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説明員(
田島俊康君)
アツツ島の戦さで
アツツ島
守備隊長山崎大佐以下
最後の戦闘をいたしましたのは、去る
昭和十八年五月二十九日午後九時四十分に
最後の
電報を大本営に打
つて参りました。丁度その時私おりましたものでありますから、まあその
最後の
状況を今日まだ記憶しておるのでありますが、とにかくこれでもう
最後の
突撃をする。健在しておるものが百五十
有余名、それでここで
無線機を破壊して
突撃をするという
電報が入
つたのであります。で爾後勿論音信はなか
つたのでありますが、たまたま
キスカに
部隊がありましたので、その
部隊では
アメリカ軍のいろいろな
電報を聞いております。そこで
キスカから返電して来たところによりますれば、翌朝の午前四時頃まで
アメリカ軍の無電が入
つておるのであります。それが例えば或る
部隊が二千ヤード後退を余儀なくされたとか或いは
救急車を持
つて来いとか、或いは
野戦病院の所在を知らせろとい
つたような
状況が翌朝の午前四時頃まで続いてお
つたということを私記憶いたしておるのであります。そういうふうにいたしまして今度
現地に行かれた
人たちによく聞きますと、
向うの第一線を突破いたしまして、ずつと後方に工兵が陣地を取
つておりまして、今その名前を
エンジニア・
ヒルと申しておるようでございますが、そこまで
山崎隊長以下突き出て参りまして、そこで全部衆寡敵せずもう力尽きて
山崎隊長もそこで亡くな
つた。でまあ丁度その
山崎隊長がなくなられた所には
向うの
アメリカ軍の艦隊の
司令長官の名によりまして、現在記念の碑が建
つている、こういうことを
伺つたのであります。まあそういう
状況で亡くなりました者が大体二千四百名でございます。そこで、まあ
アメリカ側といろいろ交渉をなされてお
つたのでありますが、
アツツ島及び
アツツ島から
アラスカのフオート・リチャードソンという所に移されました
遺体があるのでございます。その
両方について
送還をしてよろしいというような
向うの話が出て参りました。で
東部復員局連絡局長をしておられます不破というかたを団長にいたしましたものが例の御承知の大王という船に乗りまして、
アツツ島に行かれました。私は
アラスカのほうに御
遺体の
送還をいたすために
参つたのであります。
で、
アツツ島に行かれましたのは、五月の六日に
東京を出発されまして、
向うに大体三日間滞在をされまして、その間に最初わか
つておりました七十八柱の先ほど申しました
エンジニア・
ヒル附近の
墓地を処理をいたして
帰つて来られたのであります。そのほかまだ約六百六柱とおぼしき
墓地がまだ
アツツには
残つてお
つた。総計それだけ
残つてお
つたそうでありますが、これは時間の
関係、
作業力の
関係で、
向うへ御
遺族の
代表が
行つていらつしやいましたので、御
遺族の
代表と
いろいろ相談をされました結果、先ほ
ども申しますように、時間と
作業力の
関係から、まあそこに眠
つておられるかたにはそこに眠
つておられるそのままにして、而も相当丁重に葬
つてあるからそのままにということで、先ほど申しました七十八柱の御
遺体と、それからなお葬られないで
残つているかたがあるのであります。それは事前に
向うから、
アツツから生還いたしました二十八名の人を三回に亘
つて集
つて頂きまして、いろいろ
最後の
状況を伺いまして、ここにはこういう死体があり、あそこにはこれだけの人が死んでおるはずだというようなことをいろいろ
調査いたしたのであります。それに基きましてそこで得ました証言の場所は全部踏査いたしたのでありますが、そこで発見いたしました
遺体がございました。でそういうものは全部処理をいたしまして今度お持ち帰りにな
つたわけであります。私
どものほうは
アラスカに
参つたのでありますが、これは
アツツに五年間葬られたままにしておる。それで五年後
アラスカのほうに葬られた、こういう御
遺体が二百三十体でございます。そこで私
どものほうは
現地に参りましていろいろ
調査をして、それから作業を始めます、そういう相当時間に余猶がありましたのと、
現地の
部隊が相当大きな
部隊でございまして、非常な力を貸してもらいまして、そこで二百三十五体という記録のあります御
遺体は全部処理をいたして持ち帰ることができたのでございます。それで今申しましたように、五年間
アツツに埋められてなおこのフオート・リチャードソンに移りましてから五年間というような歳月を経たのでありますが、御
遺体はアメリカの軍用の敷布で御一体ずつすつかり固く包んでおりました。その上を又軍用の毛布で包みまして、そうしてアメリカの
遺体を入れますゴム引きの二メートル半くらいの袋、それに入れましてチャックを締めて、それで眠られた姿のまま地下三メートルのところに埋めてございました。従いまして案外御
遺体の損壊の生じております程度は軽か
つたのであります。そこで私のほうでは二百三十五体の御
遺体のうち、二十六柱だけ、このかたは何というかただという姓名を判定することができたのであります。実はまあ何を申しましても戦場の大きな戦闘をした
あとでありますから、完全でない御
遺体がたくさんあるのであります。そこで全部一々当
つたのでありますけれ
ども、どういたしましても姓名の判定ができませんので、私のほうでは二十六柱、それから
アツツでは八柱だけ姓名の判定ができまして、その御遺骨はそれぞれ御
遺族にお渡ししたのであります。先ほ
どもちよつと申しました
通り私のほうは非常に大きな
部隊がおりました
関係上、
作業力等の提供も完全に参りましたので、全部処置をいたしまして、
現地には相当灰がたくさん残りましたので、その灰を埋めますために、元の
墓地の一角十メートル四方ばかりのところに土地を借用いたしまして、そこに灰を又三メートルくらい下に埋めました。それでその上は又垣根を植えて、そうして芝生にして、そこに一メートル半くらいの大理石の墓碑を建ててやろう、こういう、約束をして
帰つて来たのであります。なお
アツツのほうも、これはやはり
部隊がおるのでありますが、これは
部隊が小さい
関係上、なかなかそこまで強力が実際不可能であ
つたようでありまして、そこで御
遺体は残さざるを得なか
つた。こういうような
関係にな
つておりますが、ここでもこちらから持
つて行きました記念碑を建てられて、
最後の回向をして
帰つて来られた、かような
状況であります。
これを要しまするのに、
アラスカのほうは全部処置ができましたが、
アツツにはなお若干の御
遺体が眠
つておられます。併しこれは先ほど申しましたように、御
遺族のかたともよく相談されまして、そうしてこれはこのままにして折角鄭重に葬
つてあるのだから、これ以上手をつけないのが、この際適当なやり方ではないか、そうしてこういうような結果にな
つたのではないかと思います。