を与え、あまり多くの不公正を生ずることを防ぐということが可能であり、また実際にそういうふうに行われているように思われますので、おそらくいずれの解釈をとりましても、さほど違わないのではないかという気がいたします。もちろん法令違憲と判断し云々と言いますのは、法令全体という意味でなく、問題の規定という意味でありまして、もしそれがわけられる場合には、そのわけられたある特定の規定ということになることは当然であります。現在最高裁判所の規則で、法律違憲判決がありました場合には、官報に公告するとか、それを国会に通知するというような規定がたしかあつたと思いますが、この規定から、現在の法令がこの点についてどういう解釈をとつて行くかということを断定することはきわめて困難ですけれども、国会に通知するというような規定をもつて、これはいわゆる個別的効力説をとつておるものと見るべきであるという考えもありますが、しかしこの点については、ちようど反対に、それは一般的効力説を前提としておるものであるというふうに考えられないこともないのでありまして、結局現行法建前もこの点でははつきりしていないようであります。そういう状態でありますが、私といたしましては、今のところやはり一般的効力説がよかろうというふうに考えております。そういたしますと結局こういうことになります。法律に関して申せば、法律国会で成立するのでありますけれども、それは将来裁判所ことに最高裁判所によつて憲法違反であると判断されたならば、少くとも将来に向つて効力を失うという条件、一種の解除条件のようなものでありますが、そういうものがついておるのと同じ結果になるのでありますが、はたしてその解釈が正当であるかどうか、これは大いに問題だろうと思います。学界でも反対意見が非常に有力でありまして、また最高裁判所憲法裁判所でないという点から申しましても、個別的効力説理由づけることも十分に可能でありまして、いずれがよいかということをにわかに断定することは困難だろうと思いますが、私といたしましては、今申し上げたようなわけで一般的効力説をとつておりますが、おそらくこの点は実際にはそれほど違いはないのではないか、こういうふうに考えております。  それから第三の、下級裁判所係属する事件に関して云々という問題であります。まずこれが現行憲法解釈上可能かという問題でありますが、これはおそらく可能であると言つてよいのではないかと思います。現在の憲法国会で問題になりましたときには、最初の政府の答弁では、むしろ下級裁判所係属した事件に関する憲法の問題は、最高裁判所へまわしてそれを裁判する、そういう審査権最高裁判所だけが持つというような解釈政府から説かれたことは御承知通りだと思いますが、現在はそういう解釈は行われておりませんけれども、しかし立法的に最高裁判所がそれを取上げて裁判するということは不可能ではなかろうと考えます。それが適当であるかどうかという問題でありますが、私はこういう問題は、やはり具体的な事件との関連において判断される、つまりそういう具体性を尊重するというのが、司法裁判所としての裁判所法令審査権を認めるという制度趣旨だろうと思いますので、その趣旨から言えば、必ずしも非常に望ましいこと、あるいは適当なこととは言えないように思いますが、ただ他方、そのためにもし裁判が少しでも早くなるということであるならば、つまりすべての人が必ず最高裁判所まで憲法違反理由として持つて行く、結局最高裁判所へ必ず行くというような実情であるならば、こういう制度を認めることも、少くとも日本の現在ではあるいは適当と言えるかもしれない、こういうふうに考えている次第であります。  第四点は、最高裁判所が、下級裁判所係属中の事件憲法解釈に関する重要な問題を含むと認めるものを移送させて、みずから裁判することができる制度はどうかという問題でありますが、どうもこれは、もし下級裁判所係属している事件で、何か憲法に関する重要な問題を含むというその事件そのもの最高裁判所が取上げて、自分で裁判するということになりますと、どういうものでありますか、これがもしその事件憲法解釈問題だけを取上げるということですと、この三の問題になると思いますので今お答え申したところでありますが、この事件そのもの最高裁判所へ持つて来るということになりますと、どうもこの問題の趣旨がよくわからないのでありますが、その事件全部を持つて来ることになりますと、最高裁判所下級裁判所との間に一応権限をわけたことが無意味になるのではないか。場合によつて最高裁判所があるいはあらゆる問題をそこで審理するということになりますと、最高裁判所への上告に関する制限規定というものがその限度ではとりのぞかれることになるという趣旨だと思いますが、そうなりますと、はたしてそれが適当であるかどうか疑問ではないかと思いますので、よくこの問題の御趣旨がわかりませんが、もしそういう意味であるならばこれはにわかに適当であるとは言えないのではないかというふうに申し上げたいと思います。  それから五番目の政府なり国会なりが最高裁判所意見を求める。これは最高裁判所意見参考のために聞く、いわゆる勧告的意見を求めるという制度だろうと思います。これは私も先ほど申し上げたように、全体の趣旨としてはやはり最高裁判所にその具体的事件に関して意見を述べさせる、その意見がつまり具体的なものであるということがねらいだろうと思いますので、そういう考え方から行きますと、これは必ずしも適当な制度とは申せないと思うのであります。ただそれでも必ずしも絶対に不適当というわけでもないので、方法いかんによつてはあるいは適当かもしれない、その方法いかんと申しますのは、もしそういう制度を認めるとすれば、これは無条件に認めるべきものではむろんないのでありまして、やはり事件を相当に限るべきではないか、つまり普通ならば当然裁判所事件となりそうもないような種類の事件について、そういうような問題に関する憲法解釈について一々裁判所勧告的意見を聞くということは意味をなさないことではないかと思うのでありまして、そういう意味事件を限る、あるいは人権に関する問題だけというふうにでもいたしますか、何かそういうふうに限つて、その問題については勧告的意見を求めることもいいというふうにすべきではないか、根本において、全体として必ずしも望ましい制度とは考えませんが、もし採用するにしても、そういう制限のもとに認めるべきではないか、こういう気がいたします。  第六の、最高裁判所違憲審査権との関連において、上告制度及び最高裁判所機構に関する問題でありますが、これなかなかむずかしい問題でいろいろ意見がわかれているようですが、私は大体の考え方といたしまして、上告というものを現在といいますか、あるいはこの間の民訴の改正以前といつたようなところに限る、あるいはもつと限つてもいいのではないかと思いますが、ある程度制限いたしまして、そうして最高裁判所というものは、もつばら憲法問題その他の重要な問題だけを取扱うということにいたし、従つて現在の機構あるいはむしろそれよりも人数を減らしてもいいのではないかというふうに根本的に考えておりますけれども、ただそういう上告制限につきましては、いろいろ反対意見もありまして、私はその問題を考える場合に、単なる形式的な人権の保障というような立場から考えるべきでなく、裁判が長引いて困るのは結局当事者である。ことに余裕のない当事者、そういう者に実質的な裁判的救済を与えるためには、審級制度いたずらに多くすることがいいのではなくて、むしろ審級制度は少く、しかも充実したものにして、そうして金もかからず、時間もかからずということをねらうのが一番いい行き方ではないか。いたずら審級制度が多く、時間がかかり金がかかるということになりますと、実質的には多くの国民から見れば結局裁判による救済というものは、金のある、時間のある、余裕のある人にとつてのみ意義があつて一般の大衆にはまつたく役に立たないものであるということになると思いますので、私はそういう上告制限ということは決して人権制限ではなく、むしろこれを実質的に保障するゆえんであるというふうに考えますので、下級審を充実することによつて上告は高度に制限して行くべきであるというふうに考えるのでありますが、先ほど申した通りそれについては反対意見もあり、また日本国民性といいますか、従来の慣習という点からいつて、それはとてもだめだという意見が有力であります。もしそういうのが日本実情であつて、どうしてもそう上告制限することができないということになれば、第二段として、私は結局今まで現われた多くの意見の中で、やはり最高裁判所というものはあまり人数をふやさない、むしろ今よりも減らすようにして、そうしてそのほかに東京高裁なりに上告部というようなものを設けて、そこで一般上告審理裁判させるという方法が二次的にはいいのではないかというふうに考えております。そうなりますと、憲法問題について四審になるといつた非難が当然にありますけれども、しかしそれは実際には、おそらくだんだん判例も確立して行けばそれほど心配はないのではないかというふうに考えられますし、その点はいろいろ技術的に弊害を防ぐ方法もあるのではないかと思います。その点はこれ以上申し上げる必要はないと思いますが、全体の考え方としましては、私がただいま申し上げたように、最高裁判所は現在よりもむしろ人数を減らすぐらいの方向がいいのではないか、そうしてそのためには上告というものは相当制限していいのではないかというふうに考えるのですが、もしそうでなく、これを昔のように上告範囲を――上告権を広めるとするならば、今申したような中二階的上告部を設けるというのがいいのではないかというふうに考えます。  それから第七点の、司法行政事務裁判官会議の議によつて行うという建前は、憲法上の要請に基くと考えるかという問題でありますが、これは憲法で明確にそういうことを要求しているわけではありませんから、憲法上の要請に基くというわけには行くまいと思います。しかしどちらが適当であるか、どういうやり方が適当であるかという問題でありますから、現在のように裁判官会議という建前にして行くことも必ずしも不適当でないのではないか、それが能率を害するということであるならば、実際の運用で、裁判官会議が長官なりあるいは少数の委員なりに事務を委任するという方法で十分にやつて行けるのではないか、こういうふうに考えておりまして、問題に対しましては必ずしも憲法上ぜひ裁判官会議でやらなければならぬというわけではなかろう、こういうふうにお答えしたいと思います。  大体お尋ね諸点につきまして一応私の考えを申し上げた次第であります。
  4. 小林錡

    小林委員長 それでは次に小林参考人にお願いいたします。  小林さんには一般的に御意見を伺いたいのですが、特に  一、最高裁判所未済事件昭和二十六年から二十八年にかけて七千件を越えるに至つた原因についていかにお考えになるか。  二、最近最高裁判所既済事件が増加し、その反面未済事件がかなり大幅に減少しておることについてこの間に何らか特別の事情があるか。  三、大法廷合議が円滑に行われていないという批判をときどき聞くことがあるが、実際の状態を伺いたい。またもしこのような批判が事実であるとするならば、合議が円滑を欠く原因はどこにあるとお考えになるか、その改難方法いかん。  四、現在小法廷は三部であるが、これを四部または五部に増加すればある程度審理の促進に役立つのではないか、この点についての御意見はいかがでありますか。  五、最高裁判所における司法行政事務処理方法について実情を承りたい。  六、裁判官会議の議によつて司法行政事務を行うという現行制度については責任の所在を不明確ならしめるという批判もあるようであるが、この点はいかがでありますか。  以上の点に触れて御説明を願えればたいへんけつこうだと存じます。
  5. 小林俊三

