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1953-08-05 第16回国会 衆議院 法務委員会 第31号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十八年八月五日(水曜日)     午前十時四十八分開議  出席委員    委員長 小林かなえ君    理事 鍛冶 良作君 理事 佐瀬 昌三君    理事 田嶋 好文君 理事 吉田  安君    理事 古屋 貞雄君 理事 井伊 誠一君    理事 花村 四郎君       大橋 武夫君    押谷 富三君       林  信雄君    星島 二郎君       高橋 禎一君    猪俣 浩三君       細迫 兼光君    木下  郁君       岡田 春夫君  委員外出席者         証     人 板垣 幸三君         参  考  人 山田善二郎君         専  門  員 村  教三君         専  門  員 小木 貞一君     ――――――――――――― 八月五日  委員三浦一雄君辞任につき、その補欠として岡  田勢一君が議長の指名で委員に選任された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した事件  人権擁護に関する件(鹿地亘関係事件)     ―――――――――――――
  2. 小林錡

    小林委員長 これより会議を開きます。  昨日に引続き人権擁護に関する件中、鹿地亘関係事件について調査を進めます。  昨日決定いたしました通り、本件につきまして証人板垣幸三君に証言を求めることにいたします。今御出席になつておるのは板垣幸三君ですね。
  3. 板垣幸三

  4. 小林錡

    小林委員長 昨日も本委員会開会の初めに申し上げたように、本件について公平な立場から、正しい結論を見出したいと念願して、当委員会は鋭意調査を進めておる次第でございますから、この趣意に沿つて十分な御協力を願いたいと存じます。  昨日申し上げましたが、念のためもう一ぺん申し上げます。昭和二十二年法律第二百二十五号、議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証へに証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならないことと相なつております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは、証言が、証人または証人配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあつた者、及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士弁護人公証人、宗教または祷祀の職にある者またはこれらの職にあつた者が、その職務上知つた事実であつて黙秘すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことはできないことになつております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓または証言を拒んだときは、一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処せられることとなつておるのであります。一応このことを御承知になつておいていただきたいと思います。  では、法律の定めるところによりまして、証人に宣近求めます。御起立を願います。  宣誓書の御朗読を願います。     〔証人板垣幸三朗読〕    宣誓書   良心に従つて、真実を述べ、何事もかくさず、また何事もつけ加えないことを誓います。
  5. 小林錡

    小林委員長 それでは宣誓書署名捺印してください。     〔板垣証人宣誓書署名捺印
  6. 小林錡

    小林委員長 これより証言を求めることになりますが、証人証言を求められた範囲を越えないこと、また御発言の際には、その都度委員長の許可を得てなされるようお願いいたします。なお、こちらから質問をしておるときはおかけになつていてよろしゆうございますが。お答えの際は御起立を願います。それではまず委員長から重要な点をお聞きいたします。板垣幸三君に間違いないですね。
  7. 板垣幸三

    板垣証人 間違いありません。
  8. 小林錡

    小林委員長 あなたの年齢住所職業、これを答えてください。
  9. 板垣幸三

    板垣証人 その前に発言の希望があります。
  10. 小林錡

    小林委員長 それはその次に聞きましよう。まず委員長質問に答えてください。年齢住所職業を聞いておる。
  11. 板垣幸三

    板垣証人 満二十三歳。住所東京都港区、新橋七丁目十二番地、文工会館内、職業は無職です。
  12. 小林錡

    小林委員長 どうして生活しておるのですか。
  13. 板垣幸三

    板垣証人 救援会の援助によつて生活をしております。
  14. 小林錡

    小林委員長 どういう会ですか。
  15. 板垣幸三

    板垣証人 鹿地山田救援会です。それはぼくも救援されておるけれども、中に入つていませんから、わかりません。
  16. 小林錡

    小林委員長 どういう縁故でそこへ行つて、そこで食べ物も食べ、部屋も借りてやつているのですか。
  17. 板垣幸三

    板垣証人 いいえ、以前はそうでありましたが、現在はぼくは別個な立場をとつております。
  18. 小林錡

    小林委員長 生活するにはお金がかかるでしよう。そういうお金はどういうぐあいにやつておるのですか。
  19. 板垣幸三

    板垣証人 それは救援されております。
  20. 小林錡

    小林委員長 救援されておるといつて、どういう関係で救援されておるのか。
  21. 板垣幸三

    板垣証人 鹿地山田救援会で救援してくれます。
  22. 小林錡

    小林委員長 どういう会ですか。よくわかりません。よく委員諸君にわかるように説明してください。
  23. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくはその中に入つてその人たちと同じ生活をしていないから、はつきりしたことはわかりませんが、今度の人権問題に関して、ぼくのことを鹿地山田救援会で救援してくれております。
  24. 猪俣浩三

    猪俣委員 この人はよく知らぬかもしれませんが、実は例の鹿地亘君、それから山田善二郎君、これが鹿地事件を起しまして、それで非常に生活に窮しております。そこで文化人やその他の進歩的グループの間に、彼らに何か幾分かの生活費を給するということで、おもに鹿地君の友人が中心になりまして、鹿地山田救援会というものができ上つております。そこでやつておるうちに、この人も職がなくてあれするものだから、鹿地山田救援会の事務を何か手伝わして、幾らか生活費を出しておるのじやないかと思います。これは一般の寄付金によつてやておる会でございます。
  25. 小林錡

    小林委員長 よくわかりました。  それでは板垣君に聞きますが、あなたはどこで生れて、学校はどこで、どのくらいまで行きましたか。
  26. 板垣幸三

    板垣証人 樺太の知取で生れて、樺太で育つて終戦北名好に迎えております。そうして終戦当時に、恵須取中学というものがございますが、それを中退で、終戦後そのまま行つておりません。
  27. 小林錡

    小林委員長 何年くらいでやめたのですか。
  28. 板垣幸三

    板垣証人 二年でやめております。
  29. 小林錡

    小林委員長 そうすると、樺太にいつまでぐらいおりましたか。
  30. 板垣幸三

    板垣証人 昭和二十四年五月までおりました。
  31. 小林錡

    小林委員長 幾つですか、あなたの年でいつて
  32. 板垣幸三

    板垣証人 十九歳まで。
  33. 小林錡

    小林委員長 簡単でよろしゆうございますが、それからどこへ行きましたか。
  34. 板垣幸三

    板垣証人 それから満洲、朝鮮を経由して、昭和二十四年の七月に東京へ来ました。
  35. 小林錡

    小林委員長 満洲では何をしておりましたか。
  36. 板垣幸三

    板垣証人 満洲では何もしておりません。二十日ちよつと遊んでおります。
  37. 小林錡

    小林委員長 二十日ぐらいしか満洲におらなかつたのですか。
  38. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。
  39. 小林錡

    小林委員長 あなた一人ですか。
  40. 板垣幸三

    板垣証人 ぼく一人です、日本人としては。
  41. 小林錡

    小林委員長 一人きりで行つたのですか。
  42. 板垣幸三

    板垣証人 行つたのは、ロシヤ人がついて行つております。
  43. 小林錡

    小林委員長 何という人ですか。
  44. 板垣幸三

    板垣証人 マキシム・タールキー
  45. 小林錡

    小林委員長 どういう人ですか。
  46. 板垣幸三

    板垣証人 向うゲー・ぺ一・ウー関係の仕事をしておる人です。
  47. 小林錡

    小林委員長 それに連れられて行つたわけですか。
  48. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。自分が希望して行つたのです。
  49. 小林錡

    小林委員長 満洲で何かその下で働いたのですか。
  50. 板垣幸三

    板垣証人 満洲で働いておりません。
  51. 小林錡

    小林委員長 それからどこへ行つたのですか。
  52. 板垣幸三

    板垣証人 それから朝鮮経由で、二十四年の七月に東京に来ております。
  53. 小林錡

    小林委員長 その旅費はどうしたのですか。
  54. 板垣幸三

    板垣証人 旅費は出さないで、密輸船で帰つて来ております。密輸船ですから、旅費はぼくに請求しなかつた
  55. 小林錡

    小林委員長 どこへ来たのですか。
  56. 板垣幸三

    板垣証人 東京芝浦へ上陸しました。
  57. 小林錡

    小林委員長 それからどうしたのですか。
  58. 板垣幸三

    板垣証人 それから東京で二日か三日遊んで、また密輸船に乗りました。それからその密輸船昭和二十六年の三月まで生活しておりました。
  59. 小林錡

    小林委員長 あなたが新潟県の中頚城の地区警察に保護されたことがありますね。
  60. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。
  61. 小林錡

    小林委員長 それはどういうふうな径路を経て保護されたのですか。
  62. 板垣幸三

    板垣証人 二十四年七月から密輸船に乗つて新潟県中頸城の高田地区警察署に保護される四日ほど前まで密輸船に乗つてつたのです。保護される四日ほど前に密輸船から上陸して、途中行き倒れになつて保護されたのです。
  63. 小林錡

    小林委員長 どこですか。
  64. 板垣幸三

    板垣証人 どこかぼくもはつきりわからないのです。
  65. 小林錡

    小林委員長 新潟県ですか。
  66. 板垣幸三

    板垣証人 いや、ぼくはその当時わからなかつたのですけれども、あとで聞いたところによると、関山というところです。
  67. 小林錡

    小林委員長 それは新潟県ですか。
  68. 板垣幸三

    板垣証人 新潟県か長野県かちよつとわからないのです。
  69. 小林錡

    小林委員長 どういうところに行き倒れになつていたのですか。
  70. 板垣幸三

    板垣証人 三月ですから、雪のずつと深いところだつたのです。それ以外のことはあまり記憶ないのです。
  71. 小林錡

    小林委員長 それから警察からどういうふうになつたのですか。
  72. 板垣幸三

    板垣証人 警察で一応医者にかけてもらい、身柄を保護してもらつて、一週間ちよつとの取調べを受けて、それで保護室に入れられ、保護室から高田拘置所を経て新潟少年鑑別所に入れられました。
  73. 小林錡

    小林委員長 そこでどんなことをしたのですか。
  74. 板垣幸三

    板垣証人 新潟少年鑑別所では、別にこれはという取調べ日本側ではなかつたのです。本人の知能テストや、適性検査のようなことをしておりました。鑑別所におりながらCICの方でぼくのことを調べました。
  75. 小林錡

    小林委員長 CICの人がたずねて来たのですか。
  76. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。
  77. 小林錡

    小林委員長 そしてあなたをひつぱつて行つて調べたのですか。
  78. 板垣幸三

    板垣証人 向うで迎えに来て調べたのです。
  79. 小林錡

    小林委員長 向うCICのオフイスがあるのですか。
  80. 板垣幸三

    板垣証人 はい、向うに事務所があります。
  81. 小林錡

    小林委員長 どんなことを調べましたか。あなたに対する向う尋問内容とか、簡単でよろしゆうございますから、述べてください。
  82. 板垣幸三

    板垣証人 その内容は、終戦当時ロシヤ樺太へ侵入して来た状態、それから装備、終戦後にロシヤ軍政張つたときの軍政のやり方、日本人待遇、それにその後進駐して来て、樺太が平和になつてからの向うでの軍備の配置、そういうものを聞かれました。満洲の件もそれと同じです。それから二年の密輸生活中船はどこに通つたか、どういうふうにしたかということを聞かれました。
  83. 小林錡

    小林委員長 何回くらいCIC行つておりますか。
  84. 板垣幸三

    板垣証人 CICにはたしか……。
  85. 小林錡

    小林委員長 二日ですか。
  86. 板垣幸三

    板垣証人 二日ではないです。たしか鑑別所には三週間おつたのですが、そのうち二日だけひつぱり出されなかつたのです。あとは全部ひつぱり出されております。
  87. 小林錡

    小林委員長 鑑別所の中に寝とまりしておつたのですね。
  88. 板垣幸三

    板垣証人 鑑別所の中に寝とまりしておりました。
  89. 小林錡

    小林委員長 そうすると、朝出かけて晩までおるのですか、向うで調べを受けて。
  90. 板垣幸三

    板垣証人 朝出かけて午後三時ごろ帰るときもあるし、ときには午後十時過ぎに帰ることもありました。
  91. 小林錡

    小林委員長 弁当は持つて行くのですか。
  92. 板垣幸三

    板垣証人 弁当は最初の日は持つて行つたのですけれども、向うの方で食事は出すというので、向うの方の食事待遇がよかつたから、新潟鑑別所食事を持たないで行きました。
  93. 小林錡

    小林委員長 そのとき、あなたは調べられるとき、どんな気分つたのですか。平気でしたか、何かこわいような気分でもしたのですか。
  94. 板垣幸三

    板垣証人 当時は放心状態にあつたから、調べられるまま自分知つておることを言つたにすぎないのです。別段その結果どういうふうになるということは考えなかつたのです。
  95. 小林錡

    小林委員長 別に心配はしなかつたのですか。
  96. 板垣幸三

    板垣証人 心配をするほど自分余裕がなかつたのです。
  97. 小林錡

    小林委員長 調べる人はアメリカの人ですね。
  98. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。
  99. 小林錡

    小林委員長 軍人ですか、軍服を着おりましたか。
  100. 板垣幸三

    板垣証人 私服を着ていたけれども、軍人だと思われる人間です。
  101. 小林錡

    小林委員長 そうすると、アメリカの人に毎日のように調べられたら、どうされるのだか、ちよつとこわいようば気分は出なかつたですか。
  102. 板垣幸三

    板垣証人 もちろんそういう気持もありました。しかし、当時日本は占領中だつたからやむを得ないというので、半ばあきらめもありました。
  103. 小林錡

    小林委員長 それからしまいにどうなつたのですか。
  104. 板垣幸三

    板垣証人 それから五月三日の日に新潟家裁で六週間の試験観察処置を受けております。それでぼくは行先はよくわからないのですけれども、その日のうちにどこかに移送されるような手配になつていたようです。当時少年鑑別所の小型の車で行つたのですけれども、その後車で家裁から帰つて来る途中、新潟CICから申し込まれたからぼくのからだを三日間東京に送るからということを、当時の小川課長という方から聞いております。
  105. 小林錡

    小林委員長 少年鑑別所におつたときの判事の名前はわかりますか。
  106. 板垣幸三

    板垣証人 調べた人はたくさんおりますけれども、向うはぼくの名前知つてつたろうが、ぼくは向う名前を聞かなかつたからわかりません。
  107. 小林錡

    小林委員長 その後どういう処分になつたか知りませんか。
  108. 板垣幸三

    板垣証人 その後の処置のことはわかりません。
  109. 小林錡

    小林委員長 CICに引渡されたのはいつでしたか。
  110. 板垣幸三

    板垣証人 二十六年五月三日です。
  111. 小林錡

    小林委員長 何という駅ですか。
  112. 板垣幸三

    板垣証人 新潟の当時の進駐軍専用の駅の待合室で引渡されました。
  113. 小林錡

    小林委員長 新潟の駅ですか。
  114. 板垣幸三

    板垣証人 はい、新潟駅の進駐軍専用待合室のところです。
  115. 小林錡

    小林委員長 小川という人が連れて行つたのですか。
  116. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。そのほかに自動車の運転手の方もおりました。それから小川課長の親戚の子供と思われる人もおりました。
  117. 小林錡

    小林委員長 そのときに小川という人が向うから書類をとつたですか。
  118. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくは小川課長にずつとついておりましたけれども、その書類をとつたのは見ておりません。
  119. 小林錡

    小林委員長 あなたは小川という人から離れて向うに行くことは困るというようなことは言わなかつたですか。
  120. 板垣幸三

    板垣証人 別段言わなかつた
  121. 小林錡

    小林委員長 連れに来た人は前から知つてつた人ですか。
  122. 板垣幸三

    板垣証人 東京に送るときにだれがついて来るかということは、汽車に乗るまでわからなかつたです。
  123. 小林錡

    小林委員長 わからなかつたが、そこで引渡しを受けた人は……。
  124. 板垣幸三

    板垣証人 それはCIC人間だということは聞いたけれども……。
  125. 小林錡

    小林委員長 CICだけれども……。
  126. 板垣幸三

    板垣証人 その名前や何かは知つていないです。
  127. 小林錡

    小林委員長 軍人つたですか。
  128. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。軍人です。
  129. 小林錡

