運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1953-12-18 第19回国会 衆議院 行政監察特別委員会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十八年十二月十八日(金曜日)     午前十時五十四分開議  出席委員    委員長 塚原 俊郎君    理事 世耕 弘一君 理事 田渕 光一君    理事 長谷川 峻君 理事 山口六郎次君    理事 小林  進君       遠藤 三郎君    鈴木 正文君       原田  憲君    三和 精一君       山中 貞則君    椎熊 三郎君       栗田 英男君    青野 武一君       北山 愛郎君    古屋 貞雄君       山田 長司君    今澄  勇君       前田榮之助君    小林 信一君  委員外出席者         参  考  人         (神社本庁事務         総長)     吉田  茂君         参  考  人         (日本自然保護         協会理事長)  田村  剛君         参  考  人         (国立公園審議         会会長)    下村  宏君         参  考  人         (評論家)   阿部真之助君         参  考  人         (東京教育大学         教授)     和歌森太郎君         参  考  人         (一橋大学教         授)      田上 穣治君         参  考  人         (早稲田大学教         授)      有倉 遼吉君         参  考  人         (東京大学教         授)      石井 良助君     ————————————— 十二月十八日  委員福田一君及び山田長司君辞任につき、その  補欠として遠藤三郎君及び古屋貞雄君が議長の  指名で委員に選任された。     ————————————— 本日の会議に付した事件  国有財産管理処分に関する件(富士山頂払下げ  事件)  調査経過報告書に関する件     —————————————
  2. 塚原俊郎

    塚原委員長 これより会議を開きます。  前会に引続き国有財産管理処分に関する件(富士山頂払下げ事件)につきまして調査を進めることといたします。  この際お諮りいたします。国有財産管理処分に関する件(富士山頂払下げ事件)につきましては、本日、神社本庁事務総長吉田茂君、国立公園審議会会長下村宏君、評論家阿部真之助君、日本自然保護協会会長田村剛君、東京教育大学教授和歌森太郎君、一橋大学教授田上穣治君、早稲田大学教授有倉遼吉君、東京大学教授石井良助君、以上八名の諸君を本委員会参考人として意見を聴取するに御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 塚原俊郎

    塚原委員長 御異議なきものと認めます。よつてさよう決定いたしました。  ただいまより参考人から御意見を承ることになりますが、その前に、委員長より参考人各位に申し上げます。御承知通り富士山頂払下げ事件については、国民関心きわめて深く、全国民の真に満足すべき処置が講ぜられることはきわめて有意義なことと考え、本委員会といたしましては鋭意調査を進めて参つた次第であります。本日御出席を煩わしました参考人におかれましては、腹蔵のない御意見をお述べ願い、本委員会調査に積極的な御協力を切にお願い申し上げます。  なおお話を願う時間はお一人大体十分ぐらいにいたしまして、続いて各委員よりの御質問に応じて補充的なお話をお願いいたしたいと存じます。  皆様に申し上げますが、右の方から田村参考人吉田参考人下村参考人阿部参考人でございます。  最初委員長から簡単な御質問をし、それから先ほど申し上げましたように委員諸君からの御質問に応じて楽な気持でお話を進めて行きたいと考えておりますから、さよう御了承願います。  現在富士山本宮浅間神社昭和二十二年法律第五十三号によりまして富士六合目以上の地域大蔵大臣あて譲与の申請をしておりますが、これに対し大蔵大臣が譲与すれば神社所有に帰するわけであります。他方、富士山国民感情日本国土象徴として残しておきたいという意向もあるのでありまするが、これにつきまして参考人の御意見を承りたいと存じます。  最初吉田参考人から、特に神社本庁としての立場も加味されまして、ただいまの御質問にお答え願いたいと存じます。吉田君。
  4. 吉田茂

    吉田参考人 ただいま委員長からのお尋ねに対しまして、自分の考え、並びに神社本庁としての考えを申し上げさせていただきます。  神社境内は、従前、戦争以前には、明治になりましてからずつと国有地であつたということが原則でありまして、その国有地神社永久にわたつて無償神社目的のために使用するということが建前であつたのでありまするが、終戦に伴いまして、政教分離という原則からする当時のいわゆる神道指令として伝えられております連合国軍指令、並びにその趣旨を多分に織り込んであります現行憲法の信教の自由に関する原則である第二十条、これにのつとりまして、神社もまた宗教であるという建前で、国家宗教に対して特別の支援をしあるいは財物の特別の使用を許すということが禁ぜられるということになりましたので、国有地神社境内とすることはできないということになりました。それに従つて、ただいま委員長の仰せられました法律五十三号によりまして、従前から国有境内であり、そしてそれを神社国家から永久無償で使用するというような建前にあつたものを何とか解決をせねばならぬ、境内を全部取上げられたのでは神社——寺院もやはりそういうのがあるのでありますが、それはとうていやつて行くことができなくなる、ついてはそこに何らかの調和の道を見出したいということで、従前から境内であつた部分に対してはこれは当該社寺無償で交付するという道が開けて、その間の調節をはかられておるわけであります。境内地ということの性質は、その土地所有権国家に属する、また神社に属することによつて違うわけのものではないということが私ども考えであり、神社本庁のとつておる建前であります。そこで、その法律によつて従前から——これは明治になつて新しく始まつたことではなく、ずつと古くから富士山のようにその神社境内として扱われておつたという確証のあるものについては無償交付ということが許される、但し、無償でこれを交付するからといつて普通一般土地所有、一口に言えば私有権のような意味にそれを使うべきではない、どこまでも神社目的神社境内としてふさわしく使わねばならぬ、これを営利の目的神社がかつてに処分するというようなことは許さるべきでないというような建前で、神社境内というものの性質は別に変更されたものではないというような考えを持つておるのでありまして、富士山の例についてのみならず、それは他の方面においてもやはりそういう心持でやらなければならぬ。日本では御承知通りに山岳に伴う神社信仰というものが一つ神社信仰の中の重要な部分になつておるのであります。日光二荒山における二荒神社、あるいは加賀の白山における白山神社、そのほかにもたくさんございますが、それらはみな、ただいま申したような趣意で、国家がこれを所有するということでなくて、それぞれの歴史的証明あるいは上地ということの事実等によりまして、それぞれに法律によつて定められた審査会の議を経て、すでに無償で交付せられておるのでございます。富士山のみに限つてこれを無償交付せられるということについていまだに大蔵大臣許可がおりない。審査会ではすでに審査満場一致で完了しておられるにかかわらず、いまだに主管大臣許可がおりないということはすこぶる遺憾である、かように考えているわけであります。  なお、お尋ねに応じまして、御説明、お答えを申し上げたいと存じます。概要以上の通りであります。
  5. 塚原俊郎

  6. 田村剛

    田村参考人 日本自然保護協会には会長制度がございません。理事長でして、私が理事長でございます。なお、私は国立公園協会理事長もいたしております。また厚生省国立公園審議会委員もいたしております。従いまして、それら関係方面意見等をもつけ加えましてことに私個人意見を強く打出しまして申し述べたいと存じます。  この八合目以上の土地は、まず国立公園といたしましては利用中心でございまして、この種の土地国立公園計画におきまして絶対に現状維持をはかるという特別保護地区に指定する予定で、今厚生省で進めているわけでございますが、この特別保護地区は同時に富士山利用中心でございます。その八合目以上の中でも特に頂上部分は正確にはわかりませんが、十四万坪ばかりでございまして、これは新宿御苑に比べましてはるかに小さい面積にすぎません。ことにその半分が噴火口でございまして、人の立入りのできない大きなほら穴でございます。従つて山頂部分で実質的に利用し得る面積というものは非常に小さいものでございます。ここに盛んなときには一万人あるいはそれ以上が集まることがございます。従いまして、富士箱根国立公園利用中心部である富士山頂のこの狭い面積は完全に国民に開放せられ、これが利用統制をはかると同時に、利用施設を整備しなければならない。現在は非常に雑沓し、不衛生、不潔のそしりも受けているような状態であります。これを整備することは必要でございます。しかし、一面においては、これを学術研究自然観察場所、自然を保護しながら利用統制をしなければならぬというむずかしい問題であります。これは、国の法律によりまして厳重な国立公園計画に基いて行わなければ完全に目的が達せられないと思うのでございます。  なお、一方神社の側におかれましては、いわゆる神体山としてこれを境内地に編入せられるということですが、神体山全国に多数ありまして、これは原始的な宗教でございますから、全国名山はほとんど神体山でなかつたものはございません。これは一一例をあげるといとまがございません。何らかの事情によつて、やや広く境内地の残つたもの、あるいはほとんど建物敷地にとどまるもの、さまざまでございます。それで、実際実質的に神社の用途に充てるために必要なものは、奥宮建物敷地その他特定地域、たとえば金明水銀明水というような特定地域があろうと思いますが、これらを残すということでも実際上には何ら支障はないと思うのでございます。要するに、これは一つの精神的な問題になるだろうと思います。冨士山は神体山として全体がそうである。しかし、これを縮めて八合目までにしたいという意見も立ちましよう。しかし、さらに富士山噴火口そのもの富士山神体として見る根源でございますから、噴火口だけ保存できればいいということも考えられる。要するに実質的な問題ではないと思うのでございます。  一面、現在の富士山利用の状況から申しますと、登山者のおそらく大部分、数字的には申し上げられませんが、九割くらいは、信仰に基いて登山しておる者ではございません。大自然の霊気に触れる、これは宗教とかなり縁はございますが、宗教的な信仰とは違うと思います。また、いわゆる登山、レクリエーシヨンのために、あるいは地形、地質動植物——生物は比較的まれでございますが、しかし、富士山のほかに日本中で三千七百メートルという標高を持つた山はございません。従つて植物しろうと目にはございませんが、いわゆる地衣帯植物景観富士山において最も代表的に見られる。これを永遠に保護しまして自然観察の場とするということは、富士山以外に考え得るものはないので、その意味においてきわめて重要であると思う。そういつたような利用のために、現在すでに信仰以外の利用者が大多数を占め、いわゆる国立公園目的とする利用に沿つて利用されておる。将来はいよいよその傾向が顕著になると思うのでございます。この意味におきまして、神体山としての主張にも共鳴いたし得る点はございますが、国立公園としての要望の方がはるかに大きく取上げらるべきであろうと思うのでございます。  そして富士山は、日本国民は一人一人われわれのものと考えております。国土の誇りとして、国民一人々々がわれわれの持つておる富士山だと考えております。これはあるいは宗教的な考え方よりも先に起つていたかもしれないので、神社境内地に、——許可は特にいりませんが、境内地の中に入れてもらうのだという考え富士山には登りたくないのでございます。また外人も参ります。こういう外人に対しても、これは日本国土の、ことに国立公園を代表する最も重要な国立公園中心地、これは内外人すべて遠慮なく、われわれのものとして、公開せられた土地として自由に利用したい、また利用してもらいたいと思うのでございます。従いまして、現在国立公園の中の土地、ことに集団施設地区と申しまする利用中心、そして先ほど申し上げました特別保護地区、これは将来国の財政が許しますならば、ことごとく国有に移したいのでございます。海外国立公園では、国立公園土地はすべて国有地に移管をいたしております。私有地であればこれを買収しております。そうすべきであります。日本ではそう参りませんので、せめて重要な特別保護地区集団施設地区国有に移して、十分管理の行き届くようにいたしたいと思うのでございます。  以上概要でございますが、関連してお尋ねによりお答えいたしたいと思います。
  7. 塚原俊郎

    塚原委員長 ありがとうございました。  次は国立公園審議会会長下村参考人にお願いいたしますが、先ほどの私の質問にお答え願うと同時に、国立公園審議会富士山頂国有地処分に関する意見書を政府に提出いたしておりますが、この意見書を提出するに至つた動機並びに意見書趣旨についても、あわせてお述べを願いたいと存じます。
  8. 下村宏

    下村参考人 ただいま田村博士から述べられましたから、概要は尽きておると思いますが、大体、富士山は言うまでもなく日本名山であり、今日では世界的な山になつておる。それはなぜかと言えば、第一交通の幹線に近いところにあつて、陸上からも海上からも、どこからでも日々数知れぬ大衆から仰ぎ見られる山になつておる。そのロケーシヨン、その地位が、他のヒマラヤとか、あるいは日本で例をとれば長野から飛騨方面のあのアルプス違つて、日々多数人の通る東海道の幹線に近いところにあれだけの名山がある。しかもその山は、群峰が連なつておるのではなくて、いわゆるホーンの形で、独立山の形であれだけの容貌を持つておるということが非常に魅力があるといいますか、あたかもアルプスという名前日本で使われておるように、今日では富士という名前世界的になつております。だから、イタリアに行けばナポリ富士とか、あるいはエトナ富士という言葉を外人が使つておるのであります。それほど富士山の印象は世界的になつておる。従つてまた、富士山登山する人は、昔は信仰が主であつたでしようが、今日では、私ども学生時代登つた時代から言つても、信仰でも何でもない。とにかく日本の名山の上登つてみたい、登りたいというので、これが年々歳々ふえて来て、おそらく今日では九割以上と言いますか、とにかくこの名山へ登ろう、登つてみたいということが富士山魅力であり、ある意味から言えば日本国土一つ象徴になつておると私は思う。  従つて、この山についてわれわれが日本国民として考えねばならぬことは、そうした非常な特色を「持つている、いわば日本国民の仰望しておる山に対して、将来どういう方針というか政策を立てねばならぬかということで、私は、ちようど今度のような問題が起つたことはいい機会だと思う。一方から言うと、消極的に言えば、必ずやこれからここにホテルを建てるとか、いや記念設備をするとか、いろんな問題が私は起つて来ると思うのですが、そのときに、これにふさわしいりつぱなものができればいいが、そうでなくて、今田村君の話したようなきわめて狭い場所、そこへごちやちやとこれからいろんなものが建てられて来る、それはまあ、そこへいろいろ建てるときには、認可を経るだとかどうとかいうことはあるかもしれませんけれども、とにかく私は、あの山の上をあまりきたなく乱雑にしたくないのであります。これはだれも異議がない。同時に、それなればあの山の上はほつておいていいのか。そこへとまる人もあるだろう、休む人もできるであろう、むろんあるのである。すると、これからますます多数の登山者を迎えてここへどういう設備をせねばならぬかということになると、これは一神社とか、あるいは一府県などのとうていでき得へきことでないと私は思つておる。昨今はこの富士ヘケーブルを引くという問題が起つておる。これは必ずだんだんと論議される問題だと思いますが、私はさきに東京のある新聞へもその意見は述べてあります。おそらく、海外でスイスのアルプスのユングフラウとか、各方面を旅された方はいろいろの感じをこれに持たれると思いますが、そういう問題の出たときに、一体どこまで、どうして許されるのか。また、あのきわめて風の強い、火山の岩でできているところへどう一体つて行くのか。これらの問題は、ただめいめいがやつておればそれでいい、うまく行かなければ、ペイしなければそれでいいんだといつてつておくべき問題じやない。だから、この富士山に対して一方では必ずや将来幾多設備ができて来ねばならないが、そのときは、むろん多少の監督ができるとかいうにしても、とにかく、神社なりまたある個人所有地になつておるところへ、事務所を建てたり、そこへ人をとめるのだ、いやどうじやこうじやということで、これが乱雑になつて来たときには、私は困る。  だから、結局、浅間神社がどうとか、いや静岡県がどうとか、山梨県がどうとか、そんな問題じやない。とにかく、われわれは関東、東海、東山各方面から始終富士山を見ておる。また毎日ここを通つて観賞しておるのである。だから、この山に対しては、ほかの山の例はとれない。どこに一体これに比べるものがありますか。私は日本にないと思います。他の国立公園のどこへ行つてもない。世界も私は多少はまわりましたが、これにあたるようなところは世界にもないと思います。だから、この富士山は今後ますます登山者がふえる。それから、ことに外人登山者もむろんふえて来るのでございます。また観光の客というと、ことに海外からの観光ということは、さなきだに国際収支の苦しい日本としては、日本の特殊の風土を紹介するという意味においても相当力を入れなければならぬ。かたがた、いろいろの点から見ても、——これは法律の上にもいろいろの規則ができておつて、こうなるのだ、ああなるのだということは、これは裁判所でやるべきことであつて国会がこれをどう認識するか、国民がどう感じるか、これはどうあるべきかということをわれわれは考えなければいけない。そうした意味で、私ども国立公園審議会に関係しておりますから、幾多意見皆様から聞いてもおりますけれども、長い目で日本の将来を考え富士山特異性考えるときに、一部のどこここということは私は言わない。ほかに日光の男体山だとか、いや大和の六三輪がどうだと言つても、比較にも問題にもてんでならない、かように考えておる。富士山おいでになつた方はおわかりでしようが、私は、実は今から六十年前に登つただけで、今まで登ることは久しくとだえておりました。ただ、今度こういう問題になりましてから登りました。頂上の現在の狭いところは、すでに認可されておるところでも比較的に私は大き過ぎておるから、あれだけでもやはり国有になつておる方がよいと思いますが、さらにこれを八合目以上と言うに至つては、私らはどうしても合点が行かない。これは、おいでになつた方はわかりますが、一体八合目から頂上までの間はどうなつておるか。みな焼石でありまして、むろんそこを切売りするわけでもない、間貸しするのでも何でもないでしようが、これは大体百二十何万のずいぶん広いもので、これを一体私有にしてどうするのか。この七月に私は約六十年ぶりで登りまして、動物の鏑木博士及び植物本田博士地質、各方面諸君と一緒に登つたのでありますが、六十年前の記憶をさかのぼれば、かわつておることは、それより今日に至つてどれだけ各何合目々々々というところの室の数が多くなつたとか、それの設備がどれだけ大きくなつたかということがかわつた一つの点である。もう一つは、富士山の至るところに、合宿所にしても、のぼりおりしておるときに、今まではほとんど見られなかつた外人がかなり見えたということであります。それから、一番多く関心を引いたことは、頂上にかなり宿屋というか、いろいろまがいのものが建つて来ておる。一方にはそういうものがなければならぬが、国が補助するかどうするか私は知らないが、これにふさわしいもつとりつぱなものがありたい。今のものだけではみすぼらしいと思います。これは、一神社とか一県の問題ではなくして、私は国として将来を考え相当設備がなければならぬのじやないかと思う。とにかく一年に十数万の人が登るのでありますが、そこへ行つてこれは日本人の習性ですが、至るところでいろいろなもの散らかすのであります。捨てるのであります。そういうことの清掃、これを清く払うというだけでも相当費用もかかり手数のかかる問題であると思う。いわんや、向うで気象観測とか、いろいろ問題がありますが、これからいろいろな研究とか、あるいは記念とかいう設備もしなければならぬということになりますと、一体今の残された場所だけで足りるのかどうか。  これらを考えますと、今度この問題が国会で議せられることになつたのは非常にいいときであつて日本国民はほとんどあげて富士山を知らぬことはないのだが、さてこれがどうなつて来るのだということについては、私は、将来を達観しておのおのその考えを持たなければならぬ。それがために神社が在来に比較して不利な状態になつておれば、補償をするか何かその道は立てて行く。また奥宮なりそういうものの存置はむろんこれはせなければならぬ。要するに、富士山の自然というものをこわしてはいかない。というで、そのままにほつとけない。この消極なり積極にいかにすべきか。私に言わしむれは、初めの頂上だけの問題のときでも、国立公園審議会はこれに対しては何か意見を述べる手もあつたでしよう。また、あるいは規定の解釈で、これをきめるときに大蔵省でも厚生省へこれを打合すべきはずだつたとか、いろいろ話がありますけれども、私のここの会長になつたのはそのあとでありますから、過去の経過のことは私は知りませんが、いずれにしても、さらに八合目以上まで神社が譲渡を受けたいんだということになつては、これはどうもわれわれは黙視できない。こういうことで、審議会の議場では、たしか一人ほど反対していた委員があつたようでありますが、しまいに引下げたんですが、他は満場一致言つてもいいくらいでした。大蔵省へ右様の上申をしたのです。  もう一つさかのぼつて行くと、一体こういう問題を大蔵省がきめるなら、大蔵大臣だけできめていいとかいうのが私にはまだ合点が行かない。また、その審査会がまだ現存しておれば、その会の諸君たちともよく意見を交換して、帰すべきところへ帰すべきだつたのではないか。この審査会も今はなくなつたというお話ですが、これが問題になり、また必ずや、大衆といわずすべての方面の方は、この富士山をもつと消極にも積極にも慎重にやらなければならぬということは、私はどなたも異議がないと思います。大蔵省でも一体だれが富士山実地に調べてくれたか私は知りません。みんな、見ちやおるけれども、さて登つた方はそれほどないかと思います。これはぜひ、多少とも疑念あるなら、もう少し知りたいといえば、遠慮なしにあの山へ登つて実地調査されて、そしてこれから先にどうか間違いがないよう、日本国土象徴になつておる富士山の面目をこわさないように考慮あらんことを私は切望するのです。
  9. 塚原俊郎

