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猪俣委員 だからあなた方の
考え方というものは違うのじやないか。今あろ
偏向教育の
教唆をしたというやつでこれを
処罰する、それなら、はわかる。こういうものは客観的に見て確かに
偏向教育になる、それならよいのだけれ
ども、今じやすぐならぬかもしれぬが、時間がたつとなるかもしれぬというものまでも
処罰する。そこに問題があるのです。その
行為それ
自体をとらえて、その
行為をや
つたときにおける客観的な価値判断に基かずして、今はそうであ
つても、そのうちにきき目が現われるであろうということでも
つて今
処罰する。そこに問題があるのです。そういうことは
刑罰法規の体系にないことだと思うのです。新しくここに創設するのだと思う。そんなことをやられたらたま
つたもんじやない。そういう
考え方は容易ならぬことだ。
教唆を
処罰する場合に、今や
つたことがすぐ偏向的な心配があるというなら、この
法律の
目的と矛盾なく
説明できるわけです。そうじやなくして、今は何でもないことでも、そのうちにきき目が出ると思われる場合に、今
処罰する。そんな
法律はありやしませんよ。そういう趣旨であるとすれば、これはたいへんな問題だ、これはもう少し
考えてもらわなければならぬ。それで、それはあなた方も
考えてい
ただく、私
どもも
考えなければならぬ。これは大きな問題です。ここで問題になることは、取調べ官憲、告発する官憲のわがままな恣意的な価値判断が行われる余地がここに出て来る。だから罪刑法定主義に反しているわけであります。現在における
犯罪権威要件が明確にならない。罪刑法定主義という人権尊重の第一原則にこれは非常に反している。取調べ官憲の恣意的解釈が十二分に施される余地がある。こういうあいまいな文句で、そうして権力を持
つている者が、自由自在に
犯罪に引つかけられるような
法律、しかも
対象は
学者だとか
学校の先生とかという良心の自由を保障せられておる人たちであります。この人たちを頭に描きながら、かように広範囲な、いかようにも解釈できるようなあいまいな
法律をつく
つてこれを弾圧しようとする、ここに私は大きな問題があると思う。そうして普通のしろうとが見ると何でもないような文句できめてありますが、
法律の
専門家から見ると実に危険千万なる文句がここに含まれておる。
相当な超法規的な解釈ができる余地があるのです。これは罪刑法定主義に違反する
法律と申さなければならない。それを今あなたに言うてもわからぬ。これは破壊活動防止法のときにも、それからこういう人権問題とからみまする際に、今まで幾多問題に
なつたのであります。その際に、私
どもも人権の保障とい
つても無制限に保障するわけじやありませんから、公共の福祉との調和点というものが民主政治におきまする大きな問題である。この人権の保障と公共の福祉の調和点をどこに置くかということは、破壊活動防止法のときでもしばしば問題に
なつたことであります。そこでアメリカあたりにおける最も良識の代表者と認められておる大審院の判事諸公の、この公共の福祉と人権保障の調和点というようなことを、私
どもいつも聞いて、正しているのでありますが現実的な明白な危険の存在するときだけに人権の抑制があるんだというこの限界点、これがある
程度現在においては正しい点じやないかと思う。具体的にして明白な差迫
つた危険がある場合に、われわれの基本的人権の抑制が行われる、そこに調和点を見出すという
一つの標準、私
どもはこれを堅持しなければならぬと思う。しかるに今のこの
法案を見ますると、今あなたが
説明なさ
つたような現実的にして差し迫
つた明白な危険もないのにかかわらづ人の言論の自由を圧迫せんとすることは、この基準からみましても、憲法に保障されている良心の自由、思想の自由を抑する
法律だとみなされます。そんな将来にかか
つておるものまでも
処罰するというのは、現実的にして差迫
つた明白な危険というものが標準にならなければならぬという点から見まして、これはどういうことになりますか。疑うに足りるというような文句は、それに合致しますか。