    小林委員長 それからどこに行つたですか。
  130. 板垣幸三

    板垣証人 それから五月三日の十一時四十五分くらいの列車で、十二時ちよつと前に、二等の急行で東京に送られました。
  131. 小林錡

    小林委員長 だれかついて行きましたか。
  132. 板垣幸三

    板垣証人 こつちの本郷本部に来てからオニエル言つておりましたが、正規の軍服を着た軍人が一緒に乗つて来ました。
  133. 小林錡

    小林委員長 一人で来たのですか。
  134. 板垣幸三

    板垣証人 一人です。
  135. 小林錡

  136. 板垣幸三

    板垣証人 階級はわかりません。
  137. 小林錡

    小林委員長 そしてどこでおりましたか。
  138. 板垣幸三

    板垣証人 上野駅でおりました。
  139. 小林錡

    小林委員長 上野駅でおりてからどこに行きましたか。
  140. 板垣幸三

    板垣証人 あと名前知つたのですが、光田というのと、それからもう一人郵船ビルCIC名前のわからない二世の軍人と二人迎えに来ておりました。そして緑色のジープで送られました。
  141. 小林錡

    小林委員長 行先はどこでしたか。
  142. 板垣幸三

    板垣証人 行先は言わなかつたです。
  143. 小林錡

    小林委員長 結局着いたところは。
  144. 板垣幸三

    板垣証人 あとでわかつたのですが、本郷本部です。
  145. 小林錡

    小林委員長 何の本部ですか。
  146. 板垣幸三

  147. 小林錡

    小林委員長 どこにあつたのですか。
  148. 板垣幸三

    板垣証人 住所はつきりわかりませんが、北側に上野の不忍池のあるところです。元の岩崎の別邸だそうで出す。
  149. 小林錡

    小林委員長 そのキヤノン機関本部ということは、どうしてあなたはわかりましたか。
  150. 板垣幸三

    板垣証人 後日わかつたのです。そのときにはわからなかつたのです。
  151. 小林錡

    小林委員長 後日というのは、そこへ着いてどのくらいたつてからですか署のキヤノン機関本部だということは、別にあとから話はなかつたのですか。
  152. 板垣幸三

    板垣証人 入つたときにはなかつたのです。三箇月くらいたつてからその話を聞きました。
  153. 小林錡

    小林委員長 あなたはキヤノン機関で何かスパイ教育を受けたということですが、そうですか。
  154. 板垣幸三

    板垣証人 受けました。
  155. 小林錡

    小林委員長 どんなふうに受けたですか、ひとつ話してください。
  156. 板垣幸三

    板垣証人 その前に少しその当時の経過を話したいと思います。当時ぼくが連れ込まれたとき、その晩岩崎邸地下室に入れられたのです。その翌日に……。
  157. 小林錡

    小林委員長 その岩崎地下室というのは、キヤノン本部のところですか。
  158. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。それでそこに入れられて、次の朝出されて、名前はそのときはわからなかつたのですが、キヤノンの前に出されたのです。それで去年からお前を新潟から三日間貸せと言つて借りて来たけれども、途中で列車逃亡したという報告をしてあるぞ、それで新潟国警の方でお前を探している。あらためてこつちの方でお前を逮捕するというわけです。逮捕理由を聞いたら、向うでは言う必要はないというのです。それで今まで新潟言つたことが全部でたらめだ。だからここで三日間の期限をやるから訂正せよ。それでなければ生きてここから出られないと言つて脅迫をされた。三日の間にキヤノンじきじきにぼくは拷問されました。それで最後には水の入つた石牢に二日も飯も与えられずに入つておりました。それでぼくはその牢に入れられてから、ほんとうのことを言うから出してくれと言うたら、向うは出してくれて、さあほんとうのことを言えと言つたので、ぼくはこれ以上何も言うことはないと言つたら、それじやこれから刑場へ連れて行く、覚悟はよいかと言うので、向うは目隠しをして連れて行つた。それでどこへどういうふうに行つたかわからなかつたが、おろされたところが、玄関は洋風のような玄関つたのです。そこで福本というのが連れ出したのですが、その福本山田々々と大きな声で呼んだ。出て来たのは日本人ボーイつたのです。そいつにぼくが入れられた部屋は窓の周囲に全部軍用毛布をかけて外部からのぞかれないようにしたのです。その中へぼくを監禁したのです。それで逃げるおそれがあるからというので、手錠をかけて、山田君というボーイの人にその手錠のかけ方を教えて、それで自分引揚げたのです。それでここで手錠をかけられたりなんかして、約二箇月間くらい山田という青年と共同生活をしておりました。
  159. 小林錡

    小林委員長 ちよつと待つてください。そうすると一番初め連れて行かれたキヤノン機関本部と言われる岩崎邸ですね。そこでは……。
  160. 板垣幸三

    板垣証人 約二週間いました。
  161. 小林錡

    小林委員長 地下部屋に入れられ
  162. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。地下です。
  163. 小林錡

    小林委員長 どんな部屋です。
  164. 板垣幸三

    板垣証人 周囲がみな壁でできていて、どこからも抜け道のない地下室です。
  165. 小林錡

    小林委員長 そこへかぎでもかけていたのですか。
  166. 板垣幸三

    板垣証人 かぎをかけてありました。
  167. 小林錡

    小林委員長 それで戸はどんなふうでしたか。
  168. 板垣幸三

    板垣証人 戸は普通の洋室に備わつているようなドアです。
  169. 小林錡

    小林委員長 だれか外で監視していたのですか。
  170. 板垣幸三

    板垣証人 戸のわきには監視していなかつたと思います。そこを出て上に行くと、地下室の入口で外人が監視していました。
  171. 小林錡

    小林委員長 窓はないですか。
  172. 板垣幸三

    板垣証人 窓はないです。
  173. 小林錡

    小林委員長 そこに三日間おつたのですか。
  174. 板垣幸三

    板垣証人 いいえ、そこには二週間余りおりました。
  175. 小林錡

    小林委員長 一番初めに二週間余りその地下室みたいなところへ入れられておつたのですか。
  176. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。
  177. 小林錡

    小林委員長 何か拷問を受けたのですか。
  178. 板垣幸三

    板垣証人 その間拷問をされました。
  179. 小林錡

    小林委員長 どんなこと……。
  180. 板垣幸三

    板垣証人 新潟言つていることがうそだと言うのです。それでぼくは自分うそ言つていることを訂正したのです。これだけお前はうそ言つてつたのだから、この前にしやべつたことはみんなでたらめだと言うのです。当時新潟ではうそ発見器という器械でぼくを調べたのです。オニエルというのが君の言つたことはみんなほんとうだ、こう言つてつた。だからぼくは新潟CICでぼくの言うことをほんとうだということを言つているのに、ここでどうしてうそと言うのか、こう聞いたのです。自分が前にいた町の地図を書けということを言われた。ぼくが書いたところが、彼らがそれを持つて行つた。しばらくしてもどつて来たら、樺太にはそういう町がない、これがうその証拠だというので、それじや何の資料でうそだと断言するかと言つたら、キヤノンが今度は腰からジヤツク・ナイフを出して――黒いメッキでピカピカ光つているのです。なおかつ油砥石で、ぼくの目の前でといで、言わなければさすと言うのです。それでグラスコという、白系露人と思われる外人にぼくの腕をつかましておいて、首筋が切れない程度に突きさすのです。それでも何も言わないと、今度はコルト四十五の安全弁をはずしながら、裸にして、ぼくの下腹部へ突きつけて、言わなければどてつぱらに風穴が明くという調子つたのです。その拷問がここで二週間飲まず食わずで、彼らは食事は持つて来るのですが、取調べ人間が入れかわり立ちかわり来るから食事をするだけの時間の余裕がないのです。飲まず、食わずの状態で、ほとんど睡眠もとらないでその中に二週間いたのです。
  181. 小林錡

    小林委員長 二週間ぐらいですか、第一番目の場所は。
  182. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。
  183. 小林錡

    小林委員長 その次はどこへ行つたのですか。
  184. 板垣幸三

    板垣証人 あとで聞いたのは、東京銀行川崎支店の新丸子という、東横線の工業都市でおりた方が近い、当時TCクラブと呼ばれていたうちに連れて行かれたわけです。そこの正面の玄関を入つて右側の方に以前サロンか何かに使用したような大きな部屋を挾んで両側に三つずつ、六つの部屋に区切つてあるのです。ぼくは、その大部屋に入つて行く前の左側に便所があつて、その便所の隣りの部屋にいました。
  185. 小林錡

    小林委員長 それはやはりかぎをかけましたか。
  186. 板垣幸三

    板垣証人 それはかぎをかけておりました。かぎをかけて、軍用ベッドに寝かせて手錠をかけて、その上にその手錠ベッドにつないでおきました。
  187. 小林錡

    小林委員長 手錠をかけただけで、別に鎖などはなかつたのですか。
  188. 板垣幸三

    板垣証人 鎖でかけました。
  189. 小林錡

    小林委員長 どういうふうに。
  190. 板垣幸三

    板垣証人 一端を右の手首の手錠にかけて、もう一端を鉄骨のベッドに縛つたわけです。
  191. 小林錡

    小林委員長 片手だけですね。
  192. 板垣幸三

    板垣証人 片手だけですけれども、それで寝返りをうつことも立上ることもできない。窓は全部毛布でかぶしてあるから絶対向うの方は見えないのです。ぼくにもつばら食事を持つて来てくれたのは山田君だけです。あと女の子が一週間に二回ぐらい、シートをとりかえるのに入つて来るだけです。
  193. 小林錡

    小林委員長 どうして山田ということがわかつたのです。
  194. 板垣幸三

    板垣証人 あとで顔を合して山田善二郎君ということがわかりました。
  195. 小林錡

    小林委員長 何回ぐらい食事を運びました。
  196. 板垣幸三

    板垣証人 二箇月余り全部運んでくれました。
  197. 小林錡

    小林委員長 二回目の場所は二箇月……。
  198. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。
  199. 小林錡

    小林委員長 それはどういうふうでした。
  200. 板垣幸三

    板垣証人 そこに殺すと言つて連れて行つて、そこでは殺すという状態ではなく、手錠をかけておきながら、今からでもおそくないから訂正することがあつたら訂正しろというような調子で、ときどきやられただけです。
  201. 小林錡

    小林委員長 そうすると、君の言うことは大分うそが多いからほんとうのことを言え、こう言うだけですか。
  202. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。
  203. 小林錡

    小林委員長 こういうふうであろう、ああいうふうであろうということは言わぬのですか。
  204. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。キヤノン機関にいたときに言いました。密輸船で品物を運んだときに、ぼくは下級船員であつたために品物の質がどういうものであつたかわからないので、長方形の包装であつたとかまるいものであつたとかいうふうに自供してあつたのです。その長方形のものは鉄砲であつたとかこれはソ連製のカチユーシヤというやつだとか、そういうふうに向うの方で自供書なるものが書いてあつた場のです。要するにそれを認めろという拷問つたのです。それで訂正しろということは、それを認めろということに意味が通じたのです。ぼくの書類を、あつちの方の品物にしておいて、東京に来てからその書類ばかり突きつけるのです。ぼくは英語がわからないから読みあげてくれと言つたら、藤本という二世の軍人がそういうふうに訳してぼくに伝えたわけです。
  205. 小林錡

    小林委員長 そうするとそれはどういうときに荷物を積んで行つた船のことですか。何月何日どこからどう出た船という……。
  206. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくとしては、あまり記憶がよくないから日付がわからないんで、大体秋だつたとか夏だつたとか、こういう港だつたとかということは言いました。
  207. 小林錡

    小林委員長 大体向うの言つたのはあなたの乗つてつた船と当つていましたか。
  208. 板垣幸三

    板垣証人 当つていました。
  209. 小林錡

    小林委員長 その事実を調べたわけですか、あなたに対して三……。
  210. 板垣幸三

    板垣証人 二年間乗つてつたぼく以上に、船の装備や速力など全部知つていました。あえてぼくから聞く必要はなかつたと思います。
  211. 小林錡

    小林委員長 そうすると第二回目に行つた場所はどのくらいおりましたか。
  212. 板垣幸三

    板垣証人 そこに二月ばかりおりました。
  213. 小林錡

    小林委員長 そうしてどうしました。
  214. 板垣幸三

    板垣証人 それから七月の初めにやはり福本に目隠しされて連れ出されたのです。それで目隠しの状態岩崎機関へ入つて、当時キヤノンが自室に用いておつた二階の部屋に入れられたわけです。
  215. 小林錡

    小林委員長 岩崎機関というのは……。
  216. 板垣幸三

    板垣証人 一番初めにおつた本郷の岩崎邸です。
  217. 小林錡

    小林委員長 そこへ目隠しされて帰つて来た……。
  218. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。それでキヤノン部屋に入れられたのです。そのときはもう十一時過ぎぐらいだつたんですが、そのときに部屋の電気を消したわけです。それで赤いじゆうたんの上にぼくをひざを折らしてすわらして、軍用の懐中電燈でぼくの顔を照したのです。ぼくの方に明りが来ていますから、その周囲にだれが来たかわからない。キヤノンが一人々々に何かを言つて聞かしてその一人々々が答えているのです。それで一人々々が去つたのです。そうしたところがキヤノンは別に福本という二世を通じて言うのには、おれは今までお前を二箇月あまり生かしておいた、それだけれどもお前は訂正する色がない、改心する色がないから、これ以上生かしておいてもおれたちの利益にならない、だからこれからほんとうに殺すから覚悟がいいかということになつたのです。ぼくはやむを得ないと答えました。それで目隠しをして岩崎の裏庭に連れ出したのです。それで庭の石の燈籠の折れたような上にすわらしておいて、福本を通じて言うのには、まあおれも鬼のような人間だとお前は思つただろう、だけれどもおれだつて人間だ、お前が今最後に何でもいいから一つ言うことだけは聞いてやろう、何か一つ願いを言えということになつたのです。それでぼくは命を助けてくれと言いました。そうしたらそれはだめだと言うのです。それ以外のことを言えと言うのです。それでぼくは、それ以外のことだつたら、ぼくはもうどうせここで殺されるのだつたら目隠しをとつてくれと、言つたのです。福本が目隠しをとりました。それですぐ拳銃を撃つかと思つたら拳銃を撃たないで、うしろからぼくの下腹に突きつけておいて福本と何か目で合図しておつたので、ぼくはそいつに日本語で抗議したのです。キヤノンはぼくを共産党員だといつて頭から押えつけようとした、それで取調べ中に明らかにソ連側のスパイだというその証拠がたくさんあると言つた。その間見せろと言つても彼らはその証拠なるものを見せなかつた。それでぼくはそのときにこう言つて抗議したのです。今キヤノンはぼくを共産党員だといつて殺す、ぼくは殺されるから、それで終りだから何も言うことはない、だけれどもほんとうの共産党員がこれから次々と出て来たら、お前は共産党員を一人一人殺すか、もしそれができたらお前は一代の英雄だ、それ以前にお前は神経戦に負けてのびてしまうと言つたのです。そうしたら福本がそれを英語で通訳したのです。それで小雨の降る中を二十分くらい彼は拳銃を突きつけて考えたのです。そうして拳銃をポケットにしまいながら、どうだおれの下で働くかということになつたのです。ぼくは命がほしい、だから生命の保障を条件にしてくれるのだつたら、ぼくは生きるためにやむを得ないから働くと言つた。そのかわり以前言つた自供書にサインしろとしうのには、ぼくは絶対にサインしないと言い切つた
  219. 小林錡

    小林委員長 何にサインしろというのですか。
  220. 板垣幸三

    板垣証人 向うでつくつた筋書通りの調書です、それを出したわけです。ぼくはそれには絶対にサインしないと言つたのです。それではそれでもいいから働けということになつたのです。それでその晩初めて目隠しをとられて、元の、二度目に入つたTCクラブに送り返された、その翌朝に横浜へぼくの変装用の服を買いに行つた
  221. 小林錡

    小林委員長 TCクラブ行つたときは、今度は部屋に監禁はしなかつたのですか。
  222. 板垣幸三

    板垣証人 それからは錠はかわなかつたです。それであす横浜に行つて変装用の服を買つて与えるという約束で、次の日日本人の森田というのとぼくと福本と三人で、横浜というその方角へ向つたのです。しかし実際には駿ヶ台の下の方の神田の洋服屋でぼくの着物を買つたのです。そのときのぽくの服装というのは、日大の制服に日大の帽章をつけた丸帽です。それでそのかつこうでキヤノン部屋に通されたのです。キヤノンにそのときに、これから福本の言うなりになつて当分活動せいという指令を受けたのです。
  223. 小林錡