    塚原委員長 次に評論家阿部真之助君から御意見を承ります。
  10. 阿部真之助

    阿部参考人 私は、まつた個人的の考えなんでありますが、しかし、私はかなり長い間新聞記者をしておりまして、一般公衆の感情とか考え方というものを代表したとまでは言いませんが、そういうことは絶えず私の頭にあることでありますので、そういう一般感情と離れたことは私は申し上げないつもりなんであります。  私どもにわからないのは、なぜ富士さんのような国有財産が一神社私有にされなければならぬかという理由が一つもわかつていない。何やらあの山が御神体だとかいうことを言つておるようですが、昔未開時代には、いわゆる原始宗教とでも言いますか、山岳信仰、目ぼしい高い山はみんな御神体である、信仰の対象だつたということは存じております。ただ山ばかりじやない。その時代においては、少し大きな木でも岩でも川でも、およそ天地の万物が神として見られた時代の、そういう古い時代の信仰が現在に生き残つていたのが、日本の各所に見られる山岳信仰なんであります。そんなものをわれわれが信仰してはいかぬとか、信仰するのは古くさいとか、現代的じやないとか、そういうことを言うわけじやない。信仰する者は信仰する者でしかたがない。しかし、そういう信仰があるから、そういうことのゆえに国家の財産を提供しなければならぬということが私にはわからない。幸いにして、日本全体が神体であるというそういう宗教がなかつたから日本全体がそういう神社私有地にならなかつたということは、日本のために慶賀せざるを得ないのであります。  いま一つの理由は、昔からこの山が神社所有つた、だからよこせ、これは私はずいぶんおかしい議論だと思う。昔は、いわゆる祭政一致といいますか、あるいは国家宗教といいますか、国の政治と社寺の信仰というものが密接に結びついていたのであります。だから、神社所有だ、こう言つても、国の所有とあまり関係はなかつた。つまり、いわば祭りでもあり、それが同時にまつりごとでもあつたわけであります。その土地がどつちに帰属したところが、非常に大きく公的な性質を持つていた。だから、あんな富士山とか二荒川とか筑波山のようなばかでかい山を神社のものにしたつて、われわれはふしぎでも何でもなかつた。そういう古い祭政一致時代の観念を今の民法の私有所有という、そういう観念にそのまま移し植えて、昔神社所有地であつたから今もそれは神社所有にしなければならぬということは、私たちにはわからぬ。大体申しますと、法律何号か知りませんが、昔持つていたからそのまま、古い祭政一致時代のその観念で、そのままの土地をそのまま元の社寺に返してやるという、この建前法律がそもそも間違つている。われわれがこれを智なかつたことは非常に愚かしいことだつたんですが、返すについては、現在の今のわれわれの考え方で、必要であるかどうか、国のためにどうであるかということ、そこを根本の考えに置いて返すべきものは返してやる。昔持つていたからそのまま返すという、そこに私は大きなあやまちがあつたように思うのであります。  それから、大蔵省の中かどうか知りませんが、国有財産の何とか審査会でも満場一致できまつたからと言いますが、この審査会の組織の内容を見てみますと、この審査会委員の方は、二、三の政府の役人と、その大部分神社の神職である人、寺院の住職もしくは寺院関係、神社関係の人たちによつて組織された、そういう審査会であります。この審査会に元の神社のこの土地を返してやつたらいいか悪いかということを相談すれば、これは、一も二もなく、それはごもつともですと言うにきまつている。かくしてきめられて、二荒山が元へもどる、あらゆる大きな山が全部神社所有地になるという、こんなばかげたことはないと思う。この前例に富士山も従えと言うに至つては、実に何たるかを解することはできない。こういう悪例には従うことはできない。むしろこの悪例を元にもどして、いま一ぺん考え直してもらいたいと思うくらいのものです。しかし、これは今問題になつておりません。この問題は富士山をどうするかという問題ですが、この問題の場合において、かような悪い例によつて富士山をまた浅間神社に帰属するということは、これは最も不適当きわまる帰属だろうと思います。  ただいまも国立公園関係の皆さんからお話がありましたが、神社一つ所有地になれば、今後どういうふうなでたらめの措置をするかわからない。神社性質上しないと言つておりますが、それはしてもしようがない。した例もある。現に浅草の観音様の境内には、どうでしよう、淫売なんかがぞろぞろしておりますね。ああいうことをしても、浅草の観音様の所有地になつてしまえば、あの淫売はどうすることもできやしない。そういうことで、一旦現在の民法的な私有地に帰属したからには、将来不道徳な人間があつて、ああいう富士山のようなりつぱな山を汚すような、そういうふうなことをした人間があつた場合に、これを取除こうということはきわめてむずかしい。ずうずうしいやつがおつて、近ごろは人の地面でも家を建ててすわり込む時代なんですからね。いわんや、一旦自分の土地になつたら何を始めるかわからない。私は露骨に言うけれども、近ごろの神社の神職という人にはあまり信用を持たぬ。りつぱな人もありましようが、常に信用ができるとは、道徳的には言えない問題だろうと思う。誓約書を出したらと言うけれども、その誓約書は法律的に一体どういう効果がありますか。そんな誓約書のごときは、未来永劫に神職のやり方を規制するものじやないだろう。  こういうふうなことをいろいろ考えてみますと、今せつかく富士山というものは国有地であつて国で処分できるようになつておるのを、わざわざ不自由になるように浅間神社というような一つ神社に帰属させるということは、はなはだ私は当を得ないものだろう、かように存じておるわけなんであります。
  11. 塚原俊郎

    塚原委員長 遅参された委員の方に申し上げますが、本日お見えになつております参考人をいま一度申し上げます。右から神社本庁事務総長吉田茂君、その次が日本自然保護協会理事長田村剛君、国立公園審議会会長下村広君、ただいまお話しくだすつた方は評論家阿部真之助君、この四名でございます。  なお、田村参考人下村参考人は、午後から所用がありまして、早くお帰りにならなければならないというお話ですが、時間の許す限りいていただこう、十二時半ごろまではおいでくださることになつておりますから、何でしたらもつといていただきたいとも考えておりますが、どうぞ、そういうことを考えていただいて、御質問は簡潔にお願いいたしたいと考えております。
  12. 古屋貞雄

    古屋(貞)委員 吉田参考人お尋ねいたしたいと思います。  本件については、昭和二十二年法律第五十三号の第一条とその施行令の第二条との関係の解釈をどうするか、それから、現実の富士山の姿をいかに認定をしてこの法律に適用するかということできまると思うのですが、ただいまの吉田参考人のお説の中には、私の承り方が相違しておるかも存じませんが、こういう規定がある以上は、そうした条件にあてはまれば、当然に払い下げるべきものである、また従来もそうした払下げが行われておる、従つて払い下げるべきものであるというふうに私は承つておるのであります。そこで、承りたいのは、富士山の特殊性に対して十分の御考慮を配されての御意思の決定であるかどうか。それから、施行令の第二条の制限規定でございまするが、公益上の必要があるかどうかという点に御考慮を配されての御意見であるか。その点を承りたいと思います。
  13. 吉田茂

    吉田参考人 富士山の特殊性ということについてのお尋ねでございますが、先刻来下村田村両博士のお話の中にありましたような意味の規制というものは、むろん考えられておつたと思うのであります。私は審査会委員でもありませんし、また当時神社本庁の事務総長でもなかつたのでありますから、そういうことが考えられたかいなかということについての確実な証言をする資格はないかもしりませんが、この問題については当時関心を深く持つておりましたから、側面的には経過を聞き及んでおつたのであります。さような意味で、両氏からお話のありました特殊性ということについては、富士山神社境内として無償交付の範囲の中に入るということと矛盾はしないと考えておるのであります。国立公園法というものが現に施行せられておりますし、国立公園法の希望する、またその規定による諸事項というものは富士山でも行われてしかるべきである、また、今後その方面の取締りであるとか、指導、監督が十分でないということであれば、国立公園法というものがもつと適切に改められて、それが有力に施行せられるように努めれば、それでよろしいのであつて国立公園神社境内たることとは矛盾がないようには十分いたし得ると考えておるのであります。それから、国立公園ばかりでなく、いろいろな科学的な調査研究のために必要な施設、現に気象観測所がございますが、そういうものを福祉の境内であるがために建ててはならないというようなことではないのであります。これは元国営であつた時分からそういうふうにいたして参つておるのであります。従つて土地所有権国有であるということと神社有であるということとは、境内たる性質上、そこの運営の方法の上においては違いはないので、神社私有地になつたらというふうなお話もだんだん出たのでありますが、私有地になつたからかつて神社がそれを処分してもよいのだ、営利の目的あるいは風景を害するような、ことにあるいは風俗を害するようなことにかつてにやつてもいいのだというような、そういうふうになるかもわからないという阿部さんの御心配はごもつともであろうと思うのでありますが、そういうふうにならぬように、あるいは単に神社が風俗に気をつけるということばかりじやなしに、他の国立公園法なり——あそこは国立公園法によつて名勝地に指定になつているのでありますが、名勝地保存というような意味での法制、あるいは将来自然科学の貴重な材料を保護するための最も精密な法制ができて、それが強力に執行せられるということが富士山の上でも必要ではないか。そういうことはともにあわせて行われてしかるべきである。神社境内であるから神社は何でもそれをかつてに処分してよろしいというようなことは決してあり得ないのであります。これは、もと国有であつたときも、これから払い下げられて神社有になりましても、同じ心持でなければならぬ。私の個人考えを率直に申し上げさしてもらえば、それは国有であつて神社境内であればいい。国有神社境内、それでさしつかえないのです。しかし、今の憲法のもとにおきましては、国有神社境内というものはあり得ないということになつておるのであります。国有神社境内にしておきますということでありまするなれば、それは現行の憲法下にはあり得ないので、従つて、そこをどう調整するかということで法律五十三号というものによつて調節をせられたのであります。これは国会でおきめになつたことでございますので、大蔵省のある人が、吉田はこの五十三号というものは不都合な法律考えるかどうかというお尋ねを私にされたことがありまするが、それはきまつたことだから服従せねばならぬ。その法律をどうしようと自分の意見を言つたところでしかたがないので、その法律のもとにおいて神社境内としても、また名勝地あるいは国立公園地帯といろいろ関係があるであろうけれども、それらがこの法律ができたことによつて煩わされぬように運営するということは、関係者一同の務めでなければならぬ。かようなことで、明治神宮の外苑等も、これは無償ではなくて有償払下げになつておるということでありますが、ごらんの通り明治神宮の外苑は明治神宮の境内でありまするけれども、ああいう日本のスポーツのために多大の貢献をしておる。少しもそれを妨げることはないというふうに運営せられておるのであります。阿部先生から浅草の本願寺の境内のことをお話されましたけれども、それは国有であるから寺有であるからということで区別さるべきではないのであります。そういうことのできぬようにめいめいで気をつけなければならぬし、めいめいで気をつけられぬならば、それはその方面につきましての適当な法制なり現実の監督というものがおのずから必要になつて来ると思うのでありまして、それを強力にやる力がないとすれば——それは国会に力がないのでありましても、あるいはお宮に力がないのでありましても、あるいはお寺に力がないのでありましても、これははなはだ残念なことでありまして、さようにして、全体が調和のあるような、そうしてめいめいそれぞれの立場を尊重しての運営というものが期待せられるようにならなくちやならぬということは、今日単に境内の問題ばかりではなくていろいろな方面で皆さんも痛感しておられるところではないかと思うのであります。  公益上の必要ということにつきましては、先ほど申し上げました気象観測上のことでありますとか、あるいは国立公園法のことでありますとか、あるいはこれからでき得べき宿泊の設備あるいは交通設備等、いろいろ考えねばならぬ点もたくさんあると思つておりますが、これは神社有になつたからといつて、そういうことを無視して、神社の私利私益をはかるということに運営せられるべきではない。また憲法の条章に基いてあのような規定ができましたけれども、そうような規定ができましたことを幸いにして、そうして普通の民有地と同じような考え神社を経営すべきでもないし、それをやろうとすることについては、富士山なら富士山という大切な場所であることに基きまして、国家においても、あるいは地方公共団体におきましても、あるいは一般公衆におきましても、そういう間違いの起らぬように努めたいということは、これはおのずから他の問題であつて所有権がどつちに属するということの問題ではない、こう考えております。  大体以上のような考えであります。
  14. 古屋貞雄

    古屋(貞)委員 ただいまの御説明を承りますと、公益上必要だということをお認めになられておるようだが、憲法と法律があるからやらなければならないというお考えのようでございます。私ども未熟でございますが、二十二年法律第五十三号の第一条の条文は、社寺等に譲与することができるということでございまして、やつてもやらなくてもいいということだと思うんです。やらなければならぬということの御解釈のようなあなたの御意見に承つたのでありますが、いかがでございますか。やつてもやらなくてもいいのです。そこでこういうような一つ宗教活動に必要だという条件がついている。そして、さような条件がついておつても、必ず払い下げなければならないという意味の条文ではないと私は信じます。だから、ただいまのお説の法律のいかんではなく、法律の運用のいかんです。この法律の法意並びに立法の精神は、払い下げられなくてもいいということであつて、もしも払い下げなければならないというのならば、はつきり払い下げなければならないと書いてあるはずです。この第一条の三つの条件が具備した場合には絶対に払い下げなければならないというのならば、払い下げなければならないということになりますが、これは譲渡できるということでありますから、どうも今の御説明では私は納得が行かない。第二条の方は制限であります。必要なければこれは払い下げなくてもいいし、譲与しなくてもいい、こういうことでございます。今のお説にもありましたように、公益上必要だということは、富士山は学術的にもそうでありましようし、ただいま他の参考人からもるる御説明がございましたように、国民富士であり、世界富士であり、国民信仰並びに信念といたしまして日本富士であるということを考えておられますし、国民の気持、自由に使用する利益は、これを私有にいたしますと侵され蹂躙されるおそれがあるということでございまして、また、侵した場合には他の公園法なりいろいろの法律で制限はされておりますけれども、これは単なる制限であつて、阿部先生がおつしやつたように、いろいろにこれを利用されまして、国民感情を害するように利用され、国民考えているような富士山でない富士山にされてもしかたがないような危険をあえて冒してまでも、所有権を申請されております一神社に与えなければならぬかどうか、こういうことについての強い御意見を承りたいと思います。現在ですら積極的に十数年間あるいは何十年間か宗教活動をなされて参つたのでございますから、この所有権をもらわなければならない、払下げを受けなければならないという何か特別な宗教活動上に必要な理由、さような点がございましたら、もう少し納得の行くような御説明が願えればけつこうだと思います。
  15. 吉田茂

    吉田参考人 もとより、国家はそういう元境内地であつたものならば絶対に払い下げなければならないという条文でないことはお説の通りであります。但し、それがその神社の元の境内地であつたということの挙証の十分なものには国家は払い下げ得るということを公にされております。そのために、慎重な手続をとつて審査会の議を経てそういう手続にすることができるのであります。法律上の厳正な論をもつてすれば、その払い下げることの権限は法律では大蔵大臣に帰属しておるのでありまして、大蔵大臣がその権限を行使するについては、審査会で慎重に議を練つて、そうして処分を決定するということで、ただいまその段階におるわけでありまして、ぜひ払い下げねばいけないと法律に書いてあるならば、大蔵大臣ももうとうに払い下げておるはずでありますけれども、いまだに払下げを受けておらぬところを見れば、大蔵大臣は払い下げ得るという権限をまだ行使しておられないという段階にあることは、これはお説の通りでありますが、法律の一方の趣旨を言いますと、そういうものは神社なり寺院なりに払い下げることが適当であると考えてかような規定ができておるという法律の趣意は十分に察知し得ると思うのであります。公益上の理由で払い下げないという意味は、お話にありましたように、たとえば神社、寺院に払い下げればいろいろな乱雑なことが起つてしかたがなかろうというような意味ではなくて、顕著な公益上の障害を感じたときに、特に例外として、払い下げるという措置をしないでおくことのできる余地というものが法律に示されておると思うのであります。富士山の場合におきましてはそういう心配はないもの、かように私ども考える次第であります。
  16. 塚原俊郎

    塚原委員長 古屋君並びに他の委員諸君に申し上げますが、田村参考人下村参考人は時間の制約がございますので、できましたならばこの両参考人に対する御質疑を最初行つていただきたいと存じます。
  17. 古屋貞雄

    古屋(貞)委員 いま一点で終ります。今の社寺境内地処分中央審査会の御答申のことなのでございますが、最初昨年のたしか二月初旬に行われたこの審査会の答申は、一部の神社の必要な敷地はできるだけは払い下げてもよいが、その他はいけないという答申が行われたのであります。それから、その後数箇月を経まして後の第二の答申は、今度は八合目以上の全体の土地を払い下げるべきだという答申を出しておる。同じ条件、同じ状況に置かれての答申が二つ出て参りました。この点、私どもどうも納得が行かないのでございます。ただいまの参考人の御意見のように、答申があつたからと申しまして、この答申は、先刻阿部参考人がおつしやられたように、私どもどうも納得が行かない。利害関係の強い人あるいは役所の方だけの人たちによつて行われ、しかもその二回の答申案が相反しておる。かような点に本件が本委員会あたりのお世話にならなければならぬ原因がつくられたものであると私は思う。でありますから、答申そのものが絶対的なものではないと私どもつておるのでございますが、その点に対する御意見を承れればけつこうです。
  18. 吉田茂

    吉田参考人 私は、ここでもただの参考人でありまして、審査会の当事者ではないのでありますから、審査会がこうであつたろうということを私から申し上げることは適当ではないかもわかりませんが、私の関知する限りでは、前の答申はこの法律の趣意から考えて不当であるという考えのもとに、これに対して訴願が提出され、詳細審査するということになつて、そうしてさらに審議を重ねました上で、ただいま出ておる答申ということになつた、訴願の道が許されておりますから、その訴願に基いて審議をし直した、こういうことであろうと思うのであります。従つて、前の答申のときの委員諸君もあとの答申のときの委員諸君も同じ委員でありまして、別に顔ぶれをかえてどうしたということではないようであります。
  19. 古屋貞雄

    古屋(貞)委員 今の答申をいたしますときに、現地調査が行われていないということは顕著な事実であります。さような答申でありますから私どもも納得が行かない。  それはそれといたしまして、もう一点でございますが、境内地として参考人のお考えになつておる境内地と称するところは、八合目以上全体と御解釈になつておるのか、それとも奥宮その他銀明水金明水、お鉢まわりの付近だけを境内地とお考えになつておるのか、その点だけ最後に御意見を承りたいと思います。
  20. 吉田茂

    吉田参考人 八合目以上を境内地、かように考えております。
  21. 小林進

    小林(進)委員 下村田村両先生はお帰りをお急ぎのようでございますから、下村先生に一言お尋ねをいたしたいと思うのでありますが、先ほどのお話で、あくまで富士国有にしておいて、国家の計画でこれをりつぱにすべきであるという強いお言葉があつたのであります。実は私も、この委員会を開催するに際しまして、当委員会を代表して八月の十四日、富士山頂上をきわめて、九死に一生を得て帰つて来たのであります。八月十四日は、御承知のように京都、和歌山に大台風のあつた第十三号台風の日でございますから、富士山頂はまさに三十メートルの暴風であつたのでありまして、それはもう名実ともに九死に一生を得るような大遭難をいたしたのでありますが、その頂上をきわめて、今おつしやつたように非常にごみが多過ぎる、紙くず類からあきびんから、あんまりきたないので驚いたのであります。それから、今も言われたように、八合目、九合目、十合目の山小屋が非常に乱雑できたないのでありまして、遠くで見る秀麗な富士と、登つて見るあの乱雑な状態とそまつな建物等に驚いて来たわけなのでありますが、ただ、富士山をきれいに保つ意味においては、一方には国有にするとさらに将来危険であるという思想もあるのであります。時の政争の具に供せられて、国有の名においてむしろそれを時の権力者が私する危険がある、現にケーブルを引こうじやないかというような運動があるが、それも時の権力と結んだ独占資本家が、営利目的として、そして国家権力を背景としてケーブルの施設などというものを考えておるのであつて、むしろ神社というような聖なる行事に携わるものの私有財産にしておいてこそ安全なのである、時の権力と結んで利益の目的にせられる危険があるから、国有にしておくことがさらに危険であるという、こういうような考え方があるのでございますが、これに対する先生の御見解を承つておきたいと思います。
  22. 下村宏

    下村参考人 国有にした方が危険がある、やはり浅間神社に一任した方が危険がないのだ、あるいは各府県にした方が危険かないのだ、——そうすると、だんだん機関が大きくなつて来たところほど危険があるとすると、国会が一番危険がある、だからそれより県会の方が信頼できるということになるかというと、私はやはり国会の方がいい、かように思うのであります。
  23. 小林進

    小林(進)委員 大分国会議員に対する信頼の失われているときに、そういう下村先生の国会の信頼の言葉を拝承して、私ども非常に感謝にたえませんが、そういうことを言う人もあるということをお伝えしておいたのであります。  次にお伺いしたいことは、こういう国立公園地はやはり海外においても原則として全部政府が買い上げて国有地にしておる、これは田村先生でございましようか、そちら側の御説明で、日本にはまだ国立公園私有地が相当つて、これは完全な姿ではないが、予算その他の面でやむを得ないというお話が出たのでありますが、ただ、これは富士山だけではないのでございまして、先ほども言われた神体山宗教といいますか原始宗教の残滓が今でも残つてつて、そこへこういう五十三号などというような法律が出て、そのために、富士山以外の土地でも、むしろ国有地にすべきであるにもかかわらず、反対に私有地として払い下げられておる傾向が多かつた。この点に対して、公園は国有地にすべきであるというふうな信念的な御意見を持つておられます両先生が、それに対して今日まで積極的な防止策というか呼びかけをおやりになつたという痕跡がないのでありまして、何か傍観をしておられたような形でありますが、この点、どれくらいおやりになつたか、それをひとつお聞きをしておきたいと思うのであります。
  24. 田村剛

    田村参考人 国立公園以外の他の公園については、厚生行政もまだ十分伸びておりません。従いまして、われわれの耳にも入る機会がなかつたような実情でございます。現にこの富士山頂の問題についても、昭和六年、厚生省——当時は内務省が国立公園の所管でありましたが、内務省と大蔵省の間にとりきめがございまして、それによれば、国立公園区域内の普通財産である土地大蔵省が所管しておるものを処分する場合には、あらかじめ厚生省と協議をしなければならぬというとりきめがあるのであります。これを大蔵省当局が御存じなかつたらしい。私、この問題に関連して、大蔵省の事務当局のこれを担当しておられるある事務官の方に、これを御存じですかといつてお尋ねしましたら、実は知らなかつたと言う。そういう状態でございまして、このりつぱなとりきめがあるのを大蔵省は無視して本件を進めておられた。なお、国立公園法施行令第十四条第三号によれば、国立公園区域内の普通財産は原則として厚生大臣の管理に移すこととなつておるのでございますが、これについても十分両省の間に折衝のあつたことを実は聞かなかつたのでございます。かような状態でございまして、遺憾ながら現在の政府当局間の連絡というものが不徹底で、私どもはこの点について非常に遺憾に考えております。
  25. 小林進

    小林(進)委員 私の質問は終ります。
  26. 遠藤三郎

    遠藤委員 私は、吉田参考人のほかのお三方の御意見を伺つておりまして、あの富士山世界名山であり、しかもその景観を保存する、こういうことに対してはまつたく同感であります。ただ、どうも私のふに落ちないのは、神社境内地になるとその目的に沿わなくなるのじやないか、こういう御意見のようでありますけれども吉田参考人の御意見を伺つておりますと、神社境内地になろうがなるまいが同じだ、国有地として保存しておく場合と神社境内地として保存しておく場合と、その効果は同じだという意見を述べておられたようです。私どもの常識と申しますか経験では、むしろ神社境内地になつておりますと、どこに行きましても非常にきれいに掃除をして管理が行き届いている。単なる国有地では非常によごれるのが通例であります。これは、私は決して牽強附会の議論をしようなんという考えでも何でもないのであります。神社境内地こそほんとうに神聖に神社の責任者がそこを守つて行くのが今までの常識だと思う。そこで、神社境内地になると非常によごれるということを心配しておられるが、吉田参考人の御意見と他のお三方の御意見とは、景観を保存しなければならぬという点についてはまつたく一致しておる。ただ、一方は、神社境内地になるとその景観が破れてしまう、他方は、境内地であつて国有であつても同じだという点の相違のように私は伺つたのであります。そこで、まず最初吉田参考人にお伺いしたいのであります、境内地になつた場合と国有地のまま保存した場合と、そういう景観を維持し保存をするという点については同じだという点について、もう一度、神社方面からの意見もあつたということでありますが、はつきり御意見を伺いたい。
  27. 吉田茂