    小林参考人 直接私にお尋ねをこうむりました点について先に申し上げたいと存じます。  まず一の、二十六年から二十八年にかけて非常に事件がふえた原因でございますが、これは私の知る限りにおきましては、まず第一に戦後の犯罪の激増。これは日本としてああいう特異な状態に陥つたのでありますからやむを得ないのでありますが、これが第一の理由だろうと思います。その次に新刑事訴訟法が非常にあわただしい形で制定された。そうしてこれが二十四年の一月一日から施行されたのですが、下級裁判所裁判官が旧刑訴手続と新しいのと両方を扱わなければならぬ状態なつた。それで特に新刑訴当事者主義を非常に大幅に広げた。それから客観的に証拠裁判主義をやはり深く取入れた。こういう点から、手続が非常に慎重になつた点があるのであります。と同町に、裁判官はその方の手続としては従来と相当かつてが違うので、この点についても多少足踏みの状態が続いたろうと思います。その閲にたしか二十五年の十月だつたと思いますが、当時の司令部から珍しい指令が出まして、民事刑事裁判権行使に関する云々――そのうちの一項に、日本政府に対し民事事件及び刑事事件審理を促進する措置をただちに講ずるように指令する。これは半分親切もあつたのでありますが、とにかく非常な事件の山積に対して、これを何とか努力して片づけろというので、裁判所全体として非常にたくさんの会議を開き、またその方法手続等を考究したのであります。その結果これは二十五年の秋、あるいは末であつたと思いますが、二十六年の六月三十日までに一応新刑訴事件は、やむを得ない選挙関係その他の急速を要するものは別としてとにかく旧刑訴事件は片づけよ。こういうので私は当時東京高等裁判所におりましたが、裁判官諸君はずつと夜までかかつて、中には病気にもなられた方もあつたが、これらで相当にはけたのであります。二十五年の三月ごろの事件数でありますが、全国の刑事事件数で控訴審にかかつておるのは、私の記憶に間違いなければ二万件を少し越えておつたようであります。そうするとこれらの事件の上訴率が非常に少く見れば二割、少し多く見れば三制、それで二割とすれば四千件、とにかく四千件以上はどうしても最高へ来る予測ができたわけであります。それでそういう見当がやはり狂わなかつたのでありまして、七千件を越えるような事態が来ましたのは、これらのいろいろな原因が非常に錯綜したところに今の指令のようなものがあり、同時にこれに応じて裁判官諸公が非常に努力をされて解決をした事件が一度にどつと最高へ来た。それで二十七年ごろが数字上の最高の記録を示した。こういうことが言えるだろうと思います。  それから二の現在相当に既済事件が増加しておる。それから全体数も低くなつておるということのお尋ねでございますが、五月末の数字を見ますと、民事の未済事件が千九百四十二、刑事の未済事件が二千八百九十で合計四千八百三十二、結局五千を割つておるのであります。非常に数は減つておるわけであります。これは客観的に時勢がおちついて参りまして刑事事件が相当減つて来た。と同時に秩序が整つて来ますと民事事件が出る。これはすでに二十三年の末あたりからそろそろ民事がふえて来ておるのです。二十三年と二十四年では、たとえば東京高等裁判所の控訴審の民事事件数でも、前年と倍近い差を生じておるくらい。今現に民事事件はどんどんふえております。しかしそれにしましても、現在全体数が非常に減つているのは、刑事事件が激減しておるということ、既済事件が非常にふえたということは、これは最高裁判所がいろいろな努力をして解決するくふうをしたのに原因すると思つております。すなわち二十七年ごろ非常な数がありまして、世間のいろいろ御心配もありますし、それから一方において非難もあつたわけであります。このまんまではいけないというので、いろいろなくふうをしたのでありますが、その例といたしましては、たとえば司法行政事務裁判官会議、全体の会議を、一応原則としてはこれを常置委員会制度に改めまして、そして各法廷から一人ずつの常置委員が出て、それが大法廷が済んだあと一時間あるいはそれ以上を残つてやる、そうするとほかの人はそれに煩わされないで済む、但し重要な急ぐようなことはときどき会議を開くというように逆にしたわけであります。それからもう一つは、それぞれ毎週一回小法廷法廷を持ち、かつそれぞれ主任事件もわけられておつたのであります。それだけでも実は相当の負担なんでありますが、それを一週一回別な日を設ける分もあつたでありましようし、あるいは隔週一回のやり方もありますが、要するに実質は大体違わないのでありますが、それはたとえば主として刑事事件に関係していますが、上告審がまつたく一見して、労なくしてわかるようなのが、たとえば本人からどうか御寛大な御判決をお願いすると、ただそれだけ書いてある。これを調査官において相当量刑等事実を調べてもらつて、その報告を聞いて、それでわれわれ納得できればこれで早く済むわけなんです。それから弁護人からの、これも相当あるのでありますが、国選弁護人の上告審に、記録を相当検討してみたけれども、適法な上告理由は発見できない、しかし被告の心持を察して、量刑の範囲考慮してもらいたい、ただそれだけ書いてあるようなのがあります。こういうのは特別の論点がありませんので、これも調査官の量刑に関する事実との対比を報告を受けまして、そしてそれをわれわれ小法廷の五人が検討して、それでよければそれで始末がついて行く、こういうような事件があるのであります。こういうような事件を、今まではほかの事件も一緒にやつてつて、非常に論点のある事件と、両方お互いに相ひつぱり合つて遅れておつたわけなのでありますが、こういう論旨がほとんどない、あるいはまつたく簡単なような事件を特に集めてもらいまして、そうしてそれを特に審議する時日を、一週一回一日よけいやるというような方法をとりまして、これが相当既済事件が増加した一つの理由であろうと思うのであります。  それから大法廷合議の関係でありますが、円滑云々というお言葉がお尋ねの中にありますが、これは裁判官の心持の円滑という意味ですと、私は二十七年の十月に最高へ参りまして、実務は十一月からとつたのでありますが、今申しましたような御趣旨の円滑を欠くというようなことは、そのときは見受けないのであります。以前はどうか知りません。で、この円滑ということは、事務処理上の問題として一応お受けしてみますと、これは両方の見方があるのでありまして、非常に困難な問題については、どうしてもいろいろ議論が出て来る。これについてこれをある程度事務的に促進をして行くということが、やつぱり一方において、裁判事務でありますから必要だろうと思うのでありますが、他の行政事務のように、ある形式的な手続を少し力を入れて推し進めるということはなかなか困難であつて、またそういうことの方に傾きますと、裁判というものの本質をむしろ犠牲にするようなことになる。しかし現在その点につきましてもいろいろくふうをしまして、困難な事件は、議論の多い事件もずつと継続してかけて行くというようなことを講じておりまして、いずれの辺で打ち切つて採決に行くかというような心は、これは各人の心持がちようど一致したころ合いを議長が見て――長官が議長をやるわけでありますが、処置をとる、そこのわかれ目が問題になるわけであります。現在もちろんある適当な折を見ては事務的に進めるようには、みな心持は進んで来ております。ただ、今やめられた裁判官のうちでも、あるいは現在の方のうちでも、見方によりまして、処理をする方に多少重点を置く見方、それから遅れても重要な点はやはり解決をする方が主である――ほんとうはもちろん後者であろうと思いますが、それにおのずから限度があるということになるので、これは、たとえば国会におけるように、討論打切り、採決に入るというふうに持つて行くことは、仕事の性質上なかなか困難であるということだけは御了承願えると思うのであります。そういう趣旨においての意味において、事務的な円滑が、多少歩みがときどきとまるということがあるかもしれませんが、心持の上においての円滑を欠くということは、私の知る限りにおいては認められぬと思います。  それから小法廷の問題でありますが、小法廷を増加するということを考えますと、それはもちろん事件数の処理という事務的な問題からいえば、現在よりふえるだろうと思いますが、それほど差があるとは私は考えません。現在の三部を四部あるいは五部にすることによる他の反面の不利な方面の結果と比較してみまして、それほど事件の処理が効果を上げるというふうには考えないのであります。これににわかに賛同できない理由としましては、今御承知通り、本来の最高裁判所の仕事である大法廷事件は必ず小法廷を通過する、ここを濾過して行くわけであります。こういう点において相当重要な仕事でありますが、もう一つ、小法廷判決もこれは判例として現われる、その裏には判例を統一するという大きな仕事を持つておるのであります。それから、そういうような重要な結果を来す仕事をするのでありますから、やはり下級裁判所の信頼というものがそこになければ、おのずから権威を失うわけであります。それらの趣旨から考えまして、三人寄れば文珠の知恵という以上に五人で鳩首協議するということは相当意義があるのであるし、これは非常に事務的な面を重く見て、この方の重要な価値を犠牲にすることは考えない方がいいんではないかと思つております。  それから最高裁判所司法行政事務、これは先ほどちよつと触れましたが、最高裁判所発足後二、三年は、裁判官諸君も新らしい意義ある最高裁判所を建設するという熱意もあつたのでありましようが、司法行政事務のために裁判官会議に非常に時間を注いだようでありますが、最近は先ほど申し上げます通り、一昨年の暮れか昨年一月あたりから常置委員会制度をとりまして、特別な重要な問題あるいは緊急を要する問題があれば全体会議を開きますが、とにかくそちらに引きずられないで裁判の方に専心できる態勢が整つたのであります。そういう現状であります。  次の六の行政事務と責任の関係でありますが、これについて少し私の体験を申し上げたいと思います。これは最高裁判所司法行政事務いわゆる裁判官会議の問題も含むのでありますが、しかし重点は高等裁判所もしくは地方裁判所のことについて申し上げたいと思います。私が東京高等裁判所におりましたときの体験を基礎として、これはほんとうに体験から申し上げることなんでありますが、この会議裁判官をして司法行政事務に関心を持たせる、裁判所は自分がそこに使われているんじやない、自分が運営しているんだという心持に立たせる点において非常に大きな長所を持つてつて、これは画期的な意義があると考えられるのであります。しかし短所は、ここにお尋ね文字の中に現われておるように責任の所在を不明確云云――この文字は別として、趣旨は、だれにそれじや責任があるかというような問題は多少出て来ると言えないことはないのであります。これを率直に言いますと、所長が、裁判官会議で非常にもめて、自分は不満であつたが、もめた会議できまつたのだといえば、自分がきめたのだと言うよりは責任感が非常に楽である、こういうことは言えるわけなんであります。東京高等の例を申し上げますと、実は私のおりましたときはいろいろくふうをしまして、まつた会議事務的に引きずられたりなんかしないで非常に効果を上げたのは、早く常置委員会制度とつたことであります。つまり選挙によりまして九人ばかりの常置委員を半年ずつの任期で選びまして、毎週一回一時間か二時間やる。それで長官にほとんど大部分のことを委任してしまつておる。二十数項、三十項目くらいたしかあつたと思いますが、ただその中に、これだけの事項は会議を経なければならないといういわゆる必要事項が四つか五つあつたのです。それですから実際はほとんど長官専行でできる部分が非常に多かつたのでありますが、それを、常置委員会というものを毎週一回開いてどんな事項でもとにかく一応報告をしあるいは諮問的なことをする、それで円滑に行つております。そして会議は定例は一年に二回開く。そのほか緊急なことがあれば開きますが、とにかく六月と十二月、これで大体済んで来ておつて、別にそれでどうということはなかつたのであります。ただ東京地方裁判所こか、大阪の方は存じませんけれども大阪地方裁判所というような、いわゆる大都会の第一審――第二審もありましようが、特に第一審でありますが、非常にたくさんの裁判官がおられるところは、戦後のいわゆる自由な意見をそれぞれ吐く機会を持たれた若い裁判官諸君もおられるし、それから同時に裁判所について自分が関心を特に持つているために、いわゆる委任事項というようなものもあまり承知されない裁判所もあるのであります。そんな点から、どうしても一々裁判官会議――あるいは常置委員会制度をとりましても、非常にたくさんな常置委員会委員がなければならぬので、そのために相当の事務的な煩鎖な仕事を所長などが遂行しなければならぬというような事態があつたのであります。それですから、結論を申しますと、今たしか裁判所法は、司法行政事務裁判官会議によるとあつたように記憶しております。これはやはり同じことになるかもしれませんが、裁判官会議の議を経て行うというふうにしていいんではないか。つまり原則として長官、所長が行うのであるが、その議を経てやるということにしまして、なおでき得べくんば、その事項をあげまして、委任で済ませるようにしまして、必要事項を非常に少くする。こういうことにしますれば、長官、所長の責任も相当重くなると同時に、会議によつて裁判事務の方まで影響を受けるような運営は相当減ぜられると思うのであります。  大体直接お尋ねをこうむりましたことは、以上であります。
  6. 小林錡