    小林委員長 福本というのはどういう人ですか。
  224. 板垣幸三

    板垣証人 二世の准尉という話ですが、はつきりした階級はわからないです。
  225. 小林錡

    小林委員長 福本何というかわかりませんか。
  226. 板垣幸三

    板垣証人 わかりません。
  227. 小林錡

    小林委員長 それはキヤノンの下で働いているのですね。
  228. 板垣幸三

    板垣証人 キヤノンの下です。当時TCクラブの全責任者だつたのです。
  229. 小林錡

    小林委員長 あなたは鹿地亘というのは知つているですか。
  230. 板垣幸三

    板垣証人 鹿地亘という人にはきのり初めて会つただけです。しかしその右前は昭和二十六年の八月ごろ一度聞いたことがあります。
  231. 小林錡

    小林委員長 どういうことで聞いたりですか。二十六年の八月というと大が古いことですね。
  232. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくが直接その話を聞いたのじやない、人に話しているのをぼれが聞いたのです。
  233. 小林錡

    小林委員長 だれが話しているのを……。
  234. 板垣幸三

    板垣証人 キヤノンの副官の松井というのが話をしておりました。
  235. 小林錡

    小林委員長 松井何というのです
  236. 板垣幸三

    板垣証人 名前はわかりません。
  237. 小林錡

    小林委員長 これも二世ですか。
  238. 板垣幸三

    板垣証人 二世です。それはキヤノン機関の副官です。
  239. 小林錡

    小林委員長 それがどこでどういう話をしたのを聞きましたか。
  240. 板垣幸三

    板垣証人 あそこの将校専用のサロンでぼくとそれから日系ドイツ人二世と言われる、軍人ではなく、普通の市民だと思いますが、そいつと北本という日本人と三人いたときです。それでその当時スパイの訓練期間が一月ばかりあつた、その一月ばかりたつてからテストというのか知らないけれども、そのときその三人を松井が呼び出して、ゾルゲ事件のときに伊藤律の線で浮かび上つたアメリカの共産党員で、その後覚を抜けて日本へ来て、ゾルゲの線で活躍していたと言われる北林という女の人のめいというのが現在世田谷の方に住んでいるそうです。それでその人の当時の状況をぼくに調べろという指令でした。それでその特別機密費としてあの機関では一人十万円あつたのですが、そのときにぼくは特別機密費として七万円もらいました。またそのときに日系ドイツ人と言われるちよつと国籍のわからない人間に、松井が、お前は鹿地亘という人間がおるから、そいつを調べろということを言われました。それから北本というのは、幻兵団の団長と言われたスガという人の家族の状況を調べるようにという指令を受けました。そのときに鹿地亘という名前は聞きましたが、それが鹿地亘という名前を聞いた一番最初です。
  241. 小林錡

    小林委員長 どうして鹿地亘という行前を覚えておりますか。
  242. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくもその後関心を持つていなかつた川から忘れておりましたが、しかしキヤノン機関のことが新聞に出てから機関の中の名前がいろいろ出て来ましたので、そのときに鹿地亘という名前が浮んだから、その当時そういう話があつたから、それと同一人物じやないかと思つたのですが、しかしきのうまで同一人物であるということを知らなかつたのです。
  243. 小林錡

    小林委員長 お前は鹿地亘を調べろと言つたわけですか。
  244. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。それはぼくが受けた指令ではなくて、日系ドイツ人と言われる人が受けた指令です。
  245. 小林錡

    小林委員長 それは何という名前ですか。
  246. 板垣幸三

    板垣証人 名前はわかりません。そこで一番最初に会つたきり全然会つておりません。
  247. 小林錡

    小林委員長 それは日本におりますか。
  248. 板垣幸三

    板垣証人 その後の活動は全然わかりません。
  249. 小林錡

    小林委員長 そうすると、日系ドイツ人に松井が鹿地亘を調べろと言われたわけですね。
  250. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。鹿地亘の動静を調べろと言われたのです。またぼくには北林のめいという人の家にどういう人が出入りをするかということを調べろと言われました。
  251. 小林錡

    小林委員長 そのほかには鹿地亘については何か知りませんか。
  252. 板垣幸三

    板垣証人 その後は新聞に出るまで全然知りません。
  253. 小林錡

    小林委員長 それからあとは、あなたはどういうふうにしてキヤノン機関から出ましたか。いつまでやつておりましたか。
  254. 板垣幸三

    板垣証人 キヤノン機関は二十六年の暮れに密輸をしておりました。それ二で十六年の密輸を手伝つて、帰つて来てキヤノン機関は解散して、それで……。
  255. 小林錡

    小林委員長 キヤノン機関を出て密に出かけたのは……。
  256. 板垣幸三

    板垣証人 キヤノン機関を出てからは密輸には行つておりません。
  257. 小林錡

    小林委員長 キヤノン機関が密輸をやつておるのですか。
  258. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。キヤノン機関の資金をカンパするために、擬装密輸情報を集めていましたから、その船で二十六年十二月二十二日……。
  259. 小林錡

    小林委員長 キヤノン機関は船を一隻持つておりますか。
  260. 板垣幸三

    板垣証人 はつきりしたことはわからなかつたのですけれども、その船はキヤノン機関の船です。キヤノン機関にはそのほかにも数隻の船があるということを聞きました。
  261. 小林錡

    小林委員長 それは確かにキヤノン機関密輸船だということがはつきり言えますか。
  262. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくの乗つた船ですか。
  263. 小林錡

    小林委員長 そうです。
  264. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくの乗つた船は言えます。それは日本警察が二度ほど手入れしましたが、その都度CICの妨害で手入れされておりません。ですから、キヤノン機関密輸船だということははつきりしております。
  265. 小林錡

    小林委員長 船に乗つてあなたはどこに行きましたか。
  266. 板垣幸三

    板垣証人 下田、明石、門司を経由して朝鮮行つております。
  267. 小林錡

    小林委員長 朝鮮でその品物を揚げたのですか。
  268. 板垣幸三

    板垣証人 朝鮮は釜山に入つております。釜山の第二埠頭という所で揚げました。その当時の密輸の状態としては、東京を出るときには、まるで映画の海賊船に出て来るシーンのような、あの日は雨のためか停電でまつくらだつた。二十一日の日に荷物を積んだけれども、二十二日の日が中央市場が休みのために、ほとんど船が出払つてぼくたちの船しかいなかつたあと他に二、三集いただけです。そのときにぼくたちの船にトラックで六台の密輸品を積んだのです。その密輸品を積んだときには、キヤノンも立ち会つております。それから延というキヤノンの特別の相棒というか、片腕というのか、そういう人間も立ち会つております。それでその延という人間が指揮して朝鮮行つたのです。それで朝鮮でこれを売りさばくのには、朝鮮の憲兵の保護のもとにこれを売りさばいているのです。
  269. 小林錡

    小林委員長 どういう品物ですか。
  270. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくにはつきりした品物の名前や数はわからないのですが、一反五万円という英国製の生地も……。
  271. 小林錡

    小林委員長 反物が多いのですか。
  272. 板垣幸三

    板垣証人 それから花王石けんの箱なんかありましたが、あれははたして中身が石けんか何かということは、ちよつと疑われます。
  273. 小林錡

    小林委員長 釜山でその荷を引取つた人はどんな人ですか。
  274. 板垣幸三

    板垣証人 結局引取つた中間はわからないのです。燈火管制を軍用自動車で、韓国の憲兵の護衛のもとに運んだのです。それで初めての町ですから、どの方角かわからないけれども、七箇所くらいに分散してその荷物を隠匿しました。
  275. 小林錡

    小林委員長 日本を出たのはいつですか。
  276. 板垣幸三

    板垣証人 昭和二十六年の十二月二十二日午前二時ごろかと思います。
  277. 小林錡

    小林委員長 それからあなたが帰つて来たのは……。
  278. 板垣幸三

    板垣証人 帰つて来たのは二十七年の一月末です。
  279. 小林錡

    小林委員長 そのときにはキヤノン機関はなかつたのですか。
  280. 板垣幸三

    板垣証人 そのときにキヤノン機関は解散したけれども、その部下の藤本らはおりました。
  281. 小林錡

    小林委員長 どこに……。
  282. 板垣幸三

    板垣証人 藤本は郵船ビルの三階、工レベーターで上つてすぐわきの部屋におりました。
  283. 小林錡

    小林委員長 郵船ビルの三階にはどういう所がありますか。これはキヤノン機関の何ですか。
  284. 板垣幸三

    板垣証人 キヤノン機関には関係があるかないかわからないけれども、その藤本という人間は、キヤノン機関の要員だつたのです。キヤノン機関が解散したので、CICへもどつて来たと思います。
  285. 小林錡

    小林委員長 そうすると、そのキヤノン機関というのは一体どういう機関ですか。あなたの思うには……。
  286. 板垣幸三

    板垣証人 特にはつきり向うでは言いました。ぼくの命がほしいのか、それともソ連側の情報がほしいのかと言つたら、ぼくたちは情報屋だから情報がほしい。しかしいい情報をお前出さなかつたら、お前の命も情報もほしいと言いました。だからキヤノン機関というものは、情報を集める機関だと思つております。
  287. 小林錡

    小林委員長 あなたがソ連方面の情報をよけい持つておるというふうに、向うは考えておつたわけですか。
  288. 板垣幸三

    板垣証人 そういうふうにしか思われないのです。
  289. 小林錡

    小林委員長 あなたという人間向うが目ざして、CICが身柄を引取りに来たというのは、どういうことから来たとあなたは思いますか。
  290. 板垣幸三

    板垣証人 これはぼくの想像ですが、新潟の中頸城警察署におつたときに、新潟国警本部から、何かえらい人が来たのです。それでぼくが密輸船から逃亡しているという経歴で、何か迫害されるのではないかという自分の恐怖心があつたが、もし君がほんとうのことを言つたら、警察では君の体を絶体保障するといつた。それでもぼくは密輸に関したことに対してはほとんどしやべらなかつた。それで中頸城郡に約一月くらいおつて、そのときに新潟からやはりまた国警のえらい人というのが来た。それで民間情報局で君の話をちよつと聞きたいから新潟まで送るというので、新潟へ送られたわけです。だから前もつて高田におつたときに、国警の方とCICの方の連絡がついておつたと思います。これはぼくの想像です。
  291. 小林錡

    小林委員長 そうするとあなたは釜山から帰つて来てから、キヤノン機関には全然関係ないのですか。
  292. 板垣幸三

    板垣証人 キヤノン機関には関係がなかつたのですけれども、藤本とは関係がありました。
  293. 小林錡

    小林委員長 どういう関係が。
  294. 板垣幸三

    板垣証人 情報を提出する関係です。
  295. 小林錡

    小林委員長 藤本はどういうことをやつてつたのですか。
  296. 板垣幸三

    板垣証人 藤本もやはり情報部員の一員です。それで民間の情報と軍事関係の情報とを問わずに、ぼくに提出せよと言つておりました。
  297. 小林錡

    小林委員長 それであなたは、キヤノン機関にいる間には、何かそういう軍事方面のいろいろなことを調べたり、知らせたりやつたのですか。
  298. 板垣幸三

    板垣証人 特別にやらなかつたのです。
  299. 小林錡

    小林委員長 向うが使わなかつたのですか。
  300. 板垣幸三

    板垣証人 訓練して、すぐに船に乗せたから、船に乗つてからは船に寝とまりして、陸でそういうことをせよと言われたのですが、船の中で人員が足りないから、船の中の仕事をしていて、あまりそつちの方の仕事はしなかつたのです。
  301. 小林錡

    小林委員長 スパイの訓練をしたというのは、一体どんな訓練をしたというのは、一体どんな訓練をしましたか。何か暗号でも覚えさせるのですか。
  302. 板垣幸三

    板垣証人 教育の方針というものは、まず最初に虎ノ門から築地へ出る道のりです。その道のりを何分間で歩けるかというのです。どのくらいの急ぎ足で何分、それからゆつくり歩いて何分というその時間をはかるのと、それから中央市場に入つている船のトン数、それから東京湾に入つている船のトン数と、その船の船籍がどこにあるかということを調べる。それから、それが終つてから、中央市場から勝閧橋、永代橋を経て岩崎キヤノン機関本部までを歩いて、そのときに、きようは急ぎ足で来い、きようはゆつくり来いというのでタイムをとつてつた。それが訓練だつたのです。それからその間、人に尾行されたか尾行されないかというようなことも、しさいに任意しているということを言われました。
  303. 小林錡

    小林委員長 キヤノン機関で、あなたは大分金をもらつたのですか。月給か何かになつてつたのですか。
  304. 板垣幸三

    板垣証人 月給は五千円になつております。それから一回何か情報を提出せよということで情報を提出した場合に、その情報に対して二万円から三万円の報酬をもらいました。
  305. 小林錡

    小林委員長 二万円ももらうような情報は、どんなものですか。たとえば……。
  306. 板垣幸三

    板垣証人 簡単でした。新聞の記事をそのままぼくが書いて持つて行つたにすぎないのです。(笑声)
  307. 小林錡

    小林委員長 向うは、新聞の記事だということを知らないのですか。
  308. 板垣幸三

    板垣証人 それは知つているのか知らないのかわかりませんが、あの二万円という報酬は、あの機関では一番最低です。ですから知つていても、それだけ払つたのかもしれないのです。
  309. 小林錡

    小林委員長 キヤノン機関というのは、相当金を持つている様子でしたか。
  310. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくが内部におつて聞いた話では、あまり金はないのですが、密輸をやるから、資金は豊富であるという話でした。
  311. 小林錡

    小林委員長 それはアメリカの軍の方と何か関係がありますか。キヤノン機関というものは……。
  312. 板垣幸三

    板垣証人 軍の方に関係があるかないかはつきりした証拠というものがないのですけれども、朝鮮へ密航したときに、明石の港で日本警察の手入れにあつております。そのときに乗組員は日本警察を黙視して、米軍が来るのを行つたのです。それで日本の警官は上陸を禁止させておいた。それで神戸のCICですぐぼくたちの船が入つたということを探知してやつた来た。そうしたら警官はは一ぺんに追い帰されました。だから軍の保証をもつてつたということは確実です。だから軍の船です。
  313. 小林錡

    小林委員長 あなたの言うことを聞いていると、何だかほんとうのことと思われないように考えるのですが、間違いがないでしようね。宣誓までしているのですから、何度聞いてもこれは間違いがないでしようね。
  314. 板垣幸三

    板垣証人 何度聞いても間違いありません。その証拠の裏づけになるのは、キヤノンや延やああいう人間をここへ呼び出すのが、一番裏づけになる。ですから委員会でその人間を呼んでもらえば幸いです。
  315. 小林錡

    小林委員長 キヤノンというのは、どんな性格の人です。体かつこうは……。
  316. 板垣幸三

    板垣証人 当時右足がびつこだつたと思います。
  317. 小林錡

    小林委員長 びつこですか。
  318. 板垣幸三

    板垣証人 びつこです。ぼくを取調べたときにびつこを引いておりました。それから体格は五尺八寸――六尺を越えるくらいの、ぼくの方がせいが小さいのかそのくらいに思われました。肩幅が広く、がつちりした人間です。
  319. 小林錡

    小林委員長 いつも私服ですか。
  320. 板垣幸三

    板垣証人 制服です。階級はつけていないですが、軍の服です。
  321. 小林錡

    小林委員長 キヤノンの上にまだだれかあるのですか。それともキヤノンが一番上ですか。
  322. 板垣幸三

    板垣証人 あの機関ではキヤノンが一番上です。
  323. 小林錡

    小林委員長 あなたはCICというのを知つていますか、向うの機関で……。
  324. 板垣幸三

    板垣証人 CICというのは、その機関に入つてからわかつたのです。
  325. 小林錡

    小林委員長 キヤノン機関とどういう関係があると思いますか。
  326. 板垣幸三

    板垣証人 CICキヤノン機関とは別個のものだと思つております。
  327. 小林錡

    小林委員長 どういうところからそう思いますか。
  328. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくがキヤノン機関におつたときに、給料をとりに行くときにはユダヤ人と思われる人間がとりに行くのですけれども、そのときにはCICへとりに行つていないのです。途中の銀座の商店や何かでテッド・ルーインという賭博師から金をとつております。ですから軍の関係でしたら、CICないし当時のGHQから金を受取らなければなりません。それをテツド・ルーインという賭博師から受取つておりました。
  329. 小林錡