    吉田参考人 私の申し上げ方が足りなかつたかと思いますが、その点につきましては、私の申したのは、神社境内であれば国有であつて神社有であつてもそれはかまわぬのじやないか、しかしそういうことは憲法上できないと申し上げたのであります。国有であつて神社有であつても同じだというふうに申し上げたのではないのであります。以前は神社境内地国有地であつたのであります。それが今度国有地神社境内であつてはならぬということになつた。それはよごれるよごれないというような心配は、それだけを比べれば、ただの国有地である方がよごれ方が大きいかと思います。但し、そこには、やはり大切な景観であり、日本としての大事な風景であり、あるいは学問上も大事なことであるというので、その方面からも厳重に規定をせられることはあり得るのでありますから、どうしても富士はよごしてはならぬということは皆さんも私どもも同感でありますが、それが国有地であつて境内であるということは今の憲法の建前上できぬためにこういうことができておる、こういうことを申し上げたのであります。
  28. 遠藤三郎

    遠藤委員 そこで、私は田村先生にお伺いしたいのであります。私どもも、富士山のごとき世界名山に対して、この景観を保存するということについてはまつたく同感でありますが、かかる公共的な必要に立つての保存については、一般の国立公園等においてとられている措置と同じように、そういう別個の公共的な制限をする法制を立てて行けば足りるのだ——国立公園をすべて国有にするという建前の国においてはこれはまた問題は別でありますけれども日本のように、国立公園にそれぞれ個人所有権を認めておる、しかもその景観を維持するために必要なる制限をその個人所有権に与えて行く、こういう建前をとつておりますが、そういう建前をとつて行つても、どうしても救われないものが出て来るのかどうか、そういうお考えであるかどうか、その点をはつきりお伺いしたいのであります。
  29. 田村剛

    田村参考人 要するに、国立公園土地の管理を徹底させる手段として、その土地を国が直接持つことが理想的であることは、もう議論の余地はなかろうと思うのであります。その見地から、これを一神社に払い下げることは好ましくない。しかし、国有地であれば保護統制が十分行き届くかどうかということは、種々の財政上の問題等、広範囲にわたる事情によつて支配されますので、現在が不徹底であるから将来期待できないということは考えたくないのであります。これは、将来は十分な維持管理ができるような行政を伸ばして行かねばならぬ、こう思つております。要するに、この富士山頂の帰属の問題は、土地をどちらに持たせた方が管理がよく行き届くかというような問題はむしろ枝葉末節的な問題で、この富士山をだれが所有するか、一神社所有するのがいいか、あるいは国家がこれを所有し、国民がだれ一人も遠慮なく、これはわれわれの山だと内外にはつきり言い得るようなものに持つて行きたいという感情の問題で、実際具体的な維持管理がどうとか施設がどうとかいうようなのはむしろ第二次的な問題であると私は考えております。
  30. 長谷川峻

    ○長谷川(峻)委員 この国会富士山頂の払下げが調査事項として出て以来、実は私たちずつと実地踏査などをしまして研究しているのですが、問題は二つにわかれているのです。一つは、政教分離建前から従来の神社にこれを払い下げるという法律的なものがきめられたものですから、一万三千件ぐらい中央審査会の方で今までそれぞれ処分をして来ておつた、ところが、富士に関する限りは、中央審査会においては最初富士山頂の四万九千坪を認め、それに対して、浅間神社の方から、従来の建前からしてこれは不合理であるということから訴願をして、百二十万坪を審査会が決定して、それを大蔵大臣がまだ認定しない。ところが、一面、富士山国民の山であるし、日本国の象徴でもあるから、りつばなものにして保存したいということは、国会議員並びに全国民一様の考えだろうと思うのであります。  そこで、私自身といたしまして考えておりますことは、具体的に一体どう持つてつたらいいか。法律建前からいたしますと、吉田参考人の言われた通り、従来の伝統なり憲法の建前からいたしまして、どうしてもやらなければならぬと言う。ほかの参考人——国立公園関係の参考人、あるいはきのうは厚生省の公園部長なども来てくれたのでありますが、その方々から言いますと、神社に払い下げて悪くなつては困るから、国立公園としてもらいたいという理想論。この二つになつておるわけであります。ところが、現実的にこれを処理する場合には、やはりどうしても法律建前をとらなければならない。たとえば、ここに百二十万坪がもし大蔵大臣から却下されたとしますと、きのう神社の宮司は、国の法律上の権利によつて国を相手にしてでも行政訴訟をするというようなところまで来ているのでありまして、これではますますもつて国と富士山に対する関係が不明朗になつて国民に疑惑を招かせるおそれがあるのであります。そこのところに大蔵大臣が裁定を下せないゆえんもあるだろうと思うのでありますが、何とか両方を生かして行くような方法がありはせぬかということについて、吉田参考人、あるいはまた評論家の阿部さん、あるいはまた下村さんからお伺いしたいと思うのであります。
  31. 吉田茂

    吉田参考人 私の考えとしては、先ほども申し述べました通りに、ただいまの法制のもとでは、神社に払い下げるよりほかに神社境内として保存する道がないのでありまして、それを払い下げられても国民感情に反するような取扱いをする心配はまずまずないと私は考えるのであります。その点は、これほど皆さん御心配くだすつて、御審議にあずかりまして、参考人の先生方からも大切なことをるるお述べになつておりますが、そういう御趣意は十分に尊重して参らねばならぬ道義的な責任を十分に帯びておると思いまするし、それに反するようなことでありましたならば、それはまた他の方面と申しますか、先ほど申しましたように、国立公園法なり、あるいは名所旧蹟に関する法律なり、あるいはそのほか日本の自然保存、天然記念物に関する法律なり、そういうものの運用、あるいはその方の規定にございませんければ、皆さんのお力によつて強化していただいて、そういう不都合の起らぬようにして参る道が十分あり得ると思うのであります。法第五十三号というのは占領下にできた法律でありまして、憲法も同様でありまするが、そこに国有地は絶対に宗教の用に供してはならぬというような規定があるので、ああいう特別の立法が講ぜられたと思うのでありまして、それをするについては、主として当時の占領軍、当時の大蔵省あるいは厚生省とお打合せが十分でなかつたということもあるいはあつたかと思うのでありますが、しかし、双方の目的——神社境内としてやつて行こうという目的と、それから、いまひとつ、富士山の風景あるいはそこにあるいろんな貴重な資料あるいはそこにありまする気象観測等についての特別の目的とは十分に調和させて行かなければならぬことなのでありまして、これは、かように問題が紛糾したということ自体が私は非常に遺憾であつて、すらすらと行つておるならば、何もそういうことについての心配はなくて、現に、神社有であつた国有であつたか、法律もよく知らないで登つてつただろうと思います。そこのところにひつばり合いが始まつて、南側と北側で意見が違つたり、ごたごたしたり、先ほどちよつとお話がありましたように、ケーブルの問題で紛糾しておるというお話で、そういうことはすべて、国有である、あるいは神社有であるということとは直接には関係はないのだと思うのであります。もし国有になればケーブルは楽にかけられるようになると思うのは、それは変な考え方じやないか。皆さんとしては、まずまず今ありまする憲法並びにそれに基いてできました法律第五十三号を運営するにつきましてよろしいように御指導を願うということが大切である、かように考えます。
  32. 阿部真之助

    阿部参考人 ただいまの御質問にお答えしますが、私の言う趣旨は、前にもどなたか御質問があつたようですが、富士山の景観がどうだとか、保存がどうだとかいうことは、これはもとより大切なのでありますが、それより先の問題なのです。大体、国有のものをなぜ神社境内にしてやらなければならぬかという積極的な理由がちつとも明らかにされていないじやないですか。憲法とか法律とか言いますが、憲法は、そういうふうな宗教のために国家の財産をやらなければならぬという、そういうことを言つておるのじやないのです。これはおのずから別個の問題なのです。今国有になつておるものをなぜ境内にしなければならぬかという理由はどこにも説明されていやしないじやないですか。それを言つておるのです。これは、日本の民主主義の精神を立て通すために、昔の祭政一致のようなそういつた気持にもどさないためにも非常に大切なことだろうと思うのです。ただ富士山がどつちにしたら景観がよくなるとか、神社境内は非常に掃除が行き届くとか、一人の神主がほうきではくような、そんな小さな問題じやないのです。この問題の奥にある問題は、日本の民主主義の精神をうまくほんとうに立て通して行くかどうかという、そこにつながつておるので、変に、昔風な、ほんとうに原始的なそういうふうな信仰のために、日本が持つておるこの百何十万坪という、しかもこれはただの土地でなしに、日本人が古来愛撫してやまなかつたこの土地を、なぜ神社私有地にしなければならぬかという、この根本の問題を私は言つておるわけなのです。
  33. 下村宏

    下村参考人 私はついでに申し上げますが、先ほど清掃の問題をどうこう言つておりましたが、国がやつたら清掃をよくやるとか、神社がやるとかやらぬとかいう問題ではなくて、私が少くともあの問題を出したゆえんは、前に比べて、今度登つてみると非常に登山客が多くなつて来ておる。これからますます非常な勢いで多くなつて来るときに、これに応じてあそこに自然休憩所とかホテルとかいろいろな設備がこれからできて来ようと思う。そうすると、ますますあの頂上の狭いところが一層混雑する。だから、これを整理したりまとめたりするということは、私に言わしむれば、一神社でやるのは骨が折れる。  それから、今のあとのお話は、しごく私もその点は御同感で、私はかように考えております。今言うように、大蔵大臣が、どうもきまつたものをかえるわけに行かぬとかどうとか、これはむろん議決機関でもなく、それから、しかもこの委員なんかも、先ほど阿部君が言つたように、ちようど会議員あるいは府県会議員を選ぶような形でできておればいいのですが、大体神社や寺院に関係のある人ばかりでできている審査会ですから、私は、やはりこれがこういう問題の起つて来た禍根だと思う。これは私確かめたわけではありませんが、満場一致できまつた言つておりますが、非常な論戦があつたと聞いておるのであります。また、あるべきであります。いくら神社とお寺の人たちが委員であつても、富士山の山頂について初めそういうように決定になつたことはわかりますが、とにかく八合目から上のあの百二十万坪にあたるところをまた神社がということは、ちよつと常識でだれが考えてもおかしいのだから、それがさすがの審査会でも議論があつたゆえんで、かなり論戦されたというふうに私は聞いておる。またそれがあたりまえだと思う。だから、だれが大蔵大臣になつてつても、諮問会できまつた通りやればやりいいが、ああいう問題になつて来て、多少みんなの議論があつた、また常識から言つても問題だという場合には、だれが大蔵大臣になつてもきめにくいことは想像ができる。  それから、今言う、あとで裁判ざたになるとかいうことは、私がかりに当局におつたとしたならば、却下して、裁判ざたになろうが、なつていいんだ。それから、すべて近ごろの裁判ざたは二年でも三年でも四年でもかかるのですから、そういう事件が起つたら、その間に、そこに国会というものがあつて国会は裁判するんじやないが、裁判するその準拠となるべき法律をつくり、またこれを改廃することができる。それが国会の力なんです。だから、これを見ておつて、そういう事件の起るいろいろな原因があつたら、法の力でうまく行くように、法律を改廃するなり、新たにつくるなり、そこに国会という立法機関があるゆえんだと思う。そういうときに、立法するのに遠慮することはいらないと思う。  それから、ほかの男体がどうとか、ほかの例が始終よく出ますが、富士山はほかの山と違うと思う。これだけは、今言うロケーシヨンにおいても、また一般国民の感じから言つても違うし、また、富士山をこうしたからほかのものをこれに準ずるというようなことは毛頭考えておらぬ。まただれもそうは思わない。ただ、富士山だけはだれの目にもつきやすいところにあつて、みんなが関心を持つているのだから、国会はむろんのこと、国民全体がこの問題では関心が深かるべきであり、またこれに平等に批判を下し得るのであります。ただ、富士山に対して私の懸念するのは、先ほども申しました通りに、積極的にあそこにある施設をするにしても、また消極的にこういうことをしてはいかぬとかいうことを定めるためにも、私は、一神社や一府県よりは国に渡した方がいい。なるべく慎重に、間違いのないようにしたい。これは、富士山だけは世界の山とまでに思つておるので、他の山に比べてどうとか、あるいは山梨県はどうとか、静岡県はどうとか、私はそういう問題を超越したものであると思う。
  34. 塚原俊郎

    塚原委員長 下村さんと田村さんはお急ぎの用事がございますそうですから、どなたか御質問する方がございましたら、先にお願いいたします。
  35. 鈴木正文

    ○鈴木(正)委員 私は、今論議された点に関連して、下村先生、阿部先生のお言葉を引用しながらお聞きします。今の下村さん及び阿部さんの説明を聞いておりますと、きわめて根本的な点に入つて来ておるのでありまして、この法律の適用の考え方につきまして、国家が持つ、そうして、将来にわたつての施設、将来あるいはこういうことをしないような監督、現在の管理、そういつたものも含め、それから阿部さんは、同時に国民としての広い意味の感情、感じというふうな二つの点をあげまして、そうして国有にすべきものである、こういう議論を言つておるのでありますが、きのうからこの法律論が出ておりますけれども、公益を阻害する、あるいは公益上不利だというものについてはこれを譲渡から除外するという一点が法律の末端にあるのでありまして、結局最後にはこの問題に帰つて来ると思うのであります。簡単にお二方にお伺いしておきますが、今までお述べになりました、国家が管理すべし、国有にすべしという、その基礎になつておられるところの議論の底には、これは広い意味の公益の問題である、この法律の中の末端にも言つておるように公益というものを指しておると私は考えるのであります。そうして、そういう観点から国有にすへしという結論を出しておられると思いますけれども、その点について簡単にお二方の御意見をお伺いしたいと思います。
  36. 阿部真之助

    阿部参考人 公益という言葉は法理的にはどういうふうに解釈されておるか知りませんが、主として物的の利益のように解釈されて来たと思うのであります。しかしながら、もつと解釈を広くして、国民感情というもの、もしくは国民の物的な関係を離れたインテレストとでも言いますか、そういうふうなものはすべて、踏み破られるとこれは公益の問題にすぐつながつて来るだろうと私は思う。まあ私の考えでは、国民のそういう感情を押しつぶすような法律がもしあるとすればよくない。またそれを押しつぶすような政治があつたら、それは悪政治なので、それが決して公益と関連がないと言えるというものではないと思うのであります。すべてこういうものをひつくるめたものが公益だ、かように解釈しております。
  37. 下村宏

    下村参考人 私は、もう前から申すように、今言う神社とかあるいは府県とかというものに片寄らずに、国にしたいというのが結論であります。それがために、イギリス風の意味で現在の法規の解釈がそういう方に解釈できて、そうきまればけつこうですが、どうしてもその解釈がそうじやいかぬと言えば、この法規を改廃するということにして、早くその目的を達していただきたいと思います。
  38. 小林信一

    小林(信)委員 お忙しいようですから簡単にお伺いいたしますが、あなたの名前で、総理大臣、大蔵大臣、厚生大臣に、富士山頂国有地処分に関する意見書というのが出されております。これについて下村さんに詳しくお話を承りたいのですが、時間がありませんので、その中の、きのうあたりから問題になつておるような点についてお伺いいたします。  「かかる公益性は一神社宗教的活動上の必要性しかもその宗教活動上致命的な支障を来さぬ程度の必要性とは比較にならぬほど重視さるべきものである」、こういうふうに主張されまして、一神社宗教活動よりも公共的な立場での富士山頂の問題が重大であるとしておられるのですが、そこのところをお聞きしたい。先ほど来景観保存ということで公共性の問題が論議されたのですが、これをもつと具体的に考えて参りますと、結局、これを利用する人たちの、そこに参りましての実際上の問題がその公共性ということになるんじやないかと私は思うのですが、ああいうところを神社所有しますと、国立公園というようなことになればもう必ずサービス機関として業者が、介在するのですが、この神社と業者との関係、それから、一般登山をする、ここに遊ぶ人たちの受けるもの、というようなことが最も具体的な公共性になると私は考えるのでございますが、こういう点で、現在富士山頂の問題について国立公園を保存されようとする方たちの実際痛感しておられるような問題がありましたならば、それをお伺いしたいと思うのです。なぜお伺いしますかというと、先ほど吉田さんの言われた、こういう法律があるから法律を適用して払い下げたらいいじやないか、その保存の問題は、国立公園法という現在の法律で取締ることができなければ、もつとその法律を強化して取締ればいいのだというような、逆説的な形で持つて来られておる問題に対して、実際上そういうことが可能であるかどうかを私は実際問題から検討してみたいと思うからで、そういう点で、責任を持つておられます下村さんに、富士山頂の現況というようなことで何か管理上支障を感ずるような問題がありましたら、お伺いしたい。
  39. 下村宏

    下村参考人 ちよつとお尋ねの点がはつきりしませんが、私は、先ほど阿部君も話されたように、山自体が神体というまでになつて、今までの富士山神社またその方の信徒の何と言いますか崇敬の場所になつていたと思うのです。ところが、日本国民で、宗教という方から言えば、神社神道となるとこれも一つ宗教らしいのですが、仏教とか新教とか、その他いろいろなものが近ごろできておりますが、大体宗教の人心を支配する力というものは科学の発達に伴いだんだん少くなつて来ている。だから、私どもの古い記憶であれば、信者の登るのは信仰で登るというのが多いので、その面では、ひとり富士山に限らず、阿夫利神社の大山でも何でもみんな信者が登つてつた。六根清浄を言つてみな登つてつた。このごろ六根清浄を言うて登つている者はないのであります。数字は統計をとりませんけれども、一年々々いかに登つて行く人が多くなつて来たか。元は夏の雪解けのときだけ登山しておつたものを、今日はスキー場ができ、いろいろな連中が四季を問わずにみな登るようになつて、信者あるいは宗教の方の力によつて登る方のパーセンテージというものがだんだん減つて来つつあります。それがどこまで減つておるかということの正確な数字はわかりませんけれども、今日浅間神社へお参りするために富士山へ登るとか、信仰で登るということはきわめて微々たるものであると思います。今日は、先ほど田村博士も言つたように、富士山というものに対して、ひとり風光のみならず、私の前言つたロケーシヨンなりいろいろな点から見て、この山を国民全体が尊重する、われわれの山だというような気持になつて来つつあるので、この山が神体だからこれにお参りしたいんだといつて登つて行く人がどれだけあるか、これは正数はわかりようもないのですけれども田村博士は大体九割以上普通の観念で登つて行くだろうと言われましたが、私の知る限りでも、信仰だけで登つて行くというのは非常に減つて来ております。だから、国民のほとんど全体はこの山に対して愛情という気持で接しており、昔の信仰という考え登つて来た時代はもうとうに去つておる、私はかように考えております。
  40. 小林信一

    小林(信)委員 今私の質問があいまいだつたから、御答弁を受けなかつたのですが、そういう比重の問題と、もう一つは、これが神社所有になつた場合、宗教的でなく、つまりレクリェーシヨンで登山する者がその目的を十分達し得られないような形になることはないかと私はお伺いしたわけでございますが、大体了解ができましたので、田村さんに一言お伺いいたします。  昨日文部省の意見がここで述べられたのですが、その場合に、文部省は、神社に払い下げるべきであるということを主張されたのですが、そのときに、国立公園としてこれを国家が保有したいという厚生省あたりの意見が出て、それは学術研究の面を考えられているんじやないかと思うが、文部省はどう考えられるかということを聞きましたところ、富士山頂学術研究に対するところの問題は、厚生省考えるようなものとは別の観点で私たちは考えておるので、必ずしもこれを国家が持たなくてもいいんだというような主張があつたのですが、田村さんとして、学術研究の面等から国家がこれを持たなければいけないというようなお考えがありましたならば、お伺いしたい。
  41. 田村剛

    田村参考人 文部省がどういう考えでそういうことを言いましたか、私には了解できないのでありますが、特殊な学者の研究場所としての富士山というものも考えられます。たとえば、先ほども申し上げましたように、大体五、六合目以上は地衣帯でありまして、これは地衣植物研究する学者にとつてはかけがえのない重要な地域だと思います。また、一般登山者、学生その他にとりましては、世界的な富士山頂上における地形あるいは気象関係、雪の関係、風の関係、あるいはこれを構成しておる岩石、砂礫等の状況、いろいろ普通常識的な科学の観察の場としても非常に重要なのであります。従つて、文部省としても、社会教育の面から言つても、専門教育の面から言つても、この両方を尊重しなければなりません。国立公園といたしましても、先ほど申し上げましたように、これを特別の保護地区としまして、現状を変更しないようにしたいという考えは、文部省の文化財としての富士山の扱いと何ら異なるところはないのであります。異なつた二つの法律によつてその統制をさらに加えるという意味にほかならないのでありまして、私は、文部省が考えておるものと厚生省考えておるものとは少しも差異はないと思う。それで、これを国有にする方が自然保護、あるいは広く利用の管理統制、あるいは施設の統制、いろいろの点から言つて有利である。これが私有財産になりました場合、民法に基く所有権の発現は相当強いものでなければならぬと思います。それを神社に払い下げなければならないという積極的な理由があるか。先ほど阿部さんからもお話がありましたが、八合目以上をなぜ神社境内にしなければならぬか。現在ある奥宮その他関係地域だけに限つても何ら神社の祭祀等の行事にさしつかえないと思うのであります。要するに、これは観念的な問題で、神社が持つておることが神社の壮厳さを増すという観念的な問題である。それであれば、現在における国民感情は、宗教的な必要によつて神社所有をしなければならぬというものよりもはるかに強い。私は言うのであります。静岡県人に問いまして、富士山が一浅間神社所有地であるのと、国民全体の国家土地であるのと、どちらが誇りになるか。これは、静岡県人でも冷静に考えれば、国有にしたい、こう言うに違いないと私は思うのであります。これは、国民投票に問われましたならば、ほとんど問題なく、ただちにきまる問題だと思うのです。これを大蔵省に設けられました特殊の審査会におかけになるからこういう間違つた結論になるのです。国民の声に聞いていただきたい。(拍手)
  42. 栗田英男

