○田中(稔)
委員 私は
日本社会党を代表して、
防衛庁設置法案及び
自衛隊法案に関し、反対の討論を行わんとするものであります。
自衛隊の創設は、戦後における
日本再
軍備の歴史における画期的なできごとであります。
警察予備隊、その改編された
保安隊及び警備隊はすでに
軍隊の実体を備えておりましたが、その
任務とするところが国内治安の維持にあり、いまだこれをも
つて明白に
軍隊なりと言うことはできなか
つたのであります。
しかるに
自衛隊は、両
法案に明示するがごとく、外敵に対抗することを主たる
任務とするものであり、かくのごとき
任務を持つ実力部隊をも
つて軍隊となすことは、国際通念に属するところでありますから、
自衛隊はすなわち
軍隊であります。木村保安庁長官もしぶしぶながらこの事実を承認せざるを得なか
つたのであります。しかしながら
木村長官は、
自衛隊は
戦力に至らざる実力であり、従
つて憲法違反の存在にあらずと強弁しております。そして
戦力たるの判断の基準は、
自衛隊が近代戦を有効適切に遂行し得るかいなかにあるというか
つてきわまる
解釈を下しております。しかし
世界各国の
軍隊の中には、一流の
軍隊もあれば二流ないし三流の
軍隊もあり、いずれも国際通念上
戦力たることにかわりはないのであります。
自衛隊が近く
MSA協定による武器援助を受けたあかつきには、その
装備、
編成において少くとも二流の
軍隊に伍して何ら遜色のないものとなることは確実であります。従
つて自衛隊が一切の
戦力の保持を禁じた
憲法第九条の規定に違反することは、疑う余地のないところであります。
私は、
自衛隊が単に再
軍備の具体化であるという
理由をも
つてこれに反対すそものてはありません。それがいわゆるMSA再
軍備を意味するがゆえに、断固としてこれを拒否せんとするものであります。私は、不幸にして、元海上保安庁長官であつた同僚大久保君と根本的に所見を異にするものでありますが、それは同君が、
自衛隊は文字
通り日本みずからの手による
日本の
軍隊であるかのごとき錯覚に陥
つておられるからであります。改進党の同僚粟山君についても、ほぼ同様であります。
日米安全保障条約において、
日本は
アメリカに対し、みずから
防衛力漸増に
責任を負うことを期待させたのでありますが、
MSA協定において、
日本の
防衛力漸増はもはや
アメリカの期待たるにとどまらず、厳然たる軍事的
義務として
日本に強要されるに至
つたのであります。
さらに日米行政協定第二十四条においては、非常時の日米共同
防衛を約し、
MSA協定第八条においては、国際緊張の原因を除去するため相互間で合意することがある
措置をとることを認めております。従
つてアメリカ製の武器によ
つて装備され、
アメリカの軍事顧問団の教育訓練を受ける
日本の
自衛隊が
アメリカ軍の補助部隊とな
つて共同行動を行い、必要に応じて
海外出動を求められる公算はきわめて大であります。ジユネーヴ
会議における
インドシナ問題の平和的処理がもし不幸にして失敗に帰し、
インドシナ戦争に対処せんがために
アメリカが提案しておりまするところの東南アジア
防衛体制が実現し、
日本が万一これに協力を求められるような場合には、
海外出動の危険は差迫つたものとなるでありましよう。さらに東南アジア
防衛体制が太平洋
防衛体制に発展する場合には、
日本はその重要な参加国となり、
海外出動は
条約上当然の
義務となるでありましよう。
すでに武力によ
つて国を守ろうと
考えるならば、
必然的に米ソいずれかに依存しなければなりません。
原子兵器や超音速航空機の出現した今日、
日本の貧弱な
国力と
日本が米ソ両国の間に戦略的要衝を占めている立地よりして、一国単独の
防衛は理論的にも実際的にも不可能であります。しかしながらわが党も一国の
自衛権そのものを否認するものではなく、ただこれを武力によらず、外交によ
つて実現せんとするものであります。外交は本来多面的な活動を特徴とするものでありますから、その外交がよろしきを得るならば、親米にして同時に親ソたるの立場を確保することもできるのであります。
遠藤公述人はわが社会党の党員ではありません。
遠藤公述人の国際警察軍の構想はわが党の
責任をとるところではありません。
あたかもよし
世界各国の平和を叫ぶ人々の声はベルリン
会議からジユネーヴ
会議へとこだまして、国際緊張緩和の傾向は最近とみに顕著とな
つて参りました。ビキニの死灰はこの傾向に拍車を加えつつあります。今こそ
日本国民は
原子の死灰のもとから立ち上
つて堂々と
世界に平和を訴えて、みずから
憲法に規定した非武装、不戦の誓いを新たにすべきときであります。米ソの間に中立を堅持する平和外交の絶好のチャンスは今日をおいてほかにはありません。