    小林委員長 あなたは三橋正雄というのは知つておりますか。
  330. 板垣幸三

    板垣証人 三橋正雄というのは、新聞に出てから知りました。
  331. 小林錡

    小林委員長 その当時一ぺんも聞いたことはないですか。
  332. 板垣幸三

    板垣証人 その当時は聞いたことはないです。しかしキヤノン機関に出入りしている姿は見ました。
  333. 小林錡

    小林委員長 いつごろどこで……。
  334. 板垣幸三

    板垣証人 キヤノン機関事務所で、昭和二十六年九月ごろから……。
  335. 小林錡

    小林委員長 どういうところを見たのですか、そこに尋ねて来たのを見たのですか。
  336. 板垣幸三

    板垣証人 あの機関では、交換情報といつて、あそこに使われている人間が、めいめいの月々集められた情報について、これは真実性があるかこうかという一種の討論会のようなものをやるのです。それに出席したのかこうかわからないけれども、そういう会のあるときに三度くらい見ております。それは一箇月に三回くらい、一週間に一ぺんやることもあります。
  337. 小林錡

    小林委員長 あなたのような目にあつて監禁されたなんというのはほかにもあるのですか。
  338. 板垣幸三

    板垣証人 あります。
  339. 小林錡

    小林委員長 見ておりますか。
  340. 板垣幸三

    板垣証人 見ております。
  341. 小林錡

    小林委員長 どんな……。
  342. 板垣幸三

    板垣証人 朝鮮人で日本名前小林という三十五、六歳くらいになるかはらないくらいの人間が、ぼくより以前からぼくの向いの部屋に入つておりました。それからぼくがそこに監禁されているうちに、会社の重役タイプのような人も連れられて来たのを見ておりますし、また全然顔は見ないけれども、気配だけで連れられて来たということがわかるのも一、二経験しております。
  343. 小林錡

    小林委員長 これで一応私の質問を終ります。  委員より発言の通告がありますから、順次これを許します。古屋貞雄
  344. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 お尋ねいたしますが、ただいま委員長のお尋ねに対して、東川クラブに行つたときに、山田々々といつて呼んでおつた、それが山田善二郎であつたというように述べておりますが、その当時ただいま証人が言われたように、朝鮮人の小林という男が同じように東川クラブに監禁されておつたのであるかどうか。
  345. 板垣幸三

    板垣証人 確かにおりました。
  346. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 さらにお尋ねしたいのは、昭和二十六年の八月に松井からスパイの命令を受けた。その一人は日系ドイツ人のような人であつて、その人は鹿地亘の動静を視察しろという命令を受けた。それから証人は北林という者の行動を調査して報告しろと言われ、当時さらに北本という人は、幻兵団の首領の行動を報告しろということを命ぜられた、かように言つているのですが、証人は北林の行動を視察して報告した事実があつたかどうか。
  347. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくは一度この人だと思われるところへ行つたことがあります。しかしその後一週間くらい続けて調査する期間があつたのですけれども、その間ぼくは渋谷なんかに行つて遊んで、でたらめの報告をして、調査しておりません。それからただいまのお尋ねで、幻兵団の団長を調べろといつたのではなく、幻兵団の団長の家族の動静を調べろと言われたということに訂正しておきます。
  348. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 証人昭和二十六年八月から十二月二十二日の、船に乗り込むまでにどのような行動をしたか、その要領をかいつまんで述べてもらいたい。
  349. 板垣幸三

    板垣証人 その機関におつたときには船に乗つてつて、ほとんど朝起きるのは十一時くらいです。それから船のデッキ掃除なんかして、ぶらぶらして、四時か五時ごろに終ります。それで特別の機械の手入れなどの事故がなければ、ぼくはもらつた給料でパチンコなどをやつて遊んでおりました。そういう生活を続けておつて昭和二十六年の十二月十七日、ぼくはタバコをのまないために、CICの方から支給になつたタバコを漁船にやつたら、漁船の乗組員が魚をくれたのです。その魚を持つてTCクラブへ遊びに行つたことがあります。そのときに光田というのは、ぼくが行くと、いつもぼくを連れ出して遊ばしてくれたのですけれども、そのときは、今度来たお客さんが自殺しそこなつて重体だ、だからぼくは離れられないから、お前どこかへ行つて映画でも見て来いと言つて、小づかいをもらつてつて来ました。それからクリスマスの晩にもう一ぺん来るという約束をしましたが、船が出航したので、それは約束を果しておりません。
  350. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 そこか一番大事な点ですが、そうすると、こういうふうに承ればいいですか。今の証言は、自分は芝浦で船に乗つてつて、大した働きもしていない。タバコをのまないから、もらつたタバコを漁船の船員にやつたところが、魚をもらつた。その魚を携えて東川クラブへ遊びに行つた。そのときに自分が行くたびに仲よくしておつた光田という方とそこで話をして、その魚を食べた。そのときに光田の品から、自分の方におるお客さんが自殺未遂をして、それがために自分は忙しくて出られないと言つた。かように聞いていいのですか。
  351. 板垣幸三

    板垣証人 その通りであります。なおつけ加えておきたいことは、そのときに、当時橋本というのと福本という軍人がそこから帰つて福本の以前いた部屋に光田というのが寝とまりしておつた。光田の部屋は階下の日本間であつた。そこへ通ずるドアーにかぎがかかつてつた。錠をかけてぶら下げてあつた。ぼくはそつちの方に人がいないから、行つてもさしつかえないのだと思つて、以前そこは鉄砲の組立てなどしましたので、そつちへ行こうとしたら、メイドの小川というのが、命令が出ているからそつちへ行つてはいけないと私をさえぎつておりました。
  352. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 証人が行こうと思つたが、かぎがかかつてつて入れなかつた、なおメイドの小川というのが、その部屋行つてはいけないと言つたというのですが、それはどういうわけで行つてはいけないかということを証人から問い返したような事実があつたかどうか。もし問い返した事実があれば、それに対して相手方からどういう返事があつたか、それを明確に証人からお答え願いたい。
  353. 板垣幸三

    板垣証人 当時一口にお客さんというと、ぼくのような状態で監禁された人間ばかりです。その中では監禁されている者同士が絶対会わないようにしてあるのです。便所へ行くときにも、一人が行くと、それが帰つて来るまで警備の人間がついていて、それが部屋に入つてかぎをかけたら別の人間を出すという状態なんです。洗面も風呂もそうです。そういう状態にあつたから、お客さんと一口に言われたら、ああなるほど、ぼくのような人間がまた連れて来られたのだなと思つて、そのほかにどういう意味かということを問い返しておりません。
  354. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 それは十二月十七日であることは間違いありませんね。
  355. 板垣幸三

    板垣証人 間違いありません。
  356. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 十二月の十七日だということをどうして間違いがないというような記憶が残つておるか、数年前山のことではつきり覚えておることがふしぎに思われるのですが、何を基準としてそんなことを記憶しておるか、その点を伺いたい。
  357. 板垣幸三

    板垣証人 クリスマスにまた来るとぼくが約束したのです。じやもう一週間たつたら来るんだなという約束があつたので、あとから考えて十二月十七日ということを割出しました。
  358. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 先刻証人は、東川クラブにボーイ山田というのがおつた、それはあと山田善二郎であることを知つた、こう言つておるのですが、ただいま証人が魚を持つて来て光田と食べた、そのとき、お客さんの――監禁されておるかどうか知りませんが、入つておる部屋かぎがおろされて、そちらへ行こうとしたら、行つてはいけないということがあり、光田からお客さんが自殺未遂をしたので自分は忙しくて困るという話をされた。そのときには山田善二郎には会つておりませんか。
  359. 板垣幸三

    板垣証人 そのときに食堂で会つています。それから光田のところへ食事を運んで来て光田の部屋でも会つています。食事のときにはぼくと、ぼくと一緒について行つた小さな六つぐらいになる男の子と、光田と三人で食べました。そのときには外部の者はだれもおりません。
  360. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 そうしますと山田と会うには会つたけれども、そのときは山田の方からお客さんのそんなような話はなかつたのですか、ありましたか。
  361. 板垣幸三

    板垣証人 そのときは山田君の口からは、自殺をしそこなつたというお客さんの話はなかつたです。だけれども、ぼくより以前に入つた人間がまだいるというようなことは聞いておりました。
  362. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 それから証人は、光田と非常に親しいようですが、服部京子という方を証人知つておるかどうか、その点を伺いたい。
  363. 板垣幸三

    板垣証人 よく知つています。
  364. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 その服部京子というのは光田の愛人であつて証人は光田のうちにとまつたような事実、そうしてただいまの服部京子というのと親しくしておつた事実、さような関係から光田とは相当親しくしておつて、ときに秘密な話を光田から聞いておつたような事実があつたかこうか。光田が証人を相当信用しておつたような事実があつたかどうか。そのようなことはどうでしよう。
  365. 板垣幸三

    板垣証人 服部京子のうちには約一月くらいとまつた事実があります。  それから光田がぼくを信用しておつたかということは、光田の気持ですからぼくにはわからないのですけれども、ぼくの受けた感じでは信用しておつたと思います。それはなぜかと言いますと、キヤノン機関からぼくが光田のところに行つたときには、これから家庭教師をつけてロシヤ語の勉強を専門にやろうじやないかというようなことを言つていました。ですからぼくを信用していたと思います。それから光田と服部京子の関係はどういうことかわかりませんけれども、周囲の人は恋愛関係にあるということを言つておりました。
  366. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 それから証人は――その後鹿地亘事件が新聞に出て参りました。それから山田善二郎の問題も新聞に出て参りました。さような新聞を見て、自分が非常に身の危険を感じて飛び出して来たというようなことがあるのかどうか、その点を伺いたい。
  367. 板垣幸三

    板垣証人 身の危険を感じて飛び出した事実があります。
  368. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 鹿地事件が新聞に出たり、山田関係が新聞に発表されても、普通ならば何も証人が身の危険を感ずる理由はないと思うのですが、どういうわけで自分がさような危険を感じたか、その点をひとつ詳しくお述べを願いたいと思います。
  369. 板垣幸三

    板垣証人 当時キヤノンが帰つてから――キヤノンが帰るときに、中佐から大佐になる、そのために陸軍大学に入る、六箇月たつたらまた帰るという話であつたのです。それでその六箇月間、キヤノンあとをついで実権を握つた韓国とアメリカの両軍の海軍中佐、延という人間は現在東京都港区芝今里町九十六番地に住んでおります。その人間のところにぼくが引取られたのです。その引取られる前に服部京子のところに行つてとまつた事実があります。それでぼくがラテン・クオーターという賭博場へ入る直前に延から言い渡された。お前はこれでぼくたちのところから一応からだを引く、しかしぼくたちは全然縁が切れていない、それで今後いかなる事件があつて事実のようなことに関して新聞などで報道された場合、お前がTC、CIC、それからキヤノン機関のことに関して口を割つたら、お前の利益になることは絶対ない、そういうふうに脅迫されております。ですから、あの新聞が出たときに、ぼくが東京にいて品を割つたら彼らに危害を加えられるという観念から、ぼくは逃亡したのであります。
  370. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 それから鹿地亘氏にはお会いになつたことがございますか。
  371. 板垣幸三

    板垣証人 きのうこの委員会で会うまで、会つたことはありません。
  372. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 何か証人自身が二十六年十二月十七日の日に東川クラブに光田をおとずれたときに、お客さんが自殺未遂をしたというのはそれはだれであるか、そういうことについて証人は、その後の新聞の関係、その他いろいろなことをあなたは聞いたのか知りませんが、あなた自身がその人がどなたであつたか、そのことの想像がつきますか、その点を伺いたい。
  373. 板垣幸三

    板垣証人 想像がつきました。
  374. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 それはどなたであつて、どういう理由で想像がついたか、ひとつ明確に証言してください。
  375. 板垣幸三

    板垣証人 延が帰つたあと、服部京子の家におつて、服部京子とぼくと光田と三人で映画や何かに遊びに歩いていたことがあつた。そのときは日曜日の日で――何月何日であつたかわからないのですけれども、その日曜の日に約束が変更されて来なかつた。そのときに服部京子が鹿地さんという人が相当悪いんだということを言つていました。ですから新聞記事に出た自殺しそこなつた重体という新聞記事と服部京子の言葉を総合して、ぼくの想像で結論をくだすと、あのとき当時あそこで監禁されておつたの鹿地だということがわかつたわけであります。
  376. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 服部京子は鹿地が非常に悪いですねと言つたことは、服部京子が光田に言つたのですか、だれに言つたのですか、その点を明確に……。
  377. 板垣幸三

    板垣証人 光田氏が来なくてぼくと京子と二人でいたのですけれども、京子がぼくに言つたんです。ぶつぶつ言いながらぼくと二人で映画を見ていました。
  378. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 そのときにもう少し――服部京子という人が鹿地さんを知つているのがちよつとふしぎなんですが、鹿地を服部京子が知つて、そうしてその話をしたというのですが、その前に一月もおられたそうだから光田と服部京子の関係証人との関係の間に、鹿地キヤノン機関にとめられているというようなことが何かの節に話にでも上つたのかどうか、上つてつてそういうようなことがあつたから今のような話が出たのかどうか、その点はどうでしよう。そういう話題が上つたかどうか、一箇月ぐらいとまつておられたそうですから、証人はそういう話があつたかどうか、どうでしよう。
  379. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくと光田と服部京子と三人のいた場合は、全然そういうことは口に出たことはありません。しかしぼくが一緒に出ないで光田と服部が二人で出てがらんとしたような事実があります。ですからそのときに光田から彼が聞いて、光田がその約束の日に来れなかつたためにそういう苦情を言つたんだと思います。これはぼくの想像です。
  380. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 それからもう一つ承りたいのですが、岩崎邸で、東川クラブから再び岩崎別邸に連れて行かれて、キヤレンから最後に生命を奪うと言われた、水ぶろに入れられておつた、二日食糧を食べさせられなかつたというのは、最後に証人が命を助けられて、それではスパイになつて米軍の命令に従いましようと言つたときに、そういうような拷問を受けたのであるか、それとも最初に一週間ばかり岩崎邸にとめられたときにそういうような目にあつたのか、いずれのときなんです。二度行つているらしいのですが、その点を明確にお聞かせ願いたい。
  381. 板垣幸三

    板垣証人 水ぶろではなくて、石牢の中に水がたまつて横になることもすわることもできないような状態にあつたのです。それから岩崎邸に最初一週間と言われましたが、それは一週間でなく、二週間余りです。それで最後に命を絶つと言つて連れ出されたときでなく、その以前に二週間いるときに拷問をやられております。
  382. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 そうするとこう承つていいですね。最初に行つたときに二週間おつた、石の牢であつて、水がたまつてつて寝られなかつた、そこに入れられておつた、こう承つていいですね。
  383. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。その通りです。
  384. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 それから東川クラブに行かれてから、先刻委員長からのお尋ねに、手錠をはめられた、一方の腕に手錠をはめ、鎖で鉄の寝台にゆわえつけられておつたと言われておりましたが、そういう状態に置かれたのはどのくらい続いたのですか。それからその当時どういうような生活ぶりに置かれたか、もう少し詳しくお聞かせください。
  385. 板垣幸三

    板垣証人 その当時手錠をかけられたのは、逃げるおそれがあるから手錠をかけろという隊長の命令だといつて福本が今までぼくのところへ飯を運んで来てくれた山田君を呼んで、それでまず一番最初に自分がかけて、そして彼にそれをはずさせてかけることを教えて行つたのです。そのときには手錠が二つあるのです。その二つが一本の鎖でつながれてあつた、その片方をぼくの右手首にかけて、その鎖の端――鎖といつても短かい一寸あるかないかぐらいの鎖です。その片方を鉄のベッドの鉄骨へからんだのです。
  386. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 それはどのくらい続いたのか、それを承りたい。
  387. 板垣幸三

    板垣証人 約一週間ぐらい続いております。
  388. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 そうすると最初は福本手錠をはめるところを山田に教えて、山田にかけさせた、そうすると証人は当時は山田に対していい感情を持たなかつたろうと思うのですが、山田との関係はどういうことになつておりましたか。その当時のそういう点を承りたい。
  389. 板垣幸三