    ○栗田委員 下村参考人お尋ねいたしたいのですが、先ほど法律の問題が出たのですが、今日このように富士山頂の問題が騒がしくなつたということは、この法律通りにこれを実行いたしておらないということが私は一番根本原因であると思うのであります。従いまして、このように富士山が問題になるとするならば、この法律をつくるときに、この富士山という問題も論議されていなければならない。しかしながら、この法律が出た以上はこれに従わねばならぬ。そしてまた、こういう問題があるということをあらかじめ予測いたしまして、この法律の中で社寺境内地処分審査会というものをつくつて、こういうものを論議して、この諮問によつて大蔵大臣が認可を与えようということにこの法律ができておるのである。従いまして、今の下村参考人のように、感情的に、富士山はこの法律では別であるとか、あるいは阿部参考人が言われましたように、大体この法律が間違つておるのだ、この審査会の構成員自体がでたらめなのだということになりますると、これはまつた法律無視でありまして、これは極端な例かもしれませんが、どろぼうをした、ところがそれがつかまつた、いやおれは食えないからどろぼうしたのだ、だからこういうものを罰する法律が悪いのだ、こういうような極端なる論が出て参ると思うのであります。従いまして、この富士山の問題も、この法律の立法の趣旨というものを大いに尊重いたしましてこの処分の決定をすれば、何ら間違いがないと思うのであります。従つて、この法律の立法趣旨というものは一体どこにあるかというと、その第一点というものは、社寺上地、地租改正、寄付等によつてこの八合目以上が国有となつた国有財産であるかどうかということ、第二点というものは、この法律が施行されるまでにこの国有財産を神社無償でこれを借り受けておつたかどうか、それから第三点としては、この社寺等がこの宗教活動を行う上においてこの八合目以上が適当であるかという、この三点を根本的に考えて、この三点に神社の請求が適合しておるかどうかということがまず重要な問題と、その次には、この問題に関しまして審査会はどのような答申案を大蔵大臣にいたしたか、その結果によつて大蔵大臣が譲与いたしますれば、この富士山の問題はまつたく公明に、何ら問題なく解決される問題である、私はかように考えておるのであります。従いまして、この点に関しまして下村参考人の御意見を承りたいと思うのであります。
  43. 下村宏

    下村参考人 審査会というのは大蔵省のですか。
  44. 栗田英男

    ○栗田委員 今の社寺境内地処分審査会、いわゆる解散をいたしました……。
  45. 下村宏

    下村参考人 私は国立公園審議会の方で、その法律のできたことにはむろん関係なく、またあつても、どんな法律でも、できてからある事態が起つて来れば、それに伴つて改廃するということは起るのでして、おそらくは、これをこしらえておる時分に、富士山で八合目から上を皆浅間神社にということは考えてなかつたのではないかと思う。だから、こういう問題が起つて来ますと、在来の法の適用では困難になるのか、あるいはまた解釈によつてそれが解決できるようになるのか、これは解釈論でありますから……。それからまた、あとの審査会の方のこと。これは私からかれこれ言う筋かどうかわかりませんが、やはり先ほど阿部君の言われるように、この審査会の顔ぶれなり組織というものは、だれが見ても一部の人々のきわめて利害関係の深い人々が主になつておりますから、ひいて、結果のよしあしは別として、いろいろな疑惑がこれには起りやすいのではないか。でありますから、私どもは手順をどうせねばならぬこうせねばならぬと言うのではなくて、ただ、自分たち現在の国民、またこれからわれわれのあとに続いて来る日本大衆に対して、われわれはこの富士山というものにあまり間違いが起らぬ——と言うと言い過ぎますけれども、なるべくこれをよくやつておきたい。だから、それにはどうしてやるということのテクニツクになるのですが、私はお答えはいたしかねますが、どうかそういうお気持でこれを進行していただきたい、かように思います。
  46. 栗田英男

    ○栗田委員 そういたしますと、私の第一点の重要な点は、この富士八合目以上が法律第五十三号の第一条の、いわゆる先ほど申し上げました一点、二点、三点に適合しておるかどうかということを私は実はお尋ねをいたしたのでありますが、その点に対してはお答えはないようでございますが……。
  47. 下村宏

    下村参考人 それはちよつとわかりませんから……。
  48. 栗田英男

    ○栗田委員 そうすると、そのあとは、今の審査会の問題に対しましては、審査会の答申案というものは、社寺等の関係のある者が委員になつておるので、その答申案というものは尊重するに足らないというような御見解でございますか。
  49. 下村宏

    下村参考人 それは法理論ですから、審査会をつくつて、やつて、それがきまれば、きまつただけのものは尊重しなければならぬと思う。しかしそれは、国会でも同じように——国会の場合はまたあれですが、どんな議員が出ても、時々によつて選ばれた顔ぶれが違うのですから、現在の顔ぶれがいいか悪いか、そういうことはあるのであつて、その人選については私どもはあずかり知らぬ。ただ、そういう顔ぶれになつてつたのだから、もしそうでなかつたら、こういうことにはならなかつたであろう、こう思つております。
  50. 塚原俊郎

    塚原委員長 一言申し上げますが、下村参考人は所用のためこれで失礼いたすそうであります。それから田村参考人も用事のため中座いたしました。阿部さんと吉田さんはまだお残り願うことにしております。  下村さん、長い聞けつこうな御意見を承りまして、ありがとうございました。  先ほど保留した点があるそうですから、長谷川君。
  51. 長谷川峻

    ○長谷川(峻)委員 阿部さんにお伺いします。先ほど途中でやめたのですが、国有地であつたものをいまさら浅間神社に払い下げることが民主主義の根本原則としておかしいんじやないかというお話でありましたけれども、われわれ法律を多少いじつて、それによつて具体的に決定しなければならぬ立場にあるから、理想論と感情論とマッチさせるのに実は苦労しておるのです。ところが、この法律というのは、進駐軍の覚書の原文を見ますと、「シャル・ビー・ギブン・ツウ・サツチ・インステイチューシヨンズ」というように、非常に強い言葉で出ておるのです。そういうことからいたしまして、その当時でも、ほかの神社にも払下げしないで済むようなところがあつたかもしれぬけれども法律的にそういうふうにやられまして、そうしてその諮問機関として、社寺境内地処分審査会というものが昭和二十二年に社会党内閣の片山哲氏によつてつくられて、その答申に基いて大蔵大臣が片つぱしから処分して来ているわけなんです。そこで、先生のお話によりますと、根本的にこの法律の改正まで行かなければならぬと言われる。ところが、これはたつた一つつたケースなんです。その上に、お互いの国民感情としての富士山をきれいなものにしたいという気持と、この二つが今こんがらがつているわけであります。現実的に片づける場合に、一体あなた方だつたらこれをどう処分されるかということをひとつお話を承りたいと思います。
  52. 阿部真之助

    阿部参考人 今、進駐軍から与えられた法律ではシヤル・ビー・ギブンだ、こう言われるのですが、しかし、進駐軍といえども富士山の八合目以上なんということは考えていない。ただ、ほんとうの神社境内地なんというものは猫のひたいみたいに狭い、そういう境内地を返してやればいいのだというようなことに簡単に考えたことだろうと思う。これは大きな抜け道だろうと思う。法律で山を一つ返してしまうというような、そんな度胸のいいことは進駐軍は考えていなかつたのだろうと思う。しかし、そういう法律ができたから、これに従わなければならぬかというと、大体そういう法律ができて来たのは、やはり憲法の政教分離原則であろうと思います。それで、八合目が昔神社のものかどうか、私ははつきりしりませんが、かりに神社のものであつたとしたところが、それは政治と宗教がごつちやになつた時分のそういう形だつた。いわば、今の考えから言えば不当に神社が保護された、あるいは寺院が保護されたということはあつたが、その当時においては、これらの神社土地や寺院の土地というものは、領有したとは言つていても、そういうふうなものは非常に公的なものであつて、今の民法的に考えるような神域ではなかつた。それを昔のそのままで返すということは、これはとんでもない逆もどりだと私は思う。だから、返すについては、今のわれわれの現代の考え方で、そうして、これは神社の行事なりにさしつかえがあるかないか、その程度において返すべきもので、昔皆この山を持つていたから、この山を皆返すとか、あるいは、この全部の土地を持つていたから、これをそのまま皆返すというような、そういう筋合いのものじやないと私は思う。だから、憲法の精神から言つても、進駐軍から与えられた法律第五十三号といえども、この政治と宗教というものをはつきりわけてしまえというのが精神なんで、返すということは精神ではないのですよ。はつきりわけるとそのために、あまりごたごたしないために、返すべきものは返せということなんで、返すということのための法律ではなしに、政治と宗教を分離するその手段として一応返したらどうかというのが精神なんだ。だから、昔われわれが知らなかつた時分に現在の大きな山を持つていたから、それをそのまま返してやるということは目的ではなしに、一応神社が成り立つ、そういう行事が成り立つものだけは返して、もう政治は手を引いてしまつて、補助を与えるなというのが、これが憲法及び法律の精神だ。この精神こそ尊重さるべきものだ。返すというその法律ばかりを尊重するなんということは、実に枝葉末節と言うか、実にとるに足らざる形式論だと思う。私はかように考えております。
  53. 小林進

    小林(進)委員 私は吉田先生にお伺いいたしたいのでありまするが、実はこれは法律論でありまして、先ほど栗田君が法律論をやつておりましたが、きのうからの問題でございます。先ほどからも境内地の払下げという言葉が盛んに言われておるのでありまするが、法律境内地の払下げを予定して私はできておると思う。ところが、きのうから繰返されておる富士山の八合目以上という問題は、境内地ではないのでありまして、これは御神体なのであります。御神体境内地というものは、私はここで画然と区別をして行かなければならないのではないかと思います。先ほども吉田さんは、何か境内地というお言葉をお使いになつておりまするが、これは、きのうの証言は、繰返して、境内地ではないのだ、御神体だ、神そのものだというお話があつたのでございまして、一体、この神そのものと境内地一体なものであるか、区別して考えるべきものであるか、宗教の立場からひとつお教え願いたいと思うのであります。
  54. 吉田茂

    吉田参考人 境内地その土地神体としてあがめるということもありますれば、あるいは土地以外のものが神体としてあがめられることもあるのであります。従つて、これが神体地なんだということであつても、同時にそれは境内地、いわゆる法律用語で言えば、境内地というものにあたる。これは、前の国家神道時代、あるいは国有地であつた時分でも、今日でも、それが境内地であるごとにはかわりはないのでありまするから、境内地であるから神体ではないと、こういうことは言う必要はないのであります。
  55. 小林進

    小林(進)委員 その点に私は非常に一つの言葉の魔術といいまするか間違いがあるのじやないかと思います。浅間神社も、私どもは事実実地調査をして来ました。あそこは五万坪ですか四万坪ですか、非常に広大な優秀な境内地がございまして、その境内地の払下げに対しては私どもは決して云々をいたしておるのではないのであります。ただ、その境内地の神殿に窓があいていて、その窓からながめて富士山が拝める、すなわちこれは境内地ではなくて御神体である、われわれの宗教のものの成立の絶対要素である、こういうことを繰返し私どもは言われて来たのでありますが、さつき栗田君の言つたように、この法律に言う三つの要素の一つ宗教活動を行う要素としては、境内地というものは必要であるから、宗教活動を行うに必要なという条件には境内地は入る。けれども神体そのものは、宗教活動を行う云々には入らないと私は思う。なぜかなれば、神体というものは宗教そのものであります。絶対的な要素である。活動ではないのであります。これがなくなれば活動も何もない。八合目以上は、境内地とはおのずから違つておりまして、これはもう宗教成立の絶対的な要素なんです。その要素、宗教そのものであります。この絶対的な浅間神社の神の本体そのものに対して、社寺境内地処分審査会が、神そのものの本体を、八合目でちよん切つたり、あるいは五万坪にしてみたり、あるいは四百四十坪にしてみたりすることは、神そのものの本質に干渉をして、神をふくらましたり縮めたり、非常に不敬な行為をしていることになる。ここに私は重大なる間違いが行われておると思うのであります。これは、先ほどから阿部先生が言われたように、単なる富士山だけの問題ではなくて、あるいは男体山あるいは筑波山、そういつた神体の山そのものを払い下げたことにも重大なる間違いがある、できれば取消してもらいたいということをおつしやいましたが、私は阿部先生の御意見にまつたく同感なのでありまして、いやしくも宗教の本質そのものには国家は干渉してはならない、これが憲法の建前であります。しかるに、そういう原始宗教であります、いわゆる山岳宗教と申しますか、そういうものに知らずしてわれわれのこの審査会が干渉いたしまして神そのものをふくらましたり縮めたり、あるいは払い下げてやつたり、とりもどしたり、そういうことをやつているということは重大なる宗教の干犯であり、憲法違反であると私は考えておるのでありまして、この点を吉田さんはどのように考えておるか、お伺いしたいと思うのであります。
  56. 吉田茂

    吉田参考人 富士山神体山であるという信仰は、本来は富士山全体が神体であるという信仰であつたと思うのであります。さような意味神体山という言葉が使われておるのであります。これは徳川時代でもそういう信仰があつたと思いますけれども富士浅間神社所有ということに認められたのは、やはり八合目から上を認めておつたのでありまして、今度の審査会でもつて神体境内地として縮めたりふやしたりしたというふうに考える必要はないと思うのであります。神体山ということは、決してその土地法律用語や神社用語で言う境内地という考えと矛盾するんじやないので、境内地だから神体じやない、神体だから境内地じやない、そういうわけの関係ではないのであります。土地をもつて神体考えるところもあれば、あるいは岩をもつて考えるところもあるし、あるいは木をもつて考えるところもある。そういう意味で、富士山は御神体として扱われた大事な信仰の山ということを説明するのに、神体山だ、こういうふうに申したのであります。
  57. 小林進

    小林(進)委員 私はどうもそこら辺が非常にはつきりしないのでありまして、先ほどのお話に浅草の観音様が出ましたが、観音様にたとえて言えば、観音様の屋敷は境内であります。これは財産であります。観音様の神体は一寸八分でありますか、あれが御神体であります。富士山浅間神社境内は、私どもが拝見しまして、「やぶさめ」などをやる場所がございまして、非常にりつぱな境内地が五万町歩ですか、八万町歩ですかございます。富士山の八合目からが神体であるというのは、ちようど浅草の観音様の一寸五分か一寸八分に該当する本尊だと思うのであります。もし審査会がその観音様の手をもいだり足をもいたり、あるいは一尺にしたり一寸にしたり、かつてに形をかえたら、宗教そのものに干渉する重大な間違いを犯したことになると思うのであります。富士山に関してもその通り浅間神社境内ではなく、神体であります。神そのものであります。その成立の絶対なる要素をふくらましたり縮めたり、八合目から神様にしておけ、あるいは五万町歩だけを神様にしておけとかいうようなことをやつているのは、重大なる憲法違反の間違つた審査をしたのではないか。結論は、富士山というものを御神体にしておるというその観念は、やはり信ずる者の頭に描いた富士山であつて、形にとらわれて、自分のものにしなければこの宗教が成立しない、私有にしなければ富士山信仰は成立しないというふうに、あくなき私有欲をたくましゆうして来るところに大きな間違いがあるんじやないか。どうしても八合目以上が御神体であるということになれば、もしまかり間違つて、この富士山の八合目以上が地震でふつ飛んだとすれば一体どうなりますか。かりに八合目がふつ飛んだ場合には、富士山信仰というものは成立しないのか。一つの仮説で失礼でございますが、これをひとつお伺いいたしたいと思うのであります。
  58. 吉田茂

    吉田参考人 神体ということは、信仰の問題でありますので、法律用語で言う境内である場合もあれば、境内でない場合もある。境内そのものを神体とするものもある。あなたのおつしやるように、神道ではありませんけれども、今の浅草の観音様の御神体は一寸八分だという、そういう意味の御神体もある。木像がなつていることもあれば、お鏡がなつていることもある。山自身神体という信仰で、神社の御本殿をこしらえないで、ただ拝殿だけしか置いてないところもある。さような意味で、神体ということは、富士山神体山であるという意味を徹底すれば、あるいはそれは何も社殿がなくてもいい、山を拝めばいいんだ、こういうことにもなり得るのでありますが、あすこのふもとに大宮の富士浅間神社があるところを見ると、元はそういうことだつたじやないか。そうして、そういう御神体山には奥の方に奥宮がある。そこが神体山中心だというようなことになる場合が多いのであります。おそらく富士山も、そういう歴史があつたかと思うのでありますが、今度の審査会で八合目でちよん切つてしまつたということは神体を伸び縮みさせることだというふうに考えないでもよろしいのであつて、それを法制の上、所有権の上で、どこまでが境内だときめることは、決して神体をちよん切つたということにはならないと私は考えるのであります。
  59. 山中貞則

    ○山中(貞)委員 緊急動議の許可がありましたので、発言いたします。参考人お話に対する質疑はこのあたりで打切られたいと思うのであります。理由は、本特別委員会が取上げました目的は、古屋貞雄君外五名から提出の理由書によつて明らかであります通りに、四つの問題点について調査をするのが目的であります。従つて、その調査を便にするため参考人の御意見を伺つたわけでありますが、しばらく前からの質問応答の内容を聞いておりますと、どうもわれわれの目的の必要範囲外に出まして、質問宗教のあり方とかあるいは国民感情問題とかいろいろになつているようでありますから、ここらで打切られたい。そのような理由によつて緊急動議を提出いたします。お諮り願います。
  60. 塚原俊郎

    塚原委員長 ただいま山中君から動議が出ましたけれども、これについて御意見がありましたらば、お述べを願いたい。
  61. 古屋貞雄

    古屋(貞)委員 ただいま動議が出ましたが、今の小林君の質問の点は、私も質問したいと思つているのですが、これは、第一条の根拠になつております法律上の事実を認定するについて、事実はどうなつているか、これを今確かめている。私も吉田さんに承りたいと思つてつたのです。問題は、宗教活動に必要な理由というものが明確にされないと、法律が適用にならない。この事実に対する質問をしていると思う。私は、さような点におきまして、今動議がございましたが、本審議は実は非常に重要な関係を持ちますので、しばらくの間その点を尽していただきたい、私はかように存ずるのであります。私も、吉田さんに、宗教活動に具体的にこれこれで必要なんだ、今までのような状況では宗教活動ができないのかできるのかという点が根本問題だと思うので、その点をもう少し質問をして行きたいと思うのであります。
  62. 塚原俊郎

    塚原委員長 山中君から動議が出ましたので、これを取扱わなければなりません。ここで山中君に一言申し上げますが、もう大分時間もたつておりますし、委員諸君質問もあまりないと思いますから、その動議を撤回されまして、なるべく今山中委員のおつしやつたような線に沿つた質問を簡潔に願いまして、時間も時間でありますから、この参考人に対する質問を終りたいと思いますが……。
  63. 山中貞則

    ○山中(貞)委員 緊急動議を撤回いたします。
  64. 塚原俊郎

    塚原委員長 委員の方に申し上げますが、参考人の方もお疲れでしようし、時間も時間でありますから、ひとつ質問を簡潔に、要点に重点を置いてやつていただきたいと思います。
  65. 栗田英男

    ○栗田委員 私、吉田参考人お尋ねしたいのですが、私は、富士神体であるという考え方ならば、この富士山浅間神社に払い下げる必要はないと思うのであります。なぜかと申しますると、なるほど神体山宗教とは申しますが、必ずしもその神体山宗教であるから富士山神体であるということはどうも考えられない。なぜ考えられないかというと、この奥宮富士山頂中心神社であります。富士の山というものは非常に険しいものであるけれども、その姿はきわめて秀麗である。そこで、それに配するに、かつて日本の賢婦人と言われておる木花咲耶姫というものがこの奥宮の中にまつられた。従つて、問題は、この奥宮境内地を何万坪にするか、八合目以上を奥宮境内地とみなすか、あるいは奥宮中心の四万坪を奥宮境内地とみなすかということであるならば論議の中心になるのでありますが、富士山が御神体であるというならば、この問題はもはやこの法律に適合しない、かように考えるのでありますが、この点に対する見解はいかがでありますか。
  66. 吉田茂

    吉田参考人 御質問の趣意がややわかりかねるところがありますが、奥宮の地位というものは、これはいわゆる奥宮でありまして、神社それ自身は富士浅間神社なのであります。そこの神体山頂上考えられる、一番大事であると考えられるところに奥宮があつて頂上へ参つた人はそこへお参りをして信仰をささげる。下から拝んでもいいのでありますけれども、そこへお参りする。それで、神体山ということは、さつきも申しましたように、富士山全体に対する国民信仰をそういう意味で表わしておることなんでありますから、奥宮境内あるいは本宮の境内というような問題ではないので、富士浅間神社全体の境内として、八合目から上を境内とみなすか、それともそれよりまた上の奥宮までのところを境内とみなすかということで、神体山の意義そのものが違つて来たのじやないと思うのであります。奥宮だけが富士神体山あるいは富士浅間神社としての神体、そういうふうには見られないのであります。
  67. 古屋貞雄

    古屋(貞)委員 ちよつと一点だけ吉田さんにお尋ねしたいのですが、この現状のままでは宗教活動にさしつかえがあるかどうか。私は、払下げをしまする場合には積極的な理由がなければならないと思うのです。積極的に今のままでは困るのだ、非常にさしつかえがあるのだというならば、どういうように具体的にさしつかえがあるか、その点をひとつ納得の行くように御説明願いたいと思います。
  68. 吉田茂

    吉田参考人 積極的にさしつかえるという意味は、国有地として保存されれば、先ほど申し上げました通りに、それは神社境内ではなくなるのであります。両立し得ないことはただいまの憲法の建前であります。それはまあ非常に困りますので、山自身を神体として存立しておりまする浅間神社、それはほとんど崇敬の対象を失つてしまう、こういうことであります。
  69. 古屋貞雄

    古屋(貞)委員 今までは宗教活動をしなかつたのでしようか。今まで何十年かやられて来たのでありますから、私どもからこれを見ますと、今まで通りでも十分にやれる。しかも原始宗教としてすでに国民の間にだんだんなくなりつつある状況に置かれていて、あえてさようなりくつは成り立たないと思うのですが、いかがでありますか。
  70. 吉田茂

    吉田参考人 そこに非常に事実をあまねく知られておらぬ点がある。今までは、国有境内地であつて、つまり国有であつて神社境内地というものであつたから、先ほども申しましたように、不自由なしにやれたのでありますが、今度は、国有であれば神社境内ではあり得ないことに新憲法でなつてしまつた。ですから、今までの通り国有であつて浅間神社境内であるということをそのまま続けられれば、それでよろしいのであります。
  71. 古屋貞雄