戦時中われわれは米英鬼畜という
言葉を当時の
政府から聞かされたのであります。もちろんかくのごとき宣伝は誇張された表現ではありますけれども、
アメリカ帝国主義の脅威の存在を
指摘した点においては正しか
つたのであります。その
アメリカ帝国主義の脅威は当時と何らかわるところがない現状であります。むしろ戦後
アメリカは日英仏蘭にかわ
つて、アジアにおける新しい帝国主義的支配として歴史的に登場したのであります。太平洋
戦争は日米両帝国主義の利害の対立が爆発した結果でありますが、敗戦
日本はみじめにも
アメリカに屈服し、MSA再
軍備を行うことよ
つてかえ
つてアメリカのアジアにおける番犬となり、アジア
民族解放運動を阻止せんとする役割を果そうとしております。私は
日本の
独立の平和のために、かつまたアジアにおける
民族解放のため、かくのごときMSA再
軍備に絶対に反対するものであります。
政府は対米依存のMSA再
軍備を
理由づけるために、中ソ両国の
侵略の危険をしきりに宣伝しております。
国民の中にこの宣伝に乗
つている者も少くありません。革命はこれを他国に輸出し得るものではないことは、マレンコフも毛沢東もよく知
つているはずであります。また
日本の改革を中ソの
軍隊を迎えて遂行しようと
考える者が万一ありましたならば、それは必ずや失敗するでありましよう。それは
民族の誇りがこれを許さない、大衆の支持を得ることができないのであります。
さらに中ソ両国は人口は豊富であり、国土は広大であり、資源において大体自給自足が可能であるばかりでなく、恐慌と失業とのない社会主義体制の特徴として無限に拡大する国内市場を有しておりますから、あえて
アメリカのごとく
海外に帝国主義的進出を試みる経済的
理由がありません。もし中ソ両国に欧亜の人民民主主義諸国を加えますならば、それ自身一つの完成した
世界経済を形成するのであります。もちろん
日本の工業力は中ソ両国にと
つて一つの大きな魅力たることを失わないといたしましても、
侵略によ
つてこれを奪うことは、日米の共同
防衛体制がしかれていなくても、
アメリカとの
戦争を誘発し、その結果
日本の工業力そのものが壊滅に帰することは明らかに予想されるところであります。むしろ中ソ両国としては平和的な経済交流の方法によ
つて日本の工業力を両国のために利用する方がはるかに賢明であります。
さらにまた中ソ両国の
国民は這般の悲惨きわまる
戦争の体験から、何よりもまず平和を熱愛し、社会主義建設の成功は平和なくしてあり得ないことを知
つています。この大衆の平和への熱望によ
つてささえられている限り、中ソ両国の平和政策の真実をわれわれは信用してしかるべきだと
考えるものであります。しかしながら平和を願うものは中ソの
国民ばかりではありません。
アメリカの
国民も同様であります。
日本の
国民は言うまでもありません。幸いにも
アメリカと中ソ両国の
政府の指導者が懸命であるなら、特に
アメリカの指導者が帝国主義的内外政策をやめ、国内においてはニュー・デイールを再び拡大された規模において採用し、国外においては社会主義諸国との平和的通商の拡張に努力して、その経済危機を切り抜けるほど懸命であるならば、米ソは平和的に共存することがでさるに相違ないのであります。この間当
委員会において緒方副
総理は米ソの平和的共存の可能性を認められました。私は副
総理の勇気と良識をたたえるものであります。この米ソ共存の可能性の上に自主中立外交を積極的に展開することが、真に
日本の平和と安全を守るところの道であると
考えるのであります。もし不幸にして両
法案が国会を通過し、MSA再
軍備が実施されましたならば、種々困難な事態が発生することが予想されるのであります。
すなわち第一に、民主化の日なお浅い
日本において軍国主義的風潮が再現する危険があります。軍官民の社会的序列が復活するおそれがあります。両
法案の内容を検討すれば、
自衛隊員の服務に関する諸規定がある。
防衛出動時に行われる施設の管理、物資の収用、業務従事命令等に関する諸規定は、いずれも
国民の基本的人権を侵害するものでありますが、志願制度による隊員の増員が一定の限度に達し、遂に徴兵制度がしかれるに至りますならば、人権侵害はさらにはなはだしくなるものと
考えられます。
第二に、
自衛隊によるMSA再
軍備は、
財政上重大な負担を
国民に課することになりましよう。
外国の事例を見ましても、MSA援助は
軍事費の負担を軽減するどころか、むしろこれを増大する傾向が見られます。現に
わが国の昭和二十九年度の
防衛庁経費は前年度の保安庁経費に比し三〇%の増率を示しております。そのために民生安定や社会保障や教育文化
関係の経費が圧迫されたことは周知の事実であり、この傾向は、今後再