    板垣証人 当時第一番目にかけられるときにはぼくは反感を持ちました。そのときは山田のそばに福本がついておつたのです。それで命令をしたもので彼もしかたなくかけたと思います。しかしぼくは反感を持ちました。同じ日本人がぼくによく手錠をかけた、もし生きて出られたら仕返しをしてやるこいう気持は持ちました。しかしその次の日食事を持つて来たときに山田君かその手錠をはずしてぼくに食事を与えて、その食事を食べ終るのを待つてまたかけて行くのです。そのときにぼくはこういう仕事をするのはいやだ、しかし生きるために、ここに働いているんだから天皇陛下の言うことを聞かなければならない、だから悪く思わないでくれ、こういうことだつたのです。それで手錠福本がきつくかけたのをゆるくしたり、その手錠にちり紙を巻いて手をきつくならない程度にしてくれました。そのときに福本というのに天皇陛下というあだ名がついていたことがぼくはわかりました。
  390. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 それから証人は身の危険を感じて飛び出して来てから山田君に会つたのは、いつどこで会つたのですか。
  391. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくは新聞にキヤノン機関の記事が出た場合には、一時身の危険を感じて逃げました。しかし新潟国警で四十数日金網の中に保護されているうちに国警の方で、事件事件で問題が問題だから今君が出てはまずい、だから当分下火になるまで隠れていてくれ、こう言うのです。警察がそういうことを言うのはおもしろくない、警察はもつと真実のあるところを新聞に報道すべきであつて警察から、出るのはまずいから隠れていてくれと言うのであれば、ぼくが今度ここから出たときには、もしぼくのことに関して新聞に出た場合はいつでも山田君の前に行つてその証拠を裏づけようという腹をきめておつた。たまたま三月の幾日かだと思いますが、衆議院の議員会館で鹿地事件の真相発表会というものがあつたのです。そのときに山田君から、十七、八才の少年が日本の警官から引渡されて拷問されておつた、それもスパイになつたという発言もあつたのです。それを朝日新聞か何かの記事でちよつと見たのです。それでこれは当時少年というとぼく一人より入つていなかつたので、これはぼくのことに間違いないという気持から、当時開かれておつた三橋氏の裁判を見に行つた、その裁判を見た帰りにぼくは院内の古屋先生のところへ電話をかけたところが、古屋先生は忙しくて会えないから猪俣先生に会えというので、猪俣先生のところに行つたんです。それで猪俣先生のところでぼくのことを話する前に山田君が入つて来たんです。それでやあやあというので、そこで山田善二郎板垣であることがわかつたんです。
  392. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 そうすると鹿地事件の発表会が衆議院の会館であつて、新聞に出た、それからその後三橋の裁判を聞きに行つて、帰つて来て私のところへ電話をかけたところが、私が会えないというので猪俣先生の控室に行つたところが、山男に会つてやあくあくと言つた山田君から二十六年の十二月の十七日に東川クラブで光田から聞いた当時の病人というのは鹿地さんであつたというような話が行われたというようなことは、あなたは聞いておりませんか。
  393. 板垣幸三

    板垣証人 そういうことは山田君から聞きませんでした。聞かなかつたのですけれども、ぼくが前にいた当時の前後の事情から、新聞や何かに報道された関係からして、これは鹿地亘であるということを先入観で自分できめておりました。
  394. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 最後にもう一度、一番大事な点ですから念を押すのですが、昭和二十六年十二月十七日に東川クラブいわゆる川崎の新丸子の東銀クラブ、そこで光田と魚を持つて行つて御飯を食べたときに、うちにおるお客さんが自殺未遂をして、自分は忙しくて困るということを聞かされた、これは間違いないでしようね、その点はつきり念を押します。
  395. 板垣幸三

    板垣証人 証言に立つ前に良心に誓つて宣誓してあります。絶対間違いありません。
  396. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 終りました。
  397. 小林錡

    小林委員長 岡田春夫君。
  398. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 今の古屋委員質問によつて大分話が出て来たのですが、二世の光田という人を知つているようでありますが、最初知るようになつたいきさつ、それからその後のいきさつをまず伺いたいと思います。
  399. 板垣幸三

    板垣証人 東京に送られて来たときにジープに乗つたときには名前を全然知らなかつたのです。それでぼくは三日間ですぐ新潟へ送り返すという約束だつたのですが、実は東京へ来て、そしてジープへ乗つて数分後には三日間で帰れないということを判断した。なぜ判断したかというと、ぼくを三日間で帰すのであれば、尋常にまつすぐ取調べるなら、取調べ場所へ連れて行く。ところがそうじやなかつたのです。ジープはぼくだけ乗せておいて、そのときは目隠しをしないで、ぐるぐる自動車がまわつたのです。そこでぼくはどうしてまわつたという事実を知つたかというと、今考えると、上野の駅の、今はどの方角になつているか知りませんけれども、とにかく森永ミルクキヤラメルの大きなネオンがあつたんです。そのネオンの下を何回となくまわつているんです。それでぼくはそんなに同じところをまわつてそれから行くのであれば、とても三日間では帰さないだろう、取調べも尋常な取調べでないということを、そのときに車の中で自覚したのです。車からその建物に着いておりたときに、運転していたやつが行つて玄関のベルか何かを押して合図をした。そのとき光田がぼくのそばにとまつたので、ぼくは光田に、ここは何区かと聞いた。光田は北区と答えた。ぼくは失礼だけれども、名前を教えてもらえないかと言つたら、ほんとうは言われないけれども、光田というんだということだつた。それでぼくは一番最初に光田という名前を、その建物の中に入る以前に知つたわけです。光田悦之助という日本名前で、英語の名前はわかりません。
  400. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 先ほどの話の東川クラブの方へ来てから、スパイとしてあなたと光田とはどういう関係になりますか。
  401. 板垣幸三

    板垣証人 光田とぼくとは関係がありませんでした。だけれども、ぼくが金がなくなるときには、光田がぼくにくれたことも再三あります。ほんとうはぼはく福本から金をもらうのがキヤノンの指令であつたのです。
  402. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それではスパイの系統としては、福本の下の機関としてあなたがあつた、光田とはその関係がないということになるわけですか。
  403. 板垣幸三

    板垣証人 スパイとしては福本とは全然関係はないのです。福本はいつも寝とまりするための責任及びその期間中に逃げたり何かするおそれがないかというのを監視する役目だつたのです。ぼくのスパイの教育をして、直接連絡をとつたのは野村ヨシオという人間つたのです。
  404. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 光田の愛人といわれる服部京子の話は先ほど出たんですが、先ほどの話を聞いていると、服部という人は鹿地のことを大分知つているらしい模様でありますが、この服部京子のところにあなたが一月ばかりいたというのは、大体いつごろですか。
  405. 板垣幸三

    板垣証人 その前に服部京子のところへ行くときの動機というものを話したい。その動機というのは、密輸してキヤノン機関が解散して、ぼくが延のところに引取られるときに、乗組員に百万円の利益金の配当があつた。ところが延という人間が百万円を握つたのです。その理由はいろいろ言われおります。持つたことのない金を百万円も持たせると、すぐ悪いことをして足がつくというのが向うの腹だつた。そこでそれを握つて、その事実を知つたので、仲間の乗組員が苦情を言つたのです。じやまとまつた金を渡そう、だから誓約書を書けということであつた。その誓約書をどういうふうにして書くのかと聞いたら、今密輸したこと、それから朝鮮から人間を運んだこと、その事実を絶対にしやべらない、もししやべつた日本国内から追放する、追放されてもさしつかえないということです。     〔小林委員長退席、田嶋委員長代理着席〕 ぼくは戸籍がなくても日本人間である。だから第三国人に自分の国から追放されるというのは片腹痛いとりくつを言つた。そうすると、お前そんなことを言うなら言つてもいい、どういうふうになるかわかるから。どういうふうになるかやろうじやないかというので、ぼくは光田のところに逃げたのです。光田は一時どこにも預かるところがないから、服部のうちへ預けた。それでまた延が自分の秘密を明かされるおそれがあるというので、一月ぐらいたつてから光田に請求して、ぼくの身柄をまた別な船に乗せるというので引取つたのです。その聞いたわけです。それで光田との恋愛関係の問題に対しては、光田のお母さんが昭和何年か知らぬけれども、とにかく日本へ観光に来たそうです。その帰りに光田から縁を切れと言つて相当迫つたそうです。それで恋愛関係にあるということがわかりました。
  406. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そのときに服部のところへとまつたという月日ですね。それはあなたの今の証言にないのですが、大体いつごろですか。
  407. 板垣幸三

    板垣証人 それは昭和二十七年の二月の末から三月の末までだと思います。
  408. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 このときに服部京子から鹿地という人が自殺をして相当悪いらしいという話を、映画を見るときに聞いた、こういう話をさつき言つておりましたね。その前後の関係からして、服部京子という人が光田から何か鹿地という人の問題について詳細に聞いているらしい模様であつたかどうか。こういう点もしあなた御自身がおわかりになつているようでしたら、お伺いしたい。
  409. 板垣幸三

    板垣証人 それは相手の頭ですからどうかわからないのですけれども、そのときには鹿地さんは相当状態が悪い、こう言つたんです。それでぼくは全然わからないから、その人はどこにいるんだと聞いたんです。そうしたら彼女は口をつぐんで、いや、何ともないと言つて言わなかつたのです。ですから、光田からは相当キヤノン機関内の重要なことを聞かされております。服部京子自身以前キヤノン機関にメイドとして働いていたことがあるのです。
  410. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 今のあなたの服部京子を知るまでの経過の中で、密輸船で帰つて来るときに、延という人からこれこれのことを言つちやいけないと口どめされたという話がある。その口どめされた中に、向うから朝鮮人を連れて帰つて来た云々のことも言つちやいけないという話をちよつとしておつたようですが、その点はどういうことなんですか。もう少し詳しくお話を願いたい。
  411. 板垣幸三

    板垣証人 向うから来る途中じやないのです。来て延のうちへ引取られてからです。そのときに一番最初は日本人でなく、朝鮮人の男が一人、女が一人、その女の生後八箇月くらいの子供ですね。その三人を連れて来た。そのときに船で釜山から門司に引返した。ところが東京へ先に延が来たのです。そして利益金の配当のことで内輪もめが生じた。その船を東京へまわすと、結局物的証拠を持つて来るというので、その船を釜山へ引返して、釜山のCICへ渡した。その帰りに今度は新たに元山で捕虜になつたという手錠のかかつた人と、手錠のかからない、自称青山という新聞記者と、五人連れで来た。あとでぼくはレポをとるのにかわつて出て来たやつに聞いたんですが、人相を聞くと、その女と思われる人が岩崎機関へ連れて行かれて拷問された。それが時間的に見て、人相から見て同一人物だと判断した。それで誓約書というのは服部へ逃げた直前に書かされた。しかしぼくは書いておりません。書いた人間は現在東京に三人おります。
  412. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そうすると、あなたの船に乗せて来た女の人が岩崎邸拷問されておつたという話を聞いた。それと同じような事例で、向うから連れて来た者が岩崎邸あるいはTCクラブ拷問されているような事実をあなた自身が見たか、あるいは聞いたようなことがありませんか。
  413. 板垣幸三

    板垣証人 岩崎邸TCクラブでは、私も拷問されたのは見ておりません。しかしTCクラブの中に入つてからは、拷問されないかわりに、自由は絶対に奪われております。それから岩崎邸では、拷問されたのはぼく自身、本人だけで、他の拷問された人間というのは見ておりません。それでその話を聞いたのは、上田というコックの人からこれは聞いております。ですから、その女の人が同一人物であるという確定はできないのです。ただ時間的に、人相、それから子供の状態、それを判断して、ぼくがそうだというように言つておるわけです。
  414. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そのコックの話では、だれか知らないが、女の人が拷問をされておつた、おそらく自分が連れて来た人ではないかと判断する、大体こういうことだろうと思うのですが、その女の人以外に、あなたの連れて来た人で、拷問されたような事実を聞いたことがございませんか。
  415. 板垣幸三

    板垣証人 その事実は聞いておりません。
  416. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それからキヤノン機関が解散になつた言つておりますが、その解散になつたあと、どういうようになつたのですか。延に引取られて云々という話も先ほど出ておりますが、たとえばキヤノン機関という正式の機関が解散になつたにしても、それにかわるべきものが何かあつたのか、あるいは延という人は、どういう地位の人であつたのか、こういう点を、もう少し詳細にお話願いたいと思う。
  417. 板垣幸三

    板垣証人 キヤノン機関というのは、一つの別箇な分室だつたのです。それでどうしてそういうことを判断したかというと、中に一年も生活しておるうちに、いろいろの話を聞いて、総合的にそういうふうに自分で判断しているのですが、キヤノン機関の性質と、その後の状態を説明すると長いのですが、今したいと思います。キヤノン機関というのは、キヤノンは初め日本へ、昭和二十二年くらいに来ているそうです。それで話を聞くと、横浜のCIDにおつた、松井もそうです。CIDにおつて朝鮮動乱が始まる直前、特別な指令を本国の方から受けて、自分で分室をつくつた。それでこの分室に対しては、GHQから金が出ていないのです。またこの機関内で働いた人間は、GHQの名簿に載つていないのです。ただGHQの名簿に載つているというのは、キヤノン一人だけなんです。それでキヤノンに対しては、アメリカから金が送られて来ておるわけです。これも中におつて松井や何かの話を聞いたのですが、フォスター・ダレスが日本の対日講和条約の草案をつくるのに、日本の国民感情を調査する必要があるという目的をもつて、一つの民間情報という形でつくつたそうです。それでダレスが、何かアメリカの一流法律家で、アメリカでは千億万長者といわれる人間が、その条約をつくるのに片腕を貸して、そうして弟のダレスを通じて、その千億万長者から金をとつて、そしてフィリピンのキリノ大統領の奥さんの妹で、奥さんの手を通じて日本の外務省も黙認されて入れたというテツド・ルーインを通じて、日本に送つた。そして情報をここで総合的に集めたのを、そのルーインの手を通じて、当時フィリピンにおつたガルシエーに送つた。ルーインだけでなく、その後南京虫事件、密輸事件で有名になつたジヨージ・ブロック、彼もキヤノン機関の情報を持つて、香港経由でマ二ラに行つた。それで、その当時まだウイロビーがおつた当時で、昭和二十六年の秋になつてから、講和条約の草案ができたわけです。そうするとアメリカ本国のダレスからの送金がなかつたので苦しんでおつたときに、延という人間が現われたのです。その延という人間は、以前大東亜戦争が始まる前にアメリカにおつて、二十数年生活しておつたそうです。大東亜戦争が始まると、アメリカ本国から自分の国、朝鮮に逃げて来た。二十年日本が敗戦となると、韓国軍を建設するのに延が活躍したそうです。朝鮮動乱初期には、海軍の中佐となつて、仁川で一艦の司令官をしておつた。そして千九百数十名の部下を持つてつた。動乱の初期に、何か悪質な犯罪を犯した。内部の話では、国民を裏切つたのだそうです。それで軍裁にかかつて、無期懲役を食つた。無期懲役を食つてどうしたかというと、彼は東京に逃げて来た。東京に逃げて来て、アメリカに住んでおつたころの知人に会つた。それでその後話があつて、どうしたというようなことで、自分立場を説明して聞かしたところが、それじやおれにまかせておけというので、まかしておいだそうです。その友人というのが、G2を通じて韓国政府に交渉したそうです。延の無期の判決を零にして、コリアン・ミッシヨンとして日本に置くことになつた。そうして犯罪を零にしたばかりか、海軍中佐をそのまま与えたのです。その後またその友人というのが運動して、アメリカのリジヨン・カードという臨時市民権を与えた。またアメリカ海軍の位も持つてつたのです。アメリカと韓国の両方の海軍中佐になつたのです。日本にいると二世、韓国に行くと釜山司令部において、延より上の人間が、当時密輸しておつたときにいなかつたのです。密輸していたときも、延の命令で韓国の憲兵が護衛しております。それでキヤノン機関が、その資金をつくるために苦しんでいたときに、自分がそういうふうにしてもらつたので、それはぼくが一人で貸そうというので、横浜のCIDに籍を置いたキヤノンのところに延が特別に来た。それで密輸を企てて、資金を獲得しようとしたけれども、G2とCIDの対立があつて、何か民間情報局と感情のもつれがあつて、常ににらみ合つていたそうです。それでキヤノンがGHQやG2に籍を有しながら、GHQを無視して、アメリカ本国のCIAのガルシエーのところから来た情報を送つていた。ここに当然感情的なもつれがあつたそうです。その感情的もつれで、ウイロビーや何かが帰つたときに、GHQやG2は、キヤノンを全然援助しなかつた。それで密輸をして、資金を獲得しておつたのですが、その資金の獲得が、時期が少し遅れたために資金がなくなつてアメリカのCIAから、それ以上日本におつてはならないから、それを解散せいというので、キヤノンを本国に呼びもどした、キヤノンを呼びもどしたけれども、キヤノンはGHQに軍籍があるが、あと人間は籍がないわけです。あとの籍のない人間は、あらためてGHQかCICの方に籍をつくつて、移動したわけです。キヤノンそのものはアメリカに帰つたけれども、そのものにかわるものは、新しく延が支配して、キヤノン機関の実権をほとんど握つた形で、現在も延がおるのです。延ばさつき言つた住所に住んでおります。
  418. 田嶋好文