    古屋(貞)委員 どうも、今の点は、境内地であると具体的にきめなくても、従来もやつて来られたのではないでしようか。だから、特に境内地として、ここはこうだというようなことだというようなことをきめなくても、このままで押し進められてもいいのではないでしようか。と同時に、もう一つ私の申し上げたいのは、ただいま他の参考人がおつしやつたように、国民感情を害し、国民利用度が害され、学術研究に支障を来すというような、非常に大きな公益的な支障が片一方にある。一方においては、ただ神社の、小さい、わずかばかりの宗教活動、それも不能になるのではないでしようから、こういう場合にわれわれはいずれをとるべきかという重要な問題になつておると思う。長谷川委員からさつきおつしやつたのはこの点だと思うのです。大きな国民感情国民の利害、公益というものに重きを置くか、それとも、たとい小さいとは言え一神社宗教活動に重要性を置くか、ここに私は結論が出て来ると思うのであります。吉田参考人はどちらに重要性をお持ちになられるか、その点を承りたい。
  72. 吉田茂

    吉田参考人 それは、神社境内にいたしましても、私は、決してそれで国民全体の不利益になり、公益を害するというようなことはなしに、りつぱにやつて行けると思つております。
  73. 北山愛郎

    ○北山委員 今境内の話が出ましたので、吉田さんに一点だけお伺いしたいと思うのです。多分御承知だろうと思いますが、富士山の八合目以上を明治三十二年に静岡県知事の名前でもつて境内というふうに定められたわけであります。ところが、その当時において八合目以上を境内地に認めるということを神社側で請求した根拠というのは、その神社の沿革として安永八年に幕府の裁許状によつて富士山の八合目以上は大宮持ちたるべしということが書いてあるから、それを根拠にして、それからそれへとこの境内地の問題が出て来ておるわけであります。そうして、明治三十二年に静岡県知事の名前境内地に指定されたものが、その後無償貸付となり、また終戦後においてそれが境内地として無償譲与されるということにつながつて来ておるわけです。ところが、その初めの安永八年の幕府の裁許状のいきさつを見ますと、その当時の争いを幕府が裁定をしたわけです。その争いの内容というのは、富士山の行路病人の取扱い、それからおさい銭の分配ということを中心として、須走と吉田口の本宮との間に争いがあつて、それに対する裁許状として出されたものだ。ですから、所有権がその当時からあると、こういうふうに言われておりますけれども、その当時の持ちというものの意味、その名前意味するものが一体現在の所有権の内容であるかどうか、それが私は非常に疑問じやないかと思う。持ちというのは、明治の初年においても、持区というような名前で呼ばれ、受持という意味を持つておるような場合もあるのであります。また支配というふうにも解される。少くともその争いを裁定した裁許状の内容を見ますと、宗教的な活動の区域としての境内地という意味ではなくして、それはおさい銭といつたような経済的な活動、あるいは行き倒れを処理するというような、今で言えば行政的な活動というものについて八合目以上を大宮の管轄であるというようにきめたのではないか、かように考えられるのです。従つて、その境内地であるということの根拠になる安永八年のそういうふうな記録というようなものは、その範囲においてわれわれは解釈していいのではないか。だからその八合目以上の境内地というものが明治の時代にきまつておるので、それを根拠にして今でもこれが尾を引いておるわけですが、その本家本元の八合目以上ということはそういうことから来ておるということを考慮に入れてこの問題を処理しなければならぬのじやないか。従つて、この法律第五十三号を適用する場合の宗教活動に必要な区域、必要な範囲という場合におきましても、八合目以上が境内地となつてつたから必要なんだというふうに固定して考えないで、今の考え方で、宗教活動に具体的に必要な範囲に限つて払い下げれば、それでさしつかえないのじやないか。こういうふうに考えられるのですが、それらの問題について御意見を承りたい。
  74. 吉田茂

    吉田参考人 昔紛争があつた場合の幕府の裁決が「持」ということであつた、それは今日のいわゆる所有権とは違うのじやないかというお説でありまするが、あるいは所有権考え方とは違うかもわからない、まあ領分というか、そういう考え方であつたかもわからないので、従つて明治以後になりましてからは、そういうあいまいな考え方でなしに、神社境内地は原則として国有地であり、そしてその国有地無償神社に使わせる、永久の使用権みたいなものを認めたわけであります。ところが、今度の憲法の改正で、そういうことができなくなつた。それをどう始末するかということで、神社のその持ちということは今日の法律用語で言えば所有権である、こういう考え方になつたのが今度の五十三号の法律だと思います。従つて、さつきも申しました通り国有であつて、そうして神社境内としてそれをちようど戦争前のように神社が使うことができれば、それは神社にも何も文句を言う余地はないわけであります。そういうことができなくなつた。そこで、今日の法律用語の所有権というものでそれを説明しようというのがこの五十三号である、こういうように考えております。
  75. 阿部真之助

    阿部参考人 私は、よそに約束があるので、中座しなければなりませんが……。
  76. 塚原俊郎

    塚原委員長 阿部参考人に対する御質問はございませんか。——それでは長時間ありがとうございました。  北山君、簡潔に願います。
  77. 北山愛郎

    ○北山委員 まだ法律的な問題を二、三御質問したいこともありますが、ただ、一つ、これはきのうも何回も問題になつた点ですが、要するに、この所有という問題が出るのは、神社側では富士山の八合目以上を持つていなければどうも宗教活動ができないというふうに主張されるわけです。そこで、これをお聞きするわけですが、現行の法律に基いた所有権、そういうものが神体山信仰にぜひ必要なものかどうか。実はきのう各証人に聞いても、どうもわれわれが納得し得るよう確たる証言がないわけです。その点については、たとえば太陽信仰というようなことで太陽を拝む場合と富士山を御神体とする場合と似ていると思うのですが、その際に、今の法律で言う所有がなければ信仰が成立たないということならば、太陽信仰も成立たぬわけです。その点、吉田さんの御意見を伺いたい。
  78. 吉田茂

    吉田参考人 宗教活動というものが、富士信仰富士そのものについておるのでありますれば、それが神社からもぎとられて、そこではもう宗教活動ができない、——純粋な国有になつて神社と切り離されるということであれば、浅間神社は滅びてしまうよりしようがない。これくらい大きな宗教活動の障害はないと思うのであります。お山を神社のために使つてはならぬ、ほかの用途に使わるべきだということにかりになれば、そういうことになる。ところが、今の憲法ではそういうことになりかねない。国有地神社なり寺院なりの利益に供してはならぬ。国有地ばかりでなく、国有財産すべてそういうことになつてしまつたのでありますから、そこで、元からの慣行というものを尊重されて、この五十三号というものでそこに道を開いた。道を開くについては、十分な使用権といいますか、境内としてそれを活用するだけの余地があればそれでよろしいので、神社は決してそれ以外の国有財産の譲渡を希望して出願したのではない。根本はそういうことであることを御了承願いたいと思います。
  79. 塚原俊郎

    塚原委員長 これにて午前中御出席参考人よりの意見の聴取は終了いたしました。  参考人には御多忙中のところ御出席を願いまして、長時間にわたり本委員会調査上まことに有意義なる御意見を承ることができました。このことに対し心から厚くお礼を申し上げます。  午後は二時より再開することといたしまして、暫時休憩いたします。     午後一時三十七分休憩      ————◇—————     午後二時三十八分開議
  80. 塚原俊郎

    塚原委員長 休憩前に引続き会議を開きます。  国有財産管理処分に関する件(富士山頂払下げ事件)について調査を進めることにいたします。  ただいまお見えになつておられる参考人は、教育大学教授和歌森太郎君、民族史・宗教史の先生でございます。早稲田大学教授有倉遼吉君、行政法の先生です。東京大学教授石井良助君、法制史の先生でございます。なお、本日参考人として御意見を承る予定でありました田上穣治君は、都合により出席できぬとのことでありますから、御了承願います。  ただいまより参考人から御意見を承ることになりますが、その前に、一言委員長より参考人各位に申し上げます。御承知通り富士山頂払下げ事件については、国民関心きわめて深く、全国民の真に満足すべき処置が講ぜられることはきわめて有意義なことと考え、本委員会といたしましては鋭意調査を進めて参つておる次第でございます。本日御出席を煩わしました参考人におかれましては、腹蔵のない御意見をお述べ願い、本委員会調査に積極的な御協力を切にお願い申し上げます。なお、最初委員長から簡単な御質問をいたしますが、続いて各委員より御質問がございますから、これについてそれぞれお答えを願いたいと存じます。  和歌森参考人に御質問いたしまするが、自然物、たとえば山岳などを崇敬の対象としている信仰、いわゆる神体山信仰というものがありまするが、この信仰ということについてその概要をお述べ願いたいと思います。
  81. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 日本人の信仰の中には、山に神がこもつているという考え方というものは非常に古くから伝統的に今日まで残つているのでありますが、その観念は、結局、具体的にどういう正体の神であるかということまで信仰者に明確になつているわけではありませんが、あるいは先祖であつたり、あるいは氏神であつたり、そのほかいろいろな機能を持つ神様というものが山の上におられるというふうな考え方をまず前提にいたしまして、信仰を実践的に実現しようという場合には、この山にいる神を里に迎えてお祭りをしようということになるのであります。そこで、里の方では、ごく素朴な原始的な形でありますならば、何かときわの青い葉の木を「よりしろ」として立てまして、そこに神が山から迎えおろされて来てよりついた、その座を一つきめまして、これを中心に、お祭りをしようとする連中が集まつてお祭りをする、こういう考え方あるいはやり方でもつて最初のお祭りというものがあつたらしいのであります。そうしたところに、だんだん、殿堂を建築すると申しますか、特に寺院建築などの影響がありまして、そうしたお祭り場に、もつとちやんとした社殿を設けようということになりますが、それでも、一般の人々はまだ神様というものはしよつちゆう里にいるものだという考え方ではなくて、天に接した山頂の峰のあたりに神様がとどまつているものだ、それを祭りの必要の際に迎えおろして、里でもつてある期間だけお祭りをしたい、そしてこれをまたお帰しする、お送りするのだ、こういう考え方が行われるようになつて参りました。神様がある期間滞在するという考え方であります。これのために、山まで上つて行つて、何か青い葉つぱの木に神様をよりつかしめておろしで来るというふうな行事をやることがございます。これは、富士山のまわりでも、たとえば静岡の浅間神社のお祭りでもやつていることでございますが、そうした行事というものは日本にかなりまだ広くたくさん残つているわけであります。しかし、なおだんだんに時代が進むにつれまして、さらに元の、神様のおられる山の方にも社殿をつくろうじやないかということになつて来て、山宮とかあるいは奥宮というものをつくるようになつたので、非常に複雑な形を呈するようになつたのでありますが、それでも、お祭りの仕方を一つ一つわれわれが分析してみますと、古来のそうした、もともとはそこに社殿がなかつた時分にただ何か目に見えない霊といつたものをよりつかしめて里で迎え祭つたというようなことを骨格にしております行事というものが割合にあるのであります。有名なところでは、三輪山のお祭りがそうでありますし、また諏訪神社のお祭りもそうでありますが、この問題になつております大宮浅間の場合におきましても、やはり、たとえば本殿のうしろにとびらが開いているとか、あるいは少し上の方に、二階と申しますか上の方にお祭りの座ができるとか、そしてまた、そこにお供えする物を天上の御供と言つたりしておりますことなどが今日の形態になつておりますように、やはり何となしに山の霊地から神様というものを迎えおろして祭つているのだ、ここで遥拝して祭つているのだという考え方が現実に伝わつているということになるのであります。  神体山信仰というものは、いろいろな内容、タイプがありまして、一概に定義づけることはできませんが、ともかく、富士山信仰というものは、この山頂にあります神霊、それがとどまつているのをお祭りの必要の場合に大宮まで迎えおろして、そうしてお祭りをするのだ、だからあくまで山の頂を対象にしてお祭りをするのだという考え方は残つていると言つてよいと思います。甲州の方にもずいぶんと浅間神社がございますが、これもいろいろ調べてみますと、もうすでに富士山との密接なるつながりというものが断ち切られている、あるいは稀薄になつているところが非常に多いのでありまして、山宮と称するものもたくさんございますが、その山宮の山なるものが富士山とは違つた別の山になつている、名前浅間神社でございますけれども、どうも富士山とのつながり方が淡い、こういうことになるのでありますが、それらに比べますと、静岡市の浅間神社にいたしましても、大宮の浅間神社にいたしましても、よほどそのつながり方は濃いのではないかということは言えると思います。しかしながら、そういうような信仰であるからこの山頂が直接そのまま、これをお祭りする場所になつております神社のものであるかどうか、これはまた別の問題で、後ほどお聞きになるならばお答え申したいと思いますが、そのことは別問題といたしまして、そのような神体山信仰というものはとにかく現実に残つているということが言えると思うのであります。実際に、八合目以上は、頂上を見まわしましても、どこもかしこも宗教上の霊地霊所になつておりまして、これなしには、これが大宮の場所神社場所と全然断ち切られていては、お祭りが意味がなくなつてしまうということは言えると思う。そこを入定地として現実にいろいろ名づけられているところが何箇所かございますけれども、そういうふうに限定される性質のものでなくして、全体の雰囲気を漂わしているもの、あの山頂すべてがやはり宗教活動上に密接な関係を持つているということは言えると思うのであります。  今の御質問に対してはそれだけでよろしいかと思います。
  82. 塚原俊郎

    塚原委員長 今の神体山信仰において、崇敬の対象となつている山岳を、たとえば、そこで言うならば富士浅間神社、こういつた神社所有としておかなければならないものですかどうですか。その点についてお答え願います。
  83. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 山の上に神様がおられるということは、少くとも中世の末というか室町の末までの考え方で申しますと、神様が山を支配しているという考え方なのであります。だんだんとそういう考え方というものでは承知できなくなりまして、神領と称する概念に内容がかわつて参りまして、江戸時代となりますと、そうしたところを明らかに社領——どつかの社殿を持つて、いる神社が持たなければならないものというふうな割り切つた考え方をするようになりまして、そこでいろいろなところで紛雑な争いが起つて来るわけでありますが、江戸時代には、富士山の場合におきましても、大宮浅間神社の側といたしましては、これはやはり今まで宗教活動上密接な関係を持つていた限り自分たちの境内地であるというふうに、自信を持つて確認しておつただろうと思います。しかし、客観的にこれが所有の観念において世間から認められていたかどうかということになると非常に問題でありますし、神様が支配しているということはこれを信仰している人々が支配するというふうには引移すことができますけれども信仰している人々は非常に広くあるのでありまして、一番限定されていますのは富士宮のあの市民の先祖たちであり、その地域集団がこれを信仰しているということになると思いますが、しかし、富士山は非常に広大な信仰圏を日本国中に持ちまして、広い信仰圏になつておりますから、そうしたほかの人々が特にこれを浅間神社所有地であるという考え方を持つて来ているかどうかということになると問題でありまして、何か神様がただそこに支配しているというだけのことにとどまつた人も相当いるのじやないかしらと思うのであります。神社考え所有地の観念と、それから、ここにお参りするというか、登山して拝む者のその点についての観念というものとは、幾らかずれがあつたのじやないか。それを明治になりましてだんだんに一元化したというところであつたのだろうと思いますが、しかし、例の安永八年の文献資料になつております大宮持ちたるべしという裁許状の写しなどは、これは、これによつて幕府が明らかに富士の大宮の持ち地であるというふうに確定したものであるかどうか、この資料の判断はあとで石井さんもお話になるかもしれませんが、私に言わせますと、これは今日の意味での所有観念における大宮持ちという意味ではないというふうに思うのであります。そのきつかけになつておりますのが行き倒れ人の始末に関する問題でございまして、それを通してこの争いが起つた結果から見ますと、どうもほかならぬ管理権がこの富士の浅間にあるというふうになつたことを示すのではないか、所有と管理の観念をわれわれは明確にわけなければいけないのではないかと思うのでありますが、そういう意味において、今度の問題の案をまとめます場合にも、先ほどちよつと拝見いたしますと、いろいろな案の中に、A案として、管理委託——管理を神社にまかせるという行き方を一つ示されておりますが、それなどが、幾らか歴史的因縁から見て近い形に返ることじやないかしらというふうに思うのであります。
  84. 塚原俊郎

    塚原委員長 次の質問事項に対して御三方からそれぞれ意見を承りたいと思います。富士山の八合目以上は、富士山本宮浅間神社——これは神体山信仰と言われておりまするが、この神社昭和二十二年法律第五十三号によりまして大蔵大臣あて譲与の申請をしております。大蔵大臣がこの申請によつて八合目以上を神社に譲与すれば、その地区は神社所有となるわけであります。ところが、一方において、富士山世界名山として、また日本国土象徴として国民の共有物であるという感情もあるのでありまするが、こういつたことに対しまして御三方のそれぞれ専門的な立場からの御意見を承りたいと思います。  最初有倉先生にお願いいたします。
  85. 有倉遼吉

    有倉参考人 私は、史実関係も、また法制史の方もまつたく不案内でありますので、もつぱら現行法の解釈をいたしたいと思うのであります。  問題の法令は、もちろん申し上げるまでもなく「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」の第一条、それとその施行令の第二条でございます。そして、その法の第一条によりますると、社寺上地、地租改正により国有となつた国有財産であるということ、これが第一の要件。それから、国有財産法によつて神社無償で貸し付けしてあること、これが第二の要件でございます。第三が、申請地がその社寺等の宗教活動を行うのに必要なものであること。この三個の要件を定めて、そうして主務大臣が社寺境内地処分審査会に諮問してその社寺等に譲与することができる。こういうふうに定めているのであります。これに対しまして、施行令の第二条は、法第一条に定める国有財産で国土保安その他公益上又は森林経営上国において特に必要があると認めるものは、国有として存置し、譲与しない旨を定めておるのであります。この施行令第二条の国土保安とか森林経営とかという問題は当面の問題にはならないようでございますので、この点は除外いたします。その施行令におきましては、ただ公益上国において特に必要があると認めるものであるかどうか、この点だけを問題にいたしたいと思うのであります。  以上申し上げました法の第一条と、それから施行令の第二条とを引合せてみますと、四つの場合が生ずると思うのであります。すなわち、第一は、法の第一条の要件を充足し、施行令第二条に該当しない場合であります。第二番目は、法の第一条の要件を充足し、施行令第二条に該当する場合であります。第三は、法第一条の要件を充足せず、施行令第二条に該当しない場合であります。第四は、法第一条の要件を充足せず、施行令第二条に該当する場合であります。しかしながら、考えられるのはこの四種でございますけれども、第三と第四の場合は、法第一条の要件を充足しない場合でございますから、それ以上進んで施行令を問題にする必要がなく、当然譲与すべからざるものである、こういうことになりますので、ここでは取上げないことにいたしたいと存ずる次第であります。従つて、私が申し上げますのは、第一と第二の場合について申し上げたいと思います。  まず第一は、先ほども申し上げましたが、法の第一条の要件を充足し、かつ施行令第二条に該当しない場合、換言いたしますならば、第一条の要件を満たしながら、しかも公益上国有存置を必要としない場合であります。この場合は、私の考えによりますと、その要件があるものと認定いたしました場合においては、必ず主務大臣はこれを譲与すべき法的拘束を受ける、こういうふうに考えているのであります。従つて、その要件を認定しながら、この充足することを認定しながら、しかも譲与しないということは、これは違法処分になる、こういうふうに考えているのであります。この点におきまして、この第一条の条文に、「譲与することができる。」とありまして、譲与しなければならない、こうはなつていないから、これを理由といたしまして、譲与を留保する余地があるのだ、こういう見解がございますようでありますけれども、私はそれは正当ではないと思うのであります。法文が何々することができるとか、あるいは何々しなければならないとか、そういう表現上の相違を設けておりますのは、必ずしもそこに今言いましたような裁量の余地があるかないか、こういうことを定めているわけではないと思うのでありまして、それは、その行政機関が権限を持つているか、あるいは義務を負つているか、いわば、権限であるかあるいは職務であるか、そういうようなどちらかに重点を置いてこれを表現したにすぎないのでありまして、その文言だけをとらえまして、ただちに裁量処分である、こうはとうてい言えないと思うのであります。これを他の法令によつて例をあげてみますならば、たとえば警察官等職務執行法という法律がございますが、その第五条に、「警察官等は、犯罪がまさに行われようとするのを認めたときは、その予防のため関係者に必要な警告を発し」云々とあつて、「その行為を制止することができる。」と書いてある。こう書いてありますけれども、この場合に、警察官が、まさに犯罪が行われようとしておる、こういう事実を認定しながら、しかもこれは警告を発しなくてもいいんだ、こういう解釈にはとうていならないのでありまして、当然、そういうふうな認定をした場合におきましては、必ず警告を発しなければならない拘束を受ける、こういうふうに解釈するのでありますが、この道理は、今の条文においてもやはり同じだろうと思うのであります。従いまして、上述の要件を備えたものと認めた以上は、必ず譲与すべきところの法的拘束を受ける。要件の具備を認めつつしかも譲与しないという場合には、これは違法処分になると思うのであります。ただ、しかしながら、違法処分という場合に、すぐに問題になりますのは訴訟との関係でございますが、私の考えでは、この場合に、その違法処分というものを取消すところの訴訟、これは訴願ではありませんで訴訟の方でございますが、そういう行政訴訟というものを起し得るかどうかということは、これは別問題だろうと思うのであります。なぜかと申しますと、訴訟提起の要件といたしましては、違法処分が存在するという一つの要件のほかに、もう一つ権利侵害という要件が必要であるわけであります。ところで、本条におきまして、社寺に譲与を受くべき権利があるかどうかと申しますと、私の解釈といたしましては、譲与を受くべき権利はむしろないのではないか、こういうふうに考えているのであります。これがかりに、たとえば所有権を返還する、こういう条文がありまするならば、これはもちろん権利があると言えましようが、この点は、法の解釈といたしましては、所有権の返還というように強く意味づけることは妥当ではないと思うのでありまして、あくまでそれは、いわば国有地を護与するかどうか、いわゆる国有地の譲与処分にすぎないのでありますから、社寺に譲与を受くべきところの権利は認められない、こういうふうに私は考えるのであります。それは、法学的な言葉を用いますならば、いわば法の反射的な利益にとどまる、こういうふうに思いますので、従つて、違法処分でありましても、権利侵害の要素を欠きますために、訴訟提起の要件は充足せられない、私はそう考える次第であります。もつとも、そうであるからといつて、それではその違法処分と認めたことが何ら意味がないかと申しますと、これはやはりそうではございませんで、たとえば国会の行政監督機能といたしまして、違法処分であるというふうな批判を受ける。これは相当そこにもちろん重みが加わる。あるいままた、法的な側面こおきましても、たとえば民法であるとか、あるいは国家賠償法、こういうようなものによつて損害賠償の請求を受けたりすることは当然あり得ると思うのであります。なぜかと申し上げますと、処分の取消し訴訟と違いまして、不法行為につきましては権利侵害という要件を必要としない。すなわち、行為が違法であるということと、そこに損害が発生した、この二つの要件さえ充足しますれば、権利侵害はあえて問うところではない、こうなるのであります。この点は、民法の七百九条に権利侵害の要件があるじやないか、こういうふうにお考えになられる方がおられると思いますが、私、民法学者ではございませんので、自信を持つてはつきりしたことはあるいは答え得ないかと思いますけれども、私の調べました限りにおきましては、この権利侵害というのは、だんだんゆるやかに解釈せられまして、それは単に行為の違法性を意味するにすぎないのだ、こういう解釈に、ほとんど現在は通説として認められているのであります。その証拠に、そのゆえに国家賠償法の第一条におきましては、権利侵害という要件を削除いたしまして、単に違法行為によつて損害を発生せしむる、こういう要件だけしか掲げてないのであります。これはその点を証明しているものだと思うのであります。これが第一の場合の論点でございますが、この第一の場合においても、公益という概念、これはやはり問題になるのでございますけれども、これは第二のところで申し上げたいと思います。  第二の場合は、先ほども申し上げましたが、法の第一条の要件を充足し、かつ施行令第二条に該当する場合でございます。換言すれば、法の第一条の要件を満たしているが、しかし公益上国有存置を必要とする場合であります。この場合は、この両方の条文の趣旨からしまして、そういう要件の備わつておる場合におきましては、これは主務大臣は譲与すべきではない、すべからざることはもちろんであると思うのであります。この場合に、これは第一の場合においても問題になりますが、いわゆる公益というのは何であるかということは、外国の学者などの言うところを見ましても、実は漠然たるものでありまして、たとえば、公の福祉が要求している、こう信じているところを行うべきであるとか、あるいはまた、国家目的にかなうような行為とか、こういうように、いわば国や社会一般の利益というほどの意味でありまして、具体的な場合においては、具体的な場合に応じてこれを解釈しなければならない。これを一般的にきめることはとうてい不可能であるかと思うのであります。その点におきまして、その典型的な公益といいますか公共の利益という言葉を用いておりますのは、たとえば土地収用法の第二条には「公共の利益となる事業」、こういう言葉が使つてございますけれども、この「事業」は、直接有用でありかつ実益あるものでなければならない、こういうふうに、この場合の公共の利益は相当厳格に解釈しております。しかしながら、これは、土地収用というようなものが所有権に対する侵害である、こういう点から非常に厳密に解釈しているのでありまして、この法律の場合においては、そういう場合ではございませんで、国有を継続するかどうか、そのまま国有の存置にして置くかどうかということでございますから、これほど厳格に解釈する必要はないのではないかと考える次第であります。それから、その次に、公益上必要であるかいなかということの認定は、これはいわば主務大臣の自由裁量に属すると思うのであります。従いまして、たといかりにその主務大臣が判断を誤つた場合におきましても、それは不当処分にしかなり得ない、違法処分とはなり得ないと思うのであります。なぜかと言いますと、いわゆる公益目的というふうなものは、あらゆる行政に通ずるところのいわば最終の目的でありまして、公益の原則を受けるものがすべて覇束処分になるのだといたしますと、おそらく行政処分一つとして覇束処分たらざるはなし、こうなりまして、いわば覇束処分と自由裁量処分、従いまして違法処分と不当処分、これを区別するところの意味がまつたく失われてしまうわけでございます。従つて、公益目的を掲げるにすぎない場合におきましては、その判断を法律は行政官庁にゆだねたものである、こういうふうに見られると思うのであります。従いまして、その公益の認定をかりに誤りましても、それを理由として行政処分を裁判上争うことはできない。そういうふうに私は申し上げるのであります。その程度でございます。
  86. 塚原俊郎