    小林委員長 質疑がありましたらば……。
  7. 佐瀬昌三

    佐瀬委員 宮沢教授にお伺いいたします。違憲審査とか違憲訴訟とか、いろいろ憲法に関する訴訟あるいは審査の場合のいわゆる憲法という意義をいかに把握するかという問題について御意見を伺いたいのであります。憲法の前文を見ますと、主権は園児にあるとか、その他いろいろな民主主義諸原理を掲げて、その後に「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法法令及び詔勅を排除する。」こういうふうに明言されております。これだけを見ると、この憲法の条章の前に人類社会の普遍原理とか、あるいは国際社会における条理というようなものが憲法の指導的基本原理になつてつて、いわばこれが憲法の主要な性格、内容に入つて来ているんじやないか。またこれに相呼応しまして、憲法九十八条の二項には条約とか、国際法規が憲法の上にあるように条文的にも明らかにされている。それこれあわせて見ますと、われわれが憲法に反するかどうかを考える場合には、単に憲法何条というだけの問題でなくて、さかのぼつて奥にほんとうの憲法がある。そういうものにも反しているかどうかということを審査する必要があるではないか、こういうふうに考えますので、普通違憲審査とか何とかいつている場合も、憲法という意味をこれらの点から考えて明確にしておきたいと思います。これに対する御意見を承りたい。
  8. 宮沢俊義

    宮沢参考人 憲法という意味はどういう意味であるかといえば、やはり一広日本憲法という成文法であるというふうに形式的には答えていいんだろうと思います。ただ今のお話のように、そのほかにこの基礎となつている基本の原理とかあるいは国際法規というようなものがあるのではないかというお言葉でありますが、それはまさにその通りでありますけれども、しかしそれを成文法としての日本憲法の中に取入れているわけですから、結局日本憲法に違反するということのうちに、そういう普遍原理に違反するということも入つて来る。そういう意味で、今のお尋ねの言葉で言えば憲法という中に日本憲法の条章以外のものも入つている、両方含むんだというふうにおつしやつても実際にはけつこうかと思いますが、私としましてはやはりそれは日本憲法の中にみんな入つているわけですから、やはり憲法に違反するという場合の憲法というのは、この成文法としての日本憲法であるというふうに言つてよろしいのではないか。結果は同じことになるかと思います。
  9. 佐瀬昌三

    佐瀬委員 次に最高裁判所違憲審査権範囲が、いわゆる何々法が憲法違反であるといつたような抽象的に及ぶか、あるいは先はどのお説の通り具体的な事件をのみ通して審査さるべきものであるかというような、当委員会としても重大な関心を持つている根本問題についてでありますが、これに対する私の率直な考えは、いずれの結論をとるにいたしましても、そのよつて来たるところは、集約すると三点に帰著すると思うのであります。  そこでその一点ずつについて御意見をただしてみたいと思うのでありますが、その一つは、いわゆる憲法の番人論であります。むしろこれは政治論と言つた方がいいかもしれませんが、しいて言えば、一般国法学上の問題といたしまして、かつて憲法時代には、欽定憲法である。従つて憲法の最高解釈権は天皇にある。従つてまたそれを枢密院が諮詢機関として行うんだというふうに一般に承認されておつたのでありますが、今度は民主憲法である。そこで憲法に対する最高の解釈権は何人に帰属するかという問題があるわけであります。民主憲法であるから国民にあると言つても、別に国民のそれに対する統一的な有権的解釈を下すべき組織体というものがなければ抽象的な議論に終つてしまうのでありますが、そういうものを新憲法の上では憲法の番人として何人に求めるかという政治論が強いのではないかと私は考えているのでありますが、そこで最高裁判所というものがはたしてそういう厭味の憲法の帯人たるものであるかどうか、またたり得る資格を持つものであるかどうかということが、最高裁判所の性格と任務として大いに論議される点ではないかと思うのであります。普通憲法の番人といつて他に求めるところがないので、本来司法裁判所である最高裁判所憲法裁判所であるというふうに求めるから、そこに一般的抽象的解釈権を最高裁判所に付与して、具体的なケースを通さぬでも警察法は無効であるとかいつたような違憲審査権能を付与すべきではないかという議論が出て来ると思うのであります。もし最高裁判所にそういう性格、任務が与えられないとするならば、民主政治の運営について、憲法政治の確立の上において、しからばいかなるものに憲法の番人的機能を求むべきかということが、今後に残された大さな問題であろうと思います。でありますから、単なる違憲訴訟という以上に、そういう高い視野に立つて、ひとつ宮沢教授のそれに対する見解を承つておきたい。
  10. 宮沢俊義

    宮沢参考人 憲法の番人という言葉はよく使われますけれども、おそらくこれは多分に比喩的な言葉で、理論的には正確でないと思いますが、実は最近も憲法の番人はだれだという質問をほかで受けましたので、同じくそういう比喩的な意味において答えるならば、私はやはり憲法の番人は国民自身であるというよりほかはないだろうということを申したのでありますが、その意味は結局国民がつくる憲法でありますし、憲法というものは国民考えるところのものであるべきでありますから、結局憲法解釈ということも、最終的には国民考えできまるべきものである。その意味国民憲法の番人であるというよりほかしかたがないと思います。ただその憲法をつくつた国民が、その憲法規定通りに動かして行く一つのテクニツクとして、いろいろな制度を設けているわけで、その一つとして裁判所法令審査権というものを認めているのだろうと思います。従つてその認められている限度において、最高裁判所がその範囲内で憲法の番人的役割を営むということは言つてもいいと思いますけれども、しかし、決して最高裁判所のみによつて憲法が守られるというわけではない。またそれを国民が今の憲法において要望しているわけでもないと考えます。でありますから、具体的な事件を通じてのみ最高裁判所憲法について意見を述べる機会があるにとどまるということ自身、十分理由があることで、それでは憲法の帝人がいないのではないかというように考えるのは少し短見に過ぎるのではないかと考えます。といいますのは、結局かりに憲法裁判所を設けましたところで、それだけによつて憲法が最終的に守られるというよなうことはあり得ないのであります。でありますからこそ、諸国の経験を見ましても、先ほど申し上げましたように、そういう制度をみんな無条件で認めているわけではないのでありまして、もし裁判所を設けることによつて国民憲法の保障ができることが確かならば、多くの国で例外なくこれを認めそうなものだと思う。現に憲法以外の普通の刑事法、それから民事法につきましては、多くの国でほとんど同じような裁判制度が認められているというのは、今までの経験からいつて、大体ああいう裁判制度によつて、まず民事法、刑事法の大部分は保障されるということが明確になつているから、ああいう制度がほとんどすべての国で同じように認められているわけです。憲法についてはそこまで行つていないのですから、そこでどこでも十分憲法裁判所を認めているわけではない。従つてそこに十分意味があると思います。かりに憲法裁判所を設けましても、たとえばその憲法裁判所権能と、ほかの国家機関との間に問題が紀つた場合、だれが裁判するか。よくだれでも言う言葉ですが、番人の番をだれがするかという問題に結局なりますので、いわゆるそういう番人的制度をいくら完備しても、それによつて法が完全に守られることはあり得ない。従つて最高裁判所憲法の番をしてもらうにしましても、これはおのずから限られた限度においてであることは当然でありまして、その限度をどこに置くかということは、一つの立法技術的な問題でありますが、それをむやみに広げることが、すなわち憲法をよりよく守るゆえんであるということには決してなるまいと考えます。
  11. 佐瀬昌三

