○横川
公述人 日本官公労働組合議長をや
つております横川でございます。
たまたま
地方行政委員会の
警察法改正に対する
公述の
機会を得たわけでありますが、実際に私
どもの生活をいたしております周囲の問題、それから自分の
行つております組合の団体職員としての現状から
考えてみましても、あまりこの
警察法ないしはそうい
つた面にごやつかいに
なつたこと一ありませんし、また特別
機会があ
つてこういう問題を検討するというようなことにもあまりめぐり合
つておりませんので、
公述を行うという立場から、いろいろ法をひもといてそれがいいか悪いかというような点については、そう一日、二日で簡単に私の結論は得られないというのが
実情であります。しかし
公述する場合に、やはり一番先に問題になりますのは、現在の
警察法が悪いということを
考えて、そうしてそれに対して
意見を聞いて法文化して行く人
たちと、それからそれを
審議する国会の立場と一連のつながりの中に、
一つだけ私はどうしても
意見をはさまなければならない問題があると思うのであります。最近いろいろな
法案が出て参りますが、その
法案は一部の人
たちがこれがあ
つて非常に都合が悪い、そういうようなことが出て来ると、これを
改正しよう。そうしてその
関係の人
たちのところに、そういう
法案を出したいのだけれ
ども、これはどういうふうにして出したらいいか、こういうことでその必要な人
たちの
意思を体して
法案化されて、それが国会の中に出て来る、その出て来たときに、たまたまこういう
公聴会がずいぶん前にも持たれているわけですが、新聞その他の報道によりますと、十人出て来て十人が反対をした。ところが国会はそれを原案のまま通してしまう。こういうことが今の国会の中にはほとんど日常茶飯事のようにやられておるわけです。しかし私はそういうようなことが自由なる
意思できめられる民主的な場所でありますから、形式的であ
つてもそれは尊重いたしたいと思いますが、しかし現在の官庁機構の中でいわゆる高級官僚の頭の中にある
法案に対する中立性というものの中には、非常に人間を殺した、機械的な、いわゆる
実情を無視してお
つても、その人間が命令者であ
つた場合には、これに迎合して
法案をつくる、こういう傾向が非常に強いのです。たとえば先生方の前では頭を下げてお
つても、隠れるとベロを出しているのが高級官吏の日常茶飯事の行事のようです。それは先生方が官庁へ
行つて上級の部局長に何か問題を出す、出したそのときにはよろしゆうございますと言
つていても、その通りなるかどうかという問題については、おそらく
経験されているだろうと思う。そしておれは官僚にこういうことをしてや
つたけれ
ども、官僚はおれの言うことを聞かぬということを、私はたまたま先生方の方から耳にするわけです。いわゆる
一つの権力者に向
つて最も忠実な歩みで、それが
一般の
国民大衆にどれだけ利害害
関係があるかということを研究しないで、非常に悪い冷たい形で出されて来るのが
法案の内容じやないか。この点については
法案が出たときにひ
とつじつくり
考えていただいて、これはだれのためにつくられた
法律であるか、先生方の良識で解明していただきたいと思うわけです。
第二点は、
日本の
民主化された
自治といいますか、あるいは
憲法の中にうたわれた内容といいますか、こうい
つたものは連綿とした歴史の中で
一つ一つ改善され、改良されてつくり上げて行
つたものではないので、私
どもも
経験いたしましたし、先生方も
経験いたしたように、
昭和二十年の八月の十五日という
経験があ
つて生れて来たものなんです。この
経験を積むまでには、私
たちの兄弟やあるいは
日本のあらゆる階層の青年が帰らない翼の操縦桿を握
つて参加したという問題や、あるいは野原に散華し、そしてそういうようなとうとい血が、旧来の組織の中で、旧来の
考え方の中で、旧来の思想の中でそういうものをつくり上げて行
つた結果、二百万なり、三百万なりの犠牲者を出し、数多くの戦争未亡人を出した。そういう世界に比類のない苦いしかもとうとい
経験をなめた結果として、今私
どもには平和
憲法の問題があり、あるいはこういう
民主化された
警察法の問題があるわけなんです。
そうすると、今ここで
憲法の九十五条を見てみますと、今まではこの
地方自治に関して
警察法がいるかいらぬかということ、それを
改正する大衆の
意見というものは、
住民投票によってきめてお
つた。その
住民投票によ
つてきめてお
つたことが、今度は一片の
法律案、いわゆるこの
法律があ
つてはだれかが困る、ないしはこういうものがあ
つては都合が悪い、そういうふうな官僚の冷たい
法律理論によ
つてつくり上げた
法律案、そういうものをこの国会で
審議している、こういうことなんです。私は少くともこういう
法案、たとえば
知事の官選の問題、教育の二
法案、
警察法、こういうものがよ