    ○田嶋委員長代理 今ずつと詳しく述べたが、どういう事実によつて、現実にだれかから聞いたのですか。そうしたことに対する的確な証拠はあるのですか。
  419. 板垣幸三

    板垣証人 それはキヤノン機関に年半おつて、二世の軍人や何かが話をしておるのを聞きましたから、間違いないと信じております。
  420. 田嶋好文

    ○田嶋委員長代理 二世の軍人とはだれか。
  421. 板垣幸三

    板垣証人 根本、白井、福田、藤本、光田、橋本、白系露人のグラスゴーという男が日本語がうまいので、それから聞きました。
  422. 田嶋好文

    ○田嶋委員長代理 聞いたことをあなたが育つたので、あなたの推測は入つてないね。
  423. 板垣幸三

    板垣証人 そういうことは入つておりません。
  424. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そうすると、今のお話は相当重要な問題なんですが、GHQの関係の機関ではない、ダレスが来たときに、民間情報を担当する意味で、こういうキヤノン機関というものをつくらした、こういうようにあなたはお話になつたと思うのですが、その点は間違いありませんか。
  425. 板垣幸三

    板垣証人 そういうふうに聞いておりますから、間違いありません。
  426. 田嶋好文

    ○田嶋委員長代理 聞いておることに間違いないというのだね。
  427. 板垣幸三

    板垣証人 そうです。
  428. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そうするとこのキヤノン機関というのは、アメリカの政府の関係でいうと、GHQの関係ではないが、何かをさつきあなたのお話を聞いていると、ガルシエーというCIAですか、この人と非常に関係があるような話も聞えるのでありますが、こういう点はどういうようになりますか。ガルシエーのCIAの下部機関としてのキヤノン機関というようなことになるわけですか、どうですか。
  429. 板垣幸三

    板垣証人 その点についての話はよく明細に聞いてないのですけれども、今まで聞いた中からですと、CIAではなくて、CIAがガルシエーにお金を送つて、ガルシエーが特別につくつたが、あれはダレスの兄貴のフオスター・ダレスの命令でつくつたそうです。
  430. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 詳しい話はわからないが、しかしこの点ははつきり言えると思うのですが、アメリカの本国の関係、政府の関係と何らかの関係キヤノン機関とあつたという事実だけははつきりしておるのじやありませんか、どうなんですか。
  431. 板垣幸三

    板垣証人 極東連合軍やG2には関係がなかつたのですけれども、アメリカの本国、CIAに関係があつたというのは事実です。話を聞いております。
  432. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 このキヤノン機関日本警察との関係を聞きたいのですが、日本警察がしよつちゆう出入りをしておつたとか、あなた自身が見たりあるいは聞いたりしたようなことはありませんか。
  433. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくは日本の警官がその機関に入つたのは確実に見ておりません。しかし内部のコックやメイドの話では、斎藤国警長官、田中警視総監などの出入りもあうたそうです。それらぼくがキヤノン機関に送られたときには、あそこのまわりをずつと警察が包囲しておりました。警備のためだと思います。ですから関係があつたと思います。
  434. 田嶋好文

    ○田嶋委員長代理 岡田君に注意しますが、この証人は、御承知のように鹿地の不法監禁事件の関連証人として呼んでおります。大分質問が脱線しておるようですが、直接鹿地氏の不法監禁と関係のある点を御追究願いたいと思います。
  435. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 今委員長から御注意があつたのですが、その点もわかりますけれども、しかし鹿地事件関係する点においても、これは不当逮捕あるいは拷問関係として調べる意味で、板垣君も同様な意味の取扱いを受けておつたのではないか、こういう点を確かめる意味で今私は聞いておつたわけであります。  そこでもう一つ伺つておきたいのですが、キヤノン機関というもののあなたはスパイになつた。そういう場合に、正式の機関のスパイになつたことをあなた自身が立証し得る道があるのですか、どうなんですか。たとえばこのサンデー毎日等を見ると、青パスか何かもらつたような話が出ておるのですが、これは一体だれからもらつたのか、どういうようになつてつたのか、この点を伺つておきたい。
  436. 板垣幸三

    板垣証人 キヤノン機関でスパイ活動をしたという的確な裏づけ、第三者の証言をとるという限界にはいまだなつておりません。青パスというのは延からもらつておるのです。しかし延は今年の四月にこの問題がある一部の新聞に報道されたときに、新聞社の人間に会つておるのです。そのときに延はキヤノン機関板垣幸三という男がおつたことは事実だ。それがどいうふうな待遇で、どういうふうな仕事をしておつたかということは、軍の機密にかかわるから言われない、そう言つております。ですからそれは延を呼ぶと一番はつきりすると思います。
  437. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 青。ハスというものは一体どういう内容を持つておりますか。この青。ハスの内容について御説明を願いたい。どこから発行されてどういうものであるか。
  438. 田嶋好文

    ○田嶋委員長代理 ちよつとお伺いしますが、青ハスと今の不法監禁とどういう関係を持つておりますか。
  439. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それはあとで……。
  440. 田嶋好文

    ○田嶋委員長代理 あとではわかりません。発言を許すについて先ほど注意してあります通り、あまり長くなつても、発言者の通告がたくさんありますから……。どういう関係がありますか。委員長発言者に質問いたします。関連があれば許します。
  441. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 青パスが強制的に与えられて、その関係が不当逮捕との関連を生じて来はしないか。たとえば青パスをもらつて、今度この人がスパイになるわけです。この人によつて不当逮捕がまた新たに――キヤノン機関の一機関として青パスをもらつておれば、この人は、今度拷問される側ではなくて、拷問する側の一人になるわけだ。ですから、その点を明らかにするためにも、青パスというものが、一体具体的にどういう内容を持つてつたか。こういう点でキヤノン機関との関係が明かになつて来る。そういう意味で青パスの点を明らかにしてもらいたい、こう言つておるわけです。
  442. 田嶋好文

    ○田嶋委員長代理 岡田君の質問は不法逮捕とはあまり関係がないようです。御承知のように不法逮捕事件に対して、鹿地君がアメリカの今言つたキヤノン機関らしいものに一応監禁をされておつたという事実は、委員会でもほぼ明らかになつていることですから、それ以上あなたがお聞きになつても、それを否定する材料は出ないでしようし、委員会自体もこの点に対しては、おそらく委員諸君だれも争いのない点ですから、争いのない点を特に追究し、しかもそれと関係のないものまでも持ち出してやられることは、今後の質問者にも影響しますから、委員長はそれ以上の発言は許可いたしません。それ以外の発言をしてください。
  443. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 問題は、この点を一言だけ明らかにしてもらえば、それではつきりするわけです。青パスの問題は関係がないと委員長は判断をされますけれども、これ自身が鹿地事件にも関連を持つて来る。なぜならば、先ほども証人言つておるように、この証、人の目の前で鹿地事件を調べるということまで言われておるのですから、そのほかの先ほどの話を聞くと、ドイツ系の日本人ですか、日系のドイツ人か、あるいはもう一人北本ですか、こういう諸君も実際にこれは青パスをもらつてつたのかどうか、そうしてこの中の一人が鹿地の動静を調べたのかどうか、こういうふうに関連をして来るわけです。当然この人の鹿地事件についての拷問の問題にも、あるいは不当逮捕問題についても、関連をして来るわけだから、青パスはかんじんな問題であると私は思う。それでこの点について簡単に証言をしてもらいたいと私は言つておるのです。これは当然関係して来ると思うので、この点だけひとつ委員長お許しを願いたいと思います。
  444. 田嶋好文

    ○田嶋委員長代理 もう一度申し上げますが、当委員会においては再三の取調べによつて鹿地氏が監禁せられたという事実に対しては、これが不法であるか、不当であるか、同意であるかは別といたしまして、とめられたという事実は争いがありません。争いのない事実を特にこの証人から聞く必要はないと思います。さんざん他の証人からもこの点は追究されておるのであります。青パスの問題は証拠として提供するには間接の間接になります。これは委員会としての直接証拠にはなりません。そこでこれは必要ないものとして委員長はその発言を許可いたしません。
  445. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それではほかからやりましよう。委員長の忠告によつて鹿地との直接の関係を話をしろ、こういう話でありましたが、あなた自身は、先ほど東川クラブにおいて自殺未遂になつたお客さんがあるという話をされましたが、あなたがその他のところで、たとえば岩崎邸とかそういうところで鹿地氏が拷問をされた、あるいは不法監禁されたというようなことについて何か聞かれたことがありますか。このことはあとで聞かれたのでもいいのであります。
  446. 田嶋好文

    ○田嶋委員長代理 先ほどもそれを言つておりますから、重複しないように簡単に……。
  447. 板垣幸三

    板垣証人 それは光田の品、服部の口、それから聞いておるだけで、その拷問された現場の事実や何かは全然知りません。
  448. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 青。ハスの問題をとめられたからあと進められないよ。
  449. 田嶋好文

    ○田嶋委員長代理 猪俣浩三君。
  450. 猪俣浩三

    猪俣委員 二点ばかり簡単にお尋ねします。山田善三郎君がまだいわゆるキヤノン機関に勤めておりました時分に、あなたは何回くらい山田善二郎君に会つておられますか。
  451. 板垣幸三

    板垣証人 TCクラブ生活しているときは朝昼晩の食事以外に、便所へ行くとき、洗面、入浴のとき会つています。TCクラブから出てUSアーミー丁三四という船に乗つてから、その船に四日間食糧輸送がなくて、四日間飲まず食わずのまま横浜からTCクラブに歩いて行つたときに一回、それから十二月十七日に遊びに行つたのと、二回です。
  452. 猪俣浩三

    猪俣委員 そうするとあなたが東川クラブに監禁されたときは二箇月くらい毎日会つた。その後遊びに行つたのは二回であつて、その二回とも山田には会つておるわけですね。
  453. 板垣幸三

    板垣証人 遊びに行つたのは魚を持つて行つたときが一回です。その以前に行つたのは、食糧を四日もよこさないので飲まず食わずの状態で私は乗組員を代表して行つたので、遊びに行つたのではありません。そのとき山田君から卵を一ダースほどもらつて来ております。
  454. 猪俣浩三

    猪俣委員 それからあなたの行つた東川クラブ、これはたびたび行つてお言わけであるが、これはそこから逃げ出す者を監視するような設備その他何か方法を講じておつたか。あるいは普通の役所のように特にそういう監禁するような設備はしておらなかつたか。その点について述べていただきたい。
  455. 板垣幸三

    板垣証人 それは明らかに監禁を目的として設備した建物であります。大体キヤノン機関本部からここへぼくが連れて行かれたときに、ここから逃げると殺すぞ、すぐに銃殺すると言つてその中へ入れました。各部屋は錠がかかつております。それから外部は鉄条網が高く張つてあります。そのほかに四箇所見張りがあります。それでこの間にシエパードを一匹と白い犬を一匹飼つております。それでTCクラブの横にテニス・コートと野球場があるのですけれども、ここで遊んでおつてたまが内側に入つて来ると、たまをとりに向うで来ますが、寄せつけません。ですから明らかに監禁するのが目的です。
  456. 猪俣浩三

    猪俣委員 それから東川クラブには光田、福本その他のアメリカ軍人がいたはずでありますが、その連中は武装しておりましたか、どうですか。
  457. 板垣幸三

    板垣証人 私服でも制服でも常に拳銃は携帯しております。それは制服の場合はコルト四五を持つております。それから私服の場合はブローニングやその他十二連発の小型の拳銃を持つております。どこへ出るのにも離しません。ジープに乗つた場合、腰に一挺つけて、ジープの前の道具入れのようなところへ一挺入れて、かぎをかけてあります。
  458. 猪俣浩三

    猪俣委員 それから先ほどあなたが四箇所に監視所があると言つたのですが、それはやぐらのような高いものを組んでいるのですか。普通のいわゆる交番みたいなものなんですか。そこに守つている人間は武装しておつたかどうか。
  459. 板垣幸三

    板垣証人 監視所は普通のポリス・ボックスのような建物です。そこには昼夜交替で日本人が警備しております。しかしこの場合、普通の進駐軍関係のところへ勤めている人は青いような服を着て何か棒を下げておりますが、そういうような武装はしておりません。しかし中に入つておる者が一歩でも外へ出たらすぐ警笛を鳴らすようにベルの配置は各所にしておりました。
  460. 猪俣浩三

    猪俣委員 そうするとあなたが総合的に観察したところによれば、そのいわゆる東川クラブなる構内から外部に逃亡するようなことはできがたいような状態であつたわけですね。
  461. 板垣幸三

    板垣証人 あの状態ではできないと思つております。事実できません。しかしぼくの場合は二、三度外部へ出ております。
  462. 猪俣浩三

    猪俣委員 それから先ほどちよつと話されたようであるが、後にあなたが鹿地だとわかつた、その当時はお客様、そのお客様のおつた部屋は二階であるか、下であるか。どんな部屋であり、それはあなたが見たかどうか。そしてそこの入口にどういう設備がしてあつたか。それについてお話願いたい。
  463. 板垣幸三

    板垣証人 その部屋は階下の正面玄関から入つた左側手前の部屋です。そこは外部は洋風の建物で、中は日本間になつてつた。そこへ入つて行くのは裹口として便所の脇に一箇所玄関がある。そしてその玄関を入つてすぐ左側に中へ通ずる入口がありますが、その二箇所には完全にかぎがかかつてつた。ぼくはいわゆるお客さんが入る以前にその部屋に入つたことがありますが、全部かぎがかかるようになつております。そしてその部屋は薄暗くなつているような状態で、ほとんど逃げられないと思います。     〔田嶋委員長代理退席、委員長着席〕
  464. 猪俣浩三

    猪俣委員 私はこれで済みました。
  465. 小林錡

    小林委員長 田嶋好文君。
  466. 田嶋好文

    ○田嶋委員 私はちよつと委員会に出て来るのが遅れたために、あなたの経歴を聞き漏らしましたが、新潟鑑別所にとめられるまでのあなたの経歴はどんなものですか。
  467. 板垣幸三

    板垣証人 新潟鑑別所に入れられるまでの経歴というのはさつき簡単に述べたのですが、それは鹿地事件の不法監禁の問題とは関係がないと思います。この問題は明らかに不法監禁問題で、それに対する証言であるとここに書いてあります。それ以外のことは言う必要はないと思います。
  468. 田嶋好文

    ○田嶋委員 証人はすなおに委員質問に答える義務を持つておる。あなたは委員質問に反駁する権利は持ちません。私の言うことにお答え願いたい。
  469. 小林錡

    小林委員長 板垣証人ちよつと注意します。今の質問に答えなさい。
  470. 板垣幸三

    板垣証人 二十年に終戦を迎え、二十四年の五月まで樺太に住んでおりました。終戦ロシヤ人の家におつて、そのロシヤ人が満州に転勤するのでぼくもそれを希望して樺太から満州に渡りました。満州に渡る希望条件として日本本国に帰つて来るということがあつたから渡つたのです。その後満州から朝鮮経由で渡つて来るには特別の条件も何もつけられませんでした。それで昭和二十四年七月に東京の芝浦に上陸しました。上陸してから二、三日東京都内を徘徊しましたが、すぐに密輸船に乗つて昭和二十六年三月十九日までその船に乗つておりました。三月十九日にその船の甲板長から特別の使命を暴けて上陸しました。その後仲間のおきてを破つて袋だたきになつたのですが、以前に彼らは、自分たちの力は警察以上の力がある、逃げても二十四時間以内につかまえるということを言つてつたのです。そしてその現場におる人はすぐ殺されるという観念から逃げ出しましたが、袋だたきにあつているような状態ですから、どこをどう逃げたかあまり記憶しておりません。行倒れになつて高田地区警察署に保護され、それから鑑別所行つたのであります。
  471. 田嶋好文

    ○田嶋委員 鑑別所ではどんなことを聞かれておつたのですか。
  472. 板垣幸三

    板垣証人 鑑別所では日本側取調べはほとんどないのです。鑑別所側としては本人の知能検査、適性検査、性病や何かがあるかどうか、検疫検査、そういうものをしておりました。鑑別所としては密輸事件や密航事件については鑑別所は全然調べておりません。
  473. 田嶋好文

    ○田嶋委員 当時遺憾ながら日本は敗戦国としてアメリカ軍に占領せられておつた。そのアメリカ軍が、あなたが述べられた経歴によつて、あんたを調べられたことは、拷問があつたかなかつたかは別として、正当だと思いましたか、不当だと思いましたか。
  474. 板垣幸三