    塚原委員長 今の問題に対しまして石井先生の御意見を承りたいと思います。
  87. 石井良助

    石井参考人 昭和二十二年の法律第五十三号によりますと、国有地が譲与されるためには、まずその土地が社寺上地、地租改正、寄付等によつて国有となつた国有財産で、この法律施行の際に現に社寺等に国有財産法によつて無償で貸付がなされ、または国有林野法によつて保管されていることが一つの条件になりまして、第二番目に、その社寺等の宗教活動を行うのに必要なものであるという要件、この二つの要件が満たされなければならないわけであります。  まず、第一番の要件について考えますと、富士山の八合目以上の所属につきましては、往古はしばらくおきまして、安永八年の十二月五日の富士六合目以上の支配出入等に関する幕府の裁許状によつて、「依之今般衆議之上定趣者、富士六合目より上者大宮持たるべし」とありますので、安永八年以後それが大宮浅間神社の所属であつたことは問題はないと思います。「大宮持」の「持」というのは、先ほど和歌森教授もおつしやいましたが、普通は所有ということに考えられております。しかし中には弱い占有程度の見方もありますが、普通は所有ということになつております。ただ、ここのところで問題は、むしろ「支配出入等」ということになつているのに、この裁決の文に、「大宮持」という言葉が出て来るのは、ちよつと私は不審に思つておるのでありますが、しかし、全体の様子から見まして、こういうふうになつたと見てさしつかえないように思います。そういたしますと、当時の用語例では、大宮の所有たるべしということになつたわけでありまして、この裁許状の文面からはそう解せざるを得ないわけであります。ところで、富士山頂上には、富士信仰と六日信仰との結合によりまして六日堂が設けられました。ところが、明治初年の神仏分離の結果、明治六年六日堂が撤去されまして、そのあとに静岡県庁の許可を得て浅間宮が創設されまして、本宮の摂社に列せられて、十二年の七月には奥宮に改定されているわけであります。その後間もなく、同年の八月十日に、奥宮境内の範囲につきまして、静岡県庁に神社から、「今般奥宮御達相成候上ハ、勿論八合目以上悉皆奥宮境内ト相心得可然奉存候」というふうに伺い出ましたところが、同月十四日に県令から、「奥宮境内ノ儀ハ従前通り可相心得候事」という指令があつたのであります。ところが、この従前通りというのは、六日堂時代にその支配者たる村山池西坊の管轄した頂上東駒ヶ岳俵石より西三島岳に至る付属地を指すのか、あるいはまた本宮の管轄した八合目以上全体を指すのか不明であつたから、そこで、宮司からさらに、従前通りというのは八合目以上を奥宮境内地と心得てよいかどうか伺いました。ところが、「奥宮改定ノ儀ハ別段地所ニ関係無之儀ト可相心得旨」の指令があつたのであります。これより先、明治四年正月五日の太政官布告によりまして、現在の境内地を除きましたほか社寺領の上地が行われたわけでありますが、ただどの範囲を境内地考えるかについていろいろ問題が起つておるのでありますが、地租改正に際しまして、明治八年六月二十九日地租改正事務局の達乙第四号というのがありまして、その社寺境内外区画取調規則第一条に「社寺境内ノ儀ハ祭典法用ニ必需ノ場所ヲ区画シ、更ニ新境内ト定、其余悉皆上知ノ積取調ヘキ事」ということになつております。そこで、そういう方針で政府でやりましたものですから、すなわち、境内以外は「悉皆上地ノ積取調ヘキ事」という方針で政府でやつたのでありますから——実際は法律的には境内外の区画のみを定めたものでありまして、境内外とされたものをただちに上地されるわけではないのでありますけれども、実際としてはこういう取扱いが多かつたと思われます。そのときに、新境内として定められたもの以外は全部上地されてしまつたらしいのであります。しかりといたしますと、地租改正によりまして、富士六合目以上は、それまで浅間神社持ちであつたものが上地されたに違いないと思うのでありまして、こういう事情を考慮に入れますと、先ほど申しました「奥宮改正ノ儀ハ別段地所ニ関係無之義可相心得」という指令は、浅間神社の摂社が奥宮に改定されても、さきに上地された富士六合目以上がもどされることはない旨を述べたものと思われるのであります。ここにおいて、宮司は、翌十四年四月五日に維新前の支配地たる八合目以上を奥宮境内に決定せられたき旨を内務卿に出願いたしましたが、内務卿の方から、「境内外区域相立ツルニ不及候条奥宮ニ於テ使用ノ場所坪数等取調可届出」という指令がありました。そこで八合目以上の百七万六千三百十二坪を奥宮の使用地として届け出ました。ところが、奥宮使用の場所というのは、その奥宮の祭典及び事務取扱い等に関して使用する場所を言うのであるということで、この伺い書は返戻されているわけであります。こういうわけで、その後明治二十五年に八合目以上は静岡県から境内地に準ぜられるものとされましたが、まだ境内地になつたわけではない。それが三十二年に静岡県の知事から、富士六合目以上の土地を同神社境内として確定する旨の通知があつたわけであります。さらに、御料地もこれに加えまして八合目以上の境内編入が宮内省から認められたわけであります。これより富士山の八合目以上はすべて浅間神社境内地として国有財産法上公用財産として取扱われておるわけでありまして、それが終戦後雑種財産となつて、法定無償貸付を受けるようになつておりますから、先ほど申しました第一条の要件は十分備えていると私は考えます。  次に、第二番目の、富士山の八合目以上が大宮浅間神社宗教活動を行うのに必要なものであるかという点が次に問題になると思います。これにつきましては、施行令には、社寺に譲与する国有財産は左記各号の一に該当するものといたしまして、九つの項目をあげておりますが、今の場合関係ありますのは、第一号の「本殿、拝殿、社務所、本堂、くり、会堂その他社寺等に必要な建物又は工作物の敷地に供する土地」、第二号の「宗教上の儀式又は行事を行うため必要な土地」、この二つであろうと思います。第一号との関係におきまして、神体山の問題がおそらく関係あるのだろうと思います。第二号との関係におきましては、八合目以上が浅間神社宗教上の儀式または行事に関係あるものであるか、この二つが問題になると思いますが、第一号の神体山の問題につきましては、和歌森教授から今詳しく御説明がありましたが、私は、しろうとでございますからよくわかりませんが、どうも、神体山としての純粋な形は、先ほども申しましたように、三輪山のように、古来神殿の設けがなく、山麓に拝殿があつたのがおそらく純粋の形ではないか。それに比べますと、富士山の方は山麓に拝殿だけでなく神殿までもある。しかも、明治以後になりますと、一般人が広くこれに登山するというようなことが行われておりまして、どうも神体性というものが純粋なものを相当つておるのではないかということを考えます。それにいたしましても、神体山的であるということについては問題はないと思います。次に、八合目以上が大宮浅間神社宗教上の儀式または行事を行うために必要な土地であるかということが問題になると思います。この点につきましてもいろいろ問題はあると思いますが、これも道者の行事というものは、私の考えるところでは、浅間神社そのものの活動とは直接には関係はないのではないかと思われるのであります。それから、先ほど申しましたように、明治十五年、八合目以上百七万六千三百十二坪というものは奥宮使用地として届け出ましたが、神社局長から、奥宮使用の場所は祭典、事務取扱いに関して使用せられる場所であるというので、これを否認したところから察することができるのではないかと思うわけであります。以上二つの点を考えてみますと、富士六合目以上が浅間神社宗教上の儀式または行事を行うために必要な土地であるという点は、どうも根拠が薄弱ではないかと、私はしろうとながら考えるのでありますが、富士山浅間神社神体山であるという性格はある程度は残つているというふうに考えます。そういたしますと、先ほど申しました法律の条件は全部かなつておるわけでありますから、すなわち先ほどの法律第一条による譲与の適格性は有しているものであると考えられます。  しかるに、本法第一条に適合する土地はすべて譲与され得るかと申しますと、そうではなくして、施行令第二条は、国有の社寺境内地であつて国土保安その他の公益上または森林経営上国において特に必要があると認めるものは、国有として存置して、譲与しない旨の規定があります。そこで、この点を吟味しなければならないのではないかと思います。ところで、富士山の八合目以上が国土保安上または森林経営上国有として存置しなければならないという理由は認められないのでありますから、残る問題は、公益上特に必要であるかということになるのではないかと思います。  そこで、具体的に富士山について考えますと、有形的に登山のための道路、たとえば登山路、頂上の環状道路のように、一般的公用に供せられるものが公益上必要であり、そしてまたそれが富士登山の普遍性にかんがみて必要であるということは問題はないと思います。問題は、国民富士山に対して特別なる感情を持つておるのでありますが、この国民感情がはたして公益として扱われるかいなかということにかかつて来ると思います。富士山日本の唯一の高山として、また東海にそびえ立つその秀麗な姿によりまして、古来わが国民一般によつて敬慕されて、日本国土象徴として渇仰されていることは、いまさら申すまでもないわけでありますが、ことに、明治以後になりますと、交通の発達によりまして、まのあたりその威容に接する者が数を増しまして、また、明治以前には富士山に登る大半が道者でありまして、普通人の登山はまれであつたのでありますが、明治以後登山の普及によりまして、富士山は最もポピュラーな登山の対象となりまして、また外国との交通の開けるにつれまして、世界名山として全世界に喧伝せられるに至つたわけでありまして、今日に至りましては、富士山国民のものであるという強い国民感情が生れていることは、人が否定し得ない事実であります。そこで、かかる国民感情がはたして公益となるのであろうかという点に問題があると存じます。  そこで、まず公益という言葉の意味が問題となりますが、公益が公共の利益の意味であることは疑いないと思います。また公益は国家のみならず一般国民大衆をも含むものであるということも問題はないと思います。利益もまた、有形的、物質的利益のみならず、無形的、精神的利益をも含むものと考えます。そこで、問題は二つにわけて考えることができます。一つは、国民感情が公共の利益として取扱われるということが可能であるかどうかということ。第二に、もしそれが可能でありましたとして、このような富士山に対する国民の感情がはたして公益になるかどうかということになるのではないかと思います。第一の問題としましては、現行法上感情が利益として取扱われる場合があります。民法第七百十一条は、「他人ノ生命ヲ害シタル者ハ、被害者ノ父母、配偶者及ヒ子ニ対シテハ其財産権ヲ害セラレサリシ場合ニ於テモ損害ノ賠償ヲ為スコトヲ要ス」というように規定しております。近時の有力な学説は、この規定は生命の侵害に基く近親に対する精神的加害が違法性を帯びる範囲を規定しておるものと解しています。精神的加害というのは、子、配偶者及び父母の愛情に対する加害にほかならないのでありますから、こういう感情というものが法律上の利益として考えられているわけであろうと思います。そこで、問題は第二の問題になりまして、国民感情一般が公益たり得るものでないことは私は確がだと思います。問題は、富士山に対する国民感情が公益と呼び得るかどうかということでありますけれども、この場合、公益性というものの強さが私は問題になるのではないかと思います。法令に見える公益というものもまた、その立法目的ないし精神によつて強弱があるはずであります。先ほどもお話になりましたが、権利の概念もだんだんと広く解せられて行く、単なる利益あるいは権利の侵害ではなくして、違法性の問題にまで民法の要件が広がつて来るわけでありますから、公益という概念も相当幅があるのでありまして、具体的に本法に用いられた公益というものがどういう意味であるかということを考えなければならないと思います。そこで、本法の立法目的ないし精神を考えてみますと、これはやはり終戦後総司令部から発せられた覚書によるのでありまして、神社に対する国家の財産からの一切の財政的援助や公的な要素の導入を禁止したところの昭和二十年十二月十五日付の覚書によりまして、昭和二十一年一月十三日に総司令部から、「現ニ宗教団体が利用中ノ公有地デソノ宗教的活動ニ必要ナ公有地ノ所有権ハ、適当ナ日本政府機関ニ申請スレバ無償デソノ団体ニ与ヘラレル、但シ一八六八年以前ニ宗教団体ガソノ土地所有シ、又ハ国家ガソノ土地ヲ上地セシメタ際ニ宗教団体ハ何ラ償ヲ受ケナカツタコトヲ条件トスル」ということが覚書で出ております。これに基きまして、二十二年の法律第五十三号が成立したのであります。このいきさつを考えてみますと、本法は、国家特定宗教に特別の保護を与える制度を廃止する立法と相まちまして、現に国家より宗教団体に無償で貸し付けてある境内地等については一定の要件のもとに宗教活動を行うに必要な範囲において宗教団体に譲与して、国家特定宗教の伝統的な保護関係を断絶して、宗教団体をして自主独立の活動を行わしめようということを主眼とするものであります。従つて、本法は社寺に対して特別の保護、利益を与えるための立法ではありませんから、譲与される土地は厳密に宗教活動に必要な範囲に限られなければならない。また本法は、社寺等に対して特別の保護、利益を与えようとするものでないことはもちろん、社寺上地、地租改正等によつて国有財産となつた土地を、さきの上地が不法不当であつたとの理由で無条件に還付しようとするものでもないのでありまして、社寺などをして将来において国家の監督統制を離れて自主独立の活動をさせるために、元社寺等の所有地であつて社寺上地、地租改正等によつて上地され現に無償貸与してある国有地の中より宗教活動に必要な範囲の土地を与えることにしようというにすぎないのであります。すなわち、施行令に見える公益というのは、社寺等が現に有しまたは有すべき財産権を剥奪しまたはこれを制限するための要件ではなくして、国家国有地を特に決定して社寺等に譲与するのをチェックするための要件であります。前の場合ならば、公益性が相当強くなければならないことは、憲法第二十九条第一項の「財産権は、これを侵してはならない。」という規定の要請するところであるが、後の場合にはそういう要請があるわけではないのであります。もちろん、あとの場合でも、法律によつて認められた権利は十分尊重しなければならぬが、しかし、あとの場合のチェックの要件としての公益は、前の場合のそれと比べれば、公益性の程度の低いものであつても十分であろうと考えます。ところで、先ほど申しましたように、国民富士山に対する感情というものは、富士山をもつて典型的なと言うより唯一無比の、しかも日本国土とともに永遠にかわることのないその象徴考えておるのであります。その意味におきまして、この国民感情は絶対性を有するものと言うことができましようし、かかる国民感情は、先ほど申し上げたような程度においての公益たり得るだけの利益性を有するものと考えるわけであります。  次の問題は、しからば富士六合目以上はこういう国民感情がある場合に神社に譲与すべきか国有に存置すべきかということになるのであります。結局、この問題は、かかる国民感情と、先ほど申した神体山信仰に立脚する宗教的活動の場としての富士六合目以上の必要性とを比較して、いずれを重しとするかということに帰着することになります。もしかりに、富士山が六三輪山みたいに今に神体山として純粋性を保つていたらどうであろうか。私は、国民感情の存在にもかかわらず、やはり富士六合目以上は大宮浅間神社に譲与せられるのが当然であると思いますが、しかし、先ほど申しましたように、現在の富士山神体山的性格はよほど弱まつたように、私はしろうとでありますけれども考えているのであります。しかし、もし弱まつておりましても、それが国民的感情の対象にならないならば、それは譲与されるべきが当然であろうと思いますけれども、先ほど申したような、富士山に対してはこれに対立する強い国民感情がありますし、しかしてまたそれは、明治以後国有地である土地を、世界日本国土象徴となつた今日におきましていまさら神社に還付する必要はないという国民的感情、そういうものは、先ほど申しました弱化した神体山信仰を圧倒するに足るものであると私は確信しております。すなわち、これを国有地として存置することは、公益上特に必要であるというふうな必要な場合に該当するというふうに私は考えておる次第であります。しかし、もちろんそれは、八合目以上におきまして浅間神社奥宮敷地その他宗教的具体的に必要な場所が譲与されることに異存があるわけではないのでございます。  たいへん長くなりました。
  88. 塚原俊郎

    塚原委員長 今の点につきまして、和歌森先生……。
  89. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 富士山神体山としての性格を一つつておるということは間違いがないと思うのでありますがその度合、今石井教授がおつしやつたように、あるいは弱いかもしれない。最も厳格な神体山であるならば、絶対に入山を禁ずる、特定な人だけが入れるというようなことになるかもしれないのが、今日のように開放されておるというと、その性格が弱いということが言えるかもしれません。従つて、ほかにまたいろいろな属性が富士山に伴つておるということになるのでありまして、その属性の一つとしての神体山的の性格と、それから、ほかに、今も出ましたように、いわゆる公益というふうに考えられております使い方と申しますか扱い方、それがあるわけであります。登山の対象として、あるいはレクリエーシヨンの対象として行くというようないろいろなそういう性格を持つておりますから、従つて、単に神体山的の性格ゆえにこの全体が——八合目以上といつても、ある特定神社所有さるべきものであるとまでは言われないじやないかということは私も考えます。ただ、登山の対象あるいはレクリエーシヨンの対象として、あるいは学術研究の対象としてというふうないろいろな面につきまして、学術研究だけはともかくといたしまして、公の性格というものは、ひつきようするところは、やはり神体山的な性格というものが土台となつての働きではないか、性格ではないかというふうに私は考えるので、これは今日の登山者の態度をわれわれ反省すれば十分にうなずけるのじやないだろうか。それは、非常に宗教的性格を稀薄にしておる、単に形式的なものであると言うかもしれませんが、しかし、事実において、お札をもらつて帰るということは、広い意味信仰対象として登山をしておるのだということになるのでありまして、広くこれを神体山的属性がぺースになつておる国民の態度であるというふうに言えないことは決してないと思うのであります。そこで、今石井教授がおつしやつたようなたいへんに弱まつている神体山的な属性というものを、おつしやつた以上にもう少し強く認めて行けるのではないかということがあります。それから、ただ私どもは、そういうふうに神体山として見ている者がそのように国民一般であるということになりますと、つまり、単に富士宮市の連中だけがこれを神体山として見ているのじやなくて、現実にそのような登山をするという行為の基礎に神体山的な性格を置くとするならば、結局国民の多くの人がやはりこれを神体山的な属性として見ているということになりまして、特定の者にだけ所有権が譲られるということは少しおかしくなるんではないかと思うのです。で、結局のところは、やはりこれは国民のものであるという考え方を尊重していいんじやないかと思いますが、ただ、実際上この信仰を結集するというか、最もしぼり上げて現実に祭りを行う特定の者は氏子であり、またその代表である、あるいは中心点である浅間神社であるということになりますから、ある部分はこの神社にまかせられなければならない、譲与されなければならないというふうに考える。しかしながら、先ほど初めに申しましたように、それを特定な祈祷場とか行場ということだけに限るということは、これはできそうでいて実際はできない。宗教というものをよく理解されますならば——宗教といいますか、日本神社神道といつたものを、あるいは民族信仰というものを理解されるならば、これはちよつと切り離せないのでありますから、そこで、これは何らかの形におきまして全体として所有させるべきであるということになりますと、非常に困難な問題になるわけであります。一面においては国民のものである、ある一部分においては神社のものであるということを解決しなければならないので、結局、私は、これは一応全体として国有地とする、そうして、宗教活動上についての管理権と申しますか、そういうことは私法律の専門家でないから知りませんが、要するに、共同所有というようなことを何か具体的に成文化することができないものであろうかというふうなことをただ考えるのであります。従つて、さつきも言いましたように、事務局案のA案というものがよほど近いんではないか。ただ、これが政教分離建前とする憲法に基くこの五十三号の法律にどうこうということになりますと、これは政教分離といいましても、なお宗教という概念について検討をして、日本人の立場での宗教といつたようなものから考えます場合に、相当考え直しができるのではないかしらということを思つております。で、単に機械的に政教分離だから国有地部分的に管理委託するというようなことはできないんだというふうに言い切れるものでもないんじやないか。そこのところをなお皆さんが研究なされる必要があるんじやないかしらと思つております。
  90. 塚原俊郎