つて出て来ている原因は、いろいろあると思いますけれ
ども、もしもこういうようなものが
審議されるとするならば、これはやはり大衆の
意見をもつと尊重し、大衆の
意見をもつと取上げて、その上で実際上
法案改正に資さたければならぬだろう、かように
考えているわけです。そういう意味でここに出されました
警察法の
改正案について二、三
意見を申し上げたいと思うわけです。
まず
警察法の第三条によりますと、「
日本国
憲法及び
法律を擁護し、不偏不党且つ公平中正にその職務を遂行する旨の服務の宣誓を行うものとする、」あるいは二条では、「不偏不党且つ公平中正を旨とし、いやしくも
日本国
憲法の
保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあ
つてはならない。」こういうようなことがうたわれておるのでありますが、これは法文上の問題としてぴんと来たことと、それからこういうことが実際上行われるかどうかという問題について、どこまで信用していいかという点は、私
どもとしてはこれは文章の上では認められても、実際の運用にあた
つては何としてもむずかしい問題であり、しかも困難な問題である、あるいはできないとい
つてしま
つた方がいいかと思うような問題だ。すなわち一条、二条、三条でうたわれたこの総則は、以下の条文の中に
一つ一つその疑いを深め、あるいはできないだろうという
確信を大衆に持たせるような方向に持
つて行つておるわけです。まず四条を見てみますと、「総理大臣の所轄の下に、
国家公安委員会を置く。」ということにな
つておるわけです。いずれの場合においても、たいてい自分の権力機構ないしは名誉とかいうものがよりたくさんあ
つて、そうしてそれが自分の箔になり、きんきらきんになるということは、これはたしかに気持のいいことかもしれない。しかし一人の総理大臣が保安隊の指揮権限を持
つて行く、あるいは
警察も持
つて行く、その他一切の国会の
運営営ももちろん総理大臣の権限にあるというふうになりますと、一人の人間がいくら八面六臂の能力者であ
つても、これを行うことはおそらくできない、こういうふうに
言つた方が私は適当だと思う。ことに
国家公安委員会というのは、構成からいいますと、
中央で五人の人
たちが一年から五年までそれぞれの年限が違
つて、
一つの政党から三人くらい出て来ると、一人は罷免されるという
一つの形式上のことは整
つておりましても、
委員長は国務大臣がつくという形に六条では明確にな
つておる。そうな
つておりますと、総理大臣のいわゆる
意思があ
つてもできないものを国務大臣が受継いでやる。そうなりますと、たしか新聞の論調にあ
つたように、
一つの政権が大体各末端までの人事権を握
つておりますから、政変があるたびに
警察庁から末端の長までの首のすげかえを、何とかかんとか言
つていてもやらかしてしま
つて、そうしてその人
たちは野に下
つてしまう。また二年か三年かた
つて別な党に
なつたら、野に下
つていた人が生きて来てポストが与えられる。そうすると自分
たちが野に下
つていた
時代の苦しいことを、今度自分が権力を握
つたから、その権力を使
つて仕返ししないとも限らないような
一つの系統が明確にできておる、こういうふうに言
つていいのではないかと思われるわけです。
それからもちろんこの
公安委員会の構成は、確かに自主性を持たされておるようなかつこうはとれておる。しかし実際に
法案を見てみますと、そうではなしに、たとえば十一条の二項のように、成立する条件というのが過半数であ
つて、そうしてそれは主宰する国務大臣が
委員長にな
つて採決をする最終的な責任者であり、しかも自分の一票は常に問題を決する権限を持
つておるのですから、ここでも
つて可否同数でどうこうされるということになれば、これは明らかに国務大臣の
意思によ
つて、あるいはそのときの内閣を構成しておる総理大臣の
意思によ
つて、公平無私であり、あるいは大衆から選ばれたと思われる
公安委員会の秩序というものは大きく阻害される、あるいは
委員会の
意思が生かされないというような結果になるだろう、かように思うわけです。もつとも小さな問題では、
警察の現在のおまわりさんが腰にピストルを下げて歩いておるわけですが、ああいうような威厳といいますか、あるいは護身上の問題か、ないしは突発的な
事件に即応して
犯罪処理に当る
治安維持に当る、おまわりさんが、常に心の武装と、それから携行の武器によ
つて、武装しておるだろうと思いますが、あれはたしか
日本の場合には予算上その他の問題があ
つて、なかなか改装されないとはいいながら、非常に危険な単発のピストルです。あれはアメリカから持
つて来たときにもいろいろ問題があ
つたように、アメリカのカウ・ボーイがぶら下げて歩いておる。こういうことになると、一七〇〇年代くらいの非常に昔のアメリカのあまり