    板垣証人 占領下でありますから、それはやむを得ないと思いました。しかしその後において拷問をかけたのは、これがいわゆるアメリカのデモクラシーであるかというふうに感じました。
  475. 田嶋好文

    ○田嶋委員 拷問は私たちも絶対に許すべきものではないと思う。そこでアメリカの官憲にいろいろやられた結果あなたはアメリカのスパイをやつたというのですが、これはどの程度の活動をしたか、さつきちよつと言われたのですが、実際上のスパイ、要するに機密の提供、こういうことをあなた自体がやつたことがあるのですか、ないのですか。
  476. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくの考えでは、そういう機密のものであるかないかということはわかりません。しかしときどき指令がありまして、きようはどこに行けとか、どこそこに行つて、どういうふうにして、どこで待合せをしろとか、指令があります。その場合には、その指定された時間に、その場所に行く。あとは金を豊富に持つておりますから、映画館に入つて、映画を見たり、昼寝したりいたしました。
  477. 田嶋好文

    ○田嶋委員 具体的に機密を漏らしたり、伝えたりしたことはないのですね。
  478. 板垣幸三

    板垣証人 具体的に特別にぼくから探り出して報告したということはありません。報告したのは新聞紙上に出たのを切り抜いて持つて行く程度であります。
  479. 田嶋好文

    ○田嶋委員 川崎のTCクラブというのですか、これにあなたがおつた当時、ピストルを持つてつたというのは、先ほど緒俣さんからもお問いがあつたのですが、軍人ですか、ガードですか、どちらですか。
  480. 板垣幸三

    板垣証人 中におる人間はみな軍人ですから、軍人だと思います。
  481. 田嶋好文

    ○田嶋委員 それは肩章をつけておつたのですか。
  482. 板垣幸三

    板垣証人 階級章は全然つけておりません。しかし軍のカーキ色の服をつけておりました。階級章つけて行くのは、どこに行くのか、ぼくはよくわからないのですが、何でも少し先に行くと、日本軍時代の憲兵司令部があつたのですが、そのあとで、裁判関係の教育をする学校があつたのですが、そこへ行くのには階級章をつけて行くのは、たまに見たことがありますが、その階級章がどのくらいの階級章であるかということは、聞かなければわかりません。
  483. 田嶋好文

    ○田嶋委員 さつきあなたは岡田君の質問に、このキヤノン機関というのは、軍関係が直接つくつた機関ではないのではないかという意味のことを言われておりましたが、川崎のTCクラブと、キヤノン機関との関係はどういうことですか。
  484. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくの考えではキヤノン機関がスパイに出す。その人間自分たちの思う通りになるまで監禁しておく、キヤノンの直接の特別の刑務所だと思います。
  485. 田嶋好文

    ○田嶋委員 キヤノン機関の直接の監禁所だとすると、TCクラブ軍人がおつたということと、あなたが今言つていた軍人でないということ、キヤノンだけは軍籍を持つておるが、そのほかの人は軍籍がない。キヤノンアメリカに帰つたら、その籍に迷つてしまつた。そうして韓国の何とかいう男にキヤノン機関は引渡されたとか何とかさつき言つたこと、それはちよつと違うのではないか。
  486. 板垣幸三

    板垣証人 キヤノン機関で働いていた人間は上級幹部七、八名がいわゆるアメリカのCIAから給料をもらつて来ている人間なんです。あとはこつちへ来てからキヤノンが縁故関係や何かで、知合いや友人の紹介だとか、そういう紹介で日本へ来てからバイヤーだとか秘書でついて来た人間、そういう者を集めてやつて来たようにぼくは聞いております。ですから上級幹部を除いては、あとの部員はフラツパーな人間つたのです。
  487. 田嶋好文

    ○田嶋委員 そうするとこうなるかな。TCクラブにおつた軍人というのは、キヤノンの部下の七、八人の人間TCクラブにおつた。そうかね。
  488. 板垣幸三

    板垣証人 TCクラブにおつたのキヤノン以下いわゆるCIAからの指令というか、または命令、こういう息のかかつたというような軍人で、TCクラブを管理しておる福本というのはハワイのCIC出身なんです。それで日本に来てあそこを管理しておる福本キヤノン関係はどういう関係であるかわからない。
  489. 田嶋好文

    ○田嶋委員 そうするとこうだね。これは大切なことだから聞くのです。ずつと前から問題になつているが、軍人か、軍人でないか。それからキヤノン機関がどんなものであるかはつきりわからないというのですが、あなた自体としても今の質問を聞いてみるとはつきりわからないのですね。的確に証言はできないのだね。
  490. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくは的確にこうだという資料もありません。それからそれを裏づけるものもありません。しかしたとえば先刻話したように内部で聞いた話には間違いありません。
  491. 田嶋好文

    ○田嶋委員 あなたとしては聞いた話で、あなたとしてこれを証拠づける資料もない、そうしたものはないというわけだね。それでけつこうです。  講和になつて後あなたはどうしていましたか。
  492. 板垣幸三

    板垣証人 講和になつて後はいわゆる延のところにおつて、延が百万円の配当金を握つて自分がその金を使用したか何か、ぼくたちに給料その他は渡さないで延がいわゆるその月々の下宿代とか食費を払つてぼくたちはあちこち転々として下宿して歩きました。
  493. 田嶋好文

    ○田嶋委員 延のところにおつて何をしておつたのですか、何もしなかつたのですか。
  494. 板垣幸三

    板垣証人 延のところにおつてからはぼくは何もしません。延のところにいる人間はほとんど朝鮮人なんです。ですからぼくはその中で朝鮮語がわかりないから何もしません。
  495. 田嶋好文

    ○田嶋委員 延の経歴をちよつと問い、おきますが、延というのはあなたが先ほどからやつた証言を聞いているこ、どうもまじめな人でなしに何というか、無頼漢というか、非常に右翼的な無頼漢のような人間のように推察でさますが、そういう人ですか。
  496. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくがキヤノンのところから出て延のところに行つてからは、個人的にはそういう反感や何かを持つ性質の者ではありません。延の性質とするときわめて乱暴、粗暴な凶暴性を持つておるものですが、犯罪を犯したというようなことだつて、ぼくたちのおるところでやつたのではないことですし、ぼくは無頼漢とは思つておりません。しかし過去にそういうすねに傷があるということは皆か言つておりますから。
  497. 田嶋好文

    ○田嶋委員 結局信用の置けない人、こういうことかね。
  498. 板垣幸三

    板垣証人 信用の置けない人間です。
  499. 田嶋好文

    ○田嶋委員 よろしゆうございます。
  500. 小林錡

    小林委員長 細迫兼光君。
  501. 細迫兼光

    細迫委員 われわれの委員会証人に来てもらつた意味は、もちろん鹿地亘事件についての事実を詳細に知るためでありましたが、私が板垣喚問を主張しました点は、鹿地亘は道路上から強力をもつて強奪せられたというような状態らしいのでありますが、これに引きかえて板垣君の場合は、わが日本の裁判機関であるところの新潟家庭裁判所、あるいは少年鑑別所の職員の手からCICに引渡されたというこのことがわが法務委員会としては看過できない問題であるというような点にあつたの、でありまして、直接鹿地問題とは関係ありませんが、そういう意味におきまして一言質問することをお許し願いたいのでありますが、あなたが三日間貸してくれと言われてCICに身柄を渡されるということを新潟の家庭裁判所の裁判官は知つていたらしいかどうか。その点をあなたのあらゆる材料によつて結論づけて述べていただきたい。
  502. 板垣幸三

    板垣証人 ぼくが少しひねくれているかもしれませんけれども、この問いに対しましては、裁判所の方では知つていたかもしれないのです。しかしぼくに直接東京へ送ると言つたのは当時の小川課長つたのです。それでぼくがその後あの新聞記事を見て、それで新潟へ帰つたときに少年鑑別所の所長がこう言われました。君が仙台へ行くと言つてその後行方不明になつたから、CIC行つて仙台の方へ打合せしたらCICの方では、人がかわつたし、仙台の方へ打合せることもできなくて四度か五度行つたけれども、そのままになつてつた。いやぼくは仙台ではなくて東京行つた。いやそんなことはない、仙台だ、こう言う。ですからぼくのひねくれた考えから判断すれば、裁判所あるいは新潟少年鑑別所側へは仙台へ行くと報告されたものと思います。それで事前にぼくの東京へ行くということをしやべつたの小川課長ですから、小川課長一人が米軍CIC関係があつたのじやないか。これはぼくのひねくれた考え方です。その後小川課長は約八箇月間にわたるアメリカへ長期旅行に行つておる。その八箇月が四箇月ほど延びて、一年ちよつとたつて日本へ帰つて来て奥多摩の方へ栄転されております。
  503. 細迫兼光

    細迫委員 裁判官はあなたに口頭で審判の結果を宣告いたしましたかどうか。
  504. 板垣幸三

    板垣証人 それは特別そういう書類も何も示されなかつたので、口頭です。
  505. 猪俣浩三

    猪俣委員 ただいまの板垣証人尋問によりまして、きわめて重要な、われわれが、主張いたしております。東川クラフで鹿地が監禁されたるやいなやという点につきましての証言がありましたが、なお山田善二郎とおよそ三度――三度と申しますのは日数ではありませんが、立場をかえて板垣は三回も会つておるはずであります。そこでそれが事実なりやいなやを山田委員長からお確かめ願つて、これでけりをつけたいと思います。参考人でもよろしゆうございます。どういう意味でもよろしゆうございますから、委員長からその点ひとつお尋ねいただきたいと思います。
  506. 小林錡

    小林委員長 お諮りいたします。ただいま猪俣君からお話のありました、本件につきまして、山田善二郎君から参考人として事情を聴取いたしたいと存じますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  507. 小林錡

    小林委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたします。  山田善二郎君、こちらへ……。  山田善二郎君ですね。
  508. 山田善二郎

    山田参考人 はあ、そうです。
  509. 小林錡

    小林委員長 参考人としてお聞きいたしますがさしつかえありませんか。
  510. 山田善二郎

    山田参考人 さしつかえありません。
  511. 小林錡

    小林委員長 それではお尋ねいたします。昨年第十五国会の衆議院法務委員会において、あなたは証人として出頭して証言をされましたが、そのときのことは間違いありませんか。
  512. 山田善二郎

    山田参考人 間違いありません。ただ今から考えてみると、まだまだつけ足さなければならなかつたというようなことがたくさんあります。
  513. 小林錡

    小林委員長 そこにおる、ただいま証言をした板垣幸三君を知つておりますか。
  514. 山田善二郎

    山田参考人 よく知つております。
  515. 小林錡

    小林委員長 いつごろから知つたのですか。
  516. 山田善二郎

    山田参考人 一九五一年の五月下旬ごろ……。
  517. 小林錡

    小林委員長 日本ので言つてください。
  518. 山田善二郎

    山田参考人 昭和二十六年五月下旬ころでありました。私は当時東川クラアに勤めておりますときに、福本准尉という当時の責任者より街灯の電気を全部消すようにと言われまして、これは板垣君などそういう人間を連れて来るときには、必ず街灯の電気などを消さすとりはからいであります。私はそのときまただれか来るのだろうと思つておりましたが、その夜の十時過ぎごろだろうと思います。福本が自動車に乗せて板垣君を連れて来たわけです。そのとき彼は明らかにオーバーか何かで頭をすつぽりかぶせられたらしく、そのオーバーを手に持つて非常におびえたような状態であつた。それが一番最初板垣君と知り合つたときであります。
  519. 小林錡

    小林委員長 そうすると昭和二十六年の五月の幾日でしたか。
  520. 山田善二郎

    山田参考人 はつきりした日にちは記憶いたしませんが、五月の下旬ごろと思います。
  521. 小林錡

    小林委員長 自動車でだれか連れて来られた者がある、それが今から思うと板垣君だつたというのですか。
  522. 山田善二郎

    山田参考人 今から思うとでなく、そこでしばらくするとすでに板垣君だつた
  523. 小林錡

    小林委員長 どうして板垣ということがわかつた
  524. 山田善二郎

    山田参考人 連れて来た当夜は、彼はそのまま、その以前に小林秀雄という人が監禁されておつた朝鮮人の方だろうと思う。参考までに申し述べたいと思うのですけれども、この人はどういうふうにして連れて来られたかというと………。
  525. 小林錡

    小林委員長 なるべく要点だけ言つてください。板垣君のを先に言つてください。
  526. 山田善二郎

    山田参考人 まず板垣君が連れて来られたときに、その前の人間と話すど承知しないぞというようなことを福本に言われて、その人の隣の部屋かどこかに監禁されて三……。
  527. 小林錡

    小林委員長 そのときに板垣君の顔を見ましたか。
  528. 山田善二郎

    山田参考人 私は見ました。つまりその玄関に私は番をさせられておつたのです。
  529. 小林錡

    小林委員長 そうしたら何か顔に……。
  530. 山田善二郎

    山田参考人 板垣君の隣か向いの部屋だと思いますが、そのときに板垣君がもう一人の人間と会つてはいかぬぞ、話してはいかぬぞと言われて、そして前の部屋に、大体大きな部屋を、まん中の通路をあけて三つずつ六つ、大体八畳から十畳くらいの部屋があつた。その一つの部屋板垣君は入れられて、かぎを外からかけられて、その以前にその部屋毛布をかぶせて、窓を全部毛布でおおつて、一切外部から遮断されるように準備を私たちはさせられた。彼が連れて来られてから一日か二日は、その部屋に入れられたまま、手錠も何もかけられませんでした。ところがその後二、三日たつてから、福本が帰つて来て、突然板垣君を呼び出して、何かおどかしつけていたことを私は記憶しております。そしてそのときは私は台所の方におりましたけれども、突然山田と私を福本が呼んで、彼の部屋に連れて行つたのです。そのときは板垣君はベットに寝させられ、そして手錠をかけられ、その状態に置かれておつた
  531. 小林錡

    小林委員長 ちよつと待つてください。ゆつくり話してもらいたい。一番初め連れ七来たときには何か頭にかぶせておつたのですか、頭を包んでおつたのですか、目隠しでもしておつたのですか。
  532. 山田善二郎

    山田参考人 目隠しでなく、オーバーを頭からすつぽりかぶつてつた
  533. 小林錡

    小林委員長 それから、あなたは玄関で番をしておつたのですか。
  534. 山田善二郎

    山田参考人 そうです。
  535. 小林錡

    小林委員長 顔を見たのはいつですか。
  536. 山田善二郎

    山田参考人 玄関を入ると、ちよつとした広間があるのです。そこで見たわけです。玄関のとびらをあけたときには、その人間が見えましたけれども、まだはつきりとした顔は見えなかつた
  537. 小林錡

    小林委員長 それから取調べを受けたのですね。
  538. 山田善二郎

    山田参考人 盛んにおどかされたような、大きな声でどなられておりました。
  539. 小林錡

    小林委員長 それはだれがどなつてつたか。
  540. 山田善二郎

    山田参考人 福本准尉です。
  541. 小林錡

    小林委員長 それからどうなりましたか。
  542. 山田善二郎

    山田参考人 それから私を部屋に呼んで、彼は板垣君を部屋に連れて行つた。そのときにはすでに福本手錠をポケツトから出して、板垣君にかける準備をしておつたのです。
  543. 小林錡

    小林委員長 どつちの手ですか。
  544. 山田善二郎

    山田参考人 右だろうと思います。扉をあけて入つた左側のところにベツトを置いて、頭をとびらの方に向けて寝せておりました。そしてその右手に手錠をかけたわけです。そのとき福本は、私に手錠のかけ方を教えて、これは逃げるかもしれぬから、飯を食うときだけははずしてもいいということを私に言いました。それ以後私は板垣君に非常に同情して、どういうことをされて来たのかもわからぬけれども、やはり日本人日本人手錠をかける、しかもアメリカ軍の中で私自身一切の自由を奪われ、ああいう中では、家と通信するということも、わかれば罰せられたかもわからぬような状態にあつたのですが、そういうような状態の中で、同じ日本人が目の前に連れて来られて、そういうようなことをされた。しかも自分がその人に手錠をかけるということをさせられて、非常な憤りを感じた。と同時に、板垣君に対しては私は深い同情をした。しかし自分はそこから抜け切ることができなかつた。私自身も弱かつたのですけれども、六人の家族を抱えて養わなければならない自分にとつては、そこをやめたら失業もするし、従つてそのいやな仕事もしなければならず、非常に板垣君に同情して彼を慰めながらも、アイスクリームを買つてつたり、菓子を食べさせて慰めましたけれども、手錠はゆるくはありましたけれどもかけたということで、今から考えてみれば、非常に良心に恥ずるようなことをやつてしまつたのです。
  545. 小林錡