    塚原委員長 ありがとうございましこ。  遅参された委員の方もおありでありますから申し上げますが、今お見えになつておる参考人の方は、向つて右から、早稲田大学の有倉教授です。それから、東京大学の石井教授です。それから、今御説明願つたのが教育大学の和歌森教授であります。委員の方の御質問がありましたら、どうぞ。
  91. 遠藤三郎

    遠藤委員 和歌森先生に一言お伺いしたいのでありますが、ただいまのお話では、神体山宗教というものは確かにある、そして、富士山の場合におきましては、頂上一面にただよつておる一つの空気といいますか、雰囲気といいますか、それが信仰一つ中心になつておる、こういう趣旨お話があつたのであります。そこで、一つの問題として出ておりますのは、あそこを国有地にしておいては神社のお祭りの用に供することができないような状態になる、非常に狭められて参りますと、あの山を信仰中心にしている浅間神社というものが破壊されてしまうということがあるということです。そこで、先生のお考えでは、相当面積を縮小してしまつて、お祭りをする地域をごく小さくして参りましても、富士浅間の場合における神体山宗教の本来の使命といいますか、資格といいますか、そういうものを没却しないであろうかどうか、その点についての先生の御意見を伺いたいのであります。つまり、もう少し具体的に申し上げますと、面積を縮小してしまいまして、ただ神社の周辺だけを敷地として提供しておく、それでもつてあの神体山宗教というものが、それを中心にして信仰の集まりのありますのが大きな障害にぶつかるようなことはないかどうか、こういう点についての先生の御意見を伺いたい。
  92. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 お答えします。私は、やはり、全体として八合目以上が宗教活動の対象になる、特定のある区域だけを限ることはその宗教活動にとつて支障があるというふうに考える者であります。それは、非常に深い宗教観念と申しますか、日本人の信仰観念から申しますと、神の霊というものが非常に固定性を持たないものでありまして、何となしにあのあたりにおられるというふうな考え方というものが民間の中に強いのでありまして、どつかに焦点をきめたということは第二段目の段階になるのですが、その第一段の段階を尊重するとなると、やはり全体を宗教活動の対象としなければならないのではないか。これをあえて、今日の時代だから、この区域に限るという考え方になつたらいいのではないかと言われれば別ですが、なかなかそういうふうには宗教人としては受取れないのではないかと思います。
  93. 遠藤三郎

    遠藤委員 ただいまの説明、非常によくわかりましたが、今度は私は早稲田大学の有倉先生にお伺いしたいのであります。先生のおつしやる第二の場合でありますが、公益上国有存置を必要とする場合ということについていろいろお話がございました。土地収用法の場合における公益は、権利の侵害になるという問題が出て来るから、きわめて狭く考えなければならない、これはよくわかります。この問題において石井先生の考えははつきりしておりましたが、有倉先生に、公益上必要があるから存置すべきだという結論でございましようか。あるいは、存置しなくてもいい、こういう結論でございましようか。結論を伺いたいと思います。
  94. 有倉遼吉

    有倉参考人 その点は確かにはつきり申し上げなかつたのでありますが、結局、私の申し上げた趣旨は、土地収用の場合よりも厳格に解釈する必要はない、公益というものを相当広く解釈してよろしいというふうに考えますので、その点については大体石井教授の御意見と同じであるというふうに申し上げておきます。
  95. 長谷川峻

    ○長谷川(峻)委員 有倉先生にお尋ねしますが、先ほどのお話を承つておりますと、政教分離建前からしてこれが法律化されまして、現行法の解釈からしますと大蔵大臣はこの法的拘束を受けられるということを明言されております。そうしますと、法律的な解釈からいたしますと、従来神体山信仰としてやつて来ておつた八合目以上というものは、審査会の答申通り大蔵大臣がこの法律に拘束されて決定しなければならぬというふうに伺つていいのでしようか。これは第一前提としての質問でありますが、ということは、先ほど先生は、その法律語の解釈を、与えなくても済むのではなくて与えなければならぬというふうに、警察官の例を引いてお話になりましたけれども、私が進駐軍の原文を見た場合、非常に強い言葉で表現されておつたので、法律的な用語としても、先生のおつしやつたその解釈の方が正しいのではないかというふうに考えている者でありますが、この点を一応明確にお聞きした上で、また御質問したいと思います。
  96. 有倉遼吉

    有倉参考人 お答え申し上げます。私がこの法の第一条の点について申し上げましたのは、そこに一つの前提がございますので、法第一条並びに施行令の第二条に要件が定まつております。そして、その法第一条の要件に該当し、かつ施行令の第二条に該当しない——該当しないといいますのは、公益上必要じやないと認めた場合でして、その場合には必ず譲与をしなければならないのだ、こういうことを申し上げたのであります。その要件に該当するかどうかという法の要件の適用の問題については、和歌森先生及び石井先生の御知識をまたなければ、私はその点については知識がないものでございますから、申し上げなかつたわけでございます。その点は、要件に該当するかどうか、もし要件に該当しないという認定があつた場合、それは必ずしなければならないのだ、こういうことであります。
  97. 長谷川峻

    ○長谷川(峻)委員 そこで、今度は和歌森先生にお尋ねしたいと思うのでありますが、先生は、御専門の立場からいたしまして、山頂に神霊があるというお話からずつと出まして、大宮持ちというその昔の裁許状は今日の所有権のような強いものではないというふうな御判断のように私たち聞いたのであります。信仰も破壊せず、しかして、われわれが一様に憂えておる国民感情も満足させながら、これを上手に、と言つてはおかしいのでありますが、円満に解決したいというところにわれわれ一同の苦心の存しておるところがあるのであります。先ほどの御表現からいたしますと、大宮持ちということは所有権じやなくして管理権であるような解釈のように承つたのでありますが、こういう、信仰も破壊せず、といつて法律的には一応三つの前提が満足されておるように従来ずつと委員会で私聞いているのでありますが、前提が充足されておりまして、法律的に大蔵大臣を拘束するという形になつてつて、しかして大宮持ちというものが強い所有権ではなくして管理権のようなものを含んでおるという形からすると、そこのところを国民感情としてお互いがきれいなものとして持つて行きたい。この点、専門的な立場からして何か参考になる御意見をお伺いしたいと思います。
  98. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 ただいまお話のように、私は大宮持ちたるべしという考え方を、今日われわれが普通常識的に考えておる所有観念と違うものじやないだろうかということを申したのでありますが、それは、たとえば、こういう事件がなかつたからよろしいのですが、この八合目以上の、甲州側あたりなどにある部分をさいてだれかに売ることをこの浅間神社においてやつた、そういう行為をしたとする場合にどうなつたかというようなことを考えますと、これは幕府の判断というものはまた相当違つて来ておるのじやないかと思うのです。江戸時代以前におきましては、無主の地と申しますか、山などについてはたいへんあいまいに放擲されていたことがあるので、何かのきつかけを得まして、そのことについてだれが扱うというふうな判断が下されるのじやないだろうか。そこで、この資料に忠実である限り、全体的に何もかも、売買質入れの権能も、——こういうことは山の神社についてはあり得ないことでありますが、一般論といたしますと、浅間神社にそうした権利がすべてあるのだというふうには受取られていなかつたのではないか。積極的に大宮持ちというものを所有地でないというふうに言い切ることはまだ無理でありますけれども、何となしにある限られた場合だけについての所有権というのですか、それを結局私は感じたというふうに言い直しておるのであります。ただ、今の最後の問題になりますと、明治の政府も、あるいは信者はもちろん、そのあたりの人々も、これを浅間神社所有地として事実上は認めて来ておる。その結果今日に至つておるのですから、法律上における第一の要件はやはりその事実判断に基いてかなつていると言つてよいのじやないか。だから、これは取返しのつかないことをちよつと言つてみたにすぎないことであります。
  99. 北山愛郎

    ○北山委員 和歌森先生にお伺いしますが、これは御承知かどうかわかりませんが、せんだつて富士山浅間神社に参つたときに、山宮へ参つたのです。神社の方の話では、先ほどもお話のありましたように、一年に数回山の神様を里にお招きするという儀式をやるのだそうでありますが、その際に、ほこを里宮の方から山宮のところに持つて行き、そしてそのほこに神様を宿すか何かしてまた持つてつて、今度は里宮の方でお祭りをするというふうに聞いたのでありますが、そのほこを持つて行つてやるという儀式は神体山信仰とどういう関係があるか、御承知であつたらお伺いしたい。  それから、この神体山信仰と、太陽信仰というか、そういうものとの差を私の方で非常に気にしておるのですが、宗教活動の対象として富士山なら富士山という山岳を見る場合に、その対象が存在するということはもちろん必要であります。それから、その対象である山が、形がくずれずに維持されて行くということも信仰の対象として必要な要素じやないか。いわしの頭がなくなつてしまえばそのいわしの頭の信者もなくなるわけです。とにかく、それが存在して、その形態を保つておるということは、もちろんそれは必要な要件である。それからまた、必要な儀式とか行事をやるような場所も必要だろう。それ以外に、その山なら山を独占的に他を排除して持つていなければならぬという要件が、これは必ず必要だと考えるかどうか。太陽信仰の場合には、拝むことも、場所も必要であろうし、また太陽の存在ということも必要でありましようが、その最後の独占的に持つということはないわけなんです。そこで、神体山信仰の性格というような点から見れば同じような性質のものに考えられるのですが、独占的に他を排除して自分がそれを持つていなければならぬということが絶対必要な要件であるか。もし要件であるとすれば、今まで国有財産であつたり、あるいは国から借りたり、そういう状態においては信仰そのものの内容が破壊されておるのではないかというふうにも考えられますので、その二点をお伺いしたいと思います。  なお、あとの部分につきましては石井先生からもお伺いしたいと思います。
  100. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 第一にお尋ねの、ほこを持つて山宮に参つて、それをまた里にお迎えしてお祭りをする、実際その通りでございますが、これは別に珍しい例でもありません。とにかく、何かひいでた形のもの、割合長細い、そういうものを持つて行くことによつて、それを神様の「よりしろ」とする、ひいてはそれがまた神体というふうにまで限定されて行くこともありますが、そのように、あるとつ先のあるもの、そうしたものを用いて神様を寄りつかしめるということは、割合によく行われていることで、民間のお祭りにはかなりございます。山宮には、実際また神職の方々があそこに行かれて、若干の時間行をされる。行というか、おこもりなどされるということも、今日ではちよつと存じませんが、確かに行われて来たことでございます。それは結局、山の神霊というもの、山神を通じて、あらまさして迎えるということなんで、こもり場はあらまさせる場所、あらというのは変な言葉ですが、実現させるということ、ここで実現させて、そうして里へ迎えてお祭りをするという三段の構えをあの山はとつているので、小さな場所ですと直接山のこもり場から迎えるということになつておるのです。  それはそれでいいのですが、第二の、神体山信仰に即した宗教活動のゆえにその対象を独占しなければならないものかどうかというお尋ね。これは、さつき申し上げましたように、富士山というものは、単に神体山信仰という性格、それだけの性質を持つている対象としての山ではなくして、いろいろな性質を持つていますので、その点からして、私は独占ということは無理であるということは思います。だから、国民的な立場、信仰が一応国民的規模になつている限り、もつと広い場においてこれを所有するということはけつこうだろうと思うし、従つて国有地にすることは一応私は賛成でありますが、今類推的な太陽信仰お話がございましたが、これはあまり類推が巧み過ぎると言うか、言い方が問題だと思うので、実際のあの山についてだけ考えて行つた方がいいのじやないかと思います。太陽信仰の場合に限らず、何かある信仰の対象になつておりますものを信仰する者が持つのが普通でありまして、信仰について、特に何か祭りをまかせて、いわば代理人にこの行事をやつてもらいたいという場合に、その代理人にあたるようなものが持つということはむしろ不自然じやないか。だから、信仰の場が広ければ広いほどこれは全体として持つべきであつて、ある限られた氏子といつた者だけが信仰している場合にはその代理人である神社といつたようなものが所有者になることは別に不自然じやないのですけれども富士山のような規模の広いものになりますと、たいへんそこが問題になると思います。
  101. 北山愛郎

    ○北山委員 それで、問題は、その信仰の側から見れば、そのものを持つていなければならぬ。それは、神体山信仰の沿革というか、昔からの持つておる本質から言えばそういうことが言えるかもしれません。しかし、それは、先ほどもちよつとお話がありましたように、明治以前の何百年もずつと前に山の所有管理というものが明らかになつていなかつたというような時代におきましては、その山を信仰する人が事実上持つてつてもさしつかえはなかつたかもしれぬ。しかし、現代のようないろいろな利害関係なりあるいは感情というものが錯綜している場合に、この現在の法律制度のもとにおいて、その宗教感情に法律上の利益を認めなければならぬかどうか。これは、先ほど来お話のような公益ですね。富士山を愛好する国民的な感情というものに公益としての法律上の利益を認めるかどうかという問題も同じように考えなければならぬのじやないか。信仰の方が先行しておつて、そういう宗教感情がすでにあるから、その方は、たといそれが信仰しておる人の主観的な感情であろうとも、それに対しては法律上の利益を認めるんだ、しかし、公益という問題は、あとから出て来たことだからして、今の法律の思想では、まだ無形のものあるいは精神的なものにこれをどんどん及ぼして行くというところまでその思想が進んでおらないということで、消極的に解釈されておる向きがあるようでありますが、その宗教感情に対する公益、この公益という点ですね。そういうような宗教感情以外の国民感情についても、たといそれが無形なものであつても、やはり同じように法律上の利益を少くとも平等に見て行かなければならぬじやないか、こう思うのですが、その点について、これは石井先生からもお伺いしたい。
  102. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 私から先にお答えいたします。確かに、おつしやる通りでございまして、つまり信仰上の問題と一般公益の方とどちらが比重的に重い価値を持つかということ、それは同じように考えなければいけない。従つて、その浅間神社が行うところの宗教活動についても決して妨げてはならないということは大事なことだと思うのです。これはやはり生存権を保証してやるということが大事で、その生存権の保証というものがこの八合目以上を対象としての宗教活動であるということになると、それを保証するような考慮をやはりなさるべきじやないかと思います。だから、その折半の仕方と申しますか、公益から来たところの所有地問題と生存権を保証するための神社所有地というものをどういうふうに扱うか、ただ地域区分ではなくして、時期的にある事情の上で折半するということをお考えいただかなくちやいけないのじやないかと思います。
  103. 石井良助

    石井参考人 私は、先ほどは、むしろ国民感情の上からというものが公益になるのではないかということを申したわけでありまして、それと同時に、宗教上の、何と言いますか、広い意味で申しますと宗教上の信仰というようなものがやはり利益になり、それがやはりある程度の公益性を持つていることは疑いをいれないと思いますが、結局、問題は、富士山に対する国民感情というものと神体山信仰というものとを具体的にどういうふうに関係さして見るべきかというところに帰着すると思います。そこで、私は、先ほど申しましたように、それに対する国民感情というものはある意味において唯一無二の絶対性がある、そういうものに対しては、弱化された信仰上の利益というようなものはやはり譲らなければならぬだろうと思つているわけであります。
  104. 長谷川峻

    ○長谷川(峻)委員 関連して伺います。今のお二人のお話で非常に具体的に話が出て来たと思うのです。と言うことは、先ほどから有倉先生も、管理権問題について、大宮持ちというのは管理権を意味し、しかして最近の国民感情の高まつて来ているときには、一神社所有権ということよりも共同所有というようなことがどうかという一つのサゼスチヨンをこの場で発表されたのであります。また、有倉先生のお話は、現行法においては大蔵大臣が法的拘束を受けるのであるという前提がありましたけれども、公益上主務大臣が必要と思つて認定した場合にはそれもできるのだというふうに一つの結論が出たように私拝聴したので、話が非常に具体的に入つて来たことを喜ぶ者でありますが、その場合、貸付あるいは富士山を管理委託するという問題になつた場合に、これが憲法との関係について一体どういうふうになるか。と言うことは、富士山頂について審査会においては最初四万九千坪を譲与することに決定し、大蔵大臣がその符申通りに決定したことに対して、今日神社側は、神体山信仰は八合目以上であるという法的な建前から百二十万坪を要求して来ているのです。両先生方のお話によりますというと、最初の四万九千坪も取上げておいて、そうして共同管理あるいは貸付管理委託ということになるのか、そうしてまた、そうなつた場合に、一応われわれの国会活動の中心になつているところの憲法との関係で、はたして妥当にそれが施行できるかどうかという問題、これについてこの際ひとつ有倉先生の専門的な御意見を明確にしていただきたいと思います。
  105. 有倉遼吉

    有倉参考人 憲法上の関係は八十九条でございますが、これも結局はまあ程度問題でございましようけれども、もし今お話になりましたように、国有にしておきながら、しかもその相当広い地域を管理せしめるということになりますと、やはりこの八十九条に牴触する疑いが濃厚である。これはもう完全に憲法違反だとまでは私もちよつと断定しかねるのでございますけれども、これはやはり現行の憲法の国と宗教との分離、この建前自体がいいか悪いかは立法論でございますので別でありますが、現行憲法の解釈といたしましては、はつきり国と宗教との分離ということを、一つの支柱というほどでもございませんが、その根底あるいは一つの流れとしておりますので、その点におきまして、そのような無償で単にそれを貸し付けるとか、あるいはまたそれを管理させておくということになりますと、相当八十九条違反の疑いが濃厚であるという程度まで、私申し上げることができるかと存ずるのであります。
  106. 長谷川峻

    ○長谷川(峻)委員 ただいまの専門的な立場からするところの御解釈が、私はわが委員会の将来の問題を解決する上において非常に重要な発言であつたと思うのであります。ただ、今度は、その場合に貸付あるいは管理委託というものが現行憲法に違反する疑いが非常にあるということになりますが、さてそれならば、もう一つの例を考えて、有償の場合にはどうなるかという点も、もう一点明らかにしていただきたいと思います。
  107. 有倉遼吉

    有倉参考人 実は、私もそういう場合を考えておりませんでしたので、私個人意見としてお聞き願いたいと思うのでございますけれども、先ほど程度の問題だと申し上げましたのは、やはりその点をさすのでありまして、その有償で貸し付けるということになりますと、文字通り八十九条を解釈いたしますならば、なるほどそれも利用ということになりまして、いけないということになりましようけれども、よほど憲法違反だという濃厚性が薄まり、その程度なればというほどの解釈も出て来る余地があるんじやないかというふうに考えております。
  108. 鈴木正文

    ○鈴木(正)委員 石井先生に一点だけお願いしますが、この問題は、もともと、今論議されている法律ができて、それを対象として出て来たのでありまして、法律の解釈は両先生が先ほど詳しくおつしやつた通りであります。つまり、条件を充足すればその通り当然措置するんだ、してもいい、そういうことをすべし、それもいいと思います。但し、施行令の方の公益という問題から考えて、国有にしておくのが必要だという場合にはそれは譲渡しない、きわめてはつきりしていると思います。そして、公益というものの解釈については、きのうからずいふんいろいろな説がありましたが、結局そこに来ていると思います。ただいま、一つの案といいますか、案かどうか、私存じませんけれども、そういうことで、和歌森先生からもちよつと話がありましたように、譲渡にかえるに管理権をもつてするというような場合、私どもは従来そう考えておつたのではありませんで、本来は、この法律自体をその通り忠実に遂行する、そうしなければならないんだということを建前として、大蔵省もずつと説明して来ておつたのであります。この法律のどこにも払下げにかわるに管理権をもつてするということは書いてない。そういうような方式をとつた場合には、最初からこの法律があるから何とかしなければならないんだ、法律を忠実に履行するんだという、大蔵省と申しますか政府側の言い分というものはくずれてしまうおそれがあるのではないか。私は今サゼストされました案自体についてはそう考えておりますが、この点についてお聞かせ願いたいと思います。
  109. 石井良助

    石井参考人 ですから、私は、先ほどから管理などということは一ぺんも言つたことはないのであります。
  110. 北山愛郎

    ○北山委員 和歌森先生にもう一点お伺いしますが、先ほど沿革について安永八年の話があつた。私ども、実は同じような考え方を持つております。安永八年の幕府の裁定というものが、行路病死亡人とおさい銭の分配にかかつているその争いを幕府が裁定した。そういうふうに、あとになつて明治三十一年に境内地の区域を定める場合の根拠になる沿革として主張されているものが、宗教活動というものとはちよつと縁の遠い、行路病死亡人の取扱いですとか、あるいはおさい銭のわけ方であるとか、そういうことについての紛争によつて、その管理権とか所有権とかが裁判されているというようなことでありますから、先ほど神体山信仰の対象として対象物を持つていることが必要だというお話もありましたが、それは確かに主観的に信仰的にそれを持つているということが必要であるようにも思いますが、これを一般の俗世間並の所有権であるとかあるいは管轄的権利であるとかそういうことにいたしますと、やはり安永八年当時のようなおさい銭のわけ合い、経済的な利益の分配であるとか、あるいは行政的な措置であるとか、そういう、信仰とは非常に縁の遠いような、不純なと言うか、末梢的なものに化してしまうのではないか。むしろ、神体山信仰について信仰の純粋さというものを保つためには、今の法律上の所有権だとか管理権だとか、そういうことは離れてしまつて、この場合におきましても、具体的な宗教活動に必要な場所、そういうものに限定した方がむしろ信仰の純粋さを保つ上においてかえつていいんじやないかというような考え方もするのですか、その点いかかですか。
  111. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 安永八年の問題のきつかけになりましたことを二つおつしやいましたが、特にさい銭に関係しましては宗教活動上の関連は深いと思いますが、行き倒れ人の問題は、やはり汚れという考え方が根底にあるから、特にそういつた問題が紛糾するのではなかつたか。私は背後の関係をよく知りませんけれども、当時の一般民間人の観念、あるいは幕府の役人の考え方というものを想像いたしますと、それはやはり汚れた人間をどう処分するか、だれが処分するかということについての責任者というものが問題になつたので、それはやはり宗教的な信念といつたようなものを土台にしての問題であつたじやないかというふうに思います。ただ、私がそれを申しても、なお全体的にこれを神社の管理とすることが憲法違反ならば、何かまた道を考えていただきたいと思いますけれども、これはやはり、神社がそれだけについては全体として持つということが大事だろう、その神社としての生存活動を全うせしむる上において大事ではないかというふうに思うのですけれども部分的に切り離すということは、われわれ宗教人の立場になつて見ましたときに、非常に全体として奪われたというふうな感じと同じになるのではないかと思うわけです。
  112. 小林信一