治安の確立しておらなか
つた当時に携行されてお
つたと同じような式であり、装備であり、内容であるものを
交通整理をするおまわりさんまでぶら下げておる。今明治に制定されました
警察官の服装規定によりましてサーベルを下げた人が、銀座なんか歩いていればナンセンスなのです。しかし同じ近代
国家にふさわしいおまわりさんの服装として見れば、あの古ぼけたいわゆるピストルをぶら下げておるということは、ほんとうはナンセンスでなければならない。私はそういう面から
考えてみても、ああいうものは廃止すべきではなかろうか――もちろん廃止とい
つても何らかの事態が起
つて出動するような場合にはあれを持つこともいいでしようし、日常の訓練の中にあ
つてもいいだろうけれ
ども、日常携行としてはあれは必要でない、こういうふうに
考えていいのではないかというふうに
考えるわけです。
それから今までいろいろ言われた
意見は、ほとんど
地方自治に
関係のある
方々が
意見を出しておられました。そしてその
方々の最も根本的な問題になりましたのは、
自治警察はいいのだけれ
ども、財政上の
理由によ
つてやむを得ないのだ、やむを得ないから
都道府県にするのだ、あるいは五
大都市にするのだ、こういう
意見が大半を占めておるというふうに思われるわけですが、しかし財政上の
理由ということが国の
警察のあり方にあまりにも大きく響き過ぎるという点については、これはもう何としても国会の先生方の手によ
つて打開してもらわなければならぬ点ではないかというふうに
考えるわけであります。ことに
民主主義の根底をたすものは、これは何とい
つても
地方自治の確立であります。個人の尊厳というもの、個人の自覚というもの、個人の意識というものが確立されて
行つて、初めてりつぱな民主的な
国家ができるということは、これはもうだれの
意見を聞いてみてもその通りなのです。しかしそれがどうかすると大衆に対する意識というものが、あれは低いのだから、あれらにあまり
意見を聞くことはいけないのだとか、あるいはそういうことをしないでもいいのだというような傾向になりがちな点については、私は何としても是正してもらわなければならないと思う。ことに財政上の問題から、新聞紙上で伝えられるように、町村等におけるところの
地方自治の
警察が、
国警にどんどんかわ
つて行つておる。そしてかわ
つて行
つた結果は、先ほど前の方が
公述されたように
警察と大衆との間に明らかに大きな壁ができてお
つて、もう親しめる
警察というものはだんだん
市町村から消えて
行つておる。おそらく
警察の人は下部に
行つてみればおわかりになりますように、おまわりさんが来ればお百姓さんは頭に巻いた手ぬぐいをと
つて丁寧にあいさつをして行く。これは礼儀として守られておるならいいけれ
ども、いわゆる近寄りがたいものないしは非常に敬遠したものとして、こういう形が出ておる
実情は、これは何としても
地方自治の確立の上からい
つても、
民主化の問題からい
つても、非常に危険な状態ではないかと思う。
それから先ほど
能率化の問題、予算の問題がいろいろ
論議されておりましたけれ
ども、
能率という問題から行けば、今の
警察制度の中で科学的な
犯罪捜査の方法がどんどん進んで行く、こういう点が
能率的なのであ
つて、機構をいじ
つて能率化しようなどという、こんなばかげたことをやるのは、
日本の古い官僚の頭の中にある機構いじりの悪い癖であ
つて、機構をいくらいじ
つたつて、官庁機構の中でよくならない事例は、吉田内閣が何十回行政機構の改革をや
つてみても、依然として判は三十幾つなければ許可がおりないという
実態によ
つて明白なことです。そうではなしにもつと
能率を上げるということになれば、科学的な捜査とか、そういうものがどんどん進歩して行くことと、もう
一つは大衆の自覚した意識と、高揚された道徳というものが、
警察にいかに協力するかということ、
警察といかに密接に結びついて、こういう不正と闘うかという民衆の意識が起きない限り
能率化などというものは、口で言
つても実際上の問題としては出て来ない。かように
考えるわけです。ですから機構をいじ
つて、しかも自分に都合の悪いことは官僚にやらせて行くこの
法案は、実際は大衆を意気沮喪させて、
地方自治というものを殺してしまう。そういう結果から、いかに言葉の上で三つの利得があるのだと言
つてみても、結果的には大きなマイナスをこの
改正の中から生むであろうことを私は懸念するわけです。しかもそれ以外に、これに関連してたくさんの問題があるわけですが、時間がありませんので申し上げることは差控えます。いずれにいたしましても、今度のこの案は、ここで
公述した人
たちの大半というか、ほとんどの人が反対をいたしておるのでありまして、民主的な、しかも権威ある国会では、この点を十分に生かしていただいて、御
審議願うことを最後に申し添えて終りたいと思います。