    佐瀬委員 非常に古典的な三権分立論に縛られて国会の立法と内閣の行政と裁判所の司法、この三つに対して、さらにこの三権以外に、三権の国家活動が正常であるかどうかを監督是正すべき何らかの権能が狩に組織化されてよいのではないかというような議論も若干あるようでありますが、いわゆる支那の五権憲法なり、あるいは憲法問題を取扱う三審制度と小いつたような、諸外国にも三権分立を打破すべき政治論なり国法学的努力はいろいろあるようであります。われわれは日本においてもそういうものに基いた何か純粋な憲法裁判所的機糖を発揮するものがあつてもいいのじやないかと考えるので、それに対するむしろこれは立法論でありますが、あるいは政治学的な御議論になるかもしれませんが、そういう点についての御感想もありましたら伺いたい。
  12. 宮沢俊義

    宮沢参考人 これは一番初めに私がちよつと申し上げたと思いますが、立法論としてなかなかむずかしい問題であります。私は大体の方向としては、そういう憲法裁判所的なものによつて憲法の保障を確保しようという考え方にはそれほど賛成ではありません。といいますのは、今までそういう考えが出ました国、元のドイツとか、オーストリアとかは、みな十分に憲法が守られないで独裁制になつてしまつたような国でありますし、大体そういう独裁制に襲われないで済んで来た、また抵抗して来た国――イギリス、アメリカ、フランスというようなところでは、そういつた憲法裁判所というものをいまだに必要としていないというところから見ましても、憲法裁判所的な制度を設けることがはたして有効かどうかということについて私は相当疑問を持つているのであります。結局そういうものを設けましても、最後は国民考えというもので憲法がきまる。それをしいて裁判所というようなものを設けますと、極端に申して、ある重要な憲法問題、きわめて高度に政治的な問題に関して、かりに国昂の九〇%がある一つの甲なら甲という意見を強く主張している場合でも、少数の五人なり十人の裁判官意見が、それは乙であると言えば、乙というのが憲法の正しい解釈だということに当然なるわけです。これは普通の法律の場合にはそれがいくらでもあるわけですが、憲法の最も政治的な問題についてそういうことになつた場合に、はたしてその裁判所意見が忠実に守られ、円滑に動いて行くか、そして憲法自身がちやんと生命あるものになつて行くかというと、従来の諸国の例で必ずしもそうは行かないということを私は心配するのであります。  もう一つの点はこういう点もあるのでございます。そういう裁判所を設けますと、裁判所裁判官の結局政治的な見識といいますか、叡知といいますか、そういうものが非常に多く要求されるわけですが、そういう点から見ましても、私ども日本人の法律家といいますか、日本人はそういう点で若干観念論、原理論に走る傾向があつて、具体的、実際的センスというものに非常に欠けている点もあるのではないか。そういう意味において、日本憲法裁判所というようなものをつくることがはたして適当であるか。そういう点からも十分考える必要があるのではないか。先ほど私がもしそういうものを設けるならば、その裁判官の選任というようなことに対して、特別な考慮が払われなければならぬと申したのは、裏から申せばそういうことがまた非常にむずかしいということもあるのじやないか。それやこれや考えまして、りくつとしては今の法律審査権制度をもう一歩進めて、憲法裁判所みたいなものにしたらもつとよく憲法が守られるのではないかということも考えられますけれども、実際的にはたしてそういう方向によることが賢明かどうか私は疑問に思つておりまして、むしろ正々堂々たる方法としては、国民自身の政治意識というか、憲法意識というものを高めて、それによつて裁判所の手をかりなくとも、憲法の明白な無視というようなことが、国会なり政府によつて行われ得ないというふうにして行く方が本筋ではないか、そういうふうに考えております。
  13. 佐瀬昌三

    佐瀬委員 第二点でありますが、憲法第九十八条には、この憲法は国の最高法規であつて、これに反する法律その他は効力を有しないとこういうふうに宣言しております。しからばこれをどういうふうに始末するかということが、その方法なりについて問題になるわけであります。そこで思い合わされるのが八十一条になるわけであつて、この八十一条では、別に具体的な事件のあることを前提として憲法審査を問題にするのだということの規定ではない、従つてこの二箇条の文理解釈からすると、最高裁判所に何々法は無効であるという抽象的な管轄を認めていいのではないかという議論が出て来ると思うのであります。佐々木博士のごときもその一部の議論ではないかと私推測しておるのであります。この点に対する御見解を承りたいと思います。
  14. 宮沢俊義

    宮沢参考人 それは八十一条の文字だけから申しますと、確かにそういう解釈もなり立ち得ると思います。ただ憲法全体から見ますと、やはり最高裁判所下級裁判所と並んで司法権を行うものであるということがまず予定されておりますし、一方裁判というものにつきましては、国民裁判を受ける権利があるというような規定もおのずからそこに、その具体的な権利義務に関する争いが生じた場合にのみ保障されるということが前提とされていると思うのでございます。裁判を受ける権利があるといいましても、だれでも訴訟を起せるわけではなく、やはりそこに一定の資格が当然要求されている。そういうわけでありますから、そういつた資格のある者が訴訟を起したときに、それをはねることはできない、というのが憲法趣旨でありまして、そういう意味の訴権なるものは、裁判所に持つてつていい。そのときに裁判所権能として最高裁判所あるいは普通の裁判所法令審査権を持つておるのだから、その事件関連して法令違憲性を審査することもできる、こういうふうに読むべきではないか。  そこで私の考えは今の悪法が保障しているのは、ああいう具体的事件に関しての訴権を保障して、従つてそれに関連しては、裁判所審査権がある。しかしそれ以外に抽象的な問題について違憲の宣言を求めるということは、憲法は保障しているわけではなかろう。さつき申し上げた通り憲法はしかし必ずしもこれを禁じているわけではない。ですから立法論としては法律をつくつてそういう制度を認めることは許されないわけではなかろう、こういうふうに私申したわけです。佐々木先生のはおそらく現行憲法のもとで、あるいは法律がなくともすぐできるという厭味かもしれませんが、私が申したのは今の憲法のもとで、つまり現行法建前ではできない、しかし法律改正すればそれはできるだろう、こういう意味であります。
  15. 佐瀬昌三

    佐瀬委員 もう一点お伺いしておきます。法令審査権違憲審査権の問題なんですが、最高裁判所は司法をつかさどるものであり、従つて裁判として具体的な法令憲法に違背するかどうかということを終局的に決定するというのが当然でありますが、それは明治憲法においてもいわゆる法令審査権として裁判所はある法令憲法に違反するやいなやを審査することができる、しかし憲法それ自体を審査することができないというふうに一般解釈されておつたのであります。ところが今度の新憲法に基いた違憲審査権というのは、単なる従来の意味における法令審査権にはあらずして、憲法それ自体を審査する権能をも含むものだというところに拡張して行かなければ新憲法の精神に合致しないではないかと私は考えるのであります。先ほども申し上げましたように、憲法というものの意味が単なる成文憲法に限らない。そのよつて来る最高原理ぞのものこそ憲法の指導原理であり、指導精神であり、それが各具体的条文に具現されなければならない。ところが成文憲法としては必ずしもそうはいつていない場合もある。そこに憲法の条文それ自体が、はたして憲法違反なりやいなやという問題もあるのではないか。従いまして法令審査権意味ならば、すでに憲法というものはコンクリートになつておる。具体化されておる。不動なものである。それに照して法律以下の法令等が違反しておるかどうかということをただ審査すれば事足りたのであるけれども、今度は連反しているかどうかというその根源の憲法それ自体について解釈をし、その内容を確定し、場合によればその条文としての憲法を否定しなければならぬということに相なりますと、違憲審査権というものは実に広大なものになり、立国の根本に触れて行く問題も起ると思うのであります。そういう意味での違憲審査権というものであるならば、それを行使する組織、形態、機構というものは、現在考えておる最高裁判所というような程度のものでは不十分であるというような議論も出て来るのではないかと思うのでありますが、この辺に対する御意見もこの際お聞かせ願いたいと思います。
  16. 宮沢俊義

    宮沢参考人 やはり私は、憲法裁判というものを認めておりますが、これは結局そこで訴えるだけの利益があつた者に訴えさせて、それを保護するという気持が根本だろうと思うのです。すべての国家活動、立法のみならず行政、何でもかんでもそれが正しく行われたかどうかわからないから、あらためてもう一ぺん審査するために裁判所があるのではなくて、一応立法、行政はそれで正しく行われたものとして、しかしそれについて権利を侵害されたとか、その他で争いがあつた場合にそういう訴える利益のある者に対してだけ裁判所が保護してやるというのがねらいだろうと思いますので、結局八十一条の規定も、そういう際に今までですと裁判所審査権があるのかないのかわかりませんので、明治憲法時代も御承知通り判例は否定しておりましたが、学説もわかれておる。そういう点をはつきりさせるために認めたのが八十一条の本来の趣旨だろうと思うのであります。もし八十一条がそうでなくて本来の憲法裁判制度を予想していたとするならば、私はそういう場合にだれが一体そういう訴訟を起せるかといつたようなことについて、全然規定もないということは、非常におかしいと思うのであります。何といつてもああいう訴訟手続というものにつきましては、それを開始する訴権というようなものが一番根本の問題ではないか。それに関して何らいうところがないというところから見ましても、やはり憲法が保障しているところはそこまでではない。但しそれを禁じているわけでもないから、法律でそういう制度をつくることは不可能ではなかろうと考えるのがまず穏当ではないか、こういうわけであります。
  17. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 今先生の御意見を聞いておりますると、現在の法律では法令の抽象的審査権はないが、法律をかえればやれるという御議論でありましたが、これはおそらく裁判所法でそういうものを認めるならばやれるという御見解でなかろうかと思いまするが、この点はいかがでございますか。
  18. 宮沢俊義

    宮沢参考人 形式的には裁判所法でも何でも法律ということでよろしいのではないかと思いますが、何か適当な場所へ入れればその点は裁判所法でなければならぬという意味はなかろうと思います。
  19. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 そこで裁判所法によつてそれがやれるということになりますと、第二の問題がたいへん重要になつて来るのであります。最高裁判所法令違憲と判断して裁判した場合、その裁判はその法令に対して、また国会政府及び下級裁判所に対しいかなる効力を及ぼすことになるか、いわゆる絶対的に無効になつてすべてが元へもどるものだという御見解かどうかを承りたいと思います。
  20. 宮沢俊義