軍備の進展につれますますひどくなるものと
考えられます。
第三に、再
軍備の進展につれ、
日本の産業構造において軍需産業が駒形的に
発達し、平和産業や
国民生活が圧縮される結果が生ずる危険があります。さらに
MSA協定で
わが国の軍需品に対する域外買付を期待するところが大でありますが、輸出産業としての軍需産業という
考えは、やがて
日本をアジアの
兵器廠たらしめようという構想に通ずるものであります。そうするとアジアの各地に絶えず
朝鮮戦争や
インドシナ戦争のような局地
戦争の継続されていることを望む死の商人の非人間的な心理を生むおそれがあるのであります。軍需会社の株が
朝鮮休戦で暴落し、
インドシナ戦争長期化の見込みで高騰することによ
つてこのことは明らかであります。
第四に、
軍隊は
必然的に軍事上の機密を件うものであります。社会の一隅に機密のとばりがおろされますと、やがてこれが社会全体に拡大する傾向を持つのであります。
防衛秘密保護法は今のところMSA援助武器のみを対象としておりますが、遠からずして広汎な対象を持つ軍機保護法が制定されるに至ることはけだし必至であります。その結果はすでに制定されている破防法や目下参議院で
審議中の教育
関係二
法案等とともに、言論や思想の自由のない暗黒社会を現出することとなり、戦後十年にして
日本の文化的後退は再び始まる危険が
考えられるのであります。
第五に、
日本のMSA再
軍備がアジア諸国に与える影響は深刻であります。か
つて日本は
独立した帝国主義強国として欧米諸国とともにアジアに対し
外部から支配する立場にありました東亜共栄圏の構想は、
日本の帝国主義的膨脹政策にほかならなか
つたのであります。太平洋
戦争に破れた現在の
日本は、再び帝国主義強国として復活する可能性に乏しいのであります。新しい
日本は真剣に反省してアジアの中に復帰し、アジア諸国と平和的に共存する道を選ばなければなりません。しかるに事実はこれに反して、
アメリカのアジアにおける買弁としての道を現にたどりつつあります。これは再び
外部からアジアに臨む態度であります。しかし今やアジアにおける
民族解放運動は戦前戦時に想像だもされなかつたほど高ま
つておりますから、日米経済協力の一環としての東南アジア開発というような構想は、東亜共栄圏の
アメリカ製新版として、どこまでも相手にされないような状態であります。
アメリカの完全な植民地と
考えられているフイリピンにおいてさえ、ナシヨナリスタ党の台頭とともに、アジア人のためのアジアという思想が広がり、
日本の対比賠償案のごときも、フィリピン人の
犠牲において、
日本の反共基地化を推進するものだと非難をされておるありさまであります。爾余の東南アジア諸国における対日観は、一層険悪なものがあるということは、
政府当局も御存じの
通りであります。かかる際MSA再
軍備を強行することは、
日本軍国主義の復活として、アジア諸
民族の恐怖の的となるでありましよう。しかも復活した
日本軍国主義が、
アメリカの反共アジア政策の尖兵としての役割を演じることによりまして、この恐怖の感情には、また侮蔑の感情が混じ
つていることを見のがしてはなりません。
日本がMSA再
軍備を捨てない限り、アジア諸国との真の友好を結ぶことは不可能であり、
日本は永遠にアジアの孤児にとどまらなければならないでありましよう。
第六にあらゆる困難を冒して再
軍備を行つたとしましても、その
軍隊は一朝有事の際ほとんど役に立たないであろうと
考えるのであります。それは
装備や
編成の問題ではありません。
軍隊の士気の問題であり、結局愛国心の問題であります。
国民の生活が安定せず、
国民の自由と権利とが次々に奪われつつある今日の
日本において、青年にこの国は守るに値する祖国なりと感激せしめる何ものもないのであります。従来単に有利な就職と
考えて
保安隊を志望した青年が多いことは事実であります。だから
保安隊が
自衛隊とな
つて、いよいよ本格的に
軍隊的な
性格を帯び、ちまたに
海外派兵のうわさが高くなるにつれ、現在実施中の
保安隊員募集が全国的に応募者の激減を見て、難関に逢着している実情であります。木村保安庁長官もよく御存じの
通りであります。
アメリカの副大統領ニクソンは奈良県の窮迫した農村生活に悩む一青年から、
海外移住の希望を訴えられましたとき、一言
保安隊に入れと答えたのであります。確かに
保安隊、そしてまたやがてでき上るかもしれない
自衛隊は、
日本の青年を
アメリカの
防衛のために大砲のえじきとするためには役立つかもしれません。しかし
日本の
防衛のためには断じて役立つものとは思えないのであります。
以上の
理由によりまして、私は両
法案が
日本の平和と安全をむしろ阻害するものと信じ、絶対にこれに反対するものであります。(拍手)