    小林委員長 場所はどこですか。
  546. 山田善二郎

    山田参考人 東川クラブです。
  547. 小林錡

    小林委員長 幾日くらいそこに手錠をかけたままでおつたのですか。
  548. 山田善二郎

    山田参考人 五日か一週間近く、大体その前後だろうと思います。
  549. 小林錡

    小林委員長 その間食事を持つて行つたのはあたなですか。
  550. 山田善二郎

    山田参考人 そうであります。
  551. 小林錡

    小林委員長 いつもあなた一人ですか。
  552. 山田善二郎

    山田参考人 私の休みのときには、ほかのメイドかだれかがやつてつたと思います。
  553. 小林錡

    小林委員長 話をしましたか。
  554. 山田善二郎

    山田参考人 板垣君としました。彼はその当時は、樺太終戦になつたことから、密輸船に乗せられたこと、行き倒れになつて日本に上陸したことなど、ただいまここで板垣君が話したようなことを非常にこまかく話して、同時に訴えるように私に常に言つていたのは、ぼくは何もしていない、だけれども殺されるかもしれない。それで私はそのときに慰める言葉もわからない。彼らの権力の中で、自分自身の自由も拘束されている中でしたが、幾ら何でも君を殺すようなことはしないだろうから、そんな心配はするな、と言つて、いろいろな本を買つて来たり、また慰めの言葉を与えておりました。それからどのくらいたつたかわりませんけれども、その手錠から解放されてすぐだつたろうと思うのですが、彼は福本に連れられて岩崎邸行つた。そうして今度東川クラブに帰つて来たときには、丸い帽子に日大の徽章をつけた姿に早がわりをしておつた。その前は非常にぼろぼろの菜つ葉服のようなものを着ておつたので、私たちはびつくりした。当時板垣君のことを日本人の従業員は坊や坊やといつて、彼らの目をかすめては、しよつちゆう親切にしてやつてつたわけです。そのときは、なんだ、坊や急に学生服になつちやつたなと言つて非常に驚いた。そのときにそのいきさつを板垣君に聞いたのです。そうしたら、殺されると思つたけれども命を助けられた、だから今度はアメリカ軍の手先になつて働くことにするというようなことを言つた。そうして大体八月ごろまでだろうと思いますが、それから毎日福本に自動車に乗せられて、どこかに出かけては、また帰つて来るときはひとりで帰つて来るときもあるし、光田や福本と一緒に帰つて来るということもありました。いつか私が、東川クラブから福本と一緒に東京に出かけるときに、自動車に乗せてくれと言つて頼んで、一緒に乗つて行つたことがありました。そのときにそのジープに板垣君も同車して、彼はたしか虎の門から銀座あたりだつたと思いますが、そこから車をおろされて、福本に小声で何か注意されて、ひとりで銀座の町へ出て行つたことがはつきり私の記憶にあります。
  555. 小林錡

    小林委員長 そうすると、あなたは東川クラブにおるし、片方は岩崎邸におるから、一緒におつたことはないのですね。
  556. 山田善二郎

    山田参考人 いいえ、その当時は一緒におつたわけです。彼は岩崎邸に連れられて行つて、東川クラブに帰つて来たときに、学生服の姿にかわつてつて来た。それ以後、朝の飯を食うと、彼は福本と出かけて、昼はどこかで食べて、夕方になるとまた東川クラブに帰つて来た。
  557. 小林錡

    小林委員長 東川クラブにおいては、あとではあなたと一緒におつたわけだな。毎日話もときどきしたわけですね。
  558. 山田善二郎

    山田参考人 しておりました。そうしてその当時、どういうようなことをするのだと私から聞いたこともありますけれども、彼はそれを口どめされているらしく、はつきりしたことは言わなかつた。ただ一つこういうことを言つておりました。それは、船を調べていると言つたから、それはどんな船を調べているのだ、君の乗つた密輸船を調べるのかと聞いたら、あの船はしよつちゆうペンキを塗りかえたりしているから、ちよつとわからないよと言つて、明らかに別のことを調べておると思われることを私に言つてつたことがあります。そうして八月ごろになつてから、出て行つたのは私は知りませんでしたけれども、連れて行かれて、そのままになつてしまつた。そうして九月ごろになつてから突然――まだ暑いころでありましたが、板垣君がひよつこり出て来た。そのときに、横浜の方におつて飯も食つてない、だれも金を持つて来る人も持つて来ない、だからきようここへもらいに来たのだと言つてつたことが記憶にあります。そのときたしか私は冷蔵庫から卵か何か出して渡してやつたことも記憶に残つております。その後彼とは接触を絶つてしまつたわけですけれども、十二月、鹿地さんが自殺未遂に終つてから以後であります。一度板垣君が魚――そのときの魚は、たしかぼらをたくさん持つて、それから刺身にするためというので、すずきを持つて来ました。それから私に、おれはタバコは吸わないからといつて一箱か二箱持つて来た。その魚を持つて来たときに、五歳か六歳くらいの子供と一緒に私のところに来て、私がその魚を料理して、光田と彼とその子供と三人で二階の部屋にいるところへ持つて行つて食べさせたことが記憶に残つております。
  559. 小林錡

    小林委員長 この前、鹿地の監禁事件についてあなたが証言したときに、板垣のことを言わなかつたようですね。
  560. 山田善二郎

    山田参考人 それは前の田嶋委員長に、あなたは鹿地氏が手錠をかけられ、足に鎖でゆわきつけられたと言つているが、それは事実かどうか、こういう質問を私は受けた。そのときに、そういうことはあり得ると私はお答えしたつもりであります。
  561. 小林錡

    小林委員長 板垣という青年がこういうふうになつてつたことがあるということは、あなたは全然言わなかつた
  562. 山田善二郎

    山田参考人 そのときに、そういうことはあり得ることと思うと私は言つております。そうしたら、そのときは別に質問されませんでした。私もまだ当時こんな大きな事件になるとは思わずに、驚いておつて、また鹿地さんのことだけでもつて板垣君のことをほとんど忘れておつたような状態でありましたし、出さなかつたわけであります。
  563. 小林錡

    小林委員長 しかし鹿地が監禁されておつたか、手錠をかけられておつたか、ベッドにつながれておつたかというようなことを、疑いを持つて聞いているときなんだから、実はまだほかにもこういうことがあります、板垣というのがこうこうだつたと言うのが順序じやありませんか。
  564. 山田善二郎

    山田参考人 ですからそれ以後すぐ、衆議院会館の真相発表会のときには、すべてこれは話しました。ただ私はこのときに言い漏らして言わなかつただけであります。  それではもつと詳しいことを申したいと思いますけれども、一番最初に小林秀雄という人が連れて来られたことは確かに言いました。その人はどういうふうにして連れて来られたかといいますと、麻酔薬を飲まされて連れて来られた。そしてそれ以後、逃げるおそれがあるという板垣君と同じ理由部屋にとじ込められて、約三日間というものは二粒ずつの麻酔薬を飲まされました。そのとき、一番最初に福本から私が呼ばれて、この薬を飲ませろと二粒の麻酔薬を渡されて、私は何も知らずに彼にそれを飲ませた。彼は飲んでしまつた。すると福本はにやりと笑つて、これで大丈夫だ、これで逃げられないと言つておりました。私はそれで驚いた。キヤノン中佐が私をここに連れて来たときに、何と言つて連れて来たかというと、私はキヤノン中佐の家で非常なひどい目にあつて、やめると言つた、すると、もう少ししんぼうしろ、そうすれば将来性のあるいいところに連れて行くからといつて、連れて来られたわけです。その彼の言ういい仕事というのが、こういうような悪い――悪いことをしたか、そのことは知りませんけれども、その人たちに麻酔薬を飲ませて、監視させるということであつたかということを私は知つて、非常にキヤノン中佐に対する憎しみも恨みも感じました。そしてその人は結局約十箇月以上ここに監禁されておりました。そのころ小林さんも、一体おれは何も悪いことをしていない、何のためにこういうことをするのだ、早く帰せと抗議を言つておりました。ところがその抗議をするたびに、福本準尉は、おれは知らぬ、隊長の命令だからこういうことをしているのだ。あまり抗議が鋭くなると、お前はぶつぶつ言うと朝鮮に送り返すと言つて、頭からしりぞけておつた。その人は、福本準尉が岩崎邸行つてつたその留守中、あの建物の中に玉つき台もあつたし、裏の方に池もあつたので、そういうところで玉つきをしたり、池で魚を釣つたり床屋に行きたいと言うと、町へ連れて行つて散歩したりするということもありましたけれども、それは小林さんにはただ一時の慰めであつたにすぎず、最後のころには精神状態に異常を来してしまつた。そしておれは日本共産党の小林書記長だ、今夜おれを迎えに来る者があるから車の仕度をして待つているとか、またモスコーに行つて来たとか、レーニンの墓参りに行つて来たとか、そういうことを始終うそぶくようになつてしまつたわけです。そして最後には光田悦之助――これはウイリアム光田というのですが、光田という兵隊と、松岡という二世の二人に、手錠をかけられて連れて行かれたまま消息を断つてしまつた。そのほかまだありますけれども、二十六年の十月私はキヤノン中佐に……。
  565. 小林錡

    小林委員長 要点だけを簡単に……。
  566. 山田善二郎

    山田参考人 キヤノン中佐の命令で石崎邸に行つた。そこに行きましたとこつ、そこから伊藤正一という二世の兵隊に連れられて、渋谷の何という町かわかりませんけれども、どこかに連れて行かれたのです。それは赤煉瓦の三階建で、元東急社長の五島慶太の家USハウスの七百四十号という番号です。そこに連れて行かれて、数日たつてからその伊藤が私と一緒に行つた山本専二という男を呼んで、これはアメリカのぺンタゴンからのじきじき命令に、そしておれの上官のステックレン中佐と、――あの当時の総司令官はたしかリツジウエイ大将だつたと思います。リツジウエイ大将と一緒にやる秘百中の秘密の仕事である、だからこれはお前は絶対に口外してはならぬ、だからここから動いてはいかぬ、家に帰りてはいけないということを厳命された。それからそのうち二十名の中国人の捕虜が連れて来られた。そのときなぜ中国人だということがわかつたかというと、伊藤が今夜二十名の中国人が来る。一人は玄関のところに待つておれ……。
  567. 小林錡

    小林委員長 簡単にしてください。     〔田嶋委員「占領中のことはあまり聞いてもしかたがない、」と呼ぶ〕
  568. 山田善二郎

    山田参考人 これはやはり不法監禁に関係があると思うのです。  それでその人たちは写真をとられ、指紋をとられ、身元調査をせられた後また東川クラブと両方の場所を使つて教育を受けておつた。東川クラブに来たのは翌年の一月ごろだと思いましたけれども、そこで約一箇月か過して、突然私は東川クラブへ帰つて来いと言われて東川クラブに帰りました。そのときに、要するに鹿地さんが初めて連れて来られて東川クラブに監禁されたわけです。そこで鹿地さんの自殺未遂事件があつたわけです。私は光田とそこで看護していたのですが、光田はほとんど私にまかせきりでした。今度は東川クラブにUSハウス七百四十号の捕虜も一緒に全員帰つて来たのです。しかも私が非常に驚いたことには、向うの捕虜は反共、アゲインスト・レツドという入れ墨をしておつた。ところが私が持つてつたラジオにモスクワ放送が入つて来た。それを聞いて彼らは手をたたいて喜んでいるのです。それでお前この入れ墨は何だと言つたら、これはうそだとはつきり言つてつた。その東川クラブでスパイ教育中、パラシュートの操作訓練とか、飛びおり台を使つての飛びおりの訓練の教育中にその入れ墨を強制的にされたと言つてつた……。
  569. 小林錡

    小林委員長 よろしゆうございます。そう長い話は聞いておれません。
  570. 山田善二郎

    山田参考人 これは先ほど小林委員長に、なぜさきのときに話さなかつたかと言われたから、私は全部話したいと思いましたので話したのです。
  571. 小林錡

    小林委員長 古屋君、簡単に願います。
  572. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 さつき証人は、十二月十七日ごろにすずきとぼらを持つて板垣が東川クラブに来た、自分が料理して二階へ持つて行つて光田と御飯を食べた、五、六歳の子供を連れて来た、こういうことを言つておりましたが、前十五国会における当法務委員会において、鹿地君が自殺未遂をいたしまたあと自分食事を運んでおつた、こういうことを証人言つていました。その当時鹿地が自殺未遂をして東川クラブに病人として収容され、監禁されたというが、そこにおつたの鹿地であつたかどうか、その点を明確にしていただきたい。
  573. 山田善二郎

    山田参考人 それは明らかに鹿地さんであるということを知りました。それはそこにおつた日本人のマネージャーの尾崎という人に鹿地という人がおつたということを話したのです。そうするとその人は元ジャーナリストであつたらしくて、これは鹿地だなということを言つて、そのときにまた尾崎さんが鹿地という人はどういう経歴の人かということを説明してくれたし、そこではつきりそれが鹿地さんであるということを知り、またそれ以後鹿地さんと話したときにはつきり知りました。
  574. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 念を押しますが、十二月十七日の板垣が来たときに東川クラブで自殺未遂後の病気で寝ておつたというのは鹿地君であつたということは間違いありませんか。
  575. 山田善二郎

    山田参考人 それは絶対に間違いありません。
  576. 猪俣浩三

    猪俣委員 昭和二十七年の十一月の二十日ごろ、この鹿地事件につきまして家族から私は救い出しを頼まれた。あなたは同月の二十四日に初めて第一議員会館の私の事務室に現われたときに、私はあなたに一切の詳細な手記を書くことを頼みました。それが同月の十一月二十六日に、厖大なあなたの手記が私のところへ届けられたが、その中に東川クラブにやはり十七、八歳の少年が監禁せられておつたということを書いてあつたと思うのであるが、あなたは書いた記憶があるかないか。
  577. 山田善二郎

    山田参考人 そのときはたしかなかつたと思います。一番最初は鹿地さんのことに関してのみ書いたと思います。その次に法務委員会以後に書いたものには、はつきりとそれを書いたように私も思います。
  578. 猪俣浩三

    猪俣委員 その手記には書いてないですか。
  579. 山田善二郎

    山田参考人 たしか書いてなかつたような記憶があります。
  580. 猪俣浩三

    猪俣委員 ぼくはそれを読んでおるんだがね。
  581. 山田善二郎

    山田参考人 そのときにもあるいは……。その次に書いて出したのには、はつきりと板垣君のことも書いて出しました。
  582. 猪俣浩三

    猪俣委員 そうすると二度目のときにはつきりと書いて出したこういうわけですか。
  583. 山田善二郎

    山田参考人 ええ。
  584. 猪俣浩三

    猪俣委員 いま一点はあなたが板垣にその後、つまり板垣が船に乗ると言つて出かけてから会わなかつたが、その後この鹿地事件が起り、そうして最初に板垣に再会したのは、どこでいつごろですか。
  585. 山田善二郎

    山田参考人 それは三橋公判の第二日目だろうと思います。私が三橋最後の傍聴をして、そうしてその足で猪俣先生のお部屋に、第一議員会館に参つたのであります。そのときに入つて来るとすぐ、山田さんと声をかけられて、びつくりしてひよつと前を見たところ、それが板垣でありました。私はまさかこんなところに来ているとは思わずに非常にびつくりして、また喜びもして、そこですぐすぐ先生がそのときおられなかつたので、古屋先生のところに行き、またその足で今度は猪俣先生のところに御報告したわけであります。
  586. 猪俣浩三

    猪俣委員 そのときに私があなたに、十七、八才の少年と言つたのはこの人かといつて質問したはずであるが、あなたはその記憶があるか。
  587. 山田善二郎

    山田参考人 はつきりとそういう記憶があるように私は思います。それであの当時と比べて私も驚いたのですが、連れて来られた当時は丸坊主であつたのです。非常に子供つぽく見えた。しかし私の前に出たときは、髪の毛もわけて、ひげも濃くなつておりまして、ずいぶんふけたなと、自分自身でも驚いたように、成長しておりました。
  588. 小林錡

    小林委員長 午前中の質疑はこの程度にとどめて、午後二時から再開いたします。暫時休憩いたします。     午後一時三十四分休憩      ――――◇―――――     〔休憩後は開会に至らなかつた