    宮沢参考人 そういう制度を設けますればおのずからそういうことになると思いまするが、そういう法律をもし設けるとすれば、そういう際に先ほど申した訴権の問題とか、効果の問題も当然にやはり法律規定せられるべきではないかと思います。現在の憲法のもとでの解釈については先ほどちよつと申し上げた通り、私は一応今一般的に効力があるのじやないかという説をとつておるということを先ほど申し上げました。
  21. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 これは仮定の場合でありますけれども、もしそういう法律をこしらえて違憲の判断をする、そしてその効力が全体に及ぶということになるとたいへん重大なる結果が予想せられるわけです。たとえば今出ましたように警察法の無効であるとか、ところが無効であるという判決が確定するのはおそらく一年二年後である。現に有効なものとして現実が進んでおります。そのとき三年の後にこれは無効だといつて、原状回復するといつても不可能になりはしないかということを考えております。そういうことを考えるとりくつはどうであろうと、実際はそういうことを認むべきものではないのじやないかという議論ができます。これをひとつ伺います。
  22. 宮沢俊義

    宮沢参考人 ごもつともだと思いますが、ただ一般的に効力を発すると申しましても、そういう意見を述べる人たちも将来に対してであるということは、これは当然遡及するとは言えないだろう。しかしそれにしてもいろいろなたいへんな騒動が起るということは、これは当然考えられることで、この制度の結果ですと、何年あとでそういう判決が出るかわかりません。アメリカあたりでも非常に時がたつてから出た例もあります。そういうことは考えればあり得るわけであります。ですからそのときに法律改正されたようなかつこうになるでしよう。
  23. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 もう一つそれに関連して承りたいのは、かりに警察法が無効だと主張する人がある。ところが国民の全体が主張しておるわけではありません。これは有効なんです。これはいいのだということを考えておる人もたくさんある。そこで無効だと一部の者が言つたがために全体がくつがえると、これは有効なんだ、これでやつてもらつた方がいいんだ、こう考えておる人たちにとつてはたいへん迷惑になるのじやないか、そういうことから考えますと、一般国民に及ぼす影響も考えなければならないのではないかという議論も立ち得ると思います。これは法律論を離れた政治論のようでありますが、この点の御見解をひとつ承りたい。
  24. 宮沢俊義

    宮沢参考人 それはまことにごもつともなことで、結局裁判所にこういつた権能を認めれば、ある場合にはそういうことは免れがたい結果だと思うのです。先ほどもちよつと申し上げた通り、極端な例を考えれば、国民の九〇%がたとえば警察法なら警察法が有効だ、あるいはほかの例で、甲なら甲という解釈をとりましても、裁判官が乙という解釈をとれば、この乙の方が優先するということにならざるを得ない。そこで問題は、そういうふうになつた場合に円滑に行くかということで、普通の民事、刑事の裁判ですとそれでいいわけです。しかし憲法のような問題になつたら、それが問題になるわけでありますから、そこで一方においてそういう制度をつくる際に、そういうことを十分に考えなければいけない。従つて憲法裁判的な方向に行きさえすればいいというわけに行かないと先ほど申し上げたようになりますし、他方において裁判官がそういう権能を持つ場合には、またそれだけの高い叡知といいますか、そういうものを備えていなければうまく行かないのではないかというふうな、両面から考えるべきだろうと思います。
  25. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 ここに書いてあります四のことですが、先生の御意見は私聞いていなかつたのですが、下級裁判所係属中のもので憲法問題が起つたとすれば、八十一条によつて最終の決定権が最高裁判所にあるのだから、最高裁判所でその点をただちに審理していいか悪いかということは、相当学問上問題になつておると思うのです。ただ現在の法律のもとで、そのままではいけないとか、そういうことは別といたしまして、いけなければ法律をかえてもいいか、そういうことができるという御説でありますか、またできないという御説でありますか。
  26. 宮沢俊義

    宮沢参考人 三の方で、ある事件下級裁判所係属しておる場合に、そのうちの憲法解釈の問題だけを最高裁判所に持つてつて審理するということが可能かということに対しては、私はやはり可能ではないかと思う。しかしこれが適当かどうかは多少問題であるがということをお答えしたのであります。四の方は先ほど申し上げたように、ちよつと問題の御趣旨がわかりませんので、係属中の事件憲法解釈に関する重要問題を含むと認めるものというのは、その事件そのものが当然最高裁判所へ全部来てしまうという意味だろうと思いまして、そうとすれば、これは適当ではないのじやないかということを先ほど申し上げたわけであります。つまり審級制度を認めたことが無意味になるのじやないかと思います。
  27. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 小林さんにもう一つ。委員長の質問はどういう意味であるかはわかりませんが、この四の小法廷は三部であるが、これを四部または五部に増加すればどうかという問題でございますが、これは今の方でいいという御議論に承りましたが、私の聞きたいのは、現在の十五人では三部がいいかもしれませんが、これはもつとふやしてやつたやどうか、こういう議論まで考えて御意見を承りたいと思うのであります。そういう意味でかりに五人ずつがいいとしたら五部を設けて二十五人にしたらどうか、こういうことであります。これに対する御意見を承りたいと思います。
  28. 小林俊三

    小林参考人 その点には触れなかつたのでありますが、上告審の、いわゆる今の最高裁判所をいかにすべきかということに結局関連するわけなのであります。私は私見としましては、連合会の案は最高裁判所にもつと裁判官を増加して、現在のいわゆる裁判官の仕事に相当するものをやる裁判官のほかにいわゆる一般法令違反を審査するような裁判官を増加しろという御趣旨のようなのですが、これは私初めそういう構成がいいのではないかということで、五、六年前考えてみたのですが、どうもこれは憲法上障壁に突き当るのでむずかしいのではないかと思うのです。つまり憲法審査をできない裁判官、かつ国民検査を受けない裁判官最高裁判所にあるということに結局なるので、そういうことは許されないのではないか、こういう恵見に今なつておるのであります。しかしそういう裁判官はいわゆる憲法にいう最高裁判所裁判官ではないという御解釈なのかもしれませんが、それは私は無理ではないか、こういうふうに考えております。それですから、今のお尋ねは、もつとふやしてということになると、その前提ですでに困難ではないかというふうに考えます。それで今おつしやつたようなことを私流の構想に考えれば、やはり高等裁判所あたりに元の大審院的な部を構成して、そうして一般的な法令違反をすべてそこで処理するというような形にするのがいいのではないか、それしか方法がないのではないか、こういうふうに考えております。それでいわゆる違憲審査権を皆さんのように非常に重要にお考えになることは非常に尊敬に余るのでありますが、現在の構想はいわゆる中途半端だつたのであります。元の大審院の事務処理の構想とアメリカ的な最高裁判所機能との中間を何とかまとめようとしたところに現在の行き詰まりが生じたのでありまして、これは当然当時からあることは予想しておつたのでありますが、ですから、もしこれをほんとうに本来の最高裁判所違憲審査に重点を注ぐ裁判官のほかに、今言つたような種類の裁判官を別に設けるとすれば、十五人いれば、これも私児でありますが、実際多過ぎるのです。日本アメリカと比べれば九人以下でもいいかと思つておるぐらいであります。そういうわけでありますから最高裁判所自体の裁判官をふやしてということになりますと、それ自体が私は今の解釈では困難であろう、こう思いますから、この点御了承願いたいと存じます。
  29. 小林錡

    小林委員長 小林参考人の第三の点ですが、大法廷合議というのは十五人では多過ぎてなかなか合議がまとまらぬじやないかという外部の憶測が大分あるのですが、これは何かルールがありますか。アメリカなどでは上位の人というのか、古参の人から意見を吐かれて、だんだん下に及んで行くというような何があるそうですが、別にルールなしに、やつぱりこういう会議をやるように議長席に長官がつかれて、一々意見を発言される人から聞くというようなぐあいになつておるのですか、もしそういう点をお漏らしをできればお伺いしたいと思います。
  30. 小林俊三

    小林参考人 これは申し上げてもさしつかえないのでありますが、いわゆるラウンドテーブルの会議になつておりまして、アメリカにはいろいろ慣行として何かあるようでありますが、日本ではわれわれは別にそういうこまかい、きゆうくつなものは何もないのでありす。大体申合せはいろいろありますが、合議そのものは、あるいは審議そのものは議長としては長官がやるのでありますが、別に議長席というものがあるわけでもありません。ただ楕円形のテーブルでありまして、そこへ、席がきまつておりますが、きようはこの事件合議しましようと言つてそれぞれの主任が報告をして、そのあとその論点についていろいろ意見が出るそれもこちらでやるように、発言を求めることには結局なりまするけれども、一々許可を受けて発育するというようなことはしないで、おのずからそこに黙契があるわけです。あるいはお互いの黙認があつて、それで発言が両方衝突すればどつちかがあとになる、こういうわけです。ですから円滑というのがそういう意味でありますれば、もつとこまかい合議方法とつた方がいいかどうかという問題はあるわけであります。  それから十五人では裁判というものの合議の性質上多過ぎはしないか、それはおそらく仰せの通りだろうと思います。地方裁判所の三人あるいは高等裁判所の三人、三名なればこれは大体時間がかかつても、困難な障壁に突き当つたならば一応それで休んでまたその次にまわす、これは五人の小法廷事件経験して見ますと結局よくわかるのでありまして、みんなが行き詰まつた事件ではもう一回考えるといつて二度、三度延ばす、その間におのずからまとまりが出て来る、こういうようなことが考えられます。そういう意味におきましては議事の事案、いわゆる協議をする事柄からいつて十五人は多いので、そういう意味においてはあるいはそのために引きずられて、スムーズに行かない部分が相当現われておるといえるかもしれない、こう思います。
  31. 小林錡

    小林委員長 どうも参考人の方々には長い時間にわたつてありがとうございました。お礼を申し上げます。  それではこの程度にとどめまして、午後一時から再開することとして、暫時休憩いたします。    午後零時四十一分休憩      ――――◇―――――    午後一時五十九分開議
  32. 佐瀬昌三