    小林(信)委員 各先生に一点ずつお伺いいたします。最初有倉先生にお伺いいたしますが、この第一条の法の適用の場合の問題でございますが、宗教活動に必要なものという条項でこういう問題が取扱われるわけでございます。その必要なものという言葉には、無制限に必要なものに対してこれを譲与するという意味が含まれているかどうか。国の財産であり、しかも宗教的なものであるというような観点からすれば、これは最小限度に区切らるべきものであると思うが、そういう漠然とした必要なものという言葉の中に、法律の常識としてどういうふうなものが通常考えられるか、その点をお伺いしたいのです。
  113. 有倉遼吉

    有倉参考人 これは、御指摘にありましたように常識の問題でございますが、この必要なものというのは、結局、個々の場合について認定権者の認定によつてやはり相当違つて来る、これが必要かどうかということをあらかじめ概念づけるということは法の解釈としてもむしろ無理な話ではないか、こういうふうに私は考えておるのでございますが、いかがでしようか。
  114. 小林信一

    小林(信)委員 それから、和歌森先生にお伺いいたしますが、先生は、神体山の問題につきましては、山に神がこもつておるのだ、こういう意味からして神体山が生れておるというふうなお話ですが、また一面におきましては、山そのものが神であるという原始的な考え方もある。昨日浅間神社の宮司さんが証人としてそこでお述べになつたときには、かつて富士山全体を神体山として見たのだ、大宮の浅間神社の構造等もそういうような意味合いからつくられておる、こういうふうに申しておりまして、そういう二つの解釈があるわけですが、私の今までの考えでは、実は宮司さんのおつしやつたような考え方でおつたわけなんです。そうして、それが現在は八合目以上を神体山として考えられておる、初めは全体のものであつたが、今は八合目になつておるのだというような発展的な考え方を述べられたのですが、そこで、私は、やはりこういう面で御研鑽の深い先生方にお伺いしたいのですが、そういうものも宗教史的にはたくさんにあるのではないかと思います。それは、一面は信仰というような面で表現されておりますが、しかし、内容から申しますと、富士山のようなものは至るところから登ることができるから、神社が権益を保持するためにここが神体山であるということになつた場合もあると思います。だから、ほんとうの意味神体山的な解釈でなくして、権益的なものからしてそうなる場合も発展過程にはあると思うのですが、この八合目に対してそういう面からの御研究というようなものがあつたかどうか、お伺いいたします。
  115. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 今おつしやいましたように、初めはこの山そのものを神霊、神と見るという考え方が非常に未開の段階には強かつたわけで、今日でも日本にそれは若干残つておりますが、富士山の場合にはそうではなくなつておる。何か特定場所——たいてい山頂にあります天と接する場所になるのですが、そういうところに神が天くだるという考え方で、天と里との媒介点としての山頂というものが神のこもり場所としてある限定性をもつて受取られて来るわけであります。そういつたところから奥宮というものが山頂に成立して来るわけで、そこにだけこれを限つて神がいるというふうにまで富士山に対する信仰が進んでおるかどうかということはまだ保証できないのですが、だんだんそういうふうに区域的に焦点を明らかにして限定されて来る傾向に宗教の歴史的な発達というものはあるのではないかと思いますが、富士山の場合あの火口全体についてそういうふうな考え方もまだありまして、ある区域だけというふうにはなつていないのではないかと思います。
  116. 小林信一

    小林(信)委員 それから、もう一つ。やはりここで証人からお話があつたのですが、火口、その火口の底が八合目の線と同じであるから、八合目以上を神体にする、こういう御意見もあつたのですが、これに対しては先生はどういうふうにお考えになつておりますか。
  117. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 信仰者は、これは人によつて非常に主観的なものでありまして、どんなふうに考えておるか存じませんが、多くの山の信仰の事例から見ますと、これは底あるいは内側と外側、そういうことはなかなか区別できないので、ある高さというところまでが大体みんなの考え方ではないかと思います。だから、底であろうが外まわりであろうが、そこがいわゆる神のしずまつておる、神のとどまつておる線だというふうに考えておる限り、その線でずつと切つて全体を神霊と見るというのが自然じやないかと思うのです。
  118. 小林信一

    小林(信)委員 石井先生にお伺いいたしますが、明治三十一年に静岡県の知事が八合目以上は浅間神社境内地として認めるというような通達を出された、それが原因になりまして宮内省の方からその場所境内に指定編入するという通達があつたというふうなお話があつたのですが、こういうことは、先ほど来御質問いたしておりますように、この宗教活動に必要なその区域についての認定の問題で、結局富士山神体山であるという。その理由は、大方その歴史的なものを持つて来ていろいろわれわれは論議しておるわけなのですが、その中で、この静岡県知事の認めたこともやはり一つの問題になるわけです。この場合、静岡県知事は、あの八合目以上は静岡県の管轄区域であるというような考えから認定したものであるか。実は、あそこは県境がはつきりしていなくて、未解決のままなんですが、お知りでしたらひとつ…。
  119. 石井良助

    石井参考人 実は、私は事実を申しただけでありまして、はたしてそれが静岡県知事の権限に属したかどうかというところまでは私は知りません。あれが静岡県のものか山梨県のものか、これは古くから争いもあるわけでありまして、別にそれが材料になるわけではないと思います。ただ、知事からそういう通達があつた、これはおそらく、浅間神社に対する通達でありますから静岡県知事からやつただけで、別に八合目以上がどこに属するかというような論争については、私は特に知つておるわけではありません。
  120. 小林進

    小林(進)委員 和歌森先生にお尋ねをしたいのであります。私遅れて参りましたので、神体山信仰の本質についてお話を承ることができなかつたのは残念でございますが、やはりこの問題を論争する上において、神体山宗教の本質というものを明らかにしなければ、結論が出ないのではないかと私自身は考えておるのであります。この法律は、宗教活動をする境内地というものを予定してつくられた法律なのでありまして、神そのものに対してまでもこの法律が干渉することは考えていないと私は思うのであります。きのうから繰返してお聞きしている一点は、富士山の八合目以上は境内地でない、浅間神社の神の本体である、いわゆる神体である、浅間神社成立の絶対的な要素であつて境内ではない、神様である、だからこれがなければ浅間神社そのものも存立しないのであるということが繰返されておるのでありまして、浅間神社境内は静岡の富士宮市の里宮にもございますし、また頂上にも境内があるのでありますが、この八合目以上は境内とは別で、神そのものであるというお話なのでございまして、富士山の八合目以上が神様であるなどということは、これは非常に原始的な宗教だと思うのでありまして、矛盾を感ずるのでありますが、その神様を今ここで取上げて払下げをするとか、八合目以上の神様を縮めて、五万坪でがまんをせよとか、あるいは四百坪でがまんせよといつて、神の大きさを審査会でとやかく論議していることは、私は、憲法で言うところの宗教の内容自体に干犯をしているのではないか、憲法違反を知らず知らずのうちにやつているのではないか、こういうことを非常に懸念をいたしておるのでありますが、この境内神体というものの区別をひとつお聞かせを願いたいと思います。
  121. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 今のお説、たいへんごもつともで、私も同感であります。境内地という概念には確かに入らない。ただ、われわれが先ほどから言いましたのは、宗教活動というものが、これはあくまで神を対象にしての活動でありますから、その神のあり場所といつたようなものについては同じく含めて考えなければならないのではないか。境内地の問題に限定するのだとおつしやられると、これは無用のことを言つたことになりますが、しかし、神体山信仰といつたようなものを論議する場合には、これは当然話にならなければならないのではないかと思います。
  122. 小林進

    小林(進)委員 それでは、仮説ではなはだ恐れ入るのでございますが、しからば、神体山宗教において、これは先ほども北山君が繰返して御質問しておつたのでありますが、やはり所有しなければほんとうに宗教というものが成立しないかどうかということであります。八合目以上を神社なら神社所有しなければ成立しないのかどうか。たとえて言えば、所有の問題は離れましても、地震か何かあつて八合目以上がふつ飛んでなくなつた場合、それでは浅間神社そのものの存立の意味も実際なくなつてしまうのか。こういうことを一応お尋ねしたいと思うのであります。
  123. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 私も、そういう霊地を所有しなければ、その霊を対象とした活動が行えないというふうには考えません。これは、さつきから言いましたように、とにかくその宗教活動をするチャンスにさしつかえがないようにその場所を保持しておく、それを境内地としなくても、何か特別な保証をしてもらうことができさえすればいいのではないかと思います。所有の問題とそのこととはまた別の問題じやないかと思います。
  124. 小林進

    小林(進)委員 同じことを繰返すようでございますが、あれは神体であるという場合、非常につまらない議論になるかもしれませんが、普通神社境内そのものは、神聖ですから、きれいに清掃されて神々しい感じを与えるのが境内であります。ましてや、それが御神体ということになりますと、さらに神聖さというものが保持されなければならない。しかし、現実の面においては、どうも富士山の八合目以上というものは、ごみがあつたり、あらゆる雑物があつて、カン詰のあきカンや、私も頂上で小便をしたり、くそをたれさせてもらつたというようなことで、神社境内というような観念から言つては非常に雑物がたくさんにあつて見るにたえないものがあります。そういう点とか、あくまでも八合目以上という形にこだわつていた場合に、どこか私はこの原始宗教は行き詰まると思います。そこで、先ほどお話があつたように、私も行つてみたことがありますが、ほこを持つて行つて富士山の魂を里宮まで呼びもどすという行事があります。あの魂を呼びもどすということは、やはり富士の中にある、形にとらわれない不滅なものと言いますか、われわれの頭脳で描いた神そのものがやはり私は浅間神社の本体じやないかと思います。六合目以上、八合目以上、項上とかいう形にとらわれておるのは神の本体ではないのでありまして、ああやつてほこに魂を宿らせて神を呼びもどすという行事があるように、形以上に私はわれわれの頭脳で描いた無形のものが浅間神社の本体ではないかと思うのであります。だから、どうしても八合目以上を払い下げなければ神社が成立しないという言い分は、あの宗教行事の上から見ても牽強附会の議論ではないかと思うのでありますが、その点、ひとつ先生の御意見を伺いたい。
  125. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 私も、払い下げるべきであるということは一向に申していないので、宗教人の立場になつてみて、その活動がゆうゆうとできると申しますか、その自由を保証せられるような工作をしてあげるのが必要であると思います。そこから、さつき申したように、不法なことになるかもしれないけれども、何分共同所有とか、管理とか、無償でなくて有償貸付とか、そういつたことを考えていただきたいと思います。
  126. 前田榮之助

    ○前田(榮)委員 ちよつと有倉先生にお尋ね申し上げますが、憲法の上から国と宗教を引離さなければいけないと今御答弁があつたのですが、それはごもつともだと思うのですが、ただ、浅間神社神体山という一つ宗教に対して、現在国有財産であるところの富士山という一つの財産を国家無償譲渡して与えるということ自体が、この宗教に対して国の援助を与えるということになろうと思うのでありますが、これは憲法の精神に違反する行為ではないか、この点が第一点。  それから、もう一つの点は、神体山宗教の関係で富士山信仰する者があることも、これは邪教であるか何かという議論は別といたしまして、あることは認めます。しかしながら、午前中の証言の中にもありましたが、富士山宗教信仰の対象とするのでなしに、富士山を敬慕し、富士山を愛している国民は、むしろパーセンテージにいたしますとその方が八〇ないし九〇であると言われておるのでありますが、そうすると、今の日本国民富士山に対するところの愛着の念、感情、精神、こういうものから言つて、ほんの一部の者が富士山所有しようと考えている、大部分の人をむしろ犠牲にして富士山所有しようとする浅間神社という一つ宗教団体がある、こういうことに私はなるのではないかと思う。そういう点から言つて、一宗教にこれを譲与すること自体、大部分国民の、物質的ではないかもわからないが、精神的な所有あるいは愛着感というものを無視した、へんぱな国の行為であつて、憲法の精神に反する行為ではないか。これは憲法的な立場での御見解をお知らせ願いたいと思います。
  127. 有倉遼吉

    有倉参考人 ただいまの御質問、はなはだもつともと存ずるのでありまして、これは、厳密に見ますと、実は今問題にしております法律あるいは勅令、これ自体憲法違反の疑いが非常に濃厚だと私は思つております。ただ、これは、制定された当時が昭和二十二年でありまして、要するに、連合国側の命令に基いて発せられ、制定せられた、こういう沿革があるかと私は存じますが、その点は、憲法違反であるかもしれないけれども有効なものである、こういうところを認めるほかはないのではなかろうかということが一つであります。でありますから、純理論を貫きますと、たとえば、占領は終つたということになりました場合に、形は法律という形をとつておりますが、これは名づけますと、いわばポツダム法律とでも名づくべきものでありまして、ポツダム勅令あるいは政令の方は、占領期といたしましていろいろ検討いたしまして、あるいは廃止あるいは存続——存続と言いましても法律に切りかえてそういう御処置をなさいましたようでございますが、このポツダム法律というようなものは、形式が法律であるものでありますから、これは連合国の命令に基いたものでも、そのままずつと存続している、こういう点がどうも一つの欠陥として見受けられるのではないかと思うのございます。ただ、この場合に考えておかなければなりませんのは、そうかといつて、従来国と宗教とが密接に結びついていて非常な手厚い保護を受けていた、これを切り離す場合に、もう占領は終つたから、たちまちそういう社寺にそれを譲与すること自体も憲法違反であつて、絶対にいけないのだ、こういうことまでは私はちよつと言いかねるかと思うのでございます。これは、先ほど和歌森先生から、生存権というような、どうも私のお株をとられたようなお言葉を言われましたけれども、そういうような考慮も、やはりこの一つのポツダム法律といいますか、そういうものの性格として、過渡的にはやむを得ないことであるかと思うのであります。それからなお、先ほど私が、有償管理をさせた場合には憲法違反の疑いが薄れると言いましたけれども、やはりただいま御指摘のあつた点と関連があるのでありまして、ともかくも、ただ違憲の疑いがあると言いながら、この法律によつて相当広く譲与することができる、必要である限りは譲与することができる、こういう規定が一方にある。これは憲法違反かどうか知らぬと言いましたが、そう言いながら、あとは全然この本件の場合においてはだめだ、これは憲法違反だから、全然有償もだめ、無償もだめ、ごく少い部分だけしかやれないと言うのでは、これまた少し公平の観念といいますか、そういうものを失すると考えまして申し上げたのでありまして、実は、私の考えから申しますと、有償管理をいたしましても、今後あとにそのような有償管理をさせて、そこに神社と国との関係が存続するということは、これは私といたしましてはあまり感心しないことであると思つております。むしろさつぱりとこの際に解決をつけて、憲法の精神にのつとつて、これはやはりその関係を断ち切る、こういう方がいいと思うのでございますが、先ほど申し上げましたのは、違憲であるかどうかという点について、今おつしやいましたそういうことを考慮しての私の考えでございます。
  128. 古屋貞雄

    古屋(貞)委員 そこで、私有倉先生にお尋ねしたいのですが、今前田委員から御指摘になりました点も実は私聞きたいと思つてつたのです。もし有償で貸した場合に憲法違反になるというならば、無償で払い下げた場合の利益というものははるかに大きいのです。永久所有権があるからです。そこで、私はお尋ねしたいと思うのですが、その点が非常にあいまいなのです。そこで、第二に帰りまして、施行令の第二条の一項の問題でございます。譲渡すべからざる一つの制限である公益の必要上という問題、公益に必要であるということの御解釈は先生はどうお考えになつておられるか。私どもは、むしろ一部の方たちが神体山的な信仰を持たれて宗教活動をなさるよりも、現在の日本国民全体の立場から考えますと、これはむしろ、富士山を愛する、世界富士であり、日本富士である、山としての日本のシンボルである、日本国民から愛され親しまれておる、またこれを利用する状況におかれておる、しかも、石井先生の御説明と同じように、私どもの感情はすなわちこれまた一面においては一つの利益である、国民全体の感情そのものは公益である、こう解釈できると同時に、この法律の客体としての感情が日本では援用され、客体として今現に保護されておる、こういうような点から考えますと、第二の公益に関するという方面でこれを押えて参りますことは、かえつて行政解釈の上から言つては正しいのじやないか、こう私ども考えておりますが、先生のお考えはいかがでございましようか。
  129. 有倉遼吉

    有倉参考人 私も、今御指摘になりましたことにほとんど賛成でございます。それは、私の法解釈としては、第一条の必要なものという要件が備わりましても、その施行令の方で、例外と言うか、それを公益上国有存置を必要とする場合は例外として、たといその法の第一条の要件を具備しておりましても譲与しない、こう書いてあるのでありますから、法の解釈といたしましては、もしそれが公益にあたる——私もあたると思うのでありますけれども、あたるというふうな認定になりますならば、これは譲与すべからざるものである。でございますから、今のお説と同様でございます。
  130. 古屋貞雄

    古屋(貞)委員 今度は石井先生にお尋ねしたいのですが、石井先生の御意見を要約いたしますと、大体二十二年の法律第五十三号には該当する、しかし施行令の第二条の制限にもこれは当てはまるのである、国民があの富士山を学術的に研究をする対象としておる、また富士山の八合目以上は、あらゆる学問上の、学者の研究に必要な唯一の場所である、また日本国民の感情から申しましても、ほんとうに愛する富士山であり、日本象徴である富士山である、非常に富士を愛し、レクリエーシヨンをなし、ほんとうに自分らの公のものである、何ものにも制限をされない、制約を受けない気持で富士山を愛しておる、こういうことは、これすなわち法的に言う一つの公益である、かように認定をされて、これは結局私すべきものでない、法律五十三号によつて払下げをすべきものでないという結論の御参考意見のように承つておるのでありますが、さようで間違いないのでございましようか。
  131. 石井良助

    石井参考人 ただ、私は、そこにおつしやつた学術上とかいうことは考えないのです。学術研究上の指定地域というものは日本にはどこにもあるのでございまして、別にこれだけであるということは言えないと思います。むしろ、先ほども申しましたように、古来日本人が富士山というものを非常に愛好いたしまして、現在では世界的な日本象徴として考えている、しかも、現在だけではなくして、日本国土とともに永遠に日本国土象徴というふうに考えている、この日本国民感情に反するということはすなわち公益に反するのであると言うので、私は学術上のことはあまり考えていないのであります。
  132. 古屋貞雄

    古屋(貞)委員 ある学者によりましては、富士山の八合目以上は日本の唯一の、ほかにかけがえのない学術研究上の場所だとおつしやつておる人があるので、その点は私が先生の意見につけ加えたことで、この点は私が考えたことであります。  なお、和歌森先生に、これは簡単でありますが、伺いたいのでございます。結局、現在あれは国有になつておるわけなのでございまして、そうして、今申請人である富士神社宗教活動をされておるわけであります。従つて、八合目以上を積極的に払い下げなければならないというような、宗教活動上何か特有な必要な事実があるかどうか。現在のままでも、宗教活動が何十年となされて来たのであります。私どもから申しますと、これを富士神社に払い下げをいたしますと、憲法第八十九条に違反すると、法律的に考えておる。さような重大な関係を引起しますので、今のままで払下げをしないでおいても宗教活動ができるかできないか。できないというので申請をされておるらしいのですが、できない理由が私どもにはよく納得行かないのであります。宗教的にお考えになられまして、今の状態のままでも宗教活動がなされておるのであるが、払い下げなければこれをやめなければならぬ状態になるという結論に到達するかどうか。この点、宗教的にごらんになつた意見を伺いたいと思います。
  133. 和歌森太郎

    ○和歌森参考人 私も、施行令第二条を尊重するがゆえに、結局のところは払下げないということに賛成なんでありますが、今日の状態は、国有地無償貸付ということがなくなつているということですね。国有地において浅間神社宗教活動が現実にどういうふうに行われておるかということを見ましたときに、これをこのまま続けて行きますと、相当にこの浅間神社宗教的な活動というものはあいまい化して来るのじやないか。先ほどお話が出ましたような山頂の乱れた景観や何かを見ますと同情するわけなのであります。もう少し引締めてあそこの浅間神社宗教活動を高進するというか、なお清潔に持続させて行くためには、ここで何か手を打つて、ある程度の保証をしてやらなければいけない、八合目以上についても保証してやらなければならないということを思うのでありまして、今日のままでは、浅間神社そのものの立場に立つて見ますと、非常に、先ほどから申しておる、いわゆる生存権というようなものが将来ぼやかされてしまうのではないか、それを懸念するだけであります。
  134. 古屋貞雄

    古屋(貞)委員 私は、今度は宗教法人法によつて浅間神社は財団法人になりまするから、これがなければもう全然浅間神社としての宗教活動ができないというようなことを私ども考えられないのでございます。多少とも、十分に積極的にやつで参りまするには支障があるだろうことは想像がつきます。しかし一方、払い下げることによつて国民全体の感情を害し非常に国民に衝撃を与える、こういう弊害を考えますると、やはり現状のままで、少しぐらいは支障がございましてもがまんされて行く、これは、法律的な解釈、また政治のあり方から言つても、大多数の利益を保護して少数の者はがまんしてもらうというのが、これは私ども民主主義の一つの行き方じやないかと、かように考えておるわけであります。先生も、ただいま、結論から言えば払い下げは賛成じやないと、こうおつしやつておりますので、これ以上申し上げることはないのですが、そういうような見地から、公平なる妥当な観念から申しましても、やはり現在の状態がよいじやないかと、かように私ども考えております。
  135. 塚原俊郎

    塚原委員長 参考人各位には御多忙中のところ御出席を願いまして、長時間にわたり本委員会調査上にまことに有意義な御意見を承ることができましたことに対し、心から厚く御礼を申し上げます。     —————————————
  136. 塚原俊郎

    塚原委員長 この際お諮りいたします。行政監察特別委員会設置に関する決議によりまして、少くとも月一回その意見を付して調査報告書を議長に提出しなければならないことになつておりますので、すでに諸君のお手元に配布しておる通りの十二月中における簡単なる調査報告書を委員長において作成いたしたのでありますが、これを議長に提出いたすことに御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  137. 塚原俊郎

    塚原委員長 御異議がなければ、さよう決しました。なお、字句の整理等につきましては委員長に御一任を願います。  委員諸君に申し上げますが、きのう、きようにわたりまして調べました問題につきまして、御懇談申し上げたいことがありますので、そのままお残りを願いたいと存じます。  この際暫時休憩いたします。     午後四時四十五分休憩      ————◇—————     〔休憩後は開会に至らなかつた