    佐瀬委員長代理 休憩前に引続き会議を開きます。  午後は斎藤朔郎参考人より御意見を聴取いたしたいと存じます。斎藤参考人におかれましては本小委員会のため御多忙中にもかわらず遠路わざわざ御出席いただきましたことを厚く感謝申し上げます。  それではこれより斎藤参考人に御意見をお述べ願いたいのでありますが、斎藤参考人は特に、  一、下級裁判所における司法行政事務処理方法についての実情を承り、  二、司法行政事務処理方法について新旧両制度を比較した場合、現行制度について改善を要する点があればその点も承りたいと存じます。特に、司法行政事務裁判官会議の議により行うという現行制度については、責任の所在を不明確ならしめるという批判もあるようであるが、この点についてはいかに考えられるか、この点もお述べ願いたいと思います。  三、下級裁判所における実務の経験に照らし、上告制度及び最高裁判所機構をいかにすべきかについての御意見も承り、  四、現行法のもとにおける控訴審、特に刑事控訴審の手続をいかにすべきかについての御意見もあわせて承りたいと思います。  五、刑事上告範囲判決に影響を及ぼすべき法令の違反というように拡張した場合、控訴審及び第一審の手続現行のままでよいか、それとも何らかの改正を要するものと考えられるか。改正を要するとすれば、その要点を具体的にお示しを願いたいのであります。  六、最高裁判所裁判官の任命方法の改善についていかなる御意見があるか。  七、その他の裁判官の任用制度、特に判事補及びいわゆる特任判事の制度についての御意見。最後に、その他参考になる事項がありましたならばこれらをお述べ願いたいと存ずる次第であります。  それではこれよりお述べ願いたいと思います。
  33. 斎藤朔郎

    斎藤参考人 ただいま御指摘になりました問題について、順次私の一応考えつきましたことを申し述べることにいたします。  大阪高等裁判所におきましては、裁判官会議は月に原則として一回ずつ開いておるわけでございますか、裁判官会議以外に、高等裁判所に常任委員というものが五名ございまして、その常任委員と、それから高裁長官とで、裁判官会議に付議いたします事項の案を考えたり、あるいは付議事項に関する資料を準備したりいたしまして、裁判官会議を開きました場合には、そういう常任委員の提案その他報告、調査材料、そういうものを基礎にして会議をやります。きわめて迅速に会議は進行いたしておる様子でございまして、高等裁判所に関する限りにおいては、別に裁判官会議の運営によつて困難を感じておるようなことはございません。司法行政事務をそういう会議体でやらずに、特定の責任者が専行するという旧裁判所構成法時代のやり方は、なるほど責任の所在も明確でありますし、また迅迷に機動的にやれる、そういう特長もあると思うのであります。特定の責任者が専行したからといつて、司法行政の結果は一般に知れわたるものでありますから、必ず一般批判にたえられるだけの公正さを持つたものでなければならないと思いますので、その意味で私は、旧裁判所構成法時代の司法行政といつても、一部の人が誇大に言うように、情実によつてなされておつたとは考えないのでございます。従つて旧司法省時代の司法行政の実質が、現在の裁判所法による司法行政に比べて必ずしも不当でないというように考えるのでございますけれども、司法行政、特に人事行政につきましては、これはいろいろの見方で批判ができますので、行政を専行する責任者がいかに公平にやつておると確信いたしましても、見る方の人はいろいろ裏面の事情を想像したり、せんさくしたりして、その人事行政について批判が出るということは、これは防ぎようがないと思うのでございます。ところで、裁判所法の裁判官会議方法で司法行政をやるということは、確かにそういう面においては公正の担保になつておるという特色があるんじやないかと思いますので、とにかく現行法裁判官会議制度ができているのですから、できるだけその制度の運用面を考えて、現在の制度を維持すべきが相当でないかと私は思うのであります。  裁判官会議方法で司法行政をやりますことは、責任の所在を不明確ならしめるということが確かに言われるのでございますけれども、これは一つ一つの司法行政の内容を分析して考えますならば、必ずしもその責任の所在が明確でないことはないと私は思うのでございます。一口に司法行政事務と言いましても、その中には議決によるものもありましようし、また議決したことを現実に執行するというものもありましようし、また所属の職員に対する平素の監督というようなものもございましようし、それからまた会計法上の行政事務もあるのでございますが、そういうぐあいに一つ一つの司法行政の内容を考えて行きますと、それに応じた責任者というものが考えられるのではないかと思うのであります。裁判官会議といたしましては、その中で議決の方法によるものだけについて責任を持つておるんじやないかというように一応考えるのであります。  次に臨機適切の措置がとりがたいということも言われるわけでございますが、これは御承知のように下級裁判所事務処理規則というものがございまして、それによりまして長官なり所長が応急措置をする権限を認めております。なお先ほど申しましたように、常任委員というようなものを設けまして、行政事務の一部分の委任もできる、こういう便法も認められておりますので、それらの方法を活用いたしますれば、ある程度臨機適切の措置もできるのじやないかというように考えます。それから、裁判官本来の任務に支障を来す、こういう非難もございますが、確かに旧裁判所構成法におきましては、大審院の下級裁判所に対する監督権というものはなかつた。そのわけは、そういう裁判官本来の仕事にできるだけ負担をかけない、そういう趣旨規定と思いますけれども少くとも下級裁判所といたしましては、裁判の実務にさしつかえるほど支障を来しておるとは考えられないのでございます。それから現在地方裁判所長が第一線の裁判事務充実という見地から、裁判の実務をやらなければならぬのじやないかということを最高裁判所でも常に指示しておるようでありますが、私は裁判官会議をやめまして、司法行政事務を長官、所長にやつてもらうことにするということは、長官、所長、そういう方々も裁判事務の実務をやらなければならぬのだ、そういう方針と逆行することになるのじやないかというようにも考えるのでございます。ただ人事行政につきましては、会議体でやるということが最大公約数的な結果になりがちだ、人事行政をやる上においては信賞必罰を明らかにするとか、あるいは優秀者を適当に抜擢するということは、部内の空気を刷新する意味で非常に必要なわけでございますけれども、会議体で人事行政をやることになりますと、どうしても最大公約数的な、いわゆる無難な順序主義に堕する危険があるのじやないか、こういうことが懸念されるのでございます。しかしこれも制度の運用面でそういう弊害の起らないようにする努力をすれば、ある程度カバーできる問題であろうと思います。要するに私の意見といたしましては、現行法裁判官会議で司法行政をやるというこの制度は、維持していい制度ではないか、そういう意見を申し上げた次第でございます。  それから次の上告制度に関する問題でございますが、上告制度に関する問題といたしましては、上告範囲をどうするかということと、上告の審判の方法をどうするか、こういう二つの問題があろうと思うのでございます。まず上告範囲について考えてみますのに、一方においては上告制限しなければならぬのじやないか、こういう意見と、一方においては上告範囲を広めるべきじやないか、こういう意見考えられると思うのでございますが、刑事訴訟法に関する限りにおきましては、私は現在の上告制限というものはまず妥当な限界にあるのじやないかというように一応考えるのでございます。ただこれは非常にとつぴな議論かもしれませんが、上省だけでありませんで、控訴と上告両方に通じました上訴制限の一つの問題といたしまして、私の個人的に考えておりますことは、現行法の検事上訴制度というものは考え直す余地があるのではないか。検事から控訴し、検事から上告をする。こういう制度の存在価値というものをわれわれはもう一度考え直す必要があるのではないかということを考えておるのであります。刑事訴訟法民事訴訟法と同様に当事者主義ということをよく言われるわけでございますけれども、民事訴訟法当事者主義というものは、申すまでもなく平等の、対等の当事者と理念的に考えていいわけでございますけれども、刑事訴訟当事者、すなわち検察官の代表しておる国家と被告人側、この当事者が平等のものではないことは申すまでもないのでございまして、国家側、言いかえれば検察官側は犯罪の捜査の過程を含めて相当強力な権力を与えられておりますし、また検察庁という厖大な機構を背景として被告人側と対立しておるものでありますから、力は一方が非常に強いということは認めざるを得ないわけなんでございまして、さような国家と構成分子という配分的の政治関係をつかさどつておる刑事訴訟におきましては、検察官が第一審の手続であらゆる努力をして、そうして第一審の裁判所が判断を下したことについては、国家側はそれを尊重するということがあつてしかるべきではないかという考え方からして検察官上訴制度というものは、もう一度われわれは考え直す必要がある。もちろんその検察官上訴制度をやめるということの反面としては、控訴審の機能については多少影響があるかもしれませんけれども、一応上訴制限の問題として私はそういうことを考えておるわけでございます。それから今度は逆に上告範囲を広めるべきじやないかという議論、ことにこれは一般法令違背についても上告の申立てを許すべきではないかという御議論もあるようでございます。御承知のように現在の刑事訴訟法におきましても、控訴審におきましては法令違背が控訴理由になつておるわけなのでありまして、その条文といたしましては、刑訴の三百七十七条から三百八十条までの四箇条の条文があるわけであります。三百七十七条と七十八条はいわゆる絶対的控訴理由になつておる。それから七十九条、八十条は、訴訟手続違背と適用法令の誤りの場合は判決に影響のあることが明らかな場合というふうになつておりますが、これらすべてを含めて法令の違背ということになるわけであります。私が新刑訴で満五年間やつて参りました感じからいたしまして、刑訴の三百七十七条ないし三百八十条による控訴理由というものは非常に少いのであります。現に高裁の判例集をごらんになりましても、この四箇条に関する判例というものは少いわけでございますので、この一般法令違背について上告理由を認める、こういう実際的の必要がどういう実例で起るのかということが、私にまだよくのみ込めないのでございますが、かりにそういう一般的の法令違背が、もちろんこれは数は少くてもあることはあるわけなんでございますから、それについて上告を認める、こういうことにするのがいいかどうかという問題につきましては、私はこの上告申立てとしては、これはやはり現在の憲法違反、それから判例抵触、この二つの場合は具体的の事件救済ということ以上に、法令解釈の統一を必要とする理由の強い場合でございますので、四百五条で上告申立ての権利を認めておるわけなんでございますが、そうでない、一般的の法令違背の場合、私はこの場合は当該の事件救済という点にむしろ重点があるんじやないかと思うのでございまして、この場合はむしろ四百五条の中に入れずに、次の四百六条という、現在では御承知事件受理の申立てとして認めておりますこの方に入れるというのが筋じやないかというように考えるのでございます。これは私の非常に言い過ぎた議論かもしれませんけれども、理論としては私はこの上告ということは、これは最高裁判所にするものでございまするから、われわれとしては最高裁判所というものは信頼のできるものでなければならぬ。国民一般の信頼のできる人物で最高裁判所を充実するということは、これは国家の責任であるわけなんでございますから、そういう一つの前提に立ちますならば、上告ということは、理論的にいえばすべて許可制度でもいいんじやないか。最高裁判所が十分信頼できるならば、その最高裁判所上告事件として取上げる価値のあるものということを認める事件を取扱えばいいので、それはわれわれは最高裁判所がそういう恣意に流れた不当な取扱いをすまいということを前提にして考えるならば、私は上告範囲というものは、最高裁判所上告審の許可制でもいいのじやないかというようにも考えるのでございますが、さような意味でこの一般法令解釈については私は、四百六条のいわゆる事件受理の申立ての方法で、やるとすればやるのが筋じやないかというように考える次第でございます。  それから上告審の審判の方法として考えますことは、簡易裁判所取扱いまする刑事事件上告審は高等裁判所でいいんじやないか、こういう議論もあろうかと思うのでございますが、この点につきましては私は反対意見でございまして、なるほど民事訴訟の簡易事件は、上告審は高等裁判所でございますけれども、高等裁判所上告審になる事件につきましては、控訴審は地方裁判所ということになるわけでございます。民事訴訟における第二審手続と第一審手続というものは、実質的にそう大差はないのでございますので、地方裁判所が簡易裁判所の控訴事件をやるということもいいのでございますけれども、刑事訴訟事件におきましては、御承知のように控訴審の構造が事後審を原則とするというようになつております関係上、地方裁判所自体の第一審手続と、簡易裁判所事件を地方裁判所がかりに控訴審としてやる場合の事後審の手続とは、性質が非常に違いますので、一つの地方裁判所にそういう性質の違つた手続をやらすということが妥当でないのじやないか、そういうことが一つの理由。それからもう一つは、刑事事件につきましては、上告範囲もおよそ合理的な範囲制限をなされており、従つて最高裁判所の負担軽減という点も、民事訴訟におけるほど強くはないということ。それから判例法律解釈の統一という面から見ますと、できるだけ最高で上告審をやるという方が効果的であることは申すまでもないのでございますから、さような理由で簡易裁判所刑事事件上告審も最高でやるべきだというように私は考えておる次第でございます。  それからもう一つ、上告の審判の方法として考えられますことは、一般刑事事件上告事件は、最高裁判所とは別の裁判所、たとえば東京高等裁判所上告部というものを設けて、そこで取扱うべきだ、こういう議論もあるように拝承いたしておるのでございますが、この案についても私は大体四つの理由反対意見を持つております。第一は、これはもうすでに言い古されておることでございますが、さような方法は四審級になるということでございます。上告部意見を主張される方は、それはもう四審級になつてもいいのだということで、水かけ論かもしれませんけれども、審級を一つふやすということは、それだけに訴訟を渋滞せしめるという結果になろうと思いますので、それが第一の反対理由でございます。それからもう一つは、私はきわめて短期間でございますが、一年半ほど弁護士をやりまして、裁判を受ける側に立つた経験がございますのですが、その当時の気持と申しますか、感覚から申しまして、裁判を受ける者としては、いやしくも上告を許される事件については、最高裁判所の判断を受けたい、こういう気持はすべてあるのじやないかと思うのでございます。上訴制度というものは、当事者にとりましては一つのあきらめの制度であるような場合もございまするので、上告ができるのに最高裁判所でない別の裁判所の判断でがまんしなければならぬのだということは、どうも困るのじやないかという気持、これが第二の理由でございます。  第三の理由といたしましては、われわれ下級審裁判官立場から感じることでございますが、もし最高裁判所一般上告事件を取扱わない、憲法問題とごく少数の特殊の事件だけしか取扱わぬで、一般上告事件は別の高等裁判所上告部どまりになる、こういうことになますならば、われわれ下級裁判所最高裁判所の精神的なつながりというものが現在以上に非常に稀薄になつて来るんじやないかと思うのでございます。しかし最高裁判所最高裁判所である以上、全国の司法行政の元締めをすることになるわけだろうと思うのでございますが、そういう下級裁判所とのつながりの稀薄になつ最高裁判所が全国的の司法行政をやるということは、われわれ下級審裁判官から見まして、どうも歓迎すべきことでないんじやないかというのが第三番目の理由でございます。  第四番目の理由といたしましては、最高裁判所の地位が非常に高くなつておるということはまことにけつこうでございますが、これは何も憲法違反の問題を取扱うからというだけのことではなくて、立法権、行政権に対立した司法権というものの全体的の最高の裁判所だという点に、最高裁判所の地位の高いゆえんがあるんだと思うのでございますから、上告事件の大多数を取扱わないというようなことになれば、かえつて最高裁判所の地位を軽からしめることになるんじやないかと考えます点が第四番目の理由でございます。  以上のような考えで、一般上告事件について旧大審院に当るような特殊の裁判所を設けて行こうという考え方には賛成できないのでございます。  次に、最高裁の機構の問題でございますが、結局この機構の問題は上告制度の問題とうらはらをなしておるわけでございまして、刑事訴訟につきましては、先ほど来申し上げておりますように上告制度は一応妥当な限界で制限されておるというように考えますし、また民訴につきましては先般改正が実施せられたわけなのでございますから、さような結果がわかつた上でならばまたいろいろの議論も出ようかと思いますが、最高裁判所機構としては当分そういう情勢を見きわめる必要があると思うのでございます。もし将来現在程度の上告制限をやつて最高裁判所の負担が非常に過重になるような場合には、私は必要な限度における増員ということもやむを得ないんじやないか、増員を考えるよりほかはないと思うのでございます。ただ一部の議論として、最高裁判所の判事を増員する場合に、現在の裁判官以外にBクラス的の裁判官を増す、こういう意見もあるように承るのでございますが、裁判官の独立という立場から考えまして、さような、Aクラス、Bクラスというような二手の判事をこしらえるということにつきましては賛成いたしがたいという考えを持つております。  次は控訴審の構造に関する問題でございますが、私は、大体において現在の控訴審の構造を維持すべきだ、こういう見解を持つておるわけなんでございます。事後審制度は第一審の裁判の欠点を是正するのに十分でない、こういう非難があるのでございますが、御承知のように、現在の控訴審の手続は、事後審が原則ではございますけれども、必要に応じて事実調べということもやれる道がございますし、ことに第一審判決を受けてから後の量刑事情たとえば示談をしたとか弁償したとか、こういう事情を控訴審の裁判でしんしやくできるかというような問題につきましても、私は前からそういうことはでざるのだという積極説をとつてつたわけなんでございますけれども、この点も、昨年の秋の刑訴改正でさような量刑事情のしんしやくができるようになりまして、控訴審の機能というものは、運用のいかんによつては相当に拡大されておると思うのでございます。九大の井上教授が、刑事訴訟法の論点という書物の下巻で、刑訴の控訴審においては職権主義というものをあまり振りまわしてはいかぬのだ、言いかえれば、控訴趣意で主張しておることだけについて判断をすればよいので、それ以外のことに裁判所が頭をつつ込む必要はないのだ、たとえば控訴極意が事実誤認を主張しておる場合に、裁判所は、事実誤認ではないのだ、有罪なのだというふうに考えれば、たといその刑の量定が重くとも被告人の方で刑の量定についての控訴趣意を出しておらなければ裁判所としては控訴棄却すればよいのだ、こういうことになる御意見を書いておられますが、われわれ実務家としてはさような考えは持つておりませんので、たとい当事者の主張しておりません原判決の欠点でありましても、それが判決に影響があると認められるものは実際われわれ職権で原判決を破棄しておる実例もございます。また証人の申請、検証、そういう証拠調べにつきましても、当事者から全然申出のない事件裁判所側の職権で控訴審で事実調べをしておるという実例もございます。さようなわけで原則は事後審でございますけれども、運用さえよろしければ、言いかえれば、個々の事件をよく見まして、必要のある場合においては事実調べをやることもできるわけなんでございますから、運用よろしきを得ますれば、継続審に近い結果が得られるわけでございますので、控訴審の構造としては現在通りの構造を維持するのが相当だと思います。もしこれを旧法当時のような覆審制度にかえるということになりますと、大阪高等裁判所あたりの実情で申しましたならば、第一おそらく法廷が間に合うだけできないのじやないか。覆審制度になりますれば、現在は刑事部は五部でございますが、少くとも倍近い部数がいると思うのでございます。それに応じた人を集めるということも、非常に困難でございますし、第一法廷自身がそういうことはできない。現在でも二つの部で一つの法廷を使つておるというようなこともあるわけでございますから、覆審制度になるということは、そういう人的、物的の施設の点から言つて破産してしまうような結果になるような気がいたすのでございます。  それから刑事上告範囲を、判決に影響を及ぼすべき法令の違反というように拡張をした場合、この点につきましては、私の意見はさつき刑訴の四百六条式のものにするならばすべきだということを申し上げましたが、お示しになりました問題の趣旨は、判決に影響を及ぼすべき法令の違反を四百五条の上告の申立ての権利とした場合に、控訴審及び一審の手続というものにはどういう影響があろうか、こういうお尋ねのようでございますが、この点は十分考えてはおりませんけれども、私は一審手続及び二審手続については、別段影響はない、言いかえれば判決に影響を及ぼすべき法令違反を、かりに上告申立ての範囲に入れるとしても、そのことと一審、二審の訴訟手続の構造ということには、必然的の関係はないんじやないかというように、一応考える次第でございます。  それから次に、最高裁判所裁判官の任免方法ということでございまするが、これは在朝在野から適当な方の選考委員会というようなものをこしらえるとか、あるいは国会の指名によるとかいろいろの案も考えられるかと思いまするが、私はとにかく最高裁判所というものが現在ある以上は、その最高裁判所で仕事をする裁判官の任免ということにつきましては、最高裁判所側の意向、希望、そういうものも十分に反映できて、それがしんしやくされるという一つの慣行ができることを非常に希望する次第でございます。  一般裁判官の任用制度につきましては、別段の意見を持つておりません。現在の最高裁判所から名簿を出した者から、内閣が任命する、十年で任命がえをする、こういう制度でいいのではないかというように考えられる次第でございます。  判事補の制度、これは非常にむずかしい制度であると思いますが、理想を申し上げますれば、裁判官というものは弁護士あるいは検察官から適当な人をとるのが理想だと思うのでございますけれども、それには裁判官の待遇というものを是正しなければ、そういうことはなかなか実現できそうもありませんので、結局現在の判事補制度というものもやむを得ないものとして残つて行くように思うのでございます。  簡易裁判所の特任判事の制度につきましては、私は裁判制度としては成功しておる制度とは考えておりません。裁判所書記官あるいは事務官を優遇するということは、そういう人たちの本来の地位において特任裁判官なつたのと同じような優遇を与えるという方法で、できればそれが一番理想的だと思うのでございますけれども、そういう方法がもしどうしてもできないということになりますと、裁判所書記官及び事務官の士気の高揚あるいは優秀な人を補充するという一つの方法として、特任制度もやめるわけには行かないと思うのでございますが、決してそれが理想的な制度とは考えていないのであります。  大体お命じになりましたことに対する私の意見は以上でございますが、最後に一言だけ述べさせていただきたいことは、裁判のやり方につきましても、一般批判を拒むことができないことはもちろんであります。またさようなことをすべきものではない、裁判のやり方についても、一般批判は歓迎すべきことなのでございまして、特に国会学界、弁護士会、検察庁、そういう方面からわれわれのやつておりますことにつきましては十分の御批判を受けて、その批判によつて司法事務の運用の改善ということができるのじやないかと思います。制度としての改正はできるだけ慎重にやつていただきたいということをお願いする次第でございますけれども、制度改正ではなくて、制度の欠陥と思われているようなことが運用の面で相当是正できる機会があるように思うのでございまして、その方法といたしましては、裁判所のやり方についてこういうことをやつていることはけしからぬじやないかというように、具体的の事例をお示しくださいまして、裁判所のやり方について批判を加えていただいて、運用面の改善をはかつていただくことができますれば、われわれ裁判官としては非常にありがたいことだと思つておる次第でございます。
  34. 佐瀬昌三

    佐瀬委員長代理 以上をもつて一応斎藤参考人の公述は終りまして、これから各委員の質疑に移りたいと思います。林信雄君。
  35. 林信雄

    ○林(信)委員 たいへん貴重な御意見、なかんずく長い在朝の御経歴に加えて在野の御経験を持たれ、これらの立場から、さらに一層慎重に諸制度を御勘案あつての御意見、傾聴すべきものがあつたと思います。一、二点なお御意思のほどを重ねて承つてみたいと思います。  まず現行法の控訴審に関する御意見、なお上告審に関しても同断でありますが、その中において検事控訴あるいは検事上告の無用論と申しますか、これはあるべきではないであろうかと私らも一応考えている問題ではありますが、しかしなお何か残滓が残つて割切れずにいるものがあるのであります。斎藤さんにおかれても、その御説明の結びの句において、そう相なりますれば控訴審の機能には若干の影響を見るのではないかといつたような趣旨のお言葉があつたと記憶しております。私の割切れない残滓の一つとして、判決の結果が原告官に不利益に帰したという場合、そのことが法令解釈、まれな場合におきましては憲法解釈の誤りというような場合も想像し得ないではないのであります。それすらもただ国家の代表としての検察官が、その十分の力を尽してやつたものであり、その限りにおいてこれをその程度に容認すべきであるという思想だけで割切れるか。やはり法令解釈の統一という面から見ますれば、どうしても不利益な結果を判決において見なかつたものよりは、上訴が予定せられない場合、不利益なる判決それ自体をくつがえすということは、審理的な主目的でなくても、ひとしくこれはまた公益の代表者としてやらなければならない場合が想像されるのではないかということを私も考えるのであります。そういう意味では、言われました控訴審というのは、一審の判決については、検事は控訴の必要はあるいはないかもわかりませんが、二審すなわち控訴審の場合の判決においては、法令解釈上その他――と言つては語弊がありますが、特に法令解釈の統一を求めるための検事上告が予定されなければならぬというような御趣旨ではないかと思うのでありますが、その他の意味もあるのでありましようか。先刻お述べになりましたおしまいの言葉の御趣旨はどういうことなのでありましようか。これを承りたい。
  36. 斎藤朔郎

    斎藤参考人 先刻述べました趣旨は、ただいま例におあげになりましたような一審判決法令の適用の誤りがあるという場合に、検事上訴を――この場合は検事控訴になりますが、検事控訴を認めないということにいたしましても、控訴審としては、職権の調査という機能を現在でも持つているわけなのでございます。それを活用することによつて、その法令適用の誤りを、検事上訴がなくても、控訴審の権能として是正できるのじやないかというわけでございますので、さような意味で検事控訴の必要がないんじやないかと考えている次第でございます。
  37. 林信雄

    ○林(信)委員 今思うのですが、今の御説明によりますと、検事控訴はないけれども、被告人控訴はあつたというようなことが前提のようです。検事控訴をしたいような場合は、その裏としまして被告人は利益の判決を得ている、いわば無罪の判決を得ているというようなことになりますと、検事控訴以外の控訴は常識的には普通あり得ないことになります。お話のような職権調査といつたようなものの下地がないんじやないか。そういう場合は、検事は独立して控訴もしくは帷幄上告という制度がなければ、実際上法令の違背がありながら、ただ原告官に不利益な判決であつたら、控訴をなし得べきものがなし得ないという形をとるだけでは、どこか残るものがあるように考えられるのでございますが、いかがなものでございましようか。
  38. 斎藤朔郎

    斎藤参考人 私の申しましたのは、確かに検事の控訴はないけれども、被告人側の控訴があつて事件は控訴審に移審している、そういうことを前提にして申し上げたのでございますが、どちらの控訴もなければ判決は確定いたしてしまうわけでございますから、そういう場合の法令解釈の統一という問題になりますと、結局非常上告の問題になつて来るのではないかと考えております。検事総長の非常上告を申し立てる制度はやめるということを申しておりません。
  39. 林信雄

    ○林(信)委員 これは私も実務家の皆さんにいろいろ意見をお聞きしてみたいと思つているのですが、検察官側の方では、検事上訴権を取上げられてはたいへんだといつたような――現に今まで私の聞いたところでは、実例をあげて件数はこのくらい、そのうちの大半が成功しているというような実例をあげて述べられる検察側の人もある。加えてそれどころじやなくて、付帯控訴も許してもらわなければならぬ場合があるということで、各層といいますか、そういう面のお話を承つておりますと、これはかなり議論のある問題でありますが、幸いにして貴重な御意見を承つて、それ以上わざわざお聞きはいたしません。  次に刑事事件の控訴審の制度の問題でありますが、ただいま承りますれば、いわば現行制度維持論と申し上げられるかと思いますが、これは御説が必ずしも多数説でもないようであります。強い反対説といいますか、在野の諸君はおよそあげて旧制度を歓迎せずの議論をなしておられるようであります。それというのは、私はなはだ遺憾なことでありますけれども、現行の一審の訴訟手続が法の所期しておりますような運営が試みられておらないという点にたいへんかかつているように思う。一例をあげますれば、証拠書類を原告官が読み上げる。少くとも主要なものを読み上げるということを実際上しておりません。しかも事前の閲覧という点もいろいろ不自由があつて、行われていない向きがある。しかしこれは被告人なりあるいは弁護人なりが特にこれを要求してそれを実行すればいいじやないか。りくつはその通りでありますが、実際上裁判所の御都合といいますか、人員なり負担の件数なりいろいろで、裁判所がおのずからこういう程度でということに指導されますと、実際問題としてそういう時間のかかることを訴訟関係者は要求しにくいのであります。これが現実の問題で、実は裁判官は、検察官の出した証拠書類に被告人なりあるいは弁護人が同惹いたしますれば、ほかに意見はないかという程度で、しからば原告の検察官側の意見を承りまして、弁護人の御意見を、最後に被告人何か言うことはないかで実はおさまつて、おそらく再開することなく大部分の事件というものは判決を見ておるということになりますと、これは口頭弁論主義、直接審理主義ではなくて、書面審理の形になつておる。しかしそれをしも訴訟関係人が甘受して行く。実際の事情は勾留されている被告人あるいはその他の事情で、まあまあ一応これで片づけようということが実際上支配しまして、訴訟上権利を持ちながら、実際にそれを行つておらないという一審の制度がたいへん控訴審に私は影響を及ぼしておると思う。一審が法律規定してあります通りに丁重に行われまして、そうして結果を見ておりますならば二審は事後審でも満足すべきである。今のような一審のやり方では二審でもう一ぺんやつていただかなければならぬ。事実調べをやつていただくということがたいへん望ましいと思うのです。はなはだ残念なことですが、一審の裁判の実際を見て私はそう考えておる一人であります。只今あなたの御意見として、それは二審だつてかなりやつているのだ、事実審理もやるのだ、こう言われますけれども、制度としてやるということになつておるのと、進んで真実発見のために裁判官がおやりになるということとはやはり結果において開きができて来ていると思う。かような関係から、この問題はもう少しく御勘案を願える余地があるのではないかと思うのです。結論が出ておりますのに、重ねてかようなことを申し上げてもどうかと思うのですが、つけ加えますと、一審の判事の素質論というようなことにもなつて参ります。これは急速に素質の向上ということは考えられないと思います。といいまして、今の一審の裁判官のすべてが素質よろしくないとは申しません。おおむねよろしいのでありますけれども、さらによりよきものはまだこいねがえることと思うのであります。かようなこともいたしまして、もし覆審制度にしたならば、いや人が足らぬ、法廷が足らぬということはこれは実際としてありましよう。それはその通りだと思うのですけれども、制度考えます場合にはこれらの点はあなたとしても、枝葉末節のお考えであろうと思うのであります。でき得べくんば御再考というところですが、何かそれらの点についても実際を見、お考えになつておるところがございましたならば承りたいと思うのであります。
  40. 斎藤朔郎

    斎藤参考人 私もその問題はずいぶん考えたのでございますけれども、先ほど申し述べました意見に尽きるのでございまして、事実誤認の控訴趣意の出ております事件、これは一番むずかしいわけなのでございますが、事実誤認の控訴趣意の出ておる事件につきましては、特に慎重にやつておるつもりでございまして、事実誤認の疑いがあるのじやないかという懸念のあるものについては、先ほど申しました事事調べの制度を活用するということをあまり骨惜しみしておらないように私自身は思つておるのでございまして、お言葉を返すようでございますが、運用の面で続審に近い結果があげられるのじやないかというようにただいまのところは考えておる次第であります。
  41. 佐瀬昌三

    佐瀬委員長代理 ほかに御質疑はございませんか。――なければ本日はこの程度にいたし、次回は明日午後一時より会議を開きます。  参考人におかれましては遠路わざわざおいで願つて、また種々貴重な御意見を承りましたことを厚く感謝いたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後三